満蒙開拓の聴き語り
- AI summary (β)
- この文章は、日本の中国植民地政策の一環として行われたマンシュー(満州)開拓について述べています。昭和7年から昭和20年までの14年間にわたり、全国から27万人が満州に渡り、特に長野県からは3万8000人が参加しました。しかし、昭和20年8月にソ連軍が侵攻し、日本が無条件降伏したことで開拓事業は崩壊しました。取り残された開拓団員はソ連軍や中国人の攻撃を受け、多くの人が逃避行の途中で命を落としました。過酷な状況の中で、食料不足や寒さに苦しみ、多くの人々が亡くなりました。文章は、戦争の悲惨さと、戦争を二度と繰り返してはならないという強い願いを訴えています。
マンシューの開拓は、日本の中国植民地政策として、また昭和教皇による農村布教をお抱えするため、昭和7年から昭和20年までの14年間行われ、全国から27万人がマンシューに渡りました。
長野県からは一般開拓団、青少年義勇軍、勤労奉仕隊が入職し、全国で一番多い3万8000人を送り出しました。
昭和20年8月
ソ連軍が攻め入り、日本は無条件降伏し、マンシューの開拓事業は崩壊しました。
取り残された開拓団員は、ソ連軍や中国人の攻撃を受け、逃避庫をせざるを得なくなり、その途上、多くの人が亡くなりました。
その襲撃された時点でも、団の人たちは自血という学校で子どもを連れて井戸へたどり着きました。
順次、私たちも宿舎をあちこちに寄せられ、最後は本当にぎゅぎゅ詰められました。
大通橋まで貨車に乗せられて行きました。大通橋から歩かされては牡丹港まで、牡丹港の約9発いっぱいはありました。
みんな体を寄せ合って、あっため合って寝ているのですが、白身とろくな食べ物がないので、バタバタと毎日、プロフェミオンだけではなく、
他所の開拓団員も含めて何十人程バタバタと亡くなります。
大人でも子どもでも女でも何でも、本当に裸にされて、死んでいるのに裸にされて、みんな剥がれちゃっているのです。
馬なんか殺して、道路の真ん中を横倒しにしたりして、とても危険だった。
周りのことより自分のことと言うのでしょうが、親の後を後知り後知りについていくというのが本音じゃないですか。
とにかく親から離れたら死を意味するんだという気持ちだけはありました。
何といったって、外地へ行く大切なことをやった軍部、国は反省してもらって、
絶対に戦争だけはなくして行ってもらいたい。