鍼灸知要一言
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- http://hdl.handle.net/2324/4705678
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- 2026-08-17T18:54:31.457Z
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- 1826
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- book
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- 2026-08-17T18:54:31.457Z
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- 出版者: 「陽州園蔵版」とあり
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- パブリックドメイン
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- 石坂, 宗哲, イシザカ, ソウテツ
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- 陽州園
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- oai:catalog.lib.kyushu-u.ac.jp:2324/4705678
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- シンキュウ チヨウ イチゲン
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- 九州大学
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- 出版者: 「陽州園蔵版」とあり
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- 2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
一、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、〇〇
心鍼灸知要一言
竿斎石坂宗詰著
鍼灸知要一言
陽州園蔵版
知要一言序
知己之難必契於千載。必契二於千載一、是蓋矜秀憤世ノ之言也。
苟ヒ徳邵ニ道精。雖二夷狄禽獣禽獣禽獣禽獣禽獣之。何况其世
乎夫養叔操了。後杭擁シテ樹而泣。沙陽温国之賢。
中国時ニ以讒隠晦回紅契丹信之不渝豈非徳
之部道之精以致此乎今士挾竅識機材張摧
明レニ目與一世一世一角逐争競而猶且不レ見知乃期一ハ悠
繆千載於枯骨之後不亦惑一乎。唱蘭
貢二於江戸ニ一就二
侍醫竿斎。先生一。問二鍼刺之法二焉。盖此ノ術彼邦未
竿斎石坂宗詰著
鍼灸知要一言
陽州園蔵版
知要一言序
知已之難必契於千載是蓋矜声憤世之言也。
苟モ徳邵ニ道精。雖二夷狄禽獣禽獣ヲ一
乎。夫養叔探レハ了。後杭擁シテ樹シ而泣。沙陽温国之賢。
中国時ニ以讒隠晦日ノ之不渝。
之部。道之精。以致レス此乎。今士。今士挾シテ家識、機材一ヲ張レヲ。
明レニ目與一世一世一角逐争競而猶且不レ見知乃期二ノ悠
繆千載於枯骨之後不亦惑午。咼蘭
貢二於江戸一就二
侍医竿斎先生一。問二鍼刺之法一焉。盖此ノ術彼邦未
嘗講一。因テ欲得之以資方技也。公乃箚記其概略ヲ
授二諸ヲ舌人ニ。使レ傳下致之一。咼蘭得レ之。如二酪鶏之発レ覆レ覆ス
跛者之頓起距踊三百。喜テ而歸ル矣。客歳乙酉。修二
書札一。贈二方物一。謝辭甚粛甚粛ム。如二師弟之礼一然今茲可
戌之春。又来庭。其医曰西乙福児篤一。舎館初定
先タ求ムレ謁一セラヲ芋斎先生一。公印チ就テ見テ見ル医稽首ノ曰。往年所
レ賜。鍼法ノ之書。翻鏤版。公二シ之ヲ國中一。衆共實レ之。不二
徒ハ拱壁一ト謹ヲ拜二君之大奏一ヲ一ヲ失ヒ意亦不二獨私一セ二セ二吾カ土ント謹テ
伝二之欧邏巴所帯之諸国一ニ一併レ知二ル一ク治療ニ有二鍼刺之
良術二焉。実所レ謂。仁人ノ之教。其利溥矣。亦可レ謂二霧
海ノ之南ニ指ス者一ト一哉。公辞ノ不敢當一ト乃就テ彼肌膚ヲ下レノ
以示ス其徐疫深一ナス蓋従一ス蓋従一テ其請一也。嗟公使二其道ノ道ヲ能
信二モ於天下一又使二海外殊外維之俗フテ猶且知レ之豈非二
其精到以致レ此ヲ乎。夫レ咼蘭之学。伝播栽。十数年
多ク久情好奇厭常糜レ常新図カニ其真与一ハ不レ察二其真与一ヲ時尚
所レ靡セルニ甘一テ乎溟津然ノ弟一ル之。是可レ慨ク矣。公則反レ之ヲ儀
然抗顔使彼不覚膝屈是非柱下衆父之父則
淮陰所謂。善ク将レ将ニ者也。豈非二ス一大愉快一邪且使一邪且使
海外ノ諸種ヲ知テ
我国医有若人豈非一大盛事邪其嚮ニ授唱蘭ニ授咼蘭ニ授唱蘭ニ
者。顔曰知要一言一。将二梓メ布世。以序見レ徴。夫一言
知レ要。頗ル前修ノ可レ難。然レモ技蓋精到。則公之優ニ為レ之優ニ為レ之。
固宜然也彼你彼ノ彼ノ使ノ夷而其受之如曽子
一唯之歟何也是雖由其求之切如レ之切如二餓渇然亦
其言之簡而誠也昔張詠論冠莱公一謂人千言
而不尽者公能一言而尽云フ者果不誣矣
文政丙戌。竹酔之前一日。
宅山唐公慥謹誤
知要一言
文政壬午の春二月西洋人江戸に来り貢す其
医的由児里无吉といふもの医官某を併して曰く
本国微針の法有ことなし若吝まさるかこときは
其大略を教給はゝ幸甚なりと予答て曰東
西洋を異にし言語不通といへとも面語にあら
すんは大略もさとしかたからん官に申て後に
行て教へし亦乞て曰始て未嘗なき法術を
開て軽きことにあらす本国の師家へ申遣し
たる上ならてはいよ〳〵行はれんも計りかたし宮
に申願ひたる上は是非行はれさる事を
得す亦当幸の期をこし給ふことを恐る唯其
大略を教へ給へといけにより此書を訳官
作三郎に嘱し且門人に乗して手術を画
洋介の目前に行はせ其法あることをしら
しむ訳官比書を彼国の文字に書に書玉へ
和たすへよなし申に付鄙俚の言葉をもて
一譯し易からむ為に書と云
曰解剖して人身内外を委して知るは其国の
専務ときく針刺の法を行ふも人身内外の
諸器官能をくはして知らされは病を治る
工夫を侍ることなくいたつらに師伝をまもは
のみなり
一微針の道唐山の上古に始り生る人は度量
四十一丁
してその病の有所をしり死るときは解は
角喜
して其病の源由を見るとあり皇朝へ伝り
ても千五百年にも及ふへし唐山も皇朝
│岩上古の法はいつしか絶て今は中古の法
のみ残れり皇朝に渡りてある唐山の古
一書をよみ公の針法存しあるを見出し
致灸知要
唐山二千年餘のいにしへに凝り微針の法
術を今日に用ゆることをえたるは西洋解剖
の書によりて惑を觧しとお本ゆ
一人の身に針さす場所数多あれとも其大凡を
かたらんに人々病あらは頭より足に至る
まて皆はりさすへき場所也若病ひなか
らむには皆針を禁すへしたとへは瞳本と
大事の場所はなけれとも膿眼には針を
刺がこどし左すれは病の有所はいかやうの
場所にても禁するにをるはす
一針の病を治する訳をしらされは針法死物
となり活用次ることなし善その活用する
わけをしる時は汚たるを霊む春ほゝれた
るをとくへき術一言にして尽すへし諸
其要をいはんに竹木のとけの身に立たるも
金銀錢の針の身にたちたるもおなして
と気なり誤りてたつと術有て剃との相
遣あるのみ竹木のとけ立たらは人ものを
よふたけはへきさるへしもし人力にてぬけ
されはその人の自然の元気を以てとけの
有所に贄を生したん〳〵と精神栄衡と
もに集り其とけのある所をいよ〳〵熱を
盛にし其熱にて腐れて膳となし人力に
てぬけぬとけ膿とゝもに潰て身の外に
野気いつる也膿出て〓除もとのむきす
の身となるかことし術ありて逢紹鉄の針
かねを病のある所に刺入れは竹木のとけの
有所に熱を生するかことく精神栄衡とも
に力をいれて針の下に集り来るなりし
はらく針を留め本となく針下に集めて
その針をふきされは集りたる精神栄衡
にて病邪ををびちらして忽に消除事
風の雲を吹かことし古き書にも病ひ十日
なれは三度判ていゆ多少遠近はこの数を
以てをすへしとあり是邪のある所に針
にて邪をませは精神栄衡か其所に力を
いれて集るなり程よく集めて針をふき
されは集りし精神栄衛を以邪気を除き
さる術なり則人参附子暖烈の薬を用ひ
こと衰弱したる元気を引おこしせ能す
卯亥知専
るもおなし術と心得へし
一避て禁すへき場所は大に動て止む事なき
物あり心肺の二蔵と動脈のこゆとき管と宗
様
精神の
のふとき管となり種々あやまち
道なり
を生すへしゆへに針科は茶の道筋と宗
縁の道筋にくらくては素人もおなし事
なりつゝしむへし諸病の急にのそみては
此道に与てたんれんのものは禁し避へき
所に剃て功を得ることあり猶戦に奇兵
を用ゆるかことし
一一針刺の術正手直刺とて左右の手正し
上して体をすへ腰をいれて腕を軽くし
指先の自由に働くを術を得たりとす左の手
の塩指と中指との先を揃て針剃すへき
場所をゝさへ軽重の自由になるやうにし
三本の指の間に右の手にて針をもちをし
いるゝ也さて右の針を推奉始終動揺して
休まぬやうに心得へし是を針の呼吸といふ
故に古き書に右はこれを権事を主登り左
持てこれを禦と云又針を行ふものは其左り
を信すともいへり針刺手重く揺きなき
時は死物となり全身に微動ある活人を刺
て針医の手死物となることあれは種々の
一害を生することあり慎むへし故に古書に
針を行ふものゝ心得をいましめて深き岡
に臨み薄き酢をかやみ貴人の前に侍座し
或手に乕を握るかことしなと油断のなき様
にいへるなり寺路つのあやまりは皆油断る
楽生ずとしるへし
一針に響くといふ事あり今さしたる場所迄
祭上下左右につゝさひゝく事は常な達とも
思ひよらぬ所へひゝてことあり手足のはりの
頭面胸背へひとく類ひなり是皆宗脈へひゝ
くはて茶場の経格にてもなし又筋にて
紫なきなり
一針を製するに置銀織を用遊針金の長さ
本邦の曲尺三寸にかきる過れは針の・失りへ
術をこなふ医者の精力とゝかす病に益な
しふと名そは一はんより七はんにかき留へし
近世針工の春りおろしとて本を六七はんに
到来知要
して末を一二はんに細て製するは輿龍司
にて針を剃にはよろしからむか病に益な
し圖のことし老ふへし
一管針どて国のことく管を用ひ出火の一分計
打込なり凡人の外皮は痛痞をしらぬものは
遊へそのいたみをしらぬたけは打込て害なし
是も皆の指むり有かそまつに打こめは痛
つよき事あり是も油断のなす所也管を
用ひすしてさすときは針先を皮膚に
きひして剃し付外皮をとをして其上に
て術を行ふへし
一針法に補瀉迎随虚実といふ事あり補
は微針にて病人の精神栄衡を努張し
て病邪を除く法也瀉は栄衛の瘀滞す
泉血を瀉し除く法なり西洋に針の瀉法あ
ることは兼て聞及ひ其術至てくはしとお玉ゆ
らんせつと三稜針の類を用ゆへし迎隠の法
は補法の術にて既に針を下したらは
前にいふ所の呼吸と似たる法にて茶浅の
往来をよく考これを迎へ。こ達に随ふこゝろ
にて病の駄本れをとくに気をなかく日
すく〳〵でし
のくるゝをしらすなといふたとへのことくす
なをにこたはりなくさすをいふ也盧法は針を
すら〳〵ぬきさり精神茶衛ともに盛なる
病に用ゆる術なり実法は遅随の術を
用ひ手間とりてそろ〳〵針を下し少しも
いたみなくひゝきも薄く針の呼吸も骨
遠にゆるくすへし精神栄衛の虚乏し
たるに用ゆ諸一人の病ひ或は実法を用ひ
或は虚法を用ゆる事あり方上に虚法を
用ひ下手実法を用ゆる類病の浅深虚実
によりて針法の沙源虚実補瀉迎随あり
て用ゆるは医者の実によるへしよくこの
術を得たらん上にて病を療治するは人々
何歯童次第なれは人身の内外上下十二蔵
精神茶衛の和けをよくしり諸病の因を与
て探り当てそれ〳〵の術を善く工夫臣用
ひたらん人こそ上工といふゆへし針法の大
略をはる
一灸も唐山の古書に出て第一は一身の動
豚の動くへき所絶て動かす或大に動
てゆき江の細微に動く等に用ゆる治
法なり其数三七壮にかきる皆皮膚上の病
ひ精神栄衛の細絡織絡のつまりたるの
忘れたる塞かりたる閉たる衰揺したるに
用遊物を得ること多し故に浅きいたみには
いつれの場所にても用ゆへし唐山にて
人身三百六十五穴なといひて針灸の目当と
春皆古人精神茶衛の集る所を印して
穴所とし夫々符てふのことく名をつけし
意の也後世に至り誤りおほくなりたれとも
唐山にては今に用ひて此穴此病を癒すと思
市ゆへ針の術も灸の法も共にすたれる様
におふゆ諸精神茶場の集る所は歩邪気の
入る門戸なれは其邪気のある所皮膚の寒
○温滑滴を能察して其人の苦む所に灸する
なりむし薬をつよく火にて直に燒と心得へ
し焼針燒針火針は筋の部を治し灸は皮
膚湊理の部を治する法也灸雄の大にはその
人老少盛衰に順て製すへし
一いにしへ燔針焼針火針とて今の用ゆる細き
一火箸のことくなるを鉄にて作り火にてあかて
なるまて焼床の筋につきてしひれいた
みおほえなき等に用ゆるまつ用ゆるまへに浅
源をよく見きりて深くも浅くもさすなり此
術唐山の古書には右のことくあれとも絶て
用ゆる者なしてむかし甲州の針科教諭に
て有し時駿河国府中の鍛冶町のものゝは
なしに聞り何某といへる鍛冶の多幸腹痛を
患て種々の治療を受たれとも治しかたき
にあきれて自殺せんと決定して火箸を
あく燒痛所にさしとをしたるに積逢のい
たみ立所に愈しとなりこれいにしへの焼
針に自然と叶たるならむ
以上針灸の大略也針経にいはく其要をし
るものは一言にして尽す其要をしらされは
流散して極りなしと云々ゆへに此略書知
要一言となつて西洋にて此法此術行はれ
はかならすよき工夫も出来なん針法の潟法
は元より西洋に有なれば微針の補法と
手紙紙
迎随虚実の旨を見て西洋諸国に行は
達む事道の大慶これに過すと云
文政甲申正月訳官中山作三郎よりの文通
其略ふいはく町年渡来仕候外科ししほ
るとゝ申諸学に執へある者にて昨秋早
来採薬仕或薬肆に主是迄自分見及ふ
申品等者取集功能抔相正し志厚き者に
御座候既に先達ケンフルと申者之書取候針科の
一書も有之候得共不詳の事無多候得は今
一応相調候て妙術可得る知要一言の意味毒
細聞せよと願候故私申聞候処是は究竟の
もの也何卒蘭語に飜し授よとの願ひゆへ
河州之産美馬順蔵と申書生心掛宣内之業
学志し候者に御座候や日稽古の為革稿致さ
せ追々授候処誠に雀躍仕是にて漸く奥術
相分り候由何れ明後春はかひたんに附添参
府可仕候其砌先生御目通仕何歟御伺と申
上度由に御座候乍序是等之儀宜御執成奉
願候以上
一右書簡一通り者寄陽訳官中山作三郎
可レ呈スルニ二我岳父竿斎先生一者也無父嘗テ見レ之ヲ曰
蘭医西府福児篤者想フスル二能窺一班一而欲
レ知ント其金紋ヲ者二不レ然則其感之深焉独至二于
此一ニ乎異日彼果ノ能有シ二済シ而問フレ我ニレ我ニ々必将下盡シ耳遊一
而手示シテ之時予従旁従レ旁竊ニ視レ之退而謂ク謂ク曰ク曰ク唱蘭
医於一治術一ニ内景一固可レ謂二精切ト一ト而但以一微
一無二伝為レ憾ト耳彼若有レ得二于此一而遂能大下行于
其邦一一則焉得一以二知要一言之書ヲ一ヲ一ルト為二此道鼻
祖一一哉然テ則此一通雑二学卒ノ短簡一而竟ニ其為ニ其為一ヲ
後来ノ左券ト一者亦未レ可レ可レ知矣曰記レ之以伝示
文政甲申四月望
一株図石坂宗在浅
同八季乙酉三月九日寄陽訳官中山佐三郎
を以咼蘭国の外科ドクトルハンシーボルトより
一書管并鼓針二本とめはり一本本国上
彼国の文字ゆへ
一製の阿芙蓉を贈其文にいはく此
川榛斎に訳し
津山の藩医宇田
もらひたり
江戸御針科石坂宗哲先生
和蘭国労学教諭出島千八百廿五年二月
一度古的児火武西識福児篤
一針科は欧邏巴に無之一術にて兼々承及申候
幸に七般御著述之書拝見仕候千万奉多
謝候私儀是迄御当地に罷在なから御文通も
不仕候処御著述拝見仕候而先々紙上の御面言
一相成大幸不過之奉存候以来は毎々御文通仕候
いゝ於私有益共不及申乍恐貴君にも万一のニ
一御益にも相成可申哉に奉存候何とそ以来は御
文通奉願候私門人に美間順三と申仁御座
候至極親切なる者に御座候此者貴著拝見
いたし和蘭語にて私に通いたし聞せ申候に付
一御高説遂一承知仕候往々愚按に合し申候
事并に今一応奉伺度事とも御座候直々
蘭文を以貴著に書くはへ申候右蘭文を
日和解仕候而幷奉供電覧候間御教楽之処
奉願候御著述拝見いたし候御礼申上度傍
御文通仕候印迄にらんせつと二本流主とめ
ばり一本本国上製の阿芙蓉八匁進公仕
誰何れ明年は其御地え罷出候間拝顔別之
可申上候折角御自重奉祷候
この返書は中島作三郎方へとゝけ遣し用ひ
一煤山微針七本一めんより七はんまて神戸源蔵
に製させししほるとへ贈り遣る
文政百戌春ししほると其長官に随ひ来り
予に語りていはく知要一言へ書入せし本
は便にまかせ本国へ渡し遣したり微計
為具儀わかりたる上は既に刻して欧邏巴の
一諸国へ分ちたらん今より微針の術にて病
苦を遁れん人は皆君の給物なりといへりさ
て猶同一二ヶ条を呈し并手術を見度
よし乞ゆへに門人に針刺して見せんといひ
しかは自分の身に受度よしをねかふよつて
当人にさしてみせ言語にのへかたゝき所も伝受
せしなりそも〳〵我道の海外に播するを
よろこひおほやけの深仁厚澤にて太平の
化に浴しわか皆の道も日々月々に開けて
微針の術二千年の古に溯り一たんそふる
に近き道の亦感にして欧遅巴州の人に
至るまて和かみちのをしへを会得せし事
の楽しこさに微針の具体家の伝も残ら
春書あらはし桜木にえり世に示すもの也
寛政九年皐月防医法眼石坂宗哲浅
人の身に針をさして病をいやすこと池
の国にては伏羲の時よりはしまり和か
みかとにも千里振神代より有けんと
思はるゝことあれとこれはしはらてさし
をきつ人の御世となりて允恭天皇の
我既に病を除かむと欲してひそかに
身を破けり冬仰られしはまさして針法
なりけらしされはいそのかみけるき代
よりそのわさ無にしもあらされとかき
あらははし書の伝はらさるはいと口おし
大宝会に針師五十人針博士一人針生
廿人をゝかれ針あはもろ〳〵の疾病を
療する事と補と得とを掌とる博士
は針生等に発ることをつかさ登ると
乱されしかはもから行はれぬらん又針
洛に名を得たる人もありしかとその
後はいかゝ有けん広狭神倶集なとよ
梨そのわきこまやかになりにしも又中
絶てのち近きころに至りて盛にをこ
なはるゝことにそ有けるさるを阿蘭陀
に針灸なかりしはいふかしきことなり天
竺のいにしへ梵天子天降りて四吠陀論を
伝へその裔孫婆羅門といひてそのこち
遠うけつきたりその四吐泣の声を壽
吹陀といひて養生渓性医方諸事を
いけ西方五明論に針刺わさもありと
南海寄婦伝にしるし西洋の国々へは
窮理医術ともに天竺より伝へつれは
一針さすわさも伝はらさることは有まし
ておもはるゝにその術なしと云はいふ
かしそもいにやかもしそも〳〵御国は東
に位して日のもとゝしもいへは天地
のひらけはしまりける時より中今の
御世に至るまて若てたけき気さ
し有事にあたれる国々はむかしより
老たる気質ありて物ことにいたらぬ
くまなきやうにみゆれは何こともその
かたさまより習つたへぬることゝつもおも
へとそのきさしは御国そ姫なりける
されは石坂ふしの家の業をかの阿蘭陀
あたりまても伝へたまへるはあなかし
こおほなもちすくなひこなの神代に
つける盛事には有けりといとめ
てたく米つは此書によりて其道
のおきろを聞ことをえたるか与路こは
しさに六十あまり九の翁弘賢かさ
つけはへり
嘉永四歳十月求之
山内
「宗信知
承聞知委記
嘉永四歳十月求之
山内
「宗信知