相撲之私記
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- 成島峰雄
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堀田
相撲之私記
相撲之私記
入セル竹園博士
成島峰雄
寛政三年六月十一日吹上にして相撲御覧の事有
兼て同しつらなるものとも公ことのいとまて見侍る
へきよし御ゆるしかうふりて朝のほとより御覧
のかたにまゐりつとふそも〳〵久かたの雲井の庭
にして年毎にすまひのせち行はれしも保あに
中総保元にふたゝひおこさなしか其後はまた駿河
亭聞えすたけくいさめるものゝふのうへに便あれ
はにや鎌倉右大将家のひもはら司位あるも無
も言きいやしきわひためなく力を競ひ明尊の
たはふれ草せしより室町家の時なとも御覧の事あ
りしとはしかあれゝ星うつり物かはりてことりつか
ひなといふことも聞へす葵夕顔のかさしも恐し
より今やらは同本柱土俵なといへる物さへいてきゝりし
いにしへのことゝはかはりにたり其始のほてといへる事
は大関と名をかへすけては関脇と唱へ小結と
称するをあはせて三の役とし夫より前かしく幕
のうち幕の下三段四路五たん本ちらあいちう前
すまひとその品をわかちたうさきはまはしとよひ
すまひのおさは行司と云ゆつる扇の三くさを四本の
柱に結付るありふる定となれり其名ともゝ見聞
まゝにしるしつけたるなるへしけふなん真くもり
なく常盤の松枝見わたし遠くしけりたるに
ひらはりはる〳〵とうちはたし其前に四本の柱
をかまへ其柱を紅と紫との緒にて包み本を紅
の氈してつゝみ泣柱の上つさは花田のまんを
四方に引めくらしたり土俵の中央には
てしら幣数七ツ神酒瓶子二ツほしかや干栗のし
昆布をそへあはせて三くさをしきたへ物にまう
くそなたにゐのむしろ口ひし敷たり御三郷の方に
執柄の人々よりしての司布衣以上以下なるも御
前ゆりたるかきりは御桟敷給はり御かたはらをく
さふとふかきりおさなきものまて引達いさゝか隙
ありとも見えぬ巳のとき過るひにやあらんなら
せ給ふめし合の異名なと奉るしはしありて白張着
たる男二人出左右の手桶のほとりにいふまひふし
居たり東の堀の屋より追風と名のる吉田善左衛門
園扇とりさての行司木村庄之助吉田幸吉外に
二人を召具して埒のうちを通りて来れりみれ葛
帽子素襖を着たり追風土俵のうちに入莚に
つき幣にむかひ拍子うちならし祈念し方屋まつり
おはりてにきてをとり二人の行司に授く座之助幸
吉さ吉よりすゝみ銚子をとり神酒を四本の柱
の根にそゝきつゝしそゝやかてむしろをは国張去たる
男左右より取て四本の柱のもとに同しつらに
竪さまに一ひしつゝ引わく迄風うつくまりゐて袖き
合せ方屋開といふ事を唱ふいさゝか臆したるさま
にもあらぬ声をかしく聞ゆ其詞にいはゝ天つる
ひらけはしめてより陰帰わかり清く明しか驚
ものは陽にして上にありこれを勝と名つくつく
濁れるものは陰にして下にあり是を負となつく
勝負の道理は天地おのつからしかるのことなして
是をなすものは人なり清くいさきよき処に柱
七日雨へ五穀成就の祭のわさなれは俵をもてせき
とをかまへ其中にて勝負を決する家なれは今始て
方屋と名つくる也野見の宿ねか裔にていにしへの売
法林といへる高名のすまひの湯をつま遠つ親吉
田豊後守家次内程より追風といふ名を給はり
世々相撲の有職たるよし今細川家につかふ此度
御覧の式つとむへきよし仰ことなりめいほくかきたなき
ものならし追風ことおはりて後ろにおにまう
けたる莚につく北は交名に勝負の爪したしせむ
ためとそ年寄といひて此道に久しき翁とも
あさきの上下着て七は人つゝしたりひ居たりいける
よのかいつくりたるもことわりとそ見べし扨東方より
行司みちひきにしたかひわかくいさめるすまひ共
二十一人四本の柱のうちに入ひしくとうつゝまり
拝し立あかり力納々とふみすえてかへり入
る西の方よりも同しすためにしてかへり入ぬれは
東より又いつ西も又しかり三度にあたる時は十
人宛いつ是を土俵入といふいつれも銭のたらさ
きかきたり東の大関に野川たらさきの上に横綱
といふものかせたり是はあるか中にもすくれた者
のゆるさたゝ事とそき子相撲弐人前後に引運
てねりいつまつ埒のもとしておし土俵のうちに
入たるさまさきいかめして見へへるものらにははなか
たちことめ名黒くおもゝちむつとしけにすさましき
けはひたるかさすかにおそみなから此道にしては
我はと思ひちかりたるさましたり西の大華太風
といへる達か華秀の山といへに大にたましきもの
ものともを二人したかへふ事おなし事ふるまふさま
山も勤きふたらんやうにしてこしのかこみなとは
けに牛をもかくしつへよ樹のやうなとのさましたり
まゝり細う引て鬢に入おもちにこゆかにつゝしみ
いやまひたるいさゝか驕慢の気なくてめやすくて入
ぬさて残る七十四人のそまひはやかて立あふ
へき用意に土俵入つかふまつらすとなんしはしかりて
なのり賜の行司二人水桶のほとりにあり是か外に
行司壱人土俵のうちにあり四方の柱の本さきに引
わけ敷岡つるむしろのうへことに一人つゝありすへて
行司七人にこそかゝてすまひ始りぬれて左右より
行司すゝみよりて東のかたや桂山とよひ物のかたや吉
野山と高らかによふ此すまひ二人埒のうちを通りて
水桶のもとより水たゝへ土俵に入各つまとり寄九両
れは行司団扇を入声をかへるとひとしく吉野山四千
に組む柱山か下の手にて廻しをつかみなくへきと引
うちのかたより是をかけ身をかたきの方へ出しかけ
しかはかつら山あふのけにたふれふす吉野山か
うちはをかさし綿すまひ吉野山と高らかによは
ふわたゝかけといへる手なたよし東の方より尾上松
西の方より錦野をめゝゐす尾上松錦野儀はこの
上にいたきておし出さんとせしかかへりて己かあらを
土俵にふみ出しけすは布みうの負とすはうの負とすは
美松か脇腹に西のよさの海身をひねりさまに
巻おとしてからぬ西の岩か崎と森かさきと聞
に組む上へ下の手にて森か崎の廻しをとり腰へ釣
あれ身をひねりなら腰なけにれて龍か滝つま
とりしてかゝらんとするを西置碇かたきの足を
ふみとめさせぬたゝおしに押ふしぬ此子を行ゆ
といへり東の子刻川荒見崎平腰投になけふしぬ
桜野をにしなる安完山四手に組む廻しをとり引
あけて土俵の外のやくらたしに釣ふそひかしの
和田川と今出川立合ぬるか今出川ふみをのそく
まけしつ東の荒灘角森る二の腕をかひつかみたの
方へひねりたふす角森踏留らんとふるまふを其
まゝに押出せしかはひねか出しの勝とす行司森
庄五郎立かはり東の清川に角田川つかふ清川
押切て勝鳴見川を西の鳴沢四手に組うへの手にて
かたきの横廻しを舟かり昼をあとの方へ開きなから
枚たふすたしの事といへり在の由戸の戸立川を
四手そむ下の手にてかたきの廻しを取腰へ引こせ
上のゝねにて二のうてを取身をひねりなからたりと舟
ふすつゝきて東の都山に朝日野つかひしか踏切りて
かたきより押懸られふみ留りしか身のかためまたしき
を遠間なくつかれて土俵より足をふみ出す東の鶯
野川上総野を四てに組しか双の手してまはしを
取後へ持上土俵の外へなしぬ是をは持出しとも四年
もち出しともいへり是より中の品なり芝者森を物の
望の山と組しかうきにくとて余りにとりくひら
れて体の力なく有うき立取ぬ東の入間野片男波
と四事に組上の手にてかたきの廻しをしかと故下の
手をぬき二のうてをかひ込み身をひらきなから足
としけたふせり初瀬嵩を西の御所意押切て勝
東の鳴院わかの浦をのつ手にくみわかのうらの首
をかゝへ足をかけ廻しをもて打たふ寸行司岩井喜
立かはり雲林に西の淀渡をあはす淀渡より
合よりいちはやゝ左右の手を以て雲林か胸を突
けれはとく土俵の外へつきふせり東の時津かせ
黒雲とよつねに組合黒雲を腰に引つけ下の手
にてかたきの二の腕をひねりなから投たふす四日
手投とて東の熊の川杜戸崎か左右の手をしたゝか
にとらへ前へ引倒さんとするにたふされす其まゝ
引かへしつき出せり此手をは引おとしといへり東咲野
川濱風と四ツ手に組ぬ浜かせ上の子にて廻しをみへ
引よするをかへりて咲野川足をかしみ身を押掛て
うち倒す其さまいとゆしなけりたしといへる事なり
綾川東の荒沢か左右の手をふとゝらへ前へ引たふさ
むとせしかへりて引違ひむかひへ手をつま取と
なる是は我住里の近く生たちし相撲なれは
ほ意なき心をす童か鼻と西の香石山たらひに
二の腕をとりあひ頭を肩につけ扨あひたるか龍
か鼻の強くおしける方の身をはつし腕をとり前へ
引たふし香取山かひな廻しの勝と定むさゝ浪を
西の荒海土俵のかきり切つめいさゝかと働らかせす
して我体をかためまもり居たれはつめとも相詰
ともいふりち也実にさゝ彼はあら海につかふへき名
のもるは行司式寺秀五郎代れり常盤川を西の
みとり川ひし〳〵と取詰土俵其外へ出す東の子渡
か浜立けり雪のうちを同しさまにおし出せりかう
やうの事はいさゝかめとまたためらひもなし東の
諏訪の森に袖のうら踏切負したり東の捕出し
きりて荒馬に勝東の杉の尾阿蘇の森を森の
もとこておしつめて勝ぬ東の関の川に荒滝ふみ
切の負しつ東の玉の井あら熊につかへり此荒熊
は色黒く大男の大力なるかおのか名にあひてや
かまひけんひたりの廻しに白銀して熊の月の輪
をつけたりいかめしくきう〳〵と見へたりしか玉の
井さし爰ていとねにくみ投んとせしか猶足の残り
けるを其まゝ突出しぬ数のこり押切の勝となれり
さくもゆゝしく出立しかいかにほゐなからんと覚ゆ
弐専伊之助行同す是より上の品なり東の伊吹山
鷲か嶽いつれもおとらぬ大力なるか鷲か幾手をさし
上るをそのさしたる二の腕をきとゝらへ身をひねり
なからはたと投たふせりかひなひねりといふれは
東の鈴荒山岩か開か四手に組んとはたよるを下の
手にて其腕をとめて上の子にて廻しのゆひめを
とり腰へつりつけ身をひねりなから打たふす上は
手投といへるよし東の伊勢の浜獅子か泪をおしめ
蓑嶋は西の真鶴にかひな廻しにてなけらるもの
弐水川四手に組戸田川か下の手にて廻しを取なけんと
引よする所を足をかけ向へ押かけ土俵の外へ押出す
かけ渡しといへり東の友子鳥は関の戸か片手さし
て押所をうへの手して開の戸か脇をおしやくく
押合ていつれ勝負つくへうも見へさりしか友子な
しくと見へしか算の戸たまらす突出さる行司
庄之助かはれり東のか治か浜に出羽の海おし詰て
勝ぬ雷電は浮足にて西の錦木に負たり鷲か浜
はことにせい高くふとゝたゝましく色黒きもあしの
宮城野の色白く若とくうるはしきにめし冬たるに
たかひに身やおこしさりけんしはし却有しか終に
鷲か浜土俵へ押付られ脇へ廻らんとてさ書のあら
土俵の上をわたりけれは土俵の足負とすはしめほし
あひし時一足土俵を渡りしはおのつはらゆるさる
定なれ是は左書の足ともにわたりぬれは宮城野か
かたへ団扇を揚く中入とて一庭の者御堀の屋の内に
入れり上世下にて尾出飯やかれいなし給るに
やゝありて先のことゝ行司事寄白張なといしく坐に
つき終り行司式寺見蔵立かつひかしの縁山にあら
瀬川をあはすかへとり山下の手にて荒せ川をなくさし
かへりて下の品より上の品へとりあくへまなりと聞ゆ
はしほ島を西の越柳押つめて勝つ東の奈良山伊
勢か浜か二の脇きととらへ前の方へうつ伏に引たふ
す東の浪分柳川をおし切る東の御深野江刺
川にかくるも前におれし余りに建かなるも見所な
きこゝちす鷹の羽西の金か崎に四事数になける
続て名取川か左右の手を西の紅葉山そうへなから
強き手の方へひねりたふせり讃岐川を西の上
保か崎おしきる東のみなと川須摩の関をはね
出し東の鶴か鬼堤見川をつむる行司木村庄太郎
代る東のか茂川荒鷲かわきに片手をさし前へ
引き片手をはあら駕に是にかけ引落すかた
すかしといふ手なりとそ飛鳥川かさし入たる事
を西の八雲山上の事にて外のすへつよくたへ足のう
よりかけかゝへたる手にて前へ投たり神楽岡を西
の乱猫子上子にてなくすみの江を西の外の海から
かけ袖の浦を西の高尾山おしきる東の相か嵜
廣田川を四手に組み広田川を引出すかたき書の
足をふみ寄るとやかておのか書の足をふみ外より
あをりかけて地ひゝくはりなけ出す平料西の越の
海にはきれにて負たり和田の海を西の秋田川た
しに也僧東の和田か露手間か開をかひるひねり
してかてり式専秀五郎立代り行司す野の浦を
西の室か開はね落しの手にして勝通し矢を西の
三浦かた突落し東の宮の川鬼か嶽をつむる
黄金山を四つ事にて数音梅の尾を西の荒汐
引落し在の甲斐か賀富田川を持出し東の
辺か崎わ扨か関を押出し僧岩井真七めし合
乕わたしを西の象か鼻はね出し東の岩か洞
立波を押切る温海嶽を西の神撲山はね東の
松しまにつかひて客の山ふき越の負とる是もる
の事にも今少しくり返し委しく書まほしけれ余もよし
しからんのれはもうしつ東の波の音滝のおといつ
れ高けんと見る程に波の出とお切にて石ぬ弐寸巾
之介代りて公あはす東の浪渡然りたけをかひな廻し
にて投出し東の岩かね厳島を渡しかけそなく
是より上の品なり稲川を鳴滝四手に組み物助
る鬼勝か胸へかしの芦渡肩をおちて腰を入かたきの
腰を引寄せ投し名草山を西越の戸はね出し東
の和田かゑ増見山をおしきる磐井川に物の伊達
り開立給ふいつれも堀長多門のけきやうせる如く
おそましき力士なり伊達か算は客風か第にて
ことに答くたゝましき皆人心にてあせをにたり
あらのもせすたれもほとくおとり出まほしき
くちするとものくるをしきや四手に組しか盤井
川か腰引出せ身をひねりなからおしかゝりて
押たふす四手ひねりといへりやくとほめてくつくり
たるを御坐をけれはなり高しと制すこれ三
役と称せり行司木村庄之助小結九枚尾西の
松戸を右す九枚龍まゝからはのさまなから勝れ
て丈高く少しぬるきやうなり殿戸は姿直とゝのひ
あいきやう有て心きゝたりと見ゆつまゝかさし
寄て四手に組土俵際へおし諸たり庄之助柏
戸か方へ歯肩をさゝけ小結の職にたへたりと称
し扇をさつゝかのをせたるわらはの鼻国める
うしろてほ意なるなり関脇東の陣幕に雷電
とて此ころ鳴神よりも賀渡れるとあはすたち
一今さまに陣幕はやく雷電の咽へ手をかけのとわね
といふ手して一度に土俵つめたり此本との内とり
にはいくしもすまひに立合ぬるも無滞勝ぬる
を思ひのほとも有哉と人いふ今日の関脇にかな
へりとて弦を陣幕に与ふしはしためらひて
追風善左衛門遠川親の内程より賜りし四日
幅の袴といへるものを着成子王といへる団扇の
代々に伝へるを持てねり出るおもゝち先故有之
見ゆ土俵の中央はかりに少し後によりてたつを去
より小野川太風ゆたかに歩み出つ御物見の方を拝して
土俵に入りさ書に立並ふそかの御覧は是を旨と
上中下つめきたつたにかたうとし書に心くも有
六十余州にけるされたる手合なれはそに越たる物見
あるへきとも覚へすゆすりみちたるに行ゆさしかまへ
たる団扇の下より小野川谷風にとりかゝる追風さ
書をとりはなちて団扇いまた引す声もかけさる
にとりかゝりたることはりなしとてしきりにきへきり二
たひのし合すしはしためらひて歯府をひく声と
ともに大風ふとよりてはねたれは小野川取合ふ
に不及二足三あしたちろく迄風客風にうちは
をあけ今日の開にかなへりして弓をさつく相風声
の強み小の川後のよりこと勝負決せるなりとそあ
はれ客かせかおさめの事ふしたらんには山をもぬく
へきをかゝては事聞ぬこゝちしたれと野見
宿祢か躋れをうしなひ畠山庄司二郎か長居を
給入せしやうなるよりもことからこるはしくさて有
へきにや有る客風打を受うやまひさゝけ四方に
にやり廻しなとしてうちかたけ物して入ぬ此間を賜
るゝは職田内府の近江の国常楽寺にして
宮地といへる強力を開にて相撲見給ひし時かち
たるを賞して給はるより今にかくなんといへり
かちかたにけふ賜れ子梓ゆみもとのまたなる
ためしをやくすまひともろくのなり給ふさ
に賜れるとそ
君か代に葵の花も夕貌も恵みの露のひかり
そふらし佐野肥前守承行ぬしのよめに
めしあはせ惜しすまひの心をも思ひとりまゝ
見るはいさまし父の和林もめつらなる物見に翁
さひたる腰加へて我も年二十たる若くはなとさる
からこといひて詩作り
翠慢新開相撲場横綱意気最飛揚
緩々分得英名遠兩々帯那寄骨香
錦繍褌迎千里秀弓弦賞見一時光
抜山餘勇姑休買別有神州稽古装
まことに夏原の老なく男荒の角のつかみしかき
互に書つゝすへしもちらねと武蔵野の喧き御恵
みにかゝるわさを見たてまつることゝかしこさのあま
りになん
上覧相撲御用掛井伊兵部輔池田筑後守
御目付平加参式部少輔中川勘三郎
御徒目付岩田吉左衛門
御徒目付岩田吉左衛門佐田忠五郎
御小人目付近藤勝互
河内守組与力高橋金左衛門
片山山作
伴藤蔵
筑後守組与力佐野五郎左衛門
宮戸権太夫
中村佐七
角力年寄
伊勢海村右衛門
鈴鹿山喜平治
久米川平蔵
勝ノ浦甚五郎
大風上下着す
小野川
外に誇羽織に而出る
行司
吉田善左衛門
烏帽子素襖
右前条角故共六月十五日池田筑後守殿御番所へ
被召出御褒美として白銀三国枝被下の
年寄三十八人
行司十五人
角力取必六十七人
寛政
上覧
相撲私記小補
安政二年卯七月十七日丹羽供の御家臣大鐘清風
ぬしの訳介にて御同藩吉田翁の蔵本本遠峯
雄の記し相撲私記を誤りこは今より
六十四年前寛政三年辛亥六月十一日朝吹
上相撲上覧之記なりおのれ京山是年二十
三事也し故何も此上覧に係りて見聞し
つる事今猶心にたもつ事有此書を蔵し給ふ
吉田翁は今年七十一歳と聞侍れは右
上覧之年は四歳にておはし給へれはおのれか
見聞しつる事ともを物語りせは翁かぬ古の一
興にも成なんと思ひ侍れ、青き二本松に在て
千とせを契り給ふ翁なれはせんすへなしさり
とてうらすてんもはらふゝるゝわさにしあれは
いで鈴毛を鴻朝に附せんとて草稿をもなさて
おもひむすにまりせて記し仕るになん
上覧の日は快晴なりけれはけふはさゝそならめと
此事に係らさるものもよろこひあへり六ツの御鼓前
に角力のものとも行司の者も吹上口の御門前にひ
かへて都御太鼓打きりて御ふ人御徒歩の目付つまを
随へて角力人一同を引入る角力並行司麻上下也
次に行司追風吉左衛門と紙札に記したる白木長持
一棹行司木村庄之助と記したる同一棹大関大風
梶之助と記したる一棹大関小野川喜三郎と記し
たる一棹
但木村か長持には行司一同の着替甚府
大略の長持は土俵入の程一同のをのれしとそ
右同棹御門
の口迄もたせたるを公儀の六尺請取て入しとそ
但し是迄の途中ハ町奉行の此行装は下座見井上昨花
与力同心等附添けるとは
と云ものゝ話しに聞ぬ
○本書に三何とて扇○弦〇弓を与ふを〇大関〇
関脇○小駄とあり是は上覧故事を本式に取て
しかありしなん常の興行には十日目に三仙と云
事あり興行十日の間九日働きよく勝通したる
二水日の者又は幕の末の者の編よりしを十日
目の角力の終りに至る時東西へ六人ツゝえらみ
出し丁行司かれらかはたらきよりし故三仙に
に出たるよしを高声にのべ扨よひ出して合せ。橋たる方へまつ故
を与ふ行司団扇にのせさし出すを角力おしいたゝ
きて持入る弦も又かくのことし弓は取もたけて四方へ
打探たに手業ありて見所あり此三役は十日興行
の子秋楽なり此三ねに勝は後の興行には位一きざて
昇り十日の陰重も増故獅子の勢をなし見て人も
眼を張也けりされは上覧の三ねもなそらへ知る
へし蓋し病弦弓用品にはあらす目立やうに別
化したる物にて墨弦重筒の弓也上覧のも然有之
ならん火風上覧の土俵場にて弓を得心嬉しく
握りまはしたるは龍の玉を昇する如くならん小
野川負て退きしは乕獅子一吼に尾を下げしに
似つらん小野川は人早温和にして前髪の美杢
たりし故世上に愛せられつれは上覧の負を人
こそりてをしみけり此ころ何ものにや
一小野川にひく人あほきあやめ草にしや相風吹
たふしけり○上覧三仙のもの東小法九枚竜新吉
十九本身丈七尺二寸西同柏戸宗五郎三十二歳身
丈六尺七寸〇東関脇陣幕佐吉廿八歳身交交
三寸西内雷電為右門卅二成身丈六尺五寸双
此頃東にも同
名の需電有
○東関
横綱
大風梶之助
六尺六寸
四十二本身丈
西関
同
小野川喜三郎
一卅八本身丈六尺四寸
有馬候様なり
右は上覧以前町奉行に而角力人前内調ありし時角力年前に而
上晩角力三十六番東西七十二人の東堂越量奉行処へ
書上たる里なりとて南組同心幸五郎釼術師匠枕井春蔵
一稽古場へ持来て相弟子ともに見せける時京山と同由に在候
みし時書の六人計具取し後巻説録と云随筆へ書の世
玉たるを
今こゝに記しぬ
○京山思ふに此頃小結の位に在し角力故は世に
あらは華取なるへし体量も今に比れはまされり
天明より寛政の間は四五年は大風小野川陣
幕雷電在りて角力盛の時也しゆゑ久しく隔たるに
横綱相風小野川に弥されし取諸人めつらしかにて
興行毎々大入せり○上覧度ありて其冬角力興
行の時
深川
つ上覧の番組の如く三十六番を合せし
八幅
に八日目の諸陣幕に雷電勝て上覧の負を取退
しぬ九日目谷風小野川引分や此頃は角力の隠
語にコスリとて角力年寄より内々頼ミニて勝負
を知談して見物の機嫌をとる是利望を取んの
たゝみ也右の引分もおそら〳〵はコスリならんとの
評判なりき世上の評に碁にていはゝ火風は小
の川に二月も強しといへり客風小の川と取組て
土俵に腰をやのくをるとき艶量重き肥波の腰
に取廻しをつよくしめあれは腰しびれて堪かたし
小野川是をしる故にまとうを度々いひてつから
かして立逢ふ是二目も弱き故也と見物者のもの
いへり上覧には此ほとうと云事すへと聞さす
一大風にはねられたるはかりにて負になりしは小の川か
幸なりと人々いえり
○御坊主関長育の話にある時仙台供に御同席御招
ありし時御庭角力に東西三十二人めされ候に庭の
内に御国米五十俵程積ありしか角力中入の時角力
懸りの御家臣両開を縁近く招き横懸米は今日の
角力一同へ被下間中入の時支度申付置たる庭前へ
角力達黒ひ懸相応り配分すへし材夫は申付
置たれはおの〳〵勝手の所へ引取へし其段は支度
所掛りの者へ申談すへしと伝達しけれは両開拝
謝しやりて角力共取廻しの向〻にて立出二俵つゝ
かたにのせ暫時に半はこひし中に雷電一俵を
頭にのせ二俵をさ書に提けて入し時入興のあまり
来寄の諸侯声をあけて誉給へり時にに野川
火風にほるさゝやきしか火風は俵により小野川は
二間ほとへたて立居たり火風一俵を取りて
投けれはふ野川宙にて取角力の肩へ二絃ツヽのせ
やかてはこひすしけり此米俵は此力量を応に
見るはんとその事なりしと船長育我兄京伝に
語りしをおのれかたはらに在て聞しもあゝ六十年
のむかしになかぬ
一并長育は仙台供御出入にて此日御席に
侍座して見たるを語れるなり
〇天明三年浅間山焼て江戸へも砂ふり同四年春
度飢饉寛政四年江戸大火なとありしかと国躰衰
色なく件のことく角力の盛んなりしのみにあらす遊り
なとも賑ひて扇屋を五明楼
吉原江戸町
松葉屋を松葉
一町目
雛舌は丁子の江戸町
玉屋を玉楼船
館銅丁子屋を雛台楼
異名なる故か二平目
町一丁目
今猶存
大文字屋を文橋京町是を青楼の五大家といひて
いつれも四五人宛はよび出しと称して見世をはらす
仲の町のなかしみの茶屋へ夕暮より出居て客をまつ
一拾新造二人
右よび出しと云は昼夜を不論序枕壱両
禿二人したかふ
壱分也次を昼三とて三分也かゝるゆめあまたあるか
中にも○花扇○滝川○七越○瀬川○雛鶴○丁山○千山
〇九重〇諸越の連山なといへる金盛の遊女有之
事は狂言作者桜田治助か天明三年の春狂言
の上るり吉野色寄の春約と云を見ても知へし
此頃有名の妓女二十八人の妓者を
此頃有衣の姿二十八人の妓意を背石の妹序中に二十八人はしを以
文句にのたる作なり
天明年間よし原の盛なりしを可知
今は三分の遊女を上掛とす
扨又此頃の芝居仙者の立もの
夫さへ序中に八九人と聞ぬ
五代目市川団十郎
白猿
隠居して
中村仲蔵〇松本幸四郎
此二人は婦人の
○沢村宗十三郎○市川門之介○市川八百蔵此
ひひき多かり
女形は○瀬川菊之丞○岩井半四郎〇瀬川富三郎
。小佐川常世なと天明寛政の間を盛に歴たる俳優
上磯の者た也此芝居も吉原も角力も皆おのれる
目睫したる八十七歳の眼を以て今を見れば角力
もちひさくなり芝居もやせほそうよし原も色おと
ろいたり
〇扇や〇松葉屋の丁子屋殊にすられたる大楼
なりしか家亡ひて今は玉やのみ残れり夫さへ売薬
するとて草冊子の作者柳下て種矢か
間にてゐ
申する者
待願山の麓に
住して吉原に入こむ
作の草冊子にかの売薬の名を記して
弘むるを以玉屋か家の衰たるを知へし
○天明寛政の比は角力といへは必深川八幡にて
他処にて有し事なし此頃八幡前の通り〇土橋〇仲
此雨にはふ
町○櫓下夕の裏やくら○古いし場○新石場口
とや子
前川通り
公辺は料理
して大厦軒を達ね
所謂土妓をおきて公然
茶屋の名目
として客を迎ふ甚盛なりし故其余降にて角も葉
昌せり扨小野川は美男なりし故妓女奇妓馬ひひき
して身中小の川か部屋と称する仮宅妓家の近に在故
本宅主
芝赤羽
那慈淫の妓宋玉る墻を踰しも有しかと小の川情を
不許此事衡説に湯伝して衆人小野川か鉄石を美ね
せり小の川谷風と取組の時に仲町の妓女とも八幡へ玉屋
参りしたるを京山見たり
○其頃小の川かんさしにて深川仲町よりはやりして
江戸の女芸者ともゝ専用ひたり
銀
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桔梗は小野川定役
又びひどろにても作り八幡社内又は神仏の縁りなと
にてもうれり
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正物は円よりも太し
又小野川嶋とて木綿一幅に三筋図の如く
染たるゆかた其やり大丸やにてちりめんにて
染出し流行せりされは王公妾ふ馬走
牛童も小野川を知れり昔も今もかゝる相撲人あ
る事なし北風か伝は寸銭雑語といふ
書に詳なり
○天明七八年の頃と覚ゆ桐長相聞
中村野の
名題代り
坐の秋狂
言作者桜田治助の作りて二両目おしゆん伝之団の世話
一狂言に伝て衛市川八国蔵の
後る助高屋高助
おしゆん岩井
とあらたむ
半四郎
祖に父なり
今は岩井久米三郎か
角力取白藤源太郎市川門
之助
此頃婦女に多くひひきしたる事は代目団十郎よりも甚し男
格も又すくれりけ数に四つ紅葉を付しに此頃の娘四声のかんさし
さゝさる
なり此狂言を作りたる桜田治助は徳名左交
とは我か兄京伝と親しく交りしに一日来りていふ
やう当時小野川ふ人のひひきも多く彼か面さし少しく
似たる故国藤源太の役をさせ出しゆんを仲町の芸
として半四郎にさせてしか〳〵の狂言に取組此秋狂
言にせんと思ふ也といひけれは京伝しからはおゝめ
の出を湯上りにして舞台て化粧をなし仏町の小とも
やしの
この妓の居る所を山ともやとて仲町中裏と
いふ所に妓を抱置者は九軒有しなり
さまを見せ給へ
目さきかはりてよからん左交折渋して喜此狂言の
上たりの場に半四郎おしゆんにて湯上りの五常の
羽二重通し
に二重返し
けばうしをかけす扨二重通しといふかつらにて御
とは為二重
の切へ生髪を一本つゝ通したる者也生へきは真にせまりてみゆ
髪沙友九郎と云者工夫して此朝亥の時始て用ひし也
寐くたし
たる髪ひたひへふりかゝりたくさま実にゆあかりと見へたり
おのれ此狂言あるは家の留せ居仙の銘にて家兄と
ともに見物せり
門之助白藤源太の衆党紫ちりめんにかの北の川島
なりおしゆん伝兵衛か手にかゝり古主の姫君の身かけに
立んとてわさと白藤へぬれになる所の上るり文句に
〽深きおもひは北の川にぬれて恋ます風情なり」
といふ文句あり富本豊前太夫か妙音門之助半四郎と
妙手大あたりしたる狂言や
此小野川はかた磯の羽ありに黒ちりめん弥付弟子共
をつれ五軒通しの桟敷にて見物しけるを角力の
金箱
深川の天たらさまなとゝ衆口誉けりと此日見物したる
狂歌師鳴鐘の音人と云ものかたれり御坐候也
手代也
○小野川享和の末と覚ゆいまた衰へさるに有馬供より
角力をひかせて後有馬供駕篭脇に達れ給ひしか
下馬の評判高く且又途中見物の者も有て風聞
高かりし故にや七八度往来の後は達れ給はす其後
入府の供をして久留米に在りて降りけりときぬ
○件の事共無益の長舌なれひとむかしの時勢を
味ひ給ふよすかともなりなんとて筆舌を拝語に代々
吉田翁にきこえ侍るになん
拙化妙海補進後島翁御覧し越後一談と申御
随寺の中赤穂義士に開保いたしたる一条の御筆
記御見せ給はり御聴尊拝誓奉る御蔵の書とも法
風ぬし迄返し参らせ侍る
小浦の草をとりつゝ
むかし見しこつゝも今は老ほれて
夢路に草をたとり鳬哉
安政二年卯の八朔
八十七歳京山人不樹
こは相撲私記を読てむかしを声ふの余り
一時の浸草也清書すへき程の切にもあらされは
壱筆のまゝ御覧に呈すなめ〳〵しきはゆるし
給へかし花樹再識
2014
浅田
山田正守君之
留別也
明治十五年五月
稲澤藏