廣益俗説辨 45巻附首巻
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- 井澤長秀編
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- 2026-08-17T19:23:14.115Z
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- 2026-08-17T19:23:14.115Z
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- 場所: 京都
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- 井澤長秀編
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- 日本語
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- 茨城屋多左衞門
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- 10010000002278
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- コウエキゾクセツベン
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- 東北大学
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- 2025-11-13T05:30:24Z
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- 2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
狩川
廣益俗説辨首
序總目
蟠龍子井澤長秀先生著
廣益俗説辨
京師書舗柳枝軒茨城方道蔵版
議
廣益俗説弁序
神村長
豊蔵書
夫レ離レ理ヲ認メレ迹ヲ離レテ人ヲ指レ神ヲ
荻野氏図書記
則言ノ之失為レリレ書ヲ書ノ書ノ之失
伝レ妄ヲ妄又会ヲレ妄ヲ其ノ説盛ニ
行ル矣至ナルハ其ノ為シレ風ヲ為ルレ俗ヲ為ル
レ城テ為レテ郭ヲ牢メ不レモ一レ可レ破ル則不
レ可レ不レト一掲テ二本源ヲ一歸セ于歸
当ニ上者此レ幡龍子所ナ二自任ヲ
且ツ声一スル也其ノ所二広益スル二八
余巻上自
天子一旁ヲ及ヒテ雑類ニ絡スレテ在テ明
白一ニ罵テレ目ヲ易シレ暁シ能ク碑二覧者ヲ
不惟有二厭蝕スルニ而得セシ而得ニ以テ
泝ルリ二本源ニ於レ是ニ理題ル神明ニ
向所謂辞セル者全ク備ル矣昔
孟子不レ好レ辞ヲ辞ス於其ノ至
レ得レ已ナリ幡龍子許メ而又辞ス
亦庶幾乎不レ得レ己矣余
欣然リト為レ序ヲ以テ為ス二左祖ノ之
証 ̄ト一正徳乙未八月上
同僚竹堂熊谷維識
十六
廣益俗説辨序
『豊代泰信氏
以テ購入セル首関博士
狩野亭吉氏藤蔵畵
凡ソ學二フ神道ノ明理本源一ヲ者ハ先
自二諸社ヲ傳記事實一始ハ未レク有二
廢傳記事實而曉明理本
源二ヲ者也。夫明理本源。堂室
也。傳記事實ハ階梯也。譬フ諸ヲ
無不レニ不レ於階梯一而能昇于
堂室ニ矣。節嘗テ觀覽。
記或差義理或謬本據流一ニ或ハ謬一ヲ流二
于妖妄一テ入二ル于附會一ニ于得精
英一ヲ者。蓋シ尠シ矣。粤擧テ所二謬傳ニ
説二テ而為二之辨解一。然ルモ亦以為
若二キ夫ノ童蒙一リ專ヲ嗜テ嗜二ヲ不レ好二
神籍一ヲ。ナニ知レリ二其ノ不可レルヤ。可レ行也。故ニ
首載二スルニ神社傳記一ヲ次ニ列二列ニ列二テ歴代ノ
廣監谷説辨序
雜事一ヲ目號二ハ俗説辨一ヲ。是レテ是レ欲シテ佛二
讀歴代雜事者施及神社
傳記ニ也。然リ然ル後恨二テ遺漏ノ不レ少。
尋著二スス續新二編一ヲ今ニ毎レニ有二ル繙キ
看一ヲ猶ヲ不レ滿二ク于心一ニ因テ併二。俗説一。俗説一。
三編總括成全書。拾二其遺
漏補二ヒ其闕略分爲二十卷二十卷一
題以廣益字庶幾幾。後覧之
士。歴ニ此傳記之階梯。而昇
彼ノ明理之堂室一ニ矣。因テ述二。微ト
意ヲ以テ書二巻首一
正徳五年五月十一日
肥後隈本
井澤節長秀
廣益俗説辯總目録
肥後州隈本府井澤長秀輯録
○若二キ正編ニ所レ載之説者冠以一二三一ヲ以一ヲ一二三一ヲ一二三一ヲ
○若二ト続続編新編ニ所レ載之説一ノ者ハ冠以二ヲ以二續
○若二キ今モ新カニ所レノ補之説一ノ者ハ冠ヲ以二ス補ノ字一
○若二キ逐レヲ改テ所レ加之説者記以上訂補字ヲ以
巻一神祇
補天神七代の説
一浦伊弉諾尊伊弉並尊天浮橋に立給ふ説
新伊弉諾伊弉並一女三男を生給ふ説
尊領地をあらそひ給ふ説
補伊弉並尊黄泉にいたり給ふ説
一天照太神宮を大日如来といひわるひは呉泰伯と
附
いふ説附神璽の説
一補天鏡尊月殿に在して鏡をつくる説
一二賀茂皇太神は造化の雷といひ或は出雲路の女法
生類子と云説
補三輪神の説
補木花開邪姫無戸室に入て焼給はさる説
新豊玉姫産期に龍になり給ふ説
巻二神祇
一八幡に菩薩号ある説附弘法大師たがひの御影の
一説并八流の幡くたる説
二祇園牛頭天王は天竺の神と云説訂補
三春日大明神仏をつくり給ふ説
四住吉大明神白楽天青苔白雲の詩歌の説
五東寺の門前にて稲を荷へる老人を稲荷大明神
とあかむる説訂補
六山王権現比叡山に出現の説訂補
七出雲大社に毎年十月諸神あつまり給ふ説
八鹿嶋大明神かなめ石の説
新鹿嶋の社神軍の説附神前の説
一新阿蘇大神は観音といひあるひは和修吉龍わと
いふ説
巻三神祇
一熱田大明神楊貴妃と成て唐朝を乱し給ふ説
附
蓬莱の説訂補
二熊野の神天竺より飛来り給ふ説訂補
補渡唐の天神の説
三愛宕神は日羅を祀り本地は勝軍地蔵といふ
説訂補
一四金峯山の神は金剛蔵王よみいひあるひは安閑帝
の霊を祀るといふ説
五冨士浅間神は赫夜姫を祀ると云説附冨士山
孝霊帝の御宇に現する説訂輔
一六粟嶋大明神は女体なる故に婦人の病を
守給ふと云説訂補
新蟻通明神の説
一新笠嶋道祖神藤原実方を蹴殺す実方雀と
なる説訂補
七大隅正八幡は天竺陳大王か孫と云説
一新松浦大明神は藤原廣継を祀ると云わるひは
松浦佐用姫を祀ると云説訂補
一八厳嶋竹生嶋江島の神は弁財天といふ説明三神
を辰狐わか女といふ説訂補
補速吸日女神の説
九大黒夷子の像の説訂輔
巻四神祇雑著
補神明天にのほり地にくたり給ふ説
一補神は正直の頭にやとり給ふ説
神明鳥となり蛇となり蛇となり空中をかた
ちをあらはし給ふ説
一続神体をまうく類説
補神をかみと訓するはかゝみの中略と云説
讀神代文字の説
補神代に草木言語説
補神書に怪しきことある説
一續三社記宣の説
同人平生丸力と云託宣の説
一同六根清浄祓の説
補神道を学ふときは不思議ある説
神社の縁起の説
補神明儒士を守り給はさる説
續氏神氏子の説
一補宮社の祭礼の説
一続放生会の説
一同神事に獣を食するを忌説訂補
補三宝荒神の説
續軍神三天の説訂補
同医神薬師仏の説訂補
同箭大臣の説
□□□□□□□□□
同神門の二王の説
同神前の狗の説
同諸神の使者の説
同宮廻りの説
同鳥居華表の説訂補
補拍手の説
あまのさか手の説
浦木綿糸綿糸綿糸糸糸綿糸糸糸綿糸綿糸綿糸綿糸綿糸綿糸綿木綿
一続日待月待庚申待の説
補祈祷の説
續禁呪の説
巻五天子
一新垂仁天皇御宇八つの日輪出しを射さしめ給説
一同景行天皇に栗樹たゝりをなす説
補応神天皇三年三月にて御誕生の説
一同帝尾籠と勅ありし説
新継体天皇花筐の説
二用明天皇豊後国真野長者か牧童と成給ふ説
同同月四日長谷允忰巻之司録
一新崇峻天皇は釈迦仏の化身と云説
補天智天皇陵赤の御贄の説
三同帝山科に行幸あつて登天し給ふ説
巻六天子
一天武天皇逆臣大友皇子を誅して即位の説
一新同帝の御宇団栖の奏はしまる説附同帝に
二万里より兵をたてまつる説
二聖武天皇は聖主といふ説
補同帝舎利を太神宮に献し給ふ説
三桓武天皇は賢主と云説
四清和天皇相撲の勝負によつて即位の説
五延喜天暦の聖代と云説
新延喜帝寒夜に御衣をぬきて民の苦を知給ふ
説附同帝地獄に堕給ふ説
六花山院后あらそひの説訂輔
一新安徳天皇は八俣大蛇か化身にて宝剱をとりかへ
す説
巻七皇子后妃
長笹谷光梓兵之司泉
新日本武尊吾妻とのたまふ説附草薙剣の説
補宇治稚郎子百済の表を踏給ふ説
一新早良太子蒙古人と戦ひ給ふ説附菖蒲冑の説
一神切皇后乾珠満珠を龍色に似て新羅を従へ
弓弭にて新羅王は日本の狗なりと岸石に書
つけ給ふ説
一補雄略帝の后播授姫帝を諫給ふ説
二光明皇后浴室にをひて阿闍仏を拝し給ふ説
附皇后聖武帝に先たつて薨せらるゝ故帝
追善の為に東大寺を建立し給ふ説訂輔
一新井上皇后大蛇となる説
三南朝の准后廉子追出せられ給ふ説
巻八公卿
補道臣命は物部の祖にして武士をものゝぬと訓
するはしめと云説
一補厩戸皇子を八耳と称する説
守屋大臣を逆臣といふ説
一大織冠鎌足蜑女を頼みて寶珠を取返す説
廣隆谷悦悴奏之丁像
一二柿本人麻呂柳木より生する説
になかさるゝ説
三阿信仲麻呂鬼となつて吉備大臣に逢か説
一新菅丞桐天よりくたり給ふ説
一同軽大臣燈台鬼となる説
一補小野篁地獄の冥官となる説
巻九公卿
一田村利仁異国を征する時不動明王にうたるゝ
一説附田村利宗鈴鹿の鬼をうつ説訂補
二百合若大臣むくりこくり退治の説計画
三在原行平須摩浦に流され松風村多に逢説
一四在原業平卒去の年しれすあるひは昇天すと云談
五蝉丸は延喜帝第四の色にて盲目といふ説附四宮河
原あふ坂の説
六孫王経基禁庭にをいて鹿を射説
一補紀宝定冠を落して貫之とあらたむる説
平法盛雷におそるゝ説
補太政大臣師長入唐の沙汰の説
一新源実朝公暁に越せらるゝ説
巻十士庶
一浦島子蓬莱にいたり三百四十余年を経て帰る説
新藤原千方か説
同都良香仙となる説附羅生門鬼の説
二俵藤太秀卿三上。山の螺蚣を射る説附同人将門を
討説訂補
三藤原忠文将門追討の賞なきを恨て悪霊と
なる説
一新平維茂戸隠山の鬼をきる説
一四信太小太郎か説
五源頼光酒顛童子を討説附土蜘蛛の説に
補頼光家臣四天王一人武者の説
補渡邉綱相馬良門を討説附綱詠歌の説
新同人宇治橋姫宇多森鬼羅生門鬼を斬説
同公時は血気の勇士と云説訂補
巻十一士庶
新阿倍晴明は狐の子と云説所情明道満街くらへ
一売益発兌岸巻之司象
の説打補
一嵯明道満にころされ蘇生して道満を討説を
一條反橋の説
一二八幡太郎義家阿信貞任に虜となる説附松
浦黨の説訂補
補義家鳴強の説
補同人地獄に陸る説
新紀良負蛙の女にはけたるに逢説附鴬囀鷲牛
の歌の説
三鎌倉権五郎鳥海弥三郎に眼を射られ答の箭
を射返す説
一回鎮西八郎為朝龍宮にゆく説
補大庭景義御術自讃の説
新悪源太義平雷となつて難波六郎を害する説
一圃源ノ類政鶏を射て菖蒲前を賜る説
巻十二士庶
六十一源頼朝伏木の中に仏像をかくす説
一源義経天狗に剱術をまなひ或は六輪をよみて
一軽捷の術を得たる説附五条橋にて千人斬の説
補野口判官の説
編北條時政は法師時政か後身と云説
一二梶原景時土肥の杉山にて頼朝をたすくる説
三斎藤実盛を義勇の士といふ説
㊄景清三尾谷朝引の説附景清忠光盛嗣頼朝頼朝頼朝を
ねらふ説
一四景清摘となり牢を破り眼を扶説訂補
補主馬判官盛久か説
一五渋谷金王丸後に土佐坊と号する説
巻十三士庶
一新薩摩守忠度眼に短冊をつけし説
一同常陸房海尊仙となる説
一補仁田忠常富士の狩に野緒をとゝむる説附忠常
富士の人穴に入て地獄をめく類説
一朝比秦義秀は巴か子と云説附義秀曽我時致と
草摺引の説
補同義秀鬼か島にわたる説
一補最明寺時頼諸国を廻る説
補佐野源左衛門常世か説
補結城入道地獄に陸る説
一補嶋村弾正左衛門蟹となる説
新太田道潅辞世の歌の説
補松田左馬介忠義の説
二小栗判官兼氏か説訂補
一補日下左衛門芦苅の説
三飛弾内匠か説訂補
浦信濃国孝子か説
巻十四婦女
一日向髪長媛か説
一松浦佐用媛望夫石となる説
補藤原家持か女子母か命にかはる説
新小野小野小野小野小野小野小野小野
二同人鸚鵡がへしの歌の説附玉造小町の説
新紫式部樂天か香爐峯の詩の意にて簾をめく
類説
廣善光寺院巻之日限
補伊勢ノ太輔伊勢物語をつくる説
補補檜垣遊女は白拍子のはしまりと云説
新天女三保の松原にくだる説訂補
三玉藻前穀生石となる説
一回常盤ノ前青墓にてころさるゝ説
一五堀川夜討のとき静長刀にて敵をふせく説附
静形長刀の説
一六佐藤庄司か後家義経にあへる説
七花の本松たまきの説
巻十五僧道
一百済の僧日羅米朝の説
二片岡の飢人を達磨と云説
三行基菩薩を卵生と云説訂補
一新新羅僧道行劔を盗み殺さるゝ説
一四弘法大師験徳附守敏僧都の説訂補
五真雅阿闍梨在原業平を見て歌を詠する説
六柿本紀僧正霊染殿后を悩す説
一補元坊僧正還亡の相ある説
広谷観瓶静巻之甘線
七志賀寺上人京極の御息所に逢て歌をよむ説
八慧心僧都寂する時胸より蓮華を生せし説
一九西行法師普賢菩薩を拝する説
巻十六人物補遺公卿士庶婦女
一浦小野宮実明賢人とよはるゝ説
補大江匡房道理非道の船の船の説
補北條師時北條宗方か怨霊に害せらるゝ説
補太田道潅子息を悼める歌の説
補大内義隆方角を忌説
一浦小督局名言の説
補白拍子微妙孝行の説
一補讃岐局か悪霊北条政村か女子をなやます説
一棟棠花をもつて蓑なきをしめす女か説
巻十七近世
補近藤氏敵討の説
補篠井氏敵討の説
ある者他の罪を我身に負説
ある人従士の出奔せるを其子を遣して尋説
一広益作詩弁巻之巨録
名をおしみて母を殺す説
補ある人軍学者を評する説
一補塚原氏父か敵を討さる説
巻十八雑類地理
一補豊芦原中ツ国の説
新扶桑国の説
同君子国の説
一同若木国の説
同東海姫氏国の説訂補
同同日高児国の説訂輔
同常世国の説
浦速吸名門の説
一筑前箱崎の説
秋田城の説
一續陸奥壺碑の説
補信夫摺の説
補手譚池の説
續古井に毒ある説
一価益格辞巻之用表
広接名詞弁巻之目録
同塩井の説訂補
巻十九雑類人物官職
続十善帝位の説訂補
同朝臣の説
同尉の説
同上臈下臈の説
同被官の説
同雑色の説
同博士陰陽師の説
同長者の説
同百姓の説補姓氏之別訂補
同奏者の説
同大工の説
同猶子の説
同檀那の説
同牢人の説
同検校勾当の説
補鎌倉百官の説
一賃金谷乾筆乏し
広式作詩執巻之目録
文籍
菅音江音の説
器用
一再拝の説
音楽
績想夫恋の説
画図
續鐘馗像の説
歳時
浦
補七夕の説
巻二十雑類佛家
一続仏像を彩色する説
同石佛生行説訂補
一同仏像光を放ち言語説訂補
一同佛を石に尽院石に文字を書説訓補
同名山にをいて仏の出現を拝する説訂補
同佛舎利の説訂補
同百度参詣の説
一金谷兌梓長之事
広玄作訓冊巻之目録
同妙見菩薩の説訂補
一同古の僧には奇特ある説
補古の僧蚊を対する説
補古の僧石に尽説
續現在地獄の説訂補
一同地獄を夢類説
同住持といふ説
一同極重悪人といふ説
草木
木を伐てたゝりある説
畜獣
續馬角の説訂補
同牛黄の説
同物宝の説
魚蟲
一続くはず貝の説訂補
同しかう
同美益谷免岸巻之司録
廣都名慶者之目録
○俗説辨引用書目六百三十餘部
総計二百六十條
一十一
四十一
内
新補九十一條
訂補六十二條
合百五十三條
廣益俗説辨總目録終
蟠龍子井澤長秀先生輯録之書柳枝軒蔵板目録
三冊
七冊
五冊
○続俗記雑
○俗説弁
○続仏言彩
○俗説辨七冊○続俗呪辞三冊○新俗説辨五冊
〃
○広並俗説雑大全
前。廿一冊。後編五冊。遺編五冊。附編七冊。総三十八冊
附谷先生所撰之贅弁二編至四十三冊
○残編俗説辨八冊○終編俗説弁未刻○菊池佐々軍記十五
○武士訓
五冊附明君
家訓二冊
○広益武士訓
十二冊附朋君家訓二冊
後編五冊
◯神道天鎮予記二冊○大和女訓三冊○漢字和訓二冊
全部六十冊内和朝部前編十五冊出来
○今昔物語訂補
和朝部後編天竺震旦部未刻
○和書考未刻○和書読方同○鄙事記後編口
○歳今草未刻○月次記頭書同○経歴雑記同
同同二月一
未刻
○日本名字考に
○本朝武格同○日本君臣言行録
○日本勇子伝同
○日本勇子伝同○永禄天正日記同○漢字和訓後編
○西海紀談
○西海紀談同○日本五雑組同○日本博物志
○亭斎随筆同
○亭斎随筆日○斉筑紫日記頭書同○大和女訓追加日
○肥後名所記
○肥後名所記同○豊後略記同○厳嶋御普記願書同
○神道訓
一名神道弁
疑末期
○日本神社大成同○真澄鏡記
○八咫鏡記同○肥後阿蘇宮記同○○後速吸日女社記同
○武士訓後編五冊
六角通御幸町西へ入町南側
享保六孟春吉日
平安城柳枝軒茨城多左衛門印行
御書物附豊山香墨有数品
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
8237
一百二十一日
}
一〇一、〇、、、、、〇、〇〇〇、、〇〇
宿山
廣益俗説辨一、
神祇
広益俗説辨巻一目録
狩野氏図書記
神祇
神村長
豊蔵書
補天神七代の説
伊弉諾尊伊弉並尊天浮橋に立給ふ説
新伊弉諾伊弉並一女三男を生給ふ説附素盞嗚尊領
地をあらそひ給ふ説
補伊弉並尊黄泉にいたりなふ説
一天照太神宮を大日如来といひあるひは呉参伯といふ説明
神璽の説訂補
補天鏡尊月殿に在して鏡をつくる説
二賀茂皇太神は造化の雷といひ或出雲路の女の生るな
といふ説訂徳
補三輪神の説
一木花開耶姫無戸室に入て焼たまはざる説
新豊玉姫産期に龍になり給ふ説
廣益俗説辨一
肥後隈本蟠龍子井澤節長秀輯録
神祇
高天原根国底国
補天神七代の説
俗説。云天神七代とは過去七仏なり高天原とは天を云根国
底国にさまよふとあるは地獄に堕ることいふ
今按るに此説各非なりおよそ神は天地のこゝろ。人は天
か下の神物にして。其身に固有の一神おはします。則国
一常立尊の分神なり是レ高天ノ原に神留坐の心體なり。
爰を以。神人合一の理をわきまへ黒心なく。赤心をもつて
広益伯部親巻之一
大虚元理の聖神を勧請するときは自己固有の神明を
感得するなり是鏡に向ふに物として影をうつさずと
いふことなきにひとしく祈るにしたがつて感応あるの心
用なり鎮坐本記にも国常立尊虚而有レ霊一ノ霊一ヲ而無シ難
とあり虚霊無題は無形にして理あるをいふとのゆへに
一国常立尊を神道とす神道則国常立ノ尊なり度会延
経神ノ主ノ云ツ国常立ノ名書レ国而陽也為二皇帝祖一天御中主名
一言レ天ヲ而陰也道人臣祖一山崎垂加云。国常立ツ尊又號二御中主
尊一挙レ天ヲ以テ包レ地御は尊辞中は則天地之中主は則主
宰の倡尊は至貴の称およそ上下大小の神皆此尊の他
するところなり国狭槌尊豊斟浄尊は国常立尊を分て
なづけ奉る号なり泥土煮尊沙土煮尊大戸道尊大古逸尊
面足尊惶根尊は国常立国狭槌豊斟浄の三神を分て陰陽の
各無形
六神とす
なり
伊弉諾尊伊弉冉尊は造化気化の霊徳
無形と有
是二尊の号をもつて
を備へ給ふは
はじめに国土山海草木を生
頭とを云
造化をいふ無形なり
是二尊をかつて
次に諸神を生し給ふ
神明一にて二
有形とす
一は大極
二八両儀
二に
万物一大
して五伍五にて万繊葛にして一
無辺の体無窮の
極より出
用いたらざるところなし故に国常立尊をはなれて諸神ある
カタチヤツ
にあらず理をもつていへば有形といふべからす
形定に
物を以て
なきを云
いへば無形といふへからす幾か神明は天にあり人にあり神代
廣菴伯部耕老之一
久しき事にあらずなを今日の上にありて其身則神明と
同一体なれは正直の教を守り明徳を明らかにするときは
心裏の神舎忽ひらけて神明を拝し奉るなり此固有
の神明をしらずして一生を経るを根国底国にさまよふと
いふなり
補伊弉諾尊伊弉冉尊天浮橋に立給ふ説
俗説言伊弉諾尊伊弉冉高天浮橋に立給ふと云は虚空を
さしていへり
今按るに二神天の浮橋に立給ふといふことは人をもつていはず
理をもつていへり山崎垂加云二草天の浮橋の上に立微奴
盧嶋にいたり給ふと有は是天の陰陽和合の道をいふ二神かの
一嶋に隆居てより下は是人の男女和合の道をいへり或は
一未生をもつて己生をいひ或ば己生をもつて未生をいふ所謂
一明二天人唯一之理也とわきまへ知べし
新伊弉諾伊弉益一女三男を生給ふ説
あらそひ給ふ説
俗説ニ云伊弉諾尊伊弉並尊一女三男をうみ給ふ所謂日神月ノ
神蛭子素盞馬尊なりしかるに二尊国をば日ノ神天照太神に
ゆづり山をは月神月鏡尊にゆづらせ給ふ蛭子は三年まて足
たち給はざる故に天石潜梓船にのせて大海原にながし給ひしに
海をすくに領し給へり素盞鳥は領知なしとて御見達と不和
になり和州葛城の麓に千の剣をうゑもろ〳〵の邪神を相
具してたてこもり給ふ天照太神茶盞烏をうとみおぼしめして
天の岩戸にとちこりらせ給ひしかは世界たちま地にくらやみとな
れり八百万神達これをなけき岩戸の前に内侍所をかけて
七日の神楽をなし太神を出したり素盞馬のこもり給ひし城
におしよせ千の剱を蹴やふりしかば邪神とも蛍となり蝿となり
蛇となつて逃去ぬこれよりして千剱破といふことばはしまるといふ
一今按なに伊弉諾伊弉置一女三男を生給ふといへとも旧華紀
に二等の御子に稚日女尊といふあり日本紀秦疏に雅日女
尊は天照太神の妹也と記す其外刺過実智。天明玉。雅彦宣
事勝。國勝等の御子もあればあながち一女三男とはかぎる
まじきなり又蛭子三年まて足たち給ばさりし故流し
一すて給ふ事は第三巻美子の条下に記せり予思ふに多病に
して足たち給はさりしが三年を経て漸く病愈盛長あり
しことを曲言していへるならん博物志に水レ蛭経二三年ノ得二冷一
水一。活とある説にも比すべし今どの伊豆国蛭子嶋は往古蛭子の
住し給ひし事跡なりと垂加草に見えたり又素盞烏領
一地なしとて御兄達と不和になり邪神等をあつめ干の
剱をうゑて籠り給ふこれによつて天照太神天の磐戸に
聞こもゝせ給ふと云事相違せり神代ノ巻に素盞烏尊重播
子畔毀ち或は太神新嘗ときに新宮に敦属し又太神
一齋服殿にて御衣を織せ給ふとき天の斑駒をころして
投いれ給ふかゝる為行をいきごほり給ひ天石窟にいり磐
戸を閉て幽居ぬと有又内侍所の事此ときよりの号に
あらず江家次第に云内侍所ハ垂仁天皇世始御二御
禁秘鈔一
御ヲ作レ為
禁秘鈔ニ作ル百
河院ノ被仰付ヨ一
別殿一ニ御二温明殿一故院被レ仰云一
内ノ侍所ノ神鏡
禁秘鈔ニ作
昔飛出欲レ上レ天ニ女官懸二唐衣一
一レ魅唐衣神ヲ一
奉二引留一依二此
因縁一女官所二
禁秘鈔
一守護一とあり内侍所と号するの始
所作レ奉ニ
なり又絹神素盞烏のこもり給ひし城によせて千の
剱を蹴破りしかは邪神とも蛍となり蝿となり蛇となつ
て逃さるそれより千剱破と云ことは始と云事非なり
一日本紀旧事紀に高皇彦霊尊皇孫天津彦々火瓊々杵一
鳥を立て芦原中ノ国の主とせんとおほしけるに彼国多に
或は道速
一同蛍火光神及蝿聲邪神残滅失
暴様悪神ども有
振とも云
この故に武甕槌命
古語拾遺云是レ魔速日神之子
按今ニ常陸国鹿島ノ神是なり
経津主神
古言
拾遺
云是岩筒女神子按今
門をつかはしてもろ〳〵の不順鬼神を誅伏と
下総国香取神是なり
あり是等の説をあやまり伝へたるものなり
伊弉並尊黄泉にいたり給ふ説
俗説云伊弉並尊かんさりましけるとき伊弉諾尊跡をしたひ
同同同同同同同同
黄泉にいたりて見給へはかたちもとのごとくにしてあひ給へり
一人死して中有にあるとひとし
一今拠るに大に非なり黄泉は仏氏の所謂中有にはあら
豊秋津
一す神代ノ巻ニ云伊弉諾尊追二伊弉冉尊ヲ一入二於黄泉一皇鳳
島国郡
一と定記によみとの
くにと訓せり
神代口決ニ云入ルト於黄泉ニ一者殯歛之所。黄土泉
原也。孟子ノ曰ノ夫蚓上ニ食二橋壌一下モ飲二黄泉ヲ一註云ク黄泉
濁水也。史記ノ註云ク天ト玄地ノ黄。泉在二地中一。故言二黄泉一
一とあるを考知へし又伊弉諾尊伊弉藍尊にあひ
給やうに記したるは祭義云祭之日入室俊然咄有
児二乎其位一周還一周還ノ出ス戸トヲ粛然ク必有レ聞ク其容聲一出レレレ戸而穏儀
然ヲ必ク必ス有リ聞二ヲ乎其ノ歎息之声一とあるに比して見るべし
但し二尊の御事を人倫になぞらへて
東家秘伝ニ云陽神が居二上
議せること右のごとし伝授の子細あり
方一ニ主レ天陰神ハ居一テ下方ニ鎮レ地ヲ伊弉諾ノ尊諾メ尊ハ神功己了還一
一高天原一伊弉並ノ尊為二火神一ノ所レ焼留二地底一其義実炳一
一焉と見へたりこゝろをつけて工夫すへし
一天照太神宮を大日如来と云或は呉泰伯と云説并神堂
の説
俗説云むかし此国いまだならざるとき大海の上に大日の印文
あり天照太神天の努鋒をもつてかきさぐり給ふにそのしたゝり
露のことし第六天の魔王これをみて此滴国とならは仏法
流布して人生死を出べしと憤りしかは太神魔王に謂てのたま
はく我三宝をちかづくまじ其名をも称せじと有しかは魔王よ
ろこびて国をゆづり手に血をぬりておしつけ世々のしなしとす神
盛これなり又云ク天照太神は本地大日如来なり此故に大日本
国といふ又云天照太神は呉泰伯なりとこの故に野馬房侍に
東海姫氏国と賦せり太神を女影といふも姫氏をあやまれる
ものなり
今按るに鐘をもつて大海をさぐり給ふは天照太神に
あらず神代巻云伊弉諾尊伊弉冉尊立二於天浮橋之
上其計曰底下豈レ無レ圃歟迺以二天之瓊矛一指下而
探之是獲二滄溟一其弟鉾滴瀝ノ之潮凝成二一ノ嶋名之
一同二礙馭盧島一とあり天照太神は図土すてに成て後うま
れ給へり一日本紀ニ云伊弉諾尊伊弉諾尊伊弉諾尊共義曰
吾巳生二大八洲國及山川草木一何不レ生二天下主一者欲
於是其生二日神號大日霊貴賤聖
子之尊號
女神なることを知べししかれども日神と申し奉るは君たるを以
てなり釈日本紀云日ハ是陽精月ハ是陰精幼君ヲ為日以臣ヲ為レ月以後
謂二日神一為レ陽謂一
月神一為陰ト
山崎亀加ノ云生ス大八洲山川草木一之二尊是天之
陰陽造化之神也生二日神及日神及ル諸子一之二尊ハ是レ人之
男女気化之神也二尊在二天神ノ之終一生二地神ノ之始
與天地ノ之神也天神国常立尊地神天照太神天
同三月一日午巻之一
右見干希コレ
地交互而號之者也
加社語
右見下無
是等をもつて考知へし
加社語
又神璽は魔王か手形にあらず神代巻云天照太神乃賜二
天津彦々火瓊々杵尊八坂瓊曲玉及八咫鏡草薙剱三
種宝物一ツとあり八坂瓊曲玉は神釜なり事文類聚に璽
玉者印也瑞邪代酔編に天子獨双レク印称レ璽又獨以レ玉
神室の事詳に天子部
とあるときは神璽は神印なるべし
安徳天皇の条下にしる
せりあはせ見るへし猶
伝授の子細有略ス
禁秘抄にも神璽ノ筥中鏡程物動返
返不レ可レフレク見へたり又天照太神を大日如来といふ事大に
非なり太神の神德光二被四表格二干上下下一一爰をもつて
大日霊貴と称し奉れり倭姫世紀鎮座伝紀宝華
本紀に載神託に曰屏二仏法ノ息延喜式に内外七言の忌
詞あり禁秘抄に内侍所に僧尼の贈物を献せず殊に神
一事六種の忌の中に不レ領二穢悪ニ穢惣悪穢一悪一一とあり今
にいたるまて二ヶ所太神宮に僧尼の入ルことを得ざるをもつて其
誤を知べし又大日本国は大日の国なる故にあらす元々集
云今ト所以テ以テ総合二八例名大日本一者由二テ大日霊貴隆霊
故自有リ二此名闢日本紀纂疏ニ云陰陽ノ二神始生二日
神一一故ニ以二テ日本ヲ一為レ名ト類聚神祇本源ニ云大日本国ハ者
大八洲也惟大日霊ノ資治国故也と見へたり山崎
垂加の云俗説に天照太神は泰伯にて三譲の額突蔵
十四十十日午巻之一
一に納めあり此故に野馬台詩に東海姫氏国と見へたり一
一太神を女體といふも姫氏をあやまつてなりといへり予
予按
るに
東海一幅
日本史を作り
集作者
此説古来よりあやまり来る事久し釈ノ国月といふ者其
て朝に献す其書に泰伯をもつて始祖とすこの故に儀ありておこなはれすと
いふ事詳に焦了子か記せる史記抄の跋に見えたり
一円月は建武年中の人蕉了子は文明年中の人なり
しかれ共旧事紀占
事起日本紀に此説に似たる事もなし浜成の天書広
成の古語拾遺。倭姫世紀。鎮座伝記。本記。次第記。宝
基本記。神名秘書。類聚本源。元々集などにもかつて
見へず宝蔵に額ある事は度会氏荒木田氏の知さる
事なり野馬台の詩は俗間に伝ふなばかりにて書籍には
載す梁の宝誌和尚か識文なりといへども誌か伝に。なく
釈伝の中にも見へす縦令宝誌つゝりぬるとも異僧の
ことは撚とするにたらんや神皇正統記に異朝の書の中に
日本は呉の泰伯後なりと云とかへす〴〵あたらぬ事なり
といへり思ふにからの人我国の書をしらずひとへに商舶僧
侶の口にまかせ年代をたかへ事実を失ふのみ多し我国の
一人も国史に瞽きは姫氏間の言を信じて泰伯を誣つけ仏
者は大日霊の名を以て大日を附会す是皆周礼造言の刑
一をおかし国神正直の教にそむく実に神聖の罪人なり食
筆録垂
加草
西峯松下見林云天地開闢のはじめより我国有て
一大日本豊秋津洲と号し我君の子世々統を伝ふ所謂一
一無各脱岸巻之一
天照太神の神孫なり呉は泰伯よりはじまる世の相
おくれたる事数千載日本なんぞ泰伯の後ならんや史記
呉の世家を按るに太伯卒して子なし弟仲薙立後十七
一世夫差越の勾践か為に滅さる此とき我朝孝昭天皇三
年にあたる夫差より前に呉日本に通ぜず異式の人
我国に来て臣民となる者あり其氏族を蕃別といふ
蕃別種類甚だ多し其中に松野氏あり新撰姓氏録云
松野は呉王夫差の後なりと是呉人我朝に来るの始めなり
一日本紀に橘は応神天皇三十三年春二月阿智使主都
一賀使主を呉に違し縫工女を求しむ二使者高麗に
わたり呉にいたらんとするに道路をしらず道を知者を
高麗に乞高麗の王すなはち久礼波久礼志二人を添
て郷導とすこれによつて呉に通する事を得たり
是我朝より呉に
通するの始なり
二十二社註式云
呉王工女兄媛弟媛呉織穴織
宇礼姫師呉非城
四人
一今呉服といふ
を何たふ
おこりなり
大織冠鎌足執レ政のとき百漢の禅尼
法明が事。東京
法明対馬に来ツて呉音に維摩経を誦す
随筆に詳なり
よふ
漢音呉音の事
つて呉青を対馬読といふ呉青の源起なり
雑類部におせり
然れども泰伯を天照太神といへる事いづれの書にも見えず
日本記纂疏一條舜良公の説に類書を考るに姫は婦
人の美称とあれは思ふに天照太神は始祖の陰霊神功皇一
日本文化倅巻之
一后は中興の女主なる故に国俗姫氏国と称するにや只
字によつて義によらざると記せり
木伝
異称日
是等をもつて
此段
俗説のあやまりを考へしるべし新
打補
補天鏡尊月殿に在して鏡を作る説
俗説云むかし天鏡ノ尊月殿に住して神鏡をつくり給ふ仏
経に月色殿の内にもろ〳〵の人ありて住すること下界の
ごとしとあるにひとし
今按るに月殿と号せしは禁裏を雲上といふにひとし
しかるを雲霧の上に住するやうに思へるはつたなし
一類聚神祇本源鎮座編云ク此時神明之道明而天
文地理以テ自存者也故鏡作神名號二天鏡神一註云ノ
月殿ノ言二鋳レ鏡之室一考ヘルへし
二賀茂皇太神は造化の雷をまつるといひ或は出雲路
女一女供産る子と云説
俗説言賀茂の社は造化の雷神をまつるといふ一説には出
秦の
にめる子なりといふ
雲路の女
事あまねく人のしれる故に
氏女
こゝに略す
今按るに賀茂皇太神は造化の雷神にあらす又出雲路
の女の子にあらず山崎垂加木朝社語。云上宮は僅々杵
神武
〽にして下上ともに伊勢と同し
一万宮は磐余彦尊
帝
く斎院をたつ上は別雷皇太神と称し下は御祖皇
同同番笹谷肥巻之一
太神と称す賀茂の号これを皇孫の歌詞にとれり古
歌に天降る別雷の神代とよめるは瓊々杵尊の天の八
重雲を稜威の道別に道別て筑紫日向髪の高千穂
の嶺に降臨師ありしより皇孫万世まて練さることを祝す
のみ知さる者これを造化の雷神といふ更に天神唯一の秘
決あり賀茂皇太神宮祭記云千早振神代のむかし
天の八重雲をおしわけて日向の回襲の高千穂の峯に
あまくだらせ給ひ色柱太敷たてゝ久しうぞとゞまります
それより大和の国かづらきの峯にやとり給ひて是より山城
の岡田の賀茂に遷坐し給ふ(雍州府志云[ク]瓊々杵
尊始降二臨斯国一故是為二地神之地神之始奉レ勧二諸上賀茂一
愛宕郡にあり廿二社木縁云賀茂当国一宮城
是為二山城ノ国一宮一
一江入楚云賀茂太神は山城国の地主にておはします
大江匡房卿の記に云賀茂神は
本朝改元考ニ云ク神武天皇領二座下シ
一日本国の地主の神なり
賀茂宮一ニ○雍州府志云ク下賀茂ノ社ヲ称二御祖神ト奉レ祭二
玉依姫是神武帝御母也賀茂皇太神宮祭記ニ云フ
嵯峨
一平城帝御謀叛ありしとき帝
むかし神武天皇長艶
天皇十
彦を征伐有し例をおぼしめし出させ給ひ賀茂皇太神に
勅使をたてられ御いのりありねがはくは官軍に力を添か
れ天下無異に帰せしめ給へ然らは皇女をたてまつりて
御宮つく申さすへしと勅願ありと見えたり白井宗
一巻谷光悴巻之一
因云千早振別雷山に住宮之氏天くだること神代よりさき一
按るに此歌御神詠
といふ注進畧記に出ツ
国とあるときは別雷山とは賀茂の山の名
なり山の名によつて神号とするのみもし俗説の
ごとく雷神をまつるにおひてはなんぞ天子内親王を以て
一斎院になし震翰を染られ皇大神といふ神号を下し
たまはんやおよぞ皇太神と称するは伊勢二所の宗廟
山州賀茂の外其例をきかず中ころ度会の山田に坐す
太神宮
外宮回
常立尊
にさへ宇治の神主皇字はいかゞ有へきといひ
しかど外色の神主神尊の尋常におはしまさぬよしを
しるして奏しけるに天気ぜにもと叡慮有し故に
永仁四年二月の事なり此書を
相ならべて称し奉れるなり。
天照大神
皇ノ字沙汰文と号して今に有
の託宣に我をまつらん者はまづ豊受太神を祭れと有
ける神にさへ皇の一字を論ぜしためしもあればいかてか雷
神のたぐひにくわへ侍らんや天皇の始祖にあらぬ神に
は皇の字をゆるし給はぬ事詳に太神宮皇字沙汰文に見へ
たりことに舎人王の日本紀を修し給へるにも神代上巻は
伊勢二宮の深意を記し下巻は賀茂下上の本縁を
私説
述たりといへは
此他に異なる神宮誰か尊敬せさらんや
啓蒙
補三輪神の説
此段訂補
俗説云三輪ノ神は天竺霊鷲山の鎮守金毘羅神なり唐土
旧益谷悦僻巻之一
にては摩多羅神といふ素盞鳥尊なり新羅国より日本に
飛来り給ふといふ
今按るに右の説非なり三輪の神は素盞烏尊にあらず
或眉輪大和太神とも
大巳貴命なり大和の国三輪ノ山
記す又は三諸山共云
に鎮坐ある故
に三輪ノ大神とまうす姓氏録云大国主神け
大巳貴
命別名
娶三嶋
溝杭耳之女玉櫛姫二夜未レ曙去不曽晝到於是玉
一櫛姫績苧係衣至レ明随レ苧尋覓経二於茅陶邑一
直指二大和国御諸山一ヲ逐視二苧遺一唯有二三紫一〇度会
廷経神主ノ云三輪ハ水曲ノ之名三與レ水訓通又以言
通取二義三傑一為二西北方一西北ノ隅東北ノ隅ノ北方ノ水旺
万物始一自レ水来年之発無レ不レ本二於此一第停県和泉
国在西御諸山ハ大和国在東績苧譬年穀生成之
一理一苧遺唯有二三栄一者ハ北冬農事巳終一年之遺
余也以レ国作レ神配二北陰一
詳には三輪考
に見えたり
とあるをもつて三
輪神と称することを知へし又新羅国摩多羅神天竺見
比羅神の後は神代巻に素盞烏尊帥二其子五十猛
神一降到二於新羅図一居二曽尸茂黎之処一乃興言曰ク此
一地吾不レ欲レ居遂以二埴土一作レ舟乗之東渡二出雲国船
川上所在鳥上之峯とあるを抜として附会したる
ものならし
同同同同三十一同
木花開耶姫無戸室に入て焼たまはさる説
俗説云木花開耶姫無戸室に入火をつれしかどもやせたま
はすとあるはあやしき事なり
今按るに開な姫の無戸室に入てやけたまはずといふは
其理あり慶会ノ延経神主云云ク開耶姫は木霊也無戸室ニ
言レ土放レ火ヲ焼レ室陽気至二土中一也生二三子ヲ一言二三季一生二
四子一ヲ一言二ク四季一皆造化也神代ノ巻に載ところかゝのことき
の形容おほし古語にも米人理以誠不言ときは幻斎
一に帰すといへり深理をきはめずして文義について談す
ることなかれ
新
豊玉姫は絶王の子なる故に産期に艶のかたちを現し
給ふ説
俗説云彦火々出見尊龍宮にいたり難わの女豊玉姫を娶り
給ふ其後姫産期に龍のかたちをあらはす是艶女なる故なり
一今按るに慶会延佳神主の説に神代巻に海色とはあれ共
一龍宮とはいはず海宮は海底にはあらで一嶋をさすにや其
ゆへは火は出見鳥の御うたにおきつどりかもつゝ島に
わがいねしいもはわすらじよのこと〴〵もとあるときは
海底をいふにはあらじ神哥は太古一定の言にして
一字を変じがたし故に其実をいふ記文は撰者の語なれば
同同同所同同同同同
豊玉姫は一嶋の主の女子なりといふ事を曲言して
水底のさまをいふなるへしとあり予按るに日木
一紀旧事紀古事記等に随土老翁来つて無目賢間
小船
一日本紀纂疏云堅簡小
一小をつくり火々出見尊をのせてい
一船者籠之形如レ船ノ
はく我此船をおしながさばやゝしばらくゆき給へ味御
路あらん其道のまゝにいたり給はゞ魚鰭のごとくつくれる
宮室あるべしそれ綿津児神の宮なりとをしゆすの
一船に乗海神の居嶋にわたり給ふよし見へたり
諸説ま
ち〳〵なり
といふとも此説
正とすべし
又海神は龍神にあらず神代ノ巻に伊弉諾
古事記ニテ生活
一尊伊弉冉尊生二海神一等とあるは是なり此
神一名大綿津見
神○姓氏縁立海犬養ハ海神神神綿積命之後や○又云安豊宿祢海ノ神シ
錦積壱玉彦神ノ子積尊見命之後や又云凡後ノ進ハ同神ノ男ノ男ノ男ノ後也
色芹
口決にも海神は天神より海をあづけ給ふ人なりと見へたり
孟子に孫叔教挙二於海とあるは海辺に住せる人なりしこと
をいふ其ことく海神も海を預りたる人なる故に海神と
いふなり炎玉姫は海をあづかりし神の女子なり艶となり
給ふべき子細なし然れとも産期に龍となり給ふといへるは
其くるしみにたへず常をわすれてはひもこよひ給ふ体を
豊玉姫を龍といへるは人を八咫烏の
曲言せるのみ
戦国策ニ云蘓秦嫂蛇行
無名難なとゝいふに比して見るへし
匍伏史記蘇泰伝。云嫂委蛇蒲眼索隠云ク委蛇謂二
神代口決云
面掩地而進若蛇行也蒲服即匍匐一
とある
一同二十二年
金金八合片金之二
○二
たぐひなりすべて神書所レ載怪異に似たる事あれとあ
るひは己生未生有形無頼の伝あり専天をいふものあり守人
を語るものあり人をもつて天を談し天をもつて人を談す
一従来天人唯一の理其旨至て深し漫りに議すること
なかれ
廣益俗説辨一終
廣益俗説辨二
神祇
第
狩
176
46冊
廣益俗説辨巻二目録
神祇
狩野氏図書記
神村長
豊言
一八幡に菩薩号ある説付弘法大師たがひの御影の説帝八
流れの幡くたる説
二祇園牛頭天王は天竺の神と云説
三春日大明神仏をつくり給ふ説
四住吉大明神自楽天音芦白雲の詩歌の説
五東寺の門前にて稲を荷へる老人を稲荷とあがむる説詞
六山王権現比叡山に出現の説訂輔
七出雲大社に毎年十月諸神あつまり給ふ説
同同同同断所番之二目
八鹿嶋大明神かなめ石の説訂輔
新鹿嶋社神軍の説附神箭の説所補
新阿蘇大神は観音といひ或は和修吉艶王と云説
広益俗説辨巻二
広益俗説辨巻二井沢長秀輯録
神祇
一八幡に菩薩号ある説付弘法大師と互の御影の説
一并八流の幡下る説
俗説云応神天皇位を太子に譲り給ふのゝち筑紫にくたり
仏道に帰依し崩御のゝち託して僧とならん事をねかひ
給ふ桓武帝の御宇勝尾寺の開成法師に託宣あるによつて
一説には釈
菩薩号を贈らる是本地弥陀如来なる故なり
迦如来と云
一説
に八幡大神弘法大師と対面有てたがひに其かたちをうつさる是
をたかひの御影と名つくといふ一説には恋神帝崩御の後
託宣あつて赤白の幡八なかれくだるこれによつて八幡宮と号
すといふ
一今按るに右の説各非なり応神帝の御宇には阿直役
王仁等の博士とも来りて儒教はじめて我朝に行はる
仏法の事はかつて聞もおよばず此御宇より数百年を
一経て欽明帝の御宇に百條より仏像経論を贈りはじ
めて此教あることを世にも知ぬ又八幡大神に菩薩号を
おくられし事桓武帝の御宇なりといふはさもあらんか此
一帝甚だ仏法を尊信し給ふ故菩薩号を贈り給ひし
にやしかれとも正史には見へ侍らす浮屠氏の説に八幡は
或ハ釈
垂迹弥陀は本地に
迦は本地
忠久遠実成の佛ヶは本地天地開闢の
神は垂迹天地未分の神は本地成道未分の佛は垂迹な
と智巧剥窃つくさすといふ術なし惣して本地垂迹といふは
なき事なれともしはらく応神帝は本地にて八幡大神は
垂迹といはく義におひて害なからんか我日城の神と竺土の
鬼を混して同一躰とするにいたつては神明にそむき道理に
たがふ其罪なんぞあさからんや又八幡弘法たがひの御影の
事非なり力石忠一云。八幡弘法年代懸隔せり然其或は夢に
示現し或は幻に影を見て皆神秘仏力なといへるは浮
屠氏の例なり又八ながれの幡下ること或人の説に惜は
同島益保親巻之二
人工をまちて後に成物なり雨雹霜雪のごとく天より
降れるものにはあらずといへり思ふに八幡本紀に応神帝
御誕生の時八流の幡を立て軍士をして非常をいましめ
られし故に諱を八幡麿とまうすと記せるそ誠成へき
此段訂補
二祇園牛頭天王は天竺の神といふ説
俗説云北天竺吉祥天の王舎城の王を商貴帝と号す三界に
遊て諸星に探題たり天刑星となづく娑婆界にくだつて
牛頭天王といふ是毘盧舎那の化身也かたちは人間に類すと
いへども頭は犢の角をいたゞき夜叉のごとしこれをまつりて
祇園社と称す
今按るに日本紀纂疏云山城国祇園神社則進雄神
之化迹
補神祇式云山城国愛宕郡八坂卿祇園社三座諸社根元記ニ云中間大政
所牛頭天王素盞烏尊ノ垂迹○東ノ間八王子五男三女英四間稲田姫本御前
公事根源備後風土記神代直指鈔を考るに表盞
鳥を牛頭天王といひ武塔神とも云垂加社語云ク祇園社
を牛頭天王といひ扁して感神院といふことゆへあり艮下先
上は咸なり艮は少男素盞烏尊允は少女稲田姫に比す咸
は感にして夫婦の道なり威の卦上は両角五四三は身二初
は心足なりこの故にしかいふとあり此義をもつて俗説の
誤を知へし小補
三春日大明神佛を作り給ふ説
青森谷県降辰之二
庸益伯謝弁巻之二
俗説云春日大明神きざみ給ふ仏とてところ〳〵にあり世に
これを春日の神作とよぶ
今按るに鎌倉志に云く春日とは仏師の名なり仏
像のみにあらす楽の仮面にも春日か作数多あり旧記に
稽文会稽主勲は河内ノ国春日部邑の人なり兄弟ともに
仏師なり
一説には父
子とあり
及これを春日か作といふなり浮屠附会の
説に春日大明神の作といひて世人をまどはせり信用す
べからす。これのみにあらす鞍工大坪道禅か弟子鹿島と
いふ者ある故に鹿島大明神鞍を作れりと
黒川道
祐説
あやまり
つたふ笑ふ笑ふへし
四住吉大明神白楽天青苔白雲の詩歌の説
俗説云唐の白楽天日本の人の智恵をはからんとて渡りけ
類に住吉大明神老翁と現じ釣をたれておはしければ楽て
船をよせて青芋佩衣懸二巌有一白雲似帯廻二山ノ腰一と詠
しけるに老翁寺をもつて和していはくこけ衣きたる
いはほはさもあらできぬ若如山の常をするかなと有しかは
楽天おどろきていやしき漁翁だにかゝあれば中〳〵日本の
者には及ぶまじといひてすぐに漕かへりしといふ
一今按るに白氏文集に此詩及楽天か東行の事なし本朝
の正史実録諸神書にも見へす但し江談抄に白雲仍
同廣谷谷岸港之二
一帯図二山腰一青苔如レ衣員二厳背一こけごろもきたるいは
ほはまひろ気む衣着ぬ山の帯するはなそと有て
一都在中か作と起せり思ふに好事の者此詩歌を所々あら
ためて住吉楽天の贈答とするならん
五東寺の門前にて稲を荷へる老人を稲荷と崇る説
俗説云空海東寺の門前にて老人の稲を荷へるにあひ備来
の旨あつてこれを祭りて東寺の鎮守所みす稲をになへる
故に稲荷大明神と号す
今按るに非なり諸神記云元明天皇和同四年二月
九日倉稲魂神始現于伊奈利山一地主神則荷田
明神也其地祝レ之故號稲荷大明神一
和漢合運云和同四年
一稲荷神現○公事根
源集釈云和同五年二月十一日戊午初現ス于伊祭利三箇ノ峯ニ○神祇給
辺六稲荷は此山の地主神荷田神と号ス此処三倉稲魂神ヲ祀ユヘミ桑
卜定記ニ云辰巳乃方仁當天倉稲魂一
豊葦原
阿和
垂跡
夫此神和百穀衣播玉故イ名率神代乃昔興利
此峯仁向玉母不知只三峯仁顯玉之和人皇十
三代元明天皇和銅四年辛亥二月十一同仁垂
跡才誡仁諸人哀憐乃御心深久蒼生作伊勢初神
乃片葉未天万乃災於禳玉○神名帳云山城国紀
伊郡稲荷神社三坐神祇拾遺。云宇賀御魂中伊
弉諾尊上伊弉並尊下専女三狐ノ由縁ニヨツテ木
慶長谷先年辰之二
狐ヲ安置ス
鎮座傳記ニ云ツ宇賀美多麻神三狐神同座神也改名車女神類
聚神祇本源云専女三狐神新猿楽記云伊賀専女河海抄云伊賀伊
勢にては白狐をとうめ御前と云今稲荷の
神前に白狐をおくはこのいはれなり
日本紀云伊弉諾尊伊弉諾
チン
文別に宇賀御魂稲女あり景盛昌
並尊飢時生二児号二倉稲命一
尊の女なり限することなかれ
領
金
座伝記ニ云宇賀美多麻ノ神是伊弉諾伊弉冊二柱
一尊所レ生・神名畧記云屋舩豊宇氣姫命是。稲霊也
一俗謂宇賀美多麻神一廿二社註式云稲倉魂神一
右説各訂補ス旧文
名豊宇気姫命
ト考へ見ルヘシ
雍州府志云ク稲荷出現
和銅円
一作
㊄二
五二
年二月九日
一作
十二
也以長暦推レ之則其日
當二初午日ニ一今ニ不レ用二九日ヲ一而於二初午ノ目一ニ諸人参詣俗
謂二初午泰新撰六帖光俊朝臣の歌にきさらきやけふ
はつむまのしるしとていなりの杉のもとつ枝もなしと
あり真言伝弘法伝記に承和二年三月廿一日空海六十二
歳にて寂すとあれば年数をはかるに空海出生は稲荷
出現の和銅四年より六十余年後なり年歴の相違を
考知へし此段訂補
六山王権現比叡山に出現の説
俗説云山王権現はむかし伝教大師小比叡の峯におゐて三
先の日輪を見る釈迦弥陀薬師の像をあらはす傳敎其
名を問にこたへていはく竪の三点に横の一点を加へ横の
三点に竪の一点を添と云おはつて光をはなちて空にの
ほりされり伝教文字におきて見らるゝに竪の三点に横
の一点は山の字横の三点に竪の一点は王の字なりこれに
よつて山王権現と祝ふ此事を時の天子桓武帝に奏し
ければ帝叡鏡有て大師と御心をひとつにして堂塔伽藍
を筵立あり山号を比叡となづけ寺号を延暦と号せら
類此山をひらかくの初の地中に紅舌あつて経を誦し不仏
樹頭に光りをはなちて語を解し種々の奇瑞おほし聞説
そのかみ人歩二万歳のとき釈尊迦葉仏の記をうけて
都卒天に住し大海を見たまふに波の音梵音をとなへり歓
尊浪のとゝまる所にしたがひて日本に来り給ふ其後一帯の
海上にうかべるにとゝまた芦たちまち化して嶋となる
これを波止土濃といふ今の比叡山の下大宮権現垂迩の地
なりそのゝち人寿百歳のとき釈尊又天竺より豊芦原
の中の国にいたり給戯静草菖ふ合尊の世なり夜尊楽々浪
よする志賀の浦にいたつて魚をつれる翁にあふ秋馬の曰く
此所に法を弘むべしと有しに翁こたへて我久しく此地に
主たりわれ人寿六千歳のときより今にいたまて湖水
の七たび変して芦原となれるを見たり此所若仏法
流布の地とならは祇魚をつるところなからんとてゆるさ
ざりしかは釈尊かへらんとし給ふとき東方より薬師如
来きたりてわれ人歩二万歳のときより此地に主たり
老翁我有ことをしらず我この地を釈鳥に献すよろしく
仏法縁布の山となし給ふへし機縁時いたつて仏法東流
せは釈尊は教を伝ふる大師となつて此山を開闢したまへ
われはこの山の王となつて後五百歳の仏法を守るへし
と誓約し二仏東西にわかなさり給ふかくて千八百年を
経てのち秋高は伝敎大師となり薬師如来は山王と現し
かの翁は白髭の神となり給ふ
一林羅山翁ノ山王ノ弁云ノ周の霊王の太子喬。仏となつて
見干列
の上帝これを上帝これを上帝これ命して
天台山に入
仙伝ニ
桐栢真人右弼王といふ桐柏は天台の別称なり其廟を山
中に建て真君と須俗呼で山王の土地とす僧普明
大師諱ノ知題
天台に入て智者は
字徳安
の弟子となる講堂のせばき
をもつて改め造る建堂の日山王を感動し佛瀧より
麓にいたるまで其地大にふるふ又これ真君をさして山王と
す唐の詔州霊樹院の僧如敏地中に入又出ていはく
我。山王と旧ありと其外須弥山王等の号皆山神山二路一
山霊の異称なり竪の三点横の一点横の三點竪の一
涅槃経云如
一点はかの口の字の三点になぞらへ。
成レ伊ノ縦モ亦不レ成如二摩隘面
上三目一一
得成伊
これをもつて一念三千三千一念の意に擬す横三
同編編兌岸巻之二
竪川のたくひなり提婆品に所謂龍女成仏この経にお
いてもつとも要とす故に提婆の二字をわかつて提二波女の
三字とし妙法の二字をわかつて少女去水の四字とす
これ謎のたぐひにて附会の説なり又白髭の神は湖水の
一主にて湖水七たび変して蓋原となるを見るといふは
事文類聚
麻姑か東海三為二桑田一ト
同二十一日列化仕第四七
列仙伝に見ゆて
を見るといふ事を仮て
まうけたるのみ釈迦支那に来らすいはんや日本をや白
髭の神此地を仏にゆづるとは定光真人か天台を智志に
譲るの古事を牽合せるものなりかの山をひらくの
はじめ地をほるに紅舌あつて径を誦し木仏樹頭に光り
をはなちて語を解せしとは北斉武成帝のとき并州の
東山に経を誦するこゑありこれを見るにひとつの舌の
みあり彼徒のいはく法花を持するものは六根やぶれず
故に舌なをありと又五倭寺の僧雍州の僧常に経
并州の僧五俣
一を誦す花部骸骨みなくちて舌のみ存せり并も
寺の僧雍州の
僧が事法
按るに西樵野記
花珠林に出
と阿北北の事とするのみするのみ
にも唇舌のみ有
て華厳経を誦せしことをのせたり古と著聞集にも円言といふ僧か独
一藤紀伊国完省山にて吉残て法華経を読ことを記せり日本霊義記に
も此類の
事あり
又木仏霊ありといふとも木仏不レ渡火ヲ泥仏不レ渡
水衡決といふべし湖水すでに光あり山中また光なから
むや水のふかき山の幽なるおのつから精爽あり時として
光を発すなんぞあやしむるにたらんやと羅山文集
に見へたり
これによつて考るに朱子語類云岳陽の江上に光気あり
漁人其所におひて銅鐘一枚を網し得たり又あゑ所に光あり
これをほらしむるに銅印一頤あり又俗に仏燈といふものあり是おほくは宝
気腐草飛蟲のひかりなり蔡季通か説に廬山に光あり人をしてうたしむかに
ひとつの小虫出てはし岡又娥眉山に五更のはしめ白気ありて円光をあらはす
こと鏡のことし其中に佛ありかたはらに石あり水晶のことし日中にいたつて是を
てらせは円光あり思ふに山中に一物ほつて日はしめて出るとき其かけをてら
しぬれは人のかけを映して仏影のことゝに見ゆかのみとあり○宋名臣言行縁
に金詣裏公か舎利を論して鷹草皆先あり水精錬のまろき光ありなんそ異なり
とせんといへる確論といふへし補具原等信云陰湿の気あるものは皆夜光あり蛍光
も昼は光なし夜に入て光を生す海湖夜は光あり舊草も又夜ひかる音鷺の
羽夜光あり鯛の肉うろみ烏賊の内あたらしけれは夜ひかる蛸のねばうに夜気
あり黒猫の皆を夜なづれは光あり大和本草に
○按るに比叡山の号は桓
見へたり此外くさびらなどにも夜光あるものあり
武帝の御宇にはしまるにはあらず旧事本紀ニ云近淡海国
比叡山古事記云近淡海国日枝山
又作二
同吉
三十一社記
国大暦云
云日吉比叡と一轉語也
此工ノ
比江ノ
補諸神根元記ニ云平
比江ノ山
安の帝都は天上の名跡をあらはせる国なり艮にあ
たりて日得といふ山あり日の神の御光を諸神いのり
て日を得といふ意にて目得の山となづくと見えたれは此
号上古より有こと明なり祭る所の神は大己貴命の子大
山咋ノ神也旧事紀に大山咋ノ神坐二近淡海比叡山一にとあるは
これなり此地もと上古の徴紅盧島なる故天神
七代を祭るといふ日本紀墓疏にも黴馭盧嶋江州叡
山と見へたり山崎垂加ノ云日吉は大宮二宮八王子聖真
子客人十禅師三色七社ましますこれ天神七代を
鎮坐したてまつる七代は第一国常立尊次に国狭槌
尊次に豊斟淳尊次に泥土煮高沙土煮尊次に大戸之
道尊大古辺尊次に面足尊性根尊次に伊弉諾尊伊
弉冉尊なり国常立尊は天神を申奉る国狭槌尊
は水の神炎期滓尊は火の神泥土煮尊沙土煮尊は
木の神大戸之道尊大菩辺尊は金の神面足尊惶根尊
は土の神なり水火木金土は五行生ずるの次第なり
五行の神はもと一天神にてましますを其他其他に
随て尊号を奉るものなり水火の神をの〳〵一尊号
一を奉るは以て陰陽をわかつ所なり木金土の神各二
尊号をたてまつ雨は以て陽中の陰陰中の陽をわかつ
ところなり伊弉諾尊は陽神伊弉並尊は陰神此二
神は五行の秀気を得たまひ天神より璃才をさづかり
一黴馭盧嶋にくだりまし〳〵人の道をはじめ給ふ故にあはせ
て天神七代と申奉ると有又白髭神は神祇正宗に旅
一田彦命を祀ると記せり考さとすへし此段計補
七出雲大社に毎年十月諸神あつまり給ふ説
俗説云毎年十月日本国中の神祇出雲の大社にあつま
り給ふこの故に此月を諸国にては神無月といひ出雲に
ては神在月といふ
第十九章巻之二
今按るに此事神書正史にもかつて見えず出雲風土
一記にも拠なし予武江に住するとき出雲の人に会
してこれを問に神在ツ月の沙汰他国にては専いふこと
なれとも出雲にてはかつていはすたゞすべて神無月
といふと答へり貝原益軒云十月を神無月といへるは
一純陰の月なれば陽無月といへるこゝろなり陽をかみ
一と訓するは鬼は陰の霊なり神は陽の霊なり鬼神
を和語におにかみと訓す陰は奇おん和語におにと訓
す鬼なり銭をぜにと訓し紫苑をしおにと訓するが
ごとし陽はかみとよむ神なり此故にかみとは陽をさして
いへり神無月とは陽なき月なればなり聖人かへつて是
を陽月とのたまひしは純陰の月といへども陽いまだか
つてたへざることをしめさんが為なりといへり此説を以
て正とすべし
て正とすべし近年印行の一書云尼姫の諸里伝人に十月出雲の大
社に諸神あつまりて男女の縁をむすひ給ふといふは
偽なり思ふに此説は常陸国筑波山の神社常陸常隆帯の事をとりちかへたるものなり
常陸志を考るに常陸国の男女つねに鹿嶋の神をまつりて卜定の婚を
なす巫を媒とすその日に及んて室女等ふたるの苧常をうしらへひとろには
男の名を書ひと門には我名を書て神の前にそなふ此とき巫覡とも来りていつれ
にても帯を取てむすひて女どもにわたすにそのむすびあはせたる帯の名
おのが心にあひたる男なれは朝夕其命を肩にかれてさきの男のきがんことを
おもふ男その故をきけは情を通して夫婦となるなづけてひたちをひのうると
いふとありこれを俗に常陸帯の縁むすびと唱ふと馳せり此説をあやまり
て出雲の事
此段小補
とせるにや
八鹿嶋大明神要石の説
一番後今記梓巻二
俗説云日本を背に負たる大なまづありてうちかへさんと
を思ふといへとも鹿嶋大明神かなめ石をもつて首尾をつら
ぬき置る故につよくうごゝことあたはずたま〳〵石ゆるげる
ときに地震す此こゝろをよめるうたにゆるぐともよりや
ぬけじのかなめ石かしまの神のあらんかぎりは
今按なに非なり神祇正宗ニ云以レテ石ヲ作レ柱者石腐の
神社便覧ニ引之
補常陸国誌云
際尚神明在乃神誓也
一書石ノ御座トあり
要石ハ在二鹿嶋郡鹿嶋ノ神祠東高天原石ノ根入レ地ノ無入レ地ニ無入レ地ニ無入レ地ニ無
知二ル其大小一ヲ者二俗謂二扇柄釘一曰レ要是レ石ヲ要者土人
相伝フ有二テ大魚囲二繞日本一ク首尾會二於斯地一鹿嶋明神
釘二其ノ首尾一ニ以テ貫レ之不レ得二動揺一声。如二扇柄得レ釘而堅一
固一此石即釘也云ツ荒唐可レ笑と見へたり又地震は
銕の故にあらす伯陽南が説に天地之気不レ過二其序一若
過二其序一ヲ民乱レ之ヲ也陽伏而不レ能レハ出リ陰迫而不レ能ク升
於レ是有二地震一是陽失二其所一ノ所一ヲ而填レ陰。也とあり是等
を考へて俗説の相違を知へし此段文正旧文一ヲ
新鹿嶋社神軍の説附神箭の説
俗説云常陸国鹿嶋大明神外国の鬼とたゝかひ給ふこれを
神軍といふ又出羽国飯盛塚隆奥国鳥海といふ所にも神
軍といふ事ありて神箭とて鏃のことくなる石ふかといふ
十一冊金挽坪巻口
今按るに常陸ノ国誌ニ云ツ高天原在二鹿嶋郡鹿嶋ノ神祠
東一土人相傳テ云ク鹿嶋神常出一ヲ出テ此ノ野一與二外國ノ鬼一桐
以一群鹿一為ス二卒伍一明神獲レ利則群鹿競追レ風ノ直入一ル海
渚一明神不レハ得利則群庶垂レ耳直ニ入二民家一恠-誕不レ可
一レ信とあり俗説の誤を知へし思ふに武甕槌命礦
明神
鹿島大
天神の勅によつて蓋原の中が国にくだりもろ〳〵のふ
順邪神を誅伏れし事をあやまり伝へて今にある
やうに覚えたるものならん又神鏃の事は続日本後
紀に云承和六年出羽の国よりまうす八月廿九日田川郡ノ
一浜遠府の程五十余里もとより石なし去。十三日より
一雷雨甚たしく十餘日を経て晴天を見る時におちたる
石少からす鏃に似鋒に似或は白くあなひは赤しと有
三代実録に仁和元年六月廿一日出羽国秋田城中及飽
海郡神宮の西浜に石鏃をふらす又云く同二年二月出
羽国飽海郡諸神社の辺に石鍛をふらすとありおも
又号
石にしな〳〵あり所レ]謂宝石
井
松石桃花石徳石金牙石
見于本
一金剛石慈石砒石薑石
草綱目
見岳陽
墨石
風土記ニ
鴨石
見十一南海古蹟記
呉郡諸山録金
芋游
針一
見杜陽雑編林
米石
鏡石
水録呉中勝起
物異考
に見
陰陽石
括異志広
輿記ニ
麦飯石
石燕石蛇
見本
草一
石魚
見本草綱目
金臺記聞
石幣
見三才図会海様
余録桂海虞衡志
石蝦
石蘇石鼈其外ノ奇石あげてかぞへかたしかゝるたゝひも
馬長谷兄倅巻之二
あれは鉄に似たる石もあるへし但し天よりふるとは
一非なり砂中にあるところの石大雨のときあらひ出
したるものなるへし此段訂補
新阿蘇大神は観音といひ或は和修吉龍王といふ説
俗説云阿蘇大神は十一面観音なり又云千手観音なり
又云中天竺摩訶陀国ノ王舎城の商貴帝牛頭天王と云
龍色世界の頗梨採女を娶り八子をうむ其名を難陀。
跋難陀。沙伽羅。和修吉。徳刃迦。阿那婆多。摩那尸優鉢座。
といふ是八大龍王なり其内和修吉龍王は肥後国阿蘇大明
神なり又云阿蘇の煙は大明神一切衆生の罪にかはり
給ふほのほなりこれによつて明神のうたに一切衆生の罪
にかはりて立のぼるけふりそ神のすがたなりけり世の
中の人のこゝろのすぐならばわれは煙に燃まじものを
今按るに阿蘇大神は十一面観音千手観音にあらず
健磐龍命なり命は神武天皇の御孫にして神八井耳
命第五の子なり往昔神武天皇豊慈原中國を治め
一給ひ和州橿原に在せしとき健磐龍橿原より山城図
これによつて大神の苗裔
宇治にいたりて住し給ふは
神武七十六
大宮司姓を宇治と称す
年春二月癸卯朔日帝健磐龍に阿蘇を封じ給ひ
しかば宇治郡より阿蘇にくだりて居住し給ふ其地を
長谷谷兄倅長之二
宮地村といふ同所の草部吉見神の女阿蘇比呼を要
て生す子を速継玉命と号す阿蘇国造といふは是
なり日本紀に云景行天皇十八年丙子六月十六日帝
阿蘇国にいたり給ふ其国郊原曠遠して人の居を見
す
今の宮
地を云
天皇のたまはく是国に人ありやと時に二神
健岩
あり阿蘇都彦
龍命
吉見神ノ女。健岩
といふ忽人
阿蘇都媛
龍夫人迷併玉ノ母
小化して遊詣ていはく吾二人ありなんぞ人なからん
此こゝろをよめる敵に
やと故に其国をなつけて阿蘇といふ此
すべら化のかりせし時に
ふた神のあらはれそめしあそのみやしろ続松葉集に見えたりか阿蘇は東
西十五里南北十九里の地なり此ときまでは阿蔵の間。天草。芦北の間といひて火
の国とは別なり後に火の咽をあさて両国とし肥前肥後
相伝ふ此時景
となづき右の三国を都として肥後の回の内にくはへたり此
行帝速餅玉の子惟人におほせて宮ノ地村に阿蘇ノ社を建
立有て祭祀を司らしむ神領を附せらる大宮司の初
なり
一書には孝霊帝の御宇社を建らるともあり。下野鶴御田極等の
神事あり。なかき故に略す。詳に阿蘇文記に出せり追て板行すへし
〇一書云健繁執命阿蘇宮地に宮居をしめ給ふ後に鎮座のことき御遺詞に
まかせて阿蘇宮人毎年下野に対して猪鹿を神前に備ふこれは命御存生の
時つねに遊猟し給ひし故なり宮地より五十餘町坤の方に下野あり魚鳥は
神領地所々より漁て神前にそなふるなりと夥静抄こしいてたり
欽明天王御宇に阿蘇ノ社を再営あり阿蘇三坐は健磐
就命阿蘇都後速孫玉ノ命なり延喜式云肥後回座阿
蘓郡三座三座[ル]健磐龍ノ命神社大阿蘇比罕神社に
国造連群玉命に大日本一宮記ニ云阿蘇健磐龍
命肥後ノ一宮本社也中古鎮坐を加て十二宮とす其頃
七両益谷免倅巻之二
正二位勲五等
寺日本後紀言嵯像ノ天皇弘
第は健磐龍命
大神階
仁十四年壬寅肥後国阿蘇郡に坐従四位下勲五等倶
磐龍命に当国の対二千戸を附す此神久しくひでりす
るとき祈れは雨をふらし民をすくふこれに頼さることなし
続日本後紀に云承和五年正月甲申勅して阿蘇の神社に
人を遣し国家の穏平を祈らしむ同七年従四位下勲五
等健磐龍神に従四位上を授同年従四位上勲五等健
恩龍神小従三位を授遣奉る同九年九月健磐龍神等
に幣を奉る文徳實録云嘉祥三年八月健黎龍神に正
三位を賜ふ仁寿元年十月丙午健磐龍命大神階をすゝめ
大神階なる故に阿藤宮と号す大明神は社号なり国
従二位を加ふ
俗此事をしらずして大明神と唱而は非なり大神と申へし
斉衡元年七月健磐龍命に幣をたてまつる同年三十
戸を討す三代実録云貞観元年従二位勲五等健繁艶
命に正二位を加ふ同八年二月十四日庚申神祇官奏言
す肥後国阿蘇大神怒気を懐蔵すと国司に勅し
後拾遺集に
て潔斎至誠せしめ幣を奉りて祈せらるゝ
肥後の守にて
くたり侍りけるときあその立しろに御装束して奉りけるにかの国の
女のよみ侍ける奴艶天か下はこくむ神のみそなれはゆたけにぞたつ端の広前
二阿蘇比呼神従二位吉児神の女○健磐龍の夫人速
孫玉命の母也文徳實録云仁壽三年二月戊寅阿蘇氏呼
神に従四位下を賜ふ三代宝録云貞観元年従四位下阿
責任谷乾梓長之二
蘇比暉神に従四位上を加ふ同年五月十七日阿蘇丸呼
神を官社に列ぬ同十一年閏十月廿一日庚戌従四位上阿前
比暉神に正回位下を賜ふ同十五年四月正四位下阿蘇
比暉神に正回位上をかふ同十七年十二月廿七日丙子
類聚国
正四位上阿蘇比咩神に従三位をさづけらる
史所載
又
三国龍明神南草部吉見神也
同
店
今権大宮
比咲御
司先祖
子明神此健磐龍命の女なり五彦御子明神南速
一避玉命の子惟人なり景行天皇阿蘇に遊歴のとき
今の大宮司先祖なり健磐龍命より今
惟人を神職に定め給ふ
の大宮司友隆まて七十餘代に及て相続せ
続日本後記云承和十年六月乙己健磐龍の神主に永く笏を把ことを預らしむ
雲あり大宮司代々相続して二位三位に任せらるゝも多しこれかの神胤にして
他に異なる故となり古は肥後一国神領なり中ころまても阿藤郡益城郡
其外薩摩日向豊後の内にて数ケ所あり天正年中まで阿蘇郡益城郡及陀
摩郡健軍宇土郡郡浦等数ヶ所の神領あり
六若比宰明神此七若
秀吉征罰のときより減せり佐記に詳に出せり
一彦明神南草部吉見神の弟なり㊇新比呼明神北
若彦神の嫡女新彦神の姉なり五新彦明神南若
山部氏と称す神官に
彦神の子新比咲神の弟なり
十一弥比咲
及北宮祝の祖なり
別殿◯古の
東関東鮮玉命なり父は健磐龍
明神北土国造明神
三宮なり
三宮なり芝居
命母は阿蘇比暉なり旧事紀云阿蘇国造瑞籬朝
御世
崇神
天皇
火国造同祖神八井耳ノ命ノ孫姪玉命定賜
国ノ造一此故に速継玉命を国造明神と号す続日本後記
云承和十四年七月丁卯国造神を官社とす十二金艶明
一七七七七七十二
神別殿綏靖天皇にて神八井耳命の弟健磐龍命の
叔父なり以上十二色なり此説を考へて観音にあらさる
祇園の
を知へし又牛頭天王は素盞烏尊の別号なり
所に出ス
摩訶
陀国の商貴帝にはあらす又龍宮世界の頤梨採女を
娶り給ふ事非なり足神代直指抄備後国土記に素
盞烏尊南海の神女に通ひ給ふとあるを誤り伝ふ南海
とは南海道の内の国をさせり旧記神籍此例多し又
阿蘇大神を牛頭天王の子とする事非なり素盞烏は
伊弉諾の御子健磐龍は神武の御孫なり時代験随す
又和修吉龍王といふ説は健磐龍命といふ名によつて
附会したるものなり又二首の神歌好事の妄作早劣
笑ふに堪たり宮範驚録にあへてなし其上一切衆生と
書わかくさとよむこと古来よりなき事なりといへり又
阿蘇山の煙は大神衆生の罪にかはりて立のほり給ふと
云説あやまりなり日本後紀云延暦十五年阿蘇ノ池無
故涸減二十餘丈続日本後紀云承和七年九月阿曽
池涸端四十丈三代実録云貞観六年十月三日夜有
声震動池水沸騰東西ニ流落ツ同九年五月十一日奇光
照耀十二日ノ朝山震動崩広五十丈長サ二百五十余丈七
史隋書ニ云倭國ニ有リ阿蘇山其石無故火起接天者俗以テ
同四月一日冨谷谷光岸長之二
○月令広義明政統総シ所載同上而云ク永楽初年封ノ為二寿
為異因行祭祷一
安鎮国山皇明通紀云永楽四年正月封ノ曰寿安鎮国山大
明一統志山川部蔵此山古事談云治承四年六月二十四日肥後阿蘇山雪降五六十一日
阿蘇山をよめるみた大木集新六帖にあり阿蘇御池をよめるうた俊頼家集に
見えたり阿蘇山を赤唐山とも云硫黄によつて草木なき故なり釈日本記に
肥後国宗ノ條有一老山曰国宗岳一と是なり出木集藻隘草に赤はだ山の歌あり
又吹見山共いふ神道
深秘に見えたり
あり和漢ともに硫黄礬石丹砂砒石ある
雑類部に
一本草綱目ニ引二魏書ヲ一テ盤国ニ有二火
山に火あり煙あり
精く出せり
一一山ノ旁皆焦溶流数十里乃凝堅即石硫黄也阿蘇山
も此たくひなり然るを地獄の焦に起し大神の念に
一擬するは妄なり殊に煙たち灰ふるごとに田畠これがため
に荒草木これか為にしぼみ剰硫黄白川にながれ入れ
死る魚少からず一切衆生の罪にかはる程の大神何の故
にかく不慈ならんやかゝる事を神の所為といふときは
かへつて蕪穢するなりこゝろあらん人まどふことなかる
べし此段改作
広益俗説弁巻二終
寿益谷荒草巻之三
廣益俗説辨三號
神祇
第
狩作
狩り
46册
廣益俗説辨巻三目録
狩野氏図書記
神祇
神村長
一勢田大明神楊貴妃と成て唐朝を糺し給ふ説夜蓬
菜の説訂補
二熊野神天竺より飛来給ふ説
補渡唐の天神の説
三愛宕神は日羅を祀り本地は勝軍地蔵といふ説□□
四金峯山の神は金剛蔵王といひ或は安閑帝の霊を祀
ると云説
五冨士浅間神は赫夜姫を祀ると云説印冨士山孝霊帝
長谷允悴医之三
一道代喜衆義之三
の御宇に現する説
六粟嶋大明神は女體なる故に婦人の病を守り給ふと云
説言補
新蟻通明神の説
新笠嶋道祖神藤原実方を蹴殺す実方雀となる説
七大隅正八幡宮は天竺陳大王の孫と云説
新松浦大明神は藤原康継を祀ると云あるひは松浦佐
用姫を祀ると云説に神
八厳嶋竹生嶋江ノ嶋の神は弁財天といふ説明三神を辰狐
王か女と云説訂補
補速吸日女神の説
九大黒夷子の像の説
長谷允隼巻之三
広花作試ノ勅ノ弟之三
廣益俗説辨巻三
井澤長秀輯録
神祇
一熱田大明神楊貴妃となりて唐朝を乱し給ふ説附蓮
菜の説
俗説云唐の玄宗皇帝日本をうばゝんとはかりける故に
熱田明神楊貴妃と生れて玄宗のこゝろを蕩し世を
乱し日本をうつの謀をやめさせ給ひぬ其後楊貴妃馬
鬼にて殺されしを玄宗かなしみにたへす方士をつか
はして貴妃か霊を蒙られけるに蓬莱にましますとて
尋来りしは熱田なりとて此所を蓬莱島と云伝へ貴妃か
同月月一日寅年
一同十二月前書之三
祠を本社のうしろにたて側に玄宗の塔婆をたつ
今按るに此説甚た非なり弥神名帳頭註ニ云熱田ノ
一社者日本武尊留二其形影天村雲剣一為二御神體一尾
張国風土記ニ云熱田ノ社ハ者昔日本武ク尊巡レ歴東国ニ
一還時娶尾張ノ連等カ遠祖宮離命宿於其家一ニ夜頭
向レ厠以二随身剣一掛二於桑木ニ遺レ之入レ殿乃チ驚往取レ之
剱有テ光如神不レ神ノ不レ把二得之ヲ即謂二宮酢姫ニ曰此剱神氣
宜レ奉二獨レ之為二吾形影一因以テ立テ立テ社勢田ノ郷一爲レ名也と
ありしかれども貴妃となり又方士か日本に来りし事正
一史実録諸神書に見えず唐詩解長恨歌評に彼方
士○実妃に逢たりといふは楊貴妃馬鬼邊にて殺されし
とき花剣等の民間に散在せるをひそかにもとめて帝
をあざむけるならん他の術あるにあらずと記せり此説
もつとも信するにたれり思ふにそのかみ好事の者あつて
蓬莱をもつて日本の事とし日本記古事記等に
一載日本武尊其姨倭媛の御衣を服し婦女のかたち
一に似て川上畠師を誅し其帰路伊勢国熊褒野に
薨し給ふことをもつて契田明神楊貴妃となつて玄宗
の心を蕩し馬蟲に死せりと妄作せしものならんお
よそ日本にて蓬莱と称する所多し或曰熊野智伝
一黄益谷光岸巻之三
周査代言辛之三
暁風集厦
の
説
義楚六帖富
或曰冨士
或曰加賀白山本
或曰贄田
土縁紀の説
草集の説
異応
記説
或曰ク摂津ノ住吉
橘樟記の説むかし蓬莱方
六家抄
或曰伊予三嶋
注説
文瀛州の三島うかひ出
摂津ノ住吉六家抄或曰伊予三嶋摂備亮江
丹後地
たる故
源平盛衰記高
とあ
志説
或曰在丹後ノ国
或曰安芸厳島
に号す
一倉帝願文の説
れども列子ニ載五山一ニ曰。曰盛二ニ曰ク貞嬌三曰ク方壺四曰瀛
州五ニ曰ク蓬莱其山高下周旋三万里其頂平[リ]処九千里山
之中間相去「七万里とあり列仙全伝ニ云ク有リ巨鱗之数縄一負一負一
蓬莱之山一而折舞戯二滄海之中一也又呉寧野か小窓別記
云ツ三壺ハ海中ノ三山也一ニ曰ク方壺即チ方丈也一ニ曰ク蓬壺即チ
一蓬莱也一ニ曰ノ瀛壺即瀛州也其形如レ壺上広中狭下方
一皆如工製一と見へたり日本にかくのことき所なきを以
て其あやまりを知へし本邦の文人都客日本を
称して蓬莱島といひ君子国といひ扶桑若木なと
いふはしばらく其佳勝を取のみ実に日本をいふには
あらず此版訂補
二熊野神天竺より飛来り給ふ説
俗説云天竺摩伽陀国に善財王
一慈悲
大影
とてありしが其妃
五衰殿の善法女懐妊しけるを他の妃これをねだみ
善財王が留守をうかゞひ官人をつかはし善法女を山中に
殺さしむ其死後にいたつて屍男子をうむかの山に喜見
上人といふ者住せしか此子をひろひはこくみて後に善財
王におくりつかはす善財王此児を具し飛行の車に乗
て日本に来り五ふりの釼をなげて其勝境を見るに豊
前国彦山と大和国にとゞまつて八角の水精石となり又
八尺の熊と化して紀州飛鳥野に来りあつまるこの故に
熊野と名付善財王皇子此所にとゞまりて神と現す
本宮は喜見上人新宮は善財王并に皇子西色は五哀殿
の善法女なりこれを熊野三神と号すといふ又一説に
一伯二
は秦徐福
一作二
一蓬莱にゆき薬をもとむとて此所にいた
徐市ニ一
り死しけるを熊野権現とまつれりといふ
今按るに此説各非なり神代ノ巻ニ云伊弉冉尊火神
刺戟実智を生すとき灼れて神退去如故に紀州熊野
有馬村に葬る土俗此神魂をまつるには花のとき花
をもつてまつる又鼓吹幡旗を用ひ歌舞て祭ると
あり是本宮なり崇神天皇六十五年に建立し給ふ
一國長寛勘文云紀伊國牟婁郡熊野早玉神社能
伊
弉
諾尊
子
熊野坐神社
伊弉
再尊
紀州志云牟婁ノ郡熊野本
サカノ
宮は那智山の西北七里ばかりにあり●上四宮さ
左事解
尊伊
弉冊
尊
○西御前二社
右伊弉諾尊
早玉尊
伊弉諾尊伊弉諾尊
天照
国常立尊国挟
一棟にして別殿なり○證誡殿
○若宮
皇
槌尊。豊割障尊
太
太
神
●中四宮禪師宮
泥土煮尊
沙土煮高
○児宮
大戸道尊
○聖宮
西足尊
大菩遷尊
軽根尊
同四十十日慶之三
相殿十万
伊弉諾高
○子守宮
伊弉並尊
御前宮
●下四宮一万御前色
正哉吾勝尊
○勧請十五社
瓊々
杵尊
○飛行夜叉社ニ
彦火ニ
出見尊
○米持金剛社
鶴鴎首
本宮新宮那智を三山といふへ
同郡有馬庄
右十二社なり
新宮那智は事繁故にこゝに略す
不合尊
室の高二十間
是伊弉冊尊を葬
廻三町はかり也
有馬村に花窟といふあり
り奉所と云伝ふ一書ニ云今にいたるまで暮春には
花及ひ幡旗をつくり歌舞してまつり奉る神代の
一遺俗なりと記せり又徐福日本に来り神となる事
正史実録にかつてなししかれとも古来詩客文人あや
まりをしれるも吉を託し興に乗する事まゝ多し
見る者意を着へきなり
此段訂補
補渡唐の天神の説
俗説云日本の僧入唐して径山に住せるときある夜半に天
神あらはれ給ひ日本の菅丞相となのりて受衣まします
此俗説久しく云来りし事と見えて藤原
長親の両聖記にも見えたり
今按家にかの僧常に天神を信仰する故に夢に見た
りといはゞ実なるべし目のあたりに出現ありしといふは
虚なり思ふに薩天錫雑詩妙選藁に天満色と題
して無常説法現二神道。千里飛梅一夜松。萬事夢
醒雲吐レ月ヲ観音寺ノ裡一声鐘とあり古来より天神
の霊徳異域にも伝れなことを称歎す好事者此詩
によつて渡唐の説を偽作せしものなるへし
三愛宕神は日羅を祀り本地は勝軍地蔵と云説
俗説云愛宕権現は釈の日羅か霊にして本地は勝軍地蔵
此説謬伝ひさしく本邦にいふのみ
なり此故に武家これを尊敬す
にあらす登檀必究にも日本愛
岩山霊感
地蔵にと記す
一今按るに非なり愛宕の神は伊弉並尊と火皇彦霊
命をまつり奉る神社はじめ山城国愛宕郡にある故に
此山丹波国桑
田郡と半す
愛宕社と号す後に同郡葛野郡にうつす
此ほに延喜式には丹波国
豊芦原卜定起云天神第七の陰神
桑田郡あ多古神社と有
なり
伊弉
上嘉兵衛
火災をながく退けんためなりとて若宮に火産
霊を置給ふとあり此神火を防き且産火を忌給ふは軻軟突
智にやかれて退去によつてなり國諸社根元記云西に八咫
の嶺あり日の神岩戸を出させ給ふ光のさし向ふけしき八
四十咫の鏡にあらはれたるを名つれてやたのみねといふ後世の
一に阿当護一に愛太子
人あたごの山といふ
三代実録云元慶三年
一に愛宕護と云
一閏十月廿四日従五位ノ上阿尚護神ニ授二従四位ノ下一とあり又日
羅は肥後ノ国芦北郡の領主阿梨斯登か子なり宣化天
皇の御宇に百深に往てとゞまり欽明天皇の勅によつて
帰朝し百浄の徳尓かために殺さる芦北君日羅か屍を
事詳に僧道の部に
芦北に葬ると日本紀に見へたり
愛宕
論せりあはせ見るへし
の神とまつりしことかつてなし思ふに磧礫集に文武
帝の御宇に天狗天竺の日良唐土の善界我朝の太郎
坊あたご山に出現すなとあるを取ちかへたるものならん又
黒川氏公勝軍地蔵といふ事は仏経になきことなるを天
一応年中に慶俊といふ僧我朝武を尚ふ国なる故勝軍
の二字を附会せしといへり此段訂補
四金峯山神は金剛蔵王といひ或は安閑帝の霊をまつ
るといふ説
俗説ノ云大和ノ国金峯山の神は金剛蔵王菩薩といひ或は
安閑天皇の霊をまつたといふ
今按るに金峯山の神は少彦名命なりといふ諸社志
一和尓雅に金峯山神社少彦名命と記せり笠金村か歌
に神代より吉野の宮の有かよひたかゝしれるは山川を見よ
とあれは少彦名と云説信するにたれり思ふに延喜式
なとに金峯ノ神社とばかり有て神名をのせざるを見
仏経に載たる金剛蔵王菩薩とせるにや我朝あやま
り来るのみにからす義楚六帖にもこれを出して弥勒
菩薩の化身と記したり
五富士浅間神は赫夜姫を祀るといふ説附富士山孝霊帝ノ
御宇に現する説
俗説云孝霊帝即位五年に近江に湖水わき腹河に富士
山あらはる其後此国に老翁老婆あり翁は鷹を愛し
嬢は狗を飼あるとき竹の節の間に一女を得たりその
かたち甚た美にして夜も光りかゝやく故に赫夜姫と名
つく
らく一説には竹取翁竹林にして鶯の卵を見つけあたゝめ置程へて容顔着
麗なる女子となるすなはち名をうくひすひめとなつて
時の帝桓武帝坂上田村丸を勅使としてかれを納て
妃とせんと有しに姫かいはく我は天女なり久しく歌にとゝ
するべからずとて富士の厳窟にいる帝此ことを叡聞有
て其跡をしたひ窟にいたり給ふとき姫出むかひていはく
ねがはくは天子此窟中にとゞまり給へとてともに窟に入
て見へずわづかに玉冠のみ残りしかは其所に石を積て陵と
すこれを富士浅間大権現と号す翁は愛鷹明神孃は犬飼
明神と現す又一説に赫夜姫天にのほり去とき不死の薬を
帝に奉りけるに帝あふ事もなみだにうかぶわが身には
死ぬくすりも何にかはせんとて冨士のいたゝきにてやきす
てられしかは其煙今にのこれりといふ又一説には赫夜姫
は欽明帝の妃にして聖徳太子の祖母なりといふ
林羅山翁ノ云孝霊帝即位の五年に近江ノ国に湖水初テ酒
一駿河国に冨士山乃見と是日本紀に載ざる所にして都
言道
良香
の事
が冨士山記にも又これをいはずたゞ民俗の所称
の説信するに足す西峯松下氏云万葉集に山辺赤
新拾遺
人か富士山を望む歌にいはく。天地の。わかれしときに。京都道道
よつと
○新拾遺には
緩河なる。布士の
かしこきと有
一あり神さびて。高く尊き。か
高根を。天の原。ふりさけ見れば。わたる日の。かげもかく
ろひ。てる月の。ひかりも見えす。白雪も。いゆきはゝかり。
新拾遺には白雲のいさり
時しくそ。雪はふりけり。かたりつき。いひ
はゞかりと見えたり
つぎゆかむ。富士の高根は。此うたをもつて富士の神代
よりある事知ぬべし殊に近江国衆山東西にそごに
たち中に大水を湛ふあたりも海のことし人力のひて
所にあらす況や一夜に地さけて大湖を生し其土蔵て
富士となれるの事あらんや○余按なに斯夜姫か事
竹取物語にはさるきの造と云ける者竹間に女子を
もとめ得て赫夜姫と名つくと記しぬれども時の
帝は誰といふ事をのせず姫か昇天の事はあれとも
一窟に入て神となりし事は見えす但し空徳竹取は
作り物語なれは橘とし是非を論するに足す万葉集
に竹取翁といふものを載ぬれとも別人にて赫夜姫
が事はなし又鶯姫といふ説終にきゝ及す又桓武帝かく
やひめが跡を追てともに堀中に入り給ふ事甚た非なり
類聚国史云シテ延暦二十五年三月辛巳崩畝二山城ノ国葛
野郡宇多野一為二山陵地一ト拾芥抄云桓武帝ノ陵在二伏見
山一とあるをもつて其あやまりを知べし又富士浅間
神は木花開耶姫にして伊勢浅間神と同躰也
垂加ノ云ノ富士ノ神木花開耶姫者大山祇命之女而瓊々
杵尊之妃也開耶姫一名は鹿芦津姫といふ大山祇
の二女なり旧事紀同本紀に見へたり倭姫世紀鎮座
傳記鎮座本記鎮座本縁云伊勢朝熊
一座其中桜大刀神雙坐大刀ノ神ノ霊花木ニ座大八洲
小朝熊神
鏡沙汰文に
桜樹始従二天上一降居因以テ為二花闌耶姫命一
云桜大刀自形石ニ出ス甲勢地志云慶会郡桜宮小朝能六座ノ内花開耶姫様桜桜樹ニ付
曰桜宮日本桜之始也〇坂土仏伊勢参詣記云桜色と申は大宮のまちかき所にまし
ます一木の桜を神体とす○慶会延佳神主ノ有書書。公徳官朝熊五社ノ神拝也其
中ニ有二桜大日自神○和朝にてたゞに花といへなは桜をさせりといふ○神文絵秘俗問
営之朝熊の神社の桜は日本最初の桜なりと太田伝記にはあり愚詠なら冉吉
神代しも今うちめしき朝態やちらぬ桜のたねならずして此うた延佳神に詠や
伊佐
波登美神考証云朝能者芦津姫之通音也葦與
朝通津姫與熊通大山祇女鹿葦津姫亦名木花
開耶姫桜大刀自為二花開耶姫一今俗朝態稱二浅間
帳駿河国富士郡浅間神社稱二ス木花開耶姫ノ神一古
歌に富士のねはひらける花のならひにてなを時しらぬ
山さくらかな山崎垂加云桜大刀ノ神始テ従二天上一降二于桜樹ニ因テ
為二花開姫ノ命一也冨士ノ古歌ニ詠レ桜ク者者有リレ之。豈惟比レ雪
而已哉良有レ以参是等をもつて思ふに開解的難趣趣趣相
にたるか故に謬伝へ剰好事の者華陽国志に載竹間の
男子の事になそらへ
ヽ異苑云漢昔シ女子浣於水浜ニ有二ニ有リ又節ク竹流入女足ノ
間一推レ之不レ去有二小児啼声破レ之得二一男兒ニ和漢同日ノ
妄誕
なり
なり
まうけたる説なるへし又不死薬を焼すてし煙
今にのこるといふことあやまりなりおよそ和漢ともに
一砒礬硫ある山に火あり煙あり博物志に載足弥山。有二石硫
黄一昼視一孔中ヲノ上状如レ烟而高数尺夜視如レ燈光明一
高サ尺余とあり右にいへる富士山及信濃の浅間嶽越後の
妙高山日向の霧島岳肥前の温泉岳肥後の阿蘇山皆其
たぐひなりあやしむにたらず又赫夜姫は欽明帝の妃
厩戸皇子の祖母といふ事弥誤なり考二日本書紀二用明帝ノ母
堅塩姫は欽明帝の妃にて蘇我大臣が女なり用明帝の
后間人王母に姉君は欽明帝の宮女にて蘇我稲
一目か女なり是等を考へて俗説の誤を知へし此段打捕
六栗嶋大明神は女体なる故に婦人の病を守給ふと説
俗説。云栗島大明神は住吉大明神の妃なり帯下の病によ
つて陽神うとみて粟嶋にながし給へり此故に婦人病
をいのるにかならず感応ありといふ
白井宗因云。粟嶋明神は女神にあらず高重産霊命の
子少彦名命なり神代ノ巻に大己貴命ト与二少彦名命一心
一をあわせ天か下を経営し又顕児蒼生及畜産の為
に其病を療るの方を定め鳥獣昆虫の災異をはら
はんために禁屈の法を定む爰をもつて百姓今に
いたるまてこと〳〵く恩頼をかうふれり後に大己貴謁少
彦名命一曰吾等所造の国豈謂二善成之平少彦名命こ
たへてあるひは成る所もあり或は成さるもありとて
淡島にいたり給ふと記せり粟島の神社は紀伊国に有
一神紀州志云粟侍ノ神社は海部郡加太郎庄加太村の西南辺にあり
此社古は友が嶋の内小嶋手といふ所に鎮座なり中比此所にうつす
思ふに少彦
名命大己貴にともなひ諸国をめくり給ひし故に陰神と
こゝろえ病を療るの方をさため給ひしことを婦人の病
のみをいやし給ふとし大己貴にそむきて淡島にいたり
給ふことを病によつて陽神より謫せられためとあや
まり伝ふのみとあり此段小輔
新蟻通明神の説
俗説云いづれの代にか帝おはしましきたゞ若き者のみを
用て老たる者をすてたまへるに其ころ中将なりける人
七十にあまりし父母ありしをすつるにしのひす公を
ほり其内に家をつくりひそかにかくし置ぬかゝる折
ふしもろこしのみかと我国の帝をあさむかんとて本末
同しことくにけづれる木をこれがもとすゑわきまへて
たべと云おくりしかは帝諸臣をあつめて議せられけれと
も知人なし中将家に帰りて父に問は父善て其木を
ながれはやき汀に投て見よ河上に向ひたるかた是木の末
なりとおしゆ中将参内してかくと奏しこゝろ見なにた
がふ事なき故しるしをつけてかへせり又五尺はかりの
蛇のおなしやうなるを二ツ雌雄をゑらひわけてたへとて
おくるに知人なかりけれは中将家に帰り父に問は其蛇
二つをならべ置尾のかたに細きずはえをさしよせよ尾はた
らかんを雌としれと云ければやがてかくはからふにをしへ
のごとくなりしかばしるしをつけてこれを返すそのゝち
七わだにまがれる玉の左右に口あけるをおくり通して
たへといふに又知人なき故中将父に開に父答てそれは大な
る蟻を二つ取て腰に細き糸をつけあなたの口に蜜を
ぬりて見よといひけれはかくはからひて蟻をいれたりける
に蜜の香をかぎてあなたの穴に出けれは其糸にふとき
糸をつき通してつかはしけるに是より日本はかしこかり
けりとてかゝる事もせさりけり此中将をいみしき人に
おほしていかなる位をかたまはるへきと有けれは更につか
さ位も望み侍らす老たる父母のうせ侍るを尋て都に住す
る事をゆるさせ給へと申それはやすき事とてゆるされぬ
是よりして老をすつる事なかりし此中将父子を神と
いわゐ蟻通明神といふ
今按るに蟻通明神は和泉国日根郡長瀧村の北に
ありといふ古事談東齋隨筆承和太政官符紀貫
之家集にも蟻通明神の事を記したれば定て古より
伝来の社記あるへし予未レ関レ之但し右に載俗説は
日本の事にあらす天竺震旦の事なり法苑珠林不
孝篇棄父部引レ襖実蔵経一ヲ云世尊曰我於過去久
一遠ニ有レ国名二棄老国一彼国中ニ有二老人一者皆遠駆棄可二
一大臣其父年老依レ如国法一ノ応在躯遣一大臣孝順
心所レトレ不レ忍乃深堀レ地作二一密窟一置レ父ヲ随レ時ニ孝養爾
時天ノ神捉二持二蛇一著二王ノ殿上一ニ而作二是言一若別二雄雌
汝国得レ安若不レ別者汝身及國七日之後悉當二覆
滅一王聞レ之心懐二懊悩一即輿二群臣一参二議斯事一各自陳
謝レ不レ不レ能レ別大臣歸レ家シ問二其父一父答云此事易レ別
以一細転物一停レ蛇著レ上其躁焼者当レ知二是雄一住不レ動
者當レ知二是雌一即如二其ノ言一果別二雌雄一天ノ神又以テ一ツ栴
一檀木方レ之正當一問言何者是頭群臣無二能答者一太
臣又問フレ父モ父答ヲ云ツ易レ知放二著水中一根必沈尼必聚
即チ以テ一其言ヲ答ヲ答ヲ二天神一王問臣言為二是自知一有レ人教レ汝
頼二汝カ大智一国土獲レ安臣答云ク非二臣之智願施二無畏一
具陳王言有二万死之罪一不レ可レ問臣白レ王言国有二割
令不レ聴レ養レ養レ老父不忍二駆遣一蔵著地中ニ一蔵者一地中一臣来
応答尽是父智非二臣カ之力一願一願一切国土聴レ養老ヲ
右摘シ白
王歎美普告二天下一ニ不レ棄レ老
祖庭事苑云世伝
省事ヲ記
孔子厄二於陳一穿二九曲珠一遇二桑間女子一授レ之以レ之以レノ訣云
蜜爾ニ思レ之思レ之盛一爾孔子遂暁乃以レ絲繋レ緜撃レ螺引之
以テ以密而穿之とあり考知へし
新笠島道祖神藤原実方を蹴殺す付実方雀となる説
俗説云藤原実方奥州に流され名取郡笠島道祖神の前を
馬にのりなから通らんとしけるに所の人いさめけるは此神は山
城国出雲路道祖神のむすめなりしか商人に嫁して
親に勘当せられ此国に追下され給ひしを国人あかめまつ
れり此故に男女所願あるときは隠相をつへり神前に
かけて祈るにかなはすといふ事なし御身も都の人なれば
下馬して拝し給へといふに実方あざけりて扨は下品の神
にや下馬に及すとてうつて通りけるに神いかりをなし
蹴ころし給ふされとも実方みやこを恋しと思ひけれは雀
となつて殿上の台盤所に居て飯をくひけるといふ
一今按るに道祖神は猿田彦の大神なり神代巻に鑑み杵
尊降師のとき猿田彦ノ大神天八達之衢に出向ふとき天一
細女命これを問に天照太神の子くたりますと聞む
かへ奉て相まつ吾名は是猿田彦大神と答ふとあり紀
淑望かさるだひこをよめる歌に久かたの天のやえくもぬ
りわけてくたりし君を我そむかへし新古今集に見へ
たり鐘鎮座本縁云猿田彦大神宇遅土公氏人
遠祖也号事勝国勝長狭二亦是也又云ノ興玉神衢
麗気記には
神ハ猿田彦ノ大神五十鈴原地主神也
神名
道辻神とあり、
略記云伊勢度遇郡大土公ノ神社は猿田彦大神也
とあり山城国出雲路道祖神も右同神なりかゝる霊
神をわきまへさる者右の説を妄作せるにや其罪もつと
も軽からす道祖神の女の商人に嫁して奥州に追下
されし事正史神籍にかつて見えす偽なる事知ぬへ
し若俗説のことくんは邪神なり淫祠なり獄仁傑か
今川に俊道行ぶりに云幡摩の
一輩あらは速に毀ち廃らるへし
一国しかまの里に出雲路のやしろ
ありて陰桐をつくりかけたるを見たりとありみちのくまてにかきらす侍国に
も此たくひありと見えたり西国にてはさいの神を誤て声の神と唱ふ
又実方奥州にくたりし事は今昔物語古事談十刻抄
一寝覚記東斎随筆にも記し新古今に西行か実方の塚
を見てよめるうたありしかれとも実方此神に蹴殺され
しといふは非なり祠の前にて落馬して死したるか
のれる馬悪風にあたりたふれたるに敷ころされたるものな
同同長谷兄倅長之三
らん又実方雀となり台盤所の飯をくらひし事偽
なり我朝に鳥路に通したる者なけれは此雀こそ
一実方か化したるといふ證拠あるへからす是のみならず
一守屋か啄鳥となり頼豪か嵐となりしといふ虚説有
一およそ天地の化音によつて人傷生し男女の形備つ
てよりこのかた生々してやまさること木に菓のなれた
にひとし其木かれて又生するにはあらす来春の花は
今春の花にあらす昨日の水は今日の水にあらさることく
一人〳〵にたあらたまりゆけりなんそ一半ひ死して
散したる気かへりあつまりて人とうまれ禽獣とな
らんや再生輪回の説を信するものは所謂痴人面前に夢
を説なり此段訂補
七大隅正八幡宮は天竺陳大王の孫と云説
俗説云大隅正八幡宮は宇佐八幡宮登は別神なりそのかみ
天竺陳大王の女七歳にて懐妊しひとりの男子をうむ父
大王たれ人の子成やと問皇女こたへて我夢に日輪口に入と
見て懐妊す夫あらすといへりわいはく是レたゝ事にあらす
定めて権者なるへし仏法流布の国にいたつて衆生を利益
せよとて窺船に母子をのせて滄海に押流しけるに此船
日本大隅国に着所の者ともこれを引あれて二人ともには
こくみ置けるか彼男子すてに七歳になり給ふころ尚
国に隼人といふ者あつて此母子をにゝみ害せんとしける
に男子たちまちに神異をあらはし才をへて隼人を誅
し母子ともに神となり給ふ今の正八幡宮これなり
今按るに此説甚た非なり諸神記云大隅正八幡宮は
中は応神天皇右は神功皇后左は仁徳天皇とあり
松下見林云いにしへ大隅薩摩をさして隼人とす隼人
おほけれはなり妊氏録に云大角隼人は火閣降命より
出つといふ日本紀に隼人大隅と記し万葉集に隼
人薩摩とあり職員令集解に薩摩大隅の国人初
はそむき後には服す君に奉仕る者を隼人と号すと
見えたり政事要略云養老四年大隅日向両国の隼人
乱をおすす勅して豊前ノ寺宇勢首男人をもつて
将軍とす八幡大神に祈つてこれをうつおほくの隼人を
殺して大に勝とあり思ふに此説をもつて陳大王か孫
の事を作れるものなり
新松浦大明神は藤原広継を祀るといふ或松浦佐用姫
を祀ると云説
信説云藤原廣継叛逆して西府に逃下る大野ノ東人追討す
《継見つから首を斬て空にのほり官軍を蹴殺す其霊
化して赤き鏡となる見る者おほく死る故に神といはぬ
今の肥前国松浦鏡明神なり又いはく鏡明神は松浦御用
姫か霊なり此故に所の名をも松浦といふ又云佐用姫か鏡
をおさめしを神に祝ふともいふ
今按るに松浦鏡明神は廣継を祀るにあらす肥前風
神功
在二松浦山遥覧二国形而
土記云昔息長足姫尊
皇后
勅祈曰ク天ノ神地祇爲スレ我ヲ助センレ福ヲ乃用二御鏡一安二置此處ニ置此處ニ
其鏡化ノ為レテ石ト而在リ山ニ名テ曰ニ名テ曰二鏡宮一花鳥餘情云鏡山は
神功皇后の御鏡化して石になれるをみかゝみ山といふ
新古今
自所此条忠
部家集にあひ見んと思ふこゝろはまつらなるかゝみの神やそらにしからん源氏陽
語たまかへらのまきに太輔の監かうたに君にもく心たかはゝまつらなるかゝみて神を
かけてちるはむと
如くもれなり。殊に和漢合蓮云天平十年松浦明神現
す同十二年広継謀叛すと記す神社啓蒙云肥前国
松浦郡板櫃明神ノ社ハ祀二藤原広継一ヲとあり松浦鏡ノ宮と
板櫃ノ社とを混じてあやまるのみ又佐用姫か霊を松浦明
神と祀り又佐用姫か鏡をいはふ故に所の名を松浦と号
すること非なり日本紀云神功皇后九年四月火前ノ国松」
浦縣にいたり祈てのたまはく朕西のかた財国をもとめん
と欲す若成事あらは魚釣をのむへしとて竿をあけへ
給ふに銅鱗魚を得たまへり皇后のたまはく希見物なり
と故に時の人其所をなつけて梅豆羅といふ今松浦と
めぐらをまつらといふは。め。ま。五音通する故なり
いふは訛れり。
図書編に日本の事を記して未羅国とあるは是也
北之ある
を考へ知へし此段小補
八厳嶋竹生嶋江嶋神は弁財天と云説付三神を辰狐
王か女といふ説
俗説云厳島竹生嶋江嶋神は弁財天といひあるひは龍女
といふ一説には天竺辰狐王の三女日本に飛来る天女は厳
嶋赤女は竹生島黒女は江嶋に鎮坐ありと云
一今按るに各妄説なり安芸国厳嶋ノ神は一宮記に市
一杵嶋姫ノ命とあり圃市杵嶋記ニ云厳嶋は安藝国佐伯
郡の海中にあり元おんがの島といひ宮地をみかさの浜
と云厳島といふは市杵嶋姫命を祀故に号せり宮侍
といふは此神の宮地の島なる故なり又我島ともいへり
祀る所の三神
一湯津嶋姫命
田心姫命。市杵嶋姫命
相殿
素盞烏馬
国常立尊。天照太神。
天恩穂耳尊。天穂日命。天津彦命。
客人御社五坐
一沼津彦根命熊野樟日命
延喜式云安芸
佐伯郡伊都岐嶋神社日本紀云天照太神の索取
素戔烏尊十握鍬打折為二三段一吹棄気蹟之挟霧
所生神號二田心姫一次ニ満津姫次ニ市杵嶋姫此三神を
祀て本社とす推古天皇即位五年十一月十二日佐伯鞍
職官奏を経宣下をかうふり社を建立す三代宝録云
貞観元年正月廿七日甲申安芸国正五位下伊都伎嶋ノ明
一笹谷悦陣巻之二
神授二正五位上一ヲ一同九年十月十三日戊寅伊都岐嶋ノ神ニ投ス
市杵嶋記数巻
○近江国竹生嶋の神
従四位上ヲ一と見へたり
あり老へ見るへし
あり考へ見るへし
は宇加御亀稲女なり延喜式に近江国浅井郡都久夫
須麻神社と見えたり神社啓蒙云竹生嶋社宇賀御
魂神在二近江ノ国浅井郡一ニ古事記云素盞烏命娶二大山
祇之女大市比売一生二大年神宇加之御魂神一又云粮一
うかは
和名類聚ニ云倉稲魂和名宇介
名為二歳稲魂女一
食物也
乃美大万俗ニ云ク宇加乃美太万宇氣者食之義也
食物をつかさとる神なる故に宇加御魂胎女と申し
なる世に福神といへるも可なり
とあり○相模国江嶋神も
宇賀御魂稲女なり神系図に宇賀御魂神相州猿
島祭レ之ヲ山崎垂加云江島神ハ者宇賀魂稲女也辨
一財天者浮屠假託爾といへり貝原氏云最勝王経に弁
財天ノ為一リ閻浮之長婦又云在二坎窟及河辺一と記をるを
もつて日本にて水辺に鎮坐の神及女神をは弁射天
と習合せるものなりといへりこれのみにあらす近世
宇賀神経を詐作して世に流布し地蔵秘記など云
ものに宇賀。神は地蔵の垂迹と記せり剰へ神書にも
三弁才天近のせ宇賀ノ神は舁か妻超蛾月色よりくたれ
る故に天女と号すとあり口をしからすや
蒲速吸日女神の説
一番益谷悦悴巻之三
一摩并作諸弁来之三
俗説云速吸日女明神は伊予国にあり龍女を祀ると云
今楼に伊予国にあらす龍女にあらす速明日女社記云
一豊後海部郡佐賀卿に祀る所速吸日女神社六座
鍛石上命
大音命
底土神。大綾津日神。
一同殿に祝ふ色地を藤生清地小汀といふ
赤土神大地海原諸神
一日本紀ニ云伊弉諾ノ尊親見泉国一此既不祥故欲レ濯一
除其ノ穢惡一乃往見二粟門及速吸名門一又云入レ水吹一
生磐土命ヲ一出テ出テ水吹二生ス大直日ノ神一ヲ又入テ吹二生底土ノ命ヲ一
出テ吹下生ス大綾津日ノ神一ヲ又入テ吹二生ス赤土命ヲ出テ出テ出テ吹二生シ大
地海原諸神一身曽貴祓所レ謂粟門及速吸名門
速吸は日本紀薬既云潮大急州遠吸之義明矢に
六柱乃神達と是也
しほ太急にしてうづまき吸かことくなる故に名を
得たり名門は灘なり早明名門を今は関崎といふ佐賀関の乾より
巽にいたつて海原の悪名なり佐賀は祥なり清きことをいふ
神代口
決云速吸名門在二豊後一速吸女神社也社説に文
武天皇大宝元年日向ノ国造はしめて社を田苅穂に
建立す
田苅穂を高風と
いふ今の古宮なり
続日本後紀云承和十年九月
一甲辰豊後ノ国無位早吸呼神授二正五位下一社説に
一醍醐天皇昌泰年中社を曲浦の清地にうつし建粛
此所入海なり口せばく内ひろし
は今関の上浦なり
わだといふはまがりてまろきをいふ
是は日本紀
一載神武天皇椎根津彦命に逢給へる地なり椎根津彦は
彦夫々出児高の孫武位起命の子にて佐賀関の地主
佐賀関に。白が浜。黒が浜。
神なり其社下浦にあり珍宮といふべ
関崎様。若御にか鼻高崎。
同同同同年巻之三
DE
周通代司頼者モ二ト
闇か崎。高疾水。蘿嶋。丑嶋。須賀。日向泊り。高津都か
峯等の旧跡あり詳に佐賀関記にあり
考へ見るへし
九大黒夷子の像の説
治間大黒の像とて袋を負俵を踏槌をもてる体を刻めり
或説に此像は天竺の神なり伝教大師のとき始て叡山
に出現あり又一説には大黒は猿田彦大神なりといふ一説
云伊弉諾馬伊弉再尊蛭子を生給ひ三年まて足たゝ
さる故にこれをにくんて船にのせて風のまに〳〵はなち
すて給ふ其船津の国になかれつきしに所の夷もりそだ
て夷三郎と号す後に神に現し給ふ西宮大明神これ
なり
今按るに右の説各非なり山崎岳加大黒記ニ云大
黒者大己貴命也其負レ袋使レ鼠之事見于旧事本
紀
[レ]旧事記古事記云大己貴命八上姫を娶らんとて袋を負て生
ゟもゆくに鼡来りて内は富良外は次々夫と云しことを載たり
其持レ槌
也蓋槌者土地也則地主神敬之表也夫レ大国主。
大国玉是大巳貴ノ命之七名之其二ツ也伊勢ニ有二リ大
黒谷一
按度
類聚本源謂此大国玉也蓋国黒兩字
会ノ郡
音同大黒之訓興二大国玉一相近大黒谷之訓與大
国王一相似又黒音與二已貴一近似則彼此転伝ノ而誤
之耳白井宗固云大黒の像かし羅にかぶる所体に服
する所皆我国の俗なり又黒は水色是レ北方子の神なる
同同同同同同同同同
か故なりといへり
竺神にも大黒といふあり南海寄帰伝に見えたり仏
祖通載にも大黒といふ軍神ありしことをのせた
り大己貴の像と
混する事なかれ
又蛭子三年まて足たゝざる故二神これを
にくんて船にのせはなち給ふといへともいやしき土民の
たくひまても時人なき子は一入にあはれむならひなる
に幼児に何の罪あつてにゝんて放ちすてたまはんや度
禽延佳神主云蛭児は土徳の神なり四季も寄旺し
一三季のときは脚たゝず四季にして聊立なり木は春壮
し春九十日の内を十八日土旺す火は夏旺し夏九十日
の内を十八日土旺す金は秋旺し秋九十日の内を十八
日土壮す水は冬旺し冬九十日の内を十八日土旺す四季
に十八日つゝ土寄旺すれは木火土金水ともに七十二日
つゝ旺するなり三季にしては土の旺ずる日五十四日
にして十八日不足なり故に三歳まて脚ふ立といふ
なり
神宮秘
伝問答
又云ク天磐楼樟舟にのせて風のまに〳〵
放ちすつとは土は専主の方なき意殊に風は土嚢よ
り出るといふ本文あれは土徳の義いよ〳〵あらはれ
侍るといへり
述抄
神代講
又此蛭児の船摂津国になかれ着
其所の夷もりそたてゝ夷三郎と号し後に西ノ色明神
と現すといふ事正史神籍にかつてなき偽説なり
又夷子の像は事代主命なり事代主は大己貴の子なり
広花作詩判著之三
山崎垂加ノ夷子ノ記ニ云大己貴ノ命初自レ経二営中州一而不レ
一昇二干天上一。其子事代主命遊行釣二魚於出雲三穂
崎一之時忽聴二天神之勅一則避而去レ之弗二文陥二父陥二於
不義一其徳之至為二如何一哉高皇産霊聚二大己貴ノ命一
尤慇懃矣神武天皇建八神殿大己貴事代主與
日本紀纂疏云事代主
焉是故人家祟一此ノ父子二神二ヲ一者矣
欽二天帝之勅諫
之道可二忠ヲシテ
且孝ナル者一也
二神ともに本邦の地主神なる故に人家福
神とたつとぶものなるへし此段訂補
広益俗説弁巻三
第
狩衣
廣益俗説辨四一
神祇雑著
廣益俗説辨巻四目録
神祇雑著
前村長
豊蔵書
神明天にのほり地にくたり給ふ説
補神は正直の頭にやどり給ふと云説
神明鳥となり蛇となり空中をかけりかたちをあ
らはし給ふ説
続神体をまうくる説
神をかみと訓するはかゞみの中略と云説
續神代文字の説
神代に草木言語説
月前代言辛未一回
神書に怖しきことあるといふ説
續三社託宣の説
同人平生丸力と云託宣の説
一同六根清浄祓の説
神道を学ふときは不思議ある説
神社の縁起の説
神明儒士を守り給はさる説
績氏神氏子の説
宮社の祭礼の説
一続放生会の説
同神事に獣を食するを忌説計画
三宝荒神の説
續軍神三天の説
一同医神薬師仏の説
一同前大臣の説
同神門の二王の説
一同神前の物の説は
同諸神の使者の説
同宮廻りの説
同鳥居華表の説計画
同長谷先半巻之日
廣益代記載者之四
拍手の説
あまのさか手の説
木綿織の説
続日待月侍庚申待の説訂補
祈祷の説
續禁呪の説
広益俗説弁巻岡井沢長秀輯録
神祇部雑著
神明天にのほり地にくたり給ふ説
俗説云神の天にのぼり給ふとは雲をわけて入給ふなり
あまくたり給ふとは雲をわけて下給ふなりこれをうた
がふ者あれども魚の水におよぎ鳥の空にかけり獣の
地をはしるをばかへつてうたがはす理にくらき事なり
今按るに此説神道を知ツさるものゝ談なり直指抄云
皇都を天上といふ雲神代といふも人代なり天上と
は神代の禁裡なり白井氏云君は天徳を継て天に加
聞茲作詞執巻之四
はつて治給ふ故に天子と申し奉り従ひつかへ奉る
臣を月卿雲客と唱ふ天皇の宮を紫徽と号し
位を残せ給ふを日継といふ天に昇るとは帝居にいた
り給ふをいひ天くたるとは帝居より外国に臨幸を
いふ也しかるを蒙昧は天に昇るといへは鳥のことくに
かもり雲をわけてのほると思ひ天くたるといへは雨の
ことくにおつるやうに覚へ火にも入水をもくゝり給と
心得たるおほし聖にあらざれば惑へり
補神は正直の頂にやとるといふ説
俗説云神は正直の頂にやとるといふはなましひに書をよめ
は心高上になり物をうたかふ事出来てよろしからす
たゝ童のやうに何すろもなきがかへつて神明感応
ましますなりこれを正直の頭に神やどると云なり
一今按るに非なり是は忌部正通か神代口次に古語
これはことばにかゝはらす理
大道ヲ而辭仮二嬰兒一心求二神聖一
をきはめよといふ意なり
など有を見あやまりていへるにや童のことく邪気なき
はよかるへけれとも是非をわきまふる識量なくは有
にかひなきなり神は正直の頭にやとるといふ諺は
大極陰
倭姫世記曰心神則天地本基明
陽造化
身體則五
干木火土
金水
化生祭利
理と気
とを合
肆元レ元入元初本レ本レ本任二
廣塩谷悦牌巻之四
同慶益信訓巻之図
此
此
本心
天地同体神人合一の理を
きはめて本心の明に帰するをいへり
神垂以竹壽為先
いの
りといふは常に
りといふより常に
誠を尽をいふ
冥加以二正直一爲レ本
誠をつくせは必
感応あるをいふ
日月
一ヲ菅家の御歌に心だにまことの
雖照六合照正直頭
道にかなひなはいのらすとても
神やまもらん
此心におなし
是身の私欲に克て其心の徳を全く
するをいふ心をたゝしくせんと思はゝまつ心を害ふ
ものを去るべし心わづかにたゝしからされは其終り
かならず国をやふり家をほろほすにいたるしかれ
とも唯見たりに心をたゝしくせんと思へるのみに
て克己の工夫なきときは正直の心の萌をほろほす
邪心なしといへとも正理にあはされは妄なり邪なり
思ひをいたすは井をほるかことしはしめはにこるといへ
とも後に水をかゆれはすめり人の思慮も又
右のことしにこるもすむも外より来るにあらす
其おほえるをひらけは本心の明らかなる漸く見
極と先儒の説にあり水はもとすめりといへとも
泥土にけかされてしはらくにこれり其にこりを去
どきはもとのすめるにかへれり人の心もまたひとし
是正直を守る意なり
神明鳥となり蛇となり空中をかけり形をあら
はし給ふ説
同同同同廣長谷院悴巻之由
俗間書に神明あるひは鳥となり蛇となりて人にまめ
へ給ひ又は空中をかけり眼前にかたちをあらはし給ふ
とあり
今按るに神明鳥となり尽となりてあらはれ給ふ
事非なりおよそ人は万物の長たりたつときもの
これに過へからす此故にまのあたり罵て禽獣と
いふときは粟幅者といへとも忽いかつて命をなけうつ
ても其讐を復さんことを思ふ是禽獣のいやしきと云
ことをしれはなり人偏すらなをかゝのことしいはん
や神明いかてか禽獣に変化たまはんや又神虚空を
一飛かけり給ふといふ説非なり虚空をかけるは鳥類
なり袖は人の聖智あるをいふ虚空を翔り給ふへ
きいはれなし又眼前にかたちをあらはし給ふといふ
説非なり祈て感応あることをあやまりたるもの也
但し祈るといふに品ありそのいのるといふは邪穢を
はらひ精明をいたし左のものを右にうつさす右の
物を左にうつさす左を左にし右を右にし事〴〵
たがふ事なふして如在の誠敬をつくさばたちところに
感格あるべしかゝることをわきまへざるもの神社にま
うでゝ己か情欲をとげんことをのべてねがひのごとく
廣盛谷虎岸巻之由
なし給はゝ燈明を奉らん絵馬を掛んなとゝいのるた
かくひあり若人ありてこれらの祈にくみする神も
ありといはゝ淫稠にして邪神なるへし
続神影を設る説
俗間社に神体をきさみ置もの多し
一今按るに非なり鎮座伝記云国常立尊虚而有
レ霊一ニ一而無レ体とありそれ神は天地の心人は天か下
の神物にして其心は神明の舎なりもとより
神と人と二つにあらす明徳を明にするときは其屋。
高天原にして国常立の分神を感得するなり中
臣腹に所謂高天原仁神留坐とはこれをいふなり
故に天津祝詞の太祝詞をもつて大虚元理の聖
神を勧請して自己固有の神明を感得せるもの也
此理によつて上古は明鏡をかけて神霊に表せり
一然るに中ころより野合門をしへにまとひ胡仏に
一敵つて昼像木像をまうくるものあり神霊不測
の妙なんそ金木図画に模すことを得んや程伊川ノ
曰。今。人以一影祭。一-艶髪不相似一則所レ。祭己是別人
とあり況や神明をや襲慢の罪恐るへし
一補神をかみと訓するはかゝみの中略といふ説
同同長谷允忰長之四
俗説云神をかみとよむは鏡の訓の中略なり
一貝原益軒の云かみは上なりかみに在てたふとむべし
直指抄に見えたり又陰陽の和訓をぎみといふかと
きと相通なれは陰陽といふ意もあるべし神は陰
陽の霊なれはなり鏡の中のがの字を略せりといへ
る説あしき由直指抄に見え侍る鏡のいまた出来
ざるときすでにかみの号は有べし上の字の正訓を
とらずして鏡を取て附会するすべてかやうの類
一皆ひか事なり日本釈名
續神代文字の説
俗間巫覡等神代の文字なりとて符章に書ことあり
今按るに神代に文字なし日本紀纂疏云上古
一無二文字一結縄割レ木且為二之約二漢字我應神ノ時東漸
補朝野群載大江ノ匡房筥崎記ニ云応神天皇ノ神霊
神皇正統記応神天皇段に云
也我朝書一文字ヲ創二文字ヲ創二於此朝一
此国に経史及文字を用る事
是より
はしまる
古語拾遺序ニ云上古之世未レ有一ヲ文字一貴賤老
一少ノ口ニ相伝三善清行昌泰四年勘文ニ云上古ノ之
画宋史云応
事皆出二口伝二故代々之事変応二遺漏一
歳始テ於テ二百済ニ一
神天皇甲辰
得二タ中国ノ文字ヲ一
どあるをもつて知べし和字は漸く天
武帝の御宇にはじまる日本紀に天武帝十一年
廣笹谷悦岸巻之四
丙午命二境部連石積等一更肇伊造二新字一部四十
此書今
四巻一ヲとあり。
一貝原篤信云今巫覡の家に上古
不伝
の和字と称し符に書は遵生八歳不求人等に載
たる中華道士の符章に書偽字なるをしらで
和事始
一上古の和字と思へるは固陋者至なり
是等
咒「咒」咒
抱朴子解夢全書などにも符章ノ字あり
の説を考へ知べし
此段加小補
一補神代に草木言語説
俗説言神代ノ巻に草木咸能言語とあるは有情非情皆
成仏道の理なりといふ
今按るに右の説非なり度会延佳神生云の天孫未た
降臨なき以前は村に長なく邑に首なけれは蛍火の
光神蝿声邪神ありとて一箇の威をほこりかゞやか
すこと陽光の出さる夜中に蛍火のひかまにたとふ
かゝる朝神五月の蝿のことく草木磐もものいふことく
神代
なる妖怪ありと見えたり神
講述
此説を考へしるへし
補神書にあやしきことある説
俗説云神書にもあやしき説おほしいぶかしき儀なり
今按るに神言に恠あらず神書の文儀について議す
れは怪に似たることあれとも皆是深理あり神代
一巻に伊弉諾伊弉冉の国土山海草木をうみ給ふと有ば
同廣海谷光華巻之男
人をもつて造化をいふ有形の二尊にあらす陽神左
旋陰神右旋分巡国柱一とあるは陰陽運行をいへり其
外此例のごとしあへて怪にはあらずむかし尹子馮理と
いふ者程伊川の門人なりしが先生にむかつて我ひ
とつの奇特ありといふ先生いかなることぞと問るに
一夜宴坐するとき室中光りとことふ先生頤も又
奇特の事ありといはれしに馮理これを問は先生
答て食するごとにかならず飽といはれたり又ある人
鬼物を見るといふものあり伊川なじりてそれはまのあへ
たり見しや人つたへは信するに足すまのあたり見ば
一眼病なるべしといはれし事各二程全書に見えたり
怪なきをさとすへし
續三社託宣の説
俗間に三社の話宣とて流布するものありそのかみ三社の
神倭姫の皇女に告給ふといふあるひは正応年中に此丈子
大和国東南院の池にうかぶといふ其記宣左に記す
天照太神宮
正直ノ雖レ非二一旦一之依怙一終蒙二日月ノ之憐二謀計雖二為
一前之利潤一必蒙二神明ノ之罰一
八幡大菩薩
同長谷允隼巻之口
雖食二鉄丸不レ受二心汚人之物雖レ登銅焔一雖レ到レ到二心穢人
之處
春日大明神
雖レ曳二千日注連一不レ到二邪見之家ニ雖レ為二重服深厚一可レ趣二
慈悲之室に
今梅るに此記宣俗間に伝ふるはかりにて正史実詠
神書に見へす其語いやしく其理つたなし無住法
師が沙石集に聖徳太子の御ことはに謀計雖為眼
一前之利潤一終常二仏神之罰一正直雖レ非二ト一旦之依怙ニ必一必一ヲ
一蒙二日月之兵一と記するをみて三社ノ託宣は厩戸皇子椀
一神託妄作せられしことを知ぬ信するにたらさること
なり
続人平]に生火丸力といふ託宣の説
俗説に人倫の出生すること天照太神の神力によれり
是によつて伊勢の二字は人平生丸力といふ神託より出
たつといふ
今按るに非なり伊ノ字の字の旁は尹字にして平ノ字に
あらす勢の字にして生字にして生字にあらす殊に
二字ともに漢字なれは其俱明なり山崎垂加木
朝社語にも伊勢ハ則五瀬二字之倭訓出自二五十鈴川
長塩谷兄半参之ヨ
伊勢風土記ニ云取二国神伊勢津矢命
之名也
といへり思ふに右の
之名一号二伊勢一ト与二社語一異ナリ
一妄説は漸く草字を知て真字を知ざる者の云出せ
ることなるへし
續六根清浄祓の説
四季物語にろうんの
俗間に六根清浄祓といふものあり。季物語にろえの
季物語にはなし
異本真なりと云伝ふ
今按るに此祓に天照皇大神の宣久人彼天下の
神物祭利須レ掌二静謐一心後則神明乃本主他利莫
令レ傷一心神一とあるまでは宝基本紀に所レ載の神託
なり是故仁目仁諸乃不浄乎見弖といへるより下は
法華経に眼根清浄耳鼻舌身意根清浄得二是六
根清浄一ヲ又云ノ内外俱浄又云ク発二大清浄願一補円覚
経ニ云六根清浄善欲心生ヘ普賢経ニ云ク楽レ得六根清
六根は眼を色根とし耳を聞根とし鼻を
淨者當二學二是觀一
香根とし舌を味根とし身を触根とし
意を法根とす
とある説をもつて作りたるものなり
以上六根なり
近世此祓の程をつくる者日本紀に伊弉諾尊の趣
一紫日向橘之檍原に祓除し給ひ左りの眼をあらひ
右の眼を洗ひと有を引てさま〳〵にあやなせとも
影大日
仮礼
一級の偈に諸法如二影像一
一経ニ作レ形ニ
清浄無二仮穢
城ノ文ニ
大日径ニ無ル執二
皆従因業生とあるは
劇ニ取レ説不レ可レ得
雑言ヲ説上
長五六合従倅従之由
不空三
大日経金剛界礼懺文
の偈なり爰を以て
蔵訳フ
習合者流の妄作なることを知へし此段如し
此段加フ補一
補補道を学ふときは不思議ある説
俗間神道を学ふものは火に入ても焼す刃にふれて
もきずつかず不思議の加護ありといふもの多し
一今按なに神道は脩身齋家治国平天下の教なり
あやしき術あるにあらすあやしき事あるは幻術
といふものなり二程全書にある人程子に問てい
はく水火白文をふんてやぶることなきは巫師も又
これをよくすまことあるにあらすや程子答ていはれ
けるはかれ邪心讒道をもつてこれをなし常に
人をあさむくの術を思ふ何のまことといふ事あらん
やまた問しからはすなはち其能するものは何そや
種子日西方に幻術あり変化神通といひて衆人の
一耳目をおとろかすこと〳〵く幻なり巫師の所能
其余緒のみと見えたり考知へし
補神社の縁起の説
俗説云補社の由来をしるしたるを縁起と云
一今按るに神社の由来を書たるを縁起といふは非
なり縁起の字は仏家より出たり法華経方便
長五十一日
品云仏種従一縁起楞伽経ニ云仏説縁起一とあるを
考へ知へし
補補明儒士をまもり給はさる説
俗説云神明仏を尊び僧尼を護り給ふことは多けれとも
儒士文人を護り給ふことはなし
一今按家に神明仏を尊ひ僧尼を護り給ふこと諸書
に見へたるは仏者の偽作なり神書に仏事を雑へ
しるとこるは仏者の加筆なり各信するにたらす
又神明儒士文人を書もり給はすとは非なり橘直幹
文章博士なりしか無実の讒をかうふり流罪にきは
まりしかはこれをなけき北野にまうてゝいのり
しに立ところに霊験をかうふり流刑をまぬかるゝ
のみにあらす日ころ望み来る式部太輔になされ
たり又藤原相親か作文を天神めでさせ給ふこと有
又大江挙開住吉社に祈りて神感によつて母子安
一全を得たることあり又大江匡房天満色の霊験をかう
ふりし事あり各古今著聞集に見えたり其余
かくのことくのたゝひ最多し近世洛陽の山崎垂加
藤森社の霊験をかうふり同所の白井宗因小野の
霊験をかうふりし事土人の口碑にあり又摂陽の福
長正八十九日
住道祐天満宮を祈りて感応ありし事森氏の
儼塾集に見えたり俗説のあやまり考へ見るへし
一続氏神氏子の説
俗間に我うまれし所の地主神を氏補といひ其身を
氏子といふ
今按るに其神地にうまれしものは産土神とは
いふへし氏神とはいふへからす氏神氏子といへるは
たとへは藤原氏の人の我先祖天兒屋根命なと
をさして氏神と称し我身を氏子と唱ふることなり
といふ
一浦宮社の祭礼の説
俗間神社の祭礼には仏者ともましはり古法にあら
さることおほし
今按るにいにしへ神祇官を八省の首に置て伯副祐
史あつて神祇道の事をおさむ毎年二月四日祈
年の祭ありて諸社に奉幣す此日六十餘州また
各国守見つから齋戒して祝部を国府にあつめて
幣を附つ或文古記に詳なり上古神道を崇敬し
祭祀を執行はれし事実を知へし今諸社の祭
礼に仏者とものましはれるは両都習合以来の事
同長谷佐倅従三田
なり延喜式云伊勢齋宮忌詞。佛稱中子
或ハ称二立
須久美ト
経ク稱二深紙一一塔稱一シ阿良々伎一ト寺ヲ稱二凡曹僧稱二髪長一尼
稱二ス女髪長鎭坐傳記倭姫世記倭姫世記寶基本記等載神
説。曰ク辱二佛法ノ愚二寶基本記ニ曰不レ預二観悪不浄之
物霊神所レ悪仏法等是レ也禁秘抄云神事六種忌
之中不レ預二穢悪一ニ穢總。悪二佛事一又云忌二佛法ノ言類聚
一神祇本源ニ云ケ神人守二混沌之始一屏二佛法ノ之息桂ノ之息桂
同書
禁戒
篇ニ詳ニ載下忌ニ
文保記庁宣ニ云二所太神宮者元々本
佛法ヲ一ヲ一之事ヲ
本以テ二清浄ヲ一為レ先屏二佛法ノ息ヲ以テ一正直ヲ為レ宗再二拝神祇一
一故禁二経致忌二僧尼ヲ誡二妖言一ヲ退二巫覡一皆神明之遺勅
二宮之規範也とあるをもつて神と仏と混せさ
ることを知へししかるを世くだり道おとろへて補殿
には仏像をならへ置社地には梵宇を建そへ祭事
をおこなふとては銅磬をならし仏経をよめり本
朝のみにもあらすもろこしにもひとしき事あり
程子の説に釈氏道場に螺鈑を用遊蓋胡人の
楽なり天竺の人は僧をおもんする故に僧を見れ
はかならす飯せしめ楽を前になさしむ今これを
寂徒の葬
死したる者の前になし
慶崎のときにも
程をいふ
祈祷の
まじへ用ゆ
ことなり
の義理そやかくのことき事他
一黄笹谷悦悴長之曰
にあさむきあなとられ千百年に及へとも一人もさ
とすものなしと二程全書に見えたり近世神社
の祭礼此遺風なりなげかしからすや
續放生會の説
俗間に八幡宮の祭事に放生会といふことあり養老
四年九月の神託によつてあみにかゝれる魚をはな
ちわなにかゝれる鳥なとをはなつことあり又ある説
に魚鳥はもと人間の食にそなはりけるものなれは
放生は無益の事なりといふ者もあり
今按るに生をこのみ数をにくめるは神明の御心なる
へけれとも今の世の生は理にあたらぬことまゝ有
事文類聚に欧陽永叔跋二放生池碑ニ云放生池ハ唐
世處處有レ之王者仁澤及於草木昆蟲使一物モ必
遂二其生一ヲ而不ラ為レ為下私恵二ノ也惟天地生二萬物一ク所二。以テ資二於
人ニ然テ代レ天ニ治レル物ヲ者ハ常ニ為二之節使其足レ用ニ而取レ用ニ而取レテ之ヲ不
レ過ル物物得レテ遂二テ其生一ヲ而不レ天王代政如レ斯而已易ノ大
伝ニ曰庖犠氏之王タル也能ク通二神明ノ之德一ニ以テ類二ス萬物ノ之
情一。作二結縄一而為二網罟一以テ佃ク漁蓋言其一ノ始ノ教レヘ民ヲ取リ
レ物ノ資レ生ヲ以テ為下万世之利二ヲ此レ所二。以テ為二聖人一也浮屠氏
之説乃謂殺レ物有レ罪而二放レ生者一得レ福苟如二其言一則
是いにしへの
一包犠氏遂為二人間之聖人地下之罪人矣
聖人の政
の偏ならさることを挙て浮屠氏
世説新語補ニ云ク北使李
放生の宴なるをそしる
諧
人
魏國
至レ南梁武與レ之遊歴至二放生ノ處帝問曰彼
是はじめより
取されは放つ
一国放生谷諸答云ク不レ取亦不レ放帝大ニ徹
べき理なき
ことをいへり
列子ニ云耶鄲之民以二正月之旦献鳩於
一簡子一。簡子大悦厚賞之客問二其故簡子ク曰ク曰ク曰ク平且放
生示有恩也客曰民知君之欲競而捕之
死者衆矣若欲レ生レ之不若禁レ民勿レ民勿二捕捕而放レ之恩
一是取たる物をはなつことを好まは
過不二相補一矣簡子ヲ曰然一
これを取むとしてかへつてみろす
事おほからん。若いかさんことを思はゝはしめよりいましめて民に
とらしむへからす取てはなてるはかねてより取さるにはしかすと云
是等を考へて俗間放生の理にあたらざるを知へし
一又魚鳥は人間の食に備りたるといふこと非なり
列子ニ云天地万物與レ我並生類也類無二貴賤一徒以
少ク大智力一ヲ而相制迭相食非二相為而生レ之ヲ人取二可
食者一食レ之豈天本為レ人生レ之是蚊納嗜レ膚虎狼食
一閲非二天本為二蚊納一生レ入ヲ為二虎狼一生一生二肉ヲ者也とある
を考知へし
続神事に獣を食するを忌説
俗説云神事に獣を食することをいむはあなかちい
にしへよりの事にはあらす中ころより日本は牛馬
すくなき国なる故獣を遊るしてくらはしめは猪鹿の
たくひ尽て終りは牛馬をくらふへしとの遠慮にて神
の忌かふに託せるものなりといふ
今拠るに此説拠なし獣を食するを忌こと神代
よりあり古語拾遺ニ云ツ昔在神代大地主神営田ヲ
之日以二牛ノ完一食二田人一于時御歳神発怒以レ蝗放二其ノ
田ノ苗チ葉忽枯損似二篠竹ニ一欄文保記ニ曰食二猪鹿一ヲ人忌
百日同火ノ人廿一日桐火三日
古老口実伝ニ云不レ食四
足一寿永ニ一ノ祢宜彦章以
堅魚ヲ称レ庵食用之間即有二異夢ノ告二異夢ノ告二異夢ノ告二
恵命院僧正記ニ云禁裏
五月廿一日卒去神異記にも此説状タリ
に四足はすべてそなへずしかるを吉野の天子後村上
院は四足をはゝからせ給はすきこしめしけるとかや
されは御合体の後男山まて御幸ならせ給ひけれ
とも又吉野の奥に還幸ならせ給ふ都には一日片
時もいらせ給はす是しかしなから天照太神の神恵
にたかはせ給ひける故なりと人みな申合せける
とあるを考へしるへし此段加訂補
三宝荒神の説
俗説云安閑天皇の御宇近江国甲賀郡由良里の寺氏
夫婦婢女を竈神に祀る此故に三宝荒神と称す
一説には青面金剛といひあるひは烏沙摩明王共いひ
青丘谷兌梓巻之句
月者竹言辛斗之口
異邦の書には老婦黄羊をまつるとあり圖一説に
は三宝荒神を祈れは家とみいのちなかしまつらされ
は忽にたゝりをなしもろ〳〵の災難まのあたりに来る
一今按るに三宝は釈家の説に仏法僧をさせり荒神
とは日本紀に所レ謂千早振荒振邪神のたくひをいふか
義にをいて相かなはす又近江の土民青面金剛烏
沙摩明王老婦黄羊の説非なり竃神は旧事紀
云大年神子興津彦命興津姫命諸人拝祠二電神
○度会ノ延経神主云ク興津。鍾二ニ訓乎岐ノ説文云ソ聚也
旧事紀ニ云ク軻遇突智腹化為二興山祇一腹中央也神
宮興王土地霊也文徳実録ニ云ノ大炊寮大八嶋竈
神大炊式云竈神八座按竈土受二火気成レ物与二火
八洲霊一同徳古事記大歳神ノ神ノ子九男其第七香山
戸臣神配八方一為正南方一加萬止香山戸之略香
火也万止山戸也火気至二土中一成レ物之名也以此
説を用ゆへし又三宝荒神を祈れは家とみいのちな
かくまつらされはたゝりをなしもろくの災難来る
といふこと非なりおよそ死生貪福盛衰浮飩ひと
しく是命なり荒神をまつりたれはとて得かたき貨
を得死する者の命をのべおとろえたる者栄ふへうらずし
広益儀詩親著之口
其身たゞしからすして巫祝僧徒に朱銭をあたへ
毎日荒神をいろらするとも福は来らすかへつて禍
をまねくへし其身たゝしくは荒神をいのらさるとて
おして罰をもあたふへからすもしゑいてたゝらんは
邪神なり人倫たに依怙をそしる況や神明をや
俗説の謬知ぬへしこゝろあらん人は多く竈神と
予ヲ続俗説弁所ヲ
いふへし三宝荒神とはいふへからすに
載説未定之論
也今除去之別ニ
設「正説如レ右ノ
續軍神三天の説
俗間に摩利支天大黒天弁財天を軍神三天とて
尊信するものあり
今按なに摩利支天は諸天伝に見へ大黒天は南海
此書ハ以二大
寄歸傳佛祖通載
南馬馬道軍神下
馬ヲ為軍神一
大黒経に見へ弁財天は
金光明経に見へぬれは各西域の鬼にして我朝の神
にはあらす然るを尊敬するは非礼なり若我朝に
て武夫の軍神とあかむへくは経津主命武魔槌ノ
一命なるへし此二神は天孫の命をうけはしめて
一豊原中国にくたり不順邪神をしたがへ給ふ功
あれはなり此段改正
一読医神薬師仏の説
一辰元イ言辛亥二日
俗間に医師等医の祖神なりとて薬師仏を尊信す
る者多し
今按るにあやまれり天竺にては薬師をまつり震
且にては神農をまつり我朝にては大己貴命少彦
名命をまつるへし日本紀云[ノ大己貴興二少彦名命一
戮力一心經営天下一ヲ復爲二為二顯見蒼生則定其療病
之方一とあるをもつて本朝にて醫方の祖たることを
知へし補貝原益軒翁ノ云ウ今民俗野老里姫之所
口伝一之方法有二故験一而不レ出于中華之書者甚多
矣雖無二方書而不知其出二于上世一恐是上古二神
之所レ定亦未レ可レ知也
一書に云孫子選千金方
是等の説
渡テ後日本ノ方書絶タリ
を考へ見るへし此段訂補
一讀箭大臣の説
俗間神門の左右に箭大臣と云て安置す其名を知者
希なり
一今按るに旧事紀に豊盤間戸命櫛製間戸命二
神をして殿門を守らしむとあり今の箭大臣は此二神
なるへし
続神門の二王の説
俗間に神門に二王とて安置すこれ金剛神なりと云
広益代言弟之口
今按るに金剛神を仏門に置は是にして神門に
置は非なり秘蔵記云問所二ヲ以テ諸寺門ニ造二立金剛
形像一如何答金剛ノ智也此智摧二滅煩悩一譬如二金剛ノ
強力推二破諸物一其関二発心ノ実相門一以一ク智恵故先門
盛嚢抄云
立金剛内置佛身佛身本來自性理也
大門にある
を二王といふは非なり二王といふは中門に多聞持国の二天を
霊東寺東大寺等のことしこれを二王とも二天ともいふなり常に人
の二王といふは金剛の形像といふへし
正法念経云昔石
此故に古き書にも両金剛にみしるせり
国主二夫人生一ハ千子一ヲ欲一試二当来成仏ノ次第二拘留孫仏
探二得第一籌一釈迦第四籌乃至楼至當二千籌第二ノ
夫人生二二子一ヲ一顧為二梵王為二梵王ノ轉法二次願爲寓
かある人云く経には一人なれとも左
跡金剛神一護牛兄教法ヲ
上右にわけて伽藍の御におくと云
下学集にも此説を載て後人謂之門前二王也と
あるを考へ知へし
読神前の狗の説
俗説に神前に狗を置は神功皇后高麗王は日本
の狗なりとのたまひしよりはしまるこの故に高麗
狗といふ
今按るに神功皇后高麗王を日本の狗なりとの
たまひしといふは彦火と出見尊火酢苛命の事を
とりちかへたるものなり詳に皇后部に記するかことし
廣益作試製著之口
思ふに神前の狗は日本紀に火酢芹命苗裔諸集
人等至レ今不レ離二天皇之宮牆之傍一代二吠物一而奉レ事
一者也神代口近に狗人者罵二悪神代二吹狗一而奉レ事
一者也者大甞会ノ日ニ群臣初入二宮中一時隼人発レ声立
走乃止進二於楯前一拍レ手歌舞者云二狗吠一神代遺風
也
直指抄に云隼人は
とあり是等によつて繆たる
姓なり後に官名となる
ものならん
続諸神の使者といふ説
俗説に日吉の猿八幡の鳩稲荷の狐春日の鹿熊野の
烏愛宕の鳶松尾の亀気比の医なとを其宮社の使
者とよふ
今按るに日吉の旅は震旦天台山の神概猴のかたち
なる故にこれを使者とすといふ説あれとも我朝
の比叡山の神は大山昨神社
奈盛
烏孫
なりと旧事木
紀に見えぬれば其饌明かなり稲荷の狐は鎮堂伝
今の稲荷
記等に宇賀美多麻神
囲狐を
三狐神同坐
専女共
大明神
北み
云
専男ともいふ鎮坐伝記神祇本源に専女神とあり新猿楽記に
伊賀専男とあり河海州に伊賀伊勢国には白狐をたうめ御前
云とあるをあやまるといへり其他あるひは其社其
山に多きもの又ははしめて社内にはなち置る金
獣なとを使者とよび来れるものなり正史神籍に
広益俗試執巻之四
はかつて抜なし
續宮廻の説
俗間に神社にまうてゝはかならす社内を三度めくるこれ
を宮廻となつく
今按るに抜なしある説に神代巻に伊弉諾尊伊
弉冉尊以二テ]礙馭盧嶋一為二国中之柱一而陽神ハ左旋陰
神ハ右ニ旋リ分二巡国ノ柱一とあるを引て宮めくりの證と
すれともなんそ凡人として二尊をまなはんや思ふに
法華経従地涌出品に礼仏三市すとあるを見ゆ
習合者流のまうせたることなるへし
一続鳥居華表の説
俗間鳥居を華表と記するもの多し
今按るに鳥居と華表とは別なり鳥居は上古の門也
華養は日本にはなし一説に事文類製製捜神記等に
遼犬城門外ニ有二華表柱一忽有テ二ツ白鶴一集レ頭時ニ有二一
少年一繊レ弓欲レ射レ之鶴乃飛去空中而言曰ク有レ鳥有
寫丁令威とある説を引て鳥居の證とすれとも迚
華古今注云尭設二誹謗之木一ノ今之華表也以上横木一ク
交二柱頭状如レ華形如二桔櫓一大路交衢悉施焉事物
紀原ニ云ク華表後人立於塚墓之前一以テ記二其識一也応
広益化言辛未之四
一砌曰今宮外梁頭四柱木是也且列仙全伝に華
表の図あり鳥居とははなはた異なり考へ見るへし
鳥居に品々あり近世印行の
一神道名目に図あり見るへし
此段訂補
補拍手の説
俗説に拍手は神代の人をよふ法なりと云
今按るに拍手は上古我朝貴人を拝するの礼なり此
一ゆへに日本紀に持統天皇四年正月即位のとき公卿
一百寮つらなり拝みたてまつり拍子とあり貝原益軒
云。もろこしの詳は九拝とて九品あり日本の拝は拍手
北みて手をうつなりもろこしにて振動針と云日本にて
野客叢書云
これを用るよし周礼疏に見えたり
云振動以西
九拝回振動注
手ヲ相撃也
日本にて今も神を拝するに用遊西峯松下
一見林云かしはでは開平の意手を開てこれをうつその
一平カなること柏葉のことし度会延佳補主ノ神宮秘伝問
答。云ク韻会小補動の下に倭人拝するに両の手を相う
一つ説あり上古の拝礼なり考へしるへし
《題:《題:《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:《題:
俗説云海の逆手とは人をのろふときになすことなり
一今按るにあまのさかてといへるは人をのろふ事にはあ
らす旧事純云。事代主命謂二其父一曰今天神有二此
同監谷悦悴春之由
借問之勅一我父當レ奉レ違因於海中違因於二海中一造
一八重蒼柴籬一踊二船柵二而天之逆手打而青柴垣打出
隠古事記ニ云。事代主神語其父大神云。恐之此國
一者立奉二天神之御子一即陥二領其船一而天逆手矣靑
日本紀云柴
柴垣打成而隱也
此ニ云二府璽
日本紀纂疏ニ云事
代主有意忘レ忘レ世而為二隠者之事也神代口次ニ云ツ事
代主因於海中看避土地也避之者隠退也白井
宗固云の天の逆手といふは神祇に我心の実をうつたへ
て決するときにするなり逆手うつて神に告し
はしめは事代主命なり世々遺風をつきて今に
たへずかしはてのたゝひなり逆の字をさかさまと
思ひ天の字を海として鑿説をまうくるは大に
非なり。
神代
私説此説を考へ知へし
一補木綿縦の説
俗説云神道の木綿縦は仏家の袈裟を似せたるもの
なり
今按類に木綿鏃は仏者の袈裟のたくひにあらす神
代には木の皮をつらねて衣服とせるとかや今とても
神事にはこれをり返てふるきを存す実基本起言
木綿一以ヲ以テ穀木一ヲ作中白和幣上天神七代地神五代ノ神
同同同能説牌巻之四
人皆著二木皮一藤綿連レ之衣縁也潔齋之日清浄之
祭服是其縁也以二天真一為二明衣一故也日本紀云大
日鷲神為作木綿者。同允恭帝紀。云ク諸人各著二木
綿手綱一
釈日本紀ニ云ク木綿ハ摩訓フ所
成也即チ柔摩其後為之
旧事紀云今津
呼見神種殖穀
木
綿
旧事紀頭書云倭
以作二白和幣一
名鈔本草註云木
綿折之多二白絲者也和名波比未由美又云穀玉
篇ニ云ク楮穀木也和名加し知字ニ云ク穀皮可レ為紙陸
後云荊陽謂之。凝中州謂之捕今按ニ木綿穀也杜
仲也橋也陶隠居本草ノ話云杜仲一名木綿折レ之
多白緑者也摩剥
古語拾遺ニ云ツ令二天ノ日鷲ノ神造木
其皮一因謂二之木綿一
是レ木綿也古
綿津呼見神穀木種殖ヲ以テ作二白和幣一
云音和幣ハ造ム以麻調菜也○陽也○陽也
語拾遺句解
豊後風土記云連
白和幣造ニ以穀謂木綿ヲ也。陰也
見郡柚冨郷
在郡
西一
此郷之中ニ楮樹多生常取祷以
造二木綿一ヲ因曰二ク柱冨郷一○神宮雑例集ニ云忌部外從五
位下ノ行豊後介斎部宿祢孝茂ガ弱有イ太綱取
懸ス○神事随事随筆ニ載二木綿織ヲ云宣命に忌部弱肩仁
太綱取懸とのせらるゝ是なり木綿麻並用る故
に今。木綿縫は麻を用極とあり是等を考へて仏氏の
一袈裟のたぐひにあらさるを知へし
続日侍月待庚申待の説
俗間に僧徒巫覡をして日待月待庚申待をなすもの有
巫覡云の神道にも日待あり天照太神をいの留といひ。月待は
書上谷記悴巻之由
素盞烏尊を祈るにはいふ庚申は猿田彦大神のつかさこれ
る日なりまつりて夜ふさゝれは福禄を得ると云
今按雨に各非なり天子は天地を祭り諸侯は社稷を
参り
補白虎通ニ云ク封ソ土ツ立社ヲ示ス有土
尊一稷ノ五穀ノ之長故ニ封レ復祭レ之也
大夫は五記を
まつ留
白虎通ニ云謂門
皆それ〳〵の分限に応し
戸井竃中雷也
てまつれることなるを卑俗丸下これをいの留は僭妄
の罪甚たし南秋江か説にも日月星辰ノ兆二天子一ニ則
不レ祭巫設二七星之神一ノ名山川ハ非二諸侯一則不レ祭巫引二
山川之神一強為二無稽之説以テ為二無益之費囲山崎
垂加の云日月星辰のまつりは天子の事なるを道士
おかしぬるより釈氏もならひて日まち月まちす
とて酒をのみ碁双六をうちて夜をあかし朔にいた
る人のおろかなるこれにひかれてたからをつい
やすのみならす天罰をかへり見さるかなしむへき
なりといへり本邦の正史神書に曽てなき事な
れは其あやまりを知へし又守二庚申夜ふさすと云
事は太上感応編註に三守庚申一三戸伏七守庚
申一ヲ三戸滅守者不寐也とあるにもとつけり其余
遵生八牋に守庚申法一篇あり抱朴子酉陽雑俎
にも守二庚申一とを載たり是道士の邪法にて神儒教
一寶益谷片勝吉
仏道にもかつてなき事なりこの故に祖庭事苑に
三戸ハ非二佛経ニ所一ニ出レ出レ出レ出シ出一といひ圖僧史略には近聞
周鄭之地邑社多レ結守二庚申会一初集鳴佛
歌讃衆人念仏行道或動二経竹一夕不レ睡以テ避三
彭奚上帝詮罪奪二等也然此實道家之法往々有二
無知釋子入レ會圖二課小利會不レ尋二其根本一。誤行二邪一
法深可痛哉としるせり此段訂補
一浦祈祷の説
俗間疾病あれは他を堂のみて祈らするもの多し
一今按るに祈留に道あり先儒の説に子の父にを参る
臣の君における疾ありて祈るは礼の常なり然に
世俗わつかに疾病あれは神としていのらさるなく祀と
して脩めさるなし是すなはち理をてらすこと明か
ならす死生有レ命在レ天ニといふ事をしらさるなりと
いへり人の子たるものは平生つかふたに誠をもつて
し殊更病疾の時にいたりてはます〳〵間断なくころ
さしをつくすへし臣たるものも亦しかりしかるをい
たつらに巫僧にのみ遊たねてたれりとしかへりみる
こゝろなきは思はさるの甚たしきなり
讀禁呪の説
寿益谷片倅養了
俗間に禁呪といふことあり
今按るに神代のむかし大己貴少彦名の禁厭の法は
たへてつたはらす今の世のましなひは多くは浮屠
氏の手に出たりしかれとも用て益ある事多し
といふこれについて思ふに世俗仏を尊ひ僧を信す
このゆへに何れの仏影何れの経文なといへは我精
神をあつめて誠にするによつて彼異ならずといへ
とも自然に験あるに似たり是世に所謂杜子美
か詩を唱へ玉維か畫を見乾たる蟒に驚きて虎の愈たる
たくひなり信するにたらさること明なり
四袋
第一
狩
一冊
46冊
廣益俗説辨五天文
広益俗説辨巻五目録
天子
狩野氏図書記
神村長
豊茂吉
新垂仁天皇御宇八ツの日輪出しを射さしめ給説
同景行天皇に栗樹たゝりをなす説
補応神天皇三年三月にて御誕生の説
一同帝尾籠と勅ありし説
新継体天皇花筐の説
二用明天皇豊後国真野長者か牧童と成給ふ説
新崇峻天皇は釈迦仏の化身と云説
天智天皇腹赤の御熱の説
一寶益説碑巻之五目
三天智天皇山科に行幸あつて登天し給ふ説
広益俗説弁巻五
井澤長秀輯録
天子
新垂仁天皇御宇八つの日出しを射落さしめ給ふ説
俗説云垂仁天皇の御宇に九ツの日輪出しかは天文博士を
めしてうらなはせしめらるゝに北のはつれなるはまことの
日輪にて南にならひたる日輪は烏のばけたるにて候此烏
は地より八町上に有へし射手に勅ありて射させらるへき
か然らすは天下の物怪なるへしと奏しける故左も
あらばとて射手八人に宣下ありけれは八人の射手其
武蔵国入間郡に高き棚をかまへ梯をかけてのほり
慶益伯詩親著之王
〽ける是日本にて柿のはしめなりころは垂仁帝十八
年二月十日辰刻なり帝もこれを叡覧ましまさんか
為武蔵国に行幸ありかくて八人の射手とも思ひくに
神祇を念して箭をはなつに八筋の箭八ツの日にあ
たつて筑紫日向国宮崎郡に落るそれよりしてひうか
とは日に向ふと書なり其後帝難波京に還御ありし
かは程なく八つの日輪を献しける長さ一丈五尺の烏尾
はゞ一丈六尺はしは三尺八寸あり其烏の首をきらせて見
給へは二寸四方の玉一つつゝ有其中にいつれも一寸六分
の釈迦の像へ体ありかゝりしかは八つの玉を一つは尾張
国熱田社に一つは伊勢外宮に一つは紀伊国日前宮に
一つは信濃国諏訪社に一つは豊前国宇佐八幡宮に一つは
一逢坂関明神に一つは摂津国住吉社に一つは帝の御宝
蔵にこめられけるかの射手ともは坂東八箇国を賜り
天文博士にもそこはくの所領を充行ると云
一今按るに垂仁帝の御宇九つの日出しを武蔵国に
一臨幸ありて八人の射手に射さしめ給ふ事日本紀
等に曽て見えす又武蔵国の号此ときにはなし大和
本記に武蔵ノ国秩父嵩者其勢如二勇者怒立一日本
武尊奏二此山一ヲ奉二為東征祈祷一以二テ兵具納二埋岩蔵一故ニ
広斉仏説報巻之五
曰二武蔵国一ト也以二武具一ヲ指置之儀訓二牟佐志一也と阿
礼は垂仁帝よりはるか後に武蔵国と号せること明
なり又梯の事垂仁帝の御宇にはしまるといふ事
非なり神代巻に伊弉諾尊伊弉並尊天柱をもつて
大日霊貴
天明
太神を
を天上に挙給ふとあり釈日本紀ニ云フ以二
天之御柱一為二其登橋一者則送二之天一也天ノ往甚短而
為二其登橋一者是時天地相去未レ遠之故也
送ル日ヲ於天ニ以テ以二ヲ瓊牙一為レ梯也○丹後風土記土記云伊射
祭芸尊天ニ為二通行一而桁作立○但し此段は天地を以て
同本紀
築流云
人倫をいひ人倫をもつて天地をいふ尤口決あり
これ梯のはしめ
此所に引用は書に就てたゝ事跡を挙也
なり又日落る所を日向と書クといふ事非なり日本紀
に景行天皇十七年春三月幸二子湯県二于丹裳小
野一時東望謂二左右一ニ曰是曰是レ国也直向二於日出方一故號二
其国一曰二日向一也とあれは垂仁帝より以後の号なり
又烏の頭に珠ある事非なり但日本紀に垂仁天皇
八十七年春二月大中姫物部十千連に石上の神
実をおさめしめらる其神実の内に牟士将の腹よ
り出たる八尺瓊の勾曲ありと記せり此説によりて
妄作せるにや又烏の玉を諸社にこめらるゝこと各
非なり尾張風土記神名帳頭書を考るに熱田社は
一日本武尊を把り後に伊弉並尊天照太神素盞烏
尊倉稲命宮簀姫をあはせまつる日本紀旧事紀古
事記帝王系図を考るに日本武尊は垂仁帝の孫
にて景行帝の子なり垂仁帝十八年より九十四
年を経て生れ給へり其相違を知へし又伊勢外宮
は倭姫世記に雄略天皇二十二年七月七日に建立
とあり垂仁帝十八年より四百余年以後也又宇佐
八幡宮は廿二社註記に聖武帝御宇神亀四年に
建立とあれは垂仁帝より三十五代の以後なり又
一逢坂関明神は蝉丸にて醍醐帝の御宇の人なり
垂仁帝より四十九代に及へり又住吉明神は攝津風
土記云所二以称二住吉一者昔息長足比賣天皇山
神功
皇后
世住吉大神出現而巡行天下覓可レ住国時到於
前ハ者今神宮ノ
沼名掠之長岡ノ之前一
乃謂斯實可レ住
ニ南ノ邉是レ其ノ地
之国遂讃二称之云ノ真住吉ノ国乃是定二神社一ヲ今俗畧
之直称二須美乃叡と見えぬれは垂仁帝よりはる
か後の事なり是等をもつて其偽をしるへし思ふ
に淮南子ニ云ツ尭時十ノ日並出草木樵枯尭命レ昇仰
射一十日ノ中二其ノ九一ニ烏皆死堕二羽翼とある妄誕を日本
の事につくりたるものならむ
新景行天皇に栗樹たゝりをなす説
俗説云景行天皇六十年十月帝御悩ましくけれは諸社
にをひていのらしめらるゝにあへて其しるしなしかゝる
ところにいつくよりともしらす一覚といふ卜者来りてい
はく近江国に栗樹あり此木帝にたゝりをなすか故なり
此木をきらしめられは御酒御平愈あるへしと奏せ
しによつて彼木をきらしめらるゝに毎夜きるところの
木もとのことくにいえてつくることなし此教に一覚を召
て尋られたゝに覚かいはく此きる所の木ノ屑を毎日やくへし
さわらは此木たちま地にたを留へし我はかの木に敵
対する葛なり数年感をあらそふ故にこれを奏すと
云終つてうせたり其ことはのことく屑を焼こと七十餘日
に及て木倒る此木のえた九里四方木の大さ数丈なり
是より帝の御脳平愈まします彼木の有し郡を栗本
郡と号す今にいたるまて地中より腐たる木葉をほり
出すこれを所にては宿藻と云
今按なに此説日本紀旧事紀古事記其余の諸実
録にかつて見えす思ふに今昔物語に近江国栗太郡
に大なる柞樹有此図五百尋なりたかく枝しけれり其
蔭朝には丹波の国をおほひ夕には伊勢国をおほふ地
震にも動かす大風にもたはまず此故に其国の志賀
同百三十一年巻之五
栗太甲賀三郡の土民此木によつて日あたらす田畠
を作ることなし其郡々の者これをうれへて帝に
奏す
此帝
未知
帝掃守宿祢を遣して此木を伐たをさせ
右改正ヲ
らるゝそれより田畠豊饒なりとあり
旧文一
玄中記に
秦始皇のとき終南山に梓樹あり大さ数十圓宮中を
蔭す始皇にゝんてきらゑむるに忽大風雨おこり砂石
をとはすこれによりて人皆出それて逃はしる夜にい
たりてきりたる所金あへり然るにある者風雨にあて
られ病おこりてにくることあたはす其木のもとに宿せ
しに夜ふけていつくよりともしらす鬼来て樹に向て
云く秦皇凶暴にして汝をきらしむ苦しかるへしと
樹こたへて人来れは風雨をおこしてこれをうつなんそ
憂ふるにたらんやと鬼また問秦王もし三百人を遣し
頭に赤絲をかふらせてきらしめはいかんといふ樹養ふると
なし木のもとにふし居たる者此問答を聞帰りて
秦王に奏しけれは則其ことはにまかせきらしむるに
樹たへて倒るとあり此両説をとりあわせて妄作し
たるものなり此段
訂補
補応神天皇三年三月にて御誕生の説
俗説云応神天皇は三年三月にして誕生まし〳〵乗る故
三年三月といふ世話あり
貝原好古云此説非なり日本紀に拠て考るに仲哀天
皇八年巳卯のとし天皇神功皇后とともに筑紫に
一幸まします九年庚辰のとし二月天皇忽になやみ
給ふ事あつて翌日にかゝれましぬ其とし神功皇后
は御懐胎なから天皇の仇をむくはせ給はんため三韓を
一征し給ふ三韓降伏せしかは御帰朝まし〳〵て十二月十四日
応神天皇を飜紫の蚊田にてうみまし給へりあくる
辛巳のとし春二月神后皇子とともに京に上らんと
一し給ふとき皇子の庶兄麝坂王忍熊王なと軍を起る
して神后皇子を害せんとせられしかともついにうちへ
まけて皆死せりかゝりしかは神后皇子ともに難なく
京に上り給ふ則このとしを神功皇后の元年と第二年
一壬午のとしの冬仲哀天皇を河内国長野陵に葬り奉
羅留かゝ三韓の大敵を攻したかへ邦内の逆徒をうち
亡し天下を掌におさめ給ひしかはあく留三年癸未の年
正月三日誉田ノ皇子を立て太子とし給ふ誉田皇子は
則応神天皇の御事にして神とあらはれ給ひし後は
八幡大神と申奉るはこれなりされは誉田皇子は巳の
卯のとしの正月より神后の胎内にやとらせ給ひ其
とし生れ給ふといへとも実に天下の主と定給ふ事
は癸の末。のとしの正月三日なれはこれを三年三日と
いふ庚辰のとしより壬午の年まて三年癸未のとしは
会立て三日なれはなり是をいひあやまりて三年三月と
いひ殊に前後三年三月にして参田皇子生れ給ふと云
皆不稽の誤なり
一応神天皇尾籠と勅ありし説
俗説云応神天皇は龍神の御すゑにて侍りし故龍の
尾まし〳〵ぬこれをかゝしたまはんとて御装束に裾と云
ものを作りてこれをひきてかの尾をかくさせ給ふあるとき
出御の折から内侍いまた裾の内にあるをしけて障子に
たてこめたりけれは天皇尾籠れりと勅有しより尾
籠といふことははしまれり
ある人云応神天皇を龍神の御すゑといふ事故なし
御父は仲衰天皇御はゝは神功皇后なり又尾籠の字は
日本紀釈日本紀に拠に尾籠と訓す今いふ嗚呼者
なとにひとししかるを音を知て訓をわきまへさる
ものしいて此僻説をつくるのみ
新継體天皇花筐の説
俗説云継体天皇いまた即位ましまさゝるさき大諸辺
同同長谷允幸兵衛
皇子と申せしが越前国味間野といふところにおはし
ませしを武烈天皇御代をゆつらるへきよしにて御
むかひの人くたり供奉して上洛あり即位まします
此とき越前にて御寵愛の照日前といふ女房に御消
息と御手なれ給ひし花筐とを残し置給ふかの女房
御消息をひらき見るに頼めたゝ袖ふれなれし月
かけのしはし雲居に帰ありとも女此しなくを持て
狂気し和州玉穂宮に尋ねのほりふたゝひ御寵愛と
り皇子降誕あり此皇子即位の後安閑天皇といふこれ
よりして恋しき人の手なれしものを形見となつ気
そめしなり
今按るに旧事紀を考るに継発天皇を男大述天
皇
古事記には
更名彦太尊とあり男大述を大諸邊と
袁本杼と有
あやまれり安閑帝の母は照日前とは云す古事記に
安閑帝母尾張連等祖連之妹目子郎女とあり思ふに
継体帝越前国味間野におはして照日前を愛し給ひ
越前より上洛のとき花筐をのこし給ひし事は日本
一紀に継體帝の父彦主人王
誉田天皇は
越前国高向の振
五世孫
一媛と云者容色ありしかは納て妃とし継翼帝を産ず帝
幼年の時父薨し給ひしかは振媛男大述とともに高
向に帰り養育し奉る其後上洛し給ひ即位あつて
御母を尊ひて皇大夫人とまうずとあるに旧事紀に
一饒速日尊長髄彦か妹御炊屋姫を娶り妊めるとき
一尊姫に命して汝かうめる子若男子ならは味間見命
又云宇摩志麻治命
又云可美真手命
となつけんとのたまふすてにして
うみ給ふ子男子なる故味間見命と号す饒速日尊
神頭去坐て後御炊屋姫の夢に高まみへてをしへ
ていはく汝か子吾ことく形見物とせよと即天璽瑞宝
一を授給ふと有此二説をとりあはせて妄作せしものなり
二用明天皇豊後国真野長者か牧童と成給ふ説
俗説云用明天皇の御宇豊後国に真野長者といふ者
一ひとりの女子あり玉世姫となつく其容色世にすく礼
たること感聞に達しけれは帝いろにふきた御こゝろふかく
かの姫を后にたてらるへしと勅ありけれともいかなる子細か
有けん長者違背に及ひける故いかにもして姫をめされ
むかため世にまれなる財ともを御望み有てもしこれなくは
姫を奉るへしと有しに御望にまかせてさま〳〵の財を出
しける故帝も為方なくやおほしけん十六の年ひそに
禁裏をしの飛出給ひ豊後国にくたり御名を山路とあら
一ため長者か数童となり御心をつくして玉世に通し給ふ
百笹谷悦率参之
其後鏑馬によつて天子なる事あらはれしかは長者おと
ろきおそれて姫とともに洛におくり奉る聖徳太子は
彼玉世姫か生ると相伝ふ
一今按るに此説国史及豊後風土記にも見えす日本
紀旧事紀を考れは用明天皇十六歳のころはいまた
一即位那し四十一歳にて即位翌年崩御あり其際遠
一国に行幸の事なし聖徳太子の母は欽明帝の女
用明帝の妹にて穴穂部間人皇女と云しを。御先用明
帝后にたてられ四男をうましむ其一を厩戸皇子軽
徳
一文といふとあれは俗説の誤りを知べし但し日本紀に安
仁徳帝第五
康天皇大泊瀬皇子のために大草香皇子は
一皇子母日向髪
姫
母大草香に同し始兄履仲帝の
姫の妹幡梭姫
妃となりて中帯姫を生此時は嬬婦也
を聘せんとて根
使主といふ者をつかはしてこひ給ふに大草香承引あつて
其しるしにとて押木の珠漫を根使者につけて天皇
にたてまつけれしに使主此珠漫をぬすみいつはりて大
草書勅にしたかはさるよしを奏しけれは天皇逆鱗有て
履仲帝の皇女母は幡
大草香皇子を害し其妻中帯媛
援媛なり伯父大草香の
妻と
なるをうはひて重后とし幡楼俊媛を大泊瀬の妃とし
一幡媛の孫
給ふ其後大草香の子眉輪王
安康天皇を
中帯姫の子
賤しける故大泊瀬皇子殺二眉輪一ヲ即位し給ふ是雄略
同一番笹谷悦悴巻之点
天皇なり其御子を清寧天皇といふ清寧に御子な
かりしかは国々に勅を下して皇胤を尋ね給ひしに
履仲天皇の御孫臆計王弘計王といふ人おはしき其
御父市辺押磐王
中帯
姫兄
も子細あつて大泊瀬の為に
殺され給ひしかは二人の子たち其害をのかれんとて
の
播摩の赤石岩に落極き丹波小子嶋稚子なと字て
旧事記には綿見長倉首
といふ者の僕
編見屯倉首
忍海部造細目と見へたり
一となり牛馬を牧て君給ひしかあるとき国司小楯か咎
宴の席に出て履仲天皇の孫たることをうたひ名乗
給ひけれは小楯大におとろきいそき上洛し此旨を奏し
けるに清寧叡感あつて二人をむかへとりやしないたまふ
一後に各即住し給ひて顕宗天皇仁賢天皇とまうす
とあり此説粗桐にたり是にまつてつくりし事ならん
新崇峻天皇は釈迦仏の化身といふ説
俗説云蘇我馬子東漢直駒をかたらひて崇峻天皇を献
す此とき帝四句の文代となえ給ふ我身本體釈迦尊
慈悲衆生即王位慈眼世間無常理終婦霊山寂光
土これ釈迦仏の化身なる故なり
一林羅山翁春秋の法をもつて此事を書していはゝ八
一耳弑天皇二と八耳は厩戸皇子なり国史に馬子弑崇
俊一といへり執逆をおこなひしは馬子なるを八耳と書せ
る事は春秋宣公四年の経に夏六月乙酉鄭歸生弑二其
君一とあり弑せし人は公子宋なりしかるを帰生と記す
る事聖筆の教なる所にしてこゝろを誅せしもの
なり帰生は鄭の貴賎にして政を執し人なり公子
采か君を弑せんとするとき帰生に語てともに相
はからんといふ帰生したかはすといへとも又これを制し
とゝめす子采終に君を弑す帰生またこれをうたす
其身国の大臣として決断なき事かゝのことし手つ
から君を弑せずといへとも其心君を弑すると同じ
この故に聖人罪を帰生に帰して万世のために乱
臣賊子の戒を残し給へり厩戸も又貴戚にして
一政を執し人なり馬子がつねに驕ほしゐまゝなるを
制しとゝめす天皇を弑すといへともまたこれをうたす
是郭の帰生に同しき者なり太子馬子ともに仏法
を好て其こゝろさし相合り同気相応する所より
罪悪ありといへとも見さるかことし太子は天資聡明の
人なりなんそ聖人の道をまなはす異論の教に
まとへるや其費終に君を弑するの凶逆をまぬかれ
すとあり
羅山
文集
これをもつて思へは後世仏を信する者
書笹谷悦学巻之上
好すれとも其悪を知て厩戸馬子か羅悪をおほはん
ため崇俊帝を釈迦の化身とあやなし世俗を誤る
事かゝのことし
補天智天皇腹赤の御贄の説
俗説云天智天皇いまた位に即給はさるとき君は乞食の
桐おはしますと申もの有けれは朕帝位に即て乞食す
へきにあらすされとも備る胴のかれかたし即位以前に
其相をはたさんとて西国に御修行あり筑後国江崎小佐
島といふ所を通らせ給ひけるにつかれに望み給ひけれ
とも供御まいらするものなかりしかは綱をひく海人に魚一
をめされて御つかれをやすめさせ給へり魚の名を御尋
ありけれは艦と奏し申す其後御即位まし〳〵もこの
浜より腹赤を献すあるひは腹赤は
石剣魚なりといひ又は鯰の字を用ユ
魚を年ことに備へ奉る館の御贄のはしめなりある
あるひは肥後
国宇土長
今按なに此説各非なり天智天皇にあらす景行天皇
なり筑後国小佐嶋にあらす肥後国玉名郡長衛服赤
浜なり肥後風土記云玉名郡長渚浜[ニ]]
西一
在郡
昔者大
足彦天皇
景行
天皇
大隅国増順朔に
肥後国球磨郡に住るに住ら
誅球磨
熊津彦か事也日本紀に見る
噌
住せる者なり
還駕之時泊二御船於浜一御船ノ左右ニ游
魚多之棹人吉備国朝勝見以レ釣釣レ之多有レ所一。獲
同長路院悴医之臣
即獻二天皇一勅曰所レ献之魚此為二何魚朝勝見奏申
一未レ解二其名一止似二鶏耳歴一御覧曰ク俗見二多物二即云ノ余
信佐ニ余今ニ所レノ献魚甚此多レ有可レ謂二余倍魚二今謂二今謂二余
倍慈其縁也肥後古老の説に昔長渚の
辺に井上ノ真名といふものありて景行天皇に魚を献
したりと云伝へ今にいたるまて腹赤鯛となつけ漬
にて焼て商買す肥後名産の一つなり所の名に有て
朝に献するを腹赤の御贄とよふ是を以てはれはあな
かち鶏にも鯛にもかさらす何うほをも此所にて漁りたるをは
腹赤魚といふへし腹赤浜に供御の池といふ所あり
一是天皇に供御を備へたる跡なりといふ腹赤村に社を
一建て景行天皇を名石大明神とまつるこれを陸景行
景行
色と云
社地を四
の皇子四人を四皇子といはふ
皇子山と云
糸行の妃日向御
刀姫を沖洲に女石明神といはへり中村五日本紀に景行
天皇十八年六月高来県より玉杵名邑に渡るとあるは
右の経歴のことなるへし腹赤は所の名なることをしらて
あるひは石船魚とし鶴とし鯰と書は誤なり又長次の
草字長浜ににたるをもつて宇土長浜とす又非なり一統
に腹赤にてつりたる魚を宇土にて献したるかといへとも弓
土と玉名と其境ひとしからす且宇土長浜も漁の地
にして魚鼈甚た多し何の故に宇土より十餘里を越て
腹赤の魚をもとめんや諸説区々なりといへとも風土記
は元明帝の勅によつて其国よりしるし出せる書なれは
もつとも抜とすへきものなり
三天智天皇山科に行幸有て登天し給ふ説
俗説云天智天皇山科に行幸ありしか其浅草ありしかへり給
はす登天し給ふと相伝ふこの故に崩し給へる所をしらす
たゝ御沓の落とゝまりたる所に御陵をたつ
松下氏云沓落る所に陵を築く説詳に日本紀をよま
すしてたゝ俗説にしたかふものなり日本記云ノ天智天
皇十年九月寝疾不予十月疾病弥医十二月乙
万葉集にも天智帝崩御
丑崩二于近江官一
の時大后悼の御歌ともを載
是国史の明文
なり崩し給ふ所は近江の滋賀宮なりしかるを後世
あやまつて行叡居士か事を混雑して天智天皇の事
とするのみ元亨釈書に云宝亀九年四月沙門延録
報恩
門弟
夢の告によつて淀河にいたるに金色のなかれ有
鎮これをあやしみ水上をたつねて瀧のもとにいたる
にかたはらの草庵に白衣の老翁居れり鎮此翁にむか
ひて汝か姓名はいかむ此所にすむこといくはく年そと問
翁か云く我名は行殿此地にかゝれすめること二百歳に
およへり常に千手千眼の神呪を持す汝をまつこと
すてに久し我まさに東州に行へし汝しはらくわれに
かはつて爰にすむへし此地また練者を建留によろし
庭前の株椅をもつてかねて大悲の像をきさまん
ことをおもふ我もしおそくかへらは汝まつこれをいとな
むへしといひて東にむかふてされり其後期を過て
かへらすある日延鎮山科の東の嶺にいたるに翁か覆
あり鎮履を取て松もへらく此履をのこすは其跡を
しめすのみとあり此履を残す地は山科音羽山法教寺
なり法厳寺は天智天皇の建立なり此故に混して
天智天皇山科にをいて履をのこす其おはる所をしら
前王廟
すといふ大にあやまれり
前王廟
陵記
広益俗説弁巻五終
廣益俗説辨巻之五
第一
狩
廣益俗説辨六テ
天子
広益俗説弁巻六目録
狩野氏図書記
天子
神村長
豊蔵書
一天武天皇逆臣大友皇子を誅して即位の説
新同帝の御宇国栖の奏はしまる説附同帝に二万室
より兵をたてまつる説
二聖武天皇は聖主といふ説
一補同帝舎利を太神色に献し給ふ説
三桓武天皇は賢主といふ説
四清和天皇相撲の勝負によつて即位の説
五延喜天暦の聖代といふ説
同黄益谷乾草巻之写
新延喜帝寒夜に御衣をぬきて民のく雨しみを知給ふ
説付同帝地獄に堕給ふ説
一六花山院后あらそひの説訓補
同補
新安徳天皇は八またの大蛇か化身にて宝釼を取返す説
廣益俗説辨巻六
廣益俗説辨巻六井澤長秀輯録
天子
一天武天皇逆臣大友皇子を誅して即位の説
俗説に云天智天皇御位を天武帝にゆへり給ひしに大友
皇子位をうはらんとてたひ〳〵軍を卒して襲ひけるに
天武謀をめくらし終に大友を誅して世をおさめ給ふと
云伝へ大友を逆臣といふ
一今按るに日本紀神皇正統記水鏡等を考るに天武
天武其姪菟野皇女を妃とし給
は天智の弟にて又塔なり
是後に位に即給ひて持統天皇
といふ大友
皇子の姉也
大友皇子は天智の子にて叔父天武の婿なり天
鹿並伊詰雑表之方
一智元年に天武を立て東宮とせらる十年十月天
智病にふし給ふとき天武をよんて朕病おもし後の
事汝にまかすとありしに天武偽りていはくねかは
くは天下をあけで皇后に附し大友皇子をたてゝ
儲君とし給へ某は多病なれは出家して陛下のため
に功徳をおこなはんといひ髪をそつて吉野に趣く
同年十月大友皇子東宮に立同十二月三日天智崩御
同五日大友皇子即位し給ふ翌年七月天武兵を催
し大友をせむ大友うちまけて縊死し給へり此
説をもつて見れは大友は即位ありてすでに八月
におよひ天武は此とき薙髪して桑門となれる人
なり一旦宿意を遂給ふといへとも顧命にたかひ若
を弑するの罪をまぬかるへからさるか天津日つきは
天なり凡人の論するところにあらすといへとも大友
を逆臣といへるは其理なし
新天武天皇御宇国栖の奏はしまた説附同帝に二万
里より兵をたてまつる説
俗説云天武天皇大友の皇子におそはれて大和国吉野
に落給ふとき国栖翁粟の御料にうぐゐといふ魚を献す
これによつて運をひらかせ給ひて後国栖の奏とて代々
庸朝作記輯巻之書
たへす又云天武天皇大友皇子と天下をあらそひ給ひ
けるとき備中国にて両方の兵たゝかひを決せんとす
時に天武の御勢はわつか三百余騎大友皇子の御勢は
壱万余騎なり勢の多少更にたゝかふへくもなかり
けるところにいつゝより来れるともしらすさはやかに
よろふたる兵二万余騎天皇の御方に出来て大友皇子
の勢を十方にかけちらす是よりして其所を二万の口
と名つける
今按るに国栖奏は天武帝のときはしままにあらす
一応神帝の御宇にはしまれり日本紀云応神天皇
十九年冬十月朔日吉野宮に幸し給ふとき国禅人
醒を献す国様は糸より東南にて山をへたてゝ吉野
河上に居留是より後参赴て土毛をたてまつ富その
土毛は栗菌及。年魚のたくひなりとあり又二万卿
の説相違す本朝文粋三善清行説に備中ノ国下
道郡ニ有二リ]邇磨郷一爰見二彼国ノ風土記一ツ皇極天皇六年
大唐將軍蘓定方卒二新羅軍ヲ代二百濟二百濟遣二使乞
救天皇行二幸ノ筑紫ニ將出救兵ヲ出二救ノ兵ヲ天智天皇爲天皇爲二皇太子ト
天智天皇筑前国上座郡朝倉山中に黒木の屋を
攝政徒二行路一
作りておはします木の丸殿といふと八雲御抄
藻塩草奥儀抄十訓抄等に記したり詳に筑前続風土記にのせ
たり此時の事なるべし一説に土佐国朝倉木の丸殿とあるは非なり貝
書金谷兌辛参乙▽
鹿野郡辨辨巻之六
原翁弁之観前
宿下道郡見一郷戸邑甚盛天皇下
名寄に見えたり
詔試徴此卿軍士一ヲ則得二勝兵二万一万一ヲ天皇大概名二此
金葉集に云藤原家経歌に見つ
邑曰二二萬郷一後曰二邇磨一
きものはこふよをろをかそふれは
にまのさと人かすそひにけり○広宝物集には菱原家経とありて
見つきものはこひよせてふとあり周防内侍家集にきみか代は
二万のさと人かすそひて
北之あるを考へ知へし
たへす備ふる見つきものかな、
二聖武天皇は聖主といふ説
俗説云聖武天皇は日本の大聖人なり観音の他現聖
徳太子の再来なり
今按我に聖武帝に聖徳ましませし事かつてなし
續日本紀扶桑略記本朝編年録羅山文集日本
略史等の説を考るに聖武天皇は文武帝の太子なり
天平元年八月叔母光明子を立て皇后とし給ふ同八
一年南天竺の波羅門僧正菩提林邑の仏哲鑑真和尚
一来朝し気るを帝甚た尊信し給ふ此ときより疱瘡
はしめて日本に伝へ来り死る者多し同九年十月中
一宮に供養院をたて僧を置経をよましめかの僧とも
供養の為なりとて鈴鹿王以下の郷相に薪を荷せ湯
を沸さしめ僧等を沐浴せらる同年十二月疫病大にはや
りて死るもの甚た多し前代未聞なり同十二年大宰
少武藤原広嗣謀叛す其故は元時僧正刑
俗姓
阿力
光明皇后
届衣代言者ヲ
に密通しけるを見て帝に奏しけれとも天皇きゝ
いれ給はす元防此事を伝聞て廣嗣を讒す帝弥へ宸嗣
をにくみ退け太宰府都督に貶す廣嗣いかりにたへす
筑紫にをいて謀叛しければ大野東人をつかはして
一誅せらる是より元明弥朝恩にほこり紫衣なとを
たまはり昼夜ともに内裏にあり遂に光明子一男子を
大和奈良紀云元賜は右今の智識
うめり是元勝か子なり
なれは聖の胤をつかせんとてわさと
光明子をゆかし
かの男子長て薙髪して善珠僧正といふ
たまふともあり
日本後紀に僧正善珠姓阿刀大皇后藤之光明子之華
野槌に所
又光明子帝に請て浴室を建
子なりとあり
載も又同
此事后妃
又帝東大寺を建大仏を
見つから千人の垢を去る
の部に従す
つくり行幸し仏像にむかひ見つから三寶の奴と称し
給ふ同十五年甲賀寺に盧舎那佛の像を建天皇手
つから其縄を引給ふ此とき行基朗弁なといふ僧とも
おほくありしを帝御信仰ありて行基に菩薩号を賜
り宮中に出入す然るに元肪僧正あまりに淫乱なり
けれは帝も漸くうとみ給ふ御心やありけん元坊を誹
紫に流し給ひけるに天平十八年夏六月椀前の観音
寺にをいて広嗣か異につかまれ翌年南都の興福寺
一に元賜か頭を陸せり其頭に元勝の二字あり光明子
一かの首を埋ませ塔を建させらるこ礼を頭塔といふ
孝鎌天皇なり
帝位を皇女高野姫君
母は光明皇后
に遊つり髪を剃
て汝弥勝蔓と称し給ふと見えたり在位の政行
明主のするところにからすしかるを聖人といひつたふ
一るは仏法にふかく帰依し僧を尊み寺を多く建らへ
れし故全く浮屠氏の私言なり
補聖武天皇舎利を献于伊勢太神宮説
俗説云聖武天皇行基に勅し仏舎利一粒をさづげ勢
州につかはし太神宮に献せしめらる行基南門大杉の
下に廬をむすひて居持念して上旨を告七日を期す
七夜にあたれるに神殿みつからひらふ唱へてのたまはく
実相真如之日輪照二却生死ノ之長夜ヲ本有常住之月
輪。熾二破煩悩之遺賈我介逢難二難レ遭大願一如二渡得船又
受難レ付宝珠如二暗得一レ矩師かもてる舎利を以高郷にお
さめうづんて邦家に頼せよと行基舎利をかのところ
におさめ都にかへりて事を奏す帝大に悦せ給ひな
がら行基を廟使とする事朝儀にかなはすとて橘諸兄
に勅して勢州にまうでしめらる諸兄には神勅もなし
諸兄帰洛の夜帝の御夢に皇太神つげてのたまはく
日輪はこれ毘盧舎那なりとて日輪の棚をあらはし其
光かゞやけり
今按るに本草綱目を考るに舎利は精気の凝結せ
るものにて甚た穢はし神事にはふかく穢悪をにく
めり鎮座伝記云不レ觸二諸穢悪事不云ハ仏法ノ言屏一
仏法ノ息一鎮座本記云不レ觸レ觸レ諸穢悪事ニ不レ行二佛法一ヲ実
基本記云不レ預ク穏悪ニ不レ失一其正一目不二見不浄神祇
木源ニ云ク神人守二混沌之始一屏二仏法ノ之息神祇令義
解云ク謂二穢悪者不浄之物鬼神ノ所レ悪也禁秘抄云
不レ預二テ禰悪ニ禄ハ惣悪二佛事一ヲとあり昌黎韓愈か仏図
を論する表に枯朽之骨凶穢ノ之余豈令レ入宮禁一ニと
いゑり況や太神宮をや其謬明れし又太神宮神
一託は浮屠の妄作なるへし慶会延佳神主云行基を
勅使にて伊勢太神宮にいのり給ひしに神殿の御
戸開て太神神勅ありしなとて帰京して奏聞せ
られしを聖武いかゝおほしけん天午十四年十一月
三日に橘諸兄公を勅使として重て太神宮へ遣留
諸兄公には何の神勅も夢もなしいとあやし行基
右陽復記説同題書ニ云行基事
の聞れし神勅はいふかし
「」「」」」「「「書」」「」「」「」」」」」」「」」」「」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」「」「」」」」」」」」」」「」」」」」」「此書」「此書」」」」」」」」」「「「「此書」「「此書渡
續日本紀ニ云天平十年五月辛卯使右大臣正三丁
位橘宿禰諸兄神祇伯從四位下中臣朝臣名代
右少辨從五位下紀ノ朝臣宇美陰陽頭外從五位
太神宮例文
下高麦大資神寳奉二于伊勢太神宮一
云伊勢公卿
勅使聖武天皇天平十年五月辛卯勅使右大臣
正三位橘ノ宿祢諸兄中臣神祇伯名代民部卿国
麻呂右説
伊勢勅使部類記ニ云ツ公卿勅使雑例聖武
ト少異アリ
太神宮例文云
天皇一度宣命趣遣唐使平安事は
自聖武帝至持
明院勅使
百三十度
とあれとも右の神託の事は見えす
又聖武帝御夢の事は左もあるへし山崎垂加云
大かた夢は思ひのほらはるゝもの故に正しき人に雑夢
なし殷の高宗は夢に伝説を得て成湯の政にか
へし給ひ漢の明帝は仏を夢みて中国にむかへいれ
神国まて毒をなかせり先王宗廟の礼のすたれける
も明帝のわたくしによりてなり聖武帝も甚だ仏
にまとひ給へは御夢は其思ひの感にて事の実にあら
右大和
さるをしるへし
是等を考へて俗説のあやまり
に思ひ
をさとすへし
三桓武天皇は賢主といふ説
俗説云桓武帝は賢主なりといふあるひは聖武桓武延喜
天暦の四賢といふ
一今按るに正史実録にをひて桓武帝の賢徳見あた
らす中山忠親の水鏡を考留に桓武帝もとの
同三月一日庚午
御名を山ノ部ノ親王といふ光仁帝第一の皇子母は高野
新笠姫なりしかるに光仁帝いかゝおほしけん山ノ部ノ親王
野茂帝二女
の御腹に他部親
を有さし置て井上皇后
考鎌帝ノ妹
わとて十二になり給へるを東宮にたて給ふあるとき
一帝皇后と博奕したまひけるにたはふれてのたま
はく我まけばさかんなる男を参らすへし后まけ給
ひなは色かたちよからん女を得させ給へとありしに
帝まれたまひ参れは皇后男を出し給へとしきりに
せめられける故帝いかゝせんとおほしめす折ふし藤原
百川かねて山郡親王に志を通しいかにもして即位れ
いらせんと思ひけれはよき両よりと悦ひ奏して
いはく皇后の御かたには山部の親王を奉られ然るへし
とて親王に参りて能々申ふゝめこらす帝親王に
をよびわれ年老て堪す后色に参り給へとあり
けれは親王すなはち健母皇后に参り給ふ親王御年
三十六皇后御年五十六なり世のそしり甚たしか
りけれとも后親王を又なきものに思ひたはれまどゐ
給へり此故に帝も后をうらみにくませ給ふ御こゝろ
出来ければ百川さま〳〵に讒をかまへて皇后他部
親王をうしなひ山部親王即位し給ふこれを桓武
同同長谷筑津長之口
世美流布の書に桓武帝を賢主とし
即位
天王とまうす
〇百川を忠臣と記せるものあり大にあやまれり月は
はじめにをひて其行銘かくのことしなんそ賢主と
称するにたらんや
四清和天皇相撲の勝負によつて即位の説
俗説云文徳天皇に惟喬親王惟仁親王とて御兄弟の
皇子おはします第一の皇子惟喬の御母は従四位下左
兵衛の佐紀名虎か女静子なり第二の皇子惟仁の御母
後に染
は太政大臣藤原良房云の女明子なり
帝いつれ
殿后と号
の御子を供に即させ給ふへきにやとおなしめしわゝかた
なかりけれは勝負について御位をすゝめらるへしとて
はしめには八幡にて臨時の祭をおこなはれ十番の競
馬あり四番は一宮につき六番は二宮につけり此上は惟
仁に御位をゆつらるへよりしを天皇なを御こゝろあ
きたらす大内にて相撲の節会をおこなはれ其勝負に
よつて御譲あるへきとの事なりけれは惟喬の御方
よりは外祖左兵衛佐名虎惟仁の御かたよりは能雄少将
出にける各御祈の師あり一宮の御方には東寺の柿本
真済僧正二宮の御方には延暦寺の恵亮和尚なり既
に相撲はしまりて能雄終に勝ける故惟仁即位まし
ます清和天皇これなり
廣益各説辨巻之下
今按るに文徳天皇第一の皇子惟喬第二の皇子
惟仁とは非なり三代宝禄に文徳天皇に有四皇子
第一惟喬親王第二惟条親王第三惟彦親王皇
太子
仁惟
是レ第 ̄ノ皇子也とあり又文徳帝在位の時
一相撲の勝負によつて惟仁即位とは弥誤れり三代
寅禄に嘉祥三年三月廿五日惟仁誕生十二月廿五日快
日立為二皇太子一天安二年八月廿七日文徳天皇嗣御
同十一月七日天皇即位於大極殿とあり此とき惟仁
八歳にならせ給ふといへとも其母尊き故にかゝのことし
一殊に惟喬方より相撲に出たりといふ紀名虎は承和十
四年六月己酉教位正四位下紀朝臣名虎卒すと
続日本後紀に見えたり此時雅仁いまた誕生なき
をもつて俗説の相違を知へし
五延喜天暦の聖代といふ説
俗説に延喜天暦の聖代と唱へて我朝の堯舜と称す
今按るに諸実録を考るに延喜天暦の帝の聖
醍醐
は御父寛平法皇天皇に不
徳かつてなし延喜帝
天皇
孝なり奸者の讒を信して忠臣菅原道真を太宰
府にうつさる明主なんそかくのことゝならんや軽窩先生
の説に本朝延喜帝を称して聖とし菅扇を調て
同同一番笹谷之口
聖廟とす君すてに聖に臣また聖なれは時平がこ
ときなんぞ刀を其間にいれんや菅公の忠直明敏は
膾鎗
いふへからす延喜帝の聖は吾いまたしらずといへり楽言
録説
天暦帝
村上
は甚た嫡乱なり藤原師輔の女安子を
天皇
中宮とす安子の妹登子は帝の御兄重明親王の妻
にて容貌美なりけるかあるとき中宮安子のかたに参
られけるを帝ひそかにこれに通し給ふ其後重明も
薨し安子も早世せられけれは帝よろこひ給ひて
一康保元年に登子を内裏にめして貞規殿尚侍になし
従二位をさつけ甚た愛し給ひしかは見るもの眉を
ひそめ気る事詳に栄花物語大鑑等に見えたり
是等の政行明聖の世の事にあらすある人のいはく千
載集の序に延喜のひしりのみよには古今集をゑう
はれ天暦のかしこきおほんときには後撰集をあつめ
給ひとあるを見て延喜天暦をならへて聖の御代と
あやまりいふなるへしと左もあらんかし
新醍醐天皇寒夜に御衣をぬきて民の苦を知給ふ説附
同帝地獄に堕給ふ説
醍醐
俗説云延喜帝
天皇
は野主なり民のくるしみをいたはり給
ひ寒夜に御衣をぬかせ給ふ又いはゝ延喜帝崩御の後笙
同同監谷説岸巻之写
の窟の日蔵上人頓死して冥土にいたり帝にあひ奉りける
に帝おほせけるは地獄に堕たるものふたゝひかへる事
はなけれとも汝はよみかへるへきものなり朕在世のとき
父寛平法皇の命にそむき時平か讒を信して菅丞相を
なかしたる罪によつて此地獄に堕たり此内娑婆彼女にて
わか皇子にかたりてくるしみをすくふへしと有けれは上
人かしこまつてうけたまはる其ときみかとのたまはく
地獄にては罪なき者をあましとす上人われをうやま
ふ事なかれとてよませ給ひ来留いふならく奈落の底
に入ぬれはせつりもしゆだもかはらさりけり其後日蔵
中十二日ありて蘇生し此旨を村上帝に奏聞し菅廟を
此俗説相つたふる事久しと見えて
建て帝の御あとをとふらはる
源氏雲隠にもひしりのみかと
北みきこへ給ふもひとつふたつのたかひめに地こくのくるし
みにしつみ給ひしとなりとあり但し雲隠は後人の擬作也
今株なに延喜帝寒夜に御衣をぬぎ給ふとは一条帝の
御事を取ちがへたるものなり古事談続古事談に一
條院は冬の夜に御衣をぬきておはしければ上東門院
などかくはせさせ給ふそと問たてまつりなひけれは日本
国の民さむからんにわれひとりあたゝかな留へからすとそ
仰られける此事を後京極摂政よみ給ひ気留
一おほふべき袖こそなけれ世の中にさむけき民の冬の
同同長谷悦悴長之事
よな〳〵とあるを考へしるへし又延喜帝地獄に堕給ひ
し事尤偽なり但し地獄の説あり澹艮卿かいはく佛
の国は極西のさかひにあり其居所を天堂といふ法をお
かす者をは地をほつて居室として居しむこれを地
日本にていにしへの土の牢なり
其法判焼舂磨
獄となづく
地中の獄屋といふ事なり
罪人を拷問し刑罰を
の刑あり閻羅は後世の刑官なり
つかさとる役人の首長也
庚巳編ニ云閻羅王ニ有二
二子一長ヲ名レ江ト次ヲ名レ海
獄屋の番をなす
金剛は後世の衛士なり
奴僕のたくひにて
罪人を刑罰におこなふ役
皆蕃国生留人を罰する法なるを
をもなす故に獄卒と唱ふ
およそ人いけるとき
死したる者にほどこすとあやまり伝ふ卅
◯痛痒をしるは神
存し体あるか故なり死るにおよんてはたましゐは風火のことくにちり
かたちは草木のことくに腐いかなるもの残りて地獄にゆかんや
一夜叉羅刹鬼國は西方の土名なり其地中國を去事
遠くして風化及ばざる故其生留所異状多く人類
なし
其土地極西のさかひにて中国より程遠きゆへ人の形体風
俗はゝなはた異なり然たを今地獄の絵とて書面を見れは
微卒とものかたち角おひ髪をみたし牙をくひちかへたる体なり性
理大全所我の万物造化論に四足者ハ無二羽髪載レク角ク者無二上歯一と
あれは盲昧なる者の
御初学の仏者これを察せすあやまり
役留所の図画なり
伝へ民俗弥さとさす死後に苦を受るやうにまどひ仏
一をたつとひ僧を信し寺を建経を写し身をおさむか
右異端弁正
ことをわすれてみたりに天堂をねかふとあり
所ノ載説全文
甚ク長シ今摘二其要ヲ一ヲ挙二其略ヲ
解レ之ヲ如レ此ノ宜レ考二本書ヲ一
これをもつて地獄の説を考へ
但し心のまよひによつて地獄をし
知ルへし
夢るの論雑類郭に出せり
またいふならくの歌は
同四百七十九匁
醍醐帝の御製にあらす弘法大師遊方記に弘仁二
年九月高岳親王出家ス空海示二親主一歌云一歌云ク伊布祭
良久捺落乃楚古丹於知奴禮波刹利毛毘舎毛
清輔袋草子にも此歌をのせて
辺陀天也和寸留
空海のうたと記したり
とあり
思ふに好事者此うたを少しあらためて。醍醐帝の
御うたとするか又蘇生の事は神異にあらす凶事
なり後漢書云献帝ノ初平年ノ中長洲有リ人姓桓氏
死棺歛月餘其母聞二棺中ノ声発レ之遂生占曰至陰
死したる者の
為陽
下人爲レ上ト其後曹公由二庶士一起と
こみがへるを云
ありかゝる事を知さる者日蔵を称せんとて仮まうけ
たる説なるへし
六花山院后あらそひの説
俗説云花山院に藤壺女御弘徽殿女御登て御寵愛
のかたありけるか藤壺女御寵松とろへしを恨み悪君とな
つて弘徽殿ノ女御越とりころす此故に帝遁世まします
其後阿倍晴明いのつて弘徽殿女御を蘇生せしむといふ
今按るに妄説なり栄花物語江鐙古事談等を
考るに花山院即位の砌関白頼忠の女為平親王
の女大納言藤原朝光か女を女御とし給ふ又大納言
為光か女恒子を女御とし弘徽殿に置て甚た寵愛
ありさきの三人の女御はあれともなきかことし
恒子懐妊して八月に及ひて病死す帝御なけき
のあまりに狂しくなり世をすて給ふ御心おはし
ましけるに栗田関白道兼其ころはいまた殿上人
にて蔵人弁と申せしか扇に悲華経の妻子珍宝
及王位臨命終時不随者といへる丈を書て見せ
奉り御出家をすゝめ我身も御供して剃髪いた
すへきなと賺し申されけれはひそかに大内裏を
号元慶寺
しのひ出花山寺に
在二宇治郡一
入落飾まし〳〵入覚と
一号し給ふ御年わつかに十九なり知人なかりしに天文
博士安倍晴明天子去レ位の天変を考へ知参内して
これを告たりこれによつて東宮懐仁郎位まし
ます一條院と申す後に花山法皇中務といふ女房
に堕給ひ鷹司回君に通し給ひしことありに世継十
訓抄を考るに一條院の堀川ノ女御といふは堀川右大臣
顕光の女にて御子なども有けれと云後に御堂
子
関白道長の女彰子を召て女御とし藤壺に置
後に上東門院にうつり給ひて上
給ひしかは藤壺の女御といふ
東門院と号す源氏物語にかゞやく
ひのみやと
あるは是なり
是よりして堀川の女御のかたへは入せ給ふことも
一なけれはなけきしつみ病になつて死せらる顕光これ
同同三月一日午後二月一日
を恨て死しけるが悪霊となつて上東門院をなや
これを世に
ませり世に悪霊の大臣といふは是なりとあり一条院の口
一条院の后
あらそひ
といふ
○補大鏡に云右大臣師輔女安子村上天皇の后に立
弘徽殿におはす宣耀殿女御は左大臣師尹の女なり
此時藤壷におはしけるにあるとき安子中隔の壁
に穴をあけて見給へるに女御のかたち美かりけれは安な
ねたましく思ひ土器の破をもつて其穴より女御を
うち給へるに女御の御たもとの上にあたる折ふし帝の
おはしませる時なりしかは甚たいからせ給ふとありこれ
此段訂補
こらをとりあはせて妄作せし説なるへし此段訂補
新安徳天皇は八俣の大蛇か化身にて宝劔を取返す説
俗説云安徳天皇は八岐の大蛇か化身なり大蛇素知覚
尊に害せられ尾にある剱をとらる是天叢雲剣にし
て後に草薙剣と号す其後彼大蛇安徳帝とうまれ
て宝剣を取かへし入海し給ひしより朝筵の改おとろへ
たりと云
一今按るに安徳帝を八岐大蛇か再生登する事尤せ
妄誕なり又大蛇か尾にありし叢雲剣は後に草薙
一剱と号し日本武尊東征のゝちより熱田社とあか
めまつれり安徳帝の帯して入海し給ひしは崇神
同同番益谷兇学巻之
帝の御宇に天目一箇神の裔をしてつくらしめ給
へる剱なり其相違を考へ知へし但し突剱入海の事
に子細あり東家秘伝神皇実録云ク天御中主神
天津彦之火
與大日靈貴盟宣皇孫尊
瓊々杵尊
天皇如二八
丸是神璽なり旧事紀云玉作の祖櫛明玉神を
坂瓊之句一
して八坂慶の五百箇の御統国をつくらしむ櫛明
玉命は伊弉諾尊の子なり古事記云八尺句壇は五百箇の美
須麻流の珠なり○釈日本紀云尺は坂と訓同し八坂はこれ地の名
なり此地に美玉をいたすこれを採て御統に作る八尺の向国といふには
あらす神代の風は玉をもつて身のかさりとなすなり禁秘抄云
寿永に海中よりもとめ出し青色の絹をかつてつゝみ紫の鎌を以
てこれをむすふ越後風土記ニ云八坂丹ノ王色青シ月青八坂慶玉ト
又麻須美鏡之記す
以二曲妙一治二天下之。政一且如二白銅鏡一
又真澄鏡とも云今
略してます野みと唱ふあるひは真経津鏡といひ又は八咫鏡といふ八咫尺は。八咫尺は
八寸なり天糠戸命の作留所なり〽国鎮座本縁言神道に用畠八咫鏡は
なを径八寸の鏡といふかことし又云是すなはぢ日像八咫鏡は古語に
八頭花形八葉形と故に八咫と号す俗書に此神鏡をもな都替足
一那都智か素盞烏尊に
奉れる鏡と記すは甚非也
以二分明一者一行山川海原一即提二是
タイニケアメカシタヲセヨモロ〳〵タミ
天叢雲剣後に草薙剣
霊剣
平天下一利二万民矣補類聚
熱田大明神とあかめ祀留
神祇本源ニ云ク肆以名二之三種神璽也○北畠親序解
して曰く変のごとく曲妙なるは柔順の心を表し給ふ
神代口決云玉の温酒は仁恵の事なり貝原氏云玉の栗なることく
温潤の仁徳をもつて天か下の政事をきこしめせとなり曲妙と
は曲とはまかれるなり道は一定の直にあらすおよそ事物にし
たかひて時宜を取の儀なりされとも邪曲ならざる故に曲妙とは
いへるならず是すなはち時に中するの中道なり情を直にして
裡におこなふは夷狄の道なりと思なることく卒直ならすして其時
勢により人情にしたかひ天下を
又いはく鏡のことく分明なるは
利するの政道なるへし
以上東
心の本元なり
耐又いはく鏡は一物をたくはへす
家秘伝
同長谷允宰之事
私のこゝろなくして万象をてらすに是非善悪のす
かたあらはれすといふ事なし其すかたにしたかひて
感応するを徳とす是正直の本源なり中にも
かゝみを本によし宗庸の正体とあふかれ給ふ鏡は明を
かたちとせり心性あきらかなれは慈悲決断は其
中にあり又まさしく御影をうつし給ひしかばふかき
御心をとゝめ給ひけんぞかし天にあるもの日月よ
りあきらかなるはなしこれによつて文字を製
一以上神皇正統記○神
するにも日月を明とすといへり
代口決云鏡は清明
正直の事とあり○貝原氏云此鏡のことく分明なる正直の智をもつて
山川海浜まてを肴行し給はゝ朝に億朝なく野に遺賢なく政道
あきらかにして上下の情よく通達し
又云剱のことく剛利
万民をの〳〵其ところを得へしといふこゝろなり
神代口決云叙の剛利は
なるは決断のこゝろを表し給ふ
智恵の事とあり貝原
氏云叙は決断に取て至則無歎の表なれは内には私悪奸依の
心敵をほろほし外には邪慈暴逆の賊敵を誅し身心政事に
いたるまてなへて直にいさきよくしてしかも其瞻望おこそかに
おのつから感ありて天下を畏服せしめ万民を利益し給へと也
治世の
一要は正直慈悲決断の三つをは過す神勅言約にして
旨広し尚書には剛柔正直の三徳といひ礼記には
以上東
智仁勇の達徳といふ其義皆一なり
家秘伝
又云此神
一器世に傳ふる事日月星の天にあるにひとし
神皇正
統記
又云我国之所二。以テ殊二諸方一者以二テ神国一ヲ也神国ノ之所二
元々集ノ説○玉葉集に〽神代より
以有二霊異一者以二宝器一也一
三種のたからつたはりて豊芦原の
実益谷乾梓善之
月主イ言辛ヲ一ノ
しるし
とぞなる
は按るに此三種の神器は神代の経典なり古は
書もなく字もなけれは三種をつくりて教とし望
一孫にしめし此神器の三徳をまもり給はゝ寳祚の
ある人の説に智仁勇の
隆當與天壤無窮矣となり
三徳を表して三種の神
器をつくり給ふといへるは非なり其理おのつから
それより以後の
かなへりとはいふべし是日本を本とすかの義なりか
天子此神器の理をたがへす天か下をおさめ来り給へ
りしかるにもと智仁は勇によつてなれるものなるに
勇すたれて智仁おこなはれず武の権を清盛に
とられ剰頼朝惣追補使となるに及て朝廷の武備
たちま地におとろふ山崎垂加翁説に神道衰王
風降素盆島尊治二天下一ヲ之權帰二于武家始二乎平ノ清
盛一ニ而成二於源ノ頼朝一といへるはこれなり安徳帝の御宇
宝剣をうはゝれたるにあらずや工夫すへし此段訂補
広益俗説弁巻六終
同同十一年家之一、
狩野
廣益俗説辨七
皇子后妃
広益俗説弁巻七目録
皇子
狩野氏図書記
神村長
豊蔵書
新日本武尊吾妻とのたまふ説
補宇治稚郎子百済の表を蹈給ふ説
新早良ノ太子蒙古人と戦給ふ説菖蒲冑の説
后妃
一神功皇后乾珠満珠を龍宮に仮て新羅を従へり弭
にて新羅王は日本の狗なりと岸石に書生給
ふ説
谷免岸巻之二司
〽イ言辛ヲモート
補雄略帝后播梗媛帝を諫給ふ説
二光明皇后浴室にをいて阿閣佛を拝し給ふ説再皇
一后聖武帝に先たつて薨せらるゝ故帝追善の為に
東大寺建立し給ふ説
訂補
新井上皇后大蛇となる説
三南朝の准后廉子追出せられ給ふ説
廣益俗説辨巻七
井澤長秀輯録
皇子
新日本武ツ尊吾妻とのたまふ説附草薙剱の説
俗説云日本武尊尾張国にくたり松子嶋といふ所の源太夫
といふものゝ家にとゝまり太夫か女岩戸姫に幸し給ひ其
所をたちて駿河国富士野のすそ野にいたる其国の凶
徒此野に狩してあそはせ給へと申けれは尊出てあそひ
給ふに凶徒等野に火をはなちてやきころさんとしけれは
尊帯たまへる天菱雲剣をぬき草を薙てたすかり給
ひぬ是よりして草薙剱と名付らる後に尾張にかへり
同長谷兌牌巻之一一
一慶元代訪親親求七日
岩戸姫に逢給へりそれより都にのほり給ふとて大蛇か
毒氣にふれて近江国千ノ松原といふところになやみふし
給ひけるに松子の嶋にとゝまりし岩戸姫尊の。御あとをた
づね上りしか千ノ松原におはして姫を恋しくおほしける
所に来り給ひけれはあまりのよろこばしさにあは妻よ
とありしより東国をは吾妻となづけける尊薨御の
のち熱田大明神と現し給ひ岩戸姫も浄太夫も神と
なるといふ
今按るに源太夫岩戸姫か事非なり日本紀に日本紀に日本
武尊更還於尾張一即娶二尾張氏女宮簀集一而淹留
踰レ月
古事記ニ云ク尾張ノ国造。之祖美夜受比売◯尾
張風土記土記ニ云尾張ノ連等[ク]這[ル]「張民
録ニ云ク尾張ノ速火明命之子天香山命之後也◯神
皇正統記云尊信濃より尾張に出給ふかの国に色簀姫と
いふ女あり尾張の
稲種宿祢か妹也
と記す此宮簀姫の事を岩戸姫とあ
やまる且熱田の社内に源太夫の祠と云あり卜部兼
邦の神道百首ノ和歌抄に道祖神を祀ると記す此
詞をあやまりて岩戸姫か父とす又駿河国冨士野に
て尊剱を抜て草を薙給ふといひあるひは剱見つから
ぬけて草を薙これらの故に草薙剣と号すといふに
子細あり山崎禽加云ク日本紀ノ註に尊所レ佩叢雲剣自
抽て尊の傍の草を薙はらふこれによつて免るゝこと
廣前ニ備諸辨ノ報ノ者之七
を得たり故に草薙剣と号するとあるは後人の
加筆なるへし其子細は是よりさき補代巻に天照大
神天津度々火瓊々杵尊に草薙剱を賜ふとあり
此とき芦原中国に定まる主なく蛍火光神蝿聲
邪神草木言語あり故に提二是霊剣平二ケ天下一ヲ利二万民一
とて賜りしかは皇孫中ノ国に天くたり荒振邪神を神
拂にはらひ磐根木立草の垣葉をも語止て安国と
しつめ給へり此草昧鴻荒の世を平け定め給ふへ
き剱なる故に草薙と號させ給ふものならんかと云
へり
垂加
草出
此説尤信するにたれり又岩戸姫尊の御跡
をしたひ千松原に来る事拠なし日本紀を考るに
尊病にふして薨し給ひしは伊勢国能褒野なりと見へ
たり又尊吾妻とのたまひし説相違す日本紀云景
行天皇二十八年十月日本武尊相模にすゝんて上
総にいたらんとし船にめしけるに海中にて暴風お
こりわたりかたく御船あやうかりし時尊の妾に茅橘
姫といふあり穂積氏忍山宿ねか女なり尊にまう
していはく風おこり浪はやくして御船ゑつまんとす
是海神の心なりねかはくは妾か身をもつて王命に
贖て海にいらんと見つから海の中に入に暴風たちまち
同四十二年巻之三
庸者。作謗辨ノ者之七
やみ船岸につくことを得たりそれより尊上総より陸奥
にうつり蝦夷を平け常陸を経て甲斐にいたりそれ
倭名類聚
より氏蔵上野をめくり碓日坂
にいたり給ふ
作二碓氷ヲ一
時に高碓日嶺にのほり東南を望み歎していわく
吾嬬耶と是より山の東の諸国を號て吾嬬国と
いふとあり是等の説を考へて俗説のあやまりを知べし
補宇治稚郎子百済の表を踏給ふ説
俗説云菟道雑即子百済よりの表無礼なるをいかつて
地になけ足にてふみ給へりこれよりして紀文なとを
ふみと訓せり
今按るに宇治雅郎子は應補天皇の御子にて仁徳
天皇の御弟なり応神帝より御位を譲られ給
ひしを御見仁徳帝に。遊つりまいらせて見つからはか
りて身まかり給へり其賢徳善行我朝の泰伯とも
まうすへし詳に日本紀に見えたり又百滴よりの
表を足にて踏給ふこと大なる偽なり思ふに此俗説は
日本紀云応神天皇十六年春二月百済ノ王仁来菟
ふみといふ訓は
道雅即子習諸典籍於王仁英不通達
文の音ふんと
いふ故にふみと和訓せるものなりそれを通して紀典書籍な〳〵
ふみと刻す文をふみとよむはしをんをしほにとよむことし
日本国より
日出処天子致レ書ヲ日没
北史ニ云ノ国書ニ云フ
来れる書を云
看益谷児阜季二二
広益化訪親者之也
處天子無レ恙云云帝覧不レ悦謂二鴻臚卿一曰蠻夷書
有無礼者一勿二後以聞一日本王代一覧云推古天皇
御宇異朝にては隋の煬帝の時にあたれり日本より
小野妹子を使として隋へつかはす其書簡を大子
瓶かゝれける其ことはに日出る処の天子書を致す
日没処の天子恙なしやと云々煬帝これを見て
一文言無礼なりとて悦すとあり此厩戸皇子をあ
やまりて菟道皇子とし賜帝か日本の書簡の
一無礼なるをいかりしを菟道皇子いかり給ふと覚へ
一典籍とわるを臨と心得かゝる僻説をまうけたま
ものなり
新早良大子蒙古人と戦ふ説
俗説云早良親王は光仁天皇第二の皇子なり天応元
年四月朔日御先山部親王を超て大子にたち給ふ
今年蒙古来るのよし風聞ありしかは早良太子
を大将軍としてさし向給ふ同年五月五日御出陣の
処に大か勢ふき通浪杜こりて異賊の船こと〳〵く
漂没すこれよりさき太子勝利を藤森社にいのり
給ふ此因縁をもつて毎年五月五日神幸のとき神人
等甲冑弓箭を帯し馬にのるこれ異国降伏
を表してなり今諸国の菖蒲冑菖蒲錺當社の祭礼
にはしまるといふ
今按るに卑良親王御見山ノ部親王を超て太子に
立給ふ事非なり日本後紀を考るに天応元年山
一部親王即位まします是桓武天皇なり其後御弟早
良親王を太子とし給ふとあり右の俗説は水鏡に
光仁天皇の子他部親王は
母井上
皇后
御兄山ノ部親王を
起て大子にたち給ふとわるをあやまれり又天
応元年蒙古来る事正史実録にかつて見えす
是レ文永弘安年中蒙古襲来の事をあやまり伝ふ
のみ又蕎森社は舎人親王を祀り早良ノ大子を相殿
とす垂加草載藤森弓兵政所記。曰当社者舎人
無加社「語云按
親王ノ之廟也親王ハ者天武帝ノ皇子ハ
日本紀曰天武
帝第六皇子○釈日本紀ニ曰第五ノ皇子
○續日本紀曰第三ノ皇ノ皇ノ皇ノ子ト未知何是一
母新田部
社語曰
皇女舎人其諱也天平七年十一月乙丑
嘉以二麟
徳暦ヲ考ハレ之ヲ此月朔
親王薨寿六十歳葬于山背國
壬子十四日乙丑
深草山麓藤尾即今ノ藤ノ藤ノ森也贈二太政大臣一ヲ奉二崇道
蓋敬天皇一ト天皇疆識清雅達二於神道一渉二於冊書蒐二
輯日本紀三十巻一ヲ一又得二弓兵補妙之法一其ノ兵法秘
而在焉毎歳仲憂端午日騎射走馬甲冑帯刀把
弓矢一操二戈矛一祭レ之ヲ延暦年中早良親王為レ厲仍謚
崇道天皇ト薦二之當社相殿ニ以二テ親主時崇敬當社一ノ也
又同書ニ載御霊八所記ニ曰ク桓武帝即位之翌立早
良ノ太子一ヲ何其急也賊穀二藤原種継継二是大字之所二叛一
而致一則何不宣二其罪而廃二之ヲ也追二之ヲ也追二補二尊號一則曰ク朕
有レト所レ思フ亦何レ謂也国史不二顕記レ之釈書未レ可レ可レ可二
也又言追禰之号與二舎人親王同曰二テ崇道天皇一而
不レ有一ヲ盡敬之號蓋由太子崇二敬藤蘇藤ノ森一而謚レ之如レ此
歟。當社ノ末社ニ親王坐藤森ノ相殿太子坐ス焉誠有以
矣とあり又端午の菖蒲胃菖蒲餅当社の祭礼に
おこなといふ事非なり続日本紀に聖武天皇天平
十九年五月五日天皇南殿に御し騎射走馬を見給ふ
此日太上天皇詔してのたまはくむかし五日の節つねに
菖蒲を用ひて纓とす此ころすてにこれをとゝむいま
よりして後菖蒲錺にあらさるものは宮中に入事
なかれとあれは天応年中より前にこれらの事有
と見えたり花鳥余情にも五月五日の良帝あやめ
かつらをかけなひ武徳殿に行幸あつて六府騎射の
事あり五日は五位以上の人の奉れる馬にの留六日は
寮の御馬に乗て競馬の事あり西峯松下氏云本朝
同同同同同同同同
端午に紙をもつて冑及ひ人形をつくり丹青をほと
とし門戸にかゝるは太平御覧。引荊楚歳時記曰ク採
一又以テ為一人ノ懸二門戸上ニ書言故事引二ケ歳時雑記二曰ク端
午。株レテ艾ノ結爲レリ人ヲ懸二テ門戸ノ上ニ以テ逆二毒氣一とあるにもと
つけるものなりといへり是レ等の説を考へしるへし
后妃
一神功皇后乾珠満珠を龍色に似て新羅をしたるへ弓
一弭にて新羅王は日本の狗なりと岸石に書付給説
俗説言神功皇后新羅征伐のとき神楽を奏して海中
にすめる阿豊磯良丸をまねき給ふこれ志賀明神也
磯良丸かいさめによつて御いもと豊姫を報宮につかはし
乾珠満珠をもとめ給ひしに龍神二ツの珠を献せしかは
まつ満珠を海にいれ給ひしに海潮遠く新羅国中に及
ふ新羅王松とろきおそれ罪を謝せし故乾珠をなけて
命をすくはせ給ふ其後帰朝のとき弓弭にて岸石に新羅
王は我国の狗なりと書せ給ふかの国の人これをいみて
けつれともきへすといふ
貝原好古云神功皇后起珠満珠をもつて新羅をしたかへ
給ふ事大なる虚説なり但し日本紀に秋七月五日
豊浦の津にいたり給ふ此日皇后如意の珠を海中に
得給へりとあり釈日本紀云土佐ノ国吾川郡玉島に皇
后御船をとゝめ嶋にあかり磯辺に逍遥ありしとき
ひとつの白石を得給ふ其まろき事鶏卵のことし
皇后これを御掌の上に置せ給ふに其ひかり四方に
かゝやきけれは左右にむかつてこれ海神のたまふここ
の白真珠なりとて大に悦せ給ふ故に其嶋をな
つけて玉島といふ此玉今に摂州廣田社にあり又神代
巻に彦火々出見高潮満墜潮涸瓊をもつて火酢芥
命をしたかへ給ふことあるを右の説と混じてあやまりを
伝ふるのみいかなる故に彦火に出見尊の御事を神功
皇后の事となし侍るかと尋ねさく類に摂州住吉
は神切皇后の過化存神の霊地なり又其地もとこり
神代の潮満瓊湖洞瓊の出たる神島なり故に住
吉に玉出嶋あり津守国平か歌に君かため玉出嶋に
やはらく雨ひかりのすゑは千代もくもらし後に彼
同四十九年巻こと
二つの珠を泉州境の飯匕の池に納められたりかり
故に境に如意明神まします是レすなはち彦火々出見
尊なりしかれは二珠の出たるもおさまりたるも皆住吉
近辺の事にして住吉は又皇后の旧跡なる故に前
に見えたる皇后南海にて如意の珠を得給へることを
とりあはせ法華経に龍女寶珠をさゝけて世高に献せ
し事になそらへたる世俗の妄説なり豊姫の事非
なり皇后に御妹なきをもつて其偽をしるへし
阿曇磯良丸といへるは志賀の海人にて志賀明神には
あらず又皇后弓弭をもつて岸石の面に新羅国の
王は我国の狗なりと書せ給ふといへ雨は日本紀に皇
后新羅国をしたかへ給ひ重宝府庫を封し図籍の文
書をとりおさめつかせ給ひし矛を新羅王の門にたて後
葉のしるしとし給ふ其弟うせすかして後世まて新羅
王の門にたちしとあるをあやまり伝ふるものなり八幡君
八幡本
記可載
摘要ヲ
記之
◯今按るに皇后新羅王は我国の狗なりと
書せ給ふことは神代巻に火々出見尊二ノ珠をもつて火
酢苛命を従へ給ふ後火酢芥命の苗畜諸隼人等今
にいたるまて天皇の色腦の傍をはなれす代吹物して
つかふまつるものなりとあるをあやまれるなるへし
長笹谷権悴参之口
補雄略帝后播援媛帝を諫る説
一俗説云雄略天皇葛城山に猟し給ふとき舎人か猪にあ
ひてにけたりとてころさんとし給ふ后播抜媛これをい
さめとゝめ給ふ此ことをあけて賢女とす
今按るに近年印行の書に播抜髪を婦徳ありと称
せし説あまたありしかれとも播後媛は仁徳皇女にて
母は日向髪長姫なり橘梭媛其兄履仲帝に愛せら
れて中帯姫をうみ又雄略帝の后となり給ふ中帯
の兄
一姫も其伯父大草香皇子
播後姫
の妻となるあるひは女
を娶り姪を娶る倫理を絶滅することこゝにいたれり
なんそ賢女とするにいたらむ
二光明皇后浴室におゐて阿闍佛を拝し給ふ説天皇后
一聖武帝に先たつて薨せらるゝ故帝追善の為に
東大寺建立し給ふ説
俗説云光明皇后仏の吉ありとて浴室を建貴賤を治
せしめ見つから千人の垢を去むとちかひすでに九百九十九人
を竟しに癩人来りて湯にいる臭気甚たしといへとも
后千数にみてんことをおもひこれをいとはす背をすり垢
をさりあまつさへかれか望にまかせ瘡を呪膿を吐て頂よ
り踵にいたる后いはく我かく垢をすりたると人にかたるなと
有しに職人忽光をはなちて我はこれ阿闍仏なり我垢を
去しと人にかたるなといひて飛去后頼望のなれるをよ
ろこひ此瑞義に感して浴室の跡に寺を建給ふ又云く
光明子帝にさきたつて薨せられしかは聖武帝其追善
として東大寺を建立まします
一ある人云く古より伝へ来る事にあやまり多し聖
武帝の后光明子仏の告ありとて浴室をまうを見
つから千人の垢をさり後に河閣仏を見たりと云て
寺を建られしといへとも后すてに元勝僧正に通し
善珠法師をうみ給へるなと婦徳にそむきたる人也
彼浴室代たてゝ見つから千人の垢を去とて貴賤
と共に沐浴せしも滋欲をほしゐまゝにせんか為なり
然れとも世のそしりを思ひ阿闍仏を見たりといつはれる
のみ種羅山子ノ和賦ニ云ツ光明子之其俗兮私妖僧
於温湯
見于羅
山文集
永田道慶論二光明子一ヲ云フ云ク設一温室親
去千人垢其沐共沐共ニ浴テ淫酌亦孔之醜後見阿闍佛ヲ
膾鎗
云者恐是后托言於瑞異社謗於衆口一
雑録
二説
右の事をそしれり祖庭事苑に唐武后石嵩山ノ老
安北宗神秀一入レ禁中一ニ供養因源浴以二テ官姫一給侍安
悟然無レ他后歎曰入レ水始見二長人とあり和漢同
同長谷悦悴巻之に
日の讒なりか又后帝に先たつて薨すといへとも続日
本紀を考るに聖武帝は孝謙帝の天平勝宝八
年に崩す光明皇后はそれより四年を経て廃帝の
一宝字四年に薨すとあれは弥俗説の誤を知へし
此段加二
に補一
新井上皇后大蛇となる説
俗説云光仁天皇の后井上夫人藤原百川をうらみ給ふ
事ありて大蛇となり終に百川をとりころし給ふ
今按るに水鏡に井上夫人は先仁帝の妃なり此腹
に他部親王とてありしを東宮にたて給ふ此とき藤原ノ
百川光仁帝第一の皇子山ノ部親王をすゝめて継母打上
皇后に通せしめ帝に后をうとませ奉る后も山部に
したしみて帝をそむき給ふ心出来りしかは百川さま〳〵
にはかりことをめへらし讒をかまへて皇后他部をうし
なひ山部を位につけまいらす桓武天皇これなり阿武
桓武
天皇を明主とし百川を忠臣と記したる書あり
誤なりくはしく水鏡を考ふべし
又是よりさき称
徳天皇御病しきりなりしに百済国の女医小手ノ
尼といふもの帝の御やまひ愈すへしといひしを百川剱
をぬひて小手の尾をきりし故帝つるに崩し給ふと
古事談に見えたり称徳帝荒満無道の主なりといへ
とも一百川なんに臣たるの道をわするゝや是レ等の不右
豈天罰をまぬかれんやしかるを皇后の怨念によれり
と思へるは理にくらきか故なり
三南朝の准后廉子追出せられ給ふ説
俗説云後醍醐帝の御と成准后盧子坊門宰相清忠か弁
侫によつて有功の臣もおほくほろひけれは後には帝
もうとみにくませ給ひ准后を追出ありしかは准后足
利尊氏の許にゆきてうちたのみおはせしか高師直に
御名たちけることありといふ
今按るに准后の長舌ありて属の階となりしことは
論するにたらすしかれとも追出の事は甚だ非なり
国大曆記帝王系図太半記を考るに准后廉子は阿野
公廉の女にて後村上帝の御母後には新待賢門
院と号し後醍醐帝崩御より数年を経て薨し給
後醍醍
ひぬ李花集に延元五年八月十六日先帝
かくれ
天皇
させ給ひ二三年もすき侍りし九月はかりに新待賢
門院いまた准后と申侍りしころ御廟に御こもり
李花集は後醍醐天皇第二の皇子○
ありと見えたり
新葉
宗良親王の詠草なり
集に後醍醐天皇かゝれさせ給ひて又の年の春花を
見てよませ給ひける新待賢門院時しらぬなけきの
もとにいかにしてかはらぬいろに花のさくらん御陵
にまふてよませ給ひける九重の玉のうてなも夢な
れや苔の下にし君をおもへは同集に新待賢門院か
くれさせ給て後三とせまて謙闇の儀にてありけるを
御ぶくはてける年の五月五日さうぶにつけて前の大納言
実為にたまはせける後村上院御製今さらにねにこそ
たつれ三とせまてあやめもしらてすきしかなしさと
あり是等を考へて俗説の相違をしるへし
廣益俗説弁巻て終
宿内同
廣益俗説辨八
公卿
廣益俗説辨巻八目録
公卿
神司長
同七
狩野氏図書記
豐
通臣命物部の祖にして武士をものゝふと訓する
はじめといふ説
補厩戸皇子を八耳と称する説
守屋大臣を逆心といふ説
一大織冠鎌足蜑女を頼みて宝珠を取かへす説
二柳本人麻呂柳樹より生すと云説付上総国に流さる
といふ説訂補
三阿部仲麻呂鬼となつて吉備大臣に逢る説
小補
同同同同同同四十一日
一月十一月十一月
新菅丞相天よりくたり給ふ説
同軽大臣燈台鬼となる説
補小野篁北獄の冥官となる説
廣久皿俗説辨巻八井澤長秀輯録
公卿
補道臣命物部の祖にして武士をものゝふと訓する
はしめといふ説
俗説云大伴道臣命はものゝふといふ者はしめなり
今按るに武士をものゝふと訓することは道臣命にあら
す宇摩志麻治命なり宇摩志麻治命は饒速日
尊の子にして姓を物部といふ物部をものゝべともも
万葉集に物部
旧事紀云宇摩志麻治命
のふとも訓す
をものゝふとよめり。
率二天物都一萬二夷逆賊師二軍兵平兵平二定海ノ内一ヲ又云宇摩
同同同同同同同
鹿荷作話ノ執者之ハ
志麻治命率一内ノ物都乃望二乃堅二矛楯一厳二増威儀一又云天
皇
武詔二宇摩志麻治ノ命一ヲ曰ク曰ク汝之勲功矣念惟大功
一也公之忠節焉推至忠矣是以先授神異之叙崇
報不世之勲一今配肱之職永伝二不武之美自今
以後生々世々子々孫々八十脈綿必飢二此職永
為二龜竜鏡一矣これ宇摩志麻治命武士のはしめにし
て武士をものゝふと訓する起なり
補厩戸皇子を八耳と称する説
俗説云厩戸皇子は八人一度にいふことばをきゝわけ給ふ是
によつて八耳皇子となつけたり
一今按るに月本紀云稲田ノ宮主簀狭ノ之八箇耳神
一代直指抄云やつみゝは耳のはやきをほむることばなり
厩戸を八耳となづけしも此たくひにや但薛方山記述
云或問舜有二四年四自信乎曰非レ非レ然也以二四方人
之耳目一為二耳目一是以テ無レ所レ不聞無レ所レ所レ不レ見斯之謂二
四年四目一也禹有二九年九月九年九足一信手曰ク非レスル然一也以二テ九
州之手足為二手足一是以不レ行而至不レ行而至不レ疾而速斯之
一謂二九年九足一とありこれをもつて思へは厩戸皇子も侍
臣を八方に出してきかしめられたるものならんか
浦守屋大臣を逆心といふ説
俗説言守屋大臣逆心ありし故蘇我大臣厩戸以下の諸皇
子とともにこれを誅戮すといふ
一今按るに日本紀ニ云物部弓削守屋大連は尾輿か子
一なり敏達帝十三年秋九月蘇我大臣ふたゝひ仏法を
一興し仏像二躯をもとめ得て石川の宅を仏殿と
し彼仏を安置し司馬達か女以下三人を尼となして
あかめまつらしむ十四年の春二月馬子司馬達かあた
へたる舎利を大野丘の北に塔をつくりてこれをおさむ
此とき又国に疫病おこり民夭死するもの甚たおほし
一守屋大臣中臣勝海奏して云く何の故そあへて臣が
ことはを用たまはすして御考天皇のときより陛下に
及ふまて疫疾はやり国民まさに絶んとす是皆蘓我臣
か仏法を興行する故にわらすやといさめけれは天皇叡
聞有て二臣か諫灼然なり宜しく仏法を断へしとあり
しかは守屋大連見つから寺にいたりて胡床に踞居て其へ
塔を斫たをし火をはなちてこれをやき仏像と仏
殿とをやきすてやきわまれる仏像を取て難波の堀口
同馬
にすてしめ馬子かたつとへる尼善信
をよふ馬子宿
達か女
ねそむくことあたはすいたみかなしみなから尼を出して
あたへけれは官人尼か衣をうはひ海石榴市亭にいまし
めむちうつ是より馬子甚た守屋をにゝみうらむ用明
一帝即位まし〳〵て二年夏四月にはかに病を得給ひ群臣
に詔して朕三宝に帰せんことを思ふ卿等これをはかる
へしとありけるに守屋勝海いさめけるはなんそ国神
をそむき他神をうやまはんやもとよりかくのこときこと
をしらすと奏す蘓我大臣馬子かいはくともかゝも銀に
したかふへしなんそ異なるはかりことをなさんといひて
豊岡法師を内裏にいれしむ守屋いかりてにらむ此とき
群臣馬子に黨して守屋をうたんことをはかる爰に押
坂部史毛屎といふもの来りて此くわたてを守屋に吉大
大連り
に帰て人をあつむ中臣勝海も
連これを聞て阿部
別業地
一人をあつめて守屋にくはゝる守屋すなはち物部八坂大市
連小坂湊部造兄を馬子か方につかはして群臣われ
をうたんことをはかるときく信偽をたゝさんためにしり
そけりと云馬子土師八嶋連を大伴毘羅夫連か所
につかはして此事をつく毘羅夫手に弓箭皮楯を取襯
曲の家に
宅
馬子
往て昼夜はなれすこれを守るといへとも
かはることなしかくて用明帝崩し給ひ継体いまた定ら
さる故守屋穴穂皇子をたてんとす馬子佐伯連丹経
手土師連磐村的臣兵噛等をかたらひて穴穂皇子並
廣益谷此倅巻之也
に宅都皇子を殺す又馬子もろくの皇子群臣をすゝ
めて守屋を滅さんとはかる泊瀬部皇子。竹田。皇子。厩
戸皇子。難波皇子。春日皇子。蘓我馬子ノ宿祢大臣
紀ノ臣麻呂。巨勢臣比良夫膳臣賀抱夫葛城臣鳥
一那羅俱等ノ軍兵を卒して大連をうつ大伴連噛阿
一部臣人。平群臣神手。坂本の臣糠手。春日臣等も軍兵
を相具して志紀郡より渋川の家にいたりて馬子を
たすく守屋大臣は見つから子弟を卒し稲城を築
て相ふせく大連衣楷朴枝の間にのぼりて箭をはな
つこと雨のことし其軍つよくしてあたりかたく皇子群
一臣等怯弱恐怖て三廻却還く厩戸馬子又兵をすく
めてこれをせむ逃見赤摂かはなつ箭守屋にあたりて大
一連死す其外の従兵皆うたる時の人の云く蘓我大臣
の妻は是物部守屋大連の妹なり大臣見たりに妻の
水鏡にも
はかりことを用ひて大連をころしぬとあり昨日
これを
同し
もつて見れは蘓我か私の恨によつて守屋を討し事
いちしなし然るをさしも忠直なる守屋を逆心とし
君を弑するの馬子を善者とすること国史に瞽き者の
妄説にして流轉の謬なけくべし
一大織冠鎌足蜑女を頼みて宝珠を取かへす説
廣隘俗説辨巻之
俗説云藤原鎌足公といふは藤綱の鎌をもつて入鹿大
臣をうち給ふ故なり此賞として古今まれなる官職に任
せられ大織冠と号し給ふ大織冠に二人のむすめあり一は
光明子といふ聖武帝の后にたち給ふ二は光白女といひしか
唐の高宗皇帝の后にたち給ふかの光白女万戸将軍
うんそうといふ者を使として花原磬酒漬石面向不肖の
玉を南都興福寺におくられしに讃岐国志度浦房前
の沖にて寶珠を龍宮にうはゝれしかは鎌足ふかくこれを
なけき身をやつして讃州にくたりいやしき蜑女を妻
としひとりの男子をそむ後に房前大臣淡海公と申せしが
これなり鎌足此あまを龍宮につかはして寶珠をうはひ
かへさしめ給ふ一説には淡海公房前の浦にくたりあまをかた
らひ宝珠を取得給ふ房前大臣は彼蜑女か子なり十三歳
になり給へるとき行基菩薩をともなひかの蜑女のために
此事あまねく人の
法華論講をとりおこなひたまふ
也知たる事故略して記ス
今按るに此説拠なし藤原系図を考るに藤原は地名
にて和州にあり鎌足此ところに住せられし故に天智帝
卜部姓をあらためて藤原ノ姓をたまはれり鎌足とはもと
より其名なり羅山文集十謬伝の詩にも藤不レ経鎌
一姓依レ旧とあれは藤綱の故にあらさるを知へし又
同長谷悦倅巻之
大織冠の事は日本紀を考るに孝徳帝の御宇七
色十三階の符を定めらる其中大小織冠は以識
正一位に
あたる
為レ之是第山ノ之冠也
播二藤原系図續日本紀一
鎌足もはしめは錦冠を賜り又紫冠をたまはり後
に織冠をたまはる冠によつて其時々に号せらるく
名なり又光明子は鎌足の孫にて不比等の女なり不
比等に女子三人あり一は色子文武帝の后にて聖武
帝の母なり二は光明子聖武帝の后にて孝鎌帝の
一母なり三は多比野橘諸兄の宝なりしかれども光白女と
いふ者なし又唐の高宗帝は日本にて孝徳斎明の御
宇にあたりて聖武帝よりはるか以前なり鎌足卒
去より五十六年を経て神亀元年に聖武即位あり
其後天平元年に光明子をたてらる不比等も聖武即
位以前養老四年に卒去せらる此不比等を淡海公と
いふ事は続日本紀に天平宝字四年八月廃帝勅
曰太政大臣藤原ノ朝臣勲績孟二於宇宙朝賞未レ之
人望一宜レ依二大公ノ故事一追以二ヲ以一近江國十二郡一封為二淡
海公一とあり近江を古へは淡海と書す旧事旧事紀古事
記にも淡海国とあり西峯松下氏か日本伝にも近江
国旧名曰二テ淡海国一ト衆山東西ニ時中港二大水一ヲ殆如二ル海
同益谷悦悴巻之也
とをつあはうみとは洛
一に遠きあはうみなり
水一ノ淡故號二淡海國一以レテ有二テ遠淡海國一、
しちかつあはうみとふ爰に
和名類聚清少納言枕草子
みやこに近きあはうみ也
号ス二近淡海国一
後
にはとをたあふみとあり
曰一近江一と見えたれは不比等を近江に封せられし故に終
海公と号せしなり又房前は鎌足の子にはあらす不
比等の次男なり其年歴事実を考へて俗説の誤
をしるへし但し似たる事あり日本紀に允恭帝十一
夕考に大織冠此所に居住ありし
故に姓を藤原とたまはれり
一年為二衣通姫一定二藤原部一ヲ
同十四年秋九月天皇淡路の嶋に狩し給ふに磨
鹿猿猪おほく山谷にみちて蝿のことしといへやとも終日
ひとつの獣をだも得たまはす夏子をいてうらなはし
め給ふに島神たゝりていはく獣を得さるはこれ我こゝ
ろなり赤石の海の底に真珠あり其珠をわれに弓
らはこと〳〵具獣を得へしと有しかは所々の白水郎を
あつめて赤石の海底をかつかしむといへともうみふかく
していたる事あたはすたゝひとりのあまあり男狭磯
一説に此男狭磯を女と
といふ
一書るもの有は非なり
四月十九日是阿波国長邑の海人にて
もろくの白水郎にすゝれたり腰になはをつけて
海底にいりしはらくして出ていはく海底に大なる暖
あり其ところ光れりと諸人みな海神の請ところの珠は
此あはひの腹にあらんかといふ故に男狭磯また入つて彼
大坂をいたきてうかひ出つ鬼たへて波の上に死せり縄
をおろしてはかるに六十尋に及へりすなはちあはひを
さくに真珠腹のなかにあり其大さ桃子のことし則島神
にまつり狩しておほくの獣を得たりたゝ男狭磯か死
ることをかなしみ墓をつくつてあつく葬る其基なを
今にありと見えたり思ふに此説より妄作したるものな
るへし
柿本人麿柳樹より生すといふ説に流さるゝ
といふ説
俗説云柳本人麿は柳樹より生すこの故に其名とす又
文武天皇の御宇に上総国にながされ三年過てめしかへ
さると云
今按なに両説ともに偽なり茨田親王新撰姓氏録
云柿本ノ朝臣大春日朝臣同祖天足彦國押人命
之後也敏達天皇ノ御世依二家門ニ有二柳ノ柳ノ樹二柿ノ本臣
氏とあり此説を謬りて樹樹より生すと云伝ふもの成
へし續本朝文粹藤原敦光が人丸畫像賛云大夫
人丸勘文云人丸は
一姓柳本名人麻呂益上世歌人也は
石見国の人なり
仕二持統文武之聖朝一遇二新由高市之王子。吉野山
万葉集桑スル吉野一一時ノ飲人麻呂やすみしか
之春風從二仙駕一而戯
一わか大きみのきうしめすあめか下には咽はしも
黄益谷悦婢巻之也
さはにわれとも山川のきよき河内と御こゝろを町。石浦之秋霧
明石浦之秋霧
吉野の国の花こらふ秋津の野辺下略明石津三寺
一男子をある〳〵とわかしのうらの朝きりになかしのうらの朝きりに島かゝれ
思二扁舟一而瀝レ詞
ゆゝ船をしそ思ふ○三間伝記云人麻呂基幡摩
にあり○一手云明石浦に人丸の廟あり名所方角抄云く◯
羅山文集
播磨国大倉谷より西に人麻呂はかわり後人録小ろて築かかせ
云従三位柳木ノ朝臣人麻呂は持統文武につかへ或は
拾遺集云人丸天津宮のあれて侍りけるを
近江の旧都に過り
見てさゝなみや近江のみやはなのみして
万葉集人丸
かすみたなひき
みれとあかぬ
あるひは吉野の行幸にしたかひ。
宮木もりなし
よしのゝ河のとこなめの
たゆることなくまたかへり見む
あるひは雷岳の御遊に侍りて歌を
詠す
万葉集云天皇御遊雷無之時人麻呂すへら
朱鳥三年
神にしませは天くもの雷のうゑにいほりするかも
万葉集云草麗太子を悼る歌人麿
夏四月草壁大子薨す
ひさかたのあめ見ることくあふき見しみこの
みかとのあれまく
おしも
文武四年四月明日香公主薨す皆人麻呂
一拾遺和歌集云あすかの女王をおさむるとき
枕歌をつくつて哭す
よめる人まろあすか川しからみわたしむがませば
ながるゝ水も
歌数首万葉
のとけからまし
同紀州讃州を経歴して詠歌おほし
及代々の撰集
にのせたりしけき
か故に註せす
死人丸覓国にある時病て死せんとし見づ
万葉集集在二ル石見国一ニ時臨レ死。時自傷作
からいたみてうたをつくる
歌一首柳本人麻呂かもやまのいはね
たまにあるしゑらぬか
しまける我をかもしらすすといもがまちつゝほしんかへ丸家某云石見にて身まかりける時
石見がたかつろ松の木のましりうきよの月を見えてぬかりなる和漢合運云神亀元年三月
十八日人丸章○和歌秘講抄云人督卒去門歳四十二しかるを今昼図に白髪に
かざるは大に非なり清君茶始兵人丸か忌日は三月十人日なり黴書化物語につするも又同じ
日本地志略云石見国高角の峰は柳本人丸所没也
其妻依羅娘子和し
一万葉集抄云石見国石川有人麻草英弌重石見骨下大山里有
てかなしむを
万葉集云人麻呂が妻俵羅娘子二首けふ〳〵とわがまつ
きみはいしかはのかひにまじりてありといはすやもたゞ
にあはゝあひもかねてんいしかはにくもたちわたれ見つゝしのはん○大和国
初瀬にも人麻呂蕪わり歌焼と号す無名抄云人丸の墓は初瀬に参る
道なり人丸のはかといひて尋るにしれる人なしかのところには歌墳といふ。
人丸勘文云人丸の墓は大和国添上郡春道大森の中にあり大和幽考に
一番笹谷倅春之
柿本村といふところに人丸のはかあり南都記に標本といふ里に浪入宮
といふ神社あり此宮の西のほとりに人鹿昌惠あり其辺になり清浦家集に大
寺ほり奈良より一里半南初瀬に参る道なりとあり法師といふをきて
和国言上といふ所に柿本寺といふ所の花に人丸かはかはかかりといふをきして
そとはをたて我本人まろとしるしつけてかたはらに此うたりくちせさ
つけらるよをへてもあふへかりけるちきりこそ苦の下にもくちせさ
りけれ其のち村のものともあまたあやしき夢をなん見たりける能
林雑請公因幡国にも人丸の社あり一森公下野国宇津宮大明神は
人我戔其外平生の和歌のせて家集万葉葉集にあり其
一内吉野人丸楼人丸欲にちるははちらぬは雲と見つるかなる
内吉野山の桜人丸のこそめはなのこそめは
石浦の朝霧の歌出る人口に膾炙るとありしかれとも上総国
に流されたることかつて見らす是等を考へて俗説の相違
を知へし此段今改正如君の
二阿信仲麻呂鬼となつて吉備大臣にあへる説
俗説云吉備大臣遣唐使たりしとき唐人其才をねた
みてひとつの楼にのほらしむこれかの楼に鬼ある故害さ
せんとはかつてなり吉備公これをしらすして樓にのほるに
はたして鬼あらはれていはく卿我かたちに恐るたとなかれ
我はこれ先の遺唐使阿倍仲麻呂なり唐人のために
殺害せられ其魂此楼にとゝまつて鬼となれりとて本国に
残し置る子孫の事等を尋問て落涙すあくるあした
唐人楼に来り吉備かつゝかなきを見て大におとろく
其夕鬼また来りつれていはく唐人等卿に文選をよま
しめあやまりあらはあさけり笑らはんと議す此書いまた日
旧並谷杭牌巻也
城にわたらされはよむといふとも疑惑なきことあらじ幸に
此国の書生等夜々文選を講す予卿を背に負てひそか
にかの席につらなりきかしむへしといひてともなひ行
くはしくこれをきかしめぬ案のことく唐人文選を出し
こゝろむるに吉備たやすくよみをわりあまつさへ唐人を
あさむきひそかに文選をうつして日本に贈れり唐人
また宝誌和尚に野馬臺詩をつくらせて吉備公によまし
むるに解することあたはす眼をふさきて住吉大明神長
谷の観世音を念するにいつくともなくひとつの蜘蛛かの
詩の上に落綿をひける故それにしたかひたやすくよみおし
はりぬ唐人ます〳〵奇異のおもひをなし凡人にわらずと
いひてゆたして日本にかへらしむ
今按るに妄説なり羅山文集安倍仲麻呂伝云
一仲麻呂は中務太輔正五位ノ上船守か子なり
一書云
和銅元
年生ル其先は孝元天皇の皇子
當リ唐ノ玄宗
霊亀二年八月
大彦命より出て阿信倉橋麿の後也
開元四年ニ
多治比縣守遣唐使たりしかき仲麻呂留学生と
なりてしたかひゆく年十六なり稟性聽敏にして書を
よむ縣守本邦にかへるとき仲麻呂はとゝまりてかへら
す姓名をかへて朝衡といふ
衡一新唐書ニ所セモレ載粗同シ唐類函ニ云天宝ノ末
衢厨少卿朝衡○太平広記ニ作二胡衡一非ナリ
補唐書ニ云。其副朝臣仲満
泰レ華ヲ不二肯テ去一テ一易二姓名ヲ一曰レ朝
唐玄宗其
同同長谷悦野巻之也
才を愛しあつくこれを賞し秘書監といふ官にいたれり
見于文
天宝十二年仲
苑英華ニ一
一補使を本国につかはして父母を問問
一麻呂遣唐使清河と同船して帰朝す此とき王維包詰
一陸海詩をもつてこれをおくる明別の海畔にいたつて
古今集註にめい
唐人餞貶またおほし
船にのらんとするとき
しうといふ所にて
ともに酒をのみわかれをおしむ夜に及ひて明月を仰見
清輔奥儀抄にふりさけとはい
清輔奥儀抄にふりさけとは我国の三笠山を思ひて和歌を
ふりあふくこゝろなり
古は和哥集云もろこしにて月を見てよめる阿倍仲麻呂
詠す
あまのはらふりさけ見れは春日なるみかさの山にいてし月かも
一佐日記云むかし安倍仲丸といひける人もろこしにいたりてかへり
参る宗ねにのるへき所にてかの国の人馬のはなむきしわかれを
しみでかしこのからうたつくりなとしけるあかすやありけん廿日は夜
の月あるまてそほりける其月は海よりそ出けるこれをとて仲丸のぬし
我国にかゝるうたなん神代より神もなかめたまふ今は上中下のか人もかう
一うにわかれをおしみよろこひもありかなしみもあるときはよむとて
よめりけるあをうなはらふりさけ見れはおするなる
みかさのやまに出し月もとそよめりける
人これを問けれ
は仲麻呂唐字をもつて写して其故をつけしめす既
にして仲麻呂海路にて風にあひ清河とともに安南
に漂泊す此故に人すてに没したりといふ李大白詩を
見千季大
つくつて哭す
白詩集二
仲麻呂安南よりかへりて又唐に
入粛宗の上元年中に北海郡開国公にうつされ三千
戸を領す其後仲麻呂新羅宿衛王子金隠居か卿に
かへるに書を附て卿親におくる統職日景雲四年新羅
の使金初王其書を本朝におゝれり仲麻呂前後唐
国にとゝまる事五十年もつはら書籍をころむ郷にかへ
ることをゆるせとも逗留してかへらす遂に大暦五
一説七十二一説七十三代宗
一説七十九
年正月唐国にをいて卒す年七十一説七十九
皇帝これをいかみ洛。州の大都督を賜ふ実に我朝光仁帝
の寶亀元年なりとあれは仲麻呂唐帝に愛せられ
かの国に逗留して死せる事明なり○今按なに吉備大臣
下道真吉備といふ故に吉備
下道の真吉殿といふ故に吉坂入唐の事は続日本紀を考るに
大臣と唱ふ一ニハ作二上道一ニ非
天平七年三月吉備大臣帰朝す此とき仲麿いまた死せす
それより二十余年を経て宝亀元年に仲麻呂死せり又
宝誌和尚に野馬台詩を作らしむといへとも実誌は梁
の粛宗帝天鑑十三年に寂す我朝にては継影帝八年
にあたれり此ときより吉備大臣入唐のころまては二百十余
一年に及へり旁俗説の相違を知へし此段如に補
新菅丞相天よりくたり給ふ説
俗説云菅丞相は人間にあらす菅原是善の南庭に五六
歳はかりの童子たてりしに是善いかなる人そやと問れし
かは我は父もなく母もなしねかはくは相公をもつて父とせん
とありし故これをはこくみて子とせらる
一今按るに甚た非なりおよそ天地ひらけしはしめ
造化氣化身化心化の理あり造化心化は形なく氣
一責安谷免倅善之也
化身化は体あり上古気化の人ありてのち陰陽おのつ
から備りて子を生すこれをなつけて形化といふこれより
のゝち父母なきの人なし殊に菅原系図を考るに夢
原氏。出レ自二天穏日命一命十二世ノ孫可美乾飯根命
裔野見宿祢賜二土師姓一天応元年光仁天皇改二土
一師姓賜二菅原姓ノ姓一ノ夫レより数代相続至二ル於従五位下文
諱ハ道真字ハ三
是善ノ四-男細
章博士是善一ニ一是善娶二伴氏一生二菅丞相一
名ハ阿児
○菅家文草云承和十二年乙生とみたり
母伴氏
拾遺和歌集に菅原大臣かうふりし侍りける事
母のよみ侍りける久かたの月のかつらも折はかり家の
か姿をもふかせてしかなとあれは父あり母あり天より
くたり給はさること明けし
新軽大臣燈台鬼となる説
俗説言軽大臣は菅丞桐の子にて河内国にすめり時の帝に
より造唐使としてつかはされしを唐帝不言の薬をの
ませ身に絵を書首に燈臺をいたゝかせ燈台鬼となつく
其子弼宰相春衡といふもの齋明天皇二年に遣唐使
たりしとき唐帝これを饗応し夜に入て鬼燈を出す
鬼はるかに春衡を見我子としりて涙をなかしゆひをゝい
切其血をもつて詩歌を書。父なることをしめすこれによつて
養益谷免倅善之也
春衡唐帝にこひうけて日本にぐし久れり
今按るに本朝ノ正史実詠に軽大臣といふ者をのせ
す又菅丞相の子といふ事跡なり軽大臣か子春衡
か遣唐使は斎明帝の御宇とあれは菅丞相出生の
承和十二年より百九十年前なり思ふにそのかみ好
一事者みたりに作れるを文盲なる者わきまへすして
相伝ふるものならむ
補小野篁地獄の冥官となる説
俗説云小野篁身は朝廷に在なから一日に二時つゝたましゐ
を地獄につかはして冥官となれり
今按るに二程全書にある人釈氏地獄のたくひは
下根の人のためにこれをまうけ松として吉をなさし
むといひしに程子こたへて至誠の天地を貫くすら人な
化せさるあり況や偽教をまうけて人化すへけんやといま
しめ給へりおよそ無極大極は理なり陰陽五行は気
なり人の生するは理と気とを相合て形質のなかに
心神をそなふ死するにおよひて魂魄すてに散形質
すなはち土となる一たひ死して二たひうまれさこと
水なかれてまたかへらさるにひとしいはんや身は人間に
一在なからたましゐを冥府にあそよするの理あらんや
序書書書書書書書記書書記書書書書書書書書書書書書書書
今たはふれに俗説によつて評するにもし此説をま
ことなりとせは天子につかへ閻羅につかふ雨は二心なり不
忠の罪すてに五刑にあたれりもし此説をいつはりなり
一とせは人を誣て名を汚さしむるは妄語なり其罪に依
て己か所謂地獄に堕へし
広益俗説弁巻八終
一広益俗説辨九
公卿
第
46冊
狩
46番
狩作
広益俗説辨巻九目録
狩野氏図書記
公卿
神村長
豊十一
一田村利仁異国を征するとき不動明王にうたるゝ説内
一田村利宗鈴鹿の鬼をうつ説
二百合若大臣むくりこくり退治の説訂補
三在原行平須磨浦になかされ松風村雨に逢説
四在原業平卒去の年しれすあるひは昇天すといふ説
五蝉丸は延喜帝第四の色にて盲目といふ説附四ノ宮河原
あふ坂の説訂補
六孫王経基禁庭にをいて鹿を射給ふ説
香益谷昆岸巻こ乙に
尼者行言辛亥之如
補紀実定冠を落して貫之とあらたむる説
補平ノ清盛雷におそるゝ説
太政大臣師長入唐の沙汰の説
新源実朝公暁に弑せらるゝ説
廣益俗説辨巻九井澤長秀輯録
公卿
一田村利仁異国を征するとき不動明王にうたるゝ説
附
田村利宗鈴鹿の鬼をうつ説
俗説云坂ノ上ノ田村丸利仁もろこしを征伐せんとて数万の
兵をしたかへ兵船数百艘に乗ておもむく所に産土より
不動明王を大将とし海上にをいてふせかしむ終に不動
うち勝て利仁をうち捕といふ又云く利仁の子に伊奈瀬
五郎田村利家とてありしか勅を奉りて勢州鈴鹿山
の大竹丸といふ鬼をうつかの大竹丸大たうれんにたうれんと
同長谷免倅医之乙
雇益代言辛者モカト
いへる刹をもつ故たゝかふことに田村かた利をうしなひぬ
其ころ鈴鹿山の麓に鈴鹿御前といふ美女有しに利
宗ひそかに通す大竹丸もまた懸想しける故。田村かの
女とはかりいつはりて大竹丸にしたかはせ二つの剣をぬす
ませ其のち鈴鹿にをいて大にたゝかふて鬼を討といふあ
るひは此とき田村か守り本尊の観音あらはれ鬼を射
ころしたりともいふ
今按るに坂上田村麿と利仁とは一人にあらす別人
なり姓氏録続日本紀に抜に田村麿は後漢霊帝の
後にして坂上苅田麿か子嵯峨天皇の御宇の人也
大薬図を考るに利仁は大織冠鎌足公の後胤鎮
守府将軍藤原時長か子醍醐天皇の御宇の人也
一但し続日本紀に坂上大忌寸苅田麻呂等の上表言
臣等本ト是レ後漢ノ霊帝之曽孫阿智王之後也譽田ノ
應
天皇
神
御宇帰化来朝すとあるを見れはもと漢
皇の後にて日本帰化の人なり此説を聞たかへてもろ
こしにゆきたるとあやまるにや又不動明ににうた
るゝ説尤非なり日本後紀云弘仁二年五月丙辰
大納言正三位右近大将兵部卿坂上ノ大宿禰田村
麻呂甍レ於粟田ノ別業一時ニ年五十四。田村麻呂ノ従三
同同十二年巻之乙
広者名言華序之ヲ
一佐左京大夫兼右衛士督苅田麻呂ノ子正四位ノ上
一犬養孫身長五尺八寸
一書ニ五
作レ七
胸厚一尺二寸目
如二蒼鷹二鬚編二金絲有レ事重レ身則三百十斤欲レ輕則
補田村麻呂傳ニ云身長五尺
六十四斤隨二心所欲
之如レ偃背ヨリ以
視レ之如レ侍
八寸胸ノ厚一尺二寸向ヲ以テ視
如レ偃背以怒怒寛長十一
怒レ目轉視禽獣慴伏平居談笑則老
少馴親
福田村麻呂傳云怒則回眼猛獣忽斃咲
則舒レ眉ヲ稚子早ク懐ク雑々記云弓勢ハ石中三
尺を射とをし遠箭
十六町にいたか
御とあり又田村丸の子に伊奈瀬五
郎利宗といふ者ありと播なし日本後紀続日本後
紀大原図を考るに田村の子を広野麿といふ伊奈
瀬五郎といふ者なし又鈴鹿山の大竹丸か事非なり
思ふに賀茂皇太神宮祭紀云弘仁元年平城天皇
重祚の御心ありて
浦平城天皇重祚の御こゝろわり
しは藤原仲成か妹薬子といふもの
すゝめ奉りし故に御寝叛あり日本俊化云薬子贈太政大臣
藤原種継之女中納言藤原縄主之妻也有三男二
女二長女ハ大上天皇為二太子時必選ヲ入レ宮其母薬子
以二東官ノ宣旨一ヲ出二入ス即内ニ一ニ天皇私レム焉ニ徴テ為二尚侍一巧ニ求二
愛媚ヲ一ヲ一恩寵隆渥一所
軍勢を卒し奈良を御立あつて
言之事無不聴容
東国に條幸のとき嵯峨天皇これを防きとめ奉るへ
き旨田村丸に勅ありしかは田村賀茂御社にまうてゝ
身の大事爰にきはまりぬとふかくいのり幣帛をさく
け奉る其のち鈴鹿に関をかまへて先帝の御幸を
おしどゝむこゝにをいて両陣いとみたゝかひ乗るに御めくみ
庫並作諸號来之力
ふかく神刀をくわ人数万の軍兵に現し山も動揺する
はかりにて終に先帝の軍やふれ大将軍藤原仲成
一宇閤ノ曽孫種継ノ長子
右兵衛督従四位下
をうちとると有に
日本後記云尚
侍薬子知衆悪
之事ヲ
奥州の高丸悪路王等の賊徒を誅
死ス一本云年四十
せしにとりあはせて妄作せしものか又鈴鹿御前は
諸神系図に伊弉並尊を祀ると見えたり是等を以
て俗説のあやまりを知へし此條加訂補一
二百合若大臣むくりこゝり退治の説
一説に四条左大臣公光
俗説云嵯峨天皇の御宇豊後の国主
の子九州の国司と有
百合若大臣といふ人強力精兵なりむくりこくり日本を襲時
百合君勅をうけ給はつてはせむかひむくりこくりを
射ころし帰朝に及ひて家臣別府といふ者叛逆し
大臣を元界島にすて置豊後にかへり国を押領す大臣
不慮に海士船にたすけのせられて帰国し別府をほろ
ほし囲を治むと云伝へ豊後府内に大臣塚あり其辺
に縁丸といふ鷹の祠もありといふ
一今按るに百合君大臣か事正史実録及公卿補任
河野越
一尊卑分脈等にも見えす但し予章記
に伊予国
智家乗
一の領主三並といふ者神功皇后三韓征伐のときの先
鋒なりそれより九代に百里十代に百男といふもの有
同同月一番笹谷免伊与之介
百男か子益躬蒙古日本に襲来りし時推古帝の
勅を奉てはせむかひ賊の魁首鐵人を射殺す益躬
か孫玉興子綱あつて摂州難波に流刑せられ後に便船
を得て帰国す益躬か末葉河野か一族家人に別府と
いふものおほし歴代皇紀編年集成八幡愚童訓等
を考るに弘安四年蒙古より高勾麗を案内者と
して日本を襲しか筑前博多にて大風にあひ船やぶ
玄界嶋
れくつかへりて死る者多し同国志摩郡鷹島は
とも云る
元史に五龍山とあるはこれなり
といふ所にて敵の大将范文虎
此嶋の事詳に筑前風土地に見へたり、
等よき船をゑらひのりかへるとありむくりこゝりとは
蒙古高勾麗なり高麗を通鑑東国通鑑北史に高
白麗と書し後漢書綱鑑大全等には高句驪と一
記せり中原康冨日記に高勾麗をこくりと訓す名
西峯翁云高麗世為日本ノ
目抄に麗本音りとあり
附庸而終ニ黨二蒙古ニ故ニ
人到二于今ニ罵テテ異類一ヲ曰二牟苦利骨
口離乃蒙古高勾麗之転音也、
おもふに百合若大
臣か事は是等の説に抜て作り出しけるをあやまり
伝へて好事の者墓などを築けるならん此
此條加訂補
三在原行平次摩浦になかされ松風村雨に逢説
俗説云中納言在原ノ行平ある人の謬によつて摂津国
須摩浦になかさる此所に松風村雨といふ姉妹の蜑女
長谷谷片梓長乙乙
ありしを行平これを愛す其後勅免をかうふり帰洛の
ときしわかれいなはの山の嶺に生る松としきかはいま
かへりこんと詠し罰とからころもを二女に残し置れ
しに彼二人のあま行平を恋てかたみこそ今はあた
なれこれなくはわするゝこともあらましものをとよみて
から衣を着冠をかふり狂女となれりといひつたへ其
諸摂州におほし
一今按るに行平次摩の浦に配流の事はまことにて
松風村雨か事は非なり後撰集に仁和帝嵯峨帝
の例にて行幸し給ひし日在原行平朝臣さかの山
行幸堂へにし芹川の野辺のふる道跡はありけり
一同し日鷹飼にて狩衣のたもとに鶴のかたをぬひて
かきつけゝるおきなさび人なとかめそかりころも遣ふ
ばかりとぞ田鶴もなくなる行幸の又の日なむ致仕
の表たてまつりけるとあり抄云ツこれは光孝天皇嵯
峨の芥川に行幸のときなり行平此とき六十九歳装
束のかろ〳〵しくよはひにも似あはさると思ひ且は七十
に及へはかゝる御供もけふはかりとよめるうたなりし
かなに帝御とし五十七にならせ給へはけふはかりとよ
めるを不吉におほしめし翌年行平を須摩に遷し
同同四十一番笹谷免悴長之
給ふと有古今集に田むらの御とき事にあたりてつの
一囲須摩といふ所にこもり侍り侍り侍り侍り侍り
ける人につかはしける在原行平朝臣わくらはにとふ
人あらは須摩のうらにもしほたれいゝわふとこたへよ
補源氏物語次摩の巻におはすへきところは行平
の中ならんのもしつたれつゝわひけるいへゐちかきいたり成けり
撰集抄にむかし
行平中納言といふ人いまそかり楽両身にあやまつこと
ばんへりて須摩の浦になかされもしほたれつゝ浦つた
ひしありき気るにあるあまにいつくにやすみする人に
かと尋ね給ふに此あまとかあへす白浪のよするなきさ
此哥新古
によをすこすあまの子なれはやともさためす
今。果もわり、
と
よみてまきれぬ中納言いとゝかなしうおぼへてなみた
もかきあへ給はすとなんとあり此説に附会して
松風村雨か事をつくりたるにや又立かへりいなはの
みねに生るのうたは行平家集にいなはの守な
りしか
文徳実録云齊衡三年正月丙申に
住はてみやこに
従四位下在原朝臣行平為二因幡守一
のほりけるに思フ人によみてつかはすとあれは摂州
にてよめるうたにはあらす又かたみこそ今はあたなれ
の歌は伊勢物語に見えて諸抄にある女のよみて
業平におゝれるうたとあり思ふに事を好む者是
等をとりあはせて妄作しげるならむ
同長谷免倅医之乙
四在爾業平卒去の年しれすあるひは昇大せりと云説
俗説云在原業平は卒去の年しれずあるひは仙術を
おこなひて昇天せりといふ
一今按るに三代実録云元慶四年五月廿八日辛
已従回位上行右近衛権ノ中将兼美濃守在爾ノ朝
一臣業平卒すとあり大和国石上在原山光明寺
其葬地のよし相伝ふ玉葉集に在爾寺にて従三
位為子かたはかり其名残りて在原のむかしの跡を
見るもなつかしとあれは俗説の相違をしるへし
五蝉丸は延喜帝第回の色にて盲目といふ説
俗説云蝉丸は延喜帝第四の色なりうまれなから盲
目にてよく琵琶を弾し給ふ其御姉に逆髪宮登て
有しは髪さかさまに生出給へり延喜帝業障懺悔の
ためにとて逆髪を男山にすて蝉丸を相坂にすて給
これによつて後世王坂ど書し四宮河原の名あり博
雅三位よな〳〵逢坂に来りて蝉丸に琵琶をならふと云
一今按るに三光院殿の御説に世人蝉丸を盲目と
云はあやまりなり後撰集に相坂の関に庵室をつく
りすみ侍りけるとき行かふ人を見てよめるこれやこの
ゆくもかへるもわかれつゝしるもしらぬもあふさかのせき
同十二番笹谷悦牌巻之几
とあり行かふ人を見てとあるにて盲目ならさるをしる
一へし又延喜帝の皇子といへ類説は弥誤なり古今
に此人のうたいれり延喜五年に古今集を撰へる
とき醍醐帝御としあつかに二十三歳にならせ給ふをもつて
誤をしるへしとあり。補」無名抄に云会坂に関の明神
本朝遐史云蝉丸は式部卿敦実親王の
と申はむかしの蝉丸は
雑色なりよく琵琶を弾す序を相坂に
結てかく
〽かのわら屋のあとをうしなはずしてそこに
れすむ
神となりてすみ給ふなるべしむかしふかくさの帝の
御使にて和琴ならひに良峯宗貞良少将とてかよひ
けんほどの事まて松もかげにうかひていみしくこそ侍迄
方丈記言ふかくさのみことの勅をうせて
此説是なるへししかるを
良宰宗貞せみ丸にひわをならふ
小世継なとに博雅三位木幡にすめ類育僧に琵琶を
扶桑隠逸伝に
一習ふとあるを混して謬り伝ふるにや
博
此事を論せり
一雅三位は延喜帝の孫なり時代大に相違せり又逆髪
の事尤妄説なり国史小説紹運録にも見えす又王
坂旧宮河原の事弥非なり一日本紀ニ云仲哀天皇ノ
御宇武内ノ宿禰追二忍熊王一ヲ遇二于逢坂一とあれは上代
より逢坂の名あることを知へし又小町家集に四ノ宮
うせ給へるにつとめてかぜふくにけさよりはかなしの
みやの山かせやまたあふさかもあらしと思へはとあれは征
同同三年一月三乙
喜よりはるか以前に四宮の名あること明けし雍州府
志に回宮河原とは仁明帝第四ノ宮人康親王の旧跡
此條加二訂補一
なる故に号すと記せり
六孫王経基禁庭にをいて鹿を射給ふ説
俗説云六孫王経基禁庭に作せられしに御庭にいづく
より来れるともしれす鹿来りてとびあがりぬべき体
なりしを経基これを射ころし給ふと云
一今按るに此説拠なし但し今昔物語にむかし三條
院春色にて東。三条にまし〳〵けなときある夜寝殿の
一巽のかたなる西の檐に狐ふして居たり折ふし源頼光
伺供したりけるに春色御弓と蟇目をたまはりて
一かの狐射よと仰せけれは頼光申やうかゝるものは征
箭にてごそ仕ることなるに弓よはく蟇目はおもしい
かて射あてこんと辞しけれ共御ゆるしなけれは紐
さしながら表衣の袖をまくり弓を少しふせて引まう
けてはなつにあやまたす狐にあたりてさかさまに池に
おちいり怒宮かきりなく御感ありて御馬を頼光に
賜ふとあり此説をあやまり覚えたるものなるへし
紀実定定冠を落して貫之と改る説
俗説云奈良帝の御ときに紀文幹か子実定を御前に
慶長谷竹作
めしけるにかしらをかたふけるとて冠を落したりき
はめたる非礼の御とかめいかゝあらんと人くあさましく
思れたるに冠をおしなをして〽今よりは紀の貫之
一に君の
とめさるへし実定なから印
かふり落せは叡感あさ
御前て
からすして則時に中将になし給ふ
一今按るに此説尤非なり定の字の冠を除きて之
の字と思へること漸草字を知て真字をしらさる者
の妄作なり右の歌の鄙俚なる貫之か奴僕もよむへ
からす笑ふへし思ふに此説は盛衰記に一条院の御
古事談云行成此時
宇に大納言行成いまた殿上人
備前介前兵衛尉
にてお
はしけるか参内の折ふし実方中将参会して小台盤
所に着座したりけるか日ころの意趣はしらす実方
笏を取直して行成の冠をうち落し小庭になけす
てたりけるに行成はさはかす主殿司をめしてかふりを
取よせ着て実方を敬していかなる事に候そや身に
覚へ候はす其故をうけたまはりて報答いたさんとい
はれけるを主上小蔀のかけより御覧して行成は
一穏便のものなりと叡感にあつかり蔵人頭になされ
実方は歓枕しなすへしとて陰奥に流さる又十訓抄
にあり
とあるを貫之か事につくりなをしたるものなり又
四百五十一月一九九
めしけるにかしらをかたふけるとて冠を落したりき
はめたる非礼の御とかめいかゝあらんと人くあさましく
思れたるに冠をおしなをして〽今よりは紀の貫之
に若の
とめさるへし実定なからせ
かふり落せは叡感あさ
御前て
からすして則時に中将になし給ふ
一今按るに此説尤非なり定の字の冠を除きて之
の字と思へること漸草字を知て真字をしらさる者
の妄作なり右の歌の鄙俚なる貫之か奴僕もよむへ
からす笑ふへし思ふに此説は盛衰記に一条院の御
古事談云行成此時
宇に大納言行成いまた殿上人
備前介前兵衛尉
にてお
はしけるか参内の折ふし実方中将参会して小台盤
所に着座したりけるか日ころの意趣はしらす実方
一笏を取直して行成の冠をうち落し小庭になけす
てたりけるに行成はさはかす主殿司をめしてかふりを
取よせ着て実方を敬していかなる事に候そや身に
覚へ候はす其故をうけたまはりて報答いたさんとい
一はれけるを主上小蔀のかけより御覧して行成は
穏便のものなりと叡感にあつかり蔵人頭になされ
一実方は歓枕しるすへしとて陸奥に流さる又お
又十訓抄
にあり
とあるを貫之か事につくりなをしたるものなり又
一讀谷説解巻之几
貫之中将になること非なり垂加草ノ紀貫之伝云貫
之。大和守文幹之二男也。元慶八年甲辰十月生
童名内教坊阿古久曽。延喜五年与二大内記紀紀紀官
則前甲斐少目凡河内躬恒右衛門府生壬生忠岑
奉レ救撰二和歌古今集一。六年任一木工権頭一叙二叙二從五位
以上一。御書所ノ預也。天慶九年五月十八日卒。享年六
十三とあれとも中将に任せられたることは見えす
平清盛雷におそるゝ説
俗説云仁安三年七月七日平清盛入道浄海摂州布引
のたき見物のときにはかに雷なりて浄海家人難波
経房か上に堕かゝりてうちころせしかは入道は弘法大
師の筆を守にかけられたりしをおそろしさのあまり
にくずにかけながら打ふり〳〵にけられ気類といふ
今按なに人に剛臆なし気に進退あり理をわきま
へぬれはうたかひなくしてすゝみ理をわきまへされはうた
かひありて退けり理にくらく事にわたらすして生を
むさほり死をおそるゝものは此うたかひ常にあり人に
対してはさはかり勇ありと見ゆる者雷霆幽霊天狗
妖物なといへはいろをうしなひておそるゝものありこれ
明には剛に幽には臆せるなり魏の曹操のたけくい
同月十二年四月十九日
さめるたも雷におそれたりとあれは清盛たくひは左
もあるへし書を読て死生有命といふことをしらは
何をかおそれ何をかうたかはむ昔伊川先生活におも
むくとて江をわたり給ひしに風浪大におこり舟中の人
皆いろをうしなひけれ共先生正襟端座して神色
一泰然たりと二程全書に見えたり雷をおそれぬも
又かゝのことくなるへし
補太政大臣師長入唐の沙汰の説
俗説云太政大臣師長は天下にならびなき琵琶の上手な
りしかは入唐の望みあつてまづ旅州に下向し須摩の
塩屋に宿し給ふ宿のあるしは老翁老婆なりしが
かれらかのそみにまかせ琵琶をひき給ふ其のち師長の
望みにて老翁は琵琶をひき老婆は琴をしらふるに感に
重極るはかりなり師長大におとろきわれ日本にて
琵琶の奥儀をきはめつゝもろこしをうかゝはんと思ひ
しに日本にもかゝる上手あることよ所専渡唐をとゝまらん
とおほしてあるしか名を問給ふに今はなにをかつゝむ
へきわれ玄上か主たりし村上天皇梨壺女御なり
御身か入唐とゝめんためにあらはれたりとてかきけすことく
うせ給ふ村上帝の御宇に三面の琵琶もろこしより渡
れり青山獅子丸玄上なり
今按るに此説非なり源平盛衰記云治承三年十
一月太政大臣師長を尾張国井戸田にながし奉るあ
る時当国熱田のやしろにまうて給ひよもすから神明
の納受のために法施を手向たてまつり後には琵琶を
弾し給ひ御祈念とおほしくてしはらく物を仰られす
やゝあつて御琵琶をかきよせて上玄石象といふ秘曲
を弾しすまし給へり此とき神明の感応とおほえて
宝殿大に動揺し明神託してのたまはく今弾し
給ふところの秘曲感にたえす影向せり君配所にくたり
給はすはいかてか此秘曲をきくべき帰京の所歌うたかひ
なしかならす本位に復し給ふへしと御託宣あり
又云村上天皇の御宇ある夜玄象といふ琵琶を弾し
給へるに虚空より人くたりて我は大唐の琵琶の博士
一廉承武なりとて上玄石象の二曲をさつけ奉ると
あり此説によりて妄作せるものなるへし
新源実朝公暁に弑せらるゝ説
俗説云建保七年正月廿七日右大臣源実朝鶴岡八幡宮に
参詣せらる北条義時御剣の役たりしか神前にちろく
時犬はしり通なと見て心神悩乱せしかはかねて薬師丁
同冨長谷肥後谷肥後守
二神の内戌神の告ありし事を思ひあはせ中原仲業
に御剣をゆづり退出する故実朝と一時に仲業きられぬ
義時此弁陽に感し薬師堂を建立すといふ
一書に云く北條義時執権として其威ならふものなし
といへとも実朝源氏の統として大樹の位にありて
旧臣これをかしつく故其権をほしひまゝにする事
あたはすこれによつて実朝を殺して幼主を京師に
こひ鎌倉の主として弥其権をほしひまゝにせん
ことを思ひ家人横伊木工介といふものをつかはし公暁
をすゝめて実朝を弑せしむと記す○予これに拠て
思ふに北條時改義時等すてに天下を井呑するの心
ありておのかさまたけとなるへき和田畠山等を誅し
頼家を伊豆修禅寺にをいて
一実朝とはかつて頼家を害し
裁す詳に忍管抄に出たり
頼家の子善哉を僧となし公暁と号して鶴岡に
居しめ人をして公暁をすゝめて実朝をうたしめ其
敵なりとて公暁をも誅せしかは頼朝の血脉たちまち
に断絶しぬ
是よりさき頼朝舎弟範頼義経に天下をうはゝ
れんかとうたかひおそれ小罪にかこつけて二人を
殺害しかへつて北条か為にうはゝれたる
是よりのちは将軍の号
ものなり合第一人此時迄あらはなとかく有へきや
ありといへとも天下は松のつから北条家の学極となれり
実朝殺害にあひ給ふ砌義時かねて公暁と心を合する故に
同三月二日三月一日
病と称して退出し世人のうたかひをとひこのたびの
一害をのかれしは薬師仏の加護なりといつはり薬師
一堂を建罪名をかくせるのみたと元一世をはあさむくと
いふとも豈万世を誣へけんや
廣益俗説辨巻九終
狩猟
曲
第
廣益俗説辨十士庶
廣益俗説辨巻十目録
狩野氏図書記
士庶
神村長
豊藏書
一浦島子蓬莱にいたり三百四十余年を経て帰説
新藤原千方か説
同都良香仙となる説附羅生門ノ鬼の説
二俵藤太秀卿三上山の蜈蚣を射る説後同人将門を
討説訂補
討説
三藤原忠文将門追討の賞なきを恨て悪霊となる説
俗にいふもみち
新平ノ維茂戸隠山の鬼をきる説は
かりなり
四信大小太郎が説
同長谷穴浄春一丁
及並作勢報著之十臣
五源頼光酒顛童子を討説及出蜘蛛の説
補頼光家臣四天王一人武者の説
補渡辺綱相馬良門を討説内綱詠歌の説
新同人宇治橋姫宇多森鬼羅生門ノ鬼を斬説
同公時は血気の勇士と云説奇補
廣益俗説辨巻十井澤長秀輯録
士庶
一浦鶴子蓬莱にいたり三百四十余年を経て帰説
俗説云雄略天皇の御宇に丹後国余社郡の人水口の浦
島子船にのりて大亀をつり得しに此亀化して美女と
なる浦島子此女とともに蓬莱にいたり三百四十余
年を経て淳和帝の御宇天長二年に日本にかへるといふ
或云日本紀に雄略帝の御宇二十二年七月丹
後ノ国余社郡管川の人水江ノ浦島子蓬莱にいたると
あり舎人親王の日本紀を奏上せられしは元正帝の
同同同一番笹谷口
同広谷舎親者之十
養老四年五月廿一日と続日本紀に見えたれは彼浦嶋
子が蓬莱より帰れること日本紀編纂の前にあるへし
しからすは親王何によつて浦島か蓬莱にゆゝ参ること
を知給はんや殊に聖武の朝にゑらはれしとい
へる万葉集に浦嶋か古郷にかへりて死せしことを
のせたるを見れは其後百余年を経て淳和帝の
御宇にかへれりと云浦嶋子は同名異人なること
明かなり
新藤原千方か説
俗説云天智天皇の御宇に藤原ノ千方といふ者叛逆す
彼千方金鬼風鬼水鬼隠形鬼といふ四鬼をつかふ千方
彼等を従へて伊賀伊勢を押領す爰に紀朝雄といふ
もの宣旨をかうふり彼地にくたり一首の哥をよみて鬼
の中におくりける其うたに草も木もわる大きみ
の国なれはいつくか鬼のすみかなるへき四鬼此うたを
見て我等悪逆無道の臣にしたかひて善政有道の君
をそむき奉ること天罰のかなゝ所なしとて迎うせ
けれは千方いきほひをうしなひて朝雄にうたるゝいふ
一今按るに此説旧事紀古事記日本紀及諸実録
に見えす殊に藤原姓は大織冠鎌足公より始る姓氏
同青益谷晩映長十
広谷竹評計書之事
録に天智八年に始て大織冠鎌足賜二藤原ノ姓一とあり藤
原薬図に千方といふ者見えす其妄説明なりある人
云く此説は古今の序に和歌を論してちからをもいれ
すして天地をうこかし目に見えぬ松にかみをもあ
はれと思はせとあるにもとつき跡かたなき事を
一説に千万は俵藤太秀卿か子とす
書たりとなん
非なり夢郷か子は干方なり千方にあらす
新都良香仙となる附羅生つ鬼の説
俗説云都良香は京洛の人なり学才世に聞遊つへて
著作郎となる夢夢丞相は良香か門人なり然るに道真
の階爵日々に進み良香及さる故これを憤り官を捨て
山に入仙術を学ふ終る所をしらすと云一説に良香あ
る時羅生つを過類とて詩一句を得たり気霽風梳
新柳髪と此句を吟していまた対句を得す時に門の上に
聲ありて氷消波洗旧苔鬚とつけたり是鬼のつくる
所なりといふ
今按るに良香官をすてゝ山に入終る所をしらすと云
こと非なり三代実録等を考るに都ノ良香
始名ハ
言道
崇
神帝ノ裔桑原腹赤之子也仕至二文章博士少内記
元慶三年二月廿五日乙酉卒をと見えたり又仙
術を学へる事正史実録に曽てなし但し良香か
広谷信訓弁巻二十
神仙ノ策に三壺雲浮。七万里之程分浪。五城霞峙
十二楼之構捕レ天回九三十六之天。丹霞之洞高
見二千本
闢。八九七十二之宝。靑嚴之石削成。
此管
朝文粹一
当時人口に膾炙して豪放を称美すこれをもつて
好事者仙術を学へりと誣たるのみ又羅生門にての
鬼の詩非なりある人の説にそのころ路寶王かことき者
門の上にかゝれ居て其句をつぎたるものなるへしと
いへり唐才子伝に宋之問銭塘に出て霊隠寺にあ
そひ夜月に長廊の下にゆき吟していはく鷲嶺欝
岩覚龍宮院寂莫といまた下聯を得さりしに老僧来
○精観二滄海日一門浙江湖一とつけたり建明これを
詣ふに見えす老僧は駱費王なり海に浮て去と聞
えたりと記せり羅生門にて良香か詩をつきたるも
此たくひの隠士なるへし
二俵藤太秀卿三上山の螺頭を射る説付同人将門
を討説
俗説云田原藤太藤原秀卿江州勢田を通乗かに大蛇
あつて橋の上に横り臥たり秀卿少もおそれすこれ
をふんて通乗る大蛇忽男となり我は是此湖水にすむ
龍神なり然るに当国三上山の撰頓夜々来て我
広花作詩載著之十
党類をなやますこと久しかれかせつよくしてふせき
かたき故かく橋上に臥て往来の人をためし見るに御
辺にまさる弓取なしねかはくは彼螂蛆を討て給とい
ひしかは秀卿これを諾して彼男とともなひ水中に
入レと思へは暫時にして龍色にいたり怒案のことく夜半は
かりに百足よせたりとて周章さはく秀卿期する所な
れは矢をはなちて射ころす都神悦にたへす十種の
財を秀郷にあたふ其内俵一つ鐘一口あり鐘は俗家に
置て用なしとて園城寺に寄進す俵は朱をとれとも
更につきさりけれはいくはくならすして其家富り此故に
家號として俵藤太と称す承平五年平將門下総国
相馬郡に在て反逆しするに帝都をかたふ景んとす
これによつて秀郷宣旨をかうふり発向し攻たゝかふと
いへとも彼将門強勇絶倫其膚鉄にひとしく矢石も
及難自刃も加ることなし殊に謀たくみにして兵多
けれは戦ふことに御方利をうしなひける故秀卿偽りて
降参しひそかに将門か妾に通し将門其躯鉄にひと
しといへとも蜂谷のみ常人に異ならさるよしをうかひ
聞て終に将門を射殺し首を切て其前を退くに骸
秀卿を追て武蔵国にいたる首をは洛に上せて梟けるに
色変せす目を瞑かす影をもち来るへしつきあは
せて本意を遂へしと呼りけるに藤六左近といふ者
将門はこめかみよりそ射られける俵藤太か謀にてと
よみけれは彼首呵〳〵と笑けるか眼ふさかり肉たゝれて
忽に枯骨となりに乗る此妖怪に驚き件の骸を埋
一祝に勝明神と云
めるところに社を建骸明神
と号し
又独眼人明神共云
けるを後にあらためて神田明神と称すと云伝え
秀卿を忠臣とす
一今按なに淮南子註云ク蜂蛆蜈蚣也性能制レ蛇見
大蛇便縁上噺二、脚玉匣記ニ云蝦疹制ト云蝦蛤制一ス大蛇ヲとあれは
蜈蚣の蛇を悩すとは見えたり然れとも勢田湖水の
大蛇の説は妄なり橋上に伏居て往来の人をため
すうちに其こゝろをしらさるものあつてかれか形に
怖れ箭をはなち劔を振て其躯にきずつけは百脚
になやまされしより甚た劣れることなるへし又露
大公大大大大大使水中に入龍宮にいたる事尤妄誕
なりなんそ水底に龍宮といふ世界あらんや若龍神
秘術を以て仮に世界をあらはして見せたりといはゝ
目をくらましてなきものを有ことくにまとはしたる
にやかゝる妖怪にたふらかされて蜈蚣を射るへしと
応諾しけるもいふかしかの晋の周処か南山の虎
長橋の蚊を殺して後書を読て忠孝の士となり
しとは同日にも談すへからさる秀卿か所為なるへし
又俵を得たる故に俵藤太と号すとは非なり秀
卿系図に住一近江国俵庄以故號二俵藤太と記せり
又将門か謀叛に依て秀卿宣旨をかうふり下総に
発向し戦ふといへとも利なき故いつはりて将門にし
たかひかれか妾に通し将門を射ころすといふも
非なり將門記盛哀記等を考るに秀郷宣旨をかり
ふりてたゝかふにはあらす将門か反迷をきく彼か体をうかひ
然るへくは同意して朝家をかたふけ奉らんとて行
むかひけるに背門か為體軽忽にして天下を掌握すへ
一き器にあらすと思ひ心をひるかへし本国下野に帰
り平ノ貞盛としめしあはせ勢を催して将門を
せむ貞盛かはなつ箭将門にあたりて馬より落ける
を秀卿其首を捕とあり圖又秀卿將門か妾に通す
ること非なり但し今昔物語云将門貞盛とたゝかふ
に貞盛か軍敗れて欠盛か妻を生捕軍士等これに
通せりとあり此とき将門衣を貞盛か妻におくる時
歌をそ遊よ北にても風のたよりに我ぞとふえだは
長谷免倅義之
なれたる花のやとりをと清輔奥儀抄に見えたり
此説をあやまれるにや◯又秀郷かな門を討しことを
忠義と称すれともはしめ将門にくみせんことを思ひ
其器にあらさるを見て心をひるかへすと有ときは二
心なしといふへからすなんそ忠臣と称するにたら
むや又将門か膚鉄にひとしといひあかひは其骸秀
卿を追て武蔵にいたり其頭の言しなと重蒙婦
女の戯説論するにたらす又神田明神は将門を祀る
にあらす社家伝説に天平二年大己貴命をまつれり
といふときは俗説のあやまりを知へし此段加に補一
三藤原忠文将門追討の賞なきを恨て悪霊となる
説
俗説云承平年中平将門謀叛のとき討千として
大将軍平貞盛副将軍民部卿藤原忠文以下東国に
発向する所に将門すてにうたれしかは駿州より各帰
洛すいつれも忠賞おこなはれしに忠文はかりもれける
越九條師輔忠文にも同しく賞を松となはれしかるへし
と申されけれとも小野宮実頼同心なきによりてその
沙汰なかりしかは忠文大にいかり勅をかみふり朝敵をうつ
に一人は賞にあつかり。一人は忍にもる是しかしなからに野
同同三百四十一年
宮殿の讒によれりとたかく割り手をはたと拍て拳
をにぎるに左右の手の八つの爪手の甲に通り血流
れ出それより宿所にかへり飲食を断思ひ死にうせて悪
霊となれりと云
今按るに将門か討手として貞盛忠文発向すといふ
説大にあやまれり将門記古事談今昔物語を考る
に将門其叔父国香を害しとても罪科のかるへからず
とて乱をおこす此とき国香か子貞盛常陸に在し
か勅命をかうふらすといへとも親の敵なるかゆへに
一秀卿と讒して将門をせむ此事洛にきと見ければ
討手の大将軍藤原忠又副将軍刑部卿忠舒散位
源経基駿州まて下向せし所に將門すてに伏誅の告
によつて上洛すと見えたり若忠文貞盛と同時に
一發向せは貞盛のみを下総に下して何の故あつて
其身は駿河にとゝまらんや又忠文賞なきをいかつて
死すと云事非なり王代一覧に天暦六年六月参
一謙藤原忠文卒す歳七十五中納言を贈らると
あり将門追討の天慶三年より忠文卒去の天暦
六年まて其際すてに十三年に及へり是等をもつて
俗説の相違を知へし但し似たる事あり菅原
大相国藤原
民部卿宰相の
為長の十訓抄に斉信
為光子
とき才幹すゝめるによりて兄の誠信の君を超
て中納言になり給ひしに誠信わか身の不遇をわす
れさしあたりたる恨に堪す七日といふに恨死に死し
給へり手をにぎり給ひけるがゆびの爪皆甲に通り
ふり第にこえらるゝことは帝王臣下をはしめとして
其ためし少からす忽にかくしもあるへきかはと松そ
ろしとあり思ふに此事を誤伝へて忠文とせるもの
ならん
新平ノ維茂戸隠山の鬼を斬説世にいふもみぢがり也
俗説云平ノ維茂信州戸隠山に入しとき鬼美女には
遣てたふらかせしを切ころせりと云伝え俗謡につく
りて紅葉狩といふ
今按るに非なり但し今昔物語に維茂澤俣
諸任といふ者とたゝかひ維茂詞負て其場を去女眼
を着て諸任をねらふ此とき家士等尋来り終に敗
卒をあつめて諸任を討と記せり此事によりて妄
一作せるか又は山中には木客彭侯山篠山都山鬼野婆
一狒〻黒音などいふ物ありといへはかゝる異獣をうち
ころせる事もあるへしこれについて先儒の説を
廣盗谷悦畔巻之十
考へ見るに世人道をわきまへさるときは其知所わ
つかに見ならひ聞なれたるまてにとゝまる故たま〳〵
見る物をは恠と思へり日月星辰雷雨霜雪のことき
希に児はあやしむへけれとも常に見る故に異な
りとせすたゝし理に正と不正とありたとえは冬
寒し夏熱し春さかえ秋かるゝは理の正なり間
此理にたかふ事あるは不正なり庭前の樹木なと
の春風を得て花をひらくは理の正なり冬月にい
たりてたま〳〵一朶の花をひらくは理の不正なり
俗にかへり
花と云
雷霆風雨は造化なりつねに見る故にあやし
ます忽鬼魅のさけふ事なとあれは希にきく故に
大にあやしめり是理のたゝしきにはあらねとひ
としく造化の迹なり事と物々の理をおしきはめ
はすへて怪となつくへきものなし此故に文宣王の
怪我語り給はさるは人をまとはさんことをおそれ給ふ
にはあらす元怪のかたるへきなけれはなりといへりわき
まへさとすへし
四信太小太郎か説
俗説に天慶年中に奥州信太玉造二郡の領主信太小
太郎といふ者あり相馬将門か孫なり幼して父におくれ
ける故其母小太郎幼穉の間壻の小山太郎に承図
越預置しに小山心かはりして領地をうはひ小太郎と
母を追出す小太郎此花十四五歳なりしか母をとも
なひ江州番場の宿まて難しに母にはかに病て死し
けれは小太郎又国に帰り浮嶋太夫といふ者をかたらひ
籠城ししは〳〵たゝかひけれとも浮嶋うたれ信太も
生捕れて小山か家人千原太夫か許に有けるに信太か
婦夫か目をしのひ千原か宿に来り系図を小太郎にあ
たふ其後小山千原に命して信太を海に沈めしめんとす
千原情あつてこれをたすく信太其所を落去て遂に運
をひらき小山を討て本領安堵す信太か姉尼となつて
小太郎を尋ね諸国をめくりしと云伝元其遺銘所々
にありといふ
今按るに今昔物語に将門か子良門其子蔵念と
あり大原図発心集に将門か女子如蔵尼か事あれとも
小太郎か事は見えす惣して信太氏の事書に載る
は希なり続日本紀云常陸国信太郡ノ人物都国
依改賜二信太姓一又云同国同郡大領物部志太連
大成姓氏録ニ云ツ信太首百済国ノ人百午之後也徒
然草に丹波に出雲といふ所信太何かしとかや知所な
れはとあり。
又六条判官為義二男源義弘常陸国信太郡に任す
信太三郎と号す盛衰記平家物語東鑑に見えたり
然れとも信太小太郎と云者なし信太草子の内に
浮島か妻戦場にをいて名乗て云く摂津の頼光に
五代の孫三田夜叉女とあり天慶のころは六孫王経
基の時にして頼光いまた生れす况んや五代の孫を
や其偽知ぬへし疑くは鎌倉管領持氏の子春王丸
一安王丸所々に沈落し結城氏朝を頼み籠城して戦
けるか結城討れて後各生捕れ誅せられ其乳母狂
気して所々にさまよひける事結城戦場記にありその
後安王丸の弟永寿王ふたゝひ官領に補し成氏と号
す父兄の仇なりとて亨徳三年十二月廿七日上杉
憲忠を誅せし事鎌倉九代記旅宿問答等に見
えたり是等をとりあはせ跡かたなき事をつく
りたてたるにや諸国に清太か姉か事跡あるは
右の俗談舞なとを聞て後世好事の所為ならん
五源頼光酒顛童子を討説付土蜘蛛の説
俗説云酒顛童子といふ鬼丹波の国大江山に住て国
土の騒となる故摂津守源頼光に勅してうたしめ
一定
季武山伏に出立て
羅類頼光保昌綱公時定光
羅類頼光保昌綱公時定光一殿季武山伏に出立て
大江山に忍ひ入酒をたつさへ行て童子にのましむ其
酔るに及んて三社の神童子か足をからめ頼光に告
給ふとき各童子を切ころし其うよふ所の婦等を相
具し上洛すといふ又あるとき土蜘蛛はけて頼光を
なやませしに頼光太刀をぬきてこれをきりけれは
手こたへしてにけうせぬ此故に藤原保昌に命してかれ
か血をしたひて終に土蜘蛛をころさしむといふ
一今按るに頼光酒童子を討事実録に見えす
一但源氏系図に頼光誅二伊吹山凶賊とあり古今著聞
集に市原野にて牛の腹にかくれ居たる鬼同丸登
云者を頼光切殺せる事を載たり是等を附会
して世に伝ふるにや又異邦に似たる事あり梁
武帝の大同二年に欧陽然といふ者山中を通る時
一其妻を鬼にうはゝる純其ゆく元を尋ね嶺を超
演を伝ひてゆくに妻かはける履を得て此山に有
ことを知り逞兵三十人をしたかへてふかくわけ入に南
にあたりてひとつの山あり緑樹枝をたれ澗水流れ
如く類純等漸く葛を伝ひ木をよちてのほるに
はたして石門あり此所に女数十人あそひ居来るか
徒を見て松とろき何故に来れると問徒つふさに
其事をかたる彼女等がいはく其婦人は病にふして
床にありとて徒をつれて門に入に木をもつて扉と
す其中広し床の上に綿をしけり紀か妻は石
の榻の上にふしたり諸女いはくわれ〳〵も君か
妻とひとしく鬼神にうはゝれて爰にあること久
し今鬼神すてに他行せり他日若美酒二斛犬
一十疋麻数十斤を持来らは我等きみと相はかつて
鬼神をうたしむへし此鬼神つねに好んて犬を
くらひ酒をのむ酔ときはおのれか力をためさんとて
五色の練をもつて手足を床にゆひつけしむ一たひ
おとれは練かならすきる然れとも此練の中に
一麻をいれ縄として結ひつけはかれも及ふべからす
一但し膚かたくして鉄のことく刃もくはふことなし
臍の下のみ肉身なり常に此所をおほひかくすこれ
をさゝば死すへし側の窟はかれか食物をおさむる
所なりこゝにかくれ居て相まつへしとをし遊徒其
一旨にまかせ家にかへり酒と犬とをたつさへて件の
所にいたり酒を木の下に置犬を林中につな地窟に
かくれ桐まつに申の刻はかりに及むて鬼飛来る
純等これをうかゝふに長六尺計にて髭ある男なり
杖をつゝさてあまたの女を引くし出犬をひきさき
くらひ酒をのむこと六七斗に及ひ酔ぬれは諸女手
をひきて洞にいりよろこひ笑ふ声外にきこ遊やく
あつて婦人出て徒をまねく統以下の兵洞に入
て見類に大なる白猿四足を床につなかれ人を
見て縄をとかんとすれともかなはすいかれる眼電
の如し統以下の兵鬼か臍の下をさしてこれを
殺しかれかたくはふる所の財をあつめ見まに世
に希なるものおほしうはひ置留女三十人皆美
色あり若方女も爰にあること十年に及ひ容色
少しおとろふなときはゆきかたをしらす彼鬼日ことに
他山にとひゆくこと数百里晩に及て帰るとなん
一純其妻及諸女を相具し財物を取もたせて
かへるといふこと説邪の白猿伝に記せり思ふに酒顛童
子の説は此事に抜て作出せるものなるへし又土蜘
蛛の事は日本紀を考るに蟲類にはわらす上古貪
一之無聊の者家をつゝることあたはす巣に居穴に
処者をいへり釈日本紀引二摂津国風土記曰ク宇禰
神武
備能可志波良能御宇一
天皇世偽者土蜘註
天皇
云此人恒居二穴中一故賜二賊號一曰二土蜘蛛二とあり今と
家なき
一者を蜘といふは此説より出たり
事詳に本朝任諺に出せり
思ふに文盲なる者字義につい
同同二十一年之十
くらひ酒をのむこと六七斗に及ひ酔ぬれは諸女手
をひきて洞にいりよろこひ笑ふ声外にきこゆやく
あつて婦人出て統をまねく統以下の兵洞に入
一多見類に大なる白猿四足を床につなかれ人を
見て縄をとかんとすれともかなはすいかれる眼電
の如し統以下の兵鬼か臍の下をさしてこれを
殺しかれかたくはふる所の財をあつめ見るに世
に希なるものおほしうはひ置留女三十人皆美
色あり若き女も爰にあること十年に及ひ容色
少しおとろふなときはゆきかたをしらす彼鬼日ことに
他山にとひゆくこと数百里晩に及て帰るとなん
一純其妻及諸女を相具し財物を取もたせて
かへるといふこと説邪の白猿伝に記せり思ふに酒顛童
子の説は此事に抜て作出せるものなるへし又土蜘
蛛の事は日本紀を考るに蟲類にはわらす上古貪
一定無聊の者家をつくることあたはす巣に居穴に
処者をいへり釈日本紀引摂津国風土記曰ツ宇禰
神武
備能可志波良能御宇一
天皇
天皇世偽者土蜘註
天皇一
云此人恒居二穴中一故賜二賊號一曰二土蜘蛛一とあり今也
家なき
一者を蜘といふは此説より出たり
事詳に本朝俚諺に出せり
思ふに文盲なる者字義につい
同同同同同同同同同同同同
て誤て蟲類とし妖妄の説をつくり頼光濃
武勇を称せんとて還て良将を蕪穢を笑ふへきの
甚だしきなり
補頼光家臣四天王一人武者の説
俗説云源頼光の家臣回天王一人武者とてあり四天王は
一定
渡辺網坂田公時薄井貞道
浦辺季武なり一人武
光
者は平井保昌なり
一今按るに坂田薄井浦辺の号妄作なり旧記に抜
なし今昔物語に村岡五郎平ノ貞道とあり平ノ季武
と有て家号なし公時が姓氏は欠てしれす保昌は
藤原姓なりといへとも家號しれす一説に摂州
平井の産にて家号とすとあれとも慥ならす
保昌承図を見るに多田満仲室河内ノ守頼信
一母は保昌妹と見えたれは頼光頼信焉と睦し
かりしは左も有へし然れとも保昌は大納言
致忠の子にて母は元明親王の女なり摂津前司
と号し後に丹後守とあらたむ正回位下たり頼
光の家臣となるへき人にあらす
浦渡辺網相馬良門を討附綱詠歌の説
俗説言相馬ノ将門か子良門といふもの謀叛しけれは
一番益谷説倅巻之十
源頼光征伐として東国に下向し良門とたゝかふ
渡辺ノ綱良門と組て其首を取といふ又あるとき綱か
よめるうたになき名ぞと人にはいひてやみなまし
見づからとはゝ何とこたへん
今按るに今昔物語に平ノ将門か子良門金泥大
一般若経一部を書写して供養す良門か子僧と
なりて蔵念と号す陸奥国小松寺に住して常
に地蔵を信すとはあれとも良門か謀逆伏誅の
事諸実録にかつてなし其妄誕論するにたらす
又総かなき名そとのうた非なり後撰集におやあ
る女に忍ひてかよひけるをおとこもしばしは
人にしられしといひ侍けれはよみ人しらすなき
名そと人にはいひてありぬへし心のとはゝいかゝみた
へんとあり女のよめる歌なり俗説の相違を知
へし
新渡辺ノ網宇治橋姫宇多森羅生門の鬼を斬説
俗説云嵯峨帝の御宇にある公卿の女子嫉妬の
余貴船の社にまうてゝ鬼になして給へと祈り異
夢によつて宇治の河瀬にひたり忽に鬼となる
宇治橋姫とは是なり後に源頼光の家士渡辺綱
同寶谷紀拜巻之下
一二美田ノ
綱
一四ノ一条反橋にてゆきあひ鬚切を抜て鬼か手を
切て帰宅し櫃にいれて七日かあいた門戸を閉て居
たりしに網か養母摂津国渡辺より来て綱に
あひ鬼の手を見むことを望みうはひ取てにけ
さる是よりして髭切を鬼丸とあらたむ此釼は多
田満仲筑前の国三笠郡土山の鍛冶にうたしめた
りといふ。一説には総羅生門にて鬼の手を切しに
鬼綱か母にはけて取かへすともいふ。一説には大和国
宇多森に鬼ありて往来の人を害す源ノ頼光渡
辺総に此鬼を討て参れとて重代の太刀を給はり
けれは彼所に趣くに森の中より綱か髪つかんて
提けゝるを刀をぬいて鬼の手をうち落し頼光に
見せけれは頼光櫃におさめ七日かあいた門戸を立
こもり居られけるに河内国高安の里より頼
光の母来りてかの鬼の手を望み見うはひ取
鬼となつてにけんとするを頼光刀をぬきて鬼か
頭を切おとすそれより此太刀を鬼切といふ其後此
太刀多田満仲の手に渡て鬼をきれり右の太刀は
伯耆国会見郡大原五郎太夫安綱か作にて時の
武将田村将軍に奉れり是は鈴鹿御前田村将軍と
一実益谷伊弉之下
鈴鹿山にて剱合の太刀也
一今按るに公卿の女嫉妬の情ふかくして貴布祢
の社にまうてゝ鬼になしてたへと祈り明神の
はからひによつて鬼となると云事非なり貴布
補社は高麗をまつれり神代巻云伊弉諾尊新二
軻遇突智一為二三段一一段為二高寵一日本後紀ニ云弘仁
九年五月以二テ貴布祢一為二大社二賀茂氏記云為二平安
守護所レ祭也蓋日城地主神明也トかゝる霊神なんと
姦悪の妬婦にくみして世のわつらひをなし給はん
顕注密勘河
一や又宇治橋姫は魔魅にあらず
海梅説又同
住吉大
明神ノ妃姫大神在二宇治橋ノ西一シ一因号二ク二橋姫一又号二又号二宇治
玉姫一
神社考雍列
府志名勝志委
古今集にさむしろに衣かたしき
こよひもやわれをまつらんうちの橋姫又は宇治
のたまひめとあり同抄に此歌は住吉大明神の御
うたと記せりこれをもつて俗説のあやまりを知へし
定家卿の説におさなき時めのとか橋ひめのもの
かたりといふものありとかたりしかはたつね見しかともなしとおりに
おもふに此
説は古今著聞集袋草子等に和泉式部男のかれ
かれなるを歎き貴布ねにまうてと祈りしかは忽に
式部家集
感応ありしことを載たり此
又慈鎮和尚記に
にもあり
一美濃国の婦己か夫他の女を愛せるを憤り髪を
五つにわけ飴をぬりてかため角のやうにし紅の袴を
着て鬼となり同国の野中にある堂内に住て初
き子馬牛の死したるをくらふ其所の者ともかれ
一をうたんとて堂をからみ火をつて焼に天井よ
りかの鬼出ていはく我は此国何某か婦なり県妙
によつて鬼となり夫ならひに愛せる女をとり
殺し此堂にすめりねかはくはかた〳〵経かき供養
し跡をとふらひてたへとて火に飛入て死すと
あり此二事をとりあはせて妄作せしにや又羅よつ
の鬼か事は右の俗説に小異を設たるものなり評
するにたらす又宇治橋姫羅生門の鬼綱に手を
きられて綱か母にはけ宇多森の鬼綱に手を
きられて頼光の母には乗たり別にかはりたま方
便もあるへきにおなしことくにはけたるにおなしやう
にたふらかされしも一笑すへし又綱か鬼の手を切たる
刀あるひは筑前の鍛冶と云又は伯耆の鍛冶としる
す両説いつれを是とせんや又此刀後に多田満仲の
手にわたると云事非なりま中は頼光の父なり
しかるをあやまりて子と思へるにや又田村麿鈴鹿御
前剱合の事は児女のもてあそへ雨田村草子と云
同同益谷許巻之下
ものに拠て書たり妄誕論するにたらす殊に鈴
一鹿御前は神草図に伊弉並尊を祀るとあれは
四十五月の相違を知へし思ふに綱か鬼を切し三説は
古今著聞集に市原野にをいて鬼岡丸といふ旨
牛の腹にかゝれ居て頼光をうかゝびしを渡辺綱
これをさとりて射たりしかは鬼同丸刀をぬひて
頼光に切かゝる頼光鬼同か首をきられけれは其骸
刀をもつて頼光の騎類馬の前輪を突首はむな
かひにくらひつきたりと記せり此説に抜てつく
り出したる事なるへし
新公時は血気の勇者たる説
俗説云頼光四天王の内に公時といふ者は血気の勇
者にてあやうき事ともおほかりしを網つねに是
をいさむといふ補又云公時は山神山姑の子にて一生
妻子なく頼光の没後にゆきかたしらすうせたりと云
今按るに源頼朝賜佐々木定綱二佐云多田摂津
守殿のもとに四天王とて聞えたるおのこともの
中に公時といふは見つから智あつて宗としける綱
今昔物語言摂津守頼光朝臣
といふは新参にてあるが
の郎等にてありける平貞道
平季式公時といふ三人の郎等有けりと記して綱か事をのせす
其後綱をくわえて回天王とするか古今著聞集には総公時定道をなし
一金子毛辛辰一
武と見えたり太平記劔巻に綱は四天王の随一と記す新参といへ
とも武勇智慮右の三人に趣たる故にや綱系国に母はま仲の女と
あれは親族故に
公時に心の剛になるやうおしえよと
かく有しにや
いひけれは公時か返答に心の剛をならはんと思はゝ
一臆病をならへと云けれは綱胸をひらきけり此
事をかく〳〵おもひつゝくれはいよし起才覚にてある
なりかならすしも臆病なれとをしへもせす心
なかく案しはからへと用心をよくせよといへ留意なり
たゝうちある事たにも大事を思ひはからひたる
者は物とかめをせす事にならぬことを事になさしと
詞不
これをもつて見れは世の称する
いふぞかしとあり
可極
所と甚た相違せり又公時は山神山姑の子にて
一生妻子なく頼光の没後に逐電すといふ説例
の妄作にてかつて撥なし海録雑事云山父山姑
嶺南皆在一ノ足反踵手足皆三指雄曰二山丈雌曰二
山姑一夜扣二人ノ門ノ雄求二金縉一雌求二脂粉一とわれは山丈
山姑は畜類なりとふに公時か所生を奇妙にせん
とて跡かたなきことをつくり出したるものなり
此段訂補
廣益俗説辨巻十終
同讀谷説辨巻之十
廣益俗説辨十一
士庶
将
第
176
曲
広益俗説辨巻十一目録
士庶
狩野氏図書記
神村長
豊蔵書
新阿倍晴明は狐の子と云説附晴明道満と術くらべ
の説訂補
一晴明道満に殺され蘇生して道満を討説附一條
反橋の説
二八幡太郎義家阿倍貞任に虜となる説附松浦
堂の説訂補
補義家鳴弦の説
補
補同人地獄に堕る説
長笹谷岸長之口一丁
一一月吉作詞
新紀良貞蛙の女にはけたるに逢説附鴬鴻鷲
牛の歌の説
三鎌倉ノ権五郎鳥海弥三郎に眼を射られ答の箭を
射返す説
四謀西八郎為朝龍宮にゆく説
補大庭景義御術自讃の説
新悪源太義平雷となつて難波六郎を害すた説
浦源頼政鶴を射て菖蒲前を賜る説
広文且俗親雑巻十一井澤長秀輯録
士庶
新阿信晴明は狐ノ子と云説附晴明道満漸くらへの説
俗説云阿信晴明は筑波根の麓猫嶋の産なりかの
母はいつくの者とも知す猫嶋に来て晴明か父に嫁し
三年に及て子をうむ阿倍童子と云其母童子三歳
のとき狐となつて歌を残しさる其うたにこひし
くは尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ
くすの葉童子盛長して晴明と号す信太の森に
いたるに一疋の狐出来てわれこそ汝か母なれとて
同同四十一月二十一
庫並名訓報第一冊
かきけすやうにうせけり○又ある説には晴明を清明と
記して橘姓とのせたり一説に晴明と芦屋道満と
術をくらへんことを望み内裏にをいて勝劣をこゝろ
む道満負て弟子となると云
今楼るに晴明は筑波根猫嶋の産にて母は信太の
森の狐と云こと偽なり阿倍晴明伝ニ云晴明文晴
基
益
材
母賀茂保憲女讃州地志云晴明讃岐国
香東郡由佐之産也とあれは俗説の相違をしる
へし思ふに右の俗説は中山忠親水鏡に欽明天
皇御宇に美濃国の人野中にて美女に逢つれ
帰りて妻とし一男子をうむ後に犬にほえられて
野干のかたちをあらはし屏の上に飛あかる夫か
いはく汝商類といへとも此程の契わすれ難し
夜々来てねよといひしかは夜ことに来れり是より
此事くはしく日本
して野干をきつねといひけりば
北之有
霊異記に見えたり
を好事者晴明か数術を奇妙にせんとて附会し
たるものなり又晴明を清明と書は音によつて晴
を清に取ちかへたるものなり又暗明を橘姓とする事
非なり姓氏録を考るに阿倍は孝元天皇ノ子大彦ノ
命より出ツ橘は敏達天皇の後胤橘の諸兄より出たり
庸斉信訓報之一
其出自甚た異なり又晴明道満術競の説非なり
但し宇治拾遺物語に昔晴明か土御門の家に
一尤しらみたる老僧来りぬ十歳はかりなる童部
二人くしたり晴明何その人にておはするそと
問は播摩国の者にて候陰陽師を習はん志
にて侍り此道に殊にすくれておはします由を
承て少々ならひまいらせんとて参りたるなりと
いへは晴明か思ふやう此法師はかしこきものにて
こそあるめれ我をこゝろ見んとて来る者なりそ
れにわろく見えてはいかゝなり此法師少引まさ
くらんと思ひてともなる童は式神をつかひて
来るなめりかし式神ならばめしかくせと心中
に念して袖のうちにて印をむすひてひそに
咒をとなへ法師に云やうとく帰給へ後によき日し
てならはんとのたまふ事はをしへ奉らんといへは
法師あらたうとて手をすりひたゐにあてゝたち
はしりぬ今はいぬらんと思ふに此法師たちと成り
てさるへき所〳〵車宿なとのそきありきて又前に
寄来ていふやう此供に候つる童の二人なからう
せて候それ給てかへらんといへは晴明希有の事
一広並作談。新之二ノ
いふ御坊かな何者故に人の供ならんものをはと
らんするそといふ法師かいふやう更にあが若大なる
ことはり供さりなから極なし給はらんとわびけれは
よし〳〵御坊人のこゝろ見むとて式神つかひ給ふ
異人をこそさやうにはこゝろみ給はめ晴明をは
いかてさる事し給ふへきと云て物よむやうにして
しはしはかり有けれは外の方より世二人なから
走出て法師か前に出来けれは其折法師申聞
一実にはこゝろみ申つるなりつかふ事はやすく供人
のつかひたるをかくす事は更にかなふへからず候いま
よりはひとえに御弟子にて候はんといひてふと
ころより名簿ひきいてゝとらせけり卅今昔物語
云橘摩国陰陽師をする法師名を智徳といひ
参り智徳きはめておそろしき奴にてありけるに
一晴明にあひてそ式神をかくされたりけるとあれは
一智徳にして道滿にはあらす故事談宇治拾遺東
齋随筆に道満も播摩の者とあれは二人を混同
してつくり出せる説なるへし此段架補
一阿倍晴明道満に殺され蘇生して道満をうつ説
附
一条反橋の説
同同十二年巻之十一
俗説云阿倍晴明支那に趣き荊山の伯道といふ者
にしたかひて文珠大士の天理を学ふ伯道一巻の書
をあたふ文殊袖裏書陰陽内伝集といふ伯道晴明をいし
ましむるに酒をのむことなかれ女に心ゆるすことなかれ
しいて賭することなかれといふの三事をもつてす晴
明わかれにのそみ荊山に小庵をつくりて某帰国
のゝち若身に恙あらは此庵かならす焼ぬへしといひ
て本国に帰り件の書をはふかく秘して籃籃にお
さめ石匣にいれたり爰に晴明か弟子に芦屋道満て
いふ者あり此書を見むことをねかふといへともゆるさ
さる故ひそかに晴明か妻李花女に通して彼書を
書写しもとのことく対しおさめて後晴明にむか
ひてわれ夢に又珠にあふて秘書をうく其名を
金烏玉兎集と云天地陰陽の数掌をさすること
しといふ暗明折ふし酒に酔て伯道かいましめを
わすれこれをあさむきて我むかし伯道にしたかひて
陰陽内伝集を得其一名を玉鬼集となつぐ秘し
ていま糞蓋にあり世に知人なし汝か夢は妄想な
らんといふ道湯あらそふてやます遂に頭をはねら
れむことを賭に須道満書を出して見せけれは晴明
同長谷光卒参こ一丁
負て首をきらる此ときに及て晴明か荊山につく
れる庵焼失す伯道あやしみて穀成山にのほつ
て大山玉の秘法をおこなひ晴明か横死を知日
本に飛来り晴明か墓をひらき残屍をあつめ生活
続命の法を修するに晴明たちまちによみかへる伯
道相見てたかひに悦ひともなひて道満か宅にいたり
伯道まつ入て此家に晴明ありやと問道満こたへて
いにしへ其人あり今は墳家となれりといふ伯道いは
くわれ其人の竹林にあるを見たり汝急き尋ね
来るへし道満著ツてもし今晴明あらは我ぐひを刎
らるへしと賭にするところに晴明斤より来て遂
に道満か首を刎るといふ又一説に道満晴明か父
を一条の橋にをいて殺害しけるを晴明かのみろ
にいたり散在せる屍をあつめこれをいのるに忽骨
肉つらなり血脈通して蘇生す此故に一条反橋と
いふ
今按るに晴明か支那にいたること実録に見えす
羅山子の撰へる晴明伝にも賀茂保憲にした
かひて天文をまなひ暦算推歩の術にいたるにて
此説今昔物語に
とあれは伯道に学
悉くきはむ
くわしく見えたり
同長谷兄倅医之一
へることは非なり又道満か晴明か妻に通し籃籃
書を写し晴明を殺し晴明またよみがへりて道
滿をうつ事尤。妄説なり故事談宇治拾遺物語
道長
東斎随筆等に御堂関白殿道玄
のとき日々御参詣ありしに常に愛しなひける
白犬御跡につきて毎日御堂にゆきいたるある日
寺門を入給ひけるに件の犬御前をはしりめくり
ほえけれはしはし立とまり給ひけれともさせる事
もなかりけれはなをあゆみ入せ給ふに犬御直
衣の裾をくわへて引とゝめ奉りけれはいかにもやう
あるべしとて晴明をめして子細をとひたまふに
晴明いはくこれは君を呪咀したてまつるもの
あつて厭術をなして路に埋み越させ奉らんと
かまへ侍れとも若の御運やんことなくおはし
ます故に犬ほえあらはし侍りとて其ところを
さしてほらするに土器二つをあはせ黄なる紙
をひねりて十文字にからけたるを出せり中を
ひらきてみれは土器に朱をもつて一文字を
書たり晴明か云く此術はきはめたる秘事にて
柔か外は世にしる人あるましく存るに若道満
同責任谷光準長七十一
法師
ま一
作て筆
か所為にや其人を知へしとて紙にて
鳥形をつくりて投あくるに白鷺となつて南に
飛晴明此鳥の落とゝまるところこそ厭術者のすみ
かなれと云けれは下部等鳥の飛にまかせてはし
るに此鳥六条坊門万里小路河原院の古き家に
落けれは打入てさかすに僧一人あり是道満なり
すなはちからめて問に堀川左府殿
藤原
題光
に頼れ
てかくかまへしよしを白状す然れとも罪科に
松こなはれすなかくかゝる呪咀をいたすまし起旨
誓状を書しめて本国播摩につかはさると
あれは其偽り知ぬへし今俗間に行はる鼻蓋
右にいふ金烏
書
は後人の擬書にて晴明を誣るも
玉兎集の事也
のなり又一條反橋の説は撰集抄に三善清行
清行か
死せしをその子浄蔵貴所慎行か一条の橋にお
八男
いて祈て蘇生せしめける故に世人号して
又元亨釈書抄
反橋といふと記せり
にも見えたり
又古今著聞集
に晴明十二神将をつかふ其妻識神のかたちに
恐るゝ故に十二神を一條ノ橋下に置用わることに
異本盛衰記に此
此二事を取あは
よひてつかふとあり
事くはしく見えたり
せ晴明其父を祈りかへすとするのみ
同讀益各號痺巻之上
二八幡太郎義家阿部貞任か為に橘となる説幷松
浦黨の説
俗説云八幡太郎義家阿倍貞任宗任を責るに
軍やふれて敵のために摘となりひそかに貞任
か女に通し囲をまぬかれふたゝひ軍を発し貞任
を討宗任を搦捕て筑紫に流す今の松浦党
これなり住する所を阿倍嶋といふ
一今按るに陸奥話記に後冷泉院の御宇永承
二年に奥州の安倍頼時といふ者謀反せるによ
つて源ノ頼義勅を奉り追討使として奥州に
下向す天喜五年九月に頼義頼時をせめて
大にたゝかふ頼時箭にあたつて死す同十一月頼
時か子貞任軍士四千人を卒して頼義とたゝかふ
頼義の軍やふれて死する者数百人に及ひ頼義
一其子義家郎従藤原景通大宅光任清原貞庵
藤原範季藤原則明以上七騎になりて大敵に
かこまる。しかれとも義家焼勇絶倫にして勝村
一神のことく白刃を冒し重国を破るこれによつて
夷人怖れて引退きおの〳〵まぬかたゝことを得
たりとあり七騎になつて敵にかこまるゝとい
同廣谷悦牌巻之上
へとも橘と成し事はなし安倍系図に貞任二
男一女あり女子は義家の妾となるとあり是
は貞任戦死の後其女子を義家妾とせり橘と
なれる内に通するにあらず又宗任を筑紫に
なかすといへとも古今著聞集に宗任後には
義家の家人となり義家の武威に恐れた
父兄の仇を復するの心なかりしと見えたり
今昔物語に頼時か子の宗任法師とて趣紫にありと
一記せり後には筑紫に住せり流されたるにはあらす
又
宗任を松浦黨といへとも松浦と安倍とは
同姓にあらす松浦黨は嵯峨源氏にて三田源次
綱か末葉なり松浦系図に綱か子久鎮西松浦
の祖とあり久より正糺好弘武繁増と相続す
一安信家伝を考るに神武天皇いまた中国に入
饒速日尊の
たまはさるさき宇摩志麻治命
子母は長題
彦か
女子
一摂州を領し膽駒獄に住す安日長髄の
兄弟これにしたかひて神武帝と十余年相た
たかふ終に神武帝うち勝給ふ長題彦は帝の御
兄を討たる故に誅せらる彼か兄安日は東北に
一追放せられ津軽に住し卒度浜安東浦を領す
一斉明帝の御宇に蝦夷人襲来せしに帝安倍比
一羅夫を将軍としてさし向らるゝといへとも毎度
利をうしなへり此とき安日か末葉に安東と
いふ者あり比羅夫か陣所に来り告ていはく我は
これ安日か末葉なり往昔安日神武帝の勅勘
をかうふりてより今にいたるまて教めなしねか
はくは先祖の罪をゆるされ先鋒とし給はゝ暇
夷を討退くへしとこひ望む比羅夫これを奏
聞し勅許ありしかは安東を先鋒にらして終に
勝ことを得たり比羅夫安東か功を賞し安倍氏
をあたへて同姓とすこれより安東安信とも号し
始祖の名に通して安日共書す其後蝦夷又
乱をおこせしに安東か末葉致東これをうち
静む其賞として将軍の号を賜ふ一条院の
御宇に蝦夷襲来しを致東か末葉国致渡海
して松前にいたり上道下道よりむかひて数百人
をうち殺し其魁首四人を虜にして帰る国東
か子頻良其子安東太郎頼良後に頼時とあら
ため見つから安倍将軍と称し奥羽二州を押領
す八男三女わり嫡子日井は盲目なり
東鑑云井
次男
殿盲目
安東太郎良宗三男厨屋川次郎貞任四男鳥海
義経
東鑑云鳥海
弥三郎宗任
三郎宗任
五男境講師宮照
記云境
冠者
花桐
六男黒川尻五郎正任七男重任
称号
不レ知
八男
白ク鳥ノ八郎行任女子は有加一の未陪。中加一乃末陪。
一加一の末陰なり貞任は南部盛岡厨屋川に住
東鑑に男子宅並レ養即従等ノ屋
し其威強大なり
連レノ門西ハ界二於白河ノ関一ヲ一為リ二十余日ノ
行程一東ニ抜二リ於外漢一ニ又十餘日當二其中央ニ遥一ヲ開一関門一一一名レ
曰一衣ノ関一ニ宛カ如二平谷関一左ハ都二一ニ高山ヲ右顧一長遣一長遣一テ南北同ニ連二テ連二ル
峯嶺産業亦兼シテ海陸一ヲ三十余里之際並二弦ヲ並二強桜樹二子
四五月ニ残雪無消何号二約形形ノ嶺一麓ニ有二流ル何一而落二于南一
是北上河や衣河自二此流ニ而通二此河ニ
小松楯弥太。盛レ通。琵琶ノ柵等二彼青巌之間」と見えたり
後冷泉帝の御宇康平五年源頼義義義家勅
によつて奥別に発向し頼時貞任を討宗任を
とりこにす貞任か嫡子千世寿丸
陸奥活
記ニ作二千
世童
子ト
十三歳にて父と同時に戦死す二男寺星
三歳なりしを乳母いたきて津軽藤崎にのかれ
後に藤崎を領して藤崎氏と号す貞任か兄
安藤太郎良宗は子細あつて同罪をのかれ来業
代々相続す
良宗高星か子孫繁昌して安東安倍秋田藤
崎なとゝ号す紋は獅子に牡丹後に檜扇に真羽鹿
子は桧扇に鷹羽を用ゆ
元亨二年に津軽の住人安
或は雁金を用るものもあり
東太郎堯勢と云者北條高時を背ける事を
右再考考ノ一河信家
南朝記北条九代記等に記せり
伝一増益如レ此
是筆
の説をもつて安倍と松浦と出自の異なるをしる
同長谷区倅医二十丁
今は藍嶋
松浦ハ肥前
へし又安倍嶋は筑前にあり今は藍嶋松浦は肥前
にあり殊に日本記万葉集等に安倍嶋の事
あれは往古よりの名にして宗任以来の名にはあら
さる事明なり此段訂補
補八幡太郎義家鳴弦の説
俗説云寛治年中に堀川院御悩のとき八幡太郎
義家勅をかうふり甲冑を着し弓矢をたつさえ
南庭に立はたかり殿上をにらむて高声に清和帝
に四代の孫多田ノ満仲に三代の後胤伊豫守頼義か
嫡男前陸奥守源ノ義家大内を守護し奉るいかなる
悪霊鬼神なりともいかて望をなすへき速に退け
と名乗かけて弓の弦を三度ならしけれは殿上も
階下も身の毛よたぎておほえけるに御悩たちまち
にいゑさせ給ふ
今按るに古事談宇治拾遺物語云昔白河院御
とのごもりてのち物に松そはれさせ給ひけるころ
然るへき武具を御まくらの上におくへきとさた
ありて義家朝臣にめされけれはま弓のくろ
一ぬりなるを一張まいらせたりけるを御まくらに
たてられてのちおそはれさせおはしまさゝり
同廣益谷筑弉巻之上
けれは御感ありて此弓は十二年の合戦の時や
持たりしと御たつね有けれは覚え供ざるよし
申されけり上皇しきりに御感まし〳〵参りと
あり思ふに好事者此説を附会したるものなるへし
補同義家地獄に堕る説
俗説云八幡太郎義家つねに懺悔のこゝろなかりし
かは病悩のとき家のむかひなる女房の夢に鬼形の者
あまた彼家に見たれ入義家をからめて引出すその
さきに大なた札をもてり札銘に無間地獄之罪人
源義家と書たり後朝かゝる夢を見たりとかたる所に
義家此暁逝去といひしかは夢に見しにたかばす
義家地獄に堕られしと知ておの〳〵おそれあひ
ける
近世印行の書に義家此夢を見てのち仏法を信して
往生せられしと記せられしと記をいみて文なしたるなり
今按類におよそ人は善悪の沙汰は我にひとしき
一者はあしけれともよしと褒我に異なるものは
よけれともあししとそしれり其褒貶する人を
ためし見て後他の善悪をさたむへし殊更婦
女の情を察するにおほくは淫奔愚昧にして軽薄
の美少年無智の後世ねかひならてはよしとは
いはさるなりこれについて旧記に載ところをみるに
同百二月一日
右事談に義家いかるときは
義家為レ人容貌厳厲醜悪
耽こと〳〵くに裂髪さかさまに
あかかと
しるせり
著聞集十訓抄古事談等に
一資性勇猛剛強なり
義家を見るものきゝものおち
おそれたることを
しるせり
あまつさえ仏を信し僧を愛契ることなし
婦女子のためにいまるゝこと理なり思ふにかの女
つねに義家の形体言行を見て悪人とし疾
一病の死にちかきを聞て地獄に堕られんなと
思ふ故に己かこゝろのまとひによつてかゝる妄夢を
見たるものなり然るを仏を信する輩よき事とし
一書に筆して世に伝ふるのみ偏に唐の伝奕を地
伝奕は縮直の人なりと
一獄に堕たりと誣たるに似たり
いへとも平素仏を排斥
せし故に没後に佛者地獄に
俗説の虚妄毎々かくのことし
堕たりと誣たり法苑珠林に本
排斥せすんは有へからす
新紀良貞蛙の女に化たるに逢説付鳶鴨繁牛の
歌の説
俗説云壱岐守紀良貞といふ者住吉浦にあそひいつ
てのものともしらさる女に逢てわかるゝとき又来る
年の今日にあたらん日此ところにてあはんとちきりし
かは良貞加の浦に出て待けれとも女は見へすして砂
の上に飛るかはづの跡を見れは住吉の浦の見る
めもわすれねはかりにも人にまたとはれぬるといふ
同同長谷院倅善次郎
うたあり良貞此歌を見てさては過にし年の女は此
かえるのはけたるよと大におとろき帰るといふ◯是のみ
にあらす鶯のさえつりける歌にはつ春のあしたこと
には来れともあはてそかへるもとのすみかに◦鶴鷲
女にはけてよめるうたに日くるれはさそひしものを
あそ沼のまこもかくれのひとりねそうき〇牛のよた
れを落せるか松のつからうたとなる草も木も仏に
なるときくときは心ある身のたのもしきかな
今按るに和歌は人倫たもよむもの希なりいはんや
禽獣蟲類をや其偽明なり思ふに前の三首は古今
序に花になくうくひす水にすむ蛙のこゑを聞は
同様に
いきとしいけるものいつれかうたをよまさりける
是は
万物皆うたなれはうくひすかはつのこゑをきくも
則其こゝろさしをのふる故に皆歌のことはりといふ意也
とあるにも
とつきて好事者の妄作なり後の一首は円覧経
に衆生国土同一法性地獄天宮皆為浄土有情
非情齊成佛道涅槃経に一仏成道観見法界草
木国土悉皆成仏等の語によつて浮屠氏の偽作
なるへし
三鎌倉権五郎景正鳥海弥三郎に眼を射られ答の
矢を射返す説
同同同同同同同
俗説云八幡太郎義家奥州の安信貞任宗任宗任任
代の時義家の家臣鎌倉権五郎景正鳥海弥三郎
に弓手の眼を射られ其箭をぬかて三日三夜持てま
より谷の箭をはなきて弥三郎を射取といふ
今按るに陸奥話記阿信氏伝を考るに康平五
年頼義義家奥州征伐のとき貞任か弟鳥海弥
三郎宗任を虜にすとあり古と著聞集を見るに
宗任此後義家の家人となると見々たり奥州後
三年紀に寛治五年義家武衡家衡と合戦の時
鎌倉の権五郎景正といふ者十六歳になりしか右
の眼を射られ其箭を折かけ答の箭をはなち散
此教の名
を射取
陣所にかへりしを三浦平太郎立寄
しれず
舞て箭をぬきたりと記せり年数をはかるに
鳥海か虜となれるより十二三年を経て景正うま
れたれは鳥海に射られたるにはあらさるなり
問鎮西八郎為朝龍宮にいたる説
俗説云鎮西八郎源為朝保元の軍のゝち伊豆の大
島になかされ大嶋を押領し鬼か島に渡り龍宮城
にゆくと云
今按るに南浦文集云為朝公為二鎮西將軍一之日
同壱谷松忰長右衛門
掛手釣強弩於扶桑一而其威武偃二寒垣草木一是故
遠航二於海一征二伐嶋峙到二此時一也舟隨一湖流一求二一嶋
但世法録ニ云古ヘ為流虬ト地
於海中一ニ以レ故始名レ流求一
界萬濤蜿蜒[ル]若二虬ノ浮二水中一
因テ後シ転ク曰二琉球一とあれは為朝のときはしめて名つくる
にはあらず○狭衣にうるまの伝とあつて下紐にうるまとは琉球
なりと記せり千載集に前大納言公綱の哥におほつかなかるまの
しまの人なれやわることのはをしらすかほなる
爲朝見レ巢一居穴處一於嶋上一者二頗雖レ似二人之形載二一ノ
袋中法師琉球神道記
角於右ノ巽上一所レ謂鬼恠者乎
云鎮西八郎此所に来り
逆賊を怖さんために今鬼神師より
大石をとりて飛礫をなすとあり
為朝征伐ノ後有テ其
孫子一世為二嶋之主君一固築石壘一家二於其上一。因ノ故二鬼二鬼二
恠之容貌一結二髪於右ノ巽上至レ今風俗不レ異琉球記
去琉球龍宮音同し王宮の傍に龍宮城と出す
一菩薩と号す世にいふ
国中に天龍地龍の祠あり天妃
船魂なり広輿記云
宋ノ蒲田林氏カ女没ノ為神ト凡渡レ海ヲ者
しねりきゆ。あま
必祭トノ封二天妃一又詳ニ金台紀一又詳ニ金台紀聞にみへたり
みきゆ。きんまもんをあがむ皆海神なり。蛻蛇
おほしこれをよぶ煩あり今那覇といへる所
あるはあなはつだの略語ならんかとあり是等の
説をもつて見れは為朝龍宮城にゆくとは琉球国
いたること疑なし
大庭景義御術自讃の説
俗説云建久二年八月二日大庭平太景能頼朝に
同同同長谷谷谷佐悴医之介
盃酒を献するとき保元の合戦の事をかたりてい
はく勇士の用意すべきものは武具なり龍レ中縮用
遊人きは弓箭の寸尺なり鉄西八郎は我朝無双の弓
箭の達者なりしかれとも弓箭の寸法涯分に過たるか
其故は大炊の御門河原にをいて景能八郎か弓手に
逢八郎弓をひかんとす某ひそかに思ふに八郎は鎮
西より出騎馬の弓心にまかせられまし参は東国
にてよく馬になるゝ故八郎か妻手にはせまはりし
かはこと相ちかひ身にあたるへき箭膝にあたりぬ此故
実によみすむはたちまち命をうしなふへし勇士は
騎馬に達すべきものなりといひしかはおの〳〵感心
すとあり景能一作二景義一
今按るに異本保元物語に義朝白川殿夜討の
とき大場平太景義同三郎景親と名乗しを
為朝蟇目にて射たりけるに五六段はかりにひかへ
たる景義か膝の節を射きり馬の腹を徹して
門柱に立たりける馬は屏風をかへすことくにたをれ
一主へ下にしかれける景親はつねに中不快なりける
か今こそ落合の処よと思ひけれは殿は景親をばさ
せる咎あやまりもなきに不忠の者とて常はふし
富士谷片倅与之
むし給へとも実のときは景親こそかゝるせんにもあ
ひ候へ他人はたれか助け申さむ明暮こめみせ給ひつ
るはいかゝ懲給ふかと云けれは景義おめ〳〵となつてよ一
しや殿日ころはともあれかくもわれ自今以後は和殿
に過たる奉公の人やあるへき何事なりとものたまふ
にこそしたかはめと怠状しけれはさらはとて掻負
て河原に出とある小家に入置てたすけたりと記せ
り思ふに為朝射損して景義か膝にあたれるははか
らさるの幸なり此とき不和なる弟に手をさけて
一命を助なから後年に及ていかめし気に御術にほ
こり為朝をそしる笑ふへきの甚たしきなり
新悪源太義平雷となつて難波六郎を害す説
俗説云平治年中に悪源太義平平家のためにと
はれ難波六郎か太刀取にて首をきらるこれによつて
義平の怨霊雷となつて難波をうちころすといふ
一今按るに此説もと尼姫愚民の談なるを理にくら
起者真偽をわきまへす見たりに記したるものなり
しかれともしはらく俗談によつて論せは義平若
一雷となつて儺を復せんとならは清盛重盛等を
殺して可なり難波は若命によつて太刀とりとなれま
同長谷院悴長左衛門
屋花や言事二十一
まてにて私。の恨あるにあらすしかるを過言せしかるを
にくきとて難波のみを害するは不可なり難波を数
してたれりとせしにや此後平家にあたせし事
をきかするとひ義平昏愚の人といふともつたな
起ことかゝのことくならし思ふに程子の説に霹靂は
一天地の怒気なり人の怒のことき固おのつから正
ありしかもいかるときかならすこれかために悪をなす
是怒も又悪気なり怒気悪気と相感するゆへ
なりと彼難波がたぐひも平素の悪によつて天地
の怒気と相言して震死せるのみなんそ義平濃
異ならんや
補源頼政鶏を射て菖蒲前を賜る説
一説に
俗説云鳥羽院
近衛院
の御宇に鶴といふ怪鳥夜々紫宸
殿の上に来てなきけるを源三位頼政勅をうけたま
はりて射松としけれは其賞として常に心をかけしと
いへは藤壺の菖蒲を賜るへししかしなから猶政も音に
のみきけるか又よそなからほのみてそしたふらめ同じ
やうなた女をあまた出して引わつらはゝ笑んするそと
一説にいつれも
仰られて菖蒲か年ころの女一
二八はかりなる女
一説に
二人に
十二人
アヤ
葛
一説に金沙
蒲を具して三人同し装束にて列座させ
の羅の中に
雇並作記物者之ヿ
おかれ
頼政か日ころしのひまうす菖蒲此うちにあり桐
具して罷出よと論言ありけれは頼政よ所なからほの
一説に勅に応して
見たることなれはいつれとさたかならねは
手をうちかけて
清涼殿の大床に
五月雨にぬまの石垣を
居けるかとあり
まとも
一説に沢辺の
水こへて
一説にいつれ
いつれかあやめ
あやめと
引そわつらふと申けれは御
感のあまりに御座をたゝせ給ひ女の手を取てひき
しておはしましこれこそあやめよとく汝に賜ふなり
一説には時の関白殿あまりの感にたえ
とて頼政にさつけ給ふ
かねて見つからたつてあやめの前の袖に
ひき是こそ汝か宿の妻よ
とて頼政にくたさるとあり
一説に頼政か鶴を射広有か化
鳥を射たりしといふは弓法にくらき人のいふことなり
いつれも鳴絵の事なり猪早太か九刀さしたりと
云は九字をきりたる事なりと云
今按るに一説には頼政鶏を射たる賞に獅子王と
いふ御剣に御衣を添てたまはるとあり此説実にして
一菖蒲を賜る説は虚なるへし勇士たらん者武功
によつて剱を賜るは可なり女を賜るは不可なり
若しいて実事とせは君臣ともに末代まての恥辱な
刻
教
状
るへし但し沙石集云故鎌倉右大将家修
見やこよ
り菖蒲といふはしたもの美人なりけるを召下
景茂なり景
しかくし置れけるを梶原三郎兵衛尉に
一時か三男にて
長谷先年春也一
鹿笛信訓報巻之十一
沙石集の作者
無住か兄なり
一所望して見たりけれは同じよはひの
十七八はかりなる女房の美なるを十人装束させ
ならへ置れて此うちに菖蒲を見しりたらは賜る
へしと仰られけれは見わきかたくてまこもくさ
あさかのぬまにしけりあひていつれあやめとひき
そわつらふと云たりけるとき菖蒲顔をあかめて
袖をひきつくろひけるを見てあれこそと申て
やかてたまはりけるとあり沙石集は梶原景時か末
子無住法師か作なり兄の景茂か事を記しぬれは
此説是なるへし此事をあやまりつたえて頼政とす
るにや又頼政広有か化鳥を射たりといふは実に
射たるにあらす鳴絃の法をおこなひしことゝいひ猪
早太か九刀さしたるは九字をきることなりといふ皆
一好事の妄言なり殊に九字は中華道士の邪術
なり抱朴子居家必用等に出たりかゝることを松こ
なはゝかえつて妖怪をまねくへし是等をもつて
俗説のあやまりを知へし
広益俗説弁巻十一終
一黄益説辨巻之上
廣益俗説辨十二
士庶
狩
第一
176
廣益俗説辨巻十二目録
士庶
狩野氏図書記
神村長
豊蔵書
浦源頼朝伏木の中に仏像をかくす説
一源義経天狗に叡術をまなひ或は六韜をよみて弾
一捷の術を得たる説付五条橋にて千人斬の説
補野口判官の説
福北條時政は法師時政か後身といふ説
二梶原景時土肥の杉山にて頼朝を助る説
三斎藤実盛を義勇の士といふ説
第一
補景清三尾谷鞠引の説詞景清忠光盛嗣頼朝を
同慶益谷乾牌巻之十二目
一月廿一日辛未ズ一二日
ねらふ説
シユメノハンクハンドリヒサ
補主馬判官盛久か説
四景清摘となり牢を破り眼を扶説を論
五渋谷金王丸後に土佐坊と号する説
同三月一日
廣益俗説辨巻十二井澤長秀輯録
士庶
源頼朝伏木のなかに仏像をかくす説
俗説ニ云源ノ頼朝土肥の杉山にてふし木にかくれられし
時もとゞりのうちに観音の像をいれられしを若首
を大庭景親にわたされんに此本尊を見ば大将の所為
にゝあはずとそしらるへしとて伏木の中にいれをき
一説にかたはらなる
世しづまりてのちこれを出さしめらる
窟の中に置と有
今按るに頼朝仏像をもとゞりに納るは大将の所
為にあらざるとしれるは羞悪のこゝろなきにあらず
廣益俗訓報巻之十二
しかれども仏をしりぞくる意実ならずこれに
つゐて思ふに新席に背葉公といふものあり難を
尽くことを好めり矢龍そのこゝろを感しくだりて業
公がすめる屋の膽にかしらをもたげて居たり
葉公見ておどろきおそれとを〳〵にげ去としるをり
韓非子ニ云葉公好二尽龍一ヲ不レ好レ好二真龍一ヲ極朴子ニ云葉公
見二テ真龍一ヲ失一色ヲ也清輔奥儀抄俊頼儀俊俊俊頼歌に此こゝろをよめる
くちおしやくもゐがくれにすむ
これ糀をこのむ意実
難も思ふ人には見えけるものを
ならざるなり頼朝業公異情同行なげかしかしから
すや
一源義経天狗に剣術をまなひ或は六鞘をよみて弾
一捷の術を得たる説附五條橋にて千人斬の説
俗説に云源ノ義経鞍馬にありけるころ鞍馬の奥に僧
正か谷といふ所あり僧正といふ天狗の栖なる故に名つ参
り義経夜々此所にゆきて天狗に釼術をまなひ弾捷
を得たりといふ一説には洛陽北白川に鬼一法眼と
いふ陰陽師六韜をおさめ置気類を義経伝え聞て
望むといへとも見せさる故ひそかに鬼一か女に通し
件の書をぬすみ出しよみ覚え忽軽捷を得一丈の
堀八尺の築地を飛越けると云又一説に義経亡父義
朝の追善とて夜々五条の橋に出て往来の者を千人
同同斉藤邦著之十二
切て手向たりと云
一今按るに鞍馬の僧正か谷は僧正と云天狗すめる
故の名にはあらす真言伝に鞍馬の僧正か谷稲荷
慈
のおこなひ給ひ給ひける
山の僧正か峯は壺演僧正
済
諸と記せり又天狗の説まち〳〵なり山海経に陰
山ニ有レ獣其状如レ狸。名曰二天狗一韓文に天狗形如レ火
奔有レ声なとあれとも日本に云伝ふ天狗とは異
羅山子の説に人倫に我慢怨怒あるもの多く天
物の中にいる歴代の天子僧徒にもありといへり
事詳に神社
”今秋これによつて思ふに俗にいひ傳ふることく
考に見えたり
高亀長翼にて飛翔といふにては有へからす跡替高
勝あつて世を乱すたくひの者をさして天狗と
いへるならん又義経天狗に釼術をまなひたる事
東鑑盛衰記義経記にも見えすうたかふこらくは
義経世をはゝかりてひそかに師をもとめ夜々
釼術をまなひたるか然らすんは鞍馬にあるうち
一たひ平家を出路ほして父の仇を復せんと
思ふ憤気高慢胸中に充たるを天狗に釼術を
まなひたりと形容していへるにや又義経の憚
一捷は天狗にまなひ或は六鞘をよめる故と伝ふる
れとうまれつきなるへし若兵道に達せし者
一弾捷の術を得は孫呉は天をもかけるへしいはんや
張良孔明か輩をや今世に流行する蜘舞なとい
ふものは天狗に学はす兵書の名さへしらされ共
身のかろき事は義経にも越つへし思ふに俗間
に義経を称するとて将の器あるをはしらて一人に
敵する匹夫の勇に唱へなせるにや頂籍か所謂剱
一人ノ敵不レ死レ学学学二万人ノ敵一とあるそ義経の本意
なるへき又義経兵書を見むことを望めともかなは
さる故はかりことのためひそかに鬼一か女子に通し
て件の書を得たりといふは左も有へし会津
風土記にも義経鬼一か所レ蔵兵書を携えて
奥州平泉に趣くに鬼一か女皆鶴其あとを
したひ会津藤倉にいたる女義経の事を土人
に問しに土人こたへて義経此所を通られしは
五日以前なり跡を追とも及びかたかるへしと云
遣れは皆鶴かなしみに堪す扨は再会かなひ
かたしとて難波池に身を投て死せり義経其辺
にありしが此事を聞立かへりて悲歎し屍を
おさめ墓を築しむ後人難波寺を建鬼一か兵書
今に残れりと見えたり又義経亡父の追善に
往来の者を千人きるといへるは是いかなる事そや
若清盛が家人のみをゑらひてきるとならはことは
りともいふへきに夜中なれは其わかちもさた
かなるまししかるときは何の罪もなきものを
千人きりころさは追善にはあらて追悪なるへし
思ふにこれも武夫は人たにきれはよしとこゝろへ
義経の武勇を称せんとて跡かたなき事を妄
作しかへつて其人を罪するのみ
補野口判官の説
俗説云判官義経衣川の城にて泰衡と戦ひしに
郎従皆討れしかば妻子を害し腹をきらんと
せられける所に鞍馬の大天狗輿を雲中にかゝせ
来り義経をいさなひゆき播摩国野口の里に住し
む僧となりて教信と号し妻子郎従の菩提を
とふらはれしか道路にをいてにはかにやまひにかゝり
て卒せらると云これを俗謡につくりて野口判官
といふ
一今按るに義経僧となること偽なり義経血気の
将なりといへとも妻子僕従をうしなひながらへ且
の命を惜て僧となるにいたらむや芳唐の
一柳渾といふ人あり十四歳のとき神巫と称する
一者ありて柳渾を見て児の桐天にして賤し
僧とならは長命ならんといふ親族各巫かことはに
したかはんとす柳渾かいはくわれ異術をまなんて
いのちなかゝらんよりは聖教にしたかひて速に死せ
むにはしかしと学にすゝむこと篤くして後に宰
一相となり七十余歳にいたると云事事文類聚
一柳河東集に見えたり丈夫の節操かくのことく
なるへし又天狗義経をいさなひ去こと尤稀なり
しかれともしはらく俗談によつて評せは彼天狗
義経の方人たるへくは是よりさき梶原泰衡等
の仇を罰し義経罪なきことを頼朝につけさと
し運をひらき家をおこすの方便をもなすへ
きに其こゝろなきのみにあらす自殺の期に
のそんてなましゐにいさなひ出し名を気かし
恥をのこさせ城中に死せしめすして道路に死
せしむ天狗か神通いふかしからすや
補北條時政は法師時政か後身といふ説
俗説云北條四郎時政ある夜霊夢の告ありていはく
汝か前生は時政法師と云六十六部の法華経を書
写して六十六ヶ国の霊地に奉納せし善根によつて
ふたゝひ此士にそまるゝことを得たり子孫なかく目
本のあるしとなり栄華にほこるへし告ると
ころ不審あらは国々の霊地を見よとありて夢さめ
ぬ其後国々の霊地に人をつかはし見せけるに法花経
奉納筒の上に天法師時政と書たる松ほしことなり
一今按るに北條時政か前生は時政法師といふこと偽
なり松よそ死る者は形神桐はなれ形は草木の
ことくにたをれ神は風火のことくにちる其数たる気
またあつまりて人とうまるゝにはあらすしがるを
浮屠氏の説に草木法性あり年々開落をなす
去年の開落は過去の生死今年の開落は現在の
一生滅といひて再生の齢とす是人と物とをわきまへ
さるあやまりなりたとへていはゞ一木の生枯は人
一倫の生死なり一たひ枯たる木ふたゝひ生せさるは
一たひ死したる人ふたゝひ生せさるに同し木に年
年の開落あるは人の生涯にさま〳〵の事あるに
ひとしたゝし木にはさたまれる開落あれとも人に
さたまれる所為なきは木は天地の造化によつて
非情に人は陰陽の形化によつて有情なる故なり
是人と物との差別なり木の実おちて生するは人
の子うまれて長かことし此故に梅実は梅樹となり
桃実は桃樹となる梅実桃樹とならす桃実梅樹と
ならさることく人も死してふたゝひ生せす食獣蟲
魚にも生さるをわきまへ知てまとふことなかるへし
二梶原景時土肥の杉山にて頼朝をたすくる説
俗説言源頼朝土肥の杉山にて敗軍に及ひ伏木のう
つほにかく礼しに大庭俣野梶原なと跡を追て其所
にいたり此竅の中心もとなしとて梶原景景時入て
見るに頼朝おはしけれは景時さゝやきて君の御
いのちを某すくひ奉るへし若世に出たまはこく
ろさしを報し給へと約し空穂の外に本頼朝お
はさぬよしを云て其命をたすけぬこれによつて頼
朝世に出られて後景時を恩寵ありしこと世もつて
知ところなり今にいたるまて梶原か讒口をにゝむ
といへとも此ことをあけて莫大の忠義と称す
或曰楚の項羽か将丁公といふ者高祖を追て短兵
をもつてちかづきけるか高祖のことはにめてゝかへり花
項羽ほろひて後来りて高祖にまみゆ高祖これを
一審益免岸巻之十二
軍中にとなへて臣として君に天下をうしなはし
むるものなり此後人臣としてこれにならふことなから
しめむとて終にきれり頼朝の梶原を近従せし
右山崎
○今按な
めしは漢高の智におよはさるにや
垂加説
に後漢書馮衍敬通傳にむかしある人隣家の人
の妻二人をいとみ参るに一人は罵てしたかはす
一人はしたかふ後に其夫死しけれははしめ我
を罵乗る女を娶ていはく人にあるときは我にし
たかふを悦ふといへとも我妻となつてはいどむ者
を罵むことを思ふといへり此事戦国策諸史品節に
も見えたりこれをもつてなそらふるに梶原か
頼朝をたす気しは忠ににたれとも平家に属し
なからなせしことなれは則ふたこゝろなり我に淫
する者は他にも陰し我に反忠するものは敏にも
反忠すへし頼朝も漢高のことくに誅せちるゝか
左もなくとも遠さけらるへき事なるに近従せし
めて剰其言のみを用られしかは兄弟親族有功
一の臣をおほくうしなはれたりはたして景時も叛
一逆して狐崎に戮せられしをやかゝるものを忠義
といへるも俗説のあやまりなり
三斎藤別当真盛を義勇の士といふ説
俗説云斎藤別当真盛は髪鬚を墨に染錦の直
垂を着し篠原合戦に討死す義勇兼備の兵なり
と称す
或曰世に斎藤実盛を義勇の士と称す勇はすな
は地有へし義は則我これをしらす実盛むかし
源義朝につかへて恩顧をかうふり平治年中義
朝藤原信頼に黨して事をはかるとき天子平ノ清
盛に命して誅せしめらる義朝其長子義平を
つかはして待賢門をまもらしむ平ノ重盛是を
せむ時に実盛鎌田政家後藤実基等と武勇を
励し重盛殆あやうかりき其後義朝敗死し
義平また楠に及んて実盛こゝに死せすしてひそ
かに身をのかれかゝれ居て後に平の宗盛につかへ籠
遇せらる治承年中源ノ頼朝義兵をあく相図浄海
其孫維盛を大将として開東にさしむかふ実盞先
一鋒たり駿河の国にいたつて頼朝の勢強大なる
ことをきゝて実盛手勢を卒てにけかへる維盛又相
つゐて敗軍す実盛むかし仇に死ることあたはすし
てかへつてこれにつかえ且旧君にむかひて刃を礪
これを義といふへけんや木曽義仲兵を北国
にあくるとき維盛等また出師これをうつ実盛
またしたかへり平軍大に利をうしなひ加州篠原
にいたる実盛遂にうち死す時に歳七十余思ふに
駿州より逃かへる蓋をきよめんかためなるへし其鬢
鬚を墨に染ること老てます〳〵壮なりといふへし
しかれともこれを義に勇むの花にうつさは遺恨
なかるへし昔李陵胡に降り遂に千載の青史を
汚して百世の恨を遺す古人葵花の大陽を織に
にざるをもつてこれをそしる実盛たる者これを
一恥さらんや是夏あつて義なきものなり右竹様葉
景清三尾谷朝引の説附景清忠光盛嗣頼朝を
ねらふ説
俗説云屋嶋檀浦合戦に能登守教経悪七兵衛景清
楯突壱人を相具し小船にのりて陸にあかる是
を見て源氏の兵は勢あはせたりしを教経箭を以
てむかふ敵ののりた反馬を射たをさるれは各おり
たつところに景清かけあはせたりけるに三尾谷四郎
といふもの大刀をぬひてたゝかひしか三尾谷太刀うち
折てみきはに引しりそきしを景清長刀を弓手の
同同十二年巻之上
脇にかいこみ矢手にて三尾谷か着たる冑の帽を取
てうしろにひけは三尾谷は身をのかれんと前に
ひくたかひにつよくひくほとに冑のしころを引切
て左右にのきたりと云伝え二人か強力を称美す
又一説に平家の侍上総五郎兵衛忠光同悪七兵衛
景清越中次郎兵衛盛嗣平氏没落のとき戦場を
まぬかれ所々にかゝれ居て頼朝をねらふ俗景清か
志のみをあけて二人か事を称するものなし
一今按るに景清三尾谷か所為称すへきものなし
其子細は三尾谷太刀うち折てしりそきける時
京清持たる長刀にてきるべきに其こゝろはつかで
一鯛を取て引たるはいふかし三尾谷も太刀をうち折
なは引かへしてくむへきに綴をふりきか程の強
力を持なから逃たるはきたなし又忠光景清盛
嗣頼朝をねらへりしかれとも景清のみを称して
二人を称するものなきこと非なり右の三士おの〳〵
仇を復するに志あり龍レ中忠光魚鱗をもつて
眼をおほひ人夫にまきれ居て頼朝を狙ふと
いへとも事ならすして誅せらる爰をもつて忠光か
忠をもつて第一とす次に盛嗣其こゝろさしをあら
但馬国木崎
はさすして但馬にて病死しぬれは
郡湯嶋の河
端に墓
あり
に墓命を惜みてかくれたるにやしれかたしと
いへとも首をのへて敵に降るにまさりぬれは
これを第二とすへし景清かこときはかれらに異
なりたちまちに若父の仇をわすれ頼朝に降て
委く次
不忠不義論するにたらす
あはれみをもとむ旨に
に見えたり
若仇を報せんかためにいつはりてしたかふといはゝかの
予譲か委レ質為レ臣而求レ殺レ之是二心也といひしこと
はにたがへり又いきほひつきてしたがふといはゞ文天
祥か父母有レ疾雖レ不レ可為無二不レ下レ薬理一書二吾心一ヲ焉
不レ不]不レヲ救則天命也といへるこゝろにそむけりかれ
其身あることをしつて君あることをしらす人
臣たるもの思はさるべけんや
四景清橋となり牢を破り眼を抉説
俗説云上総ノ京清頼朝東大寺供養に詣られし
ときすがたをやつしうかゞふといへとも畠山重忠に
見とかめられ橋となる其のち牢をやふりて落ゆき
又頼朝をねらひからめとらる頼朝なれが忠志をあ
はれみ命をたすけられけれは景清其恩を感し
眼あるう地は仇を復するのこゝろあり明をうしなひて
其念をたゝむと云て眼を抉り髪を剃日向の句当と
号すといふ
今按るに景清東大寺供養のとき頼朝をねら
ひ虜となれること抜なし思ふに東鑑に鎌倉
永福寺の新御堂造営に頼朝監臨のとき平家
の士上総五郎兵衛忠光魚鱗をもつて左の眼を
覆ひ懐に刀をかくし人夫の中にまきれ居けるに
頼朝あやしみて梶原景時に命し尋問て搦捕
しめらるとあるを景清構となり眼を抉たると
通俗間に景清か盲目となりし事に附会して
いはく景清か盲目となりしはあざ丸といふ太刀を帯
妄作するのみ
せし教なり其後も此太刀を帯ぜし者は皆眼盲たりといふもの有
大なる偽なりおよそ常釼はあたをふせき身をまつたふするの備
えなりしかるをくつて暮せるもの眼盲なにきはまらは鎌魚刀に
も劣れる太刀ならんか一笑にたくすこれのみにあらす五性にあはせ
て刀のす尺焼刃を吟味しいつれの作はさゝす寺社のあがり
ものはさゝすなといふものあり其人のこゝろなしはられていとつたなし
又牢
をやふりしこと跡かたもなきいつはりなり鎌倉志引
長門本平家物語云ク建久六年三月十三日大佛
時に頼
一月月年一月十一月十一月十一月十一月十一月十一月十一月十一日
供養あり
朝在京
参しけれは和田左衛門尉義盛に預らる吉平
家に候せしやうに少も口はへらす義盛に所を
もおかす一座をせめて盃さきにとりあるひは縁の
きはに馬ひきよせのりなとしけれはもてあつかひて
同同十九年巻之十二
他人にあつけさせ給へと申けれは八田右衛門尉知家に
預らる後に大仏供養の日をかそへ同七年三月七日
湯水をとゝめて死景雨とあり俗説の相違を考へ
しるへし
○勧追考に皇明通紀云建文皇帝洪武卅五年八月
既望左命都ノ御史景清といふ者帝を殺さんか為偽て
従ひ常に剣を衣裾の中にかくしてねらふあらはれて
殺さるとあり若此説を日本の上総悪て参か事とするか
補主馬判官盛久か説
俗説云平家の士主馬ノ判官盛久とらはれとなりて
鎌倉にくたる盛久常に観音を信し気る故頼朝に
異夢の告ありしかは頼朝盛久か命をたすけ召出し
酒を給ていはく盛久は平家譜代の勇士武略門達者
乱舞堪能のきこゑあり一さしと所望ありけれは
盛久ありがたしとよろこひ得かたきは時さりかたきは
命なりかゝる時良にあふこと世もつてためしあるへ
からすとて君をいはふ千秋の鶴岡のなどゝうたひ舞
おさめて退出す
今按るに通鑑綱目に采恭帝の臣文夫祥元の
兵と戦ひ構となる元世祖帝おしみて殺さず米
につかふるをもつてわれにつかへは相とすべしなど
しきりになためしかとも天祥きゝいれすしていはく
采の宰相となりてなんそ二姓につかへむやと死を
同所長谷院牌巻之十二
請て殺さる時に年四十七なり其衣帯の中に賛
あり曰く孔ハ曰成仁ヲ孟ハ曰取レ義惟其義惟其義尽。所以仁
至読二聖賢書一。所レ学何ニ学何ニ事。而今而後庶幾無レ愧。と
見えたり人臣たる者まさにかゝのことくにして
たれりしかるに盛久身に染り炭を呑ても君
の讐を復せんとこそ思ふへきにたなきのみにわか
す剰己か命をたすかれるかうれしとて髭をはらひ
痔をねふるの媚をなしかゝる時節にあふことた
めしなしとおもねり讐敵の千秋を祝してう
たひまふ其所為をおもひやるに前代未聞末代
一未曽有なり若天祥か輩に盛久を見せしめは
其面に唾せられさることを得へけんや
五渋谷金王丸後に土佐房と號する説
俗説言渋谷金王丸は武蔵国渋谷の産なり左馬頭
源義朝につかふ義朝事あつて後剃髪して諸国を
修行す頼朝のときに及ひ出てつかへ名を二階堂土佐
房昌俊
一二正
存
とあらたむ
今按るに平治物語に義朝野高の内海にて長田
か為に弑せられし後金王丸洛にのほり義朝の妾
常盤か許にゆゝさて義朝の最期のことを告知せ
其身は御あととふらはんとてある寺に入て出
一家し諸国七道を修行しけるとわれとも後に
出て仕官せし事はいつれの書にもかつて見えす
源平益衰記云土佐坊昌俊はもと大和の国の
住人なる。奈良法師なり当国に針の庄とて
西金堂の御油料の所あり不慮の沙汰出来て
当庄の代官小河四郎遠忠といふ者興福寺の
上綱に侍従律師快尊といへるものをかたらひて
一西金堂衆に敵して年貢所当をうちとゝむるあ
いた堂衆また昌俊をかたらひ多勢を引率し計の
一庄におしよせ遠忠を夜討にす快尊又大衆を加
たらひて土佐坊を追こめて春日の神木をかさり
洛中にふりいれ奉り昌俊を禁獄せらるへきの
よし奏聞せむとする所に昌俊又数多の凶徒を
一卒し会合の衆徒を追はらひ春日の神木を
きりすて来る故大衆弥いきとほりて天奏に
及ひけるによつて昌俊を召けれとも勅にした
かはす此故に衆徒の訴話しきりなりといへとも
双方の理非いまたきこしめしひらかれ次男俊
急に参洛して道理を申さは聖断あるへきの
青丘谷花卑巻之
よしなためけれは土佐坊すなは地上洛しける
を別当兼忠に仰せてめしとらしめらる兼忠
これを大番衆土肥次郎実平にあづけぬかゝて
月日をおくり来る間に実平かれか剛強なるを
知てひそかに親族の睦をなせり其後公家より
御沙汰もなかりしかとも南都は敵おほけれは還
住なるましとて実平に相具し関東に下り
一兵衛佐殿に奉公すこゝろぎは不覚なしとて
身をはなたす召つかひ給へりもと南都の者なり
一七大寺詣と号して義経の討手にさしのほせら
きとあり殊に諸家系図を考るに渋谷は源氏
にして二階堂は藤氏なり其出自大に異なり
是等を重つてみれは金王丸と土佐坊は別人なる
へし
広益俗説雑巻十二終
同寶並谷施巻之十二
狩衣
第
廣益俗説辨十三歳
士庶
士庶
廣益俗説辨巻十三目録
狩野氏図書記
神村長
豊蔵書
新薩摩守忠度能に短冊をつけし説
同常陸坊海尊仙となる説
補仁田忠常冨士狩に野猪をとゝむる説附忠常富士の
人穴に入て地獄をめぐる説
朝比秦義秀は巴か子といふ説附義秀曽我時致と
草摺引の説
補同義秀鬼か嶋にわたる説
補最明寺時頼諸国を廻る説
同同三十一編巻之一三月
補佐野源左衛門常世か説
補結城入道地獄に堕る説
補嶋村弾正左衛門蟹となる説
新太田道潅辞世の歌の説
補松田左馬ノ介忠義の説
二小栗判官兼氏り説訂補
補日下左衛門芦苅の説
三飛騨内匠か説
福信濃国孝子か況
広益俗説弁巻十三
廣益俗説辨巻十三井澤長秀輯録
士庶
新薩摩守忠慶蔽に短冊をつけし説
俗説云薩摩守忠慶岡朝六弥太忠澄とくんてうた
れし後六弥太忠度の箙を見れは短冊をつけらる
旅宿といふ題にて行くれて木の下か気をやとゝせは花
やこよひのあるしならまし忠度と書れたり
今按るに疑冊は忠度の時はなしそれより百三四
十年過て頓阿法師よりはしまる此故に源平盛衰
記にも六弥太忠慶のくひを取ぬきすて給へる物具
一月五日伊藤巻之十二日
をとらせけるにひとつの巻物あり陣所にかへりひ
らき見れは哥ともおほくある中に旅宿といふ題
にて行くれて木の下かけを宿とせは花やこよひの
あるしならまし忠慶とかゝれたりとあれとも短
冊の事は見えす
一首よまれたりとあり○此歌忠度家集
には見えす東見記云具足肌百首に馳せり
平家物語にはゑひらにゆひつけゝれたる
文を取て見れは旅宿といふ題にて哥を
新常陸坊海尊仙となる説
俗説云常陸坊海尊は園城寺の者なり後に義経に仕
ふ鳥館の合戦の前山中に逃入て仙人となり今にい
余これ
たりて富士浅間湯殿山なとに時々出現すと云ひ
よろき事
へ行せし雑記に海尊仙となれることを記そしは一書にのする所に
したかふて其是非を辞せすみるものそれこれをおもへ
今按るに五雑組に明の金陵の唐詩といふ者仙
術をたしむある人家を出て山にいらんことをすゝむ
唐かいはく家に老母あり出る事あたはす世間不
孝の神仙なしと答ふと記すこれによつていはゝ
海尊かこときは君をすてゝ生をむさほる不忠の神仙
ならんかたとひ仙家には彼をゆるすとも議するに
倫理をもつてとは其罪すてに五刑にあたれり又海
尊今になからへ居て所々に出現する事大に非なり
二程全書に昔ある人神仙の説ありやと程子に問
同同長谷筑後之一三
一広花代謝巻之十三
けれは白日に飛昇ると説こときはなし山林の間に
居て形をたゝも地気をねり年を延寿を益こときは
ありたとえは一燃の火風中に置は過やすく密室
に置は過かたきにひとし此理ありと答へ給ひぬ
彼海尊も常人よりは長命なりといはゝたもある
へし今になからへ居て所々に現せりと伝ふるはい
とつたなし
仁田忠常富士の狩に野猪をとゞむる説後同人富
士の人穴に入て地獄をめくる説
俗説云頼朝冨士の牧狩のとき仁田四郎忠常野猪を
こゝめたり是山神なる故にたゝりありといふ又云源
頼家和田平太胤長に仰せて冨士の人穴に入しめら
るゝに通り得すしてかへりけれは仁田忠常を入しめら
るゝに一百三十六地獄をへめくりてかへり来る
ある人云仁田忠常に猪をとゝむる説は東鑑に建久
四年五月廿七日未明より終日御狩あり爰に無双の大
鹿一かし羅御駕の前にはしり来る工藤庄司景光
かねて御馬の左の方にありしか此鹿は景光か分なり
射取へきの由申請然るへきのよし仰たる如何もと
より究竟の射手なり人皆駕をひかへてこれを見る
同四十一年春之十三
唐松代諸部ノ義之
景光聊相ひらいて弓手に通しかけて矢をはな
つにあたらす景光おひかけて二三の箭をはな地し
かともあたらて鹿はもとの山にいりたり景光弓
をすてゝいはくそれかし十一歳よりこのかた狩猟をも
つて業とす七旬にあまるまて弓手に物を得さる
一事なししかるに今心神惘然としてはなはた迷
惑す是則山神の駕たることうたかひなし運命
しゝまりぬ諸人後におもひあはすへしといふに各奇
一異の思をなせり果して晩に及て景光発病すと
あるを仁田忠常野猪をとゝめしことに作れるもの也
又和田胤長仁田忠常人衆に入説は東鑑に建仁
三年六月一日将軍家頼家伊豆の奥狩倉に着御あ
り伊東崎といふ山中に大洞あり其ふかさをしらす
将軍あやしみ給ひ巳刻に和田平太胤長をつかはして
見せらる胤長火をあけて彼穴にいり酉刻に帰り
申ていはく此穴行程数十里くらふして日の光を見す
一ひとつの大蛇ありて胤長を呑んとする故に剣を抜
てきりころすと又云く三日将軍家駿河の国富士の
一狩倉に渡御あり彼山の麓に大谷ありけれを以て其所
をきはめ見せしめんために仁田四郎忠常を入らる
主従六人なり忠常に御剱走を賜る人穴に入て
一今日幕下にかへり出つ四日の巳の刻に仁田四郎忠有
人穴を出て帰り参る往還一日一夜を経たり此洞
せはくして踵をめくらすことあたはす遠く行ことか
なはす且くらくして心神をいたましむ主従おの〳〵
松明を取路次の始中終水なかれて足をひたす蝙
幅いく千万となくさへきりとべり其先途は大河なり
一逆浪みなきりなかれて渡かたし爰に河の向に火光
あり奇特を見るの間郎従四人たち死す死す忠道
彼霊の訓によつて忍賜の御劔を河に投はれ命を
一全して帰り参るとある両説をとりあはせていふな
るへし
一朝比秦義秀は巴か子といふ説謝義秀曽我時致と草
摺引の説
俗説言朝比奈三郎義秀は和田左衛門義盛か三男母は
巴女なり巴はしめは木曽義仲か妾なり元暦元年義
仲伏誅の後巴信州にくたり居乗るを頼朝鎌倉に
めしよせ女なれとも強力の聞えあり殊に今井樋口か
妹なれはその心はかりかたしとてすてに誅せらるへきに
定りしを和田義盛大力の処をつがせんと思ひさま〳〵に
同同十一日二十二
申て預り妻とし義秀をうましむ母か力量をつ
きけるにやならひなき大力なり義盛大磯にをいて
酒もりのとき義秀曽我五郎時致に出あひ草摺を引
きりたり
今按るに朝比祭義秀は巴か子と云事あまねく
人の知たる説なれとも東鑑盛裏記平家物語を
考るに木曽義仲戦死は元歷元年なり東鑑に
拠に和田義盛戦死は建保元年にて朝比奈三十
八歳とあり元暦元年より建保元年まてわつかに
三十年なり義秀か年齢と八年相違すこれを
もつて見れは巴か子にては有へからすある人の説に
古本東鑑には義秀か年齢を二十八と記せりと
いへり然るときは巴か子と云事信すへきか此説一に用
れは義秀と曽我時致か草摺をひきしは偽なるへ
し曽我兄弟か工藤祐経を討て各ころされしは建久
四年頼朝富士野に狩せしときなり和田酒もりに
義秀時致か力量をくらへしは其前なれは思ふに義
秀か年齢わつか九歳か十歳なるへしに児の力競
いふかしからすや
補朝比奈義秀鬼島にわたる説
俗説云建保元年和田義盛謹叛のとき軍やふれて
朝比奈義秀は船にのりて鬼か島にわたり其島を領
して一生恙なしといふ
一今按るに東鑑を考に建保元年五月和田義盛
叛逆す軍敗る朝比奈義秀ならひに数卒等海
浜に出船に棹て安房国におもむく其勢五百騎
船六艘とあり○神社考云義秀自二房州一趣二高麗国一
対馬嶋人謂レ余曰高麗釜山海ニ在二ト朝夷名ノ祠浦人
時祭之思ふに是等の説によりていひ出せるものか
補最明寺時頼廻国の説
俗説言最明寺平時頼民のくなしみを見うつたえ
をきかんためにみつから諸国をめく類といふ
今按るに羅山子道春曰時頼の修行するは人の
鬱訴をきかんか為なり民のうれひくるしみを直に
見ておさめんとする其こゝろさしは殊勝なれとも聖
賢の道より見れはあなか地国君にはしてひそかにし
のひありき毛を吹て疵をもとめ人の隠僻をたつ
ねさゝらんはあまりさしていらさる事にやいにしへは
民のくるしみを問史を諸国につかはして廉直に事
をきくときは君は居なからも明なるへしと後漢書な
とにもあれはかならずしも修行することを用ゆ
へからす○予按類にむかしもろこしにて河伯化
して白龍となり水におよきしを舁といふ者
矢をはなちて龍か左りの目を射たり河伯いろて
此事を天帝にうつたふ天帝のたまひけるは汝ふ
かく神霊を守らは弾何によりて汝を射んや汝
いま蟲類となる故人の為に討らるゝこと理な
り恨むへからすとありしこと事文類聚に見えたり
これをもつて思へは時頼天下の執権にして威勢
まことに強大なれとも獨身にて国を廻るときは
乞食法師に異なるへからす古語にも呑舟の魚も
水をうしなひて螻蟻のために制せらるゝは其
一居を離るゝ故なりとあれは不虞の愁あやうか
らすや頃日疎魯理伝を見るに疎魯理は其郷
泉州地志云鼠樓栗新左衛門は和
一里姓氏を詳にしらす
泉国堺の産なり堺鑑云鞘師也
越豊臣大閤につかへて寵幸せらるわる日太閤諸
七十七
臣をあつめてのたまふはわれすてに日本をたなこゝろ
ににきれりしかれとも若一民も其所を得さることあ
羅はわか恥なりわれ平時頼にならつて難県をめく
り見るへし諸臣皆ことはをそろへて時頼の国を
めへられしは美事に似て人主の所為にあらす殿下若
かれにならはせ給ひ万一のふ虞ましまさは如何と
まうす太閤またのたまひけるは我神武なる天下に
敵なしたとひひとり身にしてゆくともたれか我
をはからんや汝等かさねていふへからすと御いかりの
いろ見え給へはおの〳〵ふかくうれふなれともふたらひ
いさめたてまつるものなしそれより三日過て後太
関疎魯理を召て世上にめつらしき事はなきかと問
せ給ふ疎魯理めつらかなる事こそ誰へ此ころ京の賈
人鞍馬山にのほるとて山の麓にいたるとき晴たるとき
天忽にくれて黄昏のことし天狗忽然として飛
来り賈人を見ていはくわれ今食に飢たり汝を
取てくらはんとのゝしる其いきほひはなはたおそろし
賈人いはくわれ運つきて今日公にあひ奉れりに
くるとものかれ難しともかくもなし給ふへし但し
それかしつね〳〵云の神通をきゝ供ぬねかはくは
一目見せ給ふへし左あらは死なともうらみ哉はし
天狗かいはくなんちかのそみにまかせて神通を見す
へしまつ大身を見せしめんといふとひとしく其長鞍
馬山より高くなる賈人おとろきて此上は小身を見
候はやといへはたぎまち蜘蛛ほとになれり買人掌を
ひらきて此上にすはり給へといへは天狗やかて飛わかる
一賈人急に口をわけてのみけれは天狗つゐに腹中
にて死し候とかたるそのことはいまたおはらさるに太
閣笑給ひて世上になんそ此事あらんや汝まうけ
つくりてわか微行の挙を諷するものなりとて其後
廻国の沙汰なかりけりと記せりこれをもつて見れは
時頼のときに疎魯理かたくひのものたもなきに
やいとあさまし
補佐野源左衛門常世か説
俗説云最明寺時頼入道諸図をめくり上野国佐野にい
たり雪にあひてある家に宿す主まつしくて薪な
き故鉢の木をきりたきてあたゝめぬ時頼感して
其名を尋しかは佐野源左衛門常世なり一族に所領を
おしとられかやうの体になり候ぬしかれとも若明日に
も乱出来はちきれたる鎧を着さひたる長刀を持痩たる
馬にのりなから一番にはせ参り着剤につき高名を
きはめこんなとゝかたるかゝて発明寺いとまをこひ鎌倉
に帰りにはかに軍勢を催すに程なくあつまること雲
霞の如し最明寺二階堂何某に告て諸軍勢の中に
ちきれたる鎧を着さひたる長刀を持やせたる馬に乗
たる武者一人あるへしとてよひ出さしむるに兼ていひ
しにたかはす常世なりしかは時頼大に感悦しわれこそ
汝かもとにやとりし修行者なりかやうに諸勢をあつ
むること他の儀にあらす汝か佐野にていひしことはの京
偽をしらんかためなり然雨に少もことはをたかへす
馳参ること神妙なり汝か本領佐野庄七百余町もと
のことくかへしあたふるなり又大雪にあひてさむかりしに
秘蔵の鉢木をきり火に焼てあてしこと其こゝろさし
わすれかたし其時の鉢木は梅桜松なりしかは返報に
加賀に梅田越中に桜井上野に松枝三ヶ庄領す
へきよし自筆の状案堵に添てあたへしかは常世頂戴
して国にかへれは諸軍勢も各国々に帰りける
一今按るに此説理にあたらすむかし周幽王褒妙を
愛す褒奴笑ふことなし幽王笑せんことを思ひてさ
ま〳〵にすれとも笑す幽王かつて冠いたることあれは
一焼火をあけて兵をあつむる法を定め置たりある
とき他国より寇いたりしかは焼火をあけて兵を
あつむ褒奴此煙火を見て大に笑ふ幽王よろこひて
又笑せんことを思ひ事なきに燈火をあくるに諸侯
こと〳〵くいたれども冠なし褒奴か笑の為と聞て美
りぬ其後西夷犬戎おこりて幽王をせむ幽王燈火を
あけて兵をもよふしけれ共前のことく褒奴かなく
さみよと思ひて来らずついに幽王驪山の下にころ
さると史記に見えたりこれをもつて比するに時頼か
軍勢をあつめしも其こゝろ相にたりかさねて乱あ
りて勢を催すとも又常世かたくひの者をゑらばん
為ならんとて来るへからす時頼妄昧なりといふともかく
のこときにはいたらしわきまへしるへし
補結城入道地獄に堕る説
俗説云延元三年七月結城上野入道伊勢にて病死す
其比入道か所縁の僧武蔵より下総に下るに日くれ
野遠くしてとまるへき宿なくたゝすみ居たるに山伏
一人来て行脚の僧をかたはらなる家にいさなひゆきり
かゝるところに牛頭馬頭の鬼とも罪人を火車にの勢来
てさま〳〵に呵責す僧彼山伏に誰人そと尋るに奥州
の住人結城上野入道なり其方所縁ましまさは跡の
妻子ともに一日経かき供養して此苦患をすくはれよ
我は今度入道か鎧の袖に名を書たりし地蔵裳薩な
りと告てさりぬ僧おとろきていそき奥州にくたり
結城入道か子大蔵の権少輔に此事をかたる二三日過て伊勢
より飛脚くたりて入道か遺言臨終の悪相を語りしかは
僧かことはに偽なしとて諸ねんころにとふらひける
一今按るに此説偽なり思ふに此僧結城か所縁とあれは
一入道か悪逆をも急てしれる上に彼伊勢より国もと
へ下る飛脚に路次にてゆきあび入道か遺言及悪相有
しこと今度鎧の袖に地蔵の号を書し事まてたつね
聞ひそかに飛脚としめしあはせ我はさきた地くたりてかやう
一呵責を見たりと怖すへし其後汝くたりて空しらさる
一体にて遺言悪相をこと〳〵く語なへし左あらん時は我ことはに
偽なしと思ひ後世のためにとて金銀をあたゆへしそれを
ふたりにてわかちこらんとはかりたるならん
蒲嶋村弾正左衛門堺となる説
俗説云亨禄四年細川晴元と浦上掃部介と摂州尼か
崎において合戦す浦上敗北に及へるとき浦上か家臣
嶋村弾正左衛門貴則敵二人を左右の脇にはさんて河
に入て死す其たましひ忽蟹となる嶋村蟹となつく
平家蟹清経かに
蝉の甲に人の怒れる顔あり
武文かにともいふ
一今按るに非なり伝肱蟹譜ニ云ク背穀若二鬼状一者眉
見二干百
此たぐひなり
一目口鼻分布明白常宝翫レ之
川学海一
同同同同同同同三十二
月主不言辛ヲ六丁ニ
なんそ人死して蟹となる事あらんや
新太田道灌辞世の歌の説
俗説云文明十八年太田道潅上杉定正のために戦死
すそのとき敵十文字の鎗を直灌の胸に突かせ日比
の数寄の道なれは今も歌よみなはんやと申けるにとり
あへすかゝるときさこそ命のおしからめかねてあるへき
一になき身と
事としらすは
思ひしらすは
今按るに非なり慕京集
詠草
太田道滝
に云〳〵康正元年
の冬藤沢の役にいたりて敵も御方もいれましり三
日をかさねていとみあらそふことになりぬされとも屋形の
武威つよくして敵北条憲定のぬしつゐに自害し
余兵あたひはうたれあるひは落うせし中に藤沢の
かたえの松原のむれにてたゝかふ男あるにみかたは中
村治部少輔藤原ノ重頼とて京家の人の世にしつみて
屋形に扶持せられて侍りしになん敵の男は栗毛な
類駒に騎二つ引両に畢龍の紋つけたる指物なり
遠目なからよろひもいかめしく見えけるしはしたゝ
かふて鎗をあはせしに中村手つから首を取我陣に来
りてかう〳〵なんと語りけるにいまた壮年にもたら
ぬおとこの色しろくしてたけたかゝるへきこゝ地して
廣益作該執巻之十三
喜太のあたりふゝならすたきしめつゝあはれもいや
ましなりあたなからにくからぬ面かけなり中村重頼此
心はえのやさしき歌ひとつものして手向にとすゝめ
侍りけれは道薩かゝるときさこそ命のをしからめか
ねてなき身と思ひしらすは返し治部に輔重頼なき
身とはたれもしれとももろともにいまはに及ふ事
をしそ思ふとあれは俗説のあやまりをしへし
補松田左馬助忠義の説
俗説云秀吉公北条氏政同氏直をせめ給ふとき北条か家
臣松田尾張守か方に書をつかはしてかたらはるゝに尾張守
同心し嫡子新六郎二男左馬介三男弾三郎を呼て
かくと語る左馬介これにくみせす氏政氏直に告しかは
尾張守を誅しける其後氏政氏照氏直降参しけれは
氏政氏照は切腹させ氏直は命を助られ高野山に入参る松
田左馬介も其供なり世に此ことをあけて左馬介か忠義を
称美す
一今按るに通鑑綱目云むかし朱砒といふもの唐徳宗
を囲みし時徳宗ノ臣李懐光をして朱池をふせかし
めらる懐光返逆のこゝろありてすゝまず其子の
一李曜これを徳宗に告懐元死るに及て鑵も又自
廣田俊俊執巻之十三
殺せり又云楚康王其臣子南を殺さんことを思ふ子南
か子乗疾といふ者王の御士なり康王葉疾を見るご
とになみだをなかす棄疾いかなる故に泣給ふやと問
わいはくなんぢか父子南無道なれはうたんと思へり討其
汝はとゝまり居んや棄疾こたへて父戮せられ子居は
君なんそ用ひたまはんや但し命を洩して刑を重く
することは臣も又せしといふ王つゐに子南を殺す東蛮
父か尸を請て葬り父を棄讐に事ことはわれ忍ひ
すと云て縊て死せり是等をもつて思ふに左馬介父か
逆意を君に告ることは李鑵に同しといへとも李雀は
父死るときに自殺し左馬介は父誅せらるゝときに
一死せず棄疾は父をすて讐につかふるを忌て死したる
介は父を棄讐につかえても恥るこゝろなし古語に
忠臣をもとむるはかならす孝子の門に於てすと
あれは左馬介を忠臣とするは義にかなはす考へ知へし
二小栗判官兼氏か説
俗説云小栗判官兼氏といふ人勅勘をかうふり相州に
配流せらる此所に横山といふ者あり其女照手姫といへる
に兼氏通しける故横山これをにくみ兼氏を招請し
鬼鹿毛と名つけたる悪馬に乗しめ喰殺させんとはる
同長谷光辛辰之上
一広伯諸耕巻之十二
りけれども兼氏かくれなき御肴にてものゝかすとも
せすのりしかは横山弥いきとほり毒酒をすゝめて兼此
をころす後に兼氏蘇生して藤沢の上人にはこくまれ
熊野本宮の湯に入て本復し相州に帰り照手段に
めくりあひ横山を討て後に本領を安堵すと云
一今按るに鎌倉志。引二鎌倉大草紙ヲ云應永三十年
春のころ常陸国住人小栗孫五郎平満重といふ者
謀叛をゝこし鎌倉の御下知をそむきける間源持
氏退治として発向あり結城の城にいたり給ひ同八
月二日より小栗の城をせめらるゝに小栗も兼て
期したれは軍兵あまた城より出しふせきたゝかひ
けれとも鎌倉勢は一色左近将監木戸内蔵助先
手の大将として吉見伊豫守上杉四郎荒手にかわ
りて両方よりせめ入けれは終に城を攻落されて
鎌倉九代記には応永三十年
小栗は三州に落ゆきけり
五月廿四日小栗孫次郎満重を
退治として左馬頭持氏三千五百余騎を卒して下総国結城
の城に発向あり満重婦をき戦ひけれども遂にうち負ければ
家の子竹之元といふ者に子息小次郎をあつれて城をおとし我一
身は腹切て烟の中にふしに乗りとあり○南朝記には応永二
十九年常陸の国人小栗孫五郎平ま重持氏の命をそむきける
故摂氏上杉三郎重方小山左馬介に仰てうたしめらる十一月廿一日
小栗か城によせて合戦す同三十年五月廿八日鎌倉の持氏小栗
退治として下総国詰城の城にいたり同年八月二日小栗落城して
満重及宇都宮持綱うちつれて落ゆきしを塩谷駿河守
追つきてうちとるとあり諸説相違あり未知何是を
其子
●笹谷悦牌巻七十三
〇北
小次郎
或云考二小栗系図一有二孫五郎滿重
其子助重助重所謂小次郎様
ひそかに
しのひて関東にありしか相州権現堂といふ所に
ゆきけるに其辺の強盗ともあつまり居たる所に
宿をかりけれは主か云く此浪人は常州の福者と
きく定て随身の財あらん打殺して取へし供の
家人をは毒酒をもりてころさんと相はかり宿々の
一遊女ともをあつめ今様なとうたはせ馳走の体に
もてなし酒をすゝむ其夜酌にたぎたる照姫あるへ
世にいふ照手姫とは
つといふ遊女此間に小栗に相なれ彼
此照姫か事をいふか
一企をもうかゝひ知て酒をのまでありけるがひそかに小
粟にかくと告けれは小栗ものむやうにもてなして
酒を飲す家人ともはしらすして酔ふしぬ小栗か
りそめに出る体にて外に立出見るに林の内に
鹿毛なる馬をつなきおけり此馬は盗人とも海道
にてぬすみ来りしかと悪馬にて人をくらひふみけ
れは乗ことかなはすしておきたるにてそありける
小栗これを見てひそかに立帰り財宝少し取もち
て彼馬にのり鞭をすらめて片時に藤沢の道場に馳
ゆき上人を頼みけれは上人あはれみ時衆二人を
つけて三州におくらる盗人ともは毒に辟たる家人
ならひに遊女を河に流し沈め小栗を尋れとも居
さりけれは残し置る財宝をわかぎとり其夜中に
分散すかの酌に立ける照姫は酔たる躰にもてなし
水に入られけれとももとより酒を飲されは河下より
匍あかつてそたすかりける其後永亭のころ小栗三州
より来り照姫をよひ出し種々の財をあたへ盗人共
を尋ねてこと〳〵く誅しけり小栗か子孫代々三州
に居住すとあり補常陸国誌ニ云小栗氏祖出レ自二
桓武天皇子葛原親王親王親王子ヲ曰二高見王一ト其子高
望王始賜レ姓為二平氏任二従五位下上総介ニ高望ニ有二
六男一長曰一良望二任二フ常陸大掾一改二名国香一其子從五
一位ノ下右馬ノ助貞盛改二ハ常陸ノ大掾一其子大掾繁盛其
四男多気平太夫維幹其子為幹號二常陸ノ守一其子
繁幹其四男小栗五郎重義其子十郎重成其子
一次郎重信其子彌次郎朝重其末葉應永年中家
絶す○世俗に云伝ふ小栗判官か事は右の説より作り
出せること明けし此段架補一
浦日下左衛門芦苅の説
俗説云摂津国難波に日下左衛門といふものありまづし
くなりけれは其妻みやこにのほりあるかたに乳母と
同廣谷悦牌巻之十二
なりしか夫かゆくゑをとはんためふるさとにいたりて所
のものに問に其人は松とろへて此所にはおはさずと云
しかる所に日下左衛門芦をうりて来るを見あひてつれ
帰ると云これを俗謡に作りて芦苅といふ
今按るに大和物語云つのくになにはのわたりに家
今昔物語には京に極て
して住人ありけり
まつしきものあり
男も女もげす
にはあらさりけれとまつしくなりけれはおとこわれは
かくても有なん女のわかきにかくてあるはいとをしけれは
京にのほりてみやつかへをもしよろしくはわれをも
とふらへ我もよくは尋ねとふらはんと地きりて女は京
今昔物語には
にいたりあるやごとなき所に
みやつかへ
摂津守と有
しけるに此所の北方うせ給ひしかは此女をおもひ
給ひて妻になりにけりかゝれとももとの男を
わすれす車にのりて難波にゆきしにあしになひ
たる男来りしを見るにもとのおとこなりしかは
呼よせけるに男も妻と知てよめるきみなくて
あしかり景りと思ふにもいとゝなにはのうらそすみ
うき
今暮物語には女衣を男にやるとて書付けるあしからしと
思ひてこそはわかれしかなとかなにはのうらにしもすむ○
おとこすゝりをこひて返哥を書て車にまいらせける
君なくてあしかりけると思ふにはいとゝ難波のうらそすみうきと有
女これを見
てなきつゝ着たりける衣をぬき男にあたへて帰
一七七七七七十七
中村氏これを評して云世にすみわびて女にみやつ
けりとあり
かへをすゝめけるは義にかなばす女のしいられて出
けるは弥わろし猶もあらで身のさかへにめでゝとしころのちぎりを
わすれしかばわか身をもはぢしめ松とこをもたずけずなりける
こそいとほろなくあさましけれ世のわたらひいとものうく
なりはてたるときにおとこにつかふるみちいよくまめやかになさ
けふかきそまことの
此説に小異をまうけたるものなり
女とはいふへきといへり
三飛騨内匠か説
俗説云むかし飛騨の内匠といふ者もろこしにわたらんと
て木鳶をつくりこれに乗て筑前を過けるにかれをに
くむものあつて矢をはな地しが内匠にはあたらず木鳶
の片羽を射きれり其羽の落たる所を羽形と号す後
に博多とあらたむ然れとも内匠ものゝかずともせず
なを片羽をもつてもろこしにわたりぬ在唐の内妻を
娶り懐妊して十月に及へるに内匠日本に帰れりほと
なく彼妻男子をうむ此子十三歳になれるとき父を
たつねて日本に来る内匠これをうたかひて別室に居
しめ汝まことに我子ならは仏像半片を作るへし我また
半片をつくりあはせ見てたかふ事なくむは汝かことはを信
すへしとてたかひにつくりてあはせ見るに少もたかふ事
なき故其子なることを信すといへり
今按るに往昔飛騨内匠といふ者一人ありと思ふは甚た
誤なり職原抄大全ニ全 ̄ク木子寮ノ大工ノ之所レ作皆掌
同四十一日午後十一
之古飛騨国多二大工一参二京都一木土ノ頭奉行曰二ク之飛
弾ノ工一也日本後紀ニ云延暦十五年十一月己酉令天
下ヲ捜二捕諸国逃亡飛弾工等一異称日本伝云ノ飛弾
国ニ多二匠民一巧造二宮殿寺院一也今ニ稱二飛彈工一補今昔
画家伝ニ云治成ニ本ノ
物語云昔畫師百濟朝臣治成
姓ノ余。後ニ改ム二百済一ニ
與二飛弾工一争レ藝
然れとも其ころの飛騨国の工にて名は
しらすと書物話に載ところ甚たながしこの故
にこゝに略す今昔物語は改正して別に
印行すあはせ見るべし
太平広記ニ云韓志和
これ日本の飛騨
一者倭國人也中國爲二飛龍衛士一
万葉
の工の類をいふと
集歌にとにかくにものは思はすひだ人のうつすみなみの
たゝへす地に
夫木集には此歌を人丸の歌と
しひた人をひたたゝみとあり
同集歌ひだ
人の真木なかすてふ尓布の川ことはかよへと船そか
よはぬ体拾遺和歌集にくにもち宮つくるひたの
たくみのてをのおとほど〳〵しかるめをも見しかな大
和物語の歌にまかきするひだのたくみのたつきをとの
あなかしかましなそや世の中とあれは一代の名に
あらさるを知へし又羽形の説非なり補貝原益軒
云日本後紀に嵯峨天皇弘仁五年筑前博多津に新
羅の人漂着の事をしるせり嵯峨の御時すてに博多
の号われは其はしめ猶久しき世よりはしまれる邑
なるへし
筑前
名図
つとあり余按るに右の俗説はもろこしの
同廣益谷税牌巻之上
魯般か事と我朝の仏工春日か事を取あはせたる
ものにや祖庭事苑に魯般はいにしへの般輪子也
心匠はなはたたゝみなり朝野僉載云[ク]魯蝦は粛州頻
煌の人年代を詳にすることなしたくみ造化にひ
とし
魯般か事詳に呂氏春秋に
凉州にをいて浮図を造
見えたりなかき故に略言
るに木鳶をつくり楔をうつこと三下してこれに乗
無何は
其妻妊ことあり父母あやしみ尋
無何に帰るは
曽般公家
るに妻其故をかたる父ひそかにかの木鳶を取て楔
をうつこと十あまりにしてこれに乗て呉にいたる呉人あ
やしとて殺害す曽般此事を聞て又木鳶を作て
父か屍を得たり又大和鑑に河内国春日部邑の仏
工稽文会唐に入て仏を造る法を学ふ事庵の間
妾あり文会帰朝のゝち男子をうむ稽主勲と号す
一本には稽文会
医主懇兄弟と有
盛長の日母に向て父か名を問母かいは
く汝か父は日本の人稽文会といへるよしを答ふ稽主
熟すなはち日本に来つて文会にあふといへとも
父子のしたしみしるしとすへきものなし文会か
いはく我と汝とたかひに仏躯半片をつくり造立の
後これをあはせてたかふ事なくはまことの父子たらん
少々別室に居しめこれをきさみあはせ見るに少も
一同十同〇〇二二
たかふ事なき故文会信用して父子のしたしみ有と
一記せり思ふに是等の説をとりあはせ作しものならん
此段加斗補
猶信濃国の孝子か説
俗説言昔信濃国の人京より女を具してくたりけるに
此女京にあるうち通ひし男あまた有けるか便につけて
文を下しけるをかゝることありと告しらする者ありけれは
夫かの文をたつね出しけれとも元来ものを書されは
よむ事かなはす子息の児戸隠の山寺にありけるを
よひて此ふみをよませけり其母いろをうしなひて心も
身にそはぬていなり此児こゝろあるものにてたゝよの
つねの文のやうにやはらけてよみ景れはさては人の
讒なりけりと思ひてやみぬ継母あまりのうれしさに
いたいけなかもてあそひ物なと具して小児か方へふみを
やりけるしなのなるきそちにかゝるまろ木はしやみ
めしときはあやうかりしを児かへししなのなるそのは
らにしもやとらねと見なはゝ木と思ふはかりそ
今按るに児実に孝志あるへくは彼艶書をありの
まゝによみきかせ速に女を出さしむへし是淫なれは
去といへる語にかなへりしかる代艶書をまぎらはし
たるは女をすくひしにはにたれとも父をして莫大の
同書発兌津長之□
孔をうけさせたり程子の語に節を失ふものを身
一に配すれは是己も節を失ふなりと児か父其人也
かゝる文盲なる父をあさむけ淫奔なる女にくみし
て皆はゝ木ゝの歌よみしなとをおもふにひとゝな
れるのゝちはたくひなき奸人なりけらし
廣益俗説辨巻十三終
▼
狩
廣益俗説辨十四冊
婦女
一
広益俗説辨巻十四目録
婦女
狩野氏図書記
補日向髪長媛か説
一松浦佐用媛望夫石となる説
六十一藤原家持か命にかはる説
神村長
豊貴書
新小野小町草子洗の説
二同人鸚鵡かへしの歌の説附玉邉小町の説所神」
新紫式部楽天か香炉峯の詩の意にて簾をあく
る説
補伊勢太輔伊勢物語を作る説
同同同同同同同
月並代言楽并之十四臣
檜垣遊女は白拍子のはしまりと云説
新天女三保の松原にくたる説「小補
三玉藻前数生石となる説訂補
四常盤前青墓にて殺さるゝ説
五堀川夜討のとき静長刀にて敵をふせく説付静形
長刀の説
六佐藤庄司か後家義経にあへる説
七花の本松だまきの説
広益俗説辨巻十四
婦女
補日向髪長媛り説
俗説云日向髪長媛は日向国諸縣若牛諸か女なり
牛緒これを恋神天皇にたてまつる天皇御子大
鷦鷯
後に仁徳
縫髪長髪長髪長髪長髪長髪長髪長挿とひ
天皇と号す
給ふ故に天皇姫を皇子にまいらせんとし給ふ姫がい
はく皇子の妃とならんはめてたけれともわか父天
皇にたてまつれり今皇子にまいらは父の心にあらす
かゝる無礼あらんよりは死して心をいさきよくすへして
同同同長谷院野長之一口
一広益伯謝老之十四日
此説あまねく人口にあふれすと
御殿の内に縊れ死すといふ
いへとも俗書に出て信用するも
のあるゆへに
こゝにのす
一今按るに非なり日本紀云応神天皇十三年春
三月天皇使を遣して髪長姫をめさしめらる同
秋九月髪長媛日向よりいたれり桑津邑に居しむ
皇子大鷦鶴尊媛を見て其形の美麗に感て恋
情あり天皇これをしろしめして緩を望子に賜ふ
又云仁徳天皇妃日向髪長媛生二大草香皇子幡抜重
女一とあれは其相違を考へ知へし是のみにあらす近
一年印行の書にかくのたくひ取おほし見る人心
をつくへし
一松浦佐用姫望夫石になる説
俗説言松浦佐用姫は大伴佐提彦連か妾なり佐手比
古勅をかうふり唐にわたりしとき佐用姫其別れを
おしみ山にのほり領巾をふりてこれをまねき悲の
あまり終に死して石となる望夫石となつく
今按るに佐用姫か石に化したること正史実録
世々の撰集にもかつて見えす万葉集山ノ上憶良か
詠二領巾麾嶺一歌の序に大伴佐提比古朝命をかうふり
藩国に使す其妾松浦佐用姫わかれをかなしみ高き
同百二月一日
山にのほりはるかに船をのそみ領巾をぬきてこれ
をまね〳〵是よりして此山をひれ魔の嶺と名つく
すなは地歌つくつていはくとをつ人松浦佐用姫
按るに
つまこひにひれふりしよりおへる山の名禁
名におふ
たる山といふ
こゝろなり。
いとあれとも石に化せしことはなし又望夫
石といふもの和漢おほし程伊川の説に望夫石は
たゝ是江山を望みて石人の形のことき者あり
今天下凡江辺に石の立るものあれは則呼て望ま
石とすと二程全書に見えたりこれをもつて信説
の誤を知へし
藤原家持か女母か命にかはる説
俗説云聖武天皇藤原家持に勅をくたし内裏にを
いて万葉集をゑらはしめらる其折ふし妻もつて
の外になやめり家持かへりみすして禁裏にありその
むすめなけきにたらす陰陽博士秦安国をよひて母
か違例をわか身に転じかゆへしと望みていのらする
に母かやまひは愈て姫は死たり家持此事をきゝて
家にかへりなけくことかきりなし其夜に入て牛頭馬
頭の鬼火車をひき来りてひめか死骸を引のせんと
せしとき姫か声としてかはらんと思ふ此身はをしからて
同同同三十一日
さてもわかれん事そかなしきと息の下にて詠すれは
牛頭馬頭きゝて感涙をなかし歌は目に見えぬ松にかみを
もあはれと思はせとあるはこれなり定業必死といへと
も欲に感してたすくるなり寿命は百歳果報は皇
后と告て飛さりぬ程なく姫よみかへり後に聖武帝
の后となる光明皇后と申せしはこれなり
一今按るに妄説なり家持は藤原ノ姓にあらす大伴の
なり姓氏録を考るに藤原は天ノ児屋根命の裔に
して大伴は高皇産霊命五世の孫天押日命の後也
其出自の相違を知べし又光明皇后は家持か子にあらす
藤原不比等の二女なり又微卒か歌は同に見えぬ
おにかみをもあはれと思はせといひしは貫之か書
る古今の序のことはなり古今集は醍醐天皇延喜
五年にゑらはる聖武天皇即位神亀元年より
百八十三年の以後なり其事諸の差誤笑ふへし
とふに此説は続日本紀云延暦四年八月庚寅陸
奥按察使中納言従三位大伴宿禰家持死死後
二十餘日其屍未レ葬大伴継人竹良等殺二種継一事
発見下レ獄案二撿之一事連二家持一由レ是追除レ名其息永
主等流焉
同所様が大納言安麻
一同三品孫大納言旅人子
古今著聞集ニ云大
同四十一年巻之一日
江匡衡朝臣の息式部権太輔挙周朝臣重病を
う気たのみ少くおほへけれは母赤染浅門住吉にま
ふてゝ七日に重りて此たひたすかりかたくはすみやかに
わか命にめしかふへしと申て七日にみ地ける日御
幣のしてに書つけ侍りけるかはらんといのるいのちは
袋草子はかはら
をしからてさてもわかれんことそかなしき此
んとおもふ命は
野かゝよみて奉りけるに神感や有けん挙周かやま
ひよくなりにけり母下向して悦なから此やうをかたるに
挙園いみしくなけきてわれいきたりとも母を
うしなひては何のいさみかあらんかつは不孝の身なる
へしと思ひて住吉にまうてゝ申けるは母我にかは
りて命おふるへきならはすみやかにもとのことく
我いのちをめして母をたす気させ給へといのり
けれは神あはれみて御たすけやありけん母子共
に事ゆゑなく侍けり此両説をとりあはせ偽説を
作りたるものなり
新小野小町草子洗の説
俗説云延喜帝の御宇内裏にて御歌合あるべきとて
かねて大伴黒主か合手に小野小町を定めらる黒主思ひ
けるは小町は歌の上手なれはとてもかれには及ふまししかし
同百四十一年巻之一口
明るの哥を今宵吟せぬ事は有まし立きゝせんとて小
町か家にしのひよりて聞に小町は水辺草といふ題
にてまかなくに何をたねとてうき草の浪のうね〳〵
おひしけるらんと吟す黒主大によろこひ此歌を万
葉集に書くわえ其会をそまち居たる時しも卯月
なかは清涼殿にて御会なり御前には小町をはしめ
凡河内躬経紀貫之右衛門府生壬生忠岑左右に着座
しおろ〳〵よみたる短尺を出す帝貫之を召て小町か
歌をよましめ給ふ水辺の草といふ題にてまかなくに何
をたねとてうき草の浪のうね〳〵おひしけらんと
ありけれは別府此うたを感し給ふとき大伴黒主すゝ
み出て是は古歌にて万葉集に見え候と云て取出し
見せしむるに黒主かことはにたかはさりけれは小町
大におとろきよく見るに行の次第文字の墨つきたか
ひたり扨は我ひとり吟せしを黒主立聞して書こみ
たるならんと思ひはんざうに水をいれてあらふにもと
より入筆なれは歌のもし題にともにこと〳〵くく落け
れは小町は御褒美にあつかり黒主は配流せらるといふ
一今按るに延喜帝御歌合に小町出たること非なり
小町か死したる年月不レ慥といへとも在原業平陸
同長谷松原田
奥国八十嶋にをいて小町か髑髏を見し事江家
次第古事談東齋随筆袋草子袖中抄無名抄
等にみゆ其後業平は陽成帝御宇元慶四年に
卒すと三代実録にあり此ときより醍醐帝即位
の昌泰元年まては十八年に及へり又黒主は大伴
与多は大友
与多の孫なりと
皇子の子
延喜帝につかへて近江の
一国司となる古今集に大伴黒主あふみのやかゝみ
の山をたてたれはかねてそ見ゆる君か千とせは是は
今上の御へはあふみのうたとあり今上は醍醐天皇
なり古今集は延喜五年四月十八日にえらへる書也
此故にかくいへり無名抄に志賀郡に大道より少し
入て山きはに黒わの明神とかや申かみいます是
はむかしの黒主か神になれるとありしかれ共配流
せられたる事何れの書にもかつてなし俗説の相
違を知へし
一小野小町鸚鵡かへしの歌の説附玉造小町の説
俗説云小野小町は出羽郡司小野の良実が女にて陽成帝の
色女となる甚た容色ありて倭歌に達せり後に狂気
して乞食となり今夜の関寺辺に草庵をむすひ往来
の人にものを乞て居たりけるに帝行家といふ者を勅使
同長谷丸倅長左右衛門
として雲の上はありしむかしにかはらねとみしたま
たれの内やゆかしきといふ御製をくたし賜りけれは
小町雲の上はありしむかしにかはらねと見し玉たれの
内そ柱かしきとそ文字はかりにてあふむかへしをよめり
といふ又小町玉造の辺にて空海にあふて問答の語あり
空海これを記して玉造小町と号し今世に行はると云
一今按るに小町か醫静かへしの歌世々の還集小町
家集にもかつてなし但し古今著聞集十訓抄寝
信
覚記に少納言通憲
西住
か子成範
桜町中
配所よりめし
西一
西
納言
かへされて内裏へまいりたりけるにむかしは女房のいり
たちにてありし人の今はさもなかりけれは女房の
中より昔を思ひ出て雲のうへはありしむかしにかは
らねと見し玉たれのうちや恋しきとよみて
出したりけるを返事せんとてとうろのきはに立
よりけるに小松の内府野野まいり給ひけれはいそきたち
のくとてとうろの火のかきあけ木のはしにてやもじ
をけちて其そはにぞ文字を書てみすのうちへさし
いれて出られ来り女房とりて見るに楚文字にて
返事せられけりとあり此事を作り改めて小町か事と
するのみ又小町老衰の後空海にあふて問答の語を
一寶盆抗非巻之事
空海しるして玉造小町と号するといへとも性霊集
にも見えす其上小町と空海と時代大に異なり大
草図を考るに小町は小野篁か孫にて出羽守良実か
女なり空海入定は続日本後紀云承和二年三月
丙寅大僧都傳燈大法師佐空海終于紀伊國ノ禅
釋書真言傳弘法
居ニ年六十三
とありそれより
伝記等にも同し
十八年を経て仁寿二年十月に小町か祖父小野
篁卒す五十一歳と文徳実録に見えたり小町は其
孫なれは此時二十にも足へからす察するに空海入定
の年ころに漸くうまれたるなるへし江家次第に云在
二丁條ノ后
五中将為レ犯二件后一
高子
出家相構之後為生レ髪
至二陸奥国一向二八十嶋求二小野小野小町戸一夜宿二件ノ嶋一終
故事談東斎を筆
夜有レ聲曰秋風之吹仁付天毛
には秋風の吹たひこ
にとあり袋草子には秋かせ
のうちふくことにとあり
阿那目阿那目後朝求之髑
髏目中有二野蕨在五中将湯法曰小野止波不成
薄生計里
無名抄には小野
即歛葬
とはいはしとあり
袖中抄云小野小町
数十年在京而好
色也然帰二本国一死去ス
とあり業平は元慶四年に卒
故屍在八十嶋一一者歟
去と三代実録に見えぬれは其さき陸奥にゆかれ
しころに小町か死せしにもせよ其年数をはかる
に松よそ四十余年にもならんか然るときは老衰の説
同同長谷光岸兵之一口
其誤あきらかなり又玉造小町に十七歳而喪二慈母一
十九歳ニ而殞二慈父一二十一而亡レ兄ヲ二十三ヲ而死二ヲ而死レ而死一身
あれとも小野系図には小町か姉一人のみ有て兄
後撰集に小町か
第見えす
孫かよみしうたはあり
思ふに後世好事ノ者此篇を
擬作して小町と空海とをとりあはせ記せしより
世人謬伝へてに町老裏して狂女となり乞食し
て空海にあへりなとゝいふなるへし信するにたら
さる事なり此段如に補
新紫式部楽天か香燧峯の詩の意にてすだれを
あくる説
俗説云一条院の御ときある日雪ふりけるに紫式部
に香炉峯の雪はいかにとありけれは式部すゝみよりて
すたれをまきあけたりといふ
今按るに此説は清少納言越紫式部とあやまり
たるものなり清少納言枕草子に云く雪いとたかく
ふりたるをれいならす御格子まいらせてすびつに
火おこしてものかたりなどしてあつまりさふらふに
少納言よかうろほうの雪はいかならんと仰られけれは
抄に云かくのたまひしは后宮なるへし皇后は中の関白道隆
公の御女定子なり一説には一条院の勅定とありこれは白楽天か
詩に遺夢寺ノ鐘歌レ枕ノ碑。雪煙峰ノ雪。麓篇。者といふ詩あれは。
これをひきてすたれをあけよとの御こゝろなりとしるせり
一寶益荒岸巻之図
みかうしあげさせて見すたかくまきあげたれは
わらはせ給ふ人くも皆さる事は知りうたなとにさへう
たへと思ひこそあらざりつれなを此みやの人にはさる
べきなめりといふとあるを考へしるへし
補伊勢太輔伊勢物語を書説
俗説云伊勢太輔は伊勢物語をめでたくしるして
世にきこえたり
今按るに伊勢物語を書しは伊勢なり伊勢太輔
にはあらす伊勢は宇多帝の女御なり伊勢太輔は
上東門院の侍女なり二人を混して一人と覚えたる
近世の書に此両人を一人とせる
故なり
説おほし考へ見るへし
大原園に拠に伊勢
七条后宮
は藤原内麻呂三代孫大和守継蔭女なり
女房寛平
法皇御
息所
孫一
孫
伊勢太輔は大中臣輔経
能宣
孫
女なりこれを
もつて俗説の相違を知へし
浦桧垣遊女は白拍子のはしまりと云説
俗説云むかし筑前の太宰府にかりに檜垣しつらひて
住し白拍子後にはおとろへて肥後の白川辺にすめり
其川のあたりを藤原ノ興範通りしとき水やあるとこ
ひしに水もて出てよめる年ふれはわかくろかみも白
川のみつわくむまて老にけるかな興範さてはきゝおよひし
長屋千丸幸兵衛
檜垣にこそいにしへの白拍子今一ふしと望しかは辞する
かたなくして舞けり
今按るに太宰府に仮に檜垣しつらひて住殿に
名とすとは非なり桧垣とは彼遊女か名なりはしめ
筑前にすみ後肥後に来りしと云説は是なり家集
に清原元輔肥後の任はてゝ糸にのほりしとき首
一途の所に呼てはしめ筑前の守なりしに程もなく
此国に来りてふたゝひあひみつるとあり或は怡土郡
に毛のいひし府官か事を思ひ出て歌を読し事見
へたり肥後飽田郡白川の辺古は府中にて淫倖も
ありて桧垣いなりなと云し遊女すめりと見えたり
いなりか事家集
に見えたり
後に住し長谷といふ所右の辺にあり
檜垣か心はせすみかとならは君はさはこゝより外に行
ところあらしとよみしなり寺あり泊瀬山長谷寺と
いふ檜垣か我黒かみも白川とよみしほとりに九品山
蓮蔵寺といふ梵刹あり其地内に桧垣か墓あり石塔
文字あれとも消て見えす又桧垣か水を汲て詣し
宝華山
岩殿山観世音
も同郡にあり此所に檜垣矼
雲巌寺
一山下ノ庵薫桜あり皆遊女か旧跡なり又檜垣か音に
きくつゝみのたきをうち見れはたゝ山川のなるにそ
廣谷谷筑眸秀之一日
有けるとよめる皷瀧も雲巖寺の背のかたにあり
又藤原興肥は三代実録を考るに仁和三年八月廿
二日掃部頭従五位ノ下藤原ノ興範為二筑前守ト大草図
に興範ノ宇合五代ノ孫因幡ノ守正世。子弾正大弼正
四位下参議太宰少貮とあり此興範檜垣にあひて
古の白拍子なりしを知て舞を望むとは非なり
白拍子は鳥羽院の御宇嶋千載若前といふもの舞
和漢合運云
はしめたりと源平盛衰記に見えたり和漢合遺言
承久三年
嶋千載若前舞始と見えたり徒然草
には磯禅師まいはしめたりとあり
仁和年中より鳥羽院
但しひうき時代の事に異
御宇まては二百二十余年なり
説あり詳に檜垣家集冠住
に出せりあわせ
見るへし
これをもつて俗説の相違を知へし
新天女三保松原にくたる説
俗説云駿河国三保松原に天女くたりてあそひ参る
にはくれうといふ漁人かたはらの松にうつくしき衣かく
りたるをひそうにとりてかくし置ぬ天女装をもとむ
といへともなかりしかはせひなくはくれうにどもなひゆき
て妻となり子ともおほくいてきてのち彼琴をとり
又いはく丹後の国比沼山の頂に井ありかいとく
かへし天にのほるといふか
なつく天登たりて水に浴す時に和奈佐翁
和奈佐姫といふもの天女かぬき置る衣をとりかくしてつれかへりおのか子と
せる事あり○又一説に佐々木大膳太夫天女の外に浴せるにゆきかゝりぬき
置か羽衣をとりおさめてつれくり妻とし男子をうむ其後女羽衣を
とり久し天にのほり去レ其うめか子盛長して天子と号す天人の子といふ
同断同熊谷紀伊藤右衛門
こゝろなりしかれとも帝王にはゝかりある故に
尼子と改たむといふ右の説と同談なり
今按るに捜神後記に予章新喩県の男子田の
中に鳥ばけて女となりあそひ居乗るを見忍び
よつて其ぬき置類毛衣をとりかくす此故に女衆去ル
ことを得す則つれかへりて婦とし三女をうむ後に
彼婦子をして父にとはしめ衣を得て着し飛さると
記せり
道廣興記ニ云江西ノ南昌府城南隅洗馬池旧
傳灌嬰洗フ處職テ處職方未云嘗有年沙一見美
女七人既彩衣ヲ岸ノ側一ニ浴二浴二池中一年少戯ニ蔵其一諸女
浴ニ畢テ就レ衣ヲ化二ノ白鶴一去ル獨夫レ衣ヲ女留ヲ隨テ至二年少ツ家一為一為一
夫婦約ヲ以二三年ヲ一還二其衣ヲ亦飛
去ル故ニ又號二浴仙池ト又同談ナリ
和漢同日の妄誕なり
惣して文盲なるものは囲海の一天地なるをしらて
天上にも世界あり地下にも世界あり海中にも世
界ありなとまとふ故に雨雹霜雪のことく天女も
くたりぬらんと信するこゝろいとおかし此段架補
三玉藻前殺生石となる説
俗説云近衛院の侍女玉藻前野干となつて下野国
那須野に飛さるこれによつて三浦介城上総介殿に勅
を下してかの野干を殺さしめられしに其魄たちまち
に石となれりこれにふるゝ金獣かならす斃れ死す
一元マ外一源翁
源応とも有
名つけて殺生石とよふ其後玄能
にていふ僧
其石のかたはらに一夜座禅し頌を唱へ拂子をもつて
石をうち砕くといふ
今按るに妄説なり思ふに彼な酒野の数生石は
砒石にてこれにふるゝ禽獣斃れ死する故に恠を
好む輩玉療前か事に作り出したるものなり
実録に見えさるを重つて謬をしるへし殺生石のみ
にかきらす奥州会津磐梯山にも毒石ありこれに
ふるゝものかならす死す名つけて人捕石といふ千代
蒲生
四代
記に見えたり連日本奇跡考云摂州東生郡抔寺村に殺生石あり
蝋石どもいふ○大和本一平六越後熊川の辺に鼠ころしといふ毒石あり
紀州高野の玉川にも毒あり空海人の飲んことを恐れ
てわすれては汲やしつらん旅人の高野と奥の玉川
の水とこめり
通日本奇諸考云石見図二万郡鳥海の湖水に
諸鳥いれはかならず死すといふ○大和本草二抄
別有馬の温泉にちかき山中に毒水あり諸鳥の間は死す
土人鳥の地獄といふ又越後の妙寺山に池有諸鳥此水代呑は死すとにて
其余鳥
獣草木魚蟲水土ともに毒ある事おほく和漢の書
に見えたりあに皆玉藻か所為ならんや此段如に補一
四常盤前青墓にて殺さるゝ説
俗説云常盤は源義朝の妾にて義経の母なり義
朝叛死の後平清盛入道の妾となれり牛若鞍馬
を忍ひ出て奥州に下る故に清盛入道これをいきとほ
り常盤を追すてしかは頼むへきかたなくして牛若を
したひ奥州に下類とて濃州音墓にて盗賊にころされし
同同一番組巻之事
といひ伝へ今に墓ありこれを山中常盤といふ
今按なに此事いつれの書にも見えす平治物語に
常盤清盛に思はれて姫一人まうけたりしがす
さめられて後は一條の大蔵卿長成の北方になつて
子ともあまた出来たりとあり盛衰記に長成の
子常盤腹に侍従義成とて有しか判官義経頼朝
に中たかひて西国に落けるとき義成も跡につきて
打たりしか大物の浦にてちり〳〵になり和泉国に
落隠るゝとありこれをもつて思ふに常盤か後に長
成の業になれる事をしらさる者牛若奥州下向の
ときかゝもや有けんと想像して妄作しけるを
伝へ来りて実とし他人の墓なとを常盤か墓と
あやまりいへまなるへし
五堀川夜討の時静長刀をもつて教をふせく説幷静形
長刀の説
俗説云土佐坊か堀川夜討のとき静長刀をもつておほく
の教をきりふせたり此故に後世其長刀の象を似せて
作るを静形といふ
今按るに堀川夜討のとき静長刀越もつて散をふせ
ぎし事義経記盛衰記にも見えす但し鍛冶譜に濃
同廣海俗説港之十四
州多藝志津ノ鍛冶志津ノ三郎兼氏後ニ来二相州一ニ為ル正
宗カ弟子一ト能ク作二ル長刀一ヲ稱二テ之ヲ世一ニ號二ス志津象一とあり思ふに
此志津形を誤りて静形とおほへ堀川夜討の働
まてを附会せるものなるへし
六佐藤庄司か後家義経にあへる説
俗説云佐藤庄司は継信忠信か父なり二人の子を義経
に属せしめてのほせける後あけくれ子ともか事をし
たひなけき病となりしかは妻かはらひにて二人の婦
に夫共か鎧をきせ継信忠信参りたりといはせ庄司か心
をなくさむ其後庄司死しけれは妻は尼となり居たりしか
義経奥州に落ゆかれし時継信か子鶴若とともに義経
にまみえ庄司死して三と勢に及ふよしをいひて継信忠信か
事を尋しかは弁慶八嶋にて継信か戦死吉野にて忠信が働
なとを語りし事ありこれを尼公八嶋とも摂待八島共いふ
今按るに東鑑を考るに文治五年七月頼朝奥州
一の泰衡征伐の時泰衡郎従信夫の佐藤庄司尚茂
一号に
湯庄
司諱元治継
信忠信父也
河辺太郎高経伊賀良目七郎高重を
一引具し石那坂の上に陣を張所に鎌倉方より常
陸冠者為宗同次郎為重同三郎資綱同四郎為
家兄弟四人手勢を卒て伊達郡沢辺にすゝみ先陣
同廣海俗説辨巻之十四
と名のつて箭を射かけけるに庄司以下一度にかゝつて
戦しかは為重資総為家三人手を負うたるゝ者お
ほし然れとも為宗ひるますせめたゝかひける故
佐藤庄司以下の兵十八人一所にうち死すと見えたり
俗説の相違を考へしるへしるへし
七花の本松だまきの説
俗説云日向の図塩田といふ所に大太夫といふ者ひとりの
一説には堀川大納言一説には
むすめあり花の本と名つく
枇杷左大臣○一説には一条左兵
仲平といふ人豊後国諸方ノ庄日野小田に住せらるに
一人のむすめあり花の本と名づく
かたち甚た美
なり屋を後園につくりて居しめけるにいつゝとも
なく男来りてひそかに女子に通す父母これを聞て
汝かもとに通へるはいかなる人そととふむすめこたへて
水干立帽子を着たる男種々来りてかならす暁にかへ
る我其人の名をしらすといふ母むすめにをしへて
かの人かへれるとき針をもつて苧環につらぬき男
の襟にさせといふ其夜件の男来り暁かへるに及ひ
て女針をゑりにさし翌朝父母につけて共に綿をし
一説には
るしとして尋ゆくに日向豊後のさかひ姫嶽
豊後国
入田郷祖母
門の窟にいたる窟中に痛吟の声ありあやし
嶽とあり
みてこれをとふに窟中よりこたへて我は是花の本か
同長谷允忰長之一四
夫なり今暁の針頤にあたれり此故に疼痛甚た
し我まさに死すへし女かはらめる子は男児にして
一説には我は是祖母嶽
世に超たる勇士となるへしといふ
大明神なりすかたを
見はおそるへしとこたふ女しきりにのそ見しかは大蛇いてゝま見へて
いはくなんちかはらめる子は男兒なるへし氏は大神名は大太惟基と
名つゝへしわれなかくまもり神と
ならんといひて竊に入とあり
女今一度まみへ給ふへしと
なきくときけれは大蛇かしらを窟よりいたす其長さ
はかるへからすしはらく匍匐して窟中に死す是すな
一説に祖母嶽明神は
はち姫嶽明神なり
大巳貴命なり
其後女はたして
男子をうむかた地健にしてよく走る脚に臍脈お
一説には弘仁二年三月五日男子を産
ほし人呼て皷大童といふ
す神詞にまかせて大太大神惟基と
要須強力軽捷にして智謀あり終に
豊後国を押領し豊後守と号す
大童五世の孫を尾形三郎
一説に云惟基に五男あり嫡子高知穂三田井政次二男さ
伊熊といふ
南惟季三男植田七郎季宅此男大野八郎基平五男臼
杵九郎太夫惟盛といふ惟盛
伊能か身に蛇尾のあとある故
より五代の孫緒方三郎権栄と号に
に尾形と号しけるとなり
今按なに妄説なり但し旧事本紀云大己貴神
素盞烏
草子
天の羽車に乗て妻妾をもとむ節渡県
にゆきて大陶祇か女活玉依姫を妻と従ひそかに
古事記云活玉依姫其容端
往来して人これを知す
正也神壮夫となりて夜半に
来る故に相感してともに婚す
女妊身によつて父母あ
いくはくならすして其美人妊身ことあり
やしみて誰人来るやと問女こたへていはゝ神人の
同同三十三丁
形屋の上より来りともにふせりといふ父母麻を津
つけて練をつくり針をもつて神人の短裳にかけ
明旦孫にしたかひて尋ねもとむれは鎌の穴より
越て節渡山を経吉野に入り三室山にとゝまる大神
たることを知て其絲の遺れるをみれはたゝ三葉
姓氏
ありこの故に三輪山となつけ大三輪の神社といふ彫代
録言
一大神朝臣は素佐能雄命六世の孫にして大国主神
はしめ大国主三嶋の満杭耳の女玉櫛姫を娶る夜いまたあけさるに
去かつて昼いたり給はすこゝにをいて玉櫛姫綾子苧を衣にかけて
あくるにいたつて尋もとむれは茅渟県陶邑を経てすくに大和国御
大己貴
尊を云
の後也
諸山をさせり苧ののこれるをみれはたく三わけ
日本紀云崇神天
ありこれによつて姓を大三党こといふ
皇の姑倭迹々日百襲姫命を大物主の妻とす然
とも其神常に昼見へすして夜のみ来れり百
一襲姫夫に語て曰ノ君常に昼まみえ給はさるゆへ
一に其尊顔を見ることを得すねかはくはしはしとゝ
まり給へ明且仰て美麗の威儀を見む大神きふ
一言理灼然なり我明且汝か櫛笥に入て居るへし
わか形におとろく事なかれ姫心のうちにこれを
あやしむあくるを待て櫛筒を見れは美麗小蛇なり
其長さ大なる衣紐のことし姫松とろきさけひなく
時に大神忽に人の形に化して其妻に謂てのたま
はく汝しのひすして吾をはつかしめつ我また汝を
同寶金兌悴巻之写
はつかしめんとて大虚を践て御諸山にのほる姫あふ
起見てこれを悔つゝ箸をもつて陰をつきて
薨すとあり是等の説をあやまり伝ふものなり
一大神をおほがと訓するはおほんがみの略にして又み
わとも訓す既に八正史姓氏録にも大神氏を
のせたれは実に上古よりこれあり黴大童以来の
氏にはあらす又尾形の事は源ノ順か和名類聚抄述
年中
作
中既に緒方卿をのす緒方と尾形と訓同し
き故に通用して記せるのみなんそ蛇尾ある故
によらんたとへは富士を不二ともかけるかことし他書
にも此たくひ尤おほし是等をもつて俗説のあ
やまりを知へし
広益俗説弁巻十四終
同同同黄益谷光岸巻之一日
□□□
第
狩衣
曲
廣益俗説辨十五万
僧道
僧道
広益俗説辨巻十五目録
神村長
豊誠書
狩野氏図書記
一百済の僧日羅来朝の説
二片圖の飢人を達磨と云説
三行基菩薩を卵生といふ説
新新羅の僧道行剱を盗み殺さるゝ説
四弘法大師験徳付守敏僧都説同輔
五真雅阿闍梨在原業平を見て歌を詠する説
六柳本紀僧正霊染殿后を悩す説訂輔
補元時僧正還亡の相ある説
一同長谷佐倅甚三丁
広並作言判義之十王巨
七志賀寺上人糸極御息所に逢て欲をよむ説
八慧心の僧都寂する時胸より蓮華を生せし説
九西行法師普賢菩薩を拝する説
廣益俗説辨巻十五井澤長秀輯録
僧道
一百済の僧日羅木朝の説
俗説云日羅は百済の僧なり来朝して聖徳大子
の師となる
今按なに日本紀云敏達天皇十二年の秋七月丁
酉の詔にいはく我先考天皇の世に領する所の
一任那国を新羅の為に滅さる先考天皇任那を
とりかへさんことをはかり給ふといへともはたさすして
崩し給ふこゝをもつて朕はかりことをめくらし
慶安信訓親著之十五
任那をしたかへんことを思ふ今百済にある火の芦
今考るに肥前肥後をむかしは火の国といふ後に
北の国造
わかつて肥前肥後とす是は肥後国芦北郡の領主
なり古は弟北国阿曽国天草国と思り国造とは其国司なり
今の開守をいへり肥後肥前をわかつとき。右の三国を郡として肥
弘仁私記ニ云
かへたり阿利斯登か子達卒日羅
は賢に
達年冠名
して勇あり朕彼と相はからんことを思ふとて
紀国造押勝吉備海部直羽嶋を百洲につかはし
て日羅をよはしめ給ふ冬十月二人の使百済
よりかへりて百済王日羅をおしみてかへさゝるに
しを奏す此故に又羽嶋を百済につかはし給ふ
羽嶋百済にゆきてまつひそかに日羅にま見へん
ことをおもひひとり日羅か門にたてりしはら
かく有て家の内より韓婦出て羽島をよふ羽
嶋其語をわきまへされとも後に従て内にいる
日羅むかへて手を取座につかしめひそかにつけ
ていはく百済王天朝をうたかひ奉り臣をつか
はされて後とゝめてかへさす卿宣勅をのへむとき
たけくいかれるいろを見せて急にめさは百済
王恐れてかへすへしと云羽島其旨にまかせて
日羅を召ことをのふ百済王勅を恐れてそむく
ことあたはすそこはくの人をそへて日本にかたま
月並代記載巻之十五
日羅等吉備の児島の屯倉にいたりしに朝廷
一大伴糠手子連をつかはしなくさめ労給ふ又太夫
等を難波の館につかはし日羅をとふらはしめら
一る此とき日羅被レ甲馬に乗門庭の下にいたり
應前に出て進み退き跪拝ていはく檜隈宮
定化
御寓天皇
天皇
秋の世に我君大伴金村大連国
家のために海の表につかはせし芦北国造州都
一靭部阿利斯とか子臣達卒日羅天皇の召を聞
て来刻せりとて其甲をときて天皇に奉る則[チ]
一館を阿斗桑市に営みて日羅を住せしむ阿ノ信
目官物部贄子連大伴糠手子連をつかはして図
の政を日羅にとはしめ給ふ日羅こたへていはく
天皇の天下を治めさせたまはんにはまつ黎氏
をまもりやしなひ給へなんそすみやかに兵を
おこさんやねかはくは列臣百姓を饒富する事
三年にして食を足し兵を足し使民をよろ
こはしめは水火をさけすしておなしく国の難
をうれへむ其とき船を松ほくつくり海ことにつらへ
ね置て蕃客に見せておそれしめ使をつかはして
百済王をよひわもし来らすは其王子を呼来りは
一同三月一一百二十一
すなは地とゝめ置て欽伏の心を生せしめ後に
罪をとひ給ふへしと奏聞す爰に日羅に具して
日本に来れる恩卒参官等百済に帰らんとする
一
とき徳介といふ者をちかつけて汝はしはらく
残りとゝまつて我等か筑紫を過んころをはかり
日羅を害すへししからはわにまうして爵禄を
あたへんといふ徳介等諾してとゝまり日羅か桑
市村より難波の宅にうつれるをうかゝひて是
を殺す此故に詔して北郡西畔丘に収め葬り
日羅か妻子を百済の者と一所に置はいかなる
一変かあらんとて別室に置徳余等をからめて
一問しめ給ふに罪に伏しける故使を芦北に
つかはし日羅か眷属を召て徳介等を賜ふ芦
北君これを殺して弥売嶋秀洲にに捨日羅が
屍を芦北にうつし葬るとあり思ふに日羅は
百済の者にあらす肥後ノ国芦北郡の領主の子
今芦北郡に久多良木といふ
にて賢にして勇あり今芦北郡に久多良木といふ
処あり古老云古は百済帰と
書り是日羅を葬りし地なり後人草堂を建て地蔵像を
安置す是は俗説に日羅勝軍地蔵に現すといへるによるか
宣化天皇の御宇に百済に往てとゝまり欽明
帝の召に従て帰朝せるものなり甲を被馬に
同同十同年春二十一
乗庁前にすゝんて拝せしとあるをもつて僧
にあらさるをしるへし殊に政事をのへて帝を
いさむといへとも一言半句浮屠の事にあづからす
厩戸皇子にあへることなし是を重つて俗説の
誤をしるへし
二片岡飢人を達磨と云説
俗説言聖徳太子片岡にあそひて達磨にあひ給説
一式云日本紀に推古帝二十一年厩戸皇子片岡
にあそび給ふとき飢者道のかたはらにふし居
けるに皇子あはれみて食をあたへ衣を覆は
しめ給へるに飢者歌を詠すとあり拾遺集
に聖徳大子片岡の辺道人の家におはしける
に飢たる人道のほとりにふせりとあり上古の
書にはたゝ飢人とはかり記して達磨とはなし
とふに其ころ隠逸の義人あつてたま〳〵大子に
逢しものなるへししかるを後世にいたつて一
浮屠の輩かの飢人を達麿と称し其うつ
める所を達磨城とよび寺を建て達磨寺
と号し剰僧録なとに載て万世に誤を貼のみ
羅山文集膾余雑録
神社考
同三月一日午後之十五
三行基菩薩は卵生といふ説
俗説云行基裳薩は和泉国大鳥野の土民の婢
女薬師といふ者の子なり母懐妊して十二月に及ひ
ひとつの卵をうめりおとろきあやしみ鉢にい
れて門前の榎の枝にさし上置しに卵やふれて
男子いづ是行基菩薩なりといひつた也ふかく
これを神異とす
今按なに俗士の人を称するとては必怪説を附
会して其人を突かすことおほし時珍か本草綱
日に異産の者をあけていはく陸修氏か妻は孕
て左脇に三人を出し右の脇に三人を出す汝
南の屈雍か妻王氏は右の腋下小腹の上より男
児を生晋のとき魏興李宣か妻熱氏は額の上
瘡やふれて子をうみ陽翌の女は妊て三十月に
考るに西樵埜記五雑組には
男子生子ことを載す
及て子母か背より出
右俗説行基かたく
あるひは人卵より生るゝ者あり
ひこれなり博物志に
一国王の小夫人一肉団をうむ内やふれて千の男子おと記せ
り〇事文類聚に徐君か宮人卵を生やふれて一男子本徐偃に
王これなりと記せり○法花珠林公天竺に一女あり海に入て
身をあらふに水精身に入て国団をうむ其中より一女出つと
あり○元亨釈書云肥後国八代郡の者一肉団をうむ卯やふれて
一女子出舎利尼と号すとあり是おの〳〵右の説に同し舎利
尼か事跡に今八代にあり
鋪後漢書
馬より生るゝ者あり
一舎利庵と号す
云霊帝の光
同同三月一番笹谷兄悴参之
和元年司徒長吏為巡かる人をうむとあり是なり又大集経云
大三摩多わか夫人孫に交りて子を生頭耳口眼絶に似て身
人に類す○雑宝蔵経云波羅李国の山中に梵志すめり鹿梵
志る精気を越てひとりの女子をうめり又一角仙人も此たくひ
なり此餘仏録に
おほく見えたり
皆是神異有てかのこときにあらす
ひとへに鳥獣に同し我同胞の人と列論すべからす
と見えたり此説をもつて霊産の非祥なることを
知へし此段小補
新新羅僧道行実釼をぬすみ数さるゝ説
俗説云天智天皇七年に新羅国の帝沙門道行を
つかはして熱田の社におさめ置な草薙剣をぬすま
しむ道行劔を取て博多まて逃参るを熱田明神
住吉明神を討手につかはし博多にて気ころし
剱をとりかへして社におさめ給ふ新羅王これを
聞て生不動といふものをつかはして剣をうはゝ
勢しを熱田明神生不動を襲殺し給ふと云
今按るに日本紀云天智天皇御宇七年十一月
沙門道行盗二草薙剣一向二新羅一逃中路茫二遠風雨一歸
○古語拾遺云。草薙剣。尤是。天璽自日本武尊凱
旋之年一留在二尾張熱田社一ニ外賊偸二逃不レ能レ出レ出レ境也
神物ノ霊験以テ此ヲ可レ観とあるを住吉明神に蹴殺
されたりと妄作せるのみ又生不動か事非なり
正史実録にかつて見えす草薙剣は道行かぬす
める後しはらく禁裏にあり日本紀云朱鳥元
年六月戊寅卜二天武天皇ノ病一楽二草薙ノ剱ニ即日送二置
干尾張ノ国熱田ノ社一ニ一とあるを考へし
四弘法大師験徳附守敏僧都か説
俗説云弘法大師は奇妙の験徳多しあるひは水な
き所に水を出し溢なき山中小塩を出す井を穿
水をもとめし時あたへさるは水を封して出さす火の印
をむすひて水を湯とし水の印をむすひて火を消
真言秘密の肝要を抄して九字をつくり悪魔を退
友と俗人此九字を伝へあるときは雨を祈
け災難をはらふ
得て尊信する者多し
てたちまちにふらせ又守殿僧都と法力をくらへ守殿
をたはかりて祈ころすといふ
一今按なに妄説なり惣して奇怪不思議を咒
しなすは仏法にはわらす皆幻術といふものな
り幻術はもと西城より始りて漢の武帝のとき
に中国に流布す前漢書張騫伝云ノ以二大鳥卵
註ニ曰ク眩讀ヲ與レ幻同シ即今ニ呑刀ヲ
及ヒ斧勒眩人一献二於漢一、
吐キ火ヲ植ハ瓜ヲ種レ樹ヲ屠リ人ヲ截レ馬ヲ之
術
冊是レたゝ童蒙婦女の目を驚すのみにして民
者を伏することあたはす唐大宗帝の貞観十三年
同十一番近谷兄倅甚二十五
十二月に西城の僧来りてよく人を児して常化
ところに死せしめ又児して生しむ帝これか
しるしをこゝろみて大史令伝奕につぎらる事
かいはくこれ邪術なり臣聞邪は正をおかす事
あたはすこふ臣を呪せしむへし必松となふことか
なはしとて彼僧に奕を見せしむるに奕つゝか
なくして僧倒れふして死ずと通鑑綱目等に
記せり
又隋唐嘉話劉賓客嘉話録
括異志等に此事を詳に出せり
又水なき所
に水を出すことは今の世にも地形を見水筋を
はかり穿出せるたくひ多し又山中に塩を出す
弁をほることは其所に住せる土俗塩の出る所に井
十五巻塩井の所にくは
を穿あたりしものなるへし
しく出せり考へみまへし
又水をこひしときあたへさるとて水を封ずるとは弥
非なり片程験徳をあらはす野海水の印をむす
むて咽をうるほすへし無用の水を人にこひあ
たへさるをいかつて水を封し末代まてのうれひを
貼さんや又水を湯にわかす事非なり団袪疑説
載二児レ水ヲ自沸法一ヲ云ク正法ハ出二於自然一ニ故ニ感應亦広大
邪法ハ出二ヲ於人為一故ニ多シレレ可レ喜レ之術二見二ル咒レスル水ヲ者一ヲ不レ施一薬ノ
物一ヲ立使一。謄沸一乃チ以二楮嚢一蔵二袖中ニ用二テ手法一ヲ助レ之耳佛
道にあらさるを知へし又九字も仏道にあらす
袍朴子云。入レル山宜レ知二六甲秘祝一祝祝一祝。曰ク臨兵闘者皆
陣列前行凡九字常密祝レ之無二所一不レ避要道不レ避要道不レ煩
此之謂也
居家必用ニ云ク門二輯先ニ書二四
縦一俊昼五横是九字也
今世に所謂九
字は行字を除き前字の上に在の字を加へたる
ものなり是道士の邪法なり信するにたらず又
旱のとき雨を祈りふらすといふもあやまりなり
すへて宵は人若たるもの旱をなけき百穀のため
にいのなを云君見つから其身をうや〳〵しくしあ
やま地を謝し政一ならさるか民職をうしなふ事
宮室崇きか婦謁さかんなるか芭蕉行るゝか讒
夫偲ふかと云六事をのへ童男女八人を舞しめ
て雲次是中華天子の声なり我朝皇極帝
浦日本紀云皇極
の雲も大概これに似たり
帝二年八月甲申
朔日天皇幸二南淵河上ニ拜二四方一仰レ天而祈ニ即大雨
五日潤二天下一天下ノ百姓倶ヲ称二万歳一曰二至徳天皇一
一しかるを僧徒巫覡米銭をむさほらんためにこれ
にあつかる非礼尤甚たしかゝる不経のわさを
なして神明何の故に感格あらんや又守敏を
いのりころす事偽なり慈悲不教を専らとす
へき僧のいかに不和なれはとて我にひとしき者を
情なく祈りころす事やは有へきたとひ祈る共
一神は非礼をうけすといへは納定する神仏あらん
や是等の説こと〳〵く空海を称せんとて妄作し
たるものなり空海もし霊あらは額をあつめ
てこれをかなしむへし此段訂補
五真雅阿闍梨在爾業平を見て詠歌の説
俗説云真雅阿闍梨は空海第なり在原業平少年
にして曼陀羅丸といひしときこれを恋て思ひ出ると
きはの山のいはつゝしいはねはこそあれ恋しきものゝ
とよみしと云
今按るに玉伝深秘抄に在原業平十四歳よ
り真雅僧正にしたかひて蜜法を学ひ参る故
詠歌皆真言の奥旨にかなへりと記せるを見
れは真雅と業平男色の睦ありけるは左も
然とも事證何れの
あらんか
書にも見えす
但し右の歌は真雅か
歌にあらす今昔物語小世継十訓抄に左大臣
藤原時年二十六七歳
一二三十
翁
のころ其叔父大納
二八
言国経六十余
なりしか彼妻は在原中納言
十余
棟梁
業平
子
の女齢二十はかりにてかた地いつくしく
色好みにて常に老たる人の妻となりしを悔み
十一月十一月二十五
あなたこなた心をかよはすと聞て時午これを
うはひとらんことをはかり大納言の許にゆきて
一終日あそひたはふれ夜ふけてかへるとき彼画
をうはひ車にのせて出ぬ国経なけきけれとも
世のきこえをはゝかりてよめる思ひ出るときは
一書にはものをこそいはね
いはねは
の山の名の名の名の山の
の山のいはつゝしとあり
一説には此うたは平貞文字は
こそわれ恋してものを
平仲といふ者かねて国経書
に通しけるか此時によめると有
たとあるを考しるへし
和漢朗詠にも此哥を貞文と記せり
六柿本紀僧正か霊染殿后を悩す説
俗説云柳本ノ真済僧正は紀三園か子なる故に世に記僧
正とよふ染殿后を見て染着の心を発し病となつ
て遂に死す其霊紺青鬼となつて后をなやま
す一説には天狗となる愛宕山太郎坊これなり
今按るに真済は弘法大師高第なり鬼となり
天狗となるへきものにあらす圖三代宝録云貞
観二年二月廿五日丙午僧正傳燈大法師位真
濟卒ス六十一莫濟俗姓ハ紀朝臣左京ノ人也。祖正五
位下由長。父ハ正六位上御園。眞濟少年ノ學二ト大乘道一ヲ
兼ヲ通ス外傳一夙有二夙有二識悟一従テ大僧都空海一受ク真言教授二授二
時年
西部ノ大法一ヲ為二傳法阿闍梨一
一入二愛護山高尾峯一
廿五
十四十十日午後之十五
不レ出十二年嵯峨天皇聞二テ其苦行一為二内供奉十禅
師一承和ノ之初ノ入唐ス仁明天皇權為二權律師ハ一文徳天
皇尊重為二権少僧都一又転一權大僧都一少頃為二僧二僧正一ヲ
但しと謹
とあるをもつて其行実をしるへし
山高尾峰に
入とあるを後人附会して
真済卒して後三十四年を経
天狗になれると誣たるか
て寛平五年に染殿后六十九歳にて狂病をう
一説に金峯山法
けらるゝ時は年月甚た相違す
師か霊染殿后を
なやますと記す然れとも七十歳に
及ふ后に恋慕は偽なるへし
これをもつて俗説の
あやまりを知へし王代一覧を考るに寛平八年
青和治
□□□□□□□□
五十六歳にて東光寺の善祐
二條后高子
陽成母
小栗田口
こと密通する故に后は位をすへり善祐は
僧正とは是
後撰集に善祐法師いつの
伊豆国に流さるとあり
くにひかされ侍けるに伊勢
わかれてはいつあひ見むと思ふらんかきりある身のいのちともなし
〇拾遺集に善祐法師なかされ来るとき母のいひつかはしけるなく
なみた世は見なうみとなるならにおなしなきさになかれよるへく
〇伊豆国熱海に紀僧正が墓ならすに僧正か植し都松とてあり
土俗云く記僧正か手つからうへし松なりみやこをしたびなけて故
に此松も枝うと〳〵くみやこにむかふ故にみやこ松といふ又は染殿松と
もいふとなり思ふに善祐
其年歴相ちかく事又にたる
法師か墓なるへし
故に善祐を真済といひ二条后を染殿后とあや
まり伝ふものなるへし此段小補
元時僧正還亡の相ある説
俗説云沙門元肪入唐のとき唐人元肪を相して元臘は
還亡なり日本にかへらはほろふへし左あらんよりは
此国にとゝまり給へといひしかと用すして日本にかへり
しかははたして害にあへり
一今按なに文敏翁評に云むかし漢ノ高祖柏人と
いふところに宿せんとしていはく商人は人に迫るな
りとて宿せずしてされり岑彭蜀を伐とき営
するところの地彭亡といふを聞て他処にうつらんと
せしかとも日くれに及ひしかは心にまかせすして
とゝまりしに蜀の刺客いつはり降つて同宿し
其夜岑彭をさしころしたり後人これを論し
高祖杣人の名をいみこれを去て福を全くし
一岑彭彭亡の名をにくみこれにとゝまつて実を生
すといへりこれ元肪に似たりしかれとも肪た
とひ唐にありとも淫悪あらはなんそ身を全く
せん帰朝すとも淫悪ならんはなんそ災を生せん
や肪か淫なる蠱なる皆悪といふへし支那本
邦地を易は皆しからんとあり
羅山
文集
考見るへし
七志賀寺上人京極御息所に逢て歌をよめる説
俗説云志賀寺の上人
朝勘
一書に名は
京極の御息所を
見てその容色にまよひひそかに彼御所にいたり
一同三十一午巻之十五
庭にたゝすへしに御息所これをあはれみ翠侯
の内より手を出されけるに上人とりつきてはつ
春のはつねの気ふの玉はゝき手にとるからにおら
く玉濃をとよめり
今按るに京極御息所は大草図を考るに藤
原時午の四女魔子といふ百人一首抄に褒子宇
多帝に寵せられて雅明親王載明親王をうめり
兵部卿元良親王此御息所にしのひてかよひ参
後撰集云こといできてのち京極御息所知
るかあらはれて
につかはしける元良親王とあり
侘
ぬれはいまはたおなし難波なる身をつくしても
あはんとそ思ふとよめりとあれは上人とも密
通の事はさも有ぬへし然れとも玉はゝきの歌
は上人か歌にわらす万葉集に天平宝字二年春
正月三日召二侍従竪子王臣等一令レ侍於内裏之東
屋垣下一則賜二玉箒一肆宴于レ時内相藤原朝臣奉レ勅
作レン歌ヲ右中弁大伴家持はつ春のはつねのねのけふの
藤原清輔の説
玉はゝき手にとるからにゆらく玉のを
に正月はつねの
日暮といふくさをはゝきにして
はくを玉はゝきと云なり
とあり思ふに上人此古哥
を聞覚てみつからの歌としとりあはせたるもの
なるへし
一寶益俗説辨巻之十五
八慧心僧都寂するとき胸より蓮華を生せし説
俗説云慮心僧都横川にて寂せしに胸の間より青
蓮華生せしといふ
今按るに本草綱目李時珍か説に牛の黄物の
寶馬の墨鹿の玉犀の通天獣の鮓答皆物の
病にして人もつて宝とす人霊にしてたになを
此症をまぬかれす况や禽獣をや人の淋をや
めるに沙石あるは獣の鮓答にあらずや人の癖
をやめるに心の金石に似たるものあり狗の宝に
あらすやこれ皆物にへたてありて化することなき故
なり会鳥にも卵の石のこときをうむことあり程
氏遺書に載波斯国の人閩中の古き塚をあはき
しに棺の内こと〳〵くく地てたゝ心の石のことくに
かたき残れり踞してひらき見れは内に山水の
模様あり青碧にして盡なかことし其かたはらに
女よそほひして棚によりてなかめたるかたちあり
一此女生るとき常に山水を愛する癖ありて朝夕
意をつけし故に融結てかゝのことし米潜渓文
集に載臨川の僧法循といふ者般舟三昧の法を
行て死する故に火葬のゝちたゝひのみ化せすして
同同同年四月三十三
五色の光をいたす其中に仏説あり高さ三寸骨
にあらす石にあらす百体具足す又黴水に優盛
一塞あり禅観の法をおこなふ死するに及ひて火葬
するに内に観音の像をつゝめりきさみなすかことし
是見那志物にかくまりてかた地を凝す尤非祥の
一癖疾なりと見えたりこれをもつて思へは胸に蓮
一華を生せしも常に蓮台に生せんことを願ふ故
一凝結て病となれるものならん
九西行法師普賢菩薩を拝する説
俗説に西行法師江口の遊女か方に立より宿をかりしに
遊女後に普賢雲薩とあらはれ白象に乗て飛
此事あまねく人の
さるといふ
知たる事なれは略す
今按るに撰集抄十刻抄東斎随筆等にいはく
書写の性空上人法華読誦の功によりて六根
清浄にかなひけれとも生身の普賢をおかみ
奉かれさることを恨みいのり給ひしに七日の暁天童
来て室の遊女長者をおかめそれこそ生身の
普賢にてましますとしめし給ふにより室に
爰にいふ室は周防
ゆき長者かもとにいたり給ひぬ
間室積なり播磨
国の室には
あらす
長者出あひ酌をとり上人に酒をすゝ
同同十一日香斎谷比伊参こト三
めて周防の見たちしの沢辺に風のおとりて一
一書には周防ひろつみとうたへはならひ居たる遊女共
一同音にさとの浪たつやれとうたひはやしぬ上
人目をふさきこゝろをすまし給ふに彼遊女普賢一
のかた地に現し六牙の白象にのり眉間より光を
はなちて道俗男女をてらし微妙の音声を出し
て実相無漏の大海に五塵六欲の風はふかねと
も随縁真如の波のたゝぬときなしと唱ふ上人
一感涙おさへかたくして眼をひらきてみれはもとの
一女のすかたにて周防見たらしのことはをいたち
又眼をとつれは菩薩のかた地にて法問をのへ給ふ
かくのことくたひ〳〵教礼してなく〳〵かへり給ふ又
撰集に抄に西行いはく過ぬる長月廿日あまりの
ころ江口といふ所をすき侍りしに家は南北の
川にさしはさみこゝろは旅人往来の船をおもふ
遊女のありさまいとあはれにはかなきものかなと
見たてりしほとに冬をまちえぬむら時雨のさへ
くらし侍りしかは気しかる賤かふせやにたちより
はれままつ間のやとをかり侍りしにあるしの遊女
新古今集云天
ゆるすけしきの見え侍らさりしかは。
わうしにまうて
同同長谷片安兵衛
侍りけるににわかに雨のふりけれは江口に
世のなかをいとふ
やとをかりけるにかし侍らさりけれは
まてこそかたからめかりのやとりをおしむきみかな
とよみて侍しかはあなしの遊女うちわらひて左
山家集にも家を出るとあり新古今
今集に返し
家をいつる
新
右
遊女妙
集には世をいとふとありなをして入
見たり人としきけはかりの宿にこゝろとむなと思ふ
見えたり
はかりそとかへして急き内にいれ侍りとあり此
二説を一事と誤り俗謡にもうたふなり
広益俗説雑巻十五終
狩工作
廣益俗説辨十六
人物補遺
廣益俗説辨巻十六人物補遺
神村長
公卿
狩野氏図書記
豊蔵書
浦小野宮実明賢人とよはるゝ説
補大江匡房道理非道の船の説
士威
浦北條師時北条ノ宗方か悪霊に害せらるゝ説
補大田道灌子息を悼る歌の説
一大内義隆方角を忌説
補大内義隆方角を忌説
同十二日之谷先悴参之
同同同同同同同丁一丁
婦女
《小督局名言の説
白拍子微妙孝行の説
讃岐局か怨霊北條政村か女子を悩す説
卅一棣棠花をもつて蓑なきをしめす女か説
廣益俗説辨巻十六補遺井澤長秀輯録
此巻蒐二輯シ遺二漏スルハ編中ニ一ニ者下ヲ附二録ス人物部之尾一ニ
以テレ故ヲ與二各條一不二次第一セ見ル者勿レ訝フ
公卿
小野宮実明賢人とよはるゝ説
俗説云小野宮右大臣実明若くより思れけるは
身にすくれたる才能なけれは何事につれても
其徳あらはれかたしこゝろみに賢人をたてゝ
名を得ん事をこひねかはれひたすらに廉潔
のふるまひをし給ひけるかゝれとも人更にゆるさ
唐益作詞戦義之十六
すかへつてあさげるたくひおほしかゝるところに
あたらしく家をつくりて移徒せられ参る夜火鉢
なる火翠簾の縁にはしりかゝりて消さりけるを
しはし見給ふ間に程なくもえつきてあがりけ
るを家人等見つけてよりけれとも制して
けさせられさりしかは火天になりにけり其時
笛はかりを取ツて車よせよとて出給へりすこし
も家財を取出さず是よりおのつから賢者の名
あらはれて帝をはしめ奉りことの外に感じて
もてなされけりある人後に其故を尋けれは心づ
かなるはしり火の思はざるにもえあかることた
たことにあらす天のくたす災なり人力をもつて
ふせがは是より大なる禍いでつべしあなが地家一つ
をおしむにたらすと云れける其後事にふれて
かやうのふるまひたへさりけれはつゐに賢人
といはれるやみにけり
一今按類に小野宮実明賢者とよはれんことを
たくまれしと云は偽なるへし凡そ堯舜禹湯
一文武周孔の聖たるも顔孟程朱の賢たるも見つ
から聖とのたまひ見つから賢といはれしことを
同同同同同同同同同
庸益信談判著之十六
きかず徳行あるときはほこらされとも聖賢と
称す德行なけれはてらふともたれか称すへ
けん聖賢のほまれはたくみてなれる事にあ
らす又火鉢の火みすのへりにつけるをそのま
まにてはし置わつかなるはしり火のもえある
るは天災なりこれをけさはかへつて大なるわ
さはひあらんと云れしこと又非なり家人に命
して心の及んまで消しめきゆることなくんは
天災ともいふへしなんそや消んともせてやけ
ぬるは見つからまねくところなり又かゝるふるは
まひたえさりけれはついに賢人とよはれら
れしといへるは愚人と申たるを聞あやまり
たるものなるへし
大江匡房道理非道の船の説
俗説云大江匡房中納言太宰権帥になつて任にお
もむかれたりけるに道理にて取たるものをは船一艘
につみ非道にて取たる物をも同一艘につみてのほ
られけるに道理の船は入海し非道の船は難なく
つきけり江帥いはれけるは世ははや季に成参り
人正直なるましきとそ悔れけるこれをさとさん
長屋谷悦倅巻之上、
広□代言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
ためにかくつみてのほられけるとかや
一今按るに此説偽なるへし因て思ふにむかし東
一漢の楽羊子金一餅を路にてひろい得て妻にあ
たふ妻かいはく志士は盗泉の水をのまに廉者は
嗟来の食をう気次いはんやおちたるを拾ひも
とめて其行をけかすやとはちしめけれは羊
子ことはりに思ひて金を地にすてたりといへり漢
記又呂氏春秋に東方に士あり爰旌目といふ他所
にゆくとて途中にて甚た飢に及ひ人こゝろなし
かゝるところに狐父といふところの丘といへる盗と
をりあわせ持たる餐を出してくはしむるに
爰旌目三たひ舖て後人こゝろつきてかの者
を見つけたれそと問われは狐夫の丘なりと
答ふ爰旌目大にいかりて汝は盗なりなんぞ我
に食せしむるや吾義死すとも汝か食をくら
ふへからすと両手を地につきて咄とも出す略
略然として地に伏て遂に死すとあり志士の
行実まさにかくのことし然るに左まてこそなく共
さすかの医房民の財産をむさほりは船に積て
道理非道をこゝろみんや決して伝者のあやま
同実益谷阮学巻之一、
月辛作言書ヲ以テ
りならむ
士庶
北條師時北条宗方か怨霊に害せらるゝ説
俗説云北條相模守貞時剃髪の後壻の相模守師
時執権の連署をつとむしかるところに徳治三年七
月はしめより北条駿河守宗方か亡霊来つて師時
に恨を報すへきよしよはゝる声外人の耳にはき
こへず師時か耳にのみきこへたり後にはかたちをあら
はしかげのやうに見えたり師時これを忌て祈祷を
いたし鎮祭護摩を修せしむるにあへて其しか
しなしこれよりして身心やうやくおとろふ同九
月十一日師時たゝ一人亭に座して庭を見て居け
るに宗方か悪霊長刀をよこたへ広庇にはしりかゝ
る師時も太刀を取て起しか胸のあたりを剃れ
たりと覚へてう地倒れ血をはくこと一斗はかりにし
て其まゝ絶入す家内上下あはてふためきたすけ
おこしけれはやうやく人こゝちつきてかくとかたりし
か其日の暮ほとにつるに事きれにけり
一今先儒の説を考るに良骨死して鄭国に禍し
同四十一年二月二日、
一彭生死して斉襄王に禍せしたくひは道理の
一中の一種の道理なり人この理を得て生しこの
理にしたかふて終れは魂のほり魄くたる若得類
ところの理いまたつきさるににはかに錦鏑にふ
れて死るときはこゝろ凝て解す憤結てもれす
其とゝとほれる穢気人に觸染て襲殺すこと
なとあり是すなは地鬼神の変にして常の理に
はあらす古戦場の如き夜にいり雨ふれは陰と陰
とましはり薫蒸して形を現し声を發すあり
正を得て終らす寃恨をふくみて死る故魂魄散
すること速ならすしてしかり然るに子路鉢又
に死して妖をなさす屈原非命に死して属を
なさゝるは達士は死生一理なることを知て終
り一気とひとしく化せるか故なり良骨頭生
かたくひはこれに異なり憤恨の気散せすして
一讐敵を襲ふこと臭穢のものを火に焼てその
にほひのこれ類に似たり宗方もかのたくひにや
但し論衡に大将軍潅夫丞桐田粉に誣られて
ころさる其後いくはくならすして田蛻疾あり
かたはらに潅夫か居るを見る是病乱妄見なりと
あり思ふに師時宗方を殺して後彼非命に死
せり其霊必讐を復せんかとおもふ疑心胸中に
凝て疾をなし夢行のあいたに家方か形声を感
したるかひとへに眼をやめるもの空中に花を
見るといへとも真の花にあらさることし考知へし
補太田道灌子息を憚る歌の説
俗説云太田道灌子息におくれて一周忌によめる
うちめしく又なつかしき月日かなわかれしこそのけふと
おもへは道潅のよめこそのけふわかれしときも今とて
もわすられはこそ思ひ出さめ
一今按るに道潅の子息にはあらす孫なり慕京
集に云持兼か妻三つになり侍る子を頓のなや
みにてうしなひぬかにつとめてのとし後のわさとも
いとなみ侍る孫のこのわさはひにあひぬることいのち
なかけれははつかしきいのちのかへす〳〵く地をしき
なとかきくときてよめのもとにいひつかはしける
なけかしくまたうらめしき月日かなわかれしこその
遣ふをむかへて持兼妻かへしこそのけふわかれし
ときもいまとてもわすられはこそ思ひいたさめとあり
考へ知べし
同同十二年巻之一
補大内義隆方角を忌説
俗説云大内左京太夫義隆はならひもなき大名にて
周防国山口に住居せらる武道をわすれて花車を好
めりつねに物をいむこと甚たしく家人に屋敷をあ
たふるに水性の者は北木性の者は東火性の者は
南金性の者は西こと定む若木性の者金性の子を
うめる時は西の方にあづくるなり
今按るに大内氏のみにあらす今の世にも此たゝひ
の者あり或は家をたて地をうつすに東北の間は
鬼門金神の事詳に
鬼門なり今年彼方は金神なり。
一本朝俚諺に出る
土用には土をうこかさす水神荒神の祷疫病疱瘡
瘡の咒箭違愛敬守男女の相生葬送の友引
命鑑判うらなひなとと忌夢見烏啼鶏の
一雷鳴狗の長吠幽霊妖物野狐金花猫なとゝ
恐る尼姫はもとより理にくらきものなれはさも
あらんかし武夫のかくのこときは見る目もあさま
しくきゝ耳も猶うたてし若夫書をよみ理を
わきまへ吉凶禍福こひもとめのかれさけん思ひ
なく万事万物すへて天にまかせは宇宙のあいたにを
いて何をかうたかはむや
同三十二年巻之一、
婦女
補小医局名言の説
}
一説に三条小川に
其ことはに
住故に北河殿と云
俗説云小哲属は賢女なり
いはく世にあやしきことをかたるものはかならす其こと
はのたゝしからさるによるつねにたゝしき言の
みなれは万吉万当こと〳〵くにたかはすして身を
たもつへし
一今按るに小哲局は淫婦なりはしめ冷泉隆房
に通し後に内にめされて帝の寵にあつかりな
からなを隆房にあひし事詳に隆房の見つから
艶詞は隆房小督にあひし始末
記せる艶詞に見えたり
を見つからくはしくしるせり盛衰
記平家物語とは大に異なり
其言を重つて其人をあ
好事の者これを考ふへし
くることなかれ
白拍子微妙孝行の説
俗説云源頼家比企判官能員か宅にゆかれ乗るに
京都より下向せし白拍子微妙といふもの出たりとし
二十はかりにて容顔美しく歌声またすく礼たり能
貞此白拍子は愁訴の事あつてくたり候ぬ是は微妙か
一同三月一同九十六
よみたる歌自筆にかゝせ候とて出せり猶家見られける
に片岡にふせるたひ人あはれいま尋るさとにやとも
さためす頼家此うたの子細をかたるへしとありしかは
微妙申けまは去る建久年中に父右兵衛尉為成謹
訴によつて禁獄せられ其後奥州の夷にたまはりて
奴となれり母はかなしみて程なく身まかりしかは父か
ゆくゑを尋んために白拍子となりこれまて下り候と
なきけれは頼家をはしめをの〳〵其孝行を感し
いそき奥州へ人をくたして尋らるゝに為成は死したる
よしを申せしかは微妙なけきにたえす尼となり持
蓮尼といふ
今按るに微妙か父を慕ふの志もつともあはれ
むへしといへとも孝とするにたらす其故いかんと
なれは孔子曰脩レ身慎レ行恐レ恐レ辱レ辱レヲ先也と人の子と
しては一言一行の殆もその親を辱しめんこと
をおそるゝといへり然るを父かゆく東をたつねん
かためなりとて自拍子となれるは名を汚し行を
穢して大に父母をはつかしめたり若言行はともあれ
かくもあれ父母を慕ふこゝろさへあれはよしといはこ
千丈の堤も螻蟻の穴よりくつるゝとやらんはては
同長谷紀伊春之丁へ
いかなる世界をかなしおはらん是いたくいましめ
ふかくこちしてゆるさゝるところなり
補讃伎局か怨霊北条政村か女子をなやます説
俗説云文応元年十月十五日北条相模守政村か女子
ものくるひとなり口はしつていはくわれは是比企判官
能負かむすめ讃岐局なりうちむことあつて大蛇と
なり比企谷の池にすめり此くるしさをたすけ給は迄
といふ政村かれかために僧を請し頓写の法華を書し
め跡をとふらひしかは物の怪はさめにけり
今梅類におよそ陰陽の精爽天地のあいたに流行
するを鬼神といひ人心にかくるゝを魂魄といふ
鬼神と魂魄とをふたつとせるは形にへたてらるゝ
故なり死するにおよんては大壇に帰して一つなり
しかれともたゝしき人のたましひは火のきえて
跡なきに似たりたとへは春にいたりて花のひら
くかことしたゝしからさる人怨恨を抱て死れは
しはらくそのたましゐ帰しかたく気とゝこほりて
ちらすものにつき人によることありたとへは秋に
なりてかへり花あるかことしかゝる事まれにあり
といへとも怪にはあらす怪と思へるは見るものゝ量
同長谷見守長也一
せはけれはなり昔漢の李夫人死して其霊武
帝にまみゆ
世に云反魂香の事なり
これによりて
白氏文集東坡集後に出
武帝詩をつくりて是耶非耶立而望之偏鄙々
此詩古詩編
後人李氏為
一何冉之来遅と賊せり
白氏文集に本
人奸譎邪妖なる故にかくのことしとそしれり
一況や痰岐局己か所生の一幡君
頼家
の男
父の能員及
一族こと〳〵く北條か為に殺され憂憤して死せしかは
其怨恨の気凝て散せす政村か女子につきし
ならんしかれとも大蛇に再生したるといふは病中の
一譫語にてもつとも偽なり又霊魂仏経によつてさ
りしといふは左もあるへし平素仏経はたつとき
ものなりと思ふ故に其経の声に感してとこほれ
李三か霊爆枝におとろかされ
るの気散したるなり
て散したるとおなし
すへて人をのか精神をあつめて誠にするときは
たちまちに感あり風俗通に載鮑君神李君
神韓文に載木居士の類なりしかれとも邪を排
き正を提け論弁取合するにいたつては妄膝無
眼の者のうかゝひしるところにあらす
補
○棣棠花をもつて蓑なきをしめす女か説
俗説云太田道灌狩に出られけるとき野中にて
同馬長谷院谷先梓隊之二
雨にあひ土民の家に立よりて蓑をからせられける
に賤女壱人ありけるか何といふこともなくてやまふき
一えた折てもち出道灌の前に置たりこれは歌に
七重八重花はさけともやまふきのみのひとつたに
なきそあやしきとあるにな所らへ蓑なきことをこた
えたりいとやさしきさまなり
一今按るに後拾遺集云小倉の家にすみ侍り
一気類比あめのふりける日蓑かる人の侍りけれは
やまふきのえたを折てとらせ侍けり心もえてま
かり過て又の日やまふきのこゝろもえさりしよし
いひおこせて侍りける返事に兼明親王七重八
重はなはさけともやまふきのみのひとつたになき
そあやしき此説をあやまり伝へたるかたゝし賤女
一兼明親王の歌をおほえ居てかく会釈ぬるにやこれ
につゐて考るに続古事談に待賢門院法金剛
院つくりて御幸ありけるに林賢といふ法師滝
のかたはらに札をたてゝ一首のうたを書たりける
衣にてなつれとつきぬ石のうへによろつ代をへよ
瀧のしら糸二條長実これをあさ乗りて和せら
れけるしれものゝよしなしことをする法師ついに
同慶安化辛辰二
囚獄にいるとこそきけ人〳〵わらひのゝしりやみ
にけりとありやまふきをもち出し女もこの法師
におなしそのふるまひをおもひやるにおこのもの
しりかほかへつてかたはらいたゝこそ
廉益俗説弁巻十六終
□□□□□□□□
第一
狩刀
廣益俗説辨十七
近世
廣益俗説辨巻十七目録
近世
狩野氏図書記
近藤勘之允敵討の説
篠井半十郎敵討の説
ある者他の罪を我身に負説
ある人従士の出奔せるをその子を遣してたつね
しむる説
名をおしみて母をころす説
ある人軍学者を評する説
塚原源四郎父か敵を討さる説
同同同同同同同七十七目
庫益俗説弁巻十七
井澤長秀
輯録
近世
此巻は人の物語を聞て論をまうく皆是義理を取
一近世此巻は人の物語を聞て論を聞て皆是義理を取
ちかへて人の害となることのみをあまたり俗語を其まゝ
近藤勘之允敵討の説
書故に又極て早佳なり見る人これをゆるすへし
俗説云中ころある国の領主の家人近藤勘左衛門
荻田伊四郎といふ者喧嘩に及ひ伊四郎勘左衛門を
討て立のき摂津国に住して名を森脇自閑と
わらため釼術を指南して渡世す勘左衛門か子勘
之允父か敵をうたんか為摂州におもむき縁をもと
めて自閑か下人となりいかに重してうたんとねらふ
自閑もつての外にわつらひ十死一生の為体なり
同同七十四巻之中
一広在代親者之十七日
勘之色かたはらをはなれす看症し数月に及て
愈しとき勘之毛自閉にむかつて某はこれ貴方に
うたれたる近藤勘左衛門か子勘之允といふものなり
父かあたを復さん為此国に来り下人となつてう
かゝふところにはからすしも貴方過にしころより
病にくるしみ給へはこゝろをつくして看病し
快気の期をまち得たりいさ尋常にうちはたし
申さんといへば自閑その儀ならは心得たりとて門前
のひろみにて双方刀をぬきもちさん〳〵に切あひ
ける自閑何とか思ひけんもちたる刀をなけすてわれ
貴方の孝行のこゝろさしと今度の病中に心
をつくして看病せられし恩を感すれは手向し
難し討て本望とけられよと首さしのへて居たり
勘之允あきれはてしはしはもたせしかかく情ある
侍を討はかへつて天の罰あらん尤親のかたきなれは
たすくへきやうなけれとも一旦のなさけによつて
命をたすけまひらするとて双方にそわかれける
其ころ此両人かふるまひを見聞人ことに感せぬはな
かりしとそ
一今按るに勘み元父か敵をうたんとて敵の下人
同同長谷佐倅巻之仁
一廣祥議ノ判著之十七
となることあやまちなり其子細はむかし絹裏
子智伯をごろす智伯か臣予譲身に添をぬり
炭を呑癩人にまねて敵をねらひしに友人予
譲をいさめて云く出て智伯につかへ心をゆるさん
をまちて討へしといふ予譲こたへて質を委ね
臣となつてこれを殺すことをもとむるは是ふた
心なりといひて其ことはにしたかはすついに数の
ためにうたれたりこれを以て松もへは勘之允
はかりことなりとて敵の下人となる時は主君を弑
するの逆罪のかなへからす又自閑勘之允か孝志あ
類と己か疾をいたはれるに感し首を伸てうた
れんといへること非なり其身は父母の違頼なれは
一毀傷さらんことをこそおもふへきにかゝるあり
さま理にあたらす又勘て毛自閉か言にめてゝ
命を助こと非なりそれ敵をうつは父か讐なり敵
をゆるすは私の愛なり首をのへてきられんと
いひしに感してともに天をいたゝかさるのあた
をわすれたり是おのれあることを知て父あること
を知らさるなり畢竟不学の過こゝにいたれりもつ
とも恨へし
同三月一月七十七七
広並儀試製巻之十七
篠井半十郎教討の説
俗説にいはく中ころ東の家人篠井半左衛門梶原
平三郎喧嘩に及ひ平三郎半左衛門を討てたち
のき行かたしれさりき半左衛門か子半十郎此とき
五歳なり十二歳より父か敵をうたんことを思ひたち
諸国をめくりけるに十七のとし隣国のある寺にて
法談あるよしきこへけれは半十郎も其辺に在
しかは参詣して聴聞す僧高庇にあかり経をひら
き訓釈の後聴衆に向て申けるはそも〳〵拙僧は
もといつれの国のものにて梶原平三郎と申せしか
不慮なることにて倩輩篠井半左衛門といふ者を
討てたちのき出家となり候ぬ懺悔には無量の罪
をほろほすとなれは法諧の上にてかく申候とかたる
然る所に聴衆の中より十六七なる男つと出て扨は
御身は梶原平三郎なるやわれこそ篠井半左衛門か
賎息半十郎なり父か敵なれはのかさしと飛かゝつて
かの僧を一刀にきりころすこれを見て僧か弟子聴衆
取かこみ半十郎を押へ置領主につけしかは領主より
人を添て本国につかはし主人にわたしける時おの〳〵うち
よりて僉議しけるは半十郎父か敵といひて討たるは
同三月一日大
ことはりなれともかれもとの武士にあらすかたちを
かへて仏体同前の出家となれるを切たれはその
つみ至てふかしされとも父か敬討なれは刑罰にもお
こなはれす証するところ死罪を免許して国中を
追放すへしとて国境を出しけるとなり
一今按るに半十郎勧とき父をうたせ其敵をうたん
とて数年辛苦してたま〳〵敵にあふといへとも一
面を見しらさるに敵のかたよりわれこそ梶原平三郎
なりと名乗こと半十郎か孝心天に通する故神明
一敵の胸中にやとりて託宣し給ふにやもつとも
武運にかなふ所なり但し敵長袖なれはうつたる
を高名とはいはれねともたとへは虎根に親をころ
されんにかれは畜生なれは討におよはすとて男
さんや昔漢の蘇不韋といふ者司隷校尉李島
をころして父かあたをむくゐむことを思ひねらへ共
かなはさる故李蕎か妻と其小児とをころし鳥か
父阜かつかをほりてはつかしむ士大夫蘇不韋か所
為をそしる郭林宗これを論して蘇不韋たく
ましくすることを得されとも報をなすことすてに
ふかし伍子胥に比するにまされりといひしかは
一寶益谷悦悴巻之十二
これよりしてそしるものもたつとふとなり父か
わたをむくゐむかために婦女小児をころしは
かをつりかへすこと義者のすましき所なれとも
それたになをこれを称せりいはんや僧になり
たれはうつに及はすと見のかしにならんやその
うへ散むかしよりの僧にもせよ父かあたなかれは
討へしまして傍輩をころしなから命をおし
みてにけのかれ僧となりたれは敵討もつとも
理にあたれり又僧となるものはころされすとしらは
臆病のともからは人をころすといなや其まゝに出家
すへし篠井か主君かれか孝心の神に通し
たるを感し武運の冥加を称すへきにたな
きのみにあらす追放せしはいとつたなし
ある者他の罪を我身に負説
俗説云いつのころにかある国に二人の賤男あり
一人は小右衛門とて日傭をわさとして独身なり
一人は甚七郎とて家富たる旅籠屋なり然るに
甚七郎か家より火を出して隣家の小屋づか方
より火を出せるといつはれりこれによつて其比の
領主より二人の者を吟味しけるに小右衛門箭は
同長谷悦悴巻二十七
甚七郎か出火したりと申乗るかつく〳〵おもひ
しは我はまつしくしてひとりなれは数さるゝとも
くるしからす甚七郎は妻子従類おほくの者ころ
さるへし所専りれかつみをわか身にうけて死すへき
と思ひさためまことに某出火いたせし由いひし
かは領主其儀ならは甚七郎はもとより科なし
小右衛門も思ふ子細あれはとて二人ともにゆるしけり
後に小右衛門かとゝろさししれけれは貴賤上下お
しなへて感せぬはなかりしとなり
今按るに貴賤品かはれとも人たるものはひとし
く父母の遺体なり古歌にわれなからわれも
なつかしなき人のわきてのこせるかたみと思へはと
よめり戦々競々として深渕にのそむかことく
薄氷をぬむかことくすへき身を塵芥のことく
にかろむし人のとがをひきうけいつはりものと
なりて刑せられんことを思へるは闇愚のもの
とはいひなからあまりにあさましき儀なりしかる
にかの領主慮ふかくしてたすけたれはこそ其
こゝろさしもしれぬれ己か出火して人におほせ
たるはにくしとて則坐に首を刎んもはかり
かたしかゝることを慈愛と覚えたるは大なる取
違なり
ある人従士の出奔せるを其子を遣して尋ね
しむる説
俗説云中比ある人の家来罪科ありてきらる
へきにきはまりしにかのもの出奔して近辺
にかくれ居たり主若科人か子近習につとめける
をひそかにちかつ気汝か父駆落してゆきかたしれ
す汝にいとまとらする間尋ね出して来るへしと
申わたされけれはかしこまり候とて父かかくれ居
たる所にゆき主君かやう〳〵の仰によつて御行
束をたつね候此うへはいつくへか落ゆき給ふへき
すみやかに切腹ましませとすゝめて腹をきら
せくひを主君のかたにおくり其身は則時にもと
一説には其坐にて俱に腹切て
とり切て出家しけり
そふしけりとあり
其ころかの子かふるまひ忠孝ふたつなからまつた
しと感しけるといふ
一今按るに主人出奔の者をころさんとおもはゝ
別人をして尋ねしむへししかるに罪人か子
に命するをもつて思ふに彼科人父祖の旧功
あるか又は其身の勘労あるによつてかた〳〵いか
にもしてたすけたく思へとも家の法度を背
けるをそのまゝさしおかんやうもなけれはとかく
ともだすうちにかけ落して近辺にかくれ居
一たるときこゆ家老役人等聞つれて主人は
耳にいるゝときはころさではかなはさる故其子に
いとまをくらするあいたかくれ居たるをたつね
よと主人のいひしは告しらせてしのはせよとの下心成
へしたとひ誠ころせとの事なり其なと父をつ
れていつゝへもかくさゝるやしかるをなさけなく父に腹
すゝめ首を切しこと無道至極せり其罪いたつてふかし
むかし舜の世をた毛地給ふ時にあたりて瞽
一罪を犯さんにはいかゝといひしにある人論して
舜は天子の位をすてゝ瞽腰を負てのかれたま
はんといへりこれを考へて彼者か不孝をしるへし
名を惜みて母を殺す説
俗説云中ころある士浪々の身となりて本国に
老母はかりを残し置他国にいたり奉公しけれは
母をむかゑむる為本国に帰るに道のかたはらに
盗人なりとて木にしばりつけて面をさらすもの
同廣益俗脱牌巻之十七
あり立よりて見れは松のか母なりかのさふらひいか
にもしてたすけはやと思案をめくらせともせん
かたなし此上は他手につけて盗人の名を四方に
あらはさんより我手にかけて跡をとふらはんと
思ひ刀をぬひてあたりに附居たる番人ともをきり
はらひ母かくひを取てにけ去たり追ちらされたる
番人ともえのところにかへりて盗人を見るに首
なけれは体はかりを刑におこなふといへとも首なふ
して誰といふことをしらすかの士は母かくひをひそ
かに葬り主人か方に帰りて有幄を相のへ子として
母かくひをきる不孝の罪のかれかたしかゝる不孝の
身をもつて君につかふへき様なしいとまをたま
はらは出家して母か後世をいのりたきよし申けれは
主君きゝて汝か所為孝行の至極なり母を生て
は地をさらさせんよりは首を切て名をかくし恥をお
ほふこゝろさし器量よのつねに抜群せりと大に称
美せられ其まゝにて仕官しぬ其ころ忠孝兼備の
士と執沙汰しけるとかや
一今按るに此土か所為不孝言語に及ひかたし
其教は昔宋の徽州の鮑寿孫といふものゝ父賊
廣益谷院畔巻之丁
のために摘る賊かれを樹にしはりつけてころ
さんとするとき鮑寿孫来り拝して父か死に
かはらんことをねかふ賊あはれみてふたりなから
命をたすけたりこれをもつてとふに右の士も
母かからめられたるを見はすゝむてその刑にか
はりて死せさるや親のためには名をもはちをも
命をもかへり見るへき事かは然るを情なく親を
切て名をかくしはちをおほはんとはかる其罪
悪五刑に処してもあきたるへからすもろうし
にて呉起か己か母を葬るところにいたりよそす
見て退きしをたに白楽天は烏の反哺におと
れりとて昔有二呉起者一母歿喪不レ臨嗟哉斯徒
輩其心不レ如レ禽と賊せり若母を切し者を見せは
魚鳥にひとしと識るへしかゝる大罪人を
孝子と褒てつかへるも不思議なり変にのそ
み難に及ふときはかならす主君のくひをも
切かねましきくせものなりおそるへしにく
むへし
ある人軍学者を評する説
俗説云ある諸侯の許に他国より軍学者来りて
同同十四日廣谷院畔巻之
奉公を望みけるに彼諸侯召出さんと議せられ
しとき近習の者かいはくそれかし此ころ軍学者か
宅に尋ね候に折りふし火を焼て居候ぬこゝろ
をつけて見候へはよのつねのものゝ焼候よりは
大分の薪をつゐやし候此つもりのつたなさにて
は軍学もさそと申けれは尤なりとて抱へられ
さりけり
今按るにこれ理をわきまへさるものゝ談なり
世にあらゆるところの事一人にて全く得たる
ものなし我得て彼失せるあり彼得て我失する
ありたとへは隋侯の珠は実なれとも雀を弾くには
泥丸にしかす獏郷か剱は利といへとも草を苅には
鎌にしかす虎象多けしといへとも鼠をとるには
一猫にしかす猿よく木にのほれとも水に入ては魚
鼈にしかさることし其得たるところをとうちして
其得さるところをそしるは車を水にやり船を陸
におして用に足すといふににたり文盲なる人の
談すること毎々如レ是の違おほし察すんはある
へからす
塚原源四郎父か敵を討さる説
同同長谷片倅参之写
俗説云中ころいつれの国にか諸侯の家人赤星平
蔵傍輩塚原源左衛門を討て逐電す源左衛門か子
源四郎敵をうたんことを思ひ主君に告てうち出ん
とするところに主君他国への使者を申つけられ是
非なくた地こゆる折ふし途中にて所の者さはき
あつまりて旅人落馬して絶入たり薬よ水よとよ
てゝる源四郎た地より見るに父か敵平蔵なりしか
れとも君命によりて往といひ殊更死人同前なる者
をうつへき道理なしと思ひ薬をとり出して所の者
にあたえ此薬を用ひ正気つかは見すへしとて一通
の体を残し通り過にけり平蔵薬をのみ正気に
なりかの状を披見し源四郎かこゝろさしを感し
宿所にゆきて陳謝し源左衛門か墓の前にて切
胖しけれは源四郎かいしやくして其首を石塔に
そなえける国中おしなへて源四郎か敵を討さるは
うちたるよりまされりと感せぬはなかりしとや
今按るに源四郎父をうたれしとき分日より出て
ねらふへき儀なるにうか〳〵とつとめ居たるはおこ
たれるなり又落馬したるを見あひぬれとも
使者にゆくときといひ死したるものにひとしけれは
うつへき道理なしとてくすりをあたへ状をのこし
てとをりしことあやまりなり薬をのませしは
らくまちて正気になれるときなんそうたさる
かゝりし後使を遅滞したるとて主君に勘当
せらるゝとも親のために身を惜むへきにあら
すしかるを趣にかゝはり旨をねかひて眼前の
敵をのかせしはいと口をし又此時うちもらすとも
己か方に来るときうたさるやしかるをおめ〳〵と
して敵に腹をきらせいかめしけに死首をきる
尤笑ふへししかるを散をうたさるはうちたるにま
されりと感せしはいつれの国とはしらねともよつく
武道不吟味の家風なるへし
俗間にあやまり伝ふる所此たくひの説あけて
かそへかたし爰に出せるはその尤きものを記す
類のみ余は類して察すへし
廣血俗説弁巻十七終
同同三十一同三十一
狩竹
廣益俗説辨十八冊
地理
唐益俗説辨巻十八目録
雑類
狩野氏図書記
地理
補豊蘆原中ヲ國の説
附黒歯図
新扶桑国の説
同君子国の説
同若木国の説
同東海姫氏図濃説同浦
同日高見西の説四十九丁
同常世国の説
長笹谷虎悴長之□□
神村長
豊蔵書
尼者イ言事ヲ云フノ臣
補速吸名門の説
補統前箱崎の説
補秋田城の説
續陸奥壺碑の説
補信夫摺の説
補手譚池の説
続古井に毒ある説
同塩井の説
一同
一同一一
廣益俗説辨巻十八井澤長秀輯録
雑類
地理
補豊兼原中ノ国の説
俗説云もろこしを中華と唱ふるに日本を豊芦原
中国といへるは非ならんといふものあり
今按るに各我国より称していへることはにて
いつれを中としいつれを中にあらすとは定め
かたし文会筆録に山崎垂加これを論して云〳〵
その国見つからいへは我は是レ中にして四外は夷なり
一百三月一番笹谷之事
辰者代言部弟之事
此故に豊芦原中[ク]といふも得て私するには
あらず程子論二天地一ヲ曰ク地形有二高下一無二適而不レ而不レ為一
府中とあるはまことに至極の言なりといへり考へ
知へし
新扶桑団の説附黒歯歯図
俗間に扶桑国をもつて日本の称と覚えたるもの
ありあるひは日本を黒歯国と覚えたる者あり
西峯松下氏云扶桑は東夷の国の名東海の内に有
日出る所に近しと記する故に俗あやまつて扶桑
を日本の別号とす杜氏通典に云ツ扶桑は大漢国の東
二万余里にあり其土に扶桑おほし木の葉欄に
似たり初て生るとき笋のことし国人これを食
ふ実は梨のことくにして赤し其かはを続て布と
し衣とし板屋をつくり紙につくる城郭なし
文字あり兵甲なく攻戦せす牛角わり甚た長し
角をもつてものをのす二十斛にたゆるにいたる車に
馬車鹿車あり国人鹿をやしなふ事牛のことし
其地鉄なく銅あり金銀をたつとはす譲経を制
せすとありこれをもつて我日本の事に考るに
扶桑あることをきかす城郭甲兵の守りあり牛角の
庸益伯部親著之十は
二十斛に勝るものなし馬車鹿車なし鉄あり
一金銀をたつとひ腰程の軽重を制す是等を以て
扶桑は日本の事にあらさるを知へし又日本を黒
一歯国といふ事は婦人歯を鉄漿をもつて染る故
にあやまかのみ山海経云黒歯国為レ人黒食レ稲吹蛇
下ニ肖一リ湯谷一
谷中
熱ス也
湯谷ノ上ニ有二扶桑一木一世とあるをもつて
其相違を知へし◯予按るに日本上古よりの号
類聚神祇本源云
一おほし一に云浦安国
安国古語ニ浦安図
これ四海安
請なるをいふ一に云細才千足国軍器具足するを
いふ一に云磯輪上秀真国万土に秀出たるを以ふ
一に云豊芦原中ノ国豊芦原は芽発生の盛なる
なり中国は天地の中にあたる一に云千五百秋陽
穂国瑞穂はこれ人をやしなふの物千五百秋は
祝のことはなり一に云秋津洲是神武天皇大倭
一国に都し給ひ大和をもつてこれを天下に蒙り
しめ皇興をめくらして国の形を望み見給へは
蜻蛉に似たりよつて秋津洲となつけ給へり秋
津は情頓の和名なり大倭国は上古日神降源の
地なり故に大日本是秋津洲といひて又日本を以て
右以垂加草に
かゝる名称あるをは唱
天下の号とせり
所載抄二出之一
養益谷免倅医之事
《《名:勢神之一は
へすして他国の号を取て我国の号とす国史に瞽
きか故なり若扶桑国の者にきかしめは掌をう
つて笑ふへし
新君子国の説
俗間に日本の事を君子国と覚えたるものあり
今按るに我神国神国神明の御すゑ数千百歳其
統を継給ふ事いつれの国にならへ論せんやまこ
とに君子国と称するとも恥るところ有へからす
然れ共山海経に倭と君子国とを別国として
いはゝ君子国衣冠常レ剱食レ獣使二二ツ大虎在レ旁其人
後漢書東夷伝云
好譲不レ争有二薫華州一朝生夕死一
東方ニ有二君子不死国一
登記す天地開闢より以来我国に虎をつく
ることをきかす薫花草もなし是を考へて日本
の号にあらさるを知へし
新若木国の説
俗間に日本の事を若木団と号するものあり
今按るに山海経に若木団灰野之山有樹青葉
赤華名曰二若木一日ノ一日ノ所レ出ル生すとあり日出るところ
に生すとあるを誤りて日本の事と覚えたるもの
なりしかれとも若木なきをもつて其相違を知へし
同長谷此岸巻之也
新東海姫氏国の説
俗説言日本は閣の後胤なり天照太神は呉の泰伯
なり船にのりて漁をなし給へるか風にはなたれて
我国にたゝよひつき給ふ其地を是より日向と名付
惣国を日本ととなへ又東海姫氏国とよふ泰伯姫氏
なる故なり天照太神の像をつくつて雨突童子
といふは泰伯呉国にて髪を断給ひし禿のすかたな
りむかしは日本人も身を文にせしもの多し今にい
たつて衣服を呉服といひ食器を呉器といふ此時まて
は屋宅なくして穴居野敷せしを泰伯をしへて家
をつくらしめ給ふ世に無恙といふ諺は穴居野敷の
とき恙といふ虫害をなせし故に人を問につゝかなき
かといへり
今按るに日本は周の後胤にて天照太神は呉
の泰伯といふ誤は神祇部に詳に論することし又
東海姫氏国と号する事正史実録及神書に曽
てなし是は好事者梁僧実徳か作に託して妄作
せる野馬台の詩より出て無拠虚誕なり又日向
国の号は景行帝のときにはしまると日本紀に見
えたり
天子部垂仁帝の
又日本の号は日神降臨に
処に載たり見るへし
同同百三月一日
神祇部
よつて号せり
又天照太神の像を作て
に載たり
雨宝童子といふ事及日本の人身を文にせし事
聞及はす
但し此僻説を設かたくひ等は
此像をも作るへし用にたらす
又呉服といふ
事は日本記に応神天皇三十七年二月朔日帝
天下の人民衣服裁縫の術くはしからさるをうれ
え給ひ阿智使主都賀使主を呉国につかはし
縫工女を求めしめ給ふ呉王丁女兄姫第姫呉
織穴織団人の婦女をたてまつれり是呉服の
はしめなり又呉器といふ事は音によつて誤れり
御器と書なり《続日本紀云御器膳神宮雑例一
一世継物語云藤原顕忠は御
集云御器ノ御器ノ長刀禰敢貞元
食物は御器にてもまいりと
ほり弥世継云かねの御益
しろかねのかたつきと有
とあることしたとひ呉国より
り渡りたりとも神明の事にあつかるにあらす
又無恙の説非なり易伝云上古之時草居露宿
一恙醫蟲也善食人ノ心一俗悉患之故相勞云無云無恙無
云恙
憂也
群陣録ニ云ク恙毒蟲也能ク傷人古人草居露宿ス
故ニ労テ云ク無レ悉日本の事に非るを知へし此段小補
新日高見国の説
俗間日高見の国と唱へて其子細を知ル人希なり
一今按るに元々集ニ云リ豊葦原千五百秋之瑞穂図
長笹谷克辛未三丁
広並作該勤巻之十八
者大八洲未レ生之以前已有二リ其名一雖レ有二其名一而無二
天口事書ニ云八
形相二強字二其形一為二天瓊矛一者也圃
坂ノ瓊戈ハ天地開
闢始浮シ高天満原神実也古語ニ云語ニ云一天逆梓
刀亦天乃登保古此名天聖也太宗秘府云亦名
天御量柱亦タ心ノ御柱ト惟是レ天地開闢之図形タリ
○形文深釋云心ノ御柱者天瓊才之表物也
大八
洲國者即瓊矛之所レ成其中心號曰二ク大日本日高
見ト又號曰二天ノ御虚空豊秋津根別後分為二数国ト今
俗所以テ総令八洲一名一名レ大日本二者由二大日霊貴降霊
故ニ自有二リ此名一以一以一テ八咫寶鏡鎭二于此ノ地ニ即チ是表二其心
府一ヲ者也白井氏云日高児あるひは高日国と書皆た
つとへるの謂にして一所の称にはあらず古事記に
瓊々杵火に出見曹不合の三神を天津日高空
一津日高といふは皆尊貴の称なり帝都の地を
尊祝して日の大高にたとふとあり考へしるへし
新常世の国の説
菖蒲
俗説に常世の国は仙人の住居なりと云
西峯松下氏云日本紀云常世の長鳴鳥をあつむ
少老名命のゆき給ひ
一少彦名命常世の国に適ますは
し常世国は紀州粟
嶋の事といふ紀州志云海部郡加太庄加太村の西南に粟島の
神社あり此社古は友か嶋の内小嶋手といふ所にあり中ころ此所
にうつす延喜式に名草郡か太社とあれとも今は社なしはしめ
名草にありて今海部にうつすかとあり伯耆風土化云相見郡に
粟嶋あり少彦名命一栗莠を蒔に実雑々たり
則我レ粟ニ弾テ渡二帝世ノ国一ニ故ニ云二粟島ト一
三毛入野命常世の
同四十二年巻之也
国にゆく田道間守を常世の国につかはす是。各一
所の名にあらす絶域を指源氏物語に胡を常
世と云たくひ是なり○予按るに伊勢風土記云
神風伊勢ハ常世ノ波寄国也常陸風土記云ク常陸ノ国ハ所レ謂
水陸ノ之府蔵物産之膏腴古人云常世之国蓋疑
此ノ地ノ地矣或名一ク日高見ノ陋一也とあり後拾遺集に清
原元浦うたにいにしえのとこよの国やかはりに
しもろこしはかりなく見ゆるはとあれは一所を
さしていふにあらさる事弥明なり
補速吸名門の説
俗説言速吸名門は伊豫国にあり
今按なに速吸名門は伊豫国にあらす豊後ノ国
海部郡佐賀卿にあり佐賀関ノ記に云早吸名門は
一佐賀関の乾より巽にいたつて海原の恵名なり
一日本紀に伊弉諾尊性見粟門及速吸名門と有
所なり潮はなはた急にして渦き吸かことくなる
故に速吸名門といふ名門は灘頭なり日本紀暴疏
云ノ潮大名則速吸之義明矣とあり委は神祇ノ部
に出せりあはせ見るへし
同筑前筥崎の説
俗説云飜前猶崎は神功皇后三韓より戒定恵の
箱をもたせ帰給ひ埋めさせ給ふ故に名つくと云
今按るに神功皇后の御ときいまた仏法わたら
すそれより数代経て敏達欽明の朝にわたれり
其相違をしるへし八幡本紀ニ云応神天皇御産の
とき御胞衣を御産所のうしろなる川にてすゝく
其所を今も胞衣浦と云其後箱にいれ茅津にお
さめ其上に松をそへて標とし給ふ後世あらため
名つけて箱崎といふと見えたり
秋田城の説
俗説云秋田城介とは城氏の者秋田を領せし故に名
つくといふ
今按るに右の説相違せり秋田城ノ記ニ云昔築秋田
雄勝二城一ヲ以テ為二東北之管轄其後廃レ之ノ警龜十一一
年復城一ス于秋田一ニ知二羽州者為城介或時兼鎮守府
將軍ヲ或兼二奥羽按察使一昌泰二昌罷二年罷レ之ノ永承五年
九月以二平繁盛一為一為二城ノ介一厥後又廃焉建保二年
三月藤景盛任レフ之ニ其子義景孫泰盛相継近世歓
一田信忠兼レ之ヲ其為二重可レ知ルレ知ル也此説を考知へし
補信夫摺の説
同同同所津兵之丁
俗説云みちのくのしのふもしすりはしのふ草を紋に
つけてする紋みたれそむ故に奇にもしのふもし
すり見たれそむとこめり
今按類に奥州の人の人は記せる信夫摺の記云しのふも
しすりのかり衣はみちのゝにしのぶの口にてそめし
となり佐夫の里は今の福嶋の事なり此所に
石ありこれに草能葉をすりぬりて絹をおしぬれ
はいろ〳〵にみたれそみて見ゆるなり今其石福島の
府より一里はかりへたてゝ山口村の山下にあり方二一
尺長八尺はかりなりいにしへは福嶋二三里のう地をす
べて信夫里といふ信夫山はお山といひて里ばなれ
蝦夷文談に信
にありと見えたり此説を用ゆへし
にあり今御山
夫山ハ信夫郡
といふと記せり
續陸奥壺碑の説
俗説云いにしへ田村麻呂奥州宮城郡の大石に弓の
弭にて日本の中央としるすこれを壷の碑といふ
今按るに壺ノ碑は奥州宮城郡に建石の長サ六尺
幅三尺なり其銘ニ云ツ多賀ノ城去レ京ツ一千五百里ハ去二蝦
夷國一千百二十里。去常陸國界四百十二里。去二里。去二
下野國界二百七十餘里。去二千里。此
神亀元年歳次二甲子按察使兼鎮守将軍從四位
上勲四等大野東人朝臣之所建也天平宝字六
年歳次二壬寅参議東海東山ノ節度使從四位ノ上部
省郷兼按察使鎭守將軍藤原惠美朝臣掲修造
新古今集に
也天平寶字六年十二月二日とあり
右大将頼朝
ろうたありみちのくのいはてしのふはゑそ
じらぬかきつくしてよつほのいしふみ
是を重つて俗説の
相違をしるへし
補手譚池の説
俗説云もろうしの書に出たる手続池は豊後内佐賀
関の白浜黒浜の事をいふ
一今按国に手続池は豊後佐賀関にあらず肥後天
草にありと云韻府群玉云ク手潭池日本国ニ有二凝
露臺臺上有手薄池池上ニ有玉基子不由制度黒白
瑣言ニ云唐ノ宣
分明○太平廣記云ノ日本國ノ王子来朝
宗ノ朝日本國ノ
平子来朝ス
善図撰
本國ノ之東ニ有集眞嶋ノ上ニ有テ
上ニ有手譚池池中ニ出ス平子ヲ不曲制度黒白分明冬
月令広義ニ云今暖暴子冬ハ
温ニ爰冷故謂之ヲ故ニ謂二之ヲ為暖玉ト云
則煖ニ夏ハ則冷シ○事文類聚
云玉ノ性冬ハ則暖ニ夏ハ則冷○
云玉ノ性冬ノ則暖ニ菱ハ又杜陽雑編又其
載此事ヲ○
載二咄事ヲロ貝原翁云冷暖ノ薬子ハ日本ニテイヘル人肌石類ガ
此説を
考へ見るべし
続古井に怪ある説
同同同同年番之事
俗説云古井には妖物ありて井に入ものあれはとり
ころすといふ
一今按るに怪にあらす輟耕録云峨帽の橋葉剃
といふ者の養下の枯井に猫松地たるをと
らせんとて人を入るに出ずまたゝび其井夫か父
越入別に二人ともに死せり是年ひさしく乾涸し
たる井なる故陰毒凝結す其気にあふて死し
たるものなり酉陽雑俎に古き井古き塚のう
ちには陰毒艶結する故夏秋の間おほく人をころ
寿世保元には鶏神孫
すこゝろみに鶏毛をなく類に
毛をなくるにとあり
すくにくたるは毒なし毛めくり舞て落つかさるは
此事保生
毒気あり
心鑑にも見ゆ
餌数斗をそゝきいれて毒気
をはらふへし本草にも熱醋数斗をいれて毒を
解すへし
寿世保元には酒をそゝきて
登記せり此たく
毒を解すへしともありと記せり此たく
ひなり
続塩井の説
俗説云ある国に塩出る井ありこれはむかしある僧
所の者のために塩を出す井をほらしむあるひは
山中なとにて水を加持して塩となすといふ
一今按るに非なり本草綱目云鹽井者今/解州及。
四川諸郡皆有リ塩井一汲二其水一ヲ以煎作レ塩如二煮作一
五雑組ニ云ク蜀有リ塩井一深百餘百餘尺又云青州塩出二於
北海ノ嶺一南塩出二フ南海ノ剣南一西川ノ塩ハ出二於井一ニ永康軍ノ
塩ハ出二ヲ於崖一并州塩ノ出ク於池ニ胡中ノ塩ハ出二ノ塩ハ出二ヲ於木一又有リ出二
於石一
郷邪代酔編云塩は海より出るのみにあらす井山地
木石よりも出るなり井は釼南西川に八百二十二あり
龍西西河縣障県法南ともに塩井あり山は永康軍の
崖より出るあり池は冀の河東又安邑にあり晋州雲中島門
渤海ともに垣地あり霊州に七ツの池あり慶陽に大小の池あり
会州に一つの池あり寧夏に二つの大池あり一つの小池あり東年に
鹹泉池あり五原に四つの池あり○又胡地女直国に木の枝のと
より塩出るあり浮泥蘇緑艶亭暹羅にも石より塩出ると見たり
日本にはかゝることをきかす北戸録云琴湖池の桃花塩は色桃花の
ことし又堀に赤塩紫塩黒塩青塩黄塩あり又塩に虎のかたちなる一
あり印のことく微のことく石のことく水晶のことく
あり日本にはかゝるたくひをきかす
会津風土記云陸
一奥国会津伊北郡月ノ輪庄に大塩里といふ処あり
これは右にのす永康軍并州
岩穴より塩湯わき出る
のしほのたくひなるに其下に
白礬硫黄丹砂の
所にて西行か歌といひ伝ふ二首あり
たくひあつて湯となれる也
あまもなく浦ならすしてみちのくの山かつのくむ大
塩のさとうらとをき此山もとにいつよりかたえす今
まてしほやみ地のく是等を考へしるへし百圖
広益俗説弁巻十八終
同同長谷筑波善左衛門
狩衣作
第
人物官職文籍
広益俗説辨十九日
歳時
器用音楽画図
雑類
広益俗説雑巻十九目録
狩野氏図書記
二寸長
豊蔵書
○人物并官職
続十善帝位の説訂輔
同朝臣の説
同尉の説
同上臈下臈の説
同被官の説
同雑色の説
同博士陰陽師の説
同同同広谷悦岸巻之十乙日
十二十十日辛亥一ノ日
同長者の説
同百姓の説随姓氏之別訂補
同奏者の説
同大工の説
同猶子の説
同檀那の説
同牢人の説
同検校勾当の説
鎌倉百官の説
○文籍
補菅音江音の説
○器用
補再拝の説
○音楽
一続想夫恋の説
○昼図
一唐書詩歌巻二十の目
續鍾備像の説訂画
○歳時
七夕の説
広益俗説辨巻十九
井澤長秀輯録
雑類
人物并官職
続十善帝位の説
俗説に十善帝位と称することあり
今按るに十善帝位といふ事正史実録にかつて見
えす思ふに四十二章経云衆生以二テ十事一ヲ為レ悪。身三ツロ
四。意三。身三者殺盗婬。口四ツ者両舌悪罵妄言綺
大蔵一覧報応品ニ
語。意三者嫉恚癡
とわるより誤
詳ニ出一干十事ヲ
一説に十禅帝と書へしといへるは
り来れるものにや
浮屠氏の説にかゝはりて穿鑿の論也惣して
一広川諸書巻之十九
禁裏といへるは僧尼以下の不正の者を禁する故なり
伊勢大神宮に仏法をいみ僧尼を遠けらるゝか
ことし今にいたるまて内侍所に僧尼の贈物を献せ
一す女官といへとも僧の女は釼象を手に取ことあた
はす是上古の遺法なり俗説のあやまり甚たし
からすや此段訂補
続朝臣といふ説
俗間無官無位の者も見たりに朝臣と書者あり
一今按なに非なり日本紀云天武帝十三年十月
巳卯朔詔曰更改諸氏之族姓一作二八色ノ姓一以二天下ノ
百姓一ニ云ク真人二ニ云ク朝臣三云宿禰回ニ云ツ忌寸五
云道師六ニ云臣七ニ云ソ連八ニ云ク稻置。日本紀私記云
朝臣帝王相親之詞也言我身随添之臣也。官位
問答云むかしは六位の者も姓につけて朝臣と書し
かとも後鳥羽院より後は禁別なり其ころまては
五位にも堅く制せらる三位回位はこれを書なり装
一束秘抄云三位以上は氏朝臣といふ菅原朝臣真
なとゝ云か如し三位以下は各朝臣といふ藤原忠光
朝臣なとゝいふかことし五位まては名はかりにて回位
よりは名の下に朝臣をつく類なり其故は四位より
一黄盆谷晩眸巻之一山
漸く臣下の別になれるこゝろなり是等をもつて
無官無位の者は書へからさることをしるへし
績尉といふ説
俗間に何兵衛ノ尉何左衛門尉何右衛門尉と書あるひは何
金吾なとゝ書ものあり
今按なに職原抄云左右衛門尉大ハ相二当従六位ノ上ニ小ハ
相二当正七位上唐名金吾校尉とあり同書に左右兵
衛尉大シ相二當リ従六位ノ下ニ小ハ桐二當ル正七位ノ上ニ唐名武衛校
儲とあれは無官無位の者尉と書ケるは非なることを
知へし
但し右兵衛を兵衛とよみ
右衛門をまつとよむ
続上臈下臈の説
俗間無官無位の女を毛上臈といひ婢女を下臈と覚
たるあり親王大臣なとを上臈とまうせとも俗間にとなふ
るところにあらすこゝにあくるは俗説にしたかふまて也
今按るに職原抄云上臈二三位典侍号二上臈ト大
臣ノ女或犬臣ノ孫也同大金云上臈第一号二大納言海人康介云大上
臣女或大臣孫也同大金云上臈第一号大納言海人源芥云大上
らうとは摂家御女也上らうとは三家等大臣の女也
同大金云参議教中
同大金云侍臣者公卿
又云小上臈ノ公卿ノ女
侍臣ノ女
一二三位以上女也
之卯令二昇殿一人也正
四位上下従
四位上下や
同依一ヲ]公達勿論勿者諸太夫公卿ノ孫或ハ為二北上臈ヲ中
原職忠女官考に云下臈は諸家格勤侍下北面帯刀
或は賀茂日吉の社氏の女なと参る六位を経る輩は必
其女下臈となると有是等を重つて俗説の誤を知
廣益谷兇草密こむ
一庸雄作郎親巻之十九
へし
続被官といふ説
俗間に僕従を被官と覚へたるものあり
一今按るに非なり公事言葉に被官とは其官々に附従
ふ者をいふ太政官の被官などいふ是なりと見えたり
続雑色といふ説
俗間に雑色とは奴僕のたゝひをいふと覚えたる者あり
今按るに非なり職原大全に雑色ノ良家ノ子補レ之良家ノ
子の諸太夫子也と見えたり
続博士陰陽師の説
俗るに白下を業とする者を博士と思ひ陰陽師とよめ
ことあり
今按るに職原大金句解等に古へより陰陽博士天文
一博士暦博士文章博士音博士書博士明法博士筆博士
医博士女醫博士針博士等の品あれは占卜を業とす
尤無官にては
る者はかりを博士とはいはさるなり此
博士とは云す
陰陽
師は職原抄に相二当り従七位ノ上一ニ唐名大下峠とあれは
無官の者をは云ざる儀なり
続長者といふ説
俗間豪富なる者を長者とよぶ
頭叢瘡解巻之也
今按るに此説仏書にもとつけり法華経信解品
長者窮子ノ喩同ノ譬喩品にも長者の説あり幸
事長殿
に略之
翻訳名義集ニ云長者ハ西土ノ豪族富商大賈積レ財鉅
万咸稱
神相全編云手ノ仇恕
此説相かなへり又祖庭
庁尾必作二大冨長者一
一事苑云長者ノ十徳ハ一ニ姓貴二ニ高位三ニ大富四ニ威猛
五ニ智深六ニ年春七ニ行浄八ニ備レ禮ヲ九ニ上數十シ下セ歸此
説は右に異なり本朝にて長者といへるも又身なり
其種類肉氏の内の司をいふ公家には関白武家には
将軍を称して氏の長者と云僧にも真言宗に東寺ノ
長者と称するあり土民にもあり遊女にもあり豪富
なる者をかきりていふにはわらす
続百姓といふ説補姓氏之別
俗間農民を百姓といふ
今按るに非なり百姓とはもろくの人をいふ
経華註ニ云百姓ハ庶民也孝経ノ疏ニ云百姓ハ謂二天下之
人一ヲ皆有二族姓一言百ハ挙二其多二其多一也ト考えしるへし
又本朝にて
は八十氏
なともよへりもろ〳〵の姓氏といへることなり
一説に公卿二十氏武士八十氏合て百姓と云は笑ふへし
勿論土民の中にも
さま〳〵の姓氏ましはりあらんなれとも公民のみに
かきりて百姓とはいひかたし因て思ふに允恭天皇の御
宇諸臣に勅して湯をさくり神に誓はしめて此氏を
たゝさる其後万多親王姓氏録を輯られしまては猶
いまた一千一百八十二氏ありしか世くだり人松とろえて
己か姓氏を取うしなひ源平藤橘の田姓ならてはなき
こうに覚え我こそ其人の季なりと偽り系図なとを
妄作し見つからわさむき他にてらふもの多しとなん
一補姓も氏も元一つなり姓は體にて氏は用なりしかれとも
わかつていへは源平藤橘は姓なり
姓は万世まて
かはらす
新田足利北
これは所により代に
故に源氏平氏藤
一条菊池楠は氏なりこれ
よつてかはることあり
氏橘氏とはいへとも新田ノ姓足利ノ姓北条ノ姓菊池ノ姓楠ノ姓
なとゝはいはざるなり又新田足利なとを名字と覚也
たるものあり又非なり是家号なり名字にはあらす
考へ知へし此段訂補
續奏者といふ説
俗間に云次の者を奏者と云
一今按るに非なり海人藻芥云近日奉行頭人等内々
の取次を奏者と称すること傍若無人也奏の字は天
子にかきりていふ事なり然るときは図白以下は申次
と称すへし
續大工といふ説
俗間に工匠をすへて大工とよぶ
廣隘各免僻意之十乙
今按るに非なり百寮訓要抄を考るに大工権火
土小工権小工は禁裏より定め置るゝ内匠寮のうちの
名なり
続猶子といふ説
俗間養子を猶子とよふものあり
一今按るに檀弓ニ云ク兄弟ノ之子ハ猶レ子ノ也とあれは甥を猶
子といふ養子をいふにはあらす
続主君を檀那といふ説
俗間に主君を称して檀那といひあるひはわが寺の坊主を
檀那坊主といふものあり
今按州に書言故事に僧道称二施主一ヲ云ク檀那檀越
とわれは施主より僧を檀那坊主といふは非なりいは
むや主君をや
続牢人といふ説
俗間に主君なきものを牢人と書
今按るに非なり牢の字は読字彙補に興宇同
と記す字彙に牢ノ所二。以。拘二罪人一ヲ也とあり主君なき
者をは浪人と書クへし此字柳子厚か説に出たり文苑
彙雋にも浪人除跡無二定止一人也と見えたたり貝原好古
続検校勾当の説
説
同同同播種巻之也
俗間に検授句当は盲目の官とのみ覚えたる者あり
今按るに盲目のみにかきらす高野山金剛峰寺一
山之主を検投といふ検校はもと僧官なり日本推
古記云自今以後任二僧正僧都一応レ検二技僧尼一とある
より始る職原大全云御仏事之時納言参議検二校ニ
其事一ヲ曰二之シテ俗検校一又云ク句當専當ハ在リ于眞言家一ニ
禁秘抄ニ云掌侍六人。正四人。權二人權ハ自二上古一有
レ之此内以二一ノ内侍一ヲ為二勾當一ト職原大全云内侍ハ則指二掌
侍一ヲ也此四人ノ内第一ヲ曰二ク句当ノ内侍一今ニ長橋ノ局是也又
関白家にも雨当といふあり職原抄程に句当は執栖
家の職事程の者也とあるをもつて其あやまり
を知へし
補鎌倉百官の説
俗説云源頼朝百官をにせて私に百官を定め置る是
を鎌倉百官とも東百官ともいふ
今按るに頼朝鎌倉百官を定られし事東鑑以
下の書に見えす俗に相馬百官ともいふ此説是成
へし将門記に桓武天皇五代の孫なれは帝位につく
とも子細あるへきかとて見つから平親王と号しある
ひは平親皇とも称す左右の大臣大中納言参議文
武大弁八史等百官を直とあり此とき定めたる
ものならむ
文籍
ヲンゴウヲン
補菅音江音の説
俗説云今漢音呉音といふはあやまりなりむかし菅家
江家の学をつかさとりしころ両家の読法を菅音
江音といひしなり
今按るに非なり西峯松下氏云漢音は応神天皇
のときはしまる応神帝十六年二月百済王仁を
よばしめ給ふ王仁論語千字文をたつさえ来る帝
の太子菟道雅郎子王仁を師としてもろ〳〵の
典籍をならひ給ふ通暁さることなしこれ漢音の
はしめなり大織冠鎌足熱政のとき百済の尼法
明対馬に来て呉音にて維摩経をよむ呉音の
はしめなりこれより仏書をよむに呉音を用ひ
本朝学原
儒書をよむもの其音を禁し来れり
○百源の尼法明か事は
とあるを考へしるへし
東斎随筆に見えたり
日本伝ノ説
器用
長谷谷片本之事
補再拝の説
俗間に麾を再拝といふ
今按るに非なり黴原抄句解白井宗固云ノ中世
魔を紙にてつくり其なりの祓ににたるをもつ
我麾を再拝とあやまる是は祝辞禊修のはしめに
江家次第云本朝之風
四度の拝の事を再拝にて
拝一
四度拝神謂之ヲ兩段再
羽刊と書たるを見て麻さしわれてよめるたにおかし
きになりの額したるをもつて麾の名とするに
いたれりつたなからすや
音楽
續想夫戀の説
俗間の書に琴の音はおつとをおもふてこふとよむ想
夫恋といふ楽なりと記す
一今按なに卓氏藻林云相ノ府蓮楽府歌王倹為二南
斉相一一時所_レ辟皆才名之士時人以為入以為入二
蓮華一也謂如二紅蓮状二緑水ニ今ニ号二蓮幕一者ハ自リレ倹始シ後ニ
笛曲訛作一想夫憐一と見えたりしかるを想夫恋と
記するは弥あやまれり
同四月一日同三月七日
画図
續鍾馗の像の説
俗間に鍾馗大臣の像とて尊ふものあり
一今按に補宋沈括存中カ補筆語ニ云宋ノ征西将軍宗
盤有レ妹名二ク二鐘馗二後魏ニ有二李鍾馗馗璃鐘
馗一然ハ則鍾馗従来亦亦ク遠矣非レ起二開元ノ之時一始有レ尽耳
鍾馗ノ字一ニ作二鍾菱一ニ○続博物志云ク俗伝ノ俗伝ノ鍾起二於
唐ノ明王ノ之夢二非リ也北史ニ云ク堯喧本ノ名ハ鍾葵字辟邪
干勁字ハ鍾葵宋馨妹ノ名鍾奏非二特明王ノ特ニ但葵馗
二字異□耳又曰終菜名本草綱目ニ云謹按爾雅
云鍾馗菌名也考工記ノ註云終英ノ推名也菌似二相
形一故得二同稱一俗畫神執二一ヲ推一撃レ鬼故ニテ亦ク名二ク名二好
事者因作二鍾馗伝一言是未レ第進士能略レ見遂成故
事一不レ知二其訛也とあれは信用するにたらさるなり
此段小補
歳時
補七勺の説
俗間に七夕と書てたなはたと訓する事あり
一今按るに本朝上代に天棚機姫といふ人あり旧事
古語拾
紀ニ云今二天ノ棚機姫ノ神ヲヲ二神衣一
同月一日長谷兄忰長三
遺同レ
倭姫世紀ニ云
天棚機姫令織太神ノ和妙御衣是名儀宮殿舎考
天棚機姫入立織太神和妙御衣是名礒宮
殿舎考
証云齋
内親王川原
類聚神祇本源ニ云建二八尋殿屋ヲ令天
殿院是也歟
遷幸要略
棚機姫ノ神ノ孫八千千姫命織二ヲ織二テ太神ノ御衣一ヲ
神名略記ニ
所載
同レ上
とあるに続齊諸記に七月七月七日織女詣二牽牛ニ
これは武丁といふものゝ偽作より楽するものなくしてあやまり来れり
五雑組云牛女之事始二於寿階ニ於テ武丁之妄言一ニ一成二成二成二成二
之浪説ニ千載之下婦人女子伝テ為一口実可也文人善士の双ヲ為二常ヲ常人常二常二常二常ノ
語一ト使二天上列扁被二ノ為被二示メ可レ怪之甚ニ一耶○紀災之
家集云まことかと見れども見へぬたなはたは
とあるを牽強附
空になき名のたてるなるへし
会して七夕をたなはたと訓せるものなるへし
廣益俗説辨巻十九終
狩猟
広益俗説辨二十
佛家艸木畜獣
魚蟲引用書目
広益俗説辨巻二十目録
雑類
狩野氏図書記
神村長
豊蔵書
○仏家
続仏像を彩色する説訂補
同石仏生レ汗説訂補補
同仏像光を放ち言語説訂補
同仏を石に尽附石に文字を書ク説
引補
同名山にをいて仏の出現を拝する説訂補
同仏舎利の説訂補
一百度参詣の説
唐衣竹詞判巻之二十目
同妙見菩薩の説訂補
一同古の僧には奇特ある説
補古の僧蚊を封する説
古の僧石に尽く説
続現在地獄の説附龍燈湯泉丁補
同地獄を夢る説
同住持といふ説
同極重悪人といふ説
○草木
木を伐てたゝりある説
○畜獣
續馬角の説訂補
同牛黄の説
同物実の説
○魚蟲
続くはず貝の説
○俗説弁の説
○俗説辨引用書目
長丘八合兄悴矣三一丁
一庸在化訓執巻忘二十四日
広益俗説辨巻二十
雑類
井澤長秀輯録
仏家
続仏像を彩色する説
俗説に仏は黄金の膚なり故に簿をおすといふ
一今按るに尚書故実云仏像本胡夷朴陋人不レ生
一坂ノ今之藻繪彫刻自二戴順一始頤嘗刻二一像一像一像一自隠二帳
中一聴二人ノ減否一随而改レ之ヲ如レ是者積二十年一厥功方就
戴顯は晋の時の者なり
此人始て仏像を彩色せり
大智度論云天竺国熱以二身臭二
今仏像を黄にするは
故ヲ以テレ香塗レ身ニハ
筆疇樵談云或問浮
香を塗れるに比したるか
一廣益谷岸巻之二十
慶喜代謝辨養之二言
屠氏以一ノ身ヲ為二旅泊一何必殫二費金朱一奉二耀土木一曰小
人性貪非二窮レ奢テ極二侈無二以起二其信心一ヲ以起二是等をもつて
考へ知へし此段訂補
続石仏生汗説
俗説云ある山に石地蔵あり時々汗を生す是地獄に
いり衆生にかはつてくるしみをうく類故なりと云
一今按るに括異志云夷陵。有陰陽石陰名ノ當濶陽
廣輿記五
石常ニ燥旱則鞭二陰石一ノ兩則鞭二陽石一陽石一ヲ皆應一
雑組又同
晋書云北山ニ有二赤石白石白石以二両石一ヲ相打テハ則水則水潤
聞
見
雑録云堆峡ノ左有二大石撃レ石下ル○己瘧編云
魏國公ヲ家一對ノ鴛鴦硯並ニ處ハ則硯ノ水自ラ酒○天寳遺
事野客叢書云。學士蘓通有錦紋花右鏤テ為竿
架嘗置硯石之間一ニ毎ル天欲雨此ノ石梁津出ノ石梁津出ノ石架津出ノ如レ出ノ如レ汗ノ
宋
名臣言行録に云く孫甫之翰といふ人の許にある
肴硯をもち来てこの硯おのつから水本価三十千
といひしに孫甫こたへて一揆の水たに直わつかに
三銭なるにこれを買て何かせんといひしことを記せ
りある人の説に土佐国足摺明神の社内に潮
石といふあり此石潮のみ地ひにしたかひて水本といへ
り是レ等の石をもつてつくりたる仏なるへし鶴
続仏像光を放ち言語説
俗説云むかしは人皆信心ふかゝりし故仏像も光を
同長笹片岸長之二
廣式ノ作議報著書
はなちものをいひ給ひぬれとも末世に及ひ不信心に
なりしかはかゝる霊験もなしといふ
一今按るに此説非なりたとへは金銀銅鉄石木を
もつて神仏の像をきさみ人倫禽獣の形をつく
るども金銅石木はもと言ことあたはさるか其性なり
若ものいふ事あらは妖怪なり前漢書云昭公八年
春石言レ晋晋ノ平公問二フ於師曠封曰石不レ能レ言神或悉
焉左伝云昭公八年石言二フ于晋ノ魏楡二又云晋ノ製摧
傳ニ石言二於陀神代巻云蘆原中ノ國ハ者磐根木株草
木猶能言語とあるたくひなり又光をはなつことは
一二程全書に程明道先生京兆郭薄に任せるとき南
山の僧舎に石仏あり歳其首光を放つといふ男女あ
つまり視て昼夜ましはり処政をなす者も其神を
おそれて禁することあたはす先生はしめて至りて其
僧をなしりていはく石仏とし〳〵光を現すときく
これありや僧答てしかりといふ先生いましめて又光を
玩すをまちてかならすまつまうせ吾賊事あれは
ゆくことあたはす其首を取て就て見るへしといはれ
けれはふたゝひ光を現せすとあり是皆狐狸のた
くひ石に憑草木に託し言を発し光を放て類なり
補
草木子に昼粉の仏像目を鏤し光を放つは曽音をこと
壁魚に和し色を設れは日に近つきて光あり
に正法に奇特なしといへは妖怪なきそ殊勝なるへ
おもふ
きに俗情のよるところ笑ふへし此段小補
続仏を石に昼附名に文字を書説
俗説にある国に石に仏像を尽たるあり是いにしへ
わる僧仏像千枚をゑかきしとき風吹ちらしてかよ
はらの石につきたりといふ又あるところの河の石
文字を書たるありこれもむかしある僧経の文字を石こ
とにしるしてしつめたりといふ
一今按るに仏像及。字を書こと更に神異にあらす
草木子云亀尿可二シ以テ和レ墨写レ墨写レ字ヲ入レ石、○貝原篤信
大和本草附録に此説を載て日本にて昔仏経を
石に書其文字久しく脱さるも此法なりといふ今も
其石わり本朝食鑑云亀尿東レ之法置二添盆上一冊
鏡照レ之出
一説に蒼耳子油をもつて墨をすり文字を書は
石中に入て長くおちすといふ又一説には其香を
油にいれ蛤粉の末をませ
石に書はおちす其云
是等の法をもつて書たるならん
此段小補
続名山におゐて仏の出現を拝する説
俗説云駿河の冨士山出羽の湯殿山なとに参詣する
もの山上にて仏の出現を拝することありといふ
今按るにいのるにしたかつて感応ありといはゝ左
同征谷免倅巻之二十
もあるへし目のあたりに出現なと思へるはいと
つたなしとふに朱子語類云娥眉山有レ石号二菩薩
石有如二水精状一於二リ日中ニ照レ之便有便有二円光想是彼処
山中ニ有二一物一日初出照二見其影一而映二人影一如仏影一如仏影
耳娥眉山ニ看レ佛ヲ以二テ五更者本草綱目ニ云寳石又曰二ヒ
菩薩石曰放火石曰二放火石ト曰二ノ陰陽石一石色肇白明徹出喜
州蛾眉山五台匡廬岩宝ノ間ニ日中ニ照セハレ之ヲ有二五色二
酉陽雑俎云鏡石ハ濟南郡有二
如二佛頂圓光一ノ因ヲ名レク之
方山一山南有二明鏡崖右一成都
記云石鏡
とあり是等のたくひあるにやはかり
塋徹如鏡
かたし此段小補
続仏舎利の説
俗間に佛舎利と云て尊ふものおほし
今按るに仏舎利は希にしてにせもの多しと
かや事文類褒にある僧西城に遊て仏弟を得
たりとて明宗に献し大臣にしめせしに趙鳳斧
をもつてたゝきしかは手に応してくたけたりとあ
り通鑑綱目に唐の太宗のとき波羅門僧仏歯と
いひて人をあさむきしを暫こゝろむるにうつところ
の物こと〳〵くくたく見るもの市のことし大夫伝
貧といふ者ノ其子を呼て吾きく金剛石といふもの性
同四十十日午後之二
至て堅したゝ鈴羊角これをやふる汝ゆきてこゝ
ろむへしといふ其子父かことはのことく羚羊角を以て
又隋唐嘉話
かの仏歯をたゝきくたきたりと記せり
にも出たり
本草綱目云金剛石ハ出二西番天竺諸國一ニ雖二鐵椎撃一
之亦不能傷惟羚羊角扣レ之則潅然氷津番僧以
元佛牙是也
東坡物類相感志云羚羊角能一
砕二佛牙ヲ一人髪ノ根可レ粘二起舎利ヲ
又云
獏歯骨極堅以二刀斧椎鍛一鉄皆砕落火亦不能焼
人得レク之詐充二佛牙佛骨一以誑二俚俗一ヲ時珍カ曰ク曰ク世ニ傳ノ発
羊角能ク碎二クト金剛石一即此物相畏耳又云人患二石淋一
有二石塊一刀斧不能レ破人専レ心生レ癖有二凝塊凝塊凝塊一凝結
為」石牛黄狗実鮮答皆獣之病也沙淋石淋舎利
子皆精氣之凝結也とあり考知へし
子一以テ童男女ノ髪根ヲ一
可レ引綴レ髪ヲ上ル也
此段小補
霊雪録云
如試二舎利
続百度参詣の説
俗間に百度の参詣といふことあり
今按るに中洲埜録云部陽何梅谷は儒学をも
つてきこへたる者なり其妻年老て仏をたつとひ
一日ことに観音の名号千遍をとなふ梅谷他のそしり
をかちてとゝむれともやますある日梅谷急に書
をよふこと再三におよふ妻いかつてなんそさはかしく
同長谷院悴巻之二十
我をよふや梅谷こたへていはくわつかによふこと二度三
たひなるさへ汝いかる観音日ことによはるゝこと千遍
ならはいからさらんや妻頓悟してやむとあり今俗
間の百度の参詣もこれにひとしかるへし一笑に
たえす
續妙見菩薩の説
俗説云妙見菩薩は神なりとて宮号を用ることあり
一今按るに妙見菩薩縁起云妙見菩薩或は班足玉
と生れ摩酸首羅とあらはれ上元大乙神となる
天に在ては北斗尊星漢土にては真武上帝たりと
ありこれによつて考るに妙見菩薩は北辰菩薩
陀羅尼経云我カ北辰菩薩名曰二妙見フ妙見一ト處二於閻浮臺
大智度論云
衆星中最勝神仙之仙菩薩之大将一
妙見菩薩有
妻名喜徳女法苑珠林ニ云
時ニ有二菩薩名一切妙見ト一切妙見ト一
班足王ハ賢愚経ニ云閻
浮提有二一ノ大國一名二波羅奈國一王ヲ曰フ波羅摩達王一ト入
レ山。橄戯林中ニ有二牧師子一王從二師子一ニ成二欲事一ヲ師子從
レ是懐胎日月満足生二一ハ一子一形盡似レ人ニ足班爛字為二
班足王
大智度論作塵足王ニ
又仁王経詳ニ記之
摩酸首羅ハ代醉編
摩酸首羅か事
云摩酸首羅扶南國王也
上元大乙
大智度論精ク見
綱鑑大全云
神は漢書云祀太乙以昏時祠至レ明
漢武帝立太
同四月一日大阪神経営地
巳ノ祠○事物紀原云宋天禧二年閏四月詔加貞
武号東太一西太一中太一白氏文集戒求仙ヲ詩ヲ
徐福文成多シ誰誕上元太一虚
祈祷ス以此詩ヲ見之仙家宗之明
北斗尊星ハ太上
感應編云三台北斗ノ神君在二テ人頭上一ノ頭上ニ録二人ノ罪惡一奪二
其紀算一
抱朴子ニ云弊惑ハ火精生二朱鳥ヲ一ヲ太白ハ金精生二
白虎一ヲ歳星ハ木精生ス青龍キ一辰星ハ水精生二玄武ヲ一
辰星は則北斗尊星
にして妙見なり
真武上帝は玄武なり史記云
後漢書ニ云
北方玄武同註ニ云北宮黒帝其精玄武。
玄武ハ北方ノ
之神亀蛇合體ヲ。文選註云亀與蛇交曰ナ
武一北方之神獣又云太一常ニ居二居二俊玄武ヲ一
朱子語
類云玄は亀
故ニ号レ玄ト
位在北方ニ
武は蛇なり
身在鱗甲一
故に武と云
是
もと虚危星の形これに似たり故に北方を名
つけて玄武七星となす今玄武をもつて真野
とし亀蛇を下に作るすてに義理なし五雑組に
真武は玄武なり朱雀青龍白虎と四方の神なり
後世地をほりて亀蛇を得廟を建て北方をしつむ
按ニ国語ニ
朱鳥白虎蒼龍の神は亡滅して祠なし。
云號公
夢ニ在廟有神人面白毛虎孰鉞西方白虎金正
官○山海経図賛ニ云西方葬収金神白毛虎瓜瑪蛇
執レ鍼ノ傳ニ云西域房陵ノ間有二白虎神一
好ヲ飲二人ノ血一ヲ異地記ニ云金精化メ為二白虎ニ虎苑ニ云虎ノ梵ニ云虎ノ梵ニ云虎ノ賛ニ
曰白虎金精○岳陽風土記ニ云華客令宅ノ東北ニ有老
子ノ祠一曰二大皇観門一ト門之左右有二二-神一道家ノ所謂青
龍白虎也白虎神は陰陽家に云
一金神なり朱鳥蒼龍神は未レ考
わつかに云武のみ
残れりとあり玄武は今の妙見なり霊符像の
霊符の
前に亀蛇を置ものは玄武神なる故なり
事詳に
同同月一日同二十二丁
神仙伝に
見えたり
日本霊異
拾芥抄云妙見寺在二王城四方一
記ニ云河内ノ
国安宿ノ郡信夫原寺者妙見菩薩
燈燈の処今諸国に妙見宮といへるは妙見寺をあやまる
公事根源云妙
見は後朱雀帝長暦年中宇治関白に仰合らるゝ
に御拝は有へからさるよし申さる其理あるに
よつて御拝はなし是等の説によつて見
れは妙見は異城の人にして我朝の神にはあら
すなんそ色号を用むや是のみにあらす不動
毘沙門摩利支天は神と覚えたるものわりいと
抄し此段訂補
続古の僧には奇特あると云説
俗説言いにしへの僧は仏裳薩の化身なる故に仏
のかた地を現し光りをはなち鉢を飛し死たる
ものをもいのりて蘇らしめ流るゝ水をもとゝめ奇
特不思議のことおほし末代にいたりてはかゝる僧な
し仏法衰微のしるしなりといふ
一今按るに惣して仏法にもあやしき説を嫌へり
この故に大蔵一覧にも世尊纔下生[サ]乃[チ]手指
レ天ヲ一手指レ地ヲ周行七歩目顧二四方ヲ云ヲ云ク天上天下唯
一我獨尊雲門。云我ノ嘗初若見一棒打殺與二狗子喫
一貴レ要二天下太平ヲとあり若仏法に奇持あらは古へ
長谷谷免岸長之二
程こそあらすとも少はにたるものも有へけれとも
かつてかゝる者をきかす思ふに古は仏法とたにいへは
いかなる事をもむさと信仰してうたかふものなし
今は世文明になり奇異なることをは放下幻術と
いやしむ故僧等も用せられさるを知てまなはすと
見えたりいにしえの僧まされるにあらす今の僧
松とれ類にからす仏法よりいはゝ衰微にはあら
すして繁昌といふものなり
補古の僧蚊を封する説
俗説云ある国の農民か家の内の一間に収なきところ
ありこれはむかしわる僧此家にやとりけるとき蚊
を封したる故にかくのことしといふ
今按るに是土地の陰陽暖冷によつて蚊なき所
も有へし宇宙の広博なるさま〳〵の事多し
隠岐国嶋後海部郡森郷葛田といふところに畔を
隠州親
へたてゝ蛙ならぬ所あり
豊後国海部
聴合記
郡佐賀関に白浜黒渓といへるあり其石ひとつも
竹次次佐
まじはらす白黒のさかひ縄をひけるかことし加賀
賀関記
安芸国に佐東新庄といふ村あり佐東は北新
庄は南なり其さかひに桃の木を植たり佐東の
書之立八合訖悴長之二ヶ
方の枝になれる実はにかく新庄の方の枝になれ
一日本奇諸考
類実はあまし
故事因縁
是等何故といふことを
しらす一屋無レ蚊処ツも此たくひなるへし
補古の僧石に画類説
俗説云ある国に石に絵を書るあり是はむかしわ
類僧たはふれに絵を書るかきえうせすして今
にありと云
今按るに非なり是は花紋石のたゝひなるへし
貝原益軒云大明一統志云南手縣。花紅石出ツ色
青ク紋素有二山水禽魚形状一壱岐長者ノ原の海岸に
屏風岩といふ石あり其色黄褐なり其紋理人物
魚其形にたるのみにあらす
禽獣蟲魚草木なとに類す
頭日鱗尾のかたち真と
おな
ー
○麻疹又云木葉石すちめ木の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の木の木の木の木の木の木の木の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉の葉のこ
山の北の麓筑紫宗像大宮司宅の跡信濃国
善光寺の辺榊といふ所出羽図月山の谷にも木ノ葉
右大和
石あり
本草
日本奇諸考云播摩国海の渚の石
に絵あり此故に絵島と号す。肥後国菊池郡迫
間といふ所に黒き石に白き絵あり皆武具を書り
甲冑靱鞍鐙幕なと見在思ふに此たくひなるへし
続現在地獄の説附就燈湯泉
百貨谷尼準参之三
俗説に信濃の浅間山越中の立山肥前の温泉岳肥
後の阿蘇山薩摩の霧島。岳は現在の地獄なりこの
故に堀た地火出湯涌罪ふかきものはのほることあた
はすといふ
今按るに非なり神異経云南荒外有二火山一晝夜
火燃暴風不増猛雨不滅聊邪代醉篇云西海西
有二浮率山二山下ニ有レ穴穴ノ中ニ有レ火其色如レ水ノ波濤灌
蕩而光不滅名曰陰火一又云部州府城東南五十
里有二湯泉能ク熟二生物一ヲ泉ノ中ニ時見二時見二赤魚游泳二団文選
貞原氏云温泉ある
註ニ云蜀都ニ有火井中常自出火
所に往々泉より火也
元本又推てあつき泉をいふ大契湯なり俗人は地獄といふ越中の
立山肥前の嶋原日向の鶴見原なとに有広き池の熱湯なるも
あり出雲国玉道河の中三四間四方熱湯
博物志ニ云石硫黄
わき出肥前高来温泉に魚ありといふ
出レ。足彌山一ニ去二高昌一八百里有二石硫黄数十文縦横
五六十畝有取二ル硫黄晝視二孔中ヲ上状如烟而高ヲ數
尺夜視皆如燈光ノ明高尺餘本草云盤國有火山
貝原氏
山ノ旁皆焦溶流数十里乃凝堅即チ石硫黄
云信州
浅間岳越中ノ立山越後ノ妙高山肥前ノ嶋原肥後ノ阿蘇山日向ノ
霧島すべて熱湯の出るは硫黄なり伊豆ノ大嶋のやけたるも硫
益なりと云信濃の草津に温泉あり知死跡にわきあふか
湯の沫をことり煮れは硫黄となる此たくひ北雷諸国にこと多し
又云
摂州有馬温泉辺に
有砒石處亦有二湯泉浴之有毒
鳥の地獄と言有此類也
五雑組ニ云温泉之発源其下必有朱砂或琉黄礬
慶慶令院準従之一
石蓋天地至陽之精所レ結也閩中ノ諸泉皆作二硫黄一
一気甚者重レ人ヲ不レ可レ耐人有レ疥者浴レ之輙愈一
日本にて
も諸国の
温泉此
さゝひ也
代醉篇云升菴云水経ノ註ニ火山似レ水ニ
中一出ツ名テ曰二ク焚臺一今南中往々ニ有レ之火井ハ在二リ蜀之臨
一印一今嘉定捷為有レ之其ノ泉皆油熱レ之ヲ則然人取テ為二
越後ノ国臭水村の水油といふは此」たゝひなり日本紀云
燈燭一
天智帝御くう七年越国燃土燃水を献すとあるはこれ
をいふなり。貝原氏云石炭日本にも処々にあり其いろ黒して
うるしのことく堅きこと石のことくにして覚あり火にたけは序を
てしす老学菴筆記云石炭今西北所焼之煤則
焦氏筆乗論
石炭漢地理志論章郡出石可被為薪ト
陰火一ヲ曰ク木玄虚海賊陰火潜然
按二見二于
文選一
初メ不レ知二其
説二ヲ後ニ見二ル嶺南異物志ヲ海一中ノ水遇二陰晦ニ波如一然火一テ満
レ海。以レ物撃レ之逆散如二星火一ノ有レ月不二復見一意玄虚指
此耳
肥後八代郡不知火豊前都郡神田ノ火
隠岐嶋前知夫里美田庄の海火此たゝひなり
時珍云海
中陽煙如二火焔起於水面一
世に龍燈
と云は是也
海東諸国記ニ云フ
下野国室八嶋の烟これ
日本下野國ニ有二テ火井産二硫黄一
なるへし羅山文集云水
面ノ靄気気
昼為烟
此段
是等を考へて俗説の相違を知へし
訂補
続地獄を夢類説
俗説云人死してよみかへるもの地獄のことをかたること
われは儒士の説に地こくなしといふはあやまりなり
といふ
一今按るにそのかみ仏祖地獄輪廻を説るは善を
すゝめ悪を懲さんとの方便なるをわきまへさる
者実にありと思ひてしきりに怖る爰をもつて
もと地獄輪廻なしといへとも惑へ雨によつて心に
まうくることたとへは眼疾をうれふる者空中に
花を見るかことし固思ふにむかし一僧あり堂を下る
とて生物をふみころすと覚思ひめくらすに昼階
下に蜂のふしたるを見る今ふみたるは蟻なるへし
此むくひによつて地獄に堕かとかなしみなからまと
ろみし夢にかの蟾冥司にうつたふる故地獄に陰
ると見甚た驚て座し且をまちて階下を見る
に蟻にはあらすして爪の破れたるなりと鬼
神論に見えたりこれ思ふことを夢見たるなり古語
に商人不レ夢レ非人不夢レ象といへるは見さるもの
をは夢見すとなり世俗幼より地獄あることを
聞て心にわすれさる故精神昏昧するの間地
獄にいたれることをゆめ見たるものなり
続住持といふ説
俗間寺主を呼て住持といふ
一今按るに山庵雑縁に住持者住二一切菩薩留所
住ノ境一護二持諸仏之正法輪一所レル謂仏子住持スとあれは
住持とは見たりに云がぬこととなり
続極重悪人といふ説
俗間に僧等すゝめていはゝ極重悪人無地方便唯
称弥陀得生極楽と経にあれは善行を修し戒法
をたもつも雑行なり愚痴の凡夫は学文修行は
ならさる故如来の方便をもつて一念の念仏にて
極楽にすくひとり給ふとをし遊となり
熊沢氏云此文はかへつて悪をおしゆるものなり其
故はかくをしへすして置は人々愚をはち不義を
にくむ良知あれは悪人盗賊などいはれては一
命をも捨るものあり然を我々こときは愚をなす
かことはりとゆるして恥る心を失へり又極重
悪人の文は西織故にことは偏なるか翻訳の時
文字をあやまれるにや夫愚人といふは才力つね
の人にすく礼非をかさりあやまちをおほひ人を
倒し己を立むとするたゝひなれは念仏題目こ
とき涙はかなることを信するものにわらす仏経
にいふ極重悪人は悪をなせるものにはあらし今の
世に悪米なとゝいふにひとしき人中の屑にて中
〳〵大悪をなす才力はなしかゝる家味の者は
一黄海谷蛇眸巻之一
道理をいひきかせても得心せねはせめて念仏より
外の方便なしとのことなるへし日本水土解
草木
木を伐てたゝりある説
俗間に古き木なとをきりてたゝりにあへりといふ
者あり
今按るに蒙昧なる者見たりに樹を荒神杜神
竹林神なとよひなせる故狐狸等の妖物其樹に
依託して愚盲の者其樹をけかし其枝を松れは
たゝりをなすと見えたり朱子俗類云ある人い
はく郷間に李三といふ者あり死して厲となる
郷曲およそ祭祀仏事あれはかならす此人のた
めに饌具をそなふ若かゝのことくせされは竹食
日本にていふ
左義長なり
こと〳〵く気かさる後に人ありて爆杖
をはなちて其所レ依の樹をやくこれより遂に絶
てやみぬと朱子曰是他狂死の気いまた数せす
爆杖に驚し散せらることあり此たゝひなり速
に伐て薪にすへし
畜獸
続馬角の説
同長谷佐眸善二三
俗説云馬の角はたからなりといふ
今按るに史記云文帝十二年有レリ馬生二テ角於呉ン漢
京房易伝ニ云ツ臣易レ上レ政不レハ順厥妖馬生レス角
前漢書
又同
呂氏春秋ニ云人君失レ道ヲ馬有レ生レ生レ角ヲ用フこれをもつて
見れはたからとすへき物にはあらす
此段訂補
續牛董の説
俗説云牛黄はたからなりといふ
今按るに酉陽雑俎云牛黄ハ在二膽中ニ牛有レ黄者吐
或弄レ之鞍畔録ニ云鮮答乃走獣腹中ニ所産独出リ馬
者最妙恐亦是レ牛黄狗寶ノ之屬耳本草綱目ニ云ク牛
之黄ハ牛之病也故ニ有レ黄之牛ハ多病。而易レ死諸獣皆
有黄者亦然[リとあれはたからとするにたらす
績物実の説
俗説云狗宝はたからなりと云
今按るに本草に狗質生二癩狗ノ腹中ニ状如一状奴
石ニ非レ石ニ其重如レ石而包膜絡之とあれはもてあそ
医書大全ニ所レ載ル
ふへき物にあらす。
狗宝ノ説又同
魚蟲
續不食貝の説
俗説云ある国にくはす貝とて貝の石になりたる有
同長井幸吉平吉
是はむかしある僧此浦人貝をもち来りしをこひける
に人のくはぬ貝なりとこたへけれはにくき。事におもひ
封したりける故た地まち石になれりといふ
一今按るに本草綱目云石魚出二湘山縣石魚山一ニ金
一台紀聞ニ云郡県河ノ灘上ニ有二亂右一中ニ有二石魚長可二二
三寸一天然鱗鬣或ハ雙或ハ隻不レ等本草綱目ニ云ク石蟹
生二ス南海一ニ是尋常蟹年月深久。水沫相著因化成レ石ト
三才図会云石蟹出二南海一今嶺南近レ海。州郡皆有レリ之。
海槎餘録ニ云石蟹ノ
桂海虞衡志云石蟹生二海南一海
生ス崖之楡林港ニ
真是蟹海沫所レ化又有二石蝦一亦其類これは海の海ノ沫の
化して石蟹となれ類と記せり朱子の説に高山
に螺蚌穀或石中に生してあるを見る此石すなは
ち旧日の土螺蚌なり則水中の物変して高く
なり柔なる物変して剛なると石魚石蝋もこれ
ならんかかゝるたくひあれは右のくはす貝も貝の
石になりたるなるへし土佐国安喜郡唐浜村に
大和本
貝に似たる土あり
備後国帝釈山の麓庄原
草にお
村の山に貝に似たる石あり是等も古の天地の
ときの貝なるへしあやしむにたらす此段釘補
補俗説辨の説
三月三日五十三日
一広谷雑部巻之二十
或云予世におこなはるゝ所の神書を見るにある
ひは神祇の来由を記しあるひは神道の明理を述
たり今吾子かあらはすところの俗説弁を見るに神
道のことをしるすといへともおほくは人物の減否を論
せりひとへに玉石桐ましえ薫藕をわかたぬにひとし
神道にをいて罪あるに似たり答云くおよそ書を
あらはして梓に地りはむるはあまねく世におこな
はれて民間の資ともならしめんか為なりしかるに
近世印行する神書を見るにおほくははしめより見
ることをいとひ手にたにふれさるものあり予これを
おもふか故に此編専ら神祇の事をのすといへとも
まゝ俗子の目をよろこはしむる事をましへよむもの
をしてはからず神祇の来由神道の明理を知しめん
とす且人物雑類の中にも神道にあつかり世用に
補あるものあり怪異を排き事跡を改るものあり
見る人こゝろをつけてとりえらひ給ふへし◯或言
古来よりあやまり来れる事は其まゝにてさし置たる
かよし今これをあらたむるはかへつてあしゝといふ者
ありめ何れ善云く過而能改遇而不レ載は聖人の教
なり書をよみ道に志す者は過を知らんことをこそこひ
広橋修議弁巻之二十
ねかふへきにあしき事をももとのまゝにしてあらた
めさるかよしといへるは他の善をおほひ己か悪をあ
やなすの遁辞なるへし◯或云此ころ俗説弁のあや
まりを正せる車輪抄といふもの梓行せりとき乗り
吾子これを見る也答云いまたこれを見す予もと
より生質愚陋なりといへともつねにあやまちを告
るものあれはよろこひて改む知さる事を知る人あれは
則ゆきてならふ己をもつて是とし他をもつて非とす
るのこゝろなし是レ吾子つねにしるところなり俗説弁
のこときも予か管見のみにして識者の目にふれされは
あやまれるところたかへること少からしこれをあけて
議するものあらは予か雀躍これにすくへからすと容
退くのゝち京師武江摂陽の書肆に尋ねもとむ
類に車輪抄といふ書なし思ふに伝ふるものゝ妄
なるか但しひそかに記してかくし置るものに
や今にいたりて見ることなしすへてたゝしく明なるは
かくすといふ事なしかくせるはたゝしからす明ならさる所
ある故なり若妄作にあらすは印行すへし其書の説もし
是なるにをいては我あやまりを改るの益とせんことふして
一こひねかふ所なり或言足下あつむるとこりの書もつはら和
一端銘伝弁釈之二十
字を用ゆ漢字に書へきことなり答云予かえらふところはひ
とへに童蒙のためのみにしてあへて達識にしめさんとにはあらす
これによりてさとしやすからんことを思ふのみ文字をしれる人は
見つから神儒の経典歴代の史録を閲して暁すへしなん
そ予か弁論をまたんや因テ言ノ予幼して父にしたかひて武
江にあり十歳より二十五六歳に及ふまてはもつはら武
を講していとまなしたま〳〵書をよむといへともこゝろ
を用ること全からす本邦にかへるの後そのかみ書を
よめることのおろそかなりしを悔み官務の暇ことに
つとめ読ておこたらすといへとも辺鄙もとより師友
なく且書籍すらとほしけれは今四十に余るまて其
功なしかゝる狭陋の者の手に出たれは記せるなかに
さこそあやまりも多かりなん若他日あやまりをあく
る人あらはすなはちわか為の師たるへし
ある人問云一書に俗説弁大己貴の説は非なりとて
仏経僧録を引て摩訶歌羅大黒天神なりと記し
大黒天神とは北方の水を祭りたるものなり又夷子を
事代主命とするも非なり夷子の形体を見れは頭[テに鳥
帽子をいたゝき身に狩衣袴を着左りの脇に鯛魚をいたき
右の手に釣竿をもてり神代に烏帽子狩衣袴あるへき
広菴信談弁巻弌二十
いはれなし思ふに上古漁の上手ありしを祭て神とし
ゑひすとなつけたるものならんとありいかむ答云右に所
一謂摩訶歓羅大黒天神は南海守帰伝祖通載等に
のする所なり俗説辨に大厄貴を大国とし大黒に混す
るといへるは垂加翁大黒夷子記白井氏神社啓蒙等にの
する所なり我朝の大己貴神と天竺の大黒天神と名お
なしといへとも神仏正邪甚た異なりこれのみにあらす
大日をもつて大日霊に混し宇賀神をもつて宇賀御
魂に混すまたゝひおほしたとへは玉のいまた見かゝさる
ものを読といひ死鼠のいまた屠らさるものを理といふ
月の旦を朔とし車の朝をも朔といへり名同しくして
実勇なることこれにひとし又大黒天神は北方水を祭
たとま説附会なり尤拠なし又夷子の形體烏帽子をいたゝ
焼狩衣はかまを着す神代に有ましき儀なりといへるも
非なり神代の諸神たれは何を着たれは何を被たると記
したる書籍もなけれは後世にいたりて神像をきさむ
者己か心にまかせてつくりしならむ仏像を療絵するもはか
かに世くたりて晋の時よりはしまると尚書故実にあるたく
ひなり又上古漁りの上手をまつりしといへるは女児の戯説に
難波漁人か方に蛭子を養子にしたりなといへるにもとつれる
庸布俗議弁巻之一丁
のみ論するにたらす
○ある人問て云く一書に旧事本紀曰三輪大神曰吾和魂神牛
頭大神従二往古一来悉ク影二大地一ヲと記して牛頭天皇の称とす俗
説弁には見えす遠漏せるか答云右に舊事本紀と引多は鶴
事大成なり中葉梓に鑑むといへとも偽書なる故に板を破れ
り予すの故に採用すあへて遺漏にはあらす○ある人問ていはく
一書に続俗説辨三方薨神の説は非なり日本にて電神三宝凡
神といへるは軒遇突智神なり母神焦れて化去をもつて暴悪
の義を用ひて荒神となつく伊弉諾尊剣を援て将遇突智を斬
て三段となす故に三と云宝珠の形三角なり易の卦にも離は
三番に生して象は火なり宝珠の上に三つの火形をなす是三
実なりこれをもつて三宝荒神といふなりとあるはいかむ
答云続俗説弁に奥津彦興津媛を竈神と書ケるは旧事紀つ
正説なり右の一書に斬過実智を竈神三宝荒神と記をかは
諸神書正史等にかつてなき医説なり又易の卦の離に比
し宝珠の上に火形をなす説をの〳〵附会なり又軒過突
智母神を焦をもつて暴悪の義を用ひて荒神とすること拠な
し荒神の二字諸ノ神書にかつて見え源又伊弉諾尊の軻
遇突智に焦れて化去とあるに千綱あり度会延佳神主云伊
奘並尊見焦而化去とは二気消息の上にていへは伊弉並は陰
神五月に一陰生し始て十月にさかんなり冬至に一陽木復
して一陰退起始むそれより次第に退きて四月純陽のときに
いたりて陽火さかんにして陰神絶すこれを火神軒過突智
の生るゝによつて母伊弉並尊やかれて化去といふなるへしとある
を考へしるへし○ある人問云一書に続俗説弁に医師の薬
師仏を信するは非なりと有は誤なり医師は人を生す術をお
こなふ者なれは生気を念する為にす薬師は東方発生の木気
なるをもつてなり仏書を破する心をやめて理をもつて仏を見
るへしとありいかむ答云人を生す術をおこなふと云て寂滅を
楽とせる仏に生気を念するはいふかし吉行甚た相違す因て
思ふにむかし弟と楯とを鬻くものあり其楯の堅花をほめて物よく
こをることなしといひ又弟の利をほめて物としてとをらさることなしといへり
聞人なしりて汝か矛をもつて汝か楯を通さはいかんといひしに其人々
たふることあたはすと韓非子に見えたり仏に向て生を祈ると其棚遣
粗似たり又仏書を破するこゝろをやめて仏を見るへしといへるも非
なり是仏に佞して補儒をそしるの私言なり予か仏を排くは天照
太神の屏二仏法ノ息との神勅にしたかひ孔孟の天端をしりそけ給ひ程米
の仏老を排れし教戒にまかすまの公言なり神儒と仏との正邪は黒
白のわか地やすきかことくなれとも其私近す所よりして神儒は仏にしかすと
思へりむかし魯に悪人あり其父出て商咄といへる人を見帰りて其都に
御届出試部老之二十
つけて商咄はわか子にしかすといへり其子は至つて見にくゝ商咄は至つはく
うるはし然れとも至でうるはしきをもつて至て悪きにしかすとするは
寒によつて私するなりと呂氏春秋に見えたり佛をたつとひ神儒をにく
む人かゝのことしよく〳〵こゝろをつけて取合し給ふべし○或問云頃日
俗説贅弁と号せる書あり誰人の作なるか答云く其作者を
知す論する所尤。佳なり用ひ給ふへし○武問云足下の俗説の
辨する広益のみにしてやまん歟答云妻を授るは風葉塵埃の
随て拂へは随て有かことし古今の事跡なんそ此書にとゝまらん
や他日考得るところのものあらは後編と号して追出
著べし
広益俗説辨引用書目不拘次第ニ
日本紀
一條
日本紀纂疏
承良
釋日本紀
ト都
兼治
日本紀私記舊事紀
同教記頭出口延佳
出口
古事記同鼇頭
同鼇頭
續日本紀
延佳
日本後紀續日本後紀文徳實録
文徳実録
三代實録古語拾遺戒
齋部
広道
同句解藤原斎延
類聚國史菅丞相扶桑畧記歴代皇紀
林羅
歴代編年集成本朝編年録
水鏡中山忠親
山翁
水鏡
中山忠親
今山翁
一号世継物語
大鏡
清原良業
赤洋
一栄花物語
衛門
一続世継一号今鏡ト
増鏡
又号弥世継ト
一条冬良
北畠
神皇正統記
親房
一同長谷丸牢巻之平
王代一覧林向陽子
同同同同同同同同同同同
一號太神
倭姫世紀
宮本紀ト
鎭座傳紀
傳紀一
二号太田
鎮座本紀
本紀」
一号飛鳥
一号阿波
寳基本紀
鎭座本線
羅波記
鎭座次第記
神名秘書類聚神祇本源神皇實録
出口
二所太神宮儀式帳二所太神宮殿舎考證書:太神宮例文
一
神宮雑事
神宮雜例集神宮雑事伊勢勅使部類記
出口
皇字沙汰文伊佐波登美神考證
文保記
一伊佐波登美神考證社
延佳
小朝熊神鏡沙汰文長寛勘文
小朝熊神鏡沙汰文長寛勘文古老口実傳
北畠親房
元々集北畠親房豊葦原ト定記國郡卜定記ト部兼候
遷幸要畧出口美佳遷宮次第記出口避惟神名畧記出口進候
○口延住
陽復記出口延佳
同續秘傳問荅同陽復記出口送佳
神宮秘伝問答是世同續秘伝問答同閣陽復記出口廷催
告
出口延佳
太神官或問
産
北畠
忌部
神代巻口決一
同東家秘傳
同直指
正通
親房
白井宗因
出口延佳
同講述
同私説
中臣抜瑞穂抄
出口延佳
同白雲抄白井宗因色弗口決延喜式
神名帳頭書神祇令義解大和本記
神祇編神祇正宗神祇拾遺
神社考羅山翁神社啓蒙皇華宗門神社便覽
神社便覧
神皇系図諸神本系諸社志
諸社根元記諸神社本線起廿一社記北島親族
北畠親房
廿一社本録廿二社註記神異記
神異記
廣笹谷悦悴巻之二丁
唐衣化診報著之予
八幡本紀見原好古賀茂皇太神宮祭記同註進畧記
貝原
藤森弓兵政所記」
三輪考出口廷佳藤森弓兵政所記与
一天満宮改実唄原三輪考出口建佐藤森弓兵政所記
山崎
垂加
阿蘇宮記自述
日本一宮記
垂加社語同日本一宮記阿蘇宮記自士
自述
速吸日女社記
阿蘓線起速吸日女社記目述嚴嶋道芝記
山崎
三種神器解
垂加
大黒夷子記世
三社託宣抄六根清浄祓抄八幡愚童訓
神道名目隠顯集神道大義
阿蘇
麗気記弘法
故実問答町
大官司
神道肝要故實問答阿蘓麗氣記弘法
習合神道記琉球神道記
神道深秘
一條
同集釈松下見林政事要畧
兼良
公事根源
大江匡房
江家次第一
弘仁私記職員令集解
北畠親房
白井宗因
織原抄北畠親房
同句解白井宗肉同大全植
同大全
植木氏
二条
同纂註
百寮訓要抄二名
禁秘抄
一百寮訓要抄二条
同纂註百寮訓要抄二条禁秘抄
弘安禮節官職考官位問答
女官考中康職忠装束秘抄
名目抄公卿補任姓氏録茂田朝
茨田親王
尊卑分脉大系圖紹運録
正統録知譜拙記著聞集橋李茂
今昔物語□
宇治拾遺源隆國今昔物語同十訓抄菅原志長
古事談
續古事談
古事談續古事談江談抄大江匡房
一腰俗航巻之二十
一條
愚管抄慈鎮和尚康富日記中所
東斎随筆
兼良
中原
小世継
大江佐國元永元年記園大暦記小世継
徒然草野槌林謙山翁寝覚記一條兼良
恵命院
本朝遯史
僧正
異稱日本傳松下見林
見林将軍家譜林羅山子異稱日
異稱日本傳
本朝學原松下見林将軍家譜林羅山子異稱日本傳松下見祢
前王廟陵記同國朝佳節録同日本歳時記貝原
一貝原好古
本朝改元考山崎敬義本朝蒙求諺草貝原好古
和漢事始同點例貝原益軒東見記人見卜幽
本朝畫家傳同畧史同通記永井氏
比賣鑑中村暢歩日本水土解熊澤氏大和小學山崎關
山崎闇齋
巵言抄林文敏翁
旅宿問答
詞不可極雑々拾遺麁箱拾芥抄
和漢名數貝原益軒同續同鍛冶譜
日本長暦和漢合運蕉了子史記抄
和名類聚鈔藻順下學抄和爾雅貝原好古
日本釋名貝負篤信大和本草同同附録
多識編羅山子庖厨和名本草本朝食鑑
人見
正竹
人麿勘文田村麿傳齋藤實盛傳佐
佐藤
竹橋
佐々
疎魯理伝
宗淳
本朝文粹藤源
明衡
續本朝文粹
朝野群載菅家文草同後集
同後集
一読俗説梓巻之二十一
性靈集生海東海一温集圓月絶海録
蕉堅橋絶海瓊華集暁風集
和漢朗詠集公任惺窩文集南浦文集丈之
文之
那波
永田道慶
活所遺稿
膾餅雑録
羅山文集活所遺稿那
道図
薯捜集澤菴垂加草山崎笹加文會筆録同
自娯集貝原篤信愼思錄貝原益軒優塾集森尚識
俗曰弘法
玉造小町
集義外書熊澤氏萬葉集
作非
同拾穂抄元村奉聞古今集同抄
同抄
後撰集同抄金葉集
詞花集千載集新古今集
續古今集
續古今集玉葉集集風雅集
新拾遺集
新拾遺集新後拾遺集新葉集
新撰六帖
夫木集藻鹽草
新撰六帖夫木集藻鹽草
八雲御抄人丸家集菅家御集
一和泉式部家集
和泉式部家集紫式部家集
小町家集和泉式部家集紫式部家集
行平家集
貫之家集行平家集周防内侍家佳
赤染衛門家集檜垣女家集忠度家集
山家集
西行
家集
家集
李花集
宗良親王
家集
慕京集
詠草
太田道灌
年中行事歌合百人一首抄六家抄註
神道百首和歌ト部氏艶詞登泉隆秀大名寄
同七十九年春之事
空穂物語
松葉集績松葉集空徳物語
花山法皇
竹取物語大和物語花山法皇同抄
一條兼良
同河海抄
源氏物語紫式部同抄
同花鳥餘情四辻善成同峨江入楚
中
也足軒
同雲隱
同下紐
狭衣大貮三位同下紐伊勢物語
清介納言
同抄
枕草子清介納言
同春曙抄
枕草子、
同春曙抄季吟
同抄枕草子清少納言同春曙抄参以
季吟
清輔與儀抄同袋草子四季物語醫略
鴨長明
鴨長明
同続
無名抄鴨長明
同異本無名抄鴨長明同續
秘中抄宗祇
玉傳深秘袖中抄秘中抄宗祇
徴書記物語清厳茶話和歌秘講抄
戴恩記
一号歌林雑話
松永貞徳
土佐日記紀貫之
同抄季吟
長明海道記同道記
長明海道記同道記道行觸今州了俊
坂土仏
出口延佳
伊勢参詣記坂士佛同頭
同頭書
伊勢参詣記坂士佛同頭書出口姓佳詞林意行集當川氏
西國舩路記白水郎紀行出雲風土記
黒川道祐
豊後風土記雍州府志四
山城名勝志大嶋武好
雍州府志
山城名勝志
岡田氏
山城名所追考攝陽群談岡
泉州志石橋氏
堺鑑
堺鑑大和名所記
二号大和
幽考
大和廻記貝原氏
南都名所記奈良鑑
一名八重
櫻
勢陽雑記
伊勢名所拾遺伊賀温故
紀州名勝志
常陸国誌
常陽
一長谷院梓巻之二十
一貝原氏
山崎氏
筑前續風土記。
会津風土記山崎氏筑前続風土記
筑前名寄同
同
肥後地志畧自然丹後地志隠岐視聴合記
一藤部綾
讃州略記
江戸名所記四國記讃州略記
鈴木氏
一熱海地
東海道名所記熱海地正鈴木氏熱海名所記
等躬
蝦夷文談
士峯録菅士同蝦夷文談等斯名所方角宗義
宗祇
秋田城記木村氏台碑銘信夫摺記向氏
有馬名所記佐賀関記諸國故事因縁
日本事蹟考日本奇跡考國名風土記
陸奥話記
奥州後三年合戦記
将門記
保元物語
同参考
今井氏
内藤氏
平治物語
同参考
今井氏
内藤氏
平家物語
信濃前司
行長
同異本
源平盛衰記東鑑同脱漏義經記
伊東氏作
曽我記
曽我記伊東氏作北條九代記南朝記
今井氏
太平記
同参考
承久記
内藤氏
明徳記
應仁記
同重編
菊池記自述
菊池記自述鎌倉九代記後太平記南氏
杉岸氏
橘氏
續太平記杉岸氏
西國太平記
九州治乱記
杉谷氏
豊筑亂記大友興廢記杉谷氏同始末記
同始末記
豫州河野
株樟記
江源武鑑
蒲生四代記
家乗
向井氏
興雲子
会津四家合考
新編東國記
佐々傳記自法
同長谷丸辛無之二十
松田氏
武者物語
結城軍談同戰場別記武者物語松氏氏
三浦氏
相馬百官
同抄同北條五代記三浦氏相馬百官丗三
世言平
将門定
同抄同
虎関
聖徳太子伝
元亨釈書光園同抄聖徳太子伝平
元亨釈書
平氏
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一景戒
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閑居友慈鎮和尚記
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平康頼
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但畧本
廣寶物集同方文記長明
無住
雜談集無佳三國傳記
砂石集
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百因線集磧礫集塩嚢鈔
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弘法傳記弘法大師遊方記承和太政官符
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明季編年明政統總資治通鑑綱目
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戰國策宋名臣言行録世説新語補
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三才図会
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蟹譜
顔氏家訓図書編
大明一統志廣輿記古今原始
事物紀原事文類聚与地記
北戸録
北戸録南海古蹟記南唐近事
中洲野録西樵埜記岳陽風土記
桂海虞衝志成都記尚書故実
野客叢書杜祐通典杜陽雑編
異端辨正
異端辨正鬼神論群玉韻府
新序
新序輟畊録海東諸國記
海録雜事登檀必究諸史品節
同七七七七七七七七
やう
焦氏筆乗
月令廣義書言故事焦氏筆乗
聞見雜録玉匣記中華古今注
折掌録
希通録社疑説
物類相感志
己瘧編
庚巳編已瘧編物類相感志
又号格
不求人
卓氏藻林海槎餘録不求人物
物全書
金臺紀聞群碎録玄中記
西陽雜爼五雜組神異經
括異志異苑虎苑六韜
山海経図賛
白猿傳山海經山海經圖賛
白猿伝
續齊詣記神仙傳列仙傳
捜神記
續搜神記
遵生八牋
解夢全書北夢瑣言小窓別記
居家必用
居家必用莊子列子
淮南子
淮南子抱朴子韓非子
草木子太上感應編感應編纂註
神相全編文選六臣註古詩歸
唐詩解
唐詩解唐詩訓解楚辭
文苑英華白氏文集韓昌黎集
柳河東集李大白詩集東坡詩集
王維詩集駱賓王詩集薩天錫詩集
同同十十九年巻之三
四十二章經華嚴經法華經
涅槃經圓覺經楞嚴經
楞伽經金光明經正法念經
賢愚經普賢經大日經
仁王經雜寶藏經大集經
天辯財天經大黒天神經大藏一覽
諸天傳大智度論祖庭事苑
義楚六帖僧史畧法苑珠林
佛祖統紀佛祖通載飜譯名義集
天台別傳金剛界禮識文山菴雜録
本草綱目千金方古今醫統
醫書大全保生心鑑壽世保元
字彙
字彙字漢字彙補會玉篇
此餘所稱俗説書三十餘部
總計六百三十二部
省二其書目ヲ一
編輯既ニ成テ而後随二テ考ハ得一ルニ所二ノ補入一之書二十餘部
今ニ不レ服擧二二書號ヲ于茲ニ觀者可二者可シ考ヘ知レ之ヲ
肥後州隈本府
井澤十郎左衛門長秀
廣益俗説辯卷二十終
狩衣
廣益俗説辨共。
後編一
神祇天子公卿
広益俗説辨後編目録
狩野氏図書記
一
肥後州隈木府井澤長秀輯録
神祇
補神魯岐神魯美の説
補大火出見尊龍宮遊行の説
本地垂跡の説
西方の門を鳥居といふ説
ある神の上社の影下社にうつな説
天子
圖鳥羽院嫡を廃し給ふ故に保えの乱おこる説
同三十八合毛字支届目録
一月十一月十一月十一日
後鳥羽院隠岐国にうつされ給ふ説
公卿
補道祖王侍童を憂する説
補貞純親王白龍と化給ふ説
ある公卿人をこゝろむる説
士庶
圖巨勢金岡か画図に妙ある説
平ノ将門箕田の城を攻る説
平貞盛は仁義の良将といふ説
關碓井貞光頼光の臣となる説
輔を搦捕説
補卜部季武か説
《酒田公時頼光の臣となる説
士庶
㊞北條義時は八幡の化身といふ説附同泰時詠
歌の説
補鷲尾三郎経春か説
圖原田ノ種直は漢の高祖の裔といふ説
補渡辺左衛門源渡僧となつて仮乗坊重源雲
号する説
廣広発兌吟友編書泉
一左名書物ノト云
補畑時能流失にあたる説
補今庄入道浄慶か説
補佐々木道誉家滅亡する説
■尼子氏は監谷判官か後といふ説
廿武田信玄は曽我時致か再生といふ説
僧道
文覚頼朝を相する説
補妙吉侍者は天狗の化現といふ説
近世
補服部幾之丞父か敵をうたさる説
圖寒河又四郎父か敵をうたさる説
《渡瀬氏の女約諾の夫か敵をうつ説
雑類人物
圖古の武士のこときは今はなしといふ説
補幼児に賤名をつくる説
一羽は後にうまるゝを兄とする説
人の名に郎の字をつくる説
武者修行の説
補ある人仏を信して殺害をまぬかるゝ説
補女現口託の説
同十六日八九九十九日八九年
尼光行言葉
圖惡人死れは葬送のとき大風雨雷電ある説
図名僧石に手足の跡を残す説
官職
《題:玉體といふ説
下官といふ説
芸術
団石臼藝の説
圖他の藝をそし侍説附あすならふと云説
補他の説を我説とする説
文籍
補新板書籍の説
居處
大黒柱の説
地理
日本にて紫色を尊ふ説
補晴明か瀧の説
水無河ろ説
歳時
日を択ふ説
器用
一資益公庫従宿主家
同鹿州伊勢行
補規の説
補五明扇の説
仏家
圃木像画像光を放行説附鏡に仏影を現す説
禽獸
補常世の長鳴鶏の説
草木
伊勢の浜萩の説
補俗説弁或問
總計五十六條前後編合三百十六條
廣益俗説辨後編巻一
神祇
補神魯岐神漏美の説
火々出見尊龍宮遊行の説
本地垂迹の説
補西方の門を鳥居といふ説
ある神の上社の影下社にうつる説
天子
㊞鳥羽院嫡を廃し給ふ故に保元の乱おこる説
補後鳥羽院隠岐国に遷され給ふ説
一黄壺各兌辨後編失二
公卿
補道祖王侍童を愛する説
貞純親王白龍と化給ふ説
圖ある公卿人をこゝろむる説
廣益俗説辨後編巻一井澤長秀輯録
神祇
補神魯岐神魯美の説
俗説云神漏岐とは高皇産霊尊神漏美とは天照
太神なり
今按るに非なり山崎垂加翁云ツ高天原所レ生之
神名曰二天御中主尊一次ニ高皇産霊ノ尊。次ニ神ニ皇産霊
尊。天御中主ノ尊者天地一気之神体
岡常立
高皇
別名
産霊尊者其所命神皇府霊ノ尊者其得レ命ヲ処也ニ
臣ノ祓高天原神留者是天ノ御中主尊ヲ而以二天照太
同月月一日午後十一日
神一配レ之。神漏岐神漏美等者高皇産霊。神皇産霊尊
垂加
是以二皇孫之外祖一兄弟配レ之者也
社語
考へ知べし
補火に出見尊龍宮遊行の説
俗説云火に出見尊針をうしなひて龍宮にいたり龍神
の女子豊玉姫を妻として三年とゝまり帰り給ふ其後豊
玉姫海の渚に出て子をうまれしを尊うかゞひ給ひしかは。
姫恨て今より海陸不可通といひて去給ふこれを龍宮遊
行の段といふ
林羅山翁ノ曰ク天地ありてより以来古今の間[ク]海陸不適
の事はいふに及す日神月神を天上へおくり火に出
見尊豊玉姫夫婦中絶して海陸不通の事ともに
神代の事なれは如此いへり但し今を以ていにしへ越
見るに其理皆同したとへは暦を作る者天地開闢
一日月行道寒暑七兆万年の先に出て年月を知にあ
らす今日かくのことくなれは昨日も明日も如是なるへし
今年かくのことくなれは去年も来年も又如是な
るへし古今の理義皆[サ]なる故[ナ]暦数如レ此今す
てに日月天にあり又海陸相通せす是今日目前の
事なれは古も又しかるへしと思へるこゝろをもつて
神代の跡を書せるなり又は古の神書あまた有
龍宮の書あるひは古文篆字のことし或は梵字の
ことしなといひて秘しほこることあり是又悉陀太子
四方の語に通し天上天下龍宮の文字まても知ルと
釈迦譜に載たりこれをにせて両部野合の者のいふ
ことなるを愚昧の巫覡比類混雑し浮屠に同する
利潤の便あるによりおもねりへつらひてこれを
いふか世間一人も彼天上龍界の書を見たるものなし
一偏妄の至なり又陽神陰神絶妻女誓あり一生相
隔て再逢ことなし又是レ海陸不通の義のごとし凶慙
本地垂迹の説
俗説云仏は本地なり神は垂迹なり
林文敏翁曰古の神道に本地垂迹の説なし仏者
のいひ出すことなり菩薩を本地とし神を垂迹とす
和光同塵は結縁のはしめ八相成道は利物の終と
いふは衆生を教化せん為ノに神と現出るは仏菩薩の
所為にして方便なりといへりいかんそ千万里遠き天
竺の仏菩薩日本へ来て神とならんや愚者なりと
も其妄言を知ルへし人の惑へること甚たしき故なり
人は天地の間に生るといへ共天子ひとり天地を祭る
人は皆日月を戴くといへとも天子のみ日月をまつる
諸侯はこれを祭ることならす己か国中の山川をま
つる大夫は山川をまつることを得すして宗廟をま
つるいかんそ日本にて異域の鬼神をまつるへけんや
聖賢を崇敬してまつらは其いはれ有へし巫覡妖術の
一者の蛇を祭り狐をまつり猿をまつり鴉をまつる
たくひは王者の禁制する所なり本迹を論するに足
す其人により其位によりて祭るべきの品あり妖術
の音の本迹をいふは蛇狐の神の本迹を説に同し
かるへし中華の聖賢没後に天竺へも異城へも再
ひ出たりといふことをいまた聞す日本の神そまれかは
りて異国にありといふことあらす仏者所説大抵三
世をいひて過去を本地とし現在を垂迹とす本
迹二行なれ共本にわらす迹にあらす本迹にあら
さるにあらすとむつかしく事あるやうにいひのへても
と実なき事ともなり天地の間古今独立する
ものは中華聖人の道と本朝の神道也物に依頼
せすして物皆此道に依頼すたとへは葛莇蔦蘿の
たくひの木にかゝりて生するかことし物にとりつゝもの
かゝのことし若樹木なくは葛はふへき所なし故に異端
一者必聖人の道にとりつく術を施す故に仏神一體と
いはされよそのかみいかてか仏を用んや皆是本地垂
一迹の説の所為也焔津此説を考へ見るへし
補西方の門を鳥居といふ説
俗説云神祠の四方に門をたて西の方の門酉のかたなれは
鳥居といふ又人の入どころなれは取入といふこゝろにてなつ
けしなり
今按類に四方に門をたてゝ西の門は酉の方なる故に
鳥居といふ説非なり西方の門を鳥居といふへくは東南
北の門にも名あるへけれとも終にきゝ及はさる事なり
一又取入の説非なり度会延佳神主云左右の柱は女
柱男柱といふ上の横木は笠木といふ第二の横木を
鳥居といふ此横木に諸鳥のけかしをかけましき為メ
に笠木は有といへり順和名に考声切韻云ツ橋今鶴
鳥居
栖也辨色立成に云鶏梅は
也
とあり又延暦年中奏
一同二反不也下被下也下也下延下
覧の内宮儀式帳に不葺御門とあるは今の鳥居
延佳神主復
我とあるを考へ知へし
の事なり
植木氏書簡
圖ある神の上社のかげ下社にうつる説
俗説云ある国の神社の上社に板穴ありそれに紙を
あつれば下社の影うつる其あいだ一里なり神秘なる
ことなり
同七十巳件受痛之
今按るに神秘にてはなしかゝること異邦にもあり
五雑組ニ云牛首山ノ寺ノ窓中ニ見二塔影一閉レ門ヲ影從二門ノ轉一
入其影倒見尖反曰門塔相去甚甚遠輟畊録云平
江虎丘閣板上有一リ一竅一竅一当二日色清朗時一以二学大白
一紙二承二其影則一「寺ノ之形勝於レ此見レ之但頂反居レヲ
耳此たゝひなるへし
天子
一鳥羽院嫡を廃し給フ故保元の乱おこる説
俗説云鳥羽院皇后美福門院得子を寵愛し給ひ
崇徳院を位をさけしめ得子の生る近衛院をたて
給ふ所レ謂母愛せられて子抱るものなり近来院崩し
給ふのゝち得子の意にしたかひて後白川院をたて給ひ
て終に崇徳院の長子重仁親王を位に即しめ給は
すこれによつて崇徳院いきとほらせ給ひて保元の
乱おこれり是鳥羽地籠にまとひ嫡を廃し給ふ故
なり
或人これを評していはゝ古事談を見るに鳥羽院
の皇子崇徳院実は白川法皇の御子なり其故は
一待賢門院障子法皇御養子の儀にて入内せられ
しに法皇密通ありて懐妊のゝち鳥羽院の妃と
なり程なく崇徳院を生給へり鳥羽院其由を
しろしめして叔父子とおほせられ常に御不快にて
おはしけりとありこれをもつて思へは禍のもとは白
川帝に萌せり鳥羽帝宗魔帝をしりそけて終に
重仁を位につけたまはさること宜なり然れともそ
のもと位を崇徳帝につたへ給ふは白川法皇なを
おはしまして見つからほしひまゝに政務を沙汰し
給ふ故に鳥羽帝やむことを得たまはされはなり
一鏡にも白川帝奸二障子一とを載たれは古事語の説
ます〳〵信するにたれり嗚呼千載の下自蔽ふ
へからす参考保元物語
補後鳥羽院隠岐国に遷され給ふ説
俗説言後鳥羽院響主なり御寵愛の白拍子亀菊
がことによつてよしなき軍をおこさせ給ひ北条か為に
隠岐国にうつされ給へり
一今按るに此とき頼朝の後室二位尼
平ノ政子。法名
如実妙観
〆
一務にあつかれり婦の長舌属の階となる上を犯
すの罪をふくむて征せんとし給へとも時をはかり給
同廣延久保俊命
はさる故人つて逆臣の為にかたふけられ給へり
此乱亀菊か訴訟よりおこりしにはあらす其もと
一二位尼か政務より萌せり是より後元弘の役あ
り承久の乱と事ひとしく跡にたり然るを承久に
は帝の不徳をそしり元弘には臣の罪悪をつく
めるは承久には逆臣利を得元弘には官軍運を開
けはなり六韜に以二テ世俗ノ所レ誉者一為レ賢以二世俗ノ所俗ノ所レノ所レク
者一者一ヲ為二不肖一多レ黨者進少レ黨者退といへるかことしたゞに
君の不徳のみを知つて臣の罪悪をしらさるは本をす
てゝ末を取なり史籍をよむもの心をこゝにつけざらんや
公卿
補道祖王侍童を愛する説
俗説云日本にて男色をもてあそふは道祖王よりおこ
るといふ
一今按るに此説は続日本紀に聖武天皇崩御謝
一闇未レ終皇太子道祖王私通侍童一とあるを男子
一とす侍童とは童男童女ともに称せり道祖王の通
せしは側につくる童女をいへり中山忠親の水鏡に云
孝謙天皇の御とき東宮新田部ノ親王の子道祖王
とておはせしに聖武天皇うせ給ひて謙闇にて
同廣安谷允津敷編朱二
ありしに此東宮このほどにもはゞかり給は仰おんな
のかたにのみ見だれたまへりしとあり続日本紀と考ハ
あはせて證とすへし因て思ふに飲食男女は人の
大欲なりしかるを釈氏偏教をたてゝ女犯を禁す
ひとへに手をもつて大海をふせくに似たり此故に末
世の僧等たもつことあたはすしていはゝ女色は愛
着ある故にいましむ男色は愛着なき故にくるし
からすといふなんぞ愛着に男女の違あらんやたゝ子
を生ぜざるをよろこふのみ此破戒もと偏教より出し
るの害なりしかれとも梵嫂をたくはふる僧都に鄙に鄙に
すくなからすときけば今男色を弁するは旧たりか
へつて火宅のために笑はるへし
補貞純親王白龍となり給ふ説
俗説に云延喜十六年五月七日中務卿貞純親王薨逝
あり其頃府生紀氏光か夢に貞純親王の住給ふ桃
園宮の池忽に宮城となり十丈計の威神堂して貞
紀にむかつて告るに前生の契約をもつてすしはく
ありて宮城消て池となりしかは貞純一丈余の白龍
となりて水中に入給ふと見て夢さめぬ程なく貞託
薨去と聞へけれは龍となり給へることを知たり
同黄菴兌舜愛編与一
今按るに美純王薨して白龍に化し給ふこともつ
とも偽なり因て思ふにもろこしにても虞舜蟒蛇と
なり洞中にありて諸の苦悩をうけ給ひしか隋の
仁寿年中に一尼に遇て摩頂受記して託まを得
給ふといへる説あり舜の大聖だも此証言をかう
ふり給ふ況や貞純王にをいてをや俗説の害甚
たしからすや
ある公卿人をこゝろむる説
俗説云むかしある公卿の家に寵愛の童ありある
時此童手水をもちて参けるに彼公卿車宿の練に烏
ふたつ居たるか一つの烏の頭しろく見ゆるはひか事か
となきことをつくりて問れけるに童つゝ〳〵とまも
りていかにも白きやうに見え候と申ければいといみ
し世にあらんするものなりとて帝にたてまつられ
けるに北面の中にては名ある者なりけり
一今按るに此童幼よりかく旨をねかひ趣をはかる
意ありぬれは老さきの佞諛いかはかりそやしか
を世にあらんものなりと褒し公卿もさそとおしはか
られぬ陳留の謝肇浙か干レ紀済レ悪者皆世所レ謂
才子也呪レ婬餓レ痔者皆世所レ謂善人也といへるたく
同長谷児脾敷扁医一
ひなりこの故に古詩にも人間所謂好男子我
見婦女ニ留二鬚眉一。奴顔婢膝真ノ乞丐。反以二正直一為レ狂
癬。とも賦せりすへて善悪の沙汰は褒貶する者
と褒貶せしるゝ者とをくらへ見てためしこゝろむ
へし乳臭黄吻酒嚢飯袋等いかでか士の士たる
器をしらんや
広益俗説弁後編巻一終
五十一日
廣益俗説辨其。
後編二
士庶
第
狩
1710
狩川
助
廣益俗説辨後編巻二
狩野氏図書記
士庶
關巨勢金岡か晝図に妙ある説
補平ノ将門箕田ノ城を攻る説
神村長
豊蔵堂
補平貞盛は仁義の良将といふ説
附
補確井ノ貞光頼光の臣となる説附同人強盗保
輔を搦捕説
補卜部季武か説
補酒田ノ公時頼光の臣となる説
青年合光守俊扁毛二
月五日昼作前弁巻二
広益俗説辨後編巻二
士庶
補巨勢金岡か画図に妙ある説
俗説云寛平法皇の御所に金岡か書る馬あり其
馬夜々出て近辺の田をくらふはしめはいふかしく思ひ
しか件の尽馬の足に土つけるを見て此馬にたまし
ひ有てかくのことしと知けり
今按るに尽馬にたましひ有て草をはみたかには
有へからす拿州山人。四部稲選云ツ倭海灘蛙涙着
色色画隠夜顕蓼花州間録ニ云ツ江南ノ徐謂得二昼午一ヲ尽
同同十年同同年二月十一
同府州郡邦役総役人
一齧二草闌外一夜則歸臥二闌中一持以テ見二後主燈一煤献園
下ニ一大宗問二羣臣一俱無二知者一惟僧賛寧ク曰ク曰ク南倭ノ海水
或レ減則避磧黴黴黴黴微黴佞人拾二方諸一蚌胃中有一余涙散
一滴一得レ之和レ色著レ物則昼隠而夜顕沃焦山時或風
焼飄撃忽有レテ石落二テ海岸一得之滴レ水ニ水ニ磨レ色染レ物則書
顕而夜晦とあり此法を以て書たる図画なるへし
格遺集にかなをかもろこしにわたり侍ける時女のかたよみて侍けるかへ
し金岡潤の上に見へし津嶋の島かくれ行空もなし君にわかれて
とよめり此とき此法をならひ来りしものなるへし
□平ノ将門箕田ノ城をせむる説
俗説云六孫王源ノ経基承平年中より武蔵守を兼て
箕田城におはしけるに平将門八万余騎にて箕田城に
押よせ攻かこむしはらくふせき戦ひしかとも城中稀尽
て危し此故に渡辺仕はかりことをめくらし大将をは
しめ各城をいてて落行けり
今按るに此説拠なし但し将門記に平ノ将門
東国をしたかへて後わ城に攻のほるへしと支度
す此とき源ノ経基武蔵に居られしか急ヲ上洛し
て将門か謀叛のことを奏閉せらる其早く注進
するによりて位を授らる今昔物語にむかし東
源ノ勘四代の孫
国に箕田ノ源次宛
武蔵守仕か子
村岡五郎印ノ良
文
高望わの男法守
といふ者あり此二人兵の道をい
府将軍従五位下
同収益説辨教編医ニ
内え奉存候事
とみあらそひけるか故なくして中あしくなり
闘諍に及ひける各百よきをしたかへて広野に
一出むかひ陣を張けるに良文かけより宛か方へ
使をつかはして今日の合戦は従兵を出して射
一合たしんは興あるへからす足下と我と出合て
手のかぎり射あはんと思ふ由を云おくる宛こ
れを聞て某も兼て願ふ所なりと返辞して
馬にうち乗弓箭をたはさみ楯の外に出れは
良文もよせ合たり良文矢取てつかひ宛か胸板
をこゝろさしてはなつに宛馬にひらみつきて
箭にちかへは太刀の鞘にあたれり宛また良文が胸
板にあてゝ射けるを良文身をそばめての音は腰
当にあたりぬそれより後双方差詰引詰射合
遣れともたかひに弓馬の達人なれは箭に違
ふてあたらす時に良文宛にむかひて云けるはた
がひに射るところの箭はづるへきにはあらねとも
双方弓馬を得たる妙なりともに手品をあ
羅はして勝劣なし思へは御辺と我いにしへよりの
敵にあらす宿有もなしたゝ芸をあらそひていと
むまてなり和睦世はやといへは宛きゝてけにも
同一一一一一一一一
足下ののたまふことし我もしかなん。思ふといひて
各陣を引てかへりける是より後莫逆の友と
なりにけりとあり此箕田源次宛は武蔵守仕か
一男にて綱か父なり村岡五郎良文は将門か叔父
なり彼是とり合せて作りし出したる説なるへし
補平の貞盛は仁義の良将といふ説
俗説云平将軍貞盛は仁義の良将なり
今按るに此説非なり今昔物語云平ノ貞盛朝臣
丹波守にて其国にあるとき悪瘡出来けれは
京より医師をよひて見せしむ医師申けるは
此瘡は外療の及ふ所にあらすしいて療せんと
ならは児干といふ薬を調へて服し給ふへし
児干は懐母したる女の腹を割て其児を取て
あはするなりといふ貞盛其子左衛門尉維衡
を呼て我瘡を医師に見せしむるにきはめて
愈かたしとすしかれとも妊婦の腹を割其児を
取て児干といふ薬を調へてのむへしといへり今
他にもとめは世にかゝれあらじ幸に汝か妻懐
妊なれは我に得させこといふ綾に倒これをきゝに目も
くらみて物をも覚へすしかりとて惜むへきやうなけれは
仰にしたかふへしとうけがひてすくに医師か許に
ゆきてかゝと語りてなげきけれは医師もけに〳〵
左おほすへし子細供はむとて貞盛の館にいたり
て一日申つる薬は用意し給ふやと問は貞盛そ
れをもとむること成かたき故に左衛門尉か妻懐
妊したるを乞得たりと答ふ医師さては聞しに
たかはすとおもひ我血脈相続の胤は薬にはならす
他にもとめ給へといひて其庇をたち帰京の用意
す貞盛また維衡を呼て此医師を生て帰しなは
一某か児干を調る事を他にもらすへし所専帰路
にかくれ居て医師を射殺すべしと下知す維
衡承作とて出けるか彼を殺すに忍ひす他人
を射殺して医師をたすをたりと記せり貞盛の不
仁斎の俗説もつとも相違せり
□碓井ノ貞光頼光の臣となる説附同人盗賊保輔
をからむる説
俗説云信濃国碓井峠に碓井の荒太郎橘貞道と
いふ者あり上総国にゆき頼光の館にいたりて緇季
武を呼出し頼光の臣とならむことを望む願光す
なはち家人となし光一字をあたへて貞光と号せら
一寶盛盆谷小児牌後篇巻二
る其後貞光和州長谷寺に詣けるに其ころ保昌か
一名
第右京ノ太輔保輔
袴垂
といふ盗賊ありけるか古[河中辺
にて貞光にゆきわひ貞光がのりたる馬をうはん
とす貞光やかて保輔をくみふせ綱をかけ馬にからめ付
て都にかへりける其後保輔獄屋をまぬかれて空類
数人をかたらひ中納言顕光の館に入て財宝をうはひ
とる此事頼光の館にきこへけれは縄季武以下はせ
むかひけるか保輔かなはしと思ひて自害すといふ
今按るに此説拠なし今昔物語に拠に貞道は
一村岡五郎平ノ貞道と号す碓井ノ荒太郎橘貞光
といへること終になく殊に貞道は古参なり綱は
事詳に季武か
新参なり
ケ条に出す
綱を頼みて仕官すへき
やうなし又保輔をからめしといふは今昔物語に
むかし袴垂といふ盗賊禁獄せられしか大赦に
あふて出しかとも立よるへきところなかりしかは
関山にゆきて道のかたはらに裸にて虚死してふ
したりける道を往来する者をも是はいかにして
死したるにやきすもなきなとゝいひのこしりける
しかる所にたれとはしらす騎馬のさふらひ通りけ
るかかくと聞て弓取なをし馬をおしたて死人
のかたに目をかけ用心して過けれは見る人手をう
つてさばかりいかめしき士の死人にむかひて用心に
るおかしさよとわらひけりそのゝち往来の人少な
くなりける時又調度負たる士通りけるか彼
死人を見て側に馬をよせていかにして死たるかと
て弓にてつきけれは此死人弓にとりつき起ある
りかの士を馬よりひきおとしさしたる刀をうは
ひ取て剃ころし其馬にうちのり飛かことゝに逃う
せたりかゝることをせんとて虚死したりしを前に
通りし人ははかり知て用心せしにこそかしこかり
采りなと感しつゝ其名を尋ね問気頼に
村岡ノ五郎平ノ貞道と聞へ遣れはけにことはり
とそ申あひける同書に云源ノ頼光の亭に客あ
り其中に身の頼信も列府せらる頼光の家臣
平ノ貞道瓶子を取て坐に居たり頼信貞道にむ
かつて駿河の国人何某といふ者我に無礼をなせ
り御辺かれる首斬て得させよと。かたまふ貞道聞て
此殿はわか主君の弟にておはずれと常に参り
つかふる事もせす殊更かくはかりの事をしのひ
やかにものたまはて人おほき中にて放言し
同同黄紫谷公説編巻二
給ふ鳴呼の人かなと思ひてはる〳〵しくもこたへす
其後三四月はかり過て貞道路の用ありて東
国にゆきけるに駿河の男にゆきあひたり
貞道件の事をは思ひも出さい馬をひかへて
物語してわかるゝときかの男御辺は我をこ
ろし給へと頼信に頼れたりときけりたとひ
心かけらるゝとも我等ほとの者を左右なくう
ち給ひなんやと笑て打すゝるに貞道かつて
殺害の心もなかりしか此ことはに腹を立て
一馬の腹帯縮直し胡籠かき負つ取て返し追
つめ一箭に射おとし首を取京にもちのほりて頼信に参ら
せたりとあり此二事をもつて作り出したる説ならん綱
季武か保輔をせめし事実録にかつてなき事なり
補下部季武か説
俗説に云源ノ頼光上総守に任せられて天禄三年八月
十三日上総ノ国にくたり給ふ爰に満仲の家臣卜部ノ
次官季国綱に申けるは愚息六郎季武某を
恨みて逐電せしめ候下向の路すから御対面まし
まさは勘当をゆるすよし伝へ給ひ召くして給と
頼気類季武は其折から伊豆国に蟄居して
暮せしか頼光上総に下向のことをきゝ旅宿に
ゆきて綱に対面す綱季国か勘当ゆるせること
越のへ頼光の御目にかゝれは頼は則御家臣と
せらる四天王の一人なり
今按るに此説拠なし季武十部と号せし事
非なり卜部は藤原同姓其先天児屋根命よ
り出ヅ今昔物語に平ノ季武とあり平姓は桓武
天皇より出たり又季武渡邊綱か口入によつて
仕官せること非なり季武は古参にて綱は新
参なり今昔物語云摂津守源ノ頼光の郎等
一平ノ貞道平ノ季武公時といふ三人の兵あり度
の高名ありて人に恐れられけれは摂津
守も是等をやんことなき者にして後前
にたてゝそつかひける此三人ある僧の車
をかりて三人一つにのりて賀茂の祭を見
たりけりとあり此ときまては綱か事見へ
ず又頼朝賜二佐々木ノ定綱一帖ニ云ク多田ノ摂津守殿
のもとに四天王とてきこえたるおのこともの
中に公時といふはおのつから智ありて家としける
綱といふは新参にてあるが公時に心の剛になる
やうをおしへよといふとあり是等を考へしる
へし
補酒田公時頼光の臣となる説
俗説云天延四年源ノ頼光上総の任限充て三月
廿一日のほり給ふに相模国より足柄山にさしかゝ
りて見給ふにむかふの岨にあたりて赤色の雲気
あり頼光綱を召てかしこに雲気あるは人傑の
かゝれ居たるならん尋ぬへしと仰けれは綱尋ね
ゆゝに茅屋のうちに六句餘の老嫗女歳計の
童形とだゝ二人居たり渡辺彼等を頼光の前に
つれ来る頼光かの童か相形の奇なるを歎し
給ひ其姓名を問給ふ老姫こたへて妾此山中に住こ
と数ヶ年に及しにあるとき山のいたゝきにあ
かりて寝たりしに夢中に赤龍木ツで通すと見
て此子を孕み生れて廿一年をへたりと申す頼光
凡人にあらすと感し給ひ酒田ノ公時と名給ひ綱
公時貞光季武を四天王とよひ給ひける
今按るに史記漢書ニ云ノ漢高祖豊邑中陽里人姓
劉氏字季父曰二太公一母曰二劉媼一其先劉媼嘗息大
澤之陂一夢輿レ神遇是特雷電時電晦冥太公往視則見
索隠云赤龍感
蚊龍於其上
巳而有身遂生高祖二
女媼劉季興ル
秦始皇帝常曰東南有二天子気於レ是因東游以厭
之高祖即疑巴匿隠於芒砺山陽巌石之間呂后
與人俱求常得之高祖怪問之品公ノ曰季所居上
常有二雲気従征常得レ李思ふに此怪説を公時か事
に作りしにや今俗説に拠て戯れにこれを論
するに天宝遺事に楊国忠か妻国忠か江浙
に使せるあとに子を孕み男子を生て国忠か
国に帰りしとき御身と夢中に受ると見て孕
める子なりとわさむきしに国忠まことゝ思て
夫妻相念ふ情感の致す所といひしかは千載者
笑となれり思ふに公時か母も多夫にまし
はりていつれの子やらんあかちなく育むも
のもなき故夢に託して譏をふせきしにや
国忠か子のたゝひなるへし是のみにあらす海
一婦等不義をなして役けし子をあるひは日
月胸を照すと見て孕みあるひは夢に感して
はらみしなと欺けは愚盲なるともからは左も
あらんと信したるか旧記にも多く記せりは
つたなし又高祖はかくるゝ処に雲気ありしか
終に天下のわとなれり公時はかゝれたる処に雲
気はありしといへともいかなる事やらむ其奇瑞
に相応せにして漸く頼光の家人となり匹夫
の勇あるはかりにて左程の徳もなく身を終
るまて一国をも領せさりしは幼弱のときは聡ふ
して盛長におよんて愚なりしやこれをもつて
思へは高祖の上にたちしは雲気にて公時か
上に見えたるは柴たく煙にてや有けむ又渡辺
綱は嵯峨帝の後胤にて源姓なり定道季武は
桓武帝の後胤にて平姓なりかく出自たゝしき
士ともか山姑か子と同列に回天王なとよはれて
は中〳〵一日の仕官もなりかたり類へし定めて公
時も姓氏たゝしきものなりけめ旧記に見え
さるをもつて此誣誑をかうふる不幸もつと
もあはれむへし彼もし霊有て俗説をきかは
これを怒らんかこれを歎んかそも〳〵其こゝろは
かり知かたし
広益俗説弁後編巻二
狩
16
狩16
廣益俗説辨菩。
後編三
士庶
廣益俗説辯後編巻三
狩野氏図書記
士庶
神村長
豊蔵書
《北条義時は八幡の化身といふ説附同泰時詠歌の
説
補鷲尾三郎経春か説
補原田ノ種直は漢高祖の裔と云説
關渡辺左衛門源渡僧となつて俊乗坊重源と号
する説
畑時能流失にあたる説
補今庄入道浄慶か説
一黄益谷尼野十十三
補佐々木道誉家滅亡す類説
補尼子氏は監谷判官か後といふ説
□武田信玄は曽我時致か再生といふ説
広益俗説弁後編巻三
士庶
卅北條義時は八幡の化身といふ説附同泰時詠歌の
説
俗説云ある人八幡に参詣して通夜しける夢に神
殿の戸をひらかせ給ひ武内と召けれは白髪の人御
前に候しけるに世の中みたれなんとす朕しはらく
時政か子になりて世を治むへしと神勅ましますと
覚えて夢さめたりこれによりて義時朝臣は八幡
の御後身としられたり其子泰時まても凡人には
あらすかの朝臣のうたに〽世の中の麻はあとなくなり
にけり心のまゝのよもぎのみして
今按るに義時泰時泰時泰時か行跡を見るに一事として
称すへきものなし頼家を弑し和田畠山を殺し
公暁にすゝめて実朝を討せ公暁をも害し後鳥羽
院を隠岐に遷し奉頼実に天地不容の罪人といふ
へししかるを八幡の化身と夢に見しといへるは
彼等かこゝろにかなはんとての親言なるへし又我時
か麻はあとなくなりにけりとよめる歌新勅撰
和歌集に見えたり是は荀子の蓬生二麻中一不二扶直
といふ語にもとつけりこゝろのまゝのこもきとは泰
時己か事を読たるか掌をうつて笑ふへし
補鷲尾三郎経春か説
俗説言源義経摂州一谷鴨越舟おもむき給ふとき
弁慶を召て案内者を尋ねよとのたまへは承候と
て山中十余町ゆき谷屋をうかゝふに茅屋の内に七
十余の翁六十余の姫居たり弁慶うちに入て安教
をたのむ翁こたへて某は年老て行歩かなひ候はす
子息の小冠者を具せらるへしとて弁慶につけて
まいらせたり義経見たまひて年はいかゝ名は何といふそ
とありけれは親には三男にあたりて歳は十七になり
候居所の山の鼻さし松ほふて鷲の貌に似たれは
かたとりて鷲尾と号候と申す義経左あらは今より
して汝を鷲尾三郎と呼へし名乗は我片名に父か片
名を取て経春と号すへし烏帽子親の引出物に
とて赤革の甲に太刀刀を添鹿毛なる馬に鞍置
せてたまはりぬ是より思ひつき奉りて一谷の案内
よりはしめて八島門司関の戦にも高名し我経
奥州下向のときは老たる親にもはなれ妻子を
もすてゝ十二人の虚山伏の其一人となり終に
奥州平泉の館にして討死せしめたり一説云鷲尾
は摂州の狩人なり此とき始て武士となる
今按るに摂州の狩人居所の山にかたとつて鷲尾
と号して武士となる三男にて三郎経春といふ
説名非なり鷲尾家桑を考るに鷲尾氏は平姓
にて其先桓武天皇より出たり天皇の子葛原親
王
一品式
部卿
上総介従五位
其子高見王其子高望王
常陸大掾鎭
其子国香
守府将軍
下始一賜二平姓一
鎮守府将軍陸
其子貞盛
奥守従四位下
其子維衡
五位下
陸奥守従
其子正度
五位下
出羽守従
其子貞衡
安濃
津三
郎
同其子貞清と相続す貞清二人の子あり嫡子鷲尾大郎
同西無谷ハ元津後宿長三
家衡伊勢国に住す二男鷲尾次郎清綱丹波図に住す
清綱二人の子あり嫡子を鷲尾太郎維綱といふ二
男を聾尾十郎清久といふ寿永年中源ノ義経摂州
一谷におもむき給ふとき十郎清久をもつて案内
者とし給ふ義経清久か功を感して義の一字を賜
て義次とあらたむ奥州衣川の戦に討死す義
後に十郎
四十四郎丹波に住しけるか奥州にくたり
次か子義治後に住しけるか奥州にくたり
て義次か髑髏をとり帰国して葬送す義治か子
一義基針彼墓の上に祠をたてゝ神と祝へり其子孫
丹波摂津及諸国にありと記せり考へ見るへし
補原田種直は漢高祖の裔といふ説
俗説云原田次郎大蔵種直か先祖は漢の高祖より
一出たり伝へきく漢高祖の皇子を虚船につゝりこめて
蒼海におしなかす此船筑前国志賀郡たかすと云
所に着皇子の容貌等倫に超けれは所の者とも
参聞をとけ勅許をかうふり所の主となす其苗裔
原田氏なりこれよりたかすを高祖と書も其いはれ
なり種直漢ノ高祖を神に祝ひ高祖明神と号す
胎土郡にあり
今按るに右の説非なり原田ノ先祖は後漢ノ光武
皇帝より十二代獻帝の後胤阿多信王本朝孝
徳天皇大化年中日本に帰化す播摩国明石浦
に看岸し大蔵谷に居住す此故小子孫大蔵を
もつて姓とす阿多倍王第二の子貴重王より
十二代の後胤大蔵ノ春実天慶四年藤原純友か
一追討便となり軍功ありしかは筑前国にて領地を
賜り御笠部原田に居住し原田をもつて家号
とす春実後に名を春種とあしたむ春種か孫
種資同国那珂郡岩戸にうつりて住す種資より
四代の孫を原田次郎太夫種直といふ後に大宰の事の事
一書に岩戸諸郷と
弐に任す故に岩戸少卿といふ
あるは順なり少式の
唐名を少郷
といふ故也
三十二年五月三日平家に属して忠を尽す故源氏の
世と成て後頼朝これを憤り給ひ鎌倉に召下され
平山武者所季重に預らる扇谷に押こめられて
十三年の春秋をおくり建久八年教免あつて卜国
旧領の内に案堵すといへとも前代の家臣にたも
及さる躰なり種直か四男四郎種成同国恰土郡ソ
鎮守高祖大明神の社務上原兵庫か婿となる
兵庫家富人多き者なりしかは種直かれをかた
らひて近隣を討したくて押領し国中に威をふ
るひ高祖に城を築き数代住居す此所を高祖と
なつけしば彦火に出見尊神代より鎮座ましまず故
なり尊は百王の祖神なれは高祖と申し奉る神功
皇后三韓征伐のとき此所に行幸あつて当社に祈
せ給ひしかは冥助あらたなりしとかや後に神功皇
二代
后を相殿に祀て高磯比呼神社と号し奉る無銘
にもえ慶元年九月廿五日筑前国高磯是等を謬伝し
比呼神に従五位下をさづけ給ふと有
たるものなり
団渡辺左衛門源ノ渡僧となつて俊桑坊重源と号す
る説
俗説云遠藤武者盛遠渡邉左衛門源ノ渡か妻裂裟女
を恋慕しあやまつて殺害するの後盛遠渡出家す盛
遠は文覚なり渡は俊乗坊重源なり
今按るに右の説非なり渡と俊乗坊と別人にて
スイジ
一出自大に相違す諸家系図云嵯峨天皇。源融弘法
従二
位左
タヽシシカフ
サトル
大
臣
正三位
ツカフ
昇
大納言
仕
武蔵守
従五位下
摂津
貞順
文順信滝口大
貞順
悟
瀧口左
衛門尉
渡
左
兵
門尉武
者所
是源姓なり同書ニ云孝元天皇。彦太恩信
命。屋主忍雄命。武雄心命。武内宿祢木兎宿祢。真
鳥宿祢。慈寐臣。真咋臣。小足臣。塩手臣。大口臣。大
人園益。
従五
位下
従一位贈
諸人
大政大臣
一
正三位大納言
麿
中務卿太宰帥
飯
同黄益谷光辨後編二二
クニモリ
麻呂
正三位
大納言
常陸守
麻呂名
従三位
真人
常陸介従
四位下
国守
正五
位下
貞範
弾正忠
正六位
長谷雄
従二位
中納言
河内守従
濟信
四位下
右衞門尉
式部少輔
刑部
明輔。維明
宣
在昌
兼輔
従四位上
允
従五位下
明
安藝守従
五位下
下総守従
宣輔
五位下
ノフヤハ
左衛門尉帯刀
宜範
先生従五位下
宜清
左衞
門尉
スヘスケ
季輔
當
池別
季重
瀧口左馬允
従五位下
重源
俊乗
坊大
和尚俗
是記姓なり其相違を考へ知へし
名重定
補畑時能流失にあたる説
俗説云畑六郎左衛門時能二十七人にて鷹巣城にこもり
て足利尾張守高経とたゝかふこと久し高経及高上野
治作
七千余騎にて城をかこむ時能あるとき
介師治
重ニ非
城には一ノ井兵部少輔に兵十一人を添てのこし置その
身は十六人を従へて伊地山に打出る高経三千余騎に
てたゝかふに畑か強勢にくたかれて忽に敗軍す軍散
してのち畑帷幕の内に入て見るに数ヶ所の疵を
かうふり殊に障子の板の外より肩さきに射こめられ
たる矢一筋脱けれとも鏃ぬけず三日か間苦痛し
て吠死に死けり此畑は悪逆無道にして罪障をもお
それす僧法師を殺害し仏閣をやきこほち修善の
こゝろは露はかりもなく悪業をなすこと山のことゝかさ
なりしかは勇士智謀の芸ありしかとも遂に天の
同廣益谷悦解後編巻三
為に罰せられけん流失におかされて死けるこそ懇
なれ
今按るに時能高経と戦ひ矢にわたつて鏃ぬけす
苦痛して必死したりとそし礼る説非なり畑に
かきらす軍にのそむものは流失にあたること珍
しからすすへて矢にあたりしとき則時にぬかさ
れは肉にからみて脱さるものとかや今世間病に罹
て死る者のなかにも苦痛によつて吠死するたく
ひすくなからす况や疵をかうふりて死するものをや
あやしとすへからず又勇力智謀の芸ありしかとも
平素の悪によつて天に罰せられけるか流失にあ
たつて死せしとそしるも非なり此時新田方の
城こと〳〵く陥て越前越中能登加賀若狭五州の
あいたに宮方の城一所もなきに時能二十七人にて
籠城し数千の敵にかこまれなから堅くまもつておと
されす剰わつか十六人にて三千余騎にむかへり是卵
をもつて石をうつに似たり疵をかうふるはいまだし
討死せんこと必せりしかるを大軍を破て勝利を得
たるは智謀勇力万人に超過せる故ならすやたゝし
此時に及んて時能頂王焚絵か勇を震ひ張良孔
明か謀をめくらすとも運をひらき家をおこさん
ことの難五尺の童子といふとも最さとすへき所なり
抑此作者理にくらふしてかくのこときや又畑をにくむて
しかりや今其故をしらす是のみにあらす民間流
布の書に載にたかひ理にそむける事多し見
るもの心をつけて可なり
關今庄入道浄慶か説
俗説云新田義助同義顕弐百五拾騎を相具して館
並の宿より金崎へかへらんとて敦賀におもむき給ふ
爰に当国の住人今庄九郎入道浄慶落人をとゝめん
為に近邊の野伏ともを催しあつめて嶮岨に赤垣
をゆひ要害に逆茂木をひき鏃をそろへて待懸た
り戦助これを見給ひて是は当手に属して坂本
まてありし今庄法眼久経か一族にてやあるらん其
者ともなれはさすか旧功をわすれしと覚ゆるそ近
付て事のやうをたつねきけとのたまふに由良越前
守光氏たゝ一人馬をすゝめ相近付て浄慶に申け
類は脇屋右衛門佐義助合戦評諚の為に杣山より金
崎へ越給ふをかた〳〵存知候てかやうに道をふさかるゝや
若矢一すちをも射出されなは後日の罪科のかれ給
ふへからす早く弓をふせ甲を脱て通さるへしと申け
れは今庄入道馬より下て親にて候卿法眼久経御
手に属して軍忠をはけみ候しかは御忍のすゑも
かたしげなく候へ共父子各別の身となつて足利尾張守
殿に属し候へは此処をさゝへすして通し参らせんは
罪科のかれかたく候へはわさと失ひとつ仕るへし是
まつたく乗る本意にて候はねはあはれ御供の人
ひとの中に名字さりぬへからん人を一両輩出し給は
りなは其首を取て合戦仕たる支證に備へ身の咎
をたすかりこんと申す光氏帰てかくと申せは義助は
進退答りたる体にてことはも出されす戦顕きゝぎ
ひて浮塵か申所其謂あれ共今まてつきまとひ
たる士卒の志のおもきこと親子にひとし義顕
彼等か命にかはるとも我命に士卒をかへかたし光氏
今一度打むかつて此旨を問答すへし猶かなひか
たくは我々も士卒と共に討死して将の士をおも
むする義を後世に備へんと宣ふ光氏又打むかつて
此よし越申すに浄慶こゝろとけすして数刻をうつ
しけれは光氏馬より下て鎧の上帯おしきり天
下の為におもんすへき大将の御身たにも軍勢の
命にかはらんとし給ふそかしいはんや義によつて命
を軽むすへき郎等の身として主の御命にかはらぬ
事や有へき更は某か首を取て大将を通しまいら
せよといひもはてす腰刀をぬひて腹をきらんとす
浄度かれる忠義を見て肝に銘しけるにやはしり
よつて光氏か刀にとりつき御自害あるへからすけにも
大将の仰も士卒の所存も皆ことはりに覚え候へは浄
尊いかなる罪科にあたるともいかて情なき振廻は仕
るへき早御通り候へといひて弓をふを逆茂木を引
のけ泣々道のかたはらにかしこまる両大将大に感
せられて我等たとひ戦死するとも一家の内に
世をたもつ者あらはこれをしるしに出して今の忠
義をあらはすへしとて金作の太刀を浄慶にあ
たへらる光氏は主の危を見て命にかはらんことを請
浄慶は敵の義を感して後の罪科をかへり見すいつ
れも断の中なれはこれを見きく人ことに称歎せぬは
なかりしとかや
一今按るに今庄入道浄慶足利尾張守高経に属
し垣を結路を塞きて待処に幸に新田一族ゆ
きかゝれりいさきよく一戦を遂雌雄を決すへし
然るを供の士一両人か首を得て合戦したる證
に備へ身の罪科を遁れんといひしは理にあたらす
察するに此とき新田勢猶弐百五拾騎各戦心
一金石の勇士なれは駆合の軍は危しと思ひて
いひしにや又光氏か腹をきらんとせしとき大将の
仰も士卒の所存もことはりと覚ゆれはたとひ洋
慶いかなる罪にあたるともいかて情なきふるま
ひをいたすへきとて道をあけて通したるも
非なり敵の義あるを感して我身罪科にあた
らんといひしは姑息の愛に忠孝をわすれたる
なり又両大将浄慶か志を感して太刀をあたへ
我々討死すとも一家に世を保つ者いてきなは是
をもつて今の忠義の證とせよといはれしは則時
の悦にたえす不図挨拶せられしものならん被
浄慶は高経に属しなから敵のことはにめてゝ通
したれは武心なり然る時は後日此太刀を出し
てかくといはゝ忠義の証にはならすして不戦の
証となるへし又いつれも理の中なれは見聞の人
ことに称歎せぬはなかりしといふは黒白わかたぬ
ものとものみあつまりてみたりにほめたる説なるへし
同同長谷免岸後編医三
補佐〻木道誉家滅亡す類説
俗説云佐々木道誉山門の呪咀によつて嫡子秀綱
其子弐人ともに討死して家滅亡す
今按るに秀綱等か討死は武士の習なれはめつ
らしからす又家滅亡の事非なり江北佐々木日
記云佐々木佐渡判官源高氏入道道誉
号勝
樂寺一
嫡
子近江守秀綱其子秀詮氏詮と共に摂津守渡
辺合戦に討死す二男高橋次郎秀宗と云三男
高秀道誉の家督を相続す高秀子三郎高詮後
号能
高詮子治部少輔高光勝
仁寺
に中務少輔といふ笹
願
其子持光
計
号興
雲寺
一子なし故に六郎持清を養子
寺
とす応仁の乱に討死す
号二実
性寺一
持清子なし此教
に高光弟加賀守高数を養子とす桜別其嫡子
号正
中務太輔勝秀
覚寺
二男大膳太夫政経三男政
光回男宗意と云勝秀家を相続すといへども子
なき扇弟宗意を養子とす宗念幼少の間は
里田判官政光名代たり大膳太夫政経子を治部少
輔村宗といふ如此代に相続して繁昌せり俗説と
相違せるを見るへし
補尼子氏は塩谷判官か後といふ説
同黄益谷免解後編念三
俗説言塩谷判官高貞滅亡のとき其妻子を八幡六郎
修行者に頼置しをはこくみて後に雲州の守護と
なり尼子と号すると云
今按るに続太平記に雲州に山名師氏か守護
代鹽谷駿河守師高といふ者富田の城に在りと記
せり是高貞が後なるへし尼子氏は佐々木道誉よ
り出たり尼子家龍云尼子氏は佐々木佐渡判官
源兵氏入道道誉の三男大膳太夫高秀三代の
孫刑部太輔持久一族の京極六郎持清の名代
として出雲国に下向し尼子といふ所に住して
家名とす其後京極家は江州を領し持久は雲
州を領す其子刑部少輔清定其子伊予守経久
と相続す経久武功をもつて出雲伯耆因幡隠
岐石見安芸美作備前備中備後播摩十一ケ国
を押領す其子民部少輔政久永正十年九月六
日大内と合戦のとき流失にあたつて二十六歳
にて卒すこの故に経久嫡孫詮久を家督とす
詮久後に公方義晴朝臣より一字を賜り晴久と
あしため修理太輔と号す晴久及其子義久等毛
利元就と戦ひ利をうしなひ家断絶すとある
を見るへし
補武田信玄は曽我時致か再生といふ説
俗説云武田晴信入道信玄は曽我五郎時致か再生
なり其故はある僧冨士野を通りけるとき曽我十
郎祐成か幽霊あらはれていはゝわか第五郎時致は存
生のとき法華経読誦の功によりて甲斐国の領
主武田大膳大夫晴信入道信玄と再生せり某は
女色に愛着せし故今に六道に沈淪せり此旨を信
玄に告て亡跡を吊せたひ給へと頼しとなり
一今按類に再生輪回のことは理におゐてなき事
なり前に論せるかことし今しはらく俗談によつて
評するに曽我五郎時致は淫奔放蕩のそしりあ
りといへとも工藤祐経を討て父か讐を復せり取ど
ころなき者にあらす武田入道信玄は彼に異な
一り其罪悪の尤ものをあく類に父信虎を追出し
て甲州を領せり伝ニ云不レハレ得二手親一不レ可レ可ヲ以テ為レ人ト登人
にあらさるときは禽獣なりたゝし虎狼に父子
のしたしみあり鶺鴒に兄弟の情ありといへは禽獣
にもしかすといはんか然るを物は類を以てあつまる
ならひ其臣高坂弾正主の不孝不孝不義をいさめさる
たにあるに信玄父を追出ありしはことはりなから
一生論語を手に取たまはすと軍鑑に記したり
思ふに晩年になりとも論語を手にふれなは不孝
一を悔旧悪を改るこゝろも有へきにといと恨めし是
のみにあらす降人諏訪の祝頼茂を誅して所領
をあはせ其女子を納て帝とす彼妾か讒によつて
太郎義信飯富兵部を殺害し欲にふけつて親し
きをわすれ甥の今川氏真を押倒して駿州をう
はへり取ところあるへにあらす
広益俗説弁後編巻三
し
第
狩
廣蓋俗説辨甚
後編四
僧道近世辨類
廣益俗説辨後編巻四
狩野氏図書記
僧道
一社長
豊蔵書
圖文覚頼朝を相する説
闢妙吉侍者は天狗の化現といふ説
近世
《眼部幾之丞父か教を討さる説
補寒河又四郎父か敵を討さる説
《題:渡瀬氏の女紛諾の夫か敵を討説
雑類人物
《題:の武士のこときは今はなしと云説
広松伯詩歌名宿君同
補幼児に賤名をつくる説
ねは後にうまるゝを兄とする説
人のの名に郎の字をつゝる説
《題:《題:《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:《題:《題:《振行の説
四十る人仏を信して殺害をまぬかるゝ説
団女覡口託の説
關悪人死れは葬送の時大風雨雷電ある説
圖名僧石に手足の跡を残す説
廣益俗説辨後編巻四
僧道
補文覚上人頼朝を相する説
俗説云文覚上人伊豆になかされ彼所にて頼朝に対
面し天下を知へき相なりといひて我兵をすゝめ終
に天下を領せしむ古今の相人なりといふ
今按るに文覚頼朝を相して天下を知へき器なり
と告て義兵をすゝめ天下を領せしむといへるは
非なり其後六代をいかゝ相せしにや謀叛をおこさ
せけるに六代は誅せられ其身は隠岐になるさるなん
広松作請親役務権左
そ頼朝を相せしことく六代を相せさるや古今考に
相レル人ヲ二字始テ見二於左伝一ニ文公元年内史叔服能ク相ス
レ人ヲ至二荀卿一始為レ書ヲ非レ之ヲ召公能ク相二高祖之高祖之當一
不レ能ノ相二呂后之覆レ宗とそしれり思ふに沈氏筆談
に山陽に女巫ありきはめて異なり白黒の碁を
かそへ手ににきりて其かすを問にあはさることな
し若みたりに碁を取て問ときは其かすをしら
すとあり是ものありて数を告るなり則幻術な
りと記せり人を相するも此たゝひなり尤モ正理に
あらさるを知べし
団妙吉侍者は天狗の化現といふ説
俗説云妙吉侍者は天狗の化現なりこの故に村雲
人のあまねく知
といふ所に住す
たる事故に略す
今按するに非なり鎌倉志引二鎌倉大草子一ヲ云京
の村雲大休寺の開基妙結侍者は夢窓国師の
一法春にて源直我の帰依僧なり関東へ下向し
浄智寺に住し大同妙詰和尚と号す悟道発明
ろ人にて正念に終り給ひし事寺の旧記にろこ
れりしかれとも大平記には曽てしらさる事を
いかなる無智愚盲のわざにやあり気ん妙語
一広石仏詔旁役勅使用
を妙吉と書あるひは愛宕の天狗の化したると
記し置たりと有を考しるへし
近世
此段は世に流布する俗書に出たることをひろひて評をく
はへたりおの〳〵是非を見たりて害となるゆへなり
補服部弟之丞父か敵を討さる跡
俗説云昔相州染屋右衛門ノ太輔といふ人の家士振部
儀右衛門同僚真平図書と口論す服部あやまりある
によつて切腹せしめたり此とき眼部か妻子を妊めり
程なく男子を誕生す幾之丞と名つゝ十一歳より
寺にあつけて書をよましむ然るにある時眼部か家
人長井権太兵衛寺にゆきて幾之丞に対面していはく
御父の敵をうたすして月日をおくり給ふ事世の執行
汰くちおしけれは浪々せる御家人をかたらひ敵を討
申すへしといふ幾之丞なみたをなかし我父の口論
の事を伝へきゝに其あやまり至極せり自滅ありしは
道を守さるの罪なり敵今に存命せるは忠あるか
故なり今非道をもつて有道をうたは其国にひとゝな
りなから国恩をわするゝ不戦なり此悪事をおも
ひたゝは君より母へとかめ有へし不孝なり邪をも
つて讐を復せんとせはかへつて禍をまねく媒なり
図書を敵とおもふこゝろを道をもつておさゆへしとて
承引せさりけり図書此事を聞てふかく感しき之丞
に書置して自害すこれによりて主君双方の志
を感し。幾之丞に父か本領をあたへ図書か子源五左衛門
にも父か領知をあたへけり其ころの者之丞を感
せぬはなかりしとそ
今按するに此説非なりたとひ我父あやまりあり
て死したりとも子として父か非をあけて敵をう
たさる道理なし然るを其国にひとゝなりなから
国恩をわすれて敵をうたんやといへるは己か身
あることを知て父あることをしらさるなり思ふに
森之丞幼少より寺に入て書をよめりとあれは
仏詠に父母為レル人ノ所レ教ヲ無二一挙レ心ヲ動レ念ヲ方始名為
初発心菩薩とあるを趣意とせるにやいとあや
し又図書か其始口論のときに身をすてすして
程へての自殺は俗にいふいさかひ過てのちきり木
なるへし
種寒河又四郎父か敵を討さる説
俗説云寒河又四郎といふ者其父兵右衛門を米光久
内といふ者にうたせ其敵をうたんために他国に行
り老母ありあづくへき方なふしてともなひゆくに
廣益谷允辨後尚民一四
道にて老母落馬して息たへたりしかる所に同しく
其道を過ける旅人たちとゝまりていたはしき事な
りとて薬を出しあたふるに程なく息印けれは所
の逆旅にとゝまりて療す類に弥こゝろよくなれり
又四郎大によろこひ薬をあたえし旅人かとまりし
宿に随き薬をめくみしことを謝して後其名を聞は
米光久内とこたふ又四郎さては父か敵なり父か死せ
しとき幼少なる故敵の面を見しらすしてかくろ
ことしと思ひ其座をたちて旅宿にかへり夜に入
て衣服を着かへ墨髭をつくりかたちを異積に変し
て久内か旅宿にゆき此家に来光久内とまり給ふと
きけり我こそ御辺の手にかゝりたる寒河兵右衛門か
子同名又四郎なれ尋常に勝負し給へとのゝし
れは久内も心得たりと外に出双方かたなをぬきも
ち切あひしか又四郎兼て刀の目釘をぬ置ぬれは
柄よりぬけて向ふに落けるに又四郎脇差には手も
りけすして飛退き庇をくみ首を延て切給へといふ
久内松とろきて何故にかくはせらるゝや脇差をもつ
て勝負せられよと問答する所に老母あとよりかけ
つけ見れは昼薬をめくみし旅人なり汝何故に恩
越わすれて此人に手向するやと又四郎を罵れは又四郎
つゝみかね我は今昼薬を請りし者なり其礼として
旅宿にゆきて物語するうち家名をうけたまはり
て父か敵と知ぬもつとも則時にうつへきことなれとも先
刻貴方の薬によつて死したる老母蘇りぬれは命の
親なりしかりとて退て手むかひせされは父への孝をあ
するゝにゝたり進てうたんとすれは母ゑの志をしらさ
るかことし所専刀の目釘を脱てたゝかひ御辺の手にかゝ
らんと思ふなりといへは久内なみたをなかし足下のふるま
ひ前代未聞の孝子といふへしたれかこれを感せさらん
や今思へは我そのかみ貴方の父をうちしは非道なり
うつて本望遂給へと首さしのへて待けれとも又四
布これをきらすたかひに我死ん人死んと争ひ時
刻をうつけり久内此上はとて腹かき切て伏けれは又四郎
是非なく其くひを取て父か墓にそなへ母をは縁あ
る者にあつけ其身は剃髪して汝門となり父とかへ内
とか後世をとふらひける其ころ此両人かふるまひを武
士の手本と感しあへりける
今按るに又四郎父か敵なりとしらは薬を受へから
次敵も又薬をめくむへからす此薬をあたえたる受た
るとは別人をもつて見るへし然るを父か讎を見な
から其まゝうち過んは父への不孝なり討は母に薬
をめくめる志をわする所専刀の目釘をぬひてきり
あひ彼にうたれんと思ひしはあやまれり久内其て
いに感し首をのへてきられんことを請きらさる故に
切腹を類も又おろかなり思ふに忠やらん孝やらん
かつてわきまへす暗夜に道をたとるやうなる男ど
もなるへし
遡渡瀬氏の女約諾の夫か為に敵を討説
俗説云いつの比にかありけむ武州に富樫平三といふ
侍ありしか近隣の渡瀬平助といへる浪人か女子を
恋慕し度々消息しけれは加の女いつの夜ひそかに
逢へきよし返辞す富樫悦て女か方に来る女か云く
我父浪々の身にて朝夕のいとなみたになかりしに
此間ある屋形より見つからを妾にかゝえらるへしと
ありて衣服金銀なとたまはり用意とゝのひて明後
日かのかたに参るなりしかるときは今御身になれ
まいらせんは女の道をそむくなれはゆるさせ給ふ道
し此世の災こそかなはすとも来世はかならす夫婦
なりと誓紙を取かはしてわかれたり其後女屋形に
出て主君の寵愛ならひなししかるところにかの富
樫平三片岡兵次といふ者と口論してうたれたりと
風聞す女これを聞て二世とちかひし夫をうたせいた
つらにくらさんは富樫か草葉のかけにて思はんところ
いとはつかしいかにもして敵をうたはやと思ひたち
はしめよりの有増を書置にしたゝめ屋形を忍ひ
出たり主君書置を見て落涙しまことに次女とい
ひ心といひためしすゝなき賢女やとふかく感し家
士の中にて剣術を得たるものをゑらひて女につけて
敵をねらはせしに半年はかりにて片岡にめくりあ
ひ二人にて思ひのまゝに討おほせたり女はこれより
屋形にかへらすすゝに尼となつて亡夫か後世をとふら
ひける其ころ此女か貞節を感せぬはなかりしとなり
一今按るに冨樫平三幡を踰て處女を樓其罪科
ろかるへからす又此女他の妾に約しなから平三を
深閨に引こみ此世の契はかなはすとも来世は夫婦
たらんと云しは父母の命を待すして穴隙をきるの
たゝひなり其不残至ておもし若これよりさき父
母の命によりて富樫と約せは妾に出へからず父母の
命によりて妾に出は富樫に逢へからす妄に約し
なから富樫に逢ぬるはこれ二心なり又富樫か
片岡にうたれしときかの女夫か敵を討とて書置し
て出ぬるを主君せめてしらぬ顔してもあれかし剰
一賢女なりと褒己か家人を添淫婦をたすけて酔
陽侯の敵を討しめたり又家人女に添られしときな
むそ辞退せさるや古語に瓜田に履をいれす李
下に冠をたゝさすとあるかことし嫌疑をさくへし
然るを何の遠慮もなく彼女と半年あまり寝席
一を同しくせり柳下恵にあらされは誰か通せ浪といふ
人あらんや若君命を辞せは武道に甲斐なしと
一偏に思ひしにや尾生か痴信といふへしたゝし
これも謡夫にて幸の事とよろこへるやしかるとき
は珠壁を盗賊に委ねたるなり思ふに牆を踰たる
富樫他夫に謡せる女子妖態に惑溺せる主君嫌
疑を避さる家士かばかりそろひたる不。慧は上古以
来希なるへし
雑類人物
圖古の武士のこときは今はなしといふ説
俗説云いにしへのことき武士は今はなしこの故に用る
にたらすといふ
今按るに大に非なりむかし齊の宣王淳于艶に
むかひて我好むところをしるやと問れけるに鬢か
いはく古の好む所回つにして王の好給所三つなり
宣王いはく我好む所古の好所にたかふへからす髭
かいはくいにしへ馬を好む王も又馬を好み給ふ古味
を好む王も又味を好み給ふ古色を好む天も又色を
好み給ふ古士を好む玉ひとり士を好み給はす宣王
いはくわれ士を好むすろあれとも幽に士なし
一艶云古麟驪騏驥ありて今なしといへとも正馬を
一好み給ふ古豹豪の胎ありて今なしといへとも王味を
好み給ふ古毛嬌西施ありて今なしといへとも玉色を
好み給へり国に士なしとのたまふは堯舜禹湯の
こときを好み給ふにやといひしことあり今の世にも
古程こそあらすともいかほとも有ぬへし好ますし
てなしといふへからす
關幼兒に賤名をつく類説
俗間に幼児のよくそたつまじなひとて犬牛猪なとの
字をよふことなり
今按るに日本にかゝさらす異邦にもこれあり司
同同十一月後藤安治院倅友安治
馬相如小名犬子楊雄子小名童烏其餘哀虎垣
見于小
豹白象狗児
名録
仙穂
見于侍児
小名録一
なとのたゝひ
なり拍掌錄ニ云ツ昔一長老在二欧陽公ヲ座上一ニ公ノ家ノ
児有二小名僧哥者ノ戯謂レ公ニ曰公不レ重レ佛ヲ安得二此名ノ
公笑テ曰人家ノ小児要レ易二長音一往往以二賊物一ノ為一小名一
如二物羊犬馬之類一是也聞者莫レ不絶倒一
道山清話
云聞者莫
不レ服ニ公之
捷對也
賤物を小名として長育するの説も
とより妄なり永叡これを暁さるにはあらすたゝ
にこれを設けて浮屠をあさむゝ戯とするのみ
闘仔は後にうまるゝを兄とする説
俗説云好は先にうまるゝを第にして後にうまるゝ
が兄なり其故は胎内に在とき頭を踏て居る故
なり
今按るに空同子ニ云讐生以後為兄者ノ休二化理者
也凡産必前動謂二之回轉無レ得則首始下首下則
生矣即以二受受気ノ先後一回転時先レ氣者先出ノ出ノ出ノ出ノ出ク斯造化
之幾所二以全二母子一ヲ也雙生ノ子先生者體大差長。亦
獨先亂
西京雑記
所載又同
此説を考へ知へし
闘人の名に郎字をつくる説
俗間に郎の字を用るは日本にのみありといふ
一今按るに日本のみあらす隋唐嘉話云張易之昌
宗初入レ朝。官位尚早論附者乃呼為二ク五郎六郎一。自
俊因以成レ俗これもろこしの書にも出たる證也
補武者修行の説
俗説に古今武芸をよくする者は日本を武者修行し
て武芸をくらふといふ
今按るに大に非なり俗に武者修行といふは乱
国の砌浪人者とも諸国をめくりて軍ある所に
ゆき何方へそはせつきて戦功をはけまし所領
を得逗留し心にかなは怒事あれは其所を去て
他国にゆくこれを武者修行といへり治世になる
事にはあらす
ある人仏を信して殺害をまぬかるゝ説
俗説云むかしある武士常に仏を信しけるか罪科
ありけれは主君搦て切しむるに斬者の腕すゝみ
てきられすといふあるひは鉄砲にてうたしむるにあた
らすこの故に命をたすけられたり各仏の加護也
今按なに人倫としては親しきによらす疎きに
もよらす善を勧め悪を懲すの法あるへし悪人
なれとも己にへつらひ物をおくれは贔屓し
已にへつちはす物をおゝらされは疎悪むは小人なり
仏は西方の賢者とやらんいへはかゝる依怙はあるま
し依怙ならんは罪人に荷撰すへからす但し仏を
祈て感応ある事は偽にあらす能疑説云設二土木ノ
像一敬而事レ之顕應二霊霊感一此非二土木ノ之霊一乃人心之一
霊耳とあることゝ我心をあつめて誠にするとき
は其しるしなきにあらず然れとも読書具眼
者は信することなし欧陽文忠公ム本論ニ云フ今ニ八尺
之夫被レ甲荷レ戦勇盖二三軍ヲ然而見レ佛ヲ拜聞二佛之説ニ
一則有二畏慕之誠一者何也彼誠壮伎其中心茫然然無
レ所守而然也とあるをさとすへし又佛を信する
者を斬に脱すくんてうつことあたはす鉄炮にて
うつにもあたらすといふは仏法にはあらす幻術な
りもろこしにも其たくひあり抱朴子に云呉王将
軍賀斉をつかはして山賊をうたしむるに敵のうち
に禁呪をよくする者ありて戦ふことに官軍刀剣
をぬき得す射る箭かへつて御方にあたる故毎度
利をうしなへり賀将軍思案してかれ刃あるも
のを禁すといへとも刀刃なきものをは禁し得ま
しといひて松ほくの棒をつくり強力の者五千人に
もたせさきにすゝましめ樹にてうたせしかは禁
咒をなす者おこなふことかなはす数万人うち数
さるゝと記せり刀剣玉箭にも傷られさるもの
あらは棒をもつてたゝき殺したるかよし
補女巫口託の説
俗間女巫の口託にふしきの事ありと云
一今按るに女巫の口託は幻術の余流にて物有
て告頼ことありと見えたり又はわかこゝろのま
とひによつて感することもあり性理字義に云
むかし人ありて江を過るに其妻水に流る夫
かなしみて金山寺にをひて死せる妻か為に仏
事をなす其なかはに死せし妻かたましひ婢
女につきて水になかれて死せし事そこにてはかく
ありしこゝにてはかくいひしなとゝ口はしり来れは
夫かなしみて跡をねんころにとふらひけり然る所
小それより二三日ありて漁人かの妻をつれ来て
我此人の水になかるゝを見あひすくひたすけたりと
てかへせり其婢かいふところいかなる事そや心に相
通せる故なりとあり今の口託これに似たり用る
ことなかるへし
国悪人死れは葬送の時大風雨雷電ある説
俗説云悪人死れは大風雨雷電すといふ
今按るに非なり翦勝野聞ニ云馬后既薨臨葬曰
大風雷電太祖甚不レ楽召二僧宗助曰太后将レ就二常
聞汝其宣レ偈渺応レ声曰。雨落天垂レ涙。雷鳴地挙レ衣。
西方ノ諸佛子。同ク送馬如来。宣巳帝大。悦頃忽胡霽
遂啓レ輙詔賜二湯白金百両一ヲとあり劉元城を葬る時
風雨あり朱紫陽卒し給ふとき大風洪水ありあ
る説に人非常なれは天地もこれを惜て大風雷
電すといへり然れとも天一人のために私すへからず
たま〳〵其期に風雷電あるをもつて蒙昧尼姫
のいふところなるへし
補名僧石に手足の跡を残す説
俗説云ある所の山にむかし名僧末世のためにとて
石に手足の跡をのこせり
今按なにこれは手足の跡にはあらすをのつから
かやうなる跡あるものなり金臺紀聞ニ云平陽府
侯馬駅滄河ノ西岸仄土ノ上ニ皆婦人ノ手ノ手ノ跡或ノ掌或奉
跡儼然者レ御瀛涯勝寛ニ云王都ノ太山ノ石ニ有二足ノ跡深
二尺長サリ餘一ト八尺一ニとあり此たゝひ日本にも多し
册
狩
176
狩
将軍
後編五
広益俗説弁蓋
官職芸術文籍
居處地理歳時
器用佛家禽鳥
草木
廣益俗説辨後編巻五
狩野氏図書記
官職
補玉體といふ説
《振り仮名:説
芸術
神村長
豊蔵書
図石臼藝の説
図他の芸をそし類説附あすならふといふ説
補他説を我説とする説
文籍
シヤク
編新板書籍の説
図十六合兌草多編巻五
嫡原代子吉子孫子
居処
大黒柱の説
地理
補日本にて紫色を尊ふ説
補暗明が瀧の説
補水無河の説
歳時
補日を択ふ説
器用
補規の説
關五明扇の説
佛家
圖木像畫像光を放行説附鏡に佛影を現す
る説
禽鳥
補常世の長鳴鶏の説
草木
補伊勢の浜萩の説
補俗説辨或問
同同同伊吉秀義氏
廣益俗説辨後編巻五
雑類
官職
玉体といふ説
俗間貴人を称して玉体と書クものあり
一今按るに非なり恵命院僧正記云玉體宝歩は
帝王太上天皇に限ていふ事なり后宮等をもいふ
へからすとあり況や凡人をや
補下官といふ説
俗間見つから称して下官と書ものあり
〇
唐益作諺邦後終巻王
一今按家に官あるものは称すへし官なきものは称
すへからす杜氏通典ニ云ツ宋孝武帝多二猜忌一諸国ノ吏
人於二本國一君不レ得レ稱二下官本爲二王者一選一臣之稱一臣之稱一ヲ
あるを考知へし
芸術
補石臼藝の説
俗説云用にたゝぬ藝を少しつゝ覚えたるものを石
臼藝といふ
今按家に一書云武田信玄の家人長坂長閑と
いふもの今川氏真と北条氏政と二人の題名ある
短冊二枚を信玄に見せたり氏真は甥にて氏政
は婿なれは信玄よろこはれんとおもひしにさも
なくて国持の武勇なふてきやしやなるは猫の鼠
はとらて毛色うるはしきことくなり武篇さへあれ
は無能なりとも至てきやしやなりといふへし武
勇は武士の能なり家の能にもあらぬ歌道のす
くれたるこそ残り多けれ石臼は種々の用にたてとも
座敷にはあけす茶臼は茶をひく一能にて座上に
も置なり両人の歌と手跡は石臼芸なりと批
凡そ武夫たらん者は先武芸を
判せられたりとあり
表にして他の雑芸を裏にすへし
同野督督督督編集立
鹿森郡美代組者主
同て思ふにむかし豊臣秀吉公母衣の衆をゑらひ給ひしに
ある人古田織部しかるへしと申す秀吉公のたまはく織部は
度との武功ありしかれともつねに茶湯を好みて名たかき故
武功かくれて知人希なりとて用ひたまはさりけり又ある民
士連歌をたしなみけるに朋友に老人ありけるか申けるは足
下の武道も連歌のことくすくれてそわらんすれとも連歌の
ていを見れは大かたのこゝろかけにては有まし左あれは武道の
はけみうすきやうに他のさけすみもあらんか無用にし給
へと異見しけるとなり是等の
思ふに宋の汗漫と云者
説よく道理にかなへり
竜を屠ることを三年まなひ枝なつて其巧を用
るところなし鏡々居詩草雑興詩に漫学二屠レ龍枝一
不レ惜手ノ黄金一技成無レ所レ用ル感二知音一とありこ
れを賦せり文武の芸をは講せすしてよしなき雑
芸をならひて日をおくるはなけかはししかはあれと
智もなく藝もなくうつら〳〵と世をわたるもの多し
かれにくらへてこれを思へはせめて石臼藝の人た
もあれや
附
補他の芸をそし類説銘あすならふの説
俗説云他の芸をとしりて彼は誰より劣れりといひ
て其者には及はさるあり
今按類に武田家の臣内藤修理か既に諸木の
中に名なき木一本あり此木かいふやう杉より檜
かましなりと沙汰すこの木ともかいふやう其方は
何そととへは我は檜の上にあすならふと云てついに
清少納言枕草子云
何にもならさるをあすならふ
あすはひの木と是也
と名
つくることくよき武士をそねみて我手柄のなき男
はあすならふとなつくへしといへりこれにつゐて世
上を見るに書を読るものゝ中にも己は一書の
著述もなくて他の編集せる書を見てはそしり
あさけり此作は誰作には及はす足は誤りそれは
違へりなと云のゝし類若側より是下にもかやうろ
書を輯め給へなといふ者あれはへらぬ体にもてなし
てかゝる書は誰もなる事なりいか程も記すへけれと
も我は實学を嗜て雑書を好まさる故あたら眺を
売さすなとまきらはして己か才に及はす己か手に
かなはすとはいはす是もあすならふの種類なるへし
図他説を我説とする説
俗間他の説を我説となしてほするものあり
今按なに他の説をもつて我説としてほこるは
志士のあへてなき事と御弊習また嘆へしよ
つて思ふに丹鉛穂録に信天翁は鳥の名真中に
あり其鳥魚越くらへとも見つからとることあたは仰
魚鷹のとりておとせるものあれはひろひてくらへり
蘭廷瑞
真の場
村の人
か詩に荷銭芹帯緑江空。喙鯉含煮
同同同同同同同四十二丁
浅草ノ中。波上ノ魚鴦-貪味飽。何ノ曽餓死信天翁とあり
他の説を我説とする者は此信天翁に相にたり
文籍
補新版書籍の説
俗間近年即行する所の書籍甚た多し
一貝原益軒翁云今世之薄俗捨二古昔之好書ヲ而不
レ取以二テ流一季浅末鄙俚文字ヲ為二耽看一如二書林ノ之所二ノ鏤
刻一亦徇二俗ヘ情之所二趣尚一観二其ノ所二ヲ刊布二而世情之変
態逐レ時ヲ単薄可レ知而已此説のことく近世印行の
書十に九は妄作なりしかるをわきまふる人もなき
にや書に引て證とす類多しなけかしきことなり
予
かつて和書考をあらはす実録のみを載て妄
一作を省けり考へあわせて取捨すへし
居處
補大黒柱の説
俗説云本朝密家の祖師異朝より大黒天神の密法
を伝へ来りて家内豊饒の祈祷の為に家の中にて
大なる柱をえらひ大黒柱と名つけて大黒天神の像
を安置す
今按るに此説かつて拠なきことなり大黒柱とは
書せす大極柱と書す其家の中に立類柱を大
極と名つけて心の御柱に比す心の御柱記ニ云心ノ御
柱一気之起天地之形。陰陽之源万物之體也。岩
窟本縁ニ云天瓊玉才亦名天逆弟亦ノ名ハ天御量柱
名一ク心ノ御柱一也惟是レ是レ天地開闢之圖形。天ノ御中主ノ神
実也ニ度會延佳神主ノ云天柱。國柱カ心ノ柱ハ皆中極
の表なり其所によりて名はかはれとも中極の表と
以上延佳神主
それ家は一天地
見るへしとあり
復植木氏書簡
なりこの故に其中柱を大極となつけたり大極大
黒音同じきをもつて誤り木像を安置す笑ふへし
地理
補日本にて紫色をたつとふ説
俗説云もろこしにては紫色をは間色とて用ひす野経
にも紫奪来ことをそしり給へりしかるを日本人の黄い
ろをたつとふは不学のあやまちなりと云
一今按州に非なり異国にては紫をいやしみ日本にては
たつとふ紫は陰陽を合した類色なり陽は赤く陰
は黒し赤黒をましゆれは紫と成故なり
補晴明か瀧の説
俗説に大和国に晴明か瀧といふあり阿部晴明か行を
なせし所なり
今按るに非なり貝原益軒云晴明か瀧は青折
嵩より一里あり此瀧は岩間よりみなきり落る瀧
なり十二間計もあらんか甚た見事なる瀧なり
瀧の上岩の間にふちあり此下の邊蜻蛉の小野と
て名所なり然は蜻螟か瀧なるへきをあやまりて
晴明か瀧と書なるへし
図水無河の説
俗説云常陸国水無河は津程に水なし年に一度前
出る故に水無何と名つく
今按るに非なり常陸国誌云水無河倭訓美祭
一乃加波即筑波川源出二ク筑波山西麓遠源出シ下毛
野国一ニ歴二テ西那珂真壁ノ地一ヲ遇二筑波山ノ麓一入二新治新治郡一ニ東ニ
流為二西川一ト二ノ川出二テ同郡土浦ノ城ノ城ノ南一入二箕幡江一是即
桜川也其一ツハ南ニ向テ入二信太郡ノ地一ニ會二箕幡江一ニ旧祀ニ云
水無ノ川源出二テ筑波一為二水無河一ト流レ流テ入ル櫻川ニ其ノ源自二地
中一行ク故ニ人不レ見二其水所一ノ由出ルとあるを考へ知へし
歳時
日をゑらふ説
俗間浮屠巫覡について日時をゑらふ者あり
今按るに日時をゑらふこと非なり陳留謝肇浙云
古人事之疑者質二之卜筮二而已治亂吉凶考二之星
緯一而已未聞擇日也則通天下一用レ之矣而吉凶禍
福卒不レ逃也甚矣世之惑也余嘗以破日ノ娶レ矣
矣不レノ逾レ年而得レ雄嘗以二月忌上レ官矣不二教
以二天賊日一ヲ解二水衝萬緒矣而卒無レ恙嘗以二空亡日一
出行ヲ莅レ任矣而諸事尽盡遂其餘小事不レ可二勝紀政
一謂陰陽暦日可二盡廃一矣と有を考ふへし但し日
を択ふこともとより妄なりしかるを謝肇浙其
一当否をこゝろみて後に暁すかれ強記なりといへと
も理にくらしといふへし
器用
補繰の説
俗説云規は軍陣にて敵とくみあふとき下にならさる
為にまうけたる物なり
羅山子云弓馬の家に軍陣のとき母衣をかゝるこ
とあり胞衣にかたとる松よそ人胎内にあつて
胞衣につゝまるゝときは動気あれとも無念無心
なりわか心静にして虚なるときはよく慎む故に
白刃をおそれす矢石あたるへきをもはゝからす
進みゆく此とき胞中にある時と同しきやうにすへ
き心持にて母衣をかく類なりこれによりて母衣
の製法今ときの草羽織道眼などのことゝに
肩脊に打かけ左右の手を袖より通して胸の
下に紐をつけてむすふなり弓馬の家に徘す
る事なれは世の人母衣の製法を知者まれなり
武士としては此義を考へ知さるへけんや
神道折中
俗解
補五明扇の説
俗間麁扇を五明と唱ふ
今按るに非なり中華古今詳。云ク五明扇ク舜所レ作
也舜受堯禪廣開視聴求賢人以自輔故作五明
扇一ヲ秦漢公卿士大夫皆得用レヲ之ヲ之を考へて
異なることを知へし
仏家
調木像畫像光を放つ説仮鏡に仏影を現す類説
俗説云木仏光を放ち晝像の眼より光をはなつ
ことありと云又鏡に仏影をあらはすことありと云
今按るに堂仏光りをはなつ事は神秘にあらす
太平広記云高燕公鎮蜀の日大慈寺の僧云堂
仏光を放つといふ燕公人にうかゝはしむるに僧等
鏡をもつて仏の上にひらめかす故に此光ありて
如此とあるたくひなり又昼像の眼より光を放つ
ことは薬方をもつてなせり草木子に云尽彩の仏
一像目を楽し光を放つは曽青和二壁魚色を設れ
は日にちかつきて光あり神を尽くに目人にした
かつて転すとあるたゝひなり又鏡に仏影をあ
らはすも幻薬をもつてなせり古今医統に昼写
鏡法を載ていはく雌黄一錢粉霜硝砂各一分右
細に研て膠水をもつて意に任せて鏡上に人物
花草故事を描尽し乾を候て火に焼こと片時
にして腐レ鏡薬磨去て其尽おのつから見遊とあり
爰にあづからすといへ
是等を考へて其偽具を知へし
とも後日此法をもつ
て人をまとはさんことをおそるゝ故にしつて馳して童蒙にし
うしむ是予か黴忠なり○呉中故語云むかし許道師といふもの
あり尹山の小民なり房やし門術をよくす白蓮教をもつて人を
まとはす其門弟数人ありてかれにつかへ仏菩薩なりとのゝしる
信するもの甚た多し許道師五月五日蜈蚣蛇蟠壁虎等五種の
毒物を取て甕の中にいれて口を閉てくらひ合しむ後にひとつ
残るもの毒はなはたし取て其血をとり薬にませてたくはへ女子
の法をもとめんといふものには目清浄ならすしては仏を拝する
ことかたしとて彼毒水にて目をあらはせ仲室にいらしむるに金
光ひかりかゝやきもろ〳〵の鬼神を見るおろかなる者にて信
して誠の仏と思へり鉾道師大竹藍の中に産し女子に衣
を脱せ抱へ持て道を伝ふといひてこれに通すとあり
禽鳥
補常世長鳴鳥の説
一同長発兌午後尚正三
俗間印行の神書の解に常世の長島鳥の説分明な
らす
今按るに桂海虞衡志ニ云長鳴鷄高ク大過常ノ鷄鳴
声甚長。終日啼号不レ絶とこれなるへし
草木
補伊勢の浜萩の説
俗説云伊勢の浜萩とは茅の事なり
今按るに非なり荒木田盛徴か神風小名哥云
伊勢の浜萩は二見郷三津村の南の江にあり
五十鈴川の末なり難波の芦は伊勢の浜萩と
歌に物の名も所によりてかはりけり北京
いふは是なりは
難波のあしはいせの浜萩とよめり
地景
すゝれたる所なりかの芦は常の芦にかはりて
大和本草附録に伊勢の浜萩は三津村
たりまきなり
の南のうしろにあり片葉の芦にして常の
芦にはかはれりなをくはしくは
とあるを考へ知へし
勢陽雑記伊勢名所捨違にあり
俗説弁或問
或問云一書に云俗説辨に小野小町と玉造小町と
越両人とせるは非なりともに一人なりと記せりい
かん答云前にも出せることく小野小町と玉造小町と別
人なり空海と小町と時代懸隔せり石見女式に小野
一銭五合克辨及扁永五
小町は弘法大師入定の時は生年四歳なりとあり
これをもつて老衰して空海に逢る説の妄なるを
知へし殊更玉造小町ノ書其文猥陋鄙劣なり後人の
擬作なること明けし○或問云一書に云俗説弁に
松浦佐用姫為二を夫石といふは偽なりとて二程全書
の説を引て論せり然れとも女子の望夫名になりし
ことを世説神異経に記し和歌にも読ること夫木集
白良物語に載たり一念力のかたきによつて石になる
一理をうたかはんや俗説辨の論非なるへしとありいかん
答云およそ学者は常に転くして理に精しからん
ことを歎す此故に読て用るあり読て用さるあり読
さへすれは皆よしとて怪誕猥陋の書をもみたりに
用るものにはあらすこの故に孟子も書く書を信せ
は書なきにしかすといましめ給へりしかるを程伊川
の望夫石の説は非なり世説神異経夫木白良の説
こそ是なりといへるはひとへに珠をすてゝ尾をひ
ろふに似たりたとひ雑記物語にあれはとて人化
して石になるの理あらんやいにしへ人の石になれる
あらは今もまたなるへし今をもつて古をはかりて妄
証をさとすへし○或間一書に云俗説弁に那須野
一広谷説学後備巻五
の数生石は砒石なるをもつて好事者玉藻前か
事を妄作せり鳥獣草木魚蟲水土共に毒あるこ
と諸書に見えたり皆是玉藻か所為ならんやといひ
しは墻破なる弁なるへし去翁拂子にて石をうち
われるはまことなる故に今も石を破る具を去翁と
いふ是其證なり尤木草に砒石の毒鶴鳥の毒草木
水土に毒あることを記し本朝奥州会津の人捕石
紀州玉川の毒水なとあれとも彼は彼なり是は
是なり玉藻か悪霊石となることなんそ妄ならんや
と記せりいかむ答て云く玉藻前か霊数生石となり
玄翁拂子をもつて石をうち破たる故石を割具を去
翁といふ説妄作ノ雑記俗謡口碑にあるまてにして歴
代皇紀編年集成続世継神皇正統記本朝編年録
王代一覧等の諸実縁にかつてなし若懐道の僧座
禅をなし払子をもつて石をうち破が実ならは古へ程
こそなくとも今の世にも悟道の僧も有へけれは随
分坐禅して小石なりとも打て見らるへし柑子にて
たゝきたりとて中〳〵破るへ或理那し又草木水土鳥
獣魚蟲の毒あると殺生石とは別なり彼は彼なり是
は是なりといふ説非なり物皆一理なりしかるを己か
広延谷ハ兄倅後扁安正
情のひかるゝ方に私することかくのことし今たま〳〵
誤をあけて正に帰さんとすれは正を忌て誤にかへさん
とすることたとへばからきを食る蓼虫甘きにうつ
羅す甘にうつせは又からきにかへるに似たり弊譬又
あはれむへし○或問足下いまた広く仏学をきは
めす深旨を味はゝさる故本をすてゝ末を評しき
らひ誠意よりみたりに僻論私説を殺るといふもの
ありいかん答て聖門の徒異端の書をよむといへとも
其深旨をきはめさるはもとより其所なり孔子同
攻二乎異端斯害也己とあり異論は聖人の道にあと
すして別に一端をなすを云楊墨荘列老仏がたゝひ
なり程子は淫声美色のことく遠くへし然すんは
親々然として其中にいらんといましめ給ひ范氏は
これをくはしくせんと欲すれは害をなすこと甚た
しといへり考へるへし又本をすてゝ末を取僻論私
説を設く類といふも非なり儒者の道のこときは万
事万理皆実と説是は本なる故に実なり是は
末なる故に虚なりといへる表裏はなし其所に述る神
儒の教にもとつき聖賢の銘に拠ときは皆公論
確説なり然るを僻論私説と見類は仏学浮雲と
一海谷は九坪度遍答
なりて固有の明徳をくらませはなりまとへるの
甚しきなり○或問ある儒士のいはく神道は
夷狄の道なりこの故に学ずといへりいかむ答云く
其国にうまれ其穀をくらひなから神道を尊はす剰
夷狄の道とそしる者はこれをたとふるに臣として
君にそむき子として父をすつることし天地不客の
大罪人なり山崎垂加翁説に我国にうまれて儒
学のみを知て神道を尊ばざる第は日本に置なから
心をもろこしに通したるなり叛逆人にひとしと
いはさることを得んやといへり同人いはく儒者の孔盃を
尊仏すること日月の如しといへとも孔盃の徒若我面
に来り冠をなさはわか鉾なんそ孔孟の徒をさけんや
たとひ生ては万戸侯に封せられ死ては帝の左右に在
とも他に黨して我父母の国を危くすへけむやしいへ
り其神道を本とせるを見るへし因言神書を説
者儒書を引て神書の資とはすへし是儒教をもつ
て神道の羽翼となすなり舎人王の日本紀を修せ
られしときにも淮南子の文を取て神代巻の首に
載給へる例のことしかならすしも神道を以て儒教に
混雑することなかれ混雑するにいたつては両部醤合の
同黄谷九坪後良安全
神道に異なりとすへからす神道を学ふ者のまさに
しるへき所なり此他論すへきもの多しといへとも略し
てのせす神道訓をあらはして精くしるすへし
一昼俗説辨後編巻五
大尾
僕憂嚮所ノ著ス俗説ノ三編未タ
全ク備シヲ二而輯二録シ廣益俗説辯
及ヒ後編二十五巻ヲ一贈テ書
肆ニ再登スニ登ス二梨棗一將ニ將ニ謂リ觀覽ノ士
以テレ予ヲ為二俗説之董狐ト一歟撫ヲ
レ掌ヲ大ニ蒙フ記ヲ爲二之レカ跋ト
肥後州隈本府井澤長秀書
同正典谷院辨後多富国臣
神道訓
廣益俗説辨又續編
近日可レシレ印二行ス之レヲ
六角通御幸町西仁入町
享保二丁酉孟春
書林茨城多左衞門刊
}
府内閣
廣益俗説辨其
遺編一
神祇天子
皇子公卿
士庶
神村長
廣益俗説辨遺編目録
録野氏図書記
豊減量
肥後州隈本府井澤長秀輯録
神祇
補伊勢内外宮の説
補伊勢二見浦の神鏡の説
補天稚御子の説
補天逆毎姫命の説
天子
闢花山院御出家の時侍臣内二通阿部晴明ニに
補崇徳院讃岐松が湯風の御歌の説
一谷光津定扁忽司録
皇子
補二代の征西将軍宮の説
公卿
補菅丞相九月十三夜の詩の説
補在原行平因幡山の歌の説
士庶
大石ノ山丸が説
輔相馬将門謀叛のとき六郎公連諫死の説
補多田満仲清原右大将秋忠が為に讒せらるゝ説
補源頼義箕輪入道が勧によつて剃髪の説
論義家忠明時期勧修各其芸をあらはす説
士庶
關鎌田兵衛政清を忠臣といふ説
補甲賀三郎兼家地獄廻の説
補愛護若が説
補信徳丸が説
開山庄太夫が説
近世
補果子をぬすむ侍童が説
婦女
仝元年従月令元年従
心計弁道紹惣巨録
斎宮おほくは
補斎宮は恬子内親王より後断絶といふ説弁
皇女あるひは
親王の御女たりといへども別に部類をたつべきやうなければしばらく
爰にのす見る者それこれをおもへ
補源頼義の母修理命婦の説
僧道
西行法師崇徳院御廟に詣て歌を読説
雑類人物
雑類
補○歯生てうまるゝは鬼子と云説
咒一水あびせは天文年中にはじまると云説
十二月二日奴婢出易の説
補夢想薬を売説
仏家
補ある僧都卒天に昇る説
補ある僧遷化に天花ふる説
圖ある僧坐禅して火に焼ざる説
地理
四海といふ説
關近江国手孕村の説
補女護島の説
艸木
補木に文字ある説
同治元梓と一品勿に司表
弘化諸法紀諸国
門松の説
補概をもみぢと訓説
木を伐て血出る説
補木。石レになる説
火
圖摂津国二根坊が火河内ノ国婆が火近江国油盗の説
水
補物は水によると云説
補有馬後妻湯の説
附タリ伊豆国熱海平左衛門湯同所法斎湯並書
美濃ノ国念仏川等の説
補江尻媼が池の説
補播摩国ふ増ふ減の水の説
土
補小石長じて大石となる説
補相模蛙石阿波馬石の説
補筑後石人の説
果蔵
補丹波の父打栗の説
補周防国天養果の説
飲食
補材餅の説
一谷元伊楚扁惣司録
化説辨送編煉目金
補酒迎の説
禽鳥
補鶏の宵鳴はふねと云説
補梟の鳴を不祥とする説
畜獣
補白鼠は福神の使者といふ説
補野婆山廻の説
圖我朝の天狗はもろこしの治鳥といふ説
魚蟲
補石見困龍水巻の説
補熨斗の説
宝貨
六道銭の説
器用
補匕首をわきざしと訓説
土産の説
總計六十條前後遺三編合三百七十六條
谷元辨遺編物図目録
、
廣益俗説辨遺編廿六目録
神祇
補伊勢内外宮の説
一補伊勢二見浦の神鏡の説
補天稚御子の説
補天逆毎姫命の説
天子
補花山ノ浦御出家の時侍臣内二通阿部晴明一ニ
補崇徳院讃岐松が浦風の御歌の説
皇子
一同同安元年三月表
補二代の征西将軍宮の説
公卿
補菅丞相九月十三夜の詩の説
補在原行平因幡山の歌の説
士庶
補大石ノ山丸が説
一補相馬将門謀叛のとき六郎公連諫死の説
補多田満仲清原右大将秋忠が為に讒せらるゝ説
補源ノ頼義箕輪入道が勧によつて剃髪の説
一補義家忠明明勧修各其藝をあらはす説
廣益俗説辨遺編巻廿六井澤長秀輯録
神祇
図伊勢内外宮の説
俗説云伊勢内外宮と申は内にあるを内宮と号し
外にあるを外宮といふ
一今按るに荒木田ノ盛微神主の云く内宮外宮と
号し奉る故は伊勢ノ国風土記ニ云度会郡宇治村
五十鈴川上造二他官社一奉レ奉レ齋二太神一ヲ豊日以一ヲ宇治
卿ヲ為二内卿一ト也今ニ以上以二テ宇治之二字ヲ為二卿名ト云為レ名ト古事一ヲ古一事
記釋註ニ云内宮ノ號者宇治ノ郷ノ本ノ名也故就二国地一ニ因
以称二内宮也又云外宮ハ則外者遠義也是レ天地開
闢神坐故因レ遠号二外宮一君レ曰二玄古之君一内宮は地
について号し奉り外宮は遠きによつて号し
以上神風
考へしるべし
奉るとあり
小名寄
補伊勢二見浦の神鏡の説
俗説ニ云伊勢ノ国二見の澳に岩に岩に添て神代の神鏡
在の案内者を頼ておがむなり
一今按るに是レは朝熊の鏡宮水ノ神の事をあや
まり伝へたるものなり鎮座伝記ニ云朝熊ノ神一
宝鏡鋳造功
座
件神社之宝鏡二面依二神託倭姫
神也霊石座、
神名畧記云神社在リ度會郡字治
命之御製也
郷朝熊村ノ北鹿海村ノ東ノ山上ニ
類聚神祇本
源神鏡篇云小朝能神鏡二面大和姫命朝熊
尓志
海上
海上珍為奉レシ。神名秘書ニ云ノ件ノ神社之
一畫云朝熊水神ノ形石ニ坐ス倭姫内親
寳鏡二面白銅鏡是也
王定祝彼岩上御鏡之外年来之
間他御
體不レ
正治元年六月六日祝礒部ノ時頃等カ解ニ云々抑ノ
当リ社并ニ御前ノ社ノ宝殿者共ニ在二リ高山之上ニ其山下
坤ノ方ニ場一ニ江河二十餘丈之程一ヲ水邊ノ岩ノ上ニ件ノ御鏡二
面自二リ往昔之当初一所二御坐一ス也云一ニ大風洪水之比云海
一湖湛満之時一ト猛浪雖二其上一ニ鏡坐更無二ル相違一と
右参二考メ神名略記載之御前の岩の上
あり
の神鏡の事詳にに朝熊神鏡沙汰文有り
度會ノ延佳神主ノ云ク
谷流拝辺扁工六
鏡ノ宮は二見ノ湯よりは南ノ方の山際にて海とは半
右神宮続秘
里ばかり帰れりとあり
伝問答にみゆ
是等を證とし
て俗説のたがへるを知べし
開天稚御子の説
俗説ニ云むにしいづれの代にか三條大納言といふ人の息
女照日前といふ美女ありしに天稚御子あまくだり夫
妻の約をなし二人ともに天にのぼり去ル是世にいふ
たなばたなり
今按るに是は神代巻にのせたる大雅彦。下照姫
の事によつて妄作せる説なり上古高皇真霊
尊豊芦原中ツ国をおさめしめんがために天雅彦
をくだし給ひしに天雅彦こゝろがはりして大己貴
の女子下照姫を妻としとゞまりてかへらず此故
にふたゝび無名雑をつかはし給へるを天雅彦
矢をはなちて無名雉を討ころせり其箭天に
あがりければ高皇彦霊取[テ]てなげおろし給ふに天
延徳神主いはく天雅彦が
雅彦が胸にあたりて死せり
一雉を射たる矢の矢にいた
るは悪逆はかならず天に通ずるいましめに矢の返るをかりて出言
こそいへり高皇善霊尊の其異をなげくだし給ふが天雅彦にあたり
たりとは悪の報はのがれがたきいましめなりたとひ天雅彦新嘗
し食毒にあたりて死せりとも休師て厭死せりとも皆かへし矢に
あたりて死したるなり矢は其報のすみやかなるをかりていひたるな
り所謂反矢可畏之縁也末代の厄丈のよきいましめなり善有善
今院倅常之子
報一点ニ有二悪報一一念ノ徴も天に通ず聖人さへ独を慎しむとのたまふ
況や元史をやといへり。元長記。云。天推彦は但馬国上龍宮といはふ下。下。下。下。下。
照姫は肥前ノ国諸武宮と祝ふ。石見
天雅彦が尸を葬るとき
には但馬国上部宮と記せり
下照姫の鬼味耜高彦根神葬のところに会せ
り下照姫高彦根の容貌を褒て読る歌に
〽あもなるや。をとたなばたのうながせる。たまのみすま
るの。あなたまはやみ。たにふたわらず。あぢすきたかひ。
こねとよめり此事を作りなをしたる説なるべし
闘天逆毎姫命の説
俗説ニ云素盞嗚尊猛気胸腹に満て吐物となり
神となる姫神にして威猛なり人身獣頭鼻長く
牙長し善神のはかるところ左りにある物をさかつて
右にせんといふみづから名つけて天逆毎姫命といふ又天
狗とも云又いはく。天のざく。暴悪をふるまひしかば毘
沙門天降伏せらる今ノ木像ハ天のざくをふみつけたる躰
に作れり
今按るに是は神代巻に載たる天欄女が事をあ
やまり伝へたるものなり高白彦霊尊無名難を
くだしたまへるを天ノ探女天雅彦につげて射ころさ
せたり日本紀纂疏云天探女者天雑彦之時
婢也。卜部兼治日本紀聞書にも天の欄女と
申すは天雅彦につかはれて居る女なりとあり
素盞烏の女子にあらざるを知べし又毘沙門天の
ざくをふみつけたりと云は陀羅尼集に毘沙門天像
令一ヲ身。被二金甲一而足蹈二女人之肩一或云乃其母也とあり
一毘沙門其母を踏る像をあやまりて天探女が事と
す笑べきの甚しきなり
天子
闢花山院御出家の時侍臣内二通阿信晴明一説
俗説云尤山徳御出家のとき安倍晴明何こゝろなく
庭に出て天を見て天子位を去給ふべき天変あり
と大におどろきいそぎ参内すれば天皇ましまさずと
あるはさきだつて密談をきゝたる人ありてひそかに
晴明に告たるをもつて天文にことよせて奏聞した
るものなり
今按るに大鏡云花山院寛和二年六月廿三日の夜
見そかに花山寺におはしまして御出家入道せさせ給
ひし御とし十九又いはく帝つちみかどよりひんがし
さまにおはしますに晴明のみ家の前をわたらせ
給へばみづからの上にて手をおびたゞしくはた〳〵
とうつなりみかどおりさせ給ふと見ゆる天変あ
りつるがすでになりにけりと見ゆるかな参り
て奏せむ車にさうぞくとらせよといふこゑ聞せ
給ひけんはさりともあはれにはおぼしめしけんとあ
りしかれは此密談を聞たる人晴明に告しと
いふ説は諸実録にをいてあえて見あたり侍らず
図崇徳院讃岐松浦風の御歌の説
俗説云崇徳院讃岐にながされ給ひしとき松が浦
に御出ありて〽松山の松が浦かろふきよせばひろい
てしのべ応わすれ貝とよませ給へりそれよりして
此浦の貝に松ノ字浦字あらはる
今按るに此歌は崇徳帝の御歌にあらず中
納言定頼の歌なり後拾遺集云さぬきへま
中納言定頼
かりける人につかはしける中納言宰相の
うゝらかせふきよせはひろいてしのべ賑わすれ貝
作者
万葉集云
未詳
暇有者拾余将往住吉之岸因
云応忘具此二歌を混同して崇徳帝の御歌
とあやまれり又貝に字あること是レのみにあら
ず阿波ノ国海辺ノ貝に符字あり則符貝となづ
けり其他和泉佐野浦の朱夷具安芸厳島
同治元辛巳編長十一日
の宮横貝讃波笠貝蓑貝等の霊品もつ
ともおほし天地の物を生ずる一やうなるべから
ずたゞ常にあるを異なりとせずして希にある
を怪とするまでなりまのあたり見ざるをもつ
てそれなしと臆断すべからず
皇子
一二代の征西将軍宮の説
俗説云征西将軍式部卿世良親王は後醍醐天皇弟
六の皇子なり菊池武重同武光これを奉じて戦勢
あり此世良は延文五年七月筑後大原合戦に疵を
がうふり同年八月菊池郡にて薨し給ふ此とき若宮
四歳になり給ふを武光吉野殿に奏聞し征西将軍
宮の宣旨を申おろす此宮を後征西将軍と号
しあるひは関西親王懐良と号す
今按るに非なり帝王系図歴代記。云後醍醐天皇
第二の皇子帥宮世良元徳二年薨すとあり
増鏡云第二ノ宮世良は冷泉実俊の女遊義門
院一條庵と聞へし御腹なり元徳二年にはか
に世をはやくし給ふと見へたり元徳二年の比はいま
答後溝口之助
た世見だれす高時滅亡の四年前なり延文五
年までは三十一年相違す殊に延文より後康安
元年征西将軍ノ宮筑前博多に出陣ありて大友
少弐松洲宗僧と合戦の事を太平記に載る時は
延文五年薨逝の説は誤なることを知べし帝王系
図南朝記参考太平記等の諸実録を考るに
式部卿懐良親王は後醍醐天皇第九皇子なり
菊池が願によつて征西将軍になしまいらせ興国
元年大和ノ国吉野を出させ給ひ鎮めに御下向
ありて肥後ノ国八代郡に入せ給ひ高田といふ所に
おはします関西親王とも称し奉り高田御
所とあがむこれを世に前征西将軍ノ宮と称せりの事
は良懐と
□□に
誤り記ス
懐良御甥泰成親王に
後村上帝
第四ノ宮へ
を御養子と定
られ太宰府にすへ置る帥宮とまうす是レを世に。
後征西ノ将軍ノ宮と称せり菊池右京権ノ太夫武朝
武光孫
武政子
弘和四年七月ノ申状ニ云興国以後者武光行
号記
後寄
是前ノ征西
武時入道
寂阿カ十男
又云ク将軍宮ノ御事被
奉レ成二故大王ノ入御一ヲ
将軍懐良
是後征正
レ受二正平之勅裁一為二故大王ノ御代官一
と見へたり
将軍泰成
懐良は嘉慶二年三月十八日薨逝八代郡麓山
に葬送す其御墓今にあり是レ等を考て俗説
一谷元十八月
の相違を知べし
猶懐良親王の事。詳に西海紀談に
一載たりかんかへ見るべし
○右懐義ノ墓所は。悟真禅寺の境地なり。悟真寺は
太原季芳和尚の開基にて。将軍の建主なりと云
公卿
図菅丞相九月十三夜の詩の説
俗説云九月十三夜の月を翫ふことは菅丞相太宰府
にて九月十三夜の月を見て月光似レ鏡無明罪といふ
詩をつくり給ひしより今の世にいたるまでこれを賞せり
今按るに非なり月光似鏡の詩は九月十五日夜の
九月十
五日
一詩にて十三日夜の詩にはあらず菅家後集に云秋夜
黄黄黄顔色白霜頭沈復千餘里外投。昔
被二榮華簪組縛。今爲貶謫艸菜因月光似鏡
無レ明レ罪。風気如レ刀不レ破レ愁。随レ見随レ聞皆惨慄。
此秋独作二我身体一。とあるを見るべし但し中ノ右。
記
中御門右
大臣宗忠
云保延元年九月十三日今宵雲清ク月
明是ノ寛平法皇明月[リ]変之由被仰出[ス]
仍我レ朝以二九月十三夜ヲ一為二明月之夜トとあり寛平
法皇と菅丞相ト同時代なるをもつて取違たるも
のなるべし
補在原行平因幡山の歌の説
俗説兵在原行平の詩に〽立わかれいなばの山の峯
同十百文十九文
に生る松としきかは今かへりこんとよみしは因幡ノ国
にてよめるにはあらず其所にいたらざれどもおもひや
りてよめるなり歌人は居ながら名所をしるといへる
ごとくなり在原ノ行平の因幡守になりたること終
になし。橘行平といふ人因幡守になりしを取ちがへて
あやまりたるものなり
文徳實録云齊衡二年
一今按るに此説非なり文徳宝録云斉衡二年
正月丙申從四位ノ下在原ノ朝臣行年爲二因幡守
行平家集云いなばの守なりしが任はてゝみやこに
のぼりけるに思ふ人によみてつかはす立わかれ
いなばの山のみねに生る松としきかば今かへり
こむとあり俗説の作者是等の書を見ざるにや
士庶
大石ノ山丸か説
俗間流布の太平記日本朝敵の段に大石ノ山丸とあり
ていかなる者と知人なし
今按るに固史実録等に大石山丸といふ者なし
一但シ日本紀ニ云ノ応神天皇第二の皇子に大山守皇
子
母は鳥城
入姫
といふ人あり応神天皇崩御の後菟道
同谷元浄之嘉永七
一稚郎子御位を大鷦鷯皇子にゆづりてたがひに
即位ましまさず此とき大山守皇子稚郎子を殺
して帝位にのぼらんとはかられけるを大鳥艶聞
たまひ菟道太子に告給ふ大山守数百の兵士をし
たがへ夜半に打立て寄けるが黎明に菟道にいたり
河をわたらんとす稚郎子布袍を服掛櫓を取ひび
かに度子にまじはり居て大山守ノ皇子を船にのせ
河中にいたるとき太子度子と共に船をふみかた
ぶけ大山守を河におとして殺されたり此大山守を
大石ノ山丸とあやまり記したるものならむ
關相馬将門謀叛のとき六郎公連諫死の説
俗説云承平年中下総国住人相馬小次郎将門謀叛
せしとき将門が従兄弟六郎公連といふ者古今謀叛
人不遂二素懐一旨を述ていさめけれども将門承引せざり
しかばいさむるに言なくして則時に腹切て死したりと云
今拠るに此説実録に拠なし但し今昔物語に云々
将門謀叛のとき其弟将平といふ者帝位に
即ことは天よりあたふる所なり凡人の望むと
ころにあらず思ひとゞまり給へといさむ将門いかつ
て我弓箭の道にたれり今の世には討勝をもつて
吉兵衛殿
しとす何をはゞからむやと云てきかずとあり又
将門が弟に六郎将民といふ者あり俗説の作者
旧記をところ〴〵おぼえて将平と将武を混じて
俗間印行の
書に将門記
公連と書]諫死の事を添たるものなり
成事をくはしく記したる説あり十に八九は妄誕附会なり信用する
にたらす今昔物語に将門絶友が事を記せりもつとも事実なり
將門紀等の諸書を参考して予
くはしく訂せり追て印行すべし
圖多田ノ満仲清原右大将秋忠が為に讒せらるゝ説
俗説云多田陵仲内の昇殿をゆるされしとき清原
右大将休忠といふ人満仲をにくみ同心の雲客三四
人かたらひ豊明節言の夜満仲をうたんとす満仲と
れをさとりて木太刀を帯し出仕して彼ともがらを怖す
家臣渡辺の綱は庭上に居ながら殿上をにらんで居ければ
其夜の闇うちは止けり其後秋忠等満仲太刀を帯し
たる非礼を訴けれはこれを糺させ給ふに木太刀なりし
かば当坐の恥をのがれん為のはかりこと神妙なり
と遂て御感にあづかれり秋忠弥いきどほり水無瀬
行春といふ者をかたらひ満仲を讒して配満せし
む其後満仲の子頼光沈淪して相模国にてからめ
とられしを卜部六郎うばひかへし運をひらき秋忠は
流され行春は誅せらる
吉元帝之助吉元伊兵衛
今按るに公卿補任等の諸実録に清原右大
将秋忠といふ者見えず満仲讒せられ頼光瀧湯
して摘となりし事かつてなし思ふに源平盛衰
記に西宮左大臣高明多田ノ満仲の讒によつて流
罪せられ給へりとあるを餘忠が満仲を讒して配
流せられたりと作りかへたるにや又満仲を豊ノ時の節会
の夜やみうちにせんとしける時満仲木太刀を用意
して難をのがれ渡辺の綱が庭上に作しけることは
盛衰記に諸卿平ノ忠盛を五節の夜閲うちにせん
としけるに忠盛木太刀を帯し家人左兵衛ノ尉家貞
が殿上の小庭に作せしとあるを各名をかへたる
ものなり
關源ノ頼義箕輪入道が勧によつて剃髪の説
俗説云伊予寺源ノ頼義京都左女牛西洞院におはし
ける此館の向に箕輪堂といへる阿弥陀堂あり是は
箕輪入道といへる遁世の士の建立なり此箕輪入
道程ちかければ常に伊予守の館に来りて後世の物
語ともしけり此入道が動によりて大道心をおこして剃
髪し給ふ法名信海と申ける
今按るに此説大に慥なり一條兼兼良公の東斎随し
同仁元降覚尚巻十一日
筆及古事談ニ云六條城門の北西ノ洞院の西にみの
わ堂と云堂あり是は伊豫ノ守頼義奥州の夷賊
をうちたいらけて戦場にて討れたる者の片耳を
きりあつめを
一書に云壱万五千人の
革籠二合にいれて。も
片耳を切あつめとあり
ちのぼり土壇の下に埋め堂を建立すこれによりて
耳納堂といへりみのわとはあやまりなり本尊は等
身のあ弥陀なりと見へたり考へさとすべし
闢義家忠明晴明勧修各其藝をあらはす説
按ニ道
御物志に解脱寺ノ僧正勧修陰
俗説ニ云御堂関白殿
長公
陽師晴明医師忠明武士義家朝臣参作したりけるにし
五月一日南都より早瓜を奉りたりけるに御物志の
中に取いれられむこといかゞ有へきとて晴明にうらなはせ
られけるに晴明うらなひて一ツの瓜に毒気候とて
取出す勧修に仰せて加持せしめらるゝに其うちうごた
はたらきけり忠明に毒気を治すべしとありければ瓜に
二所に針をたてけるに取りはたらかざりけり義家に瓜を
わらせらるゝに腰刀をぬきてわりたり中に小蛇わだか
まりて有しが針は左右の眼にたち義家のわりしは
蛇の頭なりけり人〳〵のふるまひおの〳〵ゆゝしかりけり
一今按るに此説妄作なるべし御堂ノ関白道長公は万寿
四年十二月四日に薨せらるこれより十二年を経て
長暦二年に義家生れたり解脱寺ノ僧正勧修は寛弘五年
に寂す義家出生の三十一年前なり年歴春た相
違せり思ふに稽神録云偏呉兵部尚書賈渾言
尚書其ノ所レ知為二嶺南ノ節度一獲二一ノ橘一ノ橘一其大如レ升将
レ表献レ之ヲ監軍中使以テ為下非常物不レ可レ可レ可レ可レ可取下
刺二其葉一乃有二蠕々而動者一因ヲ破レ之中有二一小赤蛇一
長数寸とあり此説を日本の事とし附会せるもの
ならむ
廣益俗説辨遺編巻廿六匁
終
にて
第
46册
狩山
広益俗説辨芒
遺編二
士庶近世
廣益俗説辨遺編廿七目録
士庶
狩野氏図書記
補鎌田兵衛政清を忠臣といふ説
神村長
豊蔵書
補甲賀三郎兼家地獄廻の説
補愛護若が説
補信徳丸が説
補山庄太夫か説
近世
補果子をぬすむ侍童か説
仝元年先年一月家
同断帝上階廿七日
廣益俗説辨遺編巻廿七
士庶
補鎌田兵衛政清は忠臣といふ説
俗間流布の書に鎌田兵衛政清をのせて忠臣と称せりへ
今按るに鎌田が忠義かつて聞ず其罪悪長田
よりも重しゆへいかんとなれば保元物語に所載を
見るに六条判官為義義朝の方へ降参せしを
帝よりこれを誅すべき由を仰下さる義朝家人
鎌田政清にいかゞすべきと談せらる鎌田申けるは
私軍にうたせ給ひなば罪科ともなり候べし
一谷元淳光帝士二
乍恐奉逆給廿七日
是は勅命もだしがたし誅せられむこと何かくるし
からん其上親経にも刧初より以来父を殺す悪
王一万八千人といへどもいまだ母を殺す者なしと説れ
たりもろ〳〵の悪王位をうばゝむためたにかくの
ごとしいはんや朝敵となり給ふ人をやたとひ御
承りにて候はずとも時日をうつすべき御命ならす
他手にかけさせ給はんより御手にかけられて後の御
孝養をせさせ給ふべしと申ければ其ことばにした
がひて終に父の首をきらせられたり捫風新話
云昔阮藉聞レ有二殺レ母者一曰喜殺レ父乃可也至殺レ母也
乎人怪二其失言一籍曰禽獣知レ母而不レ知レ父殺レ母禽
獣之不苦也これ其人を禽獣になしてなをそれより
もおとれるをそしれり鎌田が父をころす者一万
八千人いまだ母をころす者なしといさめしも母を知て
父をしらざるなり則時に義朝をして禽獣の城
に陥たり不忠不孝此一言に起て終に滅家失
身にいたれわ義朝が父をころせるは其もと鎌田がす
すめより出たれば鎌田は君を弑せし者なり其後義
朝が長田に害せられたるも父をきりし趣なりこれ
をもつておもへば鎌田は為義を弑せしのみにあらず
善光梓送扁十一
義朝をも弑せるものなり其天罰踵をめぐらさ
ずわが身も長田にころされたり然るを世人長
田が義朝を害せしをにくんで鎌田が君を弑せしこ
とをしらず長田は鎌田が舅といへるまでにて義朝
の臣にはあらずこゝにをいて鎌田が飛悪長田より
おもしといふのみ理にくらき書生等謾に称じて
忠臣と記すかれが忠いづくにかあるや吁
補甲賀三郎兼家地獄廻の説
俗説云むかし近江国甲賀村に甲賀太郎甲賀次郎甲
賀三郎兼家といふ者ありかの兄弟勅をうけたまはり一
て若狭国たかかけの鬼を対治す太郎次郎はおそ
れてにげしに三郎勇をふるひて鬼をきりころす
兄二人己が功にせんことをおもひ三郎をあざむき谷へ
つきおとし是の首を持て上洛し過分の領地をた
まはる三郎は谷底の洞穴より一百三十六地獄をめぐり
観音の利益によつて古郷にかへり兄ばをほろぼし
参内してかくと奏せしかば本領の上に兄どもが所
領を加へたまはり近江守に任ぜらる
一今按るに伊賀地志引甲賀家傳云ツ醍醐天皇
一御宇信濃国望月明府住人諏訪左衛門源ノ重
同同三十一日
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
頼朝廷に仕へて勇名あり男子三人あり嫡男ヲ
望月ノ太郎重家次男ヲ諏訪次郎貞頼三男が望月ノ
三郎兼家といへり然るに若狭国高懸山に賊
ありて旅客をおびやかす故追伐すべき旨奉勤
て重頼貞頼兼家高懸山に発向す就中兼
家武勇絶傷なるを以て進で強戦を遂賊徒
不残誅伐す舎兄重家貞頼彼武功を猜み深
谷につき落し我高名なりと奏して過分の
恩賞を賜り太郎は信濃守と改め次郎は美濃守と
改むしかるに兼家穴に陥りて大に傷き息すでま
絶るといへ共しばらくして蘇り相知る者の方
にて療養を加へ本復せしかば漸く私宅に立
かへれり金兄等これを見てゆくゑなく逐電
す兼家両人が領知をあはせて武威ます〳〵強
大なり永平年中相馬将門が謀反のとき勅命
によつて東国下向し軍功他に超し故近江
国の内甲賀郡をたまはりて居住し甲賀近江守
と改む後に伊賀半国を賜り千歳佐那具に
在城すといふ其墓同国阿拝郡一宮ノ奥観音
谷に在と見へたり此説證とするにたらんか
一治元梓迄扁十一丁
補愛護若が説
俗説云むかし二条ノ蔵人といふ人の子に愛護若と
いふ美少人あり継母これを恋慕し文をおくりし
かども承引せざる故讒言して愛護を追出さし
む愛護が叔父叡山にありしを頼まんがためたづね
のぼりしに叔父の僧あやしみてあはざりしかば愛護
せんかたな〳〵してきりうが瀧に身を投て死せり其
霊山王権現とあらはると云
今按るに此説は秋夜長物語によつてつくりし
事なり長物語に云後堀川院の御宇西山の瞻
一西上人もとは北嶺東塔の衣徒勧学院宰相律
師教戒といへり教戒いさゝかなる思ひありて山
を出て他に住んとしけるがさすが医王山王の結縁
もすてがたく同坊同侶のわかれも名残おしく
てあかしくらしけるがあるとき石山に七日こもりて
通夜す其夜の夢に美少人を見てこゝろにわす
れずうかれありきしに三井寺の辺にて雨にあひ
て聖護院の御房の庭にたちよれりしかると
ころに二八ばかりの美少人花を手折てたゝず
み居たり是は三条京極に住給へる花園左大臣。
同令元辛巳年七月
の子梅若と申にてぞありける律師が夢に見
たるおもかげにすこしもたかはねばいよ〳〵おもひ
まさりつゝかのみ人のつかへる童をかたらひ文をお
くりければ少人其心をあはれみ律師をまねきて
一夜あひけりこれより後律師山にかへりても
猶恋慕のこゝろやまずふししづみてあかしく
らせり梅若此よしを聞てかの人はかなくなりなば
なからん跡を問てもかひなしたとひしらぬ山路なり
どもたづねゆかむと思ひたち童一人をぐして
出けれどもあゆみなれぬ道につかれて唐崎の松の
かげにやすらひ。あはれ天狗こだまなりともわれ
をとつて比叡山へゐてのぼれかしなどいふ所に年
たけたる山伏来ていづちともなくうばひゆきぬ
梅若うせたりとて山門三井寺大にさはぎ山門の衆
徒教戒律師以下如意嶽より乱れ入り三井寺に
火をかけてやきはらひぬ其後梅若帰り来りけれ
ども我事故に仏閣殿舎火災に罹りしを悲
しみ泣々文を書にもたせて律師につかは
し瀬田の橋の下に身を投てむなしくなれり律
師まどひ来りはかなき骸を岩の狭間より尋
一谷元年三十二
出し血のなみだをながせどもかひなし其夜やがて
葬りおさめ遺骨を首にかけて諸国を修行し
亡跡ねんごろに吊けるとあり。
笠原
物語説
此聖護院の梅
若を愛護若とし三条京極に住せる花園左大臣
を二条ノ蔵人とし叡山の教戒が恋慕を。継母が恋
幕とし瀬田橋下に身を投しをきりうが瀧に身
を投たりとし教戒が医王山王の結縁といひし
とあるを山王権現とあらはれたりとつくりなをし
たるものなり
補信徳丸が説
俗説云河内国高安里に高安長者延年といふ
者あり其一子を信徳丸といふ和泉国蔭山長者が女
子と婚姻の約をなせりしかるに延年が妻死して後
後妻をむかへ男子をうめり次郎丸といふ継母が呪咀
によりて信徳癩病をうけ盲目となれり継母ます
〳〵讒して信徳を追出さしむ蔭山が女子これをきゝ
尋ね出して己が館にいざなひ帰り療せしむるにほど
なく病愈眼ひらきぬ蔭山は男子なき故幸とよろ
こび贅婿として家をつがしめたり其のち高安長
者は家おとろえ財つきて貧人となれり信徳つたは
聞てかなしみ天王寺にをいて七日の施行をひきたりし
に延年次郎丸に手をひかれ来りしを信徳はごくみ置ける
となり
今按るに此説は弱法師といふ俗謡に河内国高安里
左衛門尉通俊といふ者の子春徳丸といふ。ある者の
一讒によりて追失ひしがふ便に思ひ天王寺にをいて一
一七日施行をひきけるに弱法師といへる乞丐人
来る通俊かれと問答してよく見るに言徳丸心
りしかば高安里につれかへれりと見えたり此諸王
よつてつくりたるものなり
浦山庄太夫が説山庵一覧に山椒と書
あまねく人のしりたる事
俗説に山庄太夫といふ者の事をいへりあり
なればくはしくしるさず
今按るに諸実録に見へずといへどもさだめて
此事ありしならむ貝原翁諸州廻記云丹後国
宮津より一里
これより西一里ばかりに栗田嶺
栗田村
浜辺にある里也
或号
山上に宮津領と田邊領の境あり七曲八嶺と
てはなはだ嶮難の坂路五十町を経て由良港
に出る其間に俗にいふ山椒太夫が子三郎が墓有
田辺府志云山椒太夫が奥あり
海辺に遊小浜などいふ所あり
墓の上に松をしるしとす
由良は宮津より弐里三十町あり民家三百余あり
吉兵衛殿扁十二
石浦
由良の内なり
といふ所に山椒太夫が屋敷の跡といふ所に山椒太夫が屋敷の跡と
本村より半里
て石の水ぶねあり中山といふ所に国分寺の跡あり
田辺府志云和仁
今小堂に弥勒の像のみ残れりと
村の国分寺とあり
見へたり
にもしるせり今これを略す
田辺府志に山椒太夫か事を精しくしるせり日本行脚集
近世
ある人の物語を聞て評をくはふ是理を
取ちがへて害となるが故なり
体果子をぬすむ侍童が説
姓名
寵愛の侍童を同僚の
俗説云中ごろある人
未詳
男応慕して数返の文をおくる侍童これをあはれみあ
はんことを思ひけれども出仕のときは主君の前にあり宿に
あれば侍童等と一所なりせんかたつきて男を葛
籠にいれて取よせ小者部屋にてあはんとはかれり
其折しも主君三日の酒宴にて侍童も主君の
前に居しかば男にあふべきいとまなし其間に男が
飢んことをかなしみ食せしめんために菓子をぬすみて
懐中しけるにあやまつて主君の前に落しぬ主君
大にいかりてころさんとしけるが彼男が侍童に懸
惣しけるより事おこれりと聞かへつて大に感じ某
が側につかへるほどありていやしきわざにてはなかりしよ
恋る男にあはんとしたるは小人のならひとがむべきにあ
一谷元帰走扁せ
らず恋たる男もそれがしがかたはらにつかへるもの
をおそれもなくいひかけたるも不敵なり尤用にたつ
べきものなり侍童を男にあたゆると申つけられ
今按るに彼男主君の愛せる侍童に恋慕して
消息をおくり侍童がさばかりの若恩をわすれた
男を葛籠にかくせし所為を見ればかならず離
敵をも手引し主君の首をも功すべき者ども也
世人果子をぬすめることの辱を知て不義をなせ
ることの恥をしらず果子をぬすめるをばゆるすと
も不義をなせしをばゆるすべからすおよそ男女共に
色をもつて愛せらるゝ者はひとし侍童を妾女に
なぞらへ恋慕せる男を私夫になせらふべししか
一類を妾女に通ぜるものをば誅罰し侍童に通ぜ
るものをば赦免すといへる法あらんやかゝる姦悪を
なしても小人のならひは不苦とゆるさば後日又他
夫に通ずる侍童出来家風みだるゝの基となる
べししかりとて其者のみを罰せば同罪に依怙
せるの譏をうくべし名を汚し行を穢し身をう
しなひ家をほろぼさんは不忠にあらずとせんや不孝に
あらずとせんや不忍不孝にして善者あることはわれ信せず
一吉元準是編十一
第
狩
竹竹
狩山
助
遺編三
婦女僧道
人物佛家
廣益俗説辨共
廣益俗説辨遺編廿八目録
婦女
狩野氏図書記
神村長
豊蔵五一
弁宮おほくは
闘斎宮は恬子内親王より後断絶といふ説妖
皇女あるひは
親王の御女たりといへども別に部類をたいべきやうなければしばらく爰
にのす見るものそれこれをおもへ
補源頼義の母修理命婦の説
僧道
補西行法師崇徳院御廟に詣て歌を読説
雑類、
補歯生てうまるゝは鬼子と云説
開水あびせは天文年中にはじまると云説
不行新建計十八
一補二月二日奴婢出易の説
補夢想薬を売説
佛家
ある僧都卒天に昇る説
囲ある僧遷化に天花ふる説
ある僧坐禅して火に焼ざる説
廣益俗説辨遺編廿八
婦女
補斎宮は恬子内親王より後断絶と云説か
女子なれは爰にのせがたしといへども別に郡を
たつべきやうなくしてしばらくあはせ記すのみ
弁宮はおほくは
皇女又は親王の御
俗説に云伊勢の斎宮は恬子内親王在原業平に通じ
給ひし後断絶に及べり
崇神
皇女
レノマ
一今按るに非なり斎宮次第記ニ云一豊鋤入姫命
垂仁
又號二五百野皇女一
㊁倭姫命
三久須姫命
皇女
景行ノ皇女
伊和
号稚足姫
志真王㊄白髪内親王
㊅小豆角内親王
雄畧皇女
純體
白王女
欽明三
㊆磐隈内親王
宮子ノ齋宮
伊勢大神主小
事女在任廿九
皇女
一同三十五郎
信談勧速編十八
敏達三
年詳に未
に記せり
㊈菟道磯津貝内親王
皇女
十酸香手煖
武二〳〵
天武二ノ
用明四ノ皇女
同十一大來内親王
内親王
皇女
在任卅七年
十二多紀子内親
王
天武八
皇女
天武ノ
十三阿閉内親王
皇女
文武
十四當耆内親王
皇女
十五
天智皇女
文武皇女
泉内親王
十六田形内親王
十七多紀
大宝元年
慶雲二年
聖武一
文武
元正皇女在任
親王
十九井ノ上内親王
三ノ口エ
久勢内親王
白王女
六年養老元年
女在任廿七年
神亀四年
聖武皇女在任
廿一小宅内親王
十九縣内親王
三年天平十八年
在任
七年
天平勝
大炊皇女天
廿二安倍内親王
宝二年
平宝字五年
光仁六ノ
廿三酒人内親王
皇女在任
五年宝
光仁皇女
桓武十九皇
亀五年
廿四御遷内親王
在任八年
廿五朝原内親王
女在任十二
年延暦
元年
桓武廿二皇女在
廿六布勢内親王
任七年延暦十六年
廿七大原内親王
淳和三向王女庄仕
嵯峨九ノ皇女在任
廿九氏子内親王
仁子内親王
十三年弘仁元年
二年天元元年
仲野親王女在任
仁明十三皇
廿九
○宜子内親王
四年天長六年
廿一亮子内親王
女在任十四
文
年承和
元年
文徳イ二皇女在任
廿三恬子内親王
廿二松子内親王
六年仁寿元年
七百
女在任
浦和九皇女在任
楊子内親王丸
文徳
十五年
廿四識子内親王
二年元慶元年
九百三
女在任卅一年
光孝ノ皇女在任
繁子内親王
二年仁和二年
昌泰元年
廿七元子内親王
本康親王二女
在任六年
宇多六皇女在任
廿九雅子内親王
廿八柔子内親王
一卅一年昌泰元年
醍醐卅一
醍醐廿六ノ皇女号六条斎
宮在任三年永平二年
四十齊子内親王
皇女
十一微子内親
王
重明親王一女在
醍醐卅
四十三旅子内親王は
四十二英子内親王
元ノ名悦
二皇女
任八年天慶元年
子重明
村上十四ノ皇女在
親王二女在任
七年天暦元年
四五輔子内親王
甲四楽子内親王は
任十年天暦十年
村上十五ノ皇女安
和二年不レ遂二郡行一
章明親王二女在
四十七規子内親
平六隆子内親王
任三年天禄二年
村上十二皇女在
章明親王一女寛
四十九恭子内
王
四十一齊子内親王
任七年天延二年
和二年不レ遂二郡行一
一谷元年迄宿廿人
一代作瓦痛十八
親王
為明親王女在
任二十三年
三条院六ノ皇女社任
五十當子内親王
二年長和五年
五十一樽
具平親王嫡女在在
子内親王
十八年寛仁二年
後朱雀三ノ皇女
五十二良子内親王
同同年長元九年
小一條法皇女在任三年永承元年小一條法皇諱ハ
十三嘉子内親王
敦明長和五年為東寛仁元年八月九日辞東官
有院号長久二年八月十六日
敦平親王ノ女在任
五十四敬子内親王
五十五俊
廿五年永承四年
御出家号ス小一条ノ法皇一
後三条五ノ皇女号樋口ノ
子内親王
斎院在任二年延久二年
敦賢親王
五十九淳子内親王
女在任三年
承保
二年
白川六ノ皇女号郁芳門院
五十八善子内親
五十七規子内親王
在任五年承暦三年
王
白川十ノ白川十ノ皇女在
白川七皇女号二六角斎院一
十九伯子内親王
モリ
任十四年大永二年
在任十九年寛治三年
六十尋
鳥羽十二ノ皇女ヱリ二
輔仁親王ノ二女在任
六十一妍子内親王
子内親王
十七年天治二年
十七年天治二年
吉田ノ斎宮在任七
年康治
二年
堀川四ノ皇女在任
六十二喜子内親王
三年仁平二年
六十三亮子内親王
後白川十一ノ皇女保元
二年不レ遂二郡行一
後白川十二ノ皇女号高倉
千四好子内親王
六十五休
歌宮一ト在任六年永暦元年
後白川十三ノ白王女自二
同帝十四ノ白わ女
三六十六子内親王
子内親王
野宮下坐仁安二年
一在任三年赤雁王
高倉五
六十七範子内親王
皇女
梨子内親王
同帝七ノ皇女仕
任十二年文治年
同帝十三
後鳥羽十二ノ皇女
同七十一熊子内親王
六十九歳子内親王
号高辻在任十一年
皇女在任
五年建
保二年
後高倉四ノ皇女号式乾門
七十二里子内親王
同七十一利子内親王
院在任五年嘉禄二年
後堀川四ノ皇女在
土御門九ノ皇女号二宣花門院一
一任四年文暦元年
同七十三議子内親王
不レ遂郡行一寛久二年
廿五
後嵯峨法皇十五ノ皇女
後宇多法皇
子内親王
在任九年弘長二年
妻子内親王
六皇女号二達
智門院自二
以上七十五代なり荒木田盛瀧云いつきの
野宮下坐
みやと申奉る事代々の皇女太神宮をいつきさふら
ひ給ふ故に斎宮と号し奉るなるべし崇神
帝の御女豊報入姫より後宇多帝の御女
谷光辨光扁下へ
代記書記記
一葬子内親王にいたるまで斎宮七十五代の間
に親王の御むすめ十一代たち給ふ欽明天皇の
御宇内親王の代[リ]として度会の四門氏の元祖
大神主小事のむすめ宮子を斎宮にたて給ふ此
宮子は今外宮の宮崎の丸山といふ小山に田上
東。天村
雲命
大水
西。小
事
の社の前の社といはゝれ給ふ度会氏の
所摂の内の其一社なりかりにも凡人のむすめ斎
宮にたち給ふは是ばかりなりとあり考しるへし
補伊予守源ノ頼義母修理命婦の説
俗説云冷泉院列官代頼信時のみかど一條院の官女
修理命婦といへる美女を見て恋慕したび〳〵
玉章をおくりけるにいかゞしてもれけむ帝ほのかにき
こしめしつけてあはれにやさしくおぼしめしければ命婦
を頼信にくだしたまはり北の方となり給ふ長保二
年二月に婚姻とゝのひ給へり同五年四月九日男子誕
生す千手丸と名づけらる後に伊予守頼義と申すは
これなり
今按るに此説虚妄なり但し大薬図に頼義母
修理命婦と記したるを見てあとかたなき事
を附言したるものなり大系図及和論語江源
他部新逸組方は
武鑑は寛文年中近江の土民少し丈字を知る者
ありて妄作せし事。重編応仁記に詳に評せ
但シ大系図は。古よりありし帝王系図。尊卑分
るごとし
又命婦の
脈諸家草図をあはせて即つくり添たるもの也
事は考二中原職忠女官考一に九嬪世婦を内命婦
と称す公卿大夫の妻を外ノ命婦と称す外命
婦は見づから位階に叙せられずその夫の位階に
したがひて禁裏につかふまつるをいふ五位以上の
人の妻なりとあり頼信の妻禁裏につかへば
命婦といふべし前より命婦といへるを頼信に
賜りしとは相違なり殊に頼義の母は下賎なる
ものにて妻にはあらず古事談云源頼義与二御
随身兼武二は一腹なり其故は頼義の母は宮仕の者
なり頼信かの女を愛して頼義を産しむ其後
兼武が父かの女がつかひける半物に通じけるがお
のれが主を我にあはせよといひてひそかに通じ
て兼武をうましめたり頼義と兼武とは胤
がはり同腹の兄弟也頼義此事をきゝて心憂
事なりとて永く母と中たがひぬ母うせてのちも
奥州合戦七騎になりしとき騎たりし大芦毛が
忌日をば弔ひけれども母が忌日をば弔はざり
思ふに近年印行の軍記過半は
けりとあるを考へしるべし
浄瑠璃本を作りなをしたるもの
おほししかるを実録と心得て諸書に引證する
輩ありこゝろをつけてゑらび給ふべし
僧道
關西行法師崇徳院御廟に詣て歌を読託
俗説云西行法師修行のついでに讃岐国にくだり
薬徳院の御廟にまふでゝ〽よしやきみむかしの玉の床
とてもかゝらんのちは何にかはせむ其とき御廟大に
ふるひうごきて御返歌に〽松山や浪にながれてこし
しふねのやがてむなしくなりにけるかな〽はまち
どりあとはみやこにかよへども身は松山にねをのみぞなく
今按るに非なり保元物語ニ云崇徳院松山といふ
所の堂に入まいらせけるにみやこをこひしくおぼしけれ
ば〽浜ちどりあとはみやこにかよへども身は松山に
是崇徳帝御
ねをのみぞなくとよませ給ふとありた
存生のときの御
西行力
うたなり俗説
と尤相違す
西行力
山家集
家集
に云さぬきにまうでゝ松山
の津と申所にて新院おはしましけん御跡をたづ
ねしにかたもなかりしかば西行松山の浪になが
れてこしふねのやかてむなしくなりにけるかな
一是西行力哥にて崇徳
の御返歌にあらず
又いはくよしみねと申ところの御はか
答え善左衛門
にまいりて〽よしや春むかしの玉の床とてもかゝらん
讃岐略記云崇徳院御廟は府城の西三里北条郡
後は何にかはせむを
にあり綾松とも白峰共いふ寺あり頓證寺と
号す貞観二年の建立なり寺の北に絵壁あり高さ数十丈名て兎
巓といふ上に崇徳徳の御陵あり左右に為載為朝の石塔あり僧房
を洞林院と
人とあるを考へて俗説の相違を知べし
号すとあり。
雑類人物
補歯生てうまるゝは鬼子と云説
俗間歯おひてうまるゝ児あれば鬼なりとてころす
ものありといふ
一今按るに聞見雑録。云邵康節生初生レ髪被レ医
有レ歯能呼レ母とありこれをもつて思へば長盛の
後聡明の偉人となるもあらんに鬼子なりとて
ころせるはむげになさけなくのこりおほき事
○水あびせは天文年中にはじまると云祝
俗説云水あびせは天文年中に松永弾正が家人婚姻せし
に水をかけしよりはしまると云
今採るに黒川氏云正月去年有娶新婦者則朋
友聚二其家一ニ入二水ヲ於桶一大ニ灌二其ノ人一是祓除之謂也孝
日本紀ニ云孝徳天皇二年ノ詔ニ夫女レ嫁セレ嫁セ之女
徳帝御宇粗有二其儀一
通レ人時於レ是妬二斯一夫婦ヲ一使二祓除一これ水
あびせの
はじめなり
而レ後其人設酒食一開二浴室一而謝レ之是為二
答元梓迄扁士也
懸振舞二倭俗灌レ水ヲ曰二加俱留饗応曰二振舞一此
説にいへるがごとく水あびせの儀は上古よりすでにあり
天文年中にはじまれるにはあらず
補二月二日奴婢出易の説
俗説云奴婢の出易はむかしは正月二日なりしが故ありて
二月二日にさだめ近年は三月五日になれり
今按るに黒川道祐カ説ニ云ク雲崎類要云秦人生二一
子一ヲ悪レ之ヲ乞與隣家一大冨貴本家貧後以二二月
二月一ヲ取帰後復冨鄰家乃貪とあり本朝にて
一も二月二日奴婢を出易せしむることこれにもとづ
けるなるべしとあり此説もつとも信するにたれり
但し正月二日出易せし事終にきゝ
反ず三月五日は近年の略儀なり
補夢想薬を売説
俗間いづれの神いつれの仏の夢想をうけて此薬を
ひろむといひて売者あり
一今按るに五雑組。云ク金陵人有二売レ薬者一車載二
大士像一問レ病将レ薬從二大士手中過有下留二於手一不
レ下者一則許レ人日獲二千錢一大士手是磁石薬有二鐵屑一
爾とあれば我朝のみにもあらずと見へたりかならず
かゝる薬などをみだりに用る事なかるべし
佛家
補ある僧都卒天に昇る説
俗説云むかしある僧生ながら都卒天にとびのぼり
四十九院の楠を見たりと相伝ふ
一今按るに白目に飛のぼるにはあらず幻術をもつ
て露昧の目をくらましてとびのぼれるやうにみせ
たるものなり李卓吾開巻一笑云鄂城に人
あり河洛より来る幻術を善せりある日おほ
くの人来り金を出して術をのぞむかれが婦金を
うけ取て夫にいはく天にのぼつて仙桃を取給へとて
縄一束を夫におはせ縄のはしを取て投あぐるに
縄すぐに立天たちまちに開く夫縄に取つきの
ぼりて天宮より桃をなげおろす葉なを露を
帯たりおの〳〵よりてくらふに甘美つねにこえ
たりかゝるところににはかに天上にさはがしき声あ
りてかの者が首足肢体をなげおとせり血ながれ
たゞよふことおびたゝし婦地にひれふし泣ていはく
夫此術をなすこと久しかりけれども天のいかり
にあはざりしに今日天狗のためにくらはれたり
ひとえにおの〳〵の望によつてなり銭をあたへ
給へ葬り申へしといふあつまれるものどもおどろ
きおそれ金数多をあたふ婦肢体をあはせて
人の形となし篠筵にいれてはやく起らるべし
といへば篠薗の中より銭はたれりやといふ婦こ
たへてたれりといふとき夫縄を負ながら其坐に
出たりとあり是レ天にのぼれりと見へしも
殺されしと見へしも人の目をくらましてたぶら
かせしものなり日本の僧が天にのぼりしといへるも
幻術をもつて愚昧をあざむき米銭をかすむ
類のはかりこと也
補ある僧遷化に天花ふる説
俗説云ある僧の遷化に空中より花ふれりといひ侍ふ
一今按るに癸辛雑識云戊子五月初二日以来日光
中有下若二柳絮一如二雪片々者一飛舞乱下人皆鬨
傳爲二天花一者至二初四日一ニ大雷雨飛雹大者當二三錢一
始識連日ニ所レノ謂二天花一者即雪」也及二飛下則以雹耳
蓋小片半空巳化二於烈日中大者乃乗風而堕耳
又云ク寧宗嘉定甲戌九月朔日日己食レ之既日傍
有レ星見及レ有一飛片一如二雪母之状一自レ天飄下今之天
花殊類レ此也とあり日本にて天花ふりしといへるも
此たぐひなること明けし
補ある僧火に焼ざる説
俗説云むかしある僧仏法の不思議を見せんとて石ノ上
に坐し左右に薪をつみ火をつくるに薪こと〴〵く
もえけれども其身はつゝがなしといふ
今按るに神仙傳ニ云号人如光有二火術一今二今下呉王積二
萩千束一火焚レ荻了尽二光恠二坐灰中一振レ衣而起とあ
り是道士人の目をくらましてしかりかの僧も幻術を
もつてあざむきたるもの也仏法も西域の人道也いかでか
一かゝる怪異あらんや広益俗説辨遺編廿八終
第
46m
狩
広益俗説辨苑ス
遺編四
地理草木
水火
神村長
廣益俗説辨遺編廿九目録
地理
補四海といふ説
狩野氏図書記
豊書
關近江国手孕村の説
補女護嶋の説
艸木
補木に文字ある説
補門松の説
補楓をもみぢと訓説
補木を伐て血出る説
一谷元悴虎扁十九
第三十一日
火
補木石になる説
水
補寄津ノ国二恨坊が火河内ノ国婆が火近江国油盗の説
補物は水によると云説
補有馬後妻湯の説
補江尻媼が池の説
美濃国念仏川等の説
附タリ伊豆国熱海平左衛門湯同所法斎湯并ニ
補播摩国ふ増不減の水の説
廣益俗説辨遺編廿九
地理
補四海と云説
俗書に四海といふは日本国中にかぎりて称ずるやう
に記したり
一今按るに博物志云四海ノ七戎六蛮九夷八秋とあり
考へさとすべじ
補近江国手孕村の説
俗説云近江国手ばら村は古は手孕村といふいにしへ此
村の者他国にゆくとて妻を友だちにあづけ三年ま
答え梓之扁十乙
でかへらずかの女年わかくかたち美かりければ友だちひと
のぬすまんことをおそれ夜は女の腹に手を置てまも
りしに此女はらみて十月といふに人の手ひとつうみ
たりそれより此村を手孕村といふ後に略して手はら村
と名つけたり
今按るに李卓吾開巻一笑云野縣民某出賈妻
與二其如一問處夫久不レ歸見一見一私心募レ之成レ疾胎危一
家人知二所以一旦憐レ之計無レ所レ出強二伯氏従二惟外一以
手少樹二其腹一遂有感成孕及成子及一拳烏これ右の
手孕村の事と同日の談か又此説を日本の事とせる
かいまだつまびらかならず周言男女のならひは物椀
をだに同しくせずしかるをいはんや己が手をもつて
他婦の腹にくはふべけんや倫を乱るの罪巡る
べからず然れども手を腹に置たりとて拳をう
むべきやうなし思ふに不義をなしてはらみしを
衆口をふさがんとのはかりことに此怪説をまうけ
出してあざむきしことうたがひなし
補女護嶋の説
俗説云日本国の近きあたりに女護島といふと
ころあり男ゆけばとゞめてかへさずといふ
諏訪喜速編廿九
今按るに貝原益軒云八丈嶋は日本の東にあり
昔は女人のみありしとかや女護島といふ八丈嶋女国
なる事を北條五代記につまびらかにいへり予
考るに參同契集解ニ云女人之國ニ無二ル男子若
欲レ孕則必擇レ日一日ニ三時俯観井底亦借眞
水之氣是井中之象以爲交感方能懐妊所謂
陰陽施化之精天地自然相感之道若此金楼
子ニ云ノ女國ニ有二リ漬池一浴レ之而孕これ女護島の事
なるべし。但し女人のみありて子を生りといふ説
は信用するにたらざるなり
草木
補木に文字ある説
俗説云ある国にて木をきりてわりたりしに内に丈字
ありふじきに思ひてある神社におさめ置といふ
今按るに夢溪筆談云木ノ中ニ有レ文多是柿木
治平ノ初杭州南新縣民家折二柿木一ヲ中ニ有リ上天大
國ノ四字一。春ノ清紀聞ル云三衢毛氏庭中ノ一木忽中裂
而紋成二衍字一。稽神録云ク梁開平二年使其将
李恩安ヲ攻二。州二営二於壺。口伐木為レ柵破二ノ大木一木中隷
書六字曰天十四載石進がゝるたぐひは世におほき事
谷光梓迄扁士乙
一仏訪議卿
にてめつらしとするにたらず
門松の跡
俗説に云正月門松をたつることはもろこしにはなき事な
り巨旦が墓じるしをまなびたるものなり
董助ヲ問礼俗有歳
今按るに歳華紀麗ニ云松標高戸一
同ニ而椒酒而椒酒而飲之者
何哉以テ依テ旅ノ性芬香又堪作スルヿヲ
此松の枝を戸にかくるをまなびて
レ楽ヲ又繫二松枝于戸ニ同此義
門松をたてはじめたるものなるべし
圖楓をもみぢと訓説
俗間楓字をもみぢともかえで共よめり
今按るに山海南荒経ニ云有宋山上名
曰二ノ楓木一ト今ノ楓香樹也號二迷々香これにほひある木
にして日本に所レ謂機樹と同しからざるを知べし
補木を伐て血出る説
俗間木を伐に血出ることありといふ
今按るに玄中記ニ云百歳之樹其汁赤如レ血とあり
これ赤き汁にて血にはあらず又木の中に獣など居る
ことあり風俗通に桂陽太守江夏娘遼叔高。木を
伐しむるに木の中より血出叔高老樹は汁出血には
あらずとてきらするとき白頭公長四尺ばかりなる
が四頭飛出しを救高こと〳〵くうちころす是人にも
谷覚津二十九
俳訓弁近紛打力
あらず獣にもあらぬものなり終に木を
伐おはれりと見えたり
補木石シになる説
俗説ニ云陸奥国の内ある寺建立のために材木をあつ
め置しが石になれりとて角木円木の石になりた
るが今にのこれり
今按るによのつね様椽樟などの石になれるはおほ
き事にてめづらしからず其餘の木も石になれるが
往々にありといふ録異記云ク姿州永康賜山亭中
有二松樹一因断レ之誤堕二水中ニ化為レ石取未レ石取二未レ化者
一試二於水一随而亦化焉其所レ化者枝幹及皮皮レ松無
一レ異もろこしにもかゝるたぐびあり見るべし
火
補摂津国二恨坊火河内国婆火近江国油盗の説
俗説云摂津国に二恨坊が火といふあり河内ノ国にうばが
火といふあり近江国に油監といふ火ありて夜々飛ま
はるといふ
今按るにこれは世にいふ燐火なり本艸ニ云田野燐
火人及。牛馬兵死者血入レ土年久所レ化其ノ所レ化其ノ色青状
如レ炬。沈存中ガ筆談云ク揚州有二一火二甚大其行能殆
類二日光一ニ老学菴筆記ニ云フ予年十餘歳見郊野
間一火至多変苗稲穂之抄往々出レ火色正青俄一
復不レ見蓋是時去二兵乱未レ久所レ謂ノ人血為レ燐者終
不レ妄也。湘山野録云ク柳仲塗開因曰余頃守二維
揚郡堂後菜圃総陰雨則靑欲夕起触近則
散何耶寧曰此燐火也兵戦血或牛馬血着レ土則
凝結為二此気一雖二千載一不レ散柳遽堀レ之皆断鎗折
鉄乃古戦地也右に所レ謂ハ二恨坊火婆火婆。火婆。火野盗等も
此たぐひなるべし
水
補物は水によると云説
俗説ニ云物は水によると云
一今按るに謝肇浙五雑組云ク易州湖州之鏡。阿
一井之膠。成都之錦。青州之白丸子。皆以二テ水勝一耳。至二
於婦人女子。尤関於水一ニ蓋天地之陰氣所。凝結一蓋天地之陰氣
江漢之女若耶洛浦之妹古称二絶色一必配之以レ水
豈其性固亦有二相宜一不レ聞二山中之産二佳麗一也吾閩
一建安一派自二武夷九曲一来一瀉千里清可二以医而
建陽士女莫レ不一白哲軽盈一即輿擡下賤無二蠢濁肥
一黒者一豈レ非二山水之故一耶本朝にて京都の水の他邦
にすぐれたるを称ずると同談なり
補有馬後妻湯の説
俗説ニ云摂津国有馬に後妻湯といふあり婦女美服
して其かたはらによればかならずわきあがると云
今按るにこれはもろこしにて姉女泉といふ
たぐひにてあやしきことにはあらず秘管古今類
書纂要等ニ云ク并州ニ有二妙女泉一婦人親粧絲服至二
一於其地一必興二雲雨一と見へたり後妻湯に似たり素
是を
霊あつ
てしかるにあらずをのづからかくのごときなり
故に後妻湯となづけたるなり
一附タリ伊豆国熱海平左衛門湯同所法斎湯
補江尻媼が池の説
并に美濃国念仏川の説
俗説ニ云駿河国江尻にうばが池とてあり往来の人
立よりてうばといへば池のそこより泡をふき出すといふ
又伊豆国熱海に平左衛門湯といふあり立よりて平
左衛門とよへば湯ふき出るなり又同所に法斎湯と
いふあり右にひとし又美濃国谷郡に川あり其川に
わたせる橋を念仏橋といふ其橋より河にむかつて念
仏すれば河水たちまちにわきあがるといふ
一今按るにこれらは皆咄泉のたぐひなり寰宇記云
安豊郡咄泉在二浄戒寺社一至一至二泉旁一大畔則大湧小
叫ハ則小ノ湧若咄レ之其ノ湧出弥甚世人奇レ之號曰二咄
泉一とあるを見るべし鈴秋峯熱海地志ニ論二諸泉一
云ク弟山の撫掌泉は掌を拍声すれば湧沸る
一喜客泉は客いたれば湧出無為別の笑泉は
笑ふ声をきけばすなはち湧岳陽府の雙泉
は人の声をきけば怒涛つねに異なり西寧
衡の泉は人の足音をきけばすなはち湧あり
水簾瀑布に人の声を聞て散漫滅沫する
平左衛門湯法斎湯倉仏
川はむかし平左衛門法斎と
もありと見えたり考へしるべし
いふ者ありしにはあらず自然にいひならはして名づけたるなり念仏川は
念仏のみにあらず寺声にものいへばかならずわきあがるなり是又土地の言ならとし也
補播摩国不増不減の水の説
俗説云播摩国のうちに不増不減の水あり雨ふつ
ても増ずひでりにも減ずといふ又土佐ノ国のうちにも右
に同しき水ありといふ
一今按るに録異記云薬水ハ在二房州西四十里ニ水一
穴径二尺土井ノ深三四尺水常数寸不レ耗不レ耗不レ溢と見
へたり播摩土佐の不増不減水も此類なりあや
しむにはたらず
広益俗説辨遺編廿九文
終
谷元浄天帝士乙
狩り
広益俗説辨三十四
遺編五土石果疏
飲食禽獣魚蟲
實貨器用或期
廣益俗説辨遺編三十目録
神村長
土石
狩野氏圖書記
豐藏書
補小石長じて大石となる説
補相模蛯石阿波馬石の説
補筑後石人の説
果蔬
補丹波の父打栗の説
補周防国天養果の説
飲食
補柿餅の説
一合計部造統三十
補酒酒酒酒酒漬漬漬酒漬
禽鳥
補雑の宵鳴は不祥と云説由祥瑞の説
補梟の鳴を不祥とする説
畜獣
補白鼠は福神の使者といふ説
補野婆山辺の説
《我朝の天狗はもろこしの治鳥といふ説
魚蟲
補石見国龍水巻の説
闘熨斗の説
宝貨
六道銭の説
器用
補匕首をわきざしと訓説
土産の説
代官組十一丁
廣蓋俗説辨遺編三十
土石
《題:小石長して大石となる説
俗説に云出羽国の内いづれの所にか小き石ありしに
年々大になりたりふしぎに思ひて神に祝へりとも
云又は神社に奇進せりとも云
今按るに酉陽雑俎続集云臨江に一寺あり寺
の前は漁釣のあつまる所なり漁子網をおろし
てあぐるにおもくして網を破るこれを見るに拳の
ごとくなる石なり寺僧に乞て仏殿の中に置此
一谷元年迄扁三十
不行赤道を三丁
石長じてやまず年を経ておもさ四十斤に及ぶ
とあり本朝にても石によりてすみやかに長ずるも
の諸所にありめづらしき事にはあらず
補相模堀石阿波馬石の説
俗説ニ云相模国に蛙石とてあり相伝ふそのかみ大蛙
ありて人をくらふある僧これを封じて石となすといふ
摂津国東生郡林寺村にも蛙石とてありと云又阿波
国勝浦に馬石とてあり昔天馬くだつて石となれ
りといふ
今梅類にかくのごとき奇石もろこしにもおほし
右にいへる
一闔部疏云泉之南北奇石。尤多織帽石馬は
馬石なり
青蛇
肥後国阿蘇石洞にも
石蛇二つあり生るがことし
右にいへる相模
とあり其餘
蝦蟇石
摂津の蛇石也。
の奇石は夢溪筆談云発州金華山ニ有二リ松石又有二
如レ桃櫨根蛇盤之石桂史云宜都山水記云候山
渓有一釜灘一其石大者如ク釜小者如レ銘鑚二南海古
蹟記ニ云石皷山在二リ東莞ノ南山ニ有レ石如レ石如レク鼓鳴。具地記
云花山有二石鼓大サ三十図其鼓有兵則鳴。金華游
安芸土佐にありと
録ニ云石鐘手槌レ之鐘声
かゝる顔の
いへる金石これなるべし
一奇ノ石怪巌もろこし我朝はなはだ多し希に見
類者はあやしく思へり
諏訪新遺織三十
囲筑後の石人の説
俗説ニ云執後の内に石人ありむかしある人敵のため
におびやかされ山ににげこもり洞中に入て石となる
今揺るに人の石になれるにはあらず磐井といふ
者のつくりたる石人なり釈日本紀ニ引二筑紫風
土記一ヲ云ク上妻縣南ニ有二筑紫ノ君磐井ノ君磐井ガ墓石室有二石室有二石室有二石
日本紀を
考るに継
人石馬石猪一是磐井生平之時顔所レ造也
体天皇御宇筑紫ノ国造磐井謹叛して誅せらる古は鏡前筑後一国にして
筑紫国と号す後二つに割て筑前筑後とし筑紫を以テ九州の越名とす
思ふにこれをあやまれるなるべし又自然に人に似たる
石もあり録異記云洪州建昌縣界田中ニ有二石碑一石碑一石
人及亀散在一地中一ニ石人倒臥者多間有一立者一立者一例有二
石井一深而無レ水有二好事者一持レ火入二其中一旁有二横道一
其レ知遠近道側亦皆ケ是レ石人烏又云ツ長安ノ富平縣
北定陵後通二関卿一入レ谷ニ二十餘里有二十餘里有二ノ洞一名東女
學一一ツハ名一ク西女學一西女学ノ洞有一ヲ一ツ石人一侘レ首任レ首任レ案而
坐形如二生人一。茅客話云ノ新都縣有二僧臥像一
躯一蓋。生二於石一手足頭面衣紋織介靑黄色状若二彫
刻これ人に似たる石なりおもふに林に栖る鳥の
羽は木の葉に似。草に宿する獣の毛は草に似。水
に族する魚の鱗は波の紋に似たれば。人間に
信州表迄外三丁
ある石には人に似たるもあるべし事物の理
をおしきはめば天地のあいだにをいて何をかいぶ
かしといふべからむ
果萌
補丹波の父打栗の説
俗説ニ云丹波ノ粟は他邦の粟よりは甚た大なりいに
し通あるものゝ子此粟をもつて父になげつけしか
ば額をうちやぶれりこの故に父打栗といふ
今按るに非なり黒川道祐云九月處々山林
出レ東丹波ノ大栗為二名産一其中至大者称レ之謂
出落栗土俗誤言古有二不孝之子一以斯栗一投レ又
而傷レ之因号二氏々宇知栗一氏々宇知郎撃レ父之謂一
也倭俗専稱レ父曰二氏々此説をもつてみれば出落を
俗間父を卜といふ千とトと音通する
父撃と誤たるものなり
故なり稗史に父を参々と記せり尤
トとよぶは和訓にはあらざるなり又老婦をばごとよぶも和訓にはあらず
東坡志林云温成皇后ノ乳母賈氏官中謂之賈婆丘とあり敷民要浪
にも老婦を婆々
と記せり
補周防国天養果の説
俗説云周防国長尾村といふ所に飢饉の年には松
露ににたる果ふることあり味あましこれを天養果
一谷花坪江戸三十
となづくと云
今按るに茅亭客話云聖宋戊申年十二月甘露
降二于竹栢之上至二二十日一。士庶杖レ老扶レ老携レ幼奔二馳于路
維摩経詳載甘
以二盤盂一承接嘗二飲之一甘如二飴蜜一
露事ヲ一ヲ一令二界之ヲ
周防
国の天養果も此たぐひなるべしたゞし飢饉の
ときこれをふらして民をやしなふとならば余国に
もおよぼすべしなんぞ周防の人にめぐみありて
他国の人にむごきや。人すら依怙をそしる天かく
私あらんや思ふに伝者のあやまりなるべし其地に
いたらざればはかりがたき事なり
飲食
図柿餅の説
俗説に云餅を薄くへぎたるは柿葉ににたり此故に
柿餅と名く
古用二廿日一
今極るに非なり黒川道祐云正月十一日
今有一故用ニ二十一日ヲ一
具足に供るの餅は刀にて截をいむ故に手あるひ
は槌にて破缺て用ゆこれを缺餅といふとあり
此説をもつて見れば鋏を柿とあやまれるもの也
一酒原の説
俗説に云参宮したる者帰るとき迎に出る者酒を
持参すこれを酒迎といふ
今按るに非なり黒川氏云親戚朋友参宮の
人を粟田口におくり其帰るとき又これを迎ふ
逢坂の辺に出てまつ故に坂迎といふなりとあ
り此説によれば坂と酒とを取ちがへたるなり
禽鳥
闘鶏の宵なきをふねといふ説明祥瑞の説
俗説に鶏の宵鳴は凶を告るなり其禍を転ずると
て鶏を殺すといふ
今按るに鶏の宵鳴かつてふねにあらず人
の寝おびれて妄言するがことし万物の霊
たる人倫すらかくのごとしいはんや禽鳥のたぐひを
や禍を転ずるまじなひとてこれをころすは情な
し我朝のみにかぎらずもろこしにも鶏宵鳴
を忌者ありと見へて唐来睡が暁離詩に点は
厳戒罷二鼓鼓鼓車一。数声相逐出二寒柄一。不レ嫌。破紗
窓夢一却怕為レ妖半夜啼と賦せり其意いと
あさまし亀山全書云ク隣之人有レ難夜鳴悪
其不祥一烹レ之越二数日一ヲ一鶏且而不レ鳴又烹之已
一谷元梓迄扁二一
而謂レ予曰吾家之鶏或夜鳴或且而不レ鳴其不
祥奈何予告レ之曰夫鶏鳥能為二不祥ヲ於人歟其
自為二不祥一而已或二夜鳴一鳴之非其時一ニ也且而不レ鳴
非二其時一ニ也自爲二不祥一ヲ而取烹也人何與焉若二夫時
然後鳴一則人将二頼レ汝以時一夜也孰従而烹レ之乎
とあり亀山の説は愚を破るの理明なり但し鶏
を烹たる者は非なりおよそ人倫だも未然を
しることあたはず鳥獣いかでかさとすべけんや吉
凶をかれにあづからしめて其ために心をうごかす
は丈夫の志気なしといふべしすべて俗人は鳥獣
草木の異を見てもあるひは祥としあるひは
凶とす今こゝろみに世に秋とする事をあげて
其程にあらざるをしめさんとす是童蒙をさ
とすの微忠なり斉東野語云世所レ謂祥瑞者
如二燐鳳亀龍駒虞白雀醴泉甘露朱艸霊芝
連理之木合頴之禾皆是也今不レ服レ服レ援二引古昔
姑以近代顕著者一言之王建父子之據レ蜀也天復六
年鳳凰見二万歳彫黄龍見嘉陽江一而甘露白
雀白鹿亀龍並二見諸州武成元年驢虞見武
定嘉禾生広昌麟見壁州龍五十見於洵陽
一谷元拝玄扁三十
一水中一ニ永平二年劔州木連理文州麟見黄龍見二
一富義江三年麟見二永泰一白龍見一印江一駿見二
壁山有三鹿從之四年麟見昌州通攻元年黄龍
見二大昌池瑞物之出殆無二虚歳一而太子元膺以謀
死大火焚宮室一兵敗二於外二政乱二ノ於内一終レ之以二身死一衍
立而国亡其為瑞瑞徴一乃如此耳善乎先儒之論
曰未レ有二喪レ仁而久者一也未レ有二恃レ祥而壽者一也吉祥
とてよろこぶことなかれ凶兆とていむことなかれ禍
福はもとより其人主の徳と不徳にあるのみあへ
て草木鳥獣のあづかれる所にはあらず
開梟の鳴をふねとする説
俗説云梟庭樹などに来り鳴ことあればふね
なりとて僧山伏にたのみて祈祷する者あり
一今按るに梟の鳴を吉瑞とする者もありと見
へて国史纂要云ノ唐卒炳令張文成梟辰鳴
於庭樹一其妻以為二不祥連唾レ之成曰吾當改
レ官言未レ畢賀客已在レ門ニ矣とありしかれども
鳥獣いかでか人倫の吉凶をつげんやよろこぶも
いめるも共是無眼の所為なり梟来り
鳴は偶然のみしかるを浮屠にたのみて祈るは益
谷元学之痛三十
なしたゞに心を正しくし身をおさめ。理にしたがひ
道を守らば。百邪すでに去万福まさに来の
一祈祷なるべし
畜獣
圖白鼠は福神の夫者と云説
俗説。云白鼠は福神の使者なり白鼠ある家はかなら
ず富といふ
今按るに本艸ニ云黄金之精化為二白鼠抱朴子ヲ
云ク荒寿満二百歳一ニ則色白善憑レ人而下名曰レ仲
能知二一年中ノ吉凶及千里外事一是等の恠説に
もとづきて福神の使者といふにやおよそ貧富おの
〳〵定れる命ありなんぞ鼠の黒白によらんや思ふ
に白鼠は人倫に比ずるに白癩のたぐひなるべし
もつとも妖物なり稽神録云蘇長史者将下二
居京口此宅素凶妻子諫止之蘓曰爾悪二此宅
吾必独住始宿一夕有二三十餘人皆長尺餘道
士冠衣レ褐来謁レ蘓曰ク此吾等所レ居也君必速去
不憫禍及蘓怒持レ杖逐レ之皆走二入宅後竹林
中一而没即チ堀二其ノ處一獲二白鼠三十餘一皆殺レ之不二
一谷元伊は扁三十
一復凶一矣とも見えたりわきまへさとすべし
補山姥山辺の説
俗説に山うばは山賤の樵路に通ふをたすけて重
荷を負山より里におくり機婦の窓に入ては紡績
をもたすくといふ
今按るに山婆はかくのごとく人のたすけなとになれる
一獣にはあらず茅亭客話云崑宣以二テ西南丹諸蛮一
皆居二窮崖絶谷間一二有レ獣名二野婆一黄髪堆髻跣
足裸形儼然一姫也上下山谷如飛揉自腰以下
潔垂蓋膝若犢鼻一力敵一壮夫二壮夫ニ喜レ盗二人ノ子女ヲ
有二皮鬱垂蓋膝若憤鼻力敵二壮夫一喜盗二人子女一
然性多レ疑畏焉二已盗一必ス復至二失レ子ヲ家一窺中伺
之一其家知レ為レ所レ竊則積二隣里大罵不レ絶曰往々
不レ勝罵者之衆則狭以還レ之。其群皆雌無二匹偶一毎
レ遇二男子一必負去求レ合
にも野婆が事を記せり
博物記云曰南出野婆奉行不見夫
其状晶ノ且ツ白シ裸ノ祖ヲ無二衣襦一海録雑事
を考へて俗説の罪を考へて俗説の非を知べし
前編に出せる故略之
図我朝の天狗はもろこしの治鳥と云説
俗説云わが朝にていひつたえたる天狗はもろこしの
治鳥なりといふ
今按るに代酔編云山蕭神異経作レ猟一名山駱
一如レ鳩青色亦曰二治鳥一巣大如二五斗器一飾以土二土二土
谷光浄之扁三十
赤白相間とあり此説を考れば日本にて俗に
いひならはす天狗の説とは甚だ相違せるをみるべし
魚蟲
図石見国龍水巻の跡
俗説に云石見国の海上に時として数千の魚あつまり
みだれあひてさはぐ中に龍となる魚かしらをそらに
向てうごかずもろ〳〵の魚あつまりて此魚をまきあぐ
る其時河水巻て魚天にあがる黒煙のごとくなる中に
魚見ゆこれ龍となつて升天するなりこれを所にて
龍水壱と名づくといふ
一今梅るに三秦記ニ云河津一名龍門亀魚之属莫
能上一江海大魚集二門下一ニ数十不レ得上上則為レ上上則為レ龍之
のたぐひなるべしもろこしすでにあり日本いかで
かなからんや
熨斗の説
俗説ニ云幾魚を細く薄くきりてほしたるを熨斗
といふ
一今按るに非なり熨斗は帛の皺を伸の器
なり鰒魚の薄くきりてほしたるは引頻なり
一張論才古器評云ノ漢熨斗蓋伸レ帛之器耳
とあるを證とすべし熨斗をのしと訓。引蝮をも。
のしと訓故に文字を取りちがへ器をばひのしと
よびなせり
宝貨
補六道銭の説
俗間人を葬るとき金銀銭を棺に入るを六道銭と云
ならはす
今按るに此事諸ノ仏経にもかつて見へず漢の
世よりこのかたはじまると見へたり事文類聚[ニ]云
一漢以来葬喪用二痊銭一とありあたら銭貨をわ
けもなく地中に埋めてすつること尤なげかはし
周言むかし程子鶏華の間にあそばれしに
関西の学者六七人したがひゆく一日千銭をうし
なへり僕者がいはく晨装に遺せるにあらず
水をわたるときおとせるならむ程子のいはくおしひ
かなある人まことにおしむべしといふ一人がいはく微な
るかな千銭なんぞおしむにたらむ一人がいはく水中
と夢中と人失ふと人得るともつてひとしなん
一谷元伊豊前守
ぞ惜しと欲ぜん程子の曰く人まことにこれ
を得ばうしなふにあらず今水におとさば用なし
吾これをもつて欲ずといはれたり本朝にて
平ノ時頼が家人青砥左衛門藤綱夜に入て出仕しけ
類が燧袋にいれてもちたる銭十文を滑川に
おとしいれ五十銭をもつて松明を買てたづね出
さしむ諸人これを聞て小利大損かなと笑ければ藤
綱額をひそめさればこそ御辺たちは世のつゐえを
しらず民をめぐむこゝろなし銭十文をたゞ今もと
めずは滑川のそこにしづみてながくうせぬべし某が
松明を買たる五十銭は商人の家にとゞまりてな
がくうしなふべからすといへりもし程子及ヒ藤綱に
今の六道銭を見せしめば其欲ずる所いかばかり
ならんかかゝる弊習をわきまふる事なきは学を講
ずる者希なるが故なり
器用
亡首をわきざしと訓説
俗間亡首をわきさしと訓来れり
一今按るに非なり類書纂要云匕首短剣也
谷元俸三桶三丁
其ノ作類レ匕二故ニ曰二匕首一用二毒薬一塗二其刃一而以二水火一
玉篇云巳必以
切匙也矢鋸也
錬レ之ヲ以試刺レ之。出如二一線一而人即死亡
これを考れば日本の短刀を匕首と思へるは
あやまりなり匕首は日本にかつてなし
又あやまりなり匙のごとく矢鏃のごとくにて毒をぬりて假人を突
に血いとすぢのやうに出て死たりなどいふ事日本にてきゝもおよばぬ事也
世俗懐劔を亡
首と思へるも
土産の説
俗説云土産の字をみやげと訓贈物の事とす
又は俗書に向上と書るものもあり
今按るに土産は其所にて出来たる物をいふ軽物
の事とするは非なり向上とは低所より高き
所を見あぐるをいふみやげとは宮筒と書黒川氏
云参宮の人家に帰りて後被箱ならびに伊勢
白粉陟釐弱海布麩海苔鰹節鯨響笑物
編笠笙笛柄杓貝杓子等のたぐひを方物と
して親戚朋友にをく類を宮筒といふと記せり
此説を用ゆべし
補或問
或問云足下の俗説弁に神体をまうくるは非なりと
見へたれども神体を安置したる社ところ〴〵に
おほし足下の説あやまりならんといふものありいかむ
答いはくむかし孔子没し給ひてのち子夏子淑子張
等有若聖人に似たる範子につかふるをもつてつかえむと
童子に申せしに曽子の曰くふ可なり子温にして属戚
あつて猛からず恭して安し有若賢なりといへども
豈又これをそなへんやとこたへ給へりいはんや木をもつ
て神聖のかたちをきざまんをやそのかみの天照太神
の御かたちなどはかくもやありけむと俗情にまかせてみだり
に作らんこと藝謾不経の大罪。かの血を嚢にして
射たるものにひとしこれをも忍ぶべくむばいづれをか忍
ばさらんや惣じて神体をまうくること神書に
かつてなき儀なれど中ごろより胡鬼に似せて
傍を設置るなりこれらの妄説かならず信ずること
なかれ○或問足下の俗説弁に神を祈るに己が情慾
を遂んことを述て此ねがひのごとくなし給はゞ燈明
をたてまつらむ絵馬をかけんなど。いふものありもし
人ありて是レ等のいのりにくみする神もありといは
ば淫祠にして邪神なるべしと記せりある人の説に
はいかやうの事をもゑらばず心まゝにいのればか
なたより用捨ありといへり足下の説と相違すい
かむ答云く是レ大なるあやまりなりたとへば人あり
て主君に対し非礼の願をのべむに其のぞみかな
はざるのみならずかへつて罰にあはんこと必せり人
のゆるすところは神もゆるし給ふなり人事を尽
処。則神にに祈るなりこれを古歌に〽こゝろだに
城の道にかなひなばいのらずとても神やまもらんと
もよめりすべて小人はわが好と思へる事すら理に
かなふは希なりましてや好ともおもはぬ事を人は
ゆるさねども神にはくるしからじまづ成不成いのれと
いふは神をかろしめ奉るなりたゞつとめて書を読て
自得せらるべし○或問足下の俗説辨に三社託
宣を神託にあらずとそしれりしかれども後人
の作にもせよ理たゞしければ取べしといふものあ
りいかむ答ていはく此記宣文勢いやしきのみに
あらず義理またつたなしむかし蘇東坡が退之
与二大顛一書を見て其詞凡鄙退之家奴亦無
此ノ語一とそしれり右の記宣に食二鉄丸一坐二銅焔など
の語を見れば厩戸の作といへるもうたがはし恐る
くは文盲なる僧巫の作なるべし若神託を用シ
とならば倭姫世記。鎮坐本紀。伝記。次第記。本縁。
谷元障之扁三十
宝基本記。類聚本源等に神記を多くのせた
り神職の人に請て書しむべし何の闕たる事
あつて三社の託宣のみにかぎらんや識趣の尼陋笑
ふべし
廣益俗説辨後編遺編引用書目ル
来心甲谷之
蓋與前編所引用同書
不拘次第
神道秘伝
林道春
心御柱記
巖窟本縁
荒木田
神風小名寄
盛徴
元長記
齋宮次第記
日本紀聞書
ト部
兼治
慈遍
旧事玄義
僧正
石見女式
延佳神主書簡新勅撰和歌集中右記
日次記江北佐々木日記菊池武朝申狀
尼子家記原田系圖丹波地志
記本朝醫考夕
閑齋筆記本朝醫考名賢文集
諸家系譜指掌録東物語雜話記
甲陽軍鑑見聞軍抄古老物語
仝光障之角三一
右同山人四部稿選蓼花州間録
荀子屏州山人四部稿選蓼花州間録
侍児小名録
古今考小名録侍兒小名録
老學菴筆記湘山野録三秦記
丹鉛總録道山清話空同子
秘笈古今類書纂要古器評
程史茅亭客話博物記
博物廣録捫画新話東坡志林
楊亀山全書國史纂要
稗史楊亀山全書国史纂要
瀛涯勝覧性理字義剪勝野聞
沈存中筆談録異記參同契集解
歳華紀麗春渚紀聞誓神録
教民要録寰宇記金華游録
夢溪筆談具中故語金楼子
齋東野語癸辛雜識閩部疏
同一
開巻一笑鏡々居詩艸維摩経
右七十二部
○後編遺編引用。書百五十三部蓋載之ヲ前編ニ而編ニ而シ又シ
重一出ル斯ノ二編一ル者八十一部今一部今一ク其書目一ヲ且テ稱二俗説一ト
雜書十一部省二ク其書目ヲ
○前編二十一巻○後編五巻○遺編五巻都合三十
一巻
附ノ総目録一
三百七十六條
○引證書總計七百三十九部
享保二年正月十五日應茨城氏之求書之
肥後隈本井澤節長秀
狩山
第
附入事
附編一
神事天子皇女
広益俗説辨卅一
后妃公卿
廣益俗說辨附編敘
将男氏図書記
古語ニ曰ク諸病皆テ可レ医。但
俗不レ可レ醫医ス。醫二ル俗病一ヲ者。蓋ニ
。節
在ル書籍一ニ耳。耳。嚮ムニ著二廣益
俗説辨一ナニ相繼テ述テテ後編遺
編一ヲ。二復ス附編脱レス。稿ヲ他日
將一ルニ輯二テ殘編一ヲ總テ總テ其ノ所一。載ル。
以二。浅陋之語。而若。答。而若。為二
俗病一ヲ之一端二ト
享保四年八月十一日
肥後隈本井澤長秀
広益俗説辨附編総目録
附神事
○神祇
補素盞烏尊八俣大蛇を斬給ふ説
画火々出見尊御兄火酢芹命を俳優に
なし給ふ説
補三角柏の占の説
補武蔵国氷川神社の説
○天子
補用明天皇五畿内を定メ給ふ説
補即位なきは天皇と号し奉らさる説
広イ言P糸ナ一
○皇女
圖後醍醐皇女長慶門院宣政門院の説
○后妃
狭穂姫の説
図二代の后の説
補一ノ宮ノ御息所の説
妃にあらずといへとも婦女の部に
混しかたきゆへに爰に列ぬ
○公卿
《題《《《《《《:《題《《:《振り仮名:《題:《題:《題《《《《:《題:《題《《:《題《名《名《《《名:《題《題《題《題《題《題《題《書《題《題《書《題:
《振:山背王天仙となる説
《題:大臣が説
補藤原ノ広嗣藤原ノ押勝が説
補少納言入道信西雙六の墓を論ずる説
○士庶
《大伴黒主は相模国の人と云説
補源頼親は頼光の子と云説
補薩摩氏長が説
一鎮西八郎為朝鬼童をつかふ説
補上総忠光が説
一補上総ノ景清宗盛を諫る説
唐竹吉御納十一
補伊豆左衛門尉有綱は義経の婿と云説
補佐々木盛綱馬にて海をわたす説
圖頼朝薨逝の説
補垂水広信が説
一補菊池七郎武朝湊川にて自害の説
一補小山悪四郎隆政が説
補里見氏尼を奪て妻とする説
南朝の松帆丸が説
補元の木阿弥が説
一補国操人蛙をくらふ説
補倭画師といふ説
○婦女
補筑紫磐井が母が説
《小式部内侍は保昌が子といふ説
補嶋千載若前が説
補源義経妻室の説
□□□□□□□□
補静が舞によつて雨ふる説
補尼将軍の説
補菊池寂阿が妻が説
補結城親光が妻が説
唐竹諸門納廿一
補奈良左近が妹が説
補遊女を傀儡と云説
○僧道
圖頼豪阿闍梨は大江匡房の兄と云説
補碁聖大徳が説
補ある僧穢をさけずして神社に詣る説
補西行法師江口遊女に逢説
補公暁悪禅師が説
補南都の悪僧が説
ある僧水に字を書説
補ある僧牛に生る説
○雑類地理
補尾張国の説
補隠岐国の説
大国といふ説
郡をわかつの説
《題:伊勢国宮河の説
補同国多渡山の水の説
補近江国磨針山の説
一画冨士山出現の事国史にありと云説
唐仙諸門納廿一
附諸国ノ温泉
補美濃国養老酒泉の説
補越後国臭水村の油の説
《磐梯池の説
一補豊後国沈堕瀑の説
補同国風流嶋の説
補長門国水中に音楽の声ある説
○雑類人事
一出陣に籏折る説
補箭文の説
補湯起請の説
補鉄漿眉さげがみの説
補妊婦着帯の説
○雑類居処
一冊御所といふ説
井光ることある説
衣服
○雑類
補正月衣服の説
圄師陸奥のけふの細布の説
○雑類
宝貨
日本銭のはじめの説
書籍
○雑類
《菅家万葉集の説
画図
○雑類
補素盞烏尊の図の説
補渡唐天神の図の説
器用
○雑類
補和琴のはじまりの説
補正平革の説
○雑類畜獣
補五性にあはせて馬毛旋毛をゑらぶ説
一種馬の四白の説
一補猿を厩に置説
○雑類禽鳥
都鳥の説
補頭白き烏の説
補鳥室に入説
○鶏類龍魚○鶏類鶏魚
圖鯨鯛鱸鰍鯽乾海参の説
○雑類蟲介
一圖蚊さがればよろこびありと云説
一補蛇に足なしと云説
補蟹蛇をころす説
補蠶食のはじめの説
○雑類草木
一種燕子花をかきつばたとよむ説
一-莨茗をたばことよむ説
白梅をむめぼしとよむ説
もろこしにも桜ありと云説
補唐崎の一つ松の説
○雑類言語
図例語の説
○雑類
図日本ノ所産出二于異邦書説
○雑類
補同名異人の説
○鶏類
異僻姓名の説
○雑類
《同歌別作者の説
補或問附書簡
廣益俗説辨附編卅一
肥後隈本蟠龍子井澤節長秀輯録
○神祇并神事
補素盞烏尊八俣大蛇を斬給ふ説
素盞烏ノ尊出雲ノ国樋河上にをいては俣ノ大蛇を
斬給ひしこと俗間あまねく知たることなり
今按るに。樋河上天測記ニ云。出雲ノ国仁多郡
三澤郷樋河上は。上古海潮木往の渓曲なり。
杵築の浜を去こと十余里。温泉を去こと
十余町下にながる。八岐大蛇其中に居れり。此
故に。常に八色の雲気たてり。素盞烏尊。土
雲国にくだり。大草郡福武庄を経て。八頭坂の
今の長者
麓にいたり給ふ
原なり
同爰に老翁老翁老婆あり。中に
小女をすゑて。なき居たり。其女子容顔甚だ美
なり素盞ノ鳥尊問てのたまはく。你等は何人
にて。何故になくや。答云く我名は手摩地此地
の主なり。妻名は脚摩乳女子は稲田姫といふ。
しかるに河の西の山腹より泉涌出て河の東
出雲風土記大原郡斐伊川
に通ず名て樋河といふ。
郡家ノ正商五十歩西流入ル出
二里余にふかき渓河あり天渕と名づく
郡
其渕に大蛇すみて国人をとりくらふ此故に年々
一人をさだめて犠とす我八人の子あり。七年に
及て七人かれに呑る今少女壱人のこれりまぬ
かるゝに由なくして哭と申す進雄尊のたまはく
女子をわれにあたえよ此憂をとくべし父母
よろこびて女子を尊にたてまづる尊それ
より七里去て佐草里に八重塩をかまへ。中に
姫をかくし給ふ。時に尊の御うたに〽八雲たつ
出雲八重墻毒篭に八重墻つくる其ば重
墻を
佐草ノ記言。稲田姫の御うたに〽日もくればさくさめ
の戸をはやとぢよ心のやみにわれまよはすな
此詠
によつて国名を出雲となづけり尊八頭坂の麓
に帰つて八槽醒をかまへ艾をもつて姫のかた
見ひな。あまがつの
ちをつくり東山の頂に置給ふ
はしめなるへし
其
かげ八槽にうつれり大蛇見てまことの女と思ひ
八頭を八槽にたれてこれをのむ酔るに及で
尊十握剣を抜て大蛇を寸々に斬給ふ其後
見こと杵に縄をつけ浮浪山十八里
鳥根郷十八
里山これ也。
此杵に秘伝あり出雲小縁起云上古伊弉諾尊伊弉並尊当
国の嶋根にうつり給ふとき乾方の小嶋浪にうかび来て神の
御住居となる此故に嶋根山国といふ浮浪山ともなつく。その
いち島根三郡にわかる嶋根郡楯縫郡秋鹿郡なり
に懸て封壇とし宮居を素我里杵築浜に
定め給ふ奈盞烏尊は大社杵築大明神。稲田
一社。佐草里にあり三重の高棚
姫は八重墻大明神なり
のかたちあり籬の外に本殿有
卯月三日祭礼又十一月中ノ卯日八重橋を
ゆひあらたむ此籬に八つの名あり
蛇の骸の流れとゞ
今に杉
まる処を八本杉といふ
八本あり
腹皮の流れとゞまる
処を皮原といふ八ツ尾の流れ落る処を三刀
屋尾崎といふ蛇の枕のより処を草枕といふ
八槽を置給ひしは天渕の坤の隅なり
中古塩
を焼漬
なり今田と
天渕の東岸に蛇の窟あり其邊の巌
なる塩田と云
に大蛇の匍匐せし跡あり東岸の上の山腹
より絶頂にいたりて数ヶ所の鉄築地あり是は
天渕の窟より八頭坂に通るの路也手摩乳鉄
築地をまうけて大蛇が通路をふさぎしと云
伝ふ渕の東山に手摩乳の廟西岸に足摩乳
の廟ありと記せり
右天測記所レ載与二日本紀一大同小異以
レ故ヲ抄二出之一如レ右ノ是レ唯述二事蹟一而已
旧事玄義云。天照太神雖レ女ト而陽故。上レ天素盞
烏尊ハ雖レ男ト而陰。故ニ下レ地ニ陽即陰蛇為レ劔而死陰
即陽剣為レ蛇ノ而硯。古語拾遺向解云斬二八岐大
蛇一是非二実事一以素盞烏尊尊尊尊尊尊尊尊尊尊為二
邪陰一正陰位二其処一則邪陰為レ之滅也八岐者四
方四維也猶言八方之邪陰也
是レ理
明二其実一
とみえたり。
明理と伝記とをあはせ見るべし
咒咒咒々出見尊御兄火酢芥命を俳優になし
給ふ説
俗説に云。火々出見尊御兄火酢苛命をくるしめ。
俳優となし給ひしは。非義なり伝者のあやまり。
なるべし
今枯るに。神理問答云。火々出見尊論をうしな
ひ。剣をもつて。釣につくらしめ。箕に盛て。まいら
せられしに。火酢苛命きゝいれ給はず。なをうせ
たる鉤をはたる是いかにもして御弟を害せん
との意なりかばかりの悪人なんぞ天下の主と
ならんや後に見づから請て俳優となり給ひしは。
天のなせるなり御承天下主となりたまふも
天のなけるなりたとえば周公旦の成王を奉
じて天下の政を執れしとき其兄管叔国に
流言して周公。成王を弑して世をうばゝむとす
といひて乱をなさんとはかりしを周公旦軍を
一卒て管叔を誅せられたり是周公且兄を
ころせるにはあらず天よりころせるなりひとえ
に火々出見火酢芥のごとし植木氏説
三角柏の古の説
一書云。毎年二見浦の所司等二見ノ浦に出て佐々節
嶋にて柏葉を取て柏を浪の上にうかぶるに神盃に
なるべきはうかびならざるはしづめりこれをもつて神宣
の数をうらなふこれを三角狛の占といふ又云ねがひ
あるもの柏葉をうかぶるにかなふはうかびかなはぬはしづ
むこれによりてふるきうたに〽思ひかね三角柏小台と
へば沈はうかぶなみだなりけり
一今枯るに。是は三角柏の事と。柏流の事とを。一
一事と覚えたるものなり。度会延経神主神事徳
月次
筆云三角柏ノ太神宮儀式帳
□
云。倭舞仕
一奉其傍畢人別直会酒采女二人侍御角柏
盛給
諸祭記云。裔王御参の時は。采女女嬬ヲ用ユ
参り給ハザルトキハ称宜内人ノ妻子役スルナリ
年中行事
月次
癸
四ノ御門内東腋三津乃柏以酒請口寄後柏笏
謂二之酒立一○
取副立御前一拝自左帰着二本座一
諸祭記云酒立
女一人柏持一人第四ノ御門の内東ノ方に侍テ舞ヲハル
人ゴトニ三角柏ニ酒ヲ盛テ飲シム是ヲ酒立ト云
件度敷
小筵一一枚ニ女官二人向レ西ニ著レ之前机一前立ル也祝
一人
堅上社
祝役
件柏以各毎レ帰女官渡而一人女官
請取今一人女官机上小塙酒入置請也其時以
榊葉一彼柏上灑也
大同本紀云神甞祭以二十七日一直会ス府
宮之采女二人御綱柏原酒盛互毎人給
○日本紀云御綱葉○古事記云
壬二集ノ歌ニ万代モ猶長
御綱柏○筑紫風土記云御津柏トアリ
右三角
月ノ空ニアフ三角柏ニ御酒タテマツル
神名
柏ナリ
秘書鎮座本紀ニ云。風神社者内宮外宮外宮外宮外宮外宮外宮外宮風神同
体也
神風小名寄云風宮は内外両宮にあり内宮にては五十鈴川
の南の岸に南向に立給ふこなたに橋あり則風宮の橋と
号す外宮にては神祇本源云在神宮南
所謂欲レ令二冷風不レ吹
大宮東一ニ但し南向坐両宮ともに同神なり
一稼穡至一故有レ祭レ祭旧記云。山谷水変成二甘水浸
潤苗稼一得二其全稔故有二風神祭一名曰二柏流一也
豊年則浮流通凶年則沈覆損四月七月祭
いへ
神祇譜天図云風神謂志那賀都比古神広瀬
伊勢名
龍田同神也○日本紀ニ所謂級長津彦命是也、
所拾遺云。柏流の神事。むかしは慶会郡土貢島
より。太神宮へ柏をさゝぐるよしなり。此祭七月
右柏流
四日に風宮にてあり
四日に風宮にてあり
ナリ
○武蔵国氷川神社の説
俗間印行の武蔵国江戸の名所を。記せるものを見
るに。入間郡氷川大明神は。天暦年中の草創と
はかり記せり
一今按るに。三代実録云。貞観元年正月廿七日。授
武蔵ノ国従五位ノ下氷川ノ神従五位上一。同五年六月
八日授_二武蔵国従五位ノ上氷川神ニ正五位下一。同七
年七月廿一日授ノ武蔵国正五位ノ下氷川神ニ従四
位下一。元慶二年十二月二日授二ク武蔵国従四位ノ下
一氷川ノ神正四位上一。太田道灌墓京集ニ云ク氷川の
社奉納の和歌すゝめられ侍りて残雪といふ事
をよめる〽ひらくの身をつみてこそ武蔵野の
草にいつまで残る白雪。是等書加へまぼし
○天子
圖用明天皇五畿内を定給ふ説
俗説云用明天皇ノ御宇に五畿内を定給ふ
今按るに非なり。日本紀ニ云。孝徳天皇二年定
封域一畿内東自二名墾横河一以来南自二紀伊兄
山一以来西自赤石柳淵一以来北自二近江狹々波
合坂山一以来為二畿内ノ国一凡郡以二四十里一為二大
郡三十里以下四里以上為中郡三里為二小郡
とあるを考へ知べし
補即位なきは天皇と号し奉らざる説
俗間に。即位なくしては天皇と号し奉らざるやう
に覚えたるものあり
今按るに非なり。太神宮例文云。雖レ無二即位一奉
一号二天皇一は長岡天皇
画敬天皇
草壁皇子ナリ。天武天皇ノ
御子ニテ。文武天皇ノ御父ナリト
舎人親王ナリ。天武天皇ノ
崇道
施基皇子
御子ニテ。廃帝ノ御父ナリ
●田原天皇
ナリ天智天皇
早良親王ニテ
ノ御子ニテ光仁
天皇ノ御父也
又自二東宮一奉一一院号一ハ・
・崇道天皇
光仁天皇御子也
小一條院
一敦明親王ナリ長和五年春宮に成寛仁元年
又無一ノ即位奉ル
八月九日春宮ヲ辞シタマフに一条院ト称シ奉ル
高倉院ノ御子ニテ後
院説一・後高倉院也
堀川院ノ御父ナリ
是等を考知べし
○皇女
補後醍醐皇女長慶門院宣政門院の説
俗間所ノノ行南朝系図ニ云後醍醐天皇ノ女○一品公主
門院
斉宮長慶
○一品内親王
宣政
門院
門院
今按るに。二人にあらず。後醍醐天皇ノ御女祥子内
親王。初斎宮にたち給ひ元弘の乱の事により
て退下あり宣政門院と号せらる長慶門院と
いふ人。かつてなし。皇代暦云元徳元年十二月廿
八日下定○増鏡云后宮の御腹の一品内親王
御卜に合せ給ひて去年の冬ごろより御潔斎
あり今日明日斎宮に居給ふ八月廿日まづ河
二十二社記云
魚に出させ給ひて則野宮に入給ふ
元弘二年入御
此日天皇潜二幸
野
宮一
南方紀伝云。元弘元年八月廿四日
南都一兵始テ走ル
中宮野宮行啓万里小路季房卿供奉野宮に
落させ給ふ事は。一品公主の斎宮に立せ給はん
とておはします故なり二ノ中暦ニ云。宣政門院後醍
砌ノ御女令レ立二斎宮ニ而依二而依二ヲ元弘之乱事ニ不遂二其
事一ヲ新葉葉集云。野宮より退し下の後雪を見て祥
子内親王同すれめや神のいがきの榊葉にゆふ
かけ流し雪のあけぼの。二中暦云。建武元年
院号
宣政
門院
予さきにえらびし書に
とあるを考知べし
南朝系図を記して世にお
こなふ今見るに相連かくのごとし本文を
一刪去て改正するものを爰にのせて知しむ
○后妃
狭穂姫が説
俗説言。垂仁天皇の后狭穂姫の兄狭穂彦謀叛
のこゝろありて妹の狭穂姫をちかづけて問云く兄
と夫といづれかまされる姫こたえて兄こそまさ
り給へといふ狭穂彦云く色をもつて人につかふ
るものは。色おとろへて寵やむこと。常なり。天が下
に美なる人おほしおの〳〵すゝみて寵をもと
めんとす。ながく色をたのむべからずわれ天下をう
ばゝんことを思ふ。望とげば汝とともに。ながく百年
を終む此剣を以て帝をころせとて短剣を始
にあたえたり其後帝姫の膝を枕としていね給
へり后兄のはかるところは。かゝる時ならんとお
もふに覚えずして涙ながれて帝の御面に落
たり帝おどろきて朕が夢に小蛇来りて頭にまつ
はり雨ふりて面をうるほすと見たりいかなる故ならん
と問給ふ后かくすことあたはず兄が叛けることをまう
す帝則討手をつかはして狭植彦をうたけらる姫
其うむところの皇子誉津別命をいだきて城に
いる恩皇子を質として兄が命をたすけむとは
かりてなりしかれどもみかどゆるし給はず狭穂姫
皇子ばかりを出して。其身は兄とともに。城中に死
す。世にこれを貞女と称す
今按るに。狭種姫が所為。一事の感ずべきもの
なし。まづ狭穂姫。兄が叛心をあらはすとき。
顔を犯して。諫めざるは不孝なり。次に短剱を
あたえたるを。請たるは不義なり。次にやむこと
を得ずして。剱を請ば。其刀をもつて。自害せ
ざるは。不勇なり。次に帝に問れて。かくすこと
あたはざるは。不智なり。次に皇子をいだきて。
敵城にいれるは。不貞不忠なり。昔阮籍聞レ有二
子殺レ母者一曰嗟殺レ父乃可也。鄭伯将レ使二雍科
殺二祭仲一。雍姫知レ之謂二其母一曰。父與レ夫孰親母曰。
人尽夫也。父而胡可レ比也。此語與二阮籍無異院
籍ハ先レ母而後レ父。姫母知レ父而不レ知レ夫皆非レ理
也婦人之義在レ家従レ父既嫁従レ夫而曰二人益
夫一也。此何等語。或曰ノ当二此時一雍斜欲二其父
不レ可二以莫二之告一也為レ姫計則将安出曰使二姫
而知レ義則力諫二其夫一使レ辞二于君一不レ可則涕
泣而道之而陰諭二祭仲一使レ為レ為レ備而勿レ泄也
不亦又夫兩全一乎と。捫蝨新話に評せり。我
朝の狭穂姫も。舎兄あることを知て。夫君ある
ことを知ずといふべし
《題:二代の説
俗説。云。近衛院の后。藤原ノ多子は。右大公能の
女子なり近衛の院崩御のゝちは。かすかなる齢にて。
おはせしを。二条ノ院。其美人たることを。きこしめし。
入内せしめらる。これを二代の后といふ
一羅山子曰。近衛帝は。鳥羽帝の子にして。後白河
帝の異母弟なり。二条ノ帝は。後白河帝の子也
近衛帝は叔父なれば。藤原ノ多子は。二条帝の
一長嫂なり。何ぞ侈欲淫放自為二配偶一哉。あゝ
三綱たえぬ。亦孔之醜。もしそれ。近衛帝の后
の再應する。共に乱に及ぶといへども。后の罪
は。帝の見づからなすにしかず。詩に。鶉之奔々
を剃り。礼に。禽獣麾を聚にするを戒む。あく
聖人垂レ訓厳哉本朝編年録
一宮御息所の説
一妃にあらずといへども
爰につらぬ
俗説ニ云。後醍醐天皇の一ノ宮。尊良親王。土佐畑に
畑富作
幡多
ながされおはしけるが。右衛門府生秦武文を。
後宇多院中宮御匣
見やこにのぼせて御息所
一今出川公題のむすめ
を土
佐へむかへ給ひしを摂津国尼崎にて。筑紫士松浦
武林伝ニ云峯
五郎
といふ者。武文をあざむきて。御
五郎枝
息所をうばひ取しかば。武文いかつて自害す。其後
風にはかに吹出て松浦が船あやうかりければ。竜神
月代言門参十一
のたゝりかといふ者のある故。御息所を小船にの
せてつきながす。其船淡路の武島にたゞよひ
着。海士にたすけられましませしが。高時滅亡の
のち。武嶋より帰給へり。かくてまた中一年ありて
天下見だれて一ノ宮は越前金崎にて御自害あり
御首京都に上りて禅林寺長老夢窓団師葬
礼執行ると聞えしかば御匣殿の御なげき中
〳〵申もおろかなり御思ひのつもりにや御中陰の
日数いまだおはらざるさきに。はかなくならせ給ひ
太平記ニクハシク見ヘタリ
けるぞいたはしけれ
考ヘアハセテ見ヘシ故ニ略シテ記ス
一今按るに。藤原冬良公ノ増鏡ニ云。中務宮
一宮馬
良親王
は正成
楠判
官
が許におはしましつれどみかどの
後醍醐天皇大佛陸奥守
かくならせ給ひぬれば
今はか
貞直がためにとらはれたまふ
ゐなしとて。それも見やこへ入せ給ひて。佐々木判官
時信といふ者の家にわたり給ひぬつれ〴〵ともの
おぼし見だるゝより外のことなし〽よのうさを空
にもしるや神無目ごとはりすぎてふるしぐれかな。
此御子は
尊良親王
をさす
藤大納言為世の孫
尊良御母は
為世の女子
贈従三
位為子
にてものし給へば。彼家に常は住給ひし程
為
かる
に。大納言
□□
すゑの女大納言典侍
尊良の
と聞
叔母
同同断廣谷名付扁十一
一周ノ言一門紋十一
ゆるに。御覧じつきて其御腹に姫君などいでき
給へり又中宮の御区殿は。宮の御せうとの右大
一頼公顕の御女なり。此御腹にも。男御子などお
はします。思ふまゝなる世をも待給はゞと。たれも
ゆくすゑたのもしく。思ひきこえつるに。かく
おもひの外に。あさましき事の。いできぬ猶ふか
う思ひなげく人〳〵かずしらず。御回殿は。うせ
給ひしかば。此ころは。たゞ此典侍の君をのみ。又
なきものに。覚しかはしつるに。吹かふ風も。まぢ
かきほどに。おはすれど。御対面は。おもひよらずと
あり。これをもつてみれば。御息所は。宮にさきだ
ちて死し給へること。明なり。しかるを。太平記を
輯むる者跡かたなき事をなまめかしく。あはれ
げにつくり漆。俗情に。かなはむことをおもふと
見えたり
○公卿
補螺羸雷を取説
俗説云。雄略天皇小子部連螺羸を召て。雷神を
取てたてまつれとありしかば。螺羸天にむかひて。雷
神くだるべしと。いひけれども。くだらざりしかば。わが
尼イ言P糸ナ一
日本の上になる雷。勅命をそむくやといひしかば。
則地に堕たりしを。取てさゝげ奉る
今按るに。陰陽撃して雷をなせり。なんぞ其
かたちあらんや。彼螺羸が取たりといふは三諸岳
の大蛇を取て。もたせ来りしなり。日本紀云。
雄略天皇。詔二小子部連螺羸一曰。朕欲レ見二三諸
一兵ノ神之形一。汝ノ膂力過レ人自行捉来。螺羸答曰ク。
試往捉之。乃至二三諸岳一。捉二取大蛇一奉レ示二天皇一ニ
天皇不二齊戒一其雷破今目精赫之。天皇畏蔽
自不レ見。却二入殿中一。使レ放レ岳。仍改賜レ名為レ雷と
あるを見るべし。同書に川辺臣が雷の堕たる所
を見るに。雷小魚となりて。木の枝にはさまり居
たりとも記せり。又もろこしにも雷となづくる獣
あり。大明一統志唐国史補云雷公秋冬則伏
地中一。人取而食レ之。其形類レ身と記せり。あるひは
一蛇。或は魚。あるひは獣。其伝ふるところにまかせて。
記すること右のごとし。俗説のあやまり考知べし
□山背王天仙となる説
俗説。云。厩戸皇子の子。山背王等。蘇我入鹿に
せめられ。くびれ死しけるが。天仙となりて飛去と云
広化計画内叙卅一
今按るに非なり。此説の因出る所を考るに。その
はじめ。守屋空穂をたてゝ。帝とせんとし。馬子
推古をたてゝ。帝とせんとす。守屋がたてんと
いひし穴穂は皇子なり。馬子がたてんといひし
一推古は皇女なり。男女の分をいへば。穴植をた
つるは順なり。推古をたつるは逆なり。しかるを馬
子。女主をたてゝ。厩戸政にあづかり給はゞ。もと
より己と善れば。太子の政は。馬子が心なり。位
に即ずして。其威をたもつものは。己ならんと
はかりて。穴穂を殺し。守屋を討。厩戸を婿と
し。崇峻を弑し。太子と共に国政を擅にせり。
しかるに世俗忠直守屋を逆長とし。逆賊馬
子を善者とす。朱子語に。仏法中国に入で
より。善悪名差了とあるにひとし。蛹笑偶言
云ノ盗路以二ヲ孔子一ヲ為レ偽。蘓載以二程頤一為レ奸。李催
以二董卓一為レ忠。田承嗣以二テ安史一為レ聖と。かゝる
たぐひ多し。守屋馬子が謂のみにはあらず。
太子。かく叔父の讐をわすれて。睦び給ひしか
ども。馬子が孫入鹿が為に子孫を滅され給へり。
後世太子伝を作る者。弑逆の譏をおほはんと
唐化言丹参九
て。太子夢殿に入て。三世をかんがみ給へるに。
崇峻の弑せられ給ひしは。前生のむくゐなり。
この故に太子帝に兵相あるを。しめし給ひ
しかども。関給はずして。害にあひ給へりといひ。
又したしみをふかくし給へる蘓我氏がために。
子孫を滅されしことを。後人のあざけりを忌
て。太子かねて我釈迦大聖の弟子たり。子孫
を世にのこさじとのたまふ。元来望みの故なり。
山背王は害にあはれしかども。天仏となりし
などゝ。あやなし紛はしたるものなり。俗説の
相違わきまへ暁すべし
一入鹿大臣か説
俗説。云。蘓我入鹿ノ大臣は。強力猛感の者にて鬼な
どをめしつかひ暴悪のふるまひ多き故鎌足大臣
はかりことをめぐらし鎌にて頭をかききられしかば
其首天に飛あがるといふ
一今按るに。入鹿が強力猛威のこと。かつてなし。
唯ほしひまゝにおごりて。人を多くころせるのみ
なり。日本紀ニ云。中大兄。入鹿が無道をにく見。
中臣鎌足倉山田麻呂。佐伯子麻呂。稚犬養
一連綱田等としめしあはせ。大極殿にをいて。
中大兄出て。入鹿が頭と肩をきる。子麻呂脚
をきる。入鹿ころびて長が罪をしらず天皇
あきらめ給へと申す。皇極天皇いかなる故と問
給ふ中大兄申さく入鹿天宗をこと〴〵く滅し
て日位をかたぶけんとす天孫をもつて鞍作
にかへ給はんや天皇起て殿中に入給へば佐
伯ノ連子麿。稚犬養連綱田以下。入鹿をきり
ころしたりとあり。俗説の偽かくのごとし
藤原押勝か説
一書云。藤原広嗣は。光明子のためにころされ。藤
原恵美押勝は孝謙女帝のためにころさり。二
なり
人ともに藤姓にて皆婦女に殺さる。ふしぎの事
藤原広嗣は。元財僧正が光明皇后に通ぜしを見て。聖武
天皇に告し故に。ころさる。藤原押勝は。孝遍女帝に愛せ
られしが。宇削の道鏡篭せゝるゝを
一恨みて。ころされたり。孝謙は。光明の子也
今按るに。もろこしにも。これに似たる事あり。癸
辛雑識云。韓信為二呂后一所レ殺。韓通為杜后
所レ殺。韓佐冑為二楊后一所レ殺韓震為二謝后一所
殺四人皆将相皆死一於婦人之手一亦異矣と
あり。日本にて藤ノ広嗣藤ノ押勝。皆ケ将相皆死二
於婦人之手一ニ異域同談不二亦奇一哉
図少納言入道信西双六の墓を論する説
俗説云。鳥羽法皇。公卿をあつめて。四方山の御物
語どもありけるにある公卿申けるは。さても質六
の墓の目に一が二つおりたるをば畳一といひ二
が二つおりたるをば重二といひ五六をも畳五畳
六と申す是みなかさなる義なればなり三四ばかり
を朱三朱四とまうすこそ心得候はねこれを信
西に御尋候へかしと申されければ法皇げにもとて
信西をめされて此由を仰ければさん候むかしは
同しく重三重四と申けるを唐玄宗皇帝と楊
貴妃と髪六をあそばしけるに重三の目を御用
にて朕が思ふごとくに出たらば五位になすべしとて
あそばしければ重三おりき楊貴妃また重四の
目をこふてわが心のごとくにおりたらばともに五位
になさんとてうち給ふに重曲出たるによつて天子
に戯言なし同じく五位になさんとてなされける
に何をかしるしにすべき五位は赤衣を着れば
とて重三重四の目に朱をさゝれてよりこのか
た朱三朱四とよぶとこそ見へて候へと奏し
けれは諸卿皆ことはりにやと感しあはれける
今按るに。此説非なり。楊大真外傳ニ云上與レ妃
采レ戯将レ北惟重四搏敗為レ勝連叱レ之激因
宛轉而成二重四一遂命二高力士一賜レ緋俗因而
不易
又見干
續稗史一
とあるを。信西附会して答へたる
ものなり。世継翁物語。云。庚申の夜。雙六うち。
浦川
給ふとて。九條殿
のことばに今宵のすぐろく
同
浦
つかうまつらんと仰らるゝに此はらまれ給へる
御子男におはすべくは重六出よとてうたせ給へ
ひけるにたゞ一度に出来る。ありとある人。目
を見かはして。感じもてはやし給ひきとあり。右
の説に似たり又我朝のうちやうと。もろこしの
うちやうは。異なりと見えたり。其故は。宋洪遵
譜俊云。日本ノ雙陸白木為レ盤綱可二尺許一長
尺有五厚三寸割二其中一為レ路置二二骰子於竹
筒中二據而擲二諸盤上一視二其采一而行レ馬馬以二
青白瑠璃一為レ之如二中国ノ棋子状一馬先帰二一処一
者為レ勝倭人甚好レ之兩人對レ局自自自レ朝至レ暮
不レ已傍観者亦移レ日不レ去とあればなり
廣益俗説辨附編卅一終
46册
狩川
第
附編二
廣益俗説辨卅二
士庶
廣益俗説辨附編卅二目録
○士庶
狩野氏図書記
神村長
豊蔵書
図大伴黒主は相模国の人といふ説
団源頼親は頼光の子といふ説
闘薩摩氏長が説
《鎮西八郎為朝鬼童をつかふ説
一編上総忠光が説
囲上総景清宗感を諫る説
補伊豆左衛門尉有綱は義経の婿と云説
往々木感綱馬にて海をわたすね
《振:佐々木感綱馬にて海をわたすね
房州吉野翁廿二
同頼朝薨逝の説
補垂水広信が説
図菊池七郎武朝湊川にて自害の説
図小山悪四郎隆政が説
随里見氏尼を奪ひて妻とする説
《題:南朝の松帆丸が説
補もとの木阿弥が説
補国操人蛙をくらふ説
補倭画師といふ説
廣益俗説辨附編卅二井澤長秀輯録
○士庶
■大伴黒主は相模国の人といふ説
俗説。云。大伴ノ黒主は。相模国三浦の漁人なり景
行天皇安房国へ行幸のとき逆風にあはせ給ひ
て相模ノ国三浦の走水といふところに着給ふ海
士のかすかなる庵にいれ奉りしに蛤の鱠を供
御にたてまつる帝叡感まし〳〵て。かのあるじを長
とし給ひ。大伴の黒主となづけさせ給へり
今按るに非なり。大伴の黒主は醍醐天皇の御
一百三月七
同同同同幾十二
前編に詳に出せり
今の人。古今集に見えたり
あはを見るへし
景行
天皇とは。時代はるかにへだたれり思ふに。此説は。
日本紀に。景行天皇五十三年冬十月。至上総
国一従二海路一渡二淡水門一其時聞二覚賀鳥之声一
欲レ見二其鳥形一而尋而出二海中一仍得二白蛤於是
膳臣遠祖名磐鹿六雁以レ蒲為二手継一白蛤為
レ膾而進レ之故美二六鷹臣之功二而賜二大伴部一十
二月従二東国一還之居一伊勢一也是謂二綺宮一。
是レ女
児の
一貝合のはじめなるよし。水砂鳥といへる
此説をとりちがへたる
書にのせたり。女子訓に記せる間略之
ものなるべし
一
随源頼親は頼光の子といふ説
俗説云。大和守源ノ頼親は。頼光の嫡男なりしかども。
不肖なる故。弟河内守頼信に。家督をゆづられし
かば。頼親いかつて叛逆しけるを搦捕て遠流せしむ
今按るに非なり。源氏系図を考るに。頼親は。満
仲の次男。母は藤原ノ改忠女也。正四位下。宮内ノ允。左
兵衛。周防淡路信濃大和守たり。大和の国豊島郡
に住す。大和源氏の祖にて。宇野。戸坂。麻生。粟田
口。八條。加加ス。甲斐。竹田。岑田。豊島。広瀬入野。大
森。辛川の諸氏。頼親より出たり。たゞし遠流と
唐衣吉下糸廿二
いへるものは。系図に。頼親依二テ興福寺ノ訴一永承五
一年正月廿五日配二流土佐国一とあるを。作りなをし
たるなり。又頼光の嫡男は。頼国なり。頼信は。満
仲の四男にて。頼親の弟なり。頼光。頼親。頼信。
おの〳〵別家なり。俗説の相連を考へ知べし
補薩摩氏長が説
俗間印行の太平記に。播磨国住人妻鹿孫三郎
長宗と申は。薩摩氏長が末にて。力人にすぐれ。器量
世に超たり。又云ノ畑六郎左衛門時能は。腕の力筋
たくましく。股のむら肉厚けれは。かの薩摩ノ氏長も。
かくやと覚えて。おびたゝしとあれとも。氏長は。何れの
ときの人といふことを知人なし
今按るに三代実録光孝天皇仁和二年五月廿
八日ノ條云至レ此之時一膂力之士。左近衞阿刀根継
右近衛伴氏長相撲之最。天下着髪とあり
思ふに薩摩国の者なるべし
是右に所謂薩摩氏長
最は防なり今は関と書なり
なるべし
一闘鎮西ノ八郎為朝鬼童をつかふ説
俗説言。鎮西八郎為朝。鬼嶋に渡りて。鬼童を奴とす
一分按るに。此鬼童といへるは。世に云伝へたる夜父
廣俗談所緑卅二
などのやうにはあらで。崑崙奴のたぐひにや。其故は。
参り考保元物語に為朝自害のとき。彼鬼童。弓
ひき。打物つかふやうもしらす。方人するに及ずと
あり。可談云。広ノ中ノ富人多畜二鬼奴二絶有レ力可シ
レ属二数百斤一言語嗜欲不通性慎不レ巡徒亦謂
之野人一と見えたり為朝の鬼童もこれらに同
しかるべし。因言保え物語に。為朝鬼童の気
色を。国人に見せむとにや。常に伊豆の国府へ
其事となく。つかはしけりとあるを思へば。武勇
にほこる心。甚だしく。他に怖られんとせられ
く
しは。かへつて讒にあひて。身をほろぼすの媒と
なれり。光をかくし。時を待のこゝろなかりしこと。尤
惜むべきかな
關上総忠光が説
俗説云。上総五郎兵衛忠光
上総介忠
清次男
一は。悪七兵衛景
清
忠清
三男
が兄なり。景清は武功ありといへども。忠光は
させる高名もなくして。生捕れたりといふ
今按るに。上総ノ忠光は。日本の予譲といふべし。
其故は。忠光かつて亡君の讐を復せんがために
頼朝を狂ふこと久し。しかるに頼朝鎌倉の永
広化言門紹世
福寺を造営せらるゝことあり。忠光時を得たり
とよろこび。眼に魚鱗をおほひ。身をやつして。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
役夫にまじはり。土をほり。石をはこぶ。頼朝これを
見とがめ給ひ。梶原景時に仰せて。いづくより来
れるやと問せらるゝに。答分明ならず。これに
よつて。からめさせて。佐貫広綱にたゞさせらるゝ
に。懐中に短剣をかくせり。其盲を見るに。魚
鱗を。眼におほへり。名を問に。上総五郎兵衛也。
亡君のあたを復せんことを思ひ。数日鎌倉を
へめぐり。今かくのごとしと答ふ。則和田義盛に
命じて。六浦にをいて。誅せしめらる。忠光湊瀬灰
唖の忠にひとしく。身を殺して仁をなし。生を舎
て義をとれり。切のなるとならざるとは命也
其跡について。忠義を増減すべからず。しかるに
世俗忠光が忠義をしらざるのみにあらず。忠光を
景清とし。永福寺造営を。東大寺供養とし。
魚鱗を眼に覆ひしことを。眼を抉出したり
とす。生前死後ともに。不幸甚しき人と云べし。
補上総景清宗盛を諫る説
俗説云。上総ノ悪七兵衛景清。太宰府にをいて。
平。宗盛の和歌管絃に心をよせて。武備におこ
たれるをいさめしことあり平家評判にくはしき故
これを略す
評判偽書なり
信することなかれ
今按るに。景清が宗盛を諫めし事。例の妄
作なり。異本平家物語。所レ載を見るに。景清は。
頼朝に降参して。鎌倉に死せり。不忠怯弱千
載の青史を汚せり。因て思ふに。聞見前録
云。濡南之長寧軍。有下畜二秦吉了一者二亦能二
人言有二夷酋一欲以二テ銭伍拾万一ヲ賞一ヲ賞レ之ヲ其人告
以二苦貪将レ売秦吉了カ曰ク我漢禽不レ顧レ入二夷
中一ニ遂勁而死鳴呼士有レ背忘レ恩与中耳心異哉一
而不レ能レ死者二曽秦吉了之不レ若也とあり。景清
がごときは。秦吉了に劣れること。豈たゞ天渕の。
みならんや
補伊豆左衛門尉有綱は義経の壻と云説
俗説言源義経女子を。伊豆左衛門尉源有綱に嫁
けり
有綱は源三位頼政の孫にて
此女子母は河越太郎
伊豆守仲綱の子なり
重頼女子といふ
今按るに東鑑に。義経河越太郎重頼が女子
を娶るは。元暦元年なり。然るに同書に。文治
二年六月十六日平六億仗時定於二大和ノ国宇多郡一
与二伊豆左衛門尉源ノ有綱一
義経
聟
合戦有綱ノ是伊豆守
源三位
伊賀地志云伊豆左衛門尉有綱は源三位頼
仲綱
頼政子
男也
政孫伊豆守仲綱二男なり義経に黨して
西国におもひきけるか海路よりあかりて義経南都にゆかれしとき
有然は大和路より伊賀国にいたり名張郡厚生辺にかゝる頼朝聞
て当国の勇士服部六郎時定に仰せて有綱
と見えたり元暦
を討しめらる時定於二薦生一。有綱を。討捕とあり
元年より文治二年までは漸二年に及べり然る
ときは。重頼が女の所生にあらずしかるを近年
妄作の軍記に此女子は鬼一法眼が女子の所
生と記しぬるは。かくもやあらんと想像したる
説なり
近年義経の事を詳に記したる書
印行す妄作なり信用することなかれ
(
補佐々木盛綱馬にて海をわたす説
俗説言。元暦元年。佐々木ノ盛綱。備前の児島を。馬
にて渡せしとき。頼朝書を賜りて。武功を賞せ
らる。其文曰ノ自レ昔雖レ有二河水一之類未レ聞以レ聞以レ馬
凌二海浪一之例盛綱振舞希代勝事也
今按るに。是よりさきに。源頼信馬にて海を渡
されしことあり。今昔物語ニ云フ下総国に上総介従
五位下平忠常
系図作
忠恒一
といふ者あり上総下総下総を
うち従へて押領すと。聞えければ右大臣実資資
うけたまはりて。検非違使上野介平直方中
原成通等に。東海東山の兵を添てせめさせら
るゝにかなはずこれによりて。両人をめしかへされ
野府記ニ云。万寿
て。河内ノ守源ノ頼信をさしくださる
五年七月廿三日
追討忠常ヲ一ヲ之使。發遣之由。所二傳
承一也。頃レ件ノ日陰陽寮勘申ㇲ也
十五月頼信下総にいたりて。
忠常をせめんとするに。忠常が舘は。海を前に
あてゝかまへ。船どもこと〴〵く取おさめたり。めぐり
てよせんとすれば。七日路なり。諸勢いかゞすべ
きと議しけるに頼信いはくわれ坂東は此度
はじめて見るといへども家の伝えに聞置たる
ことあり此海には浅き道一筋ありと見えたり
軍士の中には。さだめて知たるもの有べし安商せよ
といひて。馬をうちよけられけるに。勢の中より
一書言海中の道を知たるもの勢の中に
真髪高文といふ者
わつか三人あり其中に真髪云々
某案内仕らんとて。海に入りければ頼信をはじめ諸
勢一同にはせ入て渡しける忠常案に相連
し。かれはじとや思ひけん冑を脱て軍門にくだり
ける。古より馬にて河をわたるものはあれとも
海を渡せし者なしとて世こぞつて頼信を感
一小右記共云
云。長元四年七
じけるとあり野府記
藤実資資
一月一日。今夕頼信朝臣来向仰二宣旨趣申云
頻蒙二朝恩一殊奉二宣旨一追二討忠常一趣二戦場一之
間。不レ慮之外。忠常帰降偏。朝威之所レ致非二頼
信之殊功一而奉二褒賞之綸言一雖レ仰二驚恐之寸
心一唯衰老之所レ積難レ趣二遠任一若有二朝恩一者被
レ任二丹波一歟。先申二関白一可二奏聞一示含了とあり。
頼信は。頼朝五代の祖なり。其武功を。わすれ
源平盛衰記に。海た介といふ者。馬にて海
給ふはいぶかし
をわたせしことを載たり拠なき説信用しかたし
補頼朝薨逝の説
俗説云。頼朝平去の事。さだかならず。是子細有事
なり。其故は。能登守平ノ教経檀浦にて海に入り。死し
たるやうに見せて。水底をくゞり落ゆき。かくれ居て。
ひそかに頼朝をうかゞふ。然るに建久九年十二月。稲
毛三郎重成亡妻追善のために。相模川の橋を供
養す重成妻は。北條時政女にて頼朝の御台政
子の妹なり。これによつて頼朝も結縁としてゆき
むかひ帰路に及び給ひしとき。能登守教経女の
すがたに似せて近づきより刀を抜て頼朝を馬上
より切おとしけるを。大勢とりかこみて。教経を討
取ぬ頼朝も深手なりしかばつゐに正治元年正
月十三日五十三歳にて薨せらる
今按るに此説。実録にかつて見えず。例の妄作な
らんか。但教経の事。二説あり。東鏡には。寿永二
年二月十五日経正師正教経以上三人遠江守
義定討二取之一とあり。源平盛衰記には。教経河
原兄弟を脇に挿で海に入と記して。首を得
たる者なし。是またさだかならぬと見えたり。
しばしく俗説に拠て思ふに。保歴間記云。建久
九年十二月廿七日。頼朝相模河橋供養に
出て。帰らせ給ひけるに稲村が崎にて安徳天
皇の霊にあひ。病つきて次の歳正月十三日
鎌倉にて失給ふと記したり仲哀天皇新羅の
者に射られ給へるを熊襲に射られ給へると記
せし例もあれば。教経にきられ給へるを。安徳天皇
の霊に。逢たまひたりと記したるか。若左もあら
ば。さしもの頼朝卿の。女わらはべのごとく。死霊など
におびやかされて。やみ〳〵と死し給ひけんは。無
七
下にくちをしく。痛はしき御事なるべし。東
鏡には。日々天気陰晴まで記しぬるに。頼朝
卒兵の事を。欠たるはいぶかし。とにもかくにも。
云甲斐なき御最期なりけんかし
補垂水広信が説
俗説云。後醍醐天皇御宇に。伊勢国住人垂水の広
信といふ者ありはじめて朱子の註せる書をよめり。
広信が著す所の書を嘉文記と名づくといふ
一今按るに。園大暦記南朝記。参考太平記等の
旧記。実録を考るに。垂水広信といふ者なし。
殊更嘉文記といふ書がつて聞及ず。但し同
時代に。独清軒玄恵法印。はじめて程朱注を
よめり。一条兼良公ノ尺素往来云近代独清肝
健叟法師以一宋朝濾洛之義一為レ正開二講席
於朝廷一以来程朱二リ公之新釈可レ為一肝心一ト也
下見林曰。吉野先主之時。独清軒健使始唱二ノ
程朱之義一康永太上皇御二荻原殿一召二資明
隆職行親一有二中庸談義一彼儒前於二宮中一以一
レ仏混レ儒而訳レ之上皇不レ是レ是レ之召加二禁誡一頗
一庶平得二程朱之意矣
本朝
学原
日本にて程朱の
注を読しは。玄恵法印其始なり
図菊池七郎武朝湊川にて自害の説
俗説云。建武三年五月。楠正成摂津国湊川に
て。尊氏直義とたゝかひ。従兵うたれ。其身も深
手負ければ。兄弟家人等と共に在家に入て
自害す。かゝる所に菊池七郎武朝は兄の肥前守
一本二
武重
が使にて須磨口の合戦の體を見に来りける
が正成が腹を切ところに行あひて。いかでか見捨て
は帰るべきと思ひけるにや同じく自害して失にけり
今按に。菊池七郎は。武吉なり。武朝にはあらず。
菊池系図云。菊池七郎武吉。武時入道寂阿七
男。建武三年於二摂州兵庫一與二楠正成一共ニ自殺
とあり又肥前の守は。武重にあらす。武澄なり。
菊池系図ニ云ク菊池肥前ノ守従五位ノ下武澄寂
阿次男とあり。武朝は。武光が孫にて。武政が子なり。
系図云。武朝幼名加賀丸。孫次郎。中務太輔。右
京大夫。左京大夫。応永九年三月十八日卒。四
十五歳。号二玄微常朝居士一とあり。建武三年よ
り応永九年まては六十七年に及へり建武三
年より。廿三年を経て。延文三年に。武朝生れ
たるをもつて。其相違を知べし。弘知四年七月
菊池右京権ノ大夫武朝申狀云。興国以後者。
後醍醐天皇第九皇子懐良式部卿中
武光奉レ成二故ト大王ノ
称二筑紫宮明史ニ誤記良懐二年三月十八日
薨述葬ル于八代郡麓山一世ニ称二テ世ニ称二テ前征西將軍一ト
勢卿征西將軍或称関西親王又
入御一ヲ最初
廣谷光付扁廿二
○上
於二八代城一自令レ対二治一色入道道献父子一令レ服二
大友少貳等ヲ於御方一ニ廿餘年ノ陣ニ鎮西一統之
大功者也武政者令レ相二承彼忠功一致二度々合
戦一運二種々計略一時分令二早世一之間
応永六年十
月四日卒去
号志行
武朝自十二歳之時令参勤筑州大王
大居士一
後村上天皇第四ノ皇子諱ノ秦成長式部卿大宰叩宮懐良親
王養レ之為嗣称二後征西将軍一新葉集云五年住吉行
宮太宰師親王生る権大納言公夏うたに〽すみよしの松よりすたつ
鶴の子のちとせはけふやはしめなるらん。懐良の御養子となりて
下り給ひてのちは太宰府におはします
菊池武澄附したがひて軍功あり
守二父祖行跡一文中
之頃今川了俊寄来肥後一之時。数月励二防戦
之武功一於二水嶋陣一成二了後追落之功一然而後
了俊大友少貮大内兄弟数千騎寄二来肥後国一ニ之
間於二詫磨原一天授二年九月。武朝十六歳之時任二
運於天道一忘二命於公義一雖レ為二無勢一馳二入多勢
陣一。抽二戦伐之勇力一凶徒令二退散一訖
全文甚た長し
爰に載るは武
朝か事実のみを抄出せる
とあり。かた〴〵俗説のあやまり
なり余は西海紀侯にくはし
を知べし
画小山悪四郎隆政が説
俗説云。康暦年中。小山下野ノ守義政といふ者。鎌
倉管領氏満のためにほろぼさる義政が子赤房丸
といふ者幼かりしが奥州に下りて田村刑部則義を
一同六月一同廿二
頼て盛長し小山悪四郎隆政と名乗強力無双
の者なり父が讐を復せんとて便宜の溢者共
八百余人かたらひて叛逆す此事鎌倉へ聞えけ
れば執事上杉氏憲討手として二千余騎を
さし向ふ。悪四郎勇を震てうち散しければかさね
て大勢せめかこみ戦ふに。所従皆うたれ。隆政は寄
手をかけ破り陸奥に落ゆき蝦夷にわたり一
生恙なくして没後に一社の神といはゝる
一今按るに。鎌倉九代記云。小山若犬丸は。小山
下野守義政が子なり。永徳年中義政叛」
死のとき。若犬九十四歳なり一族田村ノ庄司
一則義が許にかくれ居たりしが田村をかたらひて
至徳三年六月小山の城にたてこもる鎌倉管
領左兵衛督氏満五千餘騎にてせめらる若犬
丸打て出数人を打殺しけれども御方皆うた
れければ白川へ落行しが宿かすものなかりしか
ば会津にて自害し程なく田村もうたれけり
鎌倉管領記は旧記にて近代
とあり
印行の軍記の類にはあらす
思ふに若犬丸
を悪四郎とし俗のおもしろくおもふやうにいか
めしげに作りなをし。死たるは残り多しとて。
一蝦夷にわたりて。存命せしと記せるか。信用す
るに。たらざること明けし
図里見氏尼をうばひて妻とする説
一書に云。鎌倉太平尼寺の住持は生実御所源
義明の息女青岳和尚なり房州の里見氏青
兵和尚をうばひ取て。妻とすといふ
今按るに。此たゞひもろこしにもあり。唐の則天
武后。はじめは太宗の才人にて太宗死後に尼
となりしを高宗これを愛し髪を長ぜしめ
て后とせり。又駒陰冗記云。饒州有二女尼一従二土
人張生者一。戴宗吉為レ詩贈云。短髪髭鬚鬚鬚鬚縁
未レ白。袈裟脱却着二紅裙一。十レ今嫁二与嫁二去。
一羸-得僧敲月下ノ門とあり。笑ふに堪たり
圖南朝の松帆丸が説
俗説云。南朝に松帆丸と云美童ありといふ
今按るに。南朝記。吉野拾遺。梅松備。桜雲記
に。松帆丸と云者見えず。思ふに。苔衣に。むかし
一侍従君といふ美童あり岩倉の宰相法師
といふ者と男色の睦あり時の相国の子侍従
君を懸相しけれども。聞いれざりしかば。宰相法
一寶俗説付扁廿二
師を。淡路国松帆浦に流す。法師此浦にて
病出して〽くやしきはやがて消べきうき身とも
しらぬわかれの道芝の露とよみ置てむなし
くなる。其後侍従の君。松帆浦に尋ねくだりて。
〽おくれじの心もしらでほど遠く苔のしたに
一芦表八四巻
てわれをまつらんとよみしことあり
あり。古代の
物なり其抄出せるを。
松帆物語といふ
これをとりちがへたるものならん。
思ふに釈門は。婬欲を断ぜり故に楞厳経曰若
不レ断レ婬修二禅定一者如下蒸二砂石一欲二其飯一と有
が如し。しかるを破戒の僧ども。天親菩薩は男色
をこのめり。妙見菩薩は妻女ありといひて。児を
愛し。女に通ず。男色女色くるしからずといふ
こと。いづれの経にありや。いまだ見あたり侍らず。
我祖にあらぬ天親妙見をならはんより。偏に
釈迦をまなぶべし
図もとの木阿弥が説
一書云筒井陽舜坊順昭は大和国郡山の城主にて
信長と同時の人なり廿八歳にて病死す此とき
後に順慶
伊賀守定次
と号す
わづかに一歳なり順昭遺言
して三年の間は卒去をかくし置へしと有ければ。
同同断断同同十二
木阿弥といふ盲人其かたち順昭に似たる故他国
より使者来るときはかの盲人をほのぐらき所に
置。昭病中の体にもてなし見せしむ定次三
歳のとき始て喪を発す爰にいたつて木河弥
なりしことを諸人しれり俗諺に元の木阿弥と
いふ事是よりおこれり
一今按るに非なり。筒井順慶は明智光秀弟
なり明智系図云。源の光秀弟信教
彦次郎殿
為二筒井順昭
養子ト一号二大和守一
とあり又伊賀守定次は順慶には
薙髪ヲメ号ス」順慶一
あらず順慶子なり大和軍記云天正十三年
筒井四郎定次に伊賀一国を賜り伊賀守
と号し従四位下侍従に任ず後に秀吉公より
豊臣姓羽柴氏を賜るとあり又郡山の城は
定次より後に築けり大和軍化に云天正十三年
大和及。紀伊和泉をば秀吉の舎弟美濃守
秀長に賜る秀吉の命によりて筒井の城を
こぼちすて秀吉の縄張にて郡山に城を築
猶筒井家の事
て秀長を居しめらるゝとあり
近年印行の和
列軍伝に
くはし
是等を考へて俗説の非なることを知
べし
長谷宅付扁十二
国操人蛙をくらふ説
俗説云。日本紀云ク大和国国操人つねに山巣を
取つて食す蝦蟆を煮て上味とす名て毛淋
といふとあり鬼の子孫なる故にかくのことし
今按るに。山中にありて。米穀とぼしく魚鼈
なき故に山巣蝦蟇をくらふなり蛙のこ
にあらず。蛇をくらひ螽をくらふ者有といふ
本朝食鑑云ク山東ノ人捕二生蛙一入二熱湯中一刻レ皮
投二芥醋内一而食。此称二目摺膾一以賞レ之とも
見えたり。我朝のみに限らずもろこしにもあり
と見えて宋朱或可談云。閩浙人食レ蛙嶺南人
食レ蛇○委巷叢談曰。越ノ人以二蛾頻一為二上味○東
齋筆記曰。沈文通守二杭州一禁二氏食二蝦蟇三
年人不二敢食一而蝦蟆亦絶而不レ生とあり考
知べし
倭画師といふ説
俗間の絵師等。心たりに倭蓋師と書者あり
今按るに非なり倭画師は姓なり。見たりに書
べからず。其故は。続日本紀云。霊亀元年五月乙
已従六位下。画師忍勝姓改為二倭画師一と有をみるべし
第
狩り同
町一丁
廣益俗説辨卅三
附編三
婦女僧満
廣益俗説辨附編卅三目録
○婦女
狩野氏図書記
補筑紫磐井が母が説
画小式部内侍は保昌が子といふ説
一補嶋千載若前が説
補源義経妻室の説
一静が舞によつて雨ふる説
補尼将軍の説
補菊池寂阿が妻が説
補結城親光が妻が説
一広谷兎付扁廿三
神村尾
豊蔵三言
《題:奈良左近が説
補遊女を傀儡といふ説
○僧道
圖頼豪阿闍梨は大江匡房の兄といふ説
補碁聖大徳が説
図ある僧穢を避ずして神社に詣る説
図西行法師江口遊女に逢説
補公暁悪禅師が説
《題:南都の悪僧が説
補ある僧水に字を書説
体ある僧牛に生る説
同信談御縁十二
廣益俗説辨附編卅三井澤長秀輯録
○婦女
囲筑紫磐井が母が説
俗書ニ云。継體天皇ノ御宇。筑紫ノ磐井謀叛しける
を。討手を遣して。誅せらる。磐井が母を捕へける
に。かの母天皇の御前にをいて磐井謀叛すと
いへども。母が罪にあらさる旨を。くはしく奏しければ
命をたすけ給ふ
女鑑にくはし
これを略す
今拙るに。此説日本紀以下の書に。かつて見えず
妄作なり評するにたらず
圖小式部内侍は。保昌が子といふ説
俗書云。和泉式部は。藤原保昌が妻なり。一人の
息女あり。小式部内侍といひし是なり
今按るに。小式部は。和泉守橘道貞が女子
なり。保昌の子にあらず。和泉式部は。大江雅
致が女子
母は弁
内侍
つなり。上東門院の官女となる。
和泉守正四位下橘ノ道貞が妻となり。一女を
生。小式部内侍と云是也。和泉式部弾正平
為尊親王
冷泉院
三皇子
につかふ。為尊親王かくれ
給ひて後
此とき。式部がよめる哥。
道貞にすてらる
績拾遺集に見えたり
此後道貞陸奥守にて下し時
為尊御弟敦道親王。和泉式部
式部が読し歌詞花集に見えたり
此事を聞て。赤染衛門うたを。和泉第
が方へ。かよひ給ふことあり。
におくり。返しせしこと。新古今集に見えたり
一敦道。式部を御館にともなひ。住しめ給ひ。北ノ方
に一条左大臣
を。うとまれし故北方の御姉東宮
師尹公の女
の女御
三條院
皇后
より。兄達を迎につかはして。つれ
帰り給へり
此本末。和泉式部日記に。詳に記せり○大鑑云。
師井の今一所の女君は。ちゝのうせ給ひし後。冷泉
院の四宮帥宮の御うゑにて。二三年ばかりおはせしほどに。宮。和泉式
部にかへさせ給ひしとあり○小世継言。はじめつかたは。こゝろざしも。
なきやうに見へけれど。後には。上へをもさり奉らせ給ひて。
ひたふるに。この式部を。妻にせさせ給ひたりと見えたり。
敦道親王
此とき。和泉式部よめる
一後丹後守藤原保昌
かくれ給ふ
うた。家の集に見えたり
妻となる
詞花集後拾遺集家集等に。保昌が妻となり。丹
後にくだりしうたあり。保昌にわすられて。貴布ねに
局代言門統廿三
まうでゝ。哥をよみし事。後拾遺集家某に見えたり。又式部女巫を一
頼みて。貴布ねにて。抜させ保昌に対面せし事。沙石集に出たり。保昌
は。丹後ノ国司なり。長元九年九月十五日。七十九にて
卒せり。丹後宮津に有レ塔詳に。丹後名所記に見えたり。
保昌卒して。
小式部も。母にさきだちて。
小御堂に
和泉式部尼となり
死せり。詳に家集にみゆ
住すと見えたり
貞徳百人一首頭書云。和泉式部年よりて。尼也
になりたるを。御堂関白道長。あはれみ給ひて。
小御堂をたまはりて住す。小御堂は。誠心院といふ。末世には。和泉式部
といふ寺なり○山城名勝志云。元ト在二一条北白川ニ隣二誓願寺一近世
誓願寺遷三條一之時。同遷二彼寺ノ南一ニ俗云二和泉式部ノ寺一今律院一
為二泉涌寺末寺一○日次記云。三月廿一日。専意法尼ノ恩。晃和泉式部也
京極東福寺誠心院有二木
像并塔誓願寺亦有牌
これらを考へて俗説の違へる
を知べし
補島の千載若の前の説
俗書云。我朝に。白拍子のはじまりける事は。鳥羽院
の御宇に。嶋の千載若の前。かれら二人が。舞出し
たりけるなり。昔は水干に立ゑぼし白ざや巻を
さいて。舞ければ男舞とぞ申ける。しかるを。なかごろ
より。ゑぼし刀をのけられて。水かんばかり用ひたり。
扨こそ白拍子とは名付けれ
今按るに。元氏掖庭記ニ云。帝怠二于政事一。荒二干游
宴一以二宮女十六人一接レ舜名為二天魔舞一首垂レ髪
数弁戴二象牙冠一身被二纓絡紅絹金長襖一斉
龍飛
紀略
所載亦同○大明会典云俗呼作楽之
一妓ヲ曰二弾的一〇事物異名ニ云妓綺娘
是レ日本の白柏
子にひとし。続古事談ニ云妙音院ノ大相国云。およそ
舞を見。哥を聞て。国の治乱を知。ならひ也。
世間に。白拍子といふ舞あり。曲をきけば。五
音の中にては。商の音なり。此音は。亡国の音
なり。舞のすがたを見れば。立まはりて。空を
あふぎてたてり。甚だもの思へる体なり。詠曲
身體ともに。不快の舞なりと。そしり給へりと
あり。考へ知へし
補源義経妻室の説
俗間流布の義経記に義経の室は久我大臣の
姫なり九歳にて大臣におくれ十三歳にて母に
おくれ十六歳にて義経の室となる義経北国落
のときかの宿所今出川にゆかれけるが住給へるかた
の障子を見給へばかの手跡にてつらからば我も
心のかはれかしなどうき人の恋しかるらん。義経あ
はれに覚えて児のかたちに仕立て。奥州にくだり
給ひ高館にしてともに自害せらる
今林るに。義経の妻は。河越太郎重頼が女子にて。
久我大臣の女子にはあらず。東鏡云。元暦元年
九月十四日上洛為レ相二嫁源廷尉一也見依二ル
太郎重
頼女
武備謂一兼日令二約諾一重頼家子或人即従廿
余輩従レ之首途。剣巻云義経奥州に落下り
秀衡入道を頼て三四年は過にけり秀衡死
後文治四年四月廿九日康衡兄弟叛逆して
五百余騎にて衣川の城をせめけるに判官は女
房廿二。若君四歳当歳の姫我身卅一と申
けるに自害して失にけるとあるをもつて俗説
の相違を知べし思ふに源平盛衰記ニ云平大
納言時忠の女子二十八になれるを。人してほの
めかせければ義経むかへ取りぬ年こそ少し長
けれども清くたはやかに手跡うつくしく色
情ありてはなやかなる人なり判官心ざしふかく
おもひければ本妻河越太郎守頼か女も有けれ
どもこれをは別のかたをしつらひて居たり又云
義経西国にくだるとて女のもとにゆきけりこれは
平大納言時忠の女なり義経かの家にいたりて
立きけは女の声にて〽つらからばわれもろともに
さもあらでなどうき人のこひしかるらんとよみ
て泣けり義経あはれに思ひ。立入。其夜はそこ
にとゞまりて物語しわれだに身の台所なけ
れば引具せんこともかなひがたしとてなく〳〵
帰られけるぞいたはしけれとあり。義経記を
しるす者かれこれを取りあはせ久我大臣の女
子につくりなをしたるものなり
蒲静が舞によつて雨ふる説
俗説云。一と州百日のひでり有けるに鴨川桂河
もながれず井の水たえて国土のなやみとなり
しかば諸寺におほせて。祈せらるゝにしるしなし
此故に院神泉苑に御幸ありて容色すぐれ
たる白拍子を。十人えらびて舞せらるゝにしる
しなし静が舞にいたつて龍神これにやめで給ひ
けんにはかに黒雲たなびき雨ふり出三日まで
つゞきしかば静に日本一の宣旨を絶りけり
一今按るに。是は数日旱魃にて。雨をもよふし
たる所に。舞あらせたるなり。舞によつて。雨
ふりしにはあらず。およそ弊は。人君の国を憂へ
民をあはれみて。天にいのるなり。其至誠の
感によつて。雨ふりしことは。我朝もろこしの史
に見えたり。しかるにたいなくして。朝為二張郎
婦一。暮為二李郎妻一。穢しき白拍子に。歌舞せし
めしは。天を軽侮するなり。かくのごとき非礼に。
めてまどふ龍神あらんや若これをよろこぶの意
あらば。彼もまた淫奔放蕩の徒にや。一笑するに
堪たり。又日本一の宣旨の事。いつはりなるべし。
是まことなるべくは。日本一の恥辱といふべし
補尼将軍の説
俗説。云。頼朝後室平政子尼となりて如実といふ
代々将軍の後見として政務を沙汰せらる尼
将軍これなり嘉禄元年七月十二日百廿五歳
にて死去なり
一今按るに。宋文帝慧琳法師が。よく談論する
を以て。朝廷の大事にあづかり。はからしむ。つゐに
権要にまじはる。孔顕これをそしりて。黒衣宰
相。冠履所をうしなふといへり。如実尼も又これに
似たり。かれもし政務にあづからで。かなはずとせば。
北條一家の輩は。菽麦をわかたぬのみにや。尼が
没後。いとあやうし。又尼将軍号の事偽也将軍
宣下。きゝ及ず。思ふに将軍頼経法体のゝち。
政務をきかれしかば。世に入道将軍とそしれり。
如実も無用の所にさしいで。才まぐらるゝ故。尼将軍
と諢名せしものなり。もろこしにもかゝる事あり。
呉淑龍名録所レ載餓彪將軍は魏元暉。筆公
一尖頭奴は魏ノ杜弼。侏儒郎中は常慎。餓鷹侍
中は魏盧衲。黒面僕射は魏元欽。鬼婆は則天
武后。細眼奴は房玄齢。斗酒学士は省主侯。癧
相は王欽若。媼相は董貫をいへり此類なり。又
如実尼嘉禄元年七月十二日百廿五歳にて
卒すといふも非なり頼朝の政子に通ぜられ
しは治承年中の比なり治承元年より嘉禄
元年まて七十七年なり頼朝いかてか七旬有餘の
老婆を懸想せられんや俗説の相違はなはだし
補菊池寂阿が妻か説
俗説云。元弘年中菊池寂阿築紫の探題北条莫
時が博多城に寄て戦死す寂阿嫡子武重を国
に帰すとて妻がもとへ一首の哥をおくりける
〽古郷にこよひばかりのいのちともしらでや人の
われをまつらむ。妻此うたを見て〽ふるさともこ
よひばかりのいのちぞとしりてや君が我を待らん
と書置て自害しけり
一今按るに。此説偽なり菊池寂阿が妻は赤星
有隆が女子なり寂阿死後尼となつて慈言
といふ武重武澄武光等が母なり恋春尼が
正平八年十二月五日肥後ノ国玉名郡廣福寺
に贈る状。今に伝れり。其相違を知べし
補結城親光が妻が説
俗説云。結城太田判官親光。鳳輦に供奉して京
を落けるが女房にいとまをこひければ女房親光を
詳に女鑑に
はげまさんがため目の前にて自害しけり
あり略之
一今按るに結城親光が妻夫にさきだつて自害
の事偽なり太平記足利治乱記梅松論桜
一雲記南朝記吉野拾遺等にかつて見えず
一神奈良左近が妹が説
俗説云西岡の笛生定光久左衛門といふもの己が
弟子奈良左近をころして其妹を妻とせんとい
ひしときかの女定光が短剣をうばひて定光を殺
詳に女鑑
し其身も自害しけり
に出たり
今按るに左近が妹が事偽なり。信長記。惣見記。
信長家譜等にかつてなし妄作たる事を知べし
団遊女を傀儡といふ説
俗間印行の下学集ニ云ク日本ノ俗呼二遊女一ヲ曰二フ傀儡○
撰集にも傀儡河。傀儡侍従。傀儡靡などあり。又
寄二傀儡一恋といふこゝろを〽又むすぶちぎりもしらて
消かへる野上のつゆのしのゝめの空とよめり
一今按るに。遊女を傀儡といふは非なり。傀儡師は
人形まはしなり。詩学大成傀儡部云ノ傀儡子起二於
漢祀平城之囲一。陳平訪知二単干妻関氏妬忌一。造二
一木偶人一運二機関一。舞二於城間一。関氏慮一城下一。軍干
必納。遂退レ軍。平成二得解一とあり。俗説のあやまり
を考へ知べし
○僧道
補頼豪阿闍梨は大江匡房の兄といふ説
俗説云。延暦寺の頼豪阿闍梨は大江ノ匡房の兄也
今按るに。頼豪は藤原ノ姓にて。匡房は大江の姓也。
藤原系圖云。式部卿宇合清成。與官安條
周防守
従五位下
賀備能
摂津守
従五位下
忠紀
下野守
従五位下
文正
加賀守
従五位下
光輔
従五
位下
有家
伊賀守
従五位下
頼豪
延暦寺阿闍
○大江系図云。本主
楽硯才之人
備中守従五位
ヲトンド
下賜二大枝姓一
一大枝姓一三丁
音人
左大弁参
議従三位
千古
式部太輔
従四位下
維時
中納言
従三位
重光
左京大夫
従四位下
匡衡
弾正少弼
正四位下
舉周
式部太輔
正五位下
成衡
信
渡
権守従
四位下
匡房
権中納言
正二位
○とあり出自の相連かくのごとし
殊更匡房兄弟なきをや
補碁聖大徳が説
同同三十一年四月
俗説云。寛蓮法師は。俗名肥前掾橘良利といふ。肥前国
宇多
藤津郡大村の人なり亭子院は
御出家のとき
天皇
出家して寛蓮と名く殿上法師なり囲碁をよく
すこの故に碁聖と称せられ碁式をつゝる是
万首唐絶句奕僧と
日本にて碁のはしめなり
アルハ。寛蓮ガ類ナリ
今按るに碁に妙を得たる故に碁聖と称す
る説非なり蓮窓日録云。林中郎以二圍碁一為二座
隠一或亦謂二之手談一又謂二之碁聖一とあるを見る
べし。又寛蓮を日本にて碁のはじめとすれども。
是よりさき。碁を善する者おほし。続日本後
紀云承和六年十月朔天皇御紫宸殿召散位
従五位下伴宿禰雄堅魚備後權掾正六位上須
加賀雄於御床下一令二圍碁一並當時之上手也
雄堅魚
下石二路
一賭物新錢廿貫文高所レ賭四貫所レ約総五高
須
賀
雄輪二四-等一
羸羸一
○文徳実録云。大内記従五位下和気朝臣
貞臣唯好二圍碁一不レ覚二日暮夜深一○三代実録云。
従五位上肥後守紀朝臣夏井善二圍碁一ノ十餘歳
習二囲碁於伴宿禰於勝雄一。一二年ノ間殆。超二干於
寛蓮法師。伝。大和物語。
勝雄一とあるを考へ知べし
同抄。古事談に。詳に見え
たり。定違が。女と困碁てまけたる事。今昔物語に見えたり。長きか
故にこれを略す。今昔物語別に印行す。あはせ給ふべし
長谷名付扁七三丁
囲ある僧穢をさけずして神社に詣る説
俗説云。昔ある僧悪病人を葬て吉野に詣しに
神よろこび給ひ又ある僧母が骨を首にかけて
熱田の社内をおそれしに神ゆるし給ふ
今按るに是等の説皆浮屠氏。神を誣て。仏に
混ずるの妄作。信用するに足ず。因考るに古老
口実伝ニ云ノ葬篭者并持二死人一者百日以後可
参宮
是神宮所相
伝之法令也
伊勢勅使部類記云。久我太政
大臣源ノ雅実六條右大臣顕房之子也為二内大臣
一左大将一承レ詔奉二幣于伊勢太神宮一ニ其斉戒
十日之第七夜夢中神来告曰此居宜レ移レ仏経
於他所一夢覚而後不レ知二其所レ知レ有之処一使二編尋一
一レ之則長押上果有二仏ノ経一公輙去レテ之臨レ河抜除
とあり。穢を忌給ふことかくのごとし。太神宮は
兼て浮屠を忌る故に。彼に混ぜられごとして。
法令今に厳なり。他社は。其始に僧徒を退
けざる故に。彼に混ぜられて法令今廃せり
およそ神道は。取ば存し。すつればほろぶの
理なれば穢をさけずしておして神社に詣
しは。兼て天理にそむき。神罸を蒙りて。
乱心したる故としるべし
補西行法師江口ノ遊女に逢説
俗説云。西行法師は鉄肝石腸の人なり江口の遊女
に一宿してかれにたはれず我朝の柳下恵なり
一今按るに。西行が鉄肝石腸おぼつかなじかれが
発心もと好色よりおこれり且修行の後も
難波の漁父が妻に通ぜし事あればわざと
たゝみて娼家に宿けしならん宿してたはれず
といふの證たれ人ぞや夫木集を見るに。西行
法師が瓜田不レ納レ履李下不レ正レ冠といふ題にて
よめる歌に〽たれも見よすもゝの下の道せばみ
冠かたぶけ手やはふれつるとあり。是をもつて見
れば。嫌疑を避るの心はあるか。あらばなど娼
家に宿するや。言行表裏大にいぶりし。因言
そのかみ柳下恵が女を同宿せしをうたがふ者
なかりしは世と人と淳朴にして下恵が為人
をも粗しれる故に譏もなかりしならん今
もし下恵出たりとも為レ人。を知ルものあるまじ
ければうたがひをうけて必そしらるべし下恵
も又時に応ずるの心ありてつよくこば見て同
同百三十一年三月
宿すべからず。いにしへすでにしかり。今またひとし
からんなど思ふは愚にあらざれば惑へり。頃日宋
李昌齢が楽善録を見るに。僧道を避るの説
あり。左に記して戒めとす。楽善録云僧道不レ可レ入
穴院一。猶二鼠雀之不レ可レ入二倉廩一也。鼠雀入二倉廩一。来
有不レ食二穀粟一者上。僧道入二宇院一。未レ有二不為二乱行一
者一。此事之必然不レ可レ隠者也。富家ノ兒常令二僧
道入二穴院一与二婦人一同一ノ起坐一而不レ知レ恥其久而
分熟則未レ有二不二為レ彼所二淫汚一者一。其間無知之
輩。至二於事露醜出一而亦不レ耻不レ禁悲夫如二此
等人二何異二於鳥獣一乎とあり。暁しわきまふべし
補公暁悪禅師が説
俗説云鎌倉鶴岡八幡別当公暁は沙門として叔父
実朝を弑すこれによつて世に悪禅師とよふ
今按るに非なり。公暁が実朝を討は。父の讐を
復せしなり。沙門として。叔父を弑せりとそるは
非なり。公暁が僧となりしは。見づからの心には
あらず。やむことを得ざればなり。たゞし僧となら
ずんばちかづくことあたはじ幸に僧となして鶴
岡におかれしは。天より時をあたえたるなり。子と
黄谷兄名付扁十二
して父の讐を復せず。臣として君の讐を復せ
ざるは。人倫にして禽獣にもしかざるなり。古語云ノ
一九世可二。以復レ讐と。況や公暁をや。悪の号を
とゞめて孝と称して可なるべし
補南都悪僧が説
俗説云むかし南都に悪僧あり幼少より学文を
せず腕だてをこのめり年たけて後悪業をひる
がへして善業にこゝろざせとも文盲にて出家のす
べき事をしらざればわがもちあはせたる腕だて
にて善業をなさむとおもひて其ころ世の人の
うれひとなる強盗どもの宿に行てわれも強盗
せんといふ盗人とも日ごろの強力を知ぬれはよろこび
て同類とすさて人のもとへぬすみに入とき此僧
さきに入つて家の内の足よはをにがしあやまちなき
やうにしたゝめおもきたからをかくさせて後同題を
ひきいれけりこれによりて強盗にあへる家させる
災難なしある夜強盗どもしそこなひからめられ
て奉行所に引出さる奉行見れば法師なりいか
なれば法師の身にて強盗はするぞと問けるに物の
ほしさに候と答ふいくたび問ても同じこたへなり
されども奉行見るところや有けんとかくこゝろ
のうちのまことをきかんとせめければやむことを得
ずして申けるはそれがしはもく南部の悪僧にて候
しが後世の罪業をおそろしく思ひて善業をな
さんとするに一文不通なれはすべき道もしらず
此ころ強盗見だりに人をころしそこばくの財宝
をかすめり難をすくひてたすけんとするに一人
にて多勢に敵しがたし所詮盗賊の党に入て
かれをあざむきこれをたすくるはかりことをめ
ぐらし候しと申す奉行感じてゆるしけり
一今按るに此僧悪を翻して。善を修することなら
ずといふはいぶかし。など一尺の布帛をもつて頭を
つゝんで死せざるしばらく仏家よりいふときは。文
盲にて沙門の所作ならずんば。無知の念仏者
となるべし。佛法は文字なくしてはかなはずと云
の理有べからず。しかるを聞もけがらはしき。盗
賊にくみして。からめとらる。前後の為体。一事
として感ずへきものなし。不孝不義の大罪
人にくむべきの甚しきなり。又かの僧。ぬすみする
家に。さきだち入。足よはをのけ。財蛮をかく
させ。あやまちなきやうにして。同顔をいれしと
いふも。偽なるべし。かくゆる〳〵と。支配するまで。同
類ども外に待べからず。又家内の者。僧を御方と
思ひて。其下知につかんや。又僧が心の内は。慈悲に
てせしやらん。不慈悲にてせしやらん。恐らくは。証拠
有べからず。今其ときの事を察するに。奉行等
が。汝は僧の身として。など強盗はするぞと問し
とき。さるものゝくせとして。あはれげなるつゝつき
にて。物のほしさにと律義めきて答しを。愚昧
なる奉行等。頭を丸めたる者は。悪はせぬぞと
心得て。いやさはあらじ。まことの心をきかんと。いひ
しかば。思ひの外によき首尾とよろこび。其こ
とばにつけ入。すぐなりに化て。おもふまゝにかま
ぶらかし。命をたすかりしことのなるべし
囲ある僧水に字を書説
俗説言。むかしある僧。人とあらそひて。水の上に
字を書しが。しばらくきえずして。あり〳〵とうかへ
びし。有がたき事なり
一今按るに事故広記云。白礬黄芩五文搗為レ来
以二少計一ヲ調レ水一紙ノ上ニ書レ字便放二置水一字浮水上紙
同百八合八合八合八合八合八合八合八合八合八合八合八勺
一沈水底とあり此法をもつて書たるものなるべし
補ある僧牛に生る説
俗説云。むかしいづれの国にか有けん。土民が伯父僧死
してのち家の牛犢をうめり。二三年を過て。土民犢
をうつこと有しに。牛ことばを放して。我は汝が伯父
天正年中
なりといひしとなん
比の事と云
今按るに朱子文集云ノ蔡州妖尼干恵普詫レ仏
言二人禍福一朝中士大夫多往問レ之所一言時有レ験
於レ是翕然共称為二神尼一公既自レ少力排二釈氏一故
獨以為レ妖嘗有二一名公一於二廣座中一称二尼霊異一曰。
膏有二牽牛過二尼前一者二指二示人一曰ノ二牛前世皆人
也前者是一官人後者是一医人官人当失入
人死罪二医人薬誤殺レ人故皆罸為レ牛因呼二其前
世姓名二牛皆應一座聞レ之皆嘆二其異一異異異一一無異
一曰謂二尼有二能一万物之最霊其尤者為二聡明
聖智一皆不レ能二自知二其前世一而有レ罪被レ罸之牛
所謂名公者
乃自知乎於レ是座人皆屈服
とあり。是は
疑指二冨公一
妖尼幻術をもつて。牛の側に物を置て言を発
させしならん。右の昔語の牛は狐狸など託して
言を発せしものなるべし
卅三終
一
狩田町
第
廣益俗説辨卅四。
附編四
地理
廣益俗説辨附編卅四目録
○雑類地理
補尾張国の説
狩野氏図書記
補隠岐国の説
補大国といふ説
団郡をわかつの説
《題:伊勢国宮河の説
神村長
豐曲
補同国多渡山の水の説
補近江国磨針山の説
補富士山出現の事国史にありと云説
唐竹言戸糸十四
補美濃国養老の酒泉の説附諸国温泉
補越後国臭水村の油の説
補越前国金崎の怪異の説
補磐梯池の説
補豊後国沈堕瀑の説
補同国風流嶋の説
補長門国水中に音楽の声ある説
廣益俗説弁附編卅四井澤長秀輯録
○雑類地理
補尾張国の説
俗説云。尾張国は。素盞烏尊。八俣大蛇が尾を割て
取給へる剱を。熱田大明神と祝へる故に尾割国
と名づく。後に尾張とあらたむ
今按るに非なり。尾張風土記云。神日本磐
一余彦天皇東征之時海部佩室奉レ射二天皇
天種子命以二三角石弓玉羽矢一射二殺佩室一於
一レ是海部姓絶終因レ此其国謂二終国一今曰二尾張一
房化言丹後十一口ト
一者音之訛也とあるを證とすべし
補隠岐国の説
俗説云。隠岐国はむかし魚王赤目長門国山岳を蹴
破しとき陸地つらなりて一島となる故に沖国と
いふ。後に隠岐国にあらたむ
一今按るに非なり隠岐諸云。隠岐在二北海中に故
云二隠岐ノ嶋一ト其在二巽地一言二嶋前一也知夫郡海部
郡属焉其位二震地一言二嶋後一也周吉郡穏地郡
属焉其府者周吉郡南岸西郷豊崎也従レ見
南至二雲州美穂関三十五里辰已至レ伯州赤崎
浦一四十里。未申至二石見国温泉津一五十八里自身
至レ卯無二フ可レ往地一戌亥間行二日一夜有二松嶋一又一
日程有二ル竹嶋一而已と。此説を證とすべし
補大国といふ説
世俗見たりに大国と称することあり
考に。白井宗因職原句解云。大国十二。所レ謂大
和河内伊勢上総下総常陸近江上野陸奥
越前播磨肥後也
補郡を分つの説
俗間郡を分つの説あり相違おほし
広代吉川条廿四
今考二国史一記二其説于左一ニ蓋シニ蓋シ二テ国史ノ所ノ所ノ出一
○越後国出羽郡に和銅元年九月丙戌越後国新
建二出羽郡一
○続日本紀○今越後国に出羽郡なし。会津風
一土記云延長年中越後国郡を頭地郡と号すと
あり是古の
○遠江国長田郡。和銅二年二月丁未
出羽郡なるへし
同書○今遠江国に長田
分遠江国長田郡為二郡一ヲ為二二郡ト一
郡なし長上長下といふあり
これ成
たる。○備後ノ国葦田郡甲努村。同年十月庚寅割
同書○甲
備後国品遅郡三里一隷二葦田郡甲勢村一
勢村は今の
甲奴郡なるべし。品遅
今は。品治と記す
○上野国多胡郡。同三年辛亥
一二治ス
一作
矢田
大家
割上野国甘良郡織裳韓級
八田
辛科一
緑野郡ノ武美。片岡郡山等
当作二
六郷一別置多胡
山奈一
郡ヲ同書○出羽ノ国最上郡置賜郡。同五年割陸奥
同書
○摂津国能勢
国最上置賜二郡一ヲ隷二出羽国一ニ同書○摂津国能勢
郡同六年九月己卯割二摂津国河辺郡玖左々村一
為能勢郡一ト同書○陸奥国丹取郡。同年十二月辛
同書今丹取郡
卯陸奥国新建二丹取郡一
一なし名取郡を訛るか
○美濃国
席田郡。霊亀元年七月丙午美濃ノ国始建二席田
ヲ同書
君
○石城国
今の陸奥
養老二年五月乙未
国磐城郡
割常陸国石城標葉行方宇太一竹且理菊多
割二常陸国石城標葉行方宇太
一ニ作ル
旦理菊多
宇多
一ニ作ル
一イ
同書○旧事紀云。石城国造志賀高穴
二六郡一置二石城国一
穂朝御世以建許呂命定賜国造ニ〇
菊田ニ
慶会ノ延佳ノ云。今陸奥国磐城郡○後に磐城郡より五郡をわかつ
一標葉郡行方郡宇多郡亘理郡菊多郡なり
広谷花付扁十四
唐竹吉助孫廿四
○石背国
今の陸奥
国磐瀬郡
同年同月同日割白河石背会
ニ同書并宿事紀首書云伊
津安積信夫五郡一属一属二石背国
一波世国分為二伊達郡白河
郡会津郡安積郡
信夫那となれり
○菊多郡
今陸奥
国にあり
同年同月同日
サイテ
割二常陸国多レ珂郡之郷二百二十烟一名曰二菊多レ郡一
害、
同書◯後に磐瀬郡より
置二石背國
一菊多郡を分ツ
○志摩国佐芸郡。
一同三年四月丙戌分二志摩ノ国ノ志摩郡塔志郡
一作二
答志に
○同書○今志摩国に佐芸郡志摩
五郷一始置二佐藝郡一
一郡なくして英虞郡ありこれか
河内国大県郡。同四年十一月乙亥河内ノ国堅下
同書
○佐渡国賀母郡
堅上二郡更号二大縣郡一
羽茂郡。同五年四月丙申分佐渡国雑太郡始
置賀母
一作二
賀茂一
同書
羽茂二郡
○備前国藤野郡同
年同月同日分二備前国邑久赤坂郡一一一始置二藤野
君一
《同書○今備前国に藤野郡なし。和名類聚抄に和気郡に藤
一野郷あり。しかるときは古の藤野郡は。今の和気郡なるへし
○備後。国深津郡。同年同月同日分二備後ノ国安
同書
那郡一ニ置二深津郡一ヲ同書○周防ノ国玖珂郡同年同
フ今作
ニ置ク二玖阿郡一ヲ同書
月同日分二周防ノ国熊毛郡ヲ一
熊手
○遠江国山名郡。同六年二月丁亥割二遠江国佐
同書○佐益郡は
益郡八郷一始置二始置二山名郡一ヲ
一佐野郡を訛ルか
○陸奥国栗
原郡。神護景雲元年十月乙巳陸奥国。置二栗原
郡一ヲ同書○伊予国新居郡。大同四年九月乙巳改
同月
伊豫ノ国神野郡為新居郡一ト為二上諱一ト以
日本後紀
○嵯峨天皇
諱神
野
冊○陸奥ノ国和我郡萩。郡那波郡。弘仁二
年正月丙午陸奥国置二和我蘓縫斯波三郡一
フ同書
一今蘇
縫郡なし
何レか
○越前ノ国今立郡。同十四年六月丁亥越
前ノ国丹生郡管郷十八。駅三。割二テ九郷一駅一駅一駅一更建二
同書
○加賀国能美郡石川郡
一郡一号二今立郡一
同年同月同日加賀ノ国江沼郡管郷十三駅四
割二五郷二駅二駅一更ニ建二一郡一ヲ号二能美郡一同加賀郡管
郷十六。駅四。割テ八郷一駅一駅ヲ更ニ建テ一郡一ヲ一ヲ號二石川郡一
同書○土佐ノ国高岡郡。承和八年八月庚申土佐
國五ノ八郷ノ八郷。各分二四郷一建二二郡一郡一新郷號二高岡一
續日本
後紀
○美濃国石津郡。郡上ノ郡。斉衡二年閏
四月丁酉分二テ二美濃ノ国多藝武義二郡一置ク石津郡
上二郡一
録
文徳実
○肥後国山本郡。貞観元年五月
四日己未分二肥後ノ国合志郡一ヲ一テ始テ置二山本郡ヲ
三代実
銀
ケアハソ
○阿波国三好郡。同二年三月二日壬子割阿波
国美馬郡一ヲ始テ置二ク三好郡一ヲ同書○伊予ノ国喜多郡。
同八年十一月八日己酉割二伊豫国宇和郡一ヲ置一ヲ置二ノ喜
多郡同書○飛騨国大野郡。同十二年十二月八
同書○按に延喜
日乙酉分飛騨国大野郡為両郡
式倭名類聚鈔
同広谷悦付編卅四
広竹謡訓統廿四
に。大野。益田。荒城の三郡あつて。大厚なし。
○出羽国最上郡仁和
大野郡をわかてるは。大厚郡なること明なり。
二年十一月十一日丙戌分出羽国最上郡為二
同書
○涎
喜式倭名類聚鈔に取上。村山。置賜。雄勝。平鹿。山本。飽海河
辺。田河。出羽。秋田の十一郡ありて由利郡なし思ふに最上郡を分て
るは今の由
と各考え知べし
利郡なるべし
補伊勢国宮河の説
俗説云。雄略天皇御宇。天照皇太神白鷺に化して
伊勢国宮河にうつらせ給ひけるを恵美丸といふ者
見つけまいらせて。河中に。みやづくりす。故に此河を
宮河と名づく
今按るに。是は倭姫世紀云。垂仁天皇廿七年ノ秋九
月。鳥鳴声高聞且昼夜不レ止囂倭姫ノ命此異止
宣弖大幡圭命乎差遣令レ見二彼鳥鳴処一罷行見二島
一国伊雑方上葦原一ノ中在二稲一基一基一基任為
一豆末千穂茂也彼白真名鶴咋持廻鳴支此見顕一
其鳥鳴声止支返事申支爾時倭姫命宣久恐
志事不問鳥須良田作皇太神尓奉レ物平止詔出
物忌始給弖彼稲伊佐波登美神并為弖指穂尓
一令レ抜弖皇太神御前懸奉始支則其稲大幡主
女子乙姫ゟ清酒令レ作御饌仁奉始支彼稲生
処伊佐波登美之神宮造奉為二皇太神摂宮
同長谷総付扁十四
伊雑宮此也。彼真名鶴乎号称大歳神一ト同殿祝宛
奉也
一神風小名寄云。宮河は。外宮の町の西北にあり。
本名宮豊川といふ。万葉某に斎宮川と読るも同かるべし
此大歳神
を取ちがへたるものなるべし
補伊勢国多渡山の水の説
俗説云。伊勢の国多渡山に滝あり其ながれのすゑ二
町ばかりは河原にて水地の下をくゞりてすゑにて流
れ出ることたぐひなき不思議也
今按るに此たぐひ多きことなり。常陸国誌云。水悪。
河出二筑波山一為二水無河一。流入二桜河一。其源自二地中一
行故人不レ見二其水ノ所二由出一。会津風土記云。潜清
水ハ在二リ耶麻郡布藤村一自レ源行二地中一ニ二十許歩。陸
一奥名所集ニ云。信夫郡忍山の西より流れ出る河の
水地のそこをくゞりてはるかの下に出中ほどは河
原なりとあり。我朝のみにもあらず。もろこしにも
あり。臨海記云。郡東北二十五里任曽逸家有二一
石井一深四丈常有二湧泉一昔有二採レ材人一臨レ渓洗レ巽如
流二失酒杯一後出二於石井一と見えたり。右の多渡山
の水と同じ
補近江国磨針山の説
俗説云。近江国に磨針山あり。むかしの人。此山にのぼ
同同同同三廿四
りて。斧を磨て針とせしより。名づくるといへり
今按るに。もろこしにも似たることあり。劉氏鴻書
云。昔李白読二書於象宜山中一。未レ成弃去過二小
渓一逢二老嫗方磨二鉄杵一同レ之曰。欲レ作レ鍼大白感二其
意一還平レ業と見えたり是等皆譬喩なり。実
にあると思ふべからず
圖富士山出現の事国史に出たりといふ説
俗間印行の書云。駿河国富士山。孝霊天皇の御
宇に出現の事三代実録に見えたり
今考るに。三代実録に。此事かつて見えず。三代
実録は。光孝清和陽成三代の事を記したり。此
光孝を孝霊にとり違へ。右の書に貞観六年三
月廿五日駿河国富士郡大山甚熾焼山方一二
里光炎高二十余丈有二雷地震一歴二十余日一火猶
不レ滅焦レ巌崩レ嶺沙石如レ雨とあるを。出現と覚
えたるなるべし
図美濃国養老酒泉の説
俗説云。養老元年美濃ノ国より酒泉わき出ふし
きなることなり
今按るに。酒泉これのみにあらず。日本紀云。天武
同同嘉八右
天皇七年十一月己亥遣二沙門法貞善往真
義等一試飲二近江国益須郡ノ醴泉一又云ノ醴泉涌二
於近江国益須郡都賀山一諸疾病療若者衆
豊後風土記云。大分郡酒水
西一
在郡
此水之源出郡
西一自二野之磐中一指レ南下流其色如レ酒味少酸
焉今昔ノ物語云。むかしある僧。大峯にいたると
て。道をふ見たがへて。ある郷に出たり。其郷の
中に泉あり。めぐりに石をたゝみ。上に家をつ
くりて。覆へり水の色黄ばみたり。寄て飲
見るに。水にはあらで酒のわき出るなりとあり。
いづれの国といふ
ことを記せす
本草綱目云。醴泉味如醴故可以養
老飲レ之令二人多壽一白虎通ニ云醴泉ハ者状如一醴酒一
可二以奏レ老庚穆之相州記云君山上有二美酒数
斗一広川書跋云ノ醴泉銘云ノ京師醴泉飲者痼
病皆愈又云其味若レ醴東観記云漢光武帝
中元元年醴泉出二京師飲レ之ヲ者ノ痼疾皆除又晋
一武帝泰始八年河州醴泉涌出飲レ之ヲ不レ老
此外
醴泉
の事諸書に載たり。然共西川氏か
などあれば養老の酒泉
怪異弁断にある故。これを略す
のみにはあらず
摂津風土記云有馬
同諸国温湯。摂津国有馬
郡塩原山にあり
大和国
一同十八谷堀十四
勢陽雑記云一志郡七栗郷にあり伊勢
一十津河。伊勢国七栗
名所某にもあり枕草子七くりの湯とある
是な
るか
紀伊地志云牟婁郡瀬戸庄
紀伊国走湯
湯崎村白良浜にあり
同国湯峯
同云本宮庄本宮
村西廿五町湯峯村
同田辺湯崎地志同竜神同書同二
伊予風土記云
一河同書伊豫国道後
湯郡道後
播磨国明石
集
後拾遺
但馬国城崎
増鏡云安嘉門院但馬
甲斐国嶋湯。長門国
城崎の出湯召に下せ給ふ
俵山。相模国塔澤。同湯本。同気賀。同宮下。同
一底倉。同堂嶋。同芦野。伊豆ノ国熱海。同走湯山。
同伊東。同松原。美作ノ国湯ノ江。
異に湯
原
□□□□□□□□
信濃ノ国七
湊
清少納言
枕草子
或云浅間にはあら
同草津。同浦野。同浅間。
す松本邦なり
出雲。国三澤。同染仁川。同玉造。同牛尾。能登
国ノ湖中。加賀国山中開湯涌。同於宇曽。下野国
伊賀保。同国日光。同峯上。同奈須。同塩原。同中
常陸国誌云久志郡
禅師。常陸国袋田
月折山下袋田邑
越後国関山
越中国大牧同山田。陸奥国岩城同名取同玉
造
大和
同鳴子同鎌崎同青根同磐梯
物語
会津風
土記曰
会津
郡
同東岳
同書
同熱塩
同書曰
耶麻郡
同書大
同砂子原
沼郡
ユ
同湯本
同書曰門田ノ
庄黒川江
同湯原
同書曰湯原卿
長江ノ庄
同湯波
同書曰
立岩郷
同湯入
同書云
同所
筑前国湯町
筑前続風土記云御
笠那湯町温泉四郷
あり武蔵野と塔
薩摩国安楽。肥前国塚崎同嶋原
原村に属せり
同嬉野。肥後国阿蘇杖立。同垂玉。同意玉。同様木同
一同十八合名付扁井四
湯谷。同国芦北離来同国山鹿湯町。同平山。
豊後風土記云速見
後国赤湯
郡西北竈門山にあり
同玖倍理
同書在郡西
河因曰温湯
井伊予風土記に速見
同別府村未知処吹田温泉
玉東
某に
一湯とあるは是なるへし
吹田の温
泉とあり
八雲御
未知処豆留麻
抄
此外温泉多しと
いへども。其大概を爰に記す
補越後国臭水村の説
俗説云越後国臭水村といふ所の河水油なり。これ
はむかしある僧土人のために。加持せしより油となれ。
りといふ
今按るに。もろこしにも。漂粟手牘云流波山中
有二燃海千里一民汲レ之以代レ油光明過二乎油一ニ数倍
一秦始皇使人汎二千艘一往山中一ニ一船人不レ知二水性一夜
以レ燭投二水中一火大発遍レ海悉焼火光接レ天千
里無二一人還者一自レ此臨二于海畔一汲用而巳昨夢
録云猛火油者聞レ出二於高麗之東数千里一と
あれば臭水村の油のみにはあらざるなり
補越前の国金崎の怪異の説
俗説云越前ノ国金崎には。雨ふる夜には海上に船
おほく城など見へ。乗輿の人騎馬の人浪の上に
あらはる
同同同同同同十四
今按るに。伊川先生曰の人気いまだ尽べからず
して強て死しぬれば。魂鬼帰する所なし。ある
人。夜淮上にゆくに。大勢の異体の人を見る
過てうせたり。後に問ば昔人の戦場なりといふ
これ皆非命に死し寃を呼み恨を抱ていま
だ気散ぜざる故なりとあり
朱子
語類
金崎も。古
戦場なれば。右にひとしきか。但し又海市といふ
事あり。夢溪筆談云登州海中時有二雲気
如一宮台観城蝶人物車馬冠蓋二歴々可レ見
鎌異記云益陽縣在二長沙郡界一時見長沙
城隍人馬形色一悉可二審辨一とあり。恐らくは此
たぐひならんか
一幡磐梯池の説
俗説云。磐梯の池は。いづれの所にありと知人なし
今按るに会津風土記ニ云猪苗代湖在二磐梯山
下一大同二年暴涌焉紫廻百里許会津闔郡
一鳬雁白鳥崎二蝶于此一環湖数十浦浸二会津邪
麻安積三郡一ヲ可下與近之琵琶湖一茲称二者也相伝
三番三謡磐梯池是也湖中ニ有二翁嶋一有二翁神
一社一とあるを考へ知へし
同長谷兌付扁七口
補豊後国沈堕瀑の説
俗説云豊後国沈堕瀑を他国に知人稀なり
一今按るに沈堕ノ瀑ノ記ニ云。豊後ノ国大野郡ニ有レ瀑號二沈
堕レ堕レ傍有二兩淵一曰二男渕一曰二ノ淵二即男瀑女瀑ノ之所二流積二
也。土人伝へて日本第一の瀑也と称す。近衛信尹公
此滝を御覧有て〽布引を廿ばかりはかさぬともふも
大友興
とにならめ豊国のたきと読給へり
廃記
これをもつて察
和二法橋
べし石川丈山詩二首は
正允韻一
峯巒一派掛二長割
一乱濡散漫煙霧中。歎自二銀河波底一出。白竜倒
下碧雲宮○練傑巌涯不レ測レ洞驚湍急硫眼
如レ眩。高源漲落飛二氷雪一。萬馬千雷吼二砲澗川一。廿二
見覆将画
總集
杏菴堀正意有二詩二首一
和二法橋
正元韻一
飛流如レ雪
又如レ虹。人骨清冷一望中。高直朋々奇絶処。
疑素練落二天宮○飛瀑落来沈堕澗。澗深巖
嶮忽為レ眩。古今此処號二男女一。盟久千年山與レ川
と見えたり
風流島は豊後国にありといふ説
俗説云風流島は。豊後の海中にあり。河尻河港なり
俗裸島といふ
今按るに豊後ノ国に。風流島なし。肥後ノ国宇土郡
同同月一日寅谷谷付痛汁四
にあり。清少納言枕草子に。嶋はたはれ島と
あるは是なり。裸嶋ともいふ。伊勢物語抄云た
はれ島をよそより見れば浪のよせかへるが
白ぎぬのやうに見ゆれども近くよりてみれば
真実のきぬにはあらず。浪のぬれぎぬをきて
あるなりとあり玄蘓西堂題二裸嶋一詩。仙巣
稿にあり。後撰。夫木。松葉。小名歌等の諸某
風流嶋をよめるうたあり
菊池佐々伝記附録に
悉栽る故に爰に略す
あ
はせ考へて。俗説のあやまりを知べし
囲長門ノ国に水中に音楽の音あるといふ説
俗説云長門ノ国阿武郡渡河に。雄渕雌渕とてあり。
ふかさはかり難し。水中に音楽のひゞきあり
今按るにもろこしにも此たぐひあり。異花云晋
温崎至二牛渚磯一二水底有二音楽之声一水深
不レ可レ測又云乗磯山下臨清川夜半聞水中
有二弦歌之音一と。右に相同し宇宙のひろき
さま〴〵の処おほし。あやしとするにたらず
広益俗説辨附絵卅四終
第
狩
宿川
廣益俗説辨卅五
附編五人事居處
衣服宝貨書籍
画図器用
八十
廣益俗説辨附編卅五目録
○雑類人事
狩野氏図書記
《題:出陣に旗折る説
補箭文の説
補湯起請の説
《鉄漿眉さげがみの説
補妊婦着帯の説
○雑類居処
補御所といふ説
井光ることある説
神村長
豐藏書
月代言戸糸十三
○雑類衣服
○補正月衣服の説
陸魚のけふのほそ布の説
○雑類宝貨
卅一日本銭のはじめの説
書籍
○雑類
補菅家万葉集の説
画図
○雑類
《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題:《題《書《書《名《名《名《書《題《書《書《書:書:《題:書:書題の説
渡唐天神の図の説
器用
○雑類
補和琴のはじまりの説
補正平革の説
一十六月十五
広代部門紙廿ヨリ
廣益俗説辨附編卅五井澤長秀輯録
○雑類人事
補出陣に籏折る説
俗説云出陣のとき籏折ることあり。もつての外の
凶事なり。必敗軍に及ぶといふ
一今按るに。旗折るは。自然なり。吉にもあらず凶
にもあらず。斎東野語云ノ出レ師籏折武王伐レ討大
風折レ蓋。劉裕撃レ盧将レ戦而所レ執麾竿折旛
沈二於水一。衆成懼。帝悦曰。昔覆舟之役亦如レ此。
勝必矣。乃大破二循軍一。哥舒曜討二李希烈帝
広代記部
祖於通化門一。是日牙竿折。時以曜父翰昔出レ命
有レ此而敗二甚憂レ之而曜竟収二汝州一擒二周晃一とあ
り考知べし
補箭文の説
俗間印行の軍記に。矢文を射たる事おほく見え
たり
今按なに。本朝のみにかぎらず。もろこしにも
あり。通鑑綱目云。梁羊侃誰称レ得二射書一云郡
陵王西昌侯援兵已至二近路一又云ノ侯景射書啓
於城中一とある類なり
補湯起請の説
俗説云湯起請。鉄火を取こと。いつのころより。始る
といふ事をしらず
今梅るに。神代にはじまるにはあらず。国史に見え
たるは。允恭天皇を始とす。日本紀云。允恭天皇沐
浴斉戒各服レ神探湯各著二木綿手統一赴一赴レ釜探
湯得レ実者自全。不レ得レ実者皆傷。注曰垽納レ金
煮沸攘レ手探一湯涎二或ノ焼二斧火色一置一置二干掌一天
書
曰立檀請神設盟釜○弘仁私記云坐甘橿ノ
此事をもろ
令探二熱湯一定二真偽一大和国高市郡ニ在金是也
こしにも聞伝えけるにや。夷俗考云倭国訊レ獄
一広は合は丸付扁十五丁
置二小石於沸湯一令二背レ法者探レ之云二理曲一と記し
たり
囲鉄漿をつけ眉をつくり。さげがみをなす説
俗説云。鉄漿をつけ。眉をつくり。さげ髪をなすこと。
聖徳太子よりはじまる
今按るに。日本紀神功皇后のとき。美女脈の如し
とあれは眉をつくり鉄漿をつくること上古より
有と見えたり
貝原好
古説
もろこしにも。これを聞伝
えけるり。両朝平壊録論二日本風俗一曰官家子
姓皆以二鏤鉄。水一浸二格子未一染レ弟与二民家一以二黒白
海人藤芥云鳥羽院御代以前は。男は眉毛をぬき。鬚
分貴賤
をはさみかねをつくる事一切無之及末代一に毎度矯飾
て至
也
也
也
歯を染る事歯黒ノ図式
女子ハ不レ分二良賤染レ身始嫁。
に其法くはしゝ見えたり
大内にては。ふし水といへり。もろこしにも歯を思くするものあり。交趾
東京は。男女ともに。歯を黒くし。男は小き月額をそるものあり。増補通
商考に
見えたり
眉のつくりやう。十品あり。詳に眉図式に見え
図にあらざれば
たり
もろこしにも眉のつくりやう十品
不明故に略す
あり粧台記云。五代宮中畵レ眉一曰開元御愛
眉。二曰小山眉。三曰五岳眉。四曰三峰眉。五ニ曰
垂珠眉。六曰月。稜眉。又名二却月眉一ト七ニ曰分稍
眉。八曰湿烟眉。九曰拂雲眉。又名二ク横烟眉一ト十ニ曰ク
倒暈眉。とあり。又戒菴謾筆云倭国婦人不レ裹
一広谷説付扁井五
広覧計計記州
これさげ
卓氏藻林云美人頭
一レ足髪長散披在後
がみなり
髻名二頭上倭堕髻一中華古今注云。倭堕髻隋土
馬之余形也
異称日本伝松下見林
云是さげがみなり
日本紀云。天武天皇
此とき始て髪を
十二年六月丁卯男女始結髪
結はじめしなり
とあり
各考知べし
右謾筆に倭国婦人不レ裹レ足とあるは上古は足袋
なき事をいへり足袋をはたとは光明皇后の時より始る
と泉州志。女中道
指南に起けり
補懐妊のとき着帯の説
俗説云。日本にては。妊婦帯をすることあり。これを五月
帯と名づく。もろこしにはなき事なり
今按るにもろこしにもあり。婦人産帯記云。初受
胎之婦。尤艱二於慣レ胎者。因二産戸未レ広必四五箇月
前後用二軟絹一或帛襴七八寸。自レ背纏至レ腹以二針線一
縫如二兜肚様一。昼夜不レ解偶胎長大覚胸中有二ヲ気
急状一方可レ放レ線三分或ハ五分不レ可レヲ満レ寸漸以調レ之
則肌肉有レ所二束縛一不使二胎長極一。大便二於産一也此
方不二特宜于初胎者一雖レ慣レ慣レ慣レ胎亦可
呉竹集云。ある
人心ぐるしき月
をこそまてといふ句に。人しれずはだえにむすふいはた帯とつけり。
肥後土俗の伝説云益城郡木山の城主木山左近太輔惟久入道紹
宅上洛して北野笠著連哥に心くるゝき月をこそまてといふ句に
沼宅人しれす膚にむすふ織帯と付銀巴に賞歎せられしより世うぞ
つて纈帯の紹定とよぶといへり
つとあり考え知へし
呉竹某にあるも銀宅か句を用か
○雑類居処
同十月十一日同
御所といふ説
俗説に武家をも。御所といふものあり
一今按るに女官考云仙洞摂家は。我君御所など
の号あるべし大臣家などなりとも。御所号有
べからずこゝろあるべしとあり。況や其以下をや
闘井ひかることある説
俗説に時として。井光ることあり。あるひは吉といひ。
凶といふ
今按るに。王梅溪文集云。予家之東南有レ井
覆以レ屋其水清而甘冬温而夏寒雖二大旱水
一僅盈レ尺。而泉脉不レ枯井方不レ及レ丈紹興庚午季夏
之夕僕夫汲而以二井有レ光告レ予往視レ之隠々焚々
如レ燈如レ螢如二光芒之星一不レ知二其果何物一也意者魚
鼈之族其鱗甲文理晦二於晝一而粲二於夜一ニ而或
一蜂之腹産二明殊一以自照耶其在二物理一或ハ之有也
惑者好レ語レ悟レ恠匪レ之ヲ則祥レ之ヲ矣予故以二物理一弁
一レへとあり。これ偶然の事にして。吉凶にあづから
ざる事を知べし
○雑類衣服
○正月衣服の説
広谷総付扁十三
俗間。正月は貴賤ともに。分にしたがひて。あたらしき
衣服を着して祝ふ。これを正月衣服といふ。もろこし
にはなきことなり
今按るに。もろこしにもあり。東京夢華録云。小民
雖二貪者一亦須二新潔衣服一把酒相酬爾と見えたり
一附日用雑字に衣服の染色を記せり訓を加へて童蒙に便す
○大紅○官録○翠藍○葱白○石青○真青○蚕黄○月白
○桃紅○金黄○黄色○皀色○玄色○黄褐色○
○沈香色○竹根色此訓あたらんや否也
圖陸奥のけふのほそ布の説
俗説に。みちのゝのけふのほそ布といひて出奥多し
かならず
今按るに会津風土記云。細布出二伊北郷二後拾遺
集。能因歌。仁志幾々波多天奈賀羅古曽久知爾
計礼計不農保曽奴乃武念阿波之登也。伏見帝
御製與登々毛爾武念阿比賀太起和賀古比農
多具比毛志羅奴計不農保曽奴のとあるを知べし
○雑類宝貨
日本銭のはじめの説
俗説云。日本に銭あることは和銅元年よりはじまる
今按るに。日本に銭ある事。天武天皇の御宇
よりあり。日本紀云。天武天皇十二年四月戊午
同十一月十一黄谷名付扁竹五
朔壬申詔曰。自レ今。以後必用二銅銭一莫レ用二銀銭一
銭の国史に見え
一類聚国史云。持統天皇。八年三月二日。
たかはじめなり
以直広肆大宅麻呂勤大貮。臺忌寸八嶋黄書
連本貫等一ヲ拝二鑄錢司一
此とき銭の
銭文しれす
続日本紀云和銅
元年正月乙巳武蔵国秩父郡献二和銅一改二慶雲五
年一ヲ而而為二和銅元年一同二年甲戌始置二催錢司一同
年五月壬寅始行一銀銭一同七月丙辰令二近江国
是レ和同開
鑄錢同八月已巳始行二銅銭一
珍なるへし
同月乙酉
一廃二銀銭一一行二銅銭一同三年正月丙寅太宰府献二
銅銭一同戊寅播磨国献二銅銭二養老五年正月
丙子令二天下百姓一以二銀銭一ヲ當二銅鉄二十五一ニ以二銀一
兩一當一百鐵行用之天平二年三月丁酉周防國
熊毛郡牛嶋西汀吉穀郡達理山所レ出銅以充二
長門鑄銭天平宝字四年三月丁丑勅錢宜造
新様一與レ舊並行二其新錢文曰二萬年通宝一ト以一當
旧銭之十上
一拾芥抄云万年通宝
天平宝字四年
銀銭文曰大平元宝
一拾芥抄云大平元宝
以レ一當二新錢之十一
一天平宝字四年
金銭文曰開基
拾芥抄云開基勝室
勝宝以レ一。当二銀銭之十一
天平宝字四年
天平神護
センヲモンニクシン
元年九月丁酉更鋳二新銭一文曰神功開宝與二前
新銭並行二於世一
泉志云。神功開珍。延暦
中鋳忠ハ非リ珍当作宝二
日本後紀云弘
同広谷名付扁竹口
仁九年十一月辛巳朔改銭文曰冨壽神宝続讀
一本後紀云嘉祥元年九月己亥令レ鋳二新銭一又曰ク
長年大宝拾芥抄云。隆平永宝一
延喜十五年
十一月八日
承和
昌宝
承和二年
二月五日
饒益神宝
貞和元年
四月廿八日
貞観永宝
貞観
十二
年五
月〇〇
寛平大宝
寛平二年
五月〇〇
延喜通宝
延喜七年
十一月三日
ケン
乾元大
宝
天徳二年
三月廿五日
泉忠云日本国銭四品並径寸重五銖
珍当
其文隷書一ニ曰和銅開珍。二曰神功開珍。
杵屋
三
一曰万年通宝四曰隆平永宝呉寧野小窓別記
云。日本国。和同銭。神功銭。万年銭。隆平銭。乾文
銭。国朝会要云其国用二ニ銅銭一。曰乾文宝。
大室二
当作乾元
山崎垂加翁ノ曰神功銭称德御宇鑄レ之。承和銭仁明
御宇鋳之。饒益貞観二錢清和御宇鋳之。寛平錢
宇多ノ御宇鋳レ之。隆平延喜ノ二銭醍醐御宇鋳レ之。乾
文銭ノ村上ノ御宇鋳レ之ヲ
改元考○扶桑略記云一條院永延元
年三月一日癸亥十六日戊寅右
大臣以下呑伏座定申ス賀茂ノ上社ノ称宜賀茂在実於二社頭鳥居ノ側一ニ
堀古銭七百八十二文献二公家其文有」三和問開珍万年通宝神功
開宝召神祇官陰陽寮令占下之
可二通用一否ノ事又令二諸道ノ勘一申之一ヲ一ヲ一ヲ
旧記云慶長十五年九
月十日捨永樂通宝錢京錢京錢京錢
銭也又云寛永十二年七月始鋳二寛永通宝ノ新銭一
山崎垂加翁云古銭之流二落於世間一形弊文滅完
一全者尠矣今行寛永通宝體質堅厚輪郭周
同同同同同同断同
改元
是等を考
考
正孔頭所レ謂不レ惜レ銅不レ愛レ工者也
知へし
○雑類書籍
補菅家万葉集の説附諸書
俗間印行書に。新撰菊葉集といふあり。菅家の
作なりこの故に藤家薬葉集とも云
林春斎翁ノ曰ク菅家万葉集筆力句法柔弱
羅山
営一覧して曰く先輩す
にして捨し先考
翁
でにうたがふ菅公の作にあらじと。今熟覧する
ときは決してそれ偽作なり又云上巻は其
辞つたなしといへども顔声たがはさるもの多し
其中たま〳〵韻声あはざるものあり下巻は韻声あ
はざるもの多して。あふもの十か一つなりとあり。是
をもつて実作にあらざるを知へし
一海道記羅山文集跋二鴨長明海道記ニ曰此ノ記
世称二鴨長明所レ作也按夫木抄載此記中之冨士ノ
白雲等和歌数首皆為二源光行東行之詠一然則
世之所レ称誤矣図四季物語印行する書は後人
の擬作なり。正本あり。写て伝レ之図宇治物語
一名今ハ
昔ル物語
深隆国所レ輯なり。其遺れるを拾て。記
同同断所所断断同
せる書を宇治拾遺と号す然に拾遺は既に印
行し。今。昔レば。いまだ印行せず。この故に世ノ人拾遺
のみを宇治物語と覚ゆ国西明寺人国記○
重編応仁記云佐々
木高頼一男近江
和論語○江源武鑑各偽書なり
守氏保。永正十五年七月九日卒去。其弟弾正少弼定頼。家督を残る
其子大膳大夫義賢入道承損にいたる。氏綱子孫なき事。古記に明白
なり。然るに近江の国堅田ノ士氏ノ子。佐々木の季なりといつはり。少しかたを
しれるまゝに。江源武鑑。大原園。倭話。浅井日記。勢陽軍記などを
記し。其中に。己が先祖。又は己が名を。末に書加へたり。住すべからすとあり。
これによつて考に。信長記。新撰信長記。信長譜。惣見記。室町日記永禄
記。豊後家護太閤記。新撰巻長臣記。江北記。浅井三代記等の諸実録
に。佐々木義実を我秀。義卿なとが事。かつてなし。重編応仁記の説
いよ〳〵信するにたれり。是のみにあらず。近年太平記の号をかりて。記
したるものゝ類十に九つは偽書なり。あるひは義経曽我通俗軍記篇
の妄作あげてかそへかたし。予が和書考に。実禄
のみをあげて偽書を省けりあはせ考ふべし
○雑類画図
一図彙一図彙図の説
俗間にある素盞烏尊の図を見るに。あるひは美面
にして髭なきもあり或は鍾馗のごとくなるもあり
今按るに垂加艸云。熱田氏舎粘二素尊像一而誤
謂二之鍾馗一矣これは。簾蓋云ノ天云ノ天竺吉祥天王舎城
王を商貴帝と号す。娑婆界にくだつて。牛頭天
王と云とあり。牛頭天王は素盞烏尊なり。神代の
巻に素盞烏尊。八束の鬚生たりとあり。商貴
と鐘馗と同音なる故旁混同して画と見えたり
同百六十一日同十一日
一補渡唐天神の図の説
俗間渡唐の天神といふ図あり。其像頭に帽子を
かぶり梅花をもてり
或人云。渡唐の天神とて。帽子をかぶり梅花をも
てるかたちを尽くは菅丞相にはあらず林和靖
の図なり
○雑類四四用
図和琴のはじまりの説
俗説云。和琴は神功皇后のときにはしまる
一今梅るに非なり。和琴は神代よりあり。鎮座本紀
云。天細女命採二天香山竹一其節間彫二風穴一通二和
気
福
今世號
亦天香弓並叩レ絃
今世謂
和琴一
これ笛和琴
のはじめなり。もろこしにも聞つたえけるにや。文
一献通考に。倭国其楽有二五絃琴笛一と記したり
一補正平刀ノ説
俗説云。正平革は正平年中に。平将門追討のとき
討手の大将製りたりといふ
今按るに非なり。肥後。国八代郡にいにしへより
天平革の板。正平革の板ありて。今につたはれり。
尤絶品なり。天平革の板は。中に天平十二年八
寅年九日寅谷先付扁十五
月とありて。不動の像及八幡二字并に梵字等
あり。しかれ共神号仏形ある故に商賞を忌はじかり
しを。征西将軍懐良親王八代郡高田にまし〳〵
ける時。南朝正平年中に。別板を彫しめられ。商
買たやすくなれり。是よりして御ゆるしをうけ
たりとて正平御免革と称す。此板は。中に正平
六年六月一日とあり。他国にをいて。正平革と名
けて染出すといへども。右の革に似たるものなし。
就中天平革ことにすぐれたり
廣益俗説辨附編卅五終
第
狩猟
廣益俗説辨卅六
附編六
畜獣禽鳥龍魚
蟲介草木
廣益俗説辨附編卅六目録
畜獣
狩野氏図書記
○雑類○蕃類
神村長
豊蔵書
圖五性にあはせて馬毛旋毛をゑらぶ説
一補馬の四白の説
補猿を厩に置説
○雑類禽鳥
圖都鳥の説
《題:題白き烏の説
補鳥室にいる説
○雑類龍魚
廣谷兌付扁廿六
圖鯨鯛鯉鯽鯉鯽参の説
○雑類蟲介
一圖蚊さがればよろこびありといふ説
一補蛇に足なしといふ説
補蟹蛇をころす説
補蚕食の始の説
○雑類草木
補燕子花を。かきつばたと訓説
補莨菪を。たばことよむ説
補白梅を。むめぼしと訓説
《題:もろこしにも桜ありと云説
《振崎一松の説
一広谷兌付扁井六
一月十一月十一日
廣益俗説辨附編卅六井澤長秀輯録
○雑類香獣
闘五性にあはせて馬毛旋毛をゑらふ説
俗間。馬をもとむるに。いづれの毛は。性にあひ。或はあは
ずといひ。かくのごとき旋毛あるは。主人に難ありなど
いふものあり
今按るに此説つたなくあさましき事なり用る
事なかるへし。碧雲瑕。聞見後録並曰。碧雲瑕ハ
厩馬也荘憲太后臨レ朝以賜二荊王一王悪二其旋毛一
一太后知レ之曰ク旋毛能害レ人耶吾不レ信留備二上聞
同三月一日午後十一日
十月代書付十一日
為御馬第一
獣経云。旋り毛在
とあり婦人だに志ある
胸ニ者ハ名ハ名二宜ノ乗ト一
は用ず。況や丈夫として。彼にしかざらんや
補馬の四白の説
俗間。馬に四白といふあり
一今按るに。四白のみにはあらず。政事撮要云。鼻
白曰二王鼻尖一。一脚白称二白一脚一。二三足白称二二明
三明一。四足白謂二四明一鼻並白則称二五明一。とあり。
考へ知べし
異制庭訓
日踏雪
補猿を厩に置説
俗間。猿を厩に置ものあり
今按るに。稗海云。晋趙固之馬病。郭瑾見レ之曰。
使二探猴相二馴之一。病可レ愈云。於レ是随二璞之言果馬ノ
病愈矣。此説にもとづけるのみ。しかれども妄作
なり。信ずることなかれ
○鶏類禽鳥
都鳥の説
俗説云。都鳥は武蔵国隅田河ならではなし。業平
の詠によつて名高し
今按るに。見やこ鳥は。武蔵国のみにあらず。諸
国にあり。八雲抄に。みやこ鳥は。すみだ川ならで。
京近き河にもありと見えたり。後拾遺集に和泉に
くだり侍りけるに。都鳥のほのかになきければ。よみ侍
ける和泉式部〽こととはゞありのまに〳〵みやこ鳥
みやこのことをわれにきかせよ
家集に
も見ゆ
古今著聞集
少将内侍の歌〽春にあふこゝろは花のみやことり
のどけき御代のことやとはまし。十六夜日記云。
すみだ川にこそありと聞しかと。都鳥といふ鳥の。
はしとあしとあかきは。此うらにも有けりは
いふ
相模を
阿仏〽ことゝはむはしとあしとはあかざりしわが
すむかたのみやこ鳥かと。是等を考知へし
頭白き烏の説
俗説云。もろこしの燕丹。孝あるによつて。頭白き烏
出たりこの故に。日本にはかつてなし
今按るに。日本には。頭白き烏も。赤烏も。白烏
もあり。増基熊野紀行云。頭白き烏を見て〽山
がらす頭もしろくなりにけり。我かへるべき時や
来ぬらん。筑後国には頭白き烏甚だ多しとい
へり。日本紀。云。天武天皇七年筑紫太宰府
献二赤烏一。続日本紀ニ云。文武天皇二年七月丁酉
下野国献二赤烏一ツ一。同書云。天平五年正月庚子越
前ノ国献二ス白キ烏一ヲ又云宝亀四年九月丁亥常陸国
献二白烏一。日本後紀ニ云延暦十三年五月乙未甲斐
国ヨリ献二ス白烏一と見えたり考へ知べし
補鳥室にいる説
俗説云鳥人の室にいれば。さいはゐありといひ。又は
わざはゐありともいふ
今按るに。日本紀云。仁徳天皇うまれ給へる日。木
一兜産殿にいり。武内宿祢の子うまるゝとき。鶏
一鶴産屋にいれり。応神天皇のたまはく。朕子と
大臣の子と。同日ともに産す。兼て瑞あり。天の
表なり。其鳥の名をとり。相易てつけむとて。皇
子を大鷦鵲と名づけまいらせ。大臣の子を。木兎
宿祢と名らるとあり。異苑云。任城。魏肇之初有
霍飛入二其手一台者以為二封爵之祥一とあり是等は
一祥とせり。楚辞には。勝鳥賊をつくりて。凶とせり。
しかれども人倫だも吉凶を未然にさとさず。禽
鳥いかでか知べけんや
○雑類龍魚
圖鯨鯛鯉鮫鰐乾海参の説
俗間字をあやまり。音訓をあやまり。もろこしに候
ものを有と覚ゆることあり。右の字等なり
今按るに。鯨魚をくじらと唱ふるは訓にあらず。
鯨魚剤。いなさ。万葉集に見えたり壱岐風土記云
鯨伏在二リ郡ノ西一ニ昔日鯖レ鰐追レ鯨走来隠伏故云二鯨
伏一俗云二伊佐一三才図会云海翁典籍便覧云海
公羽
へし
音屈
支羅
とあるときは。くじらは。和訓にあらざるを知
一思ニ続博物志。云。鯨魚者大者千里。小者数千丈。雌曰」親
大者亦千里。日本所ナル謂ハ久志良者ノ志良者ノ恐別物欲
○鯛日本にあり。異邦になし。常陸国誌ニ云。大明人
同し
見テ云大明国見ざる所なりと。舜水談綺にも。又
迄喜式には平魚と書す。豊前にては。へいけといふ。是は平画
をあやまれるなるべし。日本紀には海鰤魚と書せり。土佐
日記には。きのふつりたりし鯛とあり。夫木集云。知る哥に。ゆく
春のさかひの浦の桜鯛あかぬかたみにけふやひくらん。堺鑑に堺の浦の浦の
名産桜
鯛とあり
○鱠魚を。ふかと訓も非なり。後漢書註云。鰹音善。
似レ蛇長者不レ過二三尺一黄地黒文これをもつて思へば
ふかにはあらず。伊豆国熱海浦にをいて。漢人魚を
つるに。海蛇といふものを。多く釣ことあり。毒あり
とて食ず。浜にすつ。よく蛇に似て。黄色に黒斑
あり。膾魚は。海蛇なるべし
○鰕魚を。さけと訓も非なり。焦氏筆乗云。難
魚巴郷村側有レ渓多二霊壽木一水中有レ魚曰二鰍
魚二其頭似レ羊豊肉少骨とあり。別物なり
○鰐魚を。やつめうなぎと訓も非なり。後漢書云
鮮魚長サ二三丈と。別物なり
○乾海参を。いりこと唱ふるは。訓にあらず。典籍便
覧云乾海参音依里哥とあるを。考へ知べし
○雑類蟲介
蛔虫蜘さがればよろこびありといふ説
俗間。家内に蜘さがれば。婦女よろこびありとていはふ
今按るにいにしへより此事をいひ伝えたると見
えて。衣通姫の哥に〽わがせこがくべきよゐなり
さゝがにのくものふるまひかねてしるしも
日本
紀
毛詩陸
疏広要云。蟠蛸亦名二ノ長牌一此蟲来著二人衣一当レ有二親
客一置レ有レ喜也注云荊州河内之人謂二之喜母一陸賈曰ク
事文類聚詩学大成
蜘蛛集百事喜
とあり。是児女
西京雑記所載亦同シ、
の戯談なり論ずるにたらず
一囲蛇に足なしといふ説
俗説に云。もろこし我朝ともに蛇に足なしと伝えたり
一今按るに。百練抄言保安三年五月十四日故二品
親王白川堂前庭有レ足蛇出来為レ大破二喰殺一と
あり。有レ足蛇も有と見えたり。記して博識に備ふ
一広谷説付扁十一、
補蟹蛇をころす説
俗説云。むかし山城国の小‾女わらはべの蟹をころさんと
しけるをこひうけてはなてり。後に故ありて。蛇来て
小女が居ける家をまとゐ。あやうかりしに。蟹来て蛇を
はさみころしたりといふ
度会延経神事随筆云綺原山城国相楽郡に
加無
あり。倭名類聚鈔蟹旙
波多
と記す。又蟹満とも
書す。此所に健伊那太比売神社あり。此故に好事
一者。素盞烏尊八俣大蛇を斬給へることに準へ
蟹の蛇を殺せしことを作りしならん
一麺蚕食の始の説
俗説云。欽明天皇の御宇。天竺旧仲国霖夷大王の
女子を金色女といふ継母にくみて。うつほぶねにのせて
ながすに。日本常陸国豊良漆につく。所の漢人ひろ
いたすけしに。程なく姫病死し其霊化して釐些と
なる是日本にて蠶食の始なり
今按るに。此説は蜀方志代酔編披神記等載馬
頭娘が事を。日本の事とせるものなり
馬頭娘が事。
印本の恠
談全書にある故。略レ之養」艶法は黄者曽を
日本紀云雄略
盤経にくはしく見えたりおの〳〵あはせ見るへし
天皇命二螺蝋一聚二国内ノ蚕一続日本紀云。和銅七年
仮名先付畠廿七
二月辛丑始令二出羽国養レ盤と見日本に望あつ
て養るのはじめなり俗説用ることなかれ
○雑類草木
圖燕子花を。かきつはたと訓説
一書云杜若を。かきつばたと訓は非なり。杜若は香草
なり燕子花と書て。かきつばたと訓べし
今枯るに渓蠻叢笑云燕子花全類二燕子一生二於
藤数葩とあれば。かきつばたにあらざるを知べし
圃莨菪を。たばことよむ説
俗間。莨蓉と書てたばことよむ
一今按るに。葭砦は葭砦か。西渓叢話。云仏経頌云ノ
一藻岩檜花針本草云薬性論云蔭若熱有二大毒
能瀉とあれば今のへばことは別なり。又たばこは。
和訓にあらず。蓮渓類説云淡婆姑。潭州府志云
淡芭菰。花鏡云淡把姑と。あるを知べし。又たばこ
の字多し。本草洞釜云烟草又云相思草。行厨
一集篭。花鏡云烟花。又云檐不帰。又云反魂烟。
芝峰類説云南霊草。本草紀原云煙酒。花鏡。花
云金絲烟。格物志云烟葉。願休集云気烟餘燼。
格物志云煙管。又云烟箱。又云烟吹。又云芬吹。又
長谷花付流廿一、
云烟盤。又云芬。盤。又云烟盒。又云煙袋などみえたり。
常陸国誌云。煙草近世出レ自二海外諸蛮一流二布天
下
烟草慶長四
一年渡於日本一
大明人號二煙草一朝鮮人曰煙酒一一
云。南京ニテハ。烟ト云。
海外諸蛮曰二佗波古一とあり。考へ
朝鮮にてハ南草ト云
知へし
囲白梅を。むめほしと訓説
一書云。もろこしの書に。白梅とあるはしろきむめ
にはあらず日本のむめぼしなり
今按るに。白梅とあるは。しろきむめをもいひ。
むめぼしをもいへり。斉民要術云。作二白梅一法。梅ノ
子酸核初成時摘取夜以鹽汁漬之晝則日
一曝と。是むめぼしなり。歴代詩家。載邊華泉詩
云青柳白梅俱有レ眼と。是しろきむめを賦せ
り。一偏に心得べからず
もろこしにも桜ありといふ説
ある書生云。もろこしにも。桜ありと見えて。往々
詩に賦せり
今按るに。桜は日本のみにありて。もろこしには
なし。此故に。舜水朱氏談綺に。唐山に桜なしと
いへり。文選沈休文が発二定山一詩云。山櫻發發欲レ然。
其注云山櫻果木名。花朱色如二火ノ欲レ然也とあ
り。是は木瓜の花のごとくなるものにて。日本の
桜とは別なりと見えたり。鎮座傳記鎮座本縁
一類聚神祇本源云。朝熊神社六座桜大刀神二
一座。霊花木座也。大八洲桜樹始天降居焉。以
為花開姫命也。一座大山祇神雙座也。是日
本桜のはじめなり。すべて我朝にては。桜を名け
て花とよぶもろこしにて。牡丹を花といふかご
とし
邵氏聞見後録云。洛中花多
種而独名二牡丹一ヲ一ヲ一ヲ目レ花トと是なり
考しるべし
藤原明衡
往来真斎
田ノ素桜可二賞翫一也とあれは一条院
のころまでは桜まれなりしと見えたり
・
一唐崎一松の説
一書云。近江国唐崎の一つ松は古より一本なるゆへ
なりある人の発句に〽さびしとてそへてなうゑそ
一つ松とあり
今按るに。一書云。近江琵琶湖唐崎
日本後紀に
作二可楽崎一
松一
株なり。松の葉一鬣の故なり。この故に一つ松と
名く。本草にも松に二計三計五針の葉あり。
日本寄
といひて。一針をのせず。もつとも奇なり。
跡考云。
崎一ツ松は。一本といふの謂にあらず。
唐崎松記云天智天
此松は一茎に葉ひとつあるがゆへなり
皇御宇に。栽る所なり。天正九年の大風にあふて。
同同同同同同十
松倒れしかば。新庄直頼といふ人。ふりよき松を
うゑつがしむ。其ころの人のうたに〽おのづからち
とせもふべしからさきの松にひかるゝみそぎ
なりせばとよめり。かた〳〵考知へし
廣益俗説辨附編卅六終
狩酒
第一
廣益俗説辨卅七。
附編七
言語雑類
廣益俗説辨附編卅七目録
言語
○鶏類
倒語の説
狩野氏図書記
○雑類
圖日本所産出二千異邦書一者説
○雑類
補同名異人の説
○雑類
補異僻姓名説
○雑類
一同所同所十十一
神村長
豊蔵書
㊃同歌別作者の説
補或問
補書簡
井澤長秀輯録
○雑類言語
補倒語の説
俗間たはふれにさかことくいふ事あり
今按るに。はかりことに用。たる事なり日本紀云。
神日本磐余彦天皇草二創天業一之日大伴氏
遠祖道臣命師二来目部奉承密策二承密策一能以調歌
倒語一とあり。是其出処也
○雑類
晡日本ニ所レ産。出二干異邦ノ書一ニ者ノ説
廣忱謹阿部丹波
俗間。日本に産するもの。もろこしにわたるものなしと云
今こゝろみに。日本の所産。異邦の書に出たるもの
を。抄出して左に記す。次第に拘ず。探索に任
するのみ
其拳帛
衣服杜子美詩集云。瑞錦送麒麟一。注日本麒麟麟錦
○義梵六帖云。大倭國貢二神錦一龍文風彩殆非二人
工一○山海経云。東海ニ有二冰蚕一其璽。五色。織為二文錦
京東ノ洞院二条にをいて。倭錦を織。五色の絲を染て。織なす。
其文章蜀錦のごとし。これを倭錦といひ。文錦と名づく
○李大
白詩集ニ云。身著二日本ノ裘一昂藏出二風塵一注云裘朝
朝卿は。晁卿なるべし
卿所レ贈。日本布為レ之
阿部仲麿なり
扇皇朝類苑云。日本扇熈寧末余見二日本扇一。
漆柄以二鵄青紙一如二餅撰一為二風平遠
山水一ノ薄伝以二五彩一近岸為二寒葦衰蓼鴎驚湾
立一景物如二八九月間一艤二小舟一漁人披レ簑鈎二其上天
一末有微雲飛鳥之状一意思深遠筆勢精妙中
国差図者或不レ能也索レ価絶高余時苦貧無二
以置レ之毎以為レ恨再訪二都市一不二復有一矣○画
継云ノ倭扇以二松板両指許一砌畳亦如二摺畳扇一者
其柄以二銅歴錢瑞子一黄絲紙甚甚甚甚妙。上蜀
画一山川人物松竹花草一ヲ亦可レ喜○図画見聞志
広化訓以紙廿七
云高麗人毎レ至二中國一或用二摺畳扇一其扇用二鶴青
一紙一為レ之上書二本国豪貴一雑以二婦人鞍馬蓮荷花木
水禽之類一以二銀湿一為二雲気月色之状一極可レ愛謂二
之倭扇一本出於倭國一也○癸辛雜識云倭扇用二
倭紙一為レ之以二彫木一為レ骨作二金銀花草一為レ飾
剪刀洞天清録云倭製摺畳剪刀古所未レ有有
則実レ之後世必有二好尚之者一
「琥珀碼礦〗舊唐書云永徴五年十二月癸丑倭國
獻琥珀瑪瑙琥珀大如斜碼瑙大如五卦器一
日本
紀云
朱鳥元年春正月摂津
国人百新興献二白馬一
図ヲ
神宮雑事記云長元七年
青玉藝文類聚云青玉出倭国
八月廿八日太神宮御前松
樹松子ノ中有リ二
碧玉一丸一
如意宝珠隋書云倭国有二阿蘇山一有二如意宝珠一其色青
大如二鶏卯夜則有レ光魚眼晴也
水晶本草綱目云倭国多レ水精一第一〇居家必
用云水晶倭者上品○雷青日記云日本有青水
晶紅水晶
出雲風土記云意宇郡長江山出ニ出ス水精ヲ
会津風土記ニ云伊北郡水晶山ニ出ス
松皮紙〗会州四部稿選云日本国出二ク松二皮紙一○唐書
云建中元年日本国使者真人興能獻方物興能
唐竹訓ヲ計
善レ書其紙似レ蕭而澤人莫レ識
松癸辛雑識云倭人所レ居悉以二其所レ産新羅松
一為レ之即今之羅木也色白而香仰塵地板皆是也
杉本草綱目云杉木出二倭国一者謂二之倭木一○合
璧事類云杉出二倭國一者尤佳
檜義楚六帖云日本国都城南五百余里有
金峰山一有二松檜名花軟草一
栗毛詩陸疏廣要云倭國栗大如二鶏子一亦短
金桃述異記云日本国有金桃一其実重一斤
生菜魏志云倭國地温和冬夏食生菜一
鹹草本草ニ云鹹草扶桑東有二女國産二鹹草一ニ而気
香味鹹彼人食レ之○論衡云周時天下太平倭人貢二
草一
一鹹草一○文献通考云女国在二扶桑東千里一食二鹹
ある人いはく。女国は。女国は。女国は。大島なるべしといふ。伊
一豆の下田より。南にあたりて。八丈島あり。此嶋の女。甚だ美
容あり。むかしは女のみありしに。そのかみ。下河辺六郎行秀入道智定
房。此嶋へわたり。あまたの子をうみしより。男もあまたになりぬとかや。
延徳年中北条早雲の家人朝比奈氏。はじめて此嶋を知てこぎ
わたり。伊豆国のうちにきはめしより。北条氏へ毎年絹をもつて貢
とす○玉露叢云。延宝三年閏四月五日。伊豆の下田を出船して。
七日に八丈嶋へ着とあり○奇跡考云。八丈嶋は伊豆より。百里ほどひ
つじさるの方なり。あしたば草は。日本の蕪だいこんのごとくにつくり。
常に食す。これを食ふものは。疱瘡をのがる。ほひはせりのごとし○
貝原氏云。八丈嶋は。世に
いふ女護島なるべし
奥儀抄云ぞ
菊菊譜云新羅一名玉梅一名倭菊
が菊といふは
慶化諸部
黄菊なり。承和のみかどは。よろづの物。黄なる花をめで給ひて。菊も黄
なるを尽し給ひけるなり。されば承和菊とは黄なるをいふ。躬恒秘蔵
抄にも。大のごとくのせて三りに〽かの見ゆるきしべにたてる了がきくのそが
見はえだの色のてこらさとあり○菊の異名をかため草とも。まさり
ぐたともいふよし。俊頼莫伝抄に見えたり○又菊は音にして訓にあらず
聖一国師は。菊をあきしべのはなと訓り○俗書に菊に。かはゝよもぎ。
はなよもぎと訓を
つけりいぶかし
桃枝竹太平御覧云倭国有リ桃リ桃枝竹一
図画一図絵宝鑑ニ云。日本国有レ尽伝写二其国風
物山水一ヲ設レ色甚重多用二金碧一殊勝二他方一異域而
一能留二意絵事一亦可レ尚也○宣和画譜云。日本国
有レ画不レ知二姓名一伝写二其国風物山水小景設レ色
甚重多用金碧一○画史ニ云。馮永功字世勤有二テ
本一著色二山水一画上
棊子太平広記ニ云大中中ニ日本國ノ王子来朝王
子出二ク榊玉棊局冷暖玉棊子一云ノ本国之東三万
里有二集真嶋一嶋上有二凝台一
霞一
作露
台上有二手
諱池一池中出二玉子一ヲ不レ由由二制度一自然ニ黒白分明冬
一韻府群玉。杜陽雑編ニ所レ載右ニ同テ
温夏冷故謂二之冷暖玉一
○手諱池は肥後ノ国天草郡志岐
にあり。集真島は天草なるべし。本朝が如物の方言に。し岐の碁石と云は。
これなり。しかるを。近世印行の書に。手談池は。豊後佐賀関なりと
記せり。あやまれりといふべし。たゞし石ある事は。佐賀関も。天草に問
し。佐賀関記云。海部郡に白黒の浜あり。白浜には。白き碁石のみ
なり。黒浜には。黒き碁石のみなり。白黒のさかひ。縄をひけるがごとし
とあり○又伊勢国と。志摩国。両国にかけて。白黒の石あり。伊勢は一
たふし。志摩はすがしまといふ。山家某云。いせのたふしと申島には。碁石
しろのかぎり侍る浜にて。黒はひとつもまじらず。むかひのすが島と申は。
一同長八尺八合八尺
黒のかぎり侍るなり。西行〽すがじまやたうしの碁石分ケかへて黒白まぜよ
うらのはまかぜ。是等贅及ににたりといへども。筆のついでに記して。童蒙
にしら
しむ
薫炉香箋云薫爐書斎中薫衣炙手対客常
一談之具如二倭人ノ所レ製漏空単蓋漆鼓可二称賞一
龍蕊簪五雑組云呉越孫妃以レ物施二龍興寺一形如二
朽木筋一寺僧不レ知レ宝レ此有二胡人一曰ク此日本龍蕊簪
也以二万二千譜一一買レ之○癸辛雑識云倭人所レ居堕以
香記云。日本にて香を用るこ
香入其室則芬郁異常
とは。神代よりあり。長久年中
に。石公といふもの来朝して。香をもてはやしけると
あり。しかれども。神代に香ありけることは聞及ず
刀剱登檀必究云倭刀有二高下一技有二工拙一倭之一
富者不レ怯二重価一而制レ之広延二高師一李レ之其貧者
所操不過下等刀耳上等上庫刀山城国盛時尽
取二日本各嶋名匠一封二鎖庫中一不レ限二歳月一竭二其工
拙一謂二之上庫ノ刀一其間号二寧久一者更加二世代祖伝一以
此為レ上次二等備前刀以レ有二血漕一為二巧力一為二巧力一○丹鉛総
録改陽公日本刀歌
事ナガキ
ユヘニ畧ス
壓尺遵生八牋云見倭人鉄金銀圧尺古所未
レ有尺状如レ常上以レリ金ヲ鋳二雙桃銀葉一為レ釼面以二金
銀二修レ花ノ皆珠能工緻動レ色更有二一竅一透開
内蔵二抽斗一中有二刀錐鉄刀指鋏二刀指鋏二物二
耳剪刀収則一條挿開成レ剪此ノ製何起豈人心
思フ可レ到謂二ノ八面埋伏一盡二於斗中収藏非レ僂其
孰能レ之余以二此式一令二潘倣造一亦妙播能得二其
真伝耳
工杜陽雑編。学圃憲蘇並云唐穆宗時飛龍
工
衞士韓志和本和國人也善彫レ木作二鸞鶴璃之状一
是日本の飛弾ノ工なるべしといへり
飲味勃静與レ真無レ異無レ異無レ異無レ真無レ興無レ異
飛騨工の事は。正編にくはしく出たり
五穀宋史云土宜二五穀一而少レ参一
又出二干大明
統志
茶読文献通考云日本俗喜啜レ茶道傍有レ店
邀レ人啜レ茶如二漢人入二酒舘一也
硫黄本草綱目云倭硫黄佳
追考海東諸国記云日本
下野国有火井産一産ス硫黄ヲ一ヲ
続日本紀云和銅六年五
月相模信濃陸奥出硫黄
鸚鵄漢隠叢話云倭国水多陸少以小環一掛二戯鐫
日本紀云雄略天皇御宇使
項令二入レ水捕レ魚日得二百余頭一
鶴鶏浸レ水ニ捕レ魚○是日本
にて鵜をつかふの
はじめなり
此余さだめて多かるへし。追て探索して尾に附すべし
○雑類同名異人説
○雑類
十五人麻呂○一柿本ノ人麻呂
石見国の産なり。文武天皇御
宇四位に任す。聖武天皇の御宇
正七位下
一従三位木工頭なり。神亀元年
○二山口忌寸人麻呂
三月十八日於二石見国
天平勝
宝年中の人也。
続日本紀
従五位下。神護景雲
○三阿倍小殿朝臣人麻呂
年中の人也同紀
黄谷説付編廿一
○四石川人麻呂
弾正少弼○右同
年頃同紀
○五賀茂人麻呂
貞外少輔○宝亀八年
頃ノ人後斉宮頭同紀
東市正○延
○六陽侯忌す人麻呂
暦四年比人
正六位上◯承和二年
桐○七伊蘇志紀ノ人麻呂
比人日本後紀
紀
○八丈部
正八位下上毛野陸奥公
人麻呂
同時代人同紀
○九田口人丸
田口光人子
哥人孝謙天
皇比人名見女式
玉伝染秘抄
○十山田人麻呂
天武天皇町
人玉伝抄
○十一柿
本人麻呂
玉伝抄云。平城天皇御宇に。仲原清主といふ歌人。姓
名をあらためて。柿本人麻呂と称せり。〽あまとぶやか
りのつかひにいつしかもならの
○十二玉手人麻呂
みやこにことつてやらんと読し人也
陸奥介従五位
一下天平勝宝
年中の人
○十三山城史生上道人麻呂
同
書
○十四
清輔袋草子
葉葉葉葉葉栗老人麻呂
一書云。栗原人麻呂○尾張国
○十五上
葉栗郡光明寺を建立人也塩嚢抄
鎌倉志
一総景清が女子人丸
六疋人○一石川朝臣足人○二佐伯朝臣足人○三
巨曽部朝臣足人○四曽根連足人○五百済朝
一臣足人○六栗田朝臣足人
上三人は天平
勝宝比ノ
八安麻呂○一大神朝臣安麻呂○二安部朝臣安麻
呂○三高橋朝臣安麻呂○四巨勢朝臣安麻
呂○五上毛野朝臣安麻呂○六小沼田朝臣安
麻呂○七大伴朝臣安麻呂○八平郡朝臣安麻呂
十一人足○高向朝臣人足○二佐伯朝臣人足○
三県田首人足○四河内忌寸人足○五中臣
人足○六坂門人足○七堀屋人足○七堀屋人足○八縣犬
養宿祢人足○九山田連人足○十文直人足
○十一三国人足
二入鹿○一蘇我鞍作入鹿
仲大兄鎌足
に殺さる
○二和気入
桓武天皇
鹿
時人
良香が
○二桑原腹赤
父なり
○一都腹赤○一都腹赤、
中世の
騒人なり
二浄人○一弓削浄人○二道削浄人
二千里○一大伴宿祢千里○二大江朝臣千里
あまめ原ふりさけ見ればとよせし
二仲満○一安倍宿祢仲満
人なりもろこしにて晁卿と称す
三田村麻呂○一坂上田村麻呂○二河内連田村麻呂
正
正
二藤原朝臣仲満
位上三代
実録
一三黒人○一民黒人○二高市黒人○三内蔵忌寸黒人
共に文武の
二広足○一韓国連広足○二波多朝臣廣足
時の人
三相如○一高岳相如○二藤原相如
七馬養○一藤原朝臣馬養○二粟田朝臣馬養○
三小野朝臣馬養○四為奈真人馬養○五伊余
連馬養○六天忌寸馬養○七船木直馬養
四毛人○一小野朝花毛人○二阿倍朝臣毛人○三
高橋朝臣毛人○四佐伯宿祢毛人
五牛養○一石川牛養○二紀朝臣牛養○三大伴
宿祢牛養○四多治比奥人牛養○五調連牛養
四百枚○一河辺百枝○二田辺百枝○三三津百
枝○四橘百枝
十虫麻呂○一佐伯宿祢虫麻呂○二引田朝臣虫麻
呂○三路真人虫麻呂○四置始連虫麻呂○五
刑部虫麻呂○六石上虫麻呂○七川原虫麻呂○七川原虫麻呂○七川原虫麻呂
○八下毛野虫麻呂○九箭集虫麻呂○十占
部虫麻呂
九東人○一大野東人
姓氏録云。大野朝臣岡豊城入彦命四
世孫。大荒田別命之後也。大野東人討二
藤原広嗣事詳に
見二干続日本紀
御手代東人見于日本霊
○二御手代東人
異記○姓氏録云。御手代
首御中主命十世孫天諸神命之後也○大野東人とは
別なり。一書二人を混して。一人とよるゆへに。これを弁すといふ
○三河辺東
人○四大伴東人○五桶原東人○六置始直東人
○七中信東人○八道守長東人○九佐伯宿祢
東人
四古麻呂○一紀古麻呂○二調右麻呂○三伊伎
続日
古麻呂○四下毛野朝臣古麻呂城
本紀
一書ニ混二フ二人ヲ為二一
三首名○一道君首名○二安倍ノ首名
人ト大ニ訛レリ
大宰
三好古○一橘好古一
権師
○二小野好古
大宰大貮純
友追討使
○
・C
三菅原好古
二時雨○一和気時雨○二藤原時雨
哥人◯奥山に紅葉
三猿丸○一猿丸大夫
ふみ分の歌よみし人也
○二猿丸
弓削王
○聖徳
太子の孫にして
山肖王の子也
○三猿丸
続太平記二荒山縁起段に見えたり○
羅山文某には猿王とあり本朝遐史に
も猪王とあり○讃岐大日記に讃岐国野沢井つちの門
と云所にて猿霊親王大魚をころせしことを記したり
算数に達し
○二安倍清行
三清行○一三善清行
博織の人なり
配分の
時の人
○三紀清行
三致頼○一紀致頼
伯耆守
大矢野大夫
従四位下
○二平致頼
武勇人
○
三和気致頼
摂津
守
中納言因幡守
五行平一〇一在原行平
○葉平ノ兄
○二橘行平
因幡守
○因幡
堂ヲ建
立ス
○三平行平
杉原次郎
左衛門
○四平行平
杉原
六郎
○五
下河邊莊司行平
播磨国諸越産也故俗謡にも。諸越の佐国
二佐国○一大江佐国
とうたふ是なり。東見記系図等に見えたり。
掃部額従五位上也。平生出山花。逐レ年無レ厭新撰朗詠佐国
○二大
詩ニ云。六十余回者カ不レ厭他生応二定如レ花人一と此類なり
中臣祭主佐国
正五位下左京権
○一藤原俊頼○一藤原俊頼○二源俊頼
大夫◯哥人也
○二平定家
二定家
尾張守従
五位下
哥人
二家隆
○一藤原家隆
三家隆○一藤原家隆司人○二檜隈家隆内大
内大臣
五義経○一藤原義経
斉院
長官
○二源義経
九郎判官
伊予守
○
波多野
三藤原義経
○四蓑浦義経○五山本
右馬允
義経
二義仲○一源義仲
木曽
冠者
○二源義仲
二条判
官代
同廿二
賀茂次郎美濃
二義綱○一源義綱
守○頼義次男
○二源義綱
佐々木
五郎
五郎
○一藤原仲尚
但馬
権頭
○二源師尚
刑部太輔従
五位下宇多
天皇
孫
右中将従四位上。在原業平
○三高階師尚
密通斉宮恬子ニ所生子也
○四中原
師尚
太宰大弐
正四位下
二興範
二興範○一藤原興範
太宰
大弐
○二源興範
摂河守従
四位下
河内守○
三頼信
○一源頼信
○二藤原頼信○三
満仲子
源頼信
横山左
衛門
右近将監
○一藤原頼政
○一藤原頼政○一藤原頼政
康和比人
○二源頼政
従三位
兵庫頭
○一源頼家○一源頼家
筑前守従四位下
筑前守様四位
頼光ノ次男
○二源頼家
将軍頼
朝嫡男
○三清輔○一藤原清輔
帯刀
帯刀
先生
二唱○一源唱京兆○二源唱
慶慶氏
頼政臣
三義盛○一源義盛
新宮十郎○後
備前守行家
○二平義盛
和田氏
小太
卯
即
○三義盛
伊勢三郎
義経家人
○一中原親能○一中原親能
頼朝賜源姓
斉院次官○系図云
○二源親能
内膳亮正
五位下
○胡条五為頼○一藤原為頼
五位下
越前権介従
○二源瓦頼
丹波
介
○三丹波為頼
す
典薬
○四藤原為頼
后宮亮従五
位下荷人
○五
源為頼
浅原
八郎
出雲権守
○二平時頼
二時頼○一菅原時頼
従四位下
西明寺
北條相模守
二行綱○一源行綱
多田
蔵人
○二源行綱
高橋五郎
左衛門
□□□□□□□
五忠信○一櫻嶋忠信
本朝
文粹
○二宇治忠信
郁芳門
○三坊門宰相忠信○四藤原忠信
院蔵人
中世歌
人
○五
佐藤忠信
四郎兵衛
義経家人
宇
熊谷次郎直実入道
二蓮生房○一蓮生房
○一書ニ恋西トモアリ
○二蓮生房都
守
宮弥三郎入道円光
大師行状翼賛
さるきのみやづく
二竹取翁○一竹取翁万葉集○二竹取翁○
○かくやひめを
二竹取翁○一竹取翁
やしなへる人なり
竹取物語
垂仁天皇妃
三赫夜姫○一迦具夜比賣
古事純
○二かく屋姥
大鏡云小野宮右
大臣源実賢女
○三赫夜姫
竹取物語に出
たる竹間の化女
歴世同名異人。あげてかぞへがたし爰に載る
所は。あまねく人口にあふるもののみなり。是
も又俗説を弁ずるの一論なり
異僻姓名説
○雑類
○七掬脛
日本
紀
○八掬脛
越後風
土記一
土記
○額田部連甥○物部
朴井連椎子○吉備竺臣垂○穂積臣昨○葛城
福草○難波癬亀○塩屋鯛魚○忌部木菓
○倉臣小屎○能登臣馬身龍○盧井造鯨
○舎人連糠虫○都勢臣牛○完人臣鴈○土
一郭連免○間人連堕蓋○草部連醜経
各日
本紀
日本
○安信朝臣男糞
○ト部乙屎麻呂
後紀
三代
実録
三人兄
弟ナリ
弟ナリ
○和気岐波豆○鷹取○鷲取○真鷹を
○紀木
二人兄
武内宿
称三男
○紀名虎○紀名龍
弟ナリ
○紀大人
山城
○紀淑間
○春風○月影○松影
三人兄弟○藤
魚名ノ曽孫
らす
○多治比真人鴻○○多治○真昨臣
二人
兄弟
ヤン
○山
一辺赤人○民黒人○藤原山人○山戸公女成
大学
す。
頭
○源似忠○源三国町○大江千里○藤原
万里○藤原千葉◯三津百枝○五百枝○五
一百城○藤原五岳○平五月○橘千杉○藤原ノ
各大
八釣○多治比土作
○阿古久曽
系図
紀貫之
幼名
〇
宛
古今集
女ノ名
○靡
詞花集
遊女
○仏
盛衰記
白拍子
○袴垂
盗賊ノ
名○一
書云保輔か事
をいふと。未詳
虎関異制庭訓云鈴鹿山立烏帽子
○立烏帽子
為強盗之張本○参考保元物語
云嘉承年中平正盛郎等山田
庄司行未搦取ル鈴鹿山ノ立烏帽子ヲ一
歴世僻名の人。あげてかぞへがたし。十が一を爰
にのす
○雑類同歌別作者の説
あさか山かけさへ見ゆる山の井のあさくは人を
おもふものかは
よめると
よめると
あり
あり
此哥萬葉集には陸奥采女よめるとあり○
大和物語にはある公卿のむすめ陸具安積山にて
今按るに万葉集の説を用へし
□かゝみ山いさ立よりて見てゆかむねへぬる身は
ひやしぬると
此哥古今集には大伴黒主よめるとあり
○古今著間集には教位敦頼よめると有
今按るに古今集の説にしたがふべし
〽ふるさとの花のものいふ世なりせばいかにむかしの
ことをといまし
此哥後拾遺集には出羽弁よめるとあり
○十訓抄著聞集には菅家御歌とあり
今按るに存拾遺集を用べし。菅家金至某に
此哥かつて見えす
なむやくしあはれみ給へよの中にありわつらふも
同しやまひぞ
此哥源平盛衰記には。待宵小侍従か歌とす
○撰集抄には伊勢のうたとす
今按るに。盛衰記の説を用ゆべし。伊勢は。伊勢
守継蔭の女子なり。寛平法皇の御息所と
なり。御子などをうみ。甚だ祐冨の人なり。くはしく
今昔物語に見えたりかく貧しかるべき子細なし。
殊に此歌。伊勢家某に見えず
さりともとおもふ心もむしのねもよはりはてたる
此哥俊成家集に見えたり
秋のくれかな
○源平盛衰記には。平宗盛への三つとす
貞原好古の曰。此哥藤原俊成の哥也。同時代な
れば。宗感きゝ覚て詠じられしなるべし
同歌猶多かるべし。かさねてくはしくもとむ
へし
○或問
○ある人来て。問ていはく。足下の記せしうちに。程
一伊川の一髭髪相似ざれば。まつる所。別人と
ある語を引て。像を設くるを。非とす。しかれども。
一程伊川の説は。もろこしの事なり。日本にては。
神社あれば。神像なくて。かなはざる理なりと。
いふものありいかむ答云く。前にも記せしご
とく。上‾古は。明鏡をかけて。神明の徳に表せり。
木像をつくれるは。習合以来なり。この故に。
無體を説て。純一にすれば。有像を説て。混雑
せんとす。これを比するに蝋蝦の蟲の。物を取て。頭
にいたゞくを。人ありて。其負る物をされば。又取て
かしらにいたゞくがごとし。此まどひ。元来書をよむ
こと博からず。理をきはむること精しからざるゆへ
なり。若それ。つとめ読でおこたらずんば。凝結せ
るこゝろ釈然として。閻を出て。明に向ふの期。
あるべし。其時にいたりて。僕が言の。妄ならざる
をさとし給ふべし○問云く。頃日俗説贅弁続
編といふ書。おこなはる。其説いかむ答云く
設」説。もつとも佳。就レ中斎宮の弁。前輩の参
同同同八合兌付扁廿一日
発なり○問云。ある神職語りしは。神道にむ
すぶの神と称するあり。男女の縁結を。つかさどり
給ふこと。神書に見えたりといへり。いかむ答云く
此説。旧事紀。古事記。日本紀。古語拾遺。倭姫
世紀。鎮座本紀。伝記。次第記。本縁。宝基本紀。
神祇本源。神名秘書。元々集等には。かつて見えず。
後人擬作の書に出たり。たとひ書にありとも。
巫僧の加筆多ければ。取こともあり。捨ることも
あり。具眼の者にあらずしては。弁明し難し。もろ
こしにも。かゝる無知妄作ありと見えて。卿談に
は。月老神の事を記し。続幽怪録には。定昏店の
事を記せり。むかしは。無礼不義の事をも。わきまへ
ざりしにや。筑波の歌場。常陸帯卜。筑摩祭。八
一瀬雑魚寝。道祖神の陰形をも。さもあらんと。信
じたりと見えたり。今の人は。いにしへ神変なりと。
尊びしことをも。放下術ならんとそしれり。たとへば
二三歳の児は。あざむかるれども。七八歳にも及べは。
かえつて。おかしく思ふがごとし。殊さら近年は。文
明になりて。九字護身法。三社託宣等の。無下
につたなきことをば。用ひざるもの多し。嘉尚す
広く、俗名付扁廿一一
べきかな○問云。足下の撰ぶところの廣益俗
説弁此書のみにして。おはれるか答云。いまだ尽
さざるものあり。他日残編を記して。世におこなふ
べし。近きころ。ある人書を贈りて。俗説弁の
事に及ぶ。この故に。其返簡を終りに附す
○復二松下長敬雅丈一書
僕昔シ髻髭ノ従レテ従レテ遊二テ于武江ニ時訪二ヲ訪二テ垂加翁ノ門人一姑得
レ於下リ神道之所二ヲ以為二ル神道一然ル不レ能モ不レ能二リ其ノ機要一ヲ究二其ノ精微一
既ノ而奉二君命一ヲ一帰二于本國ニ自謂有レヲ謂有レル者レ而不レ成ル者也因レ恩ニ
土佐州垂加翁之旧地神道発明必不レ之二其人ニ
辱ノ領二鴻ノ幅一披レ凾
松下長敬雅丈一而其ノ所二ノ以テ説二クク神道一ノ者ノ果ヲ悩二風望一ニ恭ク惟一ニ恭ク惟一ヲ
天地開闢之始メ一神化二生ス於大虚ニ後世尊奉ノ称奉ヲ称レノ之ヲ称レノ之ヲ
国常立尊一亦号二天ノ御中主尊一中主尊一総主
物万化一ニ上下大小ノ神祇皆ナ此ノ尊ノ之所レ化過テ天地一
気之霊神也称二国獄槌尊豊斟停尊是国常
立之分神也泥土煮沙土煮大戸道大苫
辺面足惶根諸尊亦分国常立国狹槌
豊斟滓一ヲ為二陰陽之六神一神明一ヲヲテ而二二二ノ而五五ヲ而而万
萬メ而一無邊之體無窮之用其德不レ盛不レ盛ナ哉伊弉諾
尊伊弉並尊備ニ造化ト與二気化一之雲徳上ヲ始ムヲ始ルニ生二国土山
海草木一ニ次ニ生二天照太神ヲ一太神以二瓊々杵尊一ヲ任二
豊葦原中ノ国一ニ授三種ノ神財一ヲ曰ク是レ是吾子孫可レ王之地
也宜二爾就而治一焉焉宝宝祚之隆當興天壊一興二与二窮者也又
太神手持二宝鏡一曰視二此宝鏡一ヲ當猶視レ吾可與同
其レ殿以為下ノ齋鏡二爾来神以傳レハ神ヲ傳ヘ神ニ皇以テ傳ノ皇ニ神
皇ノ正統永 ̄ニ聯綿ナリ焉是レ所二ヲ以テ神道有レル祖也然ルニ雖雖モ
子撰二テ舊事紀一ニ太安萬侶著一ヲ古事記上ヲ而ニ未レ能レハ盡二ハ盡二神道ノ薀
奥ヲ一藤森ノ神惜二テ二書ノ不レテ全蒐二輯日本紀一ヲ其ノ所上。収ノ載一ル有二
専ヲ言レ天ニ天二ヲ専ヲ語レ人ヲ語レ人ヲ以レ人ヲ談レ天ヲ天ヲ以レテ天ヲ話レ人ヲ天人唯一之
理悉ク備二于斯ノ編一ル可レシ謂二フ萬世之達書ト也然ルモ藤森ノ神之
後得二ル其ノ傳一ヲ者幾希矣越佛氏等私ニ飾二テ飾二テ智巧一ヲ謾ニ設二剽竊一
終ニ混二ノ神佛一ヲ以為二同體一神道ノ神一神道湮時一ニ至二於此一ニ適ク建二一千
載一ニ垂加翁倔二起ス貴壌一ル継二二藤森神ノ道統一ヲ排二
鬼一ヲ尊二信ス我カ神一ヲ立レ敎ノノ之純粹設レヲ設レ説之親切雖二兼良親
房之博治一ト不レ能レハ出二於其於其右一ニ潜二ル心ヲ神道一ニ者誰ハ不レ崇尚一。哉
蓋此談可下與二可レ言者一道難二未レ可レ可レ可レ言ヲ者一道一道上節之於二
雅丈一ニ雖レ曰レ未レ有二テ半面之識一其ノ所二ノ以テ同道同レヲ同レ志ニ者有二感
而動一。豈ニ為二シ不レ不レハ可レヲ言フ之人一耶故ニ不レ顧二ニ贅及一ヲ亦何憚二喋々一ヲ
今反二覆點検来教授テ来教一足下似未親受業于垂加
翁一ル者二二然リ覩二所二所二以テ以テ闢レ邪ヲ提レヲ論辨取舎一ヲ論辨取舎一ヲ自レ非レ二レ非レ非ル二垂
加翁之餘澤一ニ何レ以至二於此一ニ於此二将黙ノ識レル之ヲ耶抑滅レ人ニ耶可
レ畏之甚也夫恨義洋関隔無レ縁二面論一ニシテ面論ニ徒ニ
所レノ刊ヲ俗説辨若蒙二過誉一是嚮嚮為二是モ嚮為二ヲ以テ附二諸書
肆ニ一不レ虞ヲ渉一清鑑一最モ不レ堪二ハ愧悪一ニ又労ス二念テ労ス二念テ千驢年及ヒ
豚児一極切二銘感一ヲ切二銘感一ヲ報ニ勿勿不レ暇レ取レ択レ択レ言幸ニ招二亮之一
秋抄風霜方ニ寒シ伏祈為レ道保摂自玉不悉
九月二十一日
井澤十郎左衛門長秀
廣益俗説辨附編卅七大尾
廣益俗説辨附編引用書目
神祇譜天図浜成天書出雲小縁起
一名
樋河上天澗記諸祭記野府記
小右記
玉露叢
皇代暦二中暦玉露叢
本朝改元考舜水談綺新撰朗詠集
仙巣稿覆醤総集後拾遺集
續拾遺集俊成家集伊勢家集
呉竹集和泉式部日記八雲一言抄
躬恒秘藏抄俊頼莫伝抄尾張風土記
伊賀風土記讃岐大日記陸奥名寄
同月十二月廿七
天草事跡唐崎松記沈墮瀑記
十六夜日記熊野紀行庭訓往来古抄
異制庭訓往来明衡往来尺素往来
保暦間記梅松論櫻雲記
室町日記足利治亂記江北佐々木記
新撰信長記信長家譜秀吉家譜
豊臣實録淺井三代記大和軍記
和州軍傳本朝武林傳香記
菊池武重母慈春尼寄進状圓光大師行状翼聲
奇異雑談怪談全書怪異雑断
増補通商考苫衣并松帆水砂鳥
女中道指南歯黒図式眉図式
魏書
魏書卿談續幽怪録
劉氏鴻書広川書跋庚穆之相州記
東観記漂粟手牘昨夢録
夷俗考兩朝平壤録粧臺記
戒菴漫筆東京夢華録国朝会要
泉志不求人全書碧雲瑕
稗海
稗海続稗史楊大真外伝
政事撮要三才図会渓蛮叢笑
同長谷晩竹宿廿七
一七月十一日
格物志
格物志藝文類聚獣経
蠶経
蠶経聞見後録毛詩陸疏廣要
障州府志
障州府志齊民要術蜀方志
西京叢話洞天清録留青雑記
太平御覧菊譜学圃憲兼
漁隠叢話
漁隠叢話花鏡合壁事類
典籍便覧
典籍便覧可談皇朝類苑
図画見聞志図絵宝鑑宣和画譜
画史
画継
文獻通考
続文獻通考蜩笑偶言宋洪遵請雙
大明會典駒陰冗記委巻叢談
元氏掖庭記読名録事物異名
龍飛紀略臨海記蓬窓目録
楽善録
樂善録願休集朱子文集
蓬溪類説芝峰類説杜子美詩集
王梅渓文集詩学大成万首唐編句
て電氣
同一一
歴代詩家行厨集日用雑字
本草洞筌
本草洞釜本草紀原奚嚢便方
右百四十部蓋シ総計ハ三百六十五部○二百二十五
部ノ書目ノ與二前編後編遺編ニ所レ載相同シ故ニ省二略ス之一出ス之ヲ出ス二千此一ニ
十四十十日黄谷浅草
書目挙二不レ不レムレ出二テ彼ノ三編一者ヲ一者ヲ一
前編二十一巻○後編五巻○遺編五巻○附編七巻
○都合為二三十八巻四百七十九條○引証書八百
七十九部右各應ノ柳枝軒茨木方道之求書之
肥後隈本井澤十郎左衞門長秀
第
狩工
残編
廣益俗説辨共。
神祇后妃
公郷士庶
一
廣益俗説辨残編總目録
神村長
巻三十八
狩野氏圖書記
豐藏書
○神祇
補鹿嶌立の説
補長田社の説
補鈴鹿社の説
○后妃
補檀林皇后御歌の説
○公卿
補菅丞相御歌の説
同二十一年丙寅壬戌丙寅壬癸亥
江下二百五十一同五十一人
補平重盛源頼朝を伊豆国に流す説
○士庶
補藤仲光が説
補頼朝通二ス伊東北条カ。女子一附同人討二山木判官一ヲ説
一、一、、、〇
巻三十九
○士庶
補畠山巴女と戦ふ説
補能登守教経戦死の説
補武蔵坊弁慶は熊野別当堪増が子といふ説
補足立藤九郎盛長が説
巻四十
○士庶
補楠正儀足利家に降参の説
補宇野ノ熊王丸楠正儀を狙ふ説
補細川頼之丹波ノ山国に蟄居の説
○婦女
補塩谷高貞が妻が説
同同十一日慶谷先岸或扁忽司
戸戸尹多議終日
補顔に金やきせし女が説
○僧道
釈道公絵馬の神を見る説
巻四十一
○雑類地理
補上総国下総国の説
補常陸国の説
補筑前国筑後国の説
補豊後ノ国の説
補兵庫築嶌の説
補阿波鳴門の説
補駿河賤桟山の説
補陸奥千咲原の説
補下野室の八嶌の説
補大和龍中谷の説
補外国をからと称する説
補諸国ノ名後に文字を改る説
補古ハ称レ国ト後ニ後ニ改二ル郡郷一説
補異邦書ニ所レ載日本国郡本国郡等異字ノ記
巻四十二
同十七章淺扁忽司
月有言并反発反
地理
○雑類
補摂津ノ国琴引坂の説
補肥後国踊山の説
補同国弥護山の説
補験州富士の人穴の説
補伊勢ノ国ノ鏡石の説
補伊豆国碁盤石の説
補土佐国潮石の説
補同国響石の説
補同国動石の説
補隠岐国葛田池の説
補伊勢ノ国井谷の水の説
補常陸国出水河の説
補肥後国鹿子木赤井の説
補同国阿蘇郡小国の奇水の説
補阿波ノ国星石山の説
補出雲国玉造の熱湯の説
一巻四十三補遺編終之後追加
○雑事人物俗諺
十五月五日に生るゝ子は親にあたありと云説
一黄谷兄婢義編忽司
一九月言辛夕参紙目
補諱反名の説
補名字補遺
補源内平内等の名の説
補監物太郎監物次郎といふ名の説
補朝起の家には福来ると云説
物にあやかるといふ説
補金神の説
○雑類居処
補丹波国時平屋敷の説
仏家
○雑類
補大磯の石地蔵の説
○雑類文字
圃石をこくとよむ説
補船の字はきみにすゝむとよむ説
補定家一字題の説
補野馬台は陽煙と云説
禽鳥
○雑類
補五位鷺の説
補黄鳥鶯をうぐゐすといふ説
補郭公鶴衡をほとゝぎすと云説
同十七二戊戌編纂編纂編輯
○雑類魚蟲
補鯉をかつほとよむ説
補石決明殻を門に掛る説
○雑類草木
補牡丹を廿日草といふ説
補杜若をかきつばたとよむ説
補奥州に菖蒲なき故にかつみを用る説
巻四十四補遺
○雑類人事
補息女を娘と書説
補さげ髪の説
○雑類文字言語
補天竺ノ文字孝霊帝御宇に渡ル説
補者と書説
器物
○雑類
補左折烏帽子の説
補尺八の説
○雑類衣服
補旧苔の袖の説
薬種
○雑類
一聖彝梵弉幾扁忽司
補香のはじめの説
食物
○雑類
補餅をかちんと云説
居処
○雑類
補相模国曽我屋敷の説
禽獣
○雑類
補蒙貴を猫といふ説
○雑類
補硯の中より龍出る説
○雑類
補梅を木母と云説
補日本の海棠の説
補女郎花の説
巻四十五補遺
雑類
補呉越軍の説
補波羅奈国沙門か説
補竹枯る説
補長八丈の鬼が説
○雑類
一寛化元年戊戌戌丙午
補伊勢三輪一體分身の説
補もろこしのさこくが説
○附録
補或問十三箇條
書目終編ニ
以上八巻引用書三百二十五部一
載之
廣益俗説辨残編三十八目録
○神祇
補鹿嶋立の説
補長田社の説
《題:《題:《振り《題:《振り《振り《振り《振り《振り《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:《名仮名:《振り仮名:
○后妃
補檀林皇后辞世御歌の説
○公卿
一補菅丞相御歌の説
平重盛源頼朝を伊豆国に流す説
廣谷院岸義扁三十八
○士庶
補藤仲光が説
補頼朝通二伊東北條女子一附同人討二山木ノ判官一説
廣益俗説辨残編三十八
○神祇
肥後隈本井澤節長秀輯録
補鹿島立の説
俗説云旅立を鹿島立といふは。神代のむかし鹿嶋田
武甕
槌命
香取
経津
宗命
の神を下して豊芦原中国を治め
たまひしより唱へ来れり
一今按るに此説非なり。鹿嶋本縁曰。阿須
波大明神社。在下総国香取郡一。是祭二大
己貴命児阿須波命一也。於二旅行發駕之
一広谷筑摩備三十八
日一。就二此神一而禱レ之。於二ノ庭上一。折々立小柴一祝二首途一
以二此縁一今。俗称二旅出一曰二鹿嶋立一。萬葉集
曰途波那迦の阿須波の加美爾古志波
佐志阿波禮伊波々牟迦延利久留満足
とあるを考へ知べし
補長田社の説
俗説云長田忠宗
系図作
忠致一
に尾張国内海にて。義朝
を害す。頼朝のしき。伊勢国にかくれしを。探し出
して誅せしむ。其霊所の者に祟りをなせしかば
神と祀れり。今の長田社これなり
一今按るに。度会延経神名帳考証曰。伊
一勢国飯野郡意非多神社。意字。読書曰。
億或作レ意。大訓。意非飯之上略。多田也。飯野
之名。起于此一乎。出雲風土記曰。伊毘志都幣
命称二豊宇気姫一今云長田社在二朝田村北二
一向東。此乎長訓於佐。土民云ク長田忠宗職二
源義朝一。後於二此地一逢二斬戮一。其霊為祟故
立二此社一祭レ之社名意非多而在二朝田村一混二
二名一為二長田一作二此説一忠宗於二尾張国一被レ誅
非二此国事一とあるをもつて。俗説の非を知べし
一黄谷筑幾扁三十八
一補鈴鹿社の説
一俗説云伊勢国の鈴鹿姫は鬼女なり田村麿これ
を妻とす没後神と祝ふ今の鈴鹿社これなり
今按るに神名帳考証ニ曰。鈴鹿郡片山神
社。古事記曰。大山津見神之女名阿多都比
売。伊豆国阿米都加多比呼命神社。加
與レ阿音通。今鈴鹿姫社乎。弘安元年勅
使記曰。鈴鹿山鈴鹿姫坐二坂頭之北邊一。世
傳曰。坂上田村麻呂奉勅征二此山鬼女一旦相
婚而女自伏罪就囚獄之朝一。亦逃入山後甲
村麻呂追到為二夫妻一其鬼女是鈴鹿姫也一
按此征役事。不レ見于史籍一田村者村興レ乎
言通。謂二穀盛一讃岐国田村ノ神社伊賀国
田守神社。常陸国稲村ノ神社以二穀属レ木
配二木霊阿多都姫一為二其夫一乎。田村與田
村麻呂一同レ名。因作二征伐之語一。終至レ失二其覚
而黯神者也とあるを以て。其相違を暁
すべし
○后妃
補檀林皇后辞世御歌の説
黄谷筑紫淺扁三十八
俗説曰。檀林皇后薨し給ふとき。野葬すべき旨を
のたまひて一首の哥をよみ給ふ我死ばやくな
うづむな野にすてゝ飢たる狗の腹をこやせよと
よみて薨し給ひしかば御遺言のごとく野にす
てゝ狗烏の餌になり給ひぬ
今拙類に檀林皇后野葬の事。正史実録
にかつて見らず。文徳実録曰。嘉祥三年五
藤ノ嘉
月辛巳嵯峨皇太后
香子
崩六十五。壬午
葬二大皇太后干深草山一。遺言令二薄葬一不
営二山陵一とあり。薄く葬て山陵を営ざるは
たとへば公郷を葬るに。土蔵をもつてするが
ごとし。是は費を省き。且は後世に及て。賊
の為に発かれざるやうたとの遠慮なり。野
にすてたるにはあらず然るを妖僧附会し
て。葬儀を用ひず。中野に棄と記せしより。
後世したがふて其事蹟をのこせり。近年
印行の書を見るに。皇后の辞世とて。
浅劣の歌を記せり。是は皇后の詠にあら
ず。播州の教信沙弥が哥なり。往生拾遺
曰。播州加古郡念仏堂沙弥教信領終に
一同三月一日午後十八
及びて。我死ば焼なうづむな野にすてゝやせ
たる狗の腹をこやせよと談て寂す因て野
に棄て。烏狗の餌になれり。教信塔は。擣
津国豊島郡にあり。詳に摂陽群談に
見えたり余硯北謾抄を考ふるに。皇后も
厚く禅法に帰依し給へり。あるときの歌に
ことろこしの山のあなたにたつくもは爰に
たく火の煙なりけりと。是は禅路に。隔
山見レ煙早知二是火一といふ意なり。そのゝち
一僧恵華渡唐して。監官国師に。此哥を語
りければ。禅意にかなへりとて。ほるかに皇后に
印可せり。西山に檀林寺を建給ひしかば。世に
檀林皇后と申頃とあり。思ふにこれ等の事
によつて。野葬の虚名をかうふり給へり。其
術つゝしまずんば有べからず
○公卿
補菅丞相御うたの説
俗説云。菅丞相御哥に。鳥もなく鐘もきこへ
ぬ里もがなふたりぬる夜のかくれがにせむ
一今按るに是は菅家の御うたにあらず。
同同三百三十三丁
一太田持資入道道潅の哥なり。慕京集集
潅
同様
一世の
詠草也
寄鳥恋世の中に鳥もきこえぬ里も
がなふたりぬる夜のかくれがにせんとあるを
證とすべしいかなる故に。菅家の詠と。あやま
れるにやと考るに。天満宮故実其外諸書
に。菅丞相筑紫に流され給ひける時。河内
国道明寺に。御伯母覚寿と申人おはしけるに
立より御一宿あり。その夜鶏のね。かしかま
しくやおぼしけん。なけばこそわかれをい
そげとりのねのきこえぬ里のあかつきも
がなとよませ給へりと見えたり。此哥相にたる
をもつて。取ちがへたるものなり
平重盛頼朝を伊豆国に流す説
俗説ニ云。右兵衛ノ佐頼朝を伊豆の国に流せしは。平
家のあやまりにあらず。其故は関東の武士等。
頼義義家以来。源氏をうやまひしたしむ事。
重代の主君にまされり。近きころ悪源太義平
を。義家のかはりのごとく。かしづきけるに。謀叛に
よつて。誅せられしを。歎くといへとも。朝敵たるに
よつて。是非なく。思ひなだめて過せり。其上に
同同十一年発編輯
又頼朝を誅するか。西国へ流しやりなば。たとひ
朝敵にもならばなれ。清盛を恨みて。急関東より
大乱起るへきを。平ノ重盛遠慮し給ひ。頼朝
を伊豆国にながされし事。いきほひのやむこ
とを得ざるが故なり。かくなだめ置て。東国
の者どもに恩顧をくはへ。源氏をわすれ。平家
にしたゝむやうにとのはかりことなり
一今按るに。此説偽なり。頼朝を伊豆に流せ
しは。重盛一世の不覚なり。此故に源平盛
衰化に。治承四年九月大場景親が許より。
頼朝の謀叛を告しとき。太政入道安からず
思ひて。東国の奴原は。六條判官為義が一門。
頼朝に離れざる侍どもといひ。皆彼に従ひ
仕へし家人等なれば。八箇国の家人に頼朝
を守護して。入道が一門を滅せといふにこそ
有つれ。盗に鑰をあづけ。千里の野に虎を
放ちたるに似たりとて。座にもたまらず踊あ
がり〳〵し給ひけれども。甲斐なしとあるを見
るべし。又頼朝を害せば。八幡殿の子孫滅
びたりと見て。たとひ朝敵にもならばなれ。大
廣谷院辨淺扁三十八
乱をおこすべしといへるも非なり。此とき頼朝
を殺す共。いまだ範頼義経義仲以下国々に
残れり。八幡殿の子孫減びたりとは言べから
ず。是より後頼朝の時にいたつて範頼義経
義仲を滅し。其身も程なく薨せらる。其子
頼家実朝。相つゞきて弑せられ。天下北條
が掌握となれり。これをこそ義家の嫡孫
滅びたりともいふべし。しかれども終に関東より
乱を起して。北条をかたふけし者もなく。九代
まで不義の富をなせり。又重盛善者なり
といへども。聖賢にあらざれば。あやまりなき事
あたはず。父の浄海が君を悩し奉るとき。顔
を冒してかたくいさめ。終に君長事なかりき。
入道が老僻といへども。且恥且恐事。凶逆
の心を擅にすることあたはず。平生の言行
人を服する者にあらずんば。如レ是ならじ。是
其谷なる所なり。しかれども金を経山に
渡し。念仏の礼讃。熊野の命請。布引
滝に難波をいれしたぐひ。是其愚なる所
なり。平治年中頼朝橘につきし時。清盛
同同三十一年癸酉十一
が継母池尼。重盛を頼みて。頼朝の命を乞し
に。清盛承引なかりしかば。重盛諫ていはく。平
氏の運命盛ならば。頼朝有といふとも恐るゝ
に足ず。運命既に謁なば。頼朝なくとも
滅ぶべしといへり。此語其理あるに似たりとい
へども。ねがはくは。頼朝を搦縛ば。則時に首を
刎。其余の家族等をこと〴〵く誅すべし。
若これを憤て東兵起らば。師を出してかれ
を討むに。何のかたき事のあらん。重盛のい
へりところは。古語に。輿レ人闘不レ猛二其既一樹二
其背一未レ能レ全二其ノ勝一とあるに似たり。惜ひか
な。其判決の足ざることを
○士庶
補藤仲光が説
一作美
俗説云。多田ノ満仲其子美女丸一作美を。叡山
文丸一
にのぼせて。恵心僧都弟子とす。美女丸僧儀
をたしまずして。剣術を事とす。ある日満仲
美女丸を呼で。仏経をよませらるゝに。読こ
とあたはず。満仲大にいかり刀を抜てきらんと
し給へば。丸。経を取てふせひで逃出たり。満仲
廣谷筑辨淺編三十八
いかりに堪ず家臣藤原仲光に殺害すべき旨
を命ぜゝる仲光きるに忍びず其子幸寿丸
を斬て美女丸が首と云て満仲に見せしむ後
に美女丸僧と成て源賢と称せり
佐々宗淳評曰。以レ予観レ之。仲光之所為。
其志雖レ可レ憐而不レ知二名教ノ大義一也。請
試論レ之。夫父而殺二其子一者。人倫大変
天下ノ難事也。石硝之殺二其子一弑二其君一
也金日碑之叙レ免。狎二其ノ君一ニ也。是皆出
於不レ得レ己。而得二義理之正一者也。今幸壽
無二可レ殺之罪一。而仲光殺レ之謂二之忠義可
乎。然則為レ之如何。仲光陽従二満仲之命一
陰奉二麻呂一。深隠二山林一。待二満仲之怒漸解一
而奉二麻呂一抵レ京叩頭泣レ血然ノ訴曰嚮公
子忤命将軍令二臣斬レ之臣意謂若従レ命
則使二将軍負二不慈之譏上公子致二非命
之死一臣犯二将軍之額一則嚴命速二於
星火一無路進レ進レ進レ言於レ是密奉二公子一晦二
跡山林一ニ夫公子ハ累世将種而豪貴子
弟也平生所二見聞非二非二馳レ馬試レ劔。則是
廣谷院畔浅扁三十八
牽黄臂蒼宜其厭二修習一而嗜二軽捷一矣。
将軍欲レ殺レ之不二亦甚一乎。方今公子其一
年漸長志気英邁次非下可レ堕二箕裘者二
也。伏願将軍察二公子之無罪憐二臣之
微忠一其為二父子一如レ初而使二公子受二爵
於朝廷一。則匪二啻公子之幸一。抑亦将軍
永世之福也。若臣之所言。不レ言。不レ當二其理一
則斧鉞刀鋸固所二甘心一也。満仲雖二昏暴一
而父子之天性固有レ之必大感喜謝二麻
召再造之恩之不レ遑二遑豈非君臣父子両
一全之計一乎。不レ知レ出レ此牽二於不レ忍之情一而
反為二安恩之事一是皆不学之適也。悲夫
佐々宗徳
所蔵
補頼朝通二伊東北條女子一
俗説云。頼朝伊豆におはしけるとき。伊東次郎
祐親が女子にかよひて。一男子を生り。名づけて
千鶴丸といふ。祐親国にくだりけるに。此女子が
継母。これを祐親に告しらす。祐親大におどろき。
彼男子を。伊豆の松川の奥。とゞきの渕にし
づめにかけ。かの女子を取かへして。江馬小次郎に
廣谷院辨淺編三十八
嫁す
スケチカ
曽我物語を考るに。是は北条の時政が
子の。江馬四郎義時とは。別人と見えたり
秋親なをも
いかりにたらず。頼朝を害せんとす。祐親が次男伊
東九郎秋清これを頼朝に告るに。頼朝おどろ
きて逃去たまふ。其路次にをいて。八幡を祈つ
ていはく。先祖義家が由緒をすて給はずは。征
夷将軍にいたらしめたまへ。それなをかなふべから
ずは。伊豆一国の主と成て。祐親を召捕て讐
を復し侍るべしと。なく〳〵祈られけるぞいたは
しき。かくて後。頼朝北条四郎時政が館に行
ておはしけるが。又時政がむすめ。政子に通ぜらる
曽我物語時政にむすめ三人あり。一人は先腹にて。廿一歳になる
美女なり。二三は当腹にて。十九十七になる。ともに悪女なり。頼朝
北条にむすめありと聞て。消息を送らんとせられしが。伊東にて
継母が讒ありしにこりて。悪女なりともくるしからずとて。十九の
女子に文をおくれり。途中にて。藤九郎盛長おもひけるは。姉
は美女にて。妹二人は悪女と聞ば。始終おぼしとげん事おぼつか一
なし。左あらば北条にも。中多がはせ給はん事よろしかるまじと
て。御文を廿一の姉にかきかへ持ゆけり。むすめ返事ありしかば。
頼朝しのび〳〵にかよはれけり。是よりさき。十九の妹夢を見て
婦にかたるしに。よき夢なりとおもひ賞とりしが。はたして途中
にて文を書かへ。
寺と成ぬとあり。しかる所に。北条時政京よりくだり
けるが。此事を聞て。大におどろくといへども。いろに
出さず。兼て路次にて約諾ありしかば。国に着
とひとしく。むすめ政子を。山木ノ判官兼隆に
つかはしける。されどもむすめ。兵衛ノ佐にこゝろざし
同廣谷院岸或扁三十八
ふかゝりければ。あからさまに立出るやうにて。兼隆
がもとをにげ出たり。やゝ程ふれども見えさりけ
れば。あやしみをなして尋ねもとめしかども。
ゆくゑもしらず成にけり。かのむすめ終夜伊
豆山にたづねゆきて。兵衛の佐の許にこもり
けり。程なく頼朝勢を催して。山木兼隆を
討。後に伊東祐親をもほろぼして。本句を
以上源平盛衰
遂給へり
記曽我物語
○東鑑脱漏ニ以二政子ヲ一
称二神功皇后ノ再来一
本朝女鑑貞
行部平政子
今按るに。頼朝すでに刑余の独夫と成て。
伊豆国に流され。二十余年の星霜を
一絶たり。元来共に天を戴ざるの讐あれば
博浪の槌をあげん為に。苦に寝塊を
枕とせらるべき身の。あさましくも東家の
一墻を踰て処子を楼なのみにあらず。我
身の罪悪を顧ず。尽て伊東を恨みて。
日本をしることなくは。せめて伊豆一国を
領さしめ給へ。伊東かり譬を復せんと。八
一幡に祈られしは。父に薄ふして婦に厚
きなり。不孝不義評するに及ばず。又
同同二百三十三丁へ
北条がむすめ政子。荒淫放蕩不レ待二父母
之命媒妁之言一鑚二穴隙一踰レ墻て相従へり。
詩に。士之耽兮猶可レ説女之耽兮不レ不レ可
説と賦せる類なり。それのみならず。また
山木にも嫁せり。彼若志有べくは。たとひ
輿中に死とも。なんぞ云甲斐なく。二夫
に見えんや。扨しもあらで。又山木をも奔
て頼朝にしたがひ。私夫に党して。夫
君を殺させたり。乱倫の罪浅々ならんや。
しかるを史に瞽きともがら。政子が泰中
臨坤の穢行あるをわきまへず。あるひは
貞婦と書し。神功の再来とも記せり。
彼をしも貞婦といふべくは。いづれが貞婦
ならざらん
広益俗説弁残編三十八終
同実谷兄悴戔扁三十八
第
狩1四軒
広益俗説辨卅九ヲ
残編
士庶
広益俗説弁残編三十九目録
広益俗説弁残編三十九目録神村長
○士庶
狩野氏図書記
豊茂昌
補畠山重忠巴女と戦ふ説
補能登守教経戦死の説
鋪武蔵坊弁慶は熊野別当堪増が子と
いふ説
補足立藤九郎盛長が説
廣谷院岸淺涌三丁九
月代言契返紙三丁め
廣益俗説辨残編三十九
肥後隈本井澤節長秀輯録
○士庶
補畠山ノ重忠巴女とたゝかふ説
源平盛衰記。曰。畠山ノ重忠は。院御所にあり
けるが。木曽をもらしやしけん。おぼつかなし
とて。三條河原に打出。木曽と河を隔て。
射合たり。木曽ふせぎかねて。三条河原に引
しりぞく。重忠勝に乗てせめかゝる。木曽も引
かへして。半時ばかり戦ひける。木曽がたより。萌黄
廣谷院拜棧扁三十九
糸威の鎧に。鷹羽の征箭負。滋藤の弓の
真中とり。芦毛の馬に。巴摺たる鞍置て。乗
たる武者一陣にすんで。戦ひけるが。射るも
強く。斬もつよく。馳合せ〳〵せめけるに。さしも
の畠山河原へさつと引て出。半沢を呼で。
此武者はいかなる者ぞと問。成清答へて。か
れは木曽の乳母中三権頭鎌が女子巴と
申す女なり。強弓の手垂。荒馬乗の上手。乳
母子ながら。妾にて。内には童をつかふやうにもて
なし。軍には一方の大将軍して。更に不覚の
名をとらずと申す。重忠聞て。木曽の妾といへ
ば。なつかしきぞ。重忠今日の瀉分に巴に組
て虚にせんとて。取て返し。木曽を中に取
こめて。さん〴〵にたゝかふ。畠山は巴に目をかけて。
すゝみしりぞき。めぐりあはん〳〵としければ。木曽
は巴をくませじと。をしへたて〳〵。二めぐり三
廻りしける処に。畠山しきりに近くめぐり
あふ。得たる便宜と思ひ。はせよつて。巴が弓手の
鎧の袖に取つきたり。巴かなはじとやおもひけん
一鞭あてゝ。あふりければ。乗たる馬は。春風とて。
月不言幸反彩三一ヲ
信濃第一の強馬なれば。鎧の袖ふつと引き
つて。二たんばかりぞのびにける。畠山おどろき。是
は女にはあらずして。鬼神のふるまひなり。かやう
の者に。矢一つをも射こめられては。永代の恥
なり。ひくに過ずとて。河原を西に引しりぞき
院の御所に帰けり。そのゝち義仲最都に。
女をつれしといはれんを恥て。巴を本国に
かへされける
今按るに。畠山木曽を討ん為に。三條河
原に出て。たゝかひしとなれば。木曽と組んと
こそいふべきに。巴を見て忘却し。木曽の妾。
といへばなつかしきぞ。重忠今日の得分に。
一団にせんといひて。しきりに巴を目がけしは。
好色に忠義を易たるか。さすが篤実謹
厚なる重忠の所為とも覚へず。又木曽
がいく程命生んとて。なをも嫉妬して。巴
とくませじと。かけへだてたるも。かたはらい
たし。又義仲最期に女をつれしといはん
を恥て。巴を帰されしもいふかし。左程に
思はゞ。かねてより。つれざるがよし。常の出陣
月イ司辛反叙三才
には女を連てもくるしからず。最期の軍に
つるゝは。恥なりといふの差別あらんや。殊に巴
等がたぐひ。山を抜罪を扛る強力あつて。
敵十人二十人討たりとて。何の用にか足べき
よし用に足にもせよ。女を加へずして。事を闕
といはゞ。甲斐なきに似たり。思ふに重忠が。巴と
くまんとせし時。義仲くませじと。濡られしを
見れば。出陣の跡におかれなば。おもひの外の不
義もやあらんかとの。気づかひなりけん。とにも
かくにも。千載の笑に入ものと謂つべし
附
俗間印行ノ書云。木曽義仲流れ矢にあたつて。馬より
落たり。此矢は石田次郎為久が放てる所なり。爰に
木曽三郎為光といふ者あり。石田為久が従兄弟なりし
が。故あつて木曽義仲と兄弟の約をなし。木曽三郎と
名乗しが。為久をかたらひ。雑兵の手にかけんが本意なさ
に。為久が矢にあたりしと名のらせ。旦義仲最都に女を
つれたりと。世人のそしらんをおもひ。人をつかはして木曽をい
さめ。軍場より巴をつれて関東に下向し。媒して和田義盛
が後妻とすとあり○今按するに。木曽三郎。義仲と兄
弟の約をなし。家号までゆづられし身が。いかなる事にか。最
郡の供をもせず。従兄弟ながら義仲を討たる石田に同心
し。たかとおもへば巴をつれて。関東にくだり。和田になかだち
せしむ。敵か味方か。分明ならず。死を義仲と共にせざる
程にては。巴をつれまはるもいらざるねんごろぶりといふへし
補能登守教経戦死の説
俗説曰。能登守平教経。寿永三年二月六日の
夜半ばかりより狂気してうろたえ大蔵谷辺
同廣谷院修淺歸三十九
月代言辛反彩三一才
にて。狂死し給へり。これによつて。教経の家人
讃岐六郎経時といふ者。教経の衣類を取て
着し。長刀取て挟み。教住の雰原黒に鞭
うつて。明石のかたへ落ゆけり。能登ノ守の死骸
は。打すてありしを。安田遠江の守義定が家人
田原源五首を取其首を都にのぼせ七条河
原の獄門にかくる。其後屋島の合戦に。教経
と名乗れるは。讃岐六郎経時なり
今按なに非なり。是は東鑑壽永三年
二月七日ノ條下但馬前司経正。能登守教
一経。備中ノ守師盛者。遠江ノ守義定獲レ之。同
十五日範頼義経飛脚参二者鎌倉一献二合
以上三人遠江
戦記録一段。経正師盛教経
守義定討取之一
と
北
あれば。盛衰記に檀浦にをいて。教経入水
とある説と相違す。爰をもつて近年好
一事者異説を設けて東鑑と符合せん
とす。しかれども此教経に限らず。盛衰記
一部のうちにてだに。左中将清経豊前国
柳浦にて入海と書し。又豊後国にをいて。
資盛清経戦死とあり。太平記には。大仏
廣谷筑辨淺編三十九
貞直於二鎌倉一戦死と書し。又於二阿弥陀ノ峯一ニ
被レ誅とも記せり。一決しがたき事如レ是なれ
ば。教経戦死の両説も。又何れか是なる
ことをしらず。又教経死後に。讃岐六郎経時
といふ者。能登守教経と名乗し事拠なし。
殊に能登ノ守猛勇絶倫殆盃責が力を
旅へ后舁が弓を開。屋嶋にをいて。継信
盛政以下を射落し。檀浦にをいて安芸
太郎兄弟を挟で海にいれり。其働。中〳〵
虎皮羊質の似者等が。なるべき事には
あらず。俗説の相違。弁をまたずして明らか
なり
補武蔵坊弁慶は熊野別当堪増が子といふ説
俗説云。西塔の武蔵坊弁慶は。紀州熊野別当
堪増
一説に
弁澄
が子といふ
今按るに。同志夜話曰。武蔵坊弁慶は。熊
野別当堪増の子といふ事あやまりなり
予考ルニ紀州名勝名勝志ヲ一弁慶が事跡かつて
見えず。然ときは此説弥信するにたれり
弁慶は。出
雲国島根郡枕木里の産にて
後太平記曰。
雲州鰐淵山
の麓武蔵坊弁慶が
枕木山花蔵寺の児となる。
育たる屋敷とあり
一廣谷院岸淺扁三十九
父は意宇那熊野山に住す。永見といふ所
に。弁慶が産水弁慶が母の墳墓あり。又
弁慶嶋。弁慶永といふ事跡ありと。懐橘
懐橘談は安弘忠所著の
談に見へたり
出雲国中の事跡なり
出雲の熊
野山を。紀伊の熊野山と取ちがへたるもの
なるべし
同志夜話は。日夏繁高所著也
繁高は。武芸小伝の作者なり
補安達藤九郎盛長か説
俗説曰。頼朝平家追討の後。諸士の功労ある
者に。賞をあたへらるゝに。安達藤九郎盛長一
人もれたり。盛長これを憤る。頼朝いはく。我かつて
蛭島にあるとき。汝に髪をけづらしめしに。某が
いはく。われ運をひらきて。天下を掌握せば。大
圃をあたへて。功を報ぜんといひしに。汝うしろに
居て。口をゆがめて笑へり。其顔前の鏡にうつ
る。其とき我恨み骨髄にいたりき。此故に汝
を後にすとあり。盛長がいはく。そのときの事。
公の仰のごとし。しかれども君臣の義。事の変
に逢て。去ことを得ず。二十余年の星霜を
へて勤仕す。且又其労を覚へ給はずやと
申す。頼朝其言葉を嘉して。あつく賞せらる
同同二十一月七日
今按るに。此説例の妄作にて。実録にかつ
て見へず。思ふに。蘇‾秦初之レ燕一。貸二百錢一
為レ資。及レ得二富貴一。以二百金ヲ一償レ之。偏報下諸
所二当見レ徳者一。其従者有二一人一。独未レ得
レ報。乃前自言。蘇秦曰。我非レ忘レ子。子之
與レ我。至レ燕再と二。欲レ去二我易水之上一。方一
此時一。我国。故望レ子深。是以後レ子。子今
亦得矣
史記
漢書
此説をもつて。作りたるもの
なるべし。およそ人わが身のあしきを識こと
なきや。鏡の其裏を光さどなごとく。眼の
其睫を見ることなきにひとし。智ある人と
いへども。これを暁すことあたはず。こゝをもつ
て。他にいはけて聞。そのよきものをえらんで。
用ゆべし。人のいさめを好んで。我あやまちを
あらたむるは。善これより大なるはなし。方
一遜志齊箴曰。見二人。不善一。莫レ不レ知レ悪。已
有二不善一。安レ之不レ顧。人々悪レ々。心与レ汝
同。汝悪不レ改。人寧汝容。悪二已所レ悪。徳
乃日新。已無二不善一。斯能悪レ人言は。人の
あしきを見て。あしきとしらぬ者はなけれ
同四十七日黄谷荒忰幾扁三郎
とも。わが身のあしきことをば。かまはずしてあら
ためず。人の我悪をにくむも。わが人の悪
をにくむに同じ。わがみのあしきを。あらなめ
ずして。人のあしきをいふとも。用るものな
かるべし。他のあしきとおもふ事。わがみの
上にあるを知つて。すみやかにあらたむれば。
其徳すゝみゆくなり。我身にあしき事
なくして。ひとの悪をいへば誰人も信用
ずといへり。善と悪とは。一心より出るといへ
ども。差ふこと千里なり。つとめて書を
読で。これを暁すべし。身を顧みて。悪を悔
あらたむるを。神道にては。祓除といふ。祓
除は。洗なり。旧染のけがれを。新にする也。
ふるきうたにふきはらふ松の風だになる
りせば軒端も空にうづもれなましと
其心に比ふべし
広益俗説弁残編三十九終
46曲
狩工酒
第
廣益俗説辨罕
残編
士庶婦女
僧道
広益俗説辨残編四十目録
神村長
○士庶
狩野氏図書記
豊蔵書
補楠正儀足利家に降参の説
補宇野熊王丸楠正儀を狙ふ説
細川頼之丹波山国に蟄居の説
○婦女
補監谷高貞が妻の説
補顔に金焼せし女が説
同長谷兌悴淺扁四十
一九三十一月十一
○僧道
補釋道公絵馬の神を見る説
廣益俗説辨残編四十
○士庶
肥後隈木井澤節長秀輯録
楠正儀足利家に降参の説
俗間印行の書に。楠正儀は。正成が次男にて。正行
が弟なり。父兄の跡をつぎて。忠をはげませし
かども。君を恨み奉りて。足利家に降参す
今按るに非なり。此説足利治乱記。花営三
代記。図大暦記。梅松論。南朝記等にかつて
見らず。何に拠て記せしにやと尋に。児女の翫る
一廣谷克岸戔扁ヨ
一月十一月十一月十一月
三人法師といへる草子に。楠正儀君を恨
み奉りて。足利家に降参せんといひけるを。
家長篠崎六郎左衛門といふもの。色々とゞめ
しかども。承引せざりしかば。諫かねて。遁世すと
あるに。本づきたりとかや。是レ大なる偽なり。
孟子も尽信レ書不レ如レ無レ書とのたまへるに。
何故に書生等。多き諸実録には捜ず
して。三人法師七人比丘尼類を引証して。
さしもの忠臣勇士を。かくのごとく蕪穢する
や。尤欲ずべし。此正儀は。始終こゝろを変ぜず。
千剱破城にをいて病死せり。後太平記曰
永徳二年正月楠正儀重病におかされ。死
を待程になりし時。其子正勝正元を呼で。
我父の遺訓を守りて。忠義を励すといへ共。
時いたらずして。其功なく。今死にいたれり。汝等
相かまへて芳野殿に対し。一ノ命を忠義の為
に捨べし。少も其志をひるがへすべからずと。
返す〳〵遺言して。程なく卒しけりと見えたり
補宇野熊王丸楠正儀を狂ふ説
俗説言。大夫判官光教摂津国にありて。楠正儀と
黄谷院弉戔扁四一
一庚辰伊勢州
戦ひしに。光教が家人宇野六郎といふ者討死す。
六郎が子熊王丸。光教に申けるは。楠正儀は。父が
敵なれば。河内に越て。正儀に事へ。いかにもして討
申べしと望む。光教そのこゝろざしを感じて。常に
身をはなたず持たる刀を。熊王に得させたり。か
くて後熊王赤坂の城に行。とかくたばかりて。正儀
につかふ。十六七になれるとき。正儀元服せさせ。
和田和泉守にもとゞり取上させ。和田小次郎
正寛と号け。吉野殿より賜たる鎧を得させ
ければ。熊王涙を袖にかけて悦べり。夜に入まで
正儀が前に有けるが。不図おもひ出て。うたば今
宵ぞと。正儀に目をかくれども。さすがに年ごろの
厚恩。今日の元服のことまで。おもひつゞくるに。
いかで情なく。討奉らんやと。ためらひ。又心をしづ
めて。親の敵。主君の怨。一かたならねばと。う
かゞふに。何心なくわたり給ふ有さま。いたはしく
たえかねけるにや。広縁に出て。倒れふし。大声
をあげて。なきさけべり。正儀をはじめ。家人等
各立出て。いかに〳〵と問ければ。かくすことを得
ず。有つる事を。こま〴〵とかたり。もとゞり切て。
黄谷克畔戔扁四十
一用作書弁及紙四十
往生院にてさまをかへ。正寛法師と号しおこな
ひすまして。居たりけり。光教が得させたる刀
をば。件のごとを。くはしく書添て。古郷へぞかへ
しける。いとあはれなりし事どもなり
今按ずるに。熊王丸父が敵を討んがためと
いひて。正儀につかふる事。甚だ非なり。この
一故に。進で讐を復せんとすれば。君を弑
するの理にまよひ。退て郷に帰らんとすれ
ば。言を食の恥を思へり。花やせむ角やと。
黄稜の如くに狼狽。終には己が髪を剃て。
おめ〳〵と浮屠に帰せり。其所為又あやしむ
べし。彼のみにあらず。古今怯弱の徒。以二仏道
為二逃場一は何ぞや。これもと仏経に。棄恩入
無為。真実報恩者と説。禅録に。父母為
人訴レ殺。若二一挙レ心ヲ動レ念。方始名為一初発
心菩薩一といへるに。甘心すればなり。想夫士
たらん者は。幼より文武を講ぜしめ。異端に
惑ふことなからしむべし。人とまじはるには。鎌
退辞譲を以てし。節義武勇にをいては。
父兄にもおくるゝことなかれ。一事のおくれ
同同十同同四十二丁
片行書類列紙四十
あれば。生涯の瑕瑾なり。但し怯弱なる者
は。文武を嗜み。浮屠を信ぜぬ者をば。偏円
異相なりと唱へり。人ごとにすべて佳と。い
はれんと思ふは愚なり。勇者には褒られ。
一儒夫には。そしらるべし。天の公なるすら。耕
田欲レ雨刈欲レ晴。去得二順鳳一一来者怨欲
芥隠
筆記
思ひあり。いはんや人倫をや。それにかゝはり。こ
れにはゞかりては一生操をたつること難し
古歌に。見なれざほ岩間に波はちかくとも
たゆますのほる宇治の川舟と。よめる意に
比すべし
補細川頼之丹波山国に蟄居の説
俗説云。細川武蔵守頼之。将軍義満の威のお
もくなるやうにと。諸事を執おこなひしかども。
諸国の大名ども。頼之をおもんすること。将軍
の感に大にまされり。頼之見づからの威を減
じて。将軍に参らせばやと思案し。将軍の
御側に居たる者をもつて。ひそかに。言上し
置れたり。今年は。将軍十三歳になりたまふ。
応安六年八月十五夜月見の御会を催し。
黄谷筑弉棧扁曰下
在京の大名不残召よせられ。遊宴数刻に
及べり。兼て相図の事なれば。将軍少し成
儀を乱し給ふときに。武蔵守すゝみ出て。日本
の武将たる人。諸侍の中にて。威儀を乱し
給ふは。よろしからずと。いさめ申さる。将軍少し
御気色損じて。見え給ひけれども。御酒宴は事
おはりけり。翌日頼之を召て仰けるは。夜前
の諌言はさる事なれども。諸人の中にて。当
望の恥をあたふること。以ての外の奇怪也。
向後対面かなひがたしと有ければ。頼之大に
そらおどろきして。退出し閉門して居られける
が。程なく剃髪して。常久と号し。丹波にくだり。
山国といふ所に。幽間の体にてくらされける。義満
十六歳のとき頼之をめしかへされ。ふたゝび天下
の政務を。奉行すべきよし。仰出されけり
太平記
諸註
今按類に。頼之将軍に威をつけ奉らん
がため。わざと内意を言上し。御勘気を
うけて。丹波の山国に蟄居の説は。讒を
さけて。讃岐に退去の事を。作りなをしたる
廣谷筑辨淺扁四十
ものなり。かつて家乗諸実録に所見なし。
此とき義満父祖の譲をうけて。大樹の位に
備り給ふといへども。いまだ幼稚なり。殊更
南方平治せず。畿内近国東国西国の
宮方。気を含み。時をまてり。天下の危き
事。累卯の如し。しかるをわづる。十三の幼
君を残し置て。丹波に引こもり。暗然と
して。蟄居したまはんや。その偽知ぬべし。
家伝曰。頼之以為讒人罔レ極。恐くは。禍
の身に及んことを思ひ讃岐に帰つて。老を
乞る。此時頼之の詩に海南行人生五十
愧レ怒レ功。花木春遍夏已中。満室蒼蠅
掃難レ尽。去尋二禅橋一臥二清風一ニ○頼之祠
堂記曰。嘉慶年中。義満公外議如詣
厳嶌神祠一
義満詣厳島事詳ニ
見今川了俊日記一
枉道入二讃州一
訪二公起居一問以二天下ノ政勢一ヲ一。且竭二三顧之
情一。公不レ獲レ己。再シ諾二公命一ニ越レ年入洛とあ
るを証とすべし
○婦女
補監谷高貞が妻の説
同廣谷院梓幾遍口一
俗説云随谷判官高貞が妻は。先帝の
後醍醐
天皇
より賜れり。高師直におもひかけられて。高貞
及妻子僕従こと〴〵く殺さる
一今按るに。太平記に。後醍醐天皇隠岐国
にうつされおはしけるうち。藤名判官義
綱
一書曰佐々木五郎義清
未孫○系図ニ無二所見一
ひそかに御身方に
属せん由を。女官をもつて。奏しければ。其心
ざしを叡感まし〳〵。官女を義綱にたまふ。
藤名一族をかたらはん為に。出雲に行ける
を。塩谷判官高貞藤名を押へ置て。隠岐
に帰さずと。記しぬれども。堕谷が後醍醐
帝につかべたる事もなく。官女を賜りた
る事も見えず。同書鹽谷讒死の段に
いはく。高貞が妻は。先帝より賜るとあり。
右の説と相違す。おもふに官女を
賜りたるは藤名にて藤名が死後
に。監谷に再嫁したるものなる
べし
補顔に金焼せし女が説
俗説云。いつのころにや。洛陽の者の妻。佛道
に帰依して。夫にいとまを乞。子どもをすて。
剃髪し。ある寺に行て。法をざづからんことを
のぞむ。僧がいはく。こゝろざしは殊勝なれば。容
貌美なれば。他の人口いかゞといひしかば。己が
家に帰り。熨斗に火を入て。額と両の頬
にあてゝ。寺に来り。かくこそ仕りたれと。いひし
かばふかくその心を感じ。法をさづけしとかや
犬著聞集
に見えたり
今按るに。人倫は。天理なり。其夫妻をもつて
累として。しきりにこれを断去とするは非也
一耳目飲食男女の慾。喜怒哀楽の変は
其性の自然なり。生ある者はかならず死し。
始あるものはかならず終あり。豈おどろく
にたゝんや。昔楽正子春下レ堂而傷二其
足一数月不レ出。猶有二ヲ憂色一曰。天之所レ生。地
之所レ養。無二人為一レ大。父母全而生レ之子全ノ帰
レ之ヲ可レ謂孝也。不レ虧二其体一不レ辱二其身ヲ可レ謂
全魚と言れたり。古哥にも。我ながらわれ
もなつかしなき人のわきてのこせるかたみ
とおもへばとよめり。かばかりの心こそなからめ。
同十十九日大阪
父母の遺體に。金やきする事やはあるべき。
仏も西方の賢者ときけば。不孝不貞の
人を容べからず。但し人ありて。かゝるふるま
ひが。仏法にかなへりといはゞ。仏法程あし
きものは世に候はじ
○僧道
補釋道公絵馬神を見る説
俗説云むかし道公といふ僧。紀伊国より摂津
国にかへるとて。ある村を通るに。その辺に屋宅
なし。大なる樹下に宿す。夜半ばかりに。騎馬の
もの三十餘人来りて。翁ありやと問。ありと答ふ
又問なんぞ出ざるや。翁がいはく我年老て歩行
かなはず。殊更馬の足をいためりといふとき。騎
馬の者皆されり。翌旦道公樹下をめぐり見
るに。小祠あつて。半はくづれたり。前に絵馬
あり前足のところ破れたり。道公こゝろみに糸
をもつて。つゞりおぎなひ。神のことばを聞ん
ために。次の夜なを樹ノ下に宿す。又夜半ば
かりに。前の騎馬の者来りて翁を呼。翁
馬に騎てともなひゆく。暁がたに。翁かへりて。
同慶元辛幾遍口
道公にむかひて。馬の脚を補ひしことを謝す。
道公がいはく。さきに来れる輩は何人ぞや。翁
云行疫神なり。彼管内をめぐるに。我その
先駆なり。出ざれば咎をうく。今師の恩を
かうふる。悦び甚だし。なを望らくは。三日三夜
法華経を読でたべといひてされり
一今按るに。揮塵後録曰。聖宮門之兩廡
下所レ尽人馬。皆有有二流汗之迹一。慶暦中。
一夕人馬ノ有レ声。至レ明ニ翻レ之。有二汗流一。汗流一。至レ今
不レ滅とあり。和漢同日の妄誕なり。そのかみ
の者は。僧がいふことをば。見だりに信じて。うた
がふものなしとみえて。絵馬神ごときも。書
にのせて。世に伝へたり。近世は世上文明に
なりて。用る者なき故か。いひ出すものをも
きかず。嘉尚すべきかな
廣益俗説辨然編四十終
「寛文化」」一寛文「
狩衣
第1
廣益俗説辨四十一
残編
地理
広益俗説弁残編四十一目録
神村長
○雑類地理
狩野氏図書記
豊岐書
補上総国下総国の説
補常陸国の説
補筑前ノ国筑後ノ国の説
補豊後国の説
補兵庫築嶋の説
浦河波鳴門の説
補駿河賤機山の説
補陸奥千咲原の説
同一寶八合兌梓淺扁四十一
大不言弁反糸廿一一
補下野室八嶋の説
補大和龍中谷の説
補外国をからと称する説
補諸国名後改二文字一説
補古称レ国後。改二郡郷一説
補異邪書所レ載日本国郡等異字ノ説
廣益俗説辨残編四十一
肥後隈本井澤節長秀輯録
地理
○雑類地理
補上総国下総国の説
俗説云上総下総とは。つさは。木の枝なり。昔か
の国に長さ百丈の楠生たり。時の帝の叡聞
に達し。勅使をたてゝ。見せしめられ。吉凶を
卜せらるゝに。天下調伏の箒木なりと申すに
よつて。かの木を伐せらるゝに。南ノ方へたをれ
たり。故に上つ枝のふせるところを上総といひ。
庚戌十一
下枝のふけるところを下総といふ
今執類に非なり。古語拾遺曰。天富命更
求二沃壌一。分二阿波斉部一率往二東土一播二殖麻
穀一好麻所レ生。故謂二之総国一。穀木所レ生謂二之
結城郡一○註曰。古語麻謂二之総一今為二上総
下総二国一是レ也○同書ノ句解曰。結城郡。在二リ
総一考へ見るべし
○常陸国の説
俗説云常陸とは。此国にしほさし見ちて国
民のわづらひとなるに依て常陸国といふ。没す
といふこゝろなり
今按るに非なり。常陸ノ風土記曰。是国通路
一相望。郡郷接レ境与二江海之隔一与二津済之
号一峯谷開レ路ヲ相通名曰二常陸ノ国ト一
釈日
本紀
を常陸国誌にくはしく見えたり
な
補筑前ノ国筑後ノ国の説
俗説言崇神天皇紀伊の国より発船して
筑紫の池をこぎわたり給ふ。海上に不知火を
見て。船の前につく所を。筑前といひ。後に
つくところを筑後と云
一同黄谷乾草盛扁口一
廣任評議
今按るに非なり。筑後風土記曰。筑後の国者本
与二筑前ノ国一合為二リ一国一此ノ両国之間山ニ有二峻狭
坂一往来之所レ駕鞍藉被二摩盡一土人曰二難
蠣坂一
釈日
右に鞍薦を摩尽すといへる
本紀
意にて。筑紫と名づけ。後に両国に分つて。
但し筑紫の説
筑前筑後となづくとなり
まち〳〵なり。貝原
篤信築石之弁をあらはす。
自姓集に見えたり。爰に贅せず
補豊後国の説
俗説云。豊前豊後は。崇神天皇かの国に大
内裏をつくり給ひ。此国は便よろしからずとて
都を西へひきてたてしる前に宮づくりの所を
豊前といひ。後に宮づくりの所を豊後と云
今按るに非なり。豊後風土記ニ曰。豊後の国
者。本與二豊前ノ国一為二一国一昔経向曰代官
御宇大足彦尊
景行
詔豊国直祖莵名
天皇
手一遣治二豊国一。往到二豊前国中臣村一干レ時
日晩止宿明日昧爽忽有二白鳥一従北飛一従北飛」
来朝二集此村一ニ其ノ鳥化為レ餅片時之間更
一化二芋草数千許株一花葉冬栄荒名手
見レ之為レ異歓喜云。化出之芋所未二曽有一
一同同四十一
レ見実至徳之成乾坤之瑞既而参二上シ朝
庭一ニ挙状奏聞天皇勅二菟名手一曰。天之瑞
物地之豊草汝治国可レ謂二豊国一重賜
レ姓曰二ク豊国直一因ヲ曰二豊国一ト後分二両国一ニ次豊
後国為レ名
猶つまびらかに
豊後雑記にみゆ
考へ見るべし
補兵庫の築嶋の説
俗説云摂津国矢田部郡兵庫ノ策島は。平相
国清盛はじめて築くところなり。そのはじめ。築
きおはるごとに。大風雨おこり。潮さかのぼりて。
ふたゝびもとの蒼海となれり。これによつて。
阿波民部太輔重能奉行して。往来の者。三拾
人をからめとり。海底にしづめて島成就せん
ことをはかる。松王丸といふ者。これを見るに
忍びず。とらはれ人の命にかはりて。一人海に
入たり。此とき数石に絞の文字を書写し
投てこれを築く応保元年七月十三日嶋
すでになれり。兵庫の築島とも。経島とも一
名づけりは
近年印行書に人柱を立て嶋をつか
れしといふは人足数百を用たる事をいふ人を
しづめたるにはあらずとしる
せり安作信用すべからず
今按るに。清盛島を築て。ならざるとて。
十十十十日卯八月十一
往来の者を搦めて。海に沈めんとせしとき。
松王丸見るに忍びず。己が身をもつて。数
人に代らんと望しを。何の思惟もなく。水
に投ぜし事。罪悪もつとも甚し。一不
義を行ひ。一不辜を殺して。天下を獲る
ともせず。いはんや築嶋をや。龍ばよし。ならす
は己なん。因ておもふに。聖宋拾遺曰。昔斎
景公之時。天下大旱三年。卜レ之曰。必以レ人
乃雨。景公下レ堂。頓首曰。凡吾所二以求一雨
者。為二吾民一也。今必使二吾以レ人祠一。乃旦雨
寡人将自当レ之。言来レ畢而天大雨方千
里とあり。人の君としては。かくこそ有べけれ。
清盛は。それに似気なくて。生涯人を殺す
ことを嗜じけるが。天罰踵をめぐらさず
一族こと〴〵く断滅に及べり。其報また
厳なるかな
《題:《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:《振り仮名:鳴門の説
俗説言。むかし阿波の鳴門甚しく鳴けるに。
和泉式部一首の哥を詠ず。そのうたに
ゑのこぐさおのがたねとてなるものをあはの
黄谷院倅幾扁四十一
なるとは誰かいふらん。それよりして。ふたゝび鳴こ
となし
今按類に非なり。阿波渭津記曰。阿州謂
津之為レ景也。臨二碧海一倚二畳嶂一。帯二長川一
布二平原一。吾耻之島東。肇。高越之巓西
連。北有二鳴門之急灘一。逆流暴浪風疾雷
諸国奇跡考云阿
下略
奔。即海若之所匿喩諸国奇跡考云。阿
波の鳴門は。塩ときになれば。山海すべて
どろ〳〵と鳴て瞬目の間に七尺余あが
る。西南の塩息十八町の喉にせまるおび
たゝしき事推はかるべし。しばしの間に。此岩
の上を漲り越やとあるを考ふべし
補駿河賤機山の説
俗説言。むかしいづれの帝にや。軍に負て。駿河の
山中にかくれ給ふとき。賤女柿を織て居たり
しに。宿をかり給ひ。御運をひらかれしより。此
山をしづはた山と名づけたり
一今按るに非なり。駿河風土記曰。安弁郡
今作二安
部郡
思津機山。或ノ志豆機山。或ハ賤波多山。
又号二青葉岡一志津機社日本武尊東二征
廣谷筑弉淺扁四十一
蝦夷一之時。遭二野火一。屯二此山一避二其労阨一尊深
レ志専二倭姫命之神教一仍レ之以二栲幡千々
姫一。祭二此山一ニ合レ之以二雑日女尊一志津機之名。
本二女功一依二両神之名與二其功業一而号レ之
とあるを考へ知へし
補陸奥千咲原の説
俗説云。ある歌書云。みちのゝに名たかき千咲か
魚は。そのかみ坂上田村麻呂うゑ岡れし跡にて
今も芍薬など残れり
一今按るに。田村麻呂にはあらず。城長茂なり。
会津風土記。曰。千笑原在二河沼郡一。壽永
年中。越後ノ城ノ四郎長茂築二十八館于
蜷川荘藤村宇内村一。有二遺趾一焉。此原
長茂與二其妻竃御前一遊観之地也。當
時栽二千種芍薬一。至レ今満原皆芍薬芍薬而
呼二千笑原一。芳芳遠聞故其南曰二香原一
東北。有二袋原一形如レ袋。有二竈塚一。有二リ御前
清水一。有レ沼々ノ中有リレ洲。夫妻宴二于此一曰二
舞台沼一東南ニ有二リ経塚一。相伝ノ竈使二極楽
寺僧侶冩レ経有レ経レ之。今原上之石時
同二頁答梵弉幾扁四十一
見二文字一云○会津四家合考附録曰。今蜷
河荘宇内村藤村共ニ有二古塁一存以レ今考
藤村ハ行レ越別経也宇内辺亦行レ越本道
也。今宇内村ノ北六七里ニ有二千開原一以二苟
薬多種ヲ得レリレタリ名ヲ也此原東北二三里ニ有二袋
原一此ニ有二リ竈塚御前舞台沼等之陳跡一
傳ヲ曰。毎レ春花ノ時長茂携二於婦人竈御
前一遊二千開原一ニ又遊二袋ヲ一袋原一ニ歌舞云如レ此則
竈ル者恐レク妓女ヲノ而長茂妾乎以上ノ事跡是
長茂毎春出レ越巡二検於封疆一ヲ而到レ此ニ可レ此ニ可レ有二
此事一也とあり。考へ見るべし
補下野室八嶌の説
俗説云。下野ノ国宝ノ八島は。往昔八島大臣と
いふ人住せしより其名を得たり
今按類に非なり。室の八郎は。上古木花。
開邪姫若戸室をつくりて。こもり給ひ
し旧跡なり。和歌に煙をよめるも。無戸
室に。火を放ち給ひし故事によれり。八
嶌は。大八洲を表せり。聞耶姫の神社
あり。羅ニ山文集ニ曰。宝ノハ嶌ハ池ノ中ニ有リ二八嶋一
一寶俗説辨幾編四十一
祭二八神一ヲ一。考二神代ノ巻一ヲ曰。故皇孫就而留
住時彼国有二美人一名チ曰二鹿葦津姫一欲一欲
神吾田津姫。亦名ハ
木花之開耶姫
皇孫問二此美人一曰汝誰
女子耶對曰妾是天神娶大山祇神所
生兒也皇孫因幸之即一夜而有レ娠皇
孫未之信曰雖二復天神一何能一夜之間令
レ人ヲ有レ娠乎。汝所レ懐者ハ必非二我子一ニ我レ子一。鹿
葦津姫念恨の作二無戸室一入居其内一。
而誓之曰妾所レ娘若非二天孫之胤一必
當二獲滅一如實天孫之胤火不レ能レ害即放
火焼レ室始起煙未生出之児号二火爾降
命
是レ隼人等
始祖也
次避レ熱而居生出之児号
彦火々出見尊次生出之児号二
是レ尾張ノ連
等ヵ始祖也
凡三子矣○藤浜成天書ニ曰。既
而皇孫遊行之状輝照令六合為八坂
瓊玉之光則自二櫛比之蓋上之天浮橋二
立二於浮渚在平処一而賛完の無主国
自二頓岡一覓国求里行幸為止御故着二
御於吾田長屋笠狹ノ之碕一其人魁號二
事勝国勝長狹一待二皇孫之行幸一仍之
皇孫勅二二神一ニ問テ曰。自レ此以下在二何国一耶否
矣。此有リレ国請任二勅意一遊御故皇孫留二
御其地一于レ時有二国ノ之色人一曰二鹿葦津比
呼一亦名木花開耶姫。皇孫任二叡御精一暫
々焉。依之勅曰汝乙女誰女子耶於二此国
有二此ノ色者一宜雖二天神一不レ知レ此矣對曰ク矣對曰ク妾
是地祇大山祇之神子也皇孫暫御此
女一幸之一夜即有レ娠。皇孫因ヲ之始且此
不信宸慮無レ分曰ク雖二天神之造功一何能
一夜之間。如斯有娠乎汝所懐者必非二
我子也歟故鹿葦津比呼の作八咫無戸
室二堀八咫之径一入二入二居其内一誓ヲ曰ク妾所レ奴
若非二天孫之子一者必當二成レ灰為レ水如
実天孫ノ之子雖火敢不レ害雖水敢不レ濁
即放火焼室火焼レ室火将二二方一時生二火闌逆命一
火将二三方一時出二三方一時出見尊一○伊勢
一朝熊社。駿河冨士浅間社皆開耶姫を
まつれり。伊勢諸神記曰。朝熊は。木花開
一耶姫の別名。芦津姫の通音なり。あさ
あし。五音通じ。ま。め。通ずる故に。今の俗
同実俗児疫漏四十一
語あさまといふ。よくかなひたる詞なり。又伊
勢朝熊の社を。小朝熊ともいふ。小の字は。
大小の心にはあらず。小と木と同訓なり。花
開耶姫の木異なることをいふ。東家秘伝
にも。開耶姫木精と見えたり考へ知へし
就中ノ一字
《題:大和龍中谷の説
参審
俗説云大和ノ国高取都に。龍中谷といふ所
あり。そのところに洞あり。旱歳には。牛骨を
洞になげ入るれば。たちま地に雨ふると云
今按るに。もろこしにも。これにひとしき事有
尚書故実曰。舒州満山下有二九升一。其実
九眼泉也。旱則殺二一犬投二其中一大雨必
降。犬又流出。又曰ク南中久ノ旱久ノ旱。則以二テ長。
縄一繋二虎頭骨一投レ水ニ俄ニ雲起潭中雨亦
随降○蓮窓日録曰。萍郷縣羅賈山
下有二テ石潭一歳旱以二ノ長キ木一投レ之ニ輙雨々
止木浮出とあり。是等のたゞひ和漢も
つとも多し。珍しとするにはたらず
補外国をからと称する説
俗説云外国の人はじめて我国に来る者は
同廣谷院辨慶隔四十一
都奴我阿羅斯等なり則意冨加羅国の
王の子なり。然故に外国をからといふ
山崎垂加翁曰ク外国をからと唱ふるは
嘉称にあらず。日本を褒て実とし。もろ
こしを貶して虚とするの謂なり。日本紀
に替之空国也とあり空国はむなしき
国。則からくにといふに同し。殻蛻空蝉客
木などのたぐひ。中に実なきにたとへたり
此説垂加門人
戸田包石子話
これによつて思ふに。伊賀風土記
一曰。伊賀ノ国始属二伊勢国一。清見原天皇
天武
帝
以二吾餓郡一ヲ一分為二一国一其国名未レ定十餘
歳。謂二之加羅具似一虚国之義也。後改二伊
賀吾餓之音轉也
倭姫世紀曰。天武天皇。庚
辰年七月。割伊勢国四郡
立二此国一○伊賀地志曰。伊賀国上古属二伊勢国。孝霊
天皇御宇分之。号此地者。旧此地者。伊賀津比古。伊
賀津比呼ノ所レ領スル也。以テレ故ヲ
此説また符合せり。俗
為二郡ノ名一云。与二前説一少異リ
説の違へるを知べし
補諸国之名後改二文字一説
山背
旧事紀
今ノ山城
山開
大和本紀
山代
日城本紀
同
続日本紀
大養徳
今ノ大和
山跡
弘仁私記
同
山戸
延喜開題
記同
十四十七日廣谷院浄盛扁四十一
ヤマシロ
関木代
万葉集
同
同
大倭
同
五口餅
伊賀風土記
今ノ伊賀
凡河内
古事記
今ノ河内
歌変
続日本紀
今ノ甲斐
阿波
同書
今ク安房
淡海
旧事記
今ノ近江
斐陀
旧事記
今ノ飛騨
上毛野
シモツケ
下菟毛
旧事紀
今ノ上野
古事紀
同
越
日本紀
同
島津
旧事記
今ノ志摩
相武
旧事死
今ノ相模
日城本紀
淡
近淡海
古事記
同
科野
古事記
今ノ信濃
上菟毛
古事記
同
道奥
旧事記
今ノ陸奥
能等
旧事紀
今ノ能登
但波
鎮座傳記次第記
鎮座傳記次第記
元々集今ノ丹波
但遅麻
旧事記
今ノ但馬
多遅麻
古事純
同
同
珠流河
無邪志
同書
今ノ駿河
同書
今武蔵
總
古語拾遺
今ノ上総下総
三野
旧事紀日本霊
異記今ノ美濃
信農
日本紀
同
下毛野
旧事紀
今ノ下野
高志
旧事記古事紀今ノ
越前中に後能登加賀
賀我
同書
今ノ加賀
且波
古事記
同
稲葉
旧事記
今ノ因幡
稲羽
淤岐
古事記
同
古事紀
同
伯岐
針間
旧事紀古事
紀今ノ伯耆
意伎
旧事紀
今ノ播磨
吉備
旧事記
今ク隠岐
旧事紀今ノ備
前備中備後
阿岐
同書
今ノ安藝
穴戸
日本紀
同
粟
旧事紀神祇本
源註今ノ阿波
周芳
古事記
今ノ周防
木
古事紀神名秘
書今ノ紀伊
穴門
淡道
伊余
旧事紀
今ノ伊予
都佐
旧事紀
今ノ長門
古事記
今ノ淡路
旧事記
旧事紀
今ノ土佐
土左
日本紀古事紀
同
熊襲
大八洲図説曰熊ハ薩摩也襲大
隅也与前説相達。略記ノ説恐非
同扶桑略記曰熊襲国鹿臥郡○今按二
和名類聚鈔佐渡国無二鹿臥郡○但
筑志
旧事紀今ノ
筑前筑後
豊
旧事紀豊後鳳土記
蕎車紀豊後風土記
今ノ豊前豊後
火
旧事記
今ノ肥前肥後
颯間
大和本紀
今ノ薩摩
大角
同書
今ノ大隅
伊吉
旧事記
今ノ壹岐
津嶋
旧事紀古事記古古又記
今ノ対馬
集嶋
廣谷筑眸淺幅四十一
大和本記
同
伊伎
古事記
同
補古称レ国後改二郡郷一説
葛城国
今大和国葛
上葛下郡
廬原國
今駿河国
廬原郡
穂国
今参河国
宝鉄郡
久努国
今遠江国山名
郡久努卿
師長国
今相模国餘
綾郡磯長郷
知々夫国
今武蔵国
秩父郡
須恵国
伊甚国
今上総国
周淮郡
今上総国
夷満郡
印波国
今下総国
印幡郡
馬来田国
今上総国
望陀郡
上海上国
今上総国
海上郡
武社國
今上総国
武射郡
下海上国
今下総国
海上郡
菊麻国
今上総国市原
郡菊麻郷
新治国
今常陸国
新治郡
筑波国
久自国
今同国
筑波郡
今同国
久慈郡
茨城国
今同国
茨城郡
高国
今同国
多珂郡
仲国
今同国
那珂郡
菊多国
今陸奥国
菊多郡
阿尺国
浮田国
今陸奥国
安積郡
今同国
宇多郡
伊久国
信夫国
今同国
伊具郡
染羽国
今同国分為一
伊達郡
白河国
今同国
標葉郡
今同国分
為高野郡
後分為二大沼河沼郡一〇
大和本紀ニ作二志良川ニ一
石背国
須羽国
今信濃国
諏訪郡
三国国
江沼国
今加賀国
江沼郡
江沼郡
久比岐国
今越後国
頸城郡
十一日
今同国
明石国
明石郡
羽咋国
二方国
大伯国
三野国
品治国
阿武国
久味国
風速国
今同国
御野郡
今備後国
品治郡
下道国
オホシマノ
大嶋国
今長門国
阿武郡
今伊予国
久米郡
今同国
風早郡
熊野国
小市国
波多国
今同国内分
為伊達郡
石城国
今越前国坂
井郡三国湊
角鹿国
今同国
磐城郡
今同国
敦賀郡
今能登国
羽咋郡
オロ君
今但馬国
二方郡
今備前国
邑久郡
今ノ備中国
下道郡
今周防国
大嶌郡
今紀伊国牟
婁郡熊野
今同国
越智郡
今越中国
伊弥頭国
射水郡
鴨国
今播磨国
賀茂郡
上道国
今同国
上道郡
加夜国
今同国
賀屋郡
都怒国
長国
怒麻国
今同国
都濃郡
今阿波国
那賀郡
今同国
濃満郡
今土佐国
幡多郡
末多国
一今筑前夜須郡
馬田下座郡馬田
同長谷兄梓戔扁四十一
宇佐国
末羅国
葦分国
今豊前国
宇佐郡
国前国
今豊後国
国前郡
比多国
今肥前国松浦郡
古事紀ニ未羅県
今同国ア
今同国
葦北郡
天草國
今同国
天草郡
阿蘇国
葛津国
○右国造本紀ニ所載也
今同国
日田郡
今肥後国
阿蘇郡
今肥前国
藤津郡
許の国
山城風土記○今山
城国宇治郡
信太国
同書
同
補郡ノ名後ニ改二文字ヲ一説
山城堕国
日本紀
今ノ乙訓
飽波
同書
今忍海
幡垂国
常陸国誌今常
陸国信太郡
大和菟田
河内更荒
同書
今宇多
同書
今讃良
丹比
続日本紀
今ノ丹南丹北
○和泉水
同書
今ノ和泉
甲可
鎮座傳紀同本縁
今ノ甲賀
阿提
同
今ノ有田
安諦
日本霊異記
同
年魚市
大和本紀
同
参河播豆
三代実録
今ノ播頭
駿河安辨
駿河風土記
今ノ安倍
玖珂
英多
大内日記
今玖賀
続日本紀
今英田
同同二十一日同十一
丹治比
日本霊異記
同上
近江粟田
日本紀
今無
同伊伊
日本紀
今ノ伊都
阿氏一
続日本紀
同
尾張阿育知
同書
今ノ愛智
ハグリ
葉栗
塩嚢鈔
今ノ羽栗
遠江長田
続日本紀後世
分二三郡ニ云
周防能野
□苫田
藤原
続日本紀
今無
一続日本紀○三代実録
一分吉田為苫西苔東
一続日本紀。後
改藤野一
○二
備中賀夜
備中風土記
今賀屋
亀石
日本紀
今ノ神石
備後三次
三代実録
今無
長門豊東。豊西豊田。
長禄年中大内氏日記
今豊浦郡歌
厚東
同書
今無
同書
吉田書佐渡鹿外
吉田
今無
佐渡鹿臥
扶桑略記
今無
下総岡田
延喜式○後
改豊田一
安農
日本後紀
今無
寛邇磨
伊予
潰日本後記
今近摩
今近摩
日本後紀文徳
実録後改新居一
国前加我
日本霊異記○日本後紀曰
福耆八橋
割越前国加賀江沼二郡号加賀国
三代実録
八幡歌
伊賀敢
倭姫世紀神名秘書
今ノ阿拝郡
阿闍
神宮儀式帳
同
隠
倭姫世紀鎮座本縁
今ノ名張
名墾
釈日本紀
同
レマネヤマクニ
出雲島根山国
出雲小縁起曰後分二嶋根楯縫秋鹿
三郡三郡之名ノ詳干出雲風土記
韻鑼
搗舸
日本紀
今那珂
筑前風土記
今遠賀
筑後三木
日本紀
今三池
志曰吉志麻後
世曰吉志見一
皮志
同書
今ノ合志
豊前宮子
日本霊異記
今ノ京都
伊蘓
同書
今ノ恰土
御牧
大内家日記○今無
但謬二御金一ヲ一
第三者資熊
万葉集◯今ノ
一杵嶋○肥前地
肥後熊
闕宗
日本紀
今ノ球磨
筑前風土記
今ノ阿蘇
日高
豊後風土記
今ノ日田
日鷹
硯田
豊西記
同
豊後風土記
クシウラ
大隅守ト
大隅風土記○今ノ始
羅郡串伎郷歌
肥多
同書
同
同古庚
慶伊佐
塩嚢鈔
今ノ児湯
壹岐風土記○今壹
岐郡鯨伏郷
補異邦書所載日本国郡等異字説
同三百八軒文同廿百
讃耆
笠後
非谷
武備志
讃岐
同書
筑後
武備志
肥後
蓬哥
武備志
豊後
都斯麻
北史
対馬
伊都
甲斐
肥兒
竹斯
腰田
魏志
伊豆
続字彙補
甲斐
宋史
同
杜祐通典
筑紫
図書編
伊勢山田
阿乃奴子
同
図書編
沙界
阿売介撒
同書
同国尼崎
素埋
蒼霞草
和泉堺
同書
摂津須摩
元什麻舵
同書備前牛窓◯厳嶋詣
記西国船路記作二牛転一
阿家殺記
同書長門
赤間関
法哈噤
同書
筑前博多
八角島
元史
同
笠前
カヒ
甲斐
ヒゴ
肥后
四部稿選
筑前
西朝平壤録
同
登檀必究
同
一支
洞津
同書
壱岐
武備志
同安濃津
瓢船各
図書編
摂津兵庫
阿家世
同書
播磨明石
茄売茄里
同書
同国浦覇
阿介馬矢記
同
同書
花旭塔
武備志
同
法哥総機
阿麻国撒
牙子世禄
也望加
同書
同箱崎
平壺
元史
肥前平戸
飛蘭嶋
三才図会
同
蒼霞草。圖書編
肥後天草
同書
同八代
開懐世利
同書
同山鹿
可苦懶
昏陀
同書。同飽
田郡河尻
図書編
図書編
豊前小倉
達加代
福の
同書
同宇土
海東諸国記○同
国玉名郡高瀬
同書
豊後府内
撒一基
多藝
同書
同佐伯
都伊沙只
諸国記
同鶴崎
同書
大隅種嶋
鹿国什磨
図書編○
薩摩鹿兒嶋
広益俗説弁残編四十一終
同四十七日午
第
将
46册
廣益俗説辨四十二
残編
地理
廣益俗説辨殘編四十二目録
○雑類地理
狩野氏図書記
豊減三
關摂津国琴引坂の説
補肥後国踊山の説
補同国弥護山の説
補駿州冨士の人穴の説
補伊勢国鏡石の説
補伊豆国碁盤石の説
補土佐国潮石の説
補同国響石の説
同同十二
補土佐国動石の説
補隠岐国葛田の池の説
補伊勢国井谷の水の説
補常陸国出水河の説
補肥後国鹿子木赤井の説
補同国阿蘇郡小国の奇水の説
補阿波国星石山の説
補出雲国玉造の熱湯の説
広益俗説辨残編四十二
肥後隈本井澤節長秀輯録
○雑類地理
補摂津国琴引坂の説
俗説云摂津国に琴曳坂といふあり。折〳〵琴のひゞ
きあり。此故になづく
今按るに。もろこしにも似たる所あり。事言要玄
引二テ文海披沙一曰安定西隴道一谷中有二弾レ筝之
声一行人皆テ聞レ之謂二フ之弾筝谷一金陵谷寺ノ東ニ有リ
レ谷践レ之空々然以レ手ヲ拍則應声如二琵琶一亦曰二ヲ
同廣谷筑野淺編四十二
片不吉幸死義四一二
琵琶谷一と此たぐひなるべし
聞二杵声一○湖中記曰衡山如聞二カ二結歌之声ヲ一○追考慶陽
府ノ棒琴山山ノ畔有レ洞風来有レ声彷彿若二琴ノ音故ニ名ク
補肥後国踊山の説
紀異志曰嵩山ニ曰高山ニ有二玉女楼
帛石立秋前一日夜中常に
俗説云肥後国阿蘇郡に踊山といふあり川の辺
に水神をまつれり旱のときおどりをなせば雨ふる
と云これによつて水神の社を土俗踊堂と名づく
信太草子におどりどうの山をこえとあるはこれをいふと伝ふ
又山鹿郡にもおどり堂と唱ふる所ありいづれか分明ならず
一今按るに水経曰ク江水野乃チ三-峡之首也。県有一山
一澤一水神旱時鳴レ皷請レ雨必應とあり此たゞひなり
補同国弥護山の説
俗説云同国合志郡に弥護山といふあり。山に風穴
ありといふ。あるひは此山の花木を。人取ときは。忽に
風ふくともいふ
今按るに水経曰。河水又南辺二河ノ東一北風県ノ西一
注ニ曰河水ノ南区二北屈点リ県ノ西十里一有二一有二風山一上ニ有レ穴如
一レ輪風気蕭瑟。廬山後録ニ曰東塔広福院ノ寺
前ノ山中ニ有二風穴一故ニ多レ風。事文類聚要玄曰方
山ノ荊州府長陽ノ南四面俱方有二風穴一夏ハ則風
出テ冬ハ則風入ル春秋分ノ則静又曰汝州東ノ上ニ有二
風穴一と。右に同し
廣谷荒野淺扁四十二
一用書籍弁ノ為書書
補駿州富士人穴の説
建仁三年六月三日。源頼家の命によつて。仁田四郎
忠常。従者五人を具して。駿州冨士の人穴に入
翌日忠常穴より出ていはく。松明をとぼして穴に
入に。路の間に水ながれて。足をひたす時。小き蛇
出て足をまとふを。切流しすゝみゆくに。なまぐさき
にほひある所あり。芳しきにほひある所あり。足の
下に雷のはためく音して。鬨をつくるかごとし。漸
〳〵して少ひろき所に出たり。川向に松明のごとき光
あり。光の内に異形の人たてり。従者はこれを見て立
どころに死す。忠常はたまはる所の御剣を。川に
なげ入て帰り来候と申けるとあり
東鑑北条九
代記等
今按るに談苑曰。部州岑水場往歳銅発掘地
二十余丈即見レル銅ヲ今銅益少ク掘レルリ地ヲ地ヲ益深ク至二七八
十丈一。役夫云フ地中変恠至テ多シ有二冷煙気中レ人ニ死
役夫掘レテ地ヲ而入ル必ス以二長キ竹ノ筒一ヲ端置一ヲ端置レ火ヲ先ツ試レ之
火焔一青即チ是。冷烟気也。急避レ之ヲ勿レソテ前の色有二
地火一自二地中一出ツ。一出数百丈能ク燈レ人ヲ役夫丞以
レ面ヲ合レル地ニ令二火自レ背而過一乃過一乃免ル有二リ臭気至テ腥二
悪人間所レノ無者也忽有二異香一芳。復亦ク人間ニ所
鹿倅議辨列織四十二丁
蕪者也とあり富士の人穴の事に相にたり
補伊勢国鏡石の説
伊勢国度会郡宇治橋より十七八町程水上
に西にむかひてたてり石面清浄明白にして
向ふ者金体衣類の紋まてうつる草木の蔭は
なをうつる也
勢陽化○追考雍州府志曰鏡石在二洛北ノ
峰北鷲峰ノ下一ニ其石横出ヿ二丈許高半レ之其石
面平ニテ如レ砥光如
レ鏡ノ因テ名二鏡石ト
今按るに九域志曰月林国西南ニ有二恠石数百
里光明澄徹可レ監二人ノ五臓六腑一ヲ謂二之仙人鏡ト其
国人有レレハ疾起二病照レ之遂知二病屍一○
東有二水之所出○事言要玄曰微州
府ノ石照山ノ績溪東ニ有レリ石高サ二丈光リ可レ鑑レ物とと
るにひとし
追考ニ雲林石譜ニ曰永州神陽縣ノ語渓山岩之
側有二立石色深青ク光一ツレ照物ヲ柿州浦安県中
中一光石明
如レ鏡ノ頗ル多レ
補伊豆国碁盤石の説
俗説云伊豆の国奈須浦に碁盤石あり石上に
縦横の画あり碁秤のごとしむかし源頼朝蛭島
におはせしとき此山にあそびて碁をうち給ふ
その碁石なりと云
鈴秋峰曰大明一統志曰棋盤山ノ在二天順府ノ西三
廣谷荒井淺扁四十二
庸行議勢死統四十二
十五里一ニ上ニ有二碁盤石一俗伝フ金ノ章宗嘗テ奕二於
此一倭漢俗称相同。
補土佐国潮石ノ説
俗説云土佐国に湖石といふあり中くぼく水たま
りしほの見ちひに増減すといふ
一今按るに洞天清録ニ曰宋ノ趙希鶴曰紹興一
士大夫ノ家ニ有二リ異石一起レ峰ヲ今レ峰ヲ今之趾中ニ有レ水應ヲ
レ潮ニ自ラ生ヲ以レ之供二研滴一と同じ
補同国響石の説
俗説云はじきてなること金のごとし
縷音
一今按るに鄭常洽聞記曰南嶽的樓
嗜
嗜
峰有
一稽石一呼喚則応如二人共語一南州南河県ノ東南
三十里丹渓有二響石一高サ三丈五尺濶二丈状如
臥獣一人呼レ之応笑亦応レ之塊然独処亦観
曰二獨石一ト也○始興記曰県下流有二一石室一石室一内ニ在二
一懸石一扣レ之声若レ磬嚮十餘里とあるたぐひ
なり
補同国動石の説
俗説云大さ六尺高さ四尺あり上に一尺の小石有
ゆびをもつて六尺の大石をうごかすに小石動き出ヅ
同同十一日午後十二
今按るに事文類聚要玄ニ曰厳州府ノ一指石在二
相廬西一ニ一長リ一丈高サ五尺以レテ手ヲ抵レ之ヲ抵レ之ハ則動人力多一
則不レ能レ移と同類。なるべし
補隠岐国葛田池の説
俗説云むかし後鳥羽院隠岐の国にうつされ給ひしか。
あるとき海部郡森郷葛田池辺に御遊の夕
蛙鳴松風吹てかしかましかりければ帝の御歌に
かはづなく葛田の池の夕たゝみ聞まじものは
南風のをと是より此所に蛙なくことなし所を出
て四五歩も過ざるになくことつねのごとし
今按るにかゝる所諸国にあり肥後国菊池郡
にも蛙なかざる一村あり録異記曰廬山ノ西南七
水経注曰江水
十里無二水蛭之患一とあるも相同し
浦一也江之右ノ岸ニ有二李姥浦一
左ニ得二広武口ノ江
浦中偏ニ無二蚊吶之患一矣
補伊勢国井谷清水の説
俗説云伊勢度会郡にあり。此泉旱魃にもつき
ず霖雨にもあふれず
今按るに洽聞記曰。防陽有二天池一在二燕京中
上一周廻八里陽旱不レ耗陰霖不レ溢○通鑑地理
通釋ニ曰天池ハ在二リ嵐州静楽県ノ北燕京山ノ北燕京山ノ上周廻
八里陽旱不レ耗陰リ霖モ不レ溢○録異記曰薬水ハ
在房州西四十里一ニ水常ニ数寸不レ溢
補常陸国出水河の説
傳ヲ云ク常陸国三日原の東にあり。活水穴なり。
人馬の声をきけば涌。沸湯のごとし
今按るに此たぐひ多し豊後風土記曰速見
郡。玖倍理湯井
西一
在二郡
此湯ノ井在二郡ノ西ノ河一ニ有レ山
東ノ岸ノ口湯ノ色黒ク泥土常ニ不レ流人竊ニ到二井辺一
発声大言驚鳴騰二丈餘許其気熾熱
不レ可レ向レ腫草木悉ク皆ナリ枯姜因ヲ曰二温湯井一俗語
曰二玖倍理湯ノ井一ト○入蜀紀見ニ曰巴縣不語灘々
険甚ニ相伝フ舟過レ此ヲ戒二ル人ノ言一ヲ々ハ則水勢潰湧
不レハ語則平易○林水録曰温水ハ出竟陵之新
陽県ノ東一ニ澤中口ノ径二丈五尺根岸重沙端浄
可レ愛ノ静以察レ之則淵泉如鏡聞二人聲一聲一聲一聲ヲ則揚
湯奮発其熱可二以将一レ鶏ヲ○鶏ヲ○事言要玄曰南京
鳳陽府ノ咄泉壽州人至テ大ニ叫大湧小ク叫ハ小ク湧ク
一咄レノ則湧リ彌、甚シ又曰應天府ノ喜客泉在二茅山一
客至ノ則湧出故ニ名ク又有二撫掌泉一聞二撃レ掌之
声一声一則湧又曰廬州府ノ矢泉ハ人有レハ笑リ漫泉益遽
同同十七四四十七
沸○潜確類書曰西寧衞有レ泉聞二人足音一即チ
追考エ豊後風土記曰日田郡五馬山温泉
湧と見えたり
其穴似井丈餘無知深浅水色如紺常ニ
レ流聞二人之声一驚惶騰二泥土一一丈余○会津風土記ニ曰東嶽熱満
在耶麻郡東嶽西腹自石邊二竅出焉硫黄出味酸渋シ能治
積聚一盛夏ノ間人多集二于此一或ハ浴レ之飲之不二
敢高声語リ若二喧話一ノ則雲霧驟起風雲暴ノ雲暴ク至ル
補肥後国鹿子木赤井の説
俗説云肥後国山本郡鹿子木村に井あり地
震ごとに水色甚赤し何故といふことをしらず
一今按るに五雑組曰黄山ノ下温泉相伝朱砂在二
其ノ下一ニ一日有二テ樵子一早邉レ之ヲ見泉ノ水
片若二桃花一ノ者浮中満水面一ニ驚キ恠怖ヲ以語レヲ語レル人翌日
都里競往見レ之則無二所見一矣此たぐひにや
補同国阿蘇郡小国の奇水の説
肥後国阿蘇郡小国黒川村の内谷ノ合に川あり。
水中に穴あつてわきあがる。少しもあつからず。此
所にいたる鳥獣こと〳〵く死す。人及牛馬狗は
恙なし
一今按るに雲僊雑記。引二罫郡名録一曰。秘密
泉甘塘社有二一水一水一方丈堂潔春夏不レ竭
旱則祷レ之応レ時ニ雨下然牛馬猪羊飲レ之
一肥沢鶏鴨鵝鷹飲レ之必死とあり此たぐひ
同同同同四十二
なるべし
補阿波国星石山の説
阿波国勝浦郡星谷といふ所に星窟あり三間
四方なり岩上に星おちて石となれるを窟に置
この故に星石山といふ四
四国記
今独るに和漢ともに星堕て石となれること
多し尾張風土記曰尾州玉置山ニ有二一石一赤
星之所レ落也麓ニ有二星池一星之常ニ所レ宿スル也亦
有二恠石一星之所レ化也今猶ハ猶ヲ星落ツ焉○夢渓筆談
曰。治平元年常州日寓ノ時天ニ有二大声如レ雷ノ大星
一震而堕地中有二ヲ一竅極深視レ之星在二其
中一久之発二其竅一深三尺餘ノヲ得二一円石一ヲ猶
熱其大如レ拳一頭微鋭色如二鉄重一ノ○続湘
山野録曰一夕有二大星一殞二於韓忠献公ノ園
中ニ極馬皆鳴○水経廬水ノ條下ニ曰ク湖中有二
落星石一周廻百許歩高サ五丈上生二竹木一ヲ傳ニ曰ク
摂州東生郡今宮村に星
有レ星堕レ此因レ此名焉
池といふありそのかみ星堕て此
池に入と云相州鎌倉星月夜
これらのたゞひなり
井にもそのかみ星塗て入といふ
補出雲国玉造熱湯の説
附異水
俗説云出雲国玉造河水の中に三間四方の熱湯
一黄谷院弉戔扁口上ニ
わき出ツ此河をわたるものあやまつて熱湯の中
に入は手足をやき病を生す
一今按るに寒温まじはりたる水あるものなり
一事言要玄曰滝州府李澳津浦西源出二
梁山北一灌二田千頃一又有二綏女等ノ五渓一亦有二
灌漑之利一内温溪在二県ノ西一兩泉湧出ク東西
相對ス一ハ煖ニ一ハ極ヲ熱惠州府ノ三井ノ三井ハ府城ノ北三井
相連リ其泉一ハ冷一ハ温一ハ熱又曰円泉ハ在二桁州
永興ノ南ニ泉半ハ暖ニ半ハ冷ユニケル処ハ極テ清ク暖処ハ極テ濁ル
此たぐひなるべし○附[リ]異水
南ニ有二康王谷一又有二北嶺城一天欲レ雨モ輙チ聞二ク鼓角
蕭管之声一ヲ鶏篭山ノ下澗中ニ有二数処ノ累石一若
有テレ人切レ水ヲ常ニ深サ尺余朝夕輙チ有リ二湧泉一溢レ出テ
如二潮水下水一ノ時刻不レ差朔望尤号ノ為二潮泉ト◯真
行記曰。碧玉泉。有二曹渓一有レ泉甚タ清シ一日三
潮以二辰午酉ノ三時一水必ス漲リ満ク三餘ク三餘ヲ半涸ル貴
州省有レ泉一日盃ヲ一日涸ル○志恠録曰深州
東麻県中ニ有二水影一長七八尺遥ニ見二人馬ノ往来二
如レ在スルハ水中一及レテ及テ至ルニレ所ニ不レ見レ水ヲ○広輿記ニ曰四川
薩州府在二リ多喜山ノ上一ニ有二リ雌雄ノ二泉一名ク温丹井一名ク温丹井一
同實各兒倅義韶口一二
一春夏ハ則左ニ盈テ右ニ竭秋冬ハ則右ニ盈テ左ニ盈テ左ニ盈テ左ニ盈テ左ニ竭
記曰。祁連山張掩酒泉二界之上ニ東西二百
里南北百余里山中冬温夏涼水○方輿記
曰沸井ハ丹陽県ノ南ニ井有レ四ツ二ハ清ク二ハ濁ル騰ル湧
滾沸昼夜不レ絶ヘ又有二髪井一南ハ者赤ク北ハ者
黄
広益俗説辨残編四十二終
狩川
第
残編
廣益俗説辨四十三
艸木
俗諺居處佛家
文字禽鳥魚蟲
廣益俗説辨残編四十三目録
○雑事人物俗□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
神村長
豊蔵画
補五月五日に生るゝ子は親にあたありと云説
補諱仮レ名の説
補名字補遺
補源内平内等の名の説
監物太郎監物次郎と云名の説
朝起の家には福来ると云説
物にあやかる説
補金神の説
廣谷院畔淺扁四十三
○雑事居所
補丹波国時平屋敷の説
○雑事仏家
大磯石地蔵の説
○雑事文字并ニ俗館
石をこくとよむ説
圖船の字はきみにすゝむとよむ説
補定家一字題の謡の説
補野馬台は陽煙といふ説
○雑事禽鳥
補五位鷺の説
補黄鳥。鶯をうぐひすと云説
補郭公鸚鵡をほとゝぎすと云説
○雑事魚蟲
補鰹をかつほとよむ説
補石決明殻を門に掛る説
○雑事草木
補牡丹をはつかぐさといふ説
補杜若をかきつばたとよむ説
補奥州に菖蒲なき故にかつみを用る説
一廣谷悦弉淺扁四十三
月行書桑名体口一三ト
広益俗説雑残編四十三
肥後隈本井澤節長秀輯録
○雑事人物俗諺
十五月五日に生るゝ子は親にあたありと云説
俗説云五月五日にうまるゝ子は。其長戸に
及ぶときは。親の為にあたあり
今按るに大に非なり。寛平帝一
宇多
貞
天皇
観八年五月五日降誕。承平元年七月
十九日崩御六十六。扶桑略記に見えたり。
もろこしにては。孟嘗君五月五日に生れ
四十二日浅痛四十三
月□□□府□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
たり。孟嘗君ノ曰。人ノ生受二命於天一乎。将
受二命於戸一耶。必受二命於天一。何憂焉
必受二命於戸一則高二其戸一耳。誰能至と
いひし事。史記漢書に見えたり。もつとも
確言と謂つべし
補諱反名の説
俗間諱反名をしらざる者あり
謹桓武天皇。延暦四年五月詔曰。臣子之
礼必避二君諱一頃者先帝御名及。朕之諱
公私触犯猶不レ忍レ聞。自今以後宜並改
続日本紀
避一続日辛紀桓武天皇ノ諱山部。今改二山部姓
日本後紀
曰山按一
曰二山按一同本後記光仁天皇諱ハ白髪今改二白髪
髪妊為真髪部同書仁明天皇諱神野
文徳
今改二伊豫国神野郡郡ヲ為新居郡一ト一ト一ト一ト一
実録
寛元帝
後嵯
磯
諱ハ邦仁以二経史所レ載国人
訓二久爾多美一○建治帝
後宇
タタ
諱ノ世仁以二
経史所載世人一訓二世乃比登一又訓二比等一
歴代実録
本朝編年録
園藤原ノ不比等曰史○藤原ノ馬養曰宇
合
続日本紀懐風藻作二馬養」○京図
○橘広相
作二字合一○万葉集訓二乃幾阿比一
廣谷筑弉幾編四十三
曰二博覧一○嶋田ノ忠臣曰二達音一○紀長谷雄
曰二発昭一皆音訓通用也○安倍仲満
或記二仲麻呂一満麻呂音之転也賀茂
姓称二慶滋姓一者以二賀茂二字訓二字訓二与之々
計一混二之慶滋一者也
補名字補遺
今ニ輯テ二拾芥抄和爾雅二節用集ニ来レ載
一者一補二其遺闕一大概拠二名字抄一而已
イ
三條帝居貞○神皇正統記
居
スヱサダ○大鏡井サダ未レ知二何是一
盛衰記
門井親王
井
葛井親王
続日本後紀
邦葉
紀五
典泉五
ハ張葉
友
友
庭下偕徒識叡駿早速迅訓常
常行
薩載
記
熱饒茂
後堀河
帝茂仁
常
常明
親王
千間迫巳小巳
老
大中臣
子老
一カ区馬摂統克養薫揖国令
藤刷雄
頭滝刷
前国三縄薩州三縄薩州征達止
タカ
藤乙殿
崔崇峰
谷勝耐断勇篁以
染澗
一染深淵◎俊第礼土葛結編十発音
熟勢
橘逸勢
薩戒記
体
近衛帝
體仁
引同良
一條
兼良
ム
藤兵雄
一室兵藤兵雄概臆梁之上宇占裏内
條
内
沼田
内
悠延
騎文久管方ヤ八樂同
経
光延
逸
朝野群載○橘
返勢伝。マサ
猿真巻□成
後土御門
帝成仁
二凝
大位
熊坂
以茲同政
後水尾
帝政仁
帝政仁
帝国イ
言
尾張
言鑑
健
伴健峯○江
談抄愚管抄
源自
自
朋
取
用
自順自図江兄柯柄于戸發鏡彰
ヱ江兄柯柄㊂手ア発鏡彰
同同十一年癸同四十三
片川丁一
暁光
最上
義光
白
明
藤白
同
三浦
義同
卅識智悟了キ
露雪工去逝寛
朱雀帝寛
明愚管抄
豊
光明帝
豊仁
道又
女同看顧御質路術迪彌秀
四條帝
秀仁
シ
代鎮
大友
義鎮
シゲ
発
藤愛発
経乗□坦隆
藤隆雄
薩戒記
成慧臣士国式四醜全孟原《題:左
宿栖処
補源内平内等の名の説
俗間源内平内藤内橋内谷内などゝ号する
者あり
一今按るに。下臈及侍人内舎人に任ずれば。
姓を内とよぶ。源氏を源内といひ。平氏を平
内といひ。藤氏を藤内といひ。橘氏を橋内
といひ。三善氏を善内といふ。又内舎人左
衛門尉右衛門尉に任ずる時は。源内左衛門
平内左衛門といふ。藤橘善も又同し。
職原
大全
同句
解
四日見だりに名づくるものにあらず
補監物太郎監物次郎と云説
俗間印行の書に。監物太郎。監物次郎。左
衛門太郎。左衛門次郎と云名をのせたり
一今按るに。監物に任ずる人の子を。監物
青谷先岸幾扁四十二丁
太郎。監物次郎といひ。左衛門尉に任じたる
人の子を。左衛門太郎。左衛門次郎などゝ
いふなり同書
圖朝起の家に福来ると云諺の説
俗説云。朝はやく起れば家富と云伝ふ
今按るに。朝はやく起れば。家冨にはあらず
富る家は。早く起るなり。聞見後録曰
漸人謂二富家一為二起早一。蓋言鍼多レ則事
多不レ能二晏眠一也雖二俗下之語一亦有レ理
云。思ふに。世上家富る者を見るに。有のまゝ
にして富るはなく。多くは。人倫に遠き
ふるまひ有て。富類のみなり。程史曰。昔
有二一士一鄰二于富家一貧而屡豈。毎羨二
其ノ都之楽一。且日衣冠謁而請レ焉富翁
告レ之。曰。致レ富ヲ不レ易也。子婦斉三日。而
後予告レ子。以二其故一故一如レ言後謁。乃命ノ
待二于屏間一設二高几一納二師資之贅一揖
而進レテ之。曰。大凡致レ富ツ之道。当二先去二其
五賊一五賊不レ除富不レ可レ致ヲ請二問其目一。
曰ク即チ世ニ之所レ謂。仁義禮智信是也。士
同同十十七七七十七
一盧胡而退とあり。此富翁がたぐひなり
図物にあやかるといふ説
俗間物にあやかるといふことあり
一今ねるに。韮雪録曰。樊昌高八舎家軒
一坪之間畜レ亀数年生育至二百余其家
産レ子五人皆亀胸枢僂。蓋孕婦感二其
気一ニ所ナリレ致ス又正未越有二夫婦一於二夫婦二大善寺
金剛神ノ側一縛二葦席一而居。其婦産二一子一
首有二二肉肉肉一似レ角類二所レ謂夜叉一。蓋産婦
依レ止二土偶一便稟二得此ノ形一ヲ○夢渓筆談ノ曰
一菜品中蕪苔芥之類遇レ旱多結
成レ花如二蓮花一或作二龍蛇之形一熈熈寧年
李賓客及之知二潤州一園中ノ菜花悉成二
荷花一仍各有二一佛一坐二于花中一形如二雕
刻一李君之家奉レ仏甚レ篤因有二此異
と見えたり。これ其好むところに感じ。
一癖する所に因て。妖怪ある事右のごとし
《題:金神の説
俗間。金神の方。三年ふさがりなどいふ事
あり。其外方角をいみ日取時取の事あり
一十二十十日寅年第二月一三
今按るに昔もろこしにて。道土等青龍
白虎朱雀玄武神をまつる。金神は
一西方白虎神なり。万斛明珠曰。西方金
神左ノ耳有二リ青蛇一面目有レ毛虎爪執レ鍼
○山海経図讃曰。西方蓐収金神白毛
虎爪耳レ蛇執レ鍼専司二無道一○列仙伝曰。
西域房陵間有二白虎神一好飲一好飲二人血一◯呉
地記曰。虎岳山ニ金精化為二白虎一○国語曰
親公夢有レ廟有二神人一面白ク毛虎ノ爪執
五雑組曰陰陽家。歳破。出火
殺。歳刑。災殺。巻歳将軍。知
二十六日虎金正官
殺。金神○戊申立春考曰金神在申。
居家必用曰年上金神尅授官木日
とあり。しかれども
日本に金神を伝へ来りたる事かつてなし。
しかるを見ぬもろこしの金神を忌おそれ
キモンクハン
鬼門関
安南国
をも日本の事とし。あるひ
にあり
は破軍星に向ひて。勝負をせず。土用
には土をうごかさず。方角ゑらひ。日取時取
なとゝ。分もなきことをいひのゝじれり。五
雑組曰。西家之東。東家之西。此一言足二
以破二太歳之謬一矣。紂以二甲子一也。武王
以テ甲子一ヲ一ヲ興。此ノ一言足以テ破二陰陽之忌一矣
とあり。是等を考へて。俗説に惑ふこと
なかれ
居所
○雑事
補丹波ノ因時平屋敷の説
俗説云。丹波国に時平屋敷といふあり。時平公
の居住の諸なり。今にをいて天神の画像
を携ゆけば。飄風来つて空に吹あげ。ゆ
き方をしらず
一今按なに。同志夜話曰。丹波国日置庄は。
時平公の采地なり。今に時午公の社日置
庄の外黒岡村にあり。此所に黒岡越後守
といふ者あり。時平公の支族なりとあれば。
時平屋敷といふは有べし右の怪説は。夜
話及丹波風土式。興廃略記。丹波記。扨
井記等にかつて見らず。好事の妄説た
るべし
○雑事仏家
一囲大磯石地蔵の説
俗説云。大磯に石地蔵あり。ばけて人をおど
しけるを。旅人切たりとて。其像今にあり
一千八百九十七
今按類に。石仏ばけたるにはあらず。狐狸これ
に憑て怪をなしたる也。括異志曰。嘉禾
北門有二孩児橋一橋欄四方皆石割二孩鬼一
因テ名レクレ之。不レ知二何レノ時所一ヲ建既之遂ニ出
為レ恠ヲ或夜出ヲ叩二人ノ門戸一ヲ求レ食ヲ或ハ或ノ於二テ月
夜一遊二戯干市一人多ク見レ之一夕有二膽勇
一者一至レ夜ニ密伺ユニ果見ル石孩児徐々自レ橋而
下遂ニ大ニ呼レ有レトレ鬼以レ刀ヲ逐フヲ逐テ至リ其處一。聊下去其
頭一ノ恠遂絶と。此類右に同し
○雑事
文字并俗謡
石を。こくとよむ説
一書云。延久年中斛器をつくらせらる。斛
は十斗なり。石をさげてためすによつて。石
を斛の音によむことはじまる
今按るに非なり。夢渓筆談曰。鈞石之
石ハ五権之名。石重百二十斤。後人以一。一斛ヲ
為二一石一自レ漢已ニ如レ此ノ今ノ今の人の以二粳米一斛
之重一為二一石一考へ知べし
図船の字はきみにすゝむと書説
俗謡に扨又大ねの船の字は。きみにすゝむ
廣俗悦辨淺扁四十三
と書とあり
一今按るに。船の字偏につきても備につきて
も。すゝむといふ意なし。字彙曰。舟職流反
音周。船也。方言曰。自レ闕而面謂二之船一自
聞而東謂二之舟一説文曰舟言周流也船
言循也。循レ水而行也総名曰レ般とあり
梅村載筆曰。秀次関白の時。五山の僧
に命じて。謡の抄を作らせられしに。足利
の元佶といふ僧。詩坤風栢舟を栢にす
すむとつゞけて。舟は蘆なりと。弁毛破意と
いふ書にありと記して出せしを。件の本を
取出さしめられしに。唐本のそばに。舟は羞
也との三字を。己が書入たるなり。元供面目
を失へりと。建仁寺の雄長老かたられ
きとあり。又黄帝のときに船を作せら
れし事はあり。貨狄一人作りたるにはあ
らず。雲管七歳曰。黄帝見二浮。葉一為レ舟
二臣助為二舟ノ機一○巵言曰黄帝作二舟械一
○額府群王曰。黄帝ノ臣。黄帝ノ臣。黄帝ノ臣。其鼓。黄帝ノ臣。其鼓。例
木為舟割木為レ木為レ掛
廣谷洗佛淺編四十二
世本曰二人
並黄帝臣
とあり考
しるべし
補定家一字題の謡の説
皆人見れる
俗謡に。定家卿一字ノ題といふあり
故金文を略す
今按るに。燈庵主袖下云。十二月の花鳥
の事。定家卿其時の帝の勅にて。花壱
つ鳥壱つづゝ。定め申さるゝなり。花鳥
の歌一首つゝありといへども。此四首にて
心得べし○春三月柳桜に藤の花鴬雉
子雲雀なくなり○夏三月卯の木たち
ばな撫子に心時鳥水鶏鵜の鳥○秋
三月さく女郎花荘すゝき鷺雁金に
鶉なくなり○冬三月残る菊びわ梅の
花鶴鳴わたりちどりおしどり。おもふに此
四首をもつて作りたるものならん
補野馬台は陽煙といへる説
俗間宝誌和尚が野馬台詩といふものあり。
好事の妄作なり。其註に。なる台は。湯
煙をいふとあり
今按るに非なり。野馬台は。大和なり。続
一日本後紀載二長歌一曰。日本の野馬台外
一同十十日廣谷竹浅島四十三
国遠加美侶伎ノ臣宿那砒古那加葦
一菅遠殖生志津々国固米造介牟與利
一瀛津波起とあるを考へ知べし
○雑事禽鳥
補五位鷺の説
俗説云。延喜帝
醍醐
天皇
神泉苑に行幸の時。
池の汀に驚居けるを。六位を召て取て参
れと仰ければ。蔵人宣旨ぞと申かけ。やがた
取て奉ければ。宣旨に従ひて。参りなる
こそ神妙なれ。今よりしては。鷺の中の王
たるべしとて。五位になされ。御礼を見づから
あそばして。くびにかけ給へり。是よりして。五位
鷺と名づけたり。是は鷺の御料にあ
らず。たゞ王位の程をしろしめさんがため也
一今按るに。此説正史にをいて拠なし。信
用するに足ず。しばらく俗説をもつて
評せば。鷺を五位になし給へるは。衛の
懿公が鶴を車に載
左伝
史記
始皇が泰山
の松を封じ
見于史記漢書ニ○枕譚曰。始皇封皇封二
当時
其樹一為二五大夫一ト一五大夫ノ察ノ官ノ名弟九
也
通鑑
武后が嵩山の柄を封ぜし
類にて
網目
同十一日黄谷筑紫之内
称すべき事にあらず。位は功臣にこそ施
さるべきに。勅によつて。退かざるが神妙成
とて。禽鳥を五位になし給はんには。功
ある是をば何にかなし給ふべき。王位の
程をほこり給はんよりは。道を守りて。民
をめぐむの叡慮ましまさば。可ならんか
補黄鳥鴬をうぐひすといふ説
俗間黄鳥鶯をうぐひすと訓
今按るに。本草綱目ニ鶯大二於鶴鶴二二雌雄
雙飛體毛黄色羽及尾有二黒色二相間
黒眉尖嘴青脚立春ノ後則鳴ク○石川丈山
曰。日本ニ無二黄鳥一誤ヲ以二ヲ以二テ訓章一為レ鶯
覆将酉
集
貝原篤信曰。ウグヒス。或曰婆餅焦也。今按
婆餅焦於二中華一往々見レ之或ノ曰。ウグヒス
は。月令広義ニ所レ謂報春鳥也未レ知二何
是一古来本邦誤テ鶯ヲウグヒスト訓
ズ。鶯ハ別ノ鳥ナリ中華朝鮮ヨリ携へ
来ル。筑紫ノ海嶋ニモ自ラ来ル
大和
本艸
朱氏
一瑜曰。日本ノウグヒスハ唐山ノ黄頭鳥ニ
似タリ。日本ニ於テ黄鳥ヲ見ズ。唐山ノ黄
書発兌洋発扁四十三
鳥ハ大サ日本ノヒヨドリ程ニテ嘴ト足ハ
赤色身ハ黄ニシテ羽黒ク其声甚長クウ
ルハシ
舜水
談綺
これをもつて見れば。黄鳥と
いひ鴬といふは日本にあるうぐひすにあ
らざることを知べし
圖郭公鵠鶴をほとゝぎすと云説
俗間郭公医鶴をほとゝぎすと訓
今按るに。日本にてほとゝぎすといふは杜
的なり。郭公醫黴鳥にはあらず。郭公醫
鶴は俗にいふかつこうどりなり。是レもと。和
名類聚抄鸚鵡
度木須
和名保度
今之郭公也ト
一誤り記せしより。和僧擬作の十王経に。
一鷺鶴鳥示二恠語一鳴二別都頓宜壽一と書
す。それより後。下学節用集等にした
がひてこれを載たり。垂加翁曰。杜鵑和
訓保登等芸須。書レ之為二霍公一為二郭
公一者国俗之文字而非二華人之称呼一
也。故歌人皆用レ之ヲ是也。詩人用レ之則絶
無ノ而二-有焉。釋蓮禅賦二郭公一見也
節考ニ蓮禅ノ詩
見于無嶺詩二
予所聞郭公は者鵠静島鳥而
廣谷説辨淺漏四十三
一非二杜鵑一也。此鳥自呼二其名ヲ似レ曰二鸚鵡一
似曰二郭公一
垂加
文集
とあり考へ知べし
○雑事魚蟲
圖鯉をかつほと訓説
俗間鰹をかつほとよむ。異制庭訓等にも載
たり。一書云。和字にして漢字にあらずとあり
一今按るに鰹は。日本にて所謂かつほに
あらず。和字にもあらず。毛詩疏広要曰。
一坪雑曰。体今ノ玄鯉是也。鱗細有二花文
一名文魚。與レ蛇通レ気ク鑑是蛇所レ化至
難レ死猶有二リ蛇性一故ニ或ノ謂二之ヲ鯉一也○爾雅
鄭詮曰。鯉大鯛小乾。註曰即體也○爾
雅翼曰。鱧魚円長而斑点有二七点作二北
計之象一夜則仰レ首向レ北一而拱焉○本艸
綱目ニ曰。鰻首有二リ七星一夜ノ朝二北斗一有二自
然之礼一故。曰二之体一。時珍曰。形長體九頭
尾相等シ細鱗玄色有二斑點華文一頗
類二蝮蛇一有レレ舌有レレ歯背腹背腹有レ鬣連
レ尾々ニ無レ岐形状可レ悪気息醒悪食品
所レ卑
体をあやまりて。はモと訓する者あり。是又非
なり。庖厨和名本草曰。鱧ははもにあらず。はむの
廣谷寛弉淺編の十三
なり日本人食せず大明南人これを珍とす鰹魚は
きたごなり○予按るに伊豆国熱海浦に海蛇と云
ものを隠る黄色にして斑点あり後漢書注曰鉱魚
似レ蛇一長者不レ遥二三尺一黄地黒文とあり右ういへる海蛇
なるべし向井氏のいへるきたこにも似たりしかれども海
蛇にはうろこなし海蛇はたま〳〵これをもつて見
かたちは嫁尖り尾ほそくそのいろ灰色にして斑点華文
なく無鱗なり長崎海中にきたごといふ魚ありその形
色妙点あつて本草鱧魚の説のごとく見くるしき歌状
〽これをもつて見
網にいれば浜に棄て食せず
るに。鰹は別魚なり。日本にていへる。かつ
ほにはあらず
石決。明穀を門に掛る説
世俗疱瘡疫病のまじなひとて。鮫魚がらを
門にかくるものあり
今按るに風俗通義曰。題君神を祭と。
一鮑君神は鮑魚なり。字彙に馳漬兼今一
謂レ衰レ魚ヲとあり。然るを艱悪を俗間あ
やまりて鮑魚と書故に。とり違へて。鰒
かしを門にかくるにいたれり
同
○雑事草木
補牡丹をはつかぐさと云説
俗説に曰。歌書に牡丹を廿日草と書。花の
さかり廿日あるゆへに名づくといひて。出所
慥ならす
一黄谷院岸浅浅編四丁
今按るに。梅村戴筆曰。楽天が楽府杜
丹帝に花開ケ花落二十日。一城之人皆
若狂といふによりて。はつかくさとはいふ
なるべし。むかしは牡丹の沙汰なし。毛詩に
も芍薬の事はあれども。牡丹をいはず
一後世牡丹を木芍薬と名づく。薬種
にも用ひ。花をも賞することは。李唐
より盛なり。百家名書には。牡丹馬薬
むかしはひとつにして。古人の芍薬といふは
牡丹をもさしていふ也とあるを考みるべし
杜若をかきつばたとよむ説
俗間杜若と書てかきつばたとよむ
今按るに非なり。補筆談曰。杜若即今
之。高良美後人不レ識又ノ別出二高良美一
又曰後人又取二高良妾ノ中ノ中ノ小者一為二杜
若一ト正ニ如下用二天麻ノ蘆頭一為中赤箭上也又有リ
用二北地ノ山姜一ヲ為二杜若二者一者中杜若ハ古人以
為香艸
見二于鶏騒ニ一ニ○稗史績編ノ
北地ノ山美
詩ニ曰寂寞[ル]西風杜若芳シ
何ヲ嘗テ有レ香又曰ノ本草園経ニ曰。杜若苗
似二山姜一菱一花黄一子赤色大如二棘子一と
四百二十一日
あり。これをもつて。日本にていふ。かきつば
たとは。別類なることを知べし。
浦奥州に菖蒲なき故にかつみを用る説
俗説云藤原実方中将奥州下向のとき所に
菖蒲なきによつて水草は同し事とて五月五
日にかつみをふかるそれより国のならひと成て
かつみをふくといふ
今按るに奥州に菖蒲なきにあらず子細
ありてふかず筑紫宗久が説にいはくみちの
くのあさかの沼をすぐ中将実方朝臣くだらし
れけるに此国に菖蒲なかりければ本文に
水草をふくとあればいづれも同し事なりとて
かつみにふきかへけると申伝へ侍るに寛治七年
郁芳門院根合に藤原善孝が哥にあやめ
ぐさひく手もたゆくながきねのいかて安
積のぬまに生けんとよめるは此国にもあや
めのあるにやと年月不審に覚えしかばこの
たび人にたづねしにあやめのなきにはあらず
されとも彼中将君くだり給ひしとき何の
あやめもしらぬ賤が軒端にはいかで都の同し
長見見倅桑扁口十三
あやめをばふくべきぞとてかつみをふかせられ
けるよりこれをふきつたえたるなりと語り
侍るとあれば俗説の相違を知べし
広益俗説弁残編四十三終
狩工衛
第
残編
人物文字言語
器物衣服薬種
食物居處禽獸
廣益俗説辨四四
魚蟲艸木
補
廣益俗説辨殘編四十四丁
遺補
目録
遺
人事
○雑類
狩野氏図書記
神村長
豊蔵書
補息女を娘と書説
補さげがみの説
○雑類文字言語
補天竺文字孝霊帝御宇に渡る説
一補者と書説
器物
○雑類
補左折烏帽子の説
補尺八の説
同十四月四十四丁四十四丁四十四丁四丁目
月付言弁反糸口一口
○雑類衣服
旧苔の袖の説
○雑類薬種
補香のはじめの説
○雑類食物
補餅をかちんと云説
○雑類居処
補相模国曽我屋敷の説
○雑類禽獣
補蒙貴を猫と云説
魚蟲
○雑類
補硯の中より龍出る説
○雑類草木
補梅を木母といふ説
補日本の海棠の説
補女郎花の説
同同同同同同四四
月行言弁了歳口十四日
廣益俗説辨残編四十四補遺
肥後隈本井澤節長秀輯録
○雑類人事
補息女を娘と書説
俗間息女を娘と書ことあり
一今然るに非なり欄言長語曰娘字俗書古典
一当レ作レ壊今通為二婦人之称一予魏公安
陽集公伝ノ中ニ云。朱宮中称二テ郭公一ヲ為二大娘一ト劉
如ク為二小娘一ト則テ皇家亦タ亦ク如ク此ク此ノ称レス之ヲ不二獨リ民間一と
はあれども。息女をいふにはあらず。すべての女をいへり
同四十一日廣谷荒井幾扁四十四丁四十四丁目
唐□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
さげ髪の説
俗間髪をゆはず。うしろにさぐるを。さげがみと云
今按るにもろこしにも聞伝へけるにや延州筆
記曰。倭国婦人不レ畏レ足髪長ク散披在レ後と
見えたり
文字言語
○雑類
補天竺ノ文字孝霊帝御宇に渡る説
俗間即行の年代記云孝霊天皇十三年癸未天
竺文字渡る
今按るに日本紀旧事紀古事紀等にかつて
見えず。妄作たること明らけし。虎関異制庭
訓云我朝人王二十五代仁賢天皇之御宇善
智法師始テ傳二ヲ大唐ノ法門一ヲ一ヲ其後欽明天皇用明
天皇ノ両朝深信二ス仏法一ヲとあり。此仁賢御宇に。
仏法の渡りし事も。諸実録に拠なき事也
補者と書説
俗間書状の末に者如レ件などゝ書クことあり
一仲村氏曰讀二明紀一曰ク正統十四年。北敵也先大
挙テ入寇。英宗自ヲ征ノ車駕陥没。胡欲レ殺レ之。伯顔
帖木兒教二也先一送還之一時。衆曽皆曰。者。者。者。者。者。者。者。者。胡語
同四十十日午後編四十四
一九月十一月廿一口
云レ者然辞也。於レ是得二者ノ義一ヲ義一ヲ矣。否泰録也先
作二野仙一と見えたり霞洞集
○雑類器物
補左折烏帽子の説
俗説云。安元元年三月中旬。牛若丸鞍馬を
出て。金売吉次にともなひ。鏡の宿にとまり
給へるに。平家方より。此路次を十六七の少人
通るならば。からめて出すべき由をふれをくる。牛
若きゝ給ひ。児とふるゝなれば。男になりて下らん
とて。其辺に烏帽子折の五郎大夫といふもの
有しに。其宅にゆきて。左り折の烏帽子を折せう
のかはりとして太刀をあたへ給ふ。五郎大夫が妻は
源氏譜代の郎等。鎌田政清が女子なりしかば。
此太刀を見知て。大夫に乞うけ。牛若の旅宿に
もちゆきて参らせたりといふ
今按るに。是は頼朝の事を。義経に作りかへ
たるものなり。源平盛衰記曰。源ノ頼朝石橋山
の軍に討負。土肥の杉山にかくれ居て。真鶴
に落むとしたまふとき。頼朝のたまひけるは。
一冑はすてつ大童にては落人といはるべし。いかに
廣谷院岸淺扁四十四
もして烏帽子を着ばやと仰ける。折ふし甲
斐の国の大太郎といふ。烏帽子商人道にて
ゆきあへり。かの者は土肥次郎実平が家人
なりしかば。烏帽子折て参らせよと望みけ
るに。宿所に請じいれ。酒肴出してもてなし。
酒宴なかばに烏帽子箱をもち出て。一々折
て八人にまいらする。いそぎあはてゝ折ほどに。
七頭は右に。一頭は左り折なるを。しかも佐殿
に奉る。頼朝あやしく思ひて。七人が烏帽子
を見まはし給へるに。皆右に折てよのつねなり。
我身一人は左折なりければ不思議なり。源氏
の先祖八幡殿。左り折の烏帽子を着給ひし
より。当家代々の大将軍。左り折の烏帽子也
今落人の身としてこれを着るは。八幡大菩薩
の商人太郎にいれかはりて。きせ給ひけるにこ
そと。末たのもしく覚しけると有をみるべし
又烏帽子ノ左折といふこと非なり黒川道祐曰
凡ノ烏帽子前額。左ノ邊有二四處一者。源家著
レ之ヲ右ノ邊ニ有ル一凹処一者ノ諸家共ニ用ニ用ニモ凡テ凡ノ左右之一
内方有レレ者。是ヲ謂二片額一。俗誤ヲ為二左折右折一
左右共有レ凹者。是謂二諸額一とあるを考ふべし
補尺八の説
俗説云。尺八は後醍醐天皇ノ御子。筑紫宮より
はじまる
今按るに此説非なり。もろこしより始れり。困
学紀聞曰。房介然善吹二尺八一容斎随筆。逸
一史。仙隠伝。皆有二尺八ノ事一。酔卿日月酒令曰。
遠望二漢舟一。不レ闊二尺八一。憑レ果一吐已覚二空喉一。
丹鉛總録曰。簾管之制。六孔南一孔。加二竹膜一
焉。足二黄鍾一一韻声。或謂二之尺八管一。管絃記
曰。馬融状二長笛一空洞無レ感刻二其上一。五孔一孔出二ノ孔出二ク
其背一似二今之尺八一也。とあるを見るべし。いかなる故
に。筑紫の宮より始ると伝ふにやと老るに。吉
中務卿懐良親王
野拾遺云。つくしのみやの御年もゆかせ給は
ざる御とき。尺八をめし。天せい妙を得させ給ふ。
吉野の御幸にふかせ給ふに。見なれぬうろくず
数しれず水よりおどり上りぬ。上もめつらかに
興ぜさせ給へば。たぐひなき事とぞとあり。
これをあやまりて。尺八のはじめのやうに覚え
たるものなり
廣谷兌悴淺扁四十五
○雑類衣服
蒲旧苔の袖の説
平家物語に。旧苔の袖をぬらすとあり
一或曰旧苔の袖とは非なり。裘帯と書へし。
一裘帯は門跡方の服なり
○雑類薬種
補香のはじめの説
俗説云。香を用ることは神代にあり。長久年中。
石首といふもの来納して。香をたきあそびしを。
花山院にめし出されける
今按るに。神代に香ありし事偽なり。石首が
来朝して。香をたきし事関も及はず。虎関
が異制庭訓に。名香は本朝天平年中。従
百済国一始貢二献之一と見えたり。これを証とす
べきか
○雑類食物
補餅をかちんといふ説
俗説云婦女のこと葉に。餅をかちんといふことは。
むかし旱魃のとき。土民等能因法師をたのみ
て。歌をよませけるに。たちま地に雨ふれり。土民
十四十七日午後編口一口
よろこびにたえず。もちをつきてもてなしければ。
能因これは歌賃かといひしより餅をかちんとよび
来れり
今按るに此説非なり。金葉集云。範国朝臣
に具して
古今著聞集には伊予守
伊予国へまかりたり
実綱にともなひてとあり
けるに。正月より三四月まで。いかにも雨のふらざり
ければ。なはしろもせで。よろづにいのりさはぎけれ
三山鳴大明神
ども。かなはざりければ。守能因によみて一宮
にまいらせて。雨いのれと申ければ天の川苗代
水にせきくだけあまくだります神ならば神
神感ありて大雨ふりて。三日三夜やまずとあり。
又餅をかちんといふ事は。能因がいひ出したる
事にあらず。そのもと大内より出たること葉也
一恵命院僧正海人藻芥云。内裏仙洞には一切
の食物に。異名をつけてめさる。酒は九こん。
飯はくご。餅はかちん。味噌はむし。塩はしろもの
詳に伊勢流女詞に見えたり。
黒川道祐曰ク
と見えたり
女詞は。大和女訓追加に附せり
中古衰世ノ時。著二褐塵ノ服一者。盛二餅ヲ於円曲器。
戴頭上一而売二禁垣内一。内家ノ女子呼二褐塵一而
買レ之。其後婦人直謂レ餅曰二褐塵一とあり。是等
同同十一日疫漏口口
肥後宇土郡宮庄ニ。能
を考へて。俗説の非を知べし
因住居ノ跡アリ。古曽部村
ト云。系図袋草子並曰能因初名永慳補文章生ニ亦
為二肥後進土一剃髪号古曽部入道称融因一ト
○雑類居処
補相模国曽我屋敷の説
俗説云相模国曽我ノ里に。曽我兄弟が屋敷あと
あり。其所の竹林の中に五尺四方の石あり。此石
に五郎時致が足跡とてあり。相伝ふ時致病に
ふして百余日に及て平復し。力量劣りしかとて
ふみしとりや
五つのゆびの諸踵まであり〳〵と
見ゆる常人の足諸よりは大なり
又そのあたりの山に。
五郎が復讐の事を祈りし所といひ伝へて。砂のなり
剱のごとし。人ありてうちくづけば。一夜のうちにもと
是ある人の物語を聞て
のごとくなると云
しるす其虚実をしらず
今按るに和漢かくのごとき事多し。塩嚢鈔曰。
尾張国ニ在二登今川一菅清公記曰。大己貴少彦
名命巡レ国ヲ之時。往還ノ足跡故。曰二跡々一注ニ曰ク俗謂二
之賭兵一。又東国に百合若の足跡。大多法師
此二人
が足跡とて所々にあり
無レ榎
西国にも巨人の足
跡とて多し。もろこしにもこれにひとしき事あり
と見えて。鶏助曰。始皇時有二大人一見二臨池一脚跡
六尺。洪武時公孫卿至二東莱一見二ル大人一長数丈
黄谷克野淺扁口一口
跡甚ニ大魏咸熈二年二月大人見二衰武縣一踰三
尺三寸○水経曰。華巌巨霊手盪脚躅開而
為レ兩。今掌足之跡。仍存二華巖一。又曰広武馬蹄
日本にても狐崎に
谷盤石ノ上馬跡若レ残
梶原が馬の足跡有と云
とあるたぐひ
なり又沙の事は事文類聚曰汝西行都司鳴
沙山沙州南沙如二乾糖一天気清朗時沙島
聞二ニ於城内一ニ其沙或ハ随二人足一而墜経レ宿復還二於
山上一とあるに同じ
○雑類禽獣
補蒙貴を猫といふ説
俗間蒙貴は猫の異名と覚へたる者あり
一今按るに別物なり事言曰。蒙貴状如レ様小紫
黒色畜レ之捕レ鼠甚二干猫一と見えたり
○鶏類魚○○鶏類魚虫
補硯の中より龍出る説
俗説云武州金澤に一寺あり住持硯を所持す
ある日大雨のとき硯破て龍ありると云哥異雑談
一今梅るに珊環記曰。水仙子恒弄二一円石一。如二鳥
卵一色類レ玉ニ一日忽ニ大風雨其石裂破有二一虫一虫一
走出就二硯ノ池一ニ飲二少水一無レノ風飛去ル盖シ盖シ龍也と
三尺九尺三尺七尺丈三尺
あるに同し
○雑類草木
補梅を木母といふ説
俗間云伝へて出処をしらざる多し
○今按るに湖海新聞曰。北朝山濤字ノ致遠赴。
レ召ニ宋ノ神宗問テ曰卿自二山路一来ル上ヲ曰ク曰ク自二山路一来ル
木公木母如何シ。濤カ云ク木公正モ傲レ歳木母正ニ含テ
レ春。木公ハ松也。木母ハ梅也。称レ旨ニ除二中書一と見え
たり
補日本の海棠の説
俗間に海棠となづくる木あり
今按るにもろこしにていへる海棠とは別なり
壺中贅録曰。世ニ謂フ海棠無レ香西蜀僮川府ノ
路ニ所レ属スル昌州ノ海ノ海リ索独香成リ都ノ人謂二海棠ヲ
為レ花尊貴之一ヲ也。延中筆記曰。四州重慶府ノ
海棠香国在二大足県一ニ一海棠此地産スル者獨リ有レ香。
鶴林玉露曰。洛陽ノ人謂二テ牡丹一ヲ為レ花ト成都ノ人
謂フ二海棠一。為レ花ト尊二貴スハ之ヲ也。花譜ニ曰。蜀中ノ海棠
皆有レ色無レ香昌州ノ海棠有レ香其木合抱海
棠ノ花盛二テ於蜀一リ而秦中次レノ蓋シ其株修然シ其株修然ノ如シ
レ出レ塵。高歩俯視。衆芳有二リ超群絶類之勢。而
其花之盛ニ豊モ甚ク茂リ枝甚柔望レニ之甚都
綽約如二処女一ノとあり。唐の相賈は百花ノ譜をあら
はし。海棠をもつて花中の神仙とし。玄宗皇帝
は楊貴妃をもつて海棠の眠に比せり。海棠
の衆花に超たるを知べし。日本にて海棠と云。
ならはす木は見るにたらざる花なり。古老曰。日一
本に海棠なし。世上に海棠と覚へたるは。林
一桧の雄樹なり。雌樹は花ありて実を結び。雄
樹は花のみ有て実なしといへり。左もあらんかし
補女郎花の説
俗説云小野頼風は山城国八幡の人なり其妻
夫が薄情を恨みて着する所のやまぶき色の
きぬを岸の上にかけ置身を八幡川に投たり
かけ台所の衣地に堕くさりて草となる世云
男山の女郎花これなり
一本朝列女伝ニ引テ霊鬼志一ヲ曰。何文漢人也有二一
女子一容貌甚タ美平死葬レ之ヲ明ル日明ル日見二其墓ヲ
尽ノ成二菊花一ト名 ̄ク二菊花女一亦ノ名ハ女郎花
網目曰。菊花一名節花一名白花一名女花一名女茎とあれば。
霊鬼志にある女郎花は菊の花なり。日本にていふ女郎花とは別也
考に
本草
同三日院岸戔扁四十四
考知べし。粧楼記ノ詩曰。木蘭
○梅村載筆曰。雄長老曰。
開遍女郎花とあるも菊なるべし
小野頼風といふもの。公卿補任にも見らずとあり。
おそゝくは霊鬼志の説を。日本の事とせる
ものなるへし
廣益俗説辨殘編四十四終
□□□□
田
狩り
□□
残編
廣益俗説辨四十五年
俗書俗謡
或問
楠
廣益俗説辨殘編四十五
神村長
目録
遺補
○雑類俗書
補呉越軍の説
狩野氏図書記
豊蔵書
補波羅奈国ノ沙門が説
竹枯る説
補長八丈の鬼が説
○雑類俗謡
補伊勢三輪一体分身の説
一補もろこしのさこくが説
一同黄谷筑紫硫黄谷筑紫硫黄色
アイ三百二十〇十三
補或問十三條
広益俗説辨残編四十五補遺
肥後隈本井澤節長秀輯録
○雑類俗書
補呉越軍の説
太平記曰。越王勾賤呉王夫差が為にとらはれ。
土の牢にありけるに。匈賤の臣范蠡これを
なげき。身を窶しかたちをかへ。簀に魚を入レて。
これを荷ひ。魚商のまねをして。呉国におもむき
姑蘇城にいたり。彼獄の辺に行けれども。禁門
警固隙なかりければ。一行の書を魚の腹の中
四十二日午痛四十五
月不言判死料四十五
におさめて獄の中へなげ入ける。勾賤あやしく
覚えて魚の腹をあけて見給へは。西伯囚二美里一。
重耳走レ瞿。皆以テ為二王覇一。莫二シ死許レ敵とぞ書
たりける。筆の勢。文章の体。まがふべくもなき范
蠡がわざなりと見たまひければ。彼いまだうき世
にながらへて。我ために肺肝をつくしけりと。
そのこゝろざしのほど。あはれにも又たのもしくも
覚えける。そのゝち呉王が石麻をなめて命を
たすけられ。越王に帰りけるに。呉王夫若より
使をたてゝ。越王の后西施を望みければ。是非
なく西施を呉国へぞおくられける。西施は小鹿
の角の東の間もわかれがたき中をさけられ
いまだ幼なき太子王亀與をもふりすてゝ。なく
〳〵呉国におもむきけるに。呉王西施が色に
おぼれて。国見たれ人そむき。剰謀臣伍子胥
をころしければ。終に越王のために滅され。西
施はふたゝび越王の宮に帰り入にけり
今按るに。范蠡が魚の腹に書を入たる事
かつてなし。思ふに陸広微ヲ其地記ニ曰。呉余
昧之子ヲ曰レ僚立ツ為二諸撰之子公子光一ヲ所レ弑
高谷院岸浅扁口十五
及イ書辛夕新四十五
在位十三年。僚好二貧魚一ツ子光僭以二百金一令二
専諸進レ魚置二テ七首於灸魚ノ中一ニ刺レ僚死。子
光礬立是。為二闔問王一とあり。此説をもつて
但し日本にてはこれに似たる
つくれる事なるべし
事あり。言塵集に。天武天皇
の御時。難のつゝみやきといふものにまぎらはして。小文をつけられたり
ける。大伴皇子のときなり。新六帖のうたに。いにしへはいともかし
こしかたゝぶなつゝみやきなる中の玉づさ。是は天智天皇十年
十二月に崩御。其翌年大伴皇子。吉野より天武をよびかへし
近江に置て其やうをうかゞひ。ころさんとせられしに。十市皇女ひ
そうにふみを書で。丞のはらにいれて吉野におくりつかはす。天武此
ふみを見て大におどろき給へり。此事をよめる哥なり。言塵集
古今新六帖は。太平記より以後の作と見えぬれば。此二書をもつて
つくりたるには有まじけれども。
又西施は越王の后に
俗間に語伝ふるを聞て作直せるか
あらず。太子を生る事もなし。呉王が越国の
美女をのぞめるときにはかに下賎の者をゑら
び出してつかはしたるなり呉地記曰。嘉興県
南一百里ニ有二リ語児亭一。匈賎令下茫蠡ノ取二西施一
以テ獻上夫差上。西施於レ路於レ路ニ與二茫盡一潜通三年始
達ス於呉一ニ遂ニ生テ一子一子一ヲ至二此ノ亭一ニ一歳ノ能ク能ク有レ言因ヲ
名二ク語児亭一ト。呉越春秋ニ曰。諸曁有二苧羅山若。
耶渓傍有二リ東施家西施家一。西施色美范蠡
献之呉王
事言ニ曰。西子カ母浣二紗渓上一有二テ明珠一射レ礼ヲ又
夢二翠鶏五色化為感而生二。而生二。西子一ヲ劉氏鴻
書ニ曰。西施越之美女リ欲レ見ト者ハ先ト者ハ先ク輪一文ヲハ先 ̄ク○執樓記曰レ。西
施ス夏姫也。白賤献レス呉ニ○唐宋叢書ニ曰ク東施ト家西施家施者
其姓。所居在レル西ニ故。曰二西施一○事文類聚曰。勿財索二美女一ヲ献一ヲ類聚曰。
呉公ニ得リ得二諸曁ノ売レル薪ヲ女先習二於土城一、違、有レ石是レ西施院鈔ヲ石ヲ
同同三百四十五
戸行言辛反参四一工
○述異記曰香水溪在二并州一俗ニ俗ニ云西施浴スル処人呼ケ為二脂粉塘ト○
呉風録曰呉王闔盧作リ二天池一ヲ天泛二ヘ青龍舟ヲ日ニ輿二西施一為レ堪フ
其後呉滅ク蠡復取二テ西施一乗二扁舟二扁舟ニ遊二五湖ニ而不
レ返サ○越絶書ニ曰西施亡二シテ呉国ヲ後帰テ范蠡同シテ泛二
五湖一ニ而去ルとあるを見るべし
補波羅奈国沙門が説
太平記曰。天竺波羅奈国の大王。往会をおこ
なはんとて。そのころ名ある沙門を請ず。沙門勅に
したがふて参ける折節節帝囲碁けるに伝奏
参て。沙門参内の由を奏す。帝碁にこゝろを
いれて聞いるゝ事なく。剰碁の手につきて截と
いひけるを伝奏聞あやまりて。彼僧を禁門の
外に出して首を刎けり。碁おはりて帝沙
門を召けるに。典獄の官勅にまかせて首を
刎たりと申す。帝大にいかりて。伝奏を三族
の刑におこなひぬ。さて此沙門罪なくして
死刑にあへるは唯事にあらず。前生の宿業
なるべしと思ひ。其故を阿羅漢に問。阿羅
漢七日があいだ定に入て。宿命通を得て過
現を見るに。沙門が前生は田夫にして耕作を
業とす。帝の前生は蛙なり。田夫鋤を取つて
同十一月十一月一五
田をかへすとてあやまりて鋤のさきにて蛙の
ぐびを切たりける此因果によつて田夫は沙
門と生れ蛙は波羅奈国の大王と生れあや
まつて死罪をおこなひけるこそあはれなれ
今按るに此説は酉陽雑俎。曰。沙門抔渡入
梁武帝召レ之方奕。摂呼レ殺闇者誤毀
之ヲ浮休子曰ク梁ニ有二リ桂頭師一高行神異武
帝敬レ之常令二中使召至一陸二奏植頭師至一
帝方。棋欲レ殺二子一叚一。一。應聲ニ曰レ聲ニ曰フ然中使人
遽出ノ斬レ之ヲ帝棊罷命レ師入中使曰向者陛
下令レ殺已法レ之矣。師臨レ死。曰。我無レ罪前生為二
沙弥一誤。鍬二ノ一蚓一帝時為レ蚓今此ノ報也。この一
太平記抄ニ引テ賢愚因縁経一此
妄誕を又あやまれり
事を記す。彼書にゆづりて。爰に
贅せずあはせ
老ふべし
補佐佐る説
太平記に神功皇后三韓征伐の事を記して。
されば福州の呉元輔王乙が。吾朝へおくりたる
詩にも。此意を暢たり。日本ノ狂奴乱二ル漸東一。将軍
聴レ変テ気如レ虹。沙頭列レ陣烽煙晴。夜半鍼レ兵
海水紅。篳律按レ歌ヲ吹二テ落月一ニ。髑髏盛レ酒ヲ飲二清リ
同四十一日和田十五
十月廿一日雇下言葉多痛口一三
風一。何時截二盡ノ南山ノ竹一ヲ細冩二テ當年穀賊功一ヲこの
詩のこゝろにつけておもふに。日本一州に近年
竹の皆枯失るも若かやうの前表にてやあらん
とおぼつかなき行末や
今按るにもろこしの人が裁二畫南山ノ竹一ヲと詩に
つくりたるによつて日本の竹かるゝといへるは愚
一昧の至り笑ふに堪たり竹は六十年に及で枯
る事あり侯鰭録曰。竹生レス花ヲ其年便。其年便枯六
十年ヲ一易レ根ヲ必ス必ス結レテ実ヲ而枯死実落レ土ニ復テ生シ
六年ヲ還成レヲ成レルレノ竹不レ剛不レ剛不レ柔非レ草ニ
非レ木枯必六十年復亦六年是也とあるを
考べし
補長八丈の鬼が説
年代記云大宝四年丁未長八丈横一丈二尺
一頭三面鬼来ル
今按るに続日本紀以下の諸実録にかつて
見えず信することなかれ
俗謡
○雑類俗論
闘伊勢三輪一体分身の説
三輪の謡におもへば伊勢と三輪の神一體分
同同十二月一月一工
身の御事。又いはく女すがたと三輪の神
今按るに三輪。所レ祀大己貴命は。素盞烏尊
の子にて。天照皇太神と一體にあらず。男
神にて女神にあらず。いかなる故にかくあや
まれるにやと考るに。倭姫世紀ニ曰。崇神天皇
五十八年辛巳遷二倭弥和三室嶺上宮一二年
奉レ齋○太神宮儀式帳ニ曰ク内宮美和ノ御
一諸原爾造二斎宮一齋始奉支とあり。此ときは
天照太神宮を三輪にまつり奉れり。かゝる事
を閉たがへて一体分身と覚えたるもの成べし
もろこしのさこくが説
二人静の謡に。もろこしのさこくは花に身を
すて
俗間つたへて
唐人と思へり
今按るに。さこくは。大江の佐国なり。大江系図を
考るに。佐国は朝綱が曽孫なり。東見記
を考るに。佐国は播磨国諸越の産なり。予
聞二諸播磨ノ土人一ニ諸越ハ在一賀西郡一ニ今號一ニ今號一ヲ佐
国村
洛陽にては。葛野郡円宗寺の向に。佐国が宅の跡あり。
一長明発心集に。佐国が家の事を記す。山城名勝志ヶ引二
一書一曰ノ證法師
扶持ス大江佐佐国ヲ一ヲ
一佐国天性花を愛す。其賦する
所の詩。多くは花を賞せり。晩年ノ吟曰。六十
一余回看不レ足。他生モ定作二変レ花人ト此詩により
て。後人附会していはく。佐国没後。その子の
夢に見えていはく。われ存命のとき。花を愛
する情にひかれ。蝶と成て春ことに花園に
あそぶと告たり。其子もろ〳〵の花に蜜をぬ
りて蝶に供すといひ伝ふ。これを花に身
をすてたりと。いふものなるべし。おもふに。此
佐国を音によみ諸越を唐土にとりちがへ
異邦人とあやまり来るなり。因思癸辛雑識
曰。楊昊字明之娶二江氏少艾二連歳繹レ子明之
客死レ之明日有二日有二蝴蝶一大如レ掌ノ細二銅於江氏ノ傍一ヲ傍一ヲ
竟日乃去及レ聞計聚レ訃聚レ族而哭。其踪復来続
江氏ノ飲食起居一不レ去蓋明之未レ能レ能レ割二応於
少妻稚子一故。化レ蝶以帰爾。宋ノ高僧傳ニ曰。釈ノ
道賢造レ死焚レ之火リ聚中盡ク化二金色ノ胡蝶一ニ
而飛去
犬著聞集にも。女の尸火葬
のとき黄蝶となることをのす
これらのたくひ。
和漢同日の妄誕なり
俗書に引ところ。俗謡にあるところ。事実をあや
まること尤多し。こゝにはしげきをいとひて二
三をしるす。余は終編に載べし。
一眉作割判判死額四十五
広益俗説弁残編四十五之余
補或問十三條
井澤長秀輯録
○或問一書に。神の像は。虚霊の神には立ず。
国神には立る。国常立と申せば芦芽の像あり。
瓊々杵尊の降臨は陰陽の昇降をいへりと
あり其説いかむ
一答云。神像を虚霊神には立ず。国神には
立るといふ説拠なし。諸神書正史実録に。
天神地。祇ともに。像を設くるの理かつて見らず。
およそ天地開闢の神を国常立尊とも天
一御中主尊とも申奉る。国常立と申奉る時は。
天日嗣の自始所なり。卓然たる一理。万代不
易にわたる。国を言て陽なり。元気化生の神
なり。開闢のはじめより今日にいたるまで常し
なへに立給ふ故に。日月も地におらず。四時もと
きをたがえず。人倫も絶せぬは。常立の御神
徳なり。又天御中主尊と申奉るときは。万物
の自始る所なり。天の主宰として。嚴矛の中を
とる。弘く人臣の祖なり。天を言て陰なり。明理
片付言葉死料口一五
一本漁の神なり。芦芽とは。春の陽をうけて
芦の根の一聯なるごとく。御神徳こと〳〵く
瑞穂の地にしけるをかたどり。国を芦原と
祝して。神を芦芽と称せり。かたちあるにあら
ず。此故に鎮座傳記にも。国常立尊虚而
有レ霊。一而無レ體とも記せり。又たとへば。香椎宮
宇佐宮といへばとて。仲哀の御かたちは。かくのご
とく。応神の御かたちはかくのごとしと。知たる者
なければ。何によつて絵に書。木にきざむべき
や。しかるをしらねども。推てつくるといはゞ僭上
無礼の罪人なり。孟子に子夏子張子游以
有若似二聖人一。欲下以レ所レ事二孔子一事一事一事上之彊二曽子。
曽[リ]曰ク。不可ナリ。漢以潑之。秋陽以暴レ之。稿
一々乎不レ可レ尚已と。是すでに有若を以て
すら。聖人に比することをゆるし給はず。況や
一金木図尽をもつて。神をうつさんをや。よく
〳〵黙識せらるべし。殊に神道は。天をもつて
人を語り。人を以て天をいひ。人を以て人を
迦。神をもつて造化にわたり。事をもつて
深理をしめす伝えあり。瓊々杵尊は。百王
同十一日午後編四十五
月代割判返新四十五
百代垂レ統の祖なり此故に人をもつて人を
述たり。しかるを陰陽昇降を以て談ずる
は。偏に東坡が酔来黒染屏風上。草冩
霹仝月蝕詩と。賦せしごとく分もなく。いと
瞽し。かくのごとき僻解童蒙の惑と成
べければ。己ことを得ずしてこれを弁す。若そ
れ神道に志あるべくは。師をもとめて。つ
とめ学ぶべし。しかるときは。他日燭を乗て。
夜ゆくの期を得んか。古き哥にも。池水
のよゝにひさしくすみぬれば底のたまも
も光見えけり
○又間一書に少彦名大已貴の苅捨て我
国に忌せ給ふ唐薬どもの末の世にはやり
出とあるは何れの書にありや
答云神代巻に大己貴少彦名命定療
病之方一とは見えぬれとも。唐薬を苅すてゝ
我国に忌給ひし事は。三書五国史諸神
書にかつて見らず
◯又問一書に三宝荒神は福禄寿なり三火
幸神と申べしとあり如何れ
一廣俗説辨殘編四十五
書仕訪所久新田一冊
答曰。竃神は。旧事紀に。大年神ノ子興津彦
命興津姫命諸人拝メ祠二竈ノ神一とは見え
たれども。三宝荒神及福禄寿三火幸神
の事は。神書に見らず。殊に福禄寿は和
神にあらず。事言要玄。引_テ邵康節題曰。
嘉リ祐八年冬十一月。京師。有二道人上遊フ
市一。莫レモ知レ所二従来一。貌體古恠。不レ與二常類一。
一飲レ酒ノ無レ笄。未二嘗覚レ酔。都人異レ之。相興。
喧伝。好事者。階図二之状一。後ニ近侍達帝ニ引
見ノ賜二テ酒一石一ヲ飲リ及二七斗一ル次ノ日司天台奏ス寿
星臨二帝座一ニ忽失二常之所一ヲ一レ在仁宗嘉歎久
之図二世之所レ冩壽星ノ図一ヲ不レ知二ヲ其レ幾一不レ過二
俯亀押鶴松栢参錯数飾鮮麗一而已仁。
宗ノ時天下熈令無二物ノ不レ物ノ不レ春星遊二
戯人間一躬見二于帝ニ一也
あるを見るべし
章聖二年有レ人長三
尺許リ身首幾ト相半ス
□□□□□□□□
○又問一書に神託をのせていはくもろこし西
大の教を信じて神明の見ことのりをあさはる
に思はん衆生をば重き病をさづけ嬰児を
うしなひ従者をしりぞけんとありいかむ
廣谷院悴茂扁四十五
答云。黒白しらぬが凡夫の情なれば矜二不能一。
の御心こそおはすべきに左はなくして儒
仏の教をうやまひ神明の託宣をあさ
はかに思ふがにくきとて推て重病をう
けさせ東西わかたぬ嬰児を殺し科もな
き従者をしりぞけ給はんは恐らくは神
明の御こゝろに有べからず後人の擬作
するところ毎々矛盾かくのごとし
○又問大社中社小社の次第いかむ
答云。北畠親房造殿儀式曰。正一位。正二位
以上為二大社一ト正三位従四位以上ヲ為二中社一ト正
五位従五位以上為二小社一トと見えたり
◯又問両部習合はいつのころよりはじまるか
答云度会延経神主ノ曰両部習合は天平
神護年中大嘗会の詔書より始るといふ
波
仁
續日本紀曰上都方波
三寳
供奉次仁
方
乎毛
方天社国社の神等乎毛為夜備未都利
云云復勅久神等乎方三宝余利雑天
不レ触レ物未都礼万
云云本忌之加久方不
如クカ不
忌
方
此弁は出口氏
一聞斎止宣
同広谷院倅浅扁四十五
自書して贈
られしを
人後に金胎両部を習合せりその
不レ換二一字ヲ一
もとは聖武の詔書より始れるものなり
○又間神道を学ふ者書を博くよめば理に
不レ精といふものあり如何レ
答云大に非なり。いにしへ舎人親王をはしめ
一條兼良公北畠親房卿近代出口延佳
山崎垂加等各博識の人なり神道に
志す者はまづあまねく神書を究め博く
経史にも渉るべししからざればなづ見て
一通ぜさるの弊あり昔侯道華といふ道
士好二子史一手不レ釈レ巻嘗曰ノ天上愚慢の仙
人なしと称せし事五色線に見えたり況や
一我東方君子国なんぞ愚慢の神道者あ
らんや
◯又問中臣稜は神武の御宇に作りし
いふ説いかむ
答云神武ノ御宇に文字なし祓の内に
日本紀の文を用たる事多ければ舎人親
王の以後に作れるものなるべし上古に文字
なし応神帝御宇漢字渡りし事日本
同広令院遊弊義扁四十五
紀纂疏朝野群載神皇正統記古語拾遺
等に見えたり和孚は天武帝十一年丙午命
一境部連石積等一声俾レ造二新字一部四十
四巻一と日本紀に見えたり肇て和字を造
とあるにて上ノ古になきを暁すべし
◯又問一書に天御蔭とあるは天御中主尊を
さし日御蔭とは日の神の御事なりとあるはい
かむ此一書未闌
答曰非なり。鎮座本紀曰従二離宮一遷二幸山
田原ノ新殿一奉レ鎮二御船代御船代郷樋代之内ニ註ニ曰シ
一樋代則天小宮之日坐儀也故謂天御蔭且
御蔭一登隠座一祝言縁也船代則謂二天材木
屋船之霊一故瑞舎名号二屋船一縁也天御蔭
日ノ御蔭隠座古語也倭姫世紀。曰美豆ノ御
一舎乎造仕然天ノ御蔭日ノ御蔭止隠咄
あり
◯又間持可々呑天牟とは。海神の不浄を
轉じて清浄をなす有さまをいひ牙を鳴す
こと三度噛呑ともいふとありいかむ右同
一答云非なり。神祇類聚本源。曰耆女曰ク此
十四十七日午扁四十五
国彼鹿乃見哉毛為止白支註曰渇飲訓之
云二鹿乃見一八盆訓レ之云二哉毛為一也盗土飲器
言食レ飯飲レ水而止レ渇満レ腹俗云二八坏一是也
可々二字延喜式作二哥一字一字一字一字一字一ニ曰フ
従二速秋津姫一至二佐須良比失一者各寄一神
号一断二文義一寄二連秋津姫称一謂二可呑一綺二可
呑一而謂二伊吹戸主吹放一寄二佐須良姫顕一
而謂二佐須良比失一言口速開津姫則可
呑也開津姫可呑則気吹戸主吹放也
気吹戸主吹放則佐須良姫左遷也
中区
祓義
解
此説解し得て的当すと謂つへし
◯又間太平記剣巻に新羅より生不動といふ者
七剱を携へて日本にわたり。草薙剣をとらん
とて尾張国まてせめ入しを熱田明神蹴殺し
給ひ彼がもてる七振の剱を草薙ノ剱に加へて
宝殿に納給ふこの故に八剱大明神と号すと
あるはいかむ
一答云生不動が事何れの書にもかつて見え
す八剱宮の事は神名秘書曰沙門道行
盗二取剣一趣二テ異国一ニ一逢二風雨ニ一不レ達二モ先ノ路ニ有テ二霊ト
廣谷院辨淺扁四十五
威一被レ送二熱田社一自レ爾以降造二加剱七柄一天為二
八剱宮一とあるを証とすべし
○又間もろこしの剱は日本に及ばざるか
答言いづれの国といへども日本に及ぶものなし
此故に遵生八牋ニ曰自レ古格物之製莫レ不
有レ源傳一ル流唯銃レ剱之術不レ傳セク典籍亦不二之一
一載一故今無二劔客一而世少二名劔一と嘆ぜり
◯又問いかなる故に及ばざるか
答云吾子不レ知や日本は天瓊矛の滴凝る所
の国なり利剱其風土によれり此故に小国
といへども外国にあはせられず文永弘安に
蒙古襲来りしかども天地編満の瓊矛に
あたりてくだけ去ぬ余は瓊矛記にくはしく
のせたりあはせ見るべし
右十三件依二友人之問一答之
○又問俗説弁此書のみにとゞまれるか
答云他日終編をあらはすべし
広益俗説弁残編四十五終
一寛政四年戊寅年
記ニ于残編俗説辨之尾一
西域之舎利ハ見レ碎二於傳奕カ之槌ニ
我朝之俗説ハ見レ破二ク於不肖サ之辨ニ
雖二事物異ニスルト其類一共ニ是レ不二快意サ一ヲ乎
嚮ニ著二正後遺附ノ編一ノ編一ノ今也残編既ニ
脱スレ稿ヲ若シ夫レ他日所レ出ル之俗説ハ説ハ猶ヲ
待シ二終編之筆ヲ于机上ニ
享保壬寅之春
細川越中守宣紀武臣鳥鋭首
井沢十郎左衛門長秀
同同庚午乙午庚寅四十
廣益俗説辨正編二十一冊
同後編五冊
同遺編五冊
同附編七冊
同残編八冊合四十六巻版行出来
同終編未刻
京六角通御幸町西江入
享保十二丁未歳季春穀且
書林茨城多左衛門板行
一