太閤記七ノ卷朝鮮せいばつ記

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不明
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うろこかたや孫兵衞
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タイコウキシチノマキチョウセンセイバツキ
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東北大学
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タイコウキ
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月 申 年館 館所和4 書究令図 図研ん属 属学月付 学70和年学 太記東宇 大阪3六 北台和北 東宇仙令東 書名 甲 所蔵者 資料番号 撮影 置写 太閤記 ○朝鮮せいばつ記 七ノ巻 図別 宇7 特別 特別 ”あ 太閤記 七の巻 朝鮮征伐記 同年刊未版開催金を 以テ輸入セルヿ 「米学吉団書録書」 太閤記 七ノ巻 来由 朝鮮せいばつきに 小西手かう 初段 扨色其頃くわん口ひて吉公いせば日すまし今ほうや日本六丁ようこん〳〵にいたるまでかせすの道 ふすくきのとしなびかすといふ所なしこれに給つて波やうしみよし中なこんひて次女にばくしよくをめつのそのみ はふしみにゐんきよなるいにゆる太こうとかうし奉るさかにかつて日本の話を景にしみへ出仕ていにやうかつかふ かきりなしあるときほとうひて吉公殿士を召れけららい国てうせんをせあせんとおりはなりいつれもみへ なすのしたくかねてあるへしと仰出されける御まへしそのんともしとまつておうけをはせども心の内 にはよりともふしのまきかりさへなきなる事とおもひに見ぬもんじをせめんとは此人の心にはいか成 ものか入けるぞとつふやきくかへられける抑てうせん国と申はいにしへいんのきつきてしうのふわうはしめ てき子をほうせし地也そのゝち八百九七年ねんをへてきなかしはんしいまんといふりのにほるほされんの 〽ふていこれをたいうけて又三百八十ねん過ごかんのすへにこうてんしせんかうじといふ二人のもの立ならひて 一かの国のわう成そのかうしがちぎやうせし国の半ふんをかうらい国となつくそのち六百ねんをへかう らい王しよくのしん王けんかためにほろほされわうしかよにいたりしんちはくきいかうらの三かんのあわせ 一とうのまつる事をたりおこなふそれより四百九十年也をへて大みんかよむ女一ね軒りてものかきやう二年 にあたつてかの国のしつへいりんといふものしうをうりみつらからい国のわう成大みんののといそとう ていにもてかの国のなをあためてうせんくとそそ申けるさるほとにそこうひてよし公二十五万よきのせい 小西つの守ふね □□□□□□□□□ 石火失 ヌクリ 諸道和 ふさんかいのしか をそろしひせんのなごやにちやくらんありせんぢんは小にし津の寺ゆきなるかえが方へのかみきよまさしろ たかいの守源のなるまさそのほるかそふるにいとまなしさてちやうせんのみちほとこをさくにひせんなご やもいやきのかぎもとへ十六りかさもどよりつしまのふちうへ三十六匁ふちうよりわにのこなときたた廿三り わにのうちなてうせんきさんかいのみなとまて四十八りえなこやゟふさんかいのみなと迄百廿三のなり 海上にはる〳〵のかいわく三勢のにししにてしらぬいとくへ出しわたらんとはかり給ふをこうの心のもこそ すさましけれさてもぶんろくえね四月十二日にすまんの奥せんともつな切てのり出すせんぢんか藤一 かまへのかみきまさなへしまかゝの守なをしけにをき中にてなんやうにあいいきのかさもとへふきへ かへたりされ共小西への守そうの池しまのさよしとし等がふねはなんやうをもかまわすふさんかいのみなと につくまことによしつねのわたりしもかゝやと思ひしられたりさて小西かせいふさんかいのみなとへつ くとひとしとときのこへをあけてかゝはばてきも二万よきやふすすまをつくめていかけたりと共に物てつ ほうをもつて打すため出したくせめけるほとに三のくるはを打やふり三時わかりに堀をのつとり八千 五百文人のて畑にしその外いけとり二百よんなはちこのもの共をつうしとしてきんへんのやうすゑなまに これかりしりいめいにあたつてとくねきといふしろありみたふにふしうちきゝねせいにむかつて 申けるは今朝此しろをおとす事ひかいなきはたるさ也しかれは明かとくねきをせむへきなれとも一 てきけふのいきを見てすだてをかへてふせがはゆくしきなんぎたるへしいざこのいきほひにとくね きのしろをもうちとるへしみちのほと三十里とはいへども六丁一りなれはにつほんのみち五 りすはよそわきしと申せは諸せいそろともと同しつくいさみをなしておしよするとくねきのしろにな つわしかはときをどんと、そあけにけるあんのとくにしかどんぼうわたがわすとうじんともしさいにてなて きりにしつるよしをきよわれさきにとをちゆきける小にとのもの介木戸さへもんにてせいひさくしをつかへ けく九百よふ人ゆりてけり扨そのめはをくねぎのしろよらんをすへにんはのいきをそやすめけり 朝鮮せいはつ付大友家たんせつの事 去程に日本せいふさんかいにつくときこへしかはとにしさいばこのちくなうは三ヶ成の内にてのめの城也きいか にてもちまきのしろを願にいやけれけるかくて小にしつの守いくきにつきしかばしろのやうたいを見るにゆく平 せめにして哥べきとはみへさりけりたれ共ふし物なれたる大将なれはわさと目をくわよに入て山下をやき 立ときのこへをあけせめけれはねをひれたるとうしん共ときのこへのてにきもとけしわれさきにとをちゆき けるその中にそせ立んさしゆくんじん一んてかへたがいける此時に西かつはものおくうたれにけるされ共かち ほとつたりてきなればのわへ〳〵戦けるりしゆくんは付れそせ過んはをちゆきけるこよにても千よ 人なきいきほいかゝつて見へたりかる所に加藤かすへのかみきよとなへかゝの守なをしけくろだ小 早川等おしきたりにふしと一所になりわうしやうをせむべきよしひやうたしけるあんないしやの申けるは 一王城の道二すし有南のして口へはこれゟ百文にたらすしかれ共大川有又東の大て口へは是が百十四丁 是は平地也とみたへけるかまき宮ごはせんのおくれし事安かのたくひければなん所にもかまはすなん門へ むなんとて申けるむにかつて小西つの守は東門の村手にそ定りける小物思ひけるか王城のせんを加殿に させては口おしき事に思ひわりてぜいせうゝにあんないしやをつけなんぜんへのつうつをいたせんと思ひ大 川の舟共残いき切てなりしをきける是によろて加藤大川にさへはれそ堀へつ事とてになりけりたて北にしは王 やきつきしかばしろをきまし見てあれば一人そなし是にかつて小物はや丸くとわ堀をのつきてかな きよい小物王城をのつんを城へ入んそゑきなしと思ひおちうをおつけけるくればにやそうせんの 大わうたりどもと思はれけりちなきの城をいければ今はもなしと諸官五百両人を引つれきさきをたし てじをち給ふ又いもはいりづ十八才弟弟しゆまならん十三才一人のお子はおらんといへとち給ふされはにつほん一 ぜいうんかのとくをかけせにろをば切てすてにたるをばをいちゆしゆ程についにし両たいしは加藤清正 にそといれけるかゝる所に大みんの大わうしんそくはうていまりしよしやうを大将にて二十まんぎを そろしてちやうせんいかせいをそしたりけりこのときこにしの守そうののしまの守なじましまろたくわつ ひてはずにはや川金五五友さこんたちはなたこん宗しけるまのじくの案せめたがふわすかどなりかる 所になばせきくにくわんしやようしの三人りしよせうにゑつしてわへいをこふ日本の諸大将このよしをひ て吉王へ申けるこのをふし太こうの御はくせいきよし給ふによりたいこうはひせんなごやより京とつか いぢんなされけるこれにあつていやうせんわだんにあいすみ諸大将はかへいれけるさねともにつほんへのみやけ一 にせんとてうい記所のくひ見えをそきかへの京都にて見とつとてつせいるゝたてちやうせんのしとうは 両たいしも共にばんぜいをうたい王城へそかへいれけるそれよりして日本へいまにみつきをそなへける 扨此たひのするににしつの方せんらんはしつれとすかまきよ正両太子をつけ丸しにより一ばんをぐ およいにてたまりなりけり二はんつの守ときなりその外ほうびをくたされけるこのこにしつの守はせん 丹さかいのちかせいといふまへのになりしがかたりふゆふのも守たはいかさまたそのとなけへさりけり又 し友さいせうめしつなはいうぜさのふかまひろんしてなざいに仰付いれけるこのとき大夫のいへばたつつ いたしける同十月四日北条氏有三十一万にして大坂にてほうたうをわいせいきよなりてんうのしよと うもなはだこれをおしめもらいはるはさいこにて太くをあておこなわるべきむねゆはありしに笠 このしに及べりこれより北条氏のちやくかながくだんせつせつせり 関白ひて次公あくさやくの事 たるほどに色こうひて吉公は御をいみよし孫てを本なとんになしそれよりくわんばくしよくをゆつつてんかの せいたうをまかされけるそのみは大坂ふしみの両陣をかけておはますその頃あたいせこのそく女ひ しんのよしをきて給ひしのひやかにむかへとりどのわたり御所を立給などなどをかれけるひはう になんじさん生有これあひてより公の御手也太こうぞよの外にいとをしみふかくにてもい有これはめつ て日本の大小名この若ざみをうつまひ奉る事かきりなしこれによつてりんはたひて次公いつしか様 心あらくならせ給ひ御まへの人ともゆへなくして御かんきをかむりありあるいは御てうちにあふ人とも かほかりきつきんじゆの人こそけふまては人をとふくひあせはわるみの人ならんと心をくだき給ひ けりある時こせんをあかりけるに御はに寸なのたはりければ御りやう自人そめしてなんちがこのむもの ならんとてていぜんの四方なを四中になし入させ一りうそのこたすかあたけとてせめ給へはさせ給へ すがさきいのちなれは力ななこほうをくたくことくにはら〳〵とかみけれは四かやふれはのねもてたけて まなこそくゝみうふしにふし道を又ひつきて右のうてを打を打をとさせこのうへにてもいのちやおしきたすけへ ばたせかんやと仰ければこれにておいたせけあれかしと申を又左のうでを打をとしこれにてはいかにと仰けへ かそのときかのものまなこを見いたし日本一のうつけそのかなあく人めさゆふのうてなくていきても かいのあるべきやたるにてそくわこのかいぎやうつたなくしてなんちをしうとたのみし事のむねんさよ 一つねくなんではあんかういふうをのとくにきをあけているゆへにすなはいつも有そかし頃のちも見よかせふへ かんときかならすあらんそあく入め此うへいかやうにもせよいのちはかきりあるものぞとさん〴〵にあくにし けれはそれものないわせそとてやかてくひをはねられけるそのゝち本納式部田中兵部まいりてさま〳〵 せいし奉れともんをきり給はねばいよ〳〵なきけんあらくぞおはしけるさあらはさいにんを以てにがけた せ申せとてまい日一人つゝ出しときり給ふ間京ふみ大坂さかいのいのらうじやをそのくらすきりつくし そのちにはかりそめのそせうつたへにいつるゑのもにすかるものはなかりけりたればかりすなとりのくち すかりそふとりせめたるおとこくわいやんの女なとほんはい弟にとられける又なに給りもあやうかりしは一 あかときひて次んこんとゆへある給ひてやともうをなるめておはしけるにくわいふんの女いかにもけにてのべ のちかなをつみためてその日のかてをもとめんとみやとをさしてゆみ来るを御らんしてこれなる女のた はめてもちの大き成はこれてふた子といふものならいそき一れてまいれあけて見はつと仰けるいまへの わかとのそわけなりさふくふとてはじりいで打へなく引立立りける所にゑきあんほうゐんなにとなくみへ むかい持たるせはなん身をふところになしんさせさて候なにまいり此女はくわいにては候わずねをいたる そのにて候が有のわかなをつみてくわひ中に入都へうりに出るそのにて候と打わうの申ければそんならんには よしくいぞきかへせと仰ける此立のものもの口をいかれたる心ぼしこそかへはきはくそ毛此ゑきあん法印はいへして一 大なすくひしんかなとて諸人かんぜぬはなかりけりたそ大せんていおゝき町のいん御びやうたがせ給ひてんへ ゆく一すりをつうせし。とおそのかいなくして。ふんね正月五月五日についのかくれさせ給ひけるをやはん みん迄うれいの色をなし月日のひかりもう身くなりなりしつもくるしみせんと上下物おともせす是をはゞ かいけるにひて此公はあけくれふゑんゆふけにてうしあまろさへ北西山ゟ出てたかがりしがりをはしめ たみのわつかい諸人のくるしみそいとひ給はずかのまかせてふるまい給へばいか成そのかしたりけん一名あつし け札をたてせんていのたむけのためのかりなればこれやせゆややれわんがくといふひて次かやうにあはきやく をつくし給へは中村式部田中兵部いろ〳〵といさめ見せばせねんなかりし御うんのせへとそ見へにけり 木村常陸介しのひの事 さるほとにひてつぐ公中村田中がいさめをもちい給はすあへどやうひゞにかさなりけりあるときひで つゞ出御しよらうにてかく候てんにおはしけるにしむらのたちの介まいりて申けるはせん太かうのあたがへ いできさせ給ひてのちは有にとやらん御まへとをにならせ給ふやす見へさせ給ひ候たかきものやし きも。しつしのなれときはやうしをはてうあいいたてそのにて候なりしかれば。水身はなくせた まいばまづくわんはくを御ゆづくあれと仰られたいくか東国のみてにてにて御しよれさをあておこない 小西げぢ ちやうせん大り 両太子いけ水 □□□□□□□□□ ちやうぜん大王 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 清正がつわ物 のち〳〵にはるに入のやうになし給はん事ひつてうものまへにて候はんきあんときにはないとをかけ めしにち給ふ共なか〳〵のちあきまました今御ゐくわうのつよきよきときに大名共にも御なさけを かけいれ候て御しんていをのこさす御かたり御たのみましまさきれはそむきほり候へきやとう の明いのちをうはいたてまつらん事はそれかしかか心にありとこともなげに申しきめにすめたて まつれはくわんばく聞しめしまことになんちはしのひのな次ゑたかとはきこしかどそれはときにより おりにしたがいての事そかしとぞ仰ける木むかけ給はりかさねて申けるはそのぎにてましまさば 日の御いとまを給はり候へ大坂の御しろへしのび入ないにても御てんしゆに御座候たうぐ一しゆ取て一 まいひ出へこれをせきに御らんして御心をさためられ候へとて御まへをまかたつひてつくはたゞおほつかへ なしめくと仰けれ共御うけせずそれよりしよらうとかうし出仕をやめいそぎまかりくだりける矢の よ太こうは伏見へ以上らくにておはしければとりわきそん〳〵のとのいもきびしかもつれ共いとやすくしへ のび入ことのやうをそうかゝいけるに女房のこへとして上田ははやひらかたまて地のほつのほつのか といふをやきてさては御うんのつよき大将ぐんかな此城にこんやおわしまさば御いのちをうはいらん ゑのをといひなかの此まゝかへつてはひてつく公のまへいたてこれなしとおもひてんしゆへしゆへ立のひいり はとうの御ひさうなされし御水ざしの葉をとりていそきかへつてひてつくの御まへにまいりて そだんのよし。とつぶさに申あけにける気ばくこれを御いんしければんねの手ひでつくより御しんじ 〽かさのふたなりふしきなるかなことなるものならばうたがいくも。おもふべきかねてなれたる 物なははいかゝ見そんすべきとてなゝめなく身かんし給ふ此此水さしの事むかしさかいのみやにてむるかき しづの物たる有てなりしをそうなきと申そのもとめ出してひていへさゝけ奉るをやかて大とうへしん上 とぞ聞へしそのち大坂にはこれをたつねさせ給へ共さうに見へされば何ゑやうちやまちしてかくしてかくしてかくしてかくしてかくしてかくしてかくしてかくしてかくしてかくしそのち あらんときんざいくのしやに仰付られわさんを云つてうちのにさせ給ふのちにしゆつく御けつ しよのとき此ふた出たるにより此事思ひ合てくはしくすむさせ給ひてそあらわれけるもたちの介 かにうにさま〳〵にはかいひ申ければひでつきもをのづから御心をうされないへに御しやくあつて大有へ 小草よくす此辺にしたかふべきとおほしめてそのともには御もまへにて御ちやをいたされあり いは御たちかたなによらずそのほと〴〵にしたかいさんきんをつかはされける間何事もあたわわ はくへいちめつをたてまつらんとぞんするもの共あまたなりされども御かろう中村田中を初へ かつて御わたへをゆかたせ給はでよろつほむらがさしはらい申けるかへにてててんかんがたくし てきみをそうしないたてまつりそのともあとなくほろひにけり又そこうの御前へおほすがの めいろ〳〵さんけんにもへおとうそ御にくしみなくそきこへはつとにそかくにもひてつくの姫かん のすへとそ聞へし 一関白秀次さいとの事 ゑ程にくわんばく御むほんのやう石田ますにあいろ〳〵さんげん申けるほどに太郎さらば給へ らかにけつすべきてお田屋善はんほりをさて口きかうだうすと申あま三使を取つてちうへ ぜんいだんのきによりたいだんすべき事あればいそき伏見へ御入あれと仰付られけれは三住夫へ いゐて右のよしをくわんはたへ申上るひて次かしとまりた今さんく有へしと三俵をかへしさてひていへ 落しやうぞくをあらため出段なる所によむら罷出しはかほとこれかいなき津屋にておい まける事也善口なしけれ只今ふし見へ御まいり候とき御たいめんは思ひもよくす二度都へばかへし 給ふへからず道にてざう云の手にかゝり給ふかさあすはおんぐへなかされ給ひてついにはには御もち けん候はんさてものかれ給ふましき御いのちにていつまておしませ給ふでやいそきふし見出しよせせ いやうにて候なをのこし給ふかさなくは此城にたてもらせ給ひてうむの一せんをとけあんひをきは めさせ給ふべしと大きにいかんて申けるかゝる所にあわのもくの介すゝみ出てもたるは木村もかそたるこ とふて候へ共又しりそきであんのめぐら候に大関は御心はやき大将なれば恋御むほんをひつてうと思 即候はくやはかかやうな事のぴひましそくしにおしよせ給ふべしたゝすしなきをとりとち石田がざん けん申とも太こう御そこいには御せういんなきとこそそんじ候へたあんときは何心なく御まいり 候はつね御心だけさせ給ふべしと申せはみな此ぎに内御道具をもさしをきかち立にて御供公 三十人召つれいはしたいくの絵を出給へ御うんのへとそおほへけるさそひて次公御こしをはや 給へはほどそなく五条いはしを打わたる大きて入のあををたせ給ふになにとやらんあ存さは かしくひしめきんかふ人もこゝかしこに立まよいけれは御供の人々足ははや御うつてむかいたると おほへ候いやしきその手にからせ給はんより東ふくら喰こしを入らにありありて水もいけれ 候へと申せはひてひきみした扨はそめにたはかれつる事のむねんさめとの給ふ所にましたゑけん参はゆるへ いるよとんでとり御こしのあにかしこなをこう思つその外の御きけにてひとまづからや山にしつはやせた まいてれん〳〵と御とりなきよし仰のるべしとやをに申てゝめ直のふぜんをかとみかう也山へぼいてき けるかゝて其寸がいかうぐ山によちのほりかくとの内し給へはそくしき上人出しかいたかいにたもとを一 しほられける扨関白はいくしをろし給ひろいせんそんそんだそ申けるあくれはふく能左衛門のたゆふやく原者へ この介池田いよの守を大将として五女子よき木食上人のあまいつける入道御出有三様に似たいめん あるたへそんのたゆふはをちゑんにかしこまろ御さまのかはりたるを見せり泪をなりけれは道との御 らんしいかにゆらは入道ひとりたんとてあまりにこと〳〵しきふるまいかなと仰けれはふく原右馬の介 かこまつてさん候にはら召れ候は御かいしやくさせとの明くにて候ともせは扨は何らは我一ひ打へき と思ふかいか成たちを持たるそいて入道をもいを同はくひうたせんためにかくのとこの太刀を持たるす汝 らに見せんとて三尺五寸とかねつぐりの御はかせするりとぬき給ひて是見よと仰ける是は右馬の介 かしやくといにてすいさん申と思召かきねて物申さは仍てにかけれんと尋に御しよそんとそ見へし三人の御寝 衣はきのを見せりににてはたらくならば中くけてにはかくましき物をと思ひめとめを見合刀のつかへ にてをかくる入道ほいかく思召けん風はかせをさやにおさめ今はさいごをいそくへしとてすざを立せ給ひ いゆをひかぜ出給ひ御小性衆を立れいかに汝らはわかきもひなはさいこの有さま心すなしその上われ腹へ 切ときかばさうゑもみだんとさいかしく見くるしかしるべし是にて後きをて山本とのそのめに国吉にいわ きさしを下たるたのものふねる某は御かいしや此段跡にこそと存候へ共いたきへ参りたきよめ見へしとて一 御わきさしをいただ板十せんしににきやふり五ざうをくり出しけるを成てにかけて折給ふ今もし千才也次にやま 本三丁代を以て海毛是中にされとてあつ藤町宮の九寸八分しけるを下たるよれ候とてたれもしんびやう にはら切御手にかゝりけるとし十九才なりわはんはふわの万作にしいさ藤田水を下たれ思ふしさいあれは いきりてにかゝれと仰ければかしこまる〳〵候といわすさしを少しいたまね十七才にていさきよく腹を切 いしくそしたりとて御太刀あけ給ふと思へはいはひなまへにてもちにけるかはつねに御なさけふくけれ 八人でにかけと思召御ちきもの程こそあさかくね抄入道道殿両かんをふさぎくねんしき人あちの守を 公の海かいしやくして我ときれと仰ければあはち来り此さひぬ様を立たいしもの共おほき中に参出来せへ一 にかない御さいこの御供見事今其の望是にすきしと申せは八夜心ちよけやうちゑみ一尺三寸に寸正字の一 いわきさしを右に持その手にてむなさきをもみさけゆんてのわきにつき立にてへきつりと引まはし 給へは御としのほね少かゝるとそ見へあはちいうしろへれはれはしはらくますとの給ひ五丸なをしむなさき よりたて雨におしさけ給ふ所をやりて御くひむをたすはらみて身とそまへしあはちの守御くひを一 すゝざけんしの今にむかい参身ふせうに候へ共御かいしやく候と仰付いはは候一とくそはやくをい付奉もん と一尺三寸ひらつりのわきさしをふとはちに二かたなさしけるす白たき五寸。計うしろへぞつきとをしける 又とりなをしくひになしあて左右のてをかけまへゑゑいとおしければくひはひぎにいたきむくろは人に きなりける見る人とにあつくれなとうのものかなとそかんしける 秀吉公薨去并豊国大明神といはふ事 去程に二代銀くひを持火ううのじつけんにそなへけつひて吉治らんし夫ばつたる者のなれるとて後 代のいましめに三条のはしすさいすへしとごくそんにかけられは浅ましろし次第也扨きんれは何千代物は つのきこはま寺御坊のむすめやなこんのやはら二なん百文は日野下つけの守様の娘の腹也無なん十丸は北野へ おばい地娘の腹その硯式みつ丸毛は下々の腹にてはないつれもちかし奉る物ひていとのこのみゆへゑんごくは 三馬迄官及召よせ給ふ上屋三十四人ませしませしをいく本を引よし皆切すて給ふへ情なかりし次第也 しかい火を三条のかたほとろにひとつにつきこめちく生つかと付給ふ其外諸士ちりくにくにをは行しまぬ 出していうしにける扨毛此たひうしなつ上家達のしんろいいろくそせうせうせともとおこうのせうたいやし ものものかれてひて火のをもひ物と成しゆへじつとの思びふりけれはかなはせきられ給ふさいこいづれた事 にてみなじせいをてつゝねける一はん前の犬なこんの娘非とし三十一才なりのへてあくふる程をうきのそとへか もへのこることのそもなし二とん信中将の御娘おほま御前御とし十六才な都なほの日かけるかの花におく つやよりそろき身をは出しまし三ばんは中なこんの御娘おかめ候前左のみゆるみたのおへのたがわすべ道 給へをろか成身を四はんは仙に代丸の御母日野下野の守か娘おわこの前有のちの色かけし元の かりなくほとしたいゆくしての山道五はんは御つし丸の御母うつとはたるに思はぬよの中を一被成 やいまさめぬらん六はん山口うこんかむすめつまやまにさそれての道なればなにをさあとに思ひのさん 〽これは百丸のはゝなりそんは十丸の御はゝせうはい屋のむすめおきみのあくひとせしに大じへひあり一 くわんはくあくきやく 楽 漆 ゑきあん法印 豊国大明神 上りやうり人さいこ 一丁 おのむ心の月のいりてくらんそんあふみの国しがらさたためをひこそがむすめおまんのかたにいづとて しらぬゆみのにまよふ身をろ引給へなむあみたね共はんはおわりの国ほつた次郎せんかむすゆかめかへ はなをけるの人のおしその道なれはひとりのともまふべきかは十は十はんはあとのまへたへなれやのりの はらすの花のゑんにひかれゆくみはきのこしみしきかなその外三十四人みなじせいをつくきはれさせ給ふけん ふつのきせんゆんによみなくそそをぬらしけるもの心あるものはやみうのゆくすへいかゝそろしとてやこへに事也 そうくりけりたるほとすりうんおしうつりちうゑうふつやうのよの中くこうひて喜びやうたつかせ給ひつゝてん やくいしゆつをつくせともどうひやうにてやありけんけん火でう三年八月十八日にしんしのしやるくんとよ とみくもんはくひて重沼とし六里三才にして城うしみのしみのほつにてついにこわざよあくサなは御しらいをはまへ 北あそだがみねにはうむり奉りされは御ゆいごんにはしんまんとあるいべしと仰へける此よしそうそんありなし ともしん八まんといふ事はならたく事なりとてよくねの四月十八日にごやうぜいのとよりひてものをくるへ こととよくに大明神とくたし給ひかたしけなくもぞんしのちよかたされけるしよとうたいなはやし ろのだいそんよりらうもんまていしのとうろうをさけてぜつくしひつくしてまへていはんたもなしやうやう 〽まんをつけられ吉田のちぶううらへのかねはるしんじよくとしてしんしをとりかこなにさてはこうの長まひ 〽てより五六才にて天下をおさめ給ふこれ浅井長正かむせめのそらにいてきさせ給様になりゆく かり共なる〳〵申はかりはなかりけり 右七巻者板行軍書抜書也寅正月日 うちはかたや 本間屋 松 10171