俳優畸人傳

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歌川國貞畫
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2026-08-17T19:23:18.243Z
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2026-08-17T19:23:18.243Z
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場所: 江戸
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歌川國貞畫
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日本語
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森屋治兵衞等
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ヤクシャキジンデン
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東北大学
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2025-12-02T15:06:58Z
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2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
狩 特別 俳優崎人伝初編上 寺序 先年前の談師楼香馬の撰みし類舞 一妓年代記は寛永の初より文化までふた 百近き年の間の俳優を記せりはた八文舎方政 の撰条あまた有其証尤委しく此道の亀 鱧ともいふ魚きなりされと星うなり物換り は今の世に名高き俳優人をのせし集冊なし 依て文政天保に名を得し人々の先祖より 世々の名継き人今の世の何某としるしわざおま の評ははふきていち頃より此道に入常に何を 好みかゝる事ありしなと種々のはなしをさえくわ へつ己児き時よりすまひを好み其道に入て 十か四ツ五ツは乗りたれと戯場の道はちかき比 より見もし聞もしなして深くも忘らねとたゞ 気に入暑成人に逢て忘せる事をそまし かい孝気つやかてそ四巻の綴冊とはなして俳 優崎人伝と上書せり一巻に三たり四たり つゝ出しぬなをとし〳〵巻を都きてやかて ぞ全からんと為す都ゞりけりのいやしけ なるは俳優て女みの総角晩め等が見あきゐ なれ婆四方の笑達見過るしたまへかし 天保四己とし初春 東都作失立川焉馬本 市川歩美蔵 尾上栄三郎 坂東三津五郎 松本幸四郎 市川白猿 岩井杜若 岩井紫若 中村芝翫 関三十郎 中村冨滝 立つ 焉馬 嵐冠十郎 まはれそふ 入相ならて 桜樹の 召心は 立りける ふき鉦の 音に 尾上菊五郎 唐土外楼 七十の かみ 同 まく なれや 評判も 古来稀なる 大入 にして 岩井半四郎 俳優崎人伝初編上 ▽荒井恭七郎開会ヲ 東都立川焉馬撰 妓藝一道冠首 ○成田屋市川海老蔵白猿 元祖 才牛 実子 栢筵 三升 市川團十郎 幼名海老蔵 劉氏釈名曰川穿也地を穿て流事なり 二代組 市川團十郎 幼名九歳 幼名九蔵 市は万人の会する所川は物の滞らざる道 後二海老蔵 三代目 市川團十郎 されば市川の名に四方こぞつてあつまり弁舌 同切岩井五郎 警徳弁 流川のごとく勢ひを得たる俳優の司市川 聟 三升 四代 市川團十郎 初幸四郎 団十郎は天国迄も響渡りたる古今未曽有 の誉れ比類なき妓道の名家也そも〳〵元祖 実子 白猿 実子 三升 五代目 市川團十郎 団十郎父は甲州の士浪人して下総国佐倉幡 初名幸蔵 松本幸四郎 谷村に住徳越重蔵とて民間に交り富農に 六代同 市川團十郎 年月を送る処第に跡を譲り慶安承応の 幼名小玉ト云 白猿孫 白猿 三升 七代目 市川團十郎 頃より江戸和泉町に居住し万治三年男子出 幼名新之助 生す時に使客唐犬十右衛門といふ者幼名を海老 又海老蔵 市川團十郎 又海老蔵ト改 蔵とつける其時送りし海老を画きたる掛 八代目 市川團十郎 物今に伝来す種より妓芸を好み戯場に入て 幼名新之助 又海老蔵 二男 重兵衛 幼名新之助 市川団十郎と呼元禄の頃上京にても誉あり 役者の開山と世以て是を称す宝永元申年 二月十五日不慮の事有りて寂光都へうつり法名 十良 熨斗 一桟敷腰 三升連 門人連名 門誉入室覚榮居士忰九蔵中村座において 市川惣代 先男女蔵 団十郎と改名則父の追善を勤其角発句を送る 市川寿美蔵 市川八百蔵 中村冨滝 市川才牛追善一子九蔵名を継侍るに 怒り顔の父は長柄や雉子の声其角 成田屋宗兵衛 万才牛とは元祖団十郎か仇名なり又暮の顔みせ 木場新猿 に二代目団十郎へ送らるゝとて 市川升蔵 市川団九郎 市川三升を祝す 市川団内 三つ升やおよそ氷らぬ水の筋 市川宗三郎 追善は宮崎伝吉差添にて才牛さいごの次第翁 市川木場蔵 市川団四郎 台にて述諸見物皆落涙す抑九蔵は元禄十 市川広五郎 丑年中村州へ十才にて初舞台同十七申年父 大谷馬平 に別れ同秋二代目団十郎と改角前髪のあら 中村龍蔵 市川銀兵衛 事次第に評判よく正徳四午年上々吉享保の 市川団子 始より江戸立役の巻頭に居へ同四年極上て吉 当時大坂に出勤 と評す廿六才の立春其角の元へまかでけるとき 市川白蔵 晋子のいふ今宵は唐にては鐘馗の画像を門に 市川鰕十郎 市川升五郎 張るとかや我朝にては其元の舞台の有様を画て 市川男女蔵 こよひ門に張らば悪魔降伏邪鬼も拂ふへしと 三之助改 市川清十郎 則香包を開き箔置し儘の所へ筆を取て鐘馗の 市川三筋 市川団市 大太刀をさしたる墨画を書其賛に曰 市川白猿 嵐雛助 市川団助 一今こゝに団十郎や鬼は外其角 市川升三 京都 市川団次郎 誠に晋子の当意即妙とやいはん三ツ升やの 松本万虎 句も此頃成べしと云ふ享保廿年の冬は中村座 市川鯉三郎 にて父団十郎の幼名を棄て海老蔵と改名し 当時相休 市川団兵衛 養子升五郎に団十郎の名を譲り三代目団十郎 当時手代 市川成五郎 といふ古三升や助十郎が実子也初メ徳弁と云ふ 市川金太郎 三味線 夫より升五郎と名乗る享保十三申年初舞台 杵屋六三郎 につゞみ 望月太左衛門 才牛を 祖父団十郎 廿五年忌追善うゐろう売勤 云ふ いなり町頭 うるしや才兵衛 寛保元酉年海老蔵三代目団十郎を同道にて 狂言作者 三升屋二三次 大坂へ登りためしなき大当り同二戌年江戸へ帰る 此時より極上々吉無類と記す昔より名人と聞えし坂田 山下江戸にては中村市川皆上々吉を司として稀なりしが かくの如く位付は柏莚のみなり又三代目団十郎は父柏莚と ともに大坂へ登り病気にて父より先に江戸へ帰り翌戌年二 月廿七日に死す法名随譽覺性と云ふ江戸中ひゐきのなげき はさら也取分大坂にて柏莚の愁傷大かたならず又の便りに 聞と云へとも山海を隔つれば心にまかせず泣〳〵筆をとりて 梅ちるや三ねん飼ふたきり〳〵す柏莚 此一句の内に恩愛無常籠りていと哀なり扨柏莚は成田山 不動尊のもふし子とて則家名も成田屋十兵衛と号すゆゑに 八日市川白猿 男之介市川白猿 市川白様 不動の狂言には精神をうつし名を後代にあげ年毎に大当り顔 見世は角かづらの暫く四天王の四役春は五郎の荒事又は十郎 の和事やつしにてはもぐさ売又ういろう売一世の中に五度 助六三度矢の根五郎四度鳴神五度不破伴左衛門其外同じ 狂言にて誉れ有事数多也其上俳道に志深く宝晋斎の門 葉也三升と云ふ才牛斎と号し其後柏筵と云ふある時母 親栄光院召仕ひにさよと呼ぶ者有生れ付も人にすぐれ心 ざしやさしき者なるゆゑ子の如くになして置しを柏筵是を 引上ケ我妹となして四代目団十郎いまた松本幸四郎と云ふ時 妻に遣はしたり夫婦中むつまじければ栄光も悦ひ実娘の如く いつくしみけりいかゝしたりけんおさよが髪に鼠付て夜な〳〵 寝入し時は必ず喰ふさま〴〵と心を尽し果は家内の者も夜 もすがらねもやらで守り加持祈祷をなせどしるしなし おさよは此事をきになしていつしか病の床にふしにける母の 栄光も心をつくし柏莚をまねき畜生のために命を落す 事残念也とはら〳〵と泪をこぼすに柏筵もせんかたなくかゝ る奇病の詩歌を以て立所に全快なす事其ためしなきに しもあらず我ふせうなりといへど平生好める道を以て此 鼠を防んとて硯引寄短冊を手に取て こと国のたけき獣をつなきにし其黒髪を乱しやはせん と詠しおさよが枕えに張置てもはや鼠の束る事有まし 今宵はこゝろよく休み給へと母をふしどへ寝かし我もいねたり 其夜より鼠来らずさよも次第に金快せり又此頃京橋何 某が妻に鼠つきて夜な〳〵黒髪を喰ふある人短冊をもち 来りて其妻の枕えに張置く 鼠〳〵ぬしある妻にかよふとは と云句也はたして其夜より鼠来らず是も柏筵が趣向 なりと云ひ伝ふ 俳優崎人伝初編上 6992 特別 初編 俳優崎人伝初編下 俳優畸人伝初編下 東都立川焉馬撰 柏筵の達作秀逸餘多有と皆人知る所なれば略す宝暦八寅 年一世一代として鉄五郎を勤し所勢ひ若年にことならす大当り 大入なりしが同九月廿四日行年七十二才にして死す法名は法養柏筵随 性信士扨聟二代目松本幸四郎去宝暦四戌年顔見世より四代目 市川団十郎と改名四代目団十郎は享保四亥年の春森田座松木 土蔵といひて子役にて出勤分身荒岡の荒事初舞臺同十三申年 娘形となり同二卯年市村座にて二代目幸四郎と改立役元文五申 年黒上之吉に至り江戸実悪上手切者と呼れし市川宗三郎と 岩井杜若 市川白猿 松本幸四郎 列をあらそひ低名を五粒と号す禅司公暁の役より評判よく河 原崎座にて早咲が死霊粂平門市村座にて今若岸柳大当り 其外年毎に評刹よく宝暦四年に団十郎と改名実子幸蔵三代 目松本幸四郎と改め宝暦十一己年より実悪と成段々立身父の 芸風をよくうつし明和七寅年霜月父団十郎は再度松本氏に立 帰り柏筵の孫たる幸四郎に団十郎をゆづり安永元辰年初代 高麗蔵に幸四郎をゆづり海老蔵と改名同五申年の春非人茶 の湯景清同菅原松王丸古今の大入大当り是を一世一代の名誉とし て舞台をのがれ隠居し名人上手の誉を残す木場の親玉と呼じ は是也木場より送りし狂歌今よりはかはらで年のつもれかし たが三升とも老とゑひこし安永七戌年三月朔日死随念法子こ 名を残す五代目団十郎は宝暦四戌年中村座初而出勤幼名幸蔵 同顔見世に松本幸四郎と改め色悪をつとめ明和七寅年団十郎と 改名し熊井太郎初暫夫より大当り打続き市川の芸は言ふに及 ず古今のまれ者也安永九子年九月尾上菊五郎市村座もめ合有 て引けるを三升の世話にて中村座へ出九月より忠臣蔵田良之助 菊五郎本蔵と塩谷判官二役団十郎菊五郎京都へ登るに付 名残り狂言大当り三升世話ゆゑに名残り狂言までつとめし事をふか く悦ひ京大坂へのぼると其侭芝居にて梅幸口上に吹聴せしゆゑ 京大坂にても団十郎を賞美しく茶屋ののふれん一めんに三升を つけしと也同年顔見世に森田座へ嵐雛助下り長せ唱の役にて 扇の手二の替り恋女房逸平重の井二役大当り此時三升のもとへ 有かたや江戸絵の数に冬椿眠獅 返しとて短冊にしたゝめつかはしけり 三升 顔見世やとかく嵐はあてるもの三升 元来雛助の実父は嵐に六と云ひて延享三寅年の顔見世に 中村座へ下り二代目柏莚を師の如くうやまひ交り深く柏莚小六の 俳名を雑助と付る此時忰岩次郎六才なり小六大坂へ連れて登り 十一才の時仇名詠声を以て鶏助と改め宝暦元未年霜月三升 大五郎座初舞台に関西の大立者となる団十郎へ尋来りて いにしへを語り市川の流に入るの心を以て可の紋を㊃如此につける 大江戸に甘の紋所とて中村座においかく団十郎口上にて兄弟分と ひろうせし也夫より年久しく当り狂言うちつゞき寛政三亥年 顔見世に団十郎を忰海老蔵にゆづり我二代目柏筵にならひ 仇名を呼べししかしながら毛か三本足らぬ猿なりといふ心を もつて白猿と文字を替たり此時大江戸梵鍛といふ狂歌集 冊出る狂言は源家の角鍔渋谷金王のしばらく大当り夫より 同辰年顔見世中村座において一世一代清和二代大寄源氏に定 光の暫く六部にて相馬良門大詰山姥の化現古今の大当り 一世一代の名残りとて詠る 寛政十二甲年七代目 団十良改名ノ顔見世 狂言名代 生茂波溶渦 第壱番目 三立目 うのは 三代日瀬川菊之丞 後に仙女 仙ぬし 五代目市川白猿 はんにや五郎 七代田市川団十郎 瀬川路之助後に四代目 小けんか行菊之丞 小町ひめ瀬川菊之丞 同弐番目 大伴三代同 黒主沢村宗十郎 おしまるゝ時ちりてこそ世の中の花も花なり鼻も鼻なれ 則三升の組入といふ狂歌集ひいき連中より出す是三升ひゐき 連中のはしめ也白猿葛飾牛嶋に三年閑居して仇階狂歌を 楽しみ光陰をおくる同十午年の霜月中村座役者無人に付 岩井半四郎ひたすら再勤をすゝめけれども聞いれずありしが忰 六代目団十郎座頭になりし御礼座付に罷出毎日狂歌一首ヅ〳〵 ひろうの口上ありて極月十三日まで大入なり此時白猿一首といふ 集ひぬきより出すこゝに二代目嵐雛助寛政十一未年霜月 十四日より市村座へ下り秋田城之助にて大当り。古の縁により白猿 にまみへて亡父の事を語り親類の因を結び成田屋といへる家 名を乞ければ白猿成田屋を送るとて詠て遣はしぬ 五代目 市川白猿 都から吹た嵐の大当り入を三升に叶ふはんじやう 二代目 眠獅 一水の恩おもへは厚き氷かな 同十二甲年春雛助山門五三相石川五右衛門大当り其時白猿の住 ける五百崎へ雛助たつね来りて船よりたづさへたる重物たべ あらしたるとてにしめを出しける白猿ふだを取りて詠る 一二の替り又しめましたにしめとて見ればよつぽとあらし雛助 如此狂歌に秀て人を笑はす事多かりける扨寛政十一未年五月 十三日六代目団十郎行年廿二才にて死す梅か枝の雪折まことに おしき事なりと知るも知らぬも袖をぬらしぬまいて白猿のな げきおし計られて哀なり抑六代目団十郎は天明二寅とし旁 中むら座七種粧ひ曽我に少年五才にて市川徳蔵とて初舞台 尾上松助 後に 一朝比奈ニて懐より出し仲蔵口上にて団十郎忰と 松縁 ひろうす座頭の所作同年顔見世に海老蔵と改め同三卯とし春 三升曽我に景清一子あざ丸夫より出精して寛政七卯年顔 見世都座にて帰花雪籠経に熊井太郎にて初暫く当年積て 十八才議の歳も十八才との自作のつらね大当り同十一己春大三浦 伊達根引に荒獅子男之助にて名代看板に一人画がく三月三日ゟ 助六の大当り四月忠臣蔵に若狭之助平右衛門大鷲文吾両三日 つとめ風のこゝろとて舞台を引しか五月十三日に帰らぬ旅にぞ おもむきける法名皆誉自到本利と芝常照院にしるしを残す 扨も白猿は忰の別れに世の中あぢきなく思ひおもしろからぬ春 秋を過る物からかくてやみなんには永く家名の絶なん事の口 惜とて心をはげまし十才になりける孫の海老蔵を今七世 の団十郎と改めはた先祖の百年の寿をこゝにうつして顔見世 一ト幕御取立を願ふとて出勤す生茂濃浜潟時に寛政十二申 年此顔見世に沢村宗十郎下りけるが病気にて一番目出勤なし 三立目に菊之丞五代三郎の妻鵜の羽団十郎傘をさしかけ 市川白猿 瀬川菊之丞 沢村訥升 般若五郎十才なり廻国の修行者実は大友の山主市川白猿狐 を差殺しなから三人ともせり出し大当り夫より口上をのべて 引込居たるを翌享和元酉年顔見世河原崎座役者不連に付 岩井粂三郎親半四郎に別れ女形の立者となるにつけ牛嶋庵 に来りて白猿に再勤の事を亡ふ甥のよしみあれば是非なく相 談きわまりければ市川団蔵も大坂へのぼる事を止め顔見世計 出勤す名代名歌徳三升玉垣股若五郎の暫く修行者実は大仲 黒主白猿坂東順礼実は五大三郎団蔵互に咄しの詰合有て白 狐の作身にて桑三郎せり出し拍子幕古今の大当り同二戌年 初紋日粉飾曽我工殿と景清白猿誠に木場の親玉再束かと諸 人大評判是を誠の納として月雪花を友として元の五百騎に 閑居し農人と交り其名を更名して七左衛門といふ身には 麁服を着て俳諧狂歌を楽しみ一念の窓の前には念仏歌 の百首をつらね壁に西の内の紙に弥陀仏の画像を張り傍に 一首の戯れ歌 一枚のかみのみくにへ産れ来て終には至るにしの内かな と有ける元より朝夕の食に珍味をいとひかりにも殺生せず五ヶ年の 春秋を過て文化三寅年十月廿九日の朝 凩に雨もつ雲の行ゑかな白猿 吟し物に書付て有しか此句に辞世の心有やく時過て終りぬ 又病中に詠じ置けん物に書付辞世と上書して くらきよりくらき道にもあかん堂はるかにてらの念仏の声 行年六十六才法名還誉浄本台遊法子と名のみのこれりさて 七代目団十郎は寛政六寅年の秋市村座矢口の渡しに新田徳寿 丸の役五才にて初舞台也市川新み助と云ふ同八辰年顔見世雪の 姿見に源太丸兼綱にて初しばしく此時六才也同九己年春より ゑび蔵と改和曽我にあざ丸顔見世中むし死古郷の錦に千代望 同十午春六代御ぜん顔見世花三升吉野深雪に正行同十二申年 五月六代目団十郎追善にういろう売のせりふいまだ十才にして 舌のまはる事頻迦は卵の内より其声諸鳥に勝れたりと諸人 これを誉る夏狂言庚申若に土左衛門の伝吉つゝれの錦に庄之助 是よりうちつゞき評判よく享和二亥年顔見世初雪物見松十三才 にて丸額上下の暫くをつとむ文化元子年中村座にて百八十一歳 の寿ある先祖伝来の系図の品々を舞台にてひろうす此口上前々 より団十郎勤束るゆゑ白猿隠居の身なれば七代目団十郎十四 身にて勤む市村座へ出勤なれど勘三郎よりの頼みによつて堺町へ 出口上を述る同四卯年十七才にて元服素袍着て初暫く同八 未年六代目団十郎十三回忌四代目海老蔵五代目白猿の年田取 結び団十郎初白助六大当り幕積物山をなし吉原ゟ例の通り 傘をつみ契情の提灯長柄傘日毎に替るひぬき連中ゟ江戸 市川白猿 嵐亀之丞 紫贔負鉢巻と云ふ狂歌集出す或は発句摺物を送ること おびたゝし同十百年の顔見世市村座戻橋たばこ商人河むしのおよし 二ノ瀬の源六頼光箕田の広綱碓井定光五役此時ゟ始て座頭と なる夫より年々大当り打つゝき実悪双なき大立者と成生得て 絵を好み狂歌俳諧に秀逸多く頗る能書の聞えあり文政十二世 年三月三芝居類焼頃よつてかねての心願なれば高野山参詣 帰路京大坂へ立寄応好一ト戯場に一狂言つゝ出る然とも団十郎は 大江戸より外餘国へ出べき役者ならねば団十郎を憚り市川白猿 と名乗り出勤なす大当り大繁昌古今のめつらしき大入京都昌 負より狂歌を詠ておくる 季鷹 一白猿を見ざる聞さる人だにもいよ親玉といはざるはなし 返し白猿 つかゝもない親玉なそと呼子鳥さるにしておけ〳〵 又大坂にて角の芝居伊達狂言に絹川谷蔵の役なりしか折ふし 大相撲興行中にて江戸の団十郎への立引とて相撲中ゟさま〴〵の 送りもの東側の桟敷は東の大関より三段目迄残らず西側の桟敷 は西の大関より三段目迄残らず同し形りにて見物団十郎も 絹川相撲のこしらへにて両方の桟敷へあいさりに来ての手打目 覚しかりし事になん此見物を見んとて諸人群集をなしけりとなり 又京大坂にて町々より幟り水引積物夥しく進物の番附まで 出て町々を売歩行めづらしき事とも也夫より京都堺伊勢尾 張帰国ながら所々へ出勤にて翌文政十三庚寅年八月江戸着木挽 町河原崎座へ出勤進上の幟り百本に過る久々にての出勤なれ是又 大入大繁昌也十二月天保と改翌二卯年霜月顔見世に市村座く 出勤同三辰年三月団十郎は海老蔵と改名忰海老蔵は八代目 一団十郎と改る名披露狂言は海老蔵助六団十郎はういろう売大当り 大入也猶江戸尤八代集と云へる絵入大本近々発板を待て委しき訳を 知り給へかし 俳優崎人伝初編下終 狩 特別 俳優崎人伝上 周 比 場 誠 土 唐 棚 曲 梵 生且偶貼脚色巧 浄丑料諢撤濃多 二ノ上 金五 嵐亀之丞 瀬川菊之丞 沢村訥升 坂東三津五郎 三榊源之助 片岡市蔵 中村芝十郎 中村歌六 小佐川常世 かつた。 俳優崎人伝二編上 ▽▽考察シ閉開会ヲ 以テ購入セル竹南専士 東都立川焉馬撰 今様一流名人 路考 瀬川菊之丞 五代目 ○浜村屋瀬川菊之丞路考 仙魚 養子二代目 路考 養子三代目 路考 瀬川菊次郎 抑瀬川と云ふ苗名は村山平右衛門京都芝居中 興の始摂津国池田川の東瀬川と云ふ所の人役 者と成りて是を瀬川初太夫といふ後に藤村と 瀬川菊之丞 改め弟子を瀬川竹三郎と云ふ夫ゟ瀬川竹之丞 瀬川菊之丞 後ニ仙女 といひしは京都にて坂田藤十郎時分の女形なり 其後絶て有しが正徳三巳年霜月嵐三十郎 養子四代目 路考 養子五代目 路考 養子 多門 座へ瀬川菊之丞初て出勤紋所丸に本の字替 瀬川菊之丞 幼名千之助 もん丸に瀬の字なりしが享保十年ゟ結綿に改め 瀬川菊之丞 菊之丞道頓堀貝塚やより出たる人にて始は色 幼名多門 子也正徳五未年迄三十郎座に終行せしがはか〴〵 しき評もなき殿一旦役者をやめ元服して乗 門弟連名 人と成しがさすがに捨がたく又女形と成り三十郎座へ 瀬川路之助 瀬川冨三郎 出勤す夫よりだん〳〵立身して享保九年には上々 瀬川増吉 吉となる同十二未年には弟菊次郎も役者となす 瀬川あやめ 翌十三申年万太夫座の大立者と成る同十五戌年 瀬川菊茂 瀬川菊代 榊山座にて大当り其霜月ゟ江戸中村座へ下り七丁 瀬川路太郎 町の所作あやゟこのうた例なき大当り大入り同十六 瀬川多喜恵 亥年かつらきにて無間の鐘の狂言初て勤る誠に 瀬川菊寿 瀬川藤太郎 古今の大当り翌十七子年弟菊次郎を呼下し両 瀬川多三郎 人とも評判よく同十九寅年風流相生獅子の所作 市山理宇蔵 初て勤古今無双の大当りにて元文二己年京登り 市山鳥蔵 早雲座へ出勤夫より大坂へ廻り又江戸へ下りて極 市山七五三蔵 上々吉と評せられ並なき女形なりしが寛延二己年 垣内作者 瀬川女卒 帰らぬ道に旅立ける時に行年五十七法名図覚 濱村助 ふり付 院即譽源阿是空居士弟菊次郎は年々評よく大上々 市山七十郎 吉と大立者なりしが菊之丞死てより八年目宝暦 六子年十一月十三日死す法名を功徳院淵譽木阿仙魚居士と号す 二代目菊之丞は幼名を吉須といふ王子村の産故人の路考養子と なしそだて置しか翌寛延三午年九月二日中村座へ出養父の 一周忌追答にて秋の蝶かたみの翼といふ外艶石橋の所作八才にて つとめ是初華台也宝暦六子年十七才にて父の名を継道成寺無間 の鐘其外父の芸を受つき次第に評判よく江戸若女形の巻頭に 極る安永二巳年壬三月十三日死す行年三十四才法名正覚院響與シ 十阿方順居士爰に一ツの咄し有りけり明和二百とし中村座五月狂言の 忠臣蔵王子路考おかるの役なりしか本読の翌日向星絶がたければ は菊之丞を初二三人弟子を連[ン中渕へ舟を浮め涼みに出けり 葛の葉 瀬川菊之丞 白拍子 瀬川菊之丞 領城あうしう 瀬川菊之丞 荻野八重相と云ふ役者も心安き事なれは供に連行舟遊びして 楽しみけるがいかゞしたりけん八重相あやまつて川中へ落けるあれ よ〳〵と皆々さはぎ立てそうどうなすに八重桐は水そこへしづみて 浮み出ず水れんの者二三人頼みて水中をきがしけるに漸々死がいを さがし出せり早速八重桐が家内へ此よしをつけよと云ふに余りの事 ゆへ皆々尻込して誰有て行ものなければせんかたなく我が連出し たる事なれは菊之丞は気の毒ながら八重桐が住家へ行て女房に 向ひ扨いひにたき事なからいはで止べき事ならねばあからさ まに告申なり今日八重相どのとともに舟遊ひせし所にいかにした りけん八重桐どのはと斗にてあまりの気のどくさに云かねてちりをひ ねりて居るに女房すゝみ寄八重相はいかにせしやといふ又サア其 八重相どの八といく度かいひかけしか思ひ切て川中へ落て水に おぼれ死したりといふに女房は餘りの事にヱヽと計云ふて。眼をみ つめのけさまになりていき継たり菊之丞をはしめ家門の者共 さま〴〵かいほうしたりけるに漸々いき吹出して我にかへり菊之丞 がひざにとりすがりなげきける扨有べきにあらざれは菊之丞は懐 中より黄金取出し野辺の送り仏事のいとなみ不足なきやうに あたへけり此有きまをつく〴〵と見て七段目おかるにて平右衛門との 出合勘平が死したりと聞て其侭眼を廻しすべて此仕打入重相 が女房の恐入にて勤し所大入大繁昌にて瀬川の家の芸となり 今におかるは此形を勤る事とはなりけり三代目菊之丞は安永三 午年春市村冨三郎といふて下り瀬川とあらため二代目菊之丞 周忌追善花遐風折烏帽子所作事をつとめ同年類見世に 三代目菊之丞と改名す女形の無類にて座頭迄つとめし稀者也文化 四卯年滝川菊次郎作名仙女と改名養子路之助を四代目菊之丞 に改る路之助は幼名中村千之助と云ふて寛政三亥年河原摂座初 舞台同七卯年桐長桐若太夫となり其後瀬川の門に入て菊み助と 改メ又路之助と改名打つゝき評判よく大立物成りしが文化九申年十一 月廿九日死す行年三十才法名循定院環譽光阿禅昇居士花の盛り をちらせしはをしむにもあまり有り五代目菊之丞は幼名を多門といふて 三代目菊之丞が門人瀬川路三郎が男也幼年より四代目菊之丞 が養子となり文化三寅とし十一月顔見世狂言に五才にて中村座初 舞台坂東簑助と両人仕丁の役也夫より子役にて評判よく出世して 文化十百年春四代目菊之丞死後に子役にて立女形の席にすはる同十二 亥年十四才にて五代目菊之丞と改名打つゞき評判よく無類の立者と 成る八朶園の門に入て俳諧書画をよくす秀逸多しあまねく 世の人の知る処也一とせ越後より出羽の方へ趣し折から羽州米沢ゟ 壱里ほど在方に亀岡と云ふ所有り此年文珠弁の開帳有により て村長のあつまり相談して菊み丞が越後の中条と云ふ処に居た りしをいくばくの黄金をいとわで迎ひよひけり然るに国のおきてて古より わざおきなどなしたる事なくいづれの寺にも石碑を建て不許葷酒 入山門といふ対句に藝術売買禁入寮といかめしく書付たれば村長 菊之丞が興行を国司へ願ひ出しにむかしより例なき事とて免さられ ば皆々本意を失ひいかにせまじと評議まち〳〵なり菊之丞かくと きゝてきの妾に思ひさらば戯場と云ては出来ましければ只一日文珠極 奉納すべし先祖より伝へたる家の芸なれば逆成寺の所作事をなして 法楽に人〳〵に見せんはいかゞといふに村長とも打悦びさすれは祭礼同前 の事ゆへとゝのふべしとて別当へ願ひ本堂の前へかりに拝台をかけ釣 鐘は田舎のならひなれば大きなる籠へもえきの蚊やをうけ又は衣な きゆへ住僧に願ひければ七条の袈裟緋の衣中けいまで整へてかしたる ゆへ小道具のふつゝかには似もつかぬ古金襴の袈裟の結構なるもいと おかし扨住僧は国司役所へ村長壱人同道にて奉納狂言の願ひに出し 処下司の役人願書を持て奥へ入りしばらく有りて出来り文珠堂は 古へ飛騨内匠の作りしと云る霊場なるに諸人群集して踏あら さん事仏意にも叶ふまし決して此事無用なりとの仰なりと差留け れば住僧村長は色を失ひ立かへり最早此上は力なしとて早々舞台 とり払ふべしとて其心かまひをなし居たるに翌朝下司の役人両人 村長の宅へ来るにこは又いかなる咎をもうくるやとおそる〳〵出迎ひ坐 敷へせうし平伏なすに役人云ひけるは昨日の願ひ役司の申渡しに依 て差留たるが役司の眺夜ふしき成ル靈義を蒙りたり壱人の神望 清国の先帝 対解の文に 日月ヲ燈ト 江海ノ油トシ 風雷 鼓板トス 大地 カ一番 尭舜ヲ且レ 八武末[リ] 弁操ヲ中浄ス 古今来 許多脚色 もの大記号 をかめぐれば 日本天竺の 評判浅東西 〳〵と声を かけて 月雪や 隣の座 には 釈迦 如来 瀬川菊之丞 十七 中村芝翫 あらはれ我は文珠堂より来れるもの也たま〳〵其業に堪能の者百 里の外に来りて我山に戯場を奉納せんと云ふをさまたぐるは仏 意にもそむき又数多の人々の望みを失ふなればとく〳〵免しぬかし といふかと思へは忽然と南柯の一夢は覚たりける正しく文珠芥の霊 夢成事をさとり扨は菊之丞とやらんは戯場の堪能なる者なれば一 仏意にも叶ひし者成べしとく〳〵奉納ゆかすべし此趣を村長へ言聞せ 早く奉納ゆるし見分なして立帰るべしとの事なりと聞て村長大キ によろこひ早速に菊之丞方へ知らせ其心かまひをなしたりける菊高直 はことさらに仏意の忝なさをかんしやして其日は一座の者一とうに精 近深弁にて山をのぼり彼舞台にて遺成寺の所作を勤しに見物の 群集さしも広き山内にみち〳〵たり下司の役人もきもをけし 実に御仏の好ませ給ふもことわりとてかんじけり事はてゝ後役所へ かへり右の趣を言ひ上けるに司より村長共へは雑費として金子 百両を給はり菊之丞其外一座の者へも夫々に金子数両給はり けるあまりに有かたきとて菊之丞は道成寺の小道具を額になし 此有様を委しくしるし文珠堂へ奉納なしけり今も猶亀岡の文珠 堂へ参詣し給ふ人々必尋見給へかし扨越後ゟ出羽へ出る山道にさじ かゝりしに思ひよらさる所に御関所の有て手形なき者はどほさぬと あるゆへ菊之丞大きにおとろき手形を取らんには五里程来りし道へ 帰らねばならぬ事也頃しも炎暑きひしき時なれば人々いかゝはせんと 顔見合せいたるに菊之丞人々に向ひありのまゝに申て通るべしとて 壱人先へすゝみ御関所のまへに手をつき私事は江戸表の役者にて 瀬川菊之丞と申者にて候がなりはひの為越後へ至り又出羽まで 参るべしと存ずる処土地不案内にて御手形を持参いたさず恐入候得 ともたゝ〳〵御返し被下候はゝ難有事に存候とひたすらに煩ひければ 年かさなる侍出て下役人に申伝へ夫菊之丞の絵を持束れよとて やかて一枚の錦画を取り寄せつく〴〵と打ながめこやつしれものに相 違なし是見よ此画は歌川国貞のかきたる瀬川菊之丞か素顔の 似顔なりかくの如き美しく可愛らしき若衆又こやつは前髪もなき 大男也いかでか菊之丞ならんいつわりて通らんとはふてき者めといきまき ていふに菊之丞は手をつきていかほどにしかり給ふとも菊み丞に相 違なしといへとも聞ずいひあらそふをかたはらの関守すゝみ出て まつしばらく待給へ是この画の上にも自筆としてほつ句あり 我も在番の折からきゝし事あり菊之丞は俳諧の上手にて手跡も 見事なりと云ふ誠の菊之丞ならんには一句詠て見せよかし幸ひ 手鑑もこゝに有りいざとく〳〵と云ひて硯に紙を取りそへ出しけり 菊之丞もせんかたなくいなまば似せ者といはれんも口をしとて硯引 よせさら〳〵と書て差出せり関守取て是をみるに 関の戸をたゝいては啼水鶏哉路考 とあるにかの絵の筆と引合せ見れば露たかはず関守大きにかんし かるかや 沢村納升 由良之介 沢村訥神 となせ 沢村納神 入誠にい身は俳諧の名人也当意即妙といひ手跡の見事としばし かんじて止ざりけりかくて関守はことばを改めいさ瀬川ぬし こなたへ来り給へと先に立つて関を通しかたはら成杉の立たる 家にいたりて座敷へせうし酒肴をとゝのへさま〴〵にもてなし けるとそ夫ゟ江戸帰り年々打続き評判よく終に女形の無類登 なりしが花に嵐の盛をちらし三十一を一都として天保三辰正月七日死出の旅 路に赴ける法名勇誉才阿哲藝信士知るもしらぬも老若男女 袖をぬらさぬ者そなき瀬川ぼうしと云る追善の狂歌集出るかゝる 名家の絶ん事おしむへき事になん 俳優崎人伝二編上 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 俳優崎人伝二編下 狩 13364 特別 俳優崎人伝二編下 東都立川焉馬撰 元祖 長十郎 沢村氏 ○紀伊国屋沢村訥升納升 長十郎 二代目 沢村氏 元祖長十郎は京宮川町備中屋六郎右衛門が 元祖弟 訥子 元祖 訥子 弟子 訥子 三代目 沢村長十郎 男也兄を小伝次第を長十郎と云ふ兄弟共に堪 初め善五郎 後に助高屋高助 能にして長十郎が本名は備中屋長右衛門といへて 沢村惣十郎 り太鼓の上手也後に役者と成年々大当り殿共 初春五郎 二代目 沢村宗十郎 に立身名人と呼れ極上々吉無類と評せられし 初竹中哥川 後四郎五郎 が享保十五寅年正月廿四日に身まかりぬ法后 実子 仲車 次男 訥子 訥子 曙山 四人 納升 智金平 澄心院貞譽宗慶居士と号す其子二代目長十郎 初瀬川雄次郎 中方川本次郎 中市川八百蔵 後 は早世也元文四未年正月十二日死す法名覚堅 助高屋高助 三代目 沢村宗十郎 良慶と云ふ三代目長十郎は元来三木氏にして 磐田之助 由ある浪人なりしが民谷四郎五郎方にかゝりて 四代目 沢村宗十郎 故人長十郎方の物書をなし居たりしが伊勢の 幼名源之助 沢村田之助 芝居より役者と成る染山喜十郎と改メ享保 一智銕之助 二百年初舞台国姓爺の大明の王と成姉川 沢村源之助 一切名源平 病気中和藤内の替りを勤しに評判よく当りを 門弟連名 取り同三戌年冬坂田又十郎縁にて江戸へ下り 沢村紀次 森田座へ沢村惣十郎と名乗り是惣十郎の元 沢村点平 沢村沢右衛門 沢村源次 祖也其顔見世より評判よく同六己年市村座にて 沢村団蔵 立者と成る然る処上に六七人ありしを急にのり越し 沢村助三郎 沢村助五郎 極上々吉にて海老蔵につゞきての役者なり寛保 沢村仇之助 沢村銚平 三亥年大坂へ登り油屋庄九郎の大当り同年冬 沢村助蔵 沢村嘉吉 江戸へ下り翌延享元子年三代目長十郎と改め 沢村沢平 沢村菊蔵 作名訥子宝暦三百年より名を助高屋高助 垣内 沢村雄次郎 沢村鉄之助 と改め同子年正月三日に死す高龍院一得日初信 沢村東蔵 士と号す二代目宗十郎は弟子也元来富沢門太郎 弟子にて長之助と云ふ京の色子也享保十九寅 沢村四郎五郎 年に竹中歌川と云ふて顔見世に江戸中村座へ 下りそれより女形と成次第に評判よく寛保三亥年顔見世に 元服して立役と成歌川四郎五郎と改中むら座へ出勤打つゞき評 判よく寛延三午年顔見世に故調子弟子となり沢村宗十郎と改 名し師匠の死後は直に俳名も調子と改め日に増し評判よく大 立者と成る明和七寅年八月晦日行年五十一才にて此世を去る法名 宝林院得豊宗空居士三代目字十郎は二代目宗十郎が実子也兄は 沢村金平と云ひしが子細有て他家の名を次く次男田之助宗十郎 と名乗る抑田之助は宝暦十中村座初舞台あつ盛の公達保量 丸明和六冬父宗十郎と共に京都へ登る兄金平は瀬川菊次郎へ頼み 江戸へ残す翌年父宗十郎病死田之助は嵐三五郎が引立にて同年 霜月元服して宗十郎と改め安永元京姉川府にて渡唐の天神 と頼家評判よく八年の間上方に出勤して安永七戌年江戸へ帰り 森田座へ下る名古屋元春物狂ひ大出来にて同八亥年市村座候 出勤す薄雪還辺の左衛門同しく霜月よし貞小山田太郎同九子 年江戸にて初て祐成大当り打つゝき評判よく大立者と成寛政八殿 年市村座にて梅の由兵衛古今の大当り戯場留場木戸の者残ら ず奴に成鷺と烏の揃ひにて花〳〵しき事也同十午年名残狂言市 村座にて還辺の兵衛紙治浄瑠理浅間ヶ嶽十月朔日ゟ十一日まて 十日之間五大力源五兵衛大当りにて大坂へ登る寛政十二申年冬市三 村座へ下る五大三郎大伴黒主大当り翌年二月中頃ゟ病気にか 沢村納升 □□□ 三月廿九日病死す惜むべし〳〵遊心院傾譽西天居士と法名を 残す又兄金平は宝暦八寅年初舞台にて二代目菊之丞の養 子と成り瀬川雄次郎と改め又立役と成て沢村四郎五郎と名 乗る此時冨本浄瑠理浅間ケ嶽巴之丞大当り其後団十郎門 弟となり八百蔵と成る助六久吉玉屋新兵衛等大当り笹りん どうの紋はやりと成る享和三亥年市村座において一世一代千本 桜忠信古今の大当り是ゟ三代目長十郎の後号をつぎ二代目 助高屋高助と成ル十ヶ年打つゝき座頭を勤る古今の名人也文政 元寅年十二月六日病死せり宝暦八ゟ六十年舞台を踏む役者は 稀也法名顕寿院高誉廓翁居士と号す又三代目宗十郎は二代目 宗十郎が実子也初源之助と云ふ寛政三亥年春市村座初舞 台同四子年父と共に大坂へ登る間もなく江戸へ帰り子役年々打 つゞき評判よく寛政十午年父宗十郎と共に又々大坂へのぼり同 十二申年市村座へ父と一同に下る享和二戌年春祐成の初役大当り 同年父宗十郎一周君に夕霧伊左衛門大当り同三亥年夏芝居 市村座にて源五兵衛初役関の戸宗貞同年八月八百蔵一世一代の時 千本桜の義経評判よく立者と成る文化八未年顔見世源之助改ノ 四代目沢村宗十郎と名乗る俳名調子清盛八町礫喜平次大当り 同九申年三月一番目角力取鳴神浅間に巴之丞二番目子都山騒に 煙草屋源七是より病気にて休座十一月八日行年廿九才花の盛の 立者とをしまぬものこそなかりけり法名善覚院達譽了玄居士 弟田之助は幼名鉄之助と云ふて寛政三亥年市村座初舞台同十 午年父字十郎一同に兄弟共大坂へ登る同十二申年大坂へ残り田之助 と改名なす夫ゟ評判よく打つゞき大当りにて文化五辰年市村座へ下ル 粧姫同六万年春少将と小紫大当り江戸にても年々評判よく同十日 半兵衛 年三日替りお千代 三津五郎 おつま 八郎兵衛 六三郎 大当り也同年 印おその 十郎 菊五郎 九月宮城野民五郎名残り狂言葛の葉所作事三條の古鍛沽草刈 童汐くみ梅の由兵衛大当りにて大坂へ登る同十二亥年大坂ゟ中村座へ 下る霜月紀伊国や小春成田屋おさん同十三子年春ゟ病気にて引上 月出勤す桜丸女房八重覚寿桜丸四月ゟかほよ朝顔古今の大当り 此年十月より病気つき文化十四丑年正月廿八日死す若女形の大立 者にて歳量すくれひゐき多かりしが定業の限りあるかをしむへき事に なん法名麗香院映譽梅雪居士と云ふ当時納升は四代目宗十郎が 弟子也文化二卯年市村座六才ニて初舞台金時の奴紀伊国源平夫 より子供芝居出勤所作事吉原雀春駒のよし家評判よく中村 座にて伊達の千松市村座五右衛門忰五郎市大出来文政元寅年 十七才にて元服源之助と改メ同三辰年名古屋へ登り夫ゟ大坂若太夫 芝居へ出勤大切記にて長尾弥太郎お染久松にて油屋太三郎評判よく 夫より角丸芝居へ出勤又竹田芝居へ出勤お染久松の七役大当り是一 より竹田芝居にしばらく長年して文政十一子年大坂名残り狂言し 清盛 中村芝翫 師直 中村芝翫 曽我太郎祐のぶ 中村芝翫 筑紫権六二番目志のぶ売二タ面大出来にて翌十二丑の春河原浅 座く下る曽我十郎清水冠者所作事清士の又五郎同三月伊達にて 頼兼勝元大できなりしが芝居焼失にて同十三寅年春高野山にて 繁氏与次新銅左衛門古今めつらしき大当り狂歌連中により両側桟 敷へ調升を誉し歌の連んを掛る五月狂言右臣蔵七役八段目浄 瑠理金輪打是又大入大繁昌也引つゞき評判よく大立者となる 末たのもしき若者なり常に金比羅を信ず生得て孝心ふかく何 事によらず両親の云ふ事を露ばかりもそむく事なくよく酒 を好みて芝居果て後は弟子どもを相手に酒呑楽しみ居ける 所へ父母来る時はたちまち酒を止め自ら床をとり寝入まて何 くれと心にかなふ物かたりなとして足腰をさすりなぐさめける又 芝居休みの時は父母をこもなひて神仏へ詣うで親の好る物いか なる高金なりともとゝのへて父母の悦ぶを見てはともに悦ひける 或人訥升にむかひてお身は孝心深く父母のこゝろにたがふ事 なけれはたまの休日には我まゝに弟子計を連春は隅田の桜 狩夏は涼みに舟をうかへ引がりして心よく遊びたまひぬ芝居 興行のうちは人にすぐれ一日も休む事なくつとめ給へばたま〳〵 の休にはほやうのため出らるゝも我と我身の養生なり父母は たゞ其病を愁ふと云へば御身の上を大切にし給ひてわづ らはぬこそ孝なるべしといふに訥升いやとよ我楽しみは 父母のよろこぶ顔を見るが何よりのたのしみなり我まゝに 出て遊ぶとも我生部酒を好めはさだめし親のあんしわづらひ おわするとおもへばかへつて楽しまず心ぐるしく思ふなりと こたへしとぞかゝる孝心は世に難有人になん其外種〳〵の はなしあれどもこゝに略す 芝翫 中村歌右エ門 後に梅玉 ○成駒屋 中村芝翫 芝翫 忰 駒太郎 中村鶴助 三代目中村歌右衛門門人也江戸長谷川町の 産にして故藤間勘十郎忰也文化七午年十 三才にて森田座へふり附見習に吉太郎とて 門弟連名 出る同九申年顔見世元服なし亀三郎と改メ 中村鶴次 ふり付役人と成ル翌を年二月大坂へ登り中の 中村鶴之助 中村鶴吉 芝居へ中村藤太郎と改名にて出勤同年鶴助 中村春之助 中村美之助 と改名堀江荒木の芝居へ出勤文政三辰年 中村鶴太郎 顔見世より大西芝居へ出る夫より年々評ばん 中村千太郎 中村鷺助 よくしばらく長年して終に座頭と成る同八百 中村駒吉 中村駒五郎 年角の芝居にて中村歌右衛門一世一代を勤し 中村芝太郎 時三番叟の役を大西芝居ゟ角の芝居へ出勤 中村鶴五郎 中村鹿之助 古今の大当り也同年顔見世に京都東芝居へつつ 中村芝蔵 中村芝代 かけ公出しにて出勤座付三番さう引抜にて 香蝶楼 国貞画 石川五右衛門 中村芝翫 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 岩井半四立 中村芝之助 浦しま太郎の所作大当り夫より打つゞき評ばん 中村駒十郎 中村駒助 よく大立者と成る中芝居ゟ大芝居の書出しにて 中村芝路吉 中村歌木 出勤の役者昔より和泉川竹蔵以来なしといへ 中村駒次郎 り文政十亥年顔見世江戸中村座へ下る同十一 中村芝鶴 中村守之助 子年座頭と成打つゞき評判よくすてに翌丑年 中村翫太郎 五月狂言に忠臣ぐら書直し大入なりし折ふし 中村成八 垣内 角力興行中なればとて東の機じき片側へ東方 中村芝十郎 作者 の大関より三段目まで残らず見物なす翌日西 駒堂助 方の大関を初め三段目まで又〻片側桟敷残ら ずにて見物は大坂芝居にて市川白猿江戸芝居 にては芝翫より外例なき事也と云へり相撲中より芝翫へ水 引其外さま〳〵の送り物有扨翌年天保二卯年三月狂言児り 渕にて石田の局石川五右衛門大切六歌仙所作事古今めづらしき 大入にて高場留場二階勘定場まで残らず売切あまつさへ新 桟敷出来る程の大入大繁昌三月ゟ六月迄打つゞく事近来た めしなき大入なり扨芝翫はつねに俳諧小道具を好み深川常盤 町に住す家きわめて広しある人芝翫に向ひてお身いかなれば 芝居近き市中に住までかゝるかたへん所に住給ふといへば芝翫こた へて我は人の為にかゝる所に住めり芝居出方の者共長病なるか 又は火難に逢し者を引受て養ふなりと云へりすでに丑年大火 の時留場をはじめ数多出方の者とも家内ともに引とりて芝 居の普請出来る迄養ひ置り又或人向ふ三芝居焼失せり よりて俳優の輩皆他国して壱人も止るものなしいかなれば在方へは 出給はぬぞといふに芝翫こたへて芝居焼失なりとも役者は他国へ 出れは家業の出来るものなれども出方の者ともは芝居焼失しては 渡世のつなを失ひ其上住所も類焼して妻子ともに路頭に迷ふ もの多し我いやしゝも一座の頭として是を見捨るは不仁なりたとへ 飢渇すれば諸人とともに飢死す我壱人他国して楽しみたり とも何の益かあらんと云へり彼唐土の孟嘗君もかくやと思ふ計 の食客なりそが中に病人には医者を招きて薬をあたへ又妻子の なきものは家内に云付看病におくたりなし此人の為に露命を つなぎし者数多く誠に有がたき仁者也芝翫大坂にての咄し あまた有こといへとも集に入へき俳優のあまた有は十か四ツ五ツ をしるして餘ははぶきぬ早く俳優のかぎり出して全からじめんと なす猶近々発板を待て其伝を見給へかし 俳優崎人伝二編下終 著述立川焉馬 調 出像歌川国貞 天保四年癸巳新春 馬喰町二丁目 錦耕堂山口屋藤兵衛 同 東都本問屋 永寿堂西村屋與八 同 錦森堂森屋治兵衛 多すべしいついずしが □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□