本朝醫談
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- 奈須恒徳
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- CC0
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- 奈須恒徳
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- 日本語
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- 揖柳居版
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- ホンチョウイダン
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- 東北大学
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- ホンチョウイダン
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将四郎
本朝醫談全
『戦賛』唱
以て購入せる竹園博士
「狛果亭吉
敷色のやまとくすしの方えたまちは婦
神代におくりて大己貴少彦名の二はしらの
御神そ波しめなるしかるに宗つせみの人の
世となり三栗の中むからのころほひこ
そさへてからくすしの法伝光りてより
いそのかみ古きやまと久安しの方はおと
有へたりこゝに我学ひの友かき奈須
恒塩ぬし唐学ひのいとま皇団の婦み
本朝医談
見給くまへるを少〳〵彼古へのくすみの
方のすたれたるをそなけかれけるぬしは
翠竹院一渓翁のなかれなる其竹法印
の六つけの京末こなり世々あつまの意
のみのとに彦かへまつりてみとの
くすしのわさねなむつかれける花
と日彼の門をとひまゐらせし二あるなみ
此ふみとうてゝかたゝれけるはその
医師の法大かたから学ひにもと
つきたれはそのまなひはさる事にて
つゆ〳〵はけ美あへる尓此八十とさはかり
こなた遠き余るらむとの書をさへ
人々学ひてあきらかにさとりさまゝ
の医書つくり出ていよ〳〵他国の学ひ
東さかになりしかはあれとも我やまと
くすゝの方をは稀にたにあけ
本朝医談
つこふ人なしもとより皇国は豊饒の
団にておのつから種々のよき薬の有
けるを外国より仰きもとめしこそ
又つゝの木草にて病ひをさむる法
なと古へ書に見えたるをこれつ程の
事ふつに人のあはつらひ舎ぬか口
遠におのれとし頃此やまゝ書の中より
見出たる事ともおろ〳〵ものゝ時しに出付
おきしをこた老本朝医談となつけて
一巻の草子となみぬされと此やまと
医の書ともほと広けれはあまた引
もかせしもやあらずはた茶の法の
人のくちに伝へて其家々にひめお
ける覚安へけれはこゝにあはたるは百か
ひらつなりかならす此丸みに尽ぬとには
あらねとかくなせるからは後に少
本朝醫談
つかむ人覚あらんかさらはおのれかほい
にもかなひぬへしさて雲あらはすこそ
は世のきこえたかきむかう人すら
たはやすくはなさゝるを未か春恵の
世に拙き学ひのおのれかうあけ
つらへる着いとゝをこなるわさやされて
こそしよはひ五十に過ぬれはあらた
遊ふへの命しりかたし人死て後子弟
甚友にかたみあかちといふ事ありお
のれもとより家をしくえて財室右
類もたされはつるをり河をかえさせん
よりて此草子を形見にもと板にゑりて
いのちのうちに人にもあかちあたへむと
おもふなり一わたり此書よみて文字のた
かひたらんをもあたため正うしその
ついていかしゆゑよし書けてよとこはる
本朝醫談
にかいなくのおのれ何かはさみは
あらたむへきとてあまたゝ蔵いな
見彦のとしひて乞はるれはすへ
なり披き見るに其あはつらひはいふも
さらなり此ぬしのしたゝかなるやまと
たまし飛は心めてたうかつ此書かた
みの料にものせられむとのみえんまう
けようへなりけり千々のこかね母ある
ときあり鰻の衣も破るゝをりあり
此一巻をよみてよくこゝろにはた
らましかは玉きはるいのちのかまりつくる
期はなく破るゝ期もなき身のた
からなるましとよろこ本ひによろこほひ
つゝうたます
文政五午季宵大石千引
本朝医談
本朝醫談
○我国療病の方大己貴少彦名二神に初る事旧事記
古事記日本紀等に見えて其方法上古よりいひつきぬそ
は見つべき事あり医の字読てクスシといふは奇なり
其術の奇効あるをいひしなり薬石をクスリといふも亦
奇の義なりと東雅に見ゆ二神常陸國に跡うれ給ひし
事文徳實録に見ゆ鹿島六洗磯前明神の社延喜式に
見ゆ往年其地なる人予か塾に入来し鹿島に七の大社あ
り大洗礒前も其一なりとて略図を作りて示す予其地に
からされは道程の差異はわきまへすたゝ其人の図せるまゝを
本朝醫談
左にしるす
女
姥
天洗蔵高神社へ
○木洗蔵前裡
此道筋末奥州十ツノ関ニ通ス
上ければ
鹿島官
香取官
江戸道
筑波山
○いにしへ医師の制度は師伝をうけて手に入たる書籍を試て
後補せらるゝなり朝野群載大政官府式部省応補医
得業生事醫生正六位行甲朝臣文位左京人得業生大中臣
致忠奉試及第替従五位下権医博士兼丹波介清原真人為時
弟子讀書新修本草経一部黄帝明堂経一部
小品方一部右得宮内省去年月日解任之者某宜依請
原文写誤ありてよみかた
者宜承知依宣行之府到奉行一
しかれとも大意は通す
其頃
の医師は読書こそ各其人の好によれ其択はれたる或は皆
かくのことくなり新修本艸は唐本草にて其説今證類の
中に散見す本書はほろひたり明堂小品亦ほろふ続記
本朝醫談
天平宝字元年の勅によるに王来か編次せぬ已前の素問も昔
斯の邦にありしか是亦伝はらす律云凡造二御膳一誤犯食
禁者典膳徒三年註云造二御膳皆依二食任一若乾肺不
得レ入二黍米中一筧菜不レ得レ和二鼈肉一之類上むかしの膳部は
供卿の品々皆食経に見合たる事知るべし其食経も今
は伝はらす世次第に降らば古の書籍は大抵ほろふへ
し噫
○徒然草に人の才能は文あきらかにして聖の教を知る
を第一とす次に医を学ふへし身をやしなひ人をたす
け忠孝のつとめも医にあらすはあるへからす文武医の
道誠にかけては有へからすこれを学んはいたりらなる人
といふへからす
○内裏の薬殿は安福殿の内にあり侍医薬生等候と拾
芥抄に見えたりかるき薬升は此所にありしなり福田方云
本朝華外の定法六升者九合の外なり公家の薬殿に用て
経年序畢天平宝字年中遣唐使常式所用は一大升を
以て為二小四升一侍医出雲宿祢広貞か勘申所なり典薬寮
の御銚子は九合升の三外納なり湯薬方に常に所レ用者大
外なり小外者散薬等に用み又小升者上径一寸下径六分
深八分是なり一説云方図二寸なり又光所レ謂以二六升レ為二小四升一
者所レ勘者九合計の二合五勺を小一升にあつるなり延喜式
民部省諸国貢醂六一升小一升あり上文によりて考るに大
升は九合小升は二合二勺五才
本艸注藍田美
○本邦の産青玉を出す事広志に出つ
玉色如藍玉は
古人青色
をたふとむ
普通の物にあらす
此瑪瑙の事本草拾遺に出ツ
佛書七宝の一なり
水銀を除
水晶硫黄琥珀水銀の事明一統志に見ゆひ
て餘の三
薬は本艸綱目
にも見えたり
○白菊は国産を上とす邦人も是を自負して菊の詠歌
㊈白菊をよめり劉蒙菊譜に倭菊といへるは即しら菊な
り
弘景云白菊治二風眩一令二頭不レ
本綱附方白菊を用る方四首あり
○天門冬牡丹皮当帰は唐より日本まされり枋信長池
本艸
の当帰大和の地黄は唐にまされり黄連鍾乳も勝れり
勧医
ハ米
大
本艸
味芎菊は唐にて国産を使ふ
蜂蜜舶来より
少
国産よし
山海名
産図會
抄
○醫學綱目日本方疔瘡藥江子肉十粒半夏一顆
江子肉は巴豆也
附子半枚羌螂一枚四味臭相和
四味臭ハ麝香也
此附
子は今唐山より渡り来る十六箇の重一斤なといふ物に
あらすいとちひさき物なり本草名例云附子一枚は皮を
去て半両に準す其半両は棗一枚半の重なりされは附子
半枚は棗一枚の重に及はす
宣明論四逆湯下云附子
以半両者佳小者力弱大
者性悪非古方之宜也不但以
江戸の道灌山に出るもの
美其大者要知古人之有則也
幼時太田澄玄か農経を講じ
本文及名例の大小にかなへり
するを聞けり云附子道灌
山の物を
上とす
延喜式に附子武蔵の貢薬に属するは此物を
乗用ひしなるへし斯國にて麝香を四味臭と名つけ
たる心いかならんもしくは四味の臭物を合せて造る物
にもある歟
○朝鮮韓継禧神應経序云日本釋良心以神應経二
来獻兼傳其本國神醫和介氏丹波氏治癰疽八穴
法上これ文明五年の事なり良心いふ二百年前両名医
ありと想に鎌倉将軍の頃に当るへし誰なる事知
へからす神応経も彼国に絶たるを本邦より渡してひろ
めしなり良心法師の哥は新続古今集に見ゆ河上著
葉といふ事を湊川もみちふきこす木からしに山もとくた
るあけのには舟作者部類良心は左近将監奉久秋子とは
○今人灸治するにとし日血忌を改め正すまてにて人神
の所在は択はす医師もおろそかにして語らす昔人
は詳に考たるなり続古事談に富家殿灸治し給ひける
に重康申さく日神股にありやき給ふべからす兄忠康
医考に忠康は雅忠か子重康は忠
申さく内股外股憚るへし
康か子と見ゆ続古事談には忠
康は雅恵か実子にあらす上野守良基か子なり雅忠幼より子
にして道を伝たるなり医道の課試は忠康まてしうり其後
本朝医談
する人なしと載ては
朝野群載に康平四年四月廿四日醫博
重康を忠康の弟とす、
士和気相秀か蛭食の勘文を載たり昔人人神の所在
等をおろそかにせさる事見るべし拾芥抄にもいつ
○玉體を灸し奉る事例少なき事なり天正記慶長
三年九月朔日今上皇帝俄然眩暈云云至十一月中旬平復
叡感之餘賜白銀一千両十月之末予奏上欲灸膏旨有詔
攝家名家見尋舊記九条殿近衛殿御答雖無旧記
以艾灸本復醫師奏上之旨分明可被灸治一条殿鷹司殿御
答無二旧記故不能レ灸又云今上患二羸痩潰ス外医岩倉海陰
菴大徳寺玄首坐両人参内在縁上而隔障子破紙作穴而視
之灸腫上慶長三年秋御悩之時予欲灸治依無其例不能灸頃
中院也足軒入道観出旧記而奏上依其灸腫上自今已後可有
灸治一之勅意也案増鏡春宮例にもおはしまさて日頃ふれは
内の御むねつふれて御修法や何やとさわかせ給ふ和気丹波の
薬師氏成はる成よるひるさめらひて御薬の事色々につかふ
まつれと只同しさまにおはすいかなるへき御事かといとあさ
ましくて上にも此方にわたらせ給ひて見たてまつらせ給ふ
御目の中おほかた御身の色なとも殊の外黄に見えければ
いとあやしうて御虎子をめしよせて御覧せらる帝をひ
たして見せらるゝにいみしくこく出たる黄皮の色なりい
本朝醫談
とあさましくてなとかく計の事をしり聞えさらんとて
御氣色あしけれは薬師ともいたうかしこまりて色を失ふ
かはかりに渡ては御灸ならてはまか〳〵しき事出来へしこと
各驚さわくいまた例なき事はいかゝ有へきと定かねらる
位にては只一度倒しあり春宮にはいまたさるためしなかりけれ
といからせんと出ほし定む七にならせ給へはさしてたに心くる
しき御程なるにまめやかにいみしとおほす薬師と大夫定
実の君独めし入て又人も参らす御門の御前にて五所そ
せさせたてまつらせ給ふ御乳母ともいとかなしと思ていふ
かしうそれとをさ〳〵ゆるさせ給はすたかれ給ひて上の御
手をとらへ万になくさめ聞えさせ給ふ斯てほとなくおこたら
せ給ひぬと也足軒の見出されつる旧記はいかならん此文も
灸治の例に用へし春宮は後宇多院上は亀山院を申候て
まつる
○枕草紙誠や下野に下るといひける人に〽思ひたにかゝらぬ
山のさせもくさ誰かいふきのさとゝつけしそあからさまに下野
とあれは近江伊吹にあらさるなり夫木集〽下野やしめつの
原のさしもくさ己か思ひに身をややくらん大和本草しめ
ちの原は日光山下といへり此等の古哥にはれは艾は東國の産
を上とすへし近江のいふき艾をもてはやすは永禄以来の
本朝医談
事なり其頃外國より耶蘇の者とも入来て病人の資に
薬園の地を乞ふ信長る伊吹山五十早四方を賜ふ彼其本団
より薬草華木三丁餘種取よせてうゑたり此時の種今
に残りて艾葉は南蛮種なりと天教雑話に見ゆ
○萬葉集家持た哥夏やせにはしと申そむなきとりめせ
夏やせは唐土に注夏病といふこくは一向羸痩の事なり又
注夏病の食料にも可レ然なりむなきは唐にいふ鰻鱗魚
今いふうなきにして和名抄の説誤なりと東雅に弁すれ
と須醫抄骨莖勞痩鰻驪を食ふ事を載てはしかみを
といふ魚なりといへり左すれば箱根に出る山椒魚の類
なり
○源氏物語月頃ふひやうのおもけれは極熱の草薬を服と
大和本艸蒜夏月食レ之餅二暑毒一故といふはうけかたし本文
は草の性熱なる事をいふなり蒜薤の類は下利を治する
物なりさればふひやうははら下る事にて腹病の文字也
古人病ありて療養の為にこれ等葷物を食する内毒
忌の日数ありこれを名けて蒜間葱間韮間なといふ故
に哥にもよめり源氏さゝかにのふるまひしるき夕暮にひる
ますくせといふかあやなき〽逢事のよをしへたつる中な
らはひるまも何かまはゆからまし
本朝医談
○脚氣に杉の洗薬は蘇敬に初り丹溪も用ひき訳により
て効なき事もあるへし続詞花集大斎院御足るや
ませ給ふ杉の湯にてゆてさせ給ふへきよし申ければ
ゆてさせ給へとしるしもみえさりければ斎院宰相足引の
病もやます見ゆる哉しるしの杉と誰かいひけん返し〽しるし
ありとすきにし方はきく物を我このみはのやまぬなるへ
し
○千五百番哥合寂蓮法師〽身にさそふ風の通路尋すは
よもきか関をいかてすゑまし心は灸は猥にすうましく
とそ
○続後撰集本草をひらき見てよめる丹波経長を
しへ置その言の葉をしるべにて四方の艸木の心をそ
わく此本艸は図経なるへし
○新千載集惟宗時俊朝臣はときす待も限の有明に
しのひもはてぬ初音きくなり是醫学千字文の作者
なるへし作者部類下野守良俊子とあり
○医師の詩哥上古の事は知へからす記籍に載る所
吉田宜を初とす詩は懐風藻に見え歌は万葉集に見
ゆ
○今昔物語に典薬頭何某といふ人ありけり道について
やん事なき医師なりければ公私に用ひられたる者にそ
ありける七月七日一家の医師次々の医師下部まて寮に
集り長筵しきて各酒なと出してあそひけり時に五十は
かりの女の無下に下衆にもあらぬが顔は青鈍に水をつゝみ
たるやうにて一身つふ〳〵と腫たるか下部に手を引れて
庁の前に出来るいかなる者そと問に此腫女の土我かく腫
て五六年に罷成ぬそれを殿原に向申さんと思へとも片田
舎に侍る身なればおはせんともおはすへきにあらす幸
今日殿原の一処におはしあつまり給ふと聞て参たるなり
御覧して治すへからんやうをおほせられよといひて
平かり臥しぬ頭云いて王建治し給へこれは寸白にこそとて
中によしと思ふ医師をよひてかれ見よといへば其医師これ
を見て云必寸白なりといふぬくにしたかつて白き麦のやう
なるものさし出たりそれを取て引に綿々と長くのぶれば
出るにまかせて庁の柱にまき付たり漸々巻にしたかひて
此女の顔の腫いえ色もなほりけり柱に七尋八尋まき畢
る時女の目鼻なほりて例の人のことゝなりぬ頭より初て
そこはくの医師とも感しほむる事限なし其後女のい
はく此次には何をか用ひ侍らん医師云只憲攻湯を用る外
の治法あるべからすとてかへしやりけりむかしは下臈医師
の中にもかゝる病を療治するものありけり按慧茲湯は
五体身分集
原又丹波忠明か龍を見て卒倒
蓑草莖煎歟丁
に其方あり
したる人を療しける事を記して云瀧口ゆきてみる
に息はかよひなからなえ〳〵として物間へとも答へす近き
程にてありければ忠明朝臣といふ医師の許にゆきてし
か〳〵の事なん候いかゝ仕へきと向ふ忠明云火燼の灰を
多く取集め其男を灰の中に埋め置てしはらくして
みよと教ければ瀧口家に帰り灰の中に男を埋て二時
はかり経て見るに灰うこきけれはかきあけて見るに
此男例のさまになりければ水なとのませて人心地つき
けるにいかなりつるそと向へば男云昨日神泉の西南にて俄
に雷電して雨降しほとに神泉の内やみになり西の方
殊にくらかりしを見やりしにくらき内に金色なる手の
きらりと見えしをきつと見て候より四方ふさかりて
物も覚えすといふ忠明の許に行てしる〳〵なん申とい
ひければ忠明わらひてしかれはこそ人の龍の体を見て
病つきたるは其治より外の事なしとそ云ける按にこの
治法はすべて卒死を救ふ法なり
○神代の遺方なしといふへからす古事記六巳貴神火
の為に焼れ給ひしを鮮貝姫蛤貝姫乳汁をぬりしかば麗
本朝医談
壮夫となり給ひし是等の物熱毒湯火傷を治する事
古の俗のいひつきしなりと東雅に見ゆ頓醫抄に蛤汁を
淫羊霍を宇牟岐奈と
癩病灌頂
いふは其力を蛤に比する也
起陽の薬とする事あり
薬にはまくりのほしたる粉を組し方あり殻は火燥して
末にし用ふ昔人名て貝白物といふ大同類聚方は
安波
波岐
大己貴
の華方に宇無岐の加良を組し方あり此物種々の功能和漢
諸医用ひし例し多し服するのみならすつけ薬にして
瘡腫をいやす万外集要白神散なと唐土の書にもその
類方多し斯邦は海國にて坩蛤の類國の美産なり覯
楊氏
漢語
抄はまくりは浜に生して形栗の如くなる故とみえたれは一種を
さすともみえす新撰字鏡には蚶を宇牟岐と訓せり本艸序例天
生萬物以與人人亦窮急以致レ物湿気多レ痺足二主レ痺之物即亀螺蜆
之属斯邦は湿氣多き故に湿を除くべき貝類あり是即天賦なり農
経文蛤悪瘡蝕五痔を主る今蛤の煎汁にて痔及下疳を洗ふに効あ
り外科正宗結毒紫金丹亀板石決明亦試て効あり此等の湿熱の病
によろしきを知へし中古の書にさるほうといふ薬あり阿仙華の事と
いふ五倍子一名文蛤より混雑していふ説なり是さるほう貝の殻なる也
近世俗間に蜆螺の殻を用る事行はる亦種々の功ある
物なり海蛤海藻元来水中に生して其性は寒に属するなり
○頓医抄一切癰疔諸悪瘡腫灸瘡発効瘍癇已につひゆるもいまた
海にある草なり貝のやうに堅きなり
膿さるにも皆つくる海忍草の
ひの木の葉に似たり土器を覆にして黒
焼にして
一説にあらめ昆布
右等分に合せそく飯を酢を以て
海帯草
ふるふへし
是も黒焼研飾
ねやし塩少し入て此薬を薄き紙に付て腫の廻りに広く押
付へし乾たらは水にしめしはなれ落ば又別につけよちり〳〵と
海忍艸本註によれば石帆の
小瘡出て散るなり是古来の伝方なり
類なり棒心方海人艸も是
本朝医談
と同物なるべし海帯二説あれは有にまかせて使ふべし唐土にて
海帯といふは海藻のやはらかなる物と見えたりあらめとも昆布と
も見えす
海藻
海藻鹹寒主瘻瘤
一般海帯更長桑
元版和劑局方圖經本草醫學學正
陳源繁図大醫助教許法詳注を摸
専除疝気偏痰病
水腫逢之亦可消
出する事図の如し唐土は地によりて
海に遠き所ありて海藻の種類を見
ぬ人もあるへし農経海藻海蛤等東海に産といへり此東海は北
徐州の東海郡にあらす東海姫氏国の東海なり呂氏春秋東海之
緬爾雅綸似論組似レ組東海有レ之等の東海皆同し又農経海藻は
十二種の水腫を下すといへり昆布も効を同うす世人水腫の治方
に鯉魚湯をいふめれて畢竟昆布の力を仮によりて其効をあら
はすなり西恩記土海艸を服して厚朴不レ入青苔昆布あらめ同前
是厚井に反するものとみえたり円弥秘要良方に金瘡切落たる
をつく時昆布にて巻事あり○本方は三州実相院道生比丘か唐土より伝と
万安方の説信かたし予別に考あり
○するめ煎汁河豚かつを等并瓜果の諸毒を解す鷹一取
の毒消薬は桜皮等に合し黒焼にして用ふ吐逆して苦
ますといへり此物生レ津止レ渇散二滞血二潤二血枯一此邦古人所レ用調血
劑多用其功左著と華選に見えたり熱海鼠は中古の医小児の
丸薬料に入る本草哥〽如りこ温虫を殺して氣を下す腎は補
ひ痰を去なり〽いりここそ疳氣の薬やはらかに能煮て酒
やたまりにてくへいりこをば常にくふへし百病にさのか
たゝらす積聚にもよし又云〽鳥坂は平に毒なし氣をちらす
小便通し食をすゝむる〽烏坂は常に食せよ目のくすり
心肺の蔵補にけり〽鳥坂は多く食して血を破る大便通し
積をけすなり此等海物皆邦の美産なり故に唐舶の
長崎に渡来するもの必梱載して帰ると聞けり
本朝醫談
◯珍貴の薬は求めかたし近うして得易く唐土の書にいは
さる軍方大山椒の末打身につくるうつほ草淋病に
煎服す牽牛子の葉蜂薑諸毒虫のさしたるにすり
つく燈心にて鼻をふさけば衂血をとゝむくさねむ水
腫を治す白梅花吐逆をとゝむ桜の花蛇傍につ
く桜の実魚毒を解す要奠の虫小児の疳に用ふ
無恵子の皮小児吐乳の薬中に加用鵞掌風松脂を焼て
薫す柚の核黒焼にして喉痺を治鹿頭黒焼癩
病に用鼠の黒焼湿毒疥癬を發脹す
龍鼠の黒焼喉閉に吹入る野韮の根土用に取て黒焼にし
て草麻の油に煉り一切腫物につく毒深ければ落ちす毒
の浅は自落といふ諸骨硬竹木刺鳳仙花茎葉と松葉
等分黒焼酒にて服す竹木刺の出さるに鰹節の末そく
飯にませて押付へし黄栢を煎し砂糖を入飴の
如くなるまて煮つめて痔の痛にぬる梅瘡骨痛薬
海藻大牛膝中細茶小水煎服鯨の油瘡腫を発脹
す毒鼠咬獺狗傷みそはきの煎汁にてあらふ
一切の痛處に明礬十匁百艸霜一匁五分ませて海蘿にときて
つくへし乾咳蛆殻やきて末糊丸用昆布の黒やす
昆布なくはほたはらあらめ代用す凡黒
口中一切牙齦の腫痛に用ゆる
焼にする事泥に灰を交て封する時
本朝醫談
本綱
は塩を入たる
鹿角
におとらす
菜大明云餅麺毒これつの
水仙の根の汁つき目にさす
またなるへし一説云鳥坂苔也
三段廻翁か
馬の油やけとに妙
禁好集に出
服すれば産婦の乳汁を益す
かたこゆりの末麦湯にたてゝ
一説に乾瓢と
同しく煎服す
小児の為に
乳房はかまれて疵のつきたるに蛤粉を紅脂にときてつ
大同類聚方
くる
一方紅螺
殻を用ふ
淡路薬の中此
ひるも草骨節疼痛の薬とす
物かゝ用ふ古人又名つけて天童草と呼べり消毒丸中にも入る板坂癲癇
の薬に天童丸あり医療手引草食傷に吐を欲せば枇杷葉湯にヒルモ草
をかす黄栢の煎汁に膠をときて紙にぬりたくはゟ小
へし
俗間即功
艾葉一味未丸積痛痞食傷
瘡切疵等につく。
紙と名く
等に用ふ
艾葉を未にするには茯苓少し
入へきよし容斎随筆に見ゆ
海草の毒にあたり
別録地膚葉煎水洗目去熱暗雀目
たるに地膚子煎服
按雀目には食料とすへし洗ふに勝れり
山海名産図会信州諏訪の産をよしとす
八ツ目うなき雀目を治す
本草家鱧なりといへと疳疾の薬用にあたらば
漢名の論無用なるへしといへり一方小児疳
はなしよむ木嚏薬とす
眼黒焼にして黄栢末に和し九好くす
へし
嚏薬は吐薬に同しと張子和はいふあれと有形無形の差別あり吐薬は
口より入し病を至り嚏薬は鼻より入る病を生るなり鼻より入る病とは
行瘟痘中悪悪臭によりて傳染する等の症なり又諸物鼻に入て出さる
を去り兼て頭痛頬車蹉喉痺骨硬にも用ふるなり
ひきおこし黄栢苦参に合し丸薬にして小児五疳の薬とす
ひきおこし古人名
て延命艸といふ
鷹取方にも大
白屈菜瘡腫に葉をもみて付る。
和本艸にも見ゆ
大同類聚方出雲
大同類聚方出雲
青梅の肉塩を入て研て泥の如くして眼翳の薬とすホモ
意宇郡大神佳成
所上眼疾一切の妙方青梅をむきて
炎天布銅器乾といふと大同少異
噎病の薬四月下旬野韮の
三位法
実を取乾し後にこげるほと灸り末して寅時酒にて用ふ
眼秘
本朝医談
伝書に出たり又世に録事法眼の方とて膈の薬を伝ふ
其方野韮土用にとり炒末酒服うれ狼の玉なるへし本方と大同小異
あつさゐ
本艸綱目渡来せぬ前は常山はあ
の花土用に取て末し丸し瘧を截き
つさゐを用しなり花を用し事
唐土の書
に見えす
一月草にて染たる青紙を水に侵して熱赤眼をあ
らふ
鴨跖草救荒本草に倭青草
西瓜の皮及子煎服して
といへるは斯邦の産勝れたる故成也
小便を通す
空花集西瓜今見生二東海一剖破猶含玉露濃種性不レ同二江
北枳二益レ人強似二麦門冬一元来海外の種なれとも土地の応す
る事転句
にて知へし
桐をいほたといふも
梗をいほたといふも
一疣目に蟲白蝋をつくる
いほをとる意にや
かたかひといふ病は鳩尾の処へ両方より筋まり出大きくなり
息難く痩衰ふ下薬を用て後補薬を用ふへし下薬は
藜蘆を白水に浸す事七日日に一度ツゝ水をかへ一味粉にして
用ふ
月はからにいふ菊蘆はおもとなり唐山にて千年藍夏はしとて根太
萬年青なといふ其功能は結髻居別集にくはし
夏ふしとて根太
の如くいくつも出来又ねすみとて夏ふしより大に一ツ二ツあなた
こなら人くゝるなりこれには梅干の肉を腫物の上につけ腫物の
真中に銭を置て押す銭の穴より膿出つ但腫前方なれば
つくへからす
已上二方ハ小児
代熊膽法黄栢五十目艾葉十両忍
方と云書にみゆ
冬五両甘草二匁煎つめて膏につくる其功真熊膽に勝れ
山海名産図会に備
りといふ大峰の陀羅尼助も此類なるへし
後国にて製する法
を出せり曰冬月製すれは夏に至て爛やすし必夏月製すといへり
本方の分量にて造れば普通の熊膽六七枚ほとを造り得へし又民向
に忍冬一味を煎して膏に
作る事あり亦能功を奏せり
玉蜀黍穣為末白湯点服雷を聞
て畏るゝ事甚き者を治す兼て驚悸忙艸觸事易驚症を
觸事易
治す又方玉蜀黍穣不拘多少雷鳴時焚之可免震
驚者医
本朝醫談
書心膽虚怯の症にして俗に痼症といふもの大概固を問うす此薬常に
用て極験如レ神と野呂元順か記に見えたり焼て震を免るゝか如きは雷
神此臭をいむ歟抑其気を嗅
一野薔薇の実大便を通する事近
く時は心膽自ら強くなる成へし
来の医に初るやうにいふ人あれとも大同類聚方大便閉の症ある
薬中すてに牟婆良の実を組入たり利湯桃皮営実生煮と
頭痛に梅干をはる事人皆しれり
長生療養方に見ゆ頭痛に梅干をはる事人皆しれり
是頭痛のみならすすべてまりこりて痛によし婦人乳の結核
梅干は元来食料の物なれとも
あるにしまく用ひてしは〳〵験あり
薬用種々の力あり本綱白梅の
主治にいふ病症今梅干を用ていつれも効あり又黒焼にして用ふる事あり世
間通用の梅肉丸島外薬要の消瘡丸の類これなり兵法四天受用集に梅干は
息埋血止船に不レ酔薬なり湿気をも拂ふものといへり仇藤成裕か詰りしは外国
は皆青漬の白梅なり且梅の性よろしからす我邦紫蘇を交て漬たる物香味尤
美にして天下第一なり故に遠く倭羅思等の国に到るまてこれを賞す彼
国人食料にはせす湯にひうしてのむ頭痛等の諸病を治するとなん
按
○虫巻散巻肉一味すりつぶし米の酢少し入て付るなり卅
トレート
和
地に生する
名抄河貝子訓美奈俗用蜷字非也三十と訓すべし二十は誤なるよし徒
然草にもいへり大和本艸に天蛇毒の薬なる事を載す云河螺なり潮入の
霜一両臍蔕の事なり性
金銀花紅花
二花散仁通
各半
は用ふべからす
温崩を止め肉を生す
両
金草
一匁久ミレ草の事なり性冷腫を
右何も末し酢続飯にてねやし
能押ちらす醋に合すれは強し
付る
○按臍蔕陳蔵器は瘧に用ふる事をいふのみ李時珍は保幼大全全幼心鑑
に本つきて胎毒臍瘡の主治を擧たれとも親驗せし事とは見えすとゝに
性温云云は本朝古代名医の定めし説なり国俗臍蔕と胎駿一
を貯へ置は薬用に備る詞也農経の髪髪蘓敬か援根と云しは即う愛也
木青散陸葉
青木の葉なり強く吸ふ性
陰乾して末し梅酢又続飯にて付よ右
冷或は押す焼はいやす
三方癰疽疔痛此外何の腫物にも用ふべしと鷹取の書に見ゆ
是古来の伝方なり
いへり鷹取甚左衛門藤原秀次播州の人天正
慶長の際外科細漸新明集二書を作れり
按医考に外科を論して云二流あり一は本邦の傳
鷹取の流なり一は南蛮流とて耶蘇の徒より傳と
本朝医談
○喘急に猫を用るは本朝の説なりと西忍記に見ゆ然るに医学
正傳喘哮猫頭骨焼灰酒調二三鉄とあるは霊搏か先人口本人の
方法を伝へ用ひし歟
○大同類聚方
波支古
支夜美
出雲国造の方乙見薬といふは冷水一味なり
天文医按霍乱吐逆には薬を用てあしゝ只当意の汲水くすり
と見ゆ此術唐土にもあれと書に載せしは我より後れたり
○四百年前人の引こもりし時湿熱の病とも見えすと云ふ事
あり湿熱といふ事は宋人よりいひ出して丹溪に至て其説大に
行はる唐土の古人は万病皆風寒より起ると心得たり傷寒論も
其意なりされは病人十に七八温熱の劑を用ふ丹溪の発揮せ
し局方の薬も宋の時初て作りしにもあらす古人乳石を服する
餘意なり乳石は魏晋六朝より唐まて流行して服する人寒食
冷飲して其熱毒を解すに至る其禍を蒙るもの少からすこゝ
に於て宋の諸老病の因は風寒は少く湿熱多しといふ説を立
しなり是説おこらさりせば五石散の害今の世まても伝るへ
し斯邦にも仁明帝自ら五石を煉給ひし事あり三條院金
液丹をめしたり其薬くひたる人は目をやむと大鏡にみえたり
平相国の身火のやうになりたるも已に富貴きはめつ若くは欲
にあかすして乳石の剤を服せられし歟夫唐土の州域は南北
甚広し北土の病風寒によるなれは熱薬よろしかるへけれ
本朝醫談
と南土の人は風寒の病少く湿熱の因多しうれによりて南北
経験の説出たり大成論には病門毎に暑湿をもいひて風寒
の二因はかりにからはらす我邦は唐土の南土に近く人民斉服
して衰服せすされば風寒の病少く湿熱の病おほかるへ
きなり
天文医按春の末より秋の末まて熱氣なりしはなき出すく
はな出れば風を引候やうにこゝろへられ候大にひり事に候冬に候はゝ
とめてなり又あつき物を好候ものも煩によりて熱氣にも其分候当世は
寒の者百人の内一二人もなく候是は風寒湿の因をとらす病は皆熱と
説也
○大成論は斯邦の書なり唐土に大成論といふ書なし医方六
成の薬方を除きて論説はかりをぬき出して読むゆゑ
大成の論といふのゝ字を添てよむへし足利時代の医師の
所作と見えたり大永の頃より醫書大全行はれて大成す
たる東井師の抄に当流には大全の論を写してよむ外題
は世間普く用ひ来る故に大成とかく実は大全の論なりと
見ゆ依て考るに大成の大成論は其以前よりありて今行
大全の大成論は一渓師に初れり
○近古の医書多しといへとも啓廸集より。盛なるはなし天正二
年廣領天下流永久の旨を蒙る他の醫書此盛挙ある事を
聞かす医たるもの必読むべし是先帝の掟をかしこみ奉る
なり此書は月湖か全九集に本つきて作られしなり
○注能毒蓋母草の條に唐より渡りたる湾陰方といふ文
本朝医談
あり済陰方も月湖の作なり延宝八年の国刻あり往年田
澤仲舒か全九集を校せし時予其書に序して月湖は本邦
の人にして銭塘に流寓したるといひしをあからさまに銭塘月
湖とあれば邦人なりといふはうけかたしといふ人あり予全九集
の文章唐山人にあらざる句法を示し今又済陰方の序と治
験とを茲に挙て唐山人の文にあらさるをしらしむ月湖元来
邦人なれとも著述は唐土にて印刻なりし故唐より渡り
たる済陰方と一渓師のいはれしなるへし足利の代禅徒の海
外におもむきし者多し月湖も其頃の人なれば遠く明国に
和漢年契清乾隆四十一年古
遊ひ医をもて彼地に行はれしなり
文孝経刻成嘉慶二年七経
孟子考文板成唐土にて日本の著述を刻せしられ其初なり按儒書は年契
の説の如し少しく品はかはれとも筆跡なとは早くより彼国の法帖に入りし事
あり又医書は月
夫抹レ危扶レ弱者仁人之用心好生之大徳也男子通治
湖の書を初とす。
之医方甚多而盃棟汗レ牛然而不レ飢レ窮二於斎陰之玄微婦
人之疾比二之男子一十倍難レ療所二以然一者別有二月経之違和妊胎之
安危産後之諸疾一寧当無二男子一通治上、故子雖
亦擁下為二婦人至要之分為上下而像両像両儀之覆載明論
察レ証審方療病使婦人安樂孕育順正一庶幾欲レ令二嗣継与二嗣継与二嗣継与二嗣継与二嗣継与二嗣継与二嗣継与生黎
元豊威然此書雖鄙陋浅狭一図家治天下之一端矣古人謂天
地大徳曰レ生也、仍名曰二大徳済陰方一于時景泰六乙亥年冬日南至
月湖纂於銭塘潤徳斎新州是其自序也此文章を察せは唐
本朝医談
山人の辞にあらさる事知るべし又治験数条あり其詞おのつ
桃仁
から倭習あり巻一
貴人妻患尿不通予診之曰血痕也與之
前條
日午大痛不」可レ忍遂臥少頃下二血塊一、如レ奉者数枚承如レ墨汁一得
愈、此薬治レ病的然猛峻気血弱者、更宜二斟酌一也巳未金後
有レ人心腹脹痛衆医投二木香沈香檳榔大腹芍薬薑桂之実一病
益甚予診レ、六脈弦緊両手如レ火知二実満一、也衆問如何子曰、凡心
腹刺痛不レ可便作二虚冷一治一、二図、非二虚冷一而何熱即生レ風冷生
レ気是也予曰不レ然、紅曰、霊則痒実則痛又仲景曰、腹痛者、桂枝加大
黄又按弃レ之遇二痛時一按レ之痛止者、虚也若按レ之転甚手不レ可レ近是実
痛也大柴胡入服而愈杜氏及レ産数日不レ下百治無レ之
曰産前脉不レ可レ考、但察レ色而知レ、揚レ帳明レ燭察レ、胎死
明矣供至宝丹二、胎即落矣、矣巻、二黄氏有了数、遠出
忽胎上心痛、坐臥不安両醫治レ之無效遂説胎死一用二草麻一研加レ能
貼二臍中一以下レ之命在二無之一召レ予診両尺沈絶他脈平和、予問二二譜一何
証答曰死胎也何以知レ之答曰両尺絶以知レ之予曰、此説在何経二二觜
無レ答咎問予曰、何証也、答曰、子懸也、胎死有癖処、面赤舌青者、
子死母活今面不レ赤舌不レ青子未レ安衝心而痛也驚蘓
巻之一治産後血暈危
飲十服而胎近下予用之数々有験矣、正誤
困當歸赤芍薬生地黄
汁三味
方後
一庚辰歳禁中有此症、厚獲二賞賞書、厚獲二賞賚、
辰なし思ふに庚申の誤明國正統五年なるへし
本朝醫談
附記
醫考尊道諱三喜号二範翁又称二支山人入明留十二年学二東垣豊涙之術一
携レ醫家方書一歸二于本朝二療蒼生二明に入て月湖に従ひ学ひしなり
携来りし方書の目はしれされとも全九集済陰方の二書は処此時に渡れり山人
の力によりて斯国には今に伝りぬ唐土には早くほろひたり山人は田代美綱か子にし
て河越に生る一説越生の産といふ鎌倉円覚寺江春菴に住すと聞けり啓廸集序
医術を制陽に学ふとあれは足利に来居られしなり又策彦序によれは武州に住居
せられしなり又古河に在し事もある故に古河三喜とも呼べり元来禅徳の事なれば
東国の内居所を不レ定徘徊せられしなるへし詐戮志云古河三喜は道三の師なり三十廿
か方傷食丸台早にて世々是を賣る長谷村永仙院に三喜の木像あり直指篇賄題言
の説尚明ならすされと姓は田代にして導道三喜は一人たり又二人とすたるの説云々按導
道の嗣亦三喜と号す故に一名にして二人二人なれとも其統は一人なり寛永の頃予か死
玄竹法印の女壻たりし田代江春即其後なり又按に頓医抄に小児門装外に丁音
脾積円を載て赤白痢には冷水にて用ふ駐車団と号す小児不食疳痩には温酒
にて与ふ保童圓と号す田代殿より相伝とあり此巻外は性全の筆にあらす後
人の書加へたるなり田代殿とは三喜より以前も代々医道を行しなるへし豆州
田代殿草方といふ書ありと聞けり盖其家伝を記せしなるへし多紀安長は
多聞院日記を引て田代と云は頼朝卿以来の典薬にて東国の大小名煩ふりして
此療治をかくと語りき依て想に伊豆国住人田代冠者信網か八島の軍に
義経に従ひしは医業を
兼たるもしるへからす
◯田代三喜か雷神伝授の薬方いふかしきに似たれとも昔時名
増補燈下集三帰寛中円とて備急
医の事業凡憲を以て測へからす
丸の変方ありこは三喜なるへきに三
帰とあるは呼声の近き故と見えたり福田方の撰
者も序には有林本文には有隣とある類なるへし
これより前にも雷神
の薬方を授りし事あり録事法眼是なり録事の古迄は下野
国安蘇郡糟尾郷坂東第一番の札所也法眼名は智玄といふ曽
て入唐し医方に明うかなり其後雷神これに薬方を授け且洪
水の備に川道を定む後鳥羽院御脳の時御薬を奉り御平愈
ありて録事法眼の号を賜ると寺僧及里人の談如レ此されば雷
神伝授の薬方ある事凡慮を以て疑ひはかるへからす
○老談一言記加藤清正の醫師いひし事あり高麗陣の時に水
本朝醫談
土にも習はす正氣散の方剤しかるへしとて其料を用意し
て渡りしか按の如く皆〻煩ふ事ありしかは不換金正氣散を
服せしむるに其験なしかの医試に与ふべき薬ありとて一人
に先つ薬を与ふるに立処に験あり茲に於て其佗の者とも
に与ふるにこと〳〵く功あり其方を問に香蘇散なり其故を
問に陣中にて氣鬱を兼たる故なりといふそれより他の大
將の家中も皆香蘇散にて病いやせる事を得たりと見ゆ大
平の世といへとも時を踰る旅行はある事なれは此心得あるへき
なり本薬を外感に用ふる事知さる医なし食傷にもよさなれ
ば
近来医家唯以香蘓散治感冒時気気滞頭痛痞満脚気皺胸等而
不言及大能解食毒之功亦闕典也今後有犯食毒者試之是北山壽時申る
言旅行の用意極めてよし予しはく日光山に赴きし旅途此薬
を製して携ふ種々の病に加味して與ふるに效を得る事
多し又本薬に木苓人参を加へて琉璃壺蘇人湯といふ諸病に
加減して用ふるなり
○牟射志野乃宇家良と万葉集に見えたれは武州の地むか
薬選唐以上所用之木此邦所産之木而決非浙
しより、木の名産なり
木也但止瀉和木最長其蒼朮唯是多脂烈気
却不及
和木」
○長寄にて唐船へ渡す定式に茯苓あり
山海名
斯邦の産彼
産図会
に勝る事知るべし茯苓は其性油膩を去る物なり
三位法眼
伝に産前
には大黄卒忽に不レ使若大黄計は子か下る事ありそれも人参茯苓添れ
は不レ苦此言に依れは李當之は大黄無一レ畏といへとも参苓をば畏るゝに
本朝医談
似た
り
○延喜式の人参は直根にもあらす又竹節にもあらす弘景か説
の一茎直上の物なるへし人参は挙世朝鮮産をよしとす朝鮮
に中心生二一茎二与二桔梗一相似ものある事東医宝鑑に見えたり
然ば必しも三椏五葉の高麗種のみにあるへからす人参の代りに
桔梗を用る事福田方守中金丸の条に見えたり橘黄閑記寛
永年中何欽吉といふ人清夷の乱を避て明国より帰化し日向
国諸県郡に居て医を業とす竹節参の鬚を堀て使ふこれ
一説に人参を見出せし明人は名を南陽といふ
薩摩小人参の初なり
其子孫今に伝はりて南陽を以て氏とす
梁根を使ふも此頃よりや流布しけん崎人傳に松本駄堂か直根を
横
初て堀出せし事見ゆ然れば此二参世に出しはいまた二百年なら
す然らば式内の物といふべからすされと此二参は国産の薬材なれ
ば其力をはかりてそれ〳〵の病を療するは医のつとむべきと
ころなり
○夏月ねびえといふ病唐土になし故に治法をいへる医書なし
と聞けり
強ていはし唐土人のいふ暑病静而得レ之の証なるへし医方聚
要一渓曰紫蘇葛根羌沽解レ表厚朴蒼朮薩香散レ寒内傷二生
冷加乾姜
縮砂之類一
○むかしの物語をよむに風の心地といへる詞あり是は諸病の因
風寒なりとくすしかいひたるか世人にうつりて凡病はかせより
起るものと心得たるやうに見ゆれとも斯邦に一種かせといふ症
本朝醫談
あるなり唐土人のいふ風とは異なり其異なる事は治療の異な
るにて知へし栄花物語長德元年關白殿御心地あしく御風
にもなとおぼして朴なとまゐらすれとおこたらせ給はす加茂保
憲女集足引の病やむてふほゝの皮吹寄風はあらしとそ思ふ
是ほゝの木の皮を用て愈る病ありて是を風といふなり
本草厚朴にいひ伝へたる主治に拘はらすこれを用て斯邦の
風といふ病はなほるなり又病因を物の怪のやうにいへるは仏学
世に行はれて釈氏鬼病の説の世上に弘まりたるにあらす総
てまし給ひ祈祷して本復する症は皆鬼病なり其外は多
く飲食より起る病なり故に唐土の古人も病因に鬼食を
左傳醫和曰
いへり
非レ鬼非レ食
四萬葉集に病従レ口入故君子節其飲食人遇二
疾病一不二也妖鬼一といへるはよく病因を説といふべし
物怪のくすり
女傳集恋つ
○東鑑建保二年二月巳亥将軍聊御病悩諸人奔走但無殊
御事去夜御洲酔余気歟爰葉上僧正候二御加持一之処聞此
事稱良薬自本寺召進茶一盞而相副一巻書令献之所誉
茶徳之書也淵酔の餘氣に良薬とて茶を進るを見れば
茶の酒毒を解する事知るへし一巻の書といふは即喫茶
養生記也茶の功能を挙たれとも元来医家の書にあら
さればもれたる主能もあり大要をいへば茶は酒食の毒
を解す物なり酒食の毒のみならす薬力をも解す故に
俗間にも服薬の内は茶を禁する事を知れり土茯苓を
服する人殊にいむ曼陀羅華の毒にあたりて発狂したる
には奇特の功あり鳥獣のまちんに中りてもゝえ苦しむに
茶をのましむれば解するなり世人茶は明恵に初るといひ
伝れとしからす文華秀麗錦彦公か句に相対酌二緑茗一とあ
波支古
出雲薬の方中於〻度知といへるは茶な
り大同類聚方、
支夜美
りといひ伝ふ
○楊梅皮唐土にてさして用ひす斯邦の醫流能用ひおほえ
しなり種々の功あるものなり服用のみならす付薬にもすへし
接骨に用る事雍州府志に見ゆ止吐逆一開レ療消レ食治二頭痛破二
撲損瘀血除腹満一余二腸胃一と薬選に見えたり能く蕎麦麺多
の毒を解す又嚏薬とすへし末服すれは味辛く煎服すれ
ば甘し其味桂に近し咽喉を戟するものなり捧心方に苦参黄
栢と合して三奇散となつけ霍乱心痛出痛を治すこれに加
減したる丸華金いつれの医家にも製すこれむかしより伝来
の薬物なり然るに延寿彙函に朝鮮金徳か方といへるは無稽
なり
○日用灸法云俗に日腫となつくる病あり俄に眼くらみ絶せん
と欲す此尸蹶なるへし或は疔腫口鼻の邉に生して如レ此事あ
り温溜の穴灸妙なり艾柱一寸許にして熱を覚ゆるまて灸
本朝医談
す温溜は脱後五六寸の間動脉ある処頭指の通りなり是
今俗はやうちかたといふ病なり本草哥に〽なた豆は粉薬にして
水にたて口腫の瘡にはやくのませよ神俱集に日腫のまめくひ
といふ名あり是豆を食て治する故なるへし嬰児にも此病
ありと見えて俄に啼哭し何とも癖へかたきに豆をかみて與
るに忽愈る事あり
○服元喬伊豫温泉碑に神功皇后を擧たるは何に本つきし
や書紀に温泉の事初て舒明紀に出つ温泉は唐土の人さして
いはねと斯邦にそもてはやす事なり瘀血壅滞黴疝症症
手痺脚痿攣急諸病梅瘡下疳便毒痔漏疥癬悪瘡撲損レ悶悶
婦人腰冷帯下等の病に浴するなり道路の遠して行事ならぬ
者の為に仮温泉を作りて浴される事あり山村通菴か法は
暗人傳に出せり
○妊婦の産帯神功皇后に初ると世俗いひ伝へつれて書紀
を見に石をはさみ給ふ事あり萬葉集にも鎮懐石とありて
帯にあらす説者中右記を引て元永二年正月中宮御懐妊初帯
著是を初といふいはた帯の事哥にも詠し帯の吉日拾芥抄に
も見ゆこれ斯邦の風俗にして唐土になき事と聞り然るに
清国に似たる事のあるは呉舶の往来して聞見のまに〳〵彼
保産心法受胎三四月後宜緊
國の人我にならひてするなるへし
収其腹勿令胎放則易産又
云孕巳知覚即亘用布幅六七寸闊長視二人肥痩約纏両道横束腰腹直至至
臨産之時餅去若是試終仍不宜簡此有二妙其胎木長或得此則腰背負力
些微閃挫不レ致レ動レ胎又常令二腹。中窄挟乃至二時閑一則腹中乍寛轉身容易此
最妙之
良方
○臨産の時産婦の側に白米を設け置は血暈おこる時かまし
めん為なりと本朝食鑑に見ゆ生米は血の道によし産前後
手負目のまふ時にくふへしと本艸哥に出つ又豆にも其能あ
りと見えて備前老人物語に手負て血の胴へ落て難儀なら
んには煎豆を食ふへし忽しるしありといへり民間に血暈に
用ふる薄墨薬といふあり米の粉に藤こぶの黒焼を薄ずみ
色になるほと和合するなり
○古事記の意を考ふるに蒲黄は打撲損傷の薬にこそ
あれ草全は手負産後の気付に蒲黄一味を用ひき
草全ハ医
校正せし人也気付薬の
方明鑑を
事は増補燈下集に出
予知時聞し事あり龍王湯中に川骨
といふ物は葉芋の如く黄色に花さく水艸にて是を唐土の
萍蓬艸なりといへと本綱の主治と不レ合川骨は蒲の事なり
花のなき時根を堀取て香蒲根と唱し音訓を何人か川
骨の字にうつしたるなり蒲をかはと訓するも香蒲の音訓
なりと因て按に阿加加波の方に組む加波も蒲黄にはあらぬ
嫩古人食療に用ひしかはほねも亦蒲の根なるへし唐土に
を食ひし事
ても蒲
周礼にも見ゆ
本朝醫談
◯阿加加波の方延寿彙函に琉球国の方といふはうけかたし
換骨材秘要良方帽耕等を以て切疵矢疵等分量の伝あり
元和の頃山本元仙か万外集要に出せる方亦同し又四味の方
あり華選此邦中世医家以二遏刺葛刺遏葛葛穴四種一称二
調血劑為治産後諸疾婦人血気病等一器用之薬今方法並
失鮮復識者間有草野老人伝授秘用者而時医不加二深察却
以為草薬悍品賊且怖之不亦戻乎殊不知是四品迥勝於芳
婦与下四物湯一何不二試用一手
○普広院殿御産一町日記
永享六年二月九日
若君誕生の記なり
医師ハ大膳亮守家
とありて胞衣をさめの時興薬郷成卿南向して胞衣を清水
又酒酢にて数度あらひ白直垂にて納むる所に向ふ式あり
胞衣に典薬頭の勤仕するはいかなる故ならん
○五香湯を小児に用る事醫方紀原に穢悪の気を避る
扁欺胎毒の為に預め服せしむる歟といへり胎毒勿論なり又ち
りけの薬なれはなり頓醫抄云に児のちりけ腫物等用レ之但
五香煎といへば麝香少し加へて合するなり本道の人秘する
事なり依て図を作りて記す
可然人には如」此合て可レ進といへ
り又云紫霜圓千リケム子オヒに
最上なり蘇人湯方云千リケ加二
本朝醫談
ワタニツヽン
同生
}絹上
生結生
麝
乳
沈
木
霍
青木香蒲黄鷹取の書に小児の疾例クサハ丹毒ヲ云チリケハ疼
飲の事獣といへり痰喘壅盛の症をいふなりこれを治する灸
をちりけの灸といふ俗人誤りてちりけは兪穴の名と思ふ者
多かり
○敕号記神馬草神代時馬食之下学集神功皇后攻異国
時船中無馬秣取海中之藻餌馬然ハ太古は秣に海艸を用ひし
なり
述異記周穆王東海島中養八駿一處有レ眇名龍爾一
龍は馬なり芻は草也これも馬林にせし海草なるべし
今小児初生の
薬にまくりといふは即馬食の転語にして海艸の事なり其物は
後世しるへからす世人船底苔鴈蠣菜なとの事とす其種類とは
巣源小児温壮候其糞黄而臭
いふへし真のまくりとはいふへからす
此腹内有二伏熱宜服二龍鬚湯一これ
龍胆湯の誤なしからすは
龍鬚も海艸の名に似たり
○埃嚢抄疱瘡の初を記して云源順飽瘡と書疫病也筑紫の
者魚を売りける舟難風に逢て新羅国に着く其人うつり病
て帰りけるか次第に五畿内帝都に流布しけるなり其時葱薤
を食ふて平愈する者多かりければ明る九年の官府には此病
或痢時葱薤を煎して可二多食一其後も度々葱を食ふ者多く
験ありといへり但雅忠か説には熱気の間に可レ食初熱醒て後は
いむべし然れとも熱さめて食祈る人も多くなほりける外台親
四年此瘡従西域東流于海
要永徽
内但煮葵葉蒜韮啖之則止
○豆瘡をモカサといふハモエクサの轉にて麻をハシカといふはは
シリクサの約なるへし天平の赤斑瘡は豆麻を混していふに似
たり但混していふとも難なし医家の書も皆合論せり
幼々新書傷寒毒伝胃而成其
されと差別ありて其辨は頓
候有疹有麻有痘其実一体
醫抄に詳なり曰五臓につかさとる所あり肝の熱によりて
即是
出る水泡とて脹て水を孕めり
水痘
肺の熱に依て出るは
膿泡とて白色にうみてうみかさの如し是尋常のもかさな
り
是即豌豆
瘡炮瘡
一心臓の熱に依て出るは発斑とて遍身またら赤
是即赤斑瘡千金方に丹毒といへり斯邦にてくさと
く白く出るなり
名つくくさの一種をはしかといふなり金匱方論陽毒
錦紋の如しと云へは
脾の蔵の熱によりて出るは細疹とてこまゝ
るもこれなるへし
是即素問の彫
として粟の散したるか如し是は膚瘡と名つく也
活人書の麸瘡也
腎の熱に依りて出るは黒色なり。是は熱病なり不レ可レ治此文
にて明白なりとかくに水脹膿泡して豆の如くならされば
農経枳実條在皮膚中如麻豆一豆ほとなる
炮とも豆ともいふへからす
故豆といひ胡麻ほとなる。ゆゑ麻といふ
日本紀略
稲目瘡
御いまめかさの轉なり豆の如くなる故まめかさ
長徳四年
疱瘡幼
といふなりイは発声イモともモともいふイにおなし
年に多
く又高貴にあるましくといふ
勘文前々太平記に見ゆ
○拾芥抄に天平九年六月廿六日下諸国治疱瘡方海松を
食ふべきよし載たり是ノ古人の定めし食療なり和名抄海
松ミルと訓す今世食料に用る海艸のみるなり頓医抄赤班
瘡宜食の部ホシミルコフ青苔和布を載たり宜禁集痘児
本朝醫談
和布の汁を食へしといへり此等海物功用元来相似たり又
天平官府に鐘粥の事を載たり今も薩摩国にて疱瘡
する人にかゆをしひる事あるよし西遊記にみえたり古の
遺風寒
○古時なくて今ある病ほうさう、はしか、かこじり、此四種はみな
海外より伝へ来たると聞けり戸令悪疾染於人故不レ可レ可レ可レ可レ可レ可レ可レ可
麻今の梅瘡もこれに似たるなり肥前瘡に二種あり一は細に出
巣源土風瘡逸
一は大つふにて膿あり是楊梅瘡の類な
て水なし
風瘡の類歟
つくる時
わ
唐土に
云馬疥
鷹取か湿瘡付薬は樒の黒焼羊蹄根等なり
風呂に入
○便毒を鷹取の書に痘の類といふ説あり今これを見るに
皮かたくしてたやすく潰かたきは疽の類といふも可なり鷹取
は歸の黒焼をつくる是をつくれば其わつらひか汗になつて出
稀ナメクシリと訓結験の事
る便毒によらす用へしといへり。
なり字書に就て解すへからす
疫病は伝染の
頓医抄洗くすり
◯下疳はむかしまら疫病といふ
俗稱なるへし
樒の葉を濃煎して大なる竹筒に入て玉菫をさし入て洗ふ
大和本艸シキミの葉こく
さめば煎物をかへよ筒の底に梅干三ツ入よ
せんし腫物風湿皮膚
に滞を洗ふ虫
ある瘡甚験
○厩牧令凡官牛馬死者収二皮脳角膽一若得二牛黄一者別進義
解云脳馬脳膽牛膽其牛膽と並へいふを見れば馬の脳も薬用に
農経牛膽可丸薬むかし熊胆の
充しなるへし但何の病を治せしにや
行はれさる前は丸薬料に牛羊
本朝医談
豕の膽を
用ひしなり
○唐土の医書斯邦に入りしは千金方を初とすと養生訓に
見ゆ今延喜式を見るに千金方の行はれし事しるへし屠蘓を
初として民間に流布する薬膏盲に灸する事万能膏の
原方等皆千金方に出たり
○御産の時甑を落す事御胞衣とゝこほる時のまし給ひなり
魚好させる本説なしといへば今更臆見を設るはおろかなる事な
れとも産後胞出さる薬炊草当二戸前焼服レ之と千金方に見えたれ
ば昔民間に此術行はれて後には黒焼にもせすこゝ戸前に當ん
か為に軒よりおとす計をまし給ひとせしにはあらぬ歟
○延喜式伊勢国貢水銀百練抄承暦元年五月宋國ヘ水銀五
千両渡したる事あり古代斯邦水銀多きを知へし故に明一統
後漢書によるに冊土
志にも国産を挙たり丹土の地に生す
今勢州
は本邦名産なり
に丹土多し往々土中より水銀出ると飯高郡の人語りき弘景
所謂出於沙地勝於丹砂一
者是なり職人哥合水銀
職人哥合
水銀ほり
堀の図あり丹土の深山に
ほるかねのといふ哥をの
四五
せたり蘇頌は是をしら
ぬなり享保十八年に笠
本朝医談
【
原長晁か記によるに無人為にも水銀出るとみえたり
○式阿波伊勢等団牡丹を貢す是は輔仁か山たちはなと訓
中蔵経治二肥損小便不禁一
せし物今のやふかうしなり花王にあらす中女
方牡丹須二細花者一不レ然無
効是花王にあらさる事明けし野容叢書付間水際多牡丹一といふ句を
引けり水竹の際に生する物亦やふかうしなるへし岡村尚譜は牡丹古今の
別あり蘇頌已下花王とて唐以前は蘓敬所レ説苗似二羊桃二夏生二白花一秋実
圓緑冬赤色凌冬不レ凋といふ物なるへしと語りき
○式紀伊国貢二温石一うれ火力を仮て後温なるにあらす石性元
より温なる事大和本草にいへり五體身分集耳垂又鼻茸
及胡臭の薬とす馬療一書結馬の薬牽牛子温石古茶大
黄等分醋に涅して飼ふ事あり其性硫黄の如き物に
もある歟
○大同類聚方以多知久佐を用ひし方数首あり連調なり
といひ伝うれとも今の連堯なりや否三位法眼伝には連堯容
易に使ふへからす連竟湯とても去て升麻を使といへり
○薩摩国大島より出る香木を曽昌啓か許にて見たり
是を焚にまさしく沈也但水に沈むへき質にあらす若其地
に往て點撿せは沈む物も有へし又語らく薩州日置郡冠か
岡に一種の煙艸あり蠻人持来の種にあらす昔よりおのつから
ありしなり依て考にむかし諸医の商舶坊の津に渡り
来り交資せし時此香木と烟艸とそ外國へ渡せし事あり
し県故に広東新語日本沈香色黃味酸といひ芝峯類説
本朝医談
に淡杷姑出二倭国一といへるならん
○武備志日本薬材諸味俱有唯無二川芎一といふは蜀川の芳を
海外へ求めし故なり斯邦に芎欝はあれとも川芎はなし昔
人等窮と川芎とを使ひわけたり三位法眼伝に載る主治を
見て知へし
百一選方大防風湯方中川芳の下に撫芳不可用是
其分別あるを知るべし本艸綱目出て後混雑して
痒な
○巻薬石を菊銘石といふは策彦の説と聞けり盖唐土の本
草者花藁石と花乳石とり混せり世に焼餅石といふは花
乳石にして真の花蘂石は菊銘石もりといふなり石に花蘂
の紋あれば其名を以ていへは当れり
○阿仙薬山帰来仙人草等唐土の名に似たり唐にほろひて
鯛鯵等も食経に見えて唐土に絶えて斯
斯邦に存せるなるへし
邦に存せるなり佚存の学を好む人是を思へ
舟渓橘を皓隠と名つけし事半陶叢に見えたれとも本艸には見えす是
亦彼土にいひ伝ふる人なきなるへし一渓学に陳皮を貴老黄栢を山屠と
いへるなと全九集の一名に據れるなり元来は後唐の候寧といふ人の造り出せ
し名なる事宋陶穀清異録に見えたり全九集も済陰方も亦佚存の
書な
り
り
○今昔物語天暦の御宇震旦より渡りたる僧あり名を長
秀といひけり醫師になされてつかはれけるか五條西洞院に桂宮
と申人おはします其前に大なる桂木ありけり長秀此柱の
木の末を見上て桂心といふ薬は此邦にも候けり人の見しらぬ
にこそ候はめとて童子をのほせてしり〳〵枝を切おろせといふ
本朝醫談
長秀よりて桂心ある処を伐り一取りて宮に奉りすこしき
をは申賜り薬に使ひけるに唐土の桂心に勝れり桂心はこの
國にも有けるを見知れたる醫師なくて取さる事の口惜なり
と長秀くやみけるとなんしかれとも桂心を見しる事終に人に
教へすしてやみけり按枝をとりて桂心ある処といふ事はいふ
かし千金方凡例桂心蓋取其枝中之肉長秀肉ある處を択
ひし歟薬選桂此邦亦有但少絶品耳
○大鏡三條院御風重く出はしますくすしとも大小寒の水
を御くしにいさせ給ふべきと申けれはこほりたる水を多くか
けさせ給ひて御色もたかひおはしましけりいとあはれにかな
しくて人々も見まゐらせける按可水證は脉経玉幽経等に出て
平相国の水ふねに入られたる頃まては斯邦の醫此療法を行ひ
しなり後世其伝を失てする人なし只卒倒したる人の面に水を
そゝく事民間に存せり是亦可レ水の法なれとも法華経に出たる
事なれば元来梵医の法にやあらん
○小右記治安三年九月八日己巳面痕者以菘蓮葉等三種湯二洗
且著地菘一今日以下柳湯一寸餘今日見七分許愈与十一日壬申
忠明宿称来問頬疵申云只以柳并蓮葉湯等可レ此十四日乙亥頻
腫悪血之所レ歟斯相成朝臣用蓮葉湯一療治又依二支子汁一也
恒威今レ占勘申云無レ祟血気相剋所致歟日者蓮葉湯等頗温
本朝医談
以彼等既頽気発申有夢想仍伝文子亦以蓮華汀洗面
尤有其験十八日已卯以蜜和鷹矢胡粉等傳面廿日辛巳以蓮
葉湯冷毎日両度先伝密和鷹矢侍医相成朝臣丁寧痺
治廿二日癸未給二相成朝臣馬依二療治有二療治月一日壬辰変焼
柘榴皮可伝次可伝桃抜汁二日癸巳召忠明宿称問声告二種
薬事云伝桃核汁極優石榴皮未知必可忠明勘云桃族皮肉
鐵臼能舂令泥伝三日甲午伝桃核汁有験四日乙末面疵漸減
五体身分集面貌分
桃核療治遂レ日得
薬物本文と同し
○前太平記典薬頭重雅源頼光の脈を診して云夏暑に傷
られて秋必疱を発するは理の常なり諸疱皆風より生
す其病因に就て風湿を駆にしかすと瘧病は湿を駆るにし
かすといふ事治療の上にて心得へき事なり又枕艸紙豊前
といふうねめはくすししけまさるしる人なりと是人の事なる
へし
○宇治拾遺三条中納言といふ人ありけり三條右大臣の御子な
りふとりてなんおはしけるくるしきまてに肥給ひけれはくすし
重秀をよひてかくなんいみしくおとるいかにせんとの給へは重秀申
やう冬は湯つけ夏は水つけにて物をめさるへきなりと申す此事著
聞集にも載たり医師の申けるは良薬あまた候へ共先朝夕の御飯
を少しつゝしたゝめくれ候てけふあすはあつくも候へは水つけを
本朝醫談
時々まゐりて御身の内をすかさるへしとはからひけるとあり本
艸歌に〽湯漬飯豆は食せよ其外はむしけ不食の人に毒なり又ゆ
つけめし腸胃の熱をさましつゝ霍乱を治し毒をけすなり
○続古事談後朱雀院かさをやみ給ひけるに興薬頭相成よろ
しく成給へり水ととむへき由申けるを雅忠いまた若かりけるか見
昔人腫物の治
奉りて此御瘡いつ水とゝむへきとも見えすと申けり
法は水をそゝき
かくるなり其法は鷹取の書に詳なり徒然草に癰疽をやむ者水に洗て
楽とせんよりやまさらんにしかし是医療の事にはあらねと療法にかよ
はして見るへし栄花物語此時の事を載て云いかにもむつかしうおほしめし
御居立のありさまなと同し事なり日頃の過るまくに猶水なといさせ
給ひてよからんと申いとさむき
頃たへかたけに見えうまし
其後嵯峨瀧殿の重源をめして
見せ給ひければ雅忠か申やうに申て罷出とて故資仲五位蔵人
なりけるに逢て此御瘡はいついえ給ふべしといふ事みえす明
日御胸やみ給はゝ大事なるへしと申けり誠に胸やみ失給ひけり
かさやむ人の胸やむは終の事となん重源は重秀か孫なりとみ
ゆ前段水つけの事を申たる重秀なるへし胸痛の事を察し
申をみれば重源も尋常の医にあらす
○著聞集大宮司何某癩病をうけたる由聞もあつて一門の者共
改補せらるべき由申訴へければ大宮司はせ上り医師に見せられ
実否を定らるべき由奏はへりければ和気丹波のむねとある輩
に御尋ありけり中原貞説も同しく召に応して御尋に預ける
各白癩といふ病のよしを奏けり療治すへきよしの勘文を奉る
本朝医談
へきよし仰下されければ罷出て記し参らすへき由申ける
貞説申けるは重代の身にもあらずして一巻文書のたくはへもな
し知て侍るほとの事は当坐に考申へしとて則しるし申けり
ゆ々敷申たりければ叡感ありて請に随て和気の姓を賜り
白癩は令義解に
ける是医考に出たる貞相か子とは別人なるへし
篤疾の部に入る今
いふかたゐ也治方口訣は
白山瘡となつく
○平家物語入道相国福原の別業におはしけるか越中前司
盛俊を使者にて小松殿への給ひ遣されけるは所労いよく大事
なる由其きこえあり宋朝よりすくれたる名医わたれりをり
ふし是を悦とすよつて彼をめし請して医療を加へしめ給へ
と宣ひつかはされたり大臣盛俊を御前へ召れ對面あり先医
療の事かし候まりうけ給はり候ぬと申へし但汝もよく承れ
延喜の御門はさはかりの賢王にて渡らせ給ひしかとも異国の
相人を都の内へいれられたりし事末代迄も御あやまり本朝の
耻とこそ見えたれ況重盛異国の醫師を王城へ入れん事全
く國のはちにあらすや藻の高祖黠布をうちし時疵をかう
ふる呂太后良醫を迎て見せしむるに高祖宣く運已につ
きぬ命則天にあり扁鵲といふとも何の益かあらん終に治せ
さりき前言耳にあり今以甘心す重盛苟も三台にのほる
其運命天心にあり何そ天心を察せすしておろかに医
療をいたはしうせんや一助労若定業たらば医療を加ふる共
益なからん又非業たらば療治をくはへすともたすかる事を
得へし耆婆か医術及はすして大覚世尊滅度を跋提
河の辺に唱ふ是則定業の病いやさゝる事を示さんか為な
り治するは佛躰なり療するは耆婆なり定業若醫療に
かゝさるへり候はゝ豈釈尊入滅あらんや定業治するにたへ
さる旨明けし重盛か身仏体にあらす名医又耆婆に及へ
からすたとへ四部の書をかんかみて百療に長すといふとも
いかてか有体の壊身を救療せん五経の説を詳にして衆
五経四部陶隠
居本経名例に
病を愈すといふとも豈前世の業病を治せんやス
出た
り
注文若彼の術に依て存命せば本朝の医道なきに似たり
醫術効験なくは面謁所詮なし就中本朝の廷臣を以て異
朝の来客に見ん事かつうは国の恥かつうは道の陵遅なりた
とひ重盛命は凶すといふともいかてか国の恥を思ふ心を存せき
らんや此よし申せとこそ宣ひけれ知命の言うの上に出る論な
し夫聖賢も病なき事あたはす常業なれば不レ治若その
非業なるはやむといへとも天命に委任し薬せされとも又自然にし
素問熟論七
て愈るなり此事医家も病人も心得へき事なり此
一日巨陽病衰
頭痛少愈八日陽明病衰身熱少愈傷寒論発於陽者七日愈陰発二於陰者六
日愈又大陽病頭痛至七日已上自愈者以行其経盡故也等此外自愈といふ
文数ヶ條あり非業の外感は薬せすして日数畢れはおのれといゆるをいへる也
又素問ニ邪之賦可待襄必養必和待其来復等漢書有病不治常得中医
本朝医談
易不薬有喜なとの意
むかへて玩味すへし
◯徒然草くすしあつしけ法皇の御前に候て供御の色々の
文字も功能も尋下され本艸に御覧し合せられ侍れ申あや
まり侍らしと申ける時六條故内府ついてに物習ひ侍らんしほと
いふ字はいつれのへんに侍らんととはれけるに土へんと申けれは才のほ
とすてにあらはれたり床しき所なしととよむそれ文字の偏傍
に就て医道の工拙論すへきにあらす且塩の字たにしらぬも
のくすしになして禁中に出入せしめんや善しからば人を択れ
間の罪時の官司にありといふべし文字といひしは漢名の事に
こそあらぬ此話も唐瓶子の事も恐は有住の人勢にまかせて
人を侮りしを兼好ひそかにそしりしならんとにかくにむか
しよりくすしは在上の人に戯弄され倡優と同しくやしなは
るゝはいかなる事そ已に民を治めす其職とするところ卜祝の
間に近けれはなり
○室町物語仁木右京亮ハ公方
海堺へうつらせ給ひしとき
我
淀まて送り奉りてそれより播州にしたしきものゝ有けれは
下りけるこゝに暫くありて醫士を流布しけるほとに田舎なれ
ば大切なるによつてかゝる人こそ所の調法とて方〻より聞傳
てかなたこなたと隙なかりけれさま〳〵の病人をうけとりて
あけくれ療治し侍るほとに爰にて入道して仁木了任と
本朝医談
そ号しけるものゝふの軍にまけてもとゝり切て金仙に仕間は常
の事なり醫士になりたるもそくはく有へけれともしるされし人少し
身のたつきに按摩生の真似をする事今の世多くあり昔とて
も人情異なるへからす
○今人醫家にあつらへて地黄丸の煉薬を製しくれよなといふ
病人より薬剤をさし示さるく事医の本意にあらすといふ
人あれともむかしより此風儀あり職人哥合くすしの詞書に
殿下より続命湯独活散をめされ候間只今あはせ出候と
あるにて知へし
○医師の僧綱になる事は医学に長し脈経に明なる上摩訶
医師
建後職人来る今
ける
なるへかり
ける
夜半のあらしそ
ものくすりとは
むゝ空のかゝれる
本朝医談
}
子春
十四
又四十一
くすし
子春
七十一番職人有
る合
なかりをたち
ものにして
くすりなようき名
恋のやまひそ
あはれさか
殿下より続命湯
一独活散めされ候間
たゝてあはせ
いたし候
止観の病患境は病根を世間出世に論決したる教なれば医
師たるもの叡山にのほりて止観の幽致を知て法脈をゆるされ
たるよりなりと聞り只止觀のみならす道の玄妙は正法眼蔵
にあるなれば其徹底を座主より印可されしなるへし鑑真
失明の後薬物の真偽を喚て別ちたりと正法眼蔵を得にあ
らされば此域にいたるへからす
○手弟四指をくすりかひといふ事は薬師仏の印相よりいひ出
したるなり五蔵次第図には同身寸を薬師指の内のうけにて定
むといへり
○流行病は種々の名をおはする物なり日本紀略天徳三年人
本朝醫談
氏頸腫世号福来病長元二年にも此事ありふくれやまひなる也
百練抄承安三年十月羊病あり治承三年六月銭病あり寛元
二年五月内竹房といふ病あり又康元元年八月五日天皇煩二赤
斑瘡廿五日壬子御沐浴これは初より廿一日にあたれば今のさく
湯にはあるへからす
○醫書の刻本ハ大永八年醫書大全に初る其次ハ難経俗俗解也
古本の序に云越前国一乗谷之艮位有山曰高尾寺有堂容以医王
善逝尊像太守日下氏宗淳公俾一栢老人校正熊宗立所解八十
一難之文字句読而莫力工以置本堂図図枚民之意歟皆天文
五年丙申九月九日釈尊芸とあり今本第一図及二十八難の正
難経擁遺十九難或問越前一柏一
誤等即一栢か校正の伝はりたるなり
曰寅正月也申九月也然則男子
皆生于正月女子皆生于七月歟栢云不然這箇佛祖不識我亦不識儒家所謂
二氣之良能作麼生咎矣南浦文集越之前州一柏に従事せし事見ゆ然は
一栢は越前人なるへし医考
に東関人といふはいふかし
○北陸道管領源義実朝臣神農賛無嘗自知百艸味法植
興醫偉哉聖慈と江源武鑑に見えたり又云天文十八年已酉十二月
廿六日錐知苦院道三来て推脉といふ事を傳ふ軍法に入る事也
いへへゆ曰○○口伝
○永禄以来出来初事の記に云信長公御代丹渓流医師翠竹
院道三此流を伝へてあまねくひろめしなり然は永禄以前には
一渓師初名等皓相国寺僧也読書
斯邦丹渓流の沙汰はなかりしなり
の為に足利学校に来り導道に見
本朝醫談
て醫を学ひ遂に佛を棄て医に歸す豊公の時門人官途にこゝむ者多し
即溶然として退老すゝ豊産物語一渓元日に紹巴法稿の詳へ我年は八十年あまり
り八のとしよねといふ字にかるふ寿書おくられしかは紹巴返しあからしき
年にたねまくたのみこそ百にかそへめ君の行末按是文禄三年の事なるへし
翌年正月四日没後慶長十三年四月四日
正二位法印を贈らるといひ伝ふ
○梅花無盡藏は甲斐人徳本といふ醫か著したるといふはうけかたし
予か蔵する所の本巻尾に天文十九庚戌七月十二日雖知苦斎道三
を初として永禄祇暁天正露白斎等の名あり徳本の名みえす
且授蒙聖功方を以て考るに無盡蔵の書は徳本られを専門に
伝たる也新に著したるにはあらす
○西忍は河内人楠の族なりといふ西忍記西忍流正傳等冩本傳ツク
刊本に藪明集あり但書中の草辭は即土茯苓なるに校正せし
人重て土茯苓を補入する等殊に多事なりといふへし又あま
つらといふ物は延喜式越中因幡より貢する甘葛煎むかし砂糖
のなかりし時甘味の料とせし物なり
◯兵家の説に云軍中にて血とめの薬間に合ぬ時は疵より
出る血を少し呑へし其まゝ血やむものなり又柿のしふを
呑へし手負には具足をぬかせすそりのつかぬやうにすへし
真綿に鍋すみを多く付て疵口をふすふる時は疵愈て翌日
今試に切疵は火にて近くあ
軍場へ出る也馬の手負も如此ふすぶへし
ふれは血止なり全九集獺塩
作レ孔出血者用二通紅皮火一吹去レ灰帯火乳鉢内入塩一捻急研未塞二瘡口中金一全二
以絹帯緊縛不可寛血立止痛定不作膿無水出柱妙
一捻急研末塞瘡口中令満
蝦夷人は箭鏃に毒をつけて射る此毒は蒜をかみて付へし鉄炮
本朝醫談
の疵口も蒜をつくへし
證治要訣中暑香薫湯入鹿則香少許或蒜灌
之大概極臭極香之物皆能通竅此文によれば蔚
をつくるは麝香
矢の根等宍に立たるは梅干をつくへし打身の所腫
におとろへからす
て色つくは豆腐をゆてゝ痛む所を熨べし食物の毒に中り急
に薬なくは鐵炮の火薬を湯にたてゝ呑へし
○雑語本草の名は経国大典に見ゆ何人の著述にて何等の説
や書載セありけん
○方言本艸伊豆縮砂薬性唐に同し蘆蒼代没薬
和名
集同
漏蘆代升麻
和名
集同
元禄の頃けんふる
八角茴香シキミの実也
といふ紅毛人シキミを
見て茴香は此実なりといひしと聞けりされと本書
に見えたれは斯邦に三百年前よりいひ伝ひし説也
使ふ秘事なり又云五味子酒に一夜浸し炒て使ふ松井家の秘
肉従蓉代に鹿角を
下二説和
訣なり三宅土代薬胡蘆芭蕉芭蕉芭蕉芭蕉布五百四十三丁目
名集同
鼈甲を使ふ時只川亀
よし霊熱を能去る鹿角膠代阿膠海桐皮代タラの皮
本書
和名澤蘭代藤コフ零陵香代ニン〳〵キヤウといふ艸本母
に長
集同
五六尺にして菫少し紫色花白して後紫になる釜の先女郎花に似たり香
深き物といふを見れは藤はかまの形状に似たり
荊歴荊芥の生たる葉をもみて其汁を煎たる薬の中に入れよ
和名集同荊瀝は荊木の瀝なり
生葉なき時荊芥の穂を薬種に可入等
と唐土の書にいへと斯邦の古人は
痢改瀝を用たり必由来ある事なるへし荊芥瀝を取法茶碗に命をはりて蓋
とし其紙の上に荊芥の乾きたるを置火を付れは荊芥は灰となり紙は焦れす
して茶碗の内
に瀝たまる也
胡黄連代唐薬味苦し童子に湯にふりてあた
乗寄生代升麻
へよチリケの薬なり胡桐涙代芒硝桑寄生代升麻
神麹疎たる時餐を炒て用秦花秘用方云無時乾葛を用
本朝醫談
アハビの黒き腸を一取りて粉にして石決明の代薬よし
集同
鮑腸を目病に用る事五体身分集に見たり火明は名誉のあにこそあれ秦始か
東海亮し不死の薬は此物なるへきと医心方に見たり
○大和本艸コガン数方を挙て土唐土の人湯を服するに似た
りしかれとも風土によりて好ところ異なり按西忍記赤米葛茂
葉陳皮三色炒て用ふ積のとけ薬といへり是亦コカシの類也
萵苣の生なる葉黒焼にして口中一切咽喉牙齦腫痛を治す按
其味鹹海艸の黒焼と力を同うす款冬根味苦し初生
の小児歩からきさみふり薬にしてのましめ口中の悪物を吐出出せ
しむ按頓医抄に児クサの薬フキの根の汁を用ふ霊室能毒云款
冬花本艸菊花に似たる等の物日本になし昔より黄の花を
用味苦し辛甘といふ説に違へり百艸を取口訣あり牛
膝沢漆蔵菜此三種を取らす妊婦の禁且悪臭ある故也
推古記薬猟是百艸を取給ふなるへし按万葉集手群乃
山爾四月与五月間尓薬猟仕流も亦百艸を一取事なるへし
赤地利茎葉黒焼にして一切の瘡に付て治す按にいしみかは
の黒焼打撲傷損に酒にとくのへ内に服し外にもつく茎葉に
刺ある事本綱に見えす高蓼俗に仙人草といふ其汁
を取て松脂に和し膏薬とし腫毒を去る按に三位法眼是を
山歸来と名つけしは心得かたし或云威霊仙人艸といふへき
を上略して稱す青木香葉山薬に似たり和方の青木
香うれを用へし按證類本艸功効極多薬之要用といひ滌州海州
の図を著したる物なり斯邦には唐土のいにしへふり傳りて是
を使ふなり昆布楊梅瘡の人食すれは面に瘡を
生ぜす按諸海師皆此能あり瘡家必食療に備ふへし
和艸藻塩艸尓詩草是箱根艸なるへし虎の尾は小草なり箱
根艸より細にして柔なり四物湯等分に合産前後に用ゆ験
無奈
屠良乃乎耳古艸を用ひし
あり陰乾にす按大同類聚方吹
加里
方あり牛扁茎葉花共に陰乾末として痢を治す赤痢
尤可なり煎湯丸服皆験あり按医療手引草に痢病は唐人
より日本人は能療治を覚えたりと斯国に多くある病なれは
おのつから斯薬をも用ひ覚えしならんセンフリ花葉極て
苦し虫を殺す倭方胡黄連といふは是を用ふへし按此物を胡
黄連といひしにあらす代薬に使ひしなり中古の医往々虫といふ
事をいふ今も民間に此病は虫の所為といふ詞存せり
蛆草醤がとに少加れば蛆生せす茎の末に三葉あり小木の如し
同同同年二月十一日
葉味洗し按大同類聚方
須波
不支
宇多の味坂華咳甚吐出虫方中
不支、
に宇知久差あり古人殺虫の劑としたるなるへしオトキリ草
葉をもみて瘡にぬり血を止む鷹犬の病を治す綿咽脂は此
花よりとる按巷を胡麻油に浸して一切瘡腫に用る事民間に
も能知れり瘡家の聖薬と見えたりされば昔の連尭は是物
なりといふ説も起れり松蕈土を帯たるを切て乾貯
へし児枕痛に一匁煎服甚効又久痢を止む瀉痢久不レ止痘瘡
不レ出産後血気霊脱するもの乾松蕈を煮て食し煎して
飲む其効あり滋補の性あり按頓医抄水腫の食療に用ふ五
体身分集疱気治方細剉煎服忌厚朴及諸唐物一俗方鯨
のたけりと同しく丸薬にして久斎に用ゆ空木卯の花
古歌によめり青き皮を癬瘡の薬に合す按頓医抄小児赤
草卯木の若枝を搗絞り汁に麝香を少し入て付へし又実を
糯米に和して咳嗽を治する事あり榎葉漆瘡を療
す煎湯を浴し中風痿痺の証を治す按癩痼に榎木のうつ一
ろの水を取て服すへき事業は疥癬の浴薬に入る事実は
産後身腫に酒にて用る事頓醫抄にみえたり俗方複実竹
木刺骨硬を治す婦人陰中くさきにきさみて荒菜とす」
杜鵑黒焼痘瘡色変り及ひ発しかたきに用又膈噎を治ず
按中古の医往々此物を用ふ天正記唐王霜恐は是物ならん
アヲシトヽ臘月取て黒焼とし諸血症によし諸毒虫のさし
たるにつく按大同類聚方には八月捕て焼灰と見ゆけ
大同類聚方
はうたかはし
き書なれとも和名もて記せし薬方の
書なる故にこの書中に引用なり
○奇応丸は永正の頃東大寺の太鼓破れて張かへんとて見れ
ばなりき皮のうらに薬方書付てあり製して用るに奇応あ
本朝医談
なりといふ説も起れり松蕈土を帯たるを切て乾貯
へし児枕痛に一分煎服甚効又久痢を止む瀉痢久不」止痘瘡
不レ出産後血気虚脱するもの乾松蕈を煮て食し煎して
飲む其効あり滋補の性あり按頓医醫抄水腫の食療に用ふ五
体身分集疱気治方細剉煎服忌厚朴及諸唐物一俗方鯨
のたけりと同しく丸薬にして久痢に用ゆ空木卯の花
古歌によめり青き皮を癬瘡の薬に合す按頓医抄に児赤
草卯木の若枝を搗絞り汁に麝香を少し入て付へし又実を
糯米に和して咳嗽を治する事あり榎葉漆瘡を療
す煎湯を浴し中風痿痺の証を治す按癲癇に榎木のうつ
ろの水を取て服すへき事業は疥癬の浴薬に入る事実は
産後身腫に酒にて用る事頓医抄にみえたり俗方腹実竹
木刺骨硬を治す婦人陰中くさきにきさみて竄薬とす
杜鵑黒焼痘瘡色変り及ひ発しかたきに用又膈噎を治す
按中古の醫往々此物を用ふ天正記唐王霜恐は是物ならん
アヲシトヽ臘月取て黒焼とし諸血症によし諸毒虫のさし
たるにつく按大同頼聚方には八月捕て焼灰と見ゆ大同
大同類聚方
はうたかはし
き書なれとも和名もて記せし薬方の
書ゐる故にこの書中に引用なり
○奇応丸は永正の頃東大寺の太鼓破れて張かへんとて見れ
ばなるき皮のうらに薬方書付てあり製して用るに奇応あ
本朝医談
りければ依て名つくと雙桂集に見えたり返魂丹は儒門事
親方妙功十一丸の変方也金屑丸は局方金液丹の変方なり
安神散は導道師の製にて妙香散の変方なり延齢丹は
蘓合香圓の変方なりといふ説非なり蘇合香円本名吃力
伽丸とて木を用ひ安息蘇合犀角等あり元来梵医の鬼
病を治する薬なり延齢丹はそれらの品なく咽喉を利し呼
吸を通するを主とす順気の薬にして導道師一渓翁受
授相伝の方なりと預薬集に見えたり夫咽喉は気の路な
り氣は生の本なり呼吸通順なれば目明にして耳きえ四肢
百骸五臓六腑皆とゝのふ呼吸の本を知るものは道心人心
君火相火を語るへし
本朝医談終
本朝醫談
文政五午年孟春新鐫
楊柳居蔵板
伊勢屋忠右エ門
製本所
3506