吉野山名勝考
- creator
- 貝原益軒
- created_at
- 2026-08-17T19:23:22.807Z
- updated_at
- 2026-08-17T19:23:22.807Z
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- 場所: [京都]
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- CC0
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- 貝原益軒
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- 日本語
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- 茨城信清
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- 10010000028000
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- completed
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- ヨシノヤマメイショウコウ
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- 東北大学
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- ワシュウヨシノヤマショウケイズ
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- 2025-11-13T07:14:40Z
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- 10010000028000
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- 2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
書名
所蔵者
(備考)
資料番号
撮影
撮影年月
畢
株式会社
一番八十九日
10000
田丁
吉野山名勝考
一二十
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
吉野山名勝考
7096
曲
一一一一一一一
一一一一一
同一
甲丁
口口四〇、〇〇
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
万数
甘白書
東八荒
TEE
付ぬ山は六田の方の麓より奥のほまて百余町の間民家
なき所は左右皆並木の桜なり又左右の旁も下の合も
斤め山は六田の方の麓より奥の浮まて百余町の間氏家
なき所は左右皆並木の桜なり又左右の傍も下の合も
左右のかげなる所々の谷々にも皆桜多しまれに杉あり
二三月は花の世界と謂つへし榧は谷底におほくして山には
なし春は麓より先花開初てやうやく山に咲のほりて奥
の院にておはる麓の花盛過て中の花盛になる中のむ
盛過て上の花盛に開く其間大やう三十日はかりあり又
晩桜は麓にも所々に在て春の季興の院の花盛の比
さかりに開く有初桜は高き所に有も早く咲なり凡此
山の桜は皆一重なり八重桜は山中及民家僧坊に一
株もなし寒風はけしき年或風雨久しく続けは花の
容色あしゝ故に年によりて好否あり山僧の曰此四十年
以前は今よりも此山に桜多し今は昔より少し
山僧又曰凡此山の花上中下一時に不開といへとも大やう
立春より六十五日にあたる比を盛の最中にす又里人
数人に問にも皆かくのことくいへり但年の寒温によりて
生速あり是町より前の桜多き所のさかりにあたる吉
野の町より少前東の方に山のさし出たる所有さくらの
さかり此あたりより左の谷の内まへよりむかひ左より右
およそ方二十町はかりたゝ一目に見えて皆花の林なりお
もゝろき事たとへていはむかたなし雪のあけほのはたゞ
としろにてわいためなし此所花のとこら〳〵にさきほころひ
たるよそほひうき世の外の物にやとこやしまるおこそ
は雲すきに見えたるはあやなし山のかたほとり又谷底
にありてむかひにすき間なき所にあるを見たるがよ
きなり此所の花は四邊の山のかたはら谷のそこに有を
たかき所よりのそみ見てたとへは大なる盆なとの内を
見るやうにそ侍るかうやうのめてたき見ものはやまとに
はいふにおよはすおそらくは見ぬもろこしにもあらしと
そ思ふ其外のあたし国はさらなり子守より上の花は
おそし此山にてさくらを切事を甚禁す桜木を薪
○夏は焦え落ちしらすからす
はいふにおよはすおそらくは見ぬもろこしにもあらしと
そ思ふ其外のあたし国はさらなり子守より上の花は
おそし此山にてさくらを切事を甚禁す桜木を薪
にせす故に樵夫桜を売らす若薪の内にさくらあれは
里人是をゑらひ。すつ是里人の偏に桜を愛するにも
あらす蔵王権現の神木にて惜みたまふといひつたへて
神の祟をおそるゝゆへなり
詞林采葉抄曰吉野の宮何の時初て建られたりと云
ことをしらす神武天皇日向の国より御船にて難波に
つき河内を過て生駒山を越給ひしに長髄彦防き奉
りしかは葛城をこえて吉野に入ますと云々篤信楽
に日本紀応神帝十九年吉野宮に行幸あり天武帝
も吉野へ入らせ給ふ持統天皇は毎年吉野へ幸し給ふ
事幾度といふことをしらす文武帝も臨幸あり又詞
林采葉抄に曰元正天皇養老七年五月吉野の雑宮
に幸し給ひし時笠の朝臣金村歌に曰神代より吉野の
宮のありかよひたかくしれるは山川そよめ。此哥。遠野ひ宮
神世よりありしと見えたりいぶかし但神武帝畝傍の模様
の宮におはしましゝ時此所に離宮を構へて臨幸ありける
により神世とは神武の御時をさしていへるか聖武天皇
も神亀元年三月吉野に幸し給ふ事日本紀に見えたり
金峯山の事は義楚六帖第二十一巻にも見えたりしかれは
もろこしまても聞えたる處なり
正徳癸巳年
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
二十一丁
二十五
高取の城
土佐
車坂
芦原
下渕
紀州和
下市
土田町
桧垣本
十一冊
流出る
河知賀村
瀬上
吉野川
野々熊
六田宿
巨
□□□□□□□□
上市
子守が渕
丈六一ノ蔵王
薬師
一獲去
□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
丹治村
飯貝山
飯貝の渡に
小路村
千本様
□□□□□□□□□□□□□
四手かけ明神
御船山
名所
立石村
七曲
亀甲
大橋
兄山
妹兄山
名所也
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
追分
妹山
西谷村
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
笈立松
追分
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
地蔵
問屋
奥院内
東ノ鎮守
金鳥居
□□
西鎮守
吉南院大正二
二王門北向
□□□□□□□□
蔵
□□□□□□□□
妹山
□□□□□□□□
〽南猶居
北松居一
食堂
南向
蔵王
□□□□
後醍醐
望居
みそ
宝城寺
菩提院内
威徳天神
大塔
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□
4111
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□
□□□□□□□□
松本院内
恵美洞大黒美伯耆守
千余地蔵
□□□□□□□□
月廿一日
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
稲荷
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□
伊達天山
足
二十一日
朝原天神
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
聖天山
大称堂
む
□□□□□□□
新防谷
此土手に後醍醐帝
始テ入御の所
吉水院
源義経も
此寺
同井谷
五台寺院
当山先達
桜本坊
□□□□□□□
□□□□□□□□
□□□□□□□□
灯燈辻
通し
弁才天山
名主主
御願山
□
佐抛宮
今日
食き
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
勝手大明神
峯八王子金剛蔵工
袖振山
□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
十一
平平
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
御南子
岩井谷
宮坂町
山石井谷
観音堂
二十一
塔瓦山如意輪寺
女両面
陵
市市町
岩井谷
岩井谷
金剛童子
本山先達
喜蔵院
■
やす
竹林院
御園村
天皇橋
天皇橋より安禅寺迄之図
中院谷
花矢倉
大林丸大皇
表し殿
白山権現
辰尾堂
ばくの観音
青龍堂見
大将軍
住吉
中院谷
西谷村
住吉
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
花矢倉
一
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□
鷲尾山世尊寺院
}
御子尾坂
………………………………………………………………………………………………………
子安塔
□□□□□□□
瀧桜
高滝
八王子
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□
象谷村
合キサハ谷二一
名所也
貴佐天神
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
子守之町
之内二丁
宮瀧村
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
大学門
宮瀧
□□□□□□
□□□□□□
サノ
小川
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
子守大明神
雲井桜高き所
六十
かしお村
川
から
高算堂
□□□□□□□
桜谷
菜摘村
鳥栖村
聖宝堂
牛頭官
□□□
□□□□□□□□
………………………………………………………………………………
仏山峰
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
国布
百螺嶽
関伽井
大塔の宮城跡
舎利堂
□□□□□□□
龍かは合
西川
西川か滝
高き瀧
あらず只
急流の
瀬也
王祖
舎利堂
ラン
高き滝
あらず
急流の
瀬也
大社
……………………………………………………………………………………………………
だ。
山王七社
こと
……………………………………………………………………………………………………………………
八日
□□□□□□
二の鳥井
金銭大明神
天の川伏拝
青根山
山上伏拝
蹴抜塔
多宝塔
すす
熊野
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
八幡
安禅寺本堂
……………
奥院
弁天
荒神
□□□□□□□□
□□□□
□□□□□□□□
大峯道
西行庵二
御水
清明瀧高さ十二間余有
此瀧の下の辺を蜻蛉の森去
琵琶山
十一日
吉野山名勝考
六田名所なり吉野のふもとに有町なりむつだともむだ共云
又柳の宿ともいふ吉野川の南に在川むかひなり少川上に六田
の淀とて名所あり吉野川の源はおばか峯より出る上市より八
里上るなり大台か原と云或云大台か原に巴か渕とてふかき水
あり吉野川熊野川伊勢の宮川此三大河の水上有と云但是
は虚説なりといへり但おはか峯には巴かふちとてふかき水有と云
(
レビセン
一里上るなり大台か原と云或云大台か原に巴か渕とてふかぎ水
あり吉野川熊野川伊勢の宮川此三大河の水上有と云但是
は虚説なりといへり但おはか峯には巴かふちとてふかき水有と云
よしの川その水上を尋れはむぐらのしづく萩の下露とよめる哥
のことく源は一所にはあるへからすとそおもふ但西風には東へ水多
く流れて宮川の水かさまさる東風ふけは吉野川の水まさる
北風には熊野川に水おほきとかや故に東風烈しけれは雨ふら
ずしても吉野河の水きさると云上市より河上は夏箕宮瀧
一国栖西河なり上市より下は河のわたり広し上市より上は両山
の間を流れて河のわたりせはし両山おくの方甚高し山間に渕
多し此河の末は紀の川也紀州和哥の浦へ出る紀伊の湊と云六
田を過てやがて吉野山の坂に上るを一の坂と云一の坂を上り
ゆけは山口に一護法の明神在左四五町に水分山有一の坂より吉
野の町まて五十町の間左右は皆益木の桜なり又両方の山に
も谷にも桜多し坂口より奥の院迄は百町あり子守明神の前
の坂の下までは山高からす長く出たる山の尾の上の背を通る
六田ば其尾崎なり故に吉野山に上るには六田より入か本道
なり吉野へ行人は必先此道より入べし飯貝の方よりも吉
野町へ上るそれはわき道なり本道にもわき道にも童ども桜
の木高二尺ばかりなるをおぼくうる唐鉾をもちて積る往来
の人これをかひてうへさせて通る
吉野町町の入口より子守明神の坂の下まて左右民家つゝきて
千餘軒有町の入口の少前その山の傍にある桜を日本か花と云此
一所桜花おほし日本か花の南より銅の鳥居まてを関屋の花と云
鳥居より東に御船山あり名所也鳥居の高二丈五尺柱のめくり一
丈一尺と云鳥居より少西に藤井坂有義経の妾静を吉野法師
一等生捕し所なりと云凡此地は金峰山の尾の長く出たる高岡
の背の上に民家あり故に左右共にかけ造りにて三階の屋なり
一但上の第三級の客舎は道なみにて常の平屋のことし三階の
一閣とは見えず其次の第二級は主の居宝なりかまとあり上の
座敷より主の居る所に下る其口は穴に入かことく柿より下るこ
れは二階なり其下に又柿より下れは土座の屋有是は雑物薪
等をつみをく所なり浴所厠もこゝに有客舎は左右みな谷上に
望めり東方の客舎は景好所おほし此町にてうる土産多し
国栖とてあつき紙有
葛榧烟草紙
又杉原有薄紙あり
〃〃〃〃〃〃〃
漆茶塗物
椀折敷まけ物
小樽等色〳〵有
等をつみをく所なり浴所厠もこゝに有客舎は左右みな谷上に
望めり東方の客舎は景好所おほし此町にてうる土産多し
国栖とてあつき紙有
葛榧烟草紙
又杉原有薄紙あり
漆茶塗物
今又杉原有薄紙あり
椀折敷まけ物
小樽等色〳〵有
頭巾法螺の貝柿山折数松蕈香蕈花籠
鳥む花扇等多し
造花
皆小児の戯の弄物也
塩
一蔵王堂は高き所にあり後の三門北に向ひ堂は南にむかへり大
一殿なり前に四本桜あり此堂は町の半より前に有
實城寺蔵王堂の乾の方三町ほとに有寺産三百石つけり里
民は御屋敷と云後醍醐後村後亀山三帝五十六年住給ふ白王居の地
是なり其時の皇居の殿をそのまゝ模して作り改めし家と云
一家作り甚美好なり華飾なし真に皇居と云つへし常の御座
有遠山見えて景よし都たにさひしたいしをよはれ将吉野の
おくの五月雨の空後醍醐帝の詠し給ひしも此所にてなるべし彼
一帝御遊の時の大皷笛笙今に此寺にあり
吉水院蔵王堂の少先の町より左に二町はかり下る寺なり
一古寺なり文治元年源義経大物の浦より風波の難をのがれ此
山にのほり夜に入ひそかに此寺に入る吉野法師等義経を
討んとせしゆへ此寺を出中院谷にかくれしに僧徒跡を求め来
りけれは佐藤忠信を残して防矢を射させ静を捨置て
多武峯を経て南院の内藤室の十字坊へ入られしと也又後
醍醐帝京都を逃れさせ給ひ此寺に滞幸ありし時先此院
へ行幸ありて行宮とし後に実城寺に移り給ふ此院の床
を御枕として読給ひし御歌に花にねてよしや吉野のよし
水の枕の下に石はし持音近世豊臣太閤も吉野の花見の
〽時此寺に留り給ふ。要害よき地なり義経のとゝまり居られ
しも後醍醐天皇のしばし皇居としたまふも即今の家に
ていまた作りかへすと云甚ふるき家にて屋作りひきし
稲荷明神朝の原東に去哥によめるは片岡の朝の京也
桜本坊五台寺と号す白鳳年中天武天皇の勅願所なり其後
寛平七年顕醐聖宝勅を承り此寺に来り院主仁勢を先導とし
大峯の大蛇を退治すこの故に当山山伏の先達大峯修行の寺也
勝手明神右にあり大宮若宮二社なり北向也此神前にて
一静法楽の舞を舞し装束并に義経の鎧宝蔵にありしか
正保の比火災にやけ失ぬ
御影山勝手の右にあり
白衣を三つける一戸分は宝のの文の玉道を
スターシントング
一静法楽の舞を舞し装束并に義経の鎧宝蔵にありしか
正保の比火災にやけ失ぬ
御影山勝手の右にあり
袖振山名所なり古歌有勝手明神の上道の側に在むかし
一天武天皇此所にて琴を拝し給ひし時天女下り羽衣の袖を楽
一度ひるかへし舞うたひし故袖振山と云由伝へたり人丸定家
嘉隆京極良経神振山の哥有又大伴王の従駕に吉野ノ宮一。詩有
夢違観音貌の観音とも云道の右に有此先の東の谷に瀧
桜雲井桜あり雲井桜は高峰にみゆ瀧桜は谷間にみゆ是
子守の社の下の谷なり
禅定寺禅宗にて今黄檗派の寺なり
大将軍ノ社本道筋也其上に辻堂あり其西を中院谷と云
花矢倉辻堂の少上なり忠信か防矢射たる所なり横川の
一禅師覚範か討れし所は此右の谷なりとる人のなり
浪の尾花矢倉の上なり民家あり道の左右は布引の
さくらといふ桜の並木つらなりて長き事布を引たる如し
世尊寺此所に大なもは鐘有元亨釈書に日本木像のはじめな
るよし見えたり
子守明神西向に立てり社殿甚美麗なり御子守の神と古
哥によみしは此神なるへし秀頼公再興せり小峯の上に有
是より上には町屋なし平地をゆく也此社を少過行て牛頭
天王の叢祠あり西の方に大杉殿とて大なる杉あり魔所
と云此谷を桜谷と云右にあり
高城山万葉集に詠す俗に城山と云此辺つゝじが岡あり
太平記に書し大塔の宮のこもり給ふ城あとなり或曰大塔の
宮の城は青峰か嶽なり敵は上の宮滝の谷より寄たりとい
一へり宮瀧は此下に在其末は即夏箕川なり忠信か偽て自
殺したるまねしたる所も此地なり
けるかの谷つゝじか岡のもなる道の左の谷なり如意輪寺の
谷とは山の尾を隔て南に在遠くみゆる谷なるゆへに名つけ
たるかさくら多し
岩倉谷はるかの谷の西なりはるかの谷と左右に対せりはる
かの谷は左にあり此谷は路より右にあり桜多し
一金精大明神是吉野山の鎮守也此所より奥院まて下乗なり
蹴ぬけの塔金性大明神の左の奥少坂を下りて行此あたり
一を隠家と云此塔は飛騨の匠か立しと云古塔なり義経此塔の
URLFACA
金精大明神是吉野山の鎮守也此所より奥院まて下乗なり
蹴ぬけの塔金性大明神の左の奥少坂を下りて行此あたり
一を隠家と云此塔は飛騨の匠か立しと云古塔なり義経此塔の
一内に隠れ居て逃て下の谷へ入即上の宮瀧なりそれより西河
へ落行と云俗に義経のけぬけのけぬけし塔といふ
青根嶽けぬけの塔の南の上なる高山なり名所也古歌おほし
此下に龍か谷とて有一我経馬を捨られし所と云此東の谷に
義経の落行し時竹をたはめて向へわたられし所あり
奥院の茶屋坂を上りつくして上に在
安禅寺飯高山と云伽藍なり右に多寶の塔有本堂は蔵
王なり役行者自作と云僧寺を又宝塔院と云
四方正面堂おくのゐん是なり安禅寺より三町はかりおくにあり
秘仏の堂なり観音不動愛染地蔵其わきに蔵王堂ありおく
のゐんの山は高き所なれとも吉野山の絶頂にはあらず絶頂は山上
とて猶五里あり
西行か庵室四方正面堂より西北にあたる堂の後より路あり山の
一岨を二町ほど行て下る其間に小川あり小瀧あり苔の清水と
一いふ庵室に西行か絵像有西行此所にての詠哥おほし此所に
三年住けるとなん人遠く閉寂なる所なり
青折が嶽安禅寺の前の茶屋より色にゆけは大峯へ入細道有
其先に青折かたけあり此所に道左右二筋に分る左は西河へゆく
右は大峯へ入道なり是より山上まて五里餘山上より一里奥小篠
にて山伏護摩を修する毎年六月朔日より同七日まて諸人潔
一一砂して上る毎年七八月に本山当山の山伏の先達入峯す峯
入の道に三百八十餘のいはや有と云蟷螂が台聖天の窟南の窟
不動の窟気の窟なと尤大なり蟷螂か窟ふかき事二町余穴
一の広四尺はかり高さは所によりて高下ありおくに池有菊の窟
は其岩悉菊花の紋をなせりとそ其外山伏の秘所なれは
見る事なし○是より奥の院より瀧へ行道をしるす
虹河瀧青折か嵩より一里有此瀧は岩間より漲落る瀧
一なり十二間許もあらんか甚見事なる滝なり瀧の上岩の間
に渕あり此下の辺蜻蛉の小野とて名所なり瀧の上なる山を
一琵琶山と云此滝の末を音無川と云名所のおとなし川には
あらす
大瀧是吉野川の上なりすなはち村の名をも大滝
大瀧
}
一〇〇
一琵琶山と云此瀧の末を音無川と云名所のおとなし川には
あらす
大瀧是吉野川の上なりすなはち村の名をも大滝
と云清明る瀧より五町はかり有此瀧は只急流にて大水岩
一間を漲落る也よのつねの瀧のことく高き所より流落にはあら
一す岩間の漲きり沸事甚見事なり近く寄てみるへし遠く
見ては賞するにたへす是より山を越て北に行は又村有是又
西河と云此海を音無河と云清明か瀧の流なり此河は上半月
は下流に水なし下半月は上流に水なし是奇異の事なり
一訛言にあらす西河の奥に所々村里あり義経西河へ落行し時
一宿のあるじに給し太刀今に有青江国次二尺六寸あり
国栖大滝より一里此里は宮崎と成河との間にあり七村有
と云応神天皇十九年吉野の宮に御幸し給ひし時国栖人
一来り醴酒を献し哥をうたひし事日本紀に見えたり公事根
源に云国栖の奏とて哥をうたひ笛を吹ならすは吉野より
年始に参たりと云意なりまた清見原天皇此所に入せたまふ
天皇の御哥有此里に人家多し此辺紙をおほく漉所なり
国栖紙と云厚き紙あり此下に樫の尾樋口と云所有
夏箕河むかへにある村なり西河より夏箕へ出るに佛か峯とて
一里の坂有て上下す其峯の北の方左に蝉が瀧とて段々に落る
一瀧あり上の瀧蝉の形に似たり少下に樫尾の茶屋有それより
三町はかりゆけは夏箕なり夏箕川は名所なり吉野川の
上なり万葉にこなばりの夏箕の上に時雨ふるらしとよめり
一家持の哥にも吉魚張の夏箕の山とよめりしかれは夏箕の上
の山を吉魚張といふなるへし
宮瀧村は川むかひに有夏箕より三町ほとゆけは宮瀧
あり西河より此地まて一里余あり山谷めくれり宮瀧は
滝にあらす両方に大岩あり其間を吉野川なかるゝなり両
岸は大なる岩なり岩の高さ五間計屏風を立たるかことし
両岸の間川の広さ三間許せはき所に橋あり大河爰に
ひてせはきゆへ河水甚ふるし其景甚妙なる所也宮滝
は後撰集山家集新選六帖等に歌あり名所也紀の男人
藤原の万里か詩あり里人岩飛とて岸の上より水底へ飛
入て川下におよぎ出て人にみせ銭をとる也飛ときは両手
を身にそへ両足をあはせて飛入家中に一丈はかり入て
〆五十八両〆五〆
藤原の万里か詩あり里人岩飛とて岩の上より水底へ飛
入て川下におよぎ出て人にみせ銭をとる也飛ときは両手
を身にそへ両足をあはせて飛入家中に一丈はかり入て
行て山を上れは桜多し是より如意輪寺へ行道なり
如意輪寺勝手の社より八町はかり東に有谷のむかひ也
一今は浄土宗なり山寺也後醍醐帝を葬りし御寺也御読
一は後の山にあり寺より近し大なる陸なり寺に後醍醐帝の
一自きざみ給ふ御自身の木像有衣冠し給ふ其御厨子の扉
一の内に吉野より熊野まての画図有巨勢の金岡か書し
といふ其上に後醍醐帝の宸翰にて御讃の詩四首あり何も
一七言四句也平仄律にかなひ韻をふめり真書也又御手馴し硯筥有
吉野町より西河宮瀧桜木宮なと遊観して往来六里あり
一路険なる故に早朝に出て申の時かへる此間の景他山に
すくれて美なる事言語を絶す山高く峯そひへて川
流へさきよく林木うるはしく諸山悉く甚高峻なり山中
両手をはれは浮み出るといふ又是より東に清き河原又
日くらし野と云名所あり又大河の辺形の北野なといへ
る名所ありといへとも其所詳ならす何も古哥あり宮
瀧の下に御園村あり川よりこなたなりいもせ山に近し
其下は上市也故に此地よりすくに龍門の茶屋上市へも出る
桜木の宮宮瀧より五町はかり芳野へ帰る道側なり左
の方に橋をこへてゆけは小山有林あり其内に小社有是桜
木のみやなり其前に流るゝ水を象の小川と云名所なり
一古歌おほし橋を外象の橋といふそれより先に象谷と
といふ村あり桜木の宮より十町はかりゆけは坂有高瀧
一とて滝有其上事山を象山と云名所なり万葉にも夫
木にも象の中山をよめりけしやうの窟と云所あり其先に
谷底に榧の木多き事幾千万株といふ事をしらす
椿山寺竹林院は昔日号日蔵院依後小松院之勅改竹林
院日蔵居住の寺なり千今影堂あり又弓一流の鼻祖
たるによつて世に竹林派といふ此流の士は京江戸三十三
間堂矢数成就の砌其弓を此寺に納無具なる儀は元亨
釈書并旧記に見えたり
吉野より天の川へ四里泥川へ四里小篠へ七里大峯へ六里
京へ二十二里大坂へ十六里奈良へ十一里多武峯へ四里紀州
和歌山へ十七里高野山へ十一里伊勢山田へ廿五里有といへり
吉野より天の川べ四里泥川へ四里小籬へ七里大宮へ六里
京へ二十二里大坂へ十六里奈良へ十一里多弐峯へ四里紀州
一和歌山へ十七里高野山へ十一里伊勢山田へ廿五里有といへり
吉野名勝考終
一右吉野山図一巻者益軒貝原先生所著也先生嘗
巡遊彼地数回手自猫其所見而令画工模写之蔵
筐笥久矣不依屡乞得之今又浄写之以鏤梓
一又有一図所蔵名山之秘府而凡彼地之勝景限以
可図者随片石寸卉悉挙不漏可謂尽美矣不供亦
頻乞得之遂合先生之図以公于世人々帯一本公
彼地之佳境居然可知焉
一棟先生所作之大和巡覧記中所聞彼地之詞置図
之前後以代序跋也先生今歳八十有四数ニ而未
一倦所謂得其寿者也其書之丁寧淳洋宜哉
正徳三癸巳歳五月良辰
平安城書鋪柳枝軒茨城信清謹誌