土と兵隊

作詞・作曲・編曲・実演家
火野 葦平[作詞], 火野 葦平
製作者(レーベル)
ビクター
歴史的音源ジャンル
文学作品の朗読、解説
出版年月日
1940-03
カテゴリ(AI 付与)
兵役
キーワード(AI 付与)
手紙, 兵士, 船上, 合唱, 故郷
注記
商品番号 : J-54730, デジタル変換後ノイズ除去 : ノイズ除去なし, 物語
弟へ、11月2日〇〇〇にて。 我々の兵役は何処へとも知れず、波を蹴って進んでいる。 この時になってさえも、我々は我々の運命の方向を知らない。 甲板に出てみると、周囲は深々とした夜の海である。 波の音が耳の両側に分かれて去る。 暗いので、我々の前後に進行しているはずの船の姿も見えない。 十日歓声をして何の明かりも見えない。 我々の船だけが一隻、不気味な夜の中を黙々として進んでいる。 兵隊は船の上のあちらこちらに出ているが、 いつものように大きな声で談笑もしない。 何かつぶやくように、低声でささきあう声がしている。 煙草の赤い火が蛍のようにほうぼうでちらほらする。 我々のお互いの胸に、いよいよ何かが近づきつつあることが感じられ、 この進行を開始した数時間、我々兵隊の得意の行絶を封じた。 不思議な静けさである。 しかしながら、これは誠に通俗小説のごとき感傷の瞬間であるとすれば、 この得体の知れない深夜の空気の中では、 誰かが低声で悲しげに歌を歌い、 同じ思いの人々がそれにわすべきではないか。 どうだ、兄さんは通俗小説の作者のように頭がよい。 おあずらい向きになってきた。 へさぎの甲板の付近から誰かが、 ここは御国を何百里と歌いだした。 すると、船の上に出ている兵隊はみんなこれにわしはじめ、 次第に声が高くなった。 作者が合唱に加担することは面白くないけれども、 私もむろんこれにわした。 さて、それでは胸せまり熱い涙が棒だとして頬を下るのでなければ小説にならぬ。 そこで兄さんはざめざめと泣いた。 みんなどうしているであろうか。 今夜ほど故郷のことが考えられることはない。 いま狭苦しい兵舎に帰ってきて、 ペンをとっているあいだも、 甲板の上では専用の歌から、 天に代わりて不義を打つとなり、 奴隷の歌となり、 ポーランド海戸となり、 橘中佐となり、 兵隊たちの合唱はいつ尽きるとも知れぬようである。 しかし私は、そのわろうべき感傷のさなかから、 何かしら盛り上がるようにみなぎっている勇気のごとき者が、 ふつふつとあふれあがってきつづあることを感じるのだ。 突然切って落としたごとく甲板の合唱がやんだ。 どうしたのか何も聞こえない。 いやに静かになった。 くとりと音もしない。 船のエンジンの音が体に響いてくる。 正確に回転するピストンの音のみが続いて聞こえるばかりである。