蚕糸業Ⅰ
- AI要約 (β)
- 昭和5年、長野県は全国一位のキート生産量を誇り、工場の数も全国で群を抜いていました。長野県は豊富な水や木材、乾燥した気候、地元金融機関の支援、優れた指導者などの条件に恵まれ、製糸業が発展しました。製糸の工程は、眉の選別から始まり、煮て糸を引き出し、木糸として巻き取るまでの過程があります。江戸時代末期からは座繰りという機械が使われ、明治初年には海外の技術が導入されました。岡屋の製糸工場は独自の技術を開発し、全国に普及しました。大正時代には製糸業が繁栄し、昭和30年には自動装飾が考案されました。製糸業の発展には、優れた指導者の存在が大きく、現代でも新製品の開発や新分野への進出が続いています。
昭和5年のキートの生産量は全国一位。工場の数の多さでも全国で群を抜いていることが分かります。
戦死に必要な技術者や経営者により、明治大正昭和と日本有数の三四王国と称された長野県。
昭和5年のキートの生産量は全国一位。工場の数の多さでも全国で群を抜いていることが分かります。
戦死に必要な豊富な水や燃料となる木材、乾燥した気候、また地元金融機関のバックアップや優れた指導者が得たことなど、多くの条件に恵まれていた長野県。
そして何より、この地で生き抜くため先人たちの惜しみない努力により生まれ、発展したのが長野県の製糸業です。
まずは汚れた眉や穴の開いた眉、2匹のさなぎがいる玉眉などを取り除きます。
続いて眉を煮て糸を引き出しやすくします。
眉の表面を稲の穂先でこすって糸口を見出します。
そして眉糸を数本集めて1本の木糸として巻き取ります。
扱いやすくするよう、それを大枠に巻き返します。
枠から外された木糸をカセといい、これを束ねてカツとして出荷します。
室町から江戸時代にかけては手引きという方法で、
胴繰りや牛首という道具が使われました。
江戸時代末期からは座繰りと呼ばれる簡単な機械が使われるようになります。
明治初年には海外の優れた機械や技術が輸入されますが、
岡屋の製糸工場はこの2つの長所を生かした巣瓦式装飾を考え、
これが全国へ普及します。その後多乗装飾としてさらに改良されます。
大正時代になると製糸業は繁栄を極めます。
眉剪定制度が導入され、県内には眉剪定所が全国で最も多い4カ所に設けられました。
昭和30年には自動装飾が考案されます。
こうした製糸業の繁栄発展の裏には、
岡屋の片倉陰太郎や優秀な産種の普及や製糸機械の導入に功績のあった二枚御助ら、
優れた指導者の存在を忘れることはできません。
民間主導で新たな発想で発展してきた製糸の技術を
現代に受け継がれ、新製品の開発、新分野への進出など地域の挑戦は続いています。
ご視聴ありがとうございました。