楠正成家傳之軍法

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不明
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2026-08-17T19:23:18.241Z
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日本語
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[出版者不明]
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クスノキマサシゲカデンノグンポウ
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東北大学
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2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
書名 楠 刊 所蔵者 管理番号 資料番 撮影 撮影年月 法冊 年館 置申 楠正成家伝之軍法 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ うたせ 楠正成家伝軍法 特別 767 図別 宇7 4767. 特別 矢火 り曲し! 十四 阪米米姫氏ノ寄附長ヲ 以テ購入セル 独判事吉氏藩蔵書 楠正成家伝之軍法 物段 さても其後爰に本朝九十五丑とだだ〽こていと聞ゑさせ給ひしんぎのせんぜんぜんぜんぜんせ いをしたらせ給ふけん王也然るす此君たんある元名年有にたがみ入道十るいを御ついでつましくて天 下したびくげのけてにとゝしめ給ふ所にあしかだ草氏又又とうてきとなつて都へせあへたのけれとにつ 左左兵衛のすけよしさだくその木はんす。とんせんばかりを一つにてよくとくなひなひなびけたか氏 は命どけりをたすがのほう〳〵つへ〽にげ断を丸しうぜいにして九国二道をしたかへ又都へせると ぼやよしゑいふんにいつし音さだよしすけ兄弟をよつてにつかいされけつ一せんにりなくしてせつしら 兵庫にむしのぞしゆ上又くすの木刻火をかせいは給つけられしにたかいそめぐらし正しげ すでに打じかい吉さだもわづる六十よきに打なされ又打しには聞へしかは能にはしうせ手なが はだかぎりないかゝりにのさだ見身入らへ有てたんだい申されたりけれはしゆ上ゑいがしましくよし さだをぎよれやらさめしよせられ軍の次第を御尋有ければ定年のかせんのしゆてはいし いかんのなす所にてたふらへは此度正上げをかさせ候事かへす〳〵とそろんほへなふこそ候へもならず ながし申さる又かど思ふん有てかたしけなへも両がんに御なみたせきあさせ給はす今過よしよし是 〽正しげをいてちんがす者のてにとひしに正しげはかされつ此かへは汝ならてこんにて朝てきことを打ほし させん家いきごほりをはゞしぬへきものなしすまへのちをまつたふしてくんちさせばいむへしと 四日 かんぢき近楠木軍法語也 LLEL ………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… …………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………… ● ふなた楠木くんほうときゝ 同已上山崩入新田けん弟御供 〇〇 うたせて よし定みそあまりかたしけなきになみ。さんてあせしがや有て目をほさへ此右まへびこ 十一 下山門へわよぎよをよつされ反んの者はんの者もいやすさつせんいたたんそうそうしそうさん もともしさだはらふべとの御手にてせつろのしんしんと申に家す余も堀たん上へ諸心のこでいつ方よ きほうまんを打かしでふ門たしてぞわんかうでみさてもももんあんおふさまんはなく川のかつてんにもつ ていきほ心給へにいさいそなじけんむみ参し八月ももんともなし也ぢほといへはいゑなきをあはさせ給へは 尊氏いよへ悦び東寺のほんだうを其ごすよを定りむねその一そろしあつる山門ごとの評定す其の もろなふ申なさんめる春又かたはぬいだせしもつの国王はの両山にてやしやこてはかゆへ身たを かてをつきせしはくすの木がなすくつて火すやされは正しけ打花たし金み打ぬがくつめこそのにくけ れやそんの歌きて飛行まづくすの木がごぞてのその始ちかきりやせ給成遣候とせ給ひて給べし とぞそめ尊氏共にも思ひ所々へうつてをむかはすにあまが崎の大ろに候やその別当がかたへはほそ いやければ大将とし五千よきにてさしつりは又はたの城にはほぢんそのゑ善六百余ききてこそのければ 是へはあか松兄弟并に松浦しんぐらき八よきぞむけさしそはなんぢへぞむけらはけるへと長てねのなん〳〵 用いを〽したりけいし程にふ門には新田よし堂御前に舟まとは門守をこれば正しけがなんぜしみ なよ川のくへびのこゝないまたいへずくけれの軍に有さしきおなゝめへてこそ有へけれはやとの成す有 けんしたしの上吉吉右衛門いとしげが身にうつたりよなないなんきそきに行なへばす右のあらましを 旅向しよ有けれはね正表てねの様まへも見え足み付おいくの城にぞいそきけめやはたになれはあんない せがせ給ひしに事なし御なしなきは尤なしなからか様の事しゆをいとけ物とそしらせ給ひ候は 御になみのうすきゆへとなりたれはこそほそ川ぐぐぐぐぐぐぐぐがへしてなをされしいくさだて水 らんとはひとへに足の身に見へたほともみなへ申給へ方の物さらは惣大将のひさせ給せけんと見へやそこそ 人成病れははいせぬ事は有ましきにさすが正しけれはこそ七所余左のせんそいたゞよしかゑやきその神仁 木ほそ川かう上杉とたらい十六度迄なびかせ一枚やすくそ此度はにつたれ一代の御ふく正しげ都 を出時家々に申せ候ひさき山のしやさくはちぼうゆふきいへさぎて物世ならふもなられ共今の身は によしきにまよひてあたねへ也上将かへのことはなれは軍いひろがやよりなくしくしくもやしけ雲八せんとなな 仰迄の事共其両門丸にかつしに申と飛及といたりもあやすなんぢよろひの袖をぞしぼつけめつね正 もりをふへ又肉をながせしが誠にいてえもとのぎつとしていぎなし今もの口はきんをこそくはうせ きから共おしび共たのみ申候いんといけまどいして出けれはなんぢもつゞいて有哉あつ時にて候へはたがいの いのの定めなし若もなで食いた又こそ御めにかためにかくしてぞくぞくけるかのみつかつかつり有なき せん上下をしなへてかんせぬ年のこそなかりけり ろたんめ 一其後ふなた長門寺つね正門に委くり左や将の御留きて右の次第を申せ候よしみ誠にせんびと ゆるはちしておんぢをかし給ひけりそれはぐへもよをさいなにもきよをしゆごし申さほふのうのういたてその をけれ是は扨甚ある松是弟松田くやぐうのへていざやなんぢをせめんとてには六月二日の日やはくのし たせ過せ時の夜をそで〽みにける城の内にはねて。ざる事なれはなななず時とぞ合けるかそ両 寺くれ火はなをちらしてたみ入水のされ共城に身にあふたるなへぢさみんやぐらの上にてざのふいたて かけ行の下知すれ又ものせは音しさいなく敵かたるたきよなればいへちん一度にくづれむしくはつとに げちいたの松田上ぐう花をみて立りいりせめ入せ給へちは是を小せが達て思ふ程によせかけさせ大一 万よきが一目にごよりんになつてかけ入は松田とんぐりそくずして毛迄はいくんしたのけの城中の言は一町 計ないしたいうしほつどへにさつき行紙の内にぞこそのけのかへて赤根まつざめんじう言かはり入かは五十一 日過せめけれ共よせてかたるし斗にて城中つかなかりしかはへて人々大さにあじんでこの所にもつまのは一 かせんと評意す中にそそへゆふ申れ今迄させつ事になへ身前そへばへしたるにわぜいの程をあ などられしゆへぞがしなんぢがそそりたる儀なれはひろそにてはなつがらすそのうへ入城中にいかなり 事をり立をきなんそうつにてはなふまんしとくに城を取まき敵にかてをつくさせなはつゐにゐたき一 たへかね立て出ん其時にまんなんのまきたきも残させよろべき也也也人とめにもけのみな此ぎ尤 とやいたの涙をこへはたへにおつとのまさかせんをやめてぞゐたりけり春程になんちは手のものものどちか づけいかにかた。は丸に城を取まれてつきたらん程ならはあへなきしにをすべき也思ふにかたきのやつ ばかゝ様とうぜいの事なれはよも打ては出しと見するしたつと覚へたりいだやとよひあが松や松田 がぢんへ夜うらにせん心へ給へと云に六百余迄りその中にてゆうにてゆうつて二百よきみなへよ うにしかしを付あいとばを立てあらねまつだ思へやうがちく間をさしてぞ問ひけめそそへきはいつ ならんげんむ三年大月十一日のうしみつ計の事なれは月つまだあきかん夜あけがたによせぢん所 のていをみてあねばんの有ひけりもなくゆたんのてへにみへにみへにもよしと思ひ二日よきのみそのこと也 一重屋しくするこんの念に五千五に大をかれは敵の矢前まつきてすは夜うつみそ入されとよばいり腹をしるべし 一すておのそめ〳〵用役にお水いりにしうせうしてとどもへ給へ給へけつたしそすや申セはしひかきめ事な 〽又は何せんにもながずしこと所おんとすてむら打郡をさしこそむすけの市抔のそへよちはよちにも あたじれはよるの小袖にもおびし是もおつ丸黒けめる小其花見かけ上のきたみしなかよのへまへ是にひ かへたいかへせうじせともはいのけのおん”此夜を聞けすけすはし松ぞと悦びちら〳〵も立よいそたほみて敵に 山又かほ。みなの後かにもなけのむらするいへてとのまぜんことぞまへとりにていづくじりまのことぞと さきてこのしたばかられ申さしきをも見ずて小けにけのあくばいづくこそとかはくれは小さま藤兵衛のやう大 にてたがごとひしゐだていゝすとやむさみあゆはあはれ今日本のほうのかうのとのみにらしこへさつておつやせくやう 迄もてすてんけりその所むねとの矢を三百三人打丸ちぞへ敵のなき給へつだとすのまたいつうちころ の城にぞこものけりのみつゑがぐんんもよの程あつれあれあのぬとしなほめぬものみなかりけり 三たんめ 一言程に赤松尾弟松田兵衛右衛殿へ〵〵おものかせんに打まけほうん〳〵にける又はせれし飯色やかやしやかた のかんのたてきよせはなりけれはなにおのさりをあざむさむきひかへて給ひしをかへいて夜によりけるはまへ わける処なちんぼへなふこそ御ざ候へ事疵とをあらすめにからがるへ三百にて三万文の紙をせめくん大へ 〽たせゑきもなし是大手のまへにまにて給へいたく〳〵ものまたてさはか直門のがうてきをめ給へともなく すべしとぞ申けの物でもたべしもげに是に是に尤也せ入のつかざつそのあるさかへ新由をとむへへるにける けいそのまに見てもかたくのふせんの事もろゑびす又出て申候此に尤に候矢ならしためとんどかりなき しきんはをきうれは有之事の如一いしばりかんみにをめぐらされひやまでう有てぬべそれしの床に都ちかき ざへ〳〵の一口せんをきせかね門のやうまひをこことにはつさせないのほろぶべきよきに気かけ給ふと さすが新物と名為太衛門盛ほろびましへていかにく半左衛門よしよしやさきけん也きあらで左射に ときはきてすですぐいひやうそうき六まれは異羽にさんこんににつたすや角とりやうちぐりにゆぐつにゆ大たら なわうはめみやき上つの人へもしやそ事身よせ来るとくりすきよをみごしておしけりかゝりたつににどう せが後りややんへ岩石屋小薬太大夫七千文有りんぐんへしんぜられ店止めんはないだしにて去ほしき折 かゝかへのやうのふうまい何のひまふけ成けるにやどくせよせうねのさん候也木刻夏ふみげにかく を打めぐつくわけ丸しかてんとてとうぎんせられ候とまへかに申せはしゆ三ゆ三げなふさせ給べさせ給ひ さての一すの木はぐわんはちん此山へくたびたび□もんきかりて有けろにつねへごさけて此山へおくりし そ五人うや度正しけを見なんにいと帰られなけかせ給ふぞ有がたきその時しうゐんのさへとんの守さね よちしきのとうの才為者あき新田に申すや府よし年内に申さるにしげか計り計りをあく わするごとへにきたつとしてちがふ事なかめ老将うりし事そふつかの御なげきにははんやうすや是 しりそじゆみうひ御くやうさがなへましまでもゆへぞうじせせうにがさたの時有の時はどしげ有のまゝ ませしにもじやうこしもしなひゆんびんびんにけをしげが申せしどへ小式は打なくてうてきと成御一 にみ有しきくらはいまだみにて候也今ものものもかなつ事をりの給ふべき春の御くめ人下とり ろへ春を時になすしよそののたりじゆ三郎をすてさせ給ひなば有そたきゆめべしよみな 同小そうそん有しゆとゑいふんにてさらさらさてなり給に有けつかそのぎめのとまへのそうてき也 しげり経やうにしそつ時あつて返間よし定になはの也しやめんしもかへもともろふべしよしましよしよしく悦び いそぎ御まへを立給ひじゆみうにそづきものいかたさせ今宵山王大しよつがゑへふしぎの御つけまくし 〳〵てきせんにかざらす女人をいい下すだし申也只五十五ツの事なれはそぎぞげくだいませとをやかにの給へは なるじゆ三う女性にて是をまねます豊前平大納のつげならぜひなき事大仰けのよし辛子のちによめによめ そびの時の侍所とはや六郎左衛門の事を云ふと云ふへあはやと〳〵あの給へばとま立てじゆ三丁日記法一 さんげすさしてそ三子くぶつけの山下になきもはまじやこうにうに思ひまものいかけことは神のつけて の御身ねんのよこしまこしまゑいふに給ひすてぢるべきとの御なん是手づくなつ共わたらせ給ひ給ひ給へ かさねてとうざん有たないはすはじめとうすてもおはせよにてすて申べしさみをあらのかに云すてようだ さしてそかへりけついたいやしゆそうは月身のくがとはながら一りすやにのうら風にふきはなされ候がて いよいへばいづにきやなもだよし位を打ながめながめなしくもなしくもなしよしよしや〳〵〳〵〳〵〳〵も てかねしらせていづくへり折べきぞいかならんふらせす也身をしつめんとをさすがさすが人印もそすても 思ひかへとしとも代はだのまばやく思召東寺へにぐらせ給ひけのかへて東寺に伏しかはんの者により ごゆきうねて有けづが尊氏四人参申さんいたへよこせすれはばへの侍大きになぐろきたろふけや じやこう四重のてふ 秋 もうのもろなふしのぶ あら じゆこう にてかみへ此よし申けの尊なんしきん思はれそのものもあへす急き立出たほん有是はふしき かりいたりいかなつ事ましますぞじゆくうなみたをあやにしゑやよいさのふにしつけふの事につたしかたし すゆへ思思いつぞやうな音のかたへせうそんをつらひ立て有之者にすてはねかせてせんかたこそなき 〽うき身の程あはれみ給へどのなひてゑさめ〳〵とぞなき給ふ高少女子給ひといたしき御事かな我 思はすに朝敵と成着ける軒申事まにたはも是にはんべからすよし立小ざんゆへくまして衆ゆへ 〽このそうたかへさんそうしものすてまいせ候事いたいたいたいたへとてあさらしくしつらいためにかたにうつし まづかずの女ぼうあへそへてよきによきに。つき〽給ひけわげにせの中は有見へてうつろにすき名言に 又高民四のじつしに高のむき一の寺もろのふまけ有このみのみの男ぞとほにこそそそそくそ たかんの人なくりかつじゆそうの御そおひすこしよはひ公事のまなまなまちきあへはそのふげいの花方 にほやかにひかるげべしの大将の三ろきける事なをとはしたそがれ町の夕ほのゑなら数色をめみて てやゑかぜたたそはれてこもなくにならけれはひそのじゆこそのないますにたゝし気にしのひ入つま 右を下候ことおもつまんじゆとけは顔を聞筈たそつくつま戸のつきにおよすつは工ねのあたしめ 松風かそ舟あらぬが人のつかいあやしさよしぞ吹けつもろなふもむしひあさはきしばしことばなかけ しがな〳〵〳〵きにかけはしのたとへすほへにきおそろしきろしきめざれの目をうかごふにた物なをき 無ふけきどの中衆ながらうすましとつくはなくは備へ共にあつまいやはざいのせき上げだぎ 恋の御風をたまつにほつほりし立ち給ふ是迄まへかたりまいとあはれにぞかさちきりけり上やこうは はとをよきくはいかにあさましやせとそすへす成つゝめさすらすらこそもゝしぎつと人かつ人にしづかれざるさ まちかづきしが今かう身末のはとていかでかさ有事あ事ありんやと出す高き月かけばさよす水にはやざれ共 役のこんしがげもなしうろめしの頃中やと聞てのかに見へ給ふもふもろのふはねもなろかの跡さふ給ふぞや 哥さけの道にたのみやい事位の人も道だべてなしそれもろしこしの事かよあじのみづれものなき人さへきゝきぞうつ まのらせて東のしぐになし九夜かよひよこそねれつがて彳たては一条のさささきよかいいざんのほやにたへ うきなは住せ給ふと聞かうけんてへの候事は申も有へおそれ有事うじやかへにすむらむとらんばかりんひれ ふししたがへ共くがすまふその時雨をうしないていつてきの水をもむかきかやかやうかせ給へける なれはきのふのむしを打すて思ひにしせんせんけふの身をすけさせ給ふしふじやあさまに立給へ給ふるち かぬ方の哥のまだにそなびへなしつか有明のつれなにしませものかなのかなとかきぢきてぞんかへけのしゆとうは尤 を生りとのみさすが世の斗にふけはしろしとうしづかぬ道を知べきへしておうふぎのふやまひかねて一 しかし玉よしのことはきかしのあだ娘のうき心の身の身の身の身也思ひからずの弟ぞた打きて よしもふもろなふねのさればとよみひげに見ざのやくしとあづかのもふくの人の人の人の身にもあやまり給ふ 事なしままで、さなきものゝへのかでがよはたるべきあきの本の僧正はしてうむそうむその人ちたまで 寺一の長五日としてさしも左つまき人なれどそめ藤のきたきをこひわびてかなはぬゆへきりを とげしせい也鬼に成て経ゐにきさきをちもころし頃にいあたみの人そんくれあらせ給ふこねは 〽哥にもあのはあのへはつれなき思ひよりつめとならんゆにぐめしや女子ときはさのみいつかくにまつべ一 きそれかし爰にて渡りき物をいやきとこそならず一人その上をくなば思ひとせ申とんとなし はだまいてすですしがへと見へかいじゆかよ宮あめてなになにしでもちなふかぜにはやにはつまの 上のぼれはくだるいなにのまにの事の月をかさねておさねておふへし心のそこきよふか 思ひのあらわればこの人がしの三分りてていかにも成るばまづ〳〵〳〵〳〵つめいゝたてまてなくと てうちに入せ給ひけのもろないは是を堂いたしいたん次弟かな我へを重てほよひには心にした がはなれとやたけへどのたぐんにもんよへしさは夕にあふとてそうねの絵の絵にたゝす年の命をする と思へはややきなしよかへんのなき御方もきもし見られをのはい家多もながらきくもほうぞよひとのゑみ 壱丁めへのけや花もかく焼もかのもろなふがこゝろの内うれしき大中とうまなかつけり 四たんめ 去程国尊氏の御前には諸人名たしあつまねがそのこなしの有方にいたけ出さよに申出されけ はやういさてもじゆヱうのかたへされまいしらずして甲のよびへどによふとも世とそくいくれ此かたさす ごそうひのそのひけのみつさいなき御ねんねんはゆくしの守そろなふことしためんすましてしつのふる まひ給ひ給共にあらぬぎ弟ぞせひそやきて申さるゝきの石ぐうもろもにげにげにかなく云殿 よきにて候」といひよふならぬ其内に修付いさめて然へたくとそ申き存候事氏の事給ひ是は給ひ是はなしき の次第かやけろなふにおゐて高たましましとやともあたるかの御手へかれなりてはゆく残れ 共しろしとして左様のやぎはよそあらを故そ久しんずあたらしなくしならびべるのすまできた めいせんがまへてひすへしあんとみつ〳〵小ないたん有之をつなふが身の上あやうのけめ次第也かゝる 給ふしきんなつのちぢん出来ぬるゆへをいかにと尋るにみたらしひやうどうすけののまて平けのに の有けるぢあのじゆこうのその口口さんみ殿口はくなはせし時ふかきこひばかけたりしがゑへりよめいた くきいますゝゆへとかにもじてかくりしが此度しゆそうとう寺氏を頼てなはなう事なれはよきさんにあ ほのひら也いにもして少火のひまのをもよめしたよりもと思ふのをせきそのに。明くれむねをかさし候 此程いせひ時めきぬるむさしの守もろなふあたらし給へしのぶよし聞るゝひかしくさへかねてしんのほむ らむしきやう有こもあられずくら所しながらへ何のかへあらんみそろなふとさしちがへ浮世の思ひことはかさ んと云方かつ取て出けるがいやまてしばし世の中は誠ににたろいつあり有事のじつぶをしらずて そうつにしつしをあやまちなばぢたくしのいみゆへいがも也ようとほろふべししよせんとよひしのび夜の 由をうかゞふそろなふにもせよ何きせよあたし有の御手になまだにた有ならはぜひをいわせず田て すてじゆくうつちしよをあたふべし若きもなくはかきくぎ我が思ひをしらせんと思ふへともろみには の日のくるくを旧きたん笛にける兵程にじゆこうは尊氏のふそなしにてあくたし夜にましやましやまひ よを取給ふ事此候たのゆへなれは御里をしみあさけず有しに有しにからす雨ひまゝ悦びじくみへけ給ひ めはすの御二代へ御なぐざみにやならんとてなしの上ずに仰付四方のしやうしにひましにひまやないと をそなれけるとひごのしやうしにはしびていていと打みてときはの夜もみどり立今一入の色をひてんへ きばの梅に鶯のこぐねのどけさよもの色の毛の雪のむゝぎへにしたをへ出るさはらびやまる このもと若くさにあそぶこてふのきいぶれき事人の兄とあらあるね共ねふれはすかへとうのなり にふれてやまがすみ見すてゞかへるかつがねは本なきさまにすみればさ思ひなでの所ぶきもさへ分川にすむる わづきしの柳立色ましてふそふ花の原桜いわでの山のつわつゝいくよへぬ也藤の花ゆかりゑへのやけ のゝ水むさきのつゆふかへたれもながめはかげにてやすこはなるしかれたり南はなつけしたて花立むし のゆりやとい谷の秋の花やりつゝきたつきつきやきなつくきこゝなつくきしていづれもやめとわつらはしなに そたてひしん草れそ思ひは去京のむし男をみるは成たるべにほふかきつかきつめたるもひろかげきへて しのめつくるほとゝぎす今夜ましたへたへ共夜ものをみな月のみそきのてい迄かゝれきり西のせうしはめ きのてはめにはさやかにみへねはげのほとづけつとのへおくだはきすゝきみだわきなやきなやきんなし給はかへ かけませぬ朝なまつゆとぞへて立のふぐきいろきや出るもふちばいはゝそのそのものさほしのつまくいかぬけ 有候やしづがふせやにおく月のやびき秋のふせいとめでをつくしてかれたり扨又には冬のはいなりこそい一 まは白みざくのちは行はないさながらにはつゑもそのみわがは川辺にとづるうす前のいたれともそきへやふ らでどもないりそぶやかずやさひしきまさつ山ざりあらしこがじふきしほの音のうづみ火度給へて 底には音の御分布て俄に冬のけしきとあらなもしのふせぬま有し千人給ふす其時の日迄くれけつ也あし かたへしやうる事氏太ひそろじゆくうのなりしまもあたらしそのへ忍び人先かへはき立立あやしき者の来り も今やすね給ふかへてその夜気やせ一計になりしかばみたたひやう心のめめのはゑそへけたかへ行つへろい神に気 ひをしめしくめあたし給へかざしゆきあしして云ててそのけれを又申しはめはやき書のすて有けれは高民の ましますをものかびきて人わるもすくれりのりのりまさもあめきとびほもそ見へたいといへはかせ をするりめきしばしたがへ給ひけのみたらんうめさとそ身をすてつめを入所ならへむすとくみぐわんら八 成けれは高代を取てふせ思びをかんとしたりしと尊えてきのうでを水らたせきものをくみとめためされる は有ことの給ふ時おあやもろなに来あつゝみなつかつみもあるへし置さへく身をどもける扨火をこほし みてあれはみたしをはますけろりとそろなふさのいきをほつそつそつきまさなくそわが君覚へねいらせ給ふねへ おほぼつかなしと名けれは其人へ聞召されはとよ御ぶんじつとうの御方へ参りよしよしをやしゆへとゆふをうね けそのとにてんげんげんたくうへためうたへにしづひ給方にてうくの事也だかたり給へはそろなふことはないと 〽ねやそれめしふけのさし丁がにゑん事なんかたれに何とてのをかけ申さんしきひときへやかのそんじ いの御このこのこのへとを計にて渡し第のものものなき下としてしめとうをしたなもりし又しつまちにあらし よしそれはくもかへもまづは毛の段いのちつがなきそちんてう也いざらせ給へど御供しあたし故を忘出るかき そろのやざいのやう馬あふつまひあやうしはあらはあ 其後足利の高成は舎弟左馬様ならびけり上杉を取あつめ此くはへじもはやくやくぬか出川手 めんとてかせんのてはけをしたのけの覚へてはさらたぐうはたけ出しぶ川をよへ将としてそのせいは刀よきに 馬三井寺のやけ跡しがかゝたきによくがぎけにげにぞづを見て鈴木ほそ川今川今川今川をこへ物にてつにて 本中南のわぬ方よき今道を三石のふ手をへてふどう寺へかせがくる西坂やへさる此方せんの事も ろしけを尊義の代しとし同からのときの寺岩松無郎の井大高いともさきとしていたとしていせ平方一 だ八瀬しづ原野崎さかりねどやがへの文申引やさしてかなしの瀧ふぶしらまる すや是はさて置なんぢさんのしらす先かついいはやの城に有けるがにくらが是と立て立つびてくわう ぎよに上りける山門に迯かは舟田ま門の守を以は通申入けれはよし定早谷早事なたへきなたへくて預かなん おもめされけり光かつ御ぜんにひざまづきてをつねて申様心つらが申給は此たびの御かせやくきめにあ まつ大んにてすみぶる御火事と存ずれき為上のつ事ずいめやうせがせ給ふへし某に山下わつめいたし 候べしご刻度がいさめしごとへ両重り凡つゝみくせもやめて候いだなきはそらし候べきそのたま出しを 代にあたしさしつかい候と思つのが口上を三郎のべにけるにけるに逢へからず是にからず是にかたてなし くらはごつめをなし給へばしろのそちへをやくたへ有御いと夜を有いり魂かつ山を出ゆれはその身は重 かぎよにますまくわすぎよきよきこきはせいせいくゆよしをつれんあしよせられそう ざんせもふつよしきたす也とく〳〵芝いそろへてぶせばなしとそ仰けつよし定年のことへなる哉何方ぎすて なよせ身かさみぜいに候共すやすへせもなくさる事はぬましおそれながらゑいりよをやちたかせた まふへ又天王ぶんのていけ五のひ〳〵わねいふなくみたくの所也そのむしやぶのを出立せゑいらんにそなへ まらんやと有けれはしゆ上はへも〳〵〳〵〳〵〳〵とゆへもなくしたくしたくを〽せられけのこんそんない東坂本 の人勝ちきのこまの女為しあきあわげのにきのひさきのむさきすそがれ御させながくさずのなが けるけゝひやうごくさりのもはをとくのかのみのみのさんしものひかげたるそやねたうそやひのち びおほひ三心ののまたしろねのつにまくりへますにやつてきのそんのしけしにさ被成はの にはなかごのしるしをそたせあふがくろと申てみとへたるぬきめへとにいつかけぢのころ〳〵とねて せて御前にしはう有たるはやまたりの大将やとなりぬ人をなるめたりその頃はふなて此大将いきやう 右衛門の女よしすけをばのさたのひたびに小桜おごしのよろいななしけ給ふかぎりたりた打ていひがきまつさき き出給へ同むね上の一ぞ天四日ほの三ツ四日四日大地震にけて過安公なくなへるはうきの方ながしとに をいねとのはわしけるは毛かわらす出立にて人本くろほとけぶねそくかみのみすこのくのくのたれそへげに花 かに見へにけるや坂本の大将新田丸大将よし是こんぢのよしと此ひたれにひをとしの御きせながきつかしらの かふとをきげんをのしれまん有り十余代沢又たる鬼田そいふふもをはきく入の羽の立やをおいくんぐんぐへうらはかす ゐてかかげ成馬のほがみあへにてだつきつきはふうわんのやらなのてくねの二人によろくろくせしきずいして そかなふとうてにしよくするん〳〵にはちとのぼまたねうつの立のほ部のくまへさまきくらひこの守共にも げ月にほし三つゑみへきのはのはのはたのみんおの御つぐて出給ふ本間孫四年にすけたづ雲寺の四ともへやうへ にくろかはかがしの後まきに四尺あまりの太刀をはき白木の弓の玉へばつ十四五五そへも有ろへきかな しげどうなつ取そへめとめをきつと見合せゑしやくして出けるはいなるらんせんせんせんはいたしとことも ゑたける并ににつたの家ののゆらう北まながはまのりうみのづかはやいたり此者共をききとしてその如此 諸じんぜいかも〳〵〳〵と出立しそほらしけりける也よややりたたのちやなんちやなんしどの方也この方也 ときはすぐつて出立たりはだずは白かさきおもあとさになみたちとめの立さらんのにきのひたゝれさせうば いくよりの点のこてびやさんみがきのそねあて雷のさへのもふたびしろねすて心もうらしあぐち高に ふんきわはりほたんのかげにしたのふれ前後共右になしあいたかけしきまさなるははたて深さがうふ ぎぬと申て八まんながたはつたつたつひをどしのよろひけたがみつかへでだつくときおどり上て上おびし言ひか よびかきだだな九寸五分のよろひとをし一尺八寸の打がたなにたまにさすままに五尺八寸候へきこびたり の御ばかせ太もかけなるじにむすんでさけ四十二さいたる又中ぐろはつざりけて付白ぼしの言給ふとに かのほのにていくびにさぐれの女のほろをたつまかけぬのそめ方のことへくりにせきづめしつてうけさせ一 まん中すきのよそたへてゆるぎ出たるその有様ものによくためふへはゑつ王そうせんどわたもふたわがてたに一 てちゝいほうせうなるいかづはとあられしあく源は上申共是程こそはしらめあつくれきりやうの大一 物やとさせん上下なしなべふ女なかんせぬ者そなかりけけ 吉程によせての大将かたのぶせん寺もろしげ山門にほしよせみかたのせへにいづけづけつは此度のかせどみに せはしゆりやうじんの御国にそひにつたあしうゝうんその時なれはもてもしのぞかす。すへばなみ給ふべしこれ たびなんび一の草は左ヱへひそろのばつくん也共長やうにて我立つてものためあしあしるべしとせいて かけ時の殿をそ上野の大めんそ着てしたる事なれは同時をそ今夕ゟに軍せう〳〵〳〵敵介して敵介ねは 本をあらしてたがへけつかこひごとのたがへに門にはちくさ水を切せしてあまた打死けれはよせてに石どうへ そのもの介を初むねとの大物すもへときたげかくしていくさめくつへき共見へさりたりたるにくまの八せ うしすぢんにひかへて有なが人物のまへになのかへ出そ。成めへそやみそしざるへそのそのそろすか入してたはし なかうなはとは申で共身方のそへにて候は云五うひこはよし所を衆とてかなくるを也云事をは をりけるけてけやけやけ候門をいがもの承て候へて候べしまくんの者共はいさけは人凡何程の事有候 べきろしの内にやみづれ候もの申さん事もなもなびたがらすりふゆへ此馬悦び橋候はえらんいたされる人重 目をさきしして数十人の兵共なほへのなん所を物はせんがりしん事にみける山門のそが大筋よし宮へはる かならんして一分春あれをへへ有有左左様は候分の深やとんと凡事もの由た有たが落てといやすべし 一つゝ仕のきやつ原にもをつぶさせ申さん有へさせもなき四人へ村くらんにかすにおなしをこそろんとは八 庄司がその中にゆあさせうし同あはねばきけきけは又本庄屋に及ひけるはへしげりさながらやしやしつの 壱成がいはずかせまさかさかり此のわたり一尺四五寸有けを取けをかんにけんにけ又もかはやた 山門大人はなきやうなきしゆとゆとそ何へ逃てにてにか給ふまんにやために人南にまたりよしめづる也 たいたりゆる長はまのづく小ぞく様に。まさかのこそやくもだきなくにへにかへて次か次かへたのはあ い二町外にうかし時本間諸堂屋女う町に松の程かゝりけれ出火のへた申也木其辺はすまるしける りつめかま事へ切てはなつしみんしいさんでひかへはゆあきの重目にめてのかたきりゆへでつらの下迄 まさかりの身もすにしのを出していましけれはを聞へかたさへたりしゆあきの元手なかしてあつとも さいよその面弥太元をみてきすがんよくせよりをおたうためためくゝくつぶつと切てはなつめにて かかぶすのまつかうの女をくだいてはい付の給ふ是をされ一尺もに同枕に也沢のよせての者共きさきを けし引はうあつゆんぜいそやほりいる大臣すいぞ毛にはまさんとふなくさばうしないあためへ計へ計へ成り 一二人なん上きぶの国の住人下方の中にて明氏となきの国の住人召事のやみたゞしびしゆゑいはしる。 にしさた あんぢさこん くりうさへか ぶせんの守 新田よし秋 〽しほ法是第 せつてだいのごねをしらすべしあきて無句のあるへ出されよいかず〳〵と申けめその時よせてのちへより ころねにて月のみやまたのけるあやぎ一本さし出しけんはやになすのゆへあふぎもゐたりと申せ共 きた計めには人が巻をあそばし給へどてめいよの教をあたし給へとすの本間右馬に向ていわへいわへいり にたゞしげさかさしく月をいへす事は見返のほそれぞ有給候言ひたりをゐ給へかなは右をいへといふたゞしげ 聞て本て給へそうし同に切てはなつこふ矢づぼあやまささ丁目のを中にこみ左衛門ひしといつけたり てきと身にもも腹をあけいくりや〳〵としらめきゑしばしばしばしばしばしばしばしめつたしのどのやよし秋 此よしを御らしそとのき給へ入へよしあき公せんしてもいんねふのをさまさせ申させ申さと新田の家のせうせと しのつかしたいまつけてやほうをそたせまつさきにすじませりあらず右の前に立ふなだならとの間をうし ろにしてそうまぢくいのごとなの大ぜいうそのゆへなめきさとうかけ入ばよせてのせはこゝへずして山下をさし てそにけたけのこわへぐんの音はいづくまできのささんとなつつめくあければしずくあとぞなりにけりよせ ての大将もろしけのてきの馬をいさせかり昼になつてすへが。しんといかなはめにあつてものものものもかか とくなりとかにゑのごの事もあきはいらは言へいくしほしほしきひゑほはしますろしげきのありまへ じにくひかるよしあみのわらいな道まてゝむすとむ。もろしげよの〳〵やとはるかのたにへなのにけり よしあき御らししなしいとはせ合せをしまたむすよむすくろしげきそのうのうのものといへといへよいふ たゝ河よの壱せするし立くつてなつふせくび水もたまらずうちおとし本国さしてかい ぢん有かのよしあきの御いせいめてたし共申斗なかりけり 10161