田園地方紀原
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- 朝川鼎
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- 2026-08-17T19:23:20.822Z
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- 2026-08-17T19:23:20.822Z
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- 場所: [書写地不明]
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- CC0
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- 朝川鼎
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- 日本語
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- [書写者不明]
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- 10010000025425
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- デンエンジカタキゲン
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- 東北大学
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- 2025-11-13T06:45:30Z
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- 2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
狩猟
田園地方紀原上下
一歌代系派氏ノ寄贈/北ヲ一
以テ購入セル内閣博士
猶野亭吉氏善
地方田園紀原序
虎P氏
陀経新
経界税民政之要也世之治乱恒於斯国之典廃亦恒於斯是豈可不レ
尽心哉唐虞商記録簡略不能悲其制自周以来歴代治草成書
具左可得而詳也我邦中古田畝租稅之制令格裁存猶可考也白政帰
将門武弁執事文史掃地加之群雄割拠制度不一誰能究其詳而信其
確裁所頼私簿雑録耳亦唯蠧蝕失真帝虎伝誤在今而参仕稽之
推究定之能取信於後世自非博学高識不能也今国家政由旧旧国
一事亦復因近古少損益之故原中古而後近古可知矣詳近古而後今可言
矣然則不知古者非真知今者也吾善庵先生授経之余探討此事雖邦
人雑記亦無不渉猟語及田園者哀蔵胸筒又以一時望交編四方古寺旧
社所伝画簡零簿近覧而遠鈔以資考証者不少於是定作田園紀原
終能使夫不詳者詳不確者確矣義一自密歳用力算学因并攻究旧園
近著算学地方大成一篇災梓公世今得先生斯書以審古今所沿草其於
田園豈不更詳而確哉因懲忠令嗣以謀不朽嗚呼斯書之出凡官親氏
者幸由此以識古而行今則其於盛代之治将有所裨益為天保九年
戊戌冬十月門人於数学道場秋田義一謹撰
学所以濟世也文學政事何曽有二然才有短長身有用捨況且在今
致
日官人学士判然殊別凡在宦者奉副守格苟耶辨給不遑原究前古
学士則謂是俗吏事終不復問焉若其或議之非隔靴掻瘡則暗
中模索何能得其要領家大人輩有世思嘗謂田園一事民命所閣徒諸
今而不知古其制度之所原意義之所存茫乎無省則雖学猶之不
学矣仍親験経歴偏問古老審今而原古横捜若索詳攷其起原
沿草為作斯書於是文学政事合而一之足以洗世習矣児格受読
之遂請公諸世冀し使在宦者知文学非二途也云天保戊戌十月
男片山格謹識
山格謹識
田園地方紀原目録
巻上
代の考
町段畝歩の考附間竿尺寸の考
貫高の考
巻下
大半小の考
永の考附永高の考
村高の考
石高の考
諸国石代の考
田園地方紀原
江戸朝川鼎五鼎父述
代之考
上宮聖徳法王帝説に云天皇布施聖王、物播磨国梓保郡佐勢地五十
万代聖王即以レ此ヲ為二法隆寺地ト一也
今在播磨曰
三百余町者
聖徳太子伝歴司二引テ本願縁起一云子孫従類二百七十三人為二寺永キ奴婢一没
宦ノ所領田円十八万六千八百九十代ヲ定ン寺永ト財ト財一畢ス河内ノ国弓削鞍作祖
父間衣摺蛇艸足代御立葺原等八箇所地都集ノ十二万八千六百四十
代摂津国於執授江島田熊凝等ノ散地都集ノ五万八千二百五十代居
宅三箇所并ニ資財等悉ク計ヲ納スル寺分ニ一
万葉集に
坂上郎女
しかとあらぬいほしろをたをかり見たり田盧にをれてみやこおもほゆ
年山紀聞ニ云御釋云五百代小田々は凡田は方六尺を以て一歩とし三十六歩
を一畝とし十畝を一段とし十段を一町とす七十二歩を積て一代とし玉代を一段
とす当れは一代は二畝なり日本紀には頃の字をしろと訓せる唐には百戒を
頃とすれは本朝とはかはれり
又云一所に五百代あらは計るに十町なれは小田とはいふへからす五百はかならす
数を限りていふにはあらす五百重山なといふ如くたく多きをいふ詞なれは山
田の一代はかりなるか棚のやうに段々にいくらともなくあれはしかともなき小田
の数の一代つゝ五百はかりもあるをいふなるへし
新撰姓氏録ニ云軽。我孫治田連同氏彦生ノ命之後四世ノ孫白髪ノ王初彦
坐命未賜阿弥古ノ姓二成務天皇御代ニ賜二軽ク地ヲ三十千代一是足負二軽我孫ノ姓ヲ一
之由也
河内国石河郡形浦山碑に
飛鳥浄原大朝廷大弁
宦宜大貳采女竹良郷所
請造墓所形浦山地四十
代他人莫上故木犯穢
傍地也
己丑年十二廿五日
好古小録ニ云碑石長サ二尺許濶サ一尺許今移立春日村妙見寺中一
采女
日本紀云天武天皇即位千三年十一月采女臣
賜姓朝臣按姓ヲ賜ハリシハ即チ竹良卿也
竹良
日本紀竹羅ニ作リ
又筑良筑羅に作る
形浦山
土人誤テカタヒラ山ト云
山石河郡春日村ニアリ即チ采女氏ノ吉地也
方五尺為一歩四十代は
四十代
二百歩
持統天皇即位
己丑年
三年己丑
鼎案するに以上の二条は田地に拘はらす地坪の上にて云へる也
一令集解云古記ニ云慶雲三年九月十日格云准ス令田祖一段ノ租稲二束二把
以方六尺為
以二方五尺一為歩歩
一町ノ租稲廿二束令前租法熟田百代租稲三束
崎歩之内
之内得二米一升一
得米
一町租稲一十五束
一升
政事要略云撿二旧説一令前ノ祖法熟田三十代祖稲一束五把以大方六万六尺一為歩
此大
歩内得二米一升一
二百五十歩為二三十代ト
外也
鼎按当作二
為二世代ト一
拾芥抄注ニ云三百六十歩為一段積七十二歩為十代百四十歩ヲ
四十四歩一
當作二百
当作二百
為二四十代一五十代ヲ為二一段ト一段ト
為二卅代一ト二百八十歩
二百六十歩ヲ
十六歩一
八十八歩一
一後成恩寺関白謙良式ニ云代ハ頭也
ト三百六十歩也一段
一祖五十未故也
一條禅閣令ノ抄ニ云俗謂二二テ二段一ヲ一ヲ曰二百代一ト謂二一段曰二五十代一
廿五代為二段中ト一
一町ノ祖五百束
十代謂二七十二歩ヲ一五百代ハ謂フ一町一ヲ一ヲ一也
故為五百代
町ノ祖五百
律原発揮云古者以二方六尺一為二一歩一歩一七十二分ヲ為二一代一也
計三十
六歩
十畝為二
一段
同計三百
計三百
計三千
十段為二一町ト一
六十歩
六百歩
璋按
古有二代名一今此名一書以二六歩一為二一代一○称二十代一者二畝也五十代者一段也五百代者
一町也
鼎乗するに三十六歩を一畝とする事は古になきなり敵積りは太閤
摂地以後の事故三百歩段の割合にて三十歩を一敵とするを始とす
一三百六十歩一段のころハ或の名なし委シき事は下欠ニ見ゆ
白石遺稿
苗代なと云
問田
歩段町なと云
云上世に田を量るには代を以てす
即古語なり
歩
事はなりし也孝徳大化の初に至りて田を量るに歩段町なといふ事は
始るこれより後は大化の制によりて田を量に也右後人に及て大化の制
を以て上世の田を昌算し体に云へる三百六十歩為一段積二七十二歩為二十代一百
四十四歩為二二十代一二百六十歩[二十代一二百八十八歩を為四十代五十代ヲ為二一艘一也
一右は並皆十代を以て積し法也一代はいかほと云事見へす然るに古き文書共に
田四千六百九十二代田一百四十七代なと云事あり是等は凡一代ハいのほとくいふ事明
らかならされは解すべからす懸者右之幹の如き一代の数は分明ならす
古人の朴略
即今一代の数をしるさんにはいかゝ可有之歟案するに田合に云
多くかくの如く
凡田長サ三十歩広サ十二歩ノ為段十段ヲ為町ト此側ニよらハ凡田長サ四丈三尺広サ
六尺ヲ為代としるすへき凡これは田を量るに代を以てせし世には未ク歩段町なと
云事ハあらさる故也但又凡田長サ七歩一尺二寸広サ一歩烏代としるすべく候歟
これは後世の法によりていふ也右二條いかゝ又九歩は方六尺ヲ為歩をも見へ候へは凡
田方幾丈幾尺為代なとも可有之歟但し田令ニ長サ三十歩広サ十二歩ヲ為段々
有之候へは田を量る事必しも縦横方正なるへきにもあらす候歟右又如何御父子
一様ニ而得と御講究之上御報待入存候厚キ候事ニは無御座候二三四五日中ニて飛サ
一又右の一代と申事四方幾丈尺寸たるへく候歟此方に関平法を存候算術者無之候
一笑
にて右は先生何人に問はれしと云事を詳にせす
今見るに随てこれを録す癸巳二月廿六日
鼎案するに白石遺稿に大化の制よりは前に歩段町を以て田出量るにおく
たゝ幾代とのみ唱へしといふ神略の代左もあるへし格別折の釈に七十二歩
為十代としるせるも其頃六尺鼎岳の積りありたるとていへるにはあちす大化の
一制を古の代にあてく積りしにて古の十代の田は後世の七十二歩なりといふ意なり
〇為五十代とあるに同し書法と知るへし但既事安略に五百霧を
政事要略に二百五十歩を。五十代とすれは十代は五十歩也拾芥打の釈に七十
二歩を十代とすると大に其同ある様なれども実は大尺小尺の差別にて壱段三百
六十歩之上にては同し事也政事要略に右之勘算も致しあれとも認定多く且算
法も古今の差とありて入組容易に命得し難し予は算術に疎なれは門人秋田事
に託し推算せしめ政事要略の原文を挙フ今案を附して後考に備ふ
政事要略五十云
勘ニ田租束積事
右被二右弁レ宦宣伝ス慶雲三年九月廿日ノ格ニ云取二令前夫ニ擬スル令内犯ヲ一令條段
租其実猶益宜田一町十五束令輸者未知令前東令内肥格争各其積幾
損益之数何而可会又令興熟後熟前者検旧説ヲ一令前祖法熟田五十代
此大
二百五十歩ヲ為二五十代ト慶
租稲一束五把以大方六尺一ヲ一為レ歩歩内得二米一升ヲ
租稲一束五把以大方六尺ヲ一為レ歩歩内得二米一升ヲ知也二百五十歩ヲ為二五十代ノ慶
此外稱
三百六十歩ヲ
雲三年格ニ云准令以二大方五尺ヲ為レ歩ト歩ノ内得二米一升一ヲ
減大外
為毀之者今按シ五十代与令段歩ノ積一、同シ即所得米其数モ亦同然則段内得米
三百六十斤実ハ此レ大二百五十升也因歩也。因歩多小積増減是以准量令前
与ヲ二令内把二非レ先サ二増減計二堅ムル其積二令内ノ十四把三分之二、蓄令前一束ニ一称量同シ
其令有二新古一惟格ハ新之前古之後也
弘仁十三年十一月五日明法博士額田国造令述
私ニ拇二件勘反一ヲ一田歩数稲ノ束把米外ノ法難レ得二其意ヲ一仍二勘ニ算術ニ一以注ス田ノ一
以六尺為歩
段広六歩
長六十歩
并積三百六十歩也
今旧説二百五十歩者
以上法
以一尺二寸為尺
広五歩。
量二広五歩以長五乗ノ得二百五十歩ヲ
長五十歩
可知
則当六尺亦為歩
為二正崇ノ是知五
以一段広六歩乗タリ河二卅六
更ニ量二歩五尺一以二一尺二寸一乘ノ深ク得二六尺
歩則六歩ノ也
尺一以長三百六十尺一乗得九百六十尺ヲ一ヲ以一歩卅六尺乘ノ得二百六十歩ノ十歩ヲ一
ヲ置一尺二寸
数并得二一尺四寸四分一置一歩ノ方廿五尺ヲ
一目所加之家
一説ニ置二一尺二寸ヲ一尺二寸四分ヲ一ヲ一ヲ
一段之
以一尺四寸四分置二一歩方廿五尺ヲ以二一尺四寸四分一乗リ得二卅六尺一以三百六十歳ノ幅ニ
止つ也
乘得二万二千九百六十尺一ヲ以較法三百六十歩一更ニ置二今田三百六十歩一以
昔田二百五十歩除ノ得二一歩二百五十歩分之百十一即通分内于得二三百六十歩一也
国法
置二千合升米三百六十升一以十二合升米二百五十升ヲ一除ク得二外二百五十升之百十一即
通分内子得三百六十升一也置置上二百五十升一更置二升二合二加二合四勺一并得二一升四合
四夕乗止積リ討三百六十升也
東法
置二廿二束一以十五束除ノ得二十四把不尽一十興法十五求等数得五以五除法得三
除不尽得二然則一束所当ル十四把三分把之二也
以上政事要略
即チ今前ノ一歩方ケル者ハ
ハ自乗之之
置二令前一歩方六尺一以令内ノ一歩方五尺二除之得二一歩二分二分二
一当ル二令内ノ一歩二分一
即令前積一歩ノ者ハ当ル二令内ノ
得二積一歩四分四厘一
一積一歩四分四厘一ニ名増率一
置令前一段積二百五十歩乗タ二増率一得レ禎三百六十歩為二令内ノ段歩一
置令前五十代乘二増率一ヲ得二令内七十二代一
置二今前段租五十把一乗増乗シヲ一ヲ一得二令内ノ段租二十一把六分一
令前租法
長五十歩ノ
広五歩
積二百五十歩ノ
以六尺為歩
広五歩
長五十歩
此積二百五十歩
即大東也一段
即大
一歩稲二把
一束ノ稲ヲ舂テ得ル米ハ
二段稲五百把此東数五十束、
把也
七、
ニ得ル稲也
即大
五升也
即大
一故ニ五十束ノ稲ヲ春テ得ル米二石五斗也
一歩ノ米一升ニ当ル
外也
牛也
即
外也
令内租法
長六十歩
広六歩
積三百六十歩
以五尺為歩ノ
広六歩
長六十歩
此積三百六十歩為二一段一
即小
即小束也一段
巴也
一歩稲二把一
一段稲七百二十把此東数七十二束ノ
一束ノ稲ヲ春テ
把也
ニ得ル稲也
即小外也此
即は
得ル米五升
一歩ノ米
故ニ七十二束ノ稲ヲ春テ得ル米三石六斗
一五一
外也
一外ニ当ル
一外ニ当ル外也
置レ令前段祖一束五把ヲ一以令内殷祖二束ニ把一除之得二十四把三分把之二ヲ一令前ノ
一東ハ即当二令内一束四把六分六厘余一
以上今按
又案するに拾芥抄の注に或云代は頭包の五字分明ならす本文二一段頭一町
頭の字あれとも代と頭と一様に解したらんには久義も通せす予延喜式を反覆
捨考するに代頭也といふ語絶てなし予か考へには或は或の字類は頃の字の誤
にやと思はかいつれも字形近似ゆへ書損する事もあるへし代き頃も皆シ口と訓し
田地を指す文字ゆへ代領せと或人の説を挙て釈せしにやあらん仁徳紀に
墾田四万余頃孝徳紀に京并数万頃田なと皆シロと訓す此外にも頃をシロと
訓せしこと諸書に多し古へ代をシと訓そゝぞ母に在りては知るへからすといへとし
屋敷座敷のシキと同義にて今も物のへたてをしきりといふ是也後世の町も段も皆
田地のしきりの上にていふと名は異にして或は同し万葉集に山代山城苗代
日本記に草代延喜式に倉代庭訓往来に桑代なといつれも地面を指して
いふ俗に場所をいふか如し又転して日本記に物代延喜式に礼代其外田代
一植代丹代土代壁代の代は直に物を指していへり
又案するに頼軒小録云播州完栗人中村生話ニ完栗辺山ヨセノ村ニハ今ノ
一町一段ト云フツモリモナリ一代ト云コト有テ其広狭同カスト云フ所ニテモ知ラスとあり
て播州に限らす邉僻の地には今も代の名存在せる国もあるにや予土佐国
一嘉簡集を閲するに弘安よし慶長公の田地古證文に代を書載なる数十通あり
四国にては一段以下の小割に代を用ゆる事大半にの如くせしと思はりしかし一代の地は
何程といふ事古文書数目の字に伝写の誤ありて算勘レ合とかね分明には知り
かたけれと幸に二通それとも思はるれはこゝに挙く
土佐国幡多郡上山郷御地検高目録
本田弐百六拾弐町三反廿七代
一惣田数合参百八拾四町九段四枚代四分タ内
一土田百廿弐町六反十三代四分夕
右内
上田拾八町七反廿七代夕上書八町五反廿八代四分夕
中田四拾五町四反十七代壱分夕中書廿四町七反卅代三郎夕
下田九拾五町三反廿五代壱分下出五拾九町五反二代五分夕
一上屋敷壱町九反四拾壱代壱分土屋敷三反四十代二分夕
中屋敷六町四反廿九代二分中屋出弐町五反四十六代四分夕
下屋敷拾六町四反廿九代弐分夕下屋出五町八反八代五分
上畠五町四反十七代四分上畠出四十七代壱分
中畠五町六反十四代二分夕中畠出弐町入反卅七代四分
下畠四拾壱町四反四十六代壱郎下畠出十七町六反廿代三分夕
荒三十町七反五代四郎夕
外切畑拾八町五反十三代二分夕
已上
一本田拾弐町八反拾九代壱分
大用村
一合十五町五段卅三代夕内
一出田八町七反十三代五分夕上山岡元給
石内
上田七反七十二代
上田七反七十二代上書弐反廿三代
中田壱町五反廿壱代弐分中書六反五代二分夕
下田五町五反十六代五郎下出壱町六反十六代五分
中屋敷弐反廿代下屋出十六代
下屋敷九反卅代四分下畠出弐反二代四分
下畠弐町弐反廿二代二分
一荒壱町五反十六代
外切畑四反四拾七代二分
慶長三年七月九日算用
一本田弐百七拾五町壱反卅六代壱分
都合三百九拾五町三段夕山三右衛門
花押
荒三拾壱町壱反四代二分出田百廿五町三反廿一代四分
山三右花押
此内
外切畑拾九町十代四分夕
正木右兵衛花押
国沢右近花押
松田七左衛門花押
慶長二年
横山二右衛門花押
黒岩治部花押
右幡多郡上山大荘監中屋市左衛門蔵今按山三右則山内三郎右衛門
医田苑故此書如即証云
一御渡行宗名永地田畠子事
合二反十代山地支
一所居内前廿五代
一所流田一反十代
一々ヲフヤ十代一々名口十代同ヲク五代
右件仍田畠等山地者同主馬允重代相伝名相互要用有桐銭三貫五百
文代福井孫次郎殿処永代限治渡所実也但限有所御朱公事無懈怠
可弁進佐々若又致此地へ俵乱妨作者為而却不教子作者也仍為後日沙
汰沽渡状如件
康安元年十二月十八日
行宗馬允
右行宗彦八所蔵
前の文書数目の字誤写多く算勘合にかぬれとたゝ外切畑拾八町五段
十三代二分ケ同四段二分の二口有し拾八町六拾代四分才なるを結ヒて外切畑
拾九町十代四分夕といへる一条と後の文書に一反六拾代を結とて今二反十代も
あるにて見れは五十代を炒て壱段とする事分明也左すれは土佐の国に
用ゆる代ハ古の代とかはることなし播州の代ハいもなるにや
町段畝歩の考附間竿尺寸の考
雑令ニ云凡度レ地五尺ヲ為レ歩三百歩ヲ為レ里ト
一令集解ニ引二和銅六年二月十九日ノ格一ヲ云其度レ地ヲ以二六尺一ヲ為レ歩ク
孝徳紀ニ云大化二年春正月九日長リ三十歩広サ十二歩ヲ為段十段為町段ノ祖福
二束二把町租稲二十二束
段租稲一束半
又云白雉三年春正月班田既ニ訖ルル凡田長リ三十歩為レ段ト十段焉レ町ト
町租稲十五束
義解云謂殷の地獲ノ稲五十束来稲春得
田令云凡田長サササ歩広サ十二歩ノ為段十段為町
米五升也即於町者須得五百束也
義解ニ云謂田
段ノ祖稲
賦為租也
二束二把町祖稲サ二束
拾芥抄ニ云凡田以上方六尺一ヲ為一歩サ六歩ヲ為二段頭ト一段ヲ為二町ノ頭ト十段ヲ為二一町積ト一
制度通云古ヘ五尺ヲ一歩ニシ今ハ六尺ヲ一歩トスルノ異間アリ然レトモ右ヘ土地ニテ
五尺ト云ハ即今ノ六尺ナリ総別古ヘハ度量衡トモニ大小ノ二様アリテ田地米穀ヲ
量ルニハ六升長尺ヲ用ユ土地広サヲ積ルニハ一尺二寸ノ尺ヲ用ヒテ一尺トス是ヲ大尺ト
云五尺ノ内ニテ二寸ツヽノブレハ一歩ニテハ六尺ナリ然レハ古ヘ五尺ヲ為歩ト云モ今ニテハ
六尺一間ナリ令ノ欠ヲ詳ニスヘシ又云一歩一段ノ積リ拾芥抄ニ載スルトコロ今ノ
文ト異ナルコトナシ其内令ニハ五尺四方ヲ歩ト云拾芥ニハ六尺ヲ歩トスルノ別ヲヒ
令ハ長尺ヲ以テ積リタル者ニテ是又カハルコトナシ
本朝度制略孝ニ云本朝古ノ大尺唐制ニ承タルト云事其明證ナシトイヘトモ法令
万緒十二八九ハ唐ニ承タル事律令以下ニテ見ツヘリ且後成恩寺聞白吟及貝原
三番
律原
二番
中根元珪
篤信和扇中村也斎
改略
発揮
荻生徂来
度量
制度
伊藤原蔵補
五
考
通
等ノ上公五儒モ齊シク唐制ニ承クルト云フ中ニ就テ徂来ハ吾重唐制ヲ国史可
証ト記シ淡海公作レ令ヲ明ニ云五尺ヲ為歩三百歩ノ為ノ此レ其承二唐創一者也ト記テ
微証ヲ挙タリ如此ナレハ蓋唐ニ承タルノ説ニ従テ可ナリ但案スルニ唐ニハ大尺玉尺アア
テ玉尺一尺二寸ヲ以テ大尺トシ而メ大尺ヲ常用尺トシ玉尺ハロハ鐘律ヲ調ヘ曇景ヲ測リ
湯薬ヲ合セ及冠冕ノ制テミ是ヲ用ユルコト異邦ノ書ニ見エタリ本朝令ノ時ニハ大尺ト
小尺トアリテ小尺一尺二寸ヲ以テ大尺トシ小尺ヲ当用尺トシ大尺ハ只地ヲ度ルテミ之ヲ用
ユルコト雑令ニ見エタリ然ハ令ト唐ト用ユル所ノ制同シカス若令ノ大尺ハ即是唐ノ炎
一金ノ小尺ハ即是唐ノ玉尺トイハヽ器物ノ類唐ニテ一尺ト称スルハ令ニテ一尺二寸ト云ヲ合ヒ
今ニテ一尺ト称スルハ唐ニテ八寸三分三厘三毫強ト云ニ当ルヘシ夫如北ナラハ何ソ唐制ニ
承タルト云ハン五儒皆唐ハ大尺ヲ常用尺トシ今ハ小尺ヲ常用尺トスル事ヲ記得セス
其所説陳ナリ田令集解ヲ案スルニ古記ノ云云々雑令三ム度レ地ヲ以二五尺ヲ為歩ト又和
銅六年二月十九日枯ニ其度レ地以二六尺一ヲ為歩者ハ未知令格ノ赴并ニ段積等改易之儀
請フ具ニ分釈元使ハ二疑惑一キ一也答幡云今以二五尺ヲ一為レ歩者是高麗法曰為スルトシトモレ便テ
而尺ヲ作二長大一以二百五十歩為段者ハ亦是高麗術云之即以二高麗五尺ヲ一ヲ進ストトス
大六尺ニ一相當ル故ニ格ニ云以二六尺一ヲ一為歩ト者則是今五尺内積歩攻名六尺積歩耳其
於地ニ充所損益一也然則時人念ク令レ令云二五二五二尺二ト云ト云尺一即依テ格文ニ可シトシトシンシ加一尺者此不
然准令云五尺者此今丈六尺同党示耳トアリ業スルニ五尺ヲ一歩トスルハ即是唐ノ制
ナレハ高麗モ亦五尺ヲ一歩トスルトテモ本朝ハ唐ニ承タリトモ云云コトヲ得ヘシ然レトモ地ヲ度ルニ
便ナルカ為ニ度地尺ノミヲ長大ニスル事ハ唐制ニハ無キ事ニシテ今ノ時ハ然リ蓋是高麗
ニ承タルナルヘシ本朝孝徳ノ比ヨリ万事皆唐制ニ模ストイヘトモ其以前ハ然亥神功
皇后ノ三韓ヲ服セランンヨリ数世ノ間三韓頻ニ貢調ス蓋孝徳ヨリ以前高麗ニ承テ
度地尺ヲ制シ和銅六年マテ之ヲ用ヒタル歟是即令ノ大尺ナリ其常用尺ハ孝徳
以前ニ用ユレ所何ナル尺ト云コト知ヘカラス孝徳ノ比ヨリ用ユル所ノ需用スハ唐制承テ唐ノ常
用尺ナルヘシ是即唐ノ大尺ニシテ今ノ小尺ナリ其和銅六年二月十九日ノ格ニ六尺ヲ以テ一歩下
為ス事第一段ニ引タル物記ノ如クナレハ一歩ク大サヲ改メラレシニシテ又ハ故ノ如シ田令集
解ノ古記ノ説ノ如クナレハ尺ヲ改メラレタルニシテ一歩ノ大サハ故ノ如シ此両説ヲ折衷セントス
ルニ此格文今存セル類聚三代拾六巻ノ中ニ為シ但日本紀ヲ考フルニ和銅六年二月
甲午朔壬子始製度量調庸義倉等類五条事語具別格トアリ又同四月戊
甲領下新格并権衡度量於天下諸国ト見エタリ一歩ノ大サヲ改メラレタルノミニテ
又ヲ改メラレスハ製度草稟云ヘカラス況又買二度量ヲ天下ニ領下スヘカラス是此時
尺ヲ改メラレタルカ故ト見ユタリ其改メラレタル所ヲ察スルニ此時マテ度地尺ニ用ヒラレシ
高麗尺ヲ止テ是マテノ小尺ヲ大尺トシ其大天ノ六分尺ノ五ヲ以初メテ小尺ヲ
造リ而メ其大尺ヲ度地以下ノ常用尺トシ小尺ハ只略景ヲ測湯薬ヲ合ス
二ノミ之ヲ用ユル事延喜雑式ニ載タルカ如クナルヘシ故ニ全ニ五尺ト云ト格ニ六尺
ト云ト名ハ異ニシテ実ハ同シク一歩一段一町等ノ地ニ至リテ損益スル所ナキ事
古記ニ論セルカ如クナルヘシ然レハ和銅六年ニ至リテ大尺ハ唐ノ大尺ニ同シク
小尺ハ唐ノ玉尺ニ同シク而メ大尺ヲ以常用尺トシ小尺ヲハ夢景湯薬等ニ
ノミ用ユル事全ク唐洲ニ承タルト見ユタリ是ヲ相承ヲ延喜ニ至レルナレハ式ノ
大小尺ハ唐ノ大小尺ニ承クルトイフヘシ以前論スルカ如クナレハ今ノ大尺ハ高麗ノ
製ニ承テ地ヲ度ルニノミ之ヲ用ヒ和銅六年ヨリ是ヲ大尺ト名ツク猶常用尺トシ地
ヲ度ルニモ亦之ヲ用ユ即是今ノ曲天ナレハ当時ニ至ルマテ常用尺トシ地ヲ度ルニモ
亦是ヲ用ユ和銅六年ヨリ以後ノ小尺ハ唐ノ制ニ承テ暴景ヲ測リ湯薬ヲ合スニ
ヲミ之ヲ用ユ此尺イツノ世ニ止ラレタルニヤ今ハ無シ
鼎案するに小尺は今工匠用ゆる所の曲尺ゆへ曲尺の一尺二寸は今の呉服
尺にて即大尺の一尺さすれは大尺の五尺は小尺の六尺にして金ト格と地
の広狭に於ては損益なき仔細は集解に古記を引て云へるか如くなる
へしかく尺に大小の二杯あるは唐の制にして本朝もそれを承て二杯に
制すといへとも大小ともに尺に出しつゝの不同ありて彼と此と一杯ならさるは
一所伝の異なる也いつれを是としいつれを非とせん但諸儒の唐に承たり
と記せるは尺に大小二様ある事を指して尺のく寸迄をいふにはあらす唐
六典に凡天下之田五尺ノ為歩ト二百有四十歩ヲ為レ戒百両為頂レ
一和名抄引二唐
仝云諸田広
一歩長二百四十歩
といひ又度は以北方の祖参り中なり中なり中なル者一黍之広為分
為成弐百為頃
十寸為尺ト一尺二寸為一大尺一寸嘉又ト云云凡積テ祖柔一ヲ一為度量権衡者調二
鍾律一ヲ測ル二略景ヲ一合二湯薬一及ニ冠冕之制則用之内外宮司悉用二大者ヲ一
とあれは鐘律界景冠冕に小尺を用ひ大尺をは内外宮司の常用尺と
し又地を度るにも又尺を用ゆる事本朝の令に度地ニ五尺為歩と同し
きゆへ度制略考に五尺を一歩トスルハ即是唐ノ制ナレハ高麗モ亦五尺ヲ
一歩トスルトテモ本朝ハ唐ニ承タリトモ云コトヲ得ヘシ然レトモ地ヲ度ルニ便ナルカ為ニ
度地尺ノミヲ長大ニスル事ハ唐制ニハ無キ事ヲ蓋是高麗ニ承タルナルヘシ孝
徳ヨリ以前高麗ニ承テ慶地尺ヲ制シ和銅六年マテ之ヲ用ヒタルカ是即
一令の大尺ナリといへと唐とても尺を五尺に制するはあの為なるとや地を落る
のみならす隠して便用の為メなるへけれはこれを以て高麗法と限りていへる
はいかゝあるへき集解に所引の古記前に高麗法といひ後に高麗術と
いふこれ若シ高麗の制なりせは法とはいふへし術とはいふへらす因て思へに
一法といひ術といふ高麗の算法算術といふ義にてはなきや前後に誤写多く
文義分明ならされとも歩の五尺段の二百五十歩を六尺の歩三百六十歩の
段に懸ケ合せて出入なき様に推算する法術にて高麗国より所伝の法術
なれハかく名ツケしにやあらん猶考ふへし
制度通云本朝ノ古へ歩数ハ唐ニ準ソ五尺ヲ一坪トス一段ハ三百六十坪ナリ一町ハ十段ニテ
三千六百坪也町ハ唐ノ頃ニ準シ殿ハ唐ノ両ニ準シテ広狭アリ今ハ三千坪ヲ町トシ三
百坪ニ段トス尺一段ヲワリテ一トセト云コトハ何レノ比ヨリ始ルコトヲ知ラス又云唐ノ歌
畝頃本朝ノ歩ノ段町ニ準ス田地ニ段ト云コト漢土ノ積リ見当ラス然レトモヘンナリヲ
段ト云コトハ後世マテモ多ク見ヘタリ田地ニ町ト云コト遂ニ見当ラス左伝魯裏公二十
五年ニ曰町ス原防一ト杜氏ノ集解ニ云堤防間地不レ得二方止如二廿四日ヨリ一則為二小浜町一ヲ下
貫達曰原防之地九夫ヲ為町三町ニ而当ル一升ニ也トコノ説ヨリ本ワリ所ナキニヨリテ先
儒モ取用セラレヌ然レトモ町ヲ以テ田地ヲハカルコト是ニアラハル本朝町段ノ名モ是ヨリ
出ルナルヘシ字彙ニ町ノ字ヲ解メ云田区畔坪ナリト田地ノシオリヲ云フ又段ノ字ト相通
用スト見ヘタリ又段ノ字今ハ反く字ヲ用ユ是ハ段ノ字草草字反ニ似タルエヘミ訛伝シテ
カクノ如シ
目持案するに一段は一シキリといふ義なるへし唐書に朱仁軌誨子弟云終身譲
畔不レ失一段ヲ明律に移レ拉換段ヲいつれとり田地の上にていへになれと三百六十歩を一
段と積りたるは本朝の創制にて唐土に例なし東も日本風土記残編に倣ふ
粟幾丸幾畝幾宇田幾圃田幾七幾久なとあれは古く云へる事の様なれと
一三十歩を一戒とするは天正年中太閤検地以来の積りにてそれより以前はなき
事也
泰澄吉
田畑を分て六尺
一地方落穂集ニ云人皇四十五代聖武帝の数によりて行基偏印を分て六尺
長三十歩
を一反とし十反を一町とする也上の土地一反に生する
四方を一歩とし三百六十歩撰
横十二歩
京枡に直し
しと云へり中下の上は国により郷に随ひ土の品々帰
一四石二斗
米拾二合の枡を以て三石六斗は
れは是を略す
一田国類説云其間は六尺四方壱反は三百六拾分拾反を壱町とする事往古の定なり申古
より三百歩を壱反とし其後大半にといふ事起り今の石高になりて三拾歩を一戒
とし十戒を壱反とする事一統の通法となりたる也
和漢三才図会云中古方六尺五寸ヲ為レ歩ト其三十歩ヲ為或其十戒為段天正申復
用六尺法ヲ一其三十歩ヲ為或十戒為段十段十段為レ町今従レ之
ヲ以曲尺
一律原発揮ニ云本邦以二方六尺三寸一ヲ
一算之
為一町ト計三
子寄
続農家貫行ニ云往古ハ田壱反三百六拾歩也此田の出来福一歩壱斗毛〇積り籾三石
六斗あり春米にして壱石八斗となる一年三百六十日なれは一日に五合に当る是又の食
分の地なる故に人の賞禄を一反の命といふ又云往昔は夏三百六十歩也俗に
是を吉閤検地といふは非也天正以前の水帳に一反三百歩とありあり今越後国下
条水原等の村は一段三百六十歩とあり此外にもありや三百歩にはいつの頃より
なりたりや
太閤秀
読史余論ニ云此人
天下の田を犬量するに古法を変して三百歩を以て
吉を云
一段とす古の説に三百六十歩を以一段とする事一歩を以て一夫有の食として
一年の食分に龍といふしかるをかく飲められては一年のほと六十日の食を失へり夫に
一当代六尺の縄を用ひられしかは古の三百歩の中にして二歩半を失へり民いすか
窮せさらむされて此法再ひ古に復せん事井田一たひ変して復しかたきの
如くなるへしおもり此人之丈量せられしは昔の如くに或は一国一郡一庄を
あたへむには六十六州の地備足らさる事を思ひてかくはそのられしにや
間田
間一
間一
白石遺稿
十四月云天正中太閤天下の田地へ縄を入られし時世の人申候者上古以来
歩1
用用
歩
一段の田を三百六十歩に定められ候事は一歩を以一日の食にあてゝ一年の食料と
せられし所に此度南白殿の三百歩を以て一段に定められ候得は一天下の人民凡
一年の食料六十日分を減し申候いかにも是其末のよき事可有之歟と申たる由は
其事を歌に作りかたらひ候者近き比まて残りツと申候き右按するに前規は
非と申へく候其故は古法方六尺を一歩として三百六十歩也五閤の法は方六尺五寸を以て
一歩として三百歩也当時の法は方六尺を一歩として三百歩也右之様に候得共一天
下の人民六十日分の食料を勘し候は当時の縄の縄の事にて候き太閤の時歩数
をは滅し候得共縄をは五寸ツゝのへられ候き是又朝三幕四の術に出候といへとも今の
如くに六十歩上の減しはなき積りにて候是に依て奉聞古法方六尺為二一歩一歩一歩一歩一
六十歩ヲ為二一段ト一近法方六尺五寸為二一歩一三百歩為二一段ト二。右の差引いか程の減
になり候歟今法方六尺為二一歩ノ三百歩ヲ為二一段一一逆法ト今法とはいつ程の減に
なり候歟
日折案するに大化以後大尺にて五尺小尺にて六尺以て一歩とする事は天下一
統の制度なれとも鎌倉以来武家の世となりて国に守護職庄園に地頭
ありてより古の制度は日にあし失せ月まし迷ひよしてや戦国封建のせわなひ
ては我領国は己か心えに取扱ひ一定せる事なけれはいつとなく六尺五寸又は六尺
一三寸を一歩とする所も国により郷によりて土地の歩広なるまゝに私に古制
の様に申伝へし事もありて一定せざるは乱れし世の常なれは右もありぬへし
一太閤天下一統せられしより一歩を六尺三寸とし三十歩を一戒とし十戒を二段
とし十段を一町とする事にはなりし此人微賤より起りて累世名家の
倒
旧諸侯を圧倒し追々天下一統の功業を立られし所以は全く賞の重き
を以て人心を得るにあり後日天下平治の世となりても勢の至る所今更に賞
を呑せんも本意なしされはとて心のまゝに一国一郡一庄を功臣衆人にあたへ
むには六十餘州の地も足らさる事を思ひて天正の比天下を検地しかくは定め
られしにて世に是を太閤撿地とも又天正の石直シともいふ
日本紀通証云中古之制方六尺五寸為二一歩一即一間也天正申復用二六尺ヲ蓋紫下六尺ヲ蓋紫二
右五尺ニ一
退私録。太閤の時の縄は六尺五寸也其後六尺縄になる是は稲葉濃州の致されし
といふ
安斎随筆後集ニ云田地一反三百六拾坪は一年三百六十日の民の食也太閤秀吉
一坪を六尺に定め稲葉美濃守五尺八寸に定むといふ又云京間一間は六尺
三寸あひの間六尺田舎間五尺八寸也
俗称二一間一等一
路程用レ之
一律原発揮ニ云本邦以二曲尺六尺五寸ヲ一ヲ為一歩ハ
又以二六尺三寸ヲ一為二一歩ト
一俗称京間毎簡席二間置間一箇其濶四寸折斗之配一間ニ則得又以
二寸二以減二六尺五寸余六尺三寸ヲ為席一間之法一算二田積一用之
又以六尺ヲ
為一一
俗称に
夷間一
瓊矛拾遺ニ云紫宸殿清涼殿等ハ七尺間也此レ此レ凡伸二中指ヲ一以十ヲ為レ間臣下之屋ニ
作凡伸一テ二申指一以レ九為レ間ト故以二六尺三寸一ヲ一為二畳問一ヲ
成形図説云或曰く文禄よりの歩法六尺三寸一歩は是略を除て究めしなり或は六尺
五寸には唾を加へて究む是近来の事なり田を人家にくらへ見るに回の略は家の敷
居の如し文禄の歩詰六尺三寸方は畳二帖の定尺也これを家の間に積るに六尺
三寸は柱の中間毎に当る其柱横六敷の家は六寸角八敷の家は八寸角其家の長
四角方の所に柱の幅に敷居を入て其間に横三尺一寸五分縱六尺三寸尺の墨を
敷て広からす狭からす舎ら眠りなり恐らえ小き唖をこめて打には六尺五寸
裕なく打き大きなる畔を加て打には其心得もあるへき事なり又掻竿の長さ
六尺五寸もあり六尺三寸もあるを以て見れは是暖を除きて究むる法なるべし
地方答問書ニ云家作等の間積りには六尺三寸又ハ六尺五寸を用ひる田畑の歩積りも
中古天正年中以前之北迄は六尺五寸を用ひ候は申伝へ候文禄年中の比秀吉公之
命にて諸国検地の時六尺三寸の竿を用ひと申給へ候得共右何れも書記シ候ト
義も無之事故難信用候慶長元和之頃よりの撿地竿は壱丈二尺二分を用ひ
来り候壱間を六尺壱分と定め其間に壱分宛の余計をかへ来り候義前によりの
格例ニ候今以て
公儀之倹地御條目に壱丈弐尺弐寸竿を以て検地可仕旨書載有之候事
日折案するに此書は総廟の御代地方切者とありて御代官より御勘定
吟味役迄昇進せし辻六郎左衛門の筆記なり当時地方の事に付諸向よりの間
一合せに答へ又は自分見聞せる事共を前後の次第もなく記したる覚書の
福本にて書名もなきを子孫たる者取集めかりに地方要集又は地方集
要なと外題し置けるを何者の私に地方答問書と名つけたる也ますれは
答問書は原本の本名にあらさるゆへはこゝに地方要集とる集要との
いふべきなれとも此人答問書なる事を知らす別書と心得違すやけ
れは姑らく世称ニ随ひて答問書といふ下同し
三器攷略謝云申葉以来以曲尺六尺五寸ヲヲ為レ歩ト此歩法未レ書ヤ其ヤ其所ナレトル或謂昔者
鑄
量ルレ地ヲ之竿長リ一文三尺餅ヲ二歩ヲ一計レ之人立ヲ提ク于中間ヲ両端迭昌ノノ端進昌地ヲ以テ地以
進行シ首尾接続ス以度レ之蓋取其間接一ヲ一也今考レ之ヲ立提レ竿在二脾間一去テニ去テ可ク二
二尺五寸乃以二尺五寸一ヲ為レ勾ト地廿六尺ヲ為股ト而依二術求レ之ヲ其弦適得六尺五寸ヲ一故制ルル
竿吶頭各六尺五寸通長リ該テ十三尺後人誤用此竿ヲ乾一地面ニ度レ之竟以二六尺等ヲ一
為歩而丈二之竿迄レテ尚未二之改一ノ耳○元和以降新田ノ法六尺五寸ヲ為レ歩三十歩
為レ酔ト十或ヲ為レ没ト十段ヲ為二一町一此書合改並ニ用二此法ニ近歳又撿スレ地ヲ用二六尺之竿ヲ一ヲ
他ノ如二旧法一以二其未久故ニ此ニ此ニ此ニ此ニ此ニ不レ之
田園類説ニ云三番改略に中葉以来六尺五寸を歩えすといへるは上方筋には古捨の
村とて六尺五寸竿又六尺三寸竿の場所に申伝へたる所あるを以てかくいへとも
其村々の検地帳は勿論ニは何も記したる事はなし畢竟地面の歩広なる故に
申伝へたると見へたり是によりて慥成事ともせす或説を挙て土地を量事
には六尺一間〇積りなれとも量地はか行様に竿をは壱丈三尺にして其中を
提て両端を地に付分印を付て見るに地より挙まて大概二尺五寸計りと見て
六尺五寸を強とし二尺五寸を鉤として算法によりて股を出せは地面六分もの
二ツなるを以て捕行の為[ニ]丈三尺竿を制したるを以て後人誤て六尺骨
一壱間の所もあると思へるとは左もあるへき事也信州飯山に住せし人に知れるものあり
そのりみ城主に仕へ検地又は地改抔に度々出し事あり間竿の尻を両手にて持ち
我胸に竿の尻を当て竿元を地へ付て印を付ケ二間四間六間とかそへさせぬる
由これも右の説に同しく壱丈三尺を強とし地より胸にて四尺五寸計りそ見て是を
釣として股を出せは地面壱丈弐尺弐分内となれは手廻しのため壱丈三尺竿を用
ひしと見へたり又元和以降新田の法六尺五寸を寄とすといふ事聞伝へ記すと見へ
たり是は開発以前新田を割渡す時の事を心得違ひてかくいへるなるべし
最初の割渡しには其節役人の心にて用ひし事也享保年中南北武蔵野上総
国子町野新田なと最初の割渡しにはいつれも六尺井竿を以て渡し置き開
発なりて本検地の節は御定の通り六尺壱分竿を以て検地極る事也
地方細論集に云田国類説に新田見して節六尺土寸の積りを以て大張りみ抜
地いたし置き本抜地高入之節は御定み六尺を用ゆるあるは無之事也惣して
廻検地之時は六尺間水縄或は弐間弐匁の竿を以て百間に付何寸と絵図面に反別
を付け積るなり然る時は如何様に致し六尺五寸の絵図面に直し可申哉惣子
上は六尺間の積りにて内弐割を以て堤敷道代溝敷畔代之分大積り百町と
出候はゝ弐拾町除之八拾町と可記事也検地之節番に改むへし又言田園
一類説に壱丈三尺の竿は揃行為ごとありたあるましき事歟古工道の法に
上方間六尺五寸江戸関東間六尺田舎間六尺三寸右を考るに四円類焼
心得違なるへし恐れとも引付を以用ひ来れは誤りにもなる間敷身
体を釣腹弦に用て大方六尺間可成趣は的中し古検壱反三百六拾歩
ある故に六尺五寸間と云なるへし既に中国石屋抔一図に土八尺五寸間といふ
一検見之時ハ其心帰に而前る也六尺間竿に而伊州様しにては六拾坪の損あるゆへ
也六尺の古法たる時は六尺五寸と云語は無之事也然れとは六尺五寸に心得候
村々は古槍三百六拾坪の積りを開候也得也然り上ハ六尺に寸を用ひ可然也又言
六尺五十間壱間と見る時は尺坪四拾弐坪弐合五日也六尺間と見る時ハ三拾
六坪也指引右押六坪弐合五貫六尺五寸間の方多し是を壱反三百六拾抔え
懸り又壱坪の法三拾六坪を竿割る時は六拾弐坪五貫いつれにしても算用
一不合也壱反三百六拾坪は六尺五寸より出御法にては無之
日折案するに三番改略に犬三の竿を釣股弦に積りたるは附会と云へし
田園類説に信州飯山の人も釣股弦の法を用ひしゆにて引読すれとも
これは私領方一種の法にして天下通用すへきかあらす当今にても国持家とは
様々の仕法ありて前は家持を以て取計ひ一振無之事は封建之世の常に
して引証しかたし又案するに六尺五寸壱歩の尺坪は四拾弐坪弐分五厘
なれ八壱反三百歩之積りにて此尺坪壱万二千六百七拾坪となる又六
又四方其歩なれは此尺坪三拾六坪にて壱反三百六拾歩に積りて尺坪
壱万弐千九百六拾坪となる故壱反の上にて尺坪弐百八拾五坪反歩にて
七歩九厘余古の方過となる依て地方細論集に壱段三百六拾坪ハ六尺
五寸より出し法にてはなしといへよ也
地方初心集云昔は六尺五寸棹にて三百六拾歩を壱反と定む近代は三百歩を一反とす
棹も段に短くなり六尺三寸或は六尺弐寸六尺と棹にも段てありを見へたり棹の違ひ
六尺五寸を六尺に直せは壱寸弐歩の違ひあり又六尺五寸を六尺三寸に直せは
壱反拾九歩になる六尺三寸を六尺竿に直せは壱反一駄となる也
日打楽するに以上之諸説書入ありていつれを是と定めかたけれとも予を以て
思るに六尺寸一歩を以て申古天正以前の制といへにも天正以前天下一統の
制にてはあるましけれと土地の労広のなるは士民ともに刹ある故余地ある
まゝに古の制の様に申ならし多くは里程を量る六尺等の間号をおしめて
かひ六尺五寸一歩なといひ伝へし也長曽我元親の百箇條に
一尺抔之事城普請其外何によらす本間六尺五寸たるべき事付
田地ハ可為格別事
とあるなとにて知るへし是とても乱れし世の習ひにて一定せる事にはあらし
太閤一統の世に及ひて天下の検地せられ古の三百六拾歩一段を三百歩一段と
定めしを天下の人民一年の食料六十日分を減せし候て人に嘆き其事を
敵に作りかたひし由なれは其頃民心の揺動せしこと思ひやける且六戸五寸
壱歩を六尺壱歩とせられんには壱段の上にて五拾二坪分三の減あり町方
の尺坪ハ三拾六坪六尺五寸四方の尺坪ハ四拾二坪二分五厘辺に壱歩に壱歩にて五尺等四方の
方六時二分弐厘多し此尺押三歩の上にて千八百七拾五坪也日足をこ尺四間坪に直し五十
二坪八貫
残すてに壱段にて六十歩の減ある上に又五拾二坪余も余歩打出さんに
三とな
天下の民いりてか穴朝せさかん元来土民の私にもせよ一概にかく改正わは民情
に戻り指支ゆる事あるへし地方芳問書に文禄年中の頃に秀国公の命
一にて諸国捨地の時六尺三寸の芋をきひ候と申伝へツをあらは毛のよふに思はる又書う
記し候義も有之故難信用候といふは非也予嘗て勢州の方人細木某に太閤
一検地の事を問合せしと勢州南北とも文禄三年六月十七日御来まて検
地役は羽柴下総守服部采女稲葉兵庫岡本下野守一柳右近太夫朽木
河内守新庄東国の七人にて間竿は六尺二寸之由なれといつれの検地帳奥書
にも間竿を書載たるは見当らなと考へられししかし勢州とても広き事
なれはいつれたか間竿のある検地帳の存在てさることはあるましと思ひ彼是を
聞合せしに一友人の藤堂侯の封内大和国拭上郡三谷村にて連当りしとて
寄示さる大和国文禄四年太閤改検地有之拭上郡三谷村も同年八月十八日
小堀新助検地にて奥書に云
六尺三寸竿ヲ以テ五間六拾間三百歩壹反定申候
とあり又其後勢州須ヶ瀬村渡辺六兵衛か家に所伝の太閤の検地條目
を書写して贈くる原本拙筆にして古く損すれは難読文義分り兼る
所もあれと其侭に冩す云
就任勢国御検地相定條之
一田畑屋敷六尺三寸竿を以五間之六拾間三百歩ヲ壱反へ可致検地事
一上田壱石五斗申田壱石三斗下田壱石壱斗下之は見計可相定事
一上畑壱石弐斗中畑壱寄下畑八斗下之見計可相定事
一屋敷方壱石弐斗たるへき事
一山畑野畑川田多老斗代官色ケ其上見計斗代可相定事
一山手銭塩浜山物別之事先指出申付候其上見計年貢可相定事
一在々之上中下并井懸り麦田日損水損倉を入見分斗代可相定事
一村切傍等を立入組無之抔キ可相定今迄僕示相紛候ハ隣郷之上使申談新
傍等さかい可相定事
一針令京井相定則検地為奉行在様へ京計を相調可遣前は計を半集
可取上事
一検地面百姓にもうつさせ請状申付以来計代達さ不集候様に可申付候則検
地為奉行其在々之長畳割を仕可渡趣
一如御法度自賄に可仕候但さらじ薪ぬかわら地下人に尤可召遣之事
一給人百姓にたのまれ礼儀礼物を取私曲之族於有之は未聞付次第運糺明
さほ打之もの不相届候付てハ可加成敗主人相紛付而は無用捨在様も可差上
の
右之条に相守下之上此一書をきさほ打て可申付也
御朱印
文禄三年六月十七日
羽柴下総守との
服部采女との
稲葉兵庫との
岡本下野守との
一柳五疋太夫との
朽木河内守との
新庄東国との
一右六兵衛は由緒旧家にて先祖渡辺筑後守男四郎左衛門尉北畠家より
永禄天山の頃木造左衛門尉之目付として瀬村江移住し其後両家に
分れ太閤検地之助兄を仁右衛門弟を四郎兵衛といひ同村之庄屋を勤
一槍地にあつかりみ田其頃仁右衛門の筆記せる古き書キものゝ内に
一太閤様御検地文録三年きゝのへ尓年一柳佐近殿御打被成候仁右衛門
地方ハ御宿を仕大縄ニ請申候
古来検地六尺坪にて
此歩三百六拾坪三百六拾坪壱反也
(
横六間
其後槍地六尺五寸坪にて検地は
太閤様御検地六尺三寸坪也
一長六拾間此歩三百坪壱反也
一横五間
是六尺坪にて三百三拾歩七分五厘に成ル然は元壱反にて廿九歩弐分五
厘ツレ書也
明良
此三通にて太閤検地の六尺三寸竿三百歩壱段なる事知るへし湖
法範
云高木仁右衛門入道宗夢秀頼ニ答テ曰往古ヨリ日本ノ田畠六間六十間ヲ
一反ト定メ置レシヲ長束大蔵ト云算勘人ヲ愛シ渠レカ奸智ヲ用ヒ五間六十
間ニ竿ヲ縮メテ日本ノ
捻把ヲ改メテル
文禄の検地は即天正の石直しにて同時なるへけれは
其頃よりして世もよふやく治平におもむきし故おひ〳〵に田地へ縄を入れ乱
一大久保石見
世の弊風を改められしみて世にいふ石見検地は
一伊奈備前
備前検地
守忠次也
守長安也
橘宿自
なといつれも慶長年中に行はれて遂に今の六尺壱歩にはなりし謝云今時
正則明暦三年九月御役
天和元年十二月御免
の田園の検地は白食検地といひて慶長十五年六月十三日死去せし伊奈備前守忠次の
検地也忠次は佐藤某の僕従にて小童より田図之事に委しかりしといへり備前寺の量上
以前は大久保石見守か横地也是を石見損地といふこれより以前は文録元年秀吉公
の時の抜地也此時より六尺三寸の法の出来しに聞伝へたり今時の折換地といふは一段
三百坪也古検地は
答問書に慶長元和の頃よりの検地竿は壱丈弐尺弐分を
一段三百六拾坪なり
一用ひ来り候とあるにて知るへし後稲葉美濃守正則執政の時に及て天下一
統の制度となり御条目に書載する事にはなりし故に退私録は稲葉濃
一州の致されしといへもならん然るを母斎随筆後集に稲葉美濃守五尺八寸に
一定むとあるは穴に四合間を六尺とも五尺八寸ともいへるなとにまかいて心得違
ひせらにやすへて田金間は六尺二間の家の間に四寸角の柱ある積り故畳間を
五尺八寸とす五尺八寸は柱を除きての積り六尺は柱を加へての積るゆへ六尺も
五尺八寸も六尺二間の家の間の上にては長短なし但し今世にいふ京間は六
尺五寸中間は六尺三寸なるを瓊矛拾遺に以六尺三寸一為畳間といへるはこれも
京間六尺寺二間の家の間の上にて柱間除まていへにて律原発揮安斎
一随筆後集に糸間を六尺三寸にするも田舎間を五尺八寸といふの類なるへし
されは上方筋の家作は京間六尺五寸を一間とし関東方は田舎間六尺を一間
とする故夫に準して畳に六尺三寸五尺八寸の不同ある也
田園類説云地方答聞書に中古天正年中以前頃迄は六尺五寸を用ひ候と申伝といふは
古検の場所はいつれ地面の広きを疑ひて工道家作の間竿を押あてのひに云伝ふる
事もあるへし扨検地等壱丈弐尺弐歩にて壱間六尺一分と定めたるわけは元禄
年中飛騨国捨地之節御修目にも竿之儀六尺壱間之積り弐間竿たるへし
一但シ壱間に壱歩宛かへ来る保長壱丈弐尺弐分竿を以て可打勿論壱反八
可為三百坪旨有之上は六尺の間と云は古来よりの御定めにて壱分宛かへ来と
見へたり予少時知れる老人のいへるは往古には五尺其歩六尺壱歩と云事あるを
以て六尺壱歩の間竿を以て搔地するといふをいつとなく歩の字を何す何分の
分の字に誤りて今六尺壱歩通法となれりと云へり左もあるへき事なり然れ
とも六尺壱歩とする事通法になりて検地帳奥書にも六尺壱歩の間竿
を以て壱反三百歩之積り御検地相極と書来なり或役人の奥書は六尺壱歩と
書て渡せし検地帳もあると大和国にて聞し事あり右の如く六尺壱間といふは
一古今の通法なるに其所の申伝へにて六尺に寸竿古検之場六尺三寸竿古検
之所といふを今更糺明すへきにもありされは其村の仕へのまゝにして取箇をも
積りて至るへし又美濃国の堤間数之竿は古米よりの引付とて六尺五寸を壱間
とす今更改むへきにもあらす
日折案するに六尺壱歩は慶長以来天下一統の定制なれとも古検の村とて
六尺五寸竿の場所なとと伝ふも申供へのみにて其村の検地帳を始め聢乞
書載たる記録もなくたとへあるとても当時の制度にあらされは執用ひには
太閤検地の地所には六尺三寸竿の
ならされとも
上知私領の差別なく前に仕来り
事を書載たる検地帳あるなり
の通りにと成置はいづれ村にても当時検地する時は必す打出し余分あるゆへ六
尺縄を法として歩広なるを見す聞す申伝へのまゝにし強而致出し取斂
の御沙汰なきは御当代氏を愛する莫大の御仁政ならすや但し当時の
間等六尺に壱分宛の有余をかへ二間竿にして壱丈弐尺弐分とする事御規
定となれり何故に壱分の有余を加ふる事にやいかさま田国類説に引ける
老人の説の如く五尺壱歩六尺壱歩の名よりいつの頃より歟心得違して誤れるま
るへし又或役人の奥書は六尺壱歩に書て渡せし検地帳もあると大和国にて
聞しなとゝ珍敷事の様にいへと今は天下一統に検地帳奥書に六尺壱歩と書て
渡す事にて是等は心附へる事なりに御代官る手代も疑ひもなくて古来れ
るは如何なるゆへやらん
又案するに美濃国堤の間竿は古来よりの引付にて六尺五寸を壱間にそる
由いりなる故やえ害らかならす寛政三年辛亥の秋洪水之節美濃国
川て国法御尋に付御郡代鈴木門三郎へ申上候濃州村々御普請国諸書の内にも
国法通りにて団子は六尺五寸壱間を相用ゆとあれは正徳三年上知御料所に
不相成以前井上遠江守領分の頃より仕来ル事引付の法と見へたり但し六尺
五寸は盛込にて竿目はやはり御定法通り六尺壱分に制し分広なるよしこれも
いつの頃よりかくなりしや知る人なし
田園地方紀原巻中
江戸朝川鼎五日折父述
貫并貫高之考
園類説云鎌倉将軍家の未京都将軍家の初より田地に貫といふ事
始りて知行領知なし直に此貫高を用ひて東國西國四國一統行はれし
事也其後関東にて永高といふ事始りしか世上にて此貫高と一ツ事と
思ふは誤なり
鼎案するに鎌倉将軍家以来領知の入高を其土地の米価の貴賤にあてゝ
一貢米の多少を量り銭納にせしよりいつてなく所領の高を貫を以て唱ふに
事にはなりし然る故に後世の永高にまかひて混しおほへたる人あるは誤
なり永樂銭は後小松院の応永以後此地に流行し貫は其以前よりの
稱ゆへ一様にはいひかたしされと永高も銭納の上の名なれば永楽銭渡り
てよりの永高を又貫高といひし事もあるへし故に永樂銭渡りて
より以後は貫高にも二様ある也
太平記ニ云相模守近国ノ大庄八ヶ所自筆ニ補任ヲ書テ青砥左衛門二ツ給
ヒケル左衞門補任ヲ啓キ見テ大ニ驚キテ是ハ今何事ニ三万貫ニ及フ
大庄給ハリ候ヤラント問フ
間え目蓮録内御書に
戦せ有之貫高の事を
證に引度奉存候
記に引度奉存候
古證文ニ云
奉寄進世良田山長樂寺ニ
田五段畠
田五郎島
上野国世良田郷後閑三木内作人子善後家在家壱宇田五岐島五
二町八反
毎
年ノ年貢合セテ拾貫文ノ間ノ事
右所、者代代相伝当知行ニ無二相違一地也而且ハ為二祈祷且ル為一。亡者菩提一
長楽寺ニ所奉二寄進一也子子孫敢不レ可レ可レ可レ有二若シ至千違亂煩之
輩ニ者永ク可為二ル不孝之仁一仍テ寄進之状如レ件ノ
延久三年癸卯月十日
散位源義政花押
又云
上野國新田世良田ノ長樂寺永代奉二寄進一ニ畠ノ事一
合壹町捌段一年得分十
二貫文所
右件ノ畠ノ者上野国新田ノ庄小角田村内御堂前ニ有レ之件ノ畠者長楽寺
に依レ有[ニ其志立四立二四至ノ地一元亨三年亥十月十七日寺ノ御使に打渡畢ス
如此ノ奉二寄進シ上ニ者於二此地一不レ可レ致ス一塵ハ煩ニ煩一若シ子子孫孫於レ致二違乱
煩一ヲ者満義跡職一分不レ可二知行一ス仍ルヿ。後代ノ龜鏡一寄進之状如レ件ノ
元亨三年癸十月十七日
源満義左判
一異業するに満義は世良田弥次郎也上一通の年号延久は延慶の誤
写なるへし古証文此二通之外に満義より長楽寺江の田畠寄進状
三通を出シ都合五通ありいつれも貫高を載すれとも煩を省て二
通を引證す
相模入道
北條系図
高時之下
云領地二十八万七千貫
随云領地十八万五千貫
又
一慧性五
慧性之
鼎参するに貫高の事東鑑に見へす又其項の古文書共に見当りし事
なけれはいつれこれより後の稱なるべし本文に引證する三書によりて
考るに北條時宗時代より漸く始りて高時の頃には天下一般に行は
れし様に思はる太平記にいふ三万貫の地後世の十貫百石にて量るに三
十万石也半減にしても十五万石なれは左ほとの賞を一時に賜はん事疑
ふへきに似たり故に貫考に永楽銭未渡以前本邦ニ通用スル銭一銭ハ一銭
ニ用ユル故ニ鉄賤シク諸物貴シ応永ノ末永楽銭渡テ後ハ夫マテ通用
シタル銭ニ較スレハ永楽ハ新渡ノ上品ナル銭ナル故ニ永一銭ハ所ニヨリ三四
五銭ニアテヽ通用シタル事ニテ米価モ右ニ随テタトヘハ古銭一貫ニ米一石五
斗ヲ買タルモ永楽ニテハ二百五十文前後ニ買フ如クナリタリ然ル故ニ
永楽銭未渡已前納得何貫ト云フ地は銭多ク米少し永楽通用の後
出物此案十ニ
此考恐らくは非ならん永一銭を所に
何貫と云フ地は米多ク銭少しとありて後世永楽銭通以後の貫
高の割合を以て一様に論しかたき事をいへと。猶後條に諸書を引て
より三四五銭にあてゝ通用したる事も
ありつれとそれは民間私の取引相場にて
公法に用ゆる事にてはなし公法は永楽
貫に書入不同ありて古今一様ならさる事を挙て併せ考へは思ひ半に
も鐚同様一銭を一銭に通用せし也慶
長以後永積りの貫高の公法を以て慶
長以前の貫を例すへからずされは永楽
過きん
銭渡未渡の前後にて貫に貴賤あるは
民間の事故これを以て公法の貫高を
論するは如何あるへきや殊に知行の貫
高は籾字にして民間売買の米価
文案するに此時代前後の米価を考ふるに百錬抄に
の貫と混同すへからさるおや
後堀河天皇安貞二年六月廿四日以二銭一貫文可レ被レ被直二米一石一ニ一ニ一ニ一ニ一ニ一ニ一石一ニ
下二宣旨一又寛喜二年六月廿四日甲甲申定二米價ヲ斛セシト銭一貫文一とあり尤
其年は五穀不登して米価騰貴せしゆへかく定められしならん歟な
れとも法曹至要鈔に建久四年十二月廿九日ノ宣旨。云応二銭賃出奉ノ
以レ米タ辨二テ債利一ヲ事右得ニ記録所今月廿三日ノ勘状ヲ稱ス銭直ノ法仕二シ去年八
月六日ノ宣旨状ニ一一貫文別ニ以二米一斛一ヲ為一正物一とあれはこれはこれによりて其
一頃の米価を考へ合せなは大概は推知すへし
夏山雑談云永禄ノ比参河国ハ百石ハ百貫ニ当リシニヤ
三河国
住人鈴木八右衛門ト云フ人ニ千貫ノ地ヲ賜ハリンハ十石ニ当ルナリ委
シクハ深溝家日記ニ見ヘタリ
俗説賛辨続編ニ云中古地方の知行を計るに百貫千貫といふ数目あり今
も仙台には其数名ありといふ此数西国にて明に知る人なし武家系図相
模入道平高時の下ニ曰領地二十八万七千貫當[シ]当代ノ知行百四十三万五千
石ニ一是田五段を一貫としたるもの也又或人奥の人に聞たるとて語りけるは古永
楽銭十文に米四合八勺をうる故に百文は四升八合一貫は四斗八升百貫は四十
八石に当る然は知行百貫といふは今の知行百石ト同し後世家によりて知行
を蔵米にて遣はすに四ツ八分の免ならしとて米四十八石を知行百石と名付て
遣はすは此古法なり今按するに我友人古證を以て決レ之ヲ曰右両説名非
なり土佐国幡多郡中村郷不破村八幡宮実蔵に一条家の古文書あり曰
於本郷中村
八幡え新御寄進田之事
光任小作
一所壹貫有間之内弥木弥五郎
壹貫分目黒之内泉国
蔵橋分
六六十分蔵橋分
二百五十分立石分
一、
合而参貫分歟
康政印
永禄二年巳未三月吉日康政印
右の文書を按するに田千歩を一貫とす今の三段三畝十歩也是銭千文を一
貫とするか如し然れは百貫は田十万歩今の法にして三十三町三段三畝
十歩知行三百三十三石三斗三升三合とすへし恐くは奥にて申すも
如此ならん歟
同餘隨筆ニ云足利ノ世ニ禄二貫ヲ云コトアリ田千歩ヲ一貫トシ是ヲ積
リアケテ百貫ハ田十万歩今ノ法ニアツレハ三十三町三段三畝十歩ナ
リ千貫ノ禄ナレハ三千三百三十石餘ノ所ヲ領セルヨリ伊澤某辨
解セリ
戸鼎案スルニコレ前文ニ所引ノ俗説贅弁続編ヲ指メ云ナルヘシ俗説賛弁続
編ハ土佐ノ谷重遠ノ著述ニテ井澤長秀ハ俗説辨ノ作者ユヘ書名ノ似
タルヨリ誤リ
混セシニヤ
關東ニテ苗百把ヲ百目ト云諺アリ是ヲ考レハ千石ハ
千貫ノ事ナルヘシ
甲斐名勝志。云中古貫高と云あり此事委しく知れかたかりしに一
とせ上野廣俊信濃に行けるに伊奈郡北小河内村の村木何某か家に
傳。所の古き算書に見へけるよし語りけれは今こゝに挙る也其書曰天正
年中毛利氏検地迠は一歩を一文一畝を三十文一段を三百文一町を三
貫文と云[ト信濃国上田の邉には今に貫高を用る所も有と云
鼎桑するにこの説によれは壱貫は壱石十貫は十石百貫八百石千貫
は千石万貫は万石相当なり
又業するに壱貫壱石相当の親は如何あるへきや信用し難し前条
につける百錬抄法曹至要鈔なとに米壱石を鉄壱貫文にあてしは
売買米の定価にて知行の上に云ひしとは思はれす古の貫高も後
世の村高と同し事にしてたとへは知行壱貫文の地より出る米壱
石ありといへとも此壱石は籾高にて米に摺しにはあらす若シ五
一合摺の割合を以ていはゝ壱貫弐石相当になるべき事にそ尚後
條と併せ考ふへし
又案するに俗説贅辨続編に友人の古文書を引て田千歩を壱貫と
すといふ説は心得かたき事也古文書に田地の反別を記しおか
されは據る所なきに何を證としてかく云へるにや壱貫分七百五
一十分二百五十分金参貫分歟とある分の字を歩の字にして見し
様に思はるれと左解したらんには壱貫歩三貫歩とせん歟不成語と
いふへし
一土佐国蠧簡集に此古文書を載せて云今按数百年前称二来地
之数一皆謂二何貫一諸説紛々後世天下不レ知一其正義一此文書田求千
歩為一貫一貫一也明矣蓋取銭千文之縁乎とあり分を歩しまして三百六十歩
なして解する事俗説贅辨続編に同し
を壱反とする制もあれは反別を以て二段三拾歩といふべき事なる
にたゝ一概に七百五十歩と反の名を省し理もあるましいつれこの古
文書を以て田千歩を壱貫とするの證にはなしかたき也此分の字は分
一銭の事にて壱貫文分七百五十文分二百五十文分合る参貫文分損と
いふへべ文を文の字を略し歟しあるは米価に時の相場ありて貴賤一
様ならさる故大積りを挙ていひしなるへし
又案するに夏山雑談の説は伝聞の誤りならん歟後条に引し古諡
文の鈴木八右衛門へ賜はりし
神の御書と同物ならんには大なる異同といふへし深溝家日記には如何委しく
記し有之事にや
村井勘十郎覚書
菅利家卿語話に云前田蔵人殿は二千貫の御家今程の五千石斗の御知行
の由殿様
前田利家
卿ヲ云
卿ヲ云
註文
村井
豊後も
豊後
をいふ御申候事
鼎案するにこの説によれは壱貫は二石餘十貫は二十石餘二百貫は二百
石餘千貫は二千石餘万貫は二万石餘相当也
又案するに予信州飯田の人に知れるありて其村の水帳の事を尋ぬ
問ひしに後日抄録して贈り越しぬ政證のために左に挙し
伊賀良庄銭納高
一千三百廿九貫七百六拾八文城下東郷
武嶋田村中
同
千六拾九貫三百九拾三文
弐百六拾貫三百七拾五文
一毛賀村上
城下西郷
一三百三拾四貫三拾三文城下西郷
一三百三拾四貫三拾四貫三拾四貫三拾四貫三拾三文
長照村下
弐百五拾貫百七拾貫百七拾貫弐百七拾七文
内
内弐百五拾貫百七拾七文一色村油
八拾三貫八百五拾六文
一三百三拾八貫三百八拾文駄科村下
下殿岡下
一百七拾貫五百七拾六文下殿囲下
一三百四拾四貫八拾二文伐林下
一六拾貫五百廿七文時又上
一四百八拾五貫九百五拾九文川路上
百三拾四貫百廿文
内
三百五拾壱貫八百三拾九文
下瀬上
一七拾四貫五百拾三文下瀬上
一六百六拾五貫三拾五文
一六百六拾五貫三拾五文伊豆木上
一弐百六拾三貫九百弐拾六文立石上
一弐百拾四貫三百八拾弐文駒場上
一廿九貫五百九拾八文
一廿九貫五百九拾八文昼神上
一五百拾壱貫六百拾八文山本下
一弐百八拾五貫八拾八文中関上
一三百壱貫六百廿文竹佐下
一百六拾五貫文羽入野下
一百三拾壱貫文大瀬木下
一弐百四拾八貫五百文北方中
山村中
一六百五拾六貫九百文山村中
一五拾九貫四百文上殿岡下
一四百八拾二貫四百八拾三文中村中
一三百四貫百弐文久米上
一三百四貫百弐文
一銭弐百五拾八貫弐百五拾八貫五百廿四文
平分
内
内
五十分
一四拾五貫五百七拾八文
光明寺分
一弐百拾八貫五拾一文三日市場下
惣〆七千六百七拾四貫五百五拾壱文
天正十五丁亥年九月日常葉六左衞門
上ニ中一九下一八
松尾領村高
一六百石三斗弐升四合弐勺竹佐下
一三百廿九石九斗八合弐勺羽入野下
一弐百六拾弐石九升大瀬木下
一四百九拾七石壱升九合北方中
山村中
一千三百拾三石八斗六升三勺山村中
一色中
一百五拾九石八斗九升六合一色中
一百拾八石八斗弐升壱合三勺
一百拾八石八斗弐升壱合三勺上殿岡下
一九百六拾四石九斗六升五合
一九百六拾四石九斗六升五合中村中
一五百拾七石壱斗五升六合八勺久米上
一九拾壱石壱斗五升六合八勺光明寺上
一四百三拾六石壱斗三合三百市場下
三日市場下
一四百七拾六石九升六合六勺長照中
一弐千三拾壱石八斗四升八合嵩田中
一六百九石四升九合五勺駄科下
一五百弐拾石七斗四升九合五勺
一五百弐拾石七斗四升九合五勺毛賀上
一三石七斗五升五合下殿岡下
桐林下
一六百廿石六斗八升三合弐勺桐林下
一百三拾三石壱斗五升九合五勺
一百三拾三石壱斗五升九合五勺時又上
一弐百六拾八石弐斗四升上川路上
一七百三石六斗七升八合
一七百三石六斗七升八合下川路上
一百四拾九石弐斗七合下瀬上
伊豆木上
一千三百三拾石七升伊豆木上
一松尾高〆壱万弐千四百四拾壱石九斗四升六合三勺
天正十九辛卯年九月
京極修理大夫様御検地
御水帳
浅井九兵衛
御竿奉行
一谷井小右衛門
案するに天正の石直しは天正十八年よりなれは此水帳に天正十九年
とあるにて其以前の災高を京極修理大夫高知飯田領知の頃検地して
石直しせし事知るべし此貫高石高の相当銭壱貫文に付
竹佐下
一壱石九斗九升餘竹佐下
弐石五升餘
弐石五升餅羽生野下
弐石餘
弐石餘大瀬木下
弐石餘大瀬木下
一壱石九斗九升余
一壱石九斗九升余北方中
山村中
弐石餘山村中
一壱石九斗余
一壱石九斗餘一色中
弐石餘
弐石餘上殿岡下
一壱石九斗九升余中村中
弐石餘久米上平分
弐石
弐石光明寺上
一壱石九斗九升余三日市場下
一壱石九斗余長照中
壱石九斗余
一壱石九斗余嶋田中
一壱石七斗九升余科下
弐石餘
弐石餘毛賀上
壱石八斗餘
一壱石八斗余下殿田下
桐林下
一壱石八斗餘桐林下
一弐石壱斗九升餘時又上
一弐石上川路上
一弐石餘
一弐石餘下川路上
一弐石余
一弐石餘下瀬上
伊豆木上
一弐石
立石駒場昼神山本下中関上
右之五ヶ村石高なし
これにて考るに此辺は壱貫弐石の石直しなりしや此石高は則村高ゆへ古
の貫高も籾高にていへる事明らか也
兵家師鑑ニ云古ハ知ラス信玄公家ニテ拾貫ト云フハ四十石ノコトナリ三十貫
ハ是四千二百二十俵ノコトナリ
兼山先生筆記。云享保元年七月甲州屋五兵衛ニ甲州俵之事承り候
処三斗六升俵也古より左様に候やと尋候得者甲州外と申候は京斗三升
入なり信玄公の御朱印御座候升屋今に居申候右甲州外にて一斗二升入
申候左候得は小升にしては三斗六升也唯今貫の事不申候哉と相尋候
得は今は貫と申す事は不申候然共古百貫の跡は四百石と申候右横田
勘左衛門に借り写之
鼎東するにこの説によれは壱貫は四石十貫は四十石百貫は四百石千貫
は四千石万貫は四万石相当なり
相州鎌倉松岡東慶寺御朱印に
寄進松岡
相模国小坂郡鎌倉内
八拾六貫六十文二階堂
貳拾貫八十文十二所内
六貫貳百四十文極樂寺内
右如先規令寄附訖弥守此旨可有相続者也仍如件
天正十九年弁十一月神祖御花押
常興雑史ニ云松岡の御朱印御代々右之趣也御朱印高百拾二
貫三百八拾文なれとも此納得収納悪しく五百石程にも当るべし
一鼎案するにこの説によれは壱貫四石四斗四升九合十貫は四十四石四斗九升百
貫は四百四十四石九斗千貫は四千四百四十九石万貫は四万四千四百九十石相
当なり
武家評林ニ云伝ニ曰供御料ニ相州入道一跡ヲ被成事諸国ノ所領凡ソ二
私曰當代知行ニシ
古供御料所十万貫ニハ不足此彼
十八万七千貫余也
テ百四十三万五千石
当代知行ニシテ
一領地引合テ五十万貫ニ余レリ尚
神武ヨリ以来未タカル例
二百五十万石
當代知行ニシテ
ナシ大夫入道ノ一跡諸国諸領凡ソ十八万五千餘貫也當
九十二万五千石
兵部卿親王へ被進又大仏奥州ノ一跡諸国二在所八十四箇所納
当代知行ニシテ
米七萬七千餘貫也
ヲ准后御方御領地也凡ソ此領
三十七万五千石
地ニテハ一萬五千人扶助シナン
蠻宗制禁録。云信長卿宇留岸に於江州甲賀に三百貫文以叡石石知
行所を賜はる
又云信長卿元亀二年小谷乱入の序に叡山を可焼払とて九月十二日
山門に押寄て乱妨シ翌十三日所々え火ヲ付て攻討事夥シさしも金
銀を鏤たる伽藍仏宇神社楼閣一宇も不残焼亡し三千の衆徒殺
害せられけり此時より比叡山は昔の如くならさりける是迄は寺領十
凡五十万
萬餘貫
万餘貫凡五十万余貫凡五十万余貫九百万
国学忘貝云数度宵談ニハ鈴録ヲ引テ相違ナリト書リ本朝今ノ制
三百坪ヲ以テ一反トシ三千坪ヲ以テ一町トス水帳ノ石高所〻ニ
ヨツテ不同アリトイヘトモ大抵一反ヲ一石五斗或ハ一石六斗一
石三斗トス然レハ百坪ノ高大略五斗ナリ所レ謂十貫ハ一万坪ナ
リ乘二五斗一ヲ得二五十石ヲ以テ思ヘハ千貫ハ五千石百貫ハ五百貫ハ五百石十
貫ハ五十石ナルカト見ヱタリ
鼎案するにこの説によれは壱貫は五石十貫は五十石百貫は五百石千貫は五
千石万貫は五万石相当なり
故議記云大名の身上を幾万石平士の身上を幾千石幾百石といふ事は古
法にあらず大形信長秀吉の時分より起る古の領地の書物を見るに何郡
何郷何村にて幾十町幾百町抔とありて石高はなし武士の知行を幾
十貫幾百貫といふ当時百姓の言葉に残りてあり一坪に苗一把種る事
にて百坪には百把種る是を百目といふ千坪に千把種る是を一貫目といふ
一世積りにて大抵千貫目は百石百貫目は千石に両れとも上中下の違ひによりて一定也
○嚴云熱田古證文の中に慶長三年八月の證文状に拾貫文の米二十
三石六斗と記せり此等を以て古へ分銭石直しの法を知るへきかも但し
是は尾張にての法也諸州の石直し所〻不同もの多し予か先祖三州大浜村
にて五十貫文の地を拝せし此米は五百石也然れは尾州よりは石直し少き歟
或は時代により又異なるにや
又云伊勢両宮造營御遷宮料秋米三萬石是天正十年三月十一日平
信長森蘭丸を奉行として両宮修造の時永樂銭三千貫文を下行
せらる三千貫文は当時三万石に当る此例を以て今三万石下行すとそ
鼎案するに信長永楽銭を下行せしは美銭を択はれし迄にて其項は
永楽も鐚同様に一銭は一銭の通用ゆへ後世の永勘定の割合にあら
すと知るへし驢尻に春日井郡豊場村万松山常安寺後花園
院永亨中明谷義元禅師開基後柏原院大永四年甲申当邑領
主淸口冨之助某といふ者亡父蔵田居士の為に本尊を安せり此像は
肥後河尻に在り伝へ云毘首羯摩天所彫也釈迦阿羅迦葉三體なり
溝口氏永楽一百貫文を捨て買得たりとあるなと美銭を撰ひし迄
にて一銭は一銭の適用なれと」当時永楽銭を貴ひし事を推知す
すへし
北越軍談ニ云伝ニ曰ク本庄ハ今ノ村上ノ地ナリ元龜ノ初メ越前守繁
長輝虎ノ勘氣ヲ請ケ當所ヲ去テ庄内ヘ移サル慶長三年三月景勝
ツ貫今ノ二身ヒ
羽柴秀治拝領アリ越前北ノ庄ヨリ
会津ヘ得替旧地二万貫拾ヶ所ニ羽柴秀治拝領アリ越前北ノ庄ヨリ
ト十萬石刀
リ春日山ノ城ヘ移ル古丹羽長秀ノ与力村上次郎頼勝其頃ハ周
防守ト號シ六千四百貫ノ分限ニテ加州能美郡ヲ領セシカ秀吉
公秀治ノ後見トメ本庄ノ城ヲ給ハリ二千六百貫ノ加増アリ是ヨリ
地名ヲ改メ村上ト呼来レリ
草盧雑談云知行ヲ貫ヲ以テ稱スルヿ諸書ニテ考フレトモ知カタカタカリシ
ニ今仙台ノ人万石以下ヲハ貫ヲ以テ称ス十貫ヲ百石トス是ニテ能
知レタリ誠ニ知ラサルコトハ衆人ニ問尋ヌヘキコトナリ
貫考云天明六年午ノ夏仙臺ニ遊ヒシ時ニ前澤ト云所ニテ農
夫ノ所持シタル仙台家中ノ分限帳ヲ買求メシカ其中ニ万石以
上以下トモニ何貫又何石トシ貫ト石ト入交リニ禄高ヲ記シタリ中ニ
トモ倉小十郎カ知行千七百貫文餘トアリシヲ何石ニ當ルト問ヒケレハ
一万七千石余ノヨシ答ヘタリキ其外領中所々ニ貫石ノ相当ヲ尋
子見ルニ皆十貫百石ノ積リナリ是ヲ以テ考レハ雑談ノ説臆説
ニアラス
房總志料云里見氏九世永樂銭ニテ采地割有シト永銭壹貫文ハ高拾
石ニ允ル
鼎案スルにこの説によれは壱貫は十石十貫は百石百貫は千石子貫は万石万貫は
十万石相当なり
又案するに以上の諸説一貫一石相当より十石迄の不同ありて一様ならすいつ
れを定説となしかたけれとも永樂銭未渡以前と已渡以後の時世を
以て国の遠近土の肥痩等を考へ合せなば大積りは推知すへし但し続
和漢名数に永楽銭貫数幾内近国稱スル二百貫ニ一者ハ充二千石之地ニとめ
りて塩尻に伊勢両宮修造の時下行せる永楽銭三千貫文は当時三
万石に当る由をいへは此貫は永楽銭にて計るといへとも其頃中国の米価
過不及求均せし定数ならん歟又奥州の十貫百石は邉鄙の地運漕も
艱難故中國の米價と一様に論しかたきはつなれとも家中知行割は
中國米價の割を以て十貫百石としてもされしものなるにや恐らくは仙
台の十貫百石は後世の制度なるへし下條に引く夏山雑談玉露叢
に載するは壱貫二十石相当なり尚諸国石代の條と併せ考ふへし
古證文云
此外壱石は寄進
一麦石五斗五升此外壱石ハ寄進
四郎右衛門居内
一弐石八斗七升四舛石橋引居内
一三石五斗八升者四郎右衛門分
以上拾石者此代貳拾貫文
右之分依有□□酒井雅楽助方為奏者所令
扶助也永不可相違之状如件
永禄八年乙丑十一月廿七日神祖御諱
神祖御諱
鈴木八右衛門殿
鼎煎するにこの説によれは壱貫は五斗拾貫は五石百貫は五十石千貫
は五百石万貫は五千石相当なり
夏山雑談ニ云陸奥ナトハ昔ハ十貫ヲ以テ百石ニ充ツ今世ハ五貫ヲ以テ一口
石ニ充ツルナリ唯楽麿往年高野山ニ数月アリシコトアリ此時ニ彼
山ニ成就院ト云寺アリ此寺ヘ伊達中納言卿ノ時ヨリ十二貫ノ地ヲ
寄進セラルト聞シ故委シク尋ネシニ十二貫ノ米高凡九十六石ニテ四
ツ物成ニシテ二百四十石ニ当ルナリ是則五貫ヲ百石ニ充ルナリ
玉露叢云近年仙台の知行五貫文を他家の百石とす
鼎東するにこの説によれは壱貫は二十石十貫は二百石百貫は二千石
千貫は二万石万貫は二十万石相当なり
氏康の
比をいふ
北條五代記ニ云其頃
比をいふ
四百五十貫百貫と名付田地の跡は今五千石
一万石ありとかや
鼎案するにこの説によれは壱貫は百石十貫は千石百貫は万石千貫は十万
石万貫は百万石相当なり
国学忘貝云予カ家ニ永禄三庚申年當國多度郡天霧山城主香
川弾正忠之景ヨリ頼レテ加勢セシヿアリ其謝礼状今ニ所持ス
其略文ニ云ク今度從阿州到当国乱入之刻別而御入魂之儀候
間貴所知行之内多度郡葛原庄鴨請銭拾三貫文令合力候ト
ノ書ナリ如何ナル算合カ家記ニモ分リカタシ右村〻当時ハ
其高合テ凡二千五百石ニ近シ
鼎案するにこの説によれは壱貫は百九拾三石餘十貫八千九百三十石餘百貫は
万九千三百石餘千貫八拾九万三千石餘万貫八百九拾三万石餘相当なり
又東するにこの説余りの相違にて予か考へには及ひかたし愛所以ある
べき事にそ猶他日の考語に備へんかために書記しおきぬ
血尻云或人問中世以来武家来地永楽銭幾貫といふ凡一貫は秋米幾
石に当れる曰代々所〻によりて不同有之是を分銭の法といふたとへは毛利
元就揚井隠岐守江下せし感状に分銭八貫之地揚井隠岐守於南
桑内一為二給地一被レ遣候全可レ為二知行一者也弘治三年十二月廿五日吉
川左京等五人連判なり分銭天正の石直しに東国は一貫九石西国は
一貫八石といふ但し天文の比は三州邉の分銭一貫十石なりしや予免租
天野賢景天文十九年三州大浜にて五十貫文の米地を拝領す然る
に其納得は五百石の地也其後東海道の分銭五貫百石の石直し也甲州
辺は石直し尤少シ一貫四五石の時ありしとそ
夏山雑談ニ云永楽銭知行ノ事畿内近国ハ百貫ヲ千石ニ充ツ遠国ハ百貫ヲ八
百石七百石六百石五百石ニアテタル所モアリ畿内近国其外広邑ハ運送
タヤスキ故ニ米ノ價賤シ遠國僻地ハ運送艱難ニシテ價ヤヽ貴シ是故ニ
国々価シカラス
続和漢名数ニ云本邦都鄙ノ米地永楽銭。貫数〇畿内近国称二百貫ト者ハ充一ヲ
千石之地一関東遠國百貫有當ル八百石一ニ有一者二當二百石ニ或ハ當二六百石ニ或ハ當二
蓋来地近京都及ヒ広邑ニ一則運送容易ス而穀価貴シ故ニ鉄数漸ク多シ矣米
地在二僻遠一則運ノ送艱難シ而穀価賎故ニ銭数漸ク少シ矣如二奥州ノ古者以二十貫ニ
充二百石今世ハ以二五貫充百石五十貫克千石是近世河渠漸ク開テ石舟楫
之利以濟二不通一ヲ不通一ヲ一之故也
鼎案するに夏山雑談は続和漢名数によりていひたる様にもあれと米
価貴賤のわけを論するに至りては相反せり今日を以て考ふるに続和
一漢名数の説尤の様に思はるすへて米價は都会の地と邉鄙と運送のよき
所とあしきとにては十倍の相違もありすてに治平の今日すらかくの如し
まして乱れし世の融通あしき頃は各別の不同あるも其はつの事也書上
土地の肥痩によりて米に上中下もあれは迚も一同せる事はなかるべし
されと伊勢両宮修造料永楽銭三千貫文は当時三万石相当之由
是ハ公法ニて当時中国未償平均之相場なしへけれハ
これに準し国々にも其土地の遠近肥痩によりて知行なと充行に用
ゆる大積りの高はいつれの所にも自然と定りたる相場ありしならんなれと
一今日にありては知れかたき事故強て一定せぬをよしとす
鹽尻、云古へ文武官人の馬料といひしは又米にあらす銭なり文官一位五十貫
文二位三十貫文等以下初位二貫五百文に至る又武官は従三位二十五貫文
従四位五貫文より八位二貫五百文に至る蓋後世分銭石直しの法の由て書る
所かと覚へ侍る古へは武士に地を賜るを馬の飼料と稱するを以て考ふべし
太平記に青砥左衛門か事を云ふに三万貫に及ふ大庄なんといへは分銭の
法は鎌倉将軍の時より有てと見へたり
鼎案するに貫稱の起りを論する事一理あるに似たれとも馬飼料は官よ
り直に銭を以て給はり田地にあつかりし事にてはなしされは田地の米高
を量り銭納にせし後世の貫高と一様にはいひかたき歟
田園類説ニ云貫といふは軍役を田地の坪数へかけて割付しより起りて六千坪
宛にて軍役一騎の積り是を六貫壱疋といふたとへは所領三百貫を領す
る者は五拾騎の軍役と定たるものにして知行領知なとにも此貫数を用
ゆ此古より往古の三百六拾歩一段を三百歩一反に變せしなるへし今時の積
りにては弐町歩計りにて壱騎の軍役勤まるへき事にあらすといへとも
昔の兵農八かれす武士土着の時の事は当時の算用に引合かたし大抵十
貫は百石百貫は千石に当れとも上中下によりて一定せすと云事は坪に
籾壱升積りにして一貫の地拾石拾貫の地百石百貫の地千石に当る積り
なれとも其田地に上中下の品あるを以て其積かの通りには一定せさる也元
年貢の積りにはあらす軍役を田地の坪数へかけし故也今も国々に百
刈千刈と云伝ふるも大概百刈は壱反千刈は壱町の事をいへとも既に今
検地も石高に改むる上は民間に用ゆるのみ也然れとも是又古へ貫高時
代の詞残りて云伝ふると見へたり扨世上に貫高永亭一様に思へとも一事
にはあらす貫は田地千貫の事也銭の数をも百を百文千を壱貫といふ
ゆへに相紛れて誤れり貫高はすでに鎌倉将軍家の末より各日あり
永楽銭は夫より百年も後に異国より渡りしものにして貫は田地
の坪数永は銭数なれは旁以て一事にあらすと知るへし
鼎案するに此説は全く鋳録により鈴録は故諺記によりて云へる
也苗千把を一貫目といふより田地の坪へ割付け六千坪にて軍役壱騎
を勤るを六貫壱疋といふ由にて三百歩壱段になりし起本の様にいへし
三百歩壱反は天正の頃より天下の定制になりてそれより以前は三百六
十歩壱段なれは此割付けも合ひかたし殊に苗千把を一貫目といふは
稲束の目方なれは何貫文と文の字を加ふる理もあるましいつれ貫は
銭納より出し名目にて軍役の積りにはあらす又百刈千刈といふは上古
稲何万何千何百何十束といひし頃の遺言也安齋随筆後集に
勢州土人云稲一束といふは一把を十二合せて一束とす範一把といふは
手によくつかみて三つかみを把といふ凡一束は三十六つかみ也田壱段にて
勢州の辺三十朱苅といふとあり又或覚書に信州水内郡権堂村間御
所村荒木村千駄村栗田村右五ヶ村往古より稲四拾束を一反に極め
高何石此州何拾束と書出し候を右四拾束を以て割反別と成其反別
を以て高を割前均石盛と成るなり合毛差加へ右当り合にて差引削也
右五ヶ村
高五百八拾九石四斗七升三合
此州壱万九千六百四拾九束壱分
一但四拾束判を以
て壱反と極む
一此反別四拾九町壱段弐畝八歩弐五匁
とあるなく古制の今に髣髴と存するにて延喜主税式に凡公田獲
稲上田五百束中田四百束下田三百束下〻田一百五拾束といふ巾田下
延喜式ハ壱
これも国々にて不同ありて一定はせ
田の東数に符合せり
の束救をいふ
携海一得に云斉東野人の語も格物の一助となる事多し三越奥羽北辺
ましけれと
の国にて田産を数ふるに何かかりといふ富氏の産をいふに幾千刈幾万
刈と称す其馬は定かに知りたるものなし先年越後北鄙の老農の一奴に問ふに曰田四
百坪を一反と云是を百かりとして男一人にて五百かりのあてに作々しむ細慢百かりより
籾二三石を得る土師なりとこれにて決して貴高より出し称にはあら其
いくかりといふ事知れたり
大半小之考
地方答問書云世上に而太閤検地と申し文禄年中頃には田畑反歩を大歩
小歩半歩と記候水帳有之大歩は弐百歩小歩は百歩半歩は百五十歩之
事候三百歩此時も壱反ニ而候大閤検地の竿長サは壱間を六尺三寸ニ極候而は
丈弐尺六寸ニ而候事
四民格致重宝記ニ云大閤検は一反三百六十歩と云伝へたり然れとも天正年
中の水帳を見しに三百歩也其水帳には敵と云はなく壱領大歩小歩半歩
八十歩九十歩なとゝ有之大は二百歩にはる歩半は百五十歩を云へり今世間人毎
に云へるは大閤撿は三百六十歩ゆへ今検に合せめる弐割とけいありといへり右之
通天正の縄三百歩に候へはよけいは無之若は其時代左候へは今間に直しては壱反
三百五十弐歩にあたりて壱割七歩余のよけいあり
田圃類説ニ云大半小は田地一反三百歩を三ツに分ケし小名歟今の石高より
以前に行はれし事也然るに其後地改をして地広なる侭に往古の三百六拾
歩に取合せ大半小を付し所もあり
田園類説ニ云世上に大閤撿地は三百六十歩壱反と云伝ふるは誤り也すてに
大半小も三百歩一反ある事分明也越後国蒲原郡の内新発田検地は
三百六拾歩壱段にて反別を大歩半歩小歩と用ひ来り大は弐百四十歩半
八百八拾歩小は百弐拾歩といふ予其所に至されは委しき事は論しかたし
といへとも是はわけありての事也検地も多し承応の頃なれは其時地改せし
に歩広なる故に往古のみ百六拾歩を取合せ反別付直せしものて思はるさる
によりて籾納の時の如く米取になりてもやはり取米の辻を直に其村の高に
せしも歩広なる反あるへし
或覚書ニ云
天正十九年
検地奉行寺田右京
下野国足利郡羽田村之内
一中田五段半四拾弐歩
一下田三段大拾壱歩
田合九反小三歩
田園類説ニ云位反別ありて高石盛はなし此時代は関東にては永高
専はら行はれし事なるに如此中下の位もあり一反三百歩の積りにて
慥成検地帳もあれは永高は年貢辻を永楽銭に積りて今の根取といふ
ものゝ如くなる事と知るへし
地方細論集ニ云田園類説の説不分明也壱反三百六拾歩の積りにして
一中田五段半百八拾歩四拾弐歩
一下田三段大弐百四拾歩拾壱歩是は弐拾壱歩の誤なるへし
合田九段小三歩
此歩八段四百八拾三歩也内三百六拾歩壱段取又小歩百弐拾歩取残り三歩也然申上者
一此節も三百六拾歩壱段の割合なり
鼎案するに大正の石直しは天正十八年よりなれは此水帳に天正十九年々
あるにて太閤検地の水帳なる事知るへし其頃より古の三百六拾歩壱段
を三百歩にせしは前條に云へる通りなれは此大半小の積りも三百歩壱反にて
云ひし事必定なり然るを地方細論集に強て古の三百六拾歩に附会せんと
一て拾壱歩を弐拾壱歩の誤りとし算合するは如何あるべき壱段三百歩の積にて
一中田五段半四拾弐歩
半は百五拾歩也此反別五反に百九拾弐歩也
一下田三段大拾壱歩
大は弐百歩也此反別三反と弐百拾壱歩也
田合九反小三歩
半四拾弐歩大拾壱歩合せて此歩四百三歩下成内三百歩一反を除き残り百三歩なれ
は小三歩ト成
かく勘定も合ふものを何とて拾壱歩を弐拾壱歩の誤字とし附会せるとな
れは定めし新発田の三百六拾歩一反に大半小の積りあるに泥みて云へるなら
ん歟溝口家に新発田を領地に下されしは天正石直し以後慶長三年の由
なれと越後はかねて上杉景勝旧領なるを直に溝口家え給はりしゆへ其
頃改めて地改め検地もなかりしそれゆへ三百六拾歩一段にて大半小の積りも其
割合なりしもと大半には一段の小割にして官よりたてし制度にてもなく
たゝ民間に取扱ひし称なれとも三百六拾歩に足さる地を積るに都合よき
故民間の申ならはしに随ひ水帳にも書入るゝ事になりて石直し以後三
百歩壱段は天下一統の制度故三百歩の割合にて弐百歩を大歩としる五拾
歩を半歩とし間歩を小歩とし其頃の検地帳にも書加へしなりされと大半
一小に三百六拾歩の地と三百歩の所とにて割合相違ある故後に三拾歩を一畝々
するの制度たちて大半小の稱は官に用ひ給はぬ事とはなかしにあらん今は
六尺縄にて三拾歩を壱両とし三百歩を壱反とし三千歩を一町とするを天下一定の
法と仕給へとも又氏間に古法の存せるを事なかれは申伝へのまゝになしおかれ
今更地改めし検地帳を書改めすして事論むは国家民を愛する寛大
の政といふへし
又案するに大半小はもと三百六拾歩壱段の小割なるを三百歩壱段トも通
用せしを田園類説に大半小は三百歩壱段の時の名目にして承応検地
の頃歩広なるは往古の三百六拾歩に取合せ反別を付直せしとあるは本
末の取違ひにて誤といふへし予足利時代の田地古文書に大半小を書
載たるを数十通見たりいつれも三百六拾歩壱段也その内水戸の高倉
逸斎より寄示されし常陸国鹿嶋郡鹿嶋神社大宮司に伝来の古
文書には大半小の割合まて書載せあり後證の為に左に全文を挙く
大賀村検注取帳図日記
六十歩ト云ハ足数六十也小ト云ハ二六十歩也
半ト云ハ三六十歩也大ト云ハ四六十歩也
三百歩ト云ハ五六十歩也一段ト云ハ六千歩也
凡一段ト云ハ頭六杖一杖ト云ハ六十歩也
一反ニ五斗四升也此内四斗ヲ宮方へ沙汰ス
一斗四升当方へ納也
一三百歩には四斗五升此内三斗三升三合宮方へ沙汰ス
一斗一升七合当方へ納也
一大ニハ三斗六升此内二斗六升六合々中宮方へ沙汰ス
九升三合々中当方へ納也
半ニハ二斗七升此内二斗宮方へ沙汰ス
一七升当方へ納也
小ニハ二斗八升此内一斗三升三合宮方へ沙汰ス
四升七合当方へ納也
六十歩には九升此内六升六合々中宮方へ沙汰ス
二升〇合々中当方へ納也
一斗代と云は反に一斗三升也是は宮方へ六升五合当方へ六升五合同分の納也
一都合と云は宮方の一百姓モ読田一反には五斗四升沙汰す此内一斗四升当方へ納
ムルヲ勘定シテ大賀ノ籾ヲ宮方ヘ沙汰アルヘキヲ当方ヘトヽメヲクヲ加徴米云也
右依読曰宮方ヘ都合ノ籾ヲ沙汰シテ後
五斗〇別新九月五日小七月両度の分に祢宜に請取する也
六斗五日小七月ノ駄飼料百姓十人シテ清取也
三斗堰料トテ百姓等請取也
一斗御倉椀トテ百姓等清取也
二石四斗供料三人分百八斗亥也
一合三石九斗役所へ下行ス余分ハ名主筆税ニ給也
元徳二年秋十一月十八日日記ヲ写畢
応永四年町十二月八日出写し
同十一年甲十一月廿五日書改
大賀村検注雑志新事
銭一貫二百五十文田米二斗八合〻中
籾三斗三升三合
籾三斗三升三合大豆三升
此外水クリヤヨミアヒノ酒肴ノ代アリ
又帳紙二帖アリ
一雑志ヲハイ分スル次第宮方へノケ
銭八百文白米一斗三升
籾二斗二升大豆二升
此外水クリヤ細ニ在之又帳帋一帖
文和三年十二月廿五日元弘日記写之
一地頭方へ雑志ハイ分事
一銭四百五十文白米七升八合〻中
籾一斗一升三合大豆一升
此外水クリヤノ細々物并帳紙一帖あり
又云銭三百文白米四升七合籾七升五合大豆一升紙一帖名主方へ請取也
銭百五十文白米二升三合籾三升六合定使トラスル也
但池代ハ反大ノ分百三十三文ハ元徳二年短年ヨリ留之然間一貫百十六
文納テ是ヲ已前ノ如日記両方へ配分スル者也
元弘元年辛酉十一月十八日ノ記ヲ貞和五年配十一月十七日当十九年早〻又文
和三年卯十一月十七日自元弘元年至于今当二十四年写之畢
雑然応永四年町十二月八日当四十四年此日録ヲ見出畢
元徳二年亥年ヨリ応永四年町十二月八日ニ至マテ六十九年池代八反カ
分百三十三文留之畢
右件検注とケテ後宮方へ都合の沙汰して所残
五斗御別供料六斗神事米
一斗御倉税二石四斗供料
一合三石九斗役所へ下行スル也余分は名主筆税ニ給之
一堰新一石八斗此内一石五斗宮方ヨリ下行ス
三斗当方ヨリ下行ス
是ヲ宮方ノヲトナ五斗清取
大賀のヲ十一石三斗請取也
三月三日五月五日
名主方へ正月五日礼節に罷越畢
節供に新足三百文ツ也
十人ノヲトナノ外ニね宜ノソナヘアリ
又修正曰アツカルモノモソナヘヨキサケヘイチヘタお也
但三月三五月五日ノ節供ヲトナ共令難渋了
この古文書に元徳二年毎とあれは足利以前鎌倉将軍家の末取大半
小はいと古くより申伝へし事と思ひしに此頃又弘安八年十月十一日の豊
後国田代注進状案と」元暦元年の田地古証文に大半小を書載せある
を見及へり「今元暦元年の古語文二通を左に出して古を存す」
売進藺田辛
合伍段少者
在塩小路南朱雀東角二段大
八条坊門北防城西南一段
同次一段大
右薗田者大江氏女之代々相伝私領也尓依有直要用所売進
七条之法印御示実也仍注進如件
大江氏
建仁元年八月八日
源頼基
且成外題所近様也
御座御作手餘状事早かゝ夷除之由下知波計を鳥散
在田地等可尋沙汰由蒙鐘倉殿仰ツヽ召所々尋沙汰々也
〽恐々得に
祝能
七月廿六日
元暦元年
永之考
草盧雑談云中古治乱記二応永十年癸未八月二日大風堂社仏閣氏悉ク
顛倒シケル二日未刻ヨリ翌三日巳刻迄夥シク吹ク其風前代未聞ナリ三日申ノ
敦書案スルニ三崎今ハ世人
豆州トイフイカヽ考フヘシ
下刻相州三崎浦へ
倭漢合運二応
唐船一艘漂着ス
永十年八月三日
尊氏三男左馬頭
唐船来ルトアリ
基氏ノ孫ナリ
時ニ鎌倉ノ公方足利左兵衛督満兼卿
下知
大風ノコト無之ハ
ありて印東次郎左衛門尉梶原能登守景宗三浦備前守義高奉行
トメ被遂詮議ケルニ悪風ニ放タレ着岸仕ル由ヲ申ス船中ノ雑物ヲ点検スルニ
応永十年ハ明ノ二世大宗永楽九年ニ当ル
唐朝ノ永楽錢数百貫文ヲ積乗セタリ
永楽銭ハ永楽九年ニ鋳ルトアリ此一
所追テ可
一政ナリ
依テ此船ヲ抑留シ使者ヲ京都ヘ上セ前将軍義満入道道義新
将軍義持之方ヘ巨細被告ケルニ唐船開東ヘ着岸スル上ハ偏ニ満兼ノ徳
分タルヘシト被仰下ケレハ船中ノ財宝不残抑留シ唐人ニハ可帰唐旨被申渡帰
唐ノ日数ヲ積テ其余分ヲ考テ粮米味噌塩薪等其外色々アタヘテ帰船サセラ
レタル
本朝寶貨通用ニ畧ニ慶長十四年ニ上総ノト
其後満兼評定アリテ若千ノ永
大滝浦へ黒船ツキシト関東ヘハ漂船多シト見ヘタリ
一銭徒ニ弊スヘキニ非ス関東ニ於テ此銭ヲ以テ可売買旨頓テ法ヲ定メ被用之
然ルニ遥ニ年ヲ経テ天文十九年ノ頃ハ東国ノ諸民、永楽銭ニ鐚ト云フ悪銭ヲ取
一雑テ同直段ニ用之故ニ賣買ノ輩所々ノ市町テ於テ彼悪銭ヲ撰ヒ論シ畢闘出
来タリ
此月此頃関東ハ永乗銭ヲ貴テ京銭ヲ都テ鐚ト云フト見ヘタリ近キ頃令併記ヲ見ルハ慶長十一年
イグ、七月廿三日ノ金ニ云下総国佐倉ヨリ東ニ於テシカミ銭トリヤリ仕ヘカラスワレ銭タケ銭新
悪銭撰不可申候ト是ニテ見レハ関東ニテ此頃ヒンハ慈銭ヲ鋳ナルヘシ又寛永一年八月廿七日ノ
令ニ云大カタワシ銭カタチンコロ銭新悪銭銭九六銭ノ外撰ヲ分ラス若シ撰フモ又六銭ヲ
押テ従フ者アラハ其面ニ火印ヲ押スヘキ事トアレハ悉銭色ニアル事明ヲナリ然レハ関東ニテハ
京銭及ヒ六銭等都テ鐚銭ト云フト見ヘタリ京銭トハ西土ヨリ渡リタル歴代ノ銭ヲイツナリ
本朝宝貨通用事略二明ノ本京ノ時鹿苑院公方義満ヘ送リシヿ永無銭我邦ヘ来ル為メトス
一天正ノ始北条左京大氏康関八州を討従ヘテ諸士悉ク被下知ヲ守ル故ニ家臣山
角信濃守定信笠原越前守康朝等其外奉行頭人ヲ招集メ評定セラレシハ夫烏
目ニ召替リアレトモ・永楽銭ニハ不如敷自今以後関東ミテハヽ水輿ノ一銭ヲ用ヒ他銭ヲ
不用ヤウニスヘシト思フナリ一二ハ銭ノ善悪日ヲ固メ不可論ニニハ民ノ諍論ヲ止シテ為三六
売買ノ隙ヲ弊サレカ為也面々如何思フト相議セラル皆尤ト同レス依之辻々町々郡庄
郷村里中ニ右之趣ヲ高札ニ建てゝ水楽一色用ユ此故ニ近国ノ者鐚ノ内ヨリ・永楽ヲ撰
出シ鐚ヲ除去シカハ自ラ鐚ハ廃リ上方ヘ上リテ永楽ノ一銭斗リ関東ニ留リス。此時ヨリ
一鐚ヲ名付テ京銭ト云ノ其後天正十八年七月十一日北条減ノ関八州ハ徳川殿
領シ給フ慶長九年ノ正月ヨリ永楽銭ノ用ユトイヘトモ一向鐚ヲ一リ葉ニアラストテ鐚
四銭ヲ以テ永楽一銭ノ代リトタ遣フサレトモ其銭ノ善悪ヲ撰テムツカリシカハ同十一年三月
八日大久保相模守忠隣本多佐渡守正信ニ仰セテ永楽銭ヲ停止メ鐚ノ一
一銭斗リヲ可用旨武州江戸日本橋二高札ヲ被建ケレハ是ヨリ永クヽ水楽銭廃レリ
此時永楽銭ヲ止メラルヽニヨリテ此後ハ諸銭
トヒトシク遣フトヒトシク遣フト見ヘタリ
凡永の楽銭は一大正十九年に秀て鐚に勝り五
十七年ノ歴載ヲ経テ鎌又秀ナリト業スルニ四家合考ニ云慶長十九年永楽銭ヲ
止メテ京銭ヲ用ユ此時神祖駿府ニヲワシマシテ一夕城ヲ投ル夢見給ヒサ
メテ夢ヲ本多佐渡守ニ告ケ給フ佐渡守云患フヘキ所ニ非スシロ相換ルコト甚
コノ換ノ字ニテ考フレハ前ノ
易シ
京銭ヲ用ヒテヽ水楽ニカヘヨ神祖其言ニ随ヒ給ヒテ
技ノ字ハ換ノ号ノ誤リナルヘシ、
此ノ如シ俗ニ銭ヲ代物ト云フ代ヲシロト訓スルユヘナリ
鼎案するにこの説にすれは永楽銭の我邦に渡来せしは応永十年の
由されは応永十年は明の太宗永楽元年にして永楽銭を鋳しは永楽
九年なれは応永十年の八月隠船の持渡るへき様なし其上応永十五年
永楽八年
永楽六年
の七月鎌倉の
の五月源義満入道道義薨し同十七年に
に当ル
に当る
一足利満兼卒すいりも永楽九年銭を鋳しより以前にて時代相違の事多
し伝聞の誤りもあるへけれは一概に信用しかたけれと足利義政明の礼部官に
一書を賜りて永楽年間多給銅銭近無此挙故公庫索然何リ以利アシ
民といへるにて其頃永楽銭の渡来せし事は知りぬへし又慶長九年
一同十一年両度の令を引けるも予か聞く所と年月に異同あれは大に令文を
挙て他日の考証に備ふ
定
一永楽壱貫文者鐚四貫文宛之積りたるへし但向後永楽銭は一切
取あつかふへからす金銀銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭六百文銭銭銭銭銭百百百百百銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭金銭銭金百金金百百金金金金金金金銭金銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭銭
一金子壱両は鐚銭四貫文可取引事
一一鐚帳つかふへからす但なまり銭大われかたなし新銭へいら
銭此五銭此外は無異儀可取引事
一右之條々若於相背は可為曲事者也仍如件
慶長十三年戊申十二月八日
対馬
大炊
定
一大かけ一われ残一かたなし
一ころ銭一新悪銭一なまり残
一右六銭の外ハ御蔵江茂納候間不可撰之金壱歩に壱貫文の売買たる
一へき也若彼六銭之外を撰候者并押るつかふ者有之は糺明之上其品に
火印を可押者也仍定所如件
元和二年丙辰五月十七日
田園類説ニ云永は永楽銭の事也今時の了簡にて日本の沢山なる銭を差置て
何を以て永楽銭を責む事不審に思へとも往古天武天皇の御代銀銀銭銅
銭始りてより世に鋳銭司の官あり銭鋳る事国史に見へたり然るに中古
より国衰乱におら入戦伐繁多にして銭鋳る事なく異国へ金を渡して
買来らしめ又は使を遣し求めて国用を足す其内明の永楽通覧すく
れたりとて開東にては是を上品の銭として年貢には此銭を元に定の外の銭
一四文と永楽銭壱文之同様に通用する事なり今は右永楽銭を永と計唱へ金
の異名となし勘定の一ツトなりたり異国江の書翰は善隣国宝記に見へたり
鼎案する天武帝の朝より歴代鋳銭の事ありしかと村上帝の天
徳二年に乾元大宝を鋳られしより後は王政日によし衰微し国家擾
乱するまゝに鋳銭の沙汰もなく国用之しく士民ともに多くは外国の銭を
交へて通用せしにと法曹至要鈔に建久四年七月四日宣省云応自今
以後永ノ従テ停止、宋朝銭貸一事右左大臣宜奉勅の事もありけれといれも
銭を鋳られすしてたゝ停止せしのみ故融道あしく指上ゆる事もありしや
一北条時宗執政の頃金を元に遣して銅銭を買求めし事あり東に至る
十四年丁丑日
本遣商人持レ金来テ易二テ易二ヲ銅銭ニ許之ヲと至
元十四年は後宇多帝の建治三年に当る
天徳二年より三百七十七年にして後醍
醐帝の建武元年に至り乾坤通宝を鋳られしなれと天下一統に流布
する迄もなく又争乱の世となりて其事半はにしてやみぬれは其後はたゝ
く外国の銭を以て専はち国用に充て足利一代銭を鋳る事なく義
一政明の礼部宮へ三度にて書を贈り官庫空虚せるよしにて銭を請れし
なと
其書翰三通とも善
其頃の時執思ひやらる又建武式自追加に
隣国宝記に載ス
定
永楽供武宜徳
一セイセンノキ京銭ウチラメヲメツク其外トタウ銭ヱイラクコウフセントクワレ
但ワレトヲ
銭
以下トリ合テ百文ニ三十二銭
ケリヤウ三分
於向後トウワタスヘキ
可在之
ラサル銭
事
一あく銭売買儀一切可停止事
一右条々堅被二制止訖ス若シ背此旨二族アラハ権門勢家ノヒクワンヲイワス於ニ
其身者處厳科一至私宅者闕所ニオコナワルヘキ由所レ被仰下也仍下知
如件
永正五八七沙弥信祐
近江守三善朝臣貞運
一撰銭事近年令超遇先規之條為世為人不可不識所詮於古今
渡唐銭者悉以可取用之次悪銭売買儀停止ノ事被レ定二御法二被
打高札於於洛中記ス可令存之由被仰出也仍之
信祐
永正五八月七日信祐
貞運
城州
大山崎名主沙汰人中
一摂州同前右京兆工遣之
一堺北庄名主沙汰人中
一山門使節御中
一青蓮院御門跡庁務御房
一興福寺衆徒御中
一山門三院衆徒御中
一大内左京大夫
一右京兆代
一撰銭事近年令超適先規条被定御法被打高札於洛中之上者
守被札於古今渡唐銭可取之趣堅可被相触洛中被官人同分国中
所々之由所被仰下也仍執達如件
永正五年八月七日沙弥
近江守
明徳九
商売輩以下撰錢事棚徳九
一近年恣撰銭之段太不レ可レ然所詮於日本新銭料足ニ者堅可レ撰之
至根本渡唐銭
宣德
永楽洪武
等者向後可取渡一之
可相交
但如自余之銭」
若有違
背之族者速可被処厳科矣
松田丹後守
長秀
とあれは永楽銭に限らす都て古今の渡唐銭を根本として通用せしされは
一今日に至りてもかわり銭とて寛水小銭のうちに宗明の銭多く混雑して存
在するにて当時天下一般に行はれし事知るへし其内永楽銭はわけて銅性も
よく又数多く渡りしゆへ遂に後は公用にも用ゆる事になりしにや天正の頃は天
正通宝を鋳られしかと天正十年に平信長より伊勢両宮造営料に下行
せしは永楽銭にてありし殊に関東にて天文未北條氏康翫令下し他銭を
一用ひす公私とも一統に永楽銭を通用し田畑の年貢も背此銭にて納めし
一事なれと其頃は永楽一銭も鐚同様一銭の通用なりし故永積といふ事は
なき也乍去永楽へもと外国の銭にて限かあるものなれは後世可絶の道にあ
らさる故神祖御入国後慶長十三年に鎌銭も捨へき理なきを以て水
楽鐚の二銭相交へて通用すへきよし令せららされは銭に表悪あれは撰
一銭の諍ひ又々出来らん事を慮りて永楽壱貫文は鐚四貫文宛の積り
たるへしと定めらる是も上方筋は初より永楽鐚とも通用せしかとよき巻
ひ悪しきを賤するは人情の常にて永楽一銭を鐚三四銭に充テし民間
に自然の相場ありしにやあらんとれ等を見当日にかく競令をせられしにて
一杜撰せるにはあらしこれよりして小判金壱両は永楽壱貫文鐚にして四貫文と
いふ事二天下一統の制となりて関東に専はら行はれし所以なり其後田方は
米納になりし故今は畑方にのみ永の名存する事とはなりぬ
二里廿弐
重リ四匁
五分
永弐貫小判金に
匁三分
又案するに世に今川の永四貫小判金六朱
といへるを
伝ふ若シ此金実にそ川氏の物なりせす其頃より金壱両は永四貫文の定価
あるに似たる予先年好事家の珍蔵せるを見しか全く其頃の物とは思運
す後人の偽造にやと疑ひしに其後金銀図録を閲せしに此金を載て云く
旧説に今川氏駿河に於て此金を造り壱枚を以て永楽銭四貫文に当と
今川氏の家法は知るへからすといへとも慶長の定を以て推考れは永四貫
一文を以て金壱両に当へきにあらす又金壱両重并四分餘に製すへき理なく
且今川の時金作りし事を聞す此金蓋し後人の偽作なまいんと恐れを金も
とかり證とするに足らすいつれにも金壱両永買文の定制は慶長以来の
事と知るへし
田園類説ニ云永高は貫高とは別にして石高以前関東諸国にて年貢辻を水集
銭に積りて知行領知なとに直に此永高を用ゆ今も東海道筋又は鎌倉なとに
永高の所ありといへとも何れ古来の侭なるはなし今一統石高の世となりて永
一高時代のわけ分明ならすと知るへし
地方答問書ニ云熱田大神宮神領之覚書云ニ一太閤秀吉公之御世御朱印
願候処田中兵部大輔ゟ御書給干々所持仕候写
当知行分之事
一百七貫弐百拾文八屋江内
六拾八貫百四拾文須賀以内
百三拾弐貫百七拾弐文熱田内
闕
百貫四百七拾八文闕
都合四百八貫文
右之趣任
一御朱印之旨所務等之儀如先々可被仰付候中納言様御座次第御書
一相調重而可遣之候如件
一天正十八年九月十日田中兵部大輔在判
熱田社人中参
一田圃類説ニ云此外寺領社領なとの古書物を見しに何れも何百何拾貫
一文とありて永の字なし貫高なるや永高なるや今にては分かたく然
れとも関東の諸国東海道筋永高の遺法のある所はすへて永
一高へあるへし此書付も貫高水高き分明ならすといへとも三州には
今以永高の遺法あり尾州は隣国の事なれは永高なるへき歟
扨永高といふは田も畑も永楽銭に積りて知行領知なと直に直に此貫数
を用ふ今の根取といふものゝことし是に依て永高時代の検地帳にも反
日折業するに此説は前文大半小の条に引く野州
別あり大半小といふ小割もあり
足利郡羽田村の水帳によりていへる也此水帳に位
反別ありて高石盛なるれは永高なるや石高なるや其実は
又土中下の位もあるは永
知るべからす然るを強る永高の検地帳とするは一概の説といふへし
一方とて別に検地せし事にてはなし然馬に後世地面の貫也載数の貫と
紛れて一の事に思ふに合点ゆかす永富は即今の反取の如く田壱反に永何
程畑壱反に永何程と其地面の位に随ひて永銭を付て都合何百何拾貫
文と一村の永高を極むるなり此反に永高は其土地の位に随ひて壱貫文
の地広きもあり狭きもありて定数なし是を永別永盛なとゝいふ其
所々貫代の定法ありて仮令は関東の田方壱貫文は籾五石取畑方は
直に銭にて取る事也尤此時代は専はら籾遣ひにて籾納なり其後米
納になりて今は米にて弐石五斗代といふもの関東畑永一統の通法と
なりたれともえは諸国貫代の内の一ツ也此反に今尚諸国川付の貫代ありて
奥州の半石代甲州の大切小切の類背是永積りの遺注なり
一鼎案するに地方釜同書に載する熱田神領の文書は永積りにては
あるまし塩尻に尾州寺社領證印年月々ある条下にこの熱田知行
の貫高をも出し又同し天正十八年九月に田中兵部大輔より下せし寺
社領の高を記せし寺社も多し見ゆいつれも一時之事にして貫高な
塩尻に秀吉検地
れとも永にてはなし尾張の太閤検地は文録元年の由なれは知る
六年尾張国五十七万
一千七百丗一
七石とあり
「「天正十八年より文禄元年迄其間ワつか一年故文禄元年の石直しと
田中兵部大輔よりしはらくかりの文書を渡し置くにや此熊田の文書と
一同様に国府宮へも七十貫文云々中納言殿御座次第御書相認可進と
あるを以て知るへし文禄以後慶長六年辛]十れの二月に到り伊祭備前守
忠次又々尾張を検地せしかと永積りの法なさる以前の事也永積は
前にもいふことく天文の末北條氏康開原に下知し他銭を用ひす公私共
一永楽銭を通用せしと其頃は永楽銭一銭は一銭の通用なりし慶長
一十三年に至り鐚銭をも交せて通用する事になりて永楽壱貫文は鐚四
一貫文と定められしより永積といふ事は出来ぬされは慶長年中伊奈
備前守検地帳には永盛もありて関東諸国東海道筋なと一統下田畑
とも永納とせり尤夫より以前も関東にては銭納を永納と唱へし事も
あるへけれと其頃は公法にて永楽銭を納るのみなれは一銭は一銭の通
用故鎌倉将軍家以来の貫高とかはる事なし慶長以後より同し
銭納の上に貫高と永高との差別ある様になりたるを永高は石高箭の
一稗と一概に心得しは誤といふへし
又案するに慶長以来関東諸国東海道筋抔一統に田畑とも永納とす
といへども鐚納も地によりてはありしなりされと割合は金壱両に付鎌田貫文
の積なるへし予か聞及ひしは遠州盤田郡見附宿榛原郡下長尾村なと
一今に鐚納の名残れり
永定免
遠江国盤田郡
一高七百七拾壱石弐斗九升九合同断
此訳
高百四拾七石三斗三升九合
高百四拾七石三斗三升九合石方
此取米三拾石壱斗壱升六合高兎弐四厘四毛内
高六百貮拾三石九斗六升代方
此取鐚四百九拾九貫百六拾八文高銭八百文
遠江国榛原郡
永百貫一皇八拾壹文
但五石代遠江国榛原郡
一高五百貮拾石八斗五合
下長尾村
此訳
高四拾四石五斗九升五合石方
内高拾三石壱斗弐升前々川欠川成山崩流入引
残高三拾壱石四斗七升五合
残高三拾壱石四斗七升五合毛附
此取米五石九斗壱升五合
一高四百七拾六石弐斗壱升代方
一内高三拾石七斗弐升弐合三貫前々川欠山崩荒地泥入引
一残高四百四拾五石四斗八升七合七勺毛附
此取鐚弐百弐拾六貫四百五拾三文
この文西にて当時永納の地も鐚納の所もありし事を推知すへし其割合
下の條に見ゆ
或覚書云遠州榛原郡永高の事懐地は三百坪壱反田畑にもに上中下の石盛を
以て余国并ニ分米を付ケ方になる其高壱石ニ村により永三百七拾文三百六拾文
一三百五拾文弐百文疋を永盛といふ但右永盛一田畑上申下の差別なく同位にて候仮
一金は永盛三百七拾文と定候村ハ畑方も上申下の無様押なく三百七拾文ニ而候右の
三百七拾文を其村の検地高合せ江懸候得は其村の永高になる其水高壱貫文
を五石替にして高になるを役高と申候而諸送り物を割を割をも取立申候又元来の
検地の高を納所馬と申候て年貢は納所高にて納申候但田高は歳マ何分畑方は
一永高壱貫文に鐚何貫文取と致し取付申候も納所高を用ひ申置候得共
御勘定所え郷帳差出等迄も級高に直し記し上ケ申候然る所近来紛敷衆免状
をも直に役高に直し村方え遣申候曲
田園類説云是は水高の場所を石高の検地に改たれとも故ありて此辺又
永高させし所と見へなり然れとも古来の永高にもあらす田畑水盛直下の差
別のなき訳は其検地馬壱石といふには反別の不同ある故に永盛は無差別
の筈也此舟高は田方を幾ツ何分と一厘附する故に畑方にも永何程此所とせん
ために割合を以永高を増して付し所と見へたり
地方細論集云或二見書反田困類説の説不分明なり其所にて訳不聞時は難分也
新案するに天正石直し以後慶長年中伊奈備前守再検地の頃石高
の検地帳には永盛を割付しを其後田方は米納になりたれと此辺はや
はり永納にせし故永盛を除かさりし候や又其後この辺も一同米納に
なりてより永は名のみゆへ田畑上中下の無差別三百七拾文の村はすへて三百
七拾文とせし訳は田園類説に云へる如くなるへし
或覚書に云同国豊田郡周智郡三州八名郡代方仮令は上畑壱反に付永百四拾
文中畑壱反に付永百弐拾文下畑壱反に付永百文なと三中下の差別有之田方も同前
に用ひ元来の検地高は用ひ不申右之通村々に而永盛は違ひ候得共水高の誠は大
方如此は但五石替高になり候儀は何年以前誰時分より五石替になり候と申候儀
不相知、慶長年中伊祭備前守検地帳に永豊記し有之候其時分より五石高に
なり候哉村々にても覚へ候者無之候
一田園類説ニ云是又前条の通石高に改にても訳ありて永高を用ひし所と見へなり
一元来の検地高をは不用して永盛の上畑百拾文中畑百弐拾文なとを反別へかけて
都合したる永高へ五石代を以て高を立出し用ゆること也上畑壱反水何程中畑
一壱永何程と上中下の差別あるは何れも壱反に付ての事成故に其地面の位に随る
一永盛の高下あるはつ也田方も同前に用ゆるとは永高を用ゆる迄の事にて
取筒は永高積りの仕形にあらす元来の永積かといふは壱貫文の田畑なれは
籾五石取弐貫文に拾石之極めし者也然るに前条并に此領の田方は色々
一貫文を高五石にして此高幾り何分と厘附して取故に古来の仕形もあら
すと知るへし扨代方にいふは永盛永別と同し詞也
地方細論集云或覚書及田圃類説の説不分明也相考に何れも
的当の品々右之通
石盛三分五厘
一畑高壱石同
此反別弐反七畝拾七歩
此取永三百七拾文畑高平均〆の取箇
此取永三百七拾文
畑高平均〆の取箇
此籾壱石八斗五升但永壱貫文ニ五石替
一此米九斗弐升五合但五合摺ニ候則村高也
一此取米四斗六升弐合五勺
此代永三百七拾文也
五分取也
但
一永壱貫文ニ付
一壱石弐斗五升替
一分米三斗五升
石盛三ツ半当
一畑壱反
此取永百四拾文
一但永壱貫文五石替
此籾七斗但永壱貫文五石替
此米三斗五升但五合様ニメ則村三分也
五郎取也
此取米壱斗七升五合
但永壱貫文ニ付
此代永百四拾文
一壱石弐斗五升替
石盛三ツ五分
反別弐反八畝拾七歩半
一畑高壱石
此取永三百六拾文
此籾壱石八斗但永壱貫文ニ五石替
此米九斗但五合損ニ候則村高也
五分取也
此取米四斗五升
此代永三百六拾文
但永壱貫文ニ付
壱石弐斗五升替
此外何れも同様成る故略之
鼎案するに返三州の内永高の場外はしらす予か聞し所を以ていかゝ
一遠州周智郡にありといへとも今は公用に用ゆる事なしたゝ前の仕来りそ
一郷帳に村馬の肩書には水高何拾何貫文但五石代とあり仮令は
但五石代
永五拾弐貫三百五拾文
一高弐千六百拾七石五斗
周智郡何村
とかく認メ差出す尤郡寄等には不諸事の由又荒地帳なと振合
永九拾文
高四斗五合
下田六畝歩
高七斗九升四合五勺
・水百五拾八文五分
上畑七畝拾七歩
高壱石六斗五升六合
一永三百三拾壱文弐分
中畑壱反八畝拾弐歩
高三石壱斗五合
一永壱貫四百弐拾壱文
一楮三百五拾束五把半
高壱斗四升五合
永弐拾九文
永弐拾九匁
漆六束弐把
と田方は永より高高より反別畑方ハ高より永永より反別を書く事
仕来りの由かく田畑ともに反別并に上中下の位付もあるにて永盛の事火方
推知すべきなり
或覚書ニ云古来永之貫文を五石と極むるを見るに今以鎌倉中には永慮あり
鎌倉の永高と申は古来の永寺にて可有之候今泉海道加助と永高の所多く有
之候得共鎌倉風と違ひ是は其以後の永高なるへし鎌倉の水高壱貫文といふハ
壱貫文の所を千坪の積りと申伝ふこゝを以て見る時は五石替と極る起り浮役
永高に結物は定納物故石盛大概十五といふは中ゟ上の場所故上田の住に見て壱
貫文に十五を懸ケ三を以て割れは五石と結る然れは鎌倉水高の積りを古来
五石と極のたかなるへし
田園類説ニ云鎌倉の永高は永壱貫を五石に極か二てにして千坪の貫ゟ
起りたるといふは附会の説なり五原極る元は関東永高の法壱貫文は
一籾五石の定法也米納になりて弐石五斗代に直せし物にて何の入組たる穿
一鑿もなき事也尤東海道筋の永高は前条之通一旦石高に検地も
改かしかとも訳ありて又永盛を付直せたのなれは古来の永高にてはなし
鎌倉の永高には未タ石高の検地はなき故古来の永高の様に見ゆれとも
鎌倉の割付に畑方何百何拾文此取何程下三ツ取又ハ四ツ取なととあるから
は古来の永高に而はなくこれも永盛を付直したると見へたり又鎌倉の
永字は壱貫文の所を千坪と申伝ふるとは前條に弁する通り貫高永
高一ツと思ふは誤れる也既今鎌倉の村鑑に延宝二寅年成瀬右衛門
一御代官所の節永百文を壱斗八升七合の積りを以て石高を付してある又
一壱斗八升八合にて付しもあり壱貫文の地中坪ならは直に永高に寄て反割
をも付へきなれとも地面の広狭不同あるを以て付かたき反こ勿論除
役小物成の定納水壱貫文を五石に結ふ場所野にても山にても場所毎に
ひとしからす又海川漁猟の定納其漁猟の多少を以て永高を積りて
其場所広狭の差別なし永高に坪数の定なき事是にても知る
へし且上の場石盛大概十五と見て積るなとゝいふ事是又無稽の
説也
地方細論集に云或覚書及田園類説の説難信用左之通永
高弐石五斗替の法出しも元は籾納の事にて五石替と用る事は仮令は
石盛拾
分籾弐石
一是を半減て分米則石盛也
此分米壱石村高拾ケ石盛也
一取
此取米五斗
此籾壱石但五合摺ニ〆
此永弐百文但五石代
上畑壱町歩石盛拾
村高也
分米拾石
五ツ取
此取五石五ツ取
但六合摺ニ〆
此籾拾石但六合摺ニシテ
此永弐貫文
此永弐貫文但五石代
一右割合厘取ゟ生る事也則関東弐石五斗の起り籾に〆五石替の起り
左之通り
一三ツ成に〆拾五石
一高百石三ツ成ニ〆拾五石金六両
一高百石三ツ半紙ニ〆拾七石五斗金七両
金八両
一高百石四ツ成〆弐拾石金八両
一高百石四ツ半成シ〆弐拾弐石五斗金九両
一高百石五ツ成ニ〆弐拾五石金拾両
右関東田畑六分違弐石五斗替の厘付なり扨籾納の時は五石替也
此法を以て永執行ふ時ハ物減多少有之地減とも届付等迄不足無之
其所の盛衰を考へ見込は取箇付候時ハ田畑之分右之心得を以て可附
事也
鼎案するに田国類説に五石代は古未開東永高の法さて貫文は籾五
石の処米納になりて弐石五斗代に直せし由にて細論集に田困類説の
説難信用とあれとも籾にて五石米にして弐石五斗といふに於ては同し
事也是皆意を以ていふ迄にて聢としたる所見あるにはあらす元来
五石代ハ分米の上にていふ事にして籾高にてはなし神祖御入国慶長
の頃は天下一統し先は治平の姿にはありつれと諸侯方軍用の備へ専
一とせし時節故自国の米を他え廻し売払様の事は少なく大概は国
限り取引すれは融通あしく殊に金銀そく民間にては籾遣ひせし
所もありし由なれば米価残しく金壱両に五石替相当の相場故関東
にては永壱貫文五石替の田畑にも銭納の高を御定ありしなる夫より
猷廟御治世の頃に到りては治平なる事に遂に海路も開け諸侯方
一廻米高多く米価いつとなく貴くなりし故五石代御定直段も半減になり
一弐石五斗代と御定ありし憲廟御治世の頃ハ又半減ニなり壱石弐斗
経済録云国初ヨリ猷廟ノ時ヒテハ
五升代と被仰出これ其頃の相場にて
天下ノ米價甚賤アリシカトモ士民サノミ
困窮セス世ノ風俗質素ニテ奢侈ナルコトナリ他物ノ価モ賤シカリシ故ナリ
応廟ノ世元録年中迠ハ米価尚賤クテ東都不価金壱両石ニ三斗ヨリ共斗迄ナリ
今御
用はある所の御定直段なれは籾高にあらさる事明らかへ尚諸国石
一代甲州小切の條見合すへし
地方落穂集ニ云古来永壱貫文を高五石に極る事を考ふるに今以相州鎌
一倉中永高ある地坪千坪を以て永壱貫に当ると申伝候也是を以て見る時ハ
永壱貫文五石替に極ると見へなり右千坪を田方三にて除き三反三畝三三三と
成
是壱坪壱升毛五合拾五分取ニメ根
是九歩九分
是へ拾五の盛を乗して高五石となる
九厘なり
取七斗五升拾五盛五ツ成の謂也
一鼎案するに相州鎌倉の永別に無反別也永壱貫千坪といふも申侍へのみ
にて証とすへき事なく久保田十左衛門御代官所之節御勘定所より御尋
ありし故村方相糺し宝暦三年午九月永別五百文ニ付反別壱反歩
の由と申上其以後跡支配御代官え申送りになり今は右の主積りにて取扱ふ
事也尤鎌倉郡は定免にて畑多く田少き故破免する事もなく古来より
一検地せし事もなけれは定めて永壱貫文の地に不同ありて一定せさるへし
一村鑑割付は左の如し
延宝二寅年成額五左衛門御代官之節
永別石高に積り撿地帳なし
水別高四百七拾壱貫四百四拾文之内
一相模国鎌倉郡江尻道法拾弐里
一高六拾三石三斗八升右町村
内弐石壱斗弐升九合
無地高
一此永別三拾弐貫七百文余
又割付は
一高六拾三石三斗八升
一高六拾三石三斗八升大町村
内高弐石壱斗弐升七合無地高
一此永別三拾弐貫七百五拾五文
内
高拾七石壱斗弐升七合
田方九貫百五拾九文
一高四拾四石壱斗弐升四合
一畑方弐拾三貫五百九拾六文
此訳
高拾七石壱斗弐升七合
一反永九貫百三拾九文
永別百文ニ付
一此取米拾壱石四斗五升六合
壱斗弐升五合五勺内
高三石壱斗壱升七合
一上畑壱貫六百六拾七文
右同断
此取永六百五拾文壱分
三拾五文
高四石五斗七升弐合
一下畑弐貫四百四拾五文
右同断
一此米九百五拾三文六分
三拾九文
高三拾六石四斗三升五合
一棟別永拾九貫四百八拾四文
右同断
此取永七貫七百八拾三文六分
四拾文
米拾七石四斗五升六合
取合
一永九貫三百九拾七文三分
村高之考
田園類説去村高は往々百は戸数といふて家数を以て何百何拾戸と唱ふ貫草なりて
何百何拾貫と唱ふ関東永高にても何百何拾貫と唱ふ後世ニ而は貫高水高水高相
一紛る事多し石高になりてハ何百何拾石と唱ふ即年貢の籾辻なれとも金壱本取
一になり候故高と一聚固と別りし事也世上にて此村馬を往古より有来事と思ふは誤り
なりと知るへし
地方細論集云家数を以て高と唱ふ事は五拾戸を一里と云事なるへし
一家には大家小家も可有事也然れは高に可結様なし又田石高になりては籾
一高なれとも今は米取故に高と取箇と分にし也とあり紛敷事省間敷と今
村高は米高也委敷は次の箇条に記す
新案するに本文に云へる如し古は村馬といふ事なくたゝ戸数に積りし孝徳記に
云白雉三年造ル戸衣籍を凡五十戸戸為レ里長一人凡戸王。背以家長為之凡
五家相保一人為長の遺
とありて五十戸を
戸皆五家相保一人ヲ為レ長以相検察ス
一風今甲州に組代と唱て存せり
一里とすれとも家に大戸小尺ありて一様ならされは一戸の高を稲四拾束米にして
一弐石と極め仮令は大政大臣の封戸三千戸は六千石とするの類必しも同高の
百姓家数三千戸あるにもあらし左すれは家の大小に不拘して一戸の高
を極めたとへ一戸にて稲何百束を出す大戸ありといへとも稲田拾束を一
戸の分とし三千戸に積りしなり又里数を積るには大戸小戸を論せす
五拾戸を一ツ上と定は其餘り戸数五拾軒に及ふは別に一里をたつ若五拾軒も
足らさるハ外の里へ割入るゝ事にそ故に一里の上にてハ田畑の高毎里不同
ありて一定せさるへけれとも封戸の高は定りありて書入なしと知るへし
鈴録云大名ノ身上ヲ幾十万石ト云ヒ平士ノ身上ヲ幾千石幾百石ト云ト古法ニ
アラス大形信長秀吉ノ時ヨリ起ルト知タリ古ノ領地ノ書物ヲ見ルニ何郡
何郷何村ニテ幾十町幾百町抔ト有テ石高ハナシ武士ノ知行ヲ幾拾
貫幾百貫ト云モ当時モ百姓ヲ詞ニ殘リテアリ田一坪ニ苗一把種ルコト
テ百坪ニハ百把種是ヲ百目ト云千坪二千把種是ヲ一貫目ト云此積リ
ニテ大抵十貫ハ百石百貫ハ千石ニ当レトモ上申下田ニヨリテ一定セス是古
法也扨俸禄ヲ石高ニテ定メタルコト其起リ浪人衆ヨリ出タリ浪人衆ト
云ハ本領ヲ離レテ他国ニ仕ル者ヲ云当時無禄人ヲ云類ニハアラス甲州
浪人名和無理之助ノ類是也古ハ本領安堵ヲ士ノ本意トスルナラハシ
ナルユヘ其国ヲ切取手ニ入テ後ニ本領安堵サスヘキト云事ニテ当分廩米ヲ与フ
是ヨリメ士ノ禄ニ石高ヲ以テ定ルコト起リ信長秀吉ノ時分ニ至テハ日本国中ノ士
皆本領ヲ離レテ家々ヘ散乱シタル故一面ニ石高ニ成タルナリ当時モ古キ家
ニハ新参者ニハ廩米ニ與ヘ家ノ譜第ニナリテ知行所ヲ與フルコトヽアルモ此
遺風也且又四ツ物成三ツ五分物成杯ト云ヿハ元来百石ト云ハ籾百石ナリ
米ノ四十石アルモアリ三十五石アルモアリ四斗俵三斗五升俵抔ト云コト出来セリ古ハ
皆籾納ナリ武家ニ兵粮ヲ貯へ置ハ皆籾ニテ貯ヘ置コト古法ナリ故ニ
東照宮御筆ノ物御旗本ノ家ニ所持シタルニ誰々ニ籾幾俵ツヽト書給へ
ルカ多キナリ
日折案するに古へ稲の束は量目を以ていふ事にて三代実録に出羽国
元慶二年夷虜ノ所[リ]焼盗穀類三十二万五百一束六把八分六台糒七百
一五十石と見へたり東の量目何程といふ事は拾界抄に十盤為毫十毫為分
十分為把一把荷東とあるこれ一把壱匁の積り故鈴録にいふ百把を百目と
するに符合すといへとも拾芥抄は獲取たる稲束の上にて云ひて苗には
らす田壱坪に苗を種る多州は一村の内にても上中下の位によりて違ふもの也
まして東西南北の国々一様になりぬはいふ迄もなし予これを老農に聞く
上々地数廿七八ゟ三十棟
壱坪積に
上地三十ゟ四十株
種子籾三升ゟ
上田壱反歩
七八十ゟ百株
中田壱反歩同六七升余同断七八十ゟ百株
一中田壱反歩同六七升余
同八九升ゟ
百ゟ同廿株
下田壱反歩
下田壱反歩同八九升ゟ同百ノ十同廿株
一下田壱反歩同八九升ゟ
一同壱斗余
一同壱斗二三升ゟ
一百廿ゟ同五六十株
一下に田壱反歩
一同七八升
かく株数に不同ある尤上中下田によりて一定せさる由いへとも上下にては彼毛四五倍
の出入あれは壱坪壱匹の積りも一椀の説にして信用し難し五石寺ハ浪人衆
より起るといふ説も附会なり委細て下の石字の条に論に又三ツ五分物成四ツ
物成籾を摺て米となして籾百石にて米四拾石或は三拾五石ある故かくいふ由
これハ甚しき誤也すへて百石の地より出る租税百石ハ出ス或ハ四拾石或ハ
一三拾五石出るによりて四拾石出るは四ツ物成とし三拾五石出るハ三ツ五分物成といふ
勿論稲の出来形により不同あれとも今籾を米摺れは上籾二百石に六拾石余
中ハ六拾石下は五拾石下にハ四拾五石あるなり五拾石以下ハ極て不作の稲と知る
へし今五合摺に定法故若鈴餅の如くいはゝ五ツ物成といはん歟不通の説也
田国類説ニ云今の村高三丈禄慶長の頃より始りし事也然るに世上の人多くは往
古より有来る事と思へるは誤り也惣而其時代の移りかわりたる事を弁へされは本も
末も一ツになりて貧ならす先往古には田地長三拾歩横拾弐歩を段とし三百
六拾歩先段とす是に土中下の位ありて稲の束数を定め其田地の品もいろ〳〵ありて
一年貢の高も定りあり村の高をは戸数とて家数を用ひて何拾何百戸なと稱し
一田地は何町何段と称す鎌倉将軍家の頃よりして古法に廃り夫よりして京都
将軍家時代には軍役より貫高起り田地千坪を壱貫として知行領知なと
一に此貫を用ひ其頃より古の三百六拾歩壱段を三百歩に変し其後東国にては
年貢辻を永楽錢を以て積りて永高起る然れとも水高は田地の坪数に
拘らす今の根取帳といふものゝ如し其時節は最に古法も失せて地頭四分百姓
六分又は地頭三分一百壮三分二又地頭三分二百姓三分一といふ収納の法行はれし
処に文禄慶長の頃より検地改り地面の上中下を以其年貢の石数を定
む是を村高として百石は直に籾百石の積也今の世籾遣ひといふ事なき故籾納と
いふ事不審に思へとも舌は民間に金銀の通用なく籾遣ひとて諸物の売買にも
一銭に籾を取交せて遣ふ事なり此度に年貢も籾納也然るに慶長以来金銭の
一通用自由になりて籾遣ひ止し故随而籾納めも米に摺せて取るによりて籾損の四方
鑿より圧付起りて畢竟村高は噂物の様なりたる也
一鼎案するに永高は田地の坪数に拘はらす今の根取といふものゝ如しとあるはし
一根取を田地の坪数に拘らすとするに似たり根取を如何心得しや又村高は
籾納にして米納まなりてハ噂サのみといふの誤りは下の地方細論集に論するか
少し
地方細論集云古法は籾納屋故に村高は籾高と可知と品々有之土免と云ハ壱反三百歩
壱畝三十歩の事也上田壱反は三百坪なり此石盛壱石五斗是は籾三石有之を米
にして五分摺の積りを以て壱石五斗也此壱石五斗其田の土免也誠に土壱斗実
一壱升といふ事此道なり是は宜事いふなり是を分半共又は十五の盛共村高共
成品也前箇条毎に村高は籾也と有之は誤り也村高は米也則四公六氏の法を以て
五分五分の取箇根元左ニ記ス
分米壱石五斗
長三拾間
一上田壱反歩
横拾弐間
石盛十五
此歩数三百坪
此籾三石但壱坪ニ付籾三升
此米壱石五斗但五合摺にゟ先刻村高也
一右を変して根取の起り
籾三石
内
一籾壱斗一反の種籾也
一反に人足三拾人懸壱人に付籾弐合五勺ツヽ扶持米
一同七升五合牛ハ不足ニ候得ス畑物半之給ハ雑穀
交食ス故如此
一同四斗弐升五合一反ニ肥代永弐百文ゟ弐百五拾文迄大積り
一同四斗弐升五合
を以如此
小い籾六斗
残籾弐石四斗
此米壱石弐斗
内
米六斗
一米六斗公納根取五分
米六斗百姓作徳
一是は壱坪に付籾弐合に当る依之古来弐合毛迄は御取筒は不付事の謂は
一是迄これを分木壱石五斗の内にて三斗引て残り壱石弐斗を五分五分に取
付也然るに当村は一坪に籾壱升有之候得共七斗五升の取付にて壱石弐斗を
一五分五分に取付候故五分五分の取違なるへし一坪にて籾弐合諸入用に引候
一反に一坪八合に成壱反歩にて籾弐石四斗也米〆壱石弐斗なり五分の取崩
一にして米六斗公納なり則四公六氏共又は五分五分ともいふなり
又
一分米壱石村高也
村高也
一上畑壱反歩石盛十
定法
此取五斗
高五つ一取
定法
此永弐百文
一水壱貫文ニ弐石五斗替
此水を物成結に結時は壱石弐斗五升也知行渡或は郷帳の表面付なとに
用ひ地方にては壱石弐斗五升にて懸る代りに八を用法にして割文
是ハ一ト置十二半に割付ハ八ト成故也
此米弐斗五升也
是を永何程にても八壱割々水百貢文は米百弐拾五石と位を見是江田方の米
を加へ村惣高にて割れは高め也道敷道代押堀川欠山崩抔の引
高を除き残高を用法にして取米を割を毛附免といふ也
集美外書ニ云今の俗粟の字をあやまれり俗に畠尋るあもの字は梁也栗の
字はもこの事也米となしてはそこね易く虫に成て捨り多きゆへに古へはもももはにて
一納め万の売買もいみにてせし也
鼎案するに本草総目に李時珍云周礼九穀六穀之名有梁無栗
一可知矣自漢以後始ニ以二大シリ而毛長キ者ヲ一為レ梁ト細ニ而毛短者為レ粟。今則通
一呼為レ栗而梁之名隠ル矣とあれは古にいふ粟は穀実の事にて後世にいふ
あわは梁なり漢以後梁の細にして毛短き者を粟にせしより梁粟相沸
一俱にありとする事にはなりぬ本邦の古へも此誤を襲ひて粟粟ともにあわ
江談抄に近世
と訓す
又粟に穀実の義あるを以て遂に梁を粟と同義と
以栗名梁とあり
一誤り省て籾に作り穀実の稗とせしなるへし続日本紀又日本風土記を
編にも籾の字あれは古く書伝ふる様さ故所謂和字ならんきいつれ梁の字より
再案するに続字彙補に籾女梨切音尼見鏡と
出し字なる事は疑ひなし
あれは唐の則天の制する字なるにや日本の古へ
則天の制字を用ヒし事多し金鏡といふ
和名抄に上野国管十四田三万九百三十
書は則天の制字を載せし書の由聞及ひぬ不
四町百四拾四歩正公各三十万束本頼八十八万四千束雑額二十八万四千束と
いひ或は又国に寄り本稲雑稲ともあれは公税を頼にても稀にても納めし事にて
古とても一概に籾納と斗りはいひかたし左れは続日本紀に養老三年六月
癸酉制穀之為レ物経レ年不腐自今以後税及雑稲必為穀而収レ之とあり
此自今以後といへるにて其以後の事知るべき也此制ありてより後とても必
皆籾納といふにもあるまし当用の分は米納なるへし其後王政衰微し
鋳銭の沙汰なく国用之しかりけれは民間にては銭貨の外に籾を取
交せ交易せし事にてありけるすてに慶長の始長曽我部元親の一
箇条に
一大工大鋸引挽物師鍛冶銀屋側塗飾紺掻竿細工瓦飾檜皮師
かへぬり畳指長足細工等右諸職人賃一日に上手者京升籾七升
一申者京外籾五升下手者京外籾三升職人上申下之事は其奉行人
可相尋事付舟番匠之賃は京外籾九拾四道壱斗事
とあるにて其頃民間は籾遣ひなる事知るへしされはとて都会の地迄も
一同かくありしにもあらし是等は意を以て見るへき事にこそ
石高之考
安斎随筆授集云武士の領所鎌倉の代には幾町賜はるといふ今は幾石と
いふ也然るに盛衰記四サ屋嶋合戦の條に太胡小橋太と云者海を潜て松浦
一五郎に舟に乗て軍の下知するを其足を捕て海中へ引入首を取たるを後に
世静て頼朝其功を賞して千余石の勧賞を給はりたる由見へたり此千
余石何の国にてといふ事も見へす只千餘石とあれは国郡を給はりたるに
あらす米穀を千餘石給はりしなるへし石は斛の事也鎌倉の代には何れ
の国何といふ所にて幾町賜はるといふ室町家の代又同し信長秀吉より何万
石何百石と云なり米三十五斛を百石とす
目折案するに斛の事は孫子算経に十斗為斛とあれとも石の名は
戰國策にも
此文を載一
一韓非子に王因収吏璽至自三百石以上皆效之子之
と見ゆるのみにて
量目何程と云事詳ならす石を斛々同用するわけるは盞簪録に大学衍
義補曰召祖謙作二大事記二於二始皇平二六国一ノ之初二書曰一衡石丈尺ニ而其
斛題トハ則曰商君為レ政ニ平斗角権衡丈尺ニ其所レ書ル之石非二釣石一之石ニ
也後世以レ斛ヲ為スル石ニ其始レ此ニ歟歟衆衆書ノ書ノ五子之歌ハ即レ釣注ニ百二十斤ニ
為レ石ト三十斤ヲ為レ釣釣ト與レ石ハ五権之最重キ者也正字通ニ十斗曰レ石周書
関石注若二今之斛也蓋石ハ者本ト權衡之名及一秦漢之際一転為斗斛之
名有二萬石千石之稱亦或ル作レ硯或作レ硯或作レ稽豊富時以一所容之重ヲ一遂名スル其量ニ
耶後世徒ニ知レ為二斗角之名一而不知其本為 ̄ル権名一とあり本邦も是等によりて
や十斗を石とする小斎随筆に斛は十斗也又石を直に斛の音に読ことは
穀倉院の斛の事は大日本史に後三条天
延久の頃穀倉は沈の斛を造らるゝに始る歟
皇欲審量制命新作器使蔵人頭蘇
延久の頃む
原ニ資仲督之帝自レ震載行為二之準一及レ成資仲等率藏人出納小舎人量殿沙二殿少二試之一
取穀倉沈来量レ之後世遵用謂二之宣旨升一又造方櫃容一斛以レ名為鐘衝一其軽重器伝
有穀倉院
といへり
とあれともすてに延喜主税式に凡志摩国公廨料用尾張国録
海郡正税穀ヲ給ス守三百目五十石文生七十五石といひ続日本紀に石斛通用
して用ひし事毎々見当れは其以前より石を斛と同用せし様に思はるされと
一延喜式に云へるも今の役料こして廩米を賜はる如く公廨料の内より正米にて
一何石と給まる事にして田地にあつかるにはあらす盛衰記を正米千余石を以て
勧賞に賜はりしにて後世紀行の石高にてはなしいつれ石高天正十八年石直
し前後よりの称して古にはなき事なり又当今百石の高に三拾五石原米を
一賜はり事は御料所物成平均せし時三ツ五分物成に当かし故にかく御定のありし
久居友人中井昌二九四ツ物成三つ五分物成
一由申伝ふいつの時代の事なりしや詳ならす
の根元を考へて曰知行百石と云は籾百石と云は籾一百石と云は籾一百石と云は籾一百石と云は籾一白
石の事也米に摺りて凡六十石を得るこれを三割にして三ツ二四拾石を地頭取三ヶ一二拾石を一百姓一取
こゝに於て地頭四斗俵百俵を収納する是を四ツ物成といふ関東筋なと薄地多の所は籾皮
厚くして摺出し六拾石に至らす凡五十二三石を得る是を三割にして三ヶ二三拾五石を
地頭」取三ケ一十七石五斗を百姓取こゝに於て三斗五升俵百俵を収納する是を三ツ五分
物成といふ或ハ又田地ハ上中の位にて六拾石の摺出しはあれとも土地一作田多なる所な
とは百姓助成の為に取箇三ツ五分物成なとにする事大法也
家忠日記云天正の初まては知行何貫とありしを同十八年御家人え米地を賜はるに
何万石誰〻と見ゆ是全く石になりし始なるにや
薩摩侯
成形図説云天正十六年豊臣太閤より吾先侯廿
に摂津の内一万石を被
けふ
充行等の知行目録ありされは天正の中間よりいと早く田地に石附せし事也
目折案するに天正の石直しは予か聞及ひしは十八年よりの由尤其以前より石
直しの漸はありも心つらんなれと天下江一統号令ありしは十八年よりなるべし
故に前に所引の信州松尾領伊加良庄の京極修理太夫検地石直しも十
一九年なりされと尾州熱田神領の御朱印は十八年九月相州鎌倉松関東慶寺
の御朱印は十九年十一月なれとも皆貫高を以て云へるにて広き天下の事故一時に
石直しせしにもあらす尾張国の検地は文禄元年之由陰尻見へ伊勢国ハ
一文禄三年大和国は文禄四年なる事は間竿の條に見ゆるなとにて天正十八年
より文禄四年頃迄に遂て諸国石直しせる事も知るべし又神祖駿河ハ能
一の御寶蔵え納め被置候由にて御遺状百箇條と云書を世に伝ふ真偽の程は
難計といへとも其内に
一郡国公私自他所領の高ハ文禄元年大河内浅野か割付之通令記録
一禁裏之惣政所江注進は林野山川皆高之内也應所領公用軍役可申付
事
先前検地三百六拾坪之所此時ゟ三百坪二而
とあれは文禄元年に禁裏え奏聞を
大河内金兵衛浅野弾正の両へ改め直ス
一遂第三百坪壱段天下の定制となし此時より天下一統に石高ニはなりし
事にそ
又案するに信長記ニ云天正九年四月六日若州辺見駿河病死ノ地家ノ
所領八千斛ナリシカトモ可相綱実子モナケレハ三千石武田孫八郎五千石溝口
竹ニ被下此溝口ハ受領メ伯耆守トソ申セシ云々とあるなとは後世よりの追
書にて其頃石を以て稱せしにはあらす
諸国石代之考
地方一様記ニ云
弐拾貫百石
一関東高百石の物成弐石五斗替
此永弐拾六貫六百六拾六文六分六厘六毛餘
弁解ニ云是高百石之物成米弐拾石永拾貫文と云を立て上方関東諸国
一同様になるわけを積りしもの也此段田米弐拾五石を壱石五斗替にして拾六貫
一六百六拾六文六分六厘六毛畑永合弐拾六貫六百六拾六文六分六厘六毛也
一上三分一銀但石四拾八匁替
此水右同所
辨解云是高百石此取五拾石三ツ割弐ツ分田米三拾三石三斗三升三合三勺を弐石
一五斗替にして拾三貫三百三拾三匁三分三厘三毛三分一畑米拾六石六斗六升六合六勺
六才と三分一直段壱石弐斗五升替にして此永拾三貫三百三拾三文三分三厘三毛合
弐拾六貫六百六拾六文六分六厘六毛関東同数也
一拾七貫百石
一関東下野宇都宮三石替
此永右同断
弁解云是高百石此取米弐拾五石永拾貫文田木弐拾五石を弐石五斗替にて
一拾貫文畑永拾貫文三石替にして此米三拾石是を六分違を懸たる直段壱石
一八斗替にして此永拾六貫六百六拾六文六分六厘宛関東同数也
一拾六貫一白石
一奥州会津白河長沼三石弐斗替
此永右同断
拾貫百石
一同仙台五石替
此永右同断
七貫百石
一同福嶋七石替
此永右同断
一辨解云是は何れも宇都宮の辨解同所にて関東百石此永米弐拾五
石永拾貫文と定めたる算用候而同数なる也
八貫百石
一出羽米澤田畑米取扱め六石替半金納
辨解云是者田畑投免にて田も畑も正米に積り半分は金納にする也田も畑も
一正米に積るを以田高五拾石の五ツ取弐拾石畑方永拾貫文引付の直段
一六石替を乗して此米六拾石之弐拾石と合八拾石なり免なり故内四拾石田米
とし四拾石を烟として是に定法の六分を懸て弐拾四石となる右の田米四拾
一石をかへ合六拾四石是を田畑取米の正味とす内半分三拾弐石関東正米直段
一壱石五斗替にして此永弐拾壱貫三百三拾六文三分三厘三毛半三拾弐石六斗
替にして金納此永五貫三百三拾三文三分三厘三毛合弐拾六貫六百六拾
六文六分六厘六毛諸国一様同数に成る也
一右如此国之所々に色々の法ありといへとも上方関東に対して毛頭の無相違依之一様
記と云也
辨解に云前に段々解する通り国々所々直段之違ひ関東弐石五斗替と上
一方三分一直段とを元として六分違五分違ひといふを立て算用すれは何
れも同数になるなれは元来諸国ともに同様之積りに当るを以て一様記と
一名付しとなり分案するに田と畑との違ひは往古よりあるへき事なれとも
一上方を五分違にし関東六分違ひと云事はあらましき也土地は其国々
所々によりて差別あるべき事なれとも田方よけれは畑方もよかるへし
一当る時ハ何方も田畑の違ひハ同様なるへし東鑑には五分違ひとし当時
一郷帳五ヶ年平均の厘附は古来より壱石弐斗五升替を用ひ来るなれは
一五分違として其理かるへし今又上方関東諸国を五分違として
一此書面之通組立る時ハ是又同数になるへし然る時は畢竟其理の付
一様にて何の定りたる事にあらす前にいふを以て解する通り一様記と
一号するは諸国同様といふを以て名付しなれとも国前々のかはりある事
何そ一様に成るべきや物は夫々の品ありて違のあるを以て相分ものなれは
一様なるもあり一様ならさるもあり然るを何も角も一様に心得たるは先
支の事也元来一様にてなきものをひたすら一様にすり食てはあしかる
へし
田園顕説ニ云按するに此諸国石代当時も引付の所々多く有之貫代とも云
年久しき儀にて其始知れといへとも関東の諸国永高時代の遺法なるへし
しかし古来は何国も籾せひにて籾納なれは此石代も此一倍の籾数なるへし
籾納止みて米納になりし故米の積り半減たると見へたり如何となれは関東式
石五斗代の永を高五石とすゝ事は則籾五石にして直に年貢の籾数なれは也
新案するに五石代は籾納の横り
一今は弐石五斗代関東畑永の通法となりたり
にして弐石五斗代は米納になりし
よりの名目といへる也誤りなる事
上方三分一直段は今は其年伺ヒにて極る奥
前条に委敷論せり仍ツ老ふへし
一州白川会津長沼三石弐斗加せといふ石代之内白河領分は今は三石七升弐合替え
なり其訳式覚書に奥州白河長沼森山会津石川領筋半石直段三石弐斗
一替に候所其以後白川領は三石七升弐合替い破候儀長徳四貫文に目をかへば勘定を以
壱貫文に四分利を加へは積りにて三石弐斗の内にて壱斗弐升八合引之三石七升弐合
替に直すとあり是前方は調百銭の勘定也百六銭になりし故今は石代官領
三石七升弐合替成たると云覚書に出羽米沢田畑投め半金納といふは田も
一畑も米取にして惣取米に半分六石替の石代を以て全納にする事なり
一鼎案するに一様記に上方三分一銭納関東奥羽石代の異同を挙て
一諸国一様なる理を算合さして説示すといへとも其実は無理ある事故
一乗強附会多し元来一様ならさるものを一様にするの誤りは弁解に云
一へる如くなるへし一様記は元禄二年に木内八九郎堀江重太夫永澤儀右衛門
の三人同撰して加藤兵左衛門の許え贈し書にして弁解は谷猶右衛門本教
の一様記を註解せる也
一本郡内
の貫代は壱石四斗四升に
一或覚書ニ云貫代の事所々にて違ふ甲州川内領□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
領に作る
当る故記し置と云々
又云甲州大切に切の事信玄公の時代より始り取米三分二大切三分一小切小切ル拾壱俵
半替此米四石壱斗四升也
一地方要法ニ云甲州大切小切の次第に切の直段壱両に四石壱斗四升雪これは古来よりの定
めなり仮令は物成百石可納所なれは三分一の分右の直段を以金納に仕り組御組御料
但御料
私料
残三分二の内三分一は大切直段を以金納右大切直段は甲州国中又は河内
廻り其年の米売買福場に武州山根辺直段考合相極む但国中直段を
大切と申伝へ候右残り三分二之内郷入と残置なり
田圃類説云甲州大切に切の事取米三分一に切此定石代水之貫文に拾壱俵壱匁
一斗八升但三斗六升入右小切引残三分二之内三分一大切但御紙直段金納相残る
米は米納也此内御張紙直段と云は後の事にして大切小切拾壱俵半替の引付
永高時代の遺法なるへし
一地方根元記ヘ云小切壱貫文ハ拾壱俵半四石壱斗四升に当る今は拾壱俵半といふ
事は失せて四石壱斗四升替と唱る也大切小切と唱へす小切大切といふ小切は九月
一取立大切は十月御張紙の直段書付出候節割付触る也田園類説に大切小切
拾壱俵半替の引付は永高時代の遺法なるへしとあり大切右引付を以て
可出様なし元大切と名付石代に成し事は甲州梨子葡萄栗林木綿果
一実多葉粉蚕の盛なる国辰の見込の取箇故に石盛高し田方の米は不足
一なる故に虚米石代にて取立候故御張紙の直段にて代金を取立る上方抔にも
右之類多き事也実米は田方にある米の事也殊に田畑とも米取成故に虚
米多し皆畑村御張紙直段を以て米金納なり唯今にても右振合を見込に
一増す事あるはせひ盧米取立様有之間敷儀也其時は不伺石代或は引付の
石代直段を以て可取立事也
一鼎案するに甲州に切四石壱斗四升替は前々引付にて全く信玄時代より
納め来りし法の其侭今日に存在せるなり
永にて壱貫文
徳にて四貫文
一神祖御治世慶長元和の比米価金壱両に付
五石替ハ関東
一諸国東海道筋過不及平均の相場にて塩尻に甲州辺は石直し尤少し
壱貫四五石の時にありしとそとあれは甲州の米価も関東諸国東
へし殊に天正石直し以前信玄領国
海道筋と格別の出入はなき事知るへし殊に天正石直し以前信玄領国の
頃は四戦の地故他国江廻米等の事なくたゝ自国限りの通用なれは米價も
一賤しく五石以上の相場にてあかしを信玄軍用の為領国取米の三分一を
一小切と名付壱両に付四石壱斗四升替の高直段に極め取上げられし其頃ハ
一過念金のことく心得て百姓共迷惑せし事にそあらん賞の条に載る
一兵家師鑑兼山先生筆記等の説何れも壱貫四石相当にて小切と
大概符合すれは家中小禄の者軍用の為めに信玄のかく定められしなる
へし其後甲州一圓神祖御旗下に属せし時何事も前々仕来りの
法を以用ひ別段御改正なし甲州金甲州升なと一国限に通用御免なされ
小切は百姓の勝手みよき故
又西河内領三拾ヶ村余今日迄も随納とて小切の外は小
随納にはせぬ事なり
大切直段になりとも米納になりとも時にとりて勝手よき様随意に上納する
なとの類他国に例なき事多し殊に小切は当時御定の五石代よりは高直
段故愈以て仕来りのまと被差置し也猷廟の御代に及ひては海路も
開け運漕も遂た自由なるに随ひ米価も貴く五石代半減になり弐石
五斗代と御定めありしも憲廟の御代には又半減壱石弐斗五升代と追
なりたれとも甲州は前々聞付の通りにて上納いたし来りし故信玄時代は過
一急同様の高直段も今日に至りては雑穀同様のやす直段にて民の利と
なる事とはならぬ
一又案するに大切は他国の畑永とさしてかわりたる事はなしたゝ他国の
一畑永は御定直段ありて大切は国中の相場考合せて上納するの異同ある
まて也されと国中の相場も兎角不同ありて一定せさりしより後世御
一張紙直段金納となりしなるへし一躰甲州は山国故畑かち成るは勿論
なれとも梨子葡萄栗柿多葉粉蚕等多きを見込し取箇故
一石盛高しといへる根元記の説は如何あるへきにや信用しかたく甲州弐拾四万
石寺の内梨の葡菊栗柿多葉粉等の出る地は壱万石にもまさる由な
れはそれを見込に国中惣体の石盛を高くすへき理もなし甲州は山
一国にて勾配高く水の懸引自由瓜田稲を獲取れは水を落し麦田也
し畑麦を刈入るれは水をせきて稲田とする事にて土人是を麦田といふ
麦田は大概石盛弐拾位なれば石盛高きは此故なるへしと彼地を
兼て知る人の物語せし
安政四年九月十八日
岸本良徳
矢口正浩
同枝
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