飢饉部類考
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- 梅川重高著
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- 2026-08-17T19:23:22.652Z
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- 2026-08-17T19:23:22.652Z
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- 場所: [書写地不明]
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- CC0
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- 梅川重高著
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- 日本語
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- [梅川重高]
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- 10010000037167
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- キキンブルイコウ
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- 東北大学
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- 2026-01-09T15:22:06Z
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- 10010000037167
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- 2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
書名
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写
所蔵者
(備考)
管理番号
資料番号
撮影
北和北
東令東
甲
社2
}
飢饉部類考
置但
特別
飢饉部類考
海国
発書に云大概餓饉トなものは三十年に一度経至るもの也其心
ふへしかく
重高云此説非なり凡四十年計計なれども又定めかたし
天明四
十一丁左記ニ
テ見ルヘシ且何
通行
永嘉編ニ云「甲辰饑饉古来無餓菜流長日載レ迄。諸氏寡妻カ搗レ稚子ノ
何村ノ病叟法二遺遺孤一ヲ開倉巳賑千家ノ邑領臺還喰ス五文衛
但甲辰ノ
一年か何年ゾ
後ニ娶天明四
但財軽人命重従主セル世俗ク笑フトヲ吾愚ヲ
年十月
飢荒以後巳三年騎首ノ創夷猶未痊自昔一夫供二数口ニ一ニ一
干今斗米直千銭甘霖欲渋亜波水苦旱何変東都
安ノ経二杜来嘉穀惣テ一長ク歌二華壌ヲ以去ル芫天ヲ
荒井恭信氏ノ歌譜哀ヲ
以テ購入セル節博士
猟野亭吉氏蒲蔵画
飢饉郡類考叙
客歳春来多雨少晴以及秋初是
以盛夏無暑五穀不登至今春来
一価沸騰豆夏月益甚比之常価倍
山徒不啻窮人食昼餓草盛街見者
無不発惻恒心焉人皆言言言来所未
増有也京人梅川夏北歴奉数百
年来之銭事以成一書号曰飢饉
同年二一年閲之大約四十有余年
百一有銭歳過五十年者最稀因
謂去今回斤有余年則有銭歳如今
亦未可知也宜弁知晴雨之多少寒
暑之過不及預積米粟豆麦及芹
一照覚致之類以為之儲備聖語云人の
各遠慮必有近憂又曰凡事預
則不路此篇可以為遠慮不陰之資
一者能談者有頭或貯蓄則役夫必
免餓草之患矣豈可倉卒看過哉
天保丁酉子皿文
昼山中川故
天保八
天保四
飢饉部類考巻
平安梅川吉平車高著
ことし天保八年丁酉の大飢饉米価の沸騰其最盛なるは
当時銭ノ相庭八一
七月上旬精米一升の価四百銭六十九匁
一匁八分一二釐五
人民の仰天
歎息理なるかな抑ことしの如きは並〻の飢饉にはあら
ず最も稀なる事なりさて其稀なるよしを考ふるにまづ
三とせ前なる天保四年癸巳のとしのは誰々も知る如く
七月の末より米価次第に貴く八月中頃には一升の価百
四十銭になり九月中旬には百文に六合五勺十一月上旬
一升にして百七十
には五合七勺に騰りし
五文四分四なり
此時も施行物
など多く出ていと騒がしかり色今に比べては甚やすき
かとなり是年のは今年の大餓のなれるねざしなるべし
天明七
一観音粉ノ条共
此度の前のは四十五年おき天明七年丁未のとしなり此
雲根志云天明四年二月
中旬ヨリ奥州仙台気仙台仙台殿
温度のは世に録せる書も有へく覚ゆるが予が母なる人の
郡鬼首山の大石上に吹
出ス同年辛丑飢民これを
十九といふとしにて大阪に在しが筆記せられしものゝ
取喰ふて飢を助るもの一
一数千人次第に一時喰ふ者
多ければ吹出す尤も
日々多く後ハ近村数ケ村ゟ
今も蔵てる見るに天明六年午のとしより翌歳の天明七
より取喰ふ一日に何十石
といふ量なしと後十八月
年の未年正月まて次第に貫くなり終に一升百銭に成ぬ
米穀下直になるに随す所
吹出す事少しと東都
神田多町二丁目河津
氏ゟ其説を記して贈り
四月迄同じ事なりしが四月より五月十一日まて一升百
一日ゟ此時大明四年九月
一世金本本金廿一ヶ端
前燈随寺
俄に及又予同
武蔵
南新著
去年十一年大明四四夜山田や二年迄も難申出候て米穂不参ニて東須久治氏
内人参松皮を髪つ近得を様にして能となしくる施しけるを杓にして共にいたり依仁縁也
五十文となり十二日十三日は米屋とも朱を售らず翌日
伝出せしが二百二十文なりやがて二百三十文になりし
が六月の初より次々に降りて八月の中頃はもとの百文は
に復りて日ならず八十文にも七十文にもなりしはし記
明和五年ベンカラ回
大飢饉人民之力有之
せり此度に寓へるだにかなしき事にいひもて傳ふれども
三分一ヲ表フト云ウ
三分一ヲ表フト云フト云フ
坤異国誠
見
一坪裏囲路二引見
こも今に比べみればいとかろき也又其以前のは又四十一
享保十七
五年隔ちて享保十七年壬子のとし也此度のは西国より
雨彦芳洲がたはれ
ぐさ巻中云みづの
一畿内に至り蝗の為に損亡し大に飢餓せし也太宰徳夫が一
えぬのとしにをく
ちひさきむしの
ちひさきむしの
つねにはともし火の
紫芝園漫筆に云享保壬子秋山陰山陽南海西海凡三十余
うちにとひいるが幾
不住ともなく田魚につきければ四国九州の帯之なかれといつといつたかし子三の時といつにやい
州方二千里鰹冬大饑道発相望大小諸侯国苦糧者五十四
自古蝗之為災未聞如是者云々
先是云壬子春寒踰常年至
四月下旬尚如常年二三月
之交於是四月初十日夜有飛雁之声時殺雨之十三日三夏
之所四日也物侯之後時有如是者雖名有国五月実亦時之ハ
武防禁談計店巳屋
久左衛門一家紙屋
失也
〃〃
〇倭年代皇記に云当秋西国筋ウンカといふむし出て
吉右衛門は未成由度
右衛門一家に而辰巳屋
に五穀みのらず筑紫九州の人民餓死するもの多し是によ
は縁者のよし先ね
子の年うんかの節
飢人多諸人数之間銭
つて将軍家より西国筋の諸大名方へ拝借仰付させらる
壱万貫文御奉行所へ
差出之趣人共へ差遣候
居宅懸り丁目懸り六
京都大坂乃貧民へも御公儀より御救采あり云く此時宛
之出院之儀御免被成公々
重高云然らは
専らうんかと
覧候と見ゆ
民を救ひし者を官にて書記せし仁風一覧といふ剰本有
て云京都の救高合米九百四十五石余銀九百七十目余銭
享保七
二千四百九十九貫文余其外種々あり大阪ハ合金二百五
十両余銀二十二貫四百目余銭三万三百三十三貫文余米
千二百十二石余其余柱ニ見へたり已下西海の嶋〻まで
悉く記せり此時乃米価速に知りがたかれど長崎打橋竹
一雲が年歴観に今歳米価高直一石九十目翌年奉行所より
御救米被下と見ゆ此度も今よりは軽む事しられたり其
次は又九年を隔て享保七年壬寅の年なれとも飢餓の数
には収べからすそは国朝旧章録
五巻
に載る太宰純が米穀の
一金銀記に云辛丑年の冬より米価又甚貴く成て翌年の夏
正徳三
に至り太倉の米百苞を今の金五十六両に糶らる則乾金
一百十二両に当る今の金一両には米六斗二升五合なり
元禄已来米価の貴き事是を至極せす然に此時都下に飢は
餓のものなかりしは何ぞや云々此壬寅の年は秋より頓て
に賎くなりしよし也其前のは八年を隔て正徳三年癸巳
の年也是も又かろきよし也そは伊藤長胤が孟簪録に云ふ
正徳二
壬辰已来愈致沸騰癸巳五六月之間精米二百銭百物亦随一
一模価一升酬二銭余油一升酬九銭余物価之貴前代未曽一
有也然民無飢色買奴婢多不易致也蓋工商傭作者亦自貴
元禄九
売故亦相通融士度中人無毀売土田之資者甚困自是而穀一
一価浸増脱粟塩二百及乙未之時諸州豊穣価減三之一云々
其次のは又十六年を隔て元禄九年丙子のとし也倭年代
皇記に云丙子九年三月より七月迄天下饑饉と見て寛文
以来年代紀に云丙子三月天下大飢饉故に京伏見の町人
へ御借米一万三千石拝借家別凡二斗二升五合云々此時ニ
国朝旧章録の太宰徳夫の記に憲廟の世の世に
一米価知べからす
元録年中迄は朱価猶賎しく東都の米価
金一両に石二三斗より五六斗なり霊店奢摩を好み給ひ
し故に物価稍く貴く成て士人困めり其時士人相詰りては
米價賎を歎きてあはれ金一両に米一石ならは少息を続
べき給といひあへりされども上の奢侈に因て世間に全
天和二
銀多く働き仮借も容易なりし故に士人も用度に行つて
ることなかりし元禄十二年巳卯秋八月十五日夜大風あ
り年穀不熟なりしか其年の冬大倉の米價百芭三十五石
を金五十両に定らる則金一両に米七斗にて久しく賤か
りし米頓に甚貴く成し故に士人は大に利を得て悦ひ工
商小民は奔走しても僅に粥をすゝる斗也かくて朱質の
貴事三年をへしかは辛巳の冬に至て都下に飢民多く道
路に餓死するもの有念症則ち有司に命して粥を煮て飢
民に与しめ玉ふ事百余日に及へり翌年春に至て飢民稍々
く寡く或ぬ是より両年をへて年穀も熟し米価も稍く賎
くなるへかりし所に癸未年十二月二十二日夜東都大地
震にて関東諸国皆殃災に罹り大小諸候多く東都城の修
築に人夫を出し天下深役にくるしめり其翌年宝永改元
七月三日江戸より東北水災云々重高云初に云享保のを
元禄わ来といへるは此元禄十四年の事也而してこの年
のは江戸のみの事と見ゆ故に省く已下此例あるなり
此前のは又十三年を隔てゝ天和二年壬戌のとしなりき
一倭年代皇記云二年壬戌二月飢饉餓死多祇園北野両所小
織内
一暦暦暦文十一月小春夏疫病人多
て御施行京師疫病流行と見え
死とのみありて飢饉と見へ
てさるは
疎なり
一寛文以来年代記云天和元年辛酉天下飢饉云々
天和二年自旧職疫死多自三月廿二日祇園林及北野にて
崇行篇高
に云天和の初云〻
将軍家御施行云々新著聞集談
答僧の条一
この時節天下大きに飢饉しければ殊に都は人多き故に
や道路に袖をひろけて乞求めつゐに塊を枕として餓死
するもの二万余人に及ひしかばかく浅間しく世のなり
行ことを上人身に染かなしみ給ひて大雲院におゐて天
和二年正月八日より諸人のすゝめ四十九日が間非人ひ
とりに鳥目十二銭つゝ施行したてひしに日毎の人数積
りて二十六万六千二十九人に及ひけり世人其志の堪な
る事を成し金子五両十両は数ならず或時百両の金を白
一紙につゝみて施入しけり云は
此事大雲院所存碑銘に見る
ゆ其文曰連年凶荒諸民流一
離終至餓死者不勝計我師高誉上人坐不忍見之救済之意
念頻発然一杯之水不能救一車薪之火茲得十方信檀之由ニ
録天和二年正月八日始開場於当寺凡三十有九日之間方
来之餓民不論男女老少日日毎一人与孔方十二銭其数合
二十六万六千二十九人也於是建一塔宴為二世利益供艱
一欲使施者受者有縁無縁并已死未死之輩共趣困苦之海同一
到安養之界是老師之志願也天和二壬戌年三月十五日大ニ
雲院第九回光誉貞龍建と見えたり和漢合運に三月大雲
院誓願寺法輪寺其外諸寺以十銭施行又為誠一
一死、死云こと見えたるは是を疎に記せる也
同書
勇烈
小
篇
又云天和のはしめ打つゝき飢饉して餓死するもの都鄙
に多しこゝに両国橋の辺を時〻徘徊せる浪人と覚しき
男幼き子を伴ひ糖をとゝのへもたせ置捨の上より浩〻
たる波浪の中へ飛入し良有て年高き前来りしか〳〵を聞
てなふそれは自らが子にて候冥途黄泉迄親子の契争で
かおくれめやといひも果ず漫々たる中に飛こみし見し
人々いとゝ袖をほしぼりけり凡此頃はさ間〳〵の哀は多
かりしがかはかりの事は猶ひ侍らしと也云は
一一取肴
耶蘇
約文
是歳
延宝三
は西のはて迄飢饉にて有しかの長崎の年歴親に天和元は
年飢饉福済寺慈岳施粥崇福寺千凱亦施粥同二年今歳亦
此釜之事筑紫筑紫筑紫筑紫筑紫紀行に云ふ
一飢饉崇福寺大釜鋳造云〻と見ゆ
口径七尺計天和二年国
中凶年にて飢饉せしに因て粥を煮て
施せるよし銘を刻む云々と見へたり
此歳のは最甚しか
りし大雲院の碑に連年凶荒とあるを按ふに是より五年
へたてゝ前るる延宝三年の春夏の事倭年代皇記に三月
より五月迄北野松原四条河原にて諸国の窮人に粥銭の
御施行云
寛文以来年代記に延宝三年天下飢饉自三月
へ至五月将軍家於北野与四条川原賜米銭於飢饉
云々
盞簪録に云延宝之間薦飢斛至百三四十錢餓草載路斉
人
児空屋比々而在其後豊兼不常段有低昂二三年来常価不
下七八十銭云々重高按に延宝の間といへる、則ち天和の
大饑の前年米価これをもて知らる此時の百三四十目今
に比しては頗る廉なり然るに餓死二万に及ぶとはいか
中川定故の云或人云むかし
なる事にやと疑はるえ事也お
は米価今ほどに貴からざる
にうゑ死する人多し今はいたく貴けれとむかしに比へ
ては餓死する人少しこは今の人かしこくて米価をはや
く貴くせしゆゑなりそも〳〵去歳長杉ともに雨多くし
てあつき日のなかりけれは四方の国々五穀みのらずし
て今年新穀をとり収むるまては中々たらずされは米を
司る人其他米にたつさはる人々は年々につひゆる買数
を知れるゆゑ今年諸家の土蔵にある朱を合せかぞ信言
たくらふるに一月あまりは必たらずかくては行末乱に
も及妙信しは大に恐怖をなし上たる人〻はいたく歎き
て庶民に朝夕うすきかゆを食しすへてに雑穀其外菜蔬
の類ひにても惣してうゑをしのぐべき品をとり交へて
食となし七八月の頃に至り米尽てうゑなん事を畏るべ
しはねもころにしめし玉へど貪窮なる人々は麁食を悪し
み富貴なる人は常に驕れる故に純米のみ食となして万一
民のためにといふ公なる心は少しもなしされと古へに
も稀なるほどに貴きゆゑに貪窮なる徒らは一升の米の
価をも一日に得る事の出来がたけれは妻子と共に饑を
しのかんとするには中々に純米は食せられず富貴なる
人々も価のいたく貴きに驚きておのづから紅木を食せ
す惣して何方にも食乏しき故に餅菓子の類ひをうりかゝ
妙事常乃年とは大に多し其餅は大豆皮雪花菜あるは甘く
藷のたぐひをまじへ姿を餅となし其形を大にして米を
責すこと少しかくて諸国とも米を貫すこと常のとしの
半にも至らざりけれはつゐに新穀をとり収事迄不足な
くて餓る人少しとげに今年きさらぎの末つかたにはか
に米価五六十目も上り其後も日々にすこしつゝは上り
みな月の頃俄に又五六十目上り遂に三百五六十目に到
れり此折々俄に大に上れるは心ある人のなせしわざと
見えて云此説あたれるやうにおも倍りこゝに一つ並信い
にべき事あり予がわかき時彼の天明乃饑歳に逢ひしが
一老人云予か若き時鑑年にあひしに餓死甚多し今は人は
〻かしこくて餓死少しと何によりてかしこくなれるを
知るやと尋ねしにたとへば大津より米をせおひて京に
とゞけ賃銭をとりて業とする徒は朝ち津を出て午の前
後に京にいたり夕に大津に帰りふす是其常なりさるを
近き頃は朝とく背負ひて大津を出て早く京に至り大津
にも早く帰り再ひ背負ひて半途にいたれば暮に近つく
故米を預け置て大津に帰り伏すあすの日早く起出て又
新にせおひて京にいたりこたびは半途迄帰りて前に預りて前に帰りて前に預り
け置しを背負ひ京に至り未より大津に帰るかゝれば昔
の人三日になせし業を二日になす故得る所多くして饑
を凌ぐに足る今の人はすべてかやうに意を用ふる故
に貴き米をも買得る也と是予が若き時の饑歳の趣を語
れる也此説前説と符合する意有すべて何事も漸くこま
やかになりくはしくなるは世上の姿なればさも有なん
云々といへり此説かならず然る理におもはるもなり
こは全く世の漸々闢くるによれば飢饉の実は今歳ぞ勝
れけるなりさて此天和の大饑の事を尽簪録にも舊章録
の記にも脱漏せるは太宰純も伊藤長胤も倶に疎なるを
察るべし
一盞簪録に云相伝慶長乱後比年豊稔京師米価斛
卒十八銭後至二十四五銭毀而漸次涌貴四十年
前平価不下四十銭延宝之間薦飢斛至百三四十銭云〻其
後豊歎不常貶有低昇二三年来常価不下七八十錢壬辰巳
来云こと見え太宰純か金銀朱穀之記に当代の国初より
巌廟の時迄は天下乃宋価基賎ありし。士人さのみ困窮せ
ず世の風俗質素にて奢侈なる事なく他物の価も甚いや
しかりし故なり憲病の丑元禄年中迄は米価猶賤しく東
都の米賃金壱両に石二三斗より五六斗より
り抑慶長乱後に寛永十九年の大饑と寛文九年の飢饉と
寛子
睡余操
寛文コ
穀たかく
京中の
たる色
之新田
数百石
寛文九年より寛
二度あり況や延宝天和の沙汰せざる
延宝三年より前五
十二金二丁七
寛文九年より寛永十九年の間二十六年此中に米価の知れたる説あり微賎しき浜とん
是も此老の国に記
昆粥饅頭壱元云
一毘湯浚球主幷勢州人ノ差公ニ慶安四年蝋州ニテ金十両ニ米四十二年俵四斗ゟ
四斗一厘高云凡十七石斗
萩凡十八石八斗斗
一承応二年春金十両に米四十俵秋四十六七俵
同三年枯金十両ニ米三十八九俵答四十三俵トアリ云上
平蔵
□□□□
三十八九トシテモ
一十五石余ナレバ
蔵
尤一両に一石五斗
ナリ今ソ大抵石
一両トアレバアレバアレバアリ
示
無
煮て出
きもの乞食迄を助
告忘悲嘆
けられしは加漢合所
仁風なるへし
一陸梁失頑窩
号ず按ふに此頃より米価漸沸騰し延宝につゞき遂に天和の
弛張々又弛
重高云漢ハ宋ノ朱氏也
教化住居住
天保八
去年かはりし尹とは板倉
内膳正重知也
蒼生有何幸
に至れるなるべし大飢饉のねさしは有べきことことし考差
親利見失人
のを見て推察せらるゝ也其前のは是年より二十六年を齎す
逢斯太平日
我亦安老身
寛永十九
たはれ草に享保三十一日
風雨可釣調
へだてゝ寛永十九年壬午のとし也和漢合運に云自春至は
山野蔵弥淘
ゟ九十年前といへさは此年也
冠者与立業
相供賞良辰
寛文九年より寛永十九年の間三十六年此中に米価の知れたる程あり激減しむ浜と見
是も此老の国に記
一崑陽隆球ととは勢州人の覚書に慶安四年琉州にて金十両に米四十三俵四斗
承応二年春金十両に米四十俵秋四十六七俵
一同三年杉金十両に米三十八九俵各四十三俵トアリ云也
入
四斗一重高土凡十七石斗
萩凡十八石八斗斗
三十八九トシテモ
十五石余ナレバ
尤一両ニ一石五斗
一ナリ今ツ大戦石
一両トアレバ飛脚
よかへい
やかになりくはしくなるは世上の姿なればさも有なん
云々といへり此説かならず然る理におもはるかなり
こは全く世の漸々闢くるによれば飢饉の実は今歳ぞ勝
れけるなりさて此天和の大饑の事を尽簪録にも旧章録
の記にも脱漏せるは太宰純も伊藤長胤も倶に疎なるを
案るべし
蓋簪録に云相伝慶長乱後比年豊稔京師米価斛
卒十八銭後至二十四五銭毀而漸次涌貴四十年
前平価不下四十銭延宝之間藩飢斛至百三四十銭云々其
後豊歎不常段有低昇二三年来常価不下七八十錢壬辰已
来云こと見え太宰純か金銀朱穀之記に当代の国初より
厳広乃時迄は天下乃宋価甚賎ありしが士人さのみ困窮せは
ず世の風俗質素にて奢侈なる事なく他物の価も甚いや
しかりし故なり憲病の丑元禄年中迄は米価猶賎しく東
都の米賃金壱両に石二三斗より五六斗より五六斗
り抑慶長乱後に寛永十九年の大饑と寛文九年の飢饉と
二度あり況や延宝天和の沙汰せざる
延宝三年より前五
は不鑿穿の至りにて疎忽といふべし
寛文九
利本
年へだてゝ寛文九年己酉のとしの事倭年代皇記に正月
寛文十判本
睡余操筆に云
一醍醐随筆云
寛文己酉の春米
廿日より百日の間北野松原と四條河原にて諸国の窮人津算議
季春往草城国
穀たかく珠玉のごとし
政令之美談
京中の一形民之通
たる色有去年かはり
之新甲仁政行はれて
に粥施行云
新迎京兆甲威
和漢合
運同之
こは其前年の夏諸国旱魂とあれば
賀有脚春作
粥救餓性不
数百石の米を粥に
其為に田畠損亡し飢饉せし故なるべしいまた詳記を見倹否良多し
煮て春中毎日貧し
きもの乞食迄を助
告忘悲嘆
けられしは加漢合所
尤風而夫し
一陸梁失頑窩
告ず按ふて此頃より米価漸沸騰し延宝につゞき遂に天和尚
一重高云漢ハ采ノ朱氏也
弛張々又弛
教化得二居仲一
天保八
去年かはりし尹とは板倉
内膳正重知也
蒼生有何幸
に至れるなるべし大飢饉のねさしは有べきことことし考書
親利見失人
のを見て推察せらるゝ也其前のは是年より二十六年を集め
逢斯太平日
我亦安老身
寛永十九
たはれ草に享保壬子
風雨可釣話
へだてゝ寛永十九年壬午のとし也和漢合運に云自春至一
山野蔵弥淘
ゟ九十年前といへるは此年也
冠者与立業
相供賞良辰
訂補和漢合運図
餓死満路
倭年代皇
夏天下飢饉死人満路云々
記同之
此時は前年よりなり
一庶嶋志に瑞験記を引て云寛永十八年大飢饉に神の池より
り細き鳥縄の如く長四五尋ばかりの藻汀に日夜よせ来
下色
貴言為教記云
関東御入国の年大
する程に近辺はいふにおはばす遠方佗国の者迄きゝ伝へ
一飢饉にて餓死人多し
此子細を尋るに小林
一享保二朔日時分ハ上ニ至同
是を取飯のかてになし或は汁に煮て食の代りに用ひ命
一惣有之大名なく致道正しくて
約を変せさる故身を持たる
者は大小上下となく普々
を続けるもの大神の御恵なりと諸人尊敬し奉りぬ云〻
代の下人下めを多く
く堀つよく下はくるしみ大屋ならすまは
持分成者の紙に及事
三月十二丑子へ
なかりし近年寅年遠達す
亀禄いまだしらず其前はいかにも久しらず、其前はいかにも久しく豊
和火災雑仕候
「和中有加」」「信書」」文」」文」」文」」」「」」」」「「」」」」「」」」「」」」「「」」」「「「文化」文化」」」」「」」」」」」」」」」」」」」「播州」」「播州」」」」」」」」」「」」」」「「文化」
天正八
核うちつつきしにや六十年を隔てゝ天正八年庚辰のとだ
儀者扶牛屋上地日及高火雷火災或ハ御方宅今開発芝口連年不参社土膽踊闔同事不皆毀破破致破城之念一往来往来
と也日及三百次皆書残之御為也今聞而然之百連年不登村玉勝踊闔国莫不自然破城主兵兵生命二登待浦識而
一禄者投干屋上也且及三四次皆書戦之御為畢而然芝日連年不登村玉勝踊闔国中
資者何其多
弐両後封忠
火具於鼠皮
一同土待凍餓而死
織田信長執政の時にて京師所司代
の事皇年代略記
場
不若免刑罰
春長
長
本壇
本
本前十一之為会
村井長門守
軒
なり
以上洛下達
世にて
菊市八
一甘草早々可申十月八十七日之所ゟもより昨日夜昼夜
一訂補合運図春夏
大寝人多死
弘治三ノ下新兵衛
に春夏大疫人多死云
四日先例にて皆通に出居申家老家老中屋敷へ罷在候以上候其段御門え申上候間
一享保十一年二月廿一日丑寅年十一月十一月十一月十一年十一戌四月廿四日七十四日
始メ京都金一丈七十一年五月廿七日光沢上
一十六日
倭年代皇記に春夏
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
とある前年な
は疫癘と見ゆる是也
六十一年六月廿九日
ど恐らくは飢饉なりし飲未考是年より三十九年前天文文の
十一月十一日
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天文九
一新鋪今逆国春夏
大疫人多死四月九日
同断同所江之湯
一九年庚子の歳は天下飢餓集り皇年代略記に春夏天下大
疫人多死四月九日洪水民屋漂蕩とのみ見えたり此年の
一事を和漢奉釈暦に考ふるに八月十一日大風雨城州八幡
一塔上重吹落其外所々破損云々春日本宮嶽五町計前裂云々
去年も八月十七日大洪水云々明年も八月十一日暁ヨリ
大風云〻と見も甲斐国妙法寺記に天文九年云五月六月
大雨降候世中サン〳〵ニ候処八月十一日ノ暮程大風吹候而亥ハ
封迄三時吹申候大海端ハ皆浪ニ引レ山家ハ大木ニ打破
ラレ堂寺宮悉ク吹タフレ申候地下ノ家ハ千ニ一万ニ一万ニ一万ニ一
御坐候鳥獣皆死申候世間ノ大木ハ一本モ無御座候去程
ニ世中ノ事申ニ不及候殊ノ外物一向無御座候云々天文
十年辛丑此年致餓死候而人馬共死ル事無限百年ノ内ニ
ニモ無御坐候ト人々申候十死一生ト申候八月九月度々大
風吹候而世中一向凶ク御座候天文十一年壬寅此年秋世ハ
中一向悪ク候而大風三度迄吹申候人々餓死スル事無限
云々並而三年致餓死也云〻と見えたるにて畿内も推て
永正十五
知べし此時乃米価を考るに同書天文十二年正月米百文
に今升四升売買申候其外物ノ安争無限云々とあり然とも
畿内とは大に高価と見ゆそは天文八年九月十三日南都
此時は始て執行
東大寺手掻会執行一
再興か未考
執行か
手掻或
作転害
シテナノ作転害
惣持
の記録
院蔵
院蔵
の餅米
長合
十八石
一代十六貫三百文と見ゆされば一升九文ある
升定
りなり当時の相庭思ひやる信し然れば一升二十五文は
最も高価なりそれをも安しといへば飢年の価又察へし
但其時の量及び銭等
へされば天文九年よりは十年てふとし
の事は大に論あり略之
こそ甚しけれ其前のは二十年を隔てゝ永正十五年戊寅
新補合運図天下祇罷
歳皇年代略記に云天下餓死云〻甲斐国木立妙法寺記録
に云此年七月十三日大風吹テ作毛悉損ス諸作悪シ云〻
世間つまる事無限秋の売買米六十七文也当国山里ノ米
荷ヲ山家不通米ノ売買此郡一粒モ無之耕作何ニモ実不
入ワラビヲ九月迄堀也云々永正十六年己卯此年惣テ一日
国二国ナラズ日本国飢饉シテ諸国及餓死也云々売買ハ
米百文粟八十文大豆七十文朔六十五文也云〻然して此
永正元
年は豊なるよし也其前のは十三年をへだてゝ永正元年
新補合りて天事
文亀四
甲子のとし
年也
皇年代略記に天下飢饉云々春秋暦云々春秋暦云
永正元年餓死多和州侍多死云々京都将軍家譜云永正元
如是院年代記云寛正二
年飢饉九月洛中錯乱云々妙法寺記云此年冬寒事不及言
年人民餓死塁五條の上
セガキ「ヤ「ヤ「ウヤウヤウヤウ「
訂鋪合通図同年天下
説此海ヲ少モ明処ナシ大飢饉百分十分言説不及人馬死ス
一庚戌朔日午十一日
同云文明二年春京師
銭勅発大倉粟百万
同同年同三年赤
ル事無限売買米七十粟六十稗五十文云々永正三年春ハ
一疹人多死同四年天
下大旱飢死
売買去年冬ヨリモ尚高直也秋作ハ悉吉云〻
此には二年
一の事は見え
ずさて文亀三年のとしは大旱魃なるよし
何の書にも見えたりさる故の飢饉にや
其前のは五十
文安五
疾疫飢饉
訂二月ノ云水災地震
五年を隔てゝ文安五年戊辰乃とし也和州諸将軍伝治
筒井
氏伝
に云文安五年春三月上旬より京筒井及諸国水災疫疫飢
饉相続ける、順永法印春日社人に合して中目万座の抜を
応永十三
なさしめり云々是年の飢饉は翌年に及び依之年号改元
あり
春秋暦に文安六年七月二十七日改元宝徳と見え大
乙頭入衆日記には八月二十八日とす改元考には七月一
廿八日ともあり鹿冨記に依水害地震改元と見え皇年代の
略記に依水害地震疫疾飢饉とあり
其前なるは四十二年をへだて応永十三年也倭年代皇記は
に云応永十二年乙酉五月二十二日春日神木六千余本無
一刻ニより十三年春
一同二十三年春
天下飢社洪水大風
一故枯たり六月九日洪水丙戌十三年春天下飢饉秋洪水大ニ
年中行事土成二云羅州府
志云徳永年十天下
餓死のもの多し諸
寺をして際継倉仲
風云
筒井伝云応永十二年乙酉夏五月十二日春日山神
木六千余本扶たり禁裏より酒道義公をして順永
寺をして堀岸
を修十一条経棚
公花を捧く云々
に被命則祈祷として興福寺大衆春日直瀬赦に大般若任は
其債云〻と見えたり実は此時五千九百七本なるよし正
真院の書に見ゆ世に春日山将の枯るゝは凶年の徴とて
恐るゝ事なり此病永の時も豊嶽大餓年也今天保の大総
の前年にも一万七百本余橋たり然れともかく定札るに
はあらる頃天和二年は其としの十二月なり永正のは三年
皇年代略
記に七十
七月十五日七千余本枯たりと筒井伝にも見え
とある
一たれど実は四千五百本也是は大銭の後にあり又
は誤也
大永五年にも持たれど前後に大銭なく貞治五年のも飢は
年国の文ず是等をもて徴といふにあらぬをさたるべし俗
同廿七年戊戌年
廿七年歳薨
同六十月廿七年歳荒
皇天子発官栗姫之
白夫子発官栗賑之
間に専といふことなれ
はいさゝか弁する也
京都施行有之
先是寛正二年飢饉
餓死多云〻
疫病人
と応永二十八年飢饉
多死
同十八年飢饉と春秋暦に見
えたれど大饑とはいふべからざるにや未詳応永十三年
延文五年
元亨元
康暦元
計画ヨリ大飢饉トノミアリ
大平記六都
一延文五年十一年記」
康安元
ノ答云去年七月ヨリ日々ニ三度ノ
一政ニテ今度人民者ノ飢死ヌルコトリトニ数ヲ
より二十六年前康暦元年六月大飢饉と倭年代皇記に見
都ニ去年ノ天災旱魃飢饉丸瘡神勤ノ間ニ於テ尸骸嶋経ニ充満セシコト有事也然ス御暇ヲ有之事
元是より凶十七年を隔て前元亨元年なり太平記に云元は
此間迄又四丁
「ヨリ」」三」ノ地震」「」」」」」」」」」」」「」」」」「」」」」」」」」」」」」「」」」」「「」」」」「「」」」」」」」」」」」」「」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」「」「
午夏大旱地ヲ揚テ旬服ノ外百里ノ間空ク赤土ノミ有テ
延文六年三月
晦日ニ付安ニ改
ラレケル朝王洲
失ヒ魚ハ泥ニ
青苗魚シ餓草野ニ蒲テ飢人地ニ倒ル此年銭三百ヲ以テ
粟一斗シ買君遥ニ天下ノ飢饉ヲ聞召テ朕不徳アラバ天ニ
予一人ヲ罷スベシ黎民何ノ咎有テカ此災ニ遭ルト自帝ニ
徳ノ天ニ背ケル事ヲ嘆キ思召テ朝餉ノ供御ヲ止ラレテ
飢人窮民ノ施行ニ引レケルコソ難有ケレ是モ猶万民ノ
飢ヲ助クヘキニ非ストテ撿非違使ノ別当ニ仰テ当時富ニ
祐ノ輩カ利倍ノ為ニ塩積ル米穀ヲ点検シテ二条町ニ仮屋
ヲ建ラレ検使自ラ断テ直ヲ定テ売セラルサレハ商買共ニ
ニ利ヲ得テ人皆九年ノ畜有カ如シ云々
師ノ中外銭史云ハ
粟宜作米或穀此
重高耳按粟字師祝
北北
篇用字明好古色故動至喪真頂重焉可察也按延喜九年以旧
銭三十文充米一斗今云以銭三百買斗朱以為飢饉高価蓋ニ
是十倍於癸年欣然則元亨通致同位於延喜九年之寛平銭
也云〻重高云元亨二年壬戌は元年辛酉なる信し倩皇朝ハ
史略に西宮記を引て云延喜九年正月定天下常平倉穀価ハ
一升直三銭と書たるは踈にて銭史に扶桑略記の裏書を引
れて正月二十七日常平所穀充寛平銭弁別三文可沽之由
下知天下とあるは詳にて銭位其達へるをしるべし
一春秋暦に元亨三年旱魃洪水大飢饉とあるは元年のあや
正嘉二
まりにや其前のは六十二年をへだてゝ正嘉二年戊午の
一訂補合運国市八月一日
大風同二日洪水ノ人民
多死トノミ
としなり皇年代略記云正元元年已未三月廿六日改元依
□
飢饉地震等也云〻皇代記云正嘉三年三月廿六日改
元依飢饉疫癘也云
百練抄東寺長者補住将軍執権次第一
等皆三月廿六日とす年皇代記に或は
三月十六日或三月十三日云々
年契三月廿八日とす無稽也
とあれば正嘉二年大饑た
寛喜三
る事しらる其前のは二十七年を経て寛喜三年辛卯の歳
一訂補合運国飢僅ノコトヲ闕
東鑑云宵畢見喜三年
年なり皇帝紀抄云寛喜三年五月二十一日風聞近日飢饉甚
七月今月天下大飢
鮭又二月以来洛中
城外疾疫流布
之間京中在地人等合力推入宮家飲食之後推借銭朱等数
貴賤多以亡率
太平加
巳巻三十五
吉北郎通夜物も
多分配取事所々多聞云々六月十一日祇園内常行堂上餓
サレハ寛喜元年ニ天下飢饉ノ時
一借書ヲ調ヘ判形ヲ以テ富祐ノ者ノ
米ヲ借ルニ泰時法ヲ運フ
ケルハ来年世立直ラバ本
死者出来之間破築地上取棄云〻など見え其翌年改元貞
物計ヲカリ主ニ可返納村分ハ我添テ返スヘシ候
此一十一年ニ成ラン病院といへと考へした、同所全物ヲ其行武方ハ十七年七月七日ニ至テ多キ多キ者ニ皆免ノ我其内ノ米ニ受兼テ其後ヲ一方持ヘル事故ニテ近年行信州
用フ衣裳も折きくス著
永皇年代略記云寛喜四年壬辰四月二日改元依天変地妖
烏帽ナラタニ古キヲツクロハ
東鑑云貞永元年
ゼ考等シ玉ふ庭ハ僅ナク昼ハ一食ヲ止メ酒宴遊ハスノ儀ナタ此費ヲ補ヒ后チ引」松平
十一月十三日依飢饉
可救貧弊民之由
風雨不節飢饉也とありされとも其としも猶飢饉なりし
<割書:「「「「「「物語」」「」」」」」」」」「」」」「」」」「」」」「」」」」」「
武州被仰之間矢田
六郎左衛門尉既
下行九十余石米記
而件輩今年与扱
林道春が鎌倉将軍家請に云貞永元年十月泰時下行九千
干弁償之旨又愁
申之可相待明年糺返
之趣重被仰矢田云之
凡去今年飢饉武門
十余石米救飢饉云しと見えたり其前は又四十六年を隔て
被同撫民街之余
養和元二
て養和元年辛丑のとし翌年壬寅のとしと二とせの飢饉
東鑑ニ治承三四年之
時ヨリ西国飢饉ノヨシ
見えたり一所に長門国
依糺潰テゝと見ゆ
なり皇年代略記に巻和元二年天下飢饉兵乱旱魃餓死疫
却テ一食和両年ノ事ヲ闕
奇補合運図二云奏扣
元年四月五月ノ両月大飢
癘と見え皇帝紀抄に養和元年天下飢饉道路餓死者充満
一開闢以来無此程子細同二年天下飢饉同去年早魃疫癘越一
年之死人在墻壁云〻と見ゆ百練抄に養和元年六月近日ハ
養和二
一天下飢饉餓死者不知其数僧綱有官之輩有其聞寿永元年
正月近日嬰児奔道路死骸満街衢夜々強盗所々放火称諸一
院蔵人之輩多以餓死其以下不知数飢饉趣前代云々と見
元平家物語
六巻
養和二年五月
に云廿日の日二十二社へくわんへいしを
立らる是はきゝんしつえきによつて也廿四日に改元有
てしゆ永とがうす云々
皇年代略記に壬辰五月二十七日
一政二十五日、改元三合兵革飢饉疾疫と見え皇の
帝紀抄にも五月廿七日改元依天下飢饉と見え皇代紀に
も五月二十七日丙申改元依大疫也と見え百練抄にも五
月二十七日改元依飢饉兵革病事三合也と見え此度の改
元定記にも五月二十七日丙申雨下此日改元也と見えた
りされば平語に廿四日とせしは非ことなり加是院年代の
記五月廿六日とするも又誤なり山崎嘉が改元考四月と
するは論
巻二
源平盛衰記
十七
小足らず
に云治承三年の秋八月に小松
治承五
内府被薨ぬ今年潤二月に又入道相国失給ひしかば平家
の運の尽事顕也さればにや年来恩顧の輩の外に随ひ付
もの更になし兵衛佐には日に随ひて勢のつきければ東
国には諍ふものなし自ら背くものあれは推寄々々誅戮
し給ひければ關より東は草木も靡くとぞ京都には聞え
ける去程に去年諸国七道の合戦諸寺諸山の破滅も猿事
にて天神地祇も恨を含給ひさるにや春夏は炎旱夥しく
秋冬は大風洪水不斜懇に東作の勤を致ながら空く西収
乃管絶にける三月雨風起麦苗不考多黄死す九月霜降て
秋早く寒く禾穗未熟皆青く乾と云本文あり加様によか
らぬ事のみ在しかば天下大に飢饉して人民多く餓死に
及べり僅に生事物のも或は地をすて境を出此こ彼こに
一行或は妻子を忘て山野に流浪人巷に伶偶し憂の音耳に
満り角て年も暮にき明年はさりとも立直る事もやと思ふ
比し程に今年は又疫癘さへ打副て飢ても死病ても死ぬ
ひたにら思ひ侘て事宜き様したる人も形を窄し様を隠
して諂ひ行く去かとすれは軈て倒て臥死す路頭に死人
の多きこと算を乱せるがごとしされば馬車も死人の上
を通る臭気京中に充満て道行人も不輙かゝりければあ
まりに餓死に責られて人の家を片はしより壊ちて市に
持出つゝ薪の粉に売けり其中に薄朱などの附たるも有
けり是は為方なき貧人が古き仏像卒都婆などを破て一
且の命を過んとて角く売けるにこそ誠に濁世乱漫の折
とはいひながら心うかりける事共也仏説に云我法滅尽
水旱不調五穀不熟疫気流行死亡者多と仏法王法亡ひつ
つ人民百姓う供へけり一天の乱逆五穀の不熟金言さら
に不遣けり云々長明方丈記に云参和の頃かとよ久しく
扶桑拾葉集本此
飢渇
なりてたしかにも覚えず二年が間に
間世中の二字有り
して浅ましき事侍き或て春夏日ぐり或は秋冬大風大水
などよからぬ事ども打つつき五穀こと〳〵く実のらず空
しく春耕し夏ううるいとなみのみ有て煤刈冬収るそめ
きはなし是によつて国々の民或は地を捨て堺を出或は
家をわすれて山に住むさ方〳〵御祈はじりなへてなら
ぬ法共行はるなどもさらに其しるしなし京のならひな
にはにつけてもみなもとは田舎をこそたのめるに絶て
のほるものなければさのみやは見さをも作りあへん念
し侘つゝ
拾本様
の
宝物かたはしより捨る如くすれどもさ
らに目見たつる。人なしたま〳〵かふるものは金を軽くし
粟を重くす乞食道のべにおほく愁へかなしふこゑ耳に
みてり先のとしかくのごとくからくして暮ぬ明るとし
はたちなをるへきかとおもふにあまさへえやとうちそ
ひてまさる様に跡かたなし世の人見な飢死ければ日を
径つつきはまり行さ方少水の魚のたとへにかなへりは
てには笠うちき足ひきつみよろしき姿したるものひ
たにら家毎に乞ありくかくわびしれたる者どもありて
かとみれば則たふれ死ぬ津いひぢのほらの頭に飢死ぬる
一類ひは数しらずとり捨るわざもなければくさき香世界に
みち〳〵てかはり行かたち有さま目もあて良れぬ事おほ
かりいはんや川原などには馬車の行ちがふ道だにもな
しあやしき賤山がつも力つきて薪にさへともしくなり
ゆけばたのむかたなき人はみつから家をこほちて市に
出て売に一人か持出ぬるあたひ猶一日か命をさゝふる
にだにも及ばすとぞあやしきことはかゝる薪の中に舟
つき白かねこかねのはく所々につきて見ゆる木のわれ
あひまじなりこれをたづぬればすべきかたなきものゝ
古寺に到りて佛をぬすみ堂の物の具をやふりとりて
ありくたけるなりけり濁悪の世にしも生れあひてかみ
る心うきわざをなん見侍き又あはれなる侍きさりかた
き女男なと持たるものは其心さしまさりてふるきはか
ならず死すその故は我身をば次になして男にもあれ女
にもあれいたはしくおもふかたにたま〳〵乞得たる物を
見ゆづるによりてなりされば父子有者は定まれる事に
て親そさき立て死にける父母かいふちつきてふせるを
しらずしていとけな玉子のその乳房にすひつきつゝふ
せるなども有けり仁和寺の隆暁法印をいふ人かくしつ
つ数しらずしぬる事をかなしみて聖をあまたかたらひ
つゝ其死首の見ゆるごとは阿字を書て縁をむすばしむ
るわざれなんせられける其数をしらんとて四五両月が
ほどかそへたりければ京の中一条より南九條より北京
極より西朱雀より東道のほとりにあるかしらすへて四
明暦三年の註書に仁和寺隆暁
一万二千三百余なん有ける
法印未考とあり扶桑拾葉集本
に仁和寺慈専院乃大蔵卿隆暁法印とあり仁和寺諸院家
記を按するに慈尊院の条に見えず勝実院の所にあり隆
暁法印号宰相法印大皇大后宮権亮源俊隆子大僧正寛暁
灌頂弟子同入室東寺三長者
三云々とあり隆の字は父の名の一字暁の字は師の名の
一字をとりて名付たるなるべし次の貞暁は又譲れると
同いはんや其前後に死ぬるものも多く河原白川西の京
もろ〳〵の辺地なとをくはへていはゞ際限も有べからず
いかにいはんや諸国七道をや近くは崇徳院の御位のと
き長承の頃かとよかゝるためしは有けるときけど其世
の有さるはしらずまのあたりいとめつらかにかなしか
りし事なり
按に盛衰記には此方丈記をとりてかけ
るなり但副削せる所見ゆ長明の文は実
にあは
へなど見えて此巻和のは開闢い来ためしなきなと
札なり
いふほどなれば後代にも類ひなき飢饉なる信也米価い
かばかりならんしるべからず其前のは方丈記にいへる
長承三
ことく四十七年を隔て長承三年甲寅のとし也皇代記
五十
る是なり本朝通船
五十
五日
廿
記
云長承三年夏雨天下飢饉云
飢饉
疾疫
一保
延保
に長承四年四月二十七日庚子改元
一依疾疫飢饉也とあ
延代
によつて改元あるは此後養和寛喜正嘉と其度毎に改元
有しに元亨の度より其例止みて以来大饑といへども改は
えなし故に今天保の度も御沙汰なすなり
必も古へ甚しく今不甚との故にはあらず
飢饉部類考巻
二十ノ
15758
}
廿五日
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
一同廿二十一日
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
二十一月廿一日
十一日
利太兵
四ヶ年取る廿七銭
天平十一丁