評議会 昭和十三年 其一 コマ16

コマ
16
評議会 昭和十三年 其一
文書館アイテムID
2518
asset_id
44457d31-bc7d-4cce-91cc-e6df406de5ec
『研究の自由は研究の共同を使つて初めてその意義を十分に發揮し得るといふことである。單なる研究の自由では 石究の奔貢用用意、「後つてまた理論の無政府狀態に陷る危險がなくはない。』 『大學の各學部の間の共同はもどより、「基那の日部に女を」とき月のい。』。 『大學の各學部の間の共同はもとより、一學部の内部においても共同が不完全である。そして何よりも派閥の教授 間の反目等がこの研究の共同にとつて妨害となつてゐるのであつて、その叮肢が今日の大學の改革における大きま ある。』 といつたのも確かに正論であつて、この點に就いても小田村氏も前記論文中に、憲法第一條第四條を講義せぬ宮澤氏 「講義の如きか教授間にもまた學部長總長間にも問題にせられぬ状態を指摘して 「そこで云はれる學問の自由とは大學外からの干渉に對する大學自體の獨立の意味であるよりも、實質的には各教 彼の言動に對する、總長はじめ他教授からの干渉拒否の意味に變ぜられてゐる」 『教授各自が事實的實權の把持者となつてしまつた法學部の現状は、實に自治の名の下に於ける專制に外ならない 段階に屬すべき所の無自制的恣意精神による個我獨善思惟の無統制的治外法權的宣覺に他ならない」 といふのは三木氏の所謂『研究の無政府状態、理論の無政府状態』といふ言葉と全く符節を合するものである。河合 榮治郎氏が『改造』六月號の『時局・大學・教授』中に『自由とは大學以外の勢力による強制なき状態を言ひ、自治 とは大學の問題は大學自體の機關によつてのみ處理されることを意味する』といひ、東大經濟學部の文相案反對の教 投會申合せに於いて『大學の自治が國家目的の遂行に反したかどうかの解釋決定は大學にある』といつたのは、正し く『個我獨善思惟の無統制的治外法權的宣說』で、そこでは實際現に『理論の無政府状態』として泥沼の如き『紛爭』 が續けられつゝあるが、假りに若し萬一にもかくの如き思想家群が政治的權力地位にあつたとすれば、現ソ聯に見ら るゝ『血の肅正』『活地獄』を演出するに至るべきは必定である。 四、綜合大學の使命に反する現事態 二木氏の前記論文中最後に指摘したい正論は 『大學は研究の共同のための機關であり、それが綜合大學の組識を有するのも研究の共同を目的とするからでなけ ればならぬ。單に研究のためならば大學といふが如き研究機關を要しないのであつて、大學制度の意義はむしろ問 に硏究の共同に存しなければならぬ。』 といふ一節で、大學令で『綜合大學』を原則としてゐることは、本來は正しい學術的根據を有する制度であるけれど も、全體としての帝大の現状にあつては一學部の内部に於いてすらも、各教授の研究に『共同』協力が行はれてをら ず、各學部間には殊にこの傾向が著しく、東大に於いては先年農學部の本郷移轉を行つたけれども、綜合大學とは單 なる外的機構に留りいはば建物の空間的接近以外の何物でもないといふことが東大學風の現状である。法學部經濟學 部の違憲反國體學風もその原因には文學部との間の共同研究が行はれてゐないことが考へられなければならぬが、そ れはまた文學部の方でも全精神科學更に自然科學をも統綜すべき哲學、國史、國文學研究が正しい研究方法を示して 研究成果を擧ぐる如き學術的威力を發揮してゐないためであることを反省せねばならぬのであつて、荒木文相の今次 然科學各部にも精神科學部門の教養を與ふる如くに、綜合大學本來の使命達成を計るに至るべきである この點に於いて東大法學部長田中耕太郎氏が『改造』本年新年號の『技術者、科學及立場』に於いて 『官立大學や普通の私立大學に於ては、政治的意味に於ける自由主義が行はれ、各學究はデモクラチシユな態度を