評議会 昭和十三年 其一 コマ17
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- 17
- Volume
- 評議会 昭和十三年 其一
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- 2518
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以て異る世界觀や異る立場に在る者を相互に許容しなければならない。』
『私は其の基礎となつてゐる宗教的確信を講壇上より説教することを得ないと共に、又異る宗教や立場を科學を離
れた純世界觀的觀點から其處で排擊することも出來ないのである。』
といつたのは、前記三木氏の非難した單なる『研究の自由』の立場に立つたものである。これは實際に於いて田中氏
自身非科學的なカソリツクの中世的教會ドクマやスコラ哲學の如きを盲信して、客觀的普遍的價値ある信念や哲學を
有せざるものなること、それ故にまた他人の如何なる宗教や思想學説に對しても學術的批判を下す原理や能力を有せ
ざるものなることを自白したものである。研究の共同といつても、それは妥協ではないのであるから、原理を異にす
る場合にはそこに根本的徹底的の學術論爭が行はれねばならない。同一の原理の下に於てのみ眞に研究の共同協力は
行はれ得べきであるからである。
然るに東京帝大に於ては、畢竟個人主義に歸着する自由主義や民主主義から社會主義や共産主義や無國家世界主義
の如き違憲反國體思想が、『學説』の名に於いて各教授間に全く無批判無論爭のまゝに許容せられつゝある。それは
唯一の普遍的客觀的眞理を探求する科學的精神とは正反對の、主觀的偶然的の個我獨善思惟の無政府状態を露呈して
ゐる。それは哲學的無原理無信念の結果であつて、その詭辯悖逆の論理的無性格無良心無節操は河上肇、美濃部達古
氏の場合も、現東大の諸教授の場合も全く同樣である。思想的學術的見地からいへば大内事件の如きにも『起訴』を
待つて態度を決するといふ如き學術的自治無能力を示しつゝあるので、更に一層根本的には筆者が本誌前號に於て批
判した如き、河合榮治郎、横田喜三郎、田中耕太郎、宮澤俊義氏等の所説を批判し處置するを得ない東京帝大の學術
的自治無能力こそ問題であつて、帝大改革は斯くの如き帝大學風そのものゝ學術改革であらねばならない。(松田理
松氏との共著『國家と大學』參照)
東大法學部に於ける
講義と學生思想生活
-精神科學の實人生的綜合的見地より-
小田村寅二郎
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