満蒙開拓の歴史

AI要約 (β)
マンシュー開拓は昭和7年から始まり、昭和強行以降の経済政策の一環として行われました。昭和7年から14年間で全国から27万人が参加し、長野県は約3万8000人を送り出しましたが、戦争により悲惨な結末を迎えました。特に飯田下稲地域からは約8400人が移民し、この地域では万毛開拓の記憶を語り継ぐ活動が行われています。戦争の影響で多くの人々が困難な状況に直面し、帰郷後も苦しい思いを抱えていました。現在、体験者たちはその経験を次世代に伝える活動を続けています。
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219.25
provider
信州デジタルコモンズ 映像記録
attribution
『満蒙開拓の歴史』(県立長野図書館)を改変
video_format
video/mp4
マンシュー開拓は昭和7年から大陸政策の要として、また昭和強行以降の経済不強化で農村構成策の一つとして遂行されたものです。 昭和7年から14年間、第1次から第14次まで、その数は全国で27万人と言われ、 長野県はその中で最も多いおよそ3万8000人の開拓団と万毛開拓青少年義勇軍を送り出しましたが、戦争により悲惨な結末を迎えました。 県内で最初に分村移民を送り出したのは大日向村、現在の作穂町です。 そして最も多くの移民を送り出したのが飯田下稲地域、およそ8400人です。 この地域に万毛開拓を語り継ぐ会が発足。 下稲地域に住む人たちが同じ地域で万毛体験をした人たちから、その記憶と思いを聞き、聞きかけ報告集としてまとめる活動をしています。 希望せりは越冬帯というのがあったけどな。秋を済ませてまた越冬する人もおったけど、 われわれがいたときは夏のがあれだもんでな、冬までおる地域じゃなくて、いったわけ。 -それが昭和19年、20年になりますね。 -20年ですね。 どういう顔して村へ帰りゃいいし、もういないへ帰りゃいいと、正直言って思ったこともありましたけどね。 -赤ちゃんを連れてらしたんですよね。 一人であいてたの。ご飯を、高梁のお粥を口で噛んで食べさせたとか。 本体の人たちが出迎えてくれて、えらいとこ行きちゃったねって言われたけども、えらいとことは思わないんで、いいとこ行きたいなと期待しておりました。 -そんなこと言われたんですね。 日本が負けたということで、どうせ逃げて行ったって、どこかで殺されるか。 もうここでみんな、お父さんの後を追いましょう。 朝出かけて、万里は終戦になれば帰って来られるはずが来れなかったということで戦死しちゃったんだとか、 そうみんな思い込んで、私たちも遺産よく命を断とうという話がまとまって。 飯田市立みどりが丘中学校です。 久保田さんたち語り部のみなさんが子どもたちに体験談を語り継いでいます。 開拓団には少数、それから後に毎週のように一人か二人ずつ、少数例上によって軍隊へ行ってしまったわけですが。