兵家紀聞
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- 栗原柳庵信充編
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- 栗原柳庵信充編
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- 日本語
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- ヘイカキブン
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- 東北大学
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- 2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
荷{
五冊物
兵家紀聞
柳莽栗原氏編
兵家紀聞五冊
東都書林文渓堂発兌
本文
兵家紀聞例言
豊気景気温氏ノ副会ヲ
以テ購入セルヤ左衛門
一軍防令に兵士人別の戒具と云太弓一張るに
一一口・弦二條・征箭五十隻・胡蘇一具太刀一口・刀子
一枚・砺石一枚・藺帽一枚・飯袋一口・水角一口・塩角
一口・脛巾一具・鞋一両・乃十四品なり・是は一人別
一に自分の力を以て・儲蓄しむ・然此外に・幕一口・銅
筧小釜いつれにて巾二口・鍬一具・剉雄一具・斧一具に
斧一具・鑿一具・鎌二張・剣一具・駄馬六疋は・兵士牛
人にて是を用意し火鑚一具熱艾一斤・手鋸一具
は五十人にて是を備ふる由云今宵は官庫に安
置し歳に一度曝涼し修理すべきは官に申てよ
柳莽栗原氏編
兵家紀聞五冊
東都書林文渓堂発兌
本文
兵家紀聞例言
一荒代ニ茶器氏ノ副会ヲ
以テ隣人セルヿ聞博士
一軍防令に兵士人別の戒具と云右右号二語多数抄
一一口・弦二條・征箭五十隻・胡蘇一具・太刀一口・刀子
一枚・礪石一枚・藺帽一枚・飯袋一口・水角一口・塩角
一口・脛巾一具・鞋一両・乃十四品なり・是は一人別
一に自分の力を以て・儲蓄しむ・然此外に・幕一口・銅
一先小釜いつれにても二口・鍬一具・刹雄一具・斧一具に
斧一具・鑿一具・鎌二張・剣一具・駄馬六疋は・兵士牛
人にて是を用意し火鑚一具熟艾一斤・手鉛一具
は五十人にて是を備ふる由云介冑は官庫に安
置し歳に一度曝涼し修理すへきは官に申てよ
と云は・官物なること知し・但軍防令・領れける大災
元年辛丑の前文武天皇三年己亥九月辛未詔に
正大弐
天武天皇十四年に定られし爵位に正信
一四階・直位四階・勤位四階・務位四階・追位四
階・進位四階・階ことに大広・有を以て・諸臣の位四
十八階なり正大歳は正位八階乃第三に當れは
三位に准
すへきか
已下無位已上者は人別に弓矢甲棹殿
ひ兵馬を備しめ京畿同しく儲しむとあるは有信
の人の上にして・無位の兵士とは異なるなるむ
一然此際の介冑の製作は別に書あれは言す・只兵士
太刀・刀子・二口を帯し万矢を握しこと・一千百五十年
前より既に然ありしことを知へし尓後昇平打続き
貞観の頃は兵士力・微弱になり・一筋蘇五十度の
相済
一矢を帯し得さりしに依て尋常は矢数を減して三十
隻となし。節会行幸臨時警固の日は法の如く五
一十隻を帯へき由十六年九月十四日の実録に見
えたり
大宝元年より貞観十六年に至て百七十四
年なり・兵士膂力の強柔おし計り知へし
かくて遂に五十隻の胡蘇絶て鎮西八郎為朝の
一壮勇なる猶三十六隻に過す其餘四郎左衛門尉
一頼賢は廿四隻或は十八隻又は十六隻に至れり
胡蘇一つの上たに・詔革かくの如し軍器の數多き古
一今何そ一定することを得へけんや分試に応永廿四
一年禅秀亂の頃の武家介冑を着せし體を考ふるに
詞書後崇光院真翰な
土佐行広画の十二類合戦
り應永廿四年は後崇
本間孫四郎資氏
相馬四郎左衛門尉忠重
此図
筆者
つまひらかならす
未詳
甲冑
弓箭
弓箭
等に
依
考ふれ
應永年間
の図と知
いし
光院四十六
俵藤太絵
歳の御時也
詞書筆
一等に就て考究し文
者未詳
一新田義貞卿記豊原統秋體源抄・一条禅閣・為覚物
語等に依て次第し・現存・古甲冑等に訂正し小心
に索れは二番浴衣二番小袖三番大口四
縁塗
香乱髪縁塗五番鉢巻六番号懸七番鎧直
垂八番脛巾九番拾十番髄当十一番頬
貫十二番脇当十三番手蓋十四番鎧十
五番刀十六番太刀十七番征矢十八番号
を着せしを八幡殿の次第と新田家に傳えしと
一聞ゆ然は他家に此次第ならす・奢する人も有し
随兵次第には
と知へし・隋兵日記了・鎧直垂・四括・四括・四括・四括・四括・四括
白帷子大口・水
白帷子大口・水
干籠干すねあて水干か
一刀をさし上帯をしめ次に
の袖推と見えたり
一中門に打て出・太刀を佩・征箭・逆類・熊柳鞭・
今熊
葛と
1
随兵次第には・鎧次に
小弓虎皮頬貫
甲は役人そ
つな貫さて刀とみゆ
一持せ我家の折烏帽子一寸斑の調頭懸を為へし
と云か如し但其甲冑を着せし、體は何れにても
○胴丸・金胴は次
同しきなり
つきに云へし
一世鏡抄
序は西園寺右大臣公藤公
一跋は東山左大臣義政公
に百貫領主馬
一疋もつ也食物三十四貫不慮十貫中間三人廿
一貫窓物廿貫十貫試物六貫遊の料とあり中間三
人とは甲持敷皮持張替弓持なり是一騎に三人
の中間を連る定と知へし然れは百騎には中間
三百人
主ともに
四百人
千騎には・三千人萬騎には三万
軍陣随兵
一人と云へし是当時の人数積なり
共に同し
又晴
一乃時は右へ敷皮・右二太刀持・左へ甲持左二張替
是今鑓挟箱君黨
一万持次に馬と四人連なり
草履取の初なり
此中
間の料三人分廿貫と云は一人は六貫六百六十
六文に当る
享徳元年大会寺堅義日記了四斗一
升四合例米五百丈と有て次文に米
一斗百十一文と見ゆ然れは六貫六百六十六文
に米六石を買へし但此時の一石は今の九斗六
升なれは六石は今の五石七斗六升なり是中間
一人の禄と知へし百貫文の米九十石なり今の
八十六石四斗許に当る即
与力の禄の出所と知へし
其装束黒直垂四拾し
刀許に
て胴丸を着・金の張て色絵たる刀を佩せ
て・太太
なし・是中間一
一烏帽子足半を履すべしと随兵次
刀の證なり
一第に見えしにて知へし
一鎌倉右幕下の平家追討は院宣に依て私催を復
せし也承久上皇の北条義時を殺さんとなされしは
歌妓の為に怒を漏されし也・元弘の難は劇を救
ひ暴を誅するを義兵と云に似たれとも天子に
しく将軍家臣を討に九重の鳳闕を遯て要害の
一行宮に保す頗上下の勢を失ふ建武の亂は帝業
一既に衰へ武徳中興の運を新にす然に應永廿三
年上杉禅秀の謀叛せしより關東麻の如く亂れ
一元帥処を諭て遂に古河に遷り管領柄を失ひ陪
一臣强潜し終に至て両上杉・相争ひ・鶴峠の形をな
一せは早雲隠父の制を擅了す。故に今禅秀乱を首と
して此編を筆剤し天正十八年小田原陣に及まて
百七十五年の際英雄割據し豪傑并兼の事実を
撮論し童蒙に與て治乱の始末を詳かにせんこと
を希ふ然とも余陋見無識訛謬尤多かるへし後
の君子願は校訂を賜へと云
天保十四年癸卯十二月日栗原信宛記
兵家紀関例言終
兵家紀聞巻第一目録
一応永廿三年十二月上杉禅秀亂事
関東管領の始関東都元帥副元帥
関東乃分国鎌倉御所年始の式上杉家
一両流と分れしこと鎌倉御所許定始
鎌倉御所御元服由比浜大鳥居最一と云
一平家の名人越幡六郎か事上杉禅秀
子息の事鎌倉谷七郷権大納言義嗣卿
謀叛の事佐々木六角満高の事
一大懸の切通一切破滅日の事
兵家紀聞巻第一目録終
兵家紀聞巻第一
一小児両三輩机邉に羣列して應永の禅秀亂永享
乃結城戦場・両上杉の鉾楯・堀越の内亂・早雲の興
一起甲越の周旋を談る其説詳なるは文に過略せ
一類は尽さす・為に旧記遺編を探て文を刪り略を
補ひ・其亂たる所以と・治れる理を討論し・其時世
一に依て・旌旗甲冑・刀槍楯竹束鞍鐙弓矢の制作に
同異あることを弁し合せて図式を附す但恐趙括
つか兵法の比ならん如称さることありとも余随て
一坐せらるくことなくは幸甚と云爾天保十一年庚
子晩冬栗原孫之丞源信充識
應永廿三年十二月二日鎌倉左兵衛督持氏朝臣の
管領上杉右衛門佐氏憲入道禅秀西御門保寿院に
て旗を揚持氏朝臣を襲はんとせしかは同三日持氏朝
臣・岩殿山を廻り・上杉憲基か佐介谷の亭へ入御同
六日由比浜合戦持氏朝臣敗績て駿河国へ落られ
今川範政を憑み同廿四年正月十日禅秀を誅し同
廿八日御所へ還御なる迄鎌倉に主なきこと五十七
一日これを禅秀乱と云
鎌倉左兵衛督持氏朝臣は等持院贈左大臣伝氏
の四男鎌倉左馬頭基氏朝臣の勇孫なり初尊氏
公・いまた足利治部大輔とて鎌倉大倉館に坐ける
時に右大将頼朝卿より以降将軍家代々鎌倉に御生
坂東の勇士を幕下に召置れ京都には守護を置て
内裏を警衛し畿内中国西国四国九州の成敗を問せ
たりし故事を知食つれは将軍宣下の後鎌倉に住ん
と思召れつらんなれとも南山の内裏に三種の神器と
共に正統の天子高座を堆く居させ給ふのみならす。大和
一河内和泉摂津紀伊伊賀伊勢等の国々の官軍動は
一都に責上り鳳輦を還幸なし奉るへき。籌策を日夜に
一運らすか故に将軍一日も都を出て勢玉ふこと難し爰
に於て将軍京都に惟慕を連ね・四男左馬頭基氏朝臣
を鎌倉に居れ是を関東八ヶ国の管領と称し高播磨
一守師歟上杉民部大輔憲顕を執事となされ浄妙寺の
一東に御所営造して往せ玉ふこと十九年貞治六年四月廿
一六日行年廿八歳にして卓世ありしかは錦屏山瑞泉寺
に葬て瑞泉寺玉巌所公と云さて有へきにあらねを基
氏朝臣の長男金王丸とて千歳の若君を家督となし。
関東管領を相続なし給ひ応安元年十一月廿一日十一歳
にて元服あり。左。兵衛督氏満朝臣是なり。此年執事上
行年六十三
杉民部大輔憲顕下野国足利庄にて卒去
一法名へ道昌
ありけれは憲顕二男兵部少輔能憲を以て執事とす。
時に
一是時京都将軍家宝篋院義詮公薨御ありて鹿
卅七
花院義満公十一歳にて将軍に任せられ細川右馬頭頼
京都将軍家
一之管領の職に居て将軍を補佐せらる
の執事を延
文三年より管領
頼之此年四十歳智謀羣に秀たりし
と改め称せらる
一ほとに白鮎に万民随ひ靡き管領の威権日々に盛なり
き関東も能憲よく仁愛を施こし幼主を守護せしかは八
箇国みな其徳義に懐きいつしか執事を管領と称し
氏。満朝臣を公方と称するにいたる能憲後に薙髪し。
法名は通鎌倉西御門の西の谷に南陽山叡恩義国
○義堂の著せし
禅寺を建立し義堂周信和尚を開山とす
鐘銘に関東
副元帥上杉関東都元帥左典厩とあり左典厩は
永和
氏満朝臣を云・是にて上杉の勢推て量知へき也
四年四月十七日能憲入道四十六歳にて逝去その弟
刑部大輔憲春を管領とす康暦元年美濃国の土岐
一大膳大夫頼康謀叛を起しけれは是を退治有へしとて
一国々の軍兵を召る関東よりも管領の舎弟に上杉右京亮
憲方入道道合を大将として五百餘騎をさし上せらるまた
和泉国の土丸紀伊国の藤波大和国の十市等の城々の主
一とも時を窺ひ・蜂起せしにより将軍義満公これを鎮めん
ため・進発の用意ありと鎌倉へ閉えけれは去は京都定め
て無勢なるへし此時思立玉はく将軍一支も支玉ふましと
勧め申者ありしかは氏満朝臣実もとや思はれけん内々
一思召立よし憲春へ仰合されけれは憲春大に驚き諫奉
ると云とも思召定られたる旨なれは憲春いさめ兼て
一我山内の館へ帰れは京都より御消息あり氏満朝臣
の企早くも将軍知し食と云とも憲春能々諫め申て
無事の謀を廻すへしとの御教書なり・憲春やかて妻女を
近つけ思立ことあり尼に成て玉はりてんやと云は女房怪
からぬ所望かなとは思へとも様有へしと思案して則髪を
切てけり。憲春これをみて無体の所望申つる也後に思ひ
合せ玉へとて・持仏堂へ入て民満朝臣へ・御謀反叶まし
き由と京都よりの御書の旨を書置腹搔切て失に
けり
康暦元年三月八日のこと也と・頼印僧正
氏満朝臣大
行状絵詞に見えたり法名は道珍と云ふ
に驚き宛を以て諫なりし憲春か忠義に感し将軍
へ對し・別心を挟まさる趣を白筆の告文に載られ・瑞
泉寺の舌天和尚を使として.京都へ上されけるに五
月二日京都の返事到来す別の子細なしさて憲春
の弟右京亮憲方入道を三嶋より呼返して管領とす
氏満朝臣の父・基氏朝臣と・義詮将軍とは・同胞の
一兄承なれば・其親愛を以て・京鎌倉と・引別れて立
に治を助玉ひしなれとも・氏満朝臣と・義満将軍は
従兄弟にて・其親既に疎し・親愛の情も又薄し・故
に・義満将軍を討て・是に代らんとするに至る何そ
養濃将軍の為に・仇を防くへけんや・星其境城を守
て・割捜するの娘と云へく・又京鎌倉の・互に猜忌
して干戈を動かすに至る漸と云へし且上杉の関
東に鷹揚するも憲春の死を以て・氏鵲朝臣を全く
一せし餘慶なれは・成氏朝臣の・鎌倉を去て・古河に至
るも爰に胎し・両上杉の
明徳二年十二月晦日凶名
一跋扈も爰に兆と云へし
陸奥守氏清・内野の合戦に・討死せし乃ち・陸奥出羽
一両国を以て・関東の分国となさる・相撲・伊豆・甲斐
一信濃・武蔵・安房・上野・下野上総・下総・常陸・越後・十二
国に合せて十四国なり
一但・今の如く千四国・全く氏満朝
一臣の・領せらるゝにあらす・其国々
処々に地頭あり・其地頭を氏弼朝臣の・麾下になされし
なり・たとへは・下総に千葉・常陸に小田・佐竹・下野に山
一結城・宇都宮な一
一同三年四月憲方入道重病に依て管領
と云類なり
を上表あり
を辞するを
摂政関白たる人の職を辞し申さるゝ時表を
上ると云ことありそれに習ひてたる人の職
然れは長子安房守憲定を管領代に補せ
もしか云也
られき
憲定時に
応永元年十月廿四日憲方入道卒
十八歳
一去行年六十歳法名は・明月院天樹道合・極楽寺に送り。
草根一堆の墳の主と見なしつ但在世の内より長子
憲定父の職を執行ひつれは家督の後管領に補任
せられんことは相違あらし且は憲春か忠死といひ互は民
貞和五年より応
一部大輔憲顕より以降四十六年の際
永元年まてなり
鎌倉御所年始出仕之図
十九日
外門
十
雑掌画子
中門
中門廊侍上
其
二
渡廊
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
御旗辛櫃
風
妻戸間
□□□□
十一丁
四月一日
一管領
一鎌倉一
新潟
一父子四人代々山内の上杉にて氏職に補任し来り
たる先蹤なれはと待幸せし人も多かりけりけるに。案の外
一なる上杉中務少輔朝宗入道禅助を管領になされ
けりこれは憲顕の弟に修理亮憲藤の男なり大懸谷
に住ししかは大懸の上杉と称せし也山内の上杉にては手
に握たる実を奪はれたる心地のせらるくも理なれや
蓋氏満朝臣・此年卅七歳◦膂力既に剛く。曩に憲春か為
に宿志の遂さりしことを憤り又は憲顕能憲のよく人
一心を協和し得たる感権を奪はんとして管領を両流に
一分られしなるへし。
京都将軍家の・畠山・斯波の・両流に
身一へ
分れしは嫡庶の別正からすして自二
に分れ・細川の二流になるは・継嗣を
一定めさるに起れは是と同しからす
同五年十一月四日
氏満朝臣行年四十一歳にて逝去瑞泉寺の右の谷
に葬て永安寺壁山全公と謚す長男左兵衛督満兼
朝臣関東十四国の国務を襲せらる時に廿一歳に成
玉ふ管領は上杉禅助なり禅助この年五十八歳鎌倉の
古老と云・満兼朝臣の乳母夫なれは山内の憲定は対揚
すべくも非りけり・同十七年七月廿二日満兼朝臣行年
三十三歳にて世を早くせらる勝光院遍山智公と称す
管領禅助は世を味気なく思ひ上総国長柄山胎蔵寺に
入て隠遁す備兼朝臣の長男光王丸十三歳にて相続
あり管領は禅助の長子右衛門佐氏憲父か譲にて補
せられたり憲定大に望を失ひ・世を思切出家遁世と
一心を定めし處に幸王丸の母卿の兄上色左近将監夜に
一紛れ憲定か山内の亭に来る人を避て語りけるは故殿
満兼
朝臣
病床に禅助を被召光王丸は嫡子なれ共不覚の
一生れ付なり。諸家の思ひ付有へからす次男の君を守立
てと上意ありし由だしかに伝え承はる禅助上総へ
引籠しも隠謀の為ならん如何すへきと額をさし合
せ。内證時を移し。暁かくに還けること度々に及けれは。
氏憲も是を知◦時の難を遁れん為か義は別に思たつ
こともや有けん・満兼朝臣の弟満隆とておはしますかた
へ夜々参り向ふて・行事をか語らふやらん一定謀叛
と告奉る人ありしに依て八月十五日俄に幸王丸を
具足して母御前并に一色左近将監結城築田を始近
是持氏
一習の面々打囲憲定か山内の亭へ移らせらる
朝臣と
氏窓と確執に及ふ張本なり満兼朝臣の明持氏朝
民の家を破るべきを知と云とも是を除くこと能は
す坐にして滅亡に
然るに憲定は寛裕の長者にして
至る痛惜にたえす
一君臣兄弟の間に干戈を動かすこと末代の嘲を免れ
すと満隆を諫氏憲を教訓し無事を取結一色結城
以下の近習をも宥けれは九月三日御所へ還御なりぬ
かゝりし後は満隆と光王君との御中昔にかはらす申交
し玉ふといへとも互に心を置せられ剰なにことも御隔
一有まして稲村の満直篠川の満貞大御堂の満秀
並に
満兼
朝臣の舎弟
なとまて相疑ふて胸中に剣をいたき笑の
光王の叔父
前に。怒を含み穏ならぬ鎌倉の有様はやかて飢へき
一先兆とこそ知れけれあくれは應永十八年七月廿九日
御評定始あり
一流布鎌倉大草子六月廿九日
に作る今異本古写に従ふ
これは去年
満兼
七月廿二日勝光院殿
一逝去ありしかは鎌倉中重
朝臣
一服の儀にて万機停廃ありつるに今月廿二日第へ周
の法会遂行はれて何事も昔に帰る吉礼の始なれとも
御所は御元服以前なれは御出座なし政所にて守
公神の祭龍口にて死活杖祭等を行はるゝ一とすへて
先々の例の如し十二月廿二日御所御元服あり京都
義持
将軍内大臣
家の御一字を申されて持氏と称
公
せられ左馬頭に任せらる御巣の乙若殿も同日に
元服の儀を執まかなひ持仲と名乗玉ひ偏に両君の
如し蓋犬懸の氏憲か遠き慮の有つることを誰に
たれも思寄てたゝ目出度ためしにのみ言はやしけり
同十九年十二月十八日上杉安房守憲宛入道大全
一卒去行年三十八歳法名は光照寺長基大全政道に
一私なく文武の嗜あつかりしかは内外の親疎思を寄
志を運ひ鎌倉の師範と頼たりしに早世有けるこそ
一左馬頭殿の御運の衰ふる始と心ある人は嘆あへり
さて管領は氏憲一人我思ふまゝに振舞ふといへとも
是を諫むる人もなけれは自然邪なることも出来て
けり同廿年三月六日由比浜の大鳥居再興あり奉
行は上杉右衛門佐氏憲入道禅秀なり抑この大
一鳥居は治承四年十二月十六日右兵衛佐頼朝卿始て
一建立奉行は大庭平太景義
大庭三郎景親俣野
五郎景久等の父
かち
梶
梶
原平三景時なりとかや其後三十六年にして建保三
年八月十八日午刻大風雨より此鳥顛倒せしかは同年
十月廿日将軍実朝公の仰に依て新に建立あり相模
一守義時武蔵守時房
義時
修理亮泰時
弟
義時
長子
以下の人々
多以て監臨なし玉ふと云遂に例と云遂に例となりて仁治寛元
の修理みな将軍家の御沙汰たり然るに元弘三年五
一月鎌倉九代将軍
頼朝頼家実朝頼経頼嗣宗尊親
一王惟康親王久明親王守邪親王
にて九
代なり
の繁昌一炬の光焔と立のほりし後尊氏卿
一京都に幕府を開かれ将軍代々これに御座つれは鎌
倉は日々月々に衰微して前代の親矩も歳々に頽れ
たりしを上杉安房守憲方旧記を考へ遺聞に校して。
一嘉慶二年六月此鳥居の再建供養を遂行はれしより
絶て久しき治承の昔に立歸しそかしきれは此事山
内の家に付たることの如く思ひし者も多かりしに氏憲
一当職たるを以て一応の会釈にも及はす。是を奉行す
一是山内の家に
薬人は権威に怖れて口を箝と云共神
氏憲を怨むの
は非礼を享玉はぬにや七月三日大風吹起てさしも経営
力を尽されたる大鳥居の笠木傾き倒れけるこそ不
思議なれ氏憲入道禅秀はかゝることにも驚かすその頃
禅秀入道
家一検校
を寵す
都より最一と云琵琶法師下向す無製平家の名人と
て鎌倉中の大小名これを賞翫大形ならす禅秀常に
傍に呼すゑて朝暮その芸に執着せし餘りいまた幼稚
の左馬頭持氏朝臣を勧め参らせ諸大名へ課せて三
百貫を勧進し。是を持て上洛し。検校になしなとしけるを
ば禅秀か栄耀の余りと弾指せぬ人もなかりけり
相撲
入道
高時の田楽法師を売翫して大名にこれを馳走せしめ
られし後・いくほとなく入道亡ひたり今の禅秀は琵琶
法師を弄ひて身を失ふ始を開く物を
一此年十二月陸
一琉へは志を表ふと云・戒実に恐るへし
一奥国の住人・伊達松大丸
兵部少輔
一懸田播磨守吉野の
氏宗子
一宮の令旨ありとて鎌倉の下知に背き大仏城にたく
畠
畠
籠り旗を揚しかは奥州管領畠山修理大夫国詮を
山
中務大輔
国氏子
一左馬頭持氏朝臣の御旗を賜はりて發向
一せしかは國人みな靡き従ひこれを攻落し都内平均に
是二本松の
一治りける後・国詮を二本松に居しむ
一畠山の祖也
同廿
一年三月六日・由北浜の大鳥居去年七月倒れたりし
一を再興供養を遂行はる・両柱の間・下にて廣三丈九尺・
一高さ三丈壱尺五寸柱の太さ一丈二尺五寸笠木の長
応永廿一年大鳥
四丈八尺とかや
八月廿五日上杉中務
居再興の記による
少輔朝宗入道禅助上総国長柄山胎蔵寺にて卒
す其処に葬て徳泉寺道元禅助と云行年八十八
近年出家遁世の身とて・政事の口入間の栄枯一
一事も心にかけすと云とも上杉一家の故老と云氏憲
入道禅秀の叔父なり養父なれは何事につけても此
一人に憚りし又思ひ免すことも有しにかく成ゆくは・大悪
是氏憲内援を
の家の弱なりと皆人哀あへり
同廿
失ふ所以なり
一二年四月廿五日・鎌倉政所にて御評定の時・大懸
の家人・常陸国住人・越幡六郎某・科ありて所帯を没
収せらるゝの処に禅秀申けるやう六郎か罪科重しと
いへとも所帯を収公せらるゝ条頗法に過たるに似た
りと愁訴申せしに・持氏朝臣・此時十九歳・日頃氏憲入
一道か威勢あることを息々敷思召ひるに今日その家人を
一贔屓して・土意を醒し申こと奇怪なりと御気色以の外
常陸
常陸
に損しけれは・氏憲入道急に面目を失て・退出す
国真
壁郡に越情村ある即
五月二日・禅秀管領職を・上表
六郎の居處なるへし
ありつれは・孫上意をかるしめ奉ると憤らせ玉ひ直に
一御免ありて同月十八日山内の上杉安房守憲基を以
一窓基は・故の安房守憲定の
て管領職となされたり
一嫡子・今年二十二歳なり
一禅秀には男女四十余人の子息あり嫡子は中務大輔
憲顕
系図に・刑部大輔
次男・修理亮憲形・三男五郎憲
一憲顕に作るあり
一晴・四男伊豫守憲盛五男治部少輔教朝・六男雪下
大納言法印快尊一の姫は千葉介兼胤の妻・二の姫
は岩松飴部大輔入道天用の妻・三の姫は佐竹上総
介祐義の妻・四の姫は那須越後守資之か妻・五の姫は
宇都宮左衛門佐持綱か妻なり此等の人々肉々心申
に持氏朝臣は御年弱く在して・遠慮深志のおはし
ますへきにあらす是は一色結城なと云軒侫の近習者か
当家
犬懸の
罪を亡さんために讒言を構て上意を掠
上杉也
一ると覚たり先すれは人を倒し後れは人に倒せらず
とかやいさや一族即従を催促してまつ越幡六郎か
罪科正路の明断を仰き訴へ・禅秀入道の御不審を
閉食分させられ元の如く管領職を申賜らんと評議
一決せしほとに・国々より禅秀に与力せんと忍ひ〳〵に
大懸名越の邉へ・馳集る武士引も切す是を伝聞て
御所方へ・馳参る大名小名・近国の弓箭に携る程の
数を尽して・百騎三百騎・五十騎三十騎・打込〳〵上
りけれは。谷七郷
一小林郷・小坂郷・葉山郷・津邦に充
に充
一村岡郷・長尾郷・矢部卿を云
一満して鎌倉中以の外に騒動す然るに山内の上杉
憲基は年猶弱冠たりと云と小智謀聡明・抜羣なり
けれは・七月廿日に至り・群参の大名小名を呼集め
見参して申されけるは関東御分国中の地頭其処々
に安堵して非常を誡しめ。静謐の計を運すへきに何
事と聞定たることもなきに自由に参向頻法令を蒙
一濫行と云へし速に在処に帰り重て催促を待へしと。
て皆国々へ還されけり去程に火懸へ集りける者も
一此上に在鎌倉して・訴訟せは却てあしかりぬべしとや
思ひけん・抜々に己々か本國へ迯かへりしかは今年は穏
一かに暮にけり」爰に権大納言義嗣卿と申は・康苑院
義満
准后
准后は
公
の愛子にて勝定院将軍義持公の弟也
一官爵ともす等倫に超玉ひつるに猶厭たらぬ御心に
一御兄将軍を傾け奉り。自身征夷の幕府に入て天
一下兵馬の権を執玉はんことを企て・便宜の軍兵を
持氏をち
催されけるに関東にも鎌倉殿兄弟・
持氏
□□□□□□□□
時沖
持仲
叔父
満
満
一
隆
管領
氏憲
のかもと
と中あしく動乱近きにあるべき由・聞え
憲基
氏満朝臣の三
ければ能時節そと義嗣卿より満隆に
男・新御堂殿持
氏朝臣
・持仲・禅秀入道の許へ・専使を下され偏に
の上似ち
一頼むへき由仰下されけれは満隆ひそかに氏雲入
一道禅秀を招き評定有・時に禅秀申けるは鎌倉殿
一御政道あしくして・諸人背申ことおほし・禅秀これを諫
奉りつれは忠言御耳に逆ひ・結句御外戚の人々又は
一昵近伺侯の面々・様々讒言申せしにより御不審の題
一目多く身に積り籠居仕て心静に世の有様を観念
仕候に角ては頓て謀叛人出来て・世を覆さん一と
近く候はんか等持院将軍尊氏公の稟代の陰徳に応
て天下武勇の棟梁と成せ玉ひ・京鎌倉に公達を画
一居・四海静謐の籌を運ざれて京は四代・鎌倉は五代
の今に及ふ・内々承はる子細も候万に一分に一も他家に世を
陶
卿は正しく・等持院将軍の曽孫にまします将軍になら
引満
取れき勢玉はゝ御先祖への御不孝・是に過へからす君
せ玉ふとも誰かは偏し申へき其上去応永十七年の秋
佐介の大全入道公
佐介の大金入道公表か讒言に依て・危き御目を御覽
せし御恨・忘さ勢玉ふべきに非す今京都の大納言
一家の御頼こそ天の與ふる幸にて候へけれ急思召
一たゝ勢玉はた御運を御開候はんこと掌を返すよりも
猶心安かるへし・京都の御下知を・将軍家の御教
書と号し・禅秀取持かたらひ候はゝ関東にては誰か
背き申へき・不日に御催促候て鎌倉を攻落し押て
御上洛あらは・天下の反復まのあたりにて候はんすら
むと勧め奉りけれは満隆大に悦ひ・内々存する子細
ありと云とも身に於ては更に望なし。甥の持仲を
兼て猶子に定つる間是を取立給はれと一味同心に
合体ありけるこそ憂悒けれ・義嗣卿は関東の消息を聞
食れ猶も与力を語はゝやと肺肝を摧せられけるをり節
佐々木源三秀義の嫡子
一佐々木六角左衛門尉満高
太郎定綱七世孫今年四
八
十
将軍
云
義持
の意に違ふことありて守護職を召放た
れ出仕を止籠居したりけるを御頼ありしに満高これ
を肯はす・却て将軍に告知らせ奉りけれは同廿三年十
月廿日
南朝紀伝に卅日とす今日とす今日とす今日
一官信記・鎌倉大草子に従ふ
義嗣卿の官位を
削り・相国寺に入奉り林光院にて御髪を薙し参
林光院に於て
らせ・法名は道純と称す・生年廿三歳
応永廿五年正
月廿四日遷化・行年廿五歳・圓修院殿孝
鎌倉にては
山純云禅師と等持院過去帳に見ゆ
信州図
鎌倉
名越の
切通は
犬懸への
通路の
ため
禅房か
十一日
道なり
□□□□□□□□□
斯とも知す・禅秀・秋の始より病気の由・披露して
引籠り謀叛の企専なりけれは其催促に従て国々
より甲冑兵具を俵に入・人馬に負せて馳集まりける
を人更に怪思ことなく犬懸の即等とも心のまたり
鎌倉に入すまし禅秀か館文は満浄の新御堂の御所
あるは持仲の御所なとに隠れ居けりまた禅秀を助
て鎌倉殿
持氏
を襲はんと打立人々は誰そそ千葉
朝臣
介兼胤
二千葉介常胤十代千葉分満胤の長子
岩松
○上杉氏憲入道禅房の増今年廿五歳
満国
足利義兼八代岩松満国
一治部大輔満純入道天用
の嫡子實は新田義宗の
子と云
一渋川左馬助舞木太郎児玉黨には
武蔵国
七黨の
神秀婿
を・児玉黨と云有道氏なり・然るに倭同三司仁
公の二男遠峯・此家を嗣しより藤原氏と称せり
大類・倉加野丹黨
同上七党のへ
丹治氏なり
一その外荏原蓮沼
同上七黨の一
一猪股黨の内
別府・玉井・瀬山・甕尻甲州よりは武田
上杉氏憲入道禅秀
安藝守信満入道明庵
信濃国
の妻は明菴の女
よりは小笠原の一族伊豆国よりは狩野べ類相模国
よりは曽我中村土肥土屋常陸国には名越の一門
佐竹上総介・小田太郎治朝府中・大様・行方・小栗下
野に那須越後守賀之入道明巌・嫡子那須大膳大
満
満
一夫氏資宇都宮左衛門佐持綱・陸奥国は篠河殿
貞
一満溪の弟にて・陸奥国安
を語ひ申せしかは・蘆名三
一積郡篠川に住せらる
奥州会
郎左衛門尉盛久
津城主
結城左兵衛尉満朝
同上
白川
主
の
の城
一石川・南部・葛西・海道四郡の者共は皆一味同
心して馳参る在鎌倉の人々には木戸内匠助伯父
一甥佐々木三階堂の一類を初として・百餘人合体し
十月二日戌刻に満隆ならひに持仲の御所へ・馳集
一忍ひやかに西御門宝寿院へ御座を移し然て持氏
朝臣を討て参らすべき由京都将軍家より御教書
を成れたれは力及はせ玉はて御旗を揚らるゝ旨を
禅秀入道・諸軍勢へ披露して涯白の恵を尽しなは格
外の恩賞を沙汰すへしと勧葬せしかは実も京都の
一御下知たらんには誰かは背き申へき我一陣を懸て
一時氏朝臣を討奉り勲功の売に預んと勇進そ理な
れ禅秀は持氏朝臣の御所と上杉憲基の佐介の館
大懸の
ことの通路を断切んかため矢部岡谷
即等
に軍兵
を臺添て・西御門を南は塔辻へ下り折々に堀を
湯漉垣を結渡し走矢倉をあけ持楯を行き家る
一の幕を打一揆の旗を押立たれは佐介山内の勢の
御所へ参んする者をは爰にて噛止へしとそ構たり
禅秀直に御所へ押寄・持氏朝臣を害し奉らんと
支度せしほとに木戸将監満範御所へ馳参し見奉るに
折節持氏朝臣は沈酔ありて御寝成けるを満範御
一枕上に伺俟して世ははや箇様に亂候と申せは持氏
一朝臣長閑にさることあらし、禅秀は病気以の外大切の
由。今朝嫡子中務出仕して申せし者をと宣へはそれは
一謀計の虚病にて実は些御悪く候はす・只今御所
一中へ寄来候はんなか此御所は餘りに分内せはく
一馬の駆引自由ならす・防に便ましく候・一まと佐介へ御
入候へと申程こそあれ・塔辻西御門の方に当て篝の
一火影天を焦ことく見えて人馬の馳違ふ音。遠く閉え
けれは偖は一定なれ急や兵共と宣ふ御鞭と共に御
一馬をはやめ、厳殿うへの山路をめくり十二所にかゝり
一小坪に打出・由比潰を西へ・仇介の谷へ入せ玉ふ御
一供には一色兵部大輔氏兼子息左馬助直義同老
一京亮長兼同讃岐守兄弟掃部助同右馬助龍崎尾
一鉄守・嫡子伊勢守・品川左京亮・同下総守・梶原兄弟
印東次郎左衛門尉・新田河田中・木戸将監満範・邦
一波掃部助・島崎大炊助・海上筑後守・同信濃守・梶原
一能登守江戸遠江守三浦備前守高山信濃守・今川
三河守・同修理亮・板倉式部丞・香川修理亮・畠山伊
一豆守・筑波源八・同八郎・薬師寺・佐野左馬助
二階堂・小流・安戸大炊助・同又四郎小田宮内少輔
一高瀧次郎以下の人々五百餘騎とそ聞えし」管領
上杉安房守憲基かゝることをは夢にもしらす・一族の
一親しき衆と酒宴して居たりける処へ土杉修理大夫
三十騎はかりにて馳来り禅秀入道新御堂殿并了持
一仲主を勧申・宝寿院にて旗を揚御所を取籠奉り
一只今これへ発向すると用意とり〳〵なるに悠々と
は渡らせ玉ふは如何なる深き御謀あなことにや御油断
一すなと呼はりけれは憲基すこしも騒かす何程の事か
一有へきまつ大将の満隆は去応永十七年八月謀叛
を企玉ひけるとき親にて候憲定入道大全はあつく
一取扱申て御命を助参らけれはこそ今まても安穏
一に御座なれ・其恩義を忘れ玉ふて我等に向ひ・左様
の悪事思ひ立玉ふとも誰かは与力し参らすべき又
一禅秀入道は應永九年陸奥國の伊達大膳大夫政
一宗遺洛の大将を永はりて発向し赤館の戦に敗北
一して後両国の軍兵ともに見放れたり・今度の軍
配きこそと思やらるれと嘲笑て居ける処へ上杉蔵
一人大夫憲長十四騎にて馳来り・門を敲かせ・敵味方は
一しらす前浜に軍勢充満せり・何様只事にはあらし打
立玉へと申せしかは・憲基さらは打立候者共と云まゝに物
一具して馬に鞍おかせ玉へは長尾出雲守大石源左衛
一門羽継修理大夫・舎弟彦四郎安保豊後守・惟助五
郎長井藤内左衛門・その外・木戸寺尾・白倉・加治・金
子金内を始として宗徒の兵七百餘騎旗手を下て
さゝめきわたりいさや御所へ馳参り上様
持氏
朝臣
未恙な
く御座は御供申・これへ入奉るへし・君また敵御所中
を取切は・西御門へ火をかけ・宝寿院へ推寄一戦の
中に勝敗を決すへしと前鋒後陣の甲乙を定められ
ける処へ思もよらす・持氏朝臣五百餘騎にて前浜路
より佐介へ入せ玉へは管領をはしめ是に有合人そ大
に喜ひ色に出てそ勇ける三日は悪日とて犬懸より
安家日取伝に十月三日は守
もかゝらす佐介よりに寄す
一勝悪日と云又一切破滅日と云又一切破滅日と云ふ
も同四日未明より佐介の口そへ・御勢をさしむけ
云
らるまつ浜面法裹門へは長尾出雲守を大将とし
て管領の家子・郎従・甘縄口小路へは佐竹左馬助義
仁
仁
一上杉憲定二男
薬師堂面へは結城弾正少弼基光
第同十一管領憲基の弟
上野介直充入
一無量寺口へは上杉蔵人大夫憲長氣
道聖朝の長子
一生坂へは三浦相撲の人々扇谷へは上杉弾正少弼
氏定子息治部少輔持定我舘の近処なれば他人の合
力に及ふへからずとて只一手にて馳向ふそのほか
勢々所々方々へ馳向ひ寄平おそしと待掛たり同日
新御堂殿
満隆
は宝寿院より打立玉ひ御馬廻の軍
一兵二千餘騎にて若宮小路に陣をはり所々口々への
常胤九代氏胤の
一手分をなし玉ふまづ千葉大介満胤
長子今年五十五
歳・前に見えし
嫡子修理大夫兼胤二男陸奥守康胤を
兼胤の父なる
先鋒として桐馬大須賀原圓城寺下野守等をしたか
へ八千余騎にて米町表に打出て陣をとる佐竹上総
上総入道の弟
入道嫡子刑部大輔義知依上三郎宗義
なり大草子に
二男とあり義知の
第とするは非なり
茶園には入道
その弟尾張守自義
の叔父とす
深キ春
□□□□□□□
西中港中港
十二十六丁米や
中総守様
同九百七十九千
第二章
一類に土岐美濃守三河常陸外・郎等に河合淡路守長
瀬河西の者百五十余騎にて浜の大鳥井より極楽寺巨
にさし寄陣をとる然犬懸入道の手には嫡子中務大輔
一舎弟修理亮郎等には千坂駿河守・子・念岡谷豊前守嫡
一孫孫六甥弥五郎従弟式部大輔塩谷入道舎弟平次左
衛門・蓮沼安芸守・石河助三郎・加兵・将監・矢野小次郎長
尾信濃守・同帯刀左衛門・板田弾正忠・小早川越前守・矢部
伊豫守・嫡子三郎・其外臼井・小積・大武・沓保・太田・榊田・秋
元神崎曽我中村の者とも和具を先として二千餘騎鳥
一居の前より東に向ひ鋒矢に陣し同六日国その諸勢宮
万余騎
一本十万一千十万
とあり
一本松に押寄螺鐘を鳴し姑閧聲を
挙たりける爰は上杉弾正少弼氏定か持口なりし
一かは・上田上野介・定田右京進等を。先として霜臺
弾正
の唐
一名の家人・命を惜ます防き戦ふ・氏定・行年四十三歳
也
気力殆頂羽を欺き武勇却て英布を挫くに堪たり
と云とも寄手は五万騎入替〳〵攻たりける程に上
田疋田を始め能者餘多討死し氏定自身深手を負
て引退けは・岩松治部大輔いよ〳〵勝にのり気生坂
へ押寄て凱歌を塗とそ攀たりける御所方にては
一霜台の手に軍始り・味方敗軍せしと聞食れ・さらは
一荒手を差向よとて御馬廻に召置れつる梶原似馬
守海上筑後守・同信濃守・推津二出羽守・園田四郎飯
一田小次郎以下卅余騎・轡を並て馳上り。勝ほこり
一たる岩松勢と気生坂を追あけ追下し操に揉てそ
戦ふたり・去程に禅秀は気生坂の軍急なりと聞
て猶も荒手を向けれは・岩松是に力を得て・息を
○も続せす攻たりしほとに・梶原但馬守・椎津出羽守
爰を破られては・人に面を向へきや・死や者共・軒や
一兵と・一歩も引す・討死す飯田・海上・園田四郎少も
一劣らす・戦ひけるかゝ痛手餘多負て中〳〵能敵に遇
一へくもあらす・雑兵の手にかゝらんゆ・口惜し・鯰は静に
一腹を切やと云まゝに無量寺へ向ふたる上杉蔵人大
一夫憲長か手と・一つに成て寺内へ駈入・息鑓居た
り無量寺口へは・二階堂信濃守・同山城守・を大将に
て駿河・下総の勢二千余騎・関叫て押寄たり・上杉も
能戦ふたれとも大庭・河村以下宗徒の侍或は討れ
或は午を負既に地口責破られ行べく見えたりける
時・氣生坂の陣破れて・岩松・渋川・の軍兵はや・佐介
谷へ乱入しと覚しく。国清寺
此寺初は上杉民部大
一輔憲顕の草創にして
一応安元年・伊豆国に・建立せしを
の堂塔に火懸り
一憲顕の孫・憲定爰に移せし也
黒烟天に聳て餘焔御所を掩ふと声々に呼はりて
一過るを開て・上杉蔵人大夫馬を立直し。諸方の口々
破れて御敵御所中へ乱入なは君の御事も房列の
上も覚束なし一まど御所へ馳歸て御先途を見果て
一後兎も角もならめと捨鞭を打て引返せは此口の軍
はさて破れにけり又大手に向て合戦を致しつへく
憑れたる長尾出雲守は浜面に打出て陣をは張た
れとも。寄手かゝらねは・見合つる間に搦手より軍始りて。
御所方忽に敗北しけれは佐竹左馬助・結城弾正少弼
等と牒し合せこれも御所へと引返せは・此口々に焼捨
一たる篝火の影のみ白く明にけり
兵家紀聞巻之一終
一月廿一日廿九日一歩
12659
荷負担
兵家紀聞
の
本文一
兵家紀聞巻之二目録
四位并泰幅氏ノ寄附会ヲ
以テ購入セル首関博士
一應永廿三年十二月上杉禅秀乱事
狩野亭吉氏篤蔵書
一大森館御父舘林の長尾岩松家原
回状応永廿四年正月一日瀬谷陣
岩松天用合戦上杉禅秀白殺浄智寺仮
御所御一字僧正今川範政関東の
一副将軍たること芳賀氏棟立輿
一侍の品即従午王宝印
兵家紀聞巻之二日鉄終
兵家紀聞巻之二
栗原信充編集
一気生坂の軍たちまぢに敗れ岩松治部大輔・渋川左馬
助か手の兵佐介の谷へ・乱れ入・所々へ火を掛焼立し
ほどに餘談たかく聳へ魔風しきりに競ひ御所の答
端にしば〳〵燃付しかは管領安房守憲基こゝにて連
を開き。凶徒を誅罰なし玉ふべきことは勿々難儀たる
べし一先伊豆駿河の方へ御開きありて今川上総介
をはしめ、侮道の兵士をも徴れ京都へも此事を注進
せさせ玉ふて禅秀退治をそくは候はしと勧め奉りて
一極楽寺口へ掛り落させ玉ふ折節猛火ます〳〵属しく
扇き・御所の棟に火移り、黒烟天を焦しけれは御所中に
一伺侯せし江戸遠江守、今川三河守・畠山伊豆守を始宗徒
一乃将士三十余人跡止りて能軍し。公方管領のごとをく
一落させ玉はんために暫時刻分を移ししかども。その身
鉄石にもあらされは枕をならへて討死す防ぐ兵無れ
一は敵佐介の谷へ打入て管領の館以下焼払ふ
臣と管領と極楽寺坂に打上り磨針橋を渡り伏か浦
に出て、七里浜固瀬・腰越・十間坂・大礒小礒はせ過て、十
一月六日の暮ほとに小田原の宿へ着玉ふ上杉弾正少
一弼氏定は御所の御後に付て打けるか。御跡を慕ふ弁
と返し合せ〳〵度々の軍に深手負て御供もかなはらす
一年くして藤沢道場に入て鎧を脱身体をみれは大等の
疵筋ごと云てなしらず・かくては助るへき身にあらす
とて十六歳ふなりける。治部少輔特定を呼近つけ今
庶合戦不意に起り御方無勢なるか故に防戦の術を
一失ひ・御所も管領、も鎌倉を引退かせ玉へとも程もなく
一京都よりの援兵来り会へく今川上総行は武略智謀
人に勝れたり禅秀か謀りて諸家へ回したる京都の御
教書の偽なるよしをははや覚りつらん・汝等ためには姉
夫なり憑もしく思ふて疾々御所の御供に馳走るへし
と庭訓し打残されし。郎等共を従へて。平塚の方へ出
たく今は心易し。然は腹を切んと志し。上人に酷終の
安心を問んと方丈に入は遊行十三代底阿上人出向はれ
南興阿弥陀仏の一唱には決定往生六十万人と祖師の
一遺訓疑ふべきにあらすと示諭丁寧なりければ氏定
一莞爾と打笑ひ。本堂の前に敷皮しかせ腹十文字に掻切
系図四十二
て失にけり。行年四十三歳
とぞ・然に持氏
歳とあり
朝臣の小田原の陣処へ・土肥土屋の者ともかねて禅
秀に一味せしかはゝ押寄きたりて風上より火を掛く
切入けるにより御所と管頬をは夜にまぎれて箱根ひ
へ落し参らせ上杉兵部大輔憲元父子并に今川の某
残り留りて討死す御所はやう〳〵箱根山に分入せたま
ひ・別当の坊に案内せさせ給ひ偏に憑よしを仰入らる
此別当證実と云は鎌倉の侍所・大森信濃守頼明の
二男にて信濃守頼春の弟なりけれは甲斐〳〵敷とり
一賄ひ・即御供申て・駿河国・駿東都・大森の館へ入奉る・
今・狩野川の東・大森村あり・伊豆国君澤郡
爰も分内狭
一車坂村を歴て・三島に至り・箱根に昇る
く其上小勢にて大儀の計略。いかにも叶ふましく。且
は甲州の御敵程近し今川上総介総介範政は當國の守
護職と云足利一統の源氏と云其のみならす・上杉氏
定の婿として。鎌倉御所へも日頃親しく申通せらる
れは御頼有へき由。専使を立られけれは範政・一儀にも
及はす・まつ御迎を参らせ。瀬名へ入奉り・聴範政参上し
御旅宿の雑事以下御供の人々の上まて残る処なく沙汰
し参らせけれは・管領をはしめ暫く爰に安堵したり鳬
範政使を京都へ上せ禅秀へ賜はりつる御教書の真
偽を訴へ申けるは鎌倉殿実に京都の上意に背せ給
て誅罰せさせられんとならは鎌倉の分国ならぬ諸国の大
一名をこそ催さるへけれ・禅秀は鎌倉殿の披管たる義以
一玄従にひとし・満隆主は既に入道の隠倫たり袈裟の上
に兵仗を帯せらるへき、謂なし持仲主は弟として兄に
一弓を彎玉はんこ・不第の過遁了処なし・かゝる無道の御
一沙汰は倭人共の讒言に依て。縦一旦御教書をなされ
て候とも只速に御吸ありて然へし・万に一も鎌倉殿界
心を挟み玉ふとならは範政なとにそ仰られ候はんすらん
然ことも候はぬはゝ禅秀等か偽て與黨を催促仕候はん為
御教書と号片田舎の武士なとを訂候謀計と思當て社
信
候へと委細の書状に千万の道理を尽して述られたり
充
云・上杉禅秀の・京都御教書と号して・諸国の兵を集めし
時其偽なることを知指・上杉氏定と今川範政と只二人のみ
一然るに氏定は戦死し・範政は恢復の
鎌倉小田原両処の
一功を専にす・人の幸不幸・痛惜すへし
一軍に・外れたる御所方の武士とも木戸将監満範を始
一御所の御座処を知す爰かしこと尋奉る内に伊豆国名記
国清寺は管領の草創なり。爰にかならすと申者多かり
しかは・皆爰に馳集る敵も左様に推量して・狩野介を
光となし。伊豆奥の兵とも。走湯山の大衆を語らひ。大
勢にて、同十日の暁大に国清寺に押寄たり・寺中には
一御奉公の面々とては佐介の家人都合百余人に過
一さりけり・始は矢軍了時を移し。矢種既に尽けれは
敵味方後は軽々としたる一枚楯を突ならへ打物の
鞘を外して・攻戦ふ・大衆は地下人を催促しけれは・
替〳〵息をも続せす・屋かて寺内に火を懸たり御所
も管領もこゝにはましまさゝりけれとも敵を欺き御行ゑ
を心安くせんため憲基こゝにありと名采は持氏運つき
て腹を切そと。厳々に呼はり。火花を散しく暫戦ふ
なれは百余人ありける兵も或は討れ或は疵を蒙
り、今は僅に廿一人に打なさる・木戸将監満範・打残
されたる軍兵を呼近付寄手寺内へ追々打集るを
以て推量れは・御行ゑを克々尋あくみしと知れたり
我々爰にて討死せはこの焼死たる死骸の中に御所
を始宗徒の人々も有へしと思ふて此後御跡を慕ふ
者あるへからす・心敏き御所にましませはやかて何方よりか
打出出玉ふて謀叛の輩を誅罸なされ鎌倉へ還御あら
は忠死の者を忘れ玉ふへきにあらすと云ふべきに
十文字に掻切て・高矢倉の上に倒れ臥これをみて
誰かは後れんと思ふべき、皆一同に自害して。失けれ
狩野又三郎清助の二男
は狩野介祐義
走湯山の大衆
伊豆半國の守護職たり
即伊豆権現の別当
一等寺中に駈入焼爛たる首を
一般若院の住侶を云
資検し、凱歌を作りて。鎌倉に馳参る木戸備範は
御所の御父
持氏朝臣の乳母は・満範の妻なり。枕冊子に乳母の
夫とあるを・春曙抄に俗にお父と云とあり京都
将軍家にては・赤松を
なる上日頃親しく近習しけれは
御父と・なさるゝにや
一御所の世に現在ん程は此人討死すへからす木戸か斯
なりつるにて御所は一定御事有しなるへしと・神秀
も。さすか年来の主君に在は御首を検奉るに及はすと。
等閑に打置けるこそ。不思議なれ」去程に鎌倉にては
思のまゝに持氏朝臣を追出し。管領憲基も行ゑしれ
す・上杉氏定・木戸満範等を始宗徒の人々・或は自害
一或は討死して・新御堂満隆ならひに持仲の方様の人
一より外に立まふ者も興りしかは自然と持仲を関東
一の公方と仰き奉り禅秀は管領に成かへる但近国
の甲乙猶持氏朝臣の御方として禅秀か催促に応せ
す持仲これをきゝ、近国の兵士等か気随を、そのまく
等閑に指をかせ給はく。何を以てか遠方の狼藉をは
一鎮らるへき、急き討手を差向らるへしと。頻に執申さ
れしかはゝすなはち持仲を大将軍となし。中務大輔憲
秋その弟伊予守憲方を副将軍として武蔵国へ発向
せしむ然るに両将をりふし所労ありて鎌倉に残し
により。上杉憲方はかり。十二月廿一日。武蔵国橋樹郡に机
の邉へ出張す御所方には・江戸の一類、豊島の一家又
は品川の二階堂下野守ならひに南一穀・安戸備前守等
大草紙了入間
を首として、多磨川に馳集り陣をとる
川とあるは誤
共
同
松
十一日
相
雪下
強命
二十二日
四里
模
金葉
鎌倉郡
戸塚
金澤
武
久良岐郡
○程ヶ谷
一大草紙一本に世谷原
一とあり依て瀬谷ならん
国
と云説あり然れともに机
より多磨川に馳集ると
云は瀬谷にあらさる一と
者
掲鳥なり
都筑郡
加奈川
(小机)
谷
田
世
原
合
戦
大草紙一本に
多摩川を入間
川につくれるあり
此地図によりて其非を
蔵
橘猫郡
川崎
荏原郡
世田谷原
ヘ御座候
レ
多摩郡
知へし入間川は入間郡にして
品川
二階堂
二階曲
多磨川と方位
大にたかへり
江
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
江戸
国
豊島郡
図
上昇
豊嶋
伊豫守は諸将を伴なつて。多摩川に押寄みれは敵は
一川を前に当てしかも馬の駈場を残たり憲方川を海
一世は敵は颯と引退く。憲方陟に乗て追掛同廿三日世回
谷原にて合戦す。然るかり江戸豊島の軍配はしめには似
す。逃退その機あり周旋その節に当り。処々に伏をき
たる勢とも。霜枯の草葉に火を掛て焼たつれは露方
一戦にうち員敗北し。多摩川の瀬陥をもせす。我先に
と馬を打入敵に追攻られ討早〳〵者数を知す是は初
より江戸豊島の計策なりしを鎌倉勢の知さりける
こそ墓無けれ憲方小机の陣へ引返し敗軍を集むれ
とも聚まらす。敵は結句強けるにより。両将漸廿五日
の夜に入て漸雪下へ引返せしは見苦なんとも云計
なし
一大草紙に持仲・出張せし由を記せ共今
一江戸豊島諸家譜に依て是を取らす
武蔵国
の人々は御所の事故なく駿河に御座由を伝承り
思のまゝに勝軍はしつ此勢に鎌倉へや寄る御迎
にや参ると評定区々なる処に上野国舘林の長尾
但馬守房景
長尾新六定景六代長尾新五郎景直
の長尾と云景真の子を・景を・景真の子を・景真の子を・景を
始て舘林に城を築て住す依て舘林
横瀬雅楽助由良新六
一英と云即但馬守房景の父
郎等と牒し合其勢三千余騎武蔵国へ打て出江
戸豊島と一手に成て鎌倉を攻落然後に御所の
御迎に参へき由・申贈りけれは・其議に同し、既に打
立んとしけるを岩松治部大輔満純入道天用上野国
は我本国なり・館林は我新田金山と程遠からぬに
かゝる企を閉こそ安からね抑入道か先祖・足利遠江
守義純は上総介義兼の嫡子にて正しく八幡殿の
玄孫なれとも幼稚の頃より、大伯父、新田大炊介義
重の許に養はれ其孫女を妻として田中岩松の地
を領し其子時兼、若松郷の地頭職に補せられしより
岩松の名字を称すと云とも時兼の孫亀王丸外祖
徳川四郎義季
一父新田下野前司頼有
の子となり新田
主の庶長子
下野太郎政経と・名乗しは我高祖父にて、在そかし
加之我は左中将義貞朝臣に孫左少将義宗の子
なれは内戚外戚に付て新田と名乗へき身にこそあ
れ我新田に成かへりなは・由良も横瀬も新田譜代
相伝の披管たり、争入道に向て・弓をは掌へきと
て、大中黒の旗を揚て・舘林へ押寄・十二月十八日の末
一明より午刻の終まて入替〳〵攻戦ふ然とも長尾似
一馬守房景は・奇正の兵機に錬熟し変化の隊伍を自
一在に為・頗孫呉の妙を得たかしやは・天用入道か大量
を引受て.少も動せす・籌策を惟幕の内に運し勝を
千里の外に決して・手痛軍に岩松忽に打負・天用
入道も既に討るへかりし時に岩松か家老金井新
一左衛門貞連・踏止りて長尾勢と追つ驀つ・暫時戦
ひ・父子郎従女三人・一足もひかす・同枕に討死しける。
此間に岩松・十死を出て・一生を太田に漸逃いへり。
敗軍を集め地下人を催し今度の合戦に於ては若
一味方打負たらんには一人にても。再ひ新田へ立帰らし、
と神水を仰て契約し、同廿二日の暁天に、多々良の沼
のあなたより・鯨波の殻を揚て・押寄れは勝ほこいた
る横瀬・長尾三千余騎を三手に分て・同しく時の
一声を合せ・開て鶴翼の陣を張は衝て鋒矢の備を
一立潮の備か如く火の焔るか如く・野戦の秘術を尽し
手を挫けれは岩松立足もなく打負散々に敗走し
一行かたをしらす・角都後武蔵・上野両國の間に御所
方ならぬ武士は一人も無成にけれは其勢すてに・
勢に及ひ・下野・常陸・下総・上総に越て・神秀與力の
城々をや打落鎌倉の兵粮運漕をや妨くると打寄
うちより評定す」京都には今川上総分範政か注進に依
て鎌倉の顛末を知食・権大納言義嗣卿の禅秀を語
つらひ給ひしに・禅秀満隆・持仲を勧めかつ将軍の御教
一書と偽たる由落もなく明白になりし処へ・持氏朝臣より
一御使として。上されたりける・皆吉伯耆守
上総国
住人
義
将軍
持
一北野御参詣の日京着せしかは直に北野へ参向し・社頭
に於て関東の始中終佐介谷・小田原・国清寺等の
軍の勝敗・有のまゝに言上せしによりきらは上杉禅秀入
陶
持仲以下を
道父子・并に與黨の面々、新御堂入道
屋
一誅戮し持氏朝臣を鎌倉へ歸し入参らすへて旨の御
伊賀・伊勢志摩尾張
一教書を・海道七箇国
北国中山
三河遠江・駿河・遠江・駿河・遠江・駿河・遠江・駿河・遠江
道の国々へ被下別して今川上総介総介範政へは御旗
を賜はり追手の大将軍になされ皆吉には一色宮
内大輔詮光を差副られ・合戦の忠否を言上あるへ
き由を・仰含られたり・御旗御教書・一色・智吉・既に
一駿河に下着して京都の御下知を披露せしほとに今
まて新御堂殿の御下知に従て・御所を射奉りたり
ける者共俄に心替して御所方の所縁を求て忽
に僮漢に手を拱し御馬に路を避るゝ人心の傾覆
はかり定なきものはあらじかし範政は思慮深き大
○回状と云名・爰に起るか。源平
将なりけれは一紙の回状
一盛衰記には回文とあり但回文の
は詩の一體なるを
を関東の諸家へ出して禅秀興力の
一以て順日改られしか
一過を悔降参歸順の志を起させける智謀を人皆感し、
けり
一此一節・鎌倉大草子・新田正伝記・簗田家譜・
今川家文書・長尾家系等に依て是を記す
今川上総介範政回状
今度関東御開事先驚入存候仍事子細如二風聞二者
右衛門佐入道依中構二逆心一候上承二京都上聞一致二如レ此沙汰一
之由披露之条就二左様之篇一面々被成二与力一候之由。宍
候、一端者随二無レ誤似候一有名無実之。至誠狂惑之次
一第候就レ中風渡当国え御移之条希代未聞也経二
上間一而御合力之儀諸人に被レ成二御教書一可レ致二忠節一之
旨被二仰下一則既に御祷下着候上者彼入道不レ承二
一上命一之事明白候そや抑如此上意厳重候之間自
一是重而都鄙背責命而強叛逆之輩え被致問意共
旦先祖譜代忠勤失二此時一子孫之後跡永被レ成二他
人拝領地一事為レ君被一不忠一為レ家似レ興レ自、所詮者観
應年中曽祖父心省祖父範氏等於二當国由比山
一抽二忠節一再関東諸人降参儀被二申沙汰一天下静謐
歸レ基事。旧例勿論也此上者知レ非而早改属理。被二
忠節致一者、云彼云是、順儀也若不然者早速[ニ]。彼
一馳向南陣一被レ次二雌雄一事尤所望也以二此両条一途に
彼致二返報一儀に被定事可レ然候哉恐々謹言
十二月廿五日
今川上総介範政
一管領上杉安房守憲基は甲斐国へ立越信濃路しかゝり
越後国上田庄に至り上杉兵庫頭清方
上杉民部大輔
憲顕の末子
一左近将監栄の孫也
・・・・越後・佐渡・越後・越後・越後・越後・越後・越中・の軍・
一安房守憲基の従弟達
兵を催促しけるに・京都の御下知分明の上・禅秀の
謀叛掲焉なりしにより北陸道の間にて弓箭に携はる
一程の武士は招さるに馳集りけれは其勢都合十万余
一騎とそ聞えける・憲基も清方も此勢に上州へ打越鎌
上杉憲基
雪中三国峠
を越
大きは将しやう
兜にと着き役やく
なき刀なた持
旗はた差さし
倉を一炬に攻落し還御を年内了とあせられしは共
一北国の習山々に雪降積て平地となりけれは人馬の
一通心に信せす・去とも大軍のことなれは雪も氷に一般
に階平て極月下旬衛上野國利根郡沼田広まて打
出て陣をとる長尾但馬守・由良・横瀬等は・龍の雲を
一得虎の翼を付て林に凭か如き思をなせば今まて
禅秀に与力して岩松天用と同しく・舘林の軍に向
ふたる者は薪を負て燎原を過重荷を捨て薄水
一越後より・上野へ通ふ道は
を踏こゝ地をなせり
駿河
今の三国峠通りなるへし
国にては憲基すてに北国の軍兵を率し十万余騎に
て上野の図まて打越たりと聞て去は打立手を合
よや者ともと・云程こそあれ葛山備中守義範
駿河
国・駿
東都・竹下
荒川弾正少弼
荒河治部大輔詮氏
一詮頼の長男
の領主
大森
式部大輔範親
信濃守頼明の弟・筥
瀬名陸奥守範
一根別当證賢の叔父
将
今川貞
世・曽孫
を先陣の大将として七千余騎足柄山を
一打越て曽我中村を攻おとし小田原に陣をとる朝
比奈
駿河国・志太郡
朝比奈領主
三浦北条・小鹿の人々は箱根
一山に上り伊豆山の衆徒を追捕して先度の恥辱
を望め・土肥・土屋中村・岡崎等の者を攻けるに
京都の御教書と云はこそ禅秀か催促にも従ひつ
つれ其事偽ならんには誰かは謀叛に.与力すへきゝ御
旗の手をおろすや否・兜を脱賊を開く降冬を乞
餘織君
けれは・其等に先陣打せて小田原國府津
香津村
前川
同上前川
村あり
に陣を取は御所は今川一宮諸共に
三島箱根に御陣をめとる此由鎌倉へ聞えけれは
新御堂入道・并に持仲上杉禅秀このまゝ敵を引良
むは武略の足さるに似たり伊豆駿河の軍勢何程
のことかあるへき・中途に馳向ふて駈ちらせよと軍立
はかりは甲斐〳〵しく有つれとも昨今の世の有様
を見るに・御所方は・潮のさすに似て・時〻刻々に勢
加はり山にも野にも旗に篝に篝に昼も夜も夥し.
一方は朝暮の兵粮すて了乏しく運漕の冷絶んと
す然す怨に武蔵・上野の一揆を討平くへき由にて差向
ける。軍兵世谷原の戦ひに打負て鎌倉に引返し
つる者とも弓箭の義を思ふはかりに小田原勢に馳
一向ひ先度の疵を・すゝかんと応永廿四年正月一日
鎌倉を打立武蔵野より引後れたる勢を待付んか
つため鶴間乃原の東なる瀬谷の里に五千餘騎に
て陣を取同五日の早旦に江戸豊島南一揆武蔵
の国の武士共か上杉禅秀を見讀んと多西多東
を追捕して瀬谷の里へと急なる途に待受世谷原
にて追取団一人も余さしと攻戦ふと攻戦ふ・攻に攻らるゝも
共に武蔵の住人なり氏も種姓も互に知つ知れし
中なれは爰を脱て何の顔か再ひ合する時あらん
一命を際に戦へや此にて死や兵と親か諫て討かれ
一は子は踏越て敵を斬打合ふ鍔音天地を響かし血は
一流れて杵をも漂しつへし三時計の其間に江戸豊
島か三千余騎多西多東の七百余騎に駈散され
一四方に分れて・散々に百騎五十騎こゝ乃在家・彼処
の樹陰を憑みに落失たり禅秀方は小勢なれ共
一坂東武士の名を惜み恥を思ふて軍は十分に勝な
から去とも是は謀叛の方人よ迚も連に道理の合戦なら
す始終修羅の眷属となり長時の闇に迷ふべき身
の行末を観しひた勝ても更に楽ます・江戸豊島平塚
は負軍をはしたれとも御所の箱根に御陣をめされ
京都の御旗を靡しく今川一色・圍繞すと聞度はと
に喜ひの色を増てそ楽めけり同九日には岩松治部
一大輔満純入道天用上野舘林の合戦に打負行方知
一すと聞えたりしか討漏されたる軍勢を催促し。禅秀と
一手にならんと武蔵の国へ立越瀬谷の里へと打程
に多西多東の兵か勝軍して気色はふたる陣の前
にて行逢是を相伴なふて二千餘騎多摩川を渉り
一相撲国へと急く由江戸遠江守の許へ・告知する
者ありけれは遠江守聞もあえす願ふ処の岩松天
用・一騎か千騎に當る敵・いて追駈て打留ん・績や兵と
一呼はり棄馬に鞭うち・世谷原を志し、只一騎走出れは
誰かは跡に・後るへき・豊島・平塚南一揆・我さきそと
一進たれは・岩松か多西多東の者共と多摩川端に慕
一打せ馬に秣飼足ひやし兵ともに兵粮かくせ一息続し
一程なれは時分はよしと早り雄の南一揆振つれて切
てかゝる江戸遠江守・是を見て・進味方を招き存する
旨の有なれは暫またれに方々と・樹陰に下居て・柴を
一折敷火を打付けれは翠煙天を焦して立昇る岩松方
一には烟を望み・江戸・豊島の人々も・精くふと覚えたり。
其間に爰を打立者共と馬引寄て乗んとする折しも
川の向ふなる山にも野にも、立煙烽煙と見えて夥し
一天用入道大に驚きゝ偖は御所方の兵江戸・豊島と引
合て前途を斬と計ならん・何程のことか有ん・駈散して
一打通れやと叡々に閲てゝ川を渉さんとすれは今迄二千
一餘騎ありつる兵いつしか落失て僅に百騎計に成にけり。
是は天用か我こそ清和源氏の嫡流新田に取ても足利
一に帰しても総領なりとて人を人とも思はす振舞けるを
悪しと思ふ者多かりつるか前後の敵に包まれて危き
軍に見怖して右往左往に逃走へあたら弓弓箭の名を捨
一人の心そ墓なけれ天用は百騎の勢を見わたして天
一晴軍兵や二人当千の武士とは此等かことをや云なら
む・江戸豊島か幾千騎にて追来るとも此多摩川に
斬流駈散して・通らんに何条ことか有へきと味方をい
一さめ。真一文字に多摩川へ乗入たり水は涸て浅
かりつれとも向ふの切岸高くして馬の上り場心に
まかせす・川原に迷ふありさまをうき目見えたる盲と
や他には人の思ふ覧かくる處へ・江戸遠江守。鯨波を
一噎とつくりかけゝ漏さしと攻寄たり天用猛と云とも敵
一日に餘る。大勢なれは・百騎を真中に引纏ひ、電光石
火の烈しき戦ひに七十余騎は討れて・廿八騎に成に
けり然れとも天用は手も負す一丈あまりの高所を
ゆらりと南へ飛越れは遠江守あゝ飛たりと感賞して
続て飛ふともせす其間に天用馬に鞭を揚緞谷の
陣へと走ゆく」斯し後は武蔵上野上野上総下総・平均
して皆御所方に成返りけれは鎌倉には僅に満隆
一持仲の手の者計にて墓〳〵しく軍すへきものは一人
一も無りけり瀬谷の陣には始は五千余騎と聞えける
兵とも御所は箱根に御座有て近国の勢日々夜々に
一馳加はり京都の御旗の蔭に今川二色以下の諸大将鎌
倉へ寄へき籌策を廻らすと聞て一人落二人落次第に
一落行て今は禅秀か親しき家の子郎従より外に付従
ふ者もなく其勢僅に百五十餘騎になりにけり此勢計
にて。御所の大軍を引受合戦せんに。千に一つも勝へき
便をしらす・若又・江戸豊島をはしめ武蔵・上野の勢共
に鎌倉を取れたらんには由々鋪恥を見るならんいさや
俵藤太絵所載千晴自画図
禅秀
白害の図
に仮用ゆ
□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
鎌倉へ引返し心静に腹を切や兵と互に勇め諫め
知られ・瀬谷の陣を引払ひ・我先にと藤沢片瀬・七里浜
一針摺橋を打渡り雷下へそ帰りけり」明れは十日の
一早天に見わたせは東西の山の梢のひま〳〵に群居鷺か。
さもなくは花に先たつゝ初雪と見まかふ計り御所方の
白旗ならぬ峰ゆなし・満隆・持仲・禅秀も攻迫つく勢
に気後れて今は莫々防くべき方便も更に尽果つゝ
一なましひに合戦すとも誰かは是に折合ん遠矢に射す
くめられ・名もなき党の駆武者に首を取れんこと
こそがたてけれ共すかに満隆持仲ともに将軍一家の
名を挙たる身なり人手になかゝりそと宣ひも果す
一宝性院の客殿の柱を背に押当て腹十文字にかき
切北枕に伏玉へは持仲も続いて腹を切玉ふ是を見
て上杉禅秀同二男伊予守憲形同三男五郎憲順
同四男宝性院快尊僧都武州守護代長尼兵庫助
氏春千坂駿河守岡谷豊前守同孫六同弥五郎同式
部大輔塩谷入道同平次左衛門尉蓮沼安芸守石
武蔵国豊島
河助三郎加藤左近将監矢野小次郎
郡恩岡の領
一主今の上野
一長尾信濃守同帯刀左衛門尉板田弾
の地と云
一正忠小早川越前守矢部伊豫守同三郎垣谷臼井
小損大武沓原太田榊田秋元等を首として都合二
百五十餘人指違〳〵皆一様に自害しけれは血は流
一れて混々と紅の湯をなせは尸は積て累々と九原
一の園をなせり禅秀一家四十餘人の子息即従一人も
一残らす減ける中にいかにしてかは遁れけん嫡子中務少
一輔愿顕はかり其に似たる首級もなし父を棄兄弟
を離れよく命は惜ものなりと弾指せぬ者もなく誠や
一軍以前より所労ことの有はとて上総国に引籠て有し
か軍散して後京都をさして逃上りけるとや」その後
鎌倉へ今川上総介範政一色宮内大輔上杉安房守憲
一基江戸遠江守豊島勘解由左衛門尉長尾但馬守築
田勘解由左衛門尉以下一勢〳〵打入て兵乱に破
壊せし処々を濾掃修理し同十七日持氏朝氏朝臣山内
一浄智寺を以て仮御所となされて還御なりぬ
去年十
月二日
夜・御所を御出有し後
百五日に・をよへり
軈て勲功の賞を行はれけるに
相州足柄下
大森一家の忠節抜群なりとて土肥
土屋
郡にあり
同国・大住
都にあり
か闕所を賜りけれは大森の館を小田原に
一移し城を築き爰に住して。鎌倉へ出仕す。持氏朝臣猶
賞翫の余り氏と云字は足利義氏主より以降嫡々に
尊氏
一相伝せしを・等持院将軍家督
引分て京都の御所
郷
は義詮鎌倉の御所基氏となされつる後氏徳持氏
と相承たるを大森にも給へしとて・大森信濃守頼
春か嫡子の餘へ明頼を左衛門尉氏頼とそめされける
一後に信濃守に任し薙髪して寄栖菴明昇居士と称
一せしは是なりまた箱根の別当證実は僧正に申なされ
僧正は・推古天皇・卅一年・四月十三日・戊午・詔に自
今以後・僧正・僧都・を任して・仍僧尼を撿校せしむと
あるか妹なりさて僧綱に・錢を賜ふ時律師に俗
の五位ほど・僧都に四位ほと・僧正に三位ほと給
しにて・僧正は三位に当と云には非す然を僻心
得して律師二五位・僧都四位・僧正三位相當と思召
より僧尼検枝の徳なけれとも檀州八
今川上総介範
の推挙に依て申賜はることになれり
一政は関東の副将軍として・持氏朝臣を補佐すへき
よしを・京都へ申されけれは即御教書をなされてけり。
然るに寺中の御住居・便宜悪しとて三月廿四日・梶原
美作守か館へ移らせられけるに四月廿八日大倉の
御所の御修理成就して徒移せ移せ移せ管領は元の
如く。王杉憲基に仰付られ。万事始に復りしは瑞泉寺典
・
厩・
厩
其
長
永安寺武衛・
満日
勝光院典厩・
満
の執伝られたる
兼
兼
一弓箭の餘烈そたのもしき」但貞和五年十月左馬頭
基氏卿鎌倉へ下向ありて大倉の幕府を開き関東
一八箇国を管領せられしより。応永廿三年十月に至て。
一六十八年の間・干戈を関東に動し智謀を惟幕の
一内に運し勝敗を合戦の場に決せしこと新田義宗義興
一脇屋義。治・軍を上野・越後・信濃・り起し或は武蔵野了
一戦ひ或は鎌倉を襲はれたれとも是は芳野の綸旨
にして面々私の、軍にあらす・但攻るも防は共に共に王事監
ことなけれは勝も負に。天運に当て人間の力に及は
一ぬ業なるへしそれより後は畠山道誓か・伊豆国立野の
城
田かた方にある貞
に籠りて鎌倉の上意を拒きしも
一治元年のことなり
身の罪を遁れんとての結構にて鎌倉殿を討参せ
むとの企にあらすされは御旗
基氏卿
を向らすくと其
の御旗
一儘降を乞たりし」芳賀伊賀入道禅可
禅可の祖は
左兵衛尉高
俊と云一品舎人親王十代後胤・清原高澄より十
二代・清原高親の曽孫たり・高俊の子高直・其子高
一久その子高名入道して禅可と云德治二
年に生れ・応安五年十一月晦日卒となり
謀叛せし
は上杉憲顕と越後の守護職を争ひしに事おこり」
貞治二
年なり
平一揆の・川越の城に依て軍せしは宮方與
力の旗を挙つるなり
貞治
六年
小山下野守義政と宇
同六年
都宮左馬頭基綱と下野国裳原にて軍を排しは
私の宿意に事起りつれとも基綱討れたれは義政
一誅を免されす・其子若犬丸・復讎を名として・城に
一拠野に戦ふ・其意檀殺の父か罪を免され本領を安
一堵するを以て足とす・更に鎌倉を観観する者は非
南朝紀傳・鎌倉大草紙・大膳大
す伊達兵部少輔氏宗
一夫政宗に作ると云とも今系図
に就て考ふれは改宗応永二年
九月卒・依て氏宋の時のことゝす
応永九年篠川の満
貞
一満兼の弟にて
一奥州の管領、
の下知に背きけるを誅罰せられ
一むため・上杉氏憲を以て。奥州赤坂館を攻られ新
一銀合記に義
田相模守義陸
則に作る
同十年箱根の底倉に
一隠れ居て鎌倉を襲はんことを謀りしに事ならすして
詞減ほされ」伊達松犬丸・懸田播磨守・同廿年大佛
の城に籠りて宮方の旗を上ると云と云とも日ならす
して是を平けらするゝ総て是等の合戦・面々の私欲
を恣にせんか為に起ると云とも僅に其封境の安
堵を専として他の領知を掠奪に意ある事あらね
は是を討て其遍を訂し罪を知咎を悔る時は此
を赦して将来を誡むること頗る総督威鎮の節度
を得たりと云つへし然るに今禅秀の謀叛は持氏
朝臣を懸て持仲を主となし。自身管領の任に居て。
関東の諸州を平治せしめんと云を以て名となすと
一云とも其実は窃に先代・北条義時・右大臣
実朝
公
公
将
一軍家の伶利におはしまえ、北条一家の権を専にするを
悪ませられしかは炎の身に及はんことを恐怖して公暁
を徹しこれを喪ひ・幼冲の主を迎へ将軍と仰き奉
一りし故智に習はんとせしなるに其こと遂す身亡ひ族
尽るに至る其籌処は同しくして北条氏は九代百
二十年の栄耀を極め・上杉禅秀は・四月・九十七日
を出す天道の羸縮それ何のところにあるや然とも
禅秀の意と義時の量と其優劣を投量するに義時
は。年来の郎従の・伊豆国に住せるか中に有功の
一者を撰ひ・侍に准すへき旨仰下されんことを右幕
下将軍
実朝
公
公
に請申せしに将軍の仰に・其等の子孫
に至て・義時・推挙の由緒を忘れ終に逢ては幕府参
上の望を企て却て後難を招く。因縁なり・御免ある
墓本伝鎌倉瑞泉寺蔵
持氏朝臣棟立輿
鎌倉年中行事
一名成氏年中行事
一と云信充云成氏に
あらす持氏朝臣なり其證は公方様
御寺と云祭に長春院を載さるにて
知へ
し
に正月五日の夜御行始・云々
をんこし
御輿
東立
棟立
力者舁申なりとある
此御輿なるへし
又云御劒の役
御一家◯私云
吉良・今川・一色・
等足利
一門え
御沓役
箇ゲヽ
を持
中間五人力者
○○○
かなものさんめつき
金物金滅金
二人厩者二人
いつれゑほうし
何も烏帽子を
着すへし傘持は
同断
ゑほうしを
ちやくせず
馬は髪を解て
〇〇
〇〇
〇〇
……………………………………………………………………………………………………………
透立へし鞍は白鼓
白覆輪内は白焼付青貝黒鞍
何にても苦からす鐙同前
網代青漆
紋黄
たし網代
にて九曜を
組たる也
一鞦広形・馬により中形尤なり
手綱・腹帯・あさきの外・乗へからす
一鞠・手すけ・黒草・紫草の外・用ゆへからす
■
一たゝし手綱は白きか然るへき也又は打交もよし」と見えたり
へからさるの趣。厳密に仰出されつれとも義時これ
東鑑十九
を聊も意に介ます。
蓋侍と云は正古口分
巻に出
一一斑の正丁の身強健に万馬に堪・軍団に入・防に
向ひ・京に上り諸衛に配せし、兵士のことなり其子
孫累代弓馬を能して京に上り邉に向ひ、軍團に
一籍するを譜代の兵士と云・譜代の兵士・勲功に依
勲位
て田を賜り爵を給り
を云
位に叙す故に其家富
数千町を占し米粟数千万石を蓄ふ去は億僕数
千百人を養ひつへし所謂三浦和田・等の如きと
云とも兵士一分の籍に貫して、侍品なり
東鑑十
九に・和
田義盛・上総国介に・挙任せられんことを・望申せしに
右幕下将軍・侍の受領は・停止の由・故将軍の沙汰と
宣ひしにて和田の侍品たることは論なし長谷部信連
一か侍に縄を付ることやあると云し・西光法師か侍の
一受領・諸大夫になる珍しからすと云るなと
北条の家
一考へ合すへる猶委しく職原抄に見ゆ
と云ふと云ふ・三浦和田と優劣あるべきならす
北条の
祖・阿多
見え御聖籠・其子北条四即時方・其子時家・その子
時政なり・三代無位の孫にしく・三浦の平大郎為誌
其子王大夫義佳・其子義明
こと云ふべし
去は其即従は北家氏
の家人にして・今にいはゆる奴隷なり侍品は正丁
にて良民なり良奴・混すましきは・古の法なれは義
時も御免なきを恨申さす・却て而従せしは・其量の
大なることを想像すへし上杉禅秀我家人・乙幡六
即か公事了負しを、憤りて鼠を興せしは良奴相
訴ふなは・法家の聴さゝる所なることを知さるに出
たれは曲直ともに禅秀か非分と云へきなり是こそ
神秀か義時に劣れる性と知へけれ」然に此乱より
鎌倉御所の風格一変して勲労を先となし・門望
を論せす・管領の威権旧時に倍し其家臣みな列
を侍品と同くす
長尾但馬守房景太田右
衛門大大資房等の如し
たとへは
絹茸
超・韓
一西土周の世衰て晋國の三大夫に
命せられて
魂
諸侯と成たる如し」写基はかりは君臣の禮義を
重くし上下の次第を守ると云とも邉鄙遠境の
兵士持氏朝臣・禅秀かために廃せられ玉ふへかりし
を憲基一門の好を捨て奉公の忠節を尽しつる
故に再度御所へ還御なりて中興の運を開玉へ
るなれは嘉何なる横紙破りの所望にても管領の口
入ならんには一度は何か芳志の無るへきと己々か随
一意の所行多くありけるを憲基いつしか聞出し、是は
当家の減へき瑞相なりけるを早く聞たることの娘
一さよ為へて様こそあれとて其後管領御所へ出
仕して朝の御台
朝御膳
なり
なり
の品々の善悪を一覧有
一けるに庖丁の役者の意もて半畳を敷設管領を
坐せしめけるかゝ夕の御台の参りける時も亦同様に
管領一覧有けれは同しく半畳を敷儲ること朝行如
くなり・かゝりし後は自然に御所の御台所の馬道に屋
形の半畳と云もの出来しを持氏朝臣聞食以外
御気色を損し管領新規を企て御所に私の半畳
を設公人に是を敷徹さすること私曲なりと怒らせた。
まひける由を憲基ひたへ聞て大に恐怖し管領を辞
して、即日鎌倉を退出し伊豆の三島の社頭に籠
一居して更に異心を挟まさる旨を。牛王宝印の裏に
一簗田家譜三島旧記に依牛王
書てそ参らせらす
實印のこと・天平勝宝四年に始
る由・南都東大寺二月堂牛王加持の縁起了見え
起諸文に用ひしことは源平盛衰記・花賞三代記等
に見
見伊豆三島・箱根等の神明の照覧を誓書て載
ゆ
たりけれは漸持氏朝臣の憤も和しにや五月廿四日
一鎌倉へ召還ざれ・六月卅日・管領了なし玉ひてける
或は云京都将軍家より憲基の職を止めらるゝ一と
然るへからすと仰下されしに驚かせられてなりとかや
一され共鎌倉中は云に及はす東八ヶ国の大名に名
一鎌倉殿は世に悍く生すかな禅秀なとの如き有
勢の大名も御気色を蒙りて百日を出さるに亡ひ
一管領は莫大の忠節なりしさへ僅に半畳の故を以
て職を止られたるましてや奉公の忠も並々ならん
者に於ては如何なる折檻に適とも訴訟申さん様そ
一なしと舌を振てそ恐あへり」偖また建長寺を始
一圓覚・寿福・浄智・浄妙の禅刹より・持氏朝臣を請申
つて・謀叛退治・還御の御喜ひを祝奉る是を薬師如来
と申・其御出たち・立烏帽子に香御直垂・精好大口
御直垂付の御小袖・白綾・供奉の人数・役人両人と
もに十二騎何も直垂を着す既に寺門に近付せ
玉へは・侍者香合を携て行者と共に総門に迎え
奉る此門には寧へ山か書たる巨福山と云額を
一掲けたりそれより山門・仏殿・土地堂・祖師堂・法掌観
一音殿・一々焼香巡礼ありて後・方丈に於て御尋一つ御
建長寺七十四世にして竹
一齋あり、長老保養徳岩和尚ひ
林菴の祖なり法を大暁に
一圖とを始・前堂・首座・御相伴たり、還御の後・御小袖以下
御制出物あまた進せらる寺家より役人をよひ供奉の
人数方へ小袖一重つゞ送らる是を摂官と云と云とかや
鎌倉年中行事に此歳及
やかて長老御礼に参る
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
時と・二度有
餘の四箇寺の式も替ことなけれは・
つる由を記す
に記に及はす、」角て万昔に立かへり・同出度かりつ
る処に鷹永廿五年正月四日・管領上杉安房守
基行年廿七歳にて世を早くす崇徳院無心後印と
号す
一南朝紀伝・廿七年正月四日に繋今
一後蔵寺過去帳上杉系譜に従ふ
一年若く思
一慮正しく鎌倉の棟梁と頼なる人なりけるに如斯
墓なく成つれは・御所を始万民の歎・大形ならす
如贖ふべくは人其身を百にせんと迄追慕すれとも為
方なしや・加之子息一人も無りしかは内々は扇呑
乃子息をと定められつるに幼稚なれはとて越後の
兵庫頭房方・三男・孔雀丸と云八歳の若を去年呼
迎へ・元服させて上杉四郎憲實と名衆今年九歳に
一なれり弓馬は家の芸なれは云に及はす・書を読文字
を書こと尋常の人に超過し・大器用の人なりと褒甸
者多かりけれは・いつしか憲基の耳に入・けるに憲基云
やう・小身の奉公衆か近習者なとならんには藝能を
以て身をも起しつへし我遺跡を継て関東の御後
一見たらんには・いらさる芸能かな天竺震旦の賢人の
一極位を学ひ知たるとも我心に移し用ひすは其詮
あるへからす・結句無学人をあなつり諸人のふ興を
招くこと必定たるへし穴かしこ次郎を褒そこなふ
なと其伝を誡けるとかや・憲基卒して後大勲労の
遺跡なれは・幼稚と云とも四郎憲宝を伊豆上野の
一守護職に補任し管領とし右京亮に任せられ・従
一五位下に叙し代その先途なれは安房守に改め
らるたゝし管領憲実いまた十歳なり万機の成敗を
決断すべきにあらねは憲実の家老長尾但馬守房景
武勇智略人にゆるされたる者といひ・今度上州にくの
忠節かた〳〵等閑にすへきにあらねは御所にても然へ
きとて御免ありしかは管領の家の執事職となり
鎌倉年中行事
一政務に口入して威権漸盛ならんとすが
に・奉公中より
一管領への書礼の事・誰にても其時の執事の・宛所に
て・謹上裏書有へしとあり・執事の霊せらるゝこと知
へき
なり
一始禪秀か家人の放逸を懲さんとして遂に顛
覆の災に至り今また止ことを得す陪臣をして国命を
執せ再ひ永享の乱胎をなし・幕下振はす・御所・下総
に移るに及ふ・其漸またく禅秀乱に根賀すと云べく
抑また北条武田上杉長尾・刺據の淵涼なれは関東の
弓矢を談る者。此乱より研究せすは有へからず相撲
此条氏康氏政・
国の住人高山伊豫守
常に東八箇
二代に仕ふ
国の合戦を語るに是を首とすと北条五代記に
見えたるは三百年前の人既に爰に爰に見有しと奇と
云へし。憲実の始末は次々に詳なり
兵家紀聞巻之二終
狩刀
兵家紀聞
}
二
本文
兵家紀聞巻第三目録
一応永廿四年二月甲州亂の事
武田家系逸見武田の舘菅冠者
一太田切の城甲斐の加藤の祖流鏑馬
一甲斐安芸両国の守護若狭の守護
一法泉寺下条布施江草倉科・勝沼山宮栗原等
一の祖上杉氏憲の妻自殺の事
木賊山舘天目山栖雲寺加藤入道梵玄
悪八郎信長の事石和川原合戦猿橋
武蔵七党行事信長鎌倉へ出仕の事
甲斐の守護職の御教書石和舘
一輪實一毅・日一毅跡部駿河守同上野介の事
遠州蒲庄
兵家紀聞巻第三目録終
兵家紀聞巻之三
栗原信充編集
応永廿四年申刻の武田安芸守信満は上杉禅秀の
小舅たるを以て鎌倉合戦に・出勢せすと云とも與力
勿論の義・其罪科・看允らるべきに非とて上杉淡路守
憲宗を大将にて御旗を向られけるに二月六日信満・自
殺し嫡子信重・高野山へ遯れし後鎌倉より。甲州へ挽
見中務並有直に與ふ・然るに信重の弟悪八郎信長加
藤入道梵玄を語合逸見を追出し国を奪つるに京
都より信満の弟信元を挙て甲斐の守護職となし
玉ふ始末を応永の甲斐乱と云
一武田安芸守信満は新羅三郎義光・十二代の孫也
父は陸奥守信春・女は上杉左近将監重行女・折武
田の家の甲斐の国に起れる由来を尋ぬるに新
情和天皇・第六皇子貞純親王の長子
羅三郎義光
経基王の嫡男多田満仲の子河内守
頼信の嫡子・伊藤
一甲斐守藤原知実の婿として・進
守頼義乃三男
士判官義業刑部三郎義清の二人を儲く
義清浄
保二年
四月十六日江州滋賀の館に生ると云は義光三
十二歳の時なり◦義老その頃刑部並たりし故に
刑部三郎と
然るに義光・甲斐守に任せられて在
称せしにや
国四年
天平宝字二年の勅ふ・諸国司任限・
乃間刑
四箇年と有て其間在国せしなり
}
一部三郎義清を伴なひ下向ありて巨摩郡千谷
十
今日
谷村
一の奥に紋を開き城を築き義清に與られし
あり
とかや・
或は云十谷の奥の源氏か嶽了義光城作
せしと云云・蓋義光の孫支繁昌して家々の
傳へならす今
一義清また同郡武田の郷に館作し
其要を撮記す
今武田村・八幡宮
て住しかは・武田冠者とも称しけり
の社地・なりと云
後には八代郡市川庄に移り住つれとも武田と称
することは猶元の如し上総介兼宗
右大将道綱の
二男・後に武蔵
守・左
馬頭
の婿となり天永元年六月九日市川舘にし
て男子を儲く幼名は源太餘りに色の黒けれは
義晴卅六歳
黒源太とそ・世には称しけり
の時なり
天治元
年正月十一日源太丸十五歳になりしかは元服
して武田冠者清光と云烏帽子親は祖父新羅三
一郎義光とかや逸見の荘官某か婿になり逸見に
移りし後は逸見の冠者とも申せし也清光遠州池
田の宿の遊女に相馴て後には武国の館に住せ
けるは大治三年八月十五日己時に逸見の女房男
十一
子を産は・午時に武田の館にても男子を産り
書
に同胞二子と云説あり
己時に産れしは逸見の太
れ共其實否をしらす
一郎光長これなり午時に産れしは武田の太郎に
一称しけり保延六年正月十六日十三歳にて元服
を加え信義と云これ甲斐源氏武田一流の太祖
たり・保元・平治の乱にも催されさりしかは・軍立せ
す仁安三年七月八日請光五十九歳にて卒す依
て武田の家督は信義これを続行年は四十一歳
治承四年八月・源三位頼政入道頼円・乃高倉宮の
御前にて國々の源氏を數ける時に甲斐の国には
義清は久安五年七月
一逸見冠者義清同太郎請光
廿三日七十五歳にて
卒す・倩光は仁安三年
武田太郎信義同弟に・加賀
一に卒す共に存在せ
治承四年
見次郎遠光
安田三郎義定
卅八歳
一系図そ遠光
の弟とす然
れとも義定は長承三年に
一条次郎忠頼
一生る治承四年は四十七歳
信義の
一男
同弟板垣三郎兼信武田右兵衛尉有義同弟伊沢
五郎信光とあり其後前右兵衛佐頼朝の催に応
一して武田太郎信義・治承四年九月十日・平氏方人
管冠者を信濃国大田切の城に攻誥冠者に腹切
せ思のまゝに勝軍して甲斐国逸見山の邉まて引
返しける処へ・北条四郎時政武衛の御使にて参
会れ駿河国に・打出て浮島の邉に待会申べき旨
一を告られしにより千月十四日駿河目代橘遠茂并
一長田入道父子を信羲一族の勢はかりにて冨士野
の傍伊堤の邉に討破り長田父子を梟首し遠茂
一を虜・同廿日の夜・信義・平家の大将・左近少将惟盛
一薩摩守忠度参河守知度の冨士川西岸の陣を襲
けるほとに富士沼の水鳥群立て其羽音軍勢の粧
をなしけれは平家の軍兵忽に敗軍して逃上る
これ併信義か勲功莫大なりとく同廿一日信義を
以て駿河国に守護たらしめ義定を遠江の守護と
なされたり同廿三日武衛相模の国府に看玉ひ給
以て勲功賞を行はれける時も信義。義定を以て千葉
三浦上総・和田・佐々木加藤等の上首となされしは
其門地を崇敬ありしゆゑとしられたり但信羲の
弟遠光は信濃国の守護を賜はり義定は遠江国
の守護となりつれは二人の所領を合せて信義
これを安堵し東郡の内若干を加藤景員入道に
充行はれける
景員入道と云は頼義朝臣の即等に
修理少進景道の二男加藤五景貞の
ことなり・景員乃子二人・長は光貞知
一藤すと云次は景康加藤次これ也
信義の一男忠
一頼は一条の館に住し・一条次郎と称す次男・兼信
板垣に住し板垣三郎と称す
山梨郡・板
垣村に住
三男有義
一武田に住し・右兵衛尉に任しつれは武田右兵衛
一尉と称す・四男信光は・八幡殿四男・河内守義忠の
一娘の腹なりけれは頼朝卿も従弟違とて賞翫・銭か
らねは信義も当腹なりと称して鍾愛深くこれを
総領と定めけるに文治二年三月九日信義・行年
一五十九歳にて卒せしかは信光家督を続て伊澤
の館に住し伊沢五郎と云同三年八月十五日鶴
岡八幡宮の放生会に流鏑馬を興行ありけるか
一信光三番の射手に出立ぬ的立は河勾七郎政頼
とやや
信光・此歳
○同五年七月十九日頼朝卿奥州
二十六
の泰衡・征伐のために進發ありける時は御駕の
後に従ひ・有義と相並て加賀美・三浦の上に列す
建久四年三月廿一日・下野国那須野・信濃国三原野・
一の狩に進発せられける時弓馬に達し隔心なき族
二十二人を撰はれしに江間四郎伊沢五郎加賀美
二郎を上首と定められき同六年頼朝卿上洛の
時も或は先陣或は後陣に供奉せられ建仁三年
頼朝卿舎弟母は常磐
五月十九日阿野法橋全成一
一義経の兄・此時五十二
歳な
一謀叛の聞ありとて是をめし籠られんとせしに
り
兼て勇力の墓高かりけれは人々これを危懼てたち
向ふ者無りけるを信光たやすく生捕てていらせ建
保七年正月廿七日右大臣
実朝
兵
鶴岡社参の時は
黒糸の鎧きて随兵の上首たりしにこの夜別当公
一暁衣階の際に於て右府を侵まいらせける由をきく
一や否信光・先登に進と云とも讎敵を見す・頗以て惘
然たりと云り永久三年五月廿五日には東山道の
大将軍を承はり五万余騎にて討て上り六月五日
大井戸の渡の合戦に打勝やかて勢多の上瀬に
向ひけるに官軍一支も支えす其手たちまちに破れ
一将帥手を束ね・槻を荷ひ・軍門に降りしかは同月廿
一四日按察使光親卿を信光預り守護して東海道
を下向し、七月十二日駿河国車返の里加古坂と云
処にてこれを誅す数度の軍功抜羣なるを以て
伊豆国司に任せらる任限畢て入道し法名は・光蓮と
云仁治二年正月廿三日頼経将軍の馬場殿にて
一海野左衛門尉幸氏・望月左衛門尉重隆と共に的
一を射て懸物を賜はり貫蝨の妙を施されけれは
後日の美談当時の名誉都鄙に伝て喧まし行年此
一時八十歳钁鑠たること伏波将軍に恥すと云へし入道
の妻は鎌倉源太義平の女にして新田大炊助義重
一主の外孫なり其腹なりける小太郎信政を立て総
新羅三郎
一領となし・大内冠者修理大夫惟義朝臣
乃女
四代の孫
に配て伊豆守信時を産しむ信時の長子弾正少
弼時綱北条遠江守朝時の婿なりしいは時と共に
武田伊豆前司入道光蓮
十一月十一
介副武田信長
置矢申の役
候は
正月十六日
射禮圖荏柄
縁起等に依て
因す
信兆図
一繁昌して栄華家門を輝しける時綱の嫡男伊豆守
信宗は仁義の意厚くして禮譲を専となしつれは世
に賢人と称しけり其長子陸奥守信武正安三年正月十
一日生年十歳伊沢入道光蓮の吉例とて元服し元徳
二年三十九歳にて家を嗣・甲斐安藝両國の守護職
となり元弘元年笠置の詞手に上洛し後には官軍
一に加はりけるに主上叡感の餘・甲斐守に任せらる建
一武二年十一月足利宰相尊氏卿鎌倉にて謀叛の聞え有
一し時新田左中将義貞朝臣に従て東国へ下向せしに尊
氏卿の申さるゝ旨武勇の家に生れたる人々の意に恨
一けれは一族を引出て鎌倉勢に馳加はる尊氏卿大
に喜はれて是は甲斐源氏の総領なり古兵なり
一人当千の大将と賞翫なのめならす是より無二の
一将軍方にて処々の勲功多かりしかは・伊豆守に転任し
一先祖の芳躅を相続し康永三年天龍寺供養の時先
陣随兵の上首として非常を誡め九州探題を承て
武威を西海に振ひ・陸奥守に任して十代中絶つ
一祖武を顕はしまた子孫の繁栄を語れは嫡子刑部大
○輔信成は二階堂出羽守行藤の女の腹なり甲斐
一の守護職を相承す次男は兵庫助氏信若狭守護職
を譲補す三男弾正少弼直信安芸の守護職たり
一四男信通・信濃国大井に住す・五男薩摩守公信は
山縣蔵人公頼か娘の腹なりけれは外祖父の子と
して美濃国に住す六男信濃守範信は巨摩郡穴
一山の館に住す・七男信久・巨摩郡南部に住す南部に
同七郎と祢八男は僧にて遠大西堂と云九男も僧にて
一法阿弥陀仏と云・一蓮寺の朔日上人これなり女子は
一武田一条の餘一信葉の妻・小笠原信濃守長基の妻山
縣頼長の妻なりされは嫡孫次孫外孫の數々は郭子
一儀かゝ昔かくやと知れたり然るに延文三年四月尊氏卿
一薨去ありし乃ち世をあちきなく思なし夢窓国師を戒
一師にて五魔降伏の甲冑了箭を慈悲悲忍辱の鬱多
一羅僧に厩替て・法名は雪山妙照とそ敗らる・かくて後
一梓弓もとの姿は引かへぬ入べき山のかくれ口もかな
と詠すてゝ山梨郡和田村に一宇の禅刹を建立し金剛
福聚山法泉寺と号しこゝに移り住し康安二年正月六
一日・行年七十一歳にて入寂す・又刑部大輔信成は足利
一左馬頭基氏卿を関東管領として鎌倉へ下されける時
一尊氏将軍の頼仰らるゝ旨ありて弓箭の道軍陣の進
退啓沃の力を尽し医救の輔を致よかしとの深意にて
一甲斐の国を鎌倉の分国と定められしなり蓋信成の
重せらるゝは信武の餘勇とは云なから新羅三郎以
一降累代名誉の弓馬の光と知れたり信成の嫡子は堕
奥守信春のちに花峯入道と云次男は信家下條に任す
三男満春・布施に住す・四男信秦江草兵庫頭と云五男
信景・左馬助たり・六男信慶・倉科に居・七男信堅・勝沼
に住し・八男信安山宮民部少輔山宮に住す九男は僧に
なし弥阿弥陀仏と云十男は武績・栗原に住す女子は
上杉右衛門佐氏憲か妻なり信成卒して信春家を嗣
信春卒して嫡子信満家督たり鎌倉管領上杉氏憲の
妻の甥なれは満兼御所の御覚も他に異なるしるし
一は御所の御名字を賜はりて代々の信の宗の上には如
何と斟酌せさせ玉ふて信満とは名乗せられたるにても
一推量へし信満やかて従五位して安芸守と称しけるか
一伯母婿の氏憲病に依て薙髪しけるとき同しく落
一髪して長松寺明庵入道と云」然に氏憲入道禅寺
一秋の霜の下に身を果し伯母御前も後れしとて
さなきたに互の障ありときく我よりむかふ罪いかにせん
と一首の歌を名残となし夫の形見と遺てし護刀を授
一放ち胸を貫き俯伏になりて失にけり」明菴入道は幽谷原
の軍敗て味方散々に成て落けるとき心ならす三増
一峠を打こし鶴の郡まて退たりしかは敗軍を集め再度
鎌倉へ寄んと擬しける内に禅秀滅ひ・持氏朝臣朝臣・鎌倉
へ逆御なり謀叛与力の大に名それ〳〵に誅罰あるへき
由聞えつれは明菴入道も如何すべきと猶予けるを
一邉見中務丞有真よき時節なり武田を絶して甲斐
国を・一円に守護世はやと思立持氏朝臣べ様々に讒
言をそ為たりけり去は討手をさしむけよとて上杉談
掃部助憲家の次男左馬
路守憲宗
一助憲宗武蔵の守護代
に・御旗を賜はり
武蔵・相模の勢七千餘騎・三増・荒井の峠より都留
一郡を志し我さきにと馳むかふ明菴入道これを聞弓
箭とる身の習なれは禅秀一味は力なし右の罪科に
依て父祖にり知行せし甲斐の守護職を否放されん
とならは鎌倉へめされ奉行頭人右筆の計にて事
足ぬへし。争か違背に及ふべき然るを逗見か申に任
御旗を向玉ふとやゝ其儀ならは・弓馬の家に生会た
る恥かしさ一箭いて腹を切や若殿原と一族郎従
一を勇め・一条次郎信家・布施彦六満春・同嫡子孫三
一郎満頼・江草兵庫頭信泰・同嫡子兵部少輔信綱・金
一科治部少輔信広山宮民部少輔信安栗原十郎式
一続入道常俊等を先として二千余騎都留郡へ打て
一出上野原・鶴川に陣を取・上杉おそしと待懸たり上
一杉憲宗は御旗を先に進め七千餘騎を三手に分ち
一一手は津久井縣の関野より桂川に添て三千餘
一騎長尾新五郎を先陣とす・一手は武蔵国多摩都
駒木野小佛の峠を越小原長尾の山道より鶴川
を志し二千余騎上杉憲宗自士卒を勇て駆むかふ
一手は武蔵国秩父郡小河内の奥より都昌郡加茂沢
口へと二千余騎武蔵一揆を差向けり武田方にも名
を愛恥を思勇士多かりけれは爰を先途と防戦ふ
一夫共敵は多勢なる上・荒手追〻了加はり味方は一人
一討れは一人の陣まはらになり夜昼数十度の合戦て
二千余騎の兵も残少に討なされ今は是迄なりと
一明庵入道討残されたる一族郎従を近付寄手は次第
一に勢加はり味方は日増に力疲れたれは此侭にて運
を開かんこと思もよらす然と云とも八幡寺殿
信武
朝臣
荒
尊氏
守氏
の命に代せ玉ひし忠功思召わすれ
等持院将軍家傳氏の命に代せ玉ひし忠功思召わすれ
卿
玉ふへきにあらねは京都に訴訟して當国を安堵せんこと
遠かるへからす・去は嫡子三郎信重次男悪八郎信長を始
若殿原随分身をかくし当家再興の時を待譜代>箭
の眉目を開玉へかし其や疾々と勧められ信重は薙髪て
光増坊と名を改め高野山へ攀上り叔父浄国院座
浄国院空山法
一山法印の寺に入て道成と称しけり
印は・明菴入道
の弟後に・信濃守信元と
一家の殿原もきらは思そ
一同三十一年に任す
に立忍へしと所縁求めて国々処々へ落行けれは
明庵入道の陣中には一条・布施・江草の人々及ひ
山縣市川工藤なと云郎従四十餘人より外落止る
者もなしいざゝらは木賊山の館に引帰し彼処にて
一心静に腹を切んする誓と云まゝに主従四十八時都
一苗郡を引退き篠籠峠を打越山梨郡田野奥天目
武田悪八郎信長
信非園
加藤入道梵玄
武田信長
加藤梵玄入道
と夜打を議
す
山の谷陰なる木賊山の舘に歸入て自害じて失にけ
り法名は長松寺明庵道光と云應永廿四年二月六
一日いかなる日夜なれは新羅三郎より以降十三代三
一百余年相続の武田の正嫡一朝の露と消けるこそう
天目山・栖雲寺は明庵入道の開基にて
たてけれ
に開山は業海本浄禅師と・甲斐名晴志に
見ゆ・然れ共・天目山梵音洞に業海の書にて・貞和
四年戊子開二此山一建二精舎一と刻てありと雲際後録
に云を見れは・開基は信武朝臣なるへし明菴入道
の墓は天同山仏堂の西なる・影堂の西北にあり
り
と云
一斯後鎌倉勢は凱歌を挙て引還し。国をは逸
一見に賜はりて有真本意の如く入部すといへとも
京都よりはいまた何とも御下知なし爰に明菴入道の
次男悪八郎信長は父か教訓にまかせ一旦国をたち
退たりしかとも父の行楽の覚束なさに路次より竊に
引返し事の始終を開閉いかにもして逸見を攻殺氏か
一斛を徹せすは生て人に面を合せしと猛き心を起し
つゝまつ郡内の加藤入道梵玄を語らひ志の程を告け
つれは入道一議にも及はす・與力してけり抑この入道を
いかなるものそと。尋るに鎌倉右大将頼朝卿の山木
館を攻られける時義行の長刀を賜はり判官兼隆を
討たる加藤次景廉か末孫なり景廉か父景員冨
一士川にて平家を追落したる勲功の勲功の賞に。甲斐国東都の
一内若干賜たりしを景廉相伝して子孫遂に武田の被管
とは成しなり去武勇の血脈を受続たれは梵玄も国中
無双の大力にして弓馬の早業尋常ならす似たるを
一友とする習なれは劣らぬ勇士三十余人・たとひ同日には
一生れすとも同日に死を共にせんとそ契つゝ契つゝ。近都を追
一捕して其勢三千余人逸見か館へ押寄まつ火を掛て
一烟の下より切て入散々に薙たて射ふせもみに揉てそ
攻たりけり逸見慮もよらぬとなれは忽に敗北て
一宗徒の一族五十餘人打死しける間に有直漸一方
を切抜片息ついて隠れ居たり信長梵玄思まゝに勝
一軍はしつれともさすか国中悉く味方に参ると云にも
あらすたゞ木賊山の古館へ立籠りその辺を打給へて
一猶叛者を追討せんとそ企けり逸見・此由を聞候の
一一揆に館を追落されおめ〳〵と鎌倉へ赴き烈んに俄に
武略の足さるに似たり去は悪八郎を打亡て後に鎌倉
へ訴申さんと遅にあらすと思惟して逸見敗軍を集
二千餘騎を二手に分追手は栗原勝沼・鶴瀬にり
一田野に向て押寄る搦手は於曽萩原に掛りて直
に木賊山の麓を志して攻上る悪八郎これを聞
一逸見大勢にて押寄るとも山中路喰しく澗深し
一坂唄て泉滑かなれは・馬の駈引・自由ならす・一人ひゝ
携つれて攻上る処処を指攻引つめ射落て色めく
処へ・大木大石を投掛擲打透間あらせずは後陣崩
て引退くへし其塩合を見計て一雷あつる程な
らは臆病神に誘はれて五里七里の外迄逃行な
む・此敵追返されつと聞えなる運を両端にかけて蹴
ひ居たる者とも味方に馳加はるへし其時過見へ
一押寄て有無の一戦を遂んに・有直を亡さんこと掌に
ありと謀ひ山中所々に木を斫仆て逆木となし岩
を繫て石弩に代・寄手遅と待かけたり逸見方には
一大勢を頼みさまての責支度に及はす恩のまゝに
山深く寄たりつれとも敢て支入る敵もなけれは
一聞怖に落たるやらん防戦にさこそと心驕て進む
一兵・嶮しき阪路に疲て・見挙れは彼方の岩涯・此方の
一森の中に白旗・赤旗三四十流・松の嵐に翻し・其陰
に射手と覚て兜を着す・胴丸の袖を放ちて一様
に鎧ふたる武者多少は知す静り返て音ゆせす
寄手案に相違して色めく処を見すまし悪八郎
信長松の木陰に立顕れ・大音に名乗やる寄牛の
大将は鎌倉殿かきらすは上杉一家の人そか大将家
一はつて向ひ玉ふならんと存し。武田正八郎信長か腹切
やうを見せ奉らんと支度仕て候なりはや是へ御入候
へと楯を叩て同音に時を壇とそ挙たりける寄手
是を聞此手に向て軍するは逸見中務医有真の
一侍に保田与へ高数と名乗信長これを聞・さては
一鎌倉よりの討手にあらす逸見めか結構かゝ父の讎なり
一足に引な・遁ましきそと云まゝに・十三束三伏・犬の
中指取て打番ひ・しはし固めてきつて放てはあやまたす
一保固が兜の眉庇の下より鎧の押付の板の外れ迄脳
を撲て射出したり痛手なれは馬より真逆に落て其
保田氏系
儘息は絶たりけり
是を軍の始として暫時
譜にみゆ
一は矢軍に時を移すたゝし信長か矢ら中て死する者
最多し寄平気をいらたく力責に責落さんとすれ
はゝ澗深く齢急にして進みかたく引退いて方便を易
て攻んと謀れは逞兵輪宝の山を崩か如く追打んと
す、進退こゝに谷り狼狽せし処へ加藤梵玄入道・松木
の棒の二丈餘なるを打振坂を下に閉て掛る事
見これを見て敵は小勢そ中に取囲く打て取と
一鞍橋に立挙り軍兵を勇めて戦ふ処へ思ゆからぬ
山の上より釣綱を切て大木大石を落しけれは人馬
一圧に打れて或は手足を打折れ或は肩腰を打損
一せられて命を失ふもの多かりしかは逸見辛して己
一か舘へ迯歸り大息継てそ居たりける木賊山にては
手攻の軍に打勝物始よしと喜ふて益軍の用意を
励山の攻り谷の岨道に堀を穿石を倒かけ山中
一四五十町の間へは左右なく人の通ひ難き様にそ
一拵たり其上に両度の軍に勝たる由を聞伝へ我も
一袋もと山中へ走入り関戸口の警固に加はり又は単
種を運入誠に譜代相伝の我等か主君なりとまた
一余議なくそ見えたりける逸見今は無々我勢計に
て木賊山へ寄て武田を討亡さん」とは恩もよらす・何
とそして信長を山より外へ誘出し懸金の合戦して
一運を天に任せたる一軍をと朝暮軍略を廻らず。坐
武田方へ漏聞しかは加藤入道大に喜ひ・此度は遂
見を生捕て勝沼の坂に磔にかけんと荒言して腹
たる兵六七十人。夜を籠て石和川原へ打て出朝霧
の霽行まゝに・民家へ火を懸鯨波の戯を挙たりけり
一逸見火の手を見てすはや木賊山より敵の寄来る
こそ望む味方の幸なれ・若穀原・馳向く駈散よと
勇進て石和河原へ馳向ふ加藤入道これを見て鵜
舟の一艘ありけるに打乗て川中へ漕出し逸見か先
一陣に向ひ是は加藤入道梵玄とて摩利支天の應身
なり了箭の冥加は我に祈れとあと笑て好む所は
一金さい棒を打ふり向ふの岸へ飛上り真先に進たな
一逗見か郎等折井三郎兼遠を掻抱て舟の中へ投入
る投られて舟縁に兜を打付られしはしは眼くらみて
一起も上らす此躰を見て折井か従弟の曽雌太郎加
藤を目懸て飛かゝる入道例の鉄棒を以て曽雌か肩を
したゝかに打大力に打れて何かは少も怺へき尻居に
どふと打居たり逸見大に怒り此程小勢なる敵に攻
加藤梵玄入道勇力
られて眼前に即従討せ何の面目かある続け者とも
と云すてく三尺二寸の太刀を抜かさし加藤を払切に
一そ切たりけり加藤わさと逗見に拂はせて其透に此
一を生捕んと待かけたり逸見も聞ふる早業なりければ
加藤か心を推量して敢て近よらす斯る処へ石和川の
一上の瀬へ向ふたる者在家へ走散て火をかけては
時を作り大勢の押寄る勢をなして馳回るほとに
一逸見に頗退屈し引返さんとなしつれは相従ふ軍兵も
一皆引色になる処を梵玄得たりと大手を広け何処
まてもと追いけ首を切ては鞍につけ余るをは太
刀の鉾に貫き閑に石和川を打渉し人数を経ふて
一凱陣す逸見度々の員軍に腹を立忍ひて鎌倉へ
一馳上り・信長木賊の古館へ立帰り・近郷を切従八・守
一諺の命を妨くること狼藉の至り・是に遇へからす・早く
一御旗を賜はりてゝ速に斧鉞の厳刑を致さるへしとそ
一訴へける持氏朝臣・聞食かねて武田か餘類の國中
を亂妨せんとは思つれともそれこそ守護の威勢に
て逸見是を誅戮し今日や首を持参するか翌日は
軍の往進あるかと日毎夜ことに待せ玉ひしに合戦に
一打資御旗申に参る条守護の詮なきか如く・弓箭の
冥加に尽たるに似たりたくし信長か狼藉等閑になし
おかるへきに非す誰をか打手に差向へきと侍中をみ
玉へは一色刑部少輔持家つと御前へ罷出・持氏朝臣
御覧して、天晴、一方の大将軍や信長に対揚す共
劣ましはそゝ是に御旗を給ふそと思定て元の御座
へ・立帰り・一色を咎出され・武田悪八郎信長・御免も
なきに甲斐国へ打入・逸見中務丞有直か国の守護
一にて居たりしを無二無上に攻出し・好き即従披管等
を駆催して・我侭に図を押領する由・但今上閉に達
す御邉に旗を賜はれはこれを差せて甲斐国に立越
一信長を討て参らせよと宣へは持家謹て申けるは
武田か叛逆・始て承はる下克上の者共を追討せ
られ候はんに王事監ことなけれは踵を運さす・逆徒を
一誅戮仕り候へし・但検使を一人副られて軍勢の忠否を
一沙汰し候はゝやと望申しかは宝もとて梶原美作守直
景を差副・応永介三年二月・鎌倉を打立・筑井県を過
する頃は一千余騎と聞えしかゝ武蔵・相撲の軍兵・馳加
はりて駒木野の坂越る時は六千餘騎にそ成にけり
一持家この大軍にて寄ると聞は信長たちまちに降を
乞は左なくは閉怖に落もやせんと一宮梶原心怠て
まつ甲斐國都留郡猿橋に陣を取かんと進む処に上野
原は加藤入道か領地にて若く健かなる者は皆木賊山
に籠り爰には老人又は幼稚や女房なと忍ひ居たりし
一か・鎌倉勢の寄るを閉や否・猿橋を切落し・藤蔓を以
て橋を結てそ待かけたり一色これをは夢にもしらす
一操に揉てそ押寄たり先陣の兵橋の上五六間も行か
一けつと見る程に橋は中より踏折て人は雪頽を突如
く真逆に押落され水に溺れ客に傷れ、岩に傷きゝ三百余騎は
一失にけり・先陣はかゝることとも。後陣はしらす・次第〳〵に寄
来り如何はせんと狼狽すされとも此崖二十丈にも及ひ
て高く痩は十丈にも踰て広けれは烏ならては翔る
一まし是より外に道やあると案内者を尋ぬれとも軍
一勢に怖れて老たる嫗より外男子は一人も出会頃・去
は大木を切倒し・櫓をかけて渡れやと大工を集めて
一普請事そ掛りける・信長は此由を傳成いて一色を一
夜打して臆病風を引せんと究竟の勇士七十餘人を
勝り出し丹波山の峯より真筋遠に一色か陣の後
一なる勝野下和田の在家に隠れて日を著し夜は
一子丑の刻と思ふ唄猪目・烏伏の辺に火を懸たり
一信長是迄手長く打出へしとは誰も思寄さることな
れは味方の内に謀叛の者の出来つるかさあらすは
一何者か手過せしならんと己々か陣々を堅固了守る
を手柄そと互に心置あふて救ひ助んと出会人の
一興りしかは・信長思ふ侭に働き静々と人数を引揚
また山深く立忍ふ五七日ありて雨風烈しく雷なり
はためく夜半はかりに一色か陣中へ山より猪鹿を追
一入たれはすは夜討の入たる出合や者と小と呼立
られて是をみれは夜討にあらて猪応なり若黨共
一追掛て射落せと興に乗し赤裸に蓑笠きて我先
一にと猪鹿を猟は珍しさに右往老往と馳違ふ老者
一も実に雨に怖れて獣ともか山を出しと心得て些も
一用心なき処へ・信長真先に進み勢の多少はいさ
しらす・太刀長刀の鋒をそろへ潮の涌か如くに責掛
る鎌倉勢は大勢にして、しかも峯を隔谷を渉りて
陣屋を構たれは・進退自由ならす・其間に信長は一
色か陣屋を一宇も残さす・焼払ひ・又峯深く立隠
る一色両度の夜討に打負て信長益気勢を得今
は容易・討滅ほし難く聞えければ持氏朝臣大に驚き
一実も理なるかな信長は甲斐源氏の嫡々尋常の号
一蕎取に思准ふべからす。持氏向はて・叶まし。去は打立兵
ともと重ねて武蔵・相模・安房上総の勢を催され六
一月廿六日鎌倉を進発ありて武蔵国多摩郡横山今
八
王子の東に横山
一村新横山村あり
に御陣をめさる信長これを閉く敵
一も敵に依そ鎌倉殿の自親向はせ玉ふなる自館に
居なから何と・待戦ふへき・御迎に参るへきそと加藤
以下を催して猿橋口へ打て出篠籠峠を後に当
陣をはる兎角する内に一色持家・橋の造営なし
終り進て信長か陣に向へは信長退て其枕を窺ひ
橋を堺て追つ捲つ七月下旬まて日こと〳〵に責れ共
信長は案内者なる上地下人みな靡き従ふか故に
一色いつも打負けるに八月朔日武蔵国の七党
横山
黨猪
服党・野與黨・村山黨・西黨・児出黨・丹黨・但族
山は・小野氏にて・海老名・藍原・平子・卑山・古郡・等也
一猪俣も同しく・小野氏・にて荏原・人見・岡部等なり・野
一與は平氏・濃江・高野・多賀谷等なり・村山も平
・氏・大井・宮寺・金子・山口等也・西は日奉氏・長沼・上田
に川・稲毛・由木・田口・中野等なり・児王は藤原氏・庄・
四方田・倉加野・奥平・小幡・白倉・高坂・等なり・丹は丹
一城氏・由良・横瀬・榛沢・勅使河原・安保・秋父・大河原等
なり詳は七黨
一秩父郡の奥より大菩薩越して甲
草図一巻あり
斐國山梨那黒川へ打て出直に木賊山の麓へ寄
たりしかは・信長敵を前後に受て心は猛おもへとも防
方便了畫はてゝ篠籠山に引籠り最後の軍帳して
一腹を切んと構たる持氏朝臣・閉食信長程の勇士を惜
なく腹を切せんことこそ可憐けれ鎌倉へ出仕せは此
間の儀をは・御免あるへき由・御使を賜はりて八月廿
五日信長鎌倉へ出仕す其体まことに異様にそ出立
けり即従三百騎・混甲にて。弓の弦を脱さす・鎗長
一刀の鞘をはつし御所の御門の内に入・中にも勝れて
目に立しは加藤入道梵玄
一本林允賢
か有様なり
に作る
一身長六尺八寸・筋骨ふとく・逞く・甲冑を帯し腰に
一鎌熊手鉞をさし大長刀を杖につきゆるき出たる體
は古の武蔵坊も是には過しと夥し一色持家見咎
て御門の肉を罷出よと制すれとも耳に御閉入す但
信長郎等
加藤梵玄入道
武田
信長
鎌倉
御所へ
出仕
武田信長
信楽図
一生の信長は白き直垂に白き袴縁塗の烏帽子に
一九寸許の刀をさし客儀厳重に出仕の形儀神妙也
と御感ありて悪八郎を改めて右馬助にそ任せらる
御対面の式・旧規に違ふことなけれは信長か郎等も
喜悦の眉を開き・安堵の御教書をは・賜はらねに由
累代の成敗争か違乱に及ふべきと心驕して甲
一斐国へ入部したりける持氏朝臣よりは後老名
三河守季信を以て甲斐国をは逸見了賜はるべ
き由を申上られたり。去とも京都にては武田に逸見
は元来・一族同胞なれとも武田の家の代りに逸
見を何と立らるべき武田一旦の不義ありとも
長く一頭を絶さるべきにあらず明菴入道こそ関
一東の御敵と成たれ・信武・信成・信春三代の忠功を
棄捐せらるべきにあらす明菴入道か弟に空山とて
高野山浄国院の住侶の在けるか還俗して信元と云
関東に住されは明菴と一味すへき謂なし久しく在
京しつれば万の骨法を知て容儀進退すこふる見
つへし是に信春入道の遺蹟を賜はり甲斐國に
一下向し国務を執行へき旨、安堵の御教書を卜され・
修理権大夫アリ任せらる旦また持氏朝臣へは別に御
書をなされて修理権太夫信元に甲斐の守護を賜
寛文七年印本見聞
はる由を仰られたり
軍抄に見えたり
甲斐国守護之事
一武田修理権大夫信元被仰卜一就レ其安芸安芸守入道蹟
國中闕所不レ有二卒命一之状如レ件
應永三十四年三月五日義持
持氏朝臣
左兵衛督殿
の事なり
一逸見は旧の如く西郡の名字の地計知行すへき
との御内意なれは力及はす信元は甲斐に入れ
の後石稗の館を営造して・移り住し・伊豆守信光
一以来累葉の條令を守り朝窓を重し武威を示さ
れしほとに・国民安堵し・疆域穏便に治り鎌倉の首
尾すへて残る処なしと云とも信元に家を継す
一べき男子なし・齢既に耳順に近し甥の右馬助信長
は器量といひ・国人の親愛と云養子そと思へとも
一明菴入道の二男なれは・京都にて御許なし依て
信長土屋の娘を最愛しく男子二人あり伊豆千世
一丸と云是を信元の子となし武田の系図代その御
感書手次證文残らす相伝して既に鎌倉へ出仕し
一元服を加へ御字を申さんとせし処に信元中風の心
一地とて閉籠りけれは暫時は看病の為と云郎従
一披籠も奔走に暇なく伊豆千世丸元服の催しは諸
一止にけり然に信元の病遂に篤しくまた鎌倉の持
一氏朝臣の政事日々に荒々しく贔負偏頗の沙汰多
く天小名の心二致せさりしにより京都を先として
鎌倉を後にすへきなんど云議に起り何となき僉議
一に月日を虚くなしける内に京都将軍義持公の
時に
従一
位前内
一御年四十三歳にて應永卅五年
御忌長
元年
大臣
同
一月十八日・世を早くぜさ勢玉ひ・御家督おはしまざ
さりけれは時の管領畠山左衛門佐満家石清水に
一参籠し神前に於て前将軍家連枝の御名を鬮に
義持公同
一取けるに青蓮院の義円大僧正
腹の弟
闇に当
玉ふ即還俗ありて征夷大将軍に任せられ義教公
と申是なり角て永享元年四月七日信元遂に逝
去ある
鎌倉大冊子に信元に彦次郎と云男子ありて
一早世の由記したれとも系図に載されはとら
す・又信元・信濃守・濃守・
に任せし由を・しるせり
信長・実に伊豆千世丸の文
なりけれは衣和の舘に来て萬の事を後見せんとす
一又救・信元の家老・跡部駿河守・同上野介両人は・
一庵入道の時より當國の守護代にて、一族ひろく所従
一多く信元の旨にも背きゝ横逆のこと。度。重りつれ共
信元は心穏しく時も有へしと云て勘発を加えす
信長伊豆千世丸のために國務を執行ふ始に先跡
部は濫行を訂さんとせしに・跡部謀叛して国人を
一催す但甲斐国の兵士に輪宝一教・日べ殺とて両
穀あり
軍防令に兵士千人に満れは大穀一人少穀二人
を置と云・五百人以下には穀一人を置と也・夫
一教は五百人の帥を云此兵士の陣を・軍團と云甲斐
国は四郡にて軍團二處たり・たゝし其處を評にせす
輪宝一穀は元来跡部か隊なりけれは子細なく
一味同心す日一穀は。兼て輪宝一毅と。中あしく
ありしかは信長に馳加はりて私の仇を報はんとす
一跡部は勇気あまりありて智謀足さりけるにより
信長か在所木賊山へ押寄一戦に勝負を決せん
ことをはやる・信長は智勇兼備の良将なり謀を惟
幕の内に定め勝ことを千里の外に決する張子房
一が秘術は心に得たる上なれは防く手立も尋常
一に日々夜々の足軽軍互に勝員區々にして何時
果へし共・見えさりしに加藤入道梵玄。はつかなる
創を病く忽に早世す行年三十七歳とそ・信長・大
に力を落しなから。日へ穀計を従て打て出桂川に
て合戦しけるに信長打員・日一毅に大半打死した
りしにより玉越に信濃国へ立越・忍ひて京都へ馳
上りけり越後は跡部父子孫国務を専になし伊豆
一千世丸は有とも無か如くにそ持なしける信長鎌倉
へ参上して城部か始終を訴申たらんには持氏朝臣
御旗を下さるへきに京へ上りけるは・誤と傾申人
にも多かりて景部将軍義教公信長か歎申旨を聞
今浜松の東・神館村にあり
千
食まつ遠江国蒲庄
此邉・古の蒲の荘なりと云ふ
千
一貫の地を賜はり奉公衆の列に加えられたり持
一氏朝臣・此事を傳聞せられ・縦令信長・何と訴じ共
一其身関東祇侯の列を離れす一度は其由を仰下
され然後に召置れんとも其は御心に任らに任らるへし
卒尓に所領を賜ふ条不審最甚しと以外に怒ら
れける・是京鎌倉・の宿意と成て永享十一年二月・基
氏・氏満・満兼・持氏・四代九十一年の幕府・忽に荊蘇
露深く姑蘇茎の俤を現はしめなりけりと後ふそ思しら
れたり斯て後伊豆千世丸早世し武田の血脉絶たりと
て跡部心の儘に国中を行ふと云共鎌倉の政務正
しからねは是を征する力なく京都にては鎌倉の分
国とて更にいろはせ玉ふに及はす・信長京に安堵し
たりと閉・高野に遁世して在ける刑部少輔信重入道
光増坊道成・
信長
の兄
も京に出て信長と共に在由聞え
けれは是は禅秀と一味して・御敵の張本明庵入道
の嫡子なり討て参すへき旨信長へ仰下されしか
とも信長孝弟の心厚く・窃に西国にかこし置粮を
跡部父子の始末
一運て養育の力を尽しけるとなり
信長・信重ふたゝひ
一甲斐国に入て武田家中興の
由来は結城合戦の次に出す
一一書云・武因家乃弓新羅三郎より逸見源太
一迄は其詳なることを閉す武田太郎信義の頼朝
一郷に応して平家を討たるは院宣を奉し王事
に賢労せしなれは・所謂義兵なり伊豆前司信光
の義時の為に和田義盛を敗り承久の事に従ひ
たるは。魏相か。所謂応兵なり。陸奥守信武の足
一利家に和同して武家中興の運を開かれしは兵の
利運を審にする者にして、湯武の功に砕しと云
べし但惜・明菴入道誤て上杉禅秀か小恨を争ひ
憤悶に堪す愈兵を発し。身死し家破るゝに与力
一して無名の軍に敗死せしこと実に千古の遺憾
なりと云は至当なりや否信長は人子たるの
礼弓箭の理如斯にして後・龍其志を尽せりと
云へき也
兵家紀聞巻之三終
将軍
兵家紀聞
本文
兵家紀聞巻第四
一応永廿四年五月岩松合戦の事
岩松治部大輔満純入道天用の傳
由良新左衛門尉横瀬雅楽助の事
金井新左衛門尉の事舘林城長沼家陸奥
一発向の事檜枝股越舞木宮内丞
一上野新田荘下司職九條院判官代
一朱王御前公文机郷司職米價
一義貞卿法謚義宗朝臣法謚
一應永廿五年上総庁南一穀合戦の事
一上総長柄郡胎蔵寺刹那司命孔仁
一海上・本荘・総阪所等の氏族坂本城
一靭掛兵粮夜討の軍配
大田喜五民
兵家紀洲巻第四目録終
兵家紀聞巻之四
栗原信充編集
上杉禅秀の婿岩松洛部大輔入道天用・應永廿三年十
一月・上野国にて旗を揚・舘林の長尾但馬守と戦ひ・
十二月十八日岩松の家老金井新左衛門尉討死・同廿
四年五月十三日天用入道藤沢道場にて自殺・是を岩
松合戦と云
一岩松治部大輔備純入道天用は上杉右衛門佐氏憲
一入道禅秀か婿なりければ禅秀謀叛の時・一陣に
一馳加はり・気生頭六本松の軍に・上杉弾正少弼氏
定を宥め・佐介谷に討入・国清寺に火を掛・持氏朝
一臣の御座所まて。午痛く責寄たる故東武士の中
にも。名を得たる上野の猪武者を多く従たれは
一なるべし持氏朝臣駿河へ御動座ありける後録
倉には満陸持仲を主君と仰き万事は氏憲入道
一の心の侭に振舞ける・天用入道・此有様を見て備
一我家系を考ふるに清和天皇の苗裔・八幡太郎の
孫足利陣奥判官義康に天甲は十代の裔に当り
一持仲は十二代に当る抑四代相続の鎌倉殿・関東
誰かは・傾け申へき・然るを天用諸軍に先たちて
一何時も真先に進めとも薄手一つ・負ことなく・但三
一時はかりに持氏朝臣と管領憲基を攻破こと軍の功
にあらす是全持氏朝臣の政事了怠り酒色に溺れ
一文にあらす武にもあらす・気随に在を天道深く怒
一せ玉ひ我等か手を假て角は計らはせ玉ふ物ならん
一然は是天の與ふる時と云へし・何そ千代武勇の身
を以て天の棄たる十二代敗走の餘類に従はん
やと貧気なくに自立の志を興し窃に禅秀一味の
一約を変し上野の国へ立帰る此頃天用は上野國
一新田郡岩松郷に住たりけれは先近都の一族等
を駆催し同国邑楽都館林に上杉園基の披管に
て長尾但馬守房景か・居たるを追討すべしとて
一應永廿三年十一月山田都を打従へ多々良沼の西
へ向て押寄たり長尾これを聞軍勢を催促するに
大形は先達て憲基の催しに就て鎌倉へ馳加はり
一或は討れ或は手を資または駿河へ従ひつれは今
一舘林に残るは七十六歳になる長尾但馬守房景
を大将にて・同し程の古兵・または十六七の若武者
一計鏃を磨き楯を矧合戦の用意は取々なれとも
岩松ほとの勇将と軍して千に一も斬腹へしとは
一思もよらす・去とも気を屈せす熱を示し寄手遅し
一と待処に武蔵国の住人・由良新左衛門尉・横瀬雅
楽助・利根川を渡り・佐貫の邉に陣を取る岩
一半ならん時長尾を助て横箭射んと構たり長尾
房景これを見て武蔵の者共に先を掛られたらん
は長く弓箭の恥辱なるべし進めや若者共軍は
かくこそすれと云まゝに松の一村立たる木陰に一
一枚楯を突農松か勢を近々と引付十三束三伏の
箭よく鷹固めて切て放す魚鱗の如く並たる敵な
れは仇笑は更になく今朝より着暖たる鎧といひ
一明間計の老無の射子なりしかは中る程の矢に二人
一貫あしはあれとも裏をかゝぬは無りけり寄手は
一大勢なれとも長尾一人に防かれて進み得す色め
く処を房景きつと見て黒き馬の尺高く骨太く
たくましきす打乗真一文字了駈立れは・岩松忽了
敗軍し新田を差て引返す由良・横瀬・瀬・兼て待設た
ることなれは旗の手を下し時を作て岩松か勢を
一餘さしと追掛たり長尾ます〳〵勢を増土烟を揚
て手痛くこれを責天用入道敵を両傍に受今は
是まてなりいて最期の軍して面々の眼を楽ませ
敵の肝を潰さすへし其処にて見物せよと厳かけて
勝ほこつたる・長尾か勢へ切て入三騎を切伏六騎
一に手負せ朱を濯きたる如き天の眼を見張由良
一横瀬をもたと疾視汝等当家累代の家僕として
父祖の忠功を棄敵となる条悪とに疾し生捕て
一先祖の墓の前に土礫に掛よやと開き叫て切掛
る由良・横瀬は大勢なれば・岩松を駈悩し疲る処
一を取囲て討て捕んと陣を立れは岩松は駆散れしと
列を張孫呉か兵法・韓彭か機密互に得たる上な
れは・目醒くも亦花々し岩松か家老に金井新左衛
一門尉は些へたらて軍して在ける敵の中に声々
にそれこそ岩松よも天用入道を討捕と呼はるを聞
て。阿修羅王の荒たる如く駈来り・天用入道か乗た
る馬の三頭を打叩き・味方の陣へ追入今は意安
一し金井を討て高名にせよやと呼ては切・切ては叫
三十餘騎を敵となし七八十度迄戦ふと云とも金
一井は手に負す敵ゆ是を賞美して天晴武運に叶ひ
たる武士やと誉勧て其後は箭も放たす金井小商
一き岡に打上り扇抜出し快く開遣ひ気色はふたる処
一に誰放つとも白羽の矢流れ来て兜の真額より鉾
一付の板の外迄鉄白く射出したり重手なれば何
かは以て堪へきゝ真倒に仆伏横瀬か郎黨走寄首を
取んとしけるを雅樂助おし留て是程の勇士の勇士の首
を取と云ことやある只其儘に打棄をけやと下知し
つゝ由良も横瀬も引返す・其間に金井か即従・駈来
一り主の骸かき負て金井か館へ立歸り。時宗の翌
長楽寺万像菴
を請し葬送形の如く営けりとなり
の旧記に依て
詞を
天用入道は不思議の命助り新田へ引退き
修む
手負を療治し弓箭を繕ひ・猶軍兵を催促し同月
廿二日ふたゝひ・館林へ押寄・先度の恥辱を雪かんと
一息をも讀せす・攻たりけり抑此舘林の城と云は南
に禅長寺沼の深あり北に渡良瀬川の清きあり
一要害堅固の名城たる上長尾但馬守房景多年の
支度十分なりけれは岩松・何程責る共賊は少も弱
色なく・結句、由良・横瀬か加勢に寄子散々了敗北
して新田へも引返得す・行方しれす成にけり明
れは應永廿四年三月・岩松天用一類奥州白川辺
一に徘徊する由鎌倉へ聞えけれは不日に押寄追討
すへき旨を下野国の住人長沼淡路入道
淡路守
秀直の
嫡子義
の許へ御教書をなされたりしかは入道
秀なり
一一族即従地下人迄駈催して陸奥国へ発向せん
となしつるに嫡子五郎満光外邪の疾に依て漸
一延引してけるを心許なしとや思はれけん・同月廿
七日上杉憲基入道海印の許より速に馳向ひ・
治せしむへき由奉書を渡されたり淡路入道両
度の催促厳重なりけるに驚き旦は子息の病患
おこたり果て全く平愈して忽に出陣す先陣既
一に白川の関を打越・石川・岩瀬の郡に攻入・岩松か
所縁を尋求むると云とも更に便宜を探り得す
徒に数日を送るうち岩松会津舌川を催し檜枝
股の嶺を越・上野国利根郡笠科郷より赤城山を
一経て新田に立帰り先亡の余類を駆集その勢漸
一強大なりと後陣へ注進したりけれは長沼入道大
に驚き人に勲功を奪はれじと俄に先陣を呼返
一先長沼へ馬を入・直に岩松へ押寄んとす・長田
長沼
文書
皆川家記等
の意を采
偖も岩松天用入道は舘林の軍に打
一貞既に打死すへかりしを重代の家人数輩討死して
一ける際に漸落延伊達信夫の者共を憑く奥州へ
遁行會津若松の勇士を語らひけるに鎌倉より討
手の向ふと聞て今迄無二の味方と憑頼まれつ
る者皆落失残者はつかり三百余人に過す此勢許
舞木宮内丞範高
岩松天用入道
館林沼の辺
にてまいき
舞木々ないのどみ
舞木
宮内丞
天用入道を
生捕
にて鎌倉の討手を引受待戦んを叶ふへからす
一去は新田へ立歸り討手の後へ廻り遮て鎌倉へ
一押寄一戦の内に運を天に任せ勝負を決せんと
此路今猶険険嶮峻・大勢に
等檜枝股小瀬の山路を踰
て踰へきに非す小瀬
と云處に従一里餘の沼あり小瀬沼
上野国に立
と云・陸奥・下野・上野越後に堺となり
入・利根郡笠科郷・根入・花輪を過・桐生に出新田山
に上り旗を揚けれは禅秀興力の敗軍所々より
一馳集り其勢既に三四千人に及へり館林の長尾
一但馬守房景は先に岩松を追散てのち鎌倉へ上
り合戦の様を申さめとて首途せし留守の程の
事なりけれは岩松いよ〳〵恣に国中を追捕して
既に武州へや討て出る長沼淡路入道か陣をや
一襲ふと用意取々なる処へ・邑楽柳舞木の住人・官
一内丞範高駈向て合戦しけるに岩松は大勢なり
つれとも人心一致世頃舞木は小勢なれとも必
一死を志したりけれは一足に別な引しと互に恥
一しめて箭種画けれは打物に成て今日を限了戦
けるに岩松何とかしけん戦負て舞木か為に生
捕る大将忽に淮陰の辱を受残黨いかてか全かな
へきさしも猛威を振ひたりける岩松勢一時に敗
一走し上野国はまつ静謐て治りぬ舞木宮内蒸籠
高は岩松入道を具足して鎌倉へ馳登りけれは
一持氏朝臣大に喜はせ玉ひ・上杉弾正少弼氏定は
気生坂の輩に天用入道か為に深午を負終に藤
一沢道場に入て腹を切しなれは氏定か子供等は
父る敵と思ふらめされ共幼稚ものまたは女子な
れは力なし。然は藤沢道場に送り、入氏定か墓の
前にて、腹を切せよと定められ、五月十三日藤澤
鎌倉大草子には五
道場にて自害して失にけり
一月十三日龍口にて
首を刎られけりと見ゆれと御新田松蔭軒記に五
月十三日於藤沢道壌天用御生涯之事とあるに
羽斯て後上野國新田庄は鎌倉の御領となりて
ふ
山内の上杉か家老長尾両家の預とそ閉けり抑此
一法性寺関白藤原
新田庄と云は近衛院の皇后宮
忠通公の御女呈
子・久安六年四月・御年廿歳にて・入内久寿二年七
一月近衛院・崩御有しかは八月尼とならせ玉ひ・保元
元年皇后宮の宣旨ありて
の御封なりけれは其
御対たまはらせられし也
一御弟左衛門督藤原基実卿を以て領家となされ
たり但基実卿は時の關白忠通公の嫡子にて左
右衛門督に在せは内裏諸門の禁衛出入の礼儀を
一掌とら勢たまふ樞要の顕職にして出仕また暇なく
一御逝后の御領・新田荘・税物・賊役以下の雑事を所
務せらるべきにあらす然るに此新田郡に源義重
と云兵士あり父は足利式部大輔義国八幡殿の
三男なり母は上野介藤原敦基の女大学頭明衡
朝臣の孫女敦基康和の頃上野介たりし時義国
十四五歳に成玉ふを婿となし我新墾せし田地を
一譲り與えしを義重外孫なれは相承して新田太郎
と称し・其身累代武将の裔冑に生れ内外の庇蔭
厚かりけるにより新田郡多胡郡碓氷郡は大抵此
主の名田たり
大宝令の定めは男女みな口分に
一田地を受身死れは公に還し奉る
法なりけるに私田は沽もし・買もすることを免され
つれは家冨たる者は自然田宅を多く占得へき
道理なり但買得たる田宅の賊役は国司へ納る
なり然れとも私田には必何某か何田と云名あ
るか故に名田と云名田と云ふ
此主の家より上野守
多く持たるを大名と云ふ
一の庁に所当の租調庸を運上し、其余をは全く此
主の有となしつるなり今此新田郡を以て皇后
一宮の御領に充られては新田荘と号し也
公の御
領にて
は新田郡と云郡の事を執行ふを柳目と云和俗
になれは新田庄とき庶の事を執行ふを庄司と
云な
り
り
分去とも京より国隔り路這けれは荘司を補任せ
り
すは有へからす依て此主を以て新田御荘下司職と
なされしなりこれは保元二年三月八日のことなれは
東鑑に建仁二年正月十四日
義重四十餘の時なり
日庚申入道従五位下行大
炊助源朝臣義重卒年とあり事早々分脈り午六十
八歳と見ゆ・東鑑の記者の知さる年・何に依て六
十八歳と云にや・義重・宝に建仁二年六十八歳な
らは保延元年の生れにて保元二年は廿三歳な
り・但義重の弟・尼・利義・保元二年五月廿九日卅
一にて卒すと云は大治二年の生なり義更の生
玉ひし・保延元年より八年前に当る卒て尼の八年
後に生る理あらんや又義重の孫里見冠者義成
保元二年に生る廿三歳の人に孫のあるへき謂
なし是等に依て尊卑分脈の誤を考知へくなり
直に左衛門尉に補せられつれは新田左衛門尉と
称せらる
新田荘司補任状正木文書所載
従二左字一至二等字一長九寸五分
左衛門督は基實卿なり
一後に六條摂政贈太政大臣公
同
を
伊
明
一万
七
左
京
左衛門督家政所下上野国新田御庄官等
左衛門督家政所下
補任下司職
源義重
右人依属地主補任下司職如件
御庄官等宜承知依件用之敢不
可違失故下
保元二年三月八日業主宮内鎌菅野
四日
五
4
令前中務録山露
字画
大かた
縮臨す
別当散位三善朝日下五縮間す
花押は
二合の字
散位他朝臣二月
散位中原朝臣
大監物藤原朝臣二つ
散位藤原朝臣
散位中原朝臣
あれは
こゝに
略す
明法博士中原朝臣
明法博士中原朝臣の字長三寸四分
仁安三年三年三月十四日皇后宮院號號院院院號號
院と申しかは義重朝臣も院の判官代に補し玉ふ
皇后官と聞えさせ玉ふときは大夫あり
逃あり少進あり属あり。既に上らせ玉ふては別
一当・執事・年預・職人・恭人・非万人・判官代・
一主典代・北面雑色召吹等の品々あり
かゝりし後
一は九条院の判官代と称せられて此年六月廿日
新田荘の内・女塚江田上下・田中・大舘・糟河・小角・押
切・出の塚世良田三次・今居上下・平塚上下木崎長
一福寺・高尾・八木沼十四村を義重朝臣の息女来王
御前に譲らせらる是は義重朝臣の母の兄大監
物藤原周光
補任状列衞
の一人なり
の女の腹なり
義重朝臣
の本妻
一朱王御前後に足利遠江守義純の妻となると云
一義純は義重朝臣の弟足利義康の子義兼の長子
なり後に岩松遠江守と云天用入道の太祖たり
安元二年七月八日九條院崩御ありつれは新田
荘は元の如し新田郡となされて国司の所管と
成にけり、義重朝臣も院の判官代を止られ・大炊助
に任し従五位下に叙せらる治承四年五月足利又
太郎忠綱宇治川の先陣せし勲功の賞に新田荘を
一申賜はらんと望申せしも此荘の領家かくれさせ給
ひて後・別に給主のましまさぬか故と知へし義重
朝臣此際薙髪して新田入道上西と称せらる其
後いくほとなく・關東八箇國の公田荘園一同に
前右兵衛佐頼朝卿の沙汰たるへて由宣旨の有
しかは新田郡以下土西入道の名田も等しく安
一堵の御下文を出されつへし但何某新司職と唱
一九六六六
大炊助義重朝臣
御荘官等
一七升五合
一九条
新田庄の
濟物
同一六六一、一六一、一一二
公文
を凋進す
取調直す
公文机
}
一
新田庄公文
えしなり
加治郷司職補任状
正木文書所載
横
下武蔵国加治郷百姓等
十
同
□
定補卿司職事
新田入道殿
此行長
右人補任彼職如件百姓等此竹長
宜承知敢不可違失
枚下
□□□□□□□
候塀
治承五年十一月十一日
源朝といづ
竪一尺五分許
源朝臣は頼朝卿を云
一此花押鶴岡八幡宮及ひ高
野山金剛峯寺に伝はれる
頼朝卿の判とは異なれ共
新田入道殿と題されし
別人にてはあるへからす
にて尊崇他人に疎なるを知へし皇后宮の御領
の時は下司職と称し公の御領となりては郷司
爰に載たる文書柿
一職と云名目の沿革を考へし
一右長門守覚書にも
見
見
見建仁二年正月十四日・入道殿田寂の後所領の
ゆ
郷司職を分て嫡男伊豆守義範には山名御及ひ
一多胡緑野二郡の名田を譲り二男義俊には里見
一郷三男蔵人義兼には新田郡四男義朝臣には
得川郷と総領庶子の次第を定て各安堵の御下
文を給はりて互の子孫に相伝し鎌倉九代の将
軍に伺侯したりしかは栄枯はかはる〳〵同しから
ねとも一族年々に繁昌し門客日々に羣をなす
されは元弘三年相模入道崇鑑の印知として世
良田郷には冨人多し。兵糧料六万貫を五日の内
此頃の米価を
に沙汰すへしと課たりしも理なり
考ふるに神鳳
抄に・籾四十石当十貫文とあり。然れは十石は二
貫五百文なり六万貫は籾廿四万石の價なり但
此点の数升積九十寸を用ゆゆ分烹升の一升三合
九勺余に当る其廿四万石は今乃三十三万四千
五百六十石の籾にして米十六万七千二百八十
石アリ當る然る時は今中價十六万七千二百八十
両の金に換へしかくて元弘の頃の一万貫は大
抵今乃二万七千八百八十両許に相当することを
思へき
なり
然るに新田左中将義貞朝臣越前国坂井
なり
郡足羽に討死し
今越前長崎称念寺にて金龍寺
一贈従二位学阿弥陀仏真山良悟
と称し・七月二
嫡子越後守義顕同し国敦賀郡金
日法会あり
崎に自害し二男左兵衛佐義興武蔵国荏原郡矢
口に暴殞し三男左少将義宗おなし国・野老沢に
野老沢薬王寺に自性院義英源
隠れて毒を全し
田武蔵守義宗と・記
せし過去帳あり
一宋菴主應永二十年三月朔日新
脇屋刑部卿義助朝臣
義貞
の芽
は
伊豫國越智郡に物致し其嫡子式部大輔義治九
○州へ移りて後新田の嫡流ほとんと当国に跡を止
すたゞ岩松の一流義重朝臣息女の血脈を相承し
岩松遠江太郎政総新田下野守頼有の猪子と成
て新田と・名乗たるを以て岩松・治部大輔直国・尊
氏将軍に従ふて新田の総領分を安堵し鎌倉の
一基氏卿に晒近して武蔵国岩殿山の軍に功あり
しかは新田郡を平均に所務して天用に至れる迄
一康和の昔より応永の今に及ふて三百餘年傳来
したる・旧領の頽転せしを・歎惜して妹蘇臺の秋
の月・梁王苑の春の花・古きを忍ふ・種と成けらし
一新田三河守長純入道源慶新田
本領安堵事実は後に云へし
應永廿五年上総国庁南の一揆禅秀與力の罰を怖
れ塩生郡坂本城に籠り旗を揚ける由鎌倉へ閉え
しかは五月廿八日二色左近将監御旗を賜はりて発
向し不日に是を攻落せしか廿六年正月また蜂起す
依て今度は木戸内匠助に命して是を討しむ木戸
正月十九日鎌倉を発し三月遂に坂本鹹を抜一揆
を降参せしむ
此事・南朝紀傳に載て
鎌倉大草子に記さす
上総国は上杉中務少輔朝宗入道禅助か分国に
して数年恩顧厚かりける程に国人甲乙皆靡き
一従ひ殊に晩年に及ひ長柄郡長柄山胎蔵寺に隠
一遁し麋鹿の群に入漁樵を友とし關東管領の威
武を解て悉是吾子の恵を施さし遂に斯地に斯地に斯地に
烏を示されしかは国人は唯中疏に舟を流して滔
へき岸に遠かり暗夜了燭を消て不知山路に迷
ひ孤子の慈母を失ふ思ひをなしつる餘り三界
倶舎論に壮士・一弾指の順に
の間にあり
は刹那
六十五の刹那・ありといへり
一昨日は今日と立別れ過にし人を慕はるゝ餘慶は
其子に報ふに如しと禅助か嫡子右衛門佐氏憲に
一心を傾け忘を運ひ奉公まことに他事なかりける
により應永廿年三月六日由比潰の大鳥居の建
立の時も笠木柱木をは上総国望陀郡清澄の口
一清澄寺は・安房国長狭郡に
方木の杣に引しとや
あり元清澄と云は上総国
望陀郡なり・余住歳爰地了来
一り斯事を村翁の口碑に閉り
かはかりの志深きか
一故に氏憲入道か催促に従て鎌倉箱根処々の合
戦に軍よくして・關東関西の人の目を驚かし又
去年正月十日鎌倉雲の下の僧坊に於て氏憲入
道と共に死を潔くしく好を泉下に報しけるは
一昔唐漢王莽か臣下司命孔仁と云者・王莽か軍破
けるとき敵に降参せしか。また思返し吾聞人食を食ふ
者は其事に死すと云りと云劍を抜て自刺て死たる
には遥に勝と云へし上総国人氏憲入道の企を
善と知て與力せしにはあらねとも守護・披官の恩顧
多年の芳志忘れ難く命を涯の意を尽せしなり
今年坂本に籠りて旗を揚たる輩は去年討死せ
し者の一族にて名字を詳しく尋ぬれは伊北伊
一東平太重胤の二男・木内
一南庁北庁南の平氏・海上・
下総次郎胤朝乃子海上
又二郎胤方を以
て氏の祖とす
又次郎胤方
弥次郎胤泰
本荘七
の孫なり
郎成胤
海上胤
総改所越前守親秀
大田喜圓照寺
一鐘銘に応永十
一同黍の煙
八年辛卯上総国夷満郡伊保庶者禁裏御科所御
代官佐々木大膳大夫入道之通願王絵改所前違
一江守入道掌吉嫡子
○等を先として歳頃日比禅助
一越前守親秀とみゆ
を深く慕ひてし・地下人に至る迄・馳集けれは・
勢既に三千餘人に及ふ元来鎌倉の持氏朝臣を
怨みたるにもあらす又必軍に勝と云にもあらす
但弓箭の道と後世の名を惜はかりに斯企に及
べるなれとも鎌倉より一色左近将監天将を承はつ
て寄来る由聞えけれは去は方々の手分をせよや
とて藻原鷲栖長柄山・血木・潤井この口々へ・五百
三百引替。爰彼の林の繁み・谷の蔭へそ伏たりけれ
一是は鎌倉勢定めて金沢より富津の洲崎を漕運
り身か崎奈良輪の辺に船かけて推寄るならんと
一推量し切処〳〵に待受て敵を伐んと支度せり然
は結句坂本には墓々敷・箭の一筋も射行へき者は
籠られす・行歩も叶はぬ老武者か東西しらぬ幼稚の
者に枢や乳母か差副て。味方打負つと関ならは城
に火を掛・烟の中へ飛入・敵の手に懸らしと衰勢
一色
一色左近将監使者
坂本
城
を
降す
海上弥次郎胤泰
信元園
ばかりは猛けれと餘りに手薄く見えたりけり偖も
一色左近将監は金沢の野島か崎を出潮の順風に
一帆を揚く歸去津か崎を志し走せけるに本牧の
一澳を造る頃・風俄に吹替り・安房国・湖嵜・館山・河辺へ
着たりしかは・是より路を易て上総国周准郡神野山
寺に打上り小糸川を越て久留里より田渕月出の山
一道を夷満郡・大田喜まて・真筋違に駈通り小倅坂
一佐坪の在家に火を放・廰南へ斬掛る・坂本の城に
は迚も勝べき軍とは・かけても更に思はねと敵た
ちまち爰まて寄へしとは嚢にも知ぬことなれは以の
一外に周章し打寄〳〵如何せんと衆議まち〳〵なる処
へ・一色使者を立て籠城の者とも上杉禅助より以
来多年の芳賀忘れ難く・一旦弓箭の情に牽れた
なる儀ならは・守護を慕ふ・被管の志くも有ぬへき理
を鎌倉殿争か深く疾ませ玉ふへきなれは将来の忠
一勤を励むへき由の起請文を以て事を子細に申なは
一御免の上に本領・所帯相違あるへからす・但院季の世
乃習・三尺の創を提て天下を定つる・漢高祖の例
もあれは・運を天に任せて弓箭を取て見玉はん
との本意ならは力なし明朝即刻より推寄合戦を
一致し候へきなりと言葉に理を尽し・情を籠て謂
けれは城の本人海上弥次郎胤泰・出会て。御使の口
一状謹て承はり候実も年来守護披官の恩義すぐ
一に名臣主従の親愛に等しく旦は禅助か情深く
一憐み厚く従ひし昔の志かたさに禅秀か催促に
一従ひ・一旦の御敵に罷り成て。弓箭をは取て侯へ
一戦場の習処々の軍に壮年の子を討せ老たる身
の消かたき命長き哀あるひは兄を伐れし弟父
は親うたれて幼稚の子残たるなんどか。餘りの詮
方なさに一城に籠り一矢射て一所に兔に兎も角も
一ならはやとて・憚を顧みす・かゝる結構に及ひたる
一迄にて・争てか負気なく御旗に向ふて・軍をは・仕
り候へき・城をは・只今避わたし奉るへし幼稚の者
を助給ふへくは老朽たる身身身鼾を切ひひひ
とて郎使をは帰してけり一色此由を聞て。天晴
武士の義を重くし・末代迠の名を惜みて・尋常に
弓矢を取つる者ともを情なく何とて余所に見
すつべき・誰かある早く坂本に馳行彼等か自害
を止めて伴ひ来れと・下知しけれは一色か郎従とも
策を挙て坂本に走り付柵門の際に打寄高戯に
城巾の人は皆々御免侯そ疏忽に御自害有へからす
一と呼はりつれとも静まりかへつて音もせす餘り
同の不思議さに柵門を越て内に入・まつ海上か役所
に行てみれは・こはいかに・孫次郎胤泰・白き練貫の
一袷の濃紅となる迄・緋に染うつ伏になりて死居
たり其傍を見れは胤泰か妻と覚して六十許の
一嫗これも同しく白綾の袷に朽葉の袴衣て九寸
五分の刀を胸先に突立貫かれて死て死てあり一色か
一郎従これを見てあな無慙や此人にかゝることさせ
ましとて。来りしに。はや後れにしことこそ悔しけれ
去とて残の人々はいかに成つることやらんと・役所役
一所を打巡りて見てけれは心を合せて老たるもの
一共は一人も残らす皆自害して失たりけり二色左
一近将監は城の安否・心もとなく思はれけれは馳来
て此体を見・涙を浮へ・如何なれは此者共かく迄
禅助父子を慕ふらめ・抑禅助か・国務の程こそゝゆ
かしけれ・国をも知行し・披管等を扶持せん者は此人
を学ふへきなれ日記はなきかゝ尋て見にとて按
一求つれは・正税・官物・所濟の文書数通を得たり・其
一法民に取こと薄くして下へ施厚く已に倹約にして
一人に寛裕なりけれはかくてこそ伊保伊南庁南庁
北の者とも嬰児の父母を慕ふか如く思へることも
一此事・長柄山胎蔵寺乃旧記・
理なりとは・しられけれ
及ひ長南驛長某の家記す
一見ゆ鎌倉大冊子并に南の
朝紀傳の闕を補ふへし
一色は一戦にも及はす
一坂本の減を落し自害して潔く死たる者の首を
一取へきに非とて・交名はかりを鎌倉へ注進し・かつは
此等か子孫・幼稚の者の所帯を安堵して・当守護へ
一忠勤すへき由の御教書を下さるへしと申せしに録
一倉の持氏朝臣・以の外に怒つよく・上総国の兵士等は
一王杉禅助・禅秀か恩の厚に厥まて懐きゝ去年以来の
不義共を・寛宥せられたる鎌倉の徳をは更に報はん
と思も掛す剰謀叛を企・城を構討手を引受・力疲
つて為方なく降を乞たる者ともを何とて本領安堵
させ忠義の者と一列に召仕はるへきそや是は一色
一が誤と左近将監を勘当ありて即出仕を止めらる
上総国の兵士等は一色か左右を今やと待居たり
しに・待期は過て音もせすこれは如何にと不審熊
と飛脚を鎌倉に登せ事の由を尋ぬれは。一色は御
勘当とて・大門・水門に鞠掛て・他の出入を許されず
徒然草に・勅勘の所に鞠掛る作法・今は絶て知人
なしと見ゆ・鞠は看督長の鞠とて箭を盛器なり
者督長は検非違使の属にて六十六人あり勅勘
の家へ・看督長・行て門を閉出入を禁すへきに・病
を掛て行たるか
一飛脚走歸て此躰を告たりしかは
如くなすを云
如何なることにて一色は御勘當そと聞つると・
とも更に覚束な・兎角する程に上総国の兵士等
の所帯安堵を挙し申たる誤とたしかに聞えけれは
偖は遁るましき我々か身なり一処懸命の本領に
安堵せすは何とて世には立ましるへき道路に疲
て糧を乞・門戸に袖を広けて恥を見んより武士の
なれの果とて・坂本の城に打上り鎌倉よりの打
一手を引請花そしく軍して力昼は城に火を掛・焔の
中に飛入て自害をせよや人々互に諫め勇め勇め勇め勇められ
一我も〳〵と・打寄うちより夜を日に続て柵を振・矢倉
を掻上・兵糧を運ひ入・水槽・湯槽・塩笥。薪に至る迄
心を尽して支度せり
○兵糧の積りを考ふる類聚国史に大同五年鎮
兵三千八百人に五十余万束の稲を給ふと見ゆ
五十万束の穀は五万石にして蕎米は二万五千
石あるへし
一今京升にて二萬〇九百四十五
一十四石〇二升許に当る
三千八百人に
一分ては一人六石五斗七升八合九勺許に充る一日は
今京升にて一升五
一升八合二勺七撮許と知るゝ
合二勺許に充る
また
三代宝録元慶五年の條に鎮兵には毎日了一升六
合兵士には八合を給すと見ゆ応永の頃は宣旨針
一升を以て兵士一日の食とする由吉野実城寺記に
但宣旨
一合兵粮料七石八斗
升定
卅九人
廿日
云々応永年と
分
あるにて知し
宣旨升は・今京升七合
宣旨升は元
七勺余を受ると云
慶の升の八合入なり・甲斐の武田の家にて一
盃旅籠と云は兵士一日の粮を云其火方四寸四分
一盃はた
一八斃・深二寸四分・京升七合四勺六撮を受
こゝを又
宣旨と
も云
是にて兵粮の定を考知へし
年分一人の兵
一粮・今升にて二
石七斗七升余に光る・又按に・今の扶持方了一
人半扶持と云はこの兵粮料より出し法には
信州園
越前守親秀
潤井土口大将
越前
前
守
親秀
長柄
陣
夜討
を
議
す
皿木陣大将
あらさ
るか
るか
然る時は千人一日の兵粮今升七石五斗なり
百日に七百五十石を儲ふへし
坂本の要害を城に取立て長南長北伊南・伊北また
一御敵になりぬるよし鎌倉へ聞えけれは一色弥面目
を失ひ・再度の討手を所望申といえとも持氏朝臣許
玉はす・応永廿六年正月十九日木戸内匠助孝庸を
大将として鎌倉を首途し・武蔵国へ打越・江戸駿河
守康重
一江戸遠江守長門・乃子
同次郎高重の長子
瀧野川長門守豊明
葛西清重
同弟に・板橋次郎豊清以下・豊島・志村を
十代の孫
一催して・隅田・太井・利根川を打渡し下総国に・入は
一千葉介満胤馬加陸奥守康胤
満胤の
庶長子
千葉修理大夫
立満胤
兼胤
一満胤の嫡子・母は
一上杉禅秀の妹也
原次郎氏盈
満胤
等を始として三
の弟
一千餘騎にて馳加はる・殊了満胤は禅秀入道か近
親なる上・御敵と成て箭を放ちたる罪科軽からす
と云とも様々怠状を奉り御詫申せしにより・父祖の
舊功を思食れ・御免ありつる・始なれは・別の勲功を
一立んと先陣を申賜はり潤井土皿木了陣を張木戸
は浜野・八幡より。長柄山に向て陣を固くし敵戦を
一挑とも出会す・但遠々と打囲み敵の気を労かさん
と構たり坂本の者ともは鎌倉勢を引受て・おもふ
程・箪して切死せんと計りしに木戸も千葉も孫呉
一か興法張良陳平か籌策を胸に秘したる上なれは
一益々塁を堅く守りて容易く箭一つをも射させさ
りしかは坂本の城兵中是には結句退屈してそ
一見えたりける・此儘にて今六七日も過なは籠城の
兵士次第に落失なん・然あらんには・そゝろなる
武者の手に生捕れて憂目を見んことこそ哀しけれ
いさや寄手の陣へ・一夜討して此頃の鬱気を散
せはやとて総政所越前守親前守親秀を大将となし三
一千余人を四手に分ち七百五十人を残して城を
一守らせ・七百五十人をは皿木へ向て十五組に組合
五十人づゝ抜々に二町三町三町引分て・酉の刻より立
たり又七百五十人をは三十組に振分て廿五人
づゝ中台上郷より潤井戸に廻り寄手の後へ向て
出張す残る七百五十人は・親秀みつから臥て木戸
内匠助か本陣へ押寄直に火を掛畑の中より切
て入寄手は大勢にして陣々の堺々の柵固く還
て救ふに便あしけれは・夜討の兵勝に乗切ては
火を放ち・攻ては打破り前に名衆は後に鬨を合
一足を一処に止されは勢の多少も見え分す是を
討んと・狼狽したく同士軍をそ・仕たりけるかゝる処
に・血木の陣屋に火を掛て彼処にも軍ありと聞
けれは木戸敵を左右に受て以の外に周章す・然
に親秀今は能ころますは人数を引挙よと自螺を
吹立て静に人数を算ふるに七百五十人二人も討れす
手負は三十餘人とかや但寄手は二百余人そ討れ
一けり三方に分て寄たる夜討の軍勢長南に集り
一討死手負の着到して夜の晨朝と・明る頃・坂本の
一城に歸りけり抑親秀か人數を備し理を聞て三
一手に鬮を取て戦の前後を定めけるに親秀一番
一の戦の鬮に中りけれは即木戸か陣に向て戦を
はしむ・偖親秀かゝ軍兵を引挙んため皿木の陣に
二番の戦を挑皿木の兵を引纏はんとて潤井土の
一兵三番の戦を持たるなりとそ主者の兵を用ゆる
一敗るへからざるを要とし◦覇者の兵を用ゆる必勝
を期す必勝は簡にして直なるにありと宋の蘇東
一救か管仲の兵法を論せしとかゝる類を云ならん諸
一も木戸内匠助は・親秀か一時の謀に破られ・軍兵若干
一討れけるを云甲斐なしなんと云者ありと聞去は
坂本へ押寄唯一責に攻落し先度の恥辱を愛か
はやと種〻の攻道具を支度し・まづ長南に陣を
一取千葉介満胤は藻原鷲栖に陣を張て。搦手へぞ
向ひける・木戸・謀を運らし坂本の城に籠る兵士
最前に降参したらん者は・所帯を安堵し・猶事の
様に依て殊なる抽賞あるへき由を記し奥に起
一請文の詞を書載四方乃辻々へ板札をそ建たり
ける城中の兵士是を見て去年一色か申むねに
一従て海上一家自害して自余の者は所帯を安堵
すへき由再応の約束を定しに一色却て御不審を
一蒙り今日の事に及へるなり所詮一色を御免なき
ほとは・如何なる神文罸文を出させせ玉ふとも坂本
一一穀は降参すましき由返書を札の傍にそ立傍
たり木戸是を見て鎌倉へ使者を参らせ事の由
を申せしかは持氏朝臣・実もとや思食たりけん・即
一色を御免ありて上総の一穀か本領の安堵の
御判を下されけれは・一色是を捧て再度・上総へ
一馳下り木戸か陣所に行向ひやかて以前の札に
一色木戸・の両判に鎌倉の御教書の寫をそへて
一立しかは・三月上旬に至て・坂本の兵士・追々了降
参して今は越前守親秀か手の者計残り止りて
二百餘人に過きりけり爰に両雄は必争ふ・一色
一左近将監と。木戸内匠助と兼て遺恨は無りしかとも
一坂本一穀降参のことより互に聊確執して遂に胡越の
一隔心し両家の郎従・偏執募り既に干戈を営中に
一動かすべかりしを千葉介。老練の古武者なりつれは
一是を和與して無事を取結ひ・両家怨讎の念を飜し
旧好を講ると云とも流石に心に稗かぬる題目在し
にや坂本の者・降参治定の上は・在陣詮なしとて。一色
鎌倉へ引返せは千葉介は千葉へ歸りけり長南
の陣は木戸内匠助に江戸豊島の一族計なりける
一処へ鎌倉より飛脚来て木戸か老母の尼公の在
一けるか十死一生の憑なしと告けれは木戸元来孝
心厚きか故取物も取あえす。鎌倉へ馳返るかゝりし
後は長南の陣次第々に退陣して今は坂本を攻
へきことに為さりけるによいも総改所越前守親秀心の
一侭に・玳邉を押領し・坂本を夷満郡に引移し・大田
喜と名付けるとそ
大田喜・圓照寺の旧伝・
抑この
の意を撮て編をなす
長南陣の潰しは持氏朝臣の關東を失はるへき兆
と云へし・其故は遠人服せされは文徳を修して是を
来すと云本文あり且夫上総国は関東邦城の内にして
一所謂蕭墻の間と云へし其叛くやこれを討へく其服
するや是を綏して疑ふへからす然るを禅秀を疾む
一か故に服するを討して赦さす・豈上総の国人を挙
て皆誅へけんや其兵強く竟こと能はさるるに至て是を
一赦す其感武の柄を失ふと云へき也柄は假へからす
一国の利権なり是小事と云とも持氏朝臣失錯の大な
る処有土の若子以て塵と為へし又親秀はしめは城
に拠て兵を興し一度職て是に充既了赦に遇て
鎌倉に至るに及はす討使棄去て勤せす遂に鄰
一保を統御して制拠の凍勝其廣となる・雖然其徳
其一身を蔽ふ迄にして民を廉きに廸て能天命を
一拾致こと能はす・數年ならさるに身亡し家減ひ・但一
箇の洪鐘に姓名を不朽にするのみ子孫丘民
八家
を井
一と云四井を邑と云卅二家なり
を保つてなきは
四色を立と云百廿八歳なり
慨歎に勝す
兵家紀聞巻第四終
狩川
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
二十一日
五
無家紀閲
本文
兵家紀聞巻第五目録
一応永廿九年閏十月三日佐竹上総入道合戦事
一佐竹秀義館多気大掾豊田氏
一小栗氏足利義国佐竹昌義合戦
袁日徳日金砂城合戦奥七郡地頭職
佐竹旗扇を付してと検校職藤原通窓
養父高階経敏の姓に改めさること大江廣元
一養父中原廣季の姓を改めしこと諸大夫家
高家侍品式乾門院永嘉門院
比企谷比企尼比企能員比企谷
一幡君
合戦
讃岐局蛇苦止大明神法華堂
上杉憲宗
日行上人上杉憲宗蛇形本尊
一佐竹十三騎
一佐竹十三騎継嗣令
兵家紀聞巻第五目録終
兵家紀聞巻第五
栗原信充編集
応永廿九年閏十月三日佐竹上総入道常源謀叛して比企
谷法華堂に楯籠る持氏卿上杉淡路守憲宗を大将と
なし是を討しむ帝源戦まけて自害す其霊魂・厲鬼
となり祟をなしつる問一社の神に祭ると云
一鎌倉名越の北・比企谷・妙本寺の東の山に立本晋
一の扇の如くなる山の疇ありき其下を佐竹四郎秀
一義の館なりと云佐竹四郎秀義は新羅三郎義光
の玄孫なり・始新羅三郎義光の長子・刑部太郎義
なり
なり
一義光刑部丞たりし時に
常陸国住人馬場次郎平清
業
生れし故・刑部太郎と云
翰の女を妻として勇子一人あり生長て佐竹太郎
常陸大掾
一昌義と云母方祖父清転は常陸大掾繁盛
国香二男
平貞蔵
歳乃四男多気平大夫維転の長子多気大橋
の第
為転
為聘の母は越前守大中臣岡良
乃男上総介
一の女にて即伊勢大輔の子なり
一繁輔の次男なり清転の兄を常陸権守致転と云
一久慈郡多気館に住しけれは多気権守と称しけり
男子一人・女子一人を持り・男子は常陸介直転女子
は伊豫守頼義朝臣に思はれて女子一人を産退女
子後に汝東に太郎成衡か妻となれり清韓の弟
政騎は豊田に住し豊田荒四郎と称す其弟重義
は洲阿郡小栗御厨八田館に住しけれは小栗五郎と
称す清翰・鹿島・行方・茨城等数郡の内数千町を領し
一其勢国中を靡し昌羲六孫王六代の後胤として高馬
の芸等倫に超たりしかは常陸國奥七郡の押領使
にみ補せられき然れは久慈郡佐竹の郷に館造
して住けるを以て世には佐竹殿と称しけり
常陸
ハ・新
治と久慈と二軍団にて押領使
昌義戸村に三郎
二人を置れし由別了考證あり
藤原能通か女を妻となし男子二人を低く兄は
太郎忠義と云弟は太田四郎隆義と云これは昌
義勅勘の事ありて引籠居たりける
□□□□□□□
家の三男義国乳母子久田河内前司家助
家助の父
は助衡と
は助衡と
一と云・貞盛
の曽源
つと共下野国足利の大宮大夫藤原俊
一綱か在所に下向し軍勢を催ふし佐竹へ押寄んと
する由聞えけるにより昌義おもふやう官務ある
一者の其職事に依て勅勘を蒙ること尋常のためし
なるに羲国の結構こみ心得られぬ但弓箭とる身
なり敵寄ると聞て軍の支度なさゝるも臆するに
似て世の聞えも後目たし妻子ともは所縁に就て
一暫く立忍ふへしとて昌義佐竹に矢倉を掻揚ふ
をほり菱を植合戦の用意を精しくなせば妻は
太田の里に移ろひ世の静まるほとを待ける間に
誕生ありしかはやかて太田の四郎とは称せしなり
家譜・戸村家系
一然るに昌義か勅勘免て路広く成
の意を撮鈔す
しかは足利庄へ行向ひ互に意趣を語て遺恨忽て
氷釈し干戈無為に属して即武蔵国崎西庄及ひ
足利庄内なる佐竹か当知行と常陸国なる足利か
領知と得替ありて両家水魚の交を篤し隣境匡
救の実をなせり
隆義元永元年戊戌歳に生ると
一系図了見ゆ然れは此事も此頃
なるにや陸義常陸介たる由流布佐
竹系図に記せ共疑あれは是を闕
隆義宇都宮
朝綱の妹に具して男子四人あり長子太郎秀義
二男義茂・三男季義四男義清と云・治承四年前右
兵衛佐頼朝卿院宣を奏し義兵を揚られ関東の
一族門業重代の家人を催ふされけるに隆義身
清和天皇十代の皇胤たること頼朝と同し齢既に
頼朝卿は
六十三歳源氏の古老なりに
三十三歳
尋常の兵士
に准ふべからす若同姓の好を以て合力の義を結
はんとならは佐殿親参向あるべき条勿論かと常
陸七郡の勢を頼て頗傍若無人なりけれは十月女
七日隆義父子を追討のため頼朝卿相模国松田
御亭
足柄上郡
松田村
より常陸国へ進発あり但廿七日は
松田村
一御衰日たるの間・御首途御延引あるへきかと申人
一有と云とも去四月廿七日
壬申
四
高倉宮の令旨到着
仍て東国を領掌し玉ふの間・日次の沙汰に及へから
す結句如此ことに於ては廿七日を用ひらるへき由
定られき
衰日は今云徳日なり但今用ゆる處は
一歳庚申の日二歳卯酉乃日三歳子午
乃日四歳辰戌乃日五歳六歳丑未日七歳卯酉の
十八歳また寅申の日と旋転す掌申の日と流す・掌中
も又是と同し拾芥抄の説は子午年の生は五未
丑未年の生は子午と見ゆ東鑑の説は干支に拘
からす日次を用ふ・日次を用ふ一定
の本説なきこと知へし
十一月頼朝卿常陸国府
茨城郡に打入玉ふと云とに佐竹は当国の名家悲
一も一門の貴族たり楚忽の儀定めて他日の後悔
たらんかと千葉介常胤上総介廣常三浦義陰土肥
實平以下宿老の輩を招て群議を凝されけるに
上総推介廣常は佐竹四郎隆義の婿なれば・先廣
常を以て其内存を尋問るへきとの議に就て上総
介を佐竹る館に遣さる爰了佐竹太郎義政は佐
一殿の御方に参上すへき由を申と云々中冠者秀義
日頃義政と中あしかりける上父の四郎隆義年家
の方に在ければ参上すへからさる由申切て同国久
慈郡金砂の城に楯籠る太郎義政は広常に譲引
せられ頼朝卿の本陣に参向せんとて大矢橋の辺
迄来りけるとき義政の家人等を外に退け義政一
人橋を半渡る処へ。広常行向ふてこれを誅せり其
頼朝卿は残
業甚すみやかなりとて人以て感賞す
恩にして恩
親なし泰政の降参真実了非とも秀義に従て城
に籠る、無猶多し義政を宥して是を招かるへき
に但其怒を散すへき為に辟降を殺し籠城の衣
機を激せしむ・威式餘りありて思慮遠いらす・自
なるかな其作の
一其後下河辺庄司行平同四郎政義
久しいらさること
土肥二郎宝平和田太郎義盤土屋三郎宗遠作之
木太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷次郎直賢平山武者
所季重以下の壮士数千の孫兵を率て金砂山の
一麓へ押寄城の躰を望見るに高山の巓に依て城
槨とし石弩を張て九曲の路に備たれは味方の陣
こと佐竹の壁とたとへは天地の隔りありあり敵の射矢
は雨の降か如く下りて味方の鎧に立てと枯野の
一尾花に髣弗り御方の射矢は山岳の上に及難し
かくては徒に日を費すと云とも落城の期・計り
知へからす寄手頗難義に及ふ処に上総介廣常又
秀義か叔父佐竹蔵人義弘か許に行向て秀義を
一討て其跡を領掌すへき由を勧む義弘元来強欲に
右幕下頼朝卿殺仇竹義政
上総介広五十一
一
佐竹太郎義改
信非国
して思慮浅かりしかは急に広常了合体しかねて
城の案内は知たり広常を伴ふて金砂山の後へ
一廻り思もよらぬ城の搦手へ打寄時の声を揚たり
けれは秀義今は防戦の術を失ひ・跡を暗まして落
一行けり・廣常いよ〳〵力を得息をも継せす・攻戦ひ・障
一に城に火を懸けれは金砂山の城は偖落にけり
佐竹蔵人義弘は所帯を安堵して武衛の門容に
列すと云とも冠者秀義か所領常陸国奥七郡と
太田糟田・酒出等の地頭職を収ムせられ勲功の
軍士等か新恩の地となされけるこそ憂悒けれ共
茨城
多賀
越多賀西・久慈恵・久慈西・那珂東・那珂西を奥七郡
十月十五十五万石余の地とその地とそこれ其地に定れる組
調庸を運上して餘は皆秀義
の有なり・其冨饒推はかるへし
然るに秀義は多賀郡
花園の山に隠れて時を待たりけるに文治五年七月
一頼朝卿奥州の泰衡を征伐のため鎌倉を打立せられ
一下野国宇都宮に着玉ふ時秀義常陸国より打て出
御跡を追て参加しけるに・佐竹か指たる旗魚文の
白旗にして頼朝卿の御旗と同しかりけるを以て
月を出せし扇を賜り旗の上に付御供に俟し奥州
一処々の軍に忠ありけれは元の如く奥七郡の地を
還し付られ再度佐竹に立歸る去は建久元年十一
月七日頼朝卿上洛の時先陣の隨兵に列し第廿
八番に武田太郎
信義の
孫朝信
一信義の弟
遠江四郎
但衣義定の子
一義定の子
佐竹
別当とて于舎人童に髪あけて勢行膝勢膝麻を征箭
差せ郎等に・腹巻魂・行縢着を張替の弓持せ主従
三騎て供奉しけり其後秀義鎌倉に出仕して此
名越に館作りて住つるなり秀義の妻は宇都宮
検校
宇都宮神領の検校職なり。軍防令・峰の長の
撿校・信濃源氏・芳美撿校大夫家状の類と知
べ
屋
三郎左衛門尉朝綱の女にして八田右衛門尉知
家の姪なれは右幕下にも親しく思食つらむ。
知
嫁
は左馬頭義
朝の子なり
また朝綱の婚二人あり一人は小山
下野大掾政光の妻にて朝政朝光の母なり一人
は小山田別当有重の妻にて稲毛三郎重成の母
一なり重成の妻は頼朝卿の御台所の妙なり然間
内戚外歳に就て鎌倉には重き家とそ聞えける
秀義嘉禄元年十二月十八日行年七十二歳にして
卒す嫡子は太郎義繁文治二年に生る
文秀義三
十三歳の
時な
り
一右兵衛尉の労に依て従五位下に叙し常陸
一介となり建長四年二月廿五日行年六十七歳に
して卒す・次男は次郎義茂美濃国南酒出に住し
けれは南酒出次郎と称す三男季茂も同国北酒
出に住つれは北酒出三郎と云。是は美濃佐竹の
祖なり義繁の長子長義常陸次郎と云承元元年
に生れ
父義繁世
三歳の時
文永九年七月廿六日行年六十
六歳にして卒す次男は義真常陸国那珂郡額田
に住す・額田三郎と称す長義の嫡子義胤常陸孫次
郎と云暦仁元年に生れ
父長義丹
二歳の時
正応二年四月
廿二日行年五十二歳にて卒す義胤の長子行義
文義刑女
一常陸彦次郎と云文永二年に生れ
八歳乃時
徳治
二年七月十二日・行年四十三歳にて卒す・行義の
文行義廿
一長子貞義弘安八年に生る
一歳乃時
母は二階堂
下総守頼綱の女
頼綱は伊豫守行綱の子なり従
五位下に叙し左衛門尉たり
貞義従五位下に叙し遠江守に任し。上総介に遷
る相模守高時と共に入道して法名は崑山道源
と云
時に四
元弘建武の頃は足利尊氏卿に付て
十二歳
一所々の合戦に子息を討せ・郎従を殺し勲労抜麁
なりしかは尊氏卿に賞翫他了殊に新補の所知多
加えられ関東の杜石と憑れけり然して入道文和
元年九月十日行年六十八歳にて卒す子息餘多
一本に義
ありける中に嫡子太郎義厚も
は海上孫
篤に作る
次郎胤泰
海上備中守
鳳景の子
の女の順なり応長元年に
生れ
文貞義廿
七歳の時
従五位下刑部大輔まり右馬権頭
に遷り・康安二年正月十一日・行年五十二歳にて
卒す次男は義春小瀬常陸介と云三男は師義山
是常源の
一之入掃部介後に刑部大輔と云一
祖なり
四男は
一某早世頃立男は五郎義直武蔵国鶴見合戦に討
死す六男は六郎義冬・常陸国久慈西郡に於て楠
正成術の代官と合戦して討死す義厚の長子義信
貞和二年に生れ左近大夫将監に任し康應元年
●七月十四日・行年四十四歳にて卒す義信の長子
一義熟貞治四年に生れ右馬頭に任す康応元年廿
五歳にて家を嗣鎌倉氏満満兼両代の際所当の
軍務怠慢なく応永十四年九月廿一日・行年四十三
歳にて卒す・然るに蔵盛女子のみありて男子な
かりけれは・鎌倉管領上杉安房守憲定の次男・龍
一保丸とて八歳になりけるを養て女子に配せ家
一本に
一督となし古京大夫義憲と云後て義仁
は義人
と
一更む爰に佐竹上総介義真入道常源は上総介貞
義の三男山之入刑部大夫師義五代行家督を續
と云共実は左近大夫将監義信の次男にて右馬
一頭義盛の弟なり義盛後なしと云はゝ義真こそ入
道の身なれ子息刑部大輔義勝を以て壻となし
義盛の遺蹟を相続せんて何の子細か有へき好
また義勝を用ひられすとも小場
義篤の二男小場
大炊助義躬の孫
石塚
一義篤の三男石塚
をほやま
大山
義篤の四男大山
小瀬
三郎宗義の孫
四郎義孝の孫へ
小瀬常陸介
一義春の孫
長倉
貞義の弟長倉
大内
三郎義綱の孫
弟天
義綱の弟大
内奥次郎義
高の手縄
義高の弟平
手縄
一縄五郎の孫
高崎
中条
手縄五郎の弟巾
条六郎貞宗の孫
馬淵
貞宗の弟馬側に
一等の家々より相続せんに誰か
次郎景義の孫
は否と云ものあらん是等の一族同姓を開て他
一門の上杉の子を養ふことこそ心得られね昔長門
守高階経敏文章生藤原実兼の子藤原通憲を巻
ふて子となし近江守高階重仲の女に配せたれは
高階通憲と姓を改てき然るに通憲の子息参識
俊憲少納言貞憲権中納言成範等みな本姓藤原
に改き後には通窓も本姓に復ぬ又掃部頭中原
一廣季式部大輔大江維光乃子大江廣元を養ふて
子となしけるに建保四年四月七日勅裁を申請て
本姓に復しぬ先規既にかくの如し然らは義仁後
に本姓藤原に復へしたとひ義仁一代源氏を称
すると御子孫に至ては藤原氏たらんて勿論か
然は清和天皇十九代乃皇脈是に断絶して天嶽
冠廿四世の血統に歸すること歎きても猶餘りありあり
職原抄に六
一抑当家は朝家諸大夫の名家にして
条修理大夫
一顕季の説をよひ源平西家武士の中に頼義義家
乃後胤正盛忠濫等乃餘流諸大夫名家の一列也
と見
ゆ
見殊に右大将頼朝卿より爾降将軍一門の高
藻平盛衰記東国兵馬揃の条に大名小名
家たり
一煮は高家も面々に其用意ありと見ゆる
一上杉と云は今こそ関東管領とて人みな其下風
仙台
に靡くなれ彼家の先祖式部大輔盛憲と云しは
宇治左大臣
頼長
家に伺復して保元の乱の時佐
□□□□□□□
渡国へ・流されたりけるか二条院の御時に呂返
され院中に召仕はれて昇殿をは許たれとも侍
佐竹一族家督評議
佐竹治部少輔
郎等
□□□□
佐竹上総介入道
ウォートング
}
一同職員抄職原抄に五位六位の侍と云は諸
品をは免れす
大夫の家に召仕侍のことと見ゆる
その子出羽守清房は承久の乱に隠岐の御所に
後高倉院の皇女
一仕奉りその子重房は式乾門院
一初は・斎宮・後は四・
一条院の准母として
院号蒙らせ玉ふ
の蔵人たりその子頼重は永
嘉門院
是後嵯峨院の御孫中務
後嵯峨院の御孫中務
の蔵人たり院宮な
一卿宗尊親王の御息女
一むとの蔵人と云非蔵人と云は然重代の家を択
にあらす諸筆の系なき者もなるそかし其頼重
より最仁は五代の孫と覚えたり何とて兄義盛
の嫡子として我等か家の総領とは仰へき義仁押
て此館へ入んと云はいへ一箭射て運を天に任て
一振舞や人々と一味の門葉催促して名越の館の
北の嶺を打越比企谷の法華堂に楯籠る此比企
谷と云は鎌倉右大将頼朝卿の乳母比企尼の宅
地なるを以て名とせり比企尼と云は武蔵国比
企郡少領
職員令大郡に大領一人少領一人所部
を撫養し郡領を撿察することを掌ると
云掃部允遠宗妻なり女子三人を持り一人は二
条院に仕て丹後内侍と云藤九郎盛長の妻とし
て頼朝卿に伊豆の配所に給仕せり一人は河越
一太郎重頼の妻にて夏冬の御衣を調進せり一人
は伊藤祐清の妻にて朝夕の臺盤を取任なへり
去は永暦元年より治承四年まて廿一年の間此
三人の女母か庭訓に依て夫と共了千辛万苦の
志を竭したる昔の忠に報せられんとの意にて
分内広く経営し桟敷山に冨士嶺を詠め琴引の
一松風由比の浦浪すへて乳母の老を養ふ縁にと
一深き情を籠られき後には尼の甥なりける判官
一能員に伝はりけり能員去由緒の家を続しかは
寿永元年八月十二日頼朝卿の若君誕生まし〳〵
ける時。能員御乳母夫たり此若君後に征夷大将
一軍左衛門督頼家卿是なり・能員の女頼家卿に仕
或は若狭
て讃岐局と云
即頼家卿の嫡男一幡君
局と云
及ひ姫君一所の母なり然に建仁三年七月頼家
卿病危急の間関西三十八箇国の地頭職を舎弟
千幡沼に関東二十八箇国の地頭并に総守総守護
を長子一幡君に譲補ありけるを能員・諫申けるは
家督の外に地頭織を分らるゝこと感罹二て競ひ
挑争ふ者濫觴と成へし路静謐の御謀をあらす
旦内々北條時政隠謀を企候由永はりぬ然らは世
間忽に乱なんとひと女房に就て申けるを頼家
一郷聞食・大に驚き玉ひ・即能員を病床了招いて談
一合ありける時虎御台所
頼朝卿御台所政子此時
四十七歳頼家郷廿二歳
時政六
障子を隔て関食潜に時政の許へ告られ
十六歳
しかは建仁三年九月二日時政の名越亭へ能員
を招てこれを殺す次に能員か館に残れる子息
一等を誅戮すへしとて江間四郎義時
四十
一歳
同太郎
泰時
といへ
廿一
歳
一武蔵守朝雅小山左衛門尉跡畠山次
即重忠
四十
歳
和田義盛加藤次景廉仁田四郎忠常
一等雲霞の如く押寄る比企谷にては能員の子に
能員の猶子
三郎宗貞貞四郎某五郎某・河原田次郎
にて壻なり
笠原十郎左衛門尉・中山五郎鵜屋藤太兵衛尉尉
人
能員
今比企谷妙本寺本
等一幡君の生すに御所
の婿
院の後・鎮守社宝蔵
の辺
一に引籠未刻より申刻まて防戦ひ今は是迄
なり
とて御所に火を掛一幡君の御前に於て腹を切
たりけれは讃岐局は御所の前なる池に身を投
玉へり
今妙本寺本院の後鎮寺
の宮の傍なる池なり
一幡君も無火の
難を脱れ玉はす
一情君時に六歳今妙本寺大堂
乃西紅梅樹の下に墓表あり
一能員の長男餘一兵衛尉時員は姿を女人に似て
戦場を遁れ出ると云共加藤次景廉かために。見
露されて忽に梟首せられ・比企の一族門葉爰に
於て断絶す・但讃岐局の順にて今年誕生在ける
頼家卿の姫君後に頼経将軍の御台所にて竹御
一所と申せしと能員の末子の二歳になる男子と二人
のみそ残りける二歳の男子は和田義盛に預られ
て安房圏に流されけり斯て歳月移り鎌倉右火
臣
賢朝
公
公
家・鶴岡に於て云暁か為に御事ありし後
一頼朝卿の御曹とては此姫君の外に御座す依て
一此姫君を鎌倉の主と定め頼経卿を迎て三代将
軍の遺蹟と仰奉りしかは安房の国へ流されたりし
二歳の男子を容返されて能員の家督となし比
一企大学三郎能本と云・艶本比企の一跡を再興し
一昔頼朝卿の御浜出の桟敷を造営して竹御所と号
しゝ此姫君の・時々に成せ玉ふべき所にそなしたりける
一実も子孫に増たる実はあらし・姫君と能本興りを
は争か荊棘の下の多年の恨を今日青雲の上了雪
へけんやゝ電魂定めて蒼苔の許に笑を開ならんと慶
ける程もなく姫君は御産の難に依て文暦元年
九月廿七日逝去ましましましぬかくりし後は讃岐局の怨
魂歸する處なく文應元年十月北條相撲守政村
一此時将軍は宗尊親王政所別当は武
乃女より霊付
一蔵守長時加合判は相模守政村なり
て悩乱させしかは十一月廿七日
竹御所の姫君氏
の忌日なり
政
村の沙汰として一日経の供養あり能本は安房国
に住つる頃より知由ありける本化正宗弘通の沙
門日蓮房を請して蛇身脱苦の法涎を設て讃岐
局をは蛇苦止大明神と崇て比企谷の鎮守とな
せり
今比企谷に・蛇苦山
能本機縁の熟する所深
大明神とてあり
して終に日蓮房の弟子となり我宅を捐て塔中
別付の紺花となし長興山妙本寺と号し自身は
本行院日草と更めて三大秘法の奥旨を楽めり
去とも世には・比企谷の法華堂と称すけたし能本か
頼経将軍
一造営せし・竹御所の寝殿を転して姫君
一の御台所
東鑑に右大
の御墓の法華堂となしつれはなり
一将家・右大臣
家二位家前京兆等法華堂を載又前奥州義時を
故右大将家能華堂の東の山上に葬り新法華堂
と号すなと云
一此時妙本寺は薬五代日行上人の
にて・考知へし
時に当れり不思議なるかな此比企谷建仁の秋
の暮には残忍暴戻の干戈を動かして正嫡正統の
家督を争ひ
頼家卿の家督は一幡君に伝へきを
一時改の私義より舎弟の千幡君に伝
るに
至る
一今應永の冬の初には勇敢武烈の身箭を招
佐竹の家督も同姓よ
て順次順道の総領を論す
り続へき順なるを他
年は二百二十年の遠きを
不順なりと云るなり
経と云とも瞋恚熾盛の闘諍は同かりき偖も日
行上人は独に佐竹上総入道を贔負せんとの義
にはあらねとも隣境の好と云檀那の交懇なるに
依嶺傳ひに打籠るを情なく押出すへきに非す
一又慈悲広大の袈裟を掛柔和忍辱の衲衣を被身
一なり堅を破り銑を挫て修羅の眷属と成んも流
一石にて只聖教の戦場に没し仏像の鋳鉞に傷ん
ことを怖れ或は岩窟を穿て是を蔵し又は井杵の
一応に沈め然後は祖師堂に入・壽像の前に端生合
掌して今法久使を祈られける意の内こそ哀なれ
一去程に佐竹上総入道常源右馬頭義盛家督のこと
蛇形感応
信地図
比企谷伽藍
一同一
上杉軍兵
蛇形本尊霊感
を諍ふて一族を催し比企。谷に楯籠り合戦の用
意-頻なる由鎌倉中に披露しけれは・左兵衛督持
氏郷この旨を聞食入道か企以の外に不当なり
一古馬頭義盛・早世して然も家を嗣へき男子なし
但佐竹は重代の高家なり末々の一族なとにて
一相続すへき道理なし其故は昔鎌倉右大臣讃
実朝
薨御の後家督の胤子御座さす・光明峯寺。攝政・関
白大政大臣
道家
公
の御子を養て右幕下の遺跡と
一す・頼経将軍これなり此時一姓の源氏・新田・足利
一佐竹武田・小笠原大内・等伊豫守頼義朝臣の子孫
一歴々あれども征夷大将軍は重職たるか故に庶
子なんとの既にて相続思に依す捕政◦関白の子息
を以て嗣とす・是を例にて・佐竹の家を管領乃子
に嗣すること更に僻事にあらす然るを入道か左様に
述懐しく一族を聚め兵仗を繕め要害に楯を築並
一合戦の手配を専にすること義仁か敵となれるのみ
ならす公儀を蔑如し憲法を忽緒するの罪科何事
か是に過へき急き誅戮を加えて向後を識らるへし
とて上杉淡路守憲宗
一兵庫頭憲房子て左京亮重兼
一或は宅間と称す重兼の子弄
計。介麿直・共子談聚守憲家其子淡路守憲宗と義
一図に見え大草子には佐竹討手は憲住とあり乾
かみかなな
をしらす
を大将として御旗を差向らる・憲宗分
一国の兵を催促し応永廿九年閏十月二日乃早且
に比企谷へそ寄たりける此谷北は葛西谷に連て
峯聳え崖高く南は名越・田代の山参差斎からす
東は喬松森そと巌壁に立並ひ・たゞ西一方のみ・大
一町に傍て道を開き滑川を薬せり佐竹上総入道
は釈迦堂の縁に敷皮敷庭に大幕打廻し宵より
一最後の酒盛して居たりけるか御所より討手の向
ふと聞いで夫は物具せよや若者ともと云間もあら
せす・十三騎・妙本寺の西大門を楯に取鏃を揃て
射出したり矢面に立たる武者十三人矢庭に射
一落されけれは寄手も慢にく思ふて楯の端の少色
めく処を見澄して色も昔らぬ十三騎抜連て切
て懸り鐘より火を出し揉に揉てそ戦ける寄手
千余騎立足もなく・打負橋名越を差て引退く
一入道これを見て軍は能仕たり敵は目に餘な千
餘騎・然も公方の御旗差たり・味方は僅に十三騎
薄手も負す面々に分捕したる高名は弓箭の冥加
と思ふべし但御所の御旗に向て合戦すへき入
応永廿七年
道か本意に非すたく上杉安房守憲実
より管領
か私の処分にて当家の家督を己か一族に申賜
はりつる恨を晴ざん迄の結構なりしに今は早謀
一報の罪科に処せられて御敵となりぬ兎ても角
ても勝べき運の軍にあらす法華堂に立返り心
一静に腹を切や殿原と呼集釈迦堂として引還す
一然るに搦手へ向ひける武蔵一穀・三百餘騎小町の
在家の裏平へ廻り閻魔堂川を打渡り経師谷へ
乱入・妙本寺の北の峯を攀上り鎮守の宮の前に
打て出爰にて焼草を集め・伽藍に火を掛焼打に
せんとなしけるに思もよらす・庭前の井桁より白気
一一条立昇るかと見るや否忽震動雷電して・大雨に竹
を突か如く車軸をも流すべし去は乾ける焼草湿て
宇を滴せ火を放へき便を失ひ。惘然として彳めり
然るに此雨伽藍の上にのみ掩て一滴も他に及ふこと
なく臍黒雲墨を磨流したる如き中に巨象をも飲
崑崙をも繞八五八谷にも蔓延行へき計の大蛇国
れ紅の舌を閃々と片めかし火焔を沸と吐出し枯
木の角を棹立て賜り騰り跳り廻り伽藍を防と
一他の人目に見えけるとそ後に能々尋れは弘安
三年三月日・此比企谷の鎮守・蛇苦止大明神のために白
蓮上人授与ありつる千界勧請の本尊を白行上人この
井桁の中に隠されけるか蛇形を現したるなりとそ
此蛇蛇形の本尊長五尺二寸
去程に比企谷の合戦
一広三尺三寸七分・紙本なり
一寄手・利を失ひ・上杉淡路守憲宗・乱橋迄・引退由・関
けれは重ねて・大勢をさし向らるゝと披露あり・憲宗
一士卒を諫めて討手に向ひし面々か僅の勢に追立
られ爰迄逃し見苦しさ折これは我等一人か恥なれ
は・裁今・比企谷に駆向ひ・討死すへしと呼はりつゝ馬を
一蟄して走出れは続く兵千余騎同しく轡を引返す・次
企谷に推寄て時の戯を揚つれとも総門を鎖固て
一音もせす・矧雨風烈くして物の色目も・見え分す
一洲・垣を踰・門を破て・千餘騎・面も振す叫て込入共
一障ふる者の非れは結句謀にやと危んて進えす
一去とも夜も更・餘り于時刻の移れはとて怖々本
堂の方へ離入は・処々に焼棄たる篝火・景仄にて
人ありとと見えす・憲宗長刀を杖に突石板を上
りて見れは・あな哀や・釈迦堂の庭に・居並て・十三
騎一様に自害して同しく俯に伏て死たりけり
一足を見ける兵共意あるも心なきも皆諸ともに鎧
の袖を霑して天晴勇士や敵なからも尋常に馬箭
を握て潔く・腹を切つるは流石源氏の高家かな優
一とも健さも世に類あらしと感しつゝ自害の首なれは
一取に及はすとて憲宗は・御所へ引還し事の始末を
一言上す・持氏卿・聞食・一族不残自殺の上は・別に譴
一責を加えらるゝ了及はす阿檀の好に依て・葬送は日
一行上人の意に任せらるへしとて許されけれは本堂
の南の山際了墓を築追薦の法筵を執行して示
一断回向の過去帳に名字を尋て佐竹上総入道常
一深同弥三郎・同弥四郎・同治部少輔・同常陸三郎・額
田三郎五郎・松木五郎三郎・根津新左衛門尉・関七
郎次郎・進藤三郎左衛門尉・大足駿河次郎・海上與
比企谷本行
一郎栗飯原三郎四郎とそ載られけり
院日嶺上人
の記に
の記に
見ゆ
別頭の妙行・殊勝なるか上に一閻浮提本化
一最初の霊場なり古道の受苦は刹那に抜除すへし然
に強死の霊魂・いまた醍醐の法味を甘んせす・猶中有の
冥路に闘ふて修羅の羅の堺を脱せす・八万四千乃魔軍
を額して・嗔志の猛火を燃し法滅を飄蕩して・聖
一境を焚焼せんとにはあらねとも或時は形を現して
一人の目に見え或時は声を鳴して寛を訴ふ・種々の
奇怪を露すこと既に日を重ね月を踰ても止さり
けれは鎌倉御所の沙汰として是を一社の神と崇め
謀叛与黨の汚名を望め如在の祭儀厳しく互種妙
行の功福を副けれは神力次第に倍増し・境城鎮撫
此神祠・寛文の比既
の明神と現れしも理なれや
に定か成さりしに
や中川喜雲の鎌倉物語河井恒久
原俊程へて入
の新編録倉志等にも載ることなし
一道の嫡子刑部大輔義勝京都へ上り父か素懐を
遂んことを将軍家へ訴へ申て御免をは蒙りつれ
一とも關東麻の如く離て・京鎌倉の進退にも任せぬ
世なりけれは下野国芳賀都茂木の里に知由し
て其辺を打従へ・子息左京大夫氏義・嫡孫・上總介
佐竹一族最期酒宴
一族十二騎
←
佐竹上総入道
安
□□□□□□□□□
か
六
辛
十一
白雲
同
おも
御等
一義森と相続せしかゝ義森子なくして家絶にき説
覚性院に
墳墓あり
一信光云継嗣令に三位以上の継嗣は皆嫡相承よ
若嫡子なく縦有とも罪あるか疾あらは嫡孫を立
よ・嫡孫なくは・嫡子・同母の弟を立よ・同母の弟なく
は・庶子を立よ・庶子なくは嫡孫同母の弟を立よ・同
母の弟なくは庶孫を立よ凡五位以上の嫡子を
一定めは治部に陳牒して実を験し官
太政官
なり
に申
せよ・嫡子罪
酒に迷乱するを
疾
一慶疾・重を承
荒銃と云罪とす
るに任す
ある
ときは所司に申牒し実を験し更に立ることを聴
せよとあり然は異姓を以て養子となすこと今條
に見えす・西五五代・周乃太祖・郭城子なくして・皇后紫
氏の兄葉守礼の子葉栄を養て子となす是を世宗と
六・郭氏の嗣たりと云とも猶葉氏を本姓と称せらる
太祖世
一実二姓と史家の筆に伝え司
去は周氏三世
宗・恭帝
一馬温公は世宗異姓の親を以て入て大統を承近世
の弊郭威に起りと云れたり皇朝の尾張員職は恩
徳耳尊十四代尾張忠命三十六世神孫なりと云とも
一大学頭藤原実範の子三河四郎藤原季兼を以て息
父は藤原季兼
一女職子に配せ家を嗣しむ其子季範
母は尾張の織子
熱田大宮司
一父か本姓に復して藤原に改む
これなり
武蔵国
の横山三郎盛兼は・小野篁の孫にて小野氏なりと・
○云とも男子なきに依て外孫季兼い
村上源
氏なり
を養て家
を嗣しむ李兼の子季貞父か本姓に復して源氏を称
す
一海老名源八季貞是なり
児玉黨は任道首なり然
武蔵七党系図に見ゆ
に儀同三司伊周公の次男伊行を養て子となす伊行
か子弘行・経行ともに父か本姓藤原了復す齋院次
官中原親能・近藤左近将監能戒の子左近将監能直
を養て子とす・能責・猶藤原を氏とす・足利丈夫俊綱
八幡殿の男義國を女に配せて所領を譲る・義国定
一刹に住し俊綱の領知を襲て・足利と名乗ると云共
猶本姓・源氏を称す・足利義兼の男義純・畠山重忠
の女に嫁して其領知を継畠山と称すと云共源氏
を平氏に改めす・児玉経行の二男行重秩父権守重
一綱の子として秩父平太と名衆と云共藤原氏を改
一秩父に藤原と平氏
て平氏に貫せす
児玉黨に奥平
と二流ある是なり
次郎藤原經氏の後人赤松播磨守則景の二男氏
一行を養て子となし家を継しむ氏行の子孫奥平を
称すと云共村上源氏を藤原に更す是等の例に就て
考ふれは義仁義盛の家督を承て佐竹の称を嗣ときは
一猶藤原氏にて有べきなり然らは源氏の佐竹は庶流に
ありと云へし。常源入道の憤懣する所以なり持氏卿の
一鎌倉幕府を例とせらるゝ却て非なり東鑑に承人元
歳二母公経
道家
賢息
一年七月十九日壬子霽左大臣
一卿女・建保六
年正月十六
関東に下向し玉ふ是故前右将後室禅尼
日寅刻誕生
實朝公の
将軍の旧好を重んするの故に其後嗣を継
御台所
せられん為に申請らるゝとあり此若君すなはち鎌倉四
一代将軍頼卿の事なり然るに延應元年八月天変の御
一祈御願文に弟子征夷大将軍正三位藤原朝臣敬白と題
されたれれは頼経卿實朝公の後嗣とならせ玉ひつれと
一も藤原を源氏に改られさりし證と云へし然れは北条
一義時自己の権を擅に。せんか為に長君を忌て二歳
一幼稚の主を織緑の内に迎ふ・元是源氏の裔を絶ん
と欲するにあれはこれを援て継嗣の法と為に足
す初佐竹義盛・嗣子なくは・同母の兄弟に択ひ・若意に
応ふ者なくは父の兄弟に求め父の兄弟に興は・祖
一父の兄弟に求め曽祖父の兄弟に求め五等の親を
尽さは必意に応ふもの有ん是を親属に求めすし
て異姓の上杉に求むること衰盛の継嗣を立る正しか
知らすと云へし・故に干戈を・骨肉の際に動し、骼觜を
一草原に露すに至る痛惜に堪す慨歎に餘り有と云
一べし」上杉憲実身管領の重任に在て庶民の狼戻を
一糺弾し諸将帥の沈淪を抑揚すへきに首として大宝
の制令に違濫しゝ貞応の敗轍に追随すること関東師
一佐の職に居に耐す・宜なるかな終に其家を保こと能は
○す東国擾乱して黎民塗炭に堕発軫となれり」持氏
一卿關東の元帥に位せり佐竹氏の如き麾下の豪傑
一万夫の長なり是を親晒して以て藩屏となし以て強
禦となすこと能はす却て控制の術を初に失し統御
の威を後に錯る西土唐の兵制に麾下の親軍を身
兵と云以て腹心となし自衛る但父子相継婚姻繁
昭宗の即位龍紀元
一結して親黨膠固に至る昭宗の時
年日本の寛平元年
に當に及て魏博等六州の牙兵・驕横にして力・制す
る
ること能はす・羅弘信・紹威父子・相承て・魏博節度使と
なり。兵を宣武節度使李存勗に假て。㐧兵を墮し
一嬰孩まても残すことなし其道を除去と云とも翻兵
一是より衰弱せり後に紹威これを悔て云く魏博六
一州四十三県鉄を聚て二个の錯を鋳て成すと歎しと
小中・
五代史羅紹
持氏卿の上杉禅秀を滅し武田信
感傳に見ゆ
一満を殪し岩松天用を戮し佐竹義真を強せる皆
一これ其藩屏を毀り其強禦を害なふ関東十四州の
一兵を集めて関東十四州の兵を残す来者を勧弊し
て敵国を弱むる謀にあらす即是永享龍の恥胎と云
へきなり
十二
兵家紀聞巻第五終
江戸日本橋通壱丁目須原屋茂兵衛
同浅草茅町二丁目須原屋伊八
同日本橋通二丁目山城屋佐兵衛
発行
同両国横山町三丁目和泉屋金右衛門
同芝神明前岡田屋嘉七
京都三條通升屋町出雲寺文治郎
肥前佐賀白山町紙屋惣右衛門
書林
大坂南久宝寺町榎並屋小兵衛
同心斎橋備後町近江屋平助
同心斎橋通南久宝寺町伊丹屋善兵衛
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