婦左廼里備忘

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不明
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フサノリビボウ
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東北大学
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満左通里備真 第10円 狩 第10円 24070 武家 第 共 道 ミテイフタヾシ ヲサムナヲシノリ 疑ムズブ四肢テアシ而骸ホチノ搗メ呼吸泄穀 形ノ如くに写と云〻 弓の携矢の勢矧橋作矢のハギノ字摸写ス 横ハイカタト云字也 無矢渾窩ノ猪目透觴一鳥瞑釘形鶴觜 小樹木丁端 荒井恭信氏ノ寄贈会ヲ 以て購入せる 「狩野亭吉氏藤蔵 弓箭考 温故堂文庫 弓は斎木なり、其工は斎庭斎梶斎種 などの工に同く、忌清まはりたるの義なり、 其みはマハリキの切りたるなり、そはまづマはの 約まりマなり、リギの約まりりなり、其マリ を再ビ約めて、みとなるなり、 箭は、八千戈八尋戈意八咫鏡などのやにて、 稜威の義なり、此ヤを数の八とするは更に もいはず弥の義とするもめたらざる説 なり、今ノ俗言にヤアヤイヤレヤタケなどの や皆此ヤより転れることにて、ともにするど き意勢、ひ言なり、鎗も此意の称なり、其中 に箭は人のなすことながら、自然飛行 さまの勢ひめる物故に。直にやといひ、鎗も 同くするどき勢ひはめれども、人の手 を離れざる物なれば、ヤリヤルヤレヤロの用 言を付て射言にヤリとも云なり。ヤリな どは、後ノ世の物ながら、其名は古へにかなへり、 これ事実の止ことなきことを思ふべき のひとつにこそ、 四季の草抜書 四季の草と云は伊勢平貞丈と 云人の書た 一尊忠聞書に云、朝のほそき方をするもき と云又のそとも云なり 此方をスル モキト云 する もきの事を今はかびがだと云是矣 工の詞也、射手方に不用之、 おのか堂かはかりの事、四季草抜書 一おのかたかはかりとは我か手の寸にて、物の 長短をはかる事也、おのとはおのれ也、 たかはかりは和名抄二尺の字を太加波可 利と訓を付たり、太加はたげなり、かと叶ふと かとけと 音通に はかりは四寸尺をとる也、物さしの 事也”おのかたかはかりと云は”おのれか身のもの さしと云事にて我手にて物の寸尺 をとる事也弓矢鞭行謄等は皆おの かたかはかりにて寸尺を定る也。手にて 寸の取様あり、 大ゆひ人さしゆひをつよくひらか す、おのつから開くほとゆるやかにひら く也しゐてつよくひらかす 此中指の中をぬ此中指の中をぬ此物に おしあつる也、 如此大ゆひと人さしゆひをひら きて是迄五寸と定るなり、 此人さし指の折目のまて 中、両の間を一寸と定め、その半 分を方とするなり、 人々之手の大小によりて、長賑同しか らす、其人々の身の大小相応の寸尺に なるなり、 矢束長さの事四季の草抜書 一矢束は、其人々の手にて必十二束ある者也、 此十二束をおのかたかはかりにこくはかれは、 二尺七寸五分ある也一束と云は指四ツふせ也 古き物語なとに、三人張十五束なとゝ 云は其矢の主の手にて十五束ある をいふニはあらす、矢の主の手にて 八十二束なれとも、其人大勇にて大な 馬手にて十二束の矢なるゆへ通例の 人の手にては、十四束も十五束もある也、大男 にても小男にても其主の手にて十二 束より外はひかれぬ物なり、定里たる 候 弓矢之始之事四季ノ草書抜 一弓矢之始は人王十二代景行天皇の御 時、東王の謀反人を退治せしめんか為 に、日本武尊を大将としてさし むけらる、此時日本武尊始て弓矢 を作り給ふ、と云説あり、是あやまり 也用へからす神代に素戔嗚尊と いふ神あり御父は伊弉諾尊御 母は伊弉冉尊御神国は大日要尊 といふ天照大神之御事也季才才 鳴尊常に要悪事をなす事を 好と給ふ谷事八一ツもなかりしかば 父母の神増之怒り給ひて素戔 尊天原とは神の住 より根 鳴尊を高て原 たまぶ都の古文なり 根の国とは の国へ 田舎の事也 追ひ下し給ふ時桑才才鳴 尊いとまこひに天照大神の御もとへ 参り給はんと聞えしを国を奪わん 為に来るならんと疑ひ給ひてこれを 防ん為の謀に天照大神は女神なれとも 男の装束を着給ひ矢を負ひ弓を 持ち弓繍を振り起てちから足を ふみ武勇のすかたをあらはして素 齧鳴尊之来り給ふを待ち給ふといふ 事日本記神代巻に見へたり此時 天照大神既に弓を持ち矢を負ひ 給ひしとあれはそれよりも猶前かた より弓矢はあり来りしなるへし弓 矢を始て作り出し給ひし神の御 名は何れの書にも見へす詳ならす 弓之本地之事四季の草書抜 一弓の本地は無量寿仏之形也故慈悲 の相を本とす然者仏の字は人弓引 の三字を一ッによせて仏といふ字を作 りたる也といふ説あり用る事なかれ 弓に別に本地といふ事なくしゐて弓 の本地をいはく梓檀槻柘黄櫨等之 木を弓の本地とすへし是皆弓を作 る木なるゆへ弓の本地なり仏像にて 弓は作らぬ也又慈悲の相を本とすと 云も心得かたし弓は生るを射殺を 以て弓の徳とする也慈悲を本とせ は射殺す事はならす何の用にも 立ぬ器となる也かやうの説は皆出家 なとの云出して昔の愚昧の武士に教 たる也。弗の字は弓引の二字を合たるに あらす弓は弓にあらす引引にあらす 蒙書にては違ある也又仏の字は仏法 いまた唐土に渡り来らさる以前より ありし字也等トケを天空の詞ては 一トといふを其詞に付て唐土にて或は 浮屠連或は佛陀の字を以て當たる也 フトフタ の仏陀を下畧して佛の字をも 音通ナリ 用る也我国にてホトケトいふも浮屠 ホフ音通 家也また仏陀家也 すべて ト夕音通 我国之故実に仏の事を取まし へていふ事あるましき事なり 神代之弓矢之事四季ノ草根六 一神代の弓矢は天鹿児弓は鹿児矢天の 槻弓天羽羽弓天羽羽矢生弓矢弓 等之名日本記古事記等に見えたり 此等の弓矢之制さま〳〵諸説ます〳〵 にして何れを正説と定めかたし 神代の弓矢は後世に伝はらさる 故それを見たる人は一人もなし 皆推量の説なる故諸説不同也 知れぬ事は知れぬこしてさしを見き也 両家方別ノ事 一近世の人武田流の蟇目の形は如此小笠原 一の蟇目は如此なとゝいひ其外の事も 両家相違なる様に云は本トを知らすし とく末流の者偽作にまとふ故也小 笠原は武田の家より劣れて兄弟 の家也両家ともに新羅三郎義光 の後胤也されは両家弓馬の道相違 の事なし高忠聞書に云武田小笠原 西流の違は犬追物に三ツ矢流鏑馬 に矢ぬき出す事尠此二の違也残は何れ も同前也弓馬故実に云武田と当流 小笠原 の事也 遠の事やふさめの時矢のぬき出シ 八日記 拾八廻に を云なり 三組トハ非也 有留る三組の矢 三矢ナリ ゆかけの緒のとめ様違の由也伊勢因州 一記に云両家の流に替る事は唯三色 ありやぶさめに一色犬追物一色弓袋 に一色也此外には毛頭替りたる事なし 若違たる事此三ツの外にあらは一方 の覚ちがへにて有へしとこれらを 合せ考るに両家に違たる事は唯四や のみ也其外は皆同事也小笠原は勇家 なれとも代と宝町将軍の弓馬の御 師範にさせられしによりて当家に とも当流とも称じて弓馬の道は此流 を以て棟梁とすされば此流の了馬 の道は天下の公法也其外の流々は皆私 法也今に至る迄登原は将軍家に 用させらるゝ流なり此公流法を捨 て諸流の者とも猥に私法を主張せ んとするは上を憚らさる事歟近世 弓矢其外私法の妄作多し其術 芸はその流々の先師の教を守るべ し弓矢等の制作射礼故実に至 ては先師の法は用まじき事也天 下の公法を用べし 的のたいはいと云事 たいはいの字体拝とも常佩とも書也歩 奥に永正年貢 定体拝記而 五日トアリ乳者不知 細川高国小的書其外 的の古伝書ともを見るに皆初手にたいはい の事と條目を出して射手数塚の前にて 水干のひもを納る事数塚へ歩之寄る足 つかひの事弓杖つきて肩をぬき水干 の袖を納る事了かまへの事矢のつかひ 様の事射手退き様の事肩ぬき入やう の事本の座へ帰やうの事なとその一ヶ 条の内に引つゝけて書つらねたり 然者たいはひと云は即始より終に至る迄 の社射礼の事也体はかたちとよみて体 手の容儀を正しくする事也拝は礼 の事にて水干の袖を納るより始て付随て付 終て出座へ帰るまて容麪儀を正しも 法式を守而射る故体弾といふ也されは体 拝の字を用へし帯佩の字は道理 に叶はす今世正月御弓場始の的をたい は以的と云人あり古より的のたいはい と云事はあれともたいはい的といふ事 はなしたいはい的をいひあやまりて たいへい的といふ人もありいよ〳〵あやま 行を重ねたる也 巻藁前之と云事 一近世巻薬前と名付て人に弓射て 見するに巻わらに向くの射礼あり 古はなき事ナリ射手の方の古伝書に はなき事ナリ今巻はらと云物を古は とうゆひと云て弓射習ふ者の胸也今 世も同う事也然とも古は人に弓討て 見するにはとうゆひを射て見する 事はなしはさみ物を立る射て 見する事せし也巻わら前と云事 古はなき事なれとも今は専世上一統に ある事なれは是も亦知らすして はいかゝなり 小酒之事 一小的は鎌倉の時代はなし東鑑には見へ す宝町殿の代に記しける書とも には小的の事多く見へたりされとも 始りし年月誰か射始しといふ事 なとは祥ならす 大納と云事 一弓法私書に小的と申候とて大的と 申さぬ事也かけすかしの的とも又 尺二寸の的とも可申也と見へたり尤の 事也本は唯的とはゆかりいひしが後 に小的始りしによりてまきらはしさ に大字を付てよひならはしたる也法 量物に大納の事とめへたり大納と よふ事本はいはぬ事なれとも其比 人の暮くいひ習はしたる事なれは 俗にしたかひて大的と書のせしなるへし スサノフノ尊カフラ矢ヲ射タマイ大国主尊二矢ヲ 取ト仰セラレゟテ草江火ヲ付ヤキウシナワントシ タモフトキ鼠お申ス様ハウチワホウ〳〵トワスブ すすごと鼠申すにより鼠の穴え御入火をしくキ夕 モフ 此時ヨリ大国天御遣シメ鼠ト云意知ル也 ナリカミブリカミブリハブキナリカブラ矢ト云 意ナリ 雷ナルフリノ根ナルト云意ニ而ナリカブラ矣ト云也 ナリカミブリヤ㊂ヲハブクナリ リヤノツヽメラトナルリヤノ返シラナリ 古記に出す ヤ井ユ工ヨ ラリルレロ 唯僕住所者如天神御子之天津 日継所知之登陀流天之御巣一而 右は大国重ノ御尊 天照大神え御干カイノ御事也 一盛二ギノ尊天照大神ノ御孫神也 建御雷尊恩日大明神ノ如シ 古記に出す 収メ二出ス 古事記上之巻五十 即天右日子持天神所賜天之波士弓 天之加久矢 人皇玉代在位百二年 孝昭天皇観松津彦香殖福尊 人皇十六代御年百十四歳 応神天皇譽田別ノ尊是八幡大神也 人皇五十五代在位八年 文徳天皇仁寿三斉衡三天安二 人皇五十六代在位十八年 清和和天皇貞観十八年 人皇五十七代在位八年 陽成天皇元慶八年 人皇五十八代在位四年 光孝天皇仁和四年 同同同五十九代在位九年 宇多天皇寛平九年 仁寿元年ヨリ寛永九年迄年代都合四十四代 年也 人皇六十代 是甫 堤嘯 西西 天皇延喜ノ御門ノ御門ノ御事也菅公ノツカワレタ 天皇 モフ天子也 人皇百四代在位三十八年 後土御門院 文正一応仁二文明十八長享二延徳三 一右六つ年号は後土御門院ノ 明応九 一御在位ノ内ノ年号也 文正元年ヨリ明応九年迄年代三十八年也 後土蔵一門院の御宇ノ将軍は足利高氏公ヨリ十代目 源義尚公十一冊目義澄公也 人皇十五代 神功皇后仲哀天皇の皇后 諱奇神御気長足姫尊 開化天皇ノ曽孫気長王子女也母曰葛城宮高高 姫一三十六歳立為二皇后一四拾四臨レ政在位六十九年崩二千六十九五 桜宮一寿百十二歳 日置弾正度会政治 元祖 智智利五郎 瑠理光坊威徳ト 二世 二世吉田出雲守源重賢 一同雑髪而号道実 三世 三世吉田出雲守 一薙髪而号江白鶴 四世 吉田出雲守源方郷 雑髪而号一白露滴ト 一伊勢貞丈座右書の一板書 弓法私書年号月日記者不知小笠原流書古書也 一弓法私書云弓杖をうつ事あつちなき時は弓立より 打也 貞丈云ユンダチトハ 射午ノ立所ナリ あつちある時はあつちに本はすを 付て打也あつちなき時は弓立に本はすを付て打也 からはずをさきは土に付ましき也是は打始る時の事也 弓ははづし弓たるへし張たる弓なりともはつ して打へき也 用害記 永禄八年河村入道誓真記之折音真伊勢伊勢守 貞孝之家臣也俗名権之助一秀 一用害記云弓を一にくら二ふくらと云事一杖と云也と 小笠原聞書に在也 寛正二年四月ト有次ニ弘治二年五月十二日ト 軍随陣聞書 有之巻尾に永正八年六月日小八木若狭守忠勝判と 一国軍陣聞書云一ふくらと云は弓一張の事也二ふくらと 貞丈云弓杖ノ 云は二張の事也 幾をいふ也 ○本記天文十三年十二月十二日岡本美濃守緑侍奥書判有之 一岡本記云弓に一ふくらといふ事は犬追物の時用ル詞也 然は是矢沙汰の時一杖過てすたる矢あれは射手と問答 貞丈云弓杖の数也矢沙汰に弓杖打の の時入る詞也但口伝に有り 矢をさはく事有 射手掻副記年目記者不知小笠原之古書也 一射手掻副記云弓杖打毬はらぬ弓にて打也附より四五 寸上を右の手にて弦を取添て持也そりを下へなし 前竹を上へ外竹を下へ上の方へなし持なりあつ ちの方より弓立へ打なり本筈をあつちの方へ なすから筈をもちてあとをつくるは我前へはね候又 手前 娘 あとへもはね候てあとを付る也 伊勢伊勢守平貞宗朝臣自筆也云云天文 火追物雑々 四年乙未六月四日伊勢守一入道貞安元写之 一犬追物雑は云一ふくらと云事は弓杖の一杖の事也 応永廿九年三月五日小笠原備前守持長 射御拾遺抄なる 一同貞元連名有之永正二年三月三日尚谷帯刀在 寿隆伝来 ○一弓持様射御拾遺抄云弓のうらを人の方へひけす殊貴人 大将なと物申時は弓のからはす子にさまにあり弦を外 へむけて持へし随兵軍陣なとの時弓を持てあゆ むには弦を下へなしてあゆむ也床木に腰をかくる時は弦 外へなすへし弓つへの時も同前は武者にひかふ時の弓の持 様はつるをそとへなして弓をたてかしこまらすして 物を云へし若いかひにかしこまるとも弦をそとへなす へし ゆ 弓箭條々 多賀豊後守高忠自筆之聞書也云云云法印 判有之 一弓箭條々云於軍陣弓弦を上へなさす内へなして持也 応永廿九年三月一日小笠原民部少輔持長 一同備前入道興元奥書有之又文明十年三月細川右馬頭政国 射御持長記図 多賀豊後守高右出立原兵部少輔元長連名有之 一射御狩長記云馬上にて弓を持は高の耳二の間を持也 へしなにとしても物討たる人の持様いかにも 可然かりそめにもゆかけをさゝては持へからすうつく ほつけたる時は弓計持もくるしからす只弓斗持 時は有へからずしめ滋頭なと取そへか持也犬射引目 持事貴人大名などの持たるゝ物也しんしやくすへ 〳〵ことさし主の供なとの時犬射引目持事大なる 後 鰒魚也 一又云笠をさして弓を持事如何式弓手の方にえたて に入て笠をさして弓をから笠より内に成て弦をゆひ にかけてか持也是本の様也又弓の絃を尻つ輪のあや 入てはすを弓手の方へ成馬手の尻つ輪の外に 弓を成て笠さす事有是は略也洛中なとにて はすへからす 岡本記 天文十三年十二月十二日岡平美濃守録侍奥書 有之 一岡本記云弓を持て笠さす事笠をそとに弓を内に持也 何れも弦を大ゆひの上に置てさて人さし指とたか〳〵 指との間へ弦を持末はすを笠ののきの下へ入れ弓 をは下へさけてわきにはさむ心有へし猶条々隠こ あり 高忠聞書 寛正五年十一月日豊後守高忠判又明応 二年賢家判永正十七年上原豊後守高右自筆之 聞書也云法師判有之 一高忠聞書云馬上にて弓持時は馬の二の耳を越す 越さぬほとにか持也かしら高く持たる馬の時は馬の 左の耳より猶左に弓の末はすなる事も有へし 同別記同之 一又云両ふりに弓持事両笠より外には持さる也笠の 柄よりうちに弓を持也此時は弦をかきのえにとり そへて持なり又云同夜に入て矢をさしはくるには弓 より外へ矢をなしてさしはげて笠を十也内に させは馬の肩にあたりて切るゝ也 扇鏡年号不記小笠原相伝之聞書ニ記テ宗信ト名有之 扇鏡 宗信ハ小笠原備前守政清也 一扇鏡云馬上にて弓持ては手はなをかむべし 一又云弓を持て鼻かむ時は弓を弦共に脇にはさみて色也 貞丈云是は 紙ニテ噛時也 寛正年十一月日豊後守高忠記明応二年 高忠聞書別記 八月賢家判永正十七年二月二日上原豊前守高家 一高忠聞書別記云ふりの時弓持事はあま笠より外には 持す扨より内に弓を持つるを柄にとり添て持なり 一馬上にて弓をよくもちたるを人に語時は弓をよく もちこなしたると語へきなり 弓馬三冊弘治二年六月武田伊豆守信豊記之 一弓馬三冊云自然犬笠懸野山の遊の帰なごにふ慮に 他所にて溺丸物射る時は黒ぬり赤塗の弓ふ苦る也 但それも白弦をかけて可射像になき時ハ吉長谷 もとい舌の弦輪を紙にて白く巻て射る也格寅を 常に人不知事也 藩翰語択書 石川伯耆守数正之記之所を少々抜書にす 味方か原合戦のとき数正織田殿の加勢として 遠江国に向ふ武田信玄入道遠江国に向ふ と聞て取て返すむかし美濃国土岐か家になり といふ浅岡の何某は弓矢取てさる古言と聞へ しかば数正彼か許に行向て此度本国辺帰り候 はゝ討死仕るへし数正小言にはゆへとも可引失 はなさんやうはかたの”ごとく習て候ひき然るに 田舎に生れそたちたる身のかなしきは 軍陣陣にのぞまん時鰈とし緒結ふやう はいまた学びさふらはず最郡に何某公矢 の骨法しらさるき寔かたきに笑れ候はん事 骸の声何事か是にすくへきあわれ御指南 を受はやとそ申て伝へを得夜を日に継て の下りほどに終に其日の戦に逢ふたり ける弐日大膳太夫入道此事を伝へ聞て武士の 家に生れて其道図もたれも斯こ云有るべ けれあつはれ徳川か弓矢あなつりにくし とて感給ふる不斜下略ス 武具に弁説ヲ 才右之書は信玄公何時武辺場数切者老功の衆十七人召出され 御尋なび候に何れも申上候趣き土屋右衛門尉原隼人佐 小山田弥三郎にて聞届一ツ書を仕相用に 小山田弥三郎にて聞届一ツ書を仕御目に懸候書なり 一原美濃守申分弓にて仕たる事無御座候故何とも可申上様 無御座候 一山本勘介申分美濃守申所尤に候日置弾正と申弓の 名人握る所を常には草にて巻候得の戦に持弓は稗 の細縄にて巻たると承り及候ケ様道理有之へきと存候 稗と云物は稲を一斤かり二度ぼいを稗と云 下略ス 此わらいたつて柔かなり是を細きなわにない 是にて弓の振を巻と其冬抔には自然と手あたた まり乍敷又水中抔へ弓取落したる節も宜敷 よし 弓の握に臂皮を以巻たるも用有る事冬き 落抔には自然あたくまり有りて口上置又水中へ 弓取落したる落水地はじき直に取上村に宜敷 源頼義の御哥 奉行山路の露を打払ひ弓の柄皮をほすひまもなし 万葉集巻第一冊 天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老ヲ一ヲ厭歌二 奈加弾トハ 「フノ上ハズノコト 八隅知之我大王の朝庭取撫賜夕庭伊縁立之御 一執の梓弓之奈加卿の音為奈利朝悩 一執の梓弓之奈加郷の音為奈利朝猟爾 一今立須良恩暮猟爾今他田渚良之御執梓 能弓之奈加弭の音為奈里 遠近来無差別巻 遠近辺にかゝわら法当物とたいよふに 見定め拳を我鼻とたいよふになる様に引込射はおゝ 能々心見用工へき事 よそねらい違さる物也能々閉用工へき事 遠近差別なき拳 是は中力の所にて遠近にかゝわらす当物へ拳を 付夫より拳を動かさんとはせず人々常に引込箱 にて引込へし拳の高下おゝよそ遠さる物也 但し我弓勢にては当物より拳をこるく付されば不叶 間数にては大に相違ひする也よく〳〵心見用ゆへし ふみひら〳〵広させまされ足相は己か矢束の程にしたかへ 稽古には直す所はたほくとも唯一色といひて射させよ 咽のふす射手にあけたの難●そある尤寺尻出て顔は反なり 古語に 我国は教を物に置行に安し 荘子に 書ハ不レ尽レ言ヲ言ハ不レ意ヲ意ヲテ夫言之所レ傳者浅不言之 所示深トノタマヘリ 我弓の構をたにもならすして極意を射と思こそかき 曲尺にはずして直してなをり○次第曲尺に合すへし 師の教へ とことに見へたり 一三韓をしたかへにしも弓と矢の威徳をあふきたれも用よ 混沌未分位十四宝体一円相 混沌は旧事記に元気渾沌有てあれは円なる 義ムラガレハ屯取衣マルヲ云一ニコモリテモ点セリ 二十八宿 角元氏房心尾箕右の七宿は東方ノ星也 斗牛女虚危室壁右七宿ハ北方星也 奎毒胃昴畢觜参右七宿ハ西方ノ星也 井鬼柳星張翌軫右の七宿は南方の星也 惣爛の所と云は射抜の所を云 一堅ほうしの四つの鶴は近代近地の物也 大の鰈にては喰指中指にてもつくりと押へ無名 指の上の筋の所にて能程に押へ置く 鰈の大指のしんは角にても出来又木にて義 拵上かためと云は草にて拵へる也 秋山や紅葉重の手の内は掘落せる人の為かも ダイジヤウノマキ 弓射其ク華用ヲ謂以稱左に ダイジヤウカン 大乗巻ト云芸十八まつすいと云 三石也 遠矢之位 伝曰三日丁か坪と云は初中終の三段に付たり三丁も 有る遠はよく引みちて荒くなく射は矢遠く 行ましき也初と云は矢尻一ばいに満たる所中は 矢比ののりを計終はゆつたりと思まくに染合て □る此三段と云□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 又遠早猿の頂と云位有 遠矢なと射とえへ向け放つ猿の頂と云は 七ツ時分の日有所を云なり其位のこふし にて射事を云しなり 一弦口へ付と助の正面に成る時と又上覧ん所見分所 一正面に成事有其節は切れ只正面に付ず 左へ成共右へ成共其時の宜敷等随ひ上児所 はら所的の正面にならさる様に弦口に付べし 其外も弦の落様に寄弦口へに付さらくて 弦へ付取へし 一常の射礼にても又巻藁射礼にても弓を膝へ立 右の手を賜差のさやの上へ手をあをのけて 置夫より胸を見る也其節は │松井甲斐中」 目を返す節は直に返すなり 物見を付る時は直等的を見る 夫ゟ踏を見る 一鰹ほうし四ツ懸の鰈者近世の製也 ぼうしのしんは角にてそうつきの木にても する也又じやうかためと云は丑のキガワにて する也是は丑の襟草を水にひたし指へ 過て形を拵へくける也 一三つ懸やわらかぼうしの鰈は近世の製也 ほかしのしんは鹿のゑり草をきたへ てほかしのしんとす 一大椀の腹の所計草を重厚く仕たる三ツ差しの鰈 有是は足軽抔宜陣等用る鞨也 仕たる節は 一甲矢にて矢二ツに打弓取落し 村下に居候 薄はし魚越立て居行さにて常の失社の如〳〵正走物 取夫より右の手へ弓ヲ取直し 直丁居申候に共永夫より竹等吉野宿ぬきを 入すゝみ出弓は矢より近き所江落たれは先 弓を取夫より矢の落居る所へすゝみ折居る矢と 乙矢と先の按様に乙矢堀丁へ一花夫より二本共一所に取 るへし又夫より片方の矢のをれ落をる所へすす 乙矢と最初取たる折矢と下に落居日折矢と先通の 枝様に乙矢と最初取たる折矢を下に置夫より一所に 取へし 但し矢の折上の方なり共下の方成り共 方成実初ニ取るへし同し所々 落居時は本の方の折を先へ取るへし 一師場中のより立下しれは紫海中も有へし 一郡東郡郷村 数多に矢折れ是はかい済に取すへし助場けれ迄 十九軒 但 一只済五甲矢なれハ甲矢通不残村絶で取二出へし乙夫なれは 大腹引咽走付たるを見て折矢を取に出へし 一弦切たる節は上下の差別なく近き方を先へ 取るへし同し間合に面たる時は丑の方を先へ 取るへし カラ放にて 一弓矢落たる節は近き方を先へ取るへし同し 所へ落たる節は弓より先江取夫より矢場取分へし 一矢を一手と云有之助矢矢頭に限家四目に有て一手四目と共有 一大根にて敵を射には一二間迄敵を引付可射敵を 間辺引付射んとするには法熱くよも能納らされは 不叶事 深川 一三十三間堂にて初て通失射る人は浪人権部権左衛門 正保二戌年四月十三日に通ス 一前々大平記一ノ巻板書天平十二年九月衛門叙日佐伯 常人錦草の鎧に白綾の佩楯 一前々大平記板書天平六年丁丑真備唐より帰朝の 馬上鉄木漆弓一張露面漆二品漆二器ヲ 時然経漆四節角弓一張 梟甲箭上十七俵又平射箭下 角弓一張射レ甲箭二十隻平射箭十隻を献す 一橘庵漫筆抜書雄略帝は御狩の時至尊の玉体 を以自野枕を踏殺し給ひ神功皇后は遺勅なり とて御懐胎の御身を以て異狄を征伐し 給ふ事其勇気漂然たる冷国也 一源平盛衰記抜書畠山重忠宇治川渡坂とき 川向のたてのかけより武者壱人すくみ出しか 其身は魚凌のひたゝれに小桜おどしのよろひに 小具足を重て三尺八寸の太刀をはき二十四せし たる黒わし成矢を森の如くにおいなし甲は ぬいで高紐にかけ白木の弓を取て黒かすけの 馬にのり弓杖にすかり只今重忠か下知する 有さまかつちう出立是そ大将よしつねならんと思ひ 名乗けるは此所にひかへたるは木曽殿の四天王と艶 し其一人根井大弥太行親といふもの也信濃鍛冶 のきたいたる小火り矢一筋まいらせん是をうけ て重代の物の是のさねためされよと庵言し しはしかためてひやうといる矢花ねにつる也 かれけるか矢坪はるかに下りて重忠か乗へ間馬に あたり下略 一胡菜履尻籠 一日本記永代之小意に千余籾五百万籾見へたり 一古事記に千入之釼五百入て釼はへたり 一古事記に 一日本記に金靭歩靭天磐靭見へたり 一草散姑靭蒲靭延喜式に見へたり靭も 矢を盛て用負ふ器也藪の形は軍器考の図説に 見へたり 一一浅野左京太夫幸長臣亀田大隅筋小ナル大指物也と 示されたり 一最上出羽守義光臣新石因幡は目立タル権物をサシ タルモノ之傍ニ居ルベカラズ矢通なりと示されたるなり 一源義家公奥州攻の時日置野九郎力出立の 美々シカリシヲ禁テ其甲冑ヲ亡瑞ノ甲冑ト名付 タマヘリ 聖人は事理通明にシテ其徳広 一文選に聖人の法興時変 大なれば物に必泥み偏屈なる事なし故 政ヲシ玉フニモ治法ヲオ六時代二ツレテ 変ジ玉フ 一夫将者国之輔也浦は車の真木 呉子既ニ魏ノ大将トナツテ西河を守てより秦ノ国兵曽て 魂の境ヒニ臨マザルガ如キ 内を矢道と云 一 外を広くシタルは外八文字と云 ほを広くけルは外八文字と云右之狭間をタンジヤク 一挟間 四 内之方を広くシタルハ内八天字と云猿間共弓狭歟二 狭間ノ弓道ハ竪 〽狭間ノ高サハ中人の井力タヒザ立テ乳通是を狭間 壱尺八寸横四寸二分 ノ中墨と略して上下ヘクツロギヲトル 浅間 ☆ 一討助たる節は肩ぬべきを入物へ。面に向居夫ゟ立上り出張出たし 一三足迄は直に神田朋木へ甲矢なれは叫ひさりに云へし 乙矢なれば直に引胴木迄跡ひさりにしへし請出取に出て 節ハ左りゟ踏出スへし近方へ居したらハ右の色ヲ続足に踏分 節は左りゟ踏出スべし たらは左の足を続足に踏出し右の日に踏揃下に発し三有之踏 出したらの入の足を読足に踏出し左の足と結揃へへしまゟ 下に御皮ヲ取るへし下に居様ハ支俵を かへ付下に居見しつくばうなり 一弓取落しの節三足迄は肩ぬきを入ずして踏焚 一片弓切取るへし夫より直に元の所へ返用へし 但し是は三足の 足遣は先左の足を引踏直し 足数に不入 夫より 但し一足踏出し弓ヲ取たらは引時 右の足より踏出候へし も足引んし二夕足出たらは二夕足 引へし三口へ出たらは三足引へし出る時を引時も隣続足を すへからす 時弓と突同所に 一弓取落し越たる節 時左の手にて先す 引抜常の如く致すへしから放の節も右の所同し 一弦切弓取落し仕たる節は下に居り甲矢なれは乙矢を 取肩ぬきを入へしこ矢なれは下に居直に肩ぬきを 入へし 一書打上ほ上ほこ等弦付居家節ハ了有くり込 一切行を身へ直し三ツ折平弦輪をはがし侍る 夫より内竹の方を外へ直し品等おすへし 一弓二ツに折たる落は上めり共下成り共近キ所へ落 居る方を先へ取るへし同し間合に落居る節 八元の方より取るへし 一弓折れ矢折ㇾ致し候て両方共射手取候節は 替弓より先へ出し可申候夫より替矢を出すべし 一弓取落し了くつと近き所へ落たる節は下に居甲矢 但し直に握へ手届留ざる なれば矢を取弓を直に取るへし 節は弓を引寄置握を取るへし 此節を直に物にて三布を引寄置物を引寄置物を見へし 一踏出し候間地家中八百疋 一弓取落し肩ぬきをふ入して弓を取に出る時は立て棄る 甲矢なれ手は乙矢を取家へし 一同廿一石九斗九升七合 一弦切人に懸たる時は下に候事を打を右の手へ渡し左 田矢なれば先亡失候大夫ゟ下に赤川弓を右の手へ渡し左 の手にて弦を引落し置早し陰をと肩ぬきを 入弦を取巻くへし但シ シ弦を引落し甚大後迄射終 てより弦を取巻くへし 人の弦自分の躰へ懸りたる時は貴人なれは自分 取て落してもよし平人は取て落すへらす 弦切たる当人引落すを待へし 一弓弐ツに折候節は弓を組合持へし其節はかは鹿也 〽かい済弓の組合たる所を 持へし 弓寺法を一部に渡す 百弐はに折候節折所に寄ては打を渡て持へし 某節は事分頼といや〳〵別に上度と健介添へ 一 浦すべし但 浅草持入 一小林新の長まし 一弓取落し候 一弦切天に懸りたる節は甲末板が左の手にて 弦を引取し置肩ぬき越入的へ向居大後迄射払へら 八弓を取弦を取かせくんし右の節は壁は弓近く●へ落 故早淵村市中村 たりとも足を踏出出しても兼候処肩ぬきを入的 へ向居大後射を払て弓を取支へし又くつと近く弓 落候て足を踏出ず取レ候ハ下に而不可申候 直に握へ手すぐがす候者○ 落し置弓取可申候但 弓を引寄取家へし 一乙矢にて弦切たる節は肩ぬきを入直に進み出張を取り直に 引朋木へ付へし此時は切たる当人より跡の者は なしはすし不致下に居へし陰切たる当人程を 取引朋木へ付たるを見て立上るへし 人へ通弦懸り〇 〇一乙矢にて張切弓取落し致たらば下に居弦を左の 手にて引落し置夫ゟはたぬきを入直に弓を取弦 を取るへし 麻酔 一甲矢にて茂弓取落し余人の射前の邪悪に相成候 下に居ル 所へ弓落候て砕言遠く成共はたぬきを入直に弓を 大等出へし且近くへ弓取落し候節は立て居て矢をとり 取に出へし但 おほゝみおすゝみおその所へ返へ家是は三人家是は三日こと 直にすゝみ出弓を取り奉る所へ返へ家是は三足迄の下 其節は了取落したる当人より跡の者は皆 一弓取落したり当人弓を 致さる下に居るべし但し はし本の所へ返へり肩を ぬき乙矢を番たらは其次の者より跡の者 不残立上り甲越射るへし 一甲矢にて頭切なとく飛余人え懸りたる落は下に 弓地如常致しはたぬきを入弓を架込 直に出弦を引落し夫ゟ弦を取巻くへし但人に懸り 居候法を 居小謡を 直に巻くへからす一たん引落し置夫ゟ 取巻くへし 其時は弦切たる当人 より跡の者不残さしはすし不残下に居るへし 初め三足に廻り 後義夏に上ル トヒリタイハイ 解拝 初め三足引時は左ノ足を直に 初め三足 後足滔を崩共に引右の足を少し先へ 後足酒を崩共に 踏出し一足に立夫より 五口也 左の足より三足に引 初め三足に踏出し但し三足目貫一足に踏む 弐足引迄は足丈 後五足に引 一つゝ引へし三足めは 一口之半分犬程引 両足踏揃へ通し 掌根 手代掌心 小札に 馬上沓 馬上沓 とも草の沓 たてあけ キビス、 正成天王寺の合戦に始めて隅隅田高橋が七千の兵にて 討手に向フ時は出て戦て勝利を得再ヒ宇都 宮公綱力七百余人にてせめ来る時は天王寺を 良ひて彼ト不戦 不可違時又不レ時又不レ時 夫将者国之輔也 一真鳥羽ノ切文ト云ハ 輔ハ車ノ真木 呉子既ニ魏ノ大将トナツテ西河ヲ守てより 秦の国兵曽て魏の境ヒに臨マサルガ如キ 一真鳥羽ノ切文ト云ハ文の能わかりタル羽ヲ云但し文の能分り タルトハ矢羽ノ黒キ所ト白キ所ト能カキハノ分多クルノ方多タルノ也 文の能わカリタル羽ヲ云但し文の能分リ たルトハ矢羽ノ黒キ所ト白キ所ト能カキハノ分タルノ也 此書は小笠原流のこ伝書也 ○弓馬興秀記抜書 天文四年八月十日之記也 一弓馬に五物揃たる射手と申事あり歩置犬笠懸小笠 懸縮濃守此五ツの条目成へしたとへ五ツ物まては 射そろへすとも、口伝古実をは学ひ知へし五ツの 一内に一ツもかけたらんは、無念の事なるへき歟、 一三つ物揃たる射手と申事は加ち立木笠懸 ナリ、三ツの中に二ツの作物をは習うけすは、紫 金正敷法にもはつれ事をかく事のみ有へし 弓の本末につけても人の不覚に思はさるやう に、平生嗜稽古すへき事、 右明治卅一年六月一日摂水之事 12688