傳奇作書拾遺

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西澤一鳳編
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デンキサクショシュウイ
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東北大学
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狩 3册 西澤 文庫 伝奇作書拾遺一 一那にはまに産候所 作者此たひ 西沢 □□□□□□ 冬心程 当宅 冬籠鬼 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 一風雨 西沢 文庫 ○同所作書拾遺叙 往昔北條越後守平顕時は武州金沢に文庫を営 建して内に和漢の群書を納め儒書には墨印仏 書には朱印を用ひ世に金沢文庫と称し上杉安 房守憲実再興有しかと荒廃して今は書籍散失 せりと聞此西沢文庫は予か友西洋李叟が其祖 より伝はる竹は両派の院本は原より八キ字舎が 戯編を集めもて墨印を押亡父の集めし三都戯 場狂言の正本には朱印を押数万巻の書を綺語 堂に蔵むる実に西洋文庫の名偽りならし曩に 天保癸卯の春康照帝が天地一大戯場の聯句を 世事是狂言綺語と賦し言狂作書三巻を著し翌 甲辰の冬なにはつに作者此たひ冬籠と自詠し 讃佛秉三巻を輯録せしは狂言綺語堂の謂なる 有し弘化丁未再ひ東都に遊ひ此夏帰坂して記 行の狂詠戯文を集めて綺語文草五巻讃仏朱弐 釈三巻言狂作書の拾遺三巻を著す李叟は幼名 利花と云しにや湖上笠翁を蒙るもの歟書肆の 通号を本利等と呼て蓮戯三昧風流一風軒伝言 脚色の名を賞して 月雪に花に日本李笠翁 洛東山の隠走 皆嘉永己酉初冬 白髪少年場主識 西沢 伝奇作書拾遺上巻 文庫 『荒井泰旧氏ノ寄贈食ヲ』 以テ購入セル竹閣博士 狩野亭吉氏善蔵書 西澤一風軒李叟編 俳優七部の書の事 元祖坂田藤十郎 一役者論語に舞台百ヶ條を著す 師匠杉九兵衛と 一花車形の書置く書 にして心得を云ふ 昔の作者官 芸鑑 永平兵衛 書置る書あ 永平兵衛 やめ草 元祖若女形の名人芳沢あやめがはなし を福岡弥五四は後人の為書留たる書也 名人のはなしを全か 民屋四郎 耳塵集 綾耳塵集 吉右衛門しるす 五は江音 書とめ 書 賢外集 はとめ賢外某徳川十郎兵衛の俳名を賢外と云 聞覚しはなしを狂言作者来三八 蓮池坊と云は佐渡島長五郎 書記録記録記録 の法名なり今藝者心得にな ○同年右七部の書は俳優家の書は俳優なるもの安永 五申の秋八文舎自笑の板なり芸鑑に曰何事も 時に随ふ習ひなるにわきて狂言の風は時代品 替れり昔狂言尽しの比古今大当りを取し浪人 孟氏神詣の狂言こそ古風なれ 昔狂言浪人盃の筋書 萩山の家中高坂采女といふ武士馬上にて使者 に趣く途中にて道の景気なとほめ家来まてせ りふ渡り采女が曰向ふの舘は聟君のお国なれ は国境より行義正しく何れも麁相なき様にと いへは皆領掌の答あり謡に成ると采女馬をめ くらししと〳〵行向ふへ深編笠着たる浪人者 あゆみ来てしほ〳〵と平伏すれは家来咎めて 何者なれは恋外もの宜を取て片よれといへと も答へなしイヤ推参なと侍共立よらんとする 所を采女ヤレまて〳〵彼者我に向ひて平伏の 体見ゆれは是全く慮外にあらす去なから足を とらぬは心得す是そな男某にむかひ用事有気 に見へたるはいかなる人にて何の用事子細き かんとありけれはかの男謹て采女腹には御賢 固の体先以て大慶至極以前御懇意の拙者なれ と年へたれは声も聞忘れ給ふべし今日此道筋 を出通りと承りあまりおなつかしさに最前ゟ 待受御馬の先に平伏いたしなから御勘気を蒙 し身なれは顔を貴度に見せ申も恐れは又面目 なく存慮ほの編笠まつ平御めんと詞の内采女 つく〳〵思入すてくゝ扨は貴まこそわ前の傍 輩轟弁右衛門殿な此方もなつかしくなる末は 御用の道筋馬上は御め編笠を慮外と申に非す 御顔か見たいま断の段何かくるしかるへきサ ア〳〵器をとり給へ弁右衛門殿に違ひはあら しと詞かけられ扨〳〵よくこそ御推量いかに も弁右衛門か則の果お恥かしやと笠とれは先 は御無事でおひさしやと互ひに経ふし物語り 聊の事にて勘気を得られし貴度申出さぬ日と てもなし何とたらし給ふやと問われて弁土衛 つアゝ忝なき御詞浪人の身なれは朝夕の煙も かつ〳〵習ひ置し謡の袖乞無念とは存しなか らもと誅言過て御勘定かならす時節を待たれ よと其元の御詞をたのみに今日まで命永らへ 其也御上使とあれは殿の御名代御目見へいた す心地仕る是を浮世のおもひ出といたす了簡 随身御無事に御勤めあれおいそぎの妨名残は 尽すおろと泪なからに立行を暫しととゝめ仰 の如く今日は殿の御名代追付御勘気御勘気御赦めは て所領安堵の印の盃をいたせんハツアこは有難 しと又手をつけは采女扇をひらき途中の馬上 取あへぬ心さしの大盃いざ〳〵つげと小性に いひ付れは同しく扇を銚子としつく思入呑む こなしサアいだと弁右衛門にさす此お盃といふ ひお志の深切いつは呑すとてうどたげんと三 度戴き呑む思入はて時刻うつると立さまにお 志の御酒に酔ひたりと足をとひよろ〳〵国を 祝ひ礼をいふに舌廻らす小分ふしこなたは馬は 上に泪くみおさらは〳〵と別れ行幕 此一段にて狂言大当せしと也此余昔の狂言は 多く震たの趣向わけり若衆形の立ものは若女 形より高駄金なり其時分には町々にも衆道は やりし事は自哭其頃が両作の傾城禁短気に男 色女色の大問答なとあり読て見るべし 同氏神詣の筋書 殿さま氏神詣遊され六法の出所作あり跡に曳 馬行列踊り其頃の歌二上り度のお馬はさび月 毛連銭あし毛鹿毛かすけこと〳〵打てはかけ あがりお江戸そたちの髭々男お馬の口をしつ かりとつりてん〳〵髭男つりてん〳〵〳〵つりて ん〳〵わん〳〵〳〵〳〵りんとさねたるいさみ馬 つなぎとめたる恋のせきおと此哥にて舞台へ 来て殿皆々太義じや休め〳〵家来手をつき先 殿様には神主方にて御休息と歌にて皆〳〵は いる奴ともはけしきを詠め小性の器量を評判 して艶之丞かよいイヤおらは友弥衛に惚れた と色〳〵噂するを待出て何をたはこと御小性 の噂今一言いふて見よととかめられてそりや こそと跡をも見すに逃けは入るれは神奴お神 互〳〵と呼わりて侍は入る所へ籠ら丞出神前 にむかひ柏手打主君国家太平御武運長久と祈 念する折から茶道珍才うしろに立艶之丞が袖 をひき小声になつてそのもとのお為を申さん 殿さまの御寵愛は其もとお一人と思ひしに此 間は専ら左弥とのに御鼻毛を延し給ふ拙者は お使に参るこなたは神主へ参れと仰付られは 跡にて友弥屋と殿貞契らせ給ふはかりこと御 油断あるなと焚付て御使に走りいる龍之丞は らを立扨ら友弥め惜やはら立やと好みのせり ふある所へ殿えおたちといふ内に家来あまた 出て並ふ殿立いて給ひ友弥に従せて雖之丞を 呼給へとも返事せす故見給ひコレヤ鶴之丞も はやあらふ是へ参れは少爰へこいと手を取引 よせ給へは龍之丞物をもいわす殿の顔を見て ふいとふり切橋をりへは入る是は扨きやつも ツイと行おつたと草履取を呼ひ給ひコリヤ号 之丞が仕かたはどふじやあろと思ふぞと尋ね 給へは草履取又陵の顔を見てふいとふり切ツ イとは入るかくの如く家来ともを壱人〳〵呼 て問給ふに皆〳〵同しくふり切はいる扨もめ んような事今ははや引馬斗りに成たと馬を引 よせコリヤ馬よ何と難之丞がふいといた心の どふであろと思ふと問給へは馬も徳の顔を見 てついとは入るが幕なり 今思へはかやうな狂言が大番とはおかしき様 なれともその比の見物かゝる狂言をあつさり とおもしろく思ひ又役者もかやうの狂言を能 こなし勤めけるとぞおもはる 北の新地五人切の実説 元文二己の年薩摩の侍早田八右衛門大坂北の 新地方根崎三丁目大和屋重兵衛夫婦并桜風呂 抱へ菊野といふ女郎下女弐人都合五人を殺せ しあら増を尋るに八右衛門菊野に思ひ込み段 〳〵と欺かれしより事起はしなり八右衛門は 留守居に付添ひ登り居たるが留主居の此年の 五月に帰国の日限来り留守居とともに国元へ 帰るべき所国許より時計のおほらへこれある ゆへ先達て竹田近江すへ誂へ置しかど甚た六 ケ敷細工なる故出来隙取止事を得す八右衛門 は大坂に残り時計出来次第帰る積は也さて留 守居は弥明日御帰国とて銀主より北の新地に て振舞いたしける刻八右衛門留主居と同道に てかの茶屋にいたりぬ銀主よりは馳走として 芸子法師幇間其外野良まて呼よせ心を尽して もてなしけるに留主居の相方いよといふ女郎 此節病気にて引籠りつとめなりかたきゆへ甚 一残念におもひ妹女郎の菊野に然この訳を語り 我代りに勤呉よと頼けれは菊野も世話になり し姉女郎の事ゆへ早速納得して留主居の伽を 勤めぬ此時八右衛門は菊野を見染そつこん思ひ ひ込て何卒我相方にせはやと思ひ居たりける が座敷は手をかへ品かへ品かへ馳走にて各掛塩よく 興にいり夜も明方に成りけれは略を告てるす ゐは帰国の出船しけり跡に残りし八右衛門は 夕見染たる菊野の事出すれかたく夜に入ると 昨日の茶屋は如何とおもひ大和屋十兵衛と云ふ 茶屋に行て菊野を呼に遣しけるに早速菊野来 りて八右衛門を見ていふはちなたは昨日のお 吉八匁その席の出るすゐ全の御連中逢升事は おゆるしとふられて八右衛門は当惑なからイ ヤ〳〵それは苦しからぬ事かの留守居といふ は此度国元へ帰られては再ひ当地へ来らるゝ 事なしすりや此夜限りといふ物なりなどゝ詞 を工みにしていひけれは菊野もかれか真実お もひ込たる様子故日柄内證の借銭の助にもと 思ひそこ〳〵に相手に成て其夜は座敷斗にて 帰りける夫より八右衛門は昼夜となく通ひし 故菊野も打解たる顔して善買への鏡袋拵るの し金をせがみ取その上着物迄もこしらへさせ 取ることはとれとも老角病気を云立逢わぬ様 に立廻はしこそた理堂島中町銭屋善兵衛といふ ふに菊野はふかていひかわし居れは日柄紋日 は八右衛門に貰わせてその身はみす〳〵な病 気をいひ立銭善かたへ行てしのび逢ふ事毎度 なり八古まつも初めのほとは左も思はざりし が我を出し抜銭善に忍び逢ふ事を聞其上誰が したりけん狂言にさせ〳〵といふても安い薩 摩様とけて菊野がすく欠とおもひと云ふらし けるが後にはすこし違へてさせ〳〵といふて もあらひ薩摩様すかぬ此身は譬身をけづると てしもときやせまひと首を付三味縁に合して はやり歌の様にうたひける是に依て八右衛門 今は早堪へ兼おのれ候女め一討にして家も腹 切死なんものと覚悟きはめしきつそうを伴助 といふ家来夫と悟り涙をこぼして段〳〵異見へ いたしける故八右衛門も納得して先事まぬ然 れとも菊野にかゝり時計代の金百両の内廿両 遣ひ捨て不足と成しゆへ是に行当り当惑いた しけるか爰に傍輩の若侍ふ宅之進といふは八 土衛門の親父に世話に成り学文兵衛の師範た るにより八右衛門とは別て懇意に交りける依 て八右衛門が此頃の行跡合ゑゆかすとおもひ ひそかに対面して淫切に異見いたし其上詰ら ぬ事もあらは申候へ手ふ合そ義ならバ何にて も承らんといふに八右衛門大によろこび菊野 に欺かれし始終及金子不足せし事迄不残心底 を打明語りしかは宅之進も外ならぬ八右衛門 か事ゆへ早速金子調達してわたしけれは八右 汝つ押いたゞき〳〵扨々かたじけなし此御恩 死しても忘れ不申と懐中し最早此金ある上は 当地に滞留にも不及明日帰国いたすべしとく り返し〳〵一礼のへて別れける夫より八右衛 つは時計も取寄出船の用意を致し置て知音の かたへ唯乞に廻りしが何方にても順よの盃と て酒を出たせし故殊之外酩酊におよひ猶又し るへの茶屋へも行んと小歌を諷ひ千鳥足にて 曽根崎三丁目大和屋十兵衛方へ越ける此節菊 野は八右衛門が重ね〳〵恨みす噂を聞万一あり やまちあらんかとて親方より外の店へ預け置 やがて八右衛門帰国なれは暫しの間忍ひて夜 はかり馴染の容は勤め居し也扨も八右衛門は 大十方へ来り暇乞を告其上にて菊野が事を守 しかは十兵衛妻とめ答えて菊野は京へ仕替に お出なんしたといふに八右衛門も誠におもひ 多葉粉一二ふく呑帰るとて表へ出しがそこ爰 にて呑し酒ゆへます〳〵酔に乗して見世付女 郎をなぶらんと新地中をかけ廻りてぞめきけ るがかの我方にあてし小歌を往来の謡ふて通 ふを聞とたちまち怒りの心火くわつとせしが 能おもへは此地に居ざる菊野なりと杓をおさ たてそこ爰覗き歩行てあらんとせしむかふよ り菊野何心なくわしや大重へすかぬ容て行わ へといひつゝ摺違ふ計に行過る比は七月二日 やみはあやなし掛行燈の灯の明はにて顔はさ だかふわからねど声は聞しる菊野めと振帰り 見れはちよこ〳〵走りにて行後姿寸分違はぬ 菊野めおのれ此たゝ置へきかと跡より付て来 りしが菊野は八右衛門をちらと見たるゆへ急 ひて大重へ走り入其まし二階へ上り声もせす して忍ひいる此夜二階の吉は銭屋善兵衛堂島 平野町絵屋仁兵衛幇間磯八仁兵衛相方湊とい ふ女郎と都合四人未合せ居たりよつて菊野を 呼にやりし故泊りの約束にて来りし也さて引 つゞいて八右衛門は大重へ来り声をあらゝけ て大坂に居る菊野を京に居るといふて武士を 欺くかといふに書のとめはつと思へと隠しか けたる事ゆへ吹付はいたせぬ京に居なさるに 違ひはないと云に八右衛門いよ〳〵怒り二階 へ上り菊野めを引摺りおろせんとはおもへと もさすが武士容の座敷へふんごむも如何と胸 をおさへて然らは京に居る菊野が今此内一這 入はしはいかに我とくと見付跡より付て来た りと云ふとめ笑ふて夫は湊せんじやといふイ ヤ菊野じやと争ふて居る所へ家来伴助は土産 もの土買調へ主人を待とも帰らざれはこゝろ えなくおもひ先新地を尋んと此場所へ来り様 子を聞て胸をいため何卒無事に旦那を伴ひ帰 らんととめにむかひさほと湊に違ひなくはそ の湊とやらんを是へ出して旦那の御目にかけ そへと目でしらせけれはとめ早くもさとりそ んなら漬さんを呼ひ升て参り升ふと二階へ上 り湊にとくといひ含めやかて二階より連て下 りしかは湊は八右衛門がそばに行最前松みよ の門て行合升たはあなたりかいなわたしや爰 へ気をせいて来たゆえとなたやら覚へません 私を菊野と見ておくれなましたかヲゝ嬉しと いふに八右衛門はこやつも同し左の狐ともも ふ了曽がとも思ひしが仲助の手前又場所も悪 しと熊み面を和らけいかさまそふ時は身ども が見違に極まつたモウよい〳〵と機疑を直し 一暇を告て表へ出おのれ夜更なは斯〳〵とと東 を極め半町計り来てふと見かへれは後より伴 助付添ひ来れは八右衛門立留りコリヤ伴助その すも明日国もとへ帰れは又と当所へ来ること 成かたし最はや今宵限りなれは大坂の女郎を 買ふて国もとへ土産にせよと露銀少々遣し見 世付女郎を買ふて其身は壱人と成り今は心安 しと又新地中をあるき夜の交るをぞ待居ける 大重家内は水ふ汗にきり居たりしが八右衛門 機嫌直して帰りしかは各吐息をつき先安堵致 しぬ銭善は最前より二階にふるふて居りしが 気色あしきとて磯八を連て帰りける跡は仁兵 衛湊と二階にとまり菊野はとめと下庄屋の蚊 帳に二人臥し其次の間に十ヶ浦臥し台所のか やには下女二人ふし居たるに次第に夜もふけ 皆〳〵前後も知らす寝入たり扨は右衛門は既 に長満の比になれは時分はよしと立戻り十兵 るがとなりの路路より這入裏へ埋り庭先の切 戸を押はづし縁先へ来り見れば暑にや雨戸を すこし明かけあれは直に座敷へふんどみ蚊帳 の外より伺へは菊野ととめは前後も知らす寝 入ばなしすましたりと釣手の四てんを切落し 蚊帳の裾を一ツに束ねねち結べは袋にいりし 花のことく二人はいかにもかけとも出る事か なはす声を立るところを蚊屋越に刀をもつて とざ〳〵と突けれはわつと苦しむ其声に十兵 一湯目を覚しやれ盗賊よと呼わつて蚊屋より出 る所を飛かゝり肩先一刀切付返すかたなに右 の腕を切落せはそのまし爰に倒れたり産所の かやに寐入りし下女二人はなきさけびてにげ 出んとする所を八右衛門走りよりめつた切に 二人を庭に切倒す二階には仁兵衛と湊さい前 より此ありさまを見て魂きへ手足の置処なく ふるひ〳〵かけ廻り表の方の戸を明庇の上将 る目かたしを破り是より飛下んといへと湊は とても飛ふ事叶わねはたらへ切らるゝとも爰 に居んといふ仁兵衛も湊をのこし置ん事不便 におもひさらはいつれにても隠れ忍はんとか しこの押入の中へは入れは長持の上に蒲団を のせたり此ふとんを身にのせて二人は長持の 上に忍ばんとする拍子に天のたすけ給へる命 にやわづかにせまき長持の向ふへ二人とも落 たはしが幸ひにして忍ひ居たり扨八右衛門は 五人の死骸を片はしより伺ひ少しにても息あ るを審通し〳〵て今は心よしと悦ひ猶二階に 告ある体助け置じとかけ上り爰かしこ尋ねま はり釣たる蚊屋を引まくる拍子に侍なる行燈 打ころびて灯きへしくらがり物のあいろも見 へされは抜身を振り廻し探りもて押入の長持 ふた引あけ抜身にて突廻れと夫と手答へあら されはかく蚊屋釣り寐たる跡あれは何にもせ よ居るに違ひなしと猶二階中を尋ねめくり表 の方へ来りしき戸明枚し目かたし板の破りた るに扨はこゝより逃帰りしとおもふ折ふし鶏 の音八声を告るに心せき今は是迄と去りもと に行井水汲て刀を洗ひ身を捨らふて一さんに 屋敷にそ帰りぬ扨夜も明け百姓小便取に来り 見付かくといひしかバ追〳〵寄集り猶聞伝へ 一池町遠方よりも見舞やら見物やらその騒動大 方ならす直さま御公儀へ御届申是によつて早 速御検使下され御吟味の上打給は大体八右衛 つに遊り直に薩摩屋敷へ仰せ遣はされたるに 八右衛門は早出船致したるにより早船を仕立 追かけ早速召捕牢獄仰付らるゝ夫より明る午 年二月十二日八右衛門死罪の御仕置被成首は 千日に乗首になり掛り合の銘々も事相済けり 右の一件を廿一年立て浄留理に取立薩摩歌妓 鑑とて宝暦七年に出せり歌舞妓には国言詢音 頭とて出す又薩摩歌五人切子とも外題をかへ てせしかどもさまでの当りもなかりしが浄留 理には木偶の名誉吉田文三は宝暦年がつかふ 八右衛門の人形楽屋にて夜な〳〵動くなど人 口に膾灸す安永六年浄瑠理にて置土産今紙上 布と外預して右本文の通りを取組たりこれを 歌舞伎にとりたて初嵐元文噺とも呼けり此頃 早田八右 の浜芝居にはあれど佐久間源五兵衛沼田八石 一伊助萩 笹野三五兵衛伊勢守宅 柴崎林中間伴助家来伊助様 一同断同同同村其銭屋善兵衛を絵屋伊三郎とし南 野大十なとは名をそのまゝにてして大当りを 取けり此薬崎林左衛門は実悪なれど当芸多き 名人にて八島日龍の巣清釜か渕の五右衛門殿 月の八郎兵衛なと古今になしと嵐に六十六匁 もほめしとなり此某崎の咄し後此源五兵衛に て五人切の所は故人吉田文三郎の人形にせし とふり死骸の腹の疵口へおもはす足をふんご み足先に腹臓を引かけ上る思入物すごきこと 見物身の毛よだちしと毎を老人の話に聞たり 此薬崎は実悪の役者なれは八右衛門の役を敵 役にてするゆへかゝる凄みを思ひ付しもの也 今専ら用ゆる五大力の源五兵衛は真立役なり 一ツに混する事なかれ扨前篇並木吾瓶か伝に 出たる五人切は寛政六寅年中の二の替りに島 廻戯聞書とて嶋津の狂言の継に勝間源五兵衛 尾上新七笹野三五兵衛に片岡仁左衛門芸子菊 野に芳沢いろはと見込本文にかゝわらす書て 狂言の筋一変す前の時代の間は評あしく高市 の場より毎日大入をするゆへ奥たけを裂て後 に五大力怠緘と外題を改め三都におよき伊勢 尾張にても仕はやらせる事とは成けり是吾瓶 の手柄にして五大力とは神か仏の名にして既 に住吉神亭寺にありて其ころのはやり神なり 状の対しめに五大力と書て送る時は他見を忌 みて滞なく達するとて其比は専ら泥行しける となり吾瓶三五兵衛との役名より計らすこの 五大力を遣ひしが今五人切といわんより五大 力の方通り名となりけり元文二年より今年迄 百十三年になりけり 宵庚申桂川の話 大坂新靭町の八百屋半兵衛嫁お千代と心中情 死したるを直に浄瑠理に雪庚申として出せし は誰もよく知りたることにはあれと予幼少の 時新籾の老人の咄しに聞しは実説も浄瑠璃の ことく只違ひあるは八百屋の姑婆々は虫も殺し さぬといふ程のよき人なり伊右衛つといへる 老人もあながち悪人ならねど兎に角若ひ女好 にて下女雇女を胎せる事度々にて嫁お千代を 口説こと甚しけれは姑にこれを告れとまさか 男の半兵衛には此事をいひ兼年月を過すうち 半兵衛は用事は用事は用事はて遠国へ行長らくの留主中な れは舅伊右衛門かゝる折にこそ本望を達せん とてか昼夜とも透間さへあれは嫁をくどく老 一婆これを重み毒におもひ常盤町の伯母の方へ 預け世間の人の問ふ時には連合の悪性よりと はいはれすよんところなく嫁の身持家風にあ わぬゆへ預けし抔答へけり半兵衛帰宅の上は 子細なくお千代も呼戻せしが伊右衛門はます 〳〵煩悩の犬の如く人目をかまわす口説聞入 さるを根にもちて養子聟半兵衛がすこしの仕 あやまちも仰山に罵りけるにぞ老婆も種々と 諫言しけれど伊右衛門は猶逆立物いひの絶ぬ ゆへ義理にせまつて暇を出し宵庚申の夜追ふ はかなき情死をしたりとぞ浄瑠理にかく時に は老婆を悪人にせぬ時には憎み増さぬ故にや 門た衛門の作意より善人かへつて悪人といは るゝも老婆の不幸なるべし又皇都虎石町の帯 屋長右衛門信濃屋おはんの跡を町内の境江好 者家穿鑿して百田忌の追善を営み遣はせしと 云ふこと已前隣町に住友より聞し事あり是も 一歌舞伎狂言浄瑠理とは違ひお半懐胎したれは 身二ツにせんと丹羽の親類へ預けんものと長 右衛門付添ひ夜深く立て樫原へ行んとする途 一中にて盗賊に逢ひ旅用金着替等を奪ひとられ 両人ともにしめ殺され跡の死骸を心中情死の 躰にして桂川へ打込れしなりとそ其後盗賊相 知れ御仕置になると聞此狂言は安永元年歌舞 妓にて取立勝桂川といふこれを堀江市の側此 太夫座にて安永五申年浄留理に仕組桂川連理 柵とはいふなり近頃お勘長三はとておはん長 の前生を拵へしは月桂新話といふ小説物より 出たるなり 鶴屋南北か遺稿暫の写 本堂三宝の間七字の題目左右に四季の造花能 所に浅黄の掛無垢をかけし棺を直し此前に色 〳〵の餝もの惣て南北華式好の道具半鐘に連 れ奉納の幕引あける 一地鶴屋南北 第三回忌に 相勤申候 鶴野孫太郎 一周忌二代日 勝俵蔵 極らくの津らね ト直に葬礼の鳴物に成り向ふより袴股立 一ヶ所の椎脇四人地燈籠を持敷石の上にたち並 んて 四人今度此たひ老人のよい年だけによい往生 二ツ合せてよい〳〵といへは四神は当り まへ夫にはあらぬ蛇どうろう四人一所に 差かけべいか ト又鳴物に成てみな〳〵本堂へ来る此時 霊にて よひ葬式の刻限卜是にて施主みな〳〵宜 く住ふ それそ身より佛心に至るまてたもちた もつも法華経の御法の徳や題目の利益 の程こそわかたき ト異より仮僧呉服屋へ誂の袈裟衣所化弐 一人後に上下の世話人天蓋を差かけ須弥 一種の前へ押出す是を見て 施主是ハ 世社人けふ御住持の他行により仮りの引導 仮僧一天四海皆坂妙法落る所は法華壱人の成 仏と祖師の極めし宗市のいしづへ皆題目 をとなへ路ヱヽ 皆々只〳〵御悔み申上升る ト此時向ふばた〳〵にてのりをくれの旅 主高股立にて薬鍋と帛紗つゞみの短冊 を持走り出て 旗主まつた〳〵成仏解脱の御引導暫く御侍被 一下升ふけふ葬式の供にもおくれ参りしも 南北をせめてま一度いかしたくそれ故持 参の独参湯かつは是なる辞世の短冊御境 被成て下され升ふ 卜仮僧の前へ出すひらき見て 仮僧遺言に辞世発句とすゝむれど死ぬ気なけ れはとんと失念 一於主サア死ぬ気ないとの歌の心何卒蘇生致さ せ度夫故持参の独参湯 世話人サア役にも立ぬ独参湯呑せし上にて生る とも年をかそねし上からは苦痛をさせな は大きな罪さすれはこなたはきどくな罪 たぞ 一旅主きどくの罪との一言に手出しもならぬか トほろりと思入 世話くいらざるざる落るい黄泉のさまたげイデ此上 はいそひで香利引導終らば龍王の面〳〵 とく〳〵焼香 十一誰主委細畏つてくり升 トどろんと葬礼の太鼓に成り施主きつと 成て股立をおろし并能居並ふ仮僧たいま つを持て棺に迎ふ所化髪剃を持扣へる此 内始終わや〳〵と題目の声よろしくわて 仮僧仮名仮僧仮の浮世に仮僧が祖師の利益をかうべに いたゝきイデヤ冥途へ引付ん 所化寺法なれは仏を改め香利せん鶴屋南北今 が坊主だどれ ト立かゝる此時棺の内にて 南北香刺しばらく 世話人イヤアしまて〳〵今香利引導一時に成仏 させんとする所へ 一飯僧しはらくと声をかけたは 何やつだヱ々 南北しばらく〳〵 皆々暫くとは 南北暫く〳〵しはらづう 〽かゝる所へ往生なしたる南北が トどらにやう鉢に成り棺の内より南北い つもの仏の拵へにてひよろ〳〵と出て べつたりすわり 得入此上どう行かふみもならわぬ六た をまごつきあるく有様はかなしくも又 あはれなり トよろしく有て住ふ皆々是を見て 世話人まて〳〵今暫くと声をかけのたとりつん 出た仏を見りヤア黒船のぢいさんだなな ぜ香利を受ケないのだヱヽ 一南北葬礼南北即身成仏天地乾坤の其間に人た る者の死なさらんや命は自身の持まへに て当年積て七十六才何と死にはまだ早い ではくり升せぬか早ひかお徳此上に生て 逆さま有る時はうき目三升に業恥を柿の 素袍にかき衣帽子筋隈ならぬしはづらは 猿が人まね何事も無学文盲才もなく書く 狂言はそれ仏又は葬礼度とに出した報ひ が廻り来てけふは此身の葬式にお出の御 方へ清めのため一ばんさきに払ひ升う一 一夜ひたら青々と鶴は緑香舞は末書東方作 者はツイニがつとは浦山しくは御道洞三 浦の大助明六ツから七字唱えて八苦のう れひを十でとふ〳〵往生致すとこゝつら まつて坊主 世話人扨はこいつは魔がさしたな差詰引立はお 迎ひ僧かあたりまいでくる 誰も誰かれと申そふより旅主の事なりかつは 皆々様へ御礼がてら惣一座で参らふ 南北イヤ〳〵わいらがいたにも及はぬ折角御 出の御方〳〵へあまり失礼だ爰は一ばん 新らしく晩には沸が自身にゆくは ヤアヽ 南北夜はこわいからひるま出るぞ 皆々ヤアヽ 南北旦那寺あらすぐにゆくぞ 一百四十一日 南北同年の尻は用心しろ ミア〳〵ヤアヽ 南北去らば棺をはかき上かき上ケべいか 卜葬礼の鳴ものに成り本堂の真中に居直 りがつとりと往生する是を木のかしら に題目だいこになり此折家主羽織袴に て出て 家主東西〳〵どなたも遠方の所御足労に存升 まつ南北はこれぎり ト是にて葬礼おひらき 一同三升 大渕 一観世界蕪のほさつの立作者 魂祭之砌任聖霊之幸便に一筆啓上候亡者事も 無異義極楽往生致松縁弁楽善井御世話にて早 速井の仲間入蓮の台の借家住然るに勝兵助源 八瓢七の并達何不自由なく歌翁被参世話致し 呉ようち二代目俵蔵もまいり殊に皆近付の井 達なに不自由なく歌舞の音楽にて遊ひ申そな れともうなぎもこぢ付ては鼻につくとやらち と地獄へもいて見まほしく皆々打連れ参りし が彼方も聖代のしるしにや罪人もすくなく図 すとのも噺し相手のほしき最中大歓ひにて問 磨王言に逗留のうち先達而参りし二代目松井 幸三地獄へも落ず極楽へも行すごろつき井と なりはや牛頭馬頭とも心安く地獄の事なれは 鬼殺しはなく三途川のいふ銘酒を呑みあげて の果が赤鬼の尾の皮の皮の禅をそふずの姥の処へ 質物におきあちらでも困り申候扨閻王申さる るは此土に長く住めといまた暫くも狂言を見 たることなし極楽には元祖よりして代々の国 十郎笄も居られ候得共地獄より極楽へ呼寄る もいなものなれは打すぎしが皆々参られしこ そ幸ひ打寄て暫くの狂言がさせて見たいとの 事達て辞退仕そへとも再三の進めいなみかた と閻魔のうけ赤鬼と幸三の中受け元トの囲八 鯰坊主源八その外太刀下にて蒲の暫くと役割 致し候所地蔵井の申出されしには我等活屋の 苦承りそはとかく早桶が出ねは南北が狂言の 様に思われず殊に葬礼の暫くまだ聞ず是非其 仕組が見たきとお好にまかせ南北往生記と申 名題にて仕候亡者御近付様方へ別紙狂言自作 のつらねを奉御覧入共乍去御心遣ひは御無用 此方へは何も届き不申先は盆便の時を待ち候 一空々寂々一心院法念日適居士右暫くの達ねは 前篇に解鶴屋南北鮎獺生前は寂光門松後万歳 と共に書置たる遺稿にして鰯直江屋重兵衛も 南北現せし翌年死したりけれは二代目勝俵蔵 〇一月忌と祖父南北が三回忌に摺物にして配り たる也孫太郎也孫次郎は今の南北なり松緑ぼさ つ 始松助今は 菊五郎親 一坂東彦三郎 楽善井 俳名薪水 勝兵助勝井源 〃〃〃〃〃 皆 八階植井兵七位二代僧松井幸三代松井幸三代新半三代新半二皆 此比死したるもの故文中に出せり祖父南北合 巻双紙物を書高砂町に住せし故名を姥厨助と 呼ひたり 三升屋二三升屋二三治が話 札差とて籏本衆 三升屋二三治は原浅草御蔵前 三升屋二三升屋二三治は原浅草御前前力同心の赤形 理ふの相応の暮しの人なるが此道に入て終に 世に蔵歩者といへは一 業を捨て人に存命なり 流立て往古大八大通抔 とて活融に云ふ堂に云ふ堂而そたち祖父南北と親しみ 深くまひにおかしき新らしき趣向を負しおと らじと思ひ付果は否がらせる事のみを案して ある秋南北風邪の心地とて臥し枯たるを見て 二三治宿所へ帰り其比霊詰御医師に吉田快庵 と云は二三治至て心易ければかの御典医を頼 みて本供にて南北が住所高砂町の裏店へ長棒 の乗物にて行南北病気ゆへ二三治より頼みに よつて見舞ふと東内させて入けれはあふ驚き 床の上より這出て恐れ敬ひ誤り入る典医は御 立にて跡に若党中間両人残り酒代をよふ南北 再胸りしていかゞしてよからふやら始て御典 医の御見舞に預り当り付私はいか程と問ふに 若党何れの町人にても金百疋也と云に誰方な く其歩出して帰し此偖こそ正敷二三治が思ひ 付にそむやくしかとて二三治白金清正公へ月 参して聖坂に大野屋と云水茶屋は爰に美敷娘 有て一両を爰に休を早浮居に立南北是を聞て 女の名と二三治の名を書紋を聞出し男女の比 翼紋付たる挑灯を清正公の神前へ拭させ所々 の近付へ風靡して二三法に困らせしは已前の 医師の返報とぞ知られし斯る馬鹿〳〵敷咄のは を哥舞妓作者とも云べし年々人世事賢く也行 て風流滑稽成人を聞ず此二三治国人と予と故 人桜田左文が名誉浄瑠璃瑞蝶宿ニ云八百万菌生梅 枝此口説の文句の通廻りた合点にて行見んは 如何と春日永の比両人旅仕度にて早朝ゟ出し 事は委敷は予か著述綺語艾草東都の部に出し たれは爰に略す二三治老年なれと健也されと 武場の交りむづかしとて今年嘉永二己酉の三 一六段二丁民士一貝吉田九兵部作 流行候顔競 同社名浦嶋太郎作 一作名三浦大助 第一番に見立申候 板元 東方作兵衛 三升屋二三治 早淵村 じだらくのつらね 三升屋自作 月戯場を移してしだらくのつらねを著して風 交の先らへ配るゆへ爰に出す 三升屋自作 しだらくのつらね三升屋自作 当時難渋北狄母間の噂にも年が寄たで追込と 言れぬ内にお暇をねかひ揚帯出つゝのむかふ 音羽屋さんにもお世話をうけ上座にかゞやく 金冠金がないゆへ三十ねんくるし借着もよふ 〳〵と御礼がてらのしだらくはつらねの初音 初がつほ辛子がきいたかよつと聞こともおろ かなそれがしは成田屋ののれんうちにて城木 屋おこまじやなけれとも聞へませぬは此はる から遠くは八王寺の三太はが肱股耳目と呼れ たる聾太は耳遠当年つもつて六十五才なんと 赤ひあたまじやござりませぬか鬢がひつこむ 足えも親父はしれた正真正銘掛直なじみのい つれも望へ申訳やら面目が内證しつたひんて んからしゆばん古ぼろふる布子古金買にうり はご板思案も尽て明俵三だら法師とおもへと も何にも白髪のお目見得は素袍も柿の下手作 者格栗三年柿八代目出度丁と身のおさめちや んころなしの木摺子木のつかいながしのでく の棟左斎邪ナといわれても御存しられた持ま へのわんぱく爺の根元とこゝうやまつてモウ お仕舞 一江戸芝居外題付方の事 既に前編にも述たる江戸三座歌舞伎大名題を 付るには文字にかゝわらす上下の仮名の相性 をもつてすゆるいふ五代目白椀市川弥玄蔵よ り木村墨治米富にいふへおしえしと云白猿自 古作者なり 筆の歌に あはやつちたらなは大なりさしはかね はまは水にてかは木とそしれ この書三代目桜田治助能名古米宿にそより余 に送れりゆへに所蔵すまた瀬川如皐も此仮名 の相性を見て名題をすゆるその歌すこして違 へり アハヤ土金ハマ水タラナ火ぞ力ハ木な れとも土もぞくする 土アイウヱヲヤイユヱヲヤイユヱヲヤイユモソ水フヘ ホマミ火タナツテトナニスネノ木刀キクケコトモ にぞく此意をもつておせは北條時頼能等は水 なりキハ木なり水生木縦名手本忠臣蔵力ハ木 なりラは火也木生大彦山権現誓助釼ひは水也 ちは火なり水刻大箱根権現焼仇討はは水なり ちは去なり水剋はこの相剋をもつて東都には 外題をすゆるといふ京揃にては余り用ゆる事 を見す 役者年暦珍重記 一枚摺にしてうらは三芝居楽屋雑書瀬川如阜 が武作なり爰にいだす 一卵 五辰 ㊃印 寛永一 寛政子子二丑三寅四郎 桐長桐座 相長座元祖 かつらき太夫 此頃女かぶ 中村勘三郎 此頃中橋に 此ころ丁切 此比女かぶ 幸若与太夫 とはん東所々 日本ばしに高 中橋に於て づゝにして 生島丹後と きつ禁制 き所々には 一天文の頃初ん にて興行 札立女かぶき 櫓を上初て いふかぶきす 打出し也 いふかぶきす 興行 興行 十五寅 十六郎 十二子 十一戊 九申十丁酉戌十七壬子徳巳丑寅 九 きぶねの道 此頃の狂言 万川千之丞 村山又三郷小 作弥九兵衛 村山十平治 きねや喜三郎 行よこ箱 中村勘三郎 行よこ笛 わき町一 さる君の相 きや町にて興 上方ゟ下ル 一ト切もの也 今川為之介 うつる 手勤る 一行市村庄元 所作 祖也 四亥 正保申 十七辰 此せつ大かた 長唄にてお とり狂言也 多川庄左衛門 小冠庄左衛門 右近源左衛門 丹州六法此 ころさかり也 此ころびん 早川はつな 久松喜三太 竹之丞座へ 明暦未 承応辰 四郎 ニ已 慶長子二丑三寅四郎粟屋辰二巳三午町屋未 此頃河原崎 柱之介京ゟ 下り木挽丁 さかい町へ うつる 公命にて女形 市川の先祖 まへかみを 堀越何某 江戸に来る 村山又三郎 村山又三郎 ふきや丁二 代目市村 羽左衛門 市村往にて 市村次して 一日のつゝき 狂言初る たくだて かざけつけ はしまる にて興行 寛文廿 三卯 申三酉万治中二十三子勇文せ二寅三 ㊂ 十二両国路中 引まては 二代目明石 元祖猿若 森田太郎兵衛 芝居類焼 勘三郎宛 勘三郎 興行 七行 木挽丁にて 芝居ふる 桐太郎様 びき丁にて 興行 花川作弥 柴崎桂之助 もり田勘弥 相座元 是も ○辰巳未未申付 四代め市川竹之丞 玉川主膳桐座 此ころ飛道 附舞台 堺丁ニて興行 子四百七石七巳七未未 此頃村小長大夫 三代目中村 山村座にて五月 霧沼瀧江 大坂伝吉木 四代目中村 三国彦作 芝居木挽町 勘三郎興行 そゟ狂言ふる 市村往々 村喜左衛門此 勘三郎 此頃の にて興行 五郎時宗元祖 比の立もの也 乍化也 はやしがたいが らし嘉蔵な 元祖中村廿三ツヽ なり曽我十郎 丹前大当り 中村誰正月 元祖伝九郎 ぬて女朝比 此頃迄は立 やく者自分に 狂言作りし也 四代め中村勘三分 隠居して伝九郎 ト改居奴あら事 朝比なの一サ山也 五代目中村 勘三郎興行 浅尾十四郎 元禄辰 松本左源太三 条勘太郎上村 かまん此頃の 先祖江原崎 柱之助死ス 市村八代目竹 之丞興行元 但市川団十ツヽ 一若山五郎兵衛 てれん幸兵衛 小唄の上手也 一杵や勘五郎 ぬれほれす 奉存候様 一小筒又三郎 中村庄屋 女形なり 立役なり 京都村山平右 浅草座ゟ市川 団十口中村談 元祖中村七ヶ所 京都市川九蔵 八才にて初ふたひ 市川ゑび屋也 元祖団十ツヽ 明神上人 外記上るり 此頃萩の沢 之丞むらさ ほうし初める 岸田三才治 下り京みやけ 竹馬の布作 祖松本小曲は 石山源太郎殿 しばらく 宝永申 元祖市川両千口 死九蔵二代目 団十郎殿 大吉記 去年二月廿九日 東文太郎死同 八月萩の沢の 二月二日元祖 中村七三郎宛 二代め団十一日 こめの八郎か 艾売のせりふ 大当り なには死 正徳郎 十月小勘太郎 享保申 松死ス 十一月市川君 十月元祖中村 伝九郎村山村 座とて初て国 十郎助六本名 田みたの女也 七月森田社にて 団十郎扇殿 のつらね山村 座芝居上候 中村庄方氏大 初帳団十一日 松五はかけ正 初て暫く 中村座にてやは らき曽我助六 一団十三郎太夫 上るりはち巻 正月中村庄五人 団十四雷庄九 口中島勘左衛門 元祖沢村宗十 一は森田庄へ はしめて下る 市川座にて曽が 十口沢村宗十郎 同五分二代目 市川団十郎 裏向銀十分三升 や助十ツヽ五郎市 川団十ツゝ将台 九辰 六月大こま 宇田七右衛門死 広次大仏の みぶ国十郷 小仕小兵衛 源内鐘鬼の 国十郷池の 庄用しばとく 十一午 十二未 中村庄工殿元 但松本小中や 五代め森田や 青馬のたい面 冊に 三代目弐十ツゝ 去年役者 〽初えできる 元祖瀬川菊 之丞始て中 村庄へ下ん 一中村座にて安 十四団右衛門 一ぼく和合一字 去年形みを形 川番二郎下ん 三月十一日之丞初 て無限鐘太夫 一佐渡島長五 所作の連人 十九寅 森田の所がへ 休庵 廿卯 団十は母老蔵 初近え改江守 崎桂之助木 挽丁にて興行 元文一辰 萩の何かは 俳吉竹江名へ也 冨之丞たるやお せん物狂大入 三作女方為 の対面二代の 幸四郎殿榊 一中村庄沢村与十 ら露の五郎兵衛 市川院ゑびを 五本のせりふ 四月五日之祖市川 武蔵喜市川 団三郎改二代 日市川団蔵 寛保酉 市川海老蔵を 三代の団十郎名 浅海玉庄三郎 団十口走ぜん 三亥 団十郎死砌居 十一日河東 両編足 沢村安十郎上ル 南之丞時竹 ひこに 太当り 森田勘弥再興 二代め市川赤蔵 上ル中村往百葦 寿市川ゑび龍 寛延辰 松嶋八百軒ゑび 西門人ト成市川 ト改菊之丞六人 五月大谷訳洗 十二月大谷龍印 小六條はやる 壬十月二代め以 村宗十郎宛 広治と改 宝暦未 三袋沢村安十郎 九月元祖瀬川 南之丞死 六代め勘三郎隠 一廿七右衛門中村勘 之巾興行坂 東文ハ三八ト改 沢村長十郎始て 実事の書話 つね大当み 卅九文八坂東又 一柏延失の松五郎 松本幸四郎神ふ たい茂め松本 書やら四代め去 江村長十郎初て 大星ゆらかみ 瀬川吉次茂め 萬之丞改居 助高屋高助札 山下金作丁ト 一四代め団十郎四日 大当り 元祖中村哥右衛門 市村往へ下ん 市川海遠蔵 柳延の 市川八百蔵 弁長にて早口 の願人大なり 総角林弥好 歌太右上坂 御門家借座本 中村伝蔵二代め 市川八百蔵ト改 村助五分社 崎之介ト改去年 市川徳五郎高 焼蔵え改 二代め坂原彦三分 元服菊之丞 十七回忌元代の 雨之丞むけん 二代め市川団蔵 中村歌左衛門中村 市川番蔵死 二代日坂東彦三郎 一死市川友蔵助 ぶたひ跡かへり 大評判 安永辰 中村仲蔵社て工 藤二代め菊之丞 石橋大し溜り中 村歌七右衛門鈴木 かほみを二京 喜内誰人中村 高十山へ中村の しほ下ん天村 安十郎同田之助 尾上南五十一疋 中村木代三郎 八月三代め沢村 宗十郎京にて死 中村往百五十年 寿四代め事 は幸女郎と改 松本寺四郎五 代め団十七ト改 坂田半五郎上ル 市川こま残様 一の女郎四へ仲蔵 去年田之介宗 三袋仙女ろりう二 天明七 去年市川こま屋 松本事甲口ト改 四十八手仲蔵三五 江び蔵ト改一世代 三角力菊之丞 おしなの所代 三月四代め五粒 市川海老蔵死 去年六月二代め 市川八百羅北 南之通三代の 浅間がだけ石 寺大あたり 市村庄春三 月かはり大雨 八月十日大谷 友右衛門罷 市村往馬五十 は幼石徳蔵 初ぶたい四月十日 年春中村津 にて御川乙女一世 一代やや 男飯城坂田 とす十すみ代 め坂田半五郎 中村座にてしが山 此時大切に積恋雷 仲蔵相勤此時 中山小十マト改 中村仲蔵上坂 中村十蔵嵐崎 蔵下る染松七三 は森田庄へ下ん 浅尾茂十郎桐生 大当り中村仲蔵 村社再から中 村庄五人男 四月廿三日中村仲 即死中村座 万南社中村座 打かはらさき 後藤生群大島 中村庄屋中村庄屋 おもな二日市村 座宗十郎様大当 江び州白荷也 江戸砂子慶曽我 一同十四分下り 一木挽丁 中村座休都伝 内に成沢村字十 去年中島勘左衛門 市川門之介死 相座矢江渡市 八辰 去年都座へ片岡 仁左衛門中村のしほ 下候音五大力大路 坂田半五郎宛 都座顔之進 市川鰕喜一世代 中村法再興新 之介改市川鰕 城田屋七左衛門 一目団十は助大 坂東彦三郎督 延寿を一世武 二月辛未四分宛 五月大代め事 去年二代ゟ嵐 ひる助中村庄へ 下ん市川団蔵 な介の瀬川ろ 中村大谷河原崎 村庄へ下候 尾上松助初て水 一郡中村座百八 十一年寿二代ゟ 坂東みり五升 松本米三郎宛 三月河原崎座 村庄市村庄 三月中村庄三衛 五郎男女程平 一四月二日替助六 五七つ向の所作 瀬川ろかう仙女と成 路之助一面之丞 と成方中村程 小川吉太郎右衛門 二代め冨之丞三 うば安金太郎 ちから杜縁一世代 文政寅 去年松縁のふき や下桐長桐再 興浅尾工左衛門 山利甚吉下ル 市村長三郎四代 之助罷出 ふきや丁都侍内 高助院 沢村源之助改 五郎右衛門所作五 日江び十ケ門 一松江丁ゟみつ五 ら十二文の小作 大島中村甚左衛門 一分なる一世不仕候 西 戊 七月市川門之 団十は菊吾 助死 柱三柱八丈当り 八月中村大 月中村大吉 菊五郎上原名 残狂言お岩 死す 片岡仁左衛門 崩土邦之丞下ル 関三十マ上坂 名残大当り 去年尾上菊五郎 かはらさき 五十三次 一子 十一子 中村向六中村 芝翫下ん 坂東みの介中村 芝翫両座にて 合法 せ 天保寅 三月三日三里村 須先見村源 類焼沢村源 之介下ル七代 一日前十四日四十四丁目 坂東三時五分 一世ヶ代秋つし 一世こいわ ま市川団十四日 かるかや 卯 尾上梅幸陽子 になりおいわ 坂東みつ五郎 瀬川菊之丞死 市川鰕十郎 三辰 三月団十一日改市 川鍛蔵助六ミ代目ま 川鰕兵蔵助六み 市川赤蔵下ル八 市川丁 代目団十ツゝはつ の介改みつ九郎 しばしく半四は 源之介改沢村 油井 改杜表中山之よし 一トル中村芝翫上ル 一海老蔵半助して 菊五今はかた 大当り三月三芝 居焼ん森田座 再興 岩井紫君板 東産三郎下ル 三芝居年中行事正月元日惣役者年札式三番叟 太夫元若太夫相勤る惣役者座附候上座頭春狂 言名題并役割附をよむ子役并制外子踊ぞしめ 所作事小舞等相勤る春狂言の名題看板を出す 五日或は七日春狂言本続十五日初日往古は本 よみ稽古は年の内にて正月二日あるひは七日 初日二月初午新狂言出る一帯三月三日替り狂 言初日四月八日新狂言出る昧に五月五日替り 狂言初日廿八日曽我両神祭礼六月土用中休み 近年夏芝居興行初る不定七月朔日比盆狂言名 《題《《《名《名《《《《《名:《題《《《《《《《《《名:《題《名《名《名《書《書《書:日本《題:初日初日往古は七日初日往古は七日本読十五日本読十五日本読十五日本読十五日初日往古は七日本読十五日初日往古 八月朔日盆狂言初日なり九月九日新狂言多く は上方へ登り役者名銭狂言または一世一代名 残狂言を出す十二日顔見世世界定十月十五日 比年中々の舞納めそう狂言庄頭口上あり十日 ころ新役者附配る翌日売出し十七日子役踊初 舞台にて新はやし方太夫元盃あり夜にいつて 寄初惣役者太夫元盃狂言作者貌見世名題并役 割附をよむ往古ははなし初あり廿日紋肴ばん 出るならびに本読廿五日顔見世名題看板出る 廿七八日比下り役者乗り込み晦日惣さらひ木 戸前積もの町内茶屋中かざり物出し終夜見物 群集して賑はし霜月朔日正明七ツ時式三番叟 太夫元若太夫相つとめ顔見世初日十二日打出 し後春狂言世界さだめ十二月十日比まてに顔 見世狂言舞納めそしり狂言使者座附口上座 頭云ふ十三日煤払ひ十七日仕切場木戸前に借 りもの春狂言の趣向あら増口上看板出る木挽 町は廿四日愛宕市より出す廿日雑台大鏡も知 梅三十日木戸前舞台注連かざり右年中行事終 り狂言替り毎稽古の次第本湊へ読合立げいこ 浄るりふし付同しくふりのけ 中ざらひ此間に いこ所作ふりのけいこ立とり 吹立け惣ざらひ初日なり但し中さらひを三座 家の狂言并脇狂言中村座作りある所ワキ酒呑壱 子市村座 子市村座倒殿下はワキ七福神森田座仏舎利ツキ張 川松 なすのな市ワキ老松都庄弥 一年同休座之分相座 馬そろへ 如くワキ大社河原崎座婆[ツキ猩々。大立試合たち 廻りの名目中かへり、さるがへり、車かつり、佛が へはぎつくり、ひよつくり、ぎばはらぎば、よこぎ ば、手ばい逆き立、杉だち、天地、大まくし、つき廻し 千鳥がんつぶし、れんり引あとかへり、遠あて。古 朱噺子外座附名目大略。大太鼓打込み、打出し、ど ろ〳〵、享神楽、岩戸神楽、三保かたら、大柏木入時 の太鼓、なかし、山おろし、風の音波の音、あばれ丹 一前、楽、営絃、どん〳〵、遠よせ、鹿かく、渡り杓子、ふへ、 らい序、藤島早畠とひよ竹ふへ入、ひしぎ、かけり、 一声、通り神楽。小皷白噺子、こたま、のつと、こいや、 いつつかけ。太皷もみたし、一挺、大小の合方しば。 小太鼓天王立本神楽、和歌、下りは、麗はたらき、片 しやぎり、踊り地、出端、立の合方、狂ひの合方、角兵 衛獅子の合方。唄長唄、めりやす、琴うた、ざいご哥 出の歌ぬめり、肥前ぶし、県馬士唄、順礼唄、佃ぶし、 相の山、丹前一ツ鉦念仏。三味縁てんつゝ、三重、行 列三重、子三重、幕三重、忍三重、きほひ三重、愁ひ三 重対面三重、あるか合方、わりわりおるか合方、早め の合方、六部の合かた、しころ、人よせ、角力の合方、 怠業の合方、きぬたの合方、こまはりの合方狐釣 の合かた、化物の含かた、琴胡に尺八は加役なり。 故人狂言作者の分大略元祖市村宇左衛門常盤 井田平後に中早川侍四は増山金八市山又太は 村河七 志山笠縫専助米富中村角止古瀬川如皐助女形 機文輔室田寿菜かんが津打治兵衛並に高馬高高高高高高高雪 始瀬川藤本斗文古松井由輔三斗壊誠二三治溺 古並木吾龍職桔雛中村傳四は被為近松門喬金 井三哭致風村岡幸次古中村重助故一木村紅粉 助様同比古桜田次助左交古松井幸三瀬左古純 通ふ三兵衛奈河七五三助並木良輔河竹新七軒 門田候兵衛福森久助一雄田口金蔵本屋宗七挺 奥野瑳助馬都古篠田金次二代目同桜田治助始 賭勝 同断同同同同同断同 同年鶴屋南北脇堀植井兵七二代目増直江屋重 兵衛忰死松井幸三執新勝兵助趣楽山勝井源八郎 殆目田島此助古重扇助二代代〇成瀬川如皐駿河郡 右の外中古達人唄三味絃噺子方の名中古名人 役者作名大道具小道具蔵衣裳まてあら増を出 し三芝居三階中二階惣楽屋之図を万国の図に まがへ年代施一枚摺にせし武作なれは略す江 戸京橋南傳馬町三丁目仙女香の旅板にして天 保六未年早春の歳玉なり 木村園沢松岡幸治が話 右瀬川如阜が書し故人江戸作者の内名高き人 には前篇に出したり其内に書もらせし木村国 作名国夫 俳諧を好松花 又遠免片 次は古桜田の門人にて 堂の書を学ひて小石川八百屋お七の石塔に筆 を残せり後に改名して木村紅粉助といふ市川 一国蔵侍更はなしといふ名題にて忠臣蔵の増補 狂言に手柄をせり改名の年紅粉助の名により て赤ひものを着んと羽織小袖の縞あらは赤く して四ツ谷辺まて行し所往来の人見てあの人 こそ詮人ならんと不審かるを悦びて人目に立 は此吉に増したるはなしと江戸中を其姿にて 歩行評判させ改名の名弘せしとぞ実は此年六 十一の賀なれと年をかくして紅粉助の名によ せて赤尽しの着ものを着しこそおかし後に志 んぶと仮名に書かへて寛政の末建作りなりし が文化の始に終る此門人に木村松六といふ狂 言方あり元角融の行司にて幸ひ木村を名乗り てゑんぶが門弟となりしもおかし又村岡幸次 も古左交の門人にして弁玉といふ松本幸四は 一同断同断一始市川高麗蔵 始市川高髪蔵此人の泣第にて始め左交の二枚 今の錦升か親 目をつとめ後藤作りとなる世話ものに多く狂 言を残し福清松本幸の書物は無玉か作なり森 田庄の顔見世に八百八町瓢箪笥といふ太閤神 の名題は八百蔵援助てやの庄頭に付たるなり 評判よく其比は売れたる作者にて有しが後は 二三治が夜話を の俳名 業を休みて終ると三升屋米子 おもひ出て爰に書付置ものなり 戯作者戯場話の論 往古より梨因を好んで戯場の書を著し人々頗 多し東都には戯場三蔵図会三座例造諸武場年 中行司俳優訓蒙図彙梨園狂言紋切形歌舞妓年 代記抔挙て数ふべからす中にも年代記は淡洲 楼焉馬の戯篇にて右に出せし瀬川如阜が年暦 珍重記の恋のみにて原江戸三座の外題年鑑に 歌川豊国の似顔をまじへ其時々の当芸或は浄 留理米に云の綴もの連ね等を出し古役者の似 顔は古くは浮世画師の鼻祖師宣暖後には春て 英山等の古国を模写せしのみにて役者の改右 上り下りの評を者として狂言の説は二段とな りたり又利蒙国業は或事三馬の戯作にして天 文地理に合せ拝台大道具小たく楽屋の図まで 貴国畑代の画に三馬戯文を加えて出せり素人 の見て戯場の楽屋の尤まて書たれは面白き事 限りなく誠によく売れたる本なり此中に狂言 作者の見習鳥を遣ふ謡ふを着さし図あり其比 の狂言かた一統にこれを見て大に立腹し本町 一尾山へ一両輩行風にて寒書散り雁嶋鷹ちどり 雀なんど狂言によりて差かねにて遣ふにはそ れ〳〵の役人あり何ゆへ作者狂言方より遣ふ 物とは書れしぞ已後は此役を勤めさゝるゝか しらす戯場の事を知らぬ人々には狂言作りは さやうな賤しき業まて勤むるものかと思われ ん事文筆を弄ふ作跡に恥るところなりといひ し時三馬大に誤り即刻板えにいひ付其文を削 れりといふこの誤り数多あるへし京摂にて戯 場によりたるを書に出す時は東都と違ひ戯作 者を業とする人なく只金満家のあるし戯場遊 里にあそひ俳優角能芸者を尽し尤を探つて楽 東都に云ふ中 みとする人是をみな粋人と号す東既に云ふ中 興河太は丸平大江丸なし是なり出入の幇間医 一俳諧師点者なとに筆を下させ一部の草稿成て 一柘榴石売出さすとも気性高く家石をからす皆 戯場によりたる書には八文字屋板と印せり八 文字屋は初編にも演る通は京麩屋町誓願寺下 る所の書林延享中に自笑没して紛其哭孫璃哭 に至りて身上甚衰へ浪花に下つて貧くくらし 一板元をするの力なしなれ共聞刑言なれたれは 戯場評判記にも八文字屋と印して板元の名も 出さす原より役者の枇判を書し書なれは他名 は猶さら出さす自笑とばかり書置が故に遠国 の好人は自笑の子孫今に連綿するとおもひた がへる人もあらん寛政享和文化の内評判記を 書には右に辨人芝居見物後に各茶屋料理屋の 席をさため業をあつめて評を定る筆をとるに は京に俳諧師自居村の限定雅楽仙堂は土郎様 一岩浪花に同俳人虚橘樹太夫 一肴河屋隣なと誰らを贔負ゆへ賞誰〳〵を嫌ひ ゆへ悪く云ふなと依怙の沙汰する人は断つて 序を退け建物小詰を論せす評あるものは文長 く相中の役者上分を以投と云にも紙数三四枚 あるもわけり其ころは見聞識者多く贔屓連中 にも大手世瀬藤石花王雑候場大連中紅弁とて 連中数多あるゆへ此中より評判を定むる人多 かはし是故刻なつて翌正月二日早天に売出す 誑粧好人求めて見るもの甚多かりし今は価の 高きとて紙数にかぎりす悪口を書く時は其役 者より板元へかれ是といわせる故只何役もよ ふ出来ました〳〵と誉てはかりあり是にては 評判能にあらす役割を書出せるのみなり右に 云ふ評判記連の書し比は作料尤もなし今は三 都伊勢尾張田舎の部まて書あつめ筆耕料まて こめて金何ほととの限りあり夫を請取人一遍 の狂言見物に行ば年中の作料をとらるべし夫 ゆへに芝居は見す役割番附を内にて詠め人伝 に聞たるを書なるべし役割にあれ共舞台に一 ひもせざる事までさも見た様に書たるなとい と浅間し此余戯場にかゝわりたる書には大約 一別号仮名を書来れり中にも文化中に没したる 浮世画沙似顔書に名高きは松好高半兵衛なり 此人芝居の好者にて楽屋図会前篇二巻後篇弐 秋里離島作五哉にす 内諸々を出す 一巻を著す是は彼名所図会は らひ始め出雲のおくに或は西の宮の魂供師抔 の図をあらはし楽屋の図看板の模様なと自ら 画人なるゆへ自在に画きけり京摂に浮世画沙 といふもの往古より聞す大津画の湯浅又兵衛 なは既に古き随筆ににあれはいわす役者の似 顔を画き浮世絵沙と唱へるは流光島より始り しなるべし府面をよく書し子此衆の役者 似顔の書は三組ばかりあり画風当時画く所と 違ひ淋しけれとも顔客老実によく似せたりと 老人はほめけり松好ては此門人にして画風又 一変す此人の画きし顔にせ本又数冊あり其余 女絵を能て画きしは西川春画に妙を得しは月 岡鳥羽僧正にならひしは耳鳥病なるべし梨因 肴板の画も一風あつて中興杢よ衛九右衛門な と有しが其後画尾といふ人没してより有ばん 一変して似顔画沙にかゝせる様になりたり似 顔画も松好斎の後は芦国春好此人を陳し芦書 よし国重春北英なとありしが近世書さるにや 見す戯場肴板はかん板らしき画法あるもの似 顔の看板を出すは中古吾妻清七といへるもの 天神稲荷の社内にて最初は軽口をいひおどけ たる事をして見物の腮をばづさせ跡には清七 身振もの真似故人浅庵道十三万はなしめはめらぬ 蔵にかゝり早替り二役三役かけ合等をするそ の者の類に長らく頭取をせし者七といへる者 あり皆君七の小屋〳〵といふいふ浅草天山両 国等に此表の首板に其比のはやり役者の似皃 を書て出したるものなり今朝歌歌の歌舞伎芝 居の看板に海老蔵の役を海老蔵似顔にて出す はほとんど君七の小屋のかん板めきて恥かし からずや是も近世梅玉より此風とはなりたり 嗚呼時のしからしむるにやいと浅まし東都芝 居の看板は三座とも代々鳥居風とて古風を守 り鳥居一家に書せり年々歳々三座の看板顔見 世新役者附始り付人物図取同しき様に見ゆれ とも新にいどみ奇を争ひ連綿騒駁として今に かはらず鳥居の画風も大江都の名物なりけり 一声曲類纂作者名寄 弘化丁未冬東都にて発板の書声曲類葉全六冊 は神田高藤月岑が編輯にて音曲に抱りたる高 名家の侍をあげて古双紙ものを喪りいと悉敷 書なり然れと前論にも演ることく原音曲鳴物 は異国より渡り九州地よりひらけしにや筑紫 琴をはしめ豊後節薩摩ふしなと唱ふれば大約 は京摂にとゝまり竹貴両派の浄瑠理また歌舞 妓小唄の音曲まて京揃より登り夫より東武に 移りしものゆへ引書にても京揃よりものしゝ 杜撰なきふしもあらす中にも浄留理作者歌舞 眼の名前を因みにあげ 妓浄るり作者所謂常堂の名前を固みにあげ 一九月廿一日本清元ノ作 たり尤も正本によつて書出せしにちざれは 相違せしもまゝあれども音曲家はいはす作者は は此書による所なれは重後になれともこゝに 拾ふ 竹本座浄瑠理作者近松門左衛門信盛平宗樹継不 初代出雲様 移山人等の号あり竹田出雲縁清定に は近江と改 名して作をせしは二 代目千前軒とも云々 長谷川千四三好松洛錦文 流残頂文耕堂助店松田吉田森田森田紋み近松半二 一益木千柳二歩堂浅田可啓中村潤助八民平七米 善平竹本三郎兵後北志後一竹田因幡竹田平七 竹田外記竹田和泉竹田瀧彦竹田正蔵小川半平 近松景鯉竹田伊豆並木栄輔竹土丸福松藤助竹 田文吉北脇素文一朱堂寺田兵蔵近松東南松田 才二竹田新四郎菅源七青江堂原羽裏近松能助 松田ばく守川文蔵中井粂治春木元輔 豊竹庄浄留理作者紀海音具敷と号 と云話して大坂に住貞榊洗後に送る知るなら ぬ人を狂歌て哭はせしその返報に泣てたまはれ 西津一風本には一風田中千柳為永太郎 むけ安田蛙文西浜にした安田蛙桂並木宗輔梓 ひて作る 店と号す西沢に給ふて作る佳作尤も多し松瓦 は家名にして後玄柳と改め寛延二年二月に終 理並木丈助並木良助並木赤桝村上嘉助豊竹良 津豊岡弥平浅田一鳥浪岡橋平浪岡鯨児同蟹蔵 中村河勢中村阿岡豊田正蔵梁蓮軒豊正助難波 三蔵黒蔵主七才子三津飲子竹本三郎兵衛竹本三郎兵衛尉 右同断同所留行清水三郎兵衛近松東南苦寺 後の忰也 助豊竹甚六但見弥四は豊竹上野並木高治福松 藤助 同書追常に南水漫遊を引て竹豊両座作者の略 同三十五日同榎並貞義といふ俗称喜右衛門 伝を挙たり紀海音 後善八と改め僧となりて高 て歩類を学ひ契目と云与元文 辰の夏法橋に叙し寛保二戌十月四日一覧に延 享四七月とも行年八十才にて没す 西雀門人取テ 一月廿九日始松田和吉といふ 一錦文流 社辺に住す 文耕堂 一千前新門人なり 摂州池田 桜塚西吟様池田人三好松洛臨吉田冠子彰政 桜塚西吟 西雀門人 北新 吉田文三は二代目 吉田文三は二代目並木丈助北新地竹本三郎兵衛 文三言は此悴なり 松竹本筑後椽近松半治桂横伊助為永太郎兵衛 始竹田春草堂 医者俳 一和州長谷寺の 安田蛙文有馬家に仕 安田蛙文有馬家 長谷川千四 僧坊俗せし也 近松東南海市伊助方後法躰して綾子幾田一鳥 近松東南播磨守様上手なり 森長三は中村阿熱始同助八民平七大坂 町若竹留新若州藤九郎二代目留躬遊石植玄法 一三井某嘉栗 右太夫芝居松 紀の上太す 紀の上太郎三井某嘉津若松 八貫仙果堂 田ばく作階沙岡中兼吉男徳高竹中咲太夫上栄 一後表隣と云 善平道瀬焼哉七才子岡本原一川田氏長所七丁 内屋口壱ヶ所中村魚眼難波新地中近松柳始並 宿屋の主なる 此法司馬芝叟献并梅の下風燃越刻江戸歌舞妓 狂言作者河東節常盤津富本豊後節の浄瑠璃又 は長唄めりやす等の文句は大かた歌舞妓作者 の作なれはと断りて玉井桂八南瓜千惣兵衛宮の 崎伝吉立島七郎左衛門樋口半左衛門津打治兵衛門津打治兵衛門津打治兵衛 浦英子村瀬源三郎五月村山十平次玉松小十は 執共竹島甚助坂東田助江田弥中浦は津打九等兵 治津打半右衛門此部元役諸館津打又左衛門藤 正徳年間流中村清 罪となる 本斗文中村少長中村清五は 三は医梅と云下川傳四早川傳四は竹且津打菅新堀越 蕃湯にシ並木良助蛙柳中村太は右衛門津打囲 次津打三郎次機文輔門田侯兵衛純通千三兵衛 与風亭俗 桜田治助吉 一月十九日始津打伝十郎始津打伝十郎殿 一金井三図 一同断称半兵衛 右同断同所同治兵衛河斎と号 津打治助後き中村重助故一河井金次奥野善野善助 くら田となる 中村山三大里栄蔵増山金八呉山真野馬朝既左 瀬川馬雪杭香川竹新七能進萩馬岱焼共仲喜市 同断酒仲町二元沢井住敷平田千次西川仙助梅田利 半二 助沙明平田半三等海木村八一長施八起好助仕 福岡與市市山又なは志山中村角止並木吾瓶畔 月雪のたわみこゝろ寛政八十松島半次二代目 中村虎八瀬川秀蔵笠縫寺助木畜助木畜助女隼乙女 近松門喬勝俵蔵鱗代村岡幸次常盤井田平越艸 七福森久助一推宝田寿来松井由輔三手松井幸 三潴得木村紅粉助始国次奈河七五之助田口金 二代目 一蔵本屋宗七六雄奥野随助間部篠田金沢二代目 槌井兵七二紙目詰鶴屋南北直江重兵衛幅北勝 兵助佐鹿山勝井源八勝井源八幡内目松 井田二代瀬川如阜路河竹文二代松井幸三帖新 この余有名の輩頗る多しなを後篇に詳なるべ しとあり 声曲類築は音曲家の事のみにて作者はついで にしるすことなれは一人を二名にわかち二人 を一人に混合せしも尤もなる事なりされと其 跡〳〵の博士あつて江戸歌舞妓作者のことは 君にいだす瀬川妙皐か楽屋雑書に有名のとも からは拳尽せり竹貴両派の浄瑠理作者にも少し しく違へり西沢一風を一風と書豊竹座松元西に 沢九左衛門の事所〳〵に書て別人とおもへり 又浄瑠理作者のうちへ並木吾瓶をくはへて辞 世および没年を寛政八十二月とあり吾瓶は前に 篇にあらはせし通り文化五辰年二月二日に歿 せり並木宗輔の家名を松屋と云後舎柳と改め しとは違へり松屋舎柳は役者にて又作もした る事は前篇に悉し松屋来助仲仙来棚と並木宗 輔は別人也此余南水漫遊にも誤りあれと原京 揃より発りし浄瑠璃を東都の高麗氏よくも諸 書を渉猟して一部の冊子とはなりけらし其苦 心の程感心して作名たけを此しりへにのせぬ 西沢 伝奇作書拾遺上巻終 文庫 20278 西澤 伝音作書拾遺二 文庫 西沢 伝奇作書拾遺中巻目録 文庫 一繁昌能戯台之辞 一銅脈先醒の婢女行 親梨園 一同親梨園 一同 一同戯場書事 一俳優見立評判記 一梨園に寄俳諧発句 一白猿の作長夜の書溜 一戯場好者家の発句 一俳優者金毘羅樽 一小春紙治情死の話 一近松平安堂作文論 一同半二が遺種独判断 一同後段の話 一西沢一鳳一代不性 一奈河亀助の戯編 凡十五条 文庫伝奇作書拾遺中巻 文庫 西澤一風軒李叟編 一繁昌記戯台の辞 江戸繁昌記は静軒居士が著編にして天保三壬 辰年新鏤発行せしが子細はて縫板になりたり 初編も戯場の文あり作書に因あれは爰に出す 演戯国語謂レ之曰二芝居一曰二フ歌舞妓一益シ関ク在昔 平城帝大同中ニ南都猿沢ノ池ノ側テ土陥ヲ吹レ煙ク觸ル者ハ即病ス 因テ大ニ焼レテ薪ヲ以壁二其氣一ヲ且舞二スススハ三番叟一舞レヲ于興福寺ノ門前 生スル芝之地 縷草為芝 本邦古誤言結一 而禳テ其侵毒一ヲ一焉是レ此名ノ所二 以縁起ル一也風俗歌俗妓等ノ名目既ニ見二テ于続日本記ニ而 鳥羽帝ノ世礒禪司ル者善ナルレ舞ク或曰二男舞一或ハ曰二白柏一子又 曰二歌舞妓一此是也四海為ル」家後寛永ノ初年猿若勘三 郎賜クレ命ヲ創開二戯場ヲ于中橋街ニ至二至二九年二移リ于人形街一 次ヲ都市村二氏之場亦皆成ル焉慶安四年又徒二于今 地二而山村氏起起二[リ]于木挽街一者在二[ル]正保元年 始二ノ於卯一終二於酉一ニ此是演戯常式題ク在一看欄頭東方将 白キ鼓声始テ震ヲ倒リ為二三番叟舞ヲ一次テ演二ス家芸一俗謂レヲ俗謂レフ之脇狂 言ト一中村氏ハ演二シ酒呑童子事ヲ一市村氏ハ七福神舞森田氏 猩々舞既ノ而旭日始メ映ス招牌一ニ煙煤煙煙煙塵漸ク揚キ田舎人 早炊已ニ往キ女児夜粧シ急走昧二一未一朱一麋至続聚ルヿ自二四 方一人山人海鼠戸関テ不レ暇レク因ル棚棚櫚挽シテ将二頒折一ト東西首 棚紅種連接真ニ不ルル霄之虹台面前棚人頭人次真ニ来ル 雲之龍本舞台三間ノ内正面、有亭左、楼右、門楼下ニ掛二 一箇ノ弔燈ヲ一夜色静寂由良ノ助方ニ米二ト無レ人之時一手一手二テ主夫 人所レ送ル書簡一ヲ情然照二弔燈ヲ一展讀レ過ス執ヲ意ハハ阿佳レ咒倚二定ニ 楼掴一一把レ鏡照レ之ヲ九大夫自二階下一延ニ頭ク頭ク捉テ其紙端一針ヲ針ヲ引ク 月光一フ一紙ノ長第三人読キ得テ正ニ熟スル時佳児ノ頭上金叙溜 落シ撲地有レ響由良助吃驚急掩二紙ノ於背後ニ一仰レレ面ヲ始テ始テ知ス 楼上有ヲレ人階下ノ人ニ亦錯愕潜潜レ身ヲ三人ハ有二三様惣一観ル者一観ル者一 喝米斉ク呼山崩シ海翻ル佳児旋ニ正二驚襟一ヲ一ヲ粧レヒ嬌含レ笑呼二ヲ由 良助一由良助曰汝在二テ楼上ニ何カリ為ル佳児曰妾被二君勤_二君勤醉一セ 不レ堪二困苦ニ一倚レ風ニ吹テ醒ク醒ク由良助曰如クハ然ルトカ甚ク善シレ我欲シ有二 与汝言フヿ一奈何ナシ双星相ニ見テ徒ニ守二銀河之阻ヲ請ヲ下レ楼来ニ佳 児曰暁ヲ得タリ矣将二起レト身ノ由良助急ニ呼二乎ニ止テ之一曰如シ自二セハ本階一 恐スハ幇間強住シ更ニ困二フン勧盃一為ルト一為レ之奈如シ適見摘外有二ルヽ一梓 子一乃大ニ喜下ノ庭ニ自将二自将二ノ梯子倚二住ノ楼闌一曰幸ニ矣此九級 梯子径ナル深チ此ノ降レレ之ヲ佳児曰此非ス平生所レ蹤之物ニ一無シ二乃 危険ナリト乎由良助曰言レ之ヲ汝妙年身上事目今一ヲ一スニ挙レテ趾 胯三歩間過レスル不二復タ及二膏薬医破裂一ク佳児曰莫レ莫レ貴スヿトルヿ一ヲ 動揺如シレ此恰モ似レカレ乗ルニ船ニ由良助曰宜スル哉出現二天后聖母一 来時看棚中忽チ起ス二争闘一ノ喧嘩沸騰児女踏戦シ叶レ苦ヲ並ニ 望二シテ本舞臺一走リ上ル由良助阿佳児等皆ク錯愕ス乃向仮驚 却ク作二ス其真驚一ヲ九大夫モ亦狼狽潜居シ不レ得自二階下出身 頓ニ位ス二三階上ニ一不二多時一天成地平ヲ復續二ク前仗ヲ一嗚呼若キレ此 争闘乍ヲ発シ若キ此沸騰乍タ歌ル箇ハ這ヒレ江戸人ノ氣質但シ此ノ都 不二ル繁昌一ヲ何如シテ起二此ノ争闘一ヲ何如ク発二此沸騰レ此沸騰一然ハ則以二此争 國一ヲ以二此ノ沸騰一言ヲ言フレ遊二コルト此ノ繁華ヲ一猶信ナリ矣 右忠臣蔵一力の齢にて喧嘩のさま江戸の人気 まの当りに見るが如し詩人の滑稽も珍らしき がゆへ因に銅脈先生の太平楽府のうち戯場に 寄る狂詩一二首を出す 銅脈先醒婢女行 遠国這出望奉公来京不知西又東独有千本阿姥 在頼レ之有附請状窮百文荷担算用外一牧布子葛 籠中布子萠葱若松鶴袖口端掛苗草紅律儀一片 入主気藪入三日名所遠祗園清水両門跡愛宕大 仏三條橋翌日與レ復連立音関芝居今初者取兮 投兮危危思斬今殺兮慄慄寒尾上梅幸狐忠信中 村鯉長鮎屋娘鯉長梅幸両上手今度狂名銘銘銘銘銘銘銘銘銘箱 還休四條河原上熟感風流京繁華従是毎朝手水 起心欲二沈二菩在所沙一八文白粉試塗レ面五両梅花初 登レ頭麦飯雑炊久不食偶逢茶粥已為レ憂煙草飲習 酒少乾一坐附逢相応劬曰謂不好鳴笑止鼻唄道 行国大夫減多偃伏金亜相無上張出燈籠髪八寸 長簪脚鼈甲真釼耳掻今不レ新新裁染分晒前垂半 分鼠中有二小川英子紋一常履板履絲鼻緒近所有レ男一 字忠七才宛無心依レ之恃時見二繰出二行処何二条新 地御霊裏二百席代三百酒酒罷今宵有二談論談論 山山多是鍵其而忠七終出奔近頃能従小銭廻[ケ行 縮緬紬子最易着青梅三留身不レ柔君不レ関在所親 父長困窮如何潜上驕此極試問給銀知何程半季 所取三十目 同観戯場 一從レ失二蛮物一騒動及二家中一若殿初践土上使肩切レ風 説レ愁幽魄自巧レ事悪人紅梅幸此場出詮議皆盡レ忠一 同戯場書事 一墓當金作一入如レ山於染久松袂白攀割合弁当茶煖 裏水辛番付幕開間皆言早已宜初未共与為何今 一欲還金槌音休鳴二柝木一青田高向桟敷班一 此余にも数多あれと略す明和己巳八月胡逸滅 方海著恵莱安陀羅校とあり已丑は明和六年也 今年まて八十一年になる梅事は祖尾上菊五郎は 鯉長は中村桑たは魚子は祖小川吉太郎山下金 作みな其比の立ものにて京都芝居に出勤の折 からるり八十年前の昔も世情はかはらす太平 一鯖銅脈は狂詩の冠たり 一場家見立評判の説 往昔より役者見立番附などは時々の流行にし たがひ売る事あれともさせる佳作もなく当座 に散失して残らず寛政中に可物前巻にいふ他 が其比の俳優を歓物に見立し草稿予幼少の時 家文より譲られ珍蔵せしが第一を焦嵐に六縦 一助に六日本献物の司にして唐土の尾に対すか たち肥ふとり毛気麗しくして猛き中に胸に月 の端といふ所作事を抱きこれに増へき歎なし 二番に猿市川囲蔵を年没せし形ち少さく顔見 にてけれど猿の人真似とていかなる事もせす といふ事なし本手の子切早素なんと殆んと深 山木の梢を遶るましらの如し第三に狼沙尾為 十は銭屋此もの身をむき出し一声ほゆる時は 身の毛立諸見物に寒がらしめる猛獣なり四に 狐は尾上新七強固町南部屋是といふ能もなけ ぬとも是只の野狐ならす白狐通を得たるにや 諸人をたふらめしよろこはせる事奇体なり此 余猪鹿狸兎なんど末らの役者に見立女形は鳥 類に見立あり其ほに依怙なく又江文化中に江 戸作者本屋宗七か書し見立にその頃の役者松 本幸四は坂東み津五は中村歌右衛門梅沢村宗 十郎源左衛門尉 今川義元嶽田信長武田信玄上杉謙信なとに能 見立ありし草稿を梅玉楊花して或時干に見せ しことあり此宗七は狂言は一向書得ねともか やふの事にはおもしろき書ものありけり今は 諸げいとも地に落ち見立る役者なく残念也 梨園による俳諧発句 前篇にも演し如く歌舞妓の役者は勿論役者の学 問は俳諧をたしなみ置べし古作者桜山庄右衛 門せりふ付にたよりよきとて古歌三千余首を 暗記せしとぞ俳名を万山といひし又初代片岡 仁左衛門も傍輩の役者に俳諧を進めしといふ 心は神祇訳教恋無常何にても役にしたがひ心 詞文盲ならす藝のたよりになる学問なりと依 つて役者を俳優とて古く唱え来り既に初代山 下金作りき明暦二丙申年京都芝居にて出し ゆへ歩舞妓停止 一盥よりたらひに帰る寒さかな 位を付られし也 とはよく生死の門を詠しといへり夫より已来 初代中村富十は残は英流の画も出来て麁書の 柳に自賛いつ迄も娘こゝろの柳かな女形の情 よく含めり古水木辰之助の句水むては男にな つて寝て見たし是ら人口に股戾して実に世を飛 おぼふものなるべし近くは江戸五代目市川白 猿俳諧狂歌をよく詠みて徒然文題の書を著す 自筆の書干珍蔵して既に讃仏采前集に出す読 て知るへし又老の賛書とてこれも自筆の書す 同に爰にいだす家主成田や七左衛門◎の書判 あり 白猿が長夜の書面 天上天下唯我独尊釈迦も指せすや鰹とほとゝ きす白猿刑にちかき悪をせされはその身全し 名にちかき善をせされば其心あらか也只愚を 専り天遊を楽しむべし たのしみは春のさくらに秋の月夫婦中よく三 度こふ飯反古麿述鼻しもふさの国成田山の街 たに巨金の原といへるは里らふ其名の替りは 莫大の原なりこかねよりとふる者はこかねの 原と心得のぶとよりいたる人はのぶとの原と 覚す或はしゆすいかまがいよりかゝるものは しゆすいのはらかまがいの原ともいふ又此原 にしんたらよりおそむく人はたかまが原と申 すなり儒道よりゆく人は空原と号し仏道より 来るものは極楽浄土の原と唱え仙人街たより 行人は蓬莱の原とおもひ荘子のぬけ道より通 る者は本分の田地と見て往来なす也神道には 駕を用ひ仏たは船て廻り儒道はかちをたとる ことなり老子は馬より牛に乗つてゆけと被下 しを荘子は人におぶさつて返れと思ひ〳〵の 了曽もみな勧善退悪の都にいたらしめんが為 なり 世の中は子の曰南無阿弥陀どふで 市川白猿 ごぜすに内外清静市川白猿越 一武彝武蔵 市川団十郎は代々俳諧を好みて人の七代目白 猿狂句延猿集とて天保のはじめに一集冊をい たす花笠文京のたのみにて予筆を耕せし事は 戯場好者の発句 大郷丸旧国信称大和屋善右衛門は予が父の友 大江丸旧国 内平野町金飛脚屋 にして俳諧をよくし戯場をこのみ狂言を見物 すれは吾一人の評判を書同好の者に見する佞 なく批判をかきおもしろき事限りなし予五六 冊所持せり此人寛政二庚戌の冬俳悔三巻享 和元年酉の春俳諧第三巻をあらはす其中に武 場俳優伝斎に寄を爰に出す俳諧一巻の変化を して序物語ふ昔浄たりの作者に近松門左衛門 国性爺といへる狂言を作り出して大当りせし 跡を猶おもしろき趣向もかなと枕をわかし工 夫に渡る其ときの芝居主竹田近江が申は作者 のひには左こそ存せらるへきが去なから大当 りの跡は大体すら〳〵としたる事をなしてお かるべし国姓篇にて余ほと徳分あれば一二年 不当したりとも我ら式かねる程は沢山なり其 間は古きものにても出しその内には自然と能 き狂言も出候はん夫よりうへそれよりうへと 趣向に趣向をかさねたらんかくもて行ばわが 家業は其果申さむたゞ天然にまかされよと申 たるは一道に秀たるものゝ詞諸道に通し俳諧 の一巻の変化も此こゝろ専要なるべしと云々 一雪中度蓼太を云也三代目 また古雪中庵いはく ○嵐雪の弟子史登其弟子也 俳諧も年よりて段〳〵と詞を伊達に遣ふ様に むがくへしさなくては物古びて静かなる句も 出ぬ様になる基ひなりされは妓家の長といひ し中村高十は慶子が心がけを心の師として我 はするなりと又云ふ俳諧はものゝ模様だてな る中に淋しみを聞せたらんこそよからめ譬へ は古団十はが顔は赤く隈どりながら紙に着て 楽屋に居たらんやうにあるこそよかるべしと またかぶき役者二代目の海土蔵が門人にいふ 修行はおのれがかつ手おしきかたをならぬ上 も情に入てはげむへし得たる方は夫につれて 上達するものなりと申せし我はいかいもその 如し発句か附合か勝手あしきとおもふ方を修 行すべしと云々また市川五代目の団十はわざ をのかれて牛島にかたれ白猿と号し少き庵を むすひ老をたのしむ爰にたづねて 色の白きさるどのにそと見参まう大江丸 とつば冷酒けふのもてなし白猿 月を秋の花と詠むる世にすみて完来 此完来は蓼太の跡四代目雪中詰なり近世対山 五代目を継此余に ある妓家にて ほし合を詠 大江丸 旧国 七夕の今宵大星力弥かな しよぶ事を 吉田屋の故に喰れけり伊左衛門同 武場の雪を題 あまりの大雪に申事さへ遠けしき同 顔みせや且なみつけし馬の窓 此余戯場好者家の句おもひ出るまゝ少しはつて 秋の風芝居の窓を吹やふる完来 かたれ家はしはゐなるへし年の暮大江丸 二日からはて珍らしい初芝居白猿 顔見せや馬のあし跡名はなんと文頂 張ものゝ山も笑ふか二の替り風堂 瀬川仙女に送る 鰒喰ふときけは恐ろし雨之丞米彦 吉例の曽我 朝比なを題 雨風のそこをこたへろ梅槙金鶏 双蝶々た行を題 たばたの菜種は関に踏れけり李叟 石川五右衛門の 役をして 出代や葛籠負ふたがおかしいか眼玉 狂言も秋の半で厶り升 柴のト書ふ月の思入真顔 一極楽へ切のものなる蓮生も 西の桟敷に後見せけり三馬 年の内に春を迎ふる顔みせは めに正月の事始かも京伝 此余枚挙に遑あらすまた文化のはしめた頓堀 角中の楽屋内にて狂言を題として東都の柳樽 にならひ尤さがし句集出来たりその番附に 俳優金毘羅樽 忠臣蔵尾上青城評夏まつり堀田馬看評 巻首 つる井の となせ小浪手酒の間供をよけ権羽 天正の 桃の井か屋敷荒神松買わす天慶 並木の 勘平はその侭の手で門たゝき吾瓶 侭の 山科に一日に後家が三人出来川成 並木の さし紙に去る屋敷出と書おあるぬける 入我の 長持へ尿瓶をいれる由良之助我入 前髪の 畳切らず利屋もとらず平右衛門秀南 大仏の 伴内は師直が為に由良之助竹馬 炭の 五郎三 一力の亭主こそ〳〵石たつね五郎三 定九郎を命の親じやと猪はいひ立住 ちかまつの 千崎が登に喰はれぬ薬買ひ大神 薬師の 由良之助出しなに一寸髷直しのふ女 中村の 天川屋鉄炮鍛冶で空をつき芝翫 富竹の 一夜さに二度月の出る祇園町床石 西沢の 異見した諸士が三人新造買一風 並木の 其のちは勘平か母高歩借ぬけす 右馬み忍いにしなにいふ京言葉呂真 小判の 八軒屋まで寐つゞけにする銭九 あらしの 下女のりんわれ三室で焚付る李冠 巻軸 侭の 月願ておかる見てとるたり文字川成 巻首 一斗の 団七かしらみは床に置土産升成 きせ又の 徳兵衛が女房の顔は鶉やき直信 淀川の 団七は播磨あたりて銭きらし水成 売声に似す団七が魚くさり天慶 義平治の方がりくつと駕はいひ川成 蚕の事一寸の虫といふ九は兵衛同 高竹の ぐれ宿の宿老立合ふ畠中麻石 九郎兵衛は戻つてもどでん耳に付芝翫 殺さるゝやうに男は利屈いふ五郎三 お鯛茶屋みだれ三人義を結ふ秀南 其後は手水半にはんつかふ辰あぶ女 並木の 氏地よけ噺子は畠まわりするぬけ道 癸しらみとるは徳兵衛上手なり慶寿 侍八は来世て首しめの指有する大神 竹田の 其のちは寺へ参れと珠数もたす庵里 義平治が汗をつぶやく借物屋一笑 岡島やの 九郎兵衛は七丁目で髪結ていぬ李冠 信 団七に水あびたかと女房とふ川成 岡島やの 団七が髻とけて髪あつふなり李冠 巻尾 妻は顔夫は雪踏へ焼印し大神 右之外狂言の外題に寄毎月会仕共御作意の御 かた何れの撰者へでも点相頼可申候間集元へ 御遣し可被下候已上 正本屋利兵衛 信仰記八月廿八日開奏板元了内屋太助 河内屋太助 一月月一日小春紙治情死の話 享保七寅とし十月十四日十夜回向の折柄網島 大長寺の境内へ紙屋治兵衛紀伊国や小春参詣 群集に紛れ終夜法座に連り終に晨鐘の折柄境 内のかたはらにて左の一紙をふところにして 空しくなりけるかき残す一通のうつしの一紙 二枚なり 今宵ありかたき御 教に預り忝奉存候 私共浅間敷身の果 一未来のほとも覚束 なく存候何卒なき跡 御弔ひ被成下候はゝ 忝奉存候是のみ御頼 追善狂網島大長 哥二首 寺一代進巻寺一代進巻皆 申上度書残申候已上 十月十四日 同治兵衛 やはる 大長寺様 くも南むあみ 島のたむけ草 紙やほとけの 縁にひかれて十月の小春の昔おもひ出てみな 心中に点かうあれかし境内に墳墓あつて書置 も一紙に摺て彼寺より出す享保壬寅年より今 年まで百二十八年になれり然るに外題年鑑に は享保五子年十二月六日より小はる心中天網 島の浄るり初日とあり既に二年の相連あれど 何れぞの書損なるへし此他者は近松門左衛門 にてひと日住吉へもふで新家の酒楼にて遊ひ ける時俄に大坂より芝居者来はゆふべ網島の 大長寺に男女の情のあり何卒速に浄るりに作 りて給わらば翌一日の誓古にして明後日より 興行せんとてひたすらに頼みけれは早駕にの りて大坂にかへり駕より下りて其侭に筆をと る駕にて走り帰りしまゝ書つけしとて去り書 と書出し直に謡の本は近衛流野良帽子は柴の と書つゞけしと近松翁の題作を南水漫遊に賞 たるが享保子は寅年にせき情死は十月十四日 なり初日出しは十二月六日なり是にては五十 余日のゆとりあり翌一日の稽古にて明後日ゟ 始めんとは近松が頓作を賞んとて素人了簡の 詞なりいかに急作を得しとても帰つて其事実 を聴間もあり草稿なつても節付木偶のふりも あり五日と七日をかゝらずばあら筋の立もの にはあらずいわんや駕にやはしり帰りしゆへ 去り書謡の本は近衛流など書しといふは後世 好者家の拵へ事なり哥舞妓にての外題は心中 のけの書置といふ天の個島とは盗賊悪徳の類 をいふ様に覚えて男女の情死にはの野の書置 のかたやすらかにてよかるべしと思はる是も 事早卒の間なれは仕かたなけれと五十余日の 暇あれはいかなる事にても書るべしまた能老 人の話にいふ近松翁が文勢には人を重からし むる言葉多し元禄十六年未三月最明寺殿百人 上臈といへる院本に最明寺が道行ぶり城の翼 のおしろいを学にこぼして梢には鶴の霜毛を 脱かたる雪は花より花多きと書けり是なん円 機活法雪の部に鶴毛蝶粉といふ四字を出して 書る所に石曼郷が雪を題せし詩を出せり蝶道二 粉翼一軽難レ拾樽塗二霜毛一散未レ転といふ此句を和語 にうつせりかゝる才智をもつて和歌を詠しな は秀逸あまたわぬへしとてやんことなき御方 の御感ありしよしをいへり又橘庵漫筆にある 時竹田出雲穂積以貫などいふ人近松が方に趣 し時淀屋辰五郎が事跡を記したる草樽に彼が 驕奢のさゆをいふとて金の難て着ぬはかりと 書るを見ていかに奢れるとても町人には似合 しからぬ様覚えて翌日行て猶草稿を見しに金 の冠着ぬ斗りといへる次にしやくは持病にあ りとかやと書つゞけたるを見て各慣然たりし とかや院本文句評注を書し難波土産といへる 草紙に穂積以貫翁近松平安堂が俄に題する詩 あり 見性却テ清醇享齢擬二壮椿一春温渾二満腔一ニ 空眼転二洪鈞フ一勿翰譫歌鈔少牋綺語神 申レ休ヲ門榜煙キ楽隠特リ相親スル 此以貫翁は医を業として事二が父也半二を穂 積伊助といふ也 半二が独判断の写 前篇を松平二が伝ふかへて独判断の叙証を 出せしが其本文のおかしけれは爰に出す 梨元来生れ付たる不器用者にて何を稽古し て見ても埒明す其癖根弱たして二三日の中 に退屈して捨て仕舞ふ故是まて何一ツ覚た る事なし所説いかぬ事と観念してそれより 一向人に物習ふ事を止めて何事も我胸壱ツ て得手勝手の了労を付て人は何といわふと 侭よこちのはからじやと自身にまして仕岸 ふ一分了労なれは人にいふ事もなけれとも 淋しきまゝにおもふ事をかきつけ置くこと 左の如し 若人吉に問ふて世界に神仏といふ物あるもの かといはゞ誠に有ものなりと答ふ其また誠に あるといふ證拠はいかにと問はし所々方々に 宮々あり寺々あり木に彫み銅に鋳たる仏あり 是神仏あるにあらすや若その誠の神躰仏体と いふものありやと問はゞそれはそやらないや らこちは知らぬなり是輩かしらぬ斗りならす 聖人といふ物は人間の中の智恵の司なれとも 其聖人もしらぬ事なり知らぬ諸抔は店の大聖 人孔子といふ人あり其弟子の子嬉といふもの 神ふ事る仕様はいかにと問へは孔子申さるゝ は我いまた人に奉公する道さへとことは手に 入らすまして神に事ることは家力にもあたわ すと答へらるまた死んで先はとふなる物そと 問へは我いまた生て居る間の事さへとくとは 知らすまして死ての後のことは一向知らすと 答へられたり是を孔子贔屓の人の評判には孔 子は天地に通する聖人なれば是式の事はよく 知て居給へども子路にいふて聞しても迚も合 点の行ぬ事ゆへわざと教へ給はぬなりなどゝ いへども知つて居る事を知らぬといふは嘸つ きなり孔子は空つかぬ事なれば実に知らぬ事 古知らぬといわれたるなるべし或人又難して いはく孔子は生氏始つてより跡にも先にもな い程の聖人なるに人に奉公するすへもしらす 生て居る中の事さへしらぬとのたまふは是も 唾てはあるまいかといふされは唾といふと卑 下といふとの違ひあり是は卑下の詞なり爰仲 を仁者と誉て自身を仁者と云はぬにて知るべ し孔子並てのこときに人に忍倍を尽す事は我 におとらぬもの一在所の中にも沢山に有ふが 学問を好む者は凡我にまさる者はあるまひと 申されたり孔子程の聖人なれは最早学もんは 入そむない物なれとも天下のた理は限りない ものにて何程の聖人でも知り尽されぬこと也 されはこそ周公といふ聖くも過もあり孔子の 心にはまた此様な事では物しりといふもので はないと一生学文をすてす修行召るゝゆへ人 の目には聖人と見ゆれとも自身は中々聖人抔は は此方如きのおよぶ事ではなしと申されたり 又人に事るとは主人に奉公する計りてなし親 に計るも友達に付合ふも国の守が民百姓をあ しらふも皆奉公する気でなけれはならぬ事故 今日人に事ることを知れは生ている中の事は まなりそれを孔子の心にもふ是でよいとは思 はれぬゆへ押放して知つたとは申されぬが聖 人の聖人たる所なり此日に見へたる世上の事 さへ知りつとされぬことなるにまして日に見 へぬ神の事や死んで先のことは聖人も実にし らぬ事なり夫ゆへ鬼神は随分敬つて遠さける を智恵者といふなりすへて人の死したるを祭 つて鬼と号け又天地の間山には山の霊あり川 には川の霊ありとて是を祭つて神といふ是も 霊がはやら此やら見た事はなけれとも先むか しから有として祭るとあることゆへ敬ふにし くはなき也夫を無いものにして軽んするは垣 破無法もの也又胡椒丸呑に信心して福徳を祈 るは愚人なり高は知れぬと云より外のことな し孔子子路に教て曰知を知るとせよ知らせる を知らずとせよ是知るなりといふ心は今日し らねはならぬ人倫の道は随分と注きして知る がよしなんぼ吟味しても所注しれぬ事は知ら ぬにして捨て置が誠の物しるといふ物じやと のことなり昔楚南公といふ人蕭寥子雲に問ふ ていはく天地の際はある歟ないか子雲答へて 日聖人は天地の中のことはいへとも天地の外 の事は言はす楚南公笑ふていはく聖人かいわ ぬといへは知つていわぬ様なれとも実は聖人 も知らぬてあるへし手よく知らぬといへはよ けれともいわぬといふは負出しみなりと一口 に打込しは尤もかな今つく〳〵と案して見る に此天地はいつひらきしものぞ漢の司馬迂と いふ馬鹿もの天皇氏地皇氏なとゝしれもせぬ 者を書ならべて是を天地開闢のはしめとすれ とも一ツも證據はなしよしまた其様な人があ つたにもせよその開闢よりまだ前がなくては 叶わず邵康節といふ唐の事觸れが十二万九千 六百年に天地一度あらたまるといひ経には釈 尊より九十六億七千万歳のちに地火起りて焼 其すといふ夫より未勤出世三會のあかつき是 なりあるひは仙境の赤朝九州三十三天三千大 千世界なとゝいへとも其三千世界の外にまだ 世界がなけれは叶わぬ理なりさらバまた開闢 もなし世界の際も無しといふ時は都ての物に はしめ終のむいものは無いに天地ばかり際が なふては是も又ばつとして詰らぬものなり是 を案して居よふならば気のかた病に成ふより 外はなしいつ迄もとんと知れぬ事なりそれ故 孔子は堯舜より後のことを述て其前は伏義と も神農とも黄帝ともついに孔子の口からいわ れたる事なしこれ堯舜より後は上に史官とて 物書の役人あつてその時〳〵の事を書しるし 置しゆへ書綱といふ書物有て僊抜正しき故也 その書経さへ武成の宿は二三朱を取もちゆる と孟子はいへり然れともまづは書経は誰抔に なるべし尤堯舜より已前に農作をおしへたり 薬をのみ覚へたり衣類を識事をおもひ付たる 人は誰ぞちりつらんなれとも伏義神農黄帝と いひ伝へた斗りで有たやらないやら證技なし 三墳といふ書もあれとも是も後世のこしらへ ものなり素問といふ医書に黄帝の語あれとも これ全く周の末戦国のあひだに巫医の輩黄帝 の名を借つて俗の信仰する様にこしらへたる 素問内経取るにたらずその文の文の体書経なとゝ 違ふて古体ならさるを見ても知るへしその時 分の事さへ知ぬ事なるに天地の始つたところ が其はじまつた時の人がいまだに生て居ての いふたらは誠ともいふべし誰が見て誰かいひ 伝へたる事ぞや吾日本神道の事は唐の鬼神な とゝは格別の事にてわれ〳〵疋夫の口にかけ て申も恐れ多き御事なから先一通り神代の巻 を拝見すれは伊弉諾伊弉冉の二神をぞ国の始 めとも思われぬれとも日本とても同し世界の 中なれは日本の開闢が知るれは唐の開ひやく も知れる筈なり但し軽く清るは天となり重く 濁るは地となるとは開闢のことではなし是は からも日本も同しく一元気の廻るところをい ふたる物なり天地のはじまる所はいど知らす 其軽きは升て重きは降るは今におゐてその通 りにて一元気が縫へずのぼり降りして居るも のなり是を大極といふは何ゆへぞ極はもとや の棟の名なり凡天地の間毒罪万家この一元気 から生せぬといふことなく世界は此一元気ひ とつで持て居る故屋の棟にたとへて大極といふ ふ日本にて国常立尊と申もこの国の国のいつ始る とも知れず常住立てする此一元気を申すこと なりと聞はつりしがいか様旧事能日本記の作 者のこゝろも孔子か尭舜より後を説れし心と 同しく諸舟の二神より已前幾位万年すること やら知れぬ所を一元気の国常立にて断わたる 物ならんか急角孔子流のおしえは目に見えた 現銀な事より外はいわぬ事なり生て居る心の 事は説とも死でののちの魂の事はついにいわ れた事なし鬼神は十席にあるとふり見れとも 見えす聴けども聞へす神の格例にやからずと て神を祭て神が祭り給ふやきたり給はぬや渕 知られぬ不思義なるものなれば随分敬はねは ならぬものとはいふてわれともまた其鬼に非 すしてまつるはやつらひなりとて我先祖の鬼 でもない余所の先祖をまつるは鬼神に諂ふと て孔子か呵りしことなり易はもと占の書物な れとも孔子は易の道理を今日の人の身持の事 に引直して占ひの事には用ひず論語ふ不占而 己といへり一切今日の外の事は孔子の門ては いわぬ事なり併し天地の始終の知れぬ事をお もへは誠に世界は浮ものにてどふした揺りて 日輪といふものが出たり引こんだりすること やらなんで星が沢山にある事やらひとつも訳 の立たる事はないもの爰を思へは鬼神は勿論 化ものも天狗もすまいとはいわれす荘子が蝶 の夢を見たのか蝶か荘子のゆめを見て居るの かと紛らはしういへはいわれる筈なり爰の所 は所詮人間の知恵では知れぬ事成程無量無違 形由多阿曽程劫生通しにして居る仏といふ和 郎が知つて居ねは此仕舞はつかぬなるへし巧 弥陀仏を無量寿覚と釈して法蔵菩薩の時より 衆生ませめ衆生酒を御工夫なされた間さへ五劫兆 載とあれはいかにも文字のことく量りなき寿 命のほとけなり如来といふも無始已来生れも せす死もせす億万劫のむかしも信万劫の後も かわらす此の如くあり来り給ふとの事なるへ し法華経の寿堂品に釈迦如来が弟子の諸菩薩 につげての給ふ家成仏して已来今まで行めて る世界の数年数無量無辺百万位郡由多阿曽徳 劫といふに那由多は万位といふ事と見えたり 劫と云ふは四十里四方の谷に一ぱい詰たる芥 子粒の数を一劫といふよしこの数を算整て横 つて見よふとおもへは幅四十里底も四十里の 谷を堀てその中へ芥子を一ばいつめてそれを 一粒つゝ読んて見れは知れる事なれともその やうな大造な事をして見るあほうもなけれは 一向しれぬ事をいふた物なり阿曽極といふも 無数とて算へるにもかぞへられぬ方量もなき 数なりこゝて見れは釈尊ほとけになり給ひて よりは誠に無量の年数其間にあそこえていろ 〳〵と名を替て幾度も減して熊と死んて見せ てはまた顕われ給ふ是則方便なりなせなれは 仏か常住傍に居る様に見せては衆生が沢山に おもふて誠の信心が出ぬ故わざと死たしなし て見せたものじやと寿業品に説給へり釈尊浄 銀王の后の后の后の后の后の夜に立て右の手 をあげて天上天下唯我獨尊との給ふよし今時 生れ子がかやうの事を云はゝ化物なりとて払 き殺すべしこれは釈尊の心のうちにての給ひ しならん我土衆生は無明十気の雲霧に覆はれ 一我前生も得ひらす釈尊は右の通り武仁万劫を ふる仏か仮の方便に后の腹にやどり来り給ふ なれは形ちは赤子てもこゝろは三心即一神通 の仏体なり生れてほぎやあとのたまふよりあ まへ声にて物をの給ふもわざと子供の真似を し給ふみな狂言なり併しそれ程の釈迦如来が 阿羅々仙人なとふ事へて難行苦行の修行はい りそもないものじやとの不審ありそこでまた ある経の説に人死して中はの魂の間は前生の ことをおほえて居れとも胎内にやとり生れる 時に子返りする時の苦しみにて忘れて仕舞ふ なり釈尊は凡人ならねは生れても忘れ給はす 七歩あゆみ物をの給ひしが此世界の悪風が身 にしみやがて倒れ給ひて気を取失ひてわすれ 給ふ元衆生のために此間浮提へ出現わりし恋 身仏なれともやしもすれは仏体をわすれ給ふ を忘れさせまいと太音天などがいろ〳〵と世 話をやかるゝ其力にて三明六神返を得たまふ となり扨また凡夫にも輪廻といふ事あつて死 んてふたゝび生れ替るといふゆへ死〳〵も此 一生こそ賤しけれ今度は大名に来れて来たい なとゝ願ふ是大な了労ちかひなりなせといふ にたとへは何兵衛といふ百姓が今度国の寺に 生れ替つてもその已前の何兵衛の時のことを 覚へて居れはよけれとも我前生が牛てわたか 馬てあつたかとんと答へぬからは此後何に生 れ替つて来ても今の何兵衛の事は忘れて仕廻 ふておぼへぬ時はたとへ其再来でも余所の人 と同し事云はゝ中風病のしびれた足は我か体 ても病ふも痒ふもない様なもので何の役にも 立ぬ事なり能くおほへて居給へとも凡夫の身 分ては行ぬことなりその凡夫も仏に成た時は 谷の覚たることくにあらゆる事とも一時に合 点の行事のよし此また仏に成ふとおもへは我 と我が身を科人を責る様にする事なり衆生の 躰は百八煩悩てかたまつたる物なれは身口意 の三業を戒律にて縛りからめ先酒は悪行の根 本五辛は婬欲を起すとて禁しめ食事も一日に 一度それも日昼過ると時に非すとて喰ふこと ならす虫を殺さぬやうに水さへ水のふて漉し てのむこゝろに僉嗔痴の三毒わりとて家法三 摩地に心をさだめ夏の中は大小便の外立こと ならす結済。趺座して観法に智恵をみがけとも まため〳〵の障りはこれも三界にて品わかれ 見思のまどひに五下五上の分あり那合羅漢四 果の衆は段〳〵煩悩去つて過去の事を記する 通を得る皆仏の雛子たち是にも三乗の品有て 声聞は四締の法門に折空の理を観し三生六十 劫の間七賢七聖の位を歴縁覚は四生百劫の間 十二因縁を観し菩薩三徳百大劫の間六度の行 を修すといへり此衆が是程の因縁修行てどふ やらからやらからやら主円満祐身の如来と云 ものに成事なりされども此衆はむかしより仏 になる株の有衆なり尤我等衆生も仏性をうけ て来たとは聞て居れとも無好より已来迷ひに 迷ふてその仏性はどこへ質に入れてあるやら 今は株なしの象〳〵いか程に修行しても五百 一羅漢の足えへ寄る按广取にも所注ならぬ事老 角世界はどふしても知れぬといふがいつち慥 なり但し経に書てある事を真更にすれはこの しわぬ事を釈迦といふ仏さまが知つて居給ふ とおもふて満すもの歟または悪気を廻して見 れは此釈迦とのもやつばり同しく間にて世界 の事をどふ思案して見ても知れぬゆへ知れぬ といふては仕まいが付ぬ故せら事なしに人間 の外に仏といふ物を拵らへ四土の三界の或は 須弥の四州などゝさま〳〵の広大なる事を説 て置かれたるものは此後いかなる智者が出て も此二ツより外はあるまし万巻の書を学ても 知れぬ事なれはたとへ聖人に成つても一文不 通の家々もつまるところは同し事学問して気 を背するだけが横一向あたまから何にも知れ ぬ方がまし又知れもせぬ経文を信仰して銭一 文でもそやすは眼前の損なり神にも佛にもよ らすさはらす只商人ならば商ひ百姓ならは農 作の世渡を精出して喰たいもの喰ふて死るが 末代までの徳と知るへしかならずもの知りに 成給ふな 同後段のはなし 仏天竺より渡りて後種々の仏者出て諸宗さま 〳〵ある中に唐土の善導大師と日本の法然上 人ほと発明なる人ははましと覚ゆるなり其故 は右いふことく天竺の釈迦の有難は人間の外 にほとけといふ物を拵らへて世界のまぬこと ともを何もかも是に預けて置く掃ためを拵へ たる爰が釈迦如来の発明なる所なり然れとも 根が証拠のない事を説広けたるもの故空姫中 と云て衆生はこの仮の世界を有と見る是惑ひ なりまた空に偏るも塵砂の惑といふ真実の所 は有てなく空てなく其中道の所を悟るが正覚 を得たる仏なりといふけれども金体が世を捨 る法なれは真と仮とを論すれは無は真なり有 は仮なり我身を諸苦の本として寂滅を楽みと すれは語るところは空に落無におつるなり予 按するに此無といふが悟りの至極なり仁高の 語画字義に世界は万位のむかしも万住の後も やはり此通りの物にて開闢も終りもなしといふ へり或人難していはく開闢有といふに證據な けれはかいびやくむしといふにも證拠なし然 れはきつと無いともいわれまいと仁斎吉へて されはこれはどの様に誰に注成しても知れぬこと なりいつ迄も知れぬからは無いといわふより 外はなしと申されたり是が偽りも飾りもなき 正真のところなり釈迦も爰を知つて居給ふ故 我仏成已来無量無辺那由多何曽極劫とて量な く遑なしとの給ふ是則は仁両のいわれし所と 同しくどふ誰義しても知れねは量なく辺なき なり畢竟無といふは知れぬといふ事也大昔の 事を無始と云て文字には始無しと書て人口を 開きは何といふて阿の物の始なるに経には阿 宗本不生とて阿の字を無生の義と説く是老荘 の書に無名は天地の始といひ又は始めあつて 始めなし始なしといふ物もなじと荘子がいふ た様なものなり仏河難に去て。給ふ家むかし丈 珠師利と有無の二諦を論じてより死して三途 におち無量劫をへて地獄より出迦葉仏に逢ふ て有無の二諦の事を尋ねけれは逃乗仏の給ふ はなんし此骸を有といひむといふそれが則ち 迷ひ也一切諸法は定法なし万法皆こと〳〵く 空寂有にあらす無にあらす実体不思義なりと 答へて其跡は語なし然れは此有無の二ツは釈 迦如来も合点がゆかす殊之外難きなされし事 を自身にいふて置れしなりいか様有にも非す 無にもあらすといふ時は市にふらりでやつば り空なは此跡は最はや知れぬ事ならん智論の 中に可得の願とはねかへはきつと叶ふ願の事 なり不可得の願とはいか程ねかふても不注叶 わぬ願の事なりたとへは地を堀て水をもとめ 石をきりて大を出そふとおもふ是らは願へは かならす叶ふ顔なりといへり夫なれは経の力 でも仏の智恵ても知れぬ事はやつぱり知れぬ なり惣じて老荘仏の説は目に見えぬ空なる所 を説たるもの故条の通つた事は一ツもなく行 法つた所では止なん〳〵不可説とて其ところ は口ではいわれぬ所じやとよい加減に逃げて あるところ経の中に多くあることなり不立文 字の悟りをもつて禅宗か出ほうたいに人をお どしてもどの様に高上にいふても平老が空也 むなりいつまて座禅工夫しても気違ひに成る がとりゑにてついに本来の面目のひらけると いふ部はない事なり律宗か釈迦の行を学ひて 二百五十戒をたもつこれも五人と三人とは此 行も出来れとも世界中の人をみな此通わにせ うといふ事はなるまし先夫婦の交りは煩悩の 第一なれは是をたらねは仏法の本意ではなけ れとも男女のまじはりは虫けらにいたるまで 生れついたる事なるを世界一まいにこれを絶 事一向出来ぬことなてもし又世界の人残らす 男女の道をたしば子を生むといふ事もなく世 界に人程はたへて仕舞ふへし真実禅浄を修行 すれはこの穢土を放れて首くゝつてなりとは やう死ふより外はなし此きたない穢土に住て 居る中はとても仏法のおしえの様には成らぬ ものゆへ出家といへとも寺の内の格式は在家 に少しも違はす下男を遣へは半京何程と給銀 を極める飲酒戒といへども酒も呑れは極方と 付合が出来す六十日の勘定が合ねは寺が相続 せぬ故十并盤に際なく座禅工夫所ではなし日 本には僧官僧位ありて何僧正何法印なとし禁 裏より官位を給はる是も仏法の本意は山林へ 引籠り頭陀乞食を業とする夫には大に相違し たる事なり又俗家にも位牌ふ戒名を書て年忌 を弔ふ此位牌といふもの仏法には無い事にて これは儒者の神主といふものか仏法者に移り たるなり儒者の教へは仏法とは裏はらにて家 親たるもの死でもやはり生て居る様に敬ひ神 主に諡年を記し詞堂にまつり置命日の一年目 を小祥と名付て一門寄合ひ祭る事あり三年め を大祥とて祭る事なり仏法の本意にはかやう の事は無き事なりまた服といふは親類の死し たる喪の中は悲みの情を要にあらはして常に 替りて麁服を着る聖人のおしへなり日本神す には穢を忌むゆへ此麁服を着る喪の中は神事 にたづさはる事を忌ゆへ服忌といふなり仏法 の年忌を弔らふといふは彼の儒者のかたの小 評大祥の祭の礼の仏法へうつりたるにて忌と いふ名は神たがうつりたるなり誠のほとけの 悟りには親にも妻子にも執着せぬを本意とす れは焼る埋むな野に捨よにて魂此土を去れは 親も兄弟も他人も犬も猫も皆一体何の着する 事ちらんなれともそれでは一向世間がままぬ ゆへ仏法にもいつともなふ儒者の礼が移つて 儒得と仏道と神道とまぜこせに成たるもの也 唐の代に大原といふ地に仏法甚たはやりて親 親兄弟の死したるを葬らす尸を犬にあたへて 喰する故其地の犬は人に喰ひつく事習はしと なり次第にかやうのことつのりて政道の害に なるゆへ韓退之欧陽永叔などゝいふ儒者が仏 法を邪説なりとて悪みたることなりまことに かやうに成ては天下国家の大害なり法然上人 爰を能知つて諸経の説諸宗の論を放下し難行 を捨て易行を用ひ南む阿弥陀仏の称名一ツて まむやうに教へられしは発明の至極といふへ し成程仏法を余りふかく修行すれはいやとも 山林へ引込躰を犬にあたへる様になる其様に なると世の乱れに成る事眼前なり兎角人の深 ふ仏法に入らぬやうに身力を禁しめたゝ今日 銘々の家業を大事につとめて其間に阿弥陀如 来を御頼み申て置さへすれはあなたが極楽と いふ結構なところへやつて下さる程に自身に こしやくを出すな経もよむな戒もたもつなと のおしへ後世なれは漁夫が鰯網引〳〵も念仏 申せは罪にならす小むつかしい戒定慧の三学 する事も入らすいかにも世界は文盲片言て満 んだ事なりかの極楽へゆくと百味の合を給わ さといふ是も仏説に段触思識の四食とてこの 人界のひとは五穀魚肉なとを食とすれとも色 異無ぞ異には我六根を機らかする識といふ物 を食とする或ひは地獄には業苦を食とすると いふ此理をもつて見れは極楽往生の人は如来 の無上菩提の法味を食として長く楽しみとい ふ事なるへしそれを心得違ひて言仏の徳て往 生すれは極楽の串屋から毎日半かんでもつゞ ける様に思ふて居る人もあり又世にいふ鬼と いふものあり鬼とは死人の事なれはもろ〳〵 の迷ひに鬼が責られるといふ事を地獄て鬼か せめると間違ふて居る人あり精進と深雨とを 取違へて看喰わぬ事を精進とこゝろ得天竺と いへは空の事とおもひ欠落する事をしゆつほ くと覚へて居る人も南無阿弥陀仏さへ申せは 極互へ行と安心する是ては今日人倫のたは道 て立て政道の苦になる事微塵もなしこの通り なれは儒者も神道者も仏法を悪ふいわふ様は 根から無い事とこもかも中がよふて是程よふ したな旨はなし爰て見れは法然上人は釈迦之 りはやつと発明なる祖師なり右いふ如く仏法 の実の所は無の一字にて根か何やら知れぬ事 を数千巻に説広けたるもの故経々に説く所度 〳〵に違ふてどこか実やらとこが方便やらつ らまへところのない様に仕たる経の面其中の いつち心安ひ所を教へたる浄土宗なり其後に 日蓮か出られて題目の徳て往生すると説れた る是は兵仏を先へ仕て取られて負おしみに題 目とぬけたるものなり併し此日蓮宗にはまだ 自刀が有て惣し只一筋に無仏にて死んだ先は よい所へ行とおもふて一生を安むすへし浄土 のおしえの如くに説けば仏法は今日の害にな らぬ斗ならす大に世界の為になる事也なぜと いふに今日同し人間にて大名の家に生るゝも あり非人乞食の子に生るゝもあり夫を銘〳〵 足る事を知つて天も人も怨みぬは聖人賢者な らではなし凡人はかならす身をうらみ人をそ 称之悪心生するは人情なり所を過去の宿業と いふ所で明らめが付ゆへ悪心起らす面〳〵身 の分際を守る時は天下泰平の基にあらすや唐 士にて仏法ゆへに世の乱れたるは無理に仏法 の理を知らふとするからなりさらは知りおほ せた所が根が立なる事なれは修行すれはする 程まつくろに成て一生迷ふて死る事たとへは 領城になづんで包町へいり込耕に成ふ〳〵と 淫入れは入る程両ひも手につかす身上打き上 た所でやつぱりそ書と同し事夫よりは傾城に もこらす一座流にさつと一つ飲んて気を発し て帰れは身上もいかまず養生にもなるこれが 本の粹といふものなり仏法も其如くふあら釈 逃のくるわへ踏込ずたゞ一通りの南無阿弥陀 仏なりと法蓮華経なりと唱へるに格別はらも へらす時〳〵寺へ布施取られるは付合に紋日 くゝりつけられたと明らめれは満なりこれぞ 大悟た発明釈尊こゝに現はれ我詞を聞給はゞ 一善哉〳〵と讃歎し給ふへし南無阿弥陀仏〳〵 右は半二が遺稿にして疎瀬堂と紀上太はとが 梓にのほけ天明七未の仲冬同好の人々に配る 予も是を壱部秘蔵して読に至れるかなこの翁 かゝる博識なから前篇の始にも演る如く自聞 取法問耳学問根気を詰てもの学ふ事のならぬ 自墜落ものなりといわれしよし予もこの翁の 自堕落を真似るにはあらねど東都におゐてひ と日戯れに書たるは戯場正本寺の大上人 西沢一風一代不性 法然上人の一枚起證は愚痴無智の尼入道にあり たへし文吾は生れし折は氏神はしめ諸神達の お世話に相成生ある内は孔夫子の仰おかれし 仁義五章の道のはし〴〵をとなへ来り是から 先死ぬ一段となつては仏達の御世話にもあづ からんさすれは念仏や題目ばかり唱へるも見 へぬ先の世の事ばかり願ふて其もとを忘るゝ に似たりと一流神儒仏の尊きをおもひて朝夕 天照孔子弥陀仏と吾のみ相となへ候われと心 同しき衆はこれをとなへたまへいやならよし にせよ 右一時の戯れなから半二の盡もし是を聞かは 一善哉〳〵と讃歎すべし扨遊り洞房の癡情なと は親してたちふるまふにあらすともしりやす く書やすきものとはいへとも戯作者ならぬ歌 舞妓作者の奈河亀助が戯篇あり置相画文男女 打姓とて自笑其磧が口調にならひその文甚だ 一猥雑なれとも遺稿なれは爰にのする 奈河亀助が戯編 竹の林に遊ぶ唐土の賢人も太郎の林にあそぶ 日本の野等も酒のんでうだら〳〵の楽しみは 相応に替る事なし智あるも愚なるも只かのま どひのひとつやめかたきのみぞ嘘もまことも 可愛ひも憎ひもいづれ鳥たの道具楽しみも苦 しみとなり苦しみも又楽しみとなる其わかち なく楽しみも苦しみもせぬ女をぬめたといふ 是領城地女に限らず然るに傾城の誠と卯の角 なはない物じやとは恋路の極意を知らぬいか なる野暮太郎がいひ始しぞ此詞をむと味ひつ いふ茶屋揚屋の屋の屋へ上つた事もなく亀町で 遣ふかはりを帯かんざしなどにはりこみ半季 居の下女貧乏人の娘などをこまづけ地女てな せねは誠はないとおもひかつはとふでもあふ つくとの算用違ひ孕してねたられ果は喧嘩仕 舞ふ外聞を失ふ人多したまこの角なはない理 屈なれど傾城にも地女にも真も空もは歴〳〵 粋な顔して一げんのおやまに気で逢ふて貰ひ たいとのせりふは何事ぞやそんいわんとて女 の奴た男ならば暫時なりとも誠に逢ふへし千 金を遣ふとも好ぬ男ならは毎夜の逢ふ瀬も空 なるへし思ふに当時地女の心底半襟の男より 八掛の男八かけの男よりは帯着ものの男にな ひき出家さんより立派な風俗する下女こそ思 ろしけれ頭の道具から足の道具足袋主草履迄 それ〳〵の八ヶ浦頼母子に端手をやりかけ戻 しはどの男にも心の水をもらし藪入を待兼て 五日のおろ貰ふて今夜は此男翌の夜はこちら の男と都はかはれど逢ふ事の一義に湯具ぬら すにひまどひ真実とおもふはおろかの沙汰是 らの女を評せは誠の空なり又誰彼なしに気を たふ女は親かたに一日の際を貰ふて親の内で なら寐よふとおもふなと何ても両売にすれは 否になる論それ程いやな流れの身も楽しみな ふては勤らぬと其楽しみといふは何ぞや禿や 下女に米饅頭琉球芋など買ひにやつて喰ふ斗 りの事にあらず夜毎にかわる枕の中に是そと おもふ可愛男こそ昼中の楽み置をもつて傾城 にも誠ある事知りぬへしお山買ふはたまされ に行が表嘘としつて面白ひが誠の遊びどふあ りとても買ひさへすれは抱て寐てするに違ひ なきさすに偽りなし空も真も抱付た所が恋ひ なりうそにも誠あり真にも空あり一ト皮内の 穿鑿定木判木て押たように思ふ故悦ひ過て腹 立るはまた気道の奥義を知らぬ汝はか気は思ひ 桑の外なれは何か何とも極まつた事なき物と 悟り知るがこの粋なるへし女の性は皆ひかめ りと兼好も書り否な男も意地と拍子に懸つて はそんこんかわゆふなり可愛いひも何やらの はづみに悦ふなるも時のまん恋と唱え色と呼 ふ間は都て空とおもへは間違ふまし寺請状に 女房とのが婆々になつた所てなけりや誠とは 定めあたし勤めの難行を経て空より出し誠に かたまはし女こそ末久しからん姿情果の女房 かならす悋気深きも一筋に男を思ふ故ならん と片意地にいへは傾城贔屓と奈良の木辻柏屋 の何某といふ轡屋の抱へに青葉といへる女郎 元来は大坂の廓産れ母は名高き太夫職の後を 仮初なあら流れの身の塊り生れの侭の群とい ひ器量風俗いわん方なき美女なれと新町にむ かさるにや南都へ売渡され新造の目見へりに て粋と呼るゝもの我先にと争ひ繁昌いはん方 なく親かたもしてやつたりと思ひの外一度で 呼ぬ苦おほく二度と呼出す客も三度目には麦 相尽し次第に淋しく今は一通りの客も聞伝へ て呼すまる中に椿井町のは徳なる人の子息半 次郎といふ正直ものおやまの買ひはじめが女 の味の知り始め青葉に逢ふてより女はいつれ もこんなものと思ひしにやよい悪いの差別な て女房の様におもひ他事なくかよふほとに誰 いふとなく青葉に通ふ半さん何かよいやら悪 いやら広ひ狭ひの訳しらすとくるわ中に諷ふ はいかなる事と問ふに青葉か玉門存の外広く いかなる一物自慢も城の番場てかふりふる如 くふちへさへんとすれは腰をひねつて自由に さけすへんてつもなき契りに何れ一度て変相 つかすもたり青葉に逢ふて終に気をやつた者 もなく元より気をやらす抔とはおもひもよら す中に追はざか住んで居そふな塩梅ちつと嗅 ひを構わにや苦来に隠れているにはよい同じ やと所の輝が悪口何さま中比の王城なれは孝 源天皇の再来でも有ふかむかしもさるためし あり是に堪能さす道鏡あらさらんやと子細ら して批判すれは半次はか一物見た自慢の仲居 が半さんのかのものは人並よりまだちいたひ くらひた鏡の芥子人形でもあれよりは大きか らふといふにいよ〳〵其味ひを知らせるあほ ふと半次はをゆびさし青葉が異石をすい風呂 〳〵といひ立られ親方も外聞あしく大坂へ売 戻せど右体なれは御先々にて始めの如く京一売 れ伏見へ仕替へられさま〳〵のかん難半次は はとふした縁やらあほうたわけといわれても 行先〳〵へ尋ね廻り心底を尽せは青葉も此人 ならではとおもひ込しがとゝ大津へ売渡され し時多して知らすより早く半次ははる〳〵柴 屋町へたづね来りある茶屋より路にやりなつ かしいめ一通り有てかたへの人をよけ壱葉は 声をひそめておまへになじんでより丸二年の 間方〳〵へ仕かへられ誰たよりなき松を本ふ 〳〵浅からぬお志死ても忘れは置升せんさり なから是までなれまいらせし返り面白からぬ 此身お情成嬉しいとていつ三付合ふていふは いつちの勝手ばかり御前の端にならぬとしつ てはおもひ切て退くぼわたしが心中もふ是切 にお目にかゝりませぬ外の女十匁となじんで 面白おかしうたのしんで下さんせといふ内に 涙のべ紙をひたせは半次郎おもひかけなき事 聞てむつとげ面にあらわれは葉か膝につきか かつてそりやそなた何をいふのじや外の女郎 買ふて楽しまふとおもやおしえられいでもそ れ仕兼る半次郎でもない人はとふいわふとか ふいはふしおれがすいた様にするのがたのし ミユリヤ何じやな方〳〵あるいて入こゝろの よいにばつくわしてをわかよふなかぼそひ男 は否になつての言ひぶんかそふいへは云地に ても退はせんと旅脇若ひねとつて腹立をよふ 〳〵におためそれほとに思ふて下さんすをそ むくにしていふではなけねどわしより外の女 子の肌をしらぬおまへ外の女中と抱れて寝や しやんしたらわしに堂打の尽るはしれた事と いふをいわさずそりや気がわるひといふもの 譬へ小野の小町に砂糖付た様な女子が出て来 たとて心の移る様な男じやないわいとむねを 叩いてわめけはそのお心に違ひなくはわしか 念晴しでござんす此土地の女中さんを今宵は だいて鹿て下さんせそふなけりやとふも気が すまぬとめ〳〵とたのむにつれて忘らる事じ やけれど夫程に頼む事なら外の女子はとんな 物じや今夜一よさ抱て寐てやらふと忍にきせ たいひ分早速誰かよめらふぞと青葉が差図で 呼にやるに程なく此里てはきゝの女郎来ると 其侭音葉は壱間へひとり鹿半次はは件の女郎 をあはびかゝりの拶挨もむつかしの顔して国 に入れはあなたは大坂で三升かへふしきの御 縁じやなアといふ顔は十人なみまんざら否で はなけれど青葉より外に女子と荘たことなけ ねは何とやら初心な顔おやまは完じやといわ れている仕こなしおめるけしきなく股ごらへ 手をさしこみあなたはマア何じやそいなアち とうき〳〵被成ひなアといひ〳〵一物をいら へは思はすふなら〳〵とおへいでついにつば 付た事のなけれはその侭乗からるを待なされ といひさまつばたつふり付てあてがひ下から 腰をつかふて早ふやらして仕舞ふ仕をけくぢ や〳〵とは入れとも広ひを仕付た半次は勝手 が違ふて窮屈におほへ諸対面といひ初心なけ なれば下からり々上手する程術ながるのかと 気がはつて折角おへた一物次第〳〵になへて 只のものになれはいつの間にやらやつたそふ なとおもひ枕もとの紙をとるより早く半次は が一物を紙ぐち持そへ上から違ふともせぬに 身をしつんでぬきとり玉門をふくやふかずに あちらむいて高鼾半次はは何の事やらあほふ くしいと寐たを幸ひに一間を明け青葉が鹿間 へどす〳〵とはいりモウ〳〵〳〵一生外の女子 抱て鹿い抔とおもしろふもない事すゝめてた もんなあゝ窮屈なといひさま青葉かふともゝ おしわり遠慮なしにぬほりと入れとつとこふ したには井戸の鮒が大海へ出た心持じやとな 家て捧つかふ様にしてよろこづは申お前は真 実私しがよふな広いのがよいかいなアと小声 でいへはイヤもふよいやら忍ひやら訳の立た 事はないがかう仕来つた物じやによつて此様 にごぼ〳〵と言ている内どこそではこそぼふ なる所を引抜気がやりたけりや勝手に弄かく がいつち手廻しがよいとのいひぶん扨も〳〵 お前のよふな一筋に思ふて呉る男はない嬉し ふ心んすとしがみ付身もたへして泣を合図に 今まで廣い玉門たちまちしめ付る様になつて 終に覚えぬすだき声してきつふについていな アとのよがりなきたべつけぬ半次は悔りして コリヤ何じや急に窮虚になつて来たはとこの 糸をひくと此様になるそとふしぎ立るもおか し世に中着ぼゝとは是なんめりぬきさしの息 ふまかせてしめつゆるめつすれは心よきこと いふ斗りなし半次はは始て開中にて気の行事 をおほへ是はマアどふした事ぞ此様によい気 味なものを今上なせかくしておいた此味を知 つてこれがどふのかれぬもので親仁にどふい ふてなりと立金して女房にせにや置んとしこ りかかつていへはその御心底と見極めたゆへ 今こそ有様に申付ふ子を見る事親にしかしと 私か喚さんは大坂の新町でゆひおりに乗つた 太夫職縁てかな田舎のお伝さんの種をやどし た五ツ月めにその御方は病死どふやらこふや らひとゝなつた私が十一の年喚さんがいわし やんすにはそなたの発へは歴々のかたなれど 其当座におはてなされ賤しい腹から生れたそ なた是まで親方包の世話になつた事なれはど ふでつとめせすはなるまひ然しなから勤めの 身に肝心のところが片輪ならねど暗もとふ前 一通りでは勤まらぬ外の事はしらねど此道に は数年の功そなたの行末のために教へる程に 恥かしいことはないかう〳〵すれはとの様に 広ふても廣ひと思はぬさし招があるまつかう 〳〵してとのおしへ子心に恥かしいとは思ひ ながらとつくりと覚えた上て此巻物はわしが 姉女郎から譲りうけた秘書そなたの様子子に はこれが出世の種になる事もあらふといふて 下せんしたを肌身はなさす守り袋に入れて持 ておりますとかふする内かゝへも死なしやん すしもふつとめをせねはならぬ段になつて私 がおもふには唾主といひ親子ともに娶つとめ して身をはたすとは口惜しい事じやといふて 動せねはならず所注此身の難のあるをたりに して心底のよい男を見立早ふ勤をひくよふに せふと思案を極め突出しの抑よりおもしろ成 らぬ床にみな愛相つかして三度と呼出すお客 もない中にどこに惚れて下さんしたやら始か らけふまで妾おもつかさず通ふて下さんす嬉 しき二世かけて契るおくはお前ならでと思へ どもまんぞくな女中せんに逢わしやんしたら 一色香のさめる事も有ふかと疑ふて今宵のしき かゝりの遺言にこつぢからほれ過た男はあつ ちからさめ易いこつちからつれ給ふする程し たふて呉る男ならて末の面倒は見て呉ぬもの じやといわしやんした事も有たゆへ夜母にか わるお客のう前ほれた人にも惚ぬ人にも是迄 終に面白ふ付合ふた事はくんせぬ勤そまつに するてはなけねとも面白ふないわしを慕ふて 呉るお人をまち二世のかためをする心とだり さどつた御前の心底もふこふ打明ていふから はお前が否じやといわしやんしても何ほうで も放れぬと聞けはきく程心いきの程可わゆふ なり夫がぜうなら未来永々放しもせず放れも せまひいま一度今の様なよい気味なめにあわ してたもと抱付くと其まゝいきり出した話て んかためはかふと互ひにねふり合ふた口をす くに口〳〵してのそますれは開中始めの如く 広くさはる物なけれは下より声をかけてわき ひら見すと随分ふちを〳〵と心がけてこすつ て下せんせといふにまかせてからだを横にし てはたをつくに是迄と違ふて磯ばたに遊ふ魚 の如く暫らくしてアヽつつともふよふなつて 来たわいなアとひり〳〵とふるひ出すやいな どこともなふきつしりとなつて実に心よくお てやもふいきそふなといへは下よりゆるめし が廣ふなつていきそふな所いかすなりその侭 にて五ツ六ツ突はのり上つて奥をきつふにつ いていなアといふ通りにきん玉上も入たと思 へはしめつけてアレわしやいた〳〵お前はま ちつとまつてまひとつやらして〳〵とのよぶ りなきに爰を大事とくいしばつてこらゆれは 一物火の如く玉門の内一ぱいになる様に覚へ 左右上下のふちにさわつてぬら〳〵ぬつとの 出入こゝおよき時せわしふ腰つかふて右の指 先にて上つらをいらふて下せんせア々ゑいまゝ ちつとせわしふいらふていなアハアアレいた わいなアともかきこといふてしめ付るを合図 に半次はも水弾きの如く思ふ存分に気をやり ぬからぬ顔ておれが初手からお山買ひは此位 のおもしろいことて有ふと思ふて居たが始め から長屋になられぬ壁の通り今こそ開の印可 をゆるされた心持で石の一巻ひらき見れは曲 取の仕よふ様々印せし書なり読終つてもん答 数刻におよひ仕様いれ様こすり様くぢり様迄 逐一に習ひ扨問ひたきはまらの大なるを女悦 ふといひ伝ふには誠かといへはイヱ〳〵大き いがよいとは一がいな了労いつれの女も只一 義の長からんこそ嬉しいたつてちいさきも辛 気なれとすくれて大きなも又くるし兎に角に角に よいかせんがよいといふも一通りのあまひこ と葉まひにひさへあへは指先の悪しやれも腹 にこたへたまられす口吸ふ斗りても水をもら す事あり薬いらずによい気味からせいかな女 も是にはこたへ兼るの仕様は最前の通りさね かしらかけて上つらをいらひ〳〵腰遣ふて貰 ふ程よき事なし但しいらひ様ゆひ先に口伝は 是はかゝ魚の噺に聞た通り是まて心易ひ女郎 主かた誰に尋ねてもよいふ違ひない事と夜と ともにひそ〳〵つふやく内鳥の声明方の鐘に くわしふは又の御げんに咄し升ふとすこしの 間とろ〳〵と寝入る時分件の女郎は目を覚し て見れはお苦はもふいんでゝわたそふなと心 せわしふあると直に近所の間夫ぐるひ台所に も火打こち〳〵モウ茶のわく時分摺鉢の音に 半次郎も青葉も目かさめて夕へいふた噺し残 りは女夫になつてからとつくりと聞ふといふ に嬉しく親方に渡り合ひ立金して夫婦の盃さ かしき世ふも珍らしい一筋な男辛抱のよいあ ぢいな気性な女もあるもの誠に大は小を叶へ ると引まくつて見たらよつ程不相応な道具同 士も心の合ふが則縁にていよ〳〵中よふ今に 添ふていると委しふしつた酒屋が咄まんだら 空もあるまいか珍説〳〵 西沢 文庫 伝奇作書拾遺中巻終 狩 西澤 文庫 傳竒作書拾遺三 西澤 文庫 一準伝奇作書拾遺下巻目録 一頼政扇子芝院本華写 一昔米万石通院本拳写 一北條時頼龍院本の墓写 一種類通鑑雑恋の話 一三浦大助紅梅釣の話 一一谷嫩軍能須摩都の話 一同千載集流しの枝のはなし 一同断同年同一娘景清八島日記の話 一狂言の筋は八文舎本には 一同黄金の鶏内読のはなし 一仏法乗合噺の條書 一武場番附ふ名前を削る故 凡十二条 六子保九甲辰年春始興行追善の芝廿八ヶ年後寛延四辛未 頼政扇子芝 豊竹越前少様 豊竹筑前少様 真伝 西澤九左衛門版 年秋に 扇子芝 享保十乙巳年春興行廿五ヶ年後己巳の秋是よりして双蝶々の 一青米万石通 豊竹上野少掾直伝 狂言を 出しけり 正本屋九左衛門版 享保十一丙午年四月八日より翌十二丁未閏正月晦日迄興行嘉永 北條時頼記 豊竹越前少様 豊竹筑前少様 巳酉迄百 直伝 正本屋九左衛門版 廿三年ニなる 楽 海 源三位定法 治承四年庚子五月廿六日 卒ス 同同 行年七十六歳寛延四年ニ至て 凡五百七十七年に成 一七一 領政の前は追善の芝の院本の扉に有寛延四辛未年より又九十六年になる舒諸堂は 頼政扇子芝作者西沢一風 田中千柳 天上の衆星。北に拱して尊をしれず。 地下の諸水東に朝して。大よく細を 容る。中に牙む葦原国。神日本般石余 彦の天皇より。千余り八百や四十の年。 君を伝へて八十代。高倉院と申奉るは後 白河の法皇第三の皇子。大政入道平 清成皿が御聟君。治承四年も二月や信濃の大内山 ヲロシ御即位の大礼経営有受禅の宮は言仁親 王安徳天皇と号し。御年いまだ三才の。いとけ なき御姿に哀ノ晩を召せ。内大臣平の宗盛かき いだき奉れば。父みかど御悩によつて後白河の法皇 三種の神器を伝へられんともうけある。玉座は唐 の例をうつし。四神の幡を堀に立。諸衛皷を陣に 一百米万石通上之巻作者 西沢一風 田中千柳 西鶴法師が菊の諸女郎のよれる見世さきには。 たけき虎も加うべをうなたれ。印花禿が横町を。袂かゝ ゑて通るには人かみ犬も尾をふつて。必よると書伝へ。あし。 こぞしげれなには江や夕暮ごとのぞめき人相図の小 哥物まねやうがれ浄瑠璃口々の中にめに立東口。 新町根元根本の油頭負付仕出し家。虎やが見世にいつ さで。竹取唐土木々野など。家侍る間の何がな慰み。是三 五郎殿。あれ〳〵小野屋かうやくの声がする。来たら呼込みたはせ て聞せてや。なふもろこし様。木々野様がはびらしいでつち殿じやない かいのそれ〳〵見かけは十七か八か年よりあどない。おぼこな生れと そやされて。あぼうのくせに口あいだて。おづど心得たんとはしらぬかう やくの一座や二座はもめ災。是〳〵小野やかうやくと呼れて比も六十 余のねばりづよなるかた親仁。箱ふりかたけ立げ立[ヤ]よれば。野やおの 序詞北條時頼記作者 西沢一風 並木宗助 葵の花は日を見て転じ。芭蕉は雷を聞て 開き。耳目なくして時を知る。況や明君機 に臨み変に応じて民を撫。艱苦を憐み世を 富す。恵みめぐれる国人の。相模守時頼朝臣 古今に厚きに徳の栄へ茂りて桑の門薙髪 の昔を尋るに。建長かぞへて四門の。年卯の花月 の都より。後嵯峨の院第一の皇子。宗尊親王と 聞へしは鎌倉の御所に入御なつて前の将軍の御代嗣 とヲロシ各かしづぎ。奉る。親王御年十三歳。才智賢く 渡らせ給へば。執権北條相模守時頼。同若狭の前司 一泰村御蔵の典論佐野の兵衛政経 ̄リ其外在鎌倉の 諸大名。善尽して。御家督相続こより。御家督相続て天 下の悦び余り有。宗尊親王御袖を引つくろひ。某いまだ 鶴道道鑑雑恋の話 艶道通濫は正徳五乙未年八月開板して似切商 残口の著述なり神祇釈教雑無道の恋を六巻に わがち昔より歴々の恋しりの情を書当士の蔵 情をそしるいとおもしろき書なり雑の恋の部 第十一段に曰く浪はかりうそよると見えしか し話せしは須摩明石の暗はみがられ出ると談 しは木賊山の有明比同し月なあら所によりて おもしろてわけて武蔵野の草より出てゝ草に 入る月虫の声も高調子に隣をはしからす露も 大粒にて余所より雑めきつよし見る人の心も 空とひとつに成て実潤なるはむかふ境界に随 ふ魂なるべし葉月の中の五日もろこしも大和 も詩作り歌よむ人の宿に鹿るはなし終夜友に さそわれて興に乗するの望風願汝もなき童も 宵まどひせす病なしの奴婢も隙はなめら居眠 らさるは東坡居士のいへる造物者の無尽蔵が 爰に中橋辺に人の家の賄する男伴ふ人もなく 夜更まであこがれ歩行往還も稀にうそさびし く紙しまし我も家路をいそき足早に戻りける に汐留あたりのほのくらきかたよりふり袖着 たる女の色白く品かたちのさもしからぬが指 出てふるひ声して見かけて申上ます御情あれ かしといふ男はおもひがけなた何事にかとい へはたゝ出たすけに鳥目すこし給われといふ 男扨は此ころ夜鷹とやらんいふものにこそ何 にもせに今日は心さしある日なり有合せたる そ幸ひとはや路打あけて残らずとらせけるに 此女左右の手を受雨雫としやたりもあへす不 番におほへていかにかたまでは歎くと問ふに 女のいふにはかたおめくみに預り候上はつゝ ますかたり参らせんみづからは浪人のひとり 娘にて終にかゝる業に出たる身にあらす母に てそものは去年相果年国たる父親ひとり殊に 病の床に臥して持合せたる雑具も売代なし朝 夕のけふりも絶々なるにつけ隣あたりよりす すめられ此比は身過の為に夜〳〵ちまたに出 て往還の人に袖ふるれはその日を送るもふけ はありと聞しまゝにやる瀬なき貧しき恥を忘 れて今宵此業に出参らせ候へどもしつけざる ゆへまたはおもはゆくて宵には人にも近づき かねとかくと夜をふかしもはや宿にかへるへ きかかくてあたればとて明日の便なけれは是 非なくそなたの御袖に取つき共にかほとのお たすけ身にとりてのよろこはしさと涙なから に語るに此男もともに泣ておくる夜かならす と契りてわかれぬ扨それより夜をかさねて小 宿をもとめ出合しに心たておとなしくいひ出 すこと葉もあさはかなく次第〳〵にかわゆさ まさりけるにある夜女のいひけるは我身かゝ るあさましきわさを親にしられんも口惜しく そのかたと夫婦の約束致せしよしつゝますし らせ候へは老後のよろこひこれに過す何とぞ 逢ひ参らせんと願はれ候とかたる男も今はと てもぬれ衣かさねしうへのおもき縁いさもろ ともにつれだちて親の立家へ行てみれは娘が いひしにいさゝかたがわす親仁おもきむらを あけて手を合せて我等はいはれある者なから 幸ならぬ事弥増てかほとに落ぶれ候しかしむ すぶ縁あつてぞ娘はそなたにまかせぬらん今 は浮世に思ひをこ事なしと古きふすまの下よ り脇差一腰出して最期まて猛夫のしるしに数 さじと心がけたれと今の嬉しさ聟引出に送り そと渡され乗しと出しいたゝき其日は家に帰 る此男が主人は道具好にて取わけ此ころ指料 の求めしけるに幸ひと見せければ本阿弥へ出 し吟味の上菊一文字の助宗に震る世に稀なる 上道具と成けれは主人も日比の勤をかんし今 日のむすびを悦んて家屋敷に金銀そへて此男 にとらせ娘も親仁もむかへて心安く看病しぬ その年のくれ親仁はながく此世を退りぬ扨も 泉岳寺の土にうづむと聞しはたしかに大石の くだけにやあらん 此出板は元禄十五義士復讐の年より十四年目 なれは近き事ゆへ大石のくだけにやあらんと 遠慮の文なり此一段を仮りて明和三丙戌とし 十月を松半治太平記忠臣講釈の六ツ目七ツ目 に仕組たり親仁を矣間喜内とし重太はおりへ に注気したり実に浪人の堅気嫁が貧苦にせま り河原へ夜母に辻君に出るなど人情を尽せり といふべし干又この一段をもつて奈河晴助に すゝめ義士伝によらず本文の通りに仕組祖父 始紙子 聟を璃寛 を鬼丸初代謝尾惣嫁娘を湖六冊 代洲尾惣嫁娘を湖六始紙 小六 二代目此三人にさゝはよからんと晴助諾して 璃寛にはなし筆を採り予に外題を商識す作者 残口子を賞して艶道鑑廓の卯花るとよかる べしといへるうち訳すて鬼丸は退座し市川鰕 始め市蔵 十郎 出勤と成ける璃寛新升久々の一 一作名新升 座なれは幸ひと出村玉屋の名を仮りて越前三 国夫婦墳とに題して早本十巻を出して文化十 四丁丑の冬顔見世に出し幸ひに当りを取けり 是ら狂言の種とするには其折の役者によるへ し数多ある其史雑書の中に是を注包して誰々 にさせんとの腹樽新寄無量のもの数部あれ共 一時御座組により世に出す年月立は忘れ猛稿の 一つけとはなりけり詩歌連俳に孕み句して越 向うかびなから句を惜みて其場をまつむかし 源の順が楊貴妃帰唐帝思李婦人去漢皇情云詩 を兼て嗜み対レ雨窓月といふ題を得て此句を出 し津守の国童が薩墨ふかく玉章とみゆる哉の 歌もおなしその余ふし柴の加賀白河の能因も この類ひなり芭蕉も浮世の半はみな小町なり といふ句を久しく心にかけてさま〳〵に早か わりたる恋をしてと前句出しをりに爰[キ]にこそ と附たり詩歌連俳にすら談ばへあるなしの跡 ありいはんや諸万人の看官に見せる狂言なれ は時候人気役者の三ツに呼吸あわねは手柄と ならず期をまつて期を失ふ悪口にいへは弁当 もお蔵となりしといふべきが此三ツを弁へす いかに当り狂言なれはとて無理往生に出して 益なく不評にして看物の入らぬ時は金主には 損をさせいらざる気根をへらしすのみなり三 ツのうちひとつかけても時来らずと腹稿の侭 持ふしたらんかたぬかぬ太刀の高名なるべし 三浦大助紅梅勤の話 此狂言も享保十五庚戌としの春竹本座の新浄 溜理にて長谷川千四と文耕堂の作なり大序は 真鶴か崎にて頼朝敗軍を集める場二ツ目は八 丁礫の後家再縁して真田又蔵藤九は長盛等と 再会の場三ツ目は帷子が辻青貝やより星合寺 四ツ目は三浦義明衣笠城の場何れもおもしろ き場なめら衣笠場にて三浦大助百八才けふ討 死のかどんてと老の粧ひの着ら敷花田の衣に 白の白の直雲造りの太刀をはき心をもらに華烏 帽子しろしめ芦毛の駒にのり紅梅鞠かいとり 〳〵五色揃ゆる出たむばへとの歯あるゆへ表 肆に紅梅麹と出せり此三段めは餘の三の切と 違ひ屋体組なく往還の狂言なり娘景清の三の 切つゞれの錦の大安寺堤の外三の切を往来門 傍にて書しはなく数百番の浄瑠理にも所謂天 狗ものにて老練のものならで語らず三十年前 北の素人浄瑠理に名高き吹松独り是を語り余 も幼少の折聴し事あり然るに文化十三丙子年 璃寛を贔屓の老人よりすゝめて児源氏道出軍 龍の二の切青茎熊坂長花の役また太政入道兵 庫押三の切能登守教経と二役をさせしに古今 未曽すの大当をせしより何かな珍らしき院本 を見出し璃岩にさせんと種々進むる中に三浦 大助の三の切梶原をせよと北の贔屓連より遠 ていへとも瑞寛役は納りなから時節わへしと て是をせす六郎太夫を鬼丸娘梢を珉子ならは 役割にもこぢつけなかるへしと再三をめし時 諸寛の答へに六郎太夫と娘はよくとも大庭景 一親俣野景久を冠十は熊倉団八郎名にさせたら んにはかゝる名誉の狂言を仕崩すべし其訳は 石橋山合戦の比は大庭俣野大身なり梶原景時 は身分はるかに仰あらずや其両人の見る前に て切る釼を手の内の術にて切らす鈍刀と偽る 役ゆへ大庭俣野は家芸と同しき立物にさらで は狂言の情にかなはす先片岡の大庭新升の俣 野ならばしでも見ん狂言は是に限るへからす とて再ひいわす影にて肴板等の手当まてした れとも出すなりけり此時いかにしても残念な わとて金葉三浦誉と外題して淡松歌国に諾し て画入読本に出させ文談は院本のましを書け り後五六年立て文政四辛巳のとし三月歌右衛 門此比は梶原をしけり六は太夫鬼丸娘梢松江 大庭霊山俣野歌七にて外題も無雑作に梶原平 三紅梅なづなと呼けり四の切をしてこそ紅梅 鞠なれ譬はゞ紅梅籠にするにせよ箙の梅は源 太景季なりかゝる事は前宿梅玉の条にのふる 如くなれは論なしその比璃寛芝翫とてひゐき 〳〵の鎬を削り甲乙をあらそひしかど瑞寛は 年も芝翫よりは十ばかり越修行も故名人の狂 言を見覚へし故か三段ばかりは丈夫に上なり されとも芝翫は若手なり時の人気にかなひし 故血気にまかせ何役にても仕をらせ暗的も中 には有けり此時予が父の友魚力といへる老人 素人解治す古今戯場の見切者にて珍ら敷狂言 出しゆへ一見せしが片腹痛くなりしゆへ石切 だけにて帰りしと予に咄さる其批評を聞くに 此紅梅麹の三の切は宝暦明和の比一見せしか その時の役割梶原景時ふ三保木儀右衛門越様 六郎太夫に三榊大五郎は組組始梢に沢村国太は いまた娘形 大庭景親に嵐七五は にありしと 作名 他名 俣野五太 今丸 に山村儀土衛門此頃は喜吉にてせしを見て余 りおもしろきまし其後此狂言出たれは老後の おもひ出に見物すべきと楽しみ帯せしに永ら こむず又当時の役者ともは見るが物なしとを 比芝居は噂のみ聞て見物せす然るに今度今の 歌右衛門工左衛門等かするよし聞早速角の芝 居見物せしに衆人一統によろこべとも此方の 評するに論にかゝらす夫を大明神の親玉のと 諸見物は皆盲同前なりと散〳〵の評なり予も 老人のむかしを煑角軈の咄しいつれは谷風小 野川雷電におとされ戯場はなしには黒谷文七 平九は暖初代あやめの古きにたをされ閉口す るも口惜しけれはいかなる所が重にいらず委 しく評しそへと魚力老人の評をきくに先梶原 の了労違へり大庭俣野は東国の大名なり景時 は小身なり今の芝翫が梶原ならば大庭は片岡 に限るべし股野は新升か大友なるべし異山歌 七等にさせるは何ぞやその上今にも耳に残り 詞 眼にさへきるは茶の湯のうちなり。武馬場先 の松風を釜のたぎりと聞ゐして持参の茶器渋 くとも御両所へさし上ん〽此場のしらけ汲流す 御茶の手前は小庭従が包をゆかりのむらせき 帛紗青しつ覆ひの挟箱こしをかくれば是も又 三畳台目の心地ぞと梶をとつたる梶はらが心 の花ぞ優美なると此うち茶の手前をするはか の北野の大茶湯のさまを見するか狂言なり茶 の湯は東山殿已来の弄ひなどじて芝翫が酒に かへ歌をよむかは知らねとも都て小理口にて 大名とはおもはれず与力同心の心持なり後刀 を改る所もの語親子の影を手水鉢にうつす所 も皆下卑たり幕切淋しきとてか大庭俣野か出 て軍法の問事ならは論にかゝらずまた鬼丸の 六郎太夫甚あしゝ辺風大船はのせし時は〽する どき釼のかゞみ打音はばつたり砂煙り血はた つなみと酒かへる上の死骸を引のくれは六郎 太夫はぼう然と趣上つたるからだの内聊も疵 付ず縄目はふしぎにされほどけれほどけ重も空蝉のう つかりひよんと此時起上りしまゝ眼たゝきも せす正面を見つめ居たり大庭兄弟が悪口矢来 の外にて娘のよろこびせりふ泣りて大庭俣野 挨拶もなく立帰る迄ながき間正面は見つめ居 れとも爰は冥途か何国ぞと心の疑ひ顔にあら われ兄弟のは入り切た跡にて心付死なんとす ふおもひ入得もいわれず鬼丸はからだうごか せて扨は刀はなまくらかと大庭兄弟のは入ら ぬうちからはや心付たる体しからばとめて人 のないうちに切腹は出来るべし嗚呼拙なしと つぶやかれたり余も此評のおもしろさに已前 諸党に進めし時時するへしといひたる事を老 人にかたりけれは実に璃寛ふさせたらば鬼丸 にも教へへし其心にてする時は素相にも増る べし残り多しといわれしが瑞寛は期をまつて 期を失ひ芝翫は我をはり仕をらせたり夫すら 又梅玉の狂言となりて仕様を知らす星合寺を 宮となし手水鉢変して弱いぬとかに化す役者 はもとより見物の目も其時〳〵にかはるなる べし 一石嫩軍記のはなし この狂言は専ら歌舞伎浄留里にも流行して誰 も知りたる事なから並木宗輔か遺稿にて歿後 宝暦元辛未脱月より豊竹座にはじまるむも書 さしの所は浅田一鳥浪岡鯨児が補助もあれと 宗輔数十番の狂言ありといへども是らを名誉 の佳作といふ源語須磨の若木の桜を源平の世 界へ仮り敦盛を院の胤ゆへ無官の太夫と云熊 谷直実はもと佐竹の次郎なとゝおもひもかけ ぬ軍中の身代り行出しての趣向はつかぬもの なり三の切枕浄瑠きに要害きひしき逆茂木の 中に若木の花盛九重八重もおよひなきそれか あらぬか人毎に焦石様といふそめしとわかぎ の桜に熊谷桜を混し寺内の余木に梅あつて此 はな江南の所務なりと弁慶執筆の制札を梅と 桜の木はかわれて熊と一木に寄たるなるべし 予当仲秋見見がてら彼地に遊ふに付古図名所 等を喪りかの地に引当て見るところ源語須摩 記の古きはいはす源平戦死の古墳は深き盛衰 一此平夜物語より見出して爰か彼等かと宜めし にはあらす大約雑軍記の院本よりところを定 め標石を建しと思はる山上には内裏の跡ある がゆへ三の谷の前の一門の古墳有るを嫩事能 の浄瑠璃此めた敦盛の石碑にとなへ替たり古 き船頭うたに爰はどこじやと船頭衆に問へは 爰は須磨の浦敦盛の石塔これ宝暦明和頃の流 行歌なるへし新画図を見れは鉢伏山鉄坊嶽ゟ 須磨寺の北手を都て後のやまと云と云と云とは三の切 物語の文談に逃去たる平山が後の山より声高 くと是より土俗となへ来るを物津国大絵図に まで書入ると見へたり是にかきらす都て名所 古跡は多くは浄留理より出ところ定まれる物 くも尋ね少しの廻りみちをしてもかならす 討ふ代々の撰集にいたし和歌の名所古物語物語物語物語物語物語物語物 に出たる古跡は俗に遠けれは人行す四天王寺 の西門の華表の額を小野道風の筆なりとは竹 田出雲が青柳硯みりさだめ須磨の古戦場は並 木宗助が嫩軍記より極る元より根なしことを 書つゝる業ともいはゞいへ是らを作者の面目 といふべし曩にいふ児源氏の熊坂長範の珍ら しかりしより銘々古浄理本より見出して文政 元戊寅のとし五月堀江一の側芝居にて須磨都 源平つらし二の切扇屋若狭の場源平夥鳥越三 の切替の尾経春の尾経春の場をあつめ熊谷鷲尾の二役 を瑞光にさせけり源平つゝじの院本は享保十 五庚戌年霜月に始て長谷川千四文耕堂の両人 竹本註にて作なり然る時は軈軍記より廿二ケ 年前の狂言にて熊谷敦盛は嫩軍記の佳作に専 われて久敷世にいてず其うへ二の切なれは齣 軽く操に取立ても真の太夫は三の切をとり二 の切は二枚目三枚目の太夫かたれば軽き事も ち論なり物によりて三の切は語り手なく二の きり四の切なら流行する狂言ありいばゞ芦屋 道満大内鑑の三の切は人語らす四の切葛の葉 の子別れのみしり摂州渡辺ばし橋供吉とても その場を語らす四の切袈裟御前鳥羽の恋塚の み語るに同しよつて扇屋の場を人知らずよふ 〳〵北の吹松前にいふ両人は時〳〵語ると聞 たり近来こそ方則くづれ形容にもなき有けた る役を仕もしさせもすれど文化の末文政の始 ころはふたば軍能の熊谷などは仕手の役者を 好みし事なりすでに異心明時はは容猛くいか 一様東坂武士とも見ゆるが故熊谷は毎度せしが 芙雀梅影竹のせし時人柄に似合はずとて不評 なりしとぞ寛政十戊午年盆替りに珉獅李鞋に て若手揃への折熊谷は小珉獅六弥太は季冠切 ははけけるひな助猿毎日替りの時也其のちは 熊谷は片岡壱人より仕手はなき様に思ひしに 文化十癸酉のとし江戸より帰り立の歌右衛門 後悔むに言なから嫩軍記の熊谷をしけりもと より手だれの芝翫なれは故人の仕来りと違ひ 新寄無量の思入をくわへしたりけれは二の口 須磨の浦組打の場は古今に仕手あるましと評 よかわき三の切もの語までよく華切切払ふた るす髪の想との所にて兜の下くる〳〵坊主也 義経より暇の出るや否わからぬ小青坊主に明 るとはあまりなる思いれれとて甚た不評の上 角の芝居にて鋳貫青榊すゝりの道風をして大 当りをとりし故興行わづかにして京都芝居へ のほりけり其時の落首に熊谷が夏のとふふととととととととととととととふふに あてられてあたま丸めて京へ御隠居とてそし りけり此時より後歌右衛門度〳〵いたし坊主 あたまを見馴しゆへ今又は髪の志にしてした れは古風なりとて笑ふへし右にいふ如く熊谷 のかたち儒寛には似合ざるゆへ蝦軍記の熊谷 はせぬ事に極めたるを源氏つゝじは狂言も志 かひ殊に深編笠にて長く顔をかたし居るゆへ 蔵内砥の粉摺兀しにて見せたらば珍らしかる へし拵へのつくりと云ふ顔だけにても役になるべ しとすゝめによつて始しに狂言の珍らしきと 璃箱の拵らへ衣裳万端評よく大当りを取たり 此時の役割は小萩の敦盛に萩野錦子飯沢村麻 屋上総ふ嵐冠十は同しく女房に中山文七阿根 輪の平治にあらし団八むも璃窓のこゝろには 此直実は院本のまし深削なくする事ゆへ役軽 て狂言は次幕鷲尾経春にて見せ此場は拵らへ 容を役として勤けり翌年京にてこの狂言をい だし上総に工左衛門小萩に小六にて是また大 入せしなり其後中絶して此狂言出さりしを十 五年後天保三壬辰年歌右衛門晦年〳〵根気つゝ かれ新たに一日の狂言を稽古をする事能わす 大体の役は仕尽したり一齣は乃至口切ものに 残る狂言のあらましと余に相談におよふ色々 と話すうち風と源平つゝじの事を咄せしかは 梅むも兼て噂に聞居る事ゆへ両議の邪魔なり とて余人をしりぞけ梅玉にその役出来ふや出 来ましくやと問ふ予が曰瑞寛はつねに真立役 のみをして契りし造り拵らへをせす故に見物 珍らしがりたり前にもいへる璃寛すら役は不 足なりなれとも造拵にて勤めし事を語り聞す 梅玉いふ家に熊谷の造り拵へ珍らしからす殊 小岡は 暗覚の 返言 狂言を服でして働きをせす看官 に感心させる名代なれは所注梅玉の狂言に形 るまじ予又いはく二の切位故従軽し是を三の 切に脚気はいかにと院本正本を取よせ淡聞せ けれは梅玉聞てなる程是は軽くてするところ 少しいかゝすれば三の切になるやと問ふ本文 の熊谷は菅原伝授の松王にて小太はのなき役 なれは軽しこれを口と見て道具を加へ五条の 橋にて嫩軍能の二の口組打をして見せなは梅 玉原より檀持の楽屋通言に二の方評よく東都 より岩井宗若社并柴井忠太勘なれは是に敦 より岩井紫若 松之助 盥の小萩をさゝは取合すからんと云梅玉大に よろこび両人ともに引抜の衣裳を誨へ事は正 月元日に此増補にあらり都て一幕を賑わしく 人数をふやし五条の橋よりチヨボを駒太夫に かき き貴竹駒太夫は延享実誕宝暦年間の人古今 かきの美な主とて駈太夫ふしとて有夫ふしとて有 愁ひ大落しの跡〽かゝる歎きの折しもあれ俄に ひして鯨波耳をつらぬく鐘太鼓手に取ことく 聞ゆるにぞ夫婦ははつと打おとろき胸を痛る ばかりなり敦盛耳をそはだて給ひセリフ「はて心 得ぬ人馬の物音さては先刻の阿根輪とやらん がふたゝび是へおしよするか家命はおしから ねど名もなき疋夫の手にかゝる事一門のおも わくハテ残念ヤなア〽御落涙ぞいたはしき下略 敦盛を忠致につかひ熊谷を六弥太につかふ両 人役の肥る事甚たしその末にセリフ〽イヤウ熊谷 殿御所望とそ得ば此二本の陣扇わけて一本進 チヨボ〽まひの勝 上申すかさねて廻り麻のしるしチヨボ〽互ひの勝 負は戦場でといわぬはいふに弥増る流かくし て手に渡し夫婦さらばと立出れは是のふ暫し とひきとゞめ可変ひら娘の死顔にまぢど逢ふ て下されとすがる袂をふり払ひはや立いづる 其際に熊谷馬に乗り移りさもゆゝしげなるそ のすさま見るより敦盛心をはげましセサフ〽いか に直実此場は此まゝ別るゝとも一の谷の戦場 にて我ぞ誠の敦盛と名互つておことに出合ひ なば助くるむかいかに〳〵妻〽いかに〳〵と 此時花道に 呼われは 熊谷につこと打わらひ 一十四十四日 みた〽おゝいしくもとがめたりモシ一の谷の戦場 にて出合なはけふの情をその日の仇ころ加茂 川の流れを直に須磨の浦になぞらへ一二の谷 は東山そゑまれしこの陣扇さつとひらいて高 声にチヨボ〽駒をはやめて追欠来り舞臺にて歌た セリフ〽ヤア〳〵ヤア〳〵それへうたせ給ふは平家の 大将軍と見奉るまさ給ふも敵にうしろを見せ 給ふかかく申某しは武蔵国の住人私の党の旗 頭熊谷の次は直実見参せん返させ給へヲヽイ 〳〵テコボ〽扇をひろけ暫し〳〵と呼わつたり後 つる て分土海門馬〽敵に声をかけられて何か猶予な て引 抜 すへきぞ敦盛賜をは引かへしイガ来ひ勝負と 詰よれは熊谷もすゝみより互ひに打物抜かざ し朝日にかゝやく釼の稲妻かけよりかけよせ てう〳〵〳〵蝶の羽かへしもろ證駒の足なみ心 つし〳〵かしこは須摩の浦風に鎧の袖はひら ひら〳〵群居るなどり村千馬むら〳〵ばつと 引汐によせてはあり帰りては〽又打かたる〽虚々 実々テヨボ〽勝負果ねは太刀投すて馬上ながらも むんづと組ヱイ〳〵〳〵の声諸ともたとへ鐙を 踏はづし両馬が合に落るとも鉄骨かき切て高 名なさん其時かならず情ある武士などと油断 せは終にかの土にかはねをさらさん心得たる かといさめの詞下異次の狂言を前にとり越し 奇麗なる紫若と老練なる梅玉に所作かゝりを させるこゝろにて書あげ三日寄初に本読みし たりけれは梅玉よろこびの余りには 惜しとて三の替りに角の芝居にて出しけり熊 谷梅玉敦盛紫君上総大友余女房加納河様稲翫 十郎大当りを取けり是より梅玉の狂言となり 翌巳とし三月京都にて敦盛を尾上多見蔵にさ を同七申としの顔みせに敦盛を瑞寛記を伺に させ事にしていつも評よふわけれど敦盛は紫 若に限るへし市川海老蔵東都にてこの噂を聞 三升屋四は白立方に焼本を仕組ませ彼地にて 熊谷をしたれともかゝる増補とはしらざる故 一熊谷花道へかゝり敦盛本寂台より呼もどすが ゆへ両人とも引抜き目たらず残置しかし東都 にては珍らしきゆへ度〳〵つとめ今はね子も 釈子も扇屋熊谷とてする事には成たれ然れは この源平つゝじの熊谷は瑞寛を元祖と見て梅 玉を中興の開台なれは今時の駄熊谷とひとつ に混する事なかれ 同流しの枝のはなし 天保十二辛丑の春予は東都遊歴に下りし処武 州熊谷駅熊谷駅熊谷駅霊室等むかふ両国四向 院にて開帳なりけれは木挽町河原崎座にて蓮 生坊が悟道の発起は一子を悲しむ制れざくら 楽人斉が直孝の懴悔はその名を惜しむ詠歌桜 一の谷嫩軍記大序堀川御所の場二の口須摩の 浦組打の場三の切直実陣家の場四の切六弥太 屋敷の場との肴板出けり熊谷直実岡部六弥太 訥升相模に杜若領城菅原に大吉敦盛小次は菊 の前に紫若弥陀六田吾平に海老蔵にて四月上 旬より始め相恋に入けり原この四の切は佳作 なれとも院本にても語らす哥舞伎にても至つ て仕にくひ場ゆへ京摂にても今まで哥宿妓に ては二の切流しの枝の場限はにて四のきりは せし事なし東都にて先年故人三津五は賦始て 六弥六弥六弥太をつとめ田吉平は片岡市蔵にてせし事 あり名人上手の秀佳ゆへ工夫に工夫をしてせ しがさまで当りはなかりしとぞさて此時海老 蔵は昼後堺町勘三は座へスケにいで両かけに て例の扇屋熊谷一幕出勤なり則ち看板は開帳 東下向の 敦盛自作尊像 時を得て実に有難き御利益もスケに頼みの取 持は御ひゐきよりの御進に任せ魁ほ平つゝじ 熊谷海老蔵小萩栄三郎上総冠十は女房常世何 根輪鶴蔵この五月木挽町は神霊矢口渡ふ替り 堺町は多見蔵下つて海老蔵双の一幕も堺開帳 三升花衣と外題して熊谷蓮生法師に海老蔵玉 織姫に米三主馬盛久坂彦弟子尼常世松之助是 は源氏つゝじの四のくちの趣向をかり玉織小 原の唐庭に敦盛の菩提を弔らふ熊谷法師とな つて尋ねよるは鉢の木の最明寺と見て坊主頭 にて組討のもの語をして見たきの誹らへなり 一此後浪花に来つて是を熊谷と二幕ものに勤め しが岡部六弥太をして見たく出度を多すけ置 たき語らへなり予いはた扇屋の狂言につどれ らば甚度は生置れとも嫩軍記には次がたし其 訳はと問ふに敦盛を小次郎と取かへ身代りに 助けおとに次に出度又助け置く時は二刻と成 て魂入らす所詮体軍記の四の切を捨て新に趣 向を立んより仕方なしと工夫に及へども四の 切の文談に捨がたき所二三ヶ所あり留之前傾 城と姿をやつし乳母の林も花車と成り出の文 勺別れふしその日はかりはめぐり来てまたも かへらぬ人ぞ恋しきと上東門院の女房伊勢の 太輔の歌のこゝろ夕への雲朝の雨と誓ひしこ とも楚王の善はかない浮世あぢきなの此身の 上と斗りにて思はずむすぶ露しだれアヽこれ 〳〵それはマア何いわしやんすあられもない 事ばつかりヱヽ聞へたむかしの勤めをかこそ ふと堂上めかしてヲゝこそ都九条のお領城菅 原といふ事は何ぼ隠してもしれては下呉また 菊の前と菅原とせり合の文句にその菅原とい ふ傾城の御本家匁をとらまへて菅原といふシ ヤの果じやとはテモきつい間違ひやうくゝふ 衆か但しまた家中衆の御内義様か近付になり ましようと上から出れは菊の前いや〳〵和歌 三神を證據その菅原はわしじやわいな下略か やうに倍成郷の娘ゆへ自然と詞に雲上めて所 佳作名文なりと味わへは捨るに惜しく書度を 生かし置けば楽人病細五にかせなく老やせん 角やと書ては捨て〳〵すること両三度二の切 鬼原の里を見せねは奥へ趣向とゞかず口に畳 立など見せる時は画度傾城と成りても跡ふ役 なし此時千載集桜花秀造と外題をすへて草稿 なりけれとも夫も捨て弘化三両手のはるよふ やく狂言とはなりけり田五平を後藤盛長の悴 とあれとも須磨の戦ひの場所にて主人重衡を 捨て逃たる盛長の後家せがれ鬼原の里の貧家 に暮すも時候違へる様におもふが故伊賀の平 内左衛門が忰と直し菅原を深谷と異方にして 一口達なる傾城のすがたは忠度にかわたるもの なり中仙道深谷の駅に岡部忠澄の旧領あるが ゆへ女房の名に賦したり源平盛衰記は元より 謡曲の俊成画則を始めとして忠度六弥太の名 の出しものゝ書を捜し数度練らすんは御気す たとも心よからす嗚呼痴なるかな此業笑ふべ 江口の遊君漣本 琉球人供 名薩摩守忠度 隠居楽人高本 浅草沢本名中本名仲蔵隠居楽人方等 一鰕十は魚方寿美 同断同五平 ら丞平山武文五は神寄のけいせい長等本名俗 本郷のむすめ菊のまへ 一部六 四丈 弥太 わ丈岡部六海老蔵琴唄狂吟流の枝本調子江戸 一佐々木市蔵しべ西沢一風軒著す綴本を出す 伺くれて木の下蔭を宿とせは空にしられぬ雪 ぞ降ては花に枕に吹雪の褥子惜や嵐楽世の南 言を図て流しの花の枝々本小男の気ばか利汲 んで一夜まろ寐の深臥しもいわぬはいふに弥 増るが花や今宵のあるじならまじ今年未都八 代目団十は父海老蔵に逢はん為夏休みに上坂 して土産狂言に是を習ひ帰府して三丁目猿平 深き芝居にて勤るその外題に源平様平家損潰 やしやうのきはあれにしをむか江口の里夫度傾 しなからの作意をかへて 城すがた難波の仕組に狂言の世界は昔の飾紙 れて木の下蔭を宿とせは花や神崎の郭田五平 大尽すがた江戸の仕込に芝居の世界は秋のに しき姫事記競色和六弥太が琴唄の物語古郷仏 須摩凱陣一の谷武者画土産新板五枚続と書た 仮城遊本 り 名志度 一小国次第二十六日新車新車平山武奥 人足廻し 山 山人と廻し為十は余菊次は隠居楽人諸眼山格 茂平治 即比岡部六弥太団十郎幸ひにしてかの地にて も評よかりしと云をこせり 一九十五日記のはなし 此浄瑠理は明和元甲申のとし十月廿一日より 始る作者は君竹留躬黒蔵主中村河契三人の名 を出し新浄瑠理は三の切までにて四の口切は 義経腰越状三の口切を次にすへ大切は追善記 念のこたまとて豊竹越前少掾藤原繁泰行年八 十四才にして此秋九月十三日に死しその追善 の段ありていはゞ三段目迄の端狂言なり序は 清水より大仏供養二は武蔵守知章監物太郎の 場三の口切は手越の宿日向島なり是を歌舞妓 にとり立勤めしは浜芝居にて柴崎林左衛門大 戯場にては嵐小六なり寛政元己酉年十月叶雛 助一世一代に出せしが尤も三の口切斗はなり 此狂言程仕憎き役はなきよし泣は弱し強けれ は惣ひ聞す両眼は大仏供養の場にて操抜たる 眼なれは白眼む所も明く事ならす則此時柴崎の とも相談して始めしがさ程の当りもなかりし となりされども景清の人柄は小六に限るとて 人もすゝめ我もすてず度〳〵せしが寛政八丙 二の 辰年の類見世に傾城阿古屋の松浦兜 切 軍記 事七市切大仏供吉二の口菊水三琴責岩永小六 琴責岩永小六 一口琴責三の切鯉の場 重忠文七讃附あこや国太は段切所かへしにて あこやの母十六夜に小六井場重蔵に文七早替 りはや拵へにて大に跡よし娘景清八島日記明 一同加京清小六兵衛滝いろは左治太夫山村三組養景 清といふ外題にてよふ〳〵此時小六の京清を 当り芸となり琉神選玉の光仁祖とも小六王を書し書 にも大極上候吉に位せり小六柴崎没してのお 誰も仕手なくさま〳〵三桝清兵衛の親芳香 一社五堀江市の側芝居にてせしを予も見たる事 あり其後文政元戊寅とし盆中の芝居にて娘草 清八島日記二は北條義時に璃寛弥陀六に鬼丸 敦盛幽霊に錦子三は糸瀧ふ小六左治太夫に鬼 丸京清に瑞寛舅沢村国太は康蔵を拝して古柴 崎の小六のせし事を委しく教え稽古万端再吟 して出せしが其比は見功者も多く小六薬崎等 をよく見しもの多きにや泣過き愁ひきゝすぐ るゆへ弱しと云けり小六玉すら数篇勤めても 誰よからす漸のちに佳境に入りし役中〳〵容 易に出来る役ならす按覚もつぶやき居たり爰 に天保二辛卯年五月狂言に角の芝居にて梅玉 加賀屋 幼少の時 一本寺稲荷等の浄芝居にて浄瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃瑠璃璃瑠 福之助 理に木偶をつかわす子供役者に首振と唱へある まり人数の余計出ざる物を見取狂言にせし事 ありこの事をおもひ出し浄留理は竹本組太夫 素人の内藍玉 いひし人なり 糸人の内藍玉と三味縁に鶴沢勇造手摺人彫つ は吉田千四同しく新吾同三吾と打交同座にて 興行せしその口上書に私幼少の砌操り芝居へ 出勤仕候往古はあやつり歌舞妓打交これあり 其後にも私首振りと唱へ相勤めましたる先例 も御座候ニ付操かた衆中と打寄内談仕は右操 一歌舞妓興行之儀一統庄組仕則狂言は私多年八 島日能三の切島の段相勤度候へども是まで名 人達の致され候役義ゆへ是迄相勤不申共所去 御贔屓の御方様より押て右の役を相勤めそ様 仰被下候に付操方衆中と打交にて組太夫どの を以て首振りにて私相つとめ申候誠にいち か罰か堅横十文字の島の島の島の島の島の島の兵 下略さても稽古は梅玉の部屋にて組太夫勇造 とならび千四は前狂言の柱太の木偶を景清の 心にて遣ひ見せ新吾は佐治太夫三吾は糸瀧を つかひ見せる事にて楽屋は中通り部屋を明て 操方に渡し舞台建たくも操りと歌舞妓の道具 同し場を二ツ宛掛らへ前狂言千本榎打交と云千本榎打交と云 は大序皷渡しは惣操りなり序切堀川夜討は歌 舞妓なり二の口はなし二の切渡海屋幕明より 知盛の向ふへは入るまで探り千四知盛ひとり 遣ひにては入切と拍子木にて道具歌舞妓にか はる国太郎典侍の句左盛梅玉歌七弁慶義経小 川にて幕切まて哥舞妓なり三の口推の木また 操り幕切小金吾の立より歌舞妓三の切すし屋 是竹此太夫同時太夫まるで授り八島日能三の 口惣哥舞数三の切島の段一幕手摺舞台幕あき 百性此の女は木満にては入る跡梅玉には千四 上下出遣ひの容にてつきもひ余は黒子にて松 江鹿に三吾顛十は梅十六事に新吉に新吉小川嵐吉 東十は弥三郎付添ひ一統首ふりにてあやつり 哥舞妓とも名誉のもの斗りする事なれ は誤りはなけぬともまづ眼にはたらきある梅 玉を育に遣ふは損なり京清はかりはいかにも 木偶なれども余はとふ見ても哥舞妓なり評判 程にもなく一日の場代にて操りも歌舞妓も見 ることなれは朝の内は珍らしとも思へと後は すこし飽る心地せられて切けふ言暁烏祇園調 お花半七は惣哥舞妓なれは見馴れし見物やは りこれをよろこふなり是を試として評よくは 時〳〵打交にすべしと相談して揺り歌舞妓の 二座をからへ雑費のかゝる事甚た多く大騒き 立て興行せしも時候暖気の比にはありながぐ 興行もせで止けり米篇にものふる如く中むか しまでは歌舞妓は浄留理をまねず浄不理楼り は最哥妓を似せす見物もまた別〳〵なるもの なり古沢村長十石のいひし如く歌舞妓よりあ やつりをまねぶことかぶき裏徴の壺なりとは 立なる哉すへでむかしは諸芸ともに意地を立 てはげむ事なり所謂かぶきは浄留理より古し といひ浄瑠理よりは哥舞妓ものとて卑しめる 心あり浄るりにさへ東西往竹の両派はて始て始て 竹本に取立し浄留理は豊竹座のものは語らず 一豊竹になる院本は竹本に語らす浄瑠璃の座に 作者を抱ゆる時他門のものへ我座の狂言の筋 を申間敷と絶分渡すとき證文をとる事なり若 此事あれは両派より対しを出して遣はす哥舞 妓にも大かぶき淡芝居吉芝居芝居とて位をわかち て浜芝居の役者大かぶきへ出る時は出世と祝 しかぶきより浜地へ出る時には卑しめらる所 意地を立るも藝たのはげみかつは方則立たり 今はその意地もなく方則もなし素人が直に太 夫となり宮地浜芝居の役者も大歌舞妓の役者 も壱ツに混して人のゆるさぬ立物のふゆる事 煮しらみのわくよりも早し扨も八島日記の景 清はなしがたき役とおもはる梅玉のは首ふり なれば家才覚はても手摺と太夫とに任せるな れは論の外なり小六璃寛すら右に評する通り なれは所詮今の役者の出来る役にはあらざる べし去嘉永改元申としの春東都中村座にて今 の歌右衛門概この島の場を増補して段ぎり船 を呼戻すところ極風味松円心となり清水観音 の利益にて両眼ひらくなどにしたれば東都に ては島の景情は珍らしければ此様なるものと おもふがゆへか能く入て長く興行したりけり 新新狂言とすれは格別狂言ははまの真砂する 部はなし是ばかりに限るべからすとおもひ捨 今時若輩の役者かならず好んでする役にあら さるべし 一狂言筋ハ八文舎本に有 前集に演る自笑其積が合作傾城禁短重のうち より幾らか哥舞妓狂言のすじは出たり空の誠 真の空の論を堪礎花大樹中入嵐来芝元祖みか柏 手公成につかひ桃久松山吾妻与治兵衛の傑を ひとつに書いれ恋にそのあが一字外題の狂言 一月廿四日佐久為十郎松山国太は与五伊達 是より成る硫久為十は松山国はは与土伊濃 も是より成る 青み五は吾妻いろは の与作関の万兵衛が駕舁のくだりは戻駕鬼相 有に遣へり于此駕の條よりおもひもふけし狂 言あつて天保始めの比にやあらん一日梅玉に 筋を噺すに梅玉哥なりとて水をうち先世界は 何にし給ふやと問ふに予供堪揚柳桜にせんと いふこの侍歌は寛政五丑年はる辰岡徳叟両人 の作にて護国女太平能廿巻の写本にもとづき 武将足利義教女気を嫌ふて男気を走る佐忠院 前飛騨守福井木津周兵衛様津一色結城守は湖 新七にて座頭なれは則ち外題柳さぐらなり泣 屋辰五郎屋辰五郎この狂言によせて梅玉に結 城守をさせ序二は是にすこしの添削にて満せ 三四に至つては此駕よりおもひよせ女太平能 に出たる辰五はくるわ戻りに白無垢を重ね着 て駕にて帰りし奢の間をかき入先幕明に短き 茶屋場有て返して北浜までかへる往来一面の 雪もちとし淀屋辰五郎に安蔵駕かき関たるに 坂東先方の勝五はに梅玉吐打目代覆次口より 乗頭末社送り出後程とか明日とか云ては入る 坂東梅玉駕をかき出し花道より西の通ひ通ひ道に かゝり本岸庵へ戻る内向ふの道具段〳〵引て引て 替る土蔵中に白無垢にて太夫の弁を出して読 嬉し出る抔あるを所〳〵にて肩を入る度に梅 むこのもしがるおめしみ有ておれももとから 駕舁の夜にむまれはせす相応のくらしなれと 川来のためにこつてわ前は駕に乗つたものが 今は腰をふつて舁ねばならぬと述懐交りの穴 をいふ坂東も是れにあとを打ておれじやとて 駕にも馬にも乗りかねぬ武士の禄をかぢつた 身が今の嚊めに打こんで梅玉はしあの喚衆も 筋ものかたりですつかりしているとおもふた 団蔵勝五郎はおもしろいやつじやそちの駕舁 になつたはどふいふ遊びをしてからじや咄し て聞せい〳〵梅玉旦なと違ふておいら大金は つかわねど腹つらでする旨事夫は〳〵おかし い事もくら升たぞへ坂来あゝ相肩受賃はいか るそや梅玉一朱なら且なからふり出してもら わふ抔との捨ぜりふにて本舞臺へかへる此内 犬のをぼへ辻番の挑灯捨子番の宅なとを梅玉 おかしみ入にて卑陋て云とゞ華切は淀屋橋を かざり付夜廻り役人この声を附て来る心にて ひそめきては入る梅玉坂東は是をあやしむ花 蔵は無中に太夫の事を云て文をまた出す梅玉 はすべりこける団蔵は然りなから氏を抱しめ る坂東はあきれて困つた物じやとあたまをな でる梅玉膝頭へつはをぬる是を帯との書もの 花蔵坂栗梅玉三人をよせて内読みの時しばし は鳴りも静らすまだ君も聞かずに三人とも云 合せたる様に手を打けり本陸には手をうたす その時は余も自笑が履物を直し其磧が挑灯を 見せ迎ひに来しこゝ知せり 一同黄金の鶏のはなし 翌日より又次まく淀屋の場の音述にかゝるに 梅玉次蔕の趣向を聞致たび〳〵人をもつて予 を迎ふ予行ず面言する時は尋ねとへは語る梅 玉一座のものに風聴をして面例なれば返書に 次まくは黄金の鶏を脚気来る何日の夜読むべ しとしたゝめ返す梅玉黄金鶏は淀屋の重宝誰 もよくしりたる事なから外に黄金鶏と名付し 筋もありやと一座をよせては評義したりとか や予草樽成つてまた内談聴人は梅玉市江巌獅 常盤此砌其節なりその筋は淀屋古番頭千茂四 郎今年道暦にて赤ひもの揃への白髪親仁これ 片岡なり淀屋の看抱人にて栄飛驒守が謀反に 組して淀屋の内を大名にもせんとの工みを隠し し悟しよくなる計り云辰五郎に幼少より養子 嫁嫁媛業の内より貰ひある娘小庵松江なり是奴 の小万の心にて使気をこのみ男嫌ひにて伊達 なる言をしながらを〳〵刺髪するとて名を小 唐といふ名前人辰五郎は妻蔵にて只奢に長じ 新町通ひにて南枝に吾妻にほだされ身持放埒 なり此中庭の供部屋に坂東かご舁の関よる女 房お次国太郎にて夫婦とも旦那の気にいり久 みやら駕かきやらにて小川の手代新七本名上 蹴の文人にて縄のれんの世話場を豪家の中庭 にてする役なり梅玉の駕かきの勝は新町の駕 なれど是また気に入なれは爰に寝泊りする国 五郎の手代敵娘小席にほれて小川の手代に為 替のかね紛失の科を塗付る梅玉はこれに一味 して安き敵をして居る片岡は松江を辰五郎が 嫌ふ故嫁入さすか但しまた庵寺へ坊主に成て は入れといふ小麿は先のとゝ包のいふ事は聞 ふが千茂四郎らのいふ事はきかぬとせり合ひ 辰五郎挨拶すれは片岡放埒の異見する種〳〵 狂言あつて歌七の役人来つて辰五郎は飛騨守 が悪事に組せしとの疑ひかゝり奢のとがめい ち時に発し国五郎梅玉また此中へ出て奢りを 大仰にいふ片岡坂東は是を云訳する団蔵我と 名乗つて科に落るこの時坂東まことは足利の かくし目付と本名なのり情をかけて今方夜半 のかせをかけ大ぐるは一件は入る返して放れ 座しき団蔵死罪を覚悟にて松江の小庵に身持 放埒は此科を引受んためなり小川の三島の助 に南枝の吾妻を逢はせん詣われはまた誠淀屋 の胤にあらず片岡の番頭悪心にて家の和子に は何々の裂の守りをつけ捨させ我子を浜屋の 跡目に立んとの工之事家は則片岡の子じや故 跡目を継了簡なくまた其上に飛騨守に組して 大名にもなるべき心これが否さの放埒なれは いまだ女の味を知らずとの云訳松江の小屋聞 て扨はそふしたこゝろで有たか此身も幼少より て娘にもらはれ一旦結ひし妹背なれは婚礼を 待兼しが新町通ひは不束なこの身を嫌ふてな さるゝと悟重嫉妬の発るをたしなみ伊連な様 してちから業と奴の小まんの云訳にとゞは罪 科をうくるには夫婦のかためと小庵の頼みに こしもとともに寐ところ敷世後にたてし硝子 の阿蘭陀細工の屏風をあくれは結構つくめの 蘭画のまくら画仕かけに動く交合の拵らへ物 辰五郎も小庵も此事こよひが始めゆへ当惑せ しがこれを見てあれ〳〵経さへこふ手をかけ て是此よふに承おかへあら方はがてんがいた 屏風を廻すこの内に梅玉はこれを立聞おかし みなから守りを取出しさてはおれがと思いれ 一異坪の前へ国五郎囲ひの屋根よりうつゝにな り落るを梅玉飛のいて是を見るのが返し道具 梅玉この時思はす高声あげ黄金の鶏更ました 大当り〳〵と衣を忘れて聞入るにぞみな〳〵 ジヤ〳〵いふたるは雑俳の巻開きに表題聞し に殊ならす扨も泰半の鐘鳴りけれは坂東姿の姿ののののののののの姿の姿姿に めて其節小川歌七も出て返答聞んと云入る市 紅松江出て科にふくす片岡出ていや反逆に組 せしおぼへなしといふ坂東陸技を出す市紅片 岡をとらへ親人りヱゝこなたへは給ふ主人の 胤と取替て淀屋の内を横領しながらむほんと しつて組する欲心科を此身にあびんが為心に おもはぬ放埒だじやく遣ふても〳〵へらぬは 金と本行淀屋のせりふとなる梅玉出て片岡を 二重より蹴飛しよふマアおれを捨上つて我子 にさける栄耀栄花是からおれは淀屋の旦那ど ふするか覚へておらふ国五は出て若旦那お目 でたふ御贔負ふりにつめかけて梅玉つかふて くれる奉公始め辰五は夫婦をさいなめおりや 親仁めをと立かゝるを坂束とめて梅玉の守り をあらため淀屋の主は勝五は向後名前も切か ゆるうへは辰五は夫婦は八幡の領へ追放せん 皆〳〵して千茂四はが納りは片岡おりやいつ まても看抱人坂来イヤ八幡に於ておしこそ隠 居かならす用捨はならぬそよ団蔵松江ヱ々有 難ふくり升梅玉皆がらくたは片付た是からお れは此屋の主坂東申付し一義は何と国太郎く るわの諸払ひ皆相済み小川歌七のこるはかね 諸気のむき皆〳〵奥より役人に成り出て村印 付てかくの通り梅玉胸りしてこの法屋の内は 坂来のこらず闕所被成るゝはやい騒く国五郎 を投めけて梅玉こいつアどゑらいめに逢しおは つたとあたまを叩くが拍子幕又〳〵内読に手 をうちなる程黄金のにわとりなりと皆〳〵よ ろこびたりこれ前篇に云ふ並木吾瓶が黄金の 鯔の二ツ目を潤包したるものなり既に文政二 己卯年三の替り中の座にて興行せしが其後の 役者に一両人能く役割に叶ひても余はこち付 に成て始めて書上し時とははるかに見劣せり よつて黄金の体の狂言を種として楊柳桜の世 界により種を見せて手妻をするに似たり高藤 龍興を淀屋辰五はこしもと関屋を小唐山かた 道用を与茂四は向坂甚内と柿木金助の両人を 関兵衛と勝五郎に盛分しものなり此虚にのつ 本文 て踊子売五郎八の世話場 て踊子売五郎八の世話場本文のを書くへしと 肴板等にかゝる内片岡は隣の芝居へ出勤の約 来有て此座に遣へす十五郎にさせる時は折角見 込みし狂言も浮へしと評義のうち一両人役者 間違ひ是非なくこれを出蔵として繁夜話に取 かへて此草稿は梅玉にくれたり塩とし毎に是 をせんと云ひ出せとも予また筆をとるの了簡 なしこの内壱人間違ひても狂言の釣合あしく 役者は追〳〵故人となり天保十二丑としに楊 抑さたらを出せし時慶子のみおぼへいれはあ れはいかにと進めしかど辰五郎を我重と見て 駕の二人を源之助此の大芝翫にさせては寸尺 あわすとおもひ捨たりわづか十年余りのその 内に老練の役者は殺し仕古せし狂言にても当 時の役者は始めてすれは皆新狂言をするが如 し心なしに仕られんよりさせぬ方遥に増れり 仏法乗合噺の條書 是も其比の事にて有けり一反虫ぼしの折から 古き八本字屋本をしらぶるにたゝ一冊の欠本 あり外題を仏法乗合咄しとて自笑其硯の口調 におとれど紙王に喰れし三の巻是もなんぞの 種にもとしわ引延し読たる所人名居所を忘れ たれとも曽根寄村の世界を仮りでいふ時には 一碗頓り平野屋徳兵衛とも云ふべきいれ男天満 屋のからへお初といふ女郎に馴染幸ひいまた 女房もなけれはすへは夫婦と相談格まりもふ 一年で年来も明れは侯何程と親方にかけ合半 金をよふ〳〵調へ銭金の出来る間は気侭勤の 約束成けり爰にまた油屋九平次といふべき男 お初を呼出し口説といへと初は嫌ふて逢わぬ を根にもち内證を聞ところ徳兵衛との約そく ありその徳兵衛は九平治が先へ身上書入れ先 祖より持伝への祖師日蓮の曼陀羅もろとも九 平次の兄に預けこの比の半金も夫にて大かた 調ひしなるべし九平次は兄の方へ讒言して徳 たるに金はかされず女郎売女に打こむかね気 違ひに松明もたせ石昔負わせて渕より浮雲し 早く金子を取りかへすべしと恋路の意趣にい ふとは知らす老実な兄より徳兵衛に金返さず は約束とふり家財ぐるめに渡すべしと徳兵衛 を突出しけり徳兵衛も詮方なく漸裏店をかり お初に逢ひ身の不仕合をかこつのみお初には 又徳兵衛の胤を宿して七月ばかり此ほとは勤 等もひき何かと物のいる事計り憂に月日を逞 なうち河内教興寺村に渉田宗司といふ郷士は つて已前お初を一両度もよびなじみの由にて 病気の容くるしからず是非にと茶屋よりいひ 送る天満屋の女主お初にむかひ云ひ聞すには 徳みまの手より跡がぬこずはいつまでも年は 明まじ譬へ年季の明たりとて住むき家もなく 成りては親子三人流浪すべし度〳〵いひ越す 河内の客は身もとたしかな郷士にて異皇あれ とお子はなく子を産みそふな妾とそなたをめ ざして呼遣ひ徳兵衛どのゝ半金にて身二ツに なつだ上壱年とか半季とか郷士のかたへひか されて年通りの金子も満せその上尋常にいと まをよひ徳兵衛とのと夫婦になれは双方とも に身の納り是にうへこす思案はあるまし分別 せよとをめられ初も老に角仕方なく徳兵衛に はいわねとも親かたと相談極め客のかたへは 人をもつて病気全快次第行へしとて内談すみ て臨月になんなく男子を産しゆへ客の方より 金子をとり諸雑費の勘定残り少しのかねと乳 呑子もろとも徳兵衛の手に渡し心にすまぬ事 ながらかやう〳〵の訳あつて半季か乃至小壱 年郷士のかたへ行間此子をわたしの筐と思ひ もらひ乳でなりとも成長させ首尾よく此身の 帰る来るすで随分短気を出さぬ様時節を待て 下されと涙なからにいひのこしは士のかたへ 行にけり徳兵衛も誰方なく水子を抱てもらひ 乳に泣〳〵月日を送りしが我なから身のあぢ きなく所詮育る事ならねは誰になりともやら ふかと成たびか思ひしが妻のかたみと一言が 耳にのこりて捨られず折しも沙走雪の夜にいふ つも通行乳を貰ふ先は留主にて帰りも待たれ す薄き肌への懐に入たる水子は乳をよひ寝入 もやらず泣いだすゆぶれは寐入る事もやと抱 て北野の町はづれ当はなけねど雪道をあちよ こちよとあるくうち植込みにくるりを囲ひ風 雅に建し門構へ塀を見越しの二階より雪の夜 たに往来ちらしとざぶりとざぶりとみづか 徳兵衛が子を抱たる襟からむ手へかゝるにぞ あつと花のき二階を見こみ往来に人あはら知 つてかけたる情なや只さへ冷たき雪の夜にふ ところに抱て親子とも道欲なめに逢ふ事とつ ふやく声を聞付て麁相したりと切戸より婢女 二人か走りいてわびつゝ親子の湿りをぬぐひ かく往来へ流せしはさら〳〵穢きものならず 此内かたに乳あまり吾子なけねは絞りつゝ外 には人も通るまじとおもひ誤り麁忽の水ゆる さへ給へと備るにぞ徳みま聞て歎息し親のな き子はちゝを乞ひ子のなき内に乳を捨るまゝ ならぬが浮世といへど見らるゝこの乳のみ子 呑たがりて泣止す哀れその乳を一口成りと呑 せてやつては下さるましきや婢女は麁忽の取 かへしに何より易しと切戸よりつれて勝手に またせおき委細の様子いひ入るに何よりの事 いと異より此家の妾と見へ出合がしらに顔見へ出合がしらに顔見 あはせ別れて程へしお初徳兵衛互ひにあきれ て物をも得いはす女どもはひつかねは水子を 取て妄にわたせは涙ながらに抱きしめ余所に いわせる身のいひ訳果しなけねは心中にと双 方死なんとせしところを主浅田宗司夫婦とも 立いてゝ両人を引とゝめわれ元来一子のほし き懐胎のお初を根引にせしが子をふり捨て来 りし故にひとつの望みを失ひしがその小児は いかゞせしと問われもせずこの別荘にかこひ おき女房にいひ付産後の養生今日の今宵まで 無事に育てし幼子はこの宗司に取らすへし浅 田の家は浄土宗なれどもし一子をあたへたま はゞ経宗にならんと仏に誓へり今こそのぞみ たれはとて徳兵衛が伝来の曼陀羅を買ひもど させおはつの親となつて徳兵衛と夫婦にする これ三十石の夜船にて乗合のはなしをその侭 仏法乗合はなしと号けしなるへしこはよき筋 なりと書ならべさせんと思へと役者なく腹稿 のまゝ出さず有しが天保四己としの春けいせ い雅児渕と世界を居たりこの狂言は文化十四 忍とし梅玉が自作にて序は雅児が渕二は石川 染三は宝永祀岩城城ヤ四は七浦の茶屋場五は大 仏餅おの〳〵類聚にて達談せねと時と役者の よかりしにや評判よくて入りしかと十余年の うちに役者おとろへ役割にもこぢ付多く一場 と二場は新ものに増補なくては叶ふましと予 に梅玉か相談せしゆへふと此乗合はなしのす じを咄梅玉よろこびて先に極め三ツ目仕込み は自身にかき四ツめ乳貰ひの場は予が作なり 梅玉の狂言は時代人名の嵯別なく道具立をた ひ〳〵かへおかしみせ旨とすれは至つて癖あ る書ものならでは仕がたきところ有りその頃 の狂言にもまづ頓〳〵の三吉天満宮の十作雪 月花の五郎七葉夜話の銀太など皆おかしみを まじへ下米なる所をするがゆへ筋の善悪腹の よしあしをいわず気敵と見こみて書なり右に いふ徳は涙ならば梅玉の伎ならずされども腹 稿を一変してよふやく狂言とはなりたれ石川 五右衛門の世界に狩野の四郎次郎は無理なり 然れども梅玉にいはせる時は信仰記にも久吉 あり五右衛門のときにも久吉なりと一口にい ふがゆへ心のましにさせて見るより外なし是 ら老後の役者ならで出来ぬ役なりこの三月京 都芝居にて上下二幕に縮め花雪恋手鑑と外影 して上の巻は洛湯のはなに寄る真葛原の周仕 一合一刷毛にかき起ばやはなの雲この執筆は狩 野の小雪下の巻は浪花の雪に寄る東高津の再 環会乳もらひに往ては払ふや袖のゆきこの秀 吟は狩野の直信当はる東都におゐて歌右衛門 龍雀青砥はなしの中へ入れ欝坐鐘馗新助乾雀 に云号けおもとしうか賀木堀富屋甚兵衛羽左衛門左衛門左衛門 衛門にてせしが幸ひ評よかりけれど梅玉がせ しにはしかず近ころ大西にて我童がせしよし 予は東都に居得見ずいかなる事をせしやらん いと見たて有けりかく書付れは三都評判記め きて際限なかるべし是にもれたる雑話は此冬 残篇にいふべし 戯場番附に名前を削る群 天保十二辛丑とし春中の梨園にてけいせい楊 柳さくら茶屋場をかきて干は三月より東都に あそびふき屋町市村座に抑留せられ花あやめ いろは連哥種花蝶蝶色成秋二部を書くうち十 月焼失して翌壬寅のはる木挽丁河原崎座にて 岩藤浪白石を書くこれを彼地の名残として帰 坂せしがこの秋当子がすゝめにて角の座に出 て紅楓いろは文庫をあらはし時頼龍鳥辺やま なら増補せしが慶子は適せられて泉州におも むき卯としの春言狂作書シ巻を書中の座団蔵よ りまねきしかど名前を出さず手伝ふのみこの 冬東都より眼玉堂白猿来つてすゝめにまかせ 辰巳午と三ヶ年挙を弄して遊びしが年〳〵戯 場の作法くづれ傍若此人のともがら多く他名 を番附にのするもいと恥かして成り行く侭わ 後は出すましと演たる群左のことし近松並木 のむかしはいはす文化文政の末まで京摂の戯 場にけふ言作者とのする者はよくもあしくも 一日の趣向一場の御筆をせさるものなしたと はゞ仮名手本にあれ菅原伝授にもあれ新規の 入場あれは作者の名をあらはせども古き狂言 をする時には作者をのせさる事古例なりわれ 等幼きよりこの道に入作名を出せること是に そむかす然るに近来一場半まくの他意も得ゝ せず古来よりあり来りの浄る理哥驪妓狂言の 世話やきをし頭取手代をほね立もの役者に随 身し屋は俳名は一字を冠り狂言作者と墨黒に 印すのともがら数多ありこれをとがむる庄頭 仕打興行人もなしゆへに行儀作法も崩れて大 作者あるは狂言役者としるせるもありよつて なら狂言つくりの外余事を勤めねは作者一風 を守りたれど所謂る多勢に不勢ちからなく是 を恥けふ向番附の名前を削るさればとて大天 狗となつて深山幽谷へ籠るにもあらすまた一 世一代と披露するにもあらじ今より狂けんの 相談相手あつらへ直しものは好みに直じ内職 としてもとの西沢本利と名乗り後来の名聞を けづるさすれは一日の狂言に三ツ四ツの外題 をいだして古狂言のきり売見取り狂言のあど けりを脱かるゝ言訳にもならんとひとり哭ひ 一独りうなづきて の根にかへる草何らぞ冬木立 かく述るものは狂言縡語堂のあるじ西沢一風 李叟あらため西沢本利弘化三丙午とし冬右を 摺物にして披露せんとおもふ折から東都枯若 町二丁目市村座より招かれたれは先に遊歴せ し時元地の芝居焼失して今の浅草へひける折 から帰坂せしゆへ当時の場所のさまも見たく 翌末の正月より彼地におもむきぬるたなれは 一筆をもてあそび伝奇は編れども名前を出せす たゝ狂言の相談相手と呼び三とせの内帳元沢 田の隣家に籠り食吉の能楽隠居も去春豆州熱 海へ入湯の折から年号も嘉永と改りし故浪花 の舎弟に本利といへる名前を譲り予が曽祖父 の俗名を受継西沢九左衛門と呼び半百の齢ひ も近けれは吾たゞ足る事を知ると云心より道 外方引込みの詞からも有ふかと 臍の緒を落して四十九左衛門 是から先は生たゝけ徳 相替らず極楽蜻蛉の親仁分と呼れ遊戯三昧に 暮さん事を願ふ 尚嘉永二酉年初春於東都浅草猿若街許語堂 西澤一風軒本利更九左衛門述る 西沢 伝奇作書拾遺下巻尾 文庫 文庫伝奇作書拾遺跡 文庫 此書や新に一部の趣向を立て著編するに非す 曩に天保癸卯の春言狂作書と題して歌舞伎作 者の伝におよび梨園狂言道に遊ぶものに作業 の経路を演たるが尚それに落たる人名書もら せし雑話も尠からず又此三とせ東都にあそび 新に聴たる珍説奇話まで帰坂の後思ひ出るに 任せ拾遺として三巻を普編せりされと一昔の 戯童にして猥雑なる事甚しく馬鹿等識者の哭 ひを採るべし東武出立の前ある人戯作者と成 披露にとて曲亭京山の老人をはじめ当時の戯 作者伝寺作りまで名高き人〳〵の句を集め予 にも一句求められけり例の地口に世の馬鹿は 三日見ぬ間に作者かなと識りしも所謂る猿の 尾笑ひにして我事を詠むときには然す間もな とてや柿のへた作者といふへし戯場の伝歌は 其時〳〵に書捨て桜木に彫刻ねは譏りて残す 論もなけれど小説稗史を書とも調高けれは売 れず売れはいやしめらるまして両世の人情を 其すときは作者のこゝろさまも推量られ徳を やぶるものなるべし水滸を書たる羅煮中が事 跡をおもひて此程 作者にはなる事勿れ孫子迄 唾に生れてたまる物かは 皆嘉永二己酉年孟冬於浪花得々清水街 西澤九左衛門一鳳誌 綺語堂 十一 一