南水漫遊拾遺
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- 不明
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狩り
南水漫遊絵遺
南水漫遊続篇
二之巻
「荒井恭姫君
以テ購入セル□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
一浄瑠璃濫觴
猶影亭言代!
文庫
附十二段傀儡師同唱歌
西ノ宮百太夫ノ説
一小野阿通古跡
一大坂操芝居紀原
附
同時津坂璃智古場
一竹本筑後伝
附あふむか杣の序陸奥茂太夫伝書
一豊竹越前伝
附
一世一代古文識砲之辞
一院本大意
時稽古本の推輿素人浄瑠璃
一受領口宣免状
同名代改帳説経祭文
今古
参考
南水浸遊
浄瑠璃濫觴
それ浄瑠璃とは音曲の惣名にしてすべして文に
節あるは何にても浄瑠理といへり三ケ津浄瑠璃の
名目といへるは
土佐ぶし江戸土佐少掾外記ぶし薩摩外記
栄閑ぶし片屋栄閑半太夫ぶし半太夫
□ぶし馬屋喜元文弥ぶし岡本山羽掾
義大夫ぶし竹出筑後掾角太夫ぶし山本土佐様
嘉太夫ぶし宇治賀掾佐太夫ぶし松本治太夫
市良太夫ぶし大森市水太夫一中ぶし都太夫一仲
宮古路ぶし宮古路国太夫道具ぶし道見屋吉左衛門
表くぶし表具亦四郎
一此余数流ありといへ共浪花の人浄瑠璃と覚居るは義
太夫少しなり京都にては今におゐて此唱へを分てり
雁州府志に云芝居四条河原にあり大凡傀儡場親
舞妓曰楽猿舞并に狂言舞々の類諸人こぞつて
見る所の場俗にすべて芝居といふ芝居とはもと野
原を芝といふゆへに名付付て人々芝居坐し
の義なり一説に芝居の號は南都薪の能より起れ
り人形芝居を操しといふ其或は中央正面に舞台を
まうけ横の長さ五間欄をかまへ其上下幕をまらけ
人偶をあやつる者幕の内に居人形を上下幕の間ゟ
出す上段の幕の顔かくしといひ人形をつかふ者
此幕にて百をかくすの謂なりまくのうちにすべて
幕屋といひしかど近頭舞蝶の楽家にならひて
かくやといふ中略さてもの浄瑠璃を説て人を左
夫と称す芝居にもろ〳〵の芸者ありおしなへて一部
を一座といひ其一座の長を太夫とす其次を脇太夫
と云大夫を明に比し其訳を脇に比するの謂也大凡
浄瑠璃の詞の始は源義経の愛妾浄瑠璃門前
の事よりいづゝ者詞は織田信長公の夫人の傍女小野
のお通これを作る扨しかして彼太夫楽家幕うち
に座して高発に回節作更して説に是を浄留理
と称すとそ三味線なるもの其音節を助く木偶
人は男女老少其事に応じてこれを出し舞台
幕の間にて是をあやどる其故に繰りといふ又人形
を舞はすといひ或は使ふともいふ浄瑠璃の間に狂言
おなす浄瑠璃太夫は文禄年中より慶長に及で
皆物参并に次郎兵衛某なるもの騎州宮の傀儡
沙を招きて共に是を経営す彼習物幷次郎兵衛等
浄瑠璃を語り西宮の人は人形をまはず其始は
纔に幕を両楹の間に張人形を其うへに舞はす
河内之助といふ人浄瑠璃太夫受領の始也治郎兵衛後
上総之介と称ず其内左内宮内相続いて盛んに行
はる常芝居は五条の橋の南に有しが豊臣秀吉
公伏見の城より京洲の洛に入せらるゝの路也しかば
其喧雑なるを嫌て今の四條河原に致さる傀儡の
外雲舞幷に幻術連飛輪脱諸に桶水操および珍
会奇獣式は賤人長女などいろ〳〵難芸をなす者
おの〳〵場をひらき是此頃の流風なり
淡路座秘書に云西宮に道薫といふ人御神の御こゝろ
をなぐさめけるに是より海上波風静にして猟舟
多くの災を得る事かへし時に道薫しばらくいたみ
て身まかりければまた風おこり波亭ふして猶さら
猟もなかりしかにぞ百太夫といふ人形を作りて神の
御前なる箱のかたわら身をひそめ人形を以て我は
道薫也尊の御機嫌を窺はん葛まいりたりとて
御心をなぐさめける是よりまた波しづましりて
猟もありけると也其後時の帝此事を聞しめされ
禁庭の政に出勤すべきよし勅定ありけるゆへ百大夫
都にのぼりて此義をつとむ是によつて
大日本者神国故以二テ慰テ慰レヲ一ヲ者為二
諸伎藝ノ首ト
かくのことき號を下され諸国諸社の神御さめの事
勅免ありしより胸に箱をかけ人形を以て神をいさめし
なり是傀儡洲のはじめ也百太夫は諸国をめぐりて
淡州と原郡三条村といふ所にて身まりけるに何某
の四人百太夫に傀儡を習ひて此後俳儡のわことを
なせりこれ淡路座操りの権輿なり淡路座の操り
凡四拾余座あり当時諸国へ聞へ聞へて名高きは上村
日向様を最上とす往来帯刀御免にして芝衆の表
口に大日本諸芸首といふ額を懸る
傀儡子
一伊吹山おろしサア不破の関守ハシヤ戸さゝぬ御代
こそ目出たけれ
恋しき由思ひサアふるさと近づきかンヤ山城の
井出の里かアゴサレ〳〵たうからエサレ朝の嵐に落
はれごそれサンヤ犬人ちはくゞりやしてくゞるかたく
川やはたそかれ時よは申背戸は金垣大戸はくゞり
明てたもれば寐屋もる月より部五郎左衛門が心
うかれてくる〳〵やヒヨツクリ〳〵ヨイトサンテ目
ヒヨツクリ〳〵
出度イナ
近世寛延宝暦の頃まで西宮ゟ傀儡師来りしが
今は絶て見へび当時の首かけ芝居といふもの其
類ひ成べし百太夫の社は武庫郡西宮恵美すの北
に小詞あり内に出さめる像は三歳計りなる小児の座
したる人形なりこれ神にあらず毎年宵白粉を以
て厚サ三四歩計りに顔に塗置也此邊りに其年生れ
たる小児宮参りをなす時此人形の顔を撫てその国
を小児の形にぬる也これ疱痘悪病を除くといふ又いわし
これ日本人形の初にして此木偶あるゆへに画の宮に
笠井氏といふ人形芝居の株有この木偶百大夫と称る
其由縁にて浄なりを語るものを土夫と呼び来れり
とそ歌道に遊女を傀儡といへる事往古の遊女は客人
の席に至りて哥を諷ひ舞を能し人形を遣びなど
せしとあり故に傀儡の名を呼ひなるべしまたきちにて
傀儡といふは我国の原あやつり也依之南京あや
つりともいへり
小野阿匠左跡
文禄の頃より世に行なわれて今専ら流却なす浄
瑠璃の権輿は織田信長公の侍女阿遍といへる女みな
もと牛七丸と矢捌の長者の女浄瑠璃姫の事を地
文しく長生殿十二段と号す是業沙の十二神二表
し十二団縁の道理をさとすゆへ十二段とはなしぬ此
艸紙に瀧野沢角譜して語り初しより浄瑠理の
一芸なれり阿通自筆の十二段の巻は大坂内本町
島田某といへる人持伝へしかとゞ元禄の初めに焼失ス
惜むべき事也この阿通は織田家の乱を避てより
津の国長柄の里に纔かなる草庵を結びて住ける
元来和歌を好みて数首の秀歌あり中にも世人
よく知れる歌は
つれ〳〵にふりにし跡を思ふにと
袖こそ濡れ候五月雨の空
一阿通の下女各ひろけの女の事近世時人伝に委し
於通の手鑑といふ板本世上に流布すれ共信し
がたし河内国観心寺の内火院の什物に自義の文
あり行年五十八歳にして元和弐年三月五日此庵
室におゐて卒スその旧地は長柄の町よりやなる畑
の中にしるしの松ありて里俗おつうの松と呼びし
かど正徳年中に朽たり
大坂操芝居紀原
大坂あやつりの最初は京都より左内宮内宮内といふ
浄瑠璃土夫折々大坂へ下り定る五日づゝ興行なし
勝手よき時は日延をして勤しが其後浄瑠璃太
夫段々多く相成あやつり芝居繁昌に及びしゆへ
あやつり名代を定められしは歌舞妓狂言すゟ
十ケ年ほとつの事也夫より東西の芝居昌ん口成
りし頃のあやつり座は夜七ツ頃ゟ見物詰か音明六つ
時に大序を開き五段の浄瑠璃昼の八ツ頃には打出し
がをのつから打出しも衣に入るやうに成れり宝暦年
中堀江あみだ池門前の新芝居にて初めて探りを
十文にて見せさり十七太夫淀大夫信濃太夫など出
しが是より浄瑠璃の風義衰へ初め道頓堀東の
芝居も明和弐年八月晦日切にて相続難相成同
四年壱竹往再興の為四月四日より古浄瑠璃一段
つゝ札銭十文ツヽの追出し芝居と成り同六年には
筑後芝居にて竹本豊竹打込この座組を初め東
西を諍ひし浪花気質の風義を失ふ翌七年又々
豊竹可座再興に及ぶといへどもいつしか両夜混雑
に及び筑後の芝居も大西といなし若太夫も芝居
の名のみにて当代は専ら欲散妓にて興行ひ
畑また稽古浄瑠璃といふもの宝永四亥一斗三
月大坂生玉の社内におゐて竹山豊竹の稽古場
を発記せしより其後座摩稲荷または北禁於
初天神の社内等に稽古場をしつらひ太夫に成らん
と思ふ者は先り稽古場へ出て修行なす其中に評
判よきは両座の中より呼世また一座太夫の内ゟ
吹拳なすとも響後の大夫人形つかひ迄打寄先目見
へを聞き能ばかゝへ悪敷は抱へずかゝゆるにおゐては
鼻がみ代として金子拾両と定め役場は序中を
勤むかくのごとく其頃は卒尓に出勤する事難成に
しが今は甚だ心安く先見習らひと名付けて
至つて初心なるは役場なし勿論無給銀にて出勤
する太夫多しかゝる町即ゆへ稽古場も名のみに
して修行の為ならぬ慰之場に成り或は席識財
出して語たり聞たりなといへる事を初れば殺
風景の族はさ春太郎と呼なすもの桶がたりにわか
たり蒲草がたり田葉粉語りなどいふ由語りとて
たわけを尽し出語には唇をも動ぜりしとある
故人の風義を忘却なす誠に後世おそりべきは此
道の行末そかし
竹本筑後伝
一浄瑠璃といふもの数種あるが中に義太夫節は浪巻
を根えとして此地の名物とす竹本義太夫しは摂州
一天王寺村の農夫にて五郎兵衛といひし人也生得帝か
ら世人に勝れ大丈夫にして夷か也貞享二年丑年
二月よりして道頓堀にて芝居興行有て最初は宇
治加賀椽の古もの世継曽我。藍染川。いろは物語。井
上指戸脇の古もの賢女手習鑑。頼朝七騎落。以上
五替り同三斗寅の春より近松門左衛門京都より
新物を作り越され其第一は出世景清これを松うじ
義太文往の浄瑠璃作の初とす元禄十四年巳五月
勅許受領して竹本筑後掾藤原博教と号す
貞享の初めより古物五十番余新作百番余越
操りに惣て相つとめ正徳四年午九月十日行年
六十四歳にて没す法号は釈道喜興行の初めより
三十弐ヶ年相続なし元禄年中に竹田出雲竹玉
氏の往本と成り大形道具に至る迄花美を尽しける
ば繁昌す事以前に百倍せり
鸚鵡ケ松序に云
いろはにほへとは尊圓親王の御覧も七歳の太郎松が
かけるも点昼かはる事なくいの字にていの字によみな
字はろの字にきはまれどもよしあしめ階級は千里万
段こゝろこともの及ふ処にあらびかしにしき晋元のわ義也
趙子即前島のやまとには道風化理行成などあま
たの名筆の工み書なせる文字の形しなしなれと第
法は十二点にはじまりて十二点の外はかす韻会字
彙五篇に廿余万の鳥のあとたえせぬ実なりけりと
物かし人の語り給へなにかたへなる萬に心得たる人の中
されしは六塵の道いづれかかはる事の有べき文武
の楽は美つくし谷つくさびのたがひめうりあらめ楽
におゐて五音十二律に登るべからず申楽を見侍るに
上手のさし殿下手のさし羽さす所にちがひなく引
所さらにかわらず皷たいこ又然り上手の笛にて笙草
菜のうゑもふかすひいやひやうをよく〳〵吹おほする
計り也立出て峰の雲は誰が舞ても遊谷四海波
静にてはたがうたふても高財平家のふしに諷ふ
たる名人もなけれどもよしあしめ雲泥なるはいかに
ぞや萬の藝かくのこどしさたまりたる事を能す
べし但その中の曲節は時にしたがひ折にふれて
臨機意変まゝ有べきにや然あれど利休組嶋
字和などのかはりし物数哥目を驚かすといへども湯の
うへへ茶を入れて手煎ふるやうなる無理なる物数
なもなし名におふ歌人のさま〳〵の狂歌の難体は
あれども五七五七匁の外はよみ給わすもろ〳〵御飛候
能師伝をうけて定りたる事をよく〳〵切磯縁磨
して時に応じて略変の用紙こそ達人のわざとも
名人の芸ともいふなれど語り給ひしを僕未存に有て
つら〳〵承はるに并浄瑠璃の道に思ひ合ていさゝかも
一浄瑠璃始りて百十余年瀧野沢角両検絞平家ニ
委しく琵琶の妙手たりしより浄瑠璃物語といふ
双紙を綴り直して薬師の十二神をかたとり三段と
いふふしを語たりひ世り其時は三味線にあわするといふ
事もなく扇をひらき左にそち右の手の段さきにて
骨と地紙とを掻ならして色々の拍子を取りたる事
なりその十二段の目録さへ今は知りたる浄瑠璃かた
りもなし此外に都巡りといふその一段はこれは検
一校の門弟京東洞院目貫屋長三分といひし人の竹也
かけまくも賢き慶長の帝これを興ざせ
給ひて人形にかけさせ叡覧度々有しより浄瑠璃
太夫受領に拝し世に行なわれて無の判官。弓継。鎧が
ゑ。戸井田。五輪くだきこれを五部の本ぶしと伝へ侍り紙
一江の濫觴絶ずはびこりて音曲の海波しづかなるとき
津風武やすき御代のためし浄瑠璃といふ一ふしの定り
ぬるこそ浅からぬ何の道もいにしへをあふきて今を慈ざ
らめやは此より曲も格に入て格を離れ格をはなれて格を
入といふ事第一の有なるべし古播磨太夫は浄瑠璃の中へ
陣を入るゝさへまへさらさへ謡へ聞ゆるとあしと申されし
謡にても奇にても浄瑠璃に打そひて浄瑠璃の様に
はなれぬやうにうたへと申されし新要の詞也けり
僕が門弟には浄瑠璃の文句の中ならば謡も哥もうたふ
とは思ふべからび語るといふべしとこそ教へ侍れい
わんや時々のはやり哥木やり音頭のたぐひ面りけは
さも有なん浄瑠璃の正体は眼をはずゝへからす世のは
やり歌とて半年ははやりは稀なり事こく上方の
はやりて遠国は知らず別かのはやもの都路に志
らず上京の事下京に聞へず天満の噂なにはに知らぬ
事のミ多し異国には大記なる御救ひとつの内にさへ
一日の間気供ひとしからずといへりはやか事さのみ致しど
ともあらまなし世間のはやる事聞出し浄瑠璃に
入んよりは手前の浄なり世間にはやるやうに然る古
有たきもの也世継曽我の道行に馬かたいやよとおどり
歌入し事相応せず一番蔭いま聞に汗を流すと三十年
前を後悔ある作者の心芸道の仇心さも有べき事也
一けにも文言章段の品によりていかなる名人もかたり
得がたき事有べし賢からんとすれば太平記のこどした
安ならんとすれば源氏物語のことく端手ならんとすれば
南世好色艸黄のかる口に似て各浄瑠璃にあらび
詩人の平仄を分ち韻字を押すも律口にかけて
うたわん烏とかや此国のうたいとの我駒貫川はせ
のうみなどの優なるさわらび吉々利々老鼠など
のおかしげなるも只律にたがわぬうそ有がたけ
れそのことく文句にもはこびはかせおよき等
程拍子有事なればそれも心を付て文字うつか
に而帝開合甲乙の位を錬磨すべき事也申も憚かり
あれ共逍還院入道内府公は御日待の夜天八鼓
三味線などの遊ひの中にいで我も一芸せんとて箒
木のしな定のまきを玉ふよみ遊されしにあやしの
下部まで聞人誠に堪く外の哥三味線もけ出されし
とかや源氏のよみ曲堂上の御伝受には清濁文字う
つりは勿論御戸になまりをかけさせ給ふ処ふしを付け
させ給ふ所も有とかや伝へ承はる是等をこそ音曲の鼻
鍋とも申べき夫迄は恐有とも一藝の本意を知らんと
はけむべしまして拙き辻芸門音曲を大事有げに
語りまぜて浄瑠璃本ぶしの立所をうしなふ下霧の甚
しき本心を外にうばしかにいかなる狂人ぞやと宇治加賀様
の比判尤なるべしもし聞人外のませ事をほむる時は
籾は我浄瑠璃はこれにおとりたるとかへり見ていよし
たしなむべき事也各医の詞合ある益気湯も野直いや
の合する敗毒散も薬味はかわらぬことも大きに人をそこ
おひ又大きに人をたすゝ浄瑠璃にかはりたるふし古
今なき事也只趣向年代せりふ風景時宜にそむかず
無理ならぬ様に地色ふし詞まで心をかへて精をふかく
語りなす事かの病根病因によりて配剤加減有がことし
外のことまじゆるは一味二味の加薬のことく本方の為の処
薬にて加薬の為の本方にあらずと知るべしかくあればとく
百式に脇目もふらずつくり付たることくれるは仏芸と
て嫌ふ事也其内の意味はあとふしとの和にありて
言語同断可然の所有るべし万巻の書を暗しても面授
口伝なくしては万の道成がたしとかや峯の薬沙の浄
瑠璃の本方相伝のうへに年をかさきて口伝にうへに
工夫をつみて加減の修行あり方ほしく四十余年来
寝にも是をわすれずといへども今に渕底をつくさずこ
れも語り得たりと思ふ事のなきは我身ながらいか
なる事ぞやと申侍りし詞の中より宝屋山本活重
其座に有てあふむが杣の板行なりていまだ序とす
るものなし奉り只今の教訓しるしてよと硯をな
らして口うつしのやかて紙上にうつりけるもむへもを
ふむかなりなりさしの此もてあそぶ隆盛にして
雲の上には大宮人の桜かざし給ふ頃諸侯は門在国
の御つれ〳〵浄瑠璃をうつさしめ給ひて僕が黒菖
の仰をからむるも多かり板行の書なりては富家の
深宝にももてあそばれ遠国波濤の樵哥にもまじ
りて道のひろく布きわたれる事のありたのしひ
かな只されども重板類板まち〳〵にて或は七行に
ゆかへ予にすわりもなく奥書名乗を似せて直本
正本といつわり世を欺きしかも文字をあらけ紙数
をなさねて価を旱し芸の道を煙菖し直伝を
打つんとわる音路の悪き類ひ伝々写々として節
一頌墨譜にいたり魔未のあやまり大違なる相違なる事
我猶とれをやめりたとへは唐人参の見せよきよりも
朝鮮の髪人愛の功能はるかにまさるがことしそれが
ゆへにはやくよりせしかことく干が名の下に音赤の二印
べくはべて直伝とあらわすは山本九右衛門一家にかざり
て外にはなしといふ事を爰にしるして是を序とする
ものしかや
正徳元辛卯年
筑後掾藤原将教
此文浄瑠璃の故実または藝道の便りと成べきものゆへ
著し置ぬまた陸奥茂太夫の伝書といふものあり
凡音曲之道上平去入四機開合仮名清濁を本
とする事いふに及ばす就中浄瑠璃とて薬師如来
の宝号を申事浄瑠璃御前の事より起りたる
而已にもあらす平判官康願入道互家物語を作り
生仏に教て節附は台家の称名より出たるゆへ
称名に二重三重あり平家にまた二重三重あり
瀧野澤角の語り始し十二段の古き節もさてうそ
浄瑠璃と号する事讃仏称名の心も籠るよし伝〻
食はり候然はおろそかに語るは薬洲如来の冥恵
も恐れ有にあらすや予か若年の昔竹本先生
の門下に随ひ御授を請勅伝を得余力ある時きは
曲をも潜に窺かひ年来心を辟く右之流義を語
る事いさゝかけが私にあらす程用の位長短の裏書
其外程拍子地はこび寄せ字戻り響移持合当
間さはる等の違を知す皆々御伝あらずしては難
至者なり其外の吟味もなくして我々そ習得たり
顔に語る人はたとへば蛤のからを夫て思ひ中の実を
捨るといふ山家の者にたとへに似たり予が門に遊ふ人々
此心を得て稽古修行あらせ秘事残らず伝じゆ
すへきものなり口伝に花鳥風月にあり常々
神祇禅教恋無常人輪生の葛類山辺水通ん
降りもの植もの泣計との述懐哀傷祝言等ニ心をよせ
怠りなく然共可有者也穴かしこ
陸奥茂太夫
一享保十九寅正月日
藤原浄恐在判
陸奥一呼殿
古代に錦屋喜太夫次に陸奥茂太夫二ツ井彦太夫永
嶋重太夫竹本源太夫辰春八郎兵衛等大坂表にて是
一御興行在しか共いづれも井上竹本の浄瑠璃を語られ
しゆへ別に新作の院本を不見聞
豊竹越前様
豊竹越前は大坂南船場の産也元禄十二年の頃井
上宇治竹本等の先沙達の浄瑠璃を学びて此道の
達人と成十八歳の時竹本采女といひ後に竹本若太夫
と改めしばしく竹本同座なれとも程なく道頓堀にて
芝居興行なし傾城懐内子これ新作の初め也京都
堺紀州南都にても芝居興行せられ其後元禄十五
壬午年ゟ定芝居と成享保九年辰三月廿一日大坂大火
類焼の後今の芝居地面を買求め同年十月十六日ゟ
新造の芝居にて興行其後享保十六年亥九月
勅拝受領豊竹越前掾藤原繁泰祝義出かたり
蓬莱山を勧む延享弐年丑十一月三日ゟ一世一代を勤
乙六十五歳
北條時頼記雪のだん
翌三年寅五月京都にて一世一代粟仙人吉野楼を勤
め同五年辰十月堺にて一世一代東鑑御狩巻悪源太
一平治合戦を勤め明和元年申九月十三日行年八十四
歳にて率す天王寺西門納骨堂の後に墓あり
一音院真覚隆信日重居士
安永五年申七月十三廻着込善としてに而助八の申趣と
いふふし事と勤ム此太夫麓太夫房太夫
八重太夫時太夫頼太夫流太夫
此とぬ生涯の内に戯文の作多し作名は梁芸軒といふ
宝暦年中植井菴八の戯作古文鐵砲に云
諫ル二筑豊居士成二作者一ト一序
浄瑠璃風流而評判通衆人贔
者何ト謂也。二ナル。古一ヲ一ヲ釣其ノ新ヲ張二其ノ
工一ヲ矣財主不レ言二胸中喜ヒ。塵中服
者何謂也鍛二其文一ヲ配シ其操一ヲ鳴二其ノ
レ才一矣是知財主逸二於上一ニ。作者労二
於下一、法二乎理一ニ也古ヘ巧二浄瑠璃瑠瑠璃一者
自二近松出雲一至テ二阿紋観並木ニ可
数也。是レ不二独鳴二ス其才一ヲ亦皆務于
勤ヲ耳。況テ夜寐風起。登レ櫓撃レ鼓者
猶然況作者乎一朝者二怪異怪異一揮
レ筆ヲ喜レムレ耳ヲ。掛レ操ヲ樂シレ目。是皆主レ頓作
勤行一。也至若夫大城戸向レ曙東
方未レ明ルニ好操道路ニ連シテ跟ヲレヲ傾テ評判
贔屓ヲ一而來ヒ乎櫓鼓未タレ響カ。愧俱摩
レ瞼ヲ。太夫堅レレ牀ニ謹ム。是皆不レ厭二其労ヲ一
愕二其的一ヲ也矣ニ其レ或ハ文拙ク趣向不レハ
レ巧テ愚者為ニ閉レレ口ヲ蹙ムテ魔ナレ頻カ走リ奔ル太夫
将レ語レト心不レ説ニ三弦失レヒレ律フト揆摩レ皮ヲ
表勇欠伸高宮律財疲也。嗚呼
一作ノ之可否ハ財主之得失也。其
財主之得失者。堅中之得失欲。
知 ̄。輔二相於君ヲ撫二養ス於萬民一國
之政ノ万人之命懸ケ二ト于宰相一ニハ譬ハ譬ハ君
為一。財主一宰相為二作者一。民惣堅中
也。見物者餘國也。往古仲屋攝一
行相事ヲ一出シ無用之作者少片卯ヲ一
與ナ聞國政一三月ヲ三月ノリ魯國大ニ評判筈
於レトレ是ニ四方見物之其政カ也所レ謂ハ
浄瑠璃也然浄瑠璃佳作ハ置キ二財
主於泰山之安ニ一矣。封シ堅中於栄
旋之冨一。澤蒙二二表勇一ヲ引二卒ス乎見物一ヲ
是ル所ニ云ヒ上以作者為二作者一ニ能ク其ノ其ノ逸才ヲ
過二知ルヿ於主ニ君ハ一壮威気ヲ於二柴居一者一者。
也雖モ二事不レトレ同フ理相ニ似テ。余友筑豊
今属レスレトニ因テ以テ諫ニレ之ヲ以テ以テレ辞リ。
院本大意
浄瑠璃は小野の於通の作文浄瑠璃物語り十二段を
初とし此物語聞落したる後瀧野沢角の両検校
大職冠八島高霞等の舞の章賀に節を付けこれ
を浄瑠璃節といひならはせしより物名とは成れり
其後薩摩次郎右衛門新作を綴り曲節を語り出るしか
し其文句何れも短かくして今の世の参事道行
などの類ひなり其うへ三絃に合するといふ事もなく
右の手の爪先にて扇の骨をかき鳴らして拍子を取
語かたるよし其後角沢検授三弦に合し始めぬ此
一角沢の門人京都東洞院二条の住人目貫屋長三郎と
いふ者都廻り見物左衛門といふ外題の五段続を作り夫
より相続き好者の遊人或は諧作州なと次第〳〵に
新作を編出せり西雀宇治嘉太夫綿文流近松門左
衛門紀海に而村上嘉助西沢一風松田和吉長谷川千四
御田出雲為永千珍並木宗輔同丈介守ゟ当時の
作者連綿せり扨又京都の山下土佐様其後加賀様
大坂に井上播磨様竹東堀後様豊竹越前様等の
芝居にて語り来りし浄なり段々に繁昌なし井上
氏の花山院を宇治加賀椽方にては弘徽殿嫉妬打
と外題を替又井戸氏の日向参防を松本治太夫方に去
は鎌倉袖口記と替山下氏方の部甚王丸を岡もと
文弥にて山椒太夫と売じ加賀様方の団扇曽我を
筑後方にて百日曽我と会題せし候様の例多し
前々は不流行なる浄瑠璃は板行には成らざるよし
勿論井上氏山本氏の時代には請入細字の読之本
斗りにて稽古本といふは曽てなし貞享二丑年
七ツ伊呂波の浄瑠璃五段を大字八行に板行させ
宇治加賀掾節章を指し直の正本と号して出すこ
れ稽古本の最初とす其後宝永七庚寅年竹本筑
後縁の語られし吉野部女樹の時より大字七行と
成し初むこれより前々の当り後陽房を改め七行
に函板せられしと也然るん宝永年中京都二度の
大火次に享保辰年大坂大火之砌古来ゟ正本板
木焼失して伝わらざるも多しとぞ宇治嘉太夫
は紀州和歌山宇治といふ所の人にて元来謡曲に
妙せ得たりまた伊勢島の弟子と成源なりの道に
入て名人の聞へ高く貞享の比芝居を興行して
勅拝受領宇治加賀掾藤原の好証と号す大字の正
本に謡曲の本のことく節付を加わへ初めて是を出す
それより九行八行六くだり今太字五行を用ひて
外に床本といふ書本もあり口頃住大夫此太夫なと洋
るりふし付の小本を出せし事もあり往古出板の
稽古本といふものなき頃は此一曲を学ばんと思ふ
寧は戯文を自分に写し誠にたよりと節なを乞ひしと也
其頃の写本万歳寿頼政といふを閲せしが当丑聞
馴ざるふしつけ数種あり
ヲタギフシ
ヲタギフシトヨノブシキリ山サナイ
馬方フシ
馬方フシリヨ哥ナヤシアツトムスヒ
アイカンハヤナケヤツシ下セメ
シヨリ
シヨリサヾナシシグレ
此外三十種余見へたり当代詞と計りある所に
じつことば悪人ことばかんそば色ことばなどゝ記せり
此道日毎に流行に及びしより山本といへる板行出来て
大夫の節碩墨譜奥書に青赤の二印を加へて直伝
とし人の心をなぐさむる業に成りて七本骨の拍子扇
貴人の御手にもふれ給ひす〳〵迄も月待日まちに
小風夢うちにて此一ぬしの止事なく若きものは
いふもさし也歯ぬる親父も老楽に何をがなと思へ共
鞠に足弱く揚らに眼さだまらず時に一口の浄なりを語り
て興を催ふしけるそが中に藤戸の先陣待有しぐれの
道行の枕ことり
思ひ川ほさぬたもとにゆく又臣のうき名ながさん
はづかしや人ははたちの花ざかり恋にくちなば
おしかしめ一ちりのあくだの身をしれば
此口真似をせざるはなし此時より道行の節事大ひ
に流行なし道行の抜本とて市中を売歩行やうに成
たり延宝の頃町浄なりにて名高よりしは
播磨風
覚とば
同長兵衛
同断惣兵衛
三郎兵衛
近郷町杉屋佐兵衛内本町関屋小左衛門内太郎勘兵衛
文弥風
ときこしたはみや三右衛門
一同壱人同
かせ屋吉兵衛
後藤町八郎兵衛
小谷町
権四郎
後藤町
八百匁三右衛門
小谷打
貴物屋九分四郎
二郎兵衛風
すけたほし
如い屋六兵衛田町塚本又左衛門
本出羽風
谷町
とき屋四兵衛へ
たらけ
北金屋町一丁目
ひよろま
同三同三百三十五兵
北新町三丁
兵内
同庄兵衛
かくのことく難波薩に見へたり其後宝暦の未明和安
永の頃までは大坂に素人浄瑠璃とて語る者は
貴島
順慶町
うつが雨金
うつが面金松原竹平助竹塚五
ひら八
わづか四五輩にて至極珍しく人の用ひも強かりし
しが今は素人後なりさかんに成たり
受領口宣免状
一浄瑠璃太夫聊拝受領の御宜幷浄瑠璃歌舞
妓そのほかからくり説経かたり等のからばゐ名代
御改めありし正徳年かんの恨めん左にあらわひ
名代改帳表書
左の通り
正徳三年巳十二月
上
歌舞妓
物真似尽
名代改帳
四條河原
舞
からくり
浄瑠璃
説経
浄瑠璃河内
一
慶長十八年正月十五日口豆頂戴右河内様と申者
代堺山本弥五三郎と申者に譲り申度旨元禄十五三
午年十一月廿六日名代主妙印と申者奉願駿河守
様御番所に而願之通門数免被成候其後正徳元卯とし
六月三日駿河守様御番所に而右弥五郎弟弟勘左衛門へ
譲り申度旨奉願之通御赦免被成候
高砂風は銭に而説経といふは昔釈氏の属に説経師
といふもの有て仏菩薩の縁起なとを詞につゝりて
称名の言仏に加へて俗人に仏道を勧けるより始り其
口宣案
上郷中御門大納言
慶長十八年正月十五日
宣吉
藤原吉次
宜任河内目
奉
蔵人頭左大辨藤原孝房
後異国本朝古人の事跡裏に悲しきをいひ又名僧な
どの伝をとりて世の無道なる事をしめし人に菩
提を勧めしなり本は鉦皷を鳴らし拍子とせしを
今は三味線に和する事に成ぬ
正徳三年名代改帳に
説経
日暮小太夫
右小太夫と申名代古来ゟ蒙御免所持仕来処
三拾六年以前おや共よりゆづりうけそうぞく
仕きたり候
説経
日替八太夫
右八太夫と申名代古来ゟ草門免所持仁来候処
三拾六斗以前親より譲り更相続仕来り候
高砂風之銭にて此祭文といへるも本は其人一生の善
事医をあげく其人をとむらふ文なり悲哀を
ことして人を泣しむる事なれども哀声をたる
は其いきせひ自然と浮聾となる今俗曼祭文
といふものは色欲に溺れ淫乱放蕩にして家を
開清水大明神蝉丸宮
別当近松寺
山城国愛宕郡京昌春公夫
右以木ス依願継目所補大夫号
依而如件
正徳二壬辰歳
九月廿八日浄栄講師
正満講師
浄蜜講師
浄栄講師
説経者日暮父夫本久
亡し身をうしなひし賤しきものゝ事を作るゆへ
其鄙俗悖乱之べからすと云々
祭文は説経ぶしの和らかきものゝやとに聞め
言理
文庫
南水漫遊巻之四年大尾
6974
府上町
南水漫遊鯰山貝
南水浸遊続篇
三之巻
言葉
文庫
一平安堂近松氏之伝
附辞世狂賛道行ぶりの妙文
国姓爺釈文
一紀海音略伝
附座前八景貞柳の狂歌
一浄瑠璃作者の御伝
附浄瑠璃五段大意
今古
南水漫遊
参考
○之巻
平安堂近松民之侍
浄瑠璃の作文欲舞妓狂言作者の名人と世に聞へ
たゝな通松門左衛門は姓は杉森名は信智平安堂巣
御説に三州の
の少しく肥前唐
林子と号す越前の人の
人ともいふ
津近松禅寺に遊学し音門と改僧侶を数多門人と
なせしが所詮一寺の主と成りては衆生化度の利益
薄しと大悟を開らき雲水に出しが肉縁の舎弟は
岡本一抱子といふ大儒の醫師京師に有ばこれに寄
宿して遺活なし堂上方へ勤仕の間有職を記
信し其頃京洲都万太夫の歌舞妓芝居または
浄事り芝居宇治加賀掾井上播磨守様岡本文弥
山本角太夫などの浄瑠璃狂言を著仰せしが
貞享三年大坂竹本義太夫府より頼まれと
世景清といふ新作を出されしが竹出の戯文の
書初めにて夫より生涯数百番の出作ありて
英名を海内に発し看板または板本に作者
の名を記す元祖とに近松氏は元来衆生を化
度せん為の総念より出作する戯文ゆへ平常の
仲氏のものとは替り俗談互話を鍛練して
愚痴闇昧の俗中の人情を無き神儒仏の奥
義も残る所なし著する俗文は古今の名大人
通一派の文者ともいひつべし僧俗いふ近春の浄
瑠璃本を百冊読めば学ばずして三教の
道を語り上一人より下万民に至る也人情に
通し乾坤の間に森羅万象あるゆる事詳
へざるといふ事なし実に人中の龍なるべし
年耳順を過て享保九辰年十一月廿二日没す
墳墓は八丁目寺町法妙寺にあり
また久々知広済寺の道去帳にも法名あり
阿耨院穆矣日一具足居士
この戒名は近春氏在世より設おきたるにとに辞世二
首詠艸に見ゆ
それ辞世去ほどに扨もそのゝちに
のこるさくしの花し匂はゝ
残るとは思ふもおろか埋火の
けぬ方あたなる朽木無して
一浪花金屋橋熊野屋某の家に近松の黒而迹二
一数あり一は美人の悪貧一は祥世の詠艸也
楽天が意中の美人は夢のむつ等と
僧正遍正の詠中の恋は給まかける女
とりかたにはこれかこれか作麿去
物いわず利はぬ代に
りん気なく
衣裳養見にものこのみせす
平安堂近松七十一歳狂讃
平安
小口十一
猫籠
生医
一浪花の狂言作者近春半二故人門左衛門に達候節
の硯を伝ふその硯の蓋に添して
事取凡近一而義発一勧懲一
九字をしるすこれは笠翁伝奇玉掻頭も序に
昔人之作二伝奇一也事取二凡近而尽といふ語を
とれり近松氏小説に心をよせし事是にて知らる
文人は実に本邦の李笠公羽也
翁草にいふ八文字屋自笑が浮せ双紙の論者江
島其積は能世の情をのふ筆勢おさ〳〵近春に
並ぶ所謂回三味路色三味縁傾城禁短気はた
諸々の容儀るいなどは今の世の人も是を翫ぶ
されども浄瑠璃を書るしそならす近春はまた草
紙を作る事を得ず其差前をいかにといふに其績が
作文にては人形の働き薄く近春装を綴れば
文替過て人情くわしからずおのれ〳〵が得たる処
古今もつて同じ後の雨嶺は春磧を欺く計り
に作意巧なれども其情弛して其績が上に立ん
事かたしそれより下つかた挙ていふへき作者
なし
或人いふあやつりを見るには当世にしくはなし
本をよみて楽し世には近松が作よろしとはむべ
なる哉近松が作文道行のつゝげからは伊勢源氏
の俤をうつししかも俗間の流言をおかしくつらね
佳言妙句多し近折文段に精神を入られし
事を聞に浄瑠璃は木満にかゝるを第一とすれば
外の草紙とは違ひて文句之な働らきを肝要
とす正根なき木偏に御ま〳〵の情をもたせて見
物の感をとらへとする事なれば大かたにては妙
作といひがたし某若き時大内の草紙を見るに
節会の折ふし辺いたふ降積りけるに海士に
おほせて橘の辺はらわせられければ侍なる春
の枝もたはるゝなるが恨めしげに刎返りてど書
りこれ心なき草木を開眼したるに筆勢なり候は
ゆへは橋の辺をおはせらるくを松がうらやみておのれ
と枝をはね返してたはなる辺をはね落して
恨みたるけしき共ながし活て働く心地ならず
やこれを作つとして戯文を綴れりとそ近去
氏の作文文記中にも元禄十六年未三月四日
初日竹本庄のあやつりにて最明寺殿百人上
後計豊竹座めあや川うにて大当りせし
藩といへる際
北条時頼記辺の段の東本これなり
一おほになくも霊え法とて献読ましその頃
一歓人の聞へある公卿を召させ給ひいづれも秀才也
と候へども近書とやうへには劣れりとてかの諚本
をとり出し給ひ最明寺が道行ぶりに蝶の狂義のお
しろいを草にこほして梢には鶏の霜毛をぬぎ
一かく辺の蔵より花をゝきと計り是なん円残
活法包の部に鶴そ蝶新といふ四字を出して書る
処石台所が辺の詠ぜし去る
蝶ハ遣二羚翼ヲ二テ軽ニ誰レ拾鶴ニ堕ニ墜テ墜テ二散未轉
とらふ此句を和語にうつせしなゝじやかゝな才智を
以て和歌を詠しならば秀逸数多有ぬべしと御
感心ならせ給ひけるとなん雪元法皇は万乗の君
の御身として下残の事をよく不偽し百れ
一清十郎聞け夏が来て啼郭ス
早稲中手の橋かなたの一二三
かゝる五句も遊ばされしとぞ
近松氏の武文大あたり多き中にも元禄十年丑七
月十七日より竹本座におゐて虚扇曽我は百日の
間勤め夫ゆへ百日貢我と変ひなす其頃は百日も
勤る事は希なるゆへかく名付けたり然るに国性
爺合戦の財文は世人今り賞美なす近生氏の
一生涯第一の秀作也正徳五未年十一月朔日ゟ三年
越し十七ヶ月大当りなし二度目は享保五年子の
一五月二日ゟ初め三度目は同十六年亥五月に勤め
一四度目候寛延三年午七月に勤め其後政度興
行に及ふといへどもいつとても大当りならざるとなし
これ全く近春の文段古今の人情に返する得は
こそ門左衛門国性爺の戯文を作り大当りの後
猶も珍らしき世男もかなとかんたんを砕かれしに
其頃竹田近江といふ作者の穿千花に云あれとかく
る妙境の出たる跡はたゞ御う〳〵としたるなもの
よし此かへは其うへせと趣向衆向を重ねたらは
果は我業もてぬべしと申されしとこ道如格言也此
一武文海内に流布するのみならず崎陽の詩に周文
一二右衛門なか千人国姓爺弟三田桜門のだんを譯して
彼地へ送れりその次に著す
国姓爺第三回
話説ス老一宦既已ニ来二唐山ヘ再二要ス
攻打レテ満洲王一ヲ輿レ興レ復スル明祚ヲ招キ二募リ義
旗之士一。一夜陪二従ル老娘ル。同シ。同二和藤
内一ルニ到ル二五常軍甘輝ヲルニ住領ノ的獅子
城下一ニ。看見ルル城門緊ク閉テ只ク撰二省ス強
弩硬弓砲ヲ一石カ一敵レ鑼ヲ鎧ヲ巡哨シ。好生、防
備セニ和藤内高聲ニ叫テ道ク只ヲ要ス二拝二拝二謁ス
五常軍甘輝公一ニ一ニ説話二シ須
聴得テ城内当値ノ的人員回報シテ道フ
主公甘輝公バ只テ蒙リ二大王ノ釣旨ヲ一ヲ昨
日起身ヲ出レ城ガ却テ却テ不レ知幾タノ時ヲ回来ル。
更兼ニ赴夜到リ来リ来レ要レスレルヲ主公ニ甚タ是レ
得罪ル若シ有二ハ説話一就テ在二テ城外一説ハ等ヲ二
他ノ主公回来一。替テレ你ニ稟皷シ一宦低
戸ニ便ニ道ヲ不レ不レ好ヲ二輿レ你轉皷シシ如若シ甘
輝公不レ在對シテ對シテ仍々一自二従日本一說一、
來ノ的人一ル。只タル二當面説話一ヲ他シ必レ必ガ有二
喧鬧一。聴得テ軍卒倒テ也ク驚慌シ大ニ有二
喧鬧一ヲ愈シ加堤防ス夫人錦
祥女。却早ク聴テ這ノ風色ヲ一直ニ跪キ跪ヲ上テ門
楼ヲ一對シテ二軍卒一道フ你等ヲ子キ等ヲ不レ要二噪閙ス一旦テ
等ニ二我指揮一又ツテ転ク二向テ城外一一道フ奴家
就テ是レレ五常軍甘輝的賎室リ名ヲ喚一ヲ喚一ヲ喚一ヲ
錦祥女一ト一如今。天下ノ人民。都テ歸降ス
満洲大王一、我文夫ナル也テ属シテ属二他麾下一ニ
守二防ス城子一ヲ一更ツ旦ニ文夫不ニレ在ヲ只ツヲ要二
求ル二見奴家ニ一。不レ解一二其意ヲ一リ有ソレ話須二要
説知ス。ヲ。一宦道ヲ称ス是レ大明鄭ノ芝龍
的女児ヨリ○娘ハ是レ早ク喪レ爺ハ是當ノ初蒙二テ
明朝ノ不遇一。二ニ。縣二在ス日本ニ那フ時你テ、年
及二二歳ニ二歳ニ。你ヲ分別之後。諒ヲ必スバ聴二ト
過就理○我ハ是レ你リ爺鄭芝龍ナリ也リ也。前ニ
在テ日本平平戸ノ地方ニ一名ヲ改二作シ老一
宣ニ娶テ二了後室一ハ生二一箇兒子一。名ヲ喚二
和藤内ト一現二在リ這里ニ一ニ一ニ只為二要緊求
托ノ的話ヲ一ヲシテ要レスレ開レ門ヲ。錦祥女聴得ヲ
己ハ知リ阿爺ト一意ニ欲ス欲ス跪テ二当テ城外ニ相見上。
只ヲ恐ヒ軍卒不ナリ伏。林二テ了涙、眼一ヲ便テ適ク
如シ有ハ二親爺ノ的表證一。説把ヲレ我ニ聴モ一
宦道ノ今所レ説ニ的就テ是レ證兒ナリ並ミ無シ無シ
別故ニ一。軍卒聴見テ叫テ道ヲ没スレルレ有二憑拠一
難道聴信開レ開レ開レ門。可レ知レ巫的人。
要ル二嫌二開リテ城門之計一説了将ニ要スレ故ト
レ砲。和藤内ノ喝道ク。尚ニ有レ故ヲレ砲ヲ排レ頭ヲ
而殺シ而殺シ了。軍卒尚兀是不レ任レヲ定テ
要ス證兒々々。一宜挙アレ手ヲ高ク叫ト道ツ
你ヲ説テ的證兒應ニ該在ル二你手裏一我
前ニ在二唐山一ニ逃レ去ル之時。留テ二我ヲ的画
像ヲ一在レ後ニ。寄二在ス乳母一ニ一等二你カ長大之
後ヲ一方做二遺送リ一ノト二那ノ画様一比二看シ而
貌一休ルヨレ為ステ疑惑ヲ一錦祥女聴二見テ這話ヲ一
就テ将テ二画様一攤開シテ把テレ鏡子一照シテ一照二月光
之下一ニ比スルニ看父親之面ヲ一己経ニ年老ヲ
雖一レ然ヲ変二トニシテ容貌ヲニ及レセレ至二細ク看ニ一ニ看ニニ願上ニ
些微有リ一箇之黒子一。父女正ニ像
越者シ越リ。像ノ並ニ不二差錯一便ヲ道ク早サ知ル二
阿爺親身到リ来ル一娘ハ是レ起初已ニ到リ
泉下一ニ去ルコ○只ヲ聞ク阿爺サ在スト甚広日本
地方ニ一ニ寤寐ニ心ニ焦セル二要見之念ヲ一矣奈
無ハレ有二便人一。那有ト二信息一毎晨只向ヒ二
東辺ニ一推二起シ太陽一ヲ来ルヿ拝為ス二父親一從ツ
レ此面二了三千里有余的路一ヲ休ヨレ説ヲ
陽世ノ相見。若在二陰世一ニ撞見セシ也レヲ未スル
レ可レ知ル今ニ経テ二十来年一ヲ不レ期就テ在二
這里一ニ撞見スラス天典ル其便一。慚愧不レ過
一宦聴二見這話一。深感二孝順之心ヲ一ヲ
貌ヲ一休ヨレ為ステ二疑惑ヲ一錦祥女聴二見テ這話ヲ。
就テ将テ二画様一攤開シル把テレ鏡子一照シテ一月光
之下一ニ比スル二看父親之面ヲ一己経ニ年老ヲ
雖モレ然ツ変二此シテ容貌ヲニ及レ及レ至二ニ細フ看ニ一顔上ニ
些微有二リ一箇之黒子一。父女正ニ像リ
越者レハ越ノ儀。並ニ不二差錯一便ニ便チ道ノ果ヲ知ル二
阿爺親身到リ来ルコト娘ハ是レ起初已ニ到テ二二
泉下一ニ去リ只ナリ只ナリノ阿爺サ在二甚広日本
地方ニニ。露寐ニ心ニ焦シ二要見之念ヲ一矣奈
無ハレ有二便人一。那有二信息一毎晨只向ヒ二
東辺ニ一推二起シ太陽一一来ルヲ拝為ス二父親一從ツ
レ此面ハ二了三千里有餘的路一休ヲ休ルヲ
陽世ノ相見。若在二陰世一ニ撞見セシ也レヲ未スルト
レ可レ知ル今ニ今テ経テ二十来年一ヲ不レ期就テ在二
這里一ニ撞見ス天興ル二ル其便一。慚愧不レ過
一宦聴二見這話一リ深感シ孝順之心ヲ一ヲ
歟
不レ覚帯レ涙気ニ嗽スル和藤内同ト二軍卒一
共ニ為二悽惨一、無レ涙ヲ。一宦道ノ我等特
来リ此間一ニ要ストス上見二女婿一求中北ハ要緊大
事上ヲ」預ノ先ツ其你説知セシ空乞開キレトレ門ヲ叫
我入カレ城ニ錦祥女道ク理応応スル二開レ門迎
接ス一ニ兵奈播乱之際。更蒙ル二満洲王
的釣旨一縦ヒ雖モ雖二親者一ト一自従レ他郷来
客不レ許リ二入城一ヲ之諭ト雖モ二然一如シレ此ニ非ス
レ比ナル其他一ニ你テ等長生シ理會セシ理會セシ理會セシ理會セ
意ヲ不レスレ従並不レ肯開レ門ニ娘走リ近前ル
去テ説道ク己ニ蒙リ二大王釣旨ヲ一不レ肯二開一
レ門也ヲ快シ不レ得シ得シ但シ是レ看二這老母ヲ一兵
地要スレ做テ堤防ヲ只テ口リ」叫シト二我一人一ヲ進去。
要スト下對テ二錦祥女一説話ヲ上ヲ望二乞ス方便ニ軍
卒。道ク恁地是レ我レ等主張シテ叫ルレ你ヲ你ヲ你ヲ締
縛進。去二整二在城内一ニ然レハ則ト満洲大
王ヲ得ルモ之レ知リヲ也主公好二去テ説開一我等
也。並ヒ無二二于礙之理一。須ク要レ受クレ受ク縛ヲ若
不レ旨時ハ早ク回去ンヤハ罪和藤内呼レ眼ヲ
観二他軍卒一ニ罵テ道フ我カ我カ的尊大人鄭
芝龍的ノ妻ハ是我的母親シ錦祥女
也ヲ雖雖スレスル同胞之母一也是乾娘
那ナ由由テレ你ニ犬猫一般ニ犬猫一般ニ被レ縛モ牽去
娘道ハ今所レ托的ハ此為ス二大事一応二応ニ有モ
十般苦楚一也不上レ姑ケ。休モ説リレ受レテレ縛ヲ須ク
要枷松一也只得レ依テレ他ニ日本雖二シ然ル
小國一一不レ論二男女一ヲ一総テ不レ皆リレ義ニ只要ス
依テレ你、受レ縛聴得テ軍卒就ヲ把ヲ起レレ
綿縛牽去各々面々相レ観テ分別
而去ル錦祥女包二着悲哀之容ヲ一安二
慰テ父子ヲ一説道フ此靠リ二一時之国紀ニ一
設ヲ作ス權度一ト雖モレ然レ然レ如シレ此ノ令堂ハ是已
経ニ寄二在我身上一ニ不レ要レニ責心掛念一ヲ一
奴歟
好
今所レ托ノ的話悄々地ニ聞二過ル令堂一
纔得通二知文夫一能勾シ二得大事完
備一却好此城濠堂ノ的溜頭ハ是好
家杭粧艶飾ノ的房下泉水通流ス
以テ此レ此カ説二与他文夫一、聴応シテ做得成
是觧二シ了掩粉一ヲ下レテレ水ニ為レ號ト若有二テ水
面帯ルレ白ヲ此乃泰兆就テ請ノ歓喜ヲ歓喜ヲ進
レ城ニ尚モ或シ微不レ成是解二了燕晴二了燕脂一流
了下來シ音二那水面ヲ一帯レ紅此乃否
非就到レ門外ニ来要ヲレ取二母親ヲ一萬望
留心看々ヨリ説畢リ口ニ称二失陪二失陪ニ要ス
別去一ト一就二扇門ヲ一ヲ闔了老娘進二到リ
城内一ニ實ル為二生死之聞一錦祥女聴一
見テ把ケレ撥スト關門ノ之声ヲ便咽啼哭ヲ端
得是唐山軟弱女流之気象和
藤内同二一宦一宣一音モ二這景況ヲ強テ為レ不
レ啼カ此乃ヲ学二成ス日本武弁之風一原
来満洲規式及レ至ルニ二城門開闢一未タ二
免放一レヲ了一砲ヲ當時聴二一色砲ヲ二遍
相分別而去必ス竟等ヲ二他ノ甘輝セ帰
来一説シ二懇求協助一。的話上ヲ不レ知甘輝
長生答応生答應シテ聴二下文分説ヲ一ヲ
右崎陽訳司周文二右衛門
目に云当町日本にては回姓を賜はるは事多し
諸波各松平新ざるはなし田の内にや中花に
ては国姓を賜はるは大低の事にてはなし大明
云ひて後郭は龍日本へ渡り紀前に住し
其子鄭折字は成却中国へわたり崇禎の子
孫を尋ねて位につけ年号を立て永暦と
いひて順治帝と合戦し餘程きりとり韃兵を
なやまし明の道民を賑はせし其功莫太な
るにより永暦帝これに国姓来氏をた給ふ
至て貴き事ゆへける人来成功といわすして
国姓爺と云俗語に発といふは至てあかむり辞
なり此国にて様と云位也国姓様といふこゝろ也
老爺とは旦那様といふがことし時の天子を
万暦爺嘉請命などゝ云
国姓爺一旦労穏なりしが終に具勤王なんとが
謀略順治の開国の大徳には及びがたくや打ま
けて夏門といふ所へ逃かくれたりしばしく余
程の人数にて中国をさわがせしと見へたり其
比佳俗のはやりことばに或は人のふるまひなどの
席にて飯の遠き時は客同士空腹にはなきやと
か断ぬる時は肚裏鍼にといへば亭主へ聞ゆるゆへ
認語にていふ也此国の跡へ寄たなどいふところを
国姓爺脱落夏門といふ也これ国姓爺が中国を騒
かせし間は中国に人数ゟ多かりしが夏門へ落てより
人か減りてひつそりと成しといふ事服中のすき
たるにたとへたり然れは余犬との人数にて有し
と見へたり
紀海音略伝
紀海にては近書氏同時の人にて浄瑠璃の作文字
く其名高し姓は榎並兼貞嶽といふ俗称は喜右衛門
後善八と改む初め黄蘗山悦山和尚に属して
僧と成高節それより医道を業とし笑仲翁の
一門に遊び出犬因鳥路観と号し浄瑠璃の作名は記海
もてといへり元文元年辰の夏法橋に叙し寛保
二年戌十月四日行年八拾歳にて没ス委しくは
由縁弁貞柳の伝に見へたり葵は八丁目ち町
す紅葉の
宝樹寺家東のにあり
こといふ
清潮院海音同法
台石にたいや忠七と彫なたり忠七は貞賎の息
にて貞風といへり道頓堀太左衛門橋筋八幡筋にて
鯛の肴板をかけ菓子を制しして業とす
柳翁の家集に鳥路観貞歳より年頃の礼に
団扇をさしければ
物すきにていがよければ夏の物を
春にもつかふうちはゆへなり
鳥路観七十賀に
十はかり千世の余りの五日にほほき
つゝなる枝は花も身もあり
かく兄弟ともに風流の道に遊びて其名世口高し
享保七年寅十一月一日より豊竹座のあやつりにて
東山殿室町合戦といふ戯文すなわぢ紀海音
の作にて方四だん目座敷八条といふふふふし事の
文中に油縁弁貞柳翁の狂歌を綴り入たり
東山殿宝町合戦作者紀海音
以弟門
わええが竹楼も是れけつのよらくとかやされば
細川勝元は繁栄日々にいやまして何思ふそ昔も
くれ秋をもてなす下やしき西の京に地を轉じ遊亭
閑処とりしに寄石せたゝむ築山は諸木こそりて
枝をたれ月をむかへる池水はおしかも所得がほにて
風をふくめるぶどゝの棚す波よすることく也頃しも
成けりの百日紅花にゑいずる書院先キ障子ひらかせ
勝元は近臣諸丸汲酒のさかなはちくら指授が調
妙なる物の音は萩の葉わたる風より身にしみ増る
斗り也勝之ほとんど興に入あつぱれ手だれの音曲
に此間のうつ病もやゝ忘られて百回ししかし余縁平
家など耳ふれて気が替らび当世めきたる一ふしを
所望へと遁れずり申何をがなと申たらお心に入候はん王に
幸ひかな〳〵楽人達も戯れに座敷まはりの道具
をば八京に晴らへ一々狂歌によまれしを集ふし
づけ仕る種りながら御聞とひやしを取りて語りける
ざしき八けい
けに海山の風情をもこゝにうつせばおのつしから
座敷にうかぶ八景の中にかゝやゝ名ところはまつ
鏡台の秋の月蒔絵に見ゆる松の枝にくせらぬかけ
はまんもござる〳〵十五夜の月の時のごとくいつも
最中の詠めなり
鏡台の蒔絵にみゆる松のうへに
くもらぬ月のかげはまんも
次に扇の晴嵐をたとへもよしや暑き日の光りも
やがてうす物のゑかく山がせ音たかさごや相生の
あつき日のひかりもやかてうすものゝ
扇やゑでまつかぜのこゑ
妹背ももことく行有のきはぜわしき時計野
こいしらぬ身や造り初けんいづれ逢瀬は秋それも
短き夏のよるの霜おもりの糸のひすりず時
斗の晩鐘ひじ間り
むつくもまたつきなくに打時計
恋しらぬ身やつくりそめけん
扨また臺子のよるの面ふりみふらずみ定めな
き身にし昔を思ひ出す大名庵もよるに雨台子
のならひ音にきて
釜のにえきけばさなからするの雨
大黒請のむかしせぞおもふ
されば高きもいやしきも交りむすふ中立は遠
の口切春雨の花より色も香もこい茶品あつて
又やはらかに人づき合も綿そゝとはいざ白辺のかき
くれて札へど袖に塗桶の幕辺と是を申べき
綿そとはいせしら辺のゆふべかな
はらへど袖につもるけしきは
明暮きやしやな手にふれて聞や琴柱の落雁
は詠めし歓も優美也
ふきといふも艸ばへ露の玉琴を
手ならす袖に冥加あらせ給へ
ふきといふも草葉の露の玉琴を手ならす袖に
めらがあらせ給へ吟し返せどかゝばしき梅か枝
組や須磨明石君ゟ引手に誘はれてはしもわか
ぬ酒のかんあい〳〵〳〵の長返り遊ひ過して花の
枝に入日び残す行燈のかけ夕照とおしまるゝ
花の枝にかけて詠めんくれおしぎ
夕日をのこすあんどんのうゑ
りよく樹かけ。沈んでは莫木にのほる景色は
しやくに梢を汲上てさつとたばしの手水体
風のかけたる手拭は丸にやの字のほが見ゆる
ひたすしほりの文字が関入江もこゝになし
と手掛かけの帰帆そと
手水はち風のかけたる手めぐひに
丸にやの字のほが見ゆるかなし
三十一文字を浄るかへ送り三重引よせてつゞり歩
たる八景と御もあか〳〵と述ければ勝天を初覧とし
皆々興に入たまふ
浄瑠璃作者略伝
一千前軒
竹田出市兵衛といふあやつり浅細の名人也竹田
近江大掾藤原清一の親なり竹田筑後両芝にける
并に坐主也立馬町吉左衛門町両町ゟ年寄役をも勤候
一文料堂
初の杉田和吉といふ千前行門人筋立頓作の高身也
一千柳
並木宗助とかへりこれ並木氏の元祖にして今に
作者の苗字に並木の枝葉多し紀海音を合して
以上四人を浄るり作者の四天王と呼ぶ
一錦文流西雀同時の人
一桜塚面吟摂州池田の俳人
一西沢一風正本屋九左衛門と云書林
右三人は趣向筋立はさしたる事もなけれども左今
文者の三傑とす
一竹田小出雲千前新忰
一三好松洛北の新比の茶屋
一吉田冠子
人形つほひ吉田文太郎といふ此倅二代目文三郎
おやまつかひ名人の聞へ高し
一並木丈助鑿を案とひ
一竹本三郎兵衛竹本筑後掾忰
一近春半二穂賀伊介ト云政印渡の忰
一嶋永太郎兵衛様は竹田庄蔵清る千蝶
一春草堂高田瑞庵といふゆる妙納名筍十一ト
一菅専助医師の忰豊竹光太夫
一長谷川千四
一和州長谷寺の僧侶能化まで勧めしが還俗
して作者と成
一安田蛙文有馬玄馬候御抱之候五子
一近松来酉東南伊助え方
老後法体して綾子指摩改景事道行端奇を
作レまた三弦の銅に妙手たり
一浅田一島京地町の住成野ゟ三升ト云福洲
一中村阿賀始中村岡助
一八月平七坂町大坂屋太郎兵衛忰
一若竹笛躬荒竹藤九郎といふ人形つい後に
作者と成
一郡上太郎本名三井治郎右衛門仙星亭嘉栗ト
云治八五郎といひし人也
一福内鬼外江戸多賀源内ト云風来山人ト云
伝草かして火定布ヱレサルなとを本朝にて制出す
一黒蔵之一並木和助一二歩軒
一浅田可啓一但見仙台一近春景鯉
一小川半平一寺田壱蔵一寺田外記
一竹田伊豆一北脇素人一岩瀬左門
一安田安蛙一春田方二一豊竹弥平
一北窓後市一戸川不隣一戸田吾文
一松岡千助一東勇助一但見弥四郎
一豊春助一着竹勇助
一貴竹惣律若太夫芝居主甚六分云
一松田はく俳諧師岡下藤左衛門
一笛躬二代目従屋治兵衛殿
一男徳斎御本関太夫といふ本名堺ひ
一栄善平道頓堀いろは茶屋
一七万子岡本原一ト云御城入発者
一川四郎長町分銅河内屋ト云宿屋四郎兵衛
一中村魚眼難波新次中村屋と云茶屋
一近松やなき娘並木柳漬柳太郎竹
一同馬芝叟狗笑庵忰
一梅下風一千葉新一湖水新
一佐藤太
それ武文の作者はその名の猛く聞ゆるをばその
故人善人にても丑浄としその名の名の役に聞ゆる
はたとへ事跡はよからぬ人も正生とすいつれ虚を
実と見するも勧善懲悪の一助とし音曲の秘伝
戯作の大意とても殊更初段口伝にして大かた恋慕
に寄する大席の内ヲヒモ迄は或三番の内なり或
は謡より出地より出節より出る事もあり調
子は大やし一越可也いかにも群かに乱れたる糸を
御はくやゝに語るこれ見物の気を見むるならひ也
随切は五段ともに大事なれども動段の段切殊に
大事也初日の初段は別而子細あり二段の家伝
大かた修座三段秘伝大かた愁歎作文は勿論浄
瑠璃のこなしあやつりまでも三段目を眼とし
能ならは曲舞也御説物がたり過そ目前感涙等の
差別あり四段相伝大かた道行五段明伝大かた間
答壱両のくゝりなればむつかしきもの也初段は絹
弐段はうら緒三だん目は模様染色上絵縫縫箔四
段目は糸綿五段目は仕立也一日の世界の納り
なれば至て大切なる物なるに近年の戯文に玉
段同なし追々五段目あるは紙半丁計り何の
訳もなき事を書きそれもほかし迄もなく正本を
出坂するに付て拠なく書りまた当世は定居も
見物も重短く早合直して五段内兵悉人退治
見いでもよしせいでもよしなれども正本は作者の
十尺顕われ不智已文の悪名遁れがたし
南水浸放巻事
南水浸放
ノ丸御座候
南水漫遊拾遺
狩
南水浸遊続篇
四之巻
一出話出使木偶
附往左のあやつりの図
人形品目
一操曲評書
附太夫俗称
一文正翁曲帯塚
附八曲にし事
今古
参考
が南水浸遊
出語出伏木偶
浄瑠璃の太夫出語りといへるものは名あるに太夫始
めて出動するかまたは遠国へ出て久々にて帰国
なし目見得として出語りなす或は汝父の追善
祝義事都而諸客へ厚く礼義をなすためなれば行
を正しく有べきもの也昔有隣大和椀久ゆかりの十徳
または河内通振分髪耶郡などを出語りせられし
に口も動かざりしは行義正しく誠にかく有べき事と諸
見物感称せり又西口政太夫用明天皇鐘入の段を
出語りの時首少シ右へ傾きければ見物の評判大
和に劣りしとはひあへりわつかに頭すこし傾きてさへ斯の
もし然るに当世は二段目三段目四段目に差別なく
出語にて勤め操芝居は大夫座といふもの床に御簾を
懸る事古実ありて芝居の規模とす近来のことく
か語りをよき事とわれば後々には床も無用のそのと
成り京都の宮地首ふり芝居同然に成べし往古の
床には正面にありしを上手の横へ直せしは竹中座にて有
享保十三年申五月加賀国篠原合戦の時也又是竹座は
六年の後享保十九年寅正月弐度目に勤し北条時
一頬記の時也然れ共大切辺の段は太夫奉竹越前様出
一語りわき河内太夫三弦竹沢藤四郎人形藤井小三郎同
□
小八郎四村勘四郎出づかいにて勤たり
人倫訓蒙図彙一
略図
前を顔認しといふ
今の本手といふ
手すりのこばし
往古のあやつりは前に図することく人形は首ばかり
にて着物を打着せ手も足もつかい人の手にて仕たる
事にて近世まで子供の翫ひにテテギウといへるもの
これ也当代のことき木偶を用ゆる其権輿は大坂の
一細工人石井飛騨といへるものおとなの手を人形の袖へ
さし込み遣ふ事甚見苦敷とて工夫なし人形に手を
拵へ付たり夫より是にならひ足を付ケ或は手の指
を働かし眼を遣ひ眉毛を働かすなと近世さま〳〵自由
に作るこれ石井氏の工夫なればあやつり芝居に而は
尊み申さねばならぬ人也外題千鑑と云〻
一松本治太夫座にて源氏烏帽子折といふあやつりに
藤九郎盛長渋谷金わ丸二両人形に初めて足を
斤たり其後宇治加賀様のあやつかにて世継曽我
のとき新比奈の人形に足をなる夫より諸流共にたて
ものゝ人形計りに足を付る事とは扨また享保
十五年戌八月豊竹にて楠歳軍法宝禄に
一和田七の人形に眼を働く事を仕初め又元文五年申
九月同座にて武烈天皇蟻の時つ手彦の也形眉毛
働く事を仕初め享保十九年寅十月竹本座にて
芦屋道満大内鑑によ勘平の人形腹ふくるゝやうに仕
一初ム延享弐年丑七月同座にて夏祭浪花鑑の時
一人形帷子衣裳を着せ初め同四年卯七月廿一日にて
悪源太平治合戦四だん目にてあやつり仁組大踊りを
初めぬ諸まゝひづかひといふ事は宝永弐年而三月
竹本芝居片田出雲の縁の座本と成りし時用明天皇
職人鑑三段目鐘入のだん太夫竹本筑後縁ながたり
おやま人形辰春八郎兵衛出つかいにて勤めしを旅輿と
す其頃の出つかひは手摺を離れ長上下を着し人形
をつかひ又手妻なとをせし也近世伊藤弥八がなした
る手妻人形水からくりの類ひなりいやつりにて女
形をつかふをおやまといへる事往古小山次郎三郎といふ
もの女の人形をよくつかひ誠にいけるがことし近世吉
田文三郎妙あり人願つかひの苗字吉田氏と号す
る事元来あやつり芝居はにしの宮道裏坊より
発りて神道を主どるゆへに洛東吉田の流れを
したひて吉田を氏とすと讒州あやつか家の秘
書道兼坊ゆらひに見へたり前文にもあらわすが
ことく石井氏より当代に及んて人形の好みむつ
かしく成行当時用ゆる所数品は名目ありその
あらましを爰に記す
人形口咄目
文七
清非道使李置嶋文七由郎助
樋口
樋口天神実盛鬼一
陀羅助与勘平団七間一寸
六部釣船白大夫正宗
源太
源太役行者日蓮上人
日蓮上人
女がたの頭
むすめ
むすめ女房けいせいかさね
御台老女おふく
胴の部
丸銅裂胴片羽權掛刀摧
手之部
杜若袴手狐之手草狭シ
一差込手軽き手ゆび手弓手
扇の手鼓の手琴手三味線手
太鼓手杖手
操曲評書
一浄瑠璃の評書は今昔操草代記に著せしを椿輿と
し延享の初め礫曲浪花の芦といふ評書これに次々
近世音曲闇の楽といふ評判もあれども浪花の声
出板の頃延享前後は東西のあやつり習んにして
其頃の太夫の俗称なとを知る便りあれば評書
のまゝをこゝに載す
操曲浪花声序
いつ見ても煙りのふとき傘頃庵と読みしは難波
の大寺天王寺を出て西北にあゆむ事五丁餘り
にして菴あり名を西照庵といふ此所に休よひ酒ひ
とつたへんと二三人つれにてあがり呑かけしが襖一重
あなたに着以者四五人集り芝居の噂とり〳〵評
一判ひとりは竹本の門流と見へ筑後芝居いき
今一人は豊竹門弟と見へ上野かたを持に出るまゝのゝ
打つ答へツ今日のなぐさこ是ならんと耳の垢を取て
聞とも知らす竹本方今世にもてはやす此太夫どの
去る元文の頃美濃大夫といふて筑後芝居へ初めて
出られしが大政命の四だん目の哥浅黄に駒がた
紅粉鹿子の大あたり〳〵夫ゟ段々町中に贔屓まし
其後行平の四段目のふし事此兵衛の場の大あたり
〳〵其名をすぐに此太夫と御改夫より替りの度々
當らずといふ事なし別して此度菅原伝様言仏
の段の語り内壱とは〳〵御上手今雨か下に此君な
らで有まじといへば○上野方つたひいや〳〵それは
大きなすこたへじやこちの上野とのならく大夫と
いふはなし左程じまんの菅原伝授の四郎九郎の場正
本にもない事までにからひるまゝの噌語り何のあれ
が名人芝居で語るを鑑とする音曲を本にもなきそ
ら云を語るもの中に太夫の内へは入がたし正本を階と
してするほに語り給ふ上野どのそ名人なり既に
一桑の仙人の四段目のふし事同五段目の祭文の所古今の大
出来夫より替りの度々当らずといふ事なし別
して酒呑童子の四段目の諷ひのふし付過行れし
播磨どのも及ばずとの取沙汰それに何ぞ高原の言
仏を鼻にかけてやかましいおけ〳〵と惣を叩き腕ま
くりひたいに血わじを張て既に喧嘩と見へし所へ七
十余りの老人立出これ〳〵君くらは聊止めさるな此
出入拙者貰ひます双方一利屋有之百百紀拝判と外
此太夫身に取ての満足言ながらそれは皆贔屓の妙
汰にて評判ためがたし此太が語らるゝ白太夫の場の語り
内大きにさみし給へ共此場の文句桜丸の出る迄大きにめ
いり見物も気のすざらん所を却つて笑を催し大
キによろごび夫より桜丸の切服刀を渡され心瑞に従
〳〵念仏に思ひ入の語り内よし何れをはづれといひ
がたし去ながら某も七十一斗来此道を好み心がけ
しが幸ひ是に段々を書たるを持合せしこれ見
給へ左のことくに見立たり
一大上上吉豊竹上野小掾藤厚重勝
上野少掾初めは三和太夫とて是竹芝居に住れ
しが元来若き頃よりの心がけゆへ段々浄なり上洛
致され内匠太夫と名を改め夫より竹本座へ出し
れしかます〳〵浄るり実のり功者と成西の座で
巻頭致されしが越前どのも老年に及び誰が跡目
に成べき太夫もあらんと思われしに此人ならではと思
ひ入られ跡目相続を頼まれ則上野少様をなまれ則上野守
は日頃音曲に心かけ不残ゆへと諸人珍美する事御
手柄〳〵此人の芸をそとへば瀬川菊之丞に同じ
なぜといへば小兵なれども取り廻りりたしくぬれ
事やつし詰め所作事の名人かゆひ所へ手の行かこと
し別して段切を大事に懸らるゝは上手藝のなす
所去によつて瀬川どのこの見立尤音聲の非力は
是非なし身の持やう銀持気賢第一諸奏愈用
にしく筆道の達人心すなほにして涼なりに位
有豊竹の跡目に出しはあやかり物お手柄〳〵
大上上吉
竹本此太夫
一此人の葉を玉子酒といふ心は下夕ほど味々がある
此太夫初めは美濃太夫といひ内の名は合羽屋伊兵女
とて若年より此道を好みつゐに商売もせんくわと
成りもみぬいたは合拝より浄なり第一葉は下に
強ひを受合かつせ三重のこゑのつき目ものり地
つよふつやなきに油を引きうつくしうかち今終
羅段切の手しぶきは木流をまぜく鑓目よふ語り
給へば何石にも愁ひの段は見物も袖合羽を絞りツゝ
ついにつぎ目もはなるく程見物もしゆくするは通切
者名人也去によつて此人を市山助五郎と見立し
なぜといへば先藝の一体巧者にして何を語らら
とも間に合ぬといふ事なし先地事にし事所作
やつし修座段切詰などの味ひ余り物者過て仕
過る事多し去によつてふし付細かにして新ふし
多し夫ゆへ町かたにても此人の通りは語り難し其
人は面白く名人なれども真似の出来ぬは難渋
〳〵
上上吉陸竹佐和太夫
此人の浄なりを珊瑚珠といふ心は大きけれは大銀に成
佐和大夫は佐兵衛とてもとは旅芝居の三味縁ひき
成が官明にしてつゐに上なりを語り給ひて諸国修
行仕られしが別して尾州などては殊の外当り夫
ゟ段々上洛致されて当地朝日の宮にもすこし給う
に就而古上なりに出られしが程なく陸竹芝居に住
給ひつき出しより評判つよく見物の御意に入る筈
まづ音声能とりまはり発明にしてふし付面ゆふか
たり今の浄なりを聞にせとし一派にかわり思ひ入に
御先事を第一とう成るゝゆへ見物更よし此人せたとへ
ていはゞ肖攀仁出しに同じ何処やらびらなく又
しや人として美しう地事ふし事芸に応じ愁心
ひて哀れに又なかしき筋もあり是其身身其とる曲の
備はりし名人也しかし夢の非もは是非もなし
此うへに戸丈夫ならは箱入小判道具と見物ど
つと誉たり
上上吉
上上吉竹本政太夫
此人を兵庫渡海といふ心は播磨まては斯かぬ
政太夫はざこば重兵衛とて元来急屋の鮎より出て
猶愛ふかし播磨とのへ弟子入りして此道を競のわ
入れしみどく毎日就而古場へ飛急と心に誓ひ立
魚の長ふ短かふふし夕佃かき事は江鮒子のことし段々
出世の名を上られ次第に味みもつき臼を腹にだう
へて飛ぬけの出世す今で小ざらしや播磨殿はぼら
なれや同じ姿でも大小の違ひしかし芝居へ出られ
頃より余程夕も大きに成り後なりの体風も替り切
者なれども少々癖あり第一浄なりを練る事あたかも
鯨の百ひの程長し夫ゆへ人形三味線の間も折には
はづれ安し此人をたとへば岩井半四郎に同じなぜ
といへば南世芸にて何事も面白ふ致され別に
やつし世話事の達人なれば半四とのに釣り合せし
は先御師匠播磨とのもみ込み給ひし故そかし此かへ
は少シツヽの癖を御たしなみあつて気を付る
はゞ次第に各人の都に入給ふぞといへり
上上吉竹本志戸太夫
竹本甚磨太夫
此人の上るりを鞍馬の香嵐といふ心は上ゟ下るへとる
岡戸太夫は八百屋平右衛門とて青物商売成りしが
まだ前髪の三ツ葉四ツ葉の頃ようも筑後ふしになつ
其うき身をやつし商内片手に一口上なりを語り之
比はまだ青のりやねぶか上なりの節なしなるが夫
ゟ座摩いなりの稽古場へ入込み龍ち古本にふし井を
芥子のことく付く呑込もよしやよしの栢次第にむま
みもつかなし柿雛婆も嫁菜も打まじりて聞キに
あつまる折しも竹本へ抱られ自然ところ聲備
はり語り出しに大キサハ倉橋の大こん強ふ働かれしが
節付も生姜も長崎までも贔負よく替りの
度々当りめ多し殊に修羅詰や故事は大丈夫
なりたとへば中山新九郎に同じ芸有にて一体
を崩さず語り開らく事すさまじく御戸の分は誰
にか劣り給はん此うへはふし付味みのたんれん気
を付給へ夫さへ調へはおそらく恐るべき事もささ
勘安〳
上上吉豊竹陸太夫
上上吉
豊竹陸太夫
ける此人の声を郡内嶋といふ心は地かよふて美しい
陸太夫はよしあしを難波の江州辺にて色めきた
る商人其名を平太といひしがつゐに商売も置屋
と成りたゞ芸子のみに心をよせ君とねじめく糸
竹の調子もやさしこきうの音一節切かや豊竹の立
者と成給ひしは誠に音曲の徳おとし此人を芳沢あ
やめといふなぜならば音曲おとなしうして下劣
す開合さつはりとしてせりふよしその外万
事取まはりりゝ敷発明先ツ当時のあたり役
者御仕合〳〵
上上吉竹本錦太夫
此人を大夫年寄といふ心は浄なりの事知り
一銭太夫事内の名は綿屋武兵衛といふ初て筑後に
かられし名は和佐大夫其頃より上手なりしが
暫じく休足有て亦々竹本座に住時改めて古
郷へは錦を餝れといふ義を取りて錦大夫となづし
浄なりはおそらく誰にか劣り被成年と何分にし給ひ
悪しくて残念也しかし浄なりは川中での事知り
たとへば姉川新四下に同じといへば脇よりソやとふじや
と問ふ中々此人はすい方へ居る降なり去によつて
新四殿と見立しは張つよきとの事かや
上上吉豊竹上総太夫
ふは〳〵しばしばしばしば及はずながら紋すし
にて奏申そら始而京より御下りなされ竹本芝
舟に住給ひし御名は紋太夫其頃はまだ奏じや
とせ上て人の悪口は逆おもたかく聞てのきつい輪
ちがひしやこゑ花やかに花びしやひらく扇の手
ひやしも幕を打ぬく朝嵐朝只よりも語り出
しひるまぬ声の丈夫さは巴の丸のくる〳〵と廻り出
したる水車淀の川瀬の川嵐三重郎に見立しは
違ひすまじ武道一チまきせりふ戸色さつぱりとして
よししかし気を付給へ吉の字がをそつと白し
上上寺豊竹元太夫
一此人の上なり勝間木綿といふ心は欲用なれども地がわい
元太夫は糸の産なるが生立より越前内に心を
よせ明け稽古に逢の段夜ぶんあらず昼なかん
に家の状もくる〳〵とたどりまばらに語られしがつい
に此道に入り豊竹座に下りしが頼ままわし役は時頼
記四段目殊の外あたり評判よく此人をたとへば
嵐に六と同じ事音曲きれいかして面白し草より
ちよとお下り有りてより早くあたり目はは
お仕合〳〵是からが大事也
一上上書竹本文字太夫
此人の音曲雪ふりといふ心はしつほりして面白い
此人音曲になづみ雨のよも風のよも通い小町なん
なく浄るりの間におふむ小町つゐに床に直つて語
らるゝ前は早く藤居へ出んと心関寺小町尤上なり
小兵なれ共気を付給へ徳にはふし事地事
よし修羅詰の類ひちとかいなき音声此人を
山下又太郎同じ芸といふ仕うち手触けれども
御まわし切者にて見物更よし
上上吉豊竹駒太夫
此人を昔の紅治といふ心は初めは衰かよふて今ふて今に
当地炭屋町の人也駒太夫といひしを越前芝居
へいなぎとめまだ其頃は土佐駒でちいさかりしが
うつくしく夫より段々切も行次第に贔屓も
奥州こま鞭は打ねといさきよふはんなりとせし
一節はさながらさえた月毛の助元来此人懸用
にて我が一流を語り出し第一聲の裏を遣ふか名人
にて町中にも此風を学ぶ人多し然れども御病
気ゆへ御包の裏もあれ果し曽我殿原の痩馬と
成られしは残念〳〵此人山下金作に同じ初
めは能かりしに今は少しめいりしゆへ此所に直し
置し
一上上吉豊竹采女太夫
此人をかん竹の杖といふ心は第一ふしがこまかい
彦太夫といふ名も早くさる沢の妻太夫と美しき
御名に秀し音曲なれど登地もかよわきなり
尤景事有行の類は美しければ修羅せり不段切
飲み込みうすししかし近頭は床馴れ給ふかげんか
のつしりとせりたとへは帯沢儀之助仕出しの音曲也
段々上洛致さるへし今が塵の場なり
竹木百合太夫
此人の戸を是ほ夜といふ心はうへが賑わしい
此人生国丹州の人也蔀打栗の頃ゟ専ら語り出されしが
溢るりも余程上洛致されたりしかし律儀なる
音曲にて余りとんだふしを語らず夫ゆへ左ほと
当り目も少しなれども一体浄なりに無理はなき也
たとへば三保木七太郎芸に同じ功者なれども
あたらぬは何の故ぞや
上上士陸竹伊豆太夫
此人の上なり上手の将棊といふ心は詰はよい
此客人の浄なり町中の思わくよりも功者分の上るり
夫ゆへすいの悦ふ音曲也元来ふし付よく語り白
に而なしく地事ふし事修羅段切も分相応に
こなし給へど何ぶん小兵也しかし上手ゆへあたり
免多し中村富十郎に対せり
上上士陸竹冨太夫
此人の上なりを間夫といふ心は震い〳〵もむまい
此人いなり六兵衛とて前かたは稲荷の稽古場にて
は殊の外当にたる上なり也御年ゆへに歟近年は少
し音声下洛致されしが併シ泣家しのやうぐしわ
があつても味したとへば民屋四郎五郎に同し芸音
曲おとなしくてつまはづれに気の付は年来の心
かけゆへ面白し今少し若ければ未の程たのもし
かかふあに
上上土豊竹伊勢太夫
此人の色を富の札といふ心は二より一がよい
此人酢屋清左衛門といふ音世に身を入られ朝暮に
学ふ徳ふやつゐに豊竹氏の門に入り芝居へ出ら
れてまだ間もなきに夫にしては浄なり床馴し
一切共也次第に上洛すべし此人三升大五郎に同じ
芸中く気のなか仕うち急に名も出し尤端々
足ざる所もあり気を付給へ今がかんじん
上上土陸竹桐太夫
此人の戸水品のむといふ心はちいそふても美しは
此人兵もと箒商売なりしがふる道とて御心にまんま
と迄なり語りに成しが商売がとさつぱりこれた
座敷で聞けばきれいなれどまさか床にては左
程にもなく此うへは見物の具候様をとり箒と願ひ
給へ此うへ役者にたとへば坂東豊三に似たるに音曲也
すなほにしてよし此うへ修羅臨切詰等をよく考
へらるべし末々は名も出ぬべし
上上士豊竹鐘太夫
豊竹鐘太夫
此人を年にの鳴た女郎といふ心はツテ町へ引
此人釣鐘町より出られしゆへ鐘太夫といふ商売は
咫屋なるがにて竹座へ出しがまだ青石と思ひ
しが中々戸のかたせは虎石を摺どししなし
一床なれぬゆへか人中でも顔を赤るりが関音曲よく出
来る事もありあしき事にありとかく上なりにむ
らせき石ありと思しめして能気を付給へ今が
上なりの学文硯と心得らるべし此人たとへば村山
平九郎と同し事出しかう間もなきに町中の州
負がつよひ
一上上古竹本友太夫
此人をいかのぼりといふ心は空でよしなる
友大夫は音曲に心を尽しもみ込みたるゆへ今竹
本座へ出るやらに成たり誠に音曲の精に入し徳そ
かししかし何といふてもひられてより間もなき事
なれば滞る事あり随分気を付て語り給ふべし
此人をたとへば吉田万次郎並ぶりまひとしをは〳〵
としてたながら芸のやうなりかはふ
上上古豊竹春太夫
此人の節をうとんの粉といふ心はちとふらへどこまかい
此人うどんの形のこゆ売う成しが商売に似て上なり
語り江も細かにして美しう尤遠音はるはきゝねどそ
ば切で百四し折には受の切れる事もあれとも三味
縁で引ぬきそばにすれば左ながらけんどんにもなし
たとへば中村次郎三仕出しの芸に似たる音曲也
なぜならば少しうは調子ある事はよけれど忌
つぼりとしたる事今少しかいないといふ
上上
上上陸竹常太夫
此人をもの前の細浜といふ心は細ふてもはぎれがまる
巻太夫は音曲者なれどもももと座敷上るりにして
床にては幕通しがたしそなが戸ふし事景事の
類ひ面白し修羅段切に修行被成かしたとへば
嵐勘三郎にほし事ちよつこりとして利功なれ共
兎角上候へは行にたし
上上陸竹美和太夫
失武人を云わちから移す相庭といふ心は平野へ取る
美和太夫は道六とて平野より出し人なり道具の
商売成しかもとより浄るりを数寄屋にて次
第〳〵にじり上りに成り芝居へ出ぬ先は今くらひ
も這棚なるがしかしいろりとした長ひ上るかとれ
さしの音てがあらば釜はずに置づと茶碗と直す
べし此人たとへば杉山藤五郎と同前出た所はかゝも
能ければ何処やらよみがこまぬ
上上陸竹初太夫
此人を小米上なりといふ心はかみしめると耳之かある
一陸竹の芝居に今が初太夫音曲小兵一躰上るり候者
用はたに聞へ候へば随分気を付けもみ給へ声も次
第に床馴るべし此仁たとへていはゞ坂田文十郎に対せ
り今では名も出年と修行の後は御名もふるべし
情出し給へ精の一字が肝要〳〵
上上陸竹嶋大夫
一此人をな良嶋といふ心は同じ島でも薄ふてよとは
嶋太夫と紛らはしく思へども是は奈良嶋こまかふ
て声まで細き千筋へいともかしなき音曲なれ共
何ふん修行か足りませぬ尤地はうつくし京嶋ゟ
修羅のつよいは弁尊しま今がよしあしくさい同
島と心得らるべしたとへばか水平三郎と同じ花事
方にしてせりふけ跡よほるべし
上上
陸竹左馬太夫
上上
陸竹桝太夫
右両人はいまだ評判しか〳〵知れず
三味線之部
むる
極上上吉鶴沢友次郎大上上吉野沢喜八
ワキ
立
上上
一竹沢弥七
上上
一鶴沢平五郎
ワキ
大ケ
一新沢伊右衛門
上上
一野沢善五郎
スケ、
工丁
上上野沢文五郎上上鶴沢万郎
ワキ
スケ
上上竹沢定良
三重
一嶋沢太郎
上総沢太四郎上野沢喜助
三重
上
竹沢平七
人形つかい之部
竹本座
極上上吉
吉田文三郎
極上上吉吉田文三郎上上吉桐竹助三郎
吉田才治
上上吉
上上吉吉田夕浪上上吉桐竹利三郎
上上
桐竹源十郎
上上桐竹源十郎上上山下伊平次
上上桐田甚六十一上
上上桐田甚六十一辰松源助
上上土佐市十郎上上吉田清八郎
上上浅田太四郎上上桐田千蔵
上上北春文郎上上吉田八太郎
上上浅田元三郎上上土佐幸助
豊竹座
大上上吉若竹東九郎上上十由若竹東五郎
上上吉若竹伊三郎上上瀬川平助
上上藤井小三郎上上藤井小八郎
上上三浦新三郎上上植松半四郎
上上笠井源十郎上上岩竹源太郎
上上豊松祐次郎上上山下太助
上上中村源三郎上上喜代竹四助
上上豊松平五郎上上豊春半七
陸竹座
大上上吉中村勘四郎上上吉浅田祐十郎
上上松本庄郎長上上筑島安兵衛
上上大野又四郎上上芳川三水十郎
上上
上上中村吉郎上上笠貫十郎
上上
笠井源三郎
上上笠井源三郎上上芳川藤吉
上上芳川勘之丞上上田中平次郎
上上
上上玉川又三郎上上浅田祐九郎
上上
上上笠井藤四郎上上芳川亀次下
文匠翁曲帯塚
享保十九年寅二月竹本政太夫子二代目義太夫
と改名同本年卯十一月勅拝受領上総少様藤原并
教祝義出語
天神記冥加松
一元文弐年巳正月播磨少掾と変名なし其後延享
元年子七月廿五日没ス行年五十四
同年霜月追着
編者
一八曲筐掛絵竹田小出雲
此掛物献の節事は井上柏座椽に始り竹本筑後
椽に成にして竹本播磨少掾に伝はりぬ先行共
五回着の折かる掛物指の出語いと殊勝なりし
が今ははや其人の事と成りぬ此人初床の時傾城
掛物残の浄瑠璃成ければそれに始めこれかれ
語り置し節に掛物に画十八幡一対の新なる
節事八曲道の掛給と号く八百徳の滝の縁
に寄八人出語仕候
嶋太夫政太夫此太夫百合大夫
紋太夫孫太夫利太夫其太夫
三弦鶴沢友次郎同鶴沢平五郎
此翁が生涯非に纏ひし曲帯を政太夫譲り更
故洲の記念と大せつに所持なせしが亡沙十七回
意追福の節大乗妙興一部と終に荒陸の面
門納肴堂の後に納め曲帯塚といふ石洋を建
たり左に記す
北向正面奉納大乗妙典
東面宿坊法幢院恩順
南面故師竹本播磨少掾
西面銘アリ
文正翁曲帯塚
僕成童ノ頃ヨリ翁ノ浄瑠璃
音曲ノ奇ナルヲ慕ヒ門ニ入
テ嗜メリ寛保癸亥ノ秋芸閣
ニ入テ此曲ヲ続ンコトヲ示
ス予微曲ナリト言トモ師命辱
ク其意ニ隨ヒ且政太夫ノ曲
名ヲ載ク翌甲子ノ秋老師病
間藝床ノ儘終焉ニ至マテ纏
ヒシ肌帯ハ翁ノ澤物亡後ニ
請テ記念ト拝ス今ニ於テ師
跡ニ止ルコト全此名帯ノ余
誠ナリ今年翁ノ十七回忌ニ
ネ寸咽ヲ発シテ此霧場ニ大
乗妙典ヲ奉術シテ其追答ヲ
仰ク又彼綿帯ヲ附蔵シ陰ニ
翁ノ曲帯塚ト唱フ是師恩ノ
厚キコトヲ後世ニ止メント
欲スル而已
同暦十庚辰七月廿五間
拝主薩摩屋十兵衛有保謹誌
天王寺の塔中にも石碑ありて
不聞院乾外孤雲居士
と彫付たり
南水浸送巻之十大尾
同同同
一
一、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、〇〇
古南水漫遊拾遺切
狩
南水漫遊続篇
之巻
附
一忠臣蔵権輿
同日親堂給馬繰り役割
歌舞妓役割尾上梅筆之伝
一歌舞妓狂言本
附
本よみの始め
一都風流大踊ノ旅輿
附図歌番組
今古
参考
南水浸遊
忠臣蔵権輿
忠臣蔵の趣向は其はじめいろは辞林に云
元禄十五年午年未弐千子誹諧師宝暦廿六日
角の許より浪華の竹某へ来り之文中に
此程の一件も二月四日に片付いて甚噂とる〳〵
花やかなる説も多く候て無上且臣と取沙汰池
事は
江戸村そこゝる
云は
百
宮崎也
節其事計りに候増町勘三座にて十六日より
間我夜討に致し候て十郎に少長五郎に伝治たし
候得共当時の事こと慮も有有べきよしにて三日
して相止候前後略
其如此臥問の始めとして大坂にては宝永七寅
年篠塚庄春座にて五妻三八作にて則篠塚
次郎右衛門大岸宮内の役力弥には中興まぐつと
免之佐野川万菊若衆願の時これを勤返しか欲
舞妓狂言にての始めそして此狂言大声はなるよし
とて中平町正法寺日記堂へ絵馬同此図をあらし次次
土人悦ひの祭りに是を奉納なし今に残れりとそ
其後京大坂にて数度勤むるうち延享四卯年京
都中村粂太郎往本の時大矢数四十七本と外題して
一澤村宗十郎大岸の役にて六月朔日より初日出して
大入を取し也其矢声大坂に響き同じ外題にて
市山助五郎宮内の役にて狂言勤たり今の仮名手本
七つ目は此鳴の沢村字十郎かなと成りて凡其傍を
手本と成来れり其後歌舞妓狂言にも
宝暦十一年巳十二月廿二日より角か芝居中山夫七座
にく泰平いろは伊烈明和八年京四條とは西の
一芝居藤桑助座にて小袖蔵いろは施安永六酉年十二
月八日より大坂角の芝居小川吉太郎座にて日本老赤
一徳竃これとも追々出て各当りを取といへども兎角
忠臣蔵出て後は此狂言を第一として仕内も是に
こそ工夫物ずきを入大きに委しく成たり
一操り浄瑠璃狂言にては其比近松門左衛門作にて
一宝永三戌年五月五日より竹本座にて兼好法師物見
車といへる切りに碁盤太平記と外題し此趣向となした
御尤此浦なりには高汐直塩谷判官また大星池
良之介とかし初たり又豊竹座にては享保十八
丑年十月朔日より忠臣金短冊と外題を出した
り此時は小栗横山の時代にて大岸由良之介の名て
出たり其後寛延元辰年八月十四日初日として
一竹本座にて初めて仮名手本忠臣蔵と外題を
出して大当りの評判つよく有しが其頃は夫方のも
め合出来て此太夫嶋太夫など半端にして是竹
座へ入替りて大和様上総大夫入来りて勤むといへ
ども自分の節付なせし程にもあらね云なのづから
勢ひ薄く成て思ひの外に其年十一月中頃迄にして
芦屋道満に替りたり最初の役割は
大神竹本文字太夫
二ツ目竹本嶋太夫
三日竹本信濃大夫
三日
三日竹本百合太夫
四御目竹本政太夫
五日目竹本百合太夫
六つ目
六日目竹本伝太夫
七ツ目かけ合此太夫百合太夫友太夫
七つ目かけ合
一信濃大夫文字太夫政太夫
竹本文字太夫
一八日有行竹本文字大夫
竹下友太夫
九ツ目竹本此太夫
十一丁竹本友太夫
十段目
十段目竹本政太夫
十一目竹出島太夫
十一段目
一十一時代伊国信濃太夫
大星ゆらの介
かほよ御前
二又三郎
おいし
真兵へ女房
源助
力弥文五匁等なみ甚六
狐妻君さの介塩谷くん友
寺岡才治一や助三郎
早野かん平よつみへ
高沙直
おかる
清次郎
伊平次
おその
一十太郎
本蔵
となせ小八
本花つ三中となせ小八
門三郎
一九太夫
九太夫定九分三段三郎
定九分三反三郎印
伴内甚九郎薬師寺文蔵
て川下伊五文十郎に竹太四郎
貞右衛門
貞右衛門源十郎喜太八市右
大切敵討惣座中不残相勤候
されは娘にいふことく此狂言の誉れ強くして始の
大岸宮内の名は是にて消て是よりして大星池
良之介にそあらたまりたり故吉田文三郎此大星の
人類を遣ふも彼胴子が風義をあらはし並木宗助
の作意に丸にて一四月を其侭にて用ひ入たりとそ
仮名手本探りにて賑ひし其翌年寛延弐巳の
春江戸森田座に此狂言を出せし候二月六日也大ひに
繁昌す大入有しは山本京四分ゆらの助を勤たり時に
市村座五月五日より初日出せば中村座続いて六月
十六日に初日かす上座共評よし賑ひし也京都は中村
杢兵衛座本として同年三月十五日初なす大坂は其
暮間のものにて十二月朔日ゟ山同三五郎座にて初日出
せり此五軒いまだん願のうつしのみにて銘々の思ひ
入少三ツヽ替かし計りにて左のみ思ひ入性根などく
いふ事御気持事はなかりしに近来次第〳〵に仕内
細かく成て見物も少しにても脇目なとすれば見
はぜすゆへ気苦労被成行ぬ先最初大坂の役割
を左に記す
二代
一大学口との介山風三十分一加古川印部岡仁左衛門
一天川原儀平姉川新四郎一与岡平右衛門山下小平次
一塩谷利官市の川彦四分一早野勘平山内三十分
一箱狭之介山下小平頭一右馬之丞姉川新四郎
一原太右衛門山下小平次一千崎弥五郎市川彦四衛
一与一兵衛市村三甫右衛門一伊五山川勘四郎
一高沙直右同人一斧九太夫片岡仁左衛門
一藤定九分民屋十三郎一兵衛右同人
一侍内大同人一了廿右同人
一華浅寺右同人一となせ富沢喜代崎
一おいし尊沢崎之介一おその芳沢あやめ
一おかる吉田万四郎一口をよ小野川家番
一小反之山下六三分一中弥虎三五郎
其後三敗はいふに及はず諸国の秋舞妓芝様にて
一忠臣蔵を出ス事レ計ニ宋々其数算へがたしといへ共
古今無類の大当りなし由即介の最上と称ズ
るは尾上梅幸にとゞめたり大坂に於て大当
りせし安永天明年間に両度の役割制しを左に
記ス安永三年午十二月三日ゟ中の菅山内春比
郎座にて
一田の介尾三番五分一本蔵戸村領右衛門
一となせ右同人一寺岡山田吉三郎
一そか井藤川柳蔵一ゑんや右同人
一谷定九分右同人一石堂藤川八蔵
一郷右衛門市山助五分一義平右同人
一与一兵衛一与三郎一勘平嵐ひな助
一政五分坂東市共一おその右同人
一伊五右同人一斧足文坂東栄五郎
一伴内中村友十郎一高御直右同人
一与一兵衛山内七三分一了竹右同人
一草助寺市川字三分一かをよ三桝徳次分
一おはし姉川大吉一おかる尾上粂助
一小なみ市川吉太郎一才弥生しま柏木
其後可明三年卯正月十五日ゟ中の節あらし
他人座て
一同うの介尾上菊五郎一本蔵三保木儀左衛門
一義平右同人一寺岡右同人
一えんや嵐三五郎一石堂右同人
一立壱人宛同人一勘平衆文五郎
一その井中村京十郎一伊五右同人
一三兵衛家七五時一郷右衛門右同人
一浅直右同人一千崎半又太郎
一薬師寺右同人一定九分加賀屋か町七
一伴内崩三八一九太夫坂東山石五郎
一懸よ永三右衛門一了竹右同人
一小なみ右同人一となせ三椒徳次郎
一おはし姉川大吉一おその山下八百蔵
一力弥崩村次郎一おかる右同人
一梅幸葉明和弐酉の年江戸市村座の條ニ云
此秋久しふりにて京都へ登る相談あるとて江戸
一統に残念かりしが程なく談合極り暇乞狂言は仮
名手本恕法蔵にて大星由良之介と本蔵女房
となせとの二役何が彼残多かるのて狂言の仕内
とを年めき〳〵と沙汰よく成りする程の事を
よい〳〵といわるゝとを合捕しての大入りのすさまし
さはたとんに物もなき程の事元来此由良之介新
狂言は去る寛延二巳年江戸森田座へ山下京四郎
下り来て山狂言大ひに来りしが始也其以前古
沢村宗十郎大坂舟内にて此仕内ありて京にても
此人此狂言を出せし也其仕内をよく覚へ大坂あや
つり芝居竹本座にて人類に名を得し吉田文三
即此忠臣蔵をつららせ彼助高屋の姿をよく写し
遣ひしとはま御好み切者のよく覚へ衣算せし
事也其頃江戸中村庄に彼納子済居たり大坂
より可申森田左へ来りて此仮名手本にての大当りを
取し事也様之の納事に此狂言をさせなば当りを取る
は極めし事なれば張合て同じ狂言を出すべしと
贔屓連中のすゝめにより一座一声に決りて出せし也
其時に至り市村座に古薪水珍らしからんとて
此座も相談極りて江戸一統此仮名手本にて三
座とも勤めしもとより薪水由即後は少し
決きとは人たゞ長き所にそやうを工夫付て此由左之介
狂言は坂東彦三郎に雪を上ケたり皆
岸栖気兵
おかる勘午二役
され
ども朝子の和下かみに理屋あり薪水の堅き中に
風情をこめ可中の酔中の仕うちに差別もありて
此哥をを合妙して梅筆後工夫をこらし今十七八
年の後にあらきとよきを身に合せ勿論人品に拠
を得猶言の栄合もよくもとより已前の持まへの
女がたに屋敷風俗のりこしき取合もよく今此時に
至りては此梅岸が狂言とも成りし程の事にて
九月節旬より十月廿日前迄は十日も前に場の
今味もせずしては兄物のならぬとて見ぬを恥と
すといひたれして首尻よく大入続きにて遠中に
見立もさす〳〵賑わいしはきつい事〳〵中略
明和五三の替りに忠臣蔵を出して彼噺ひの時の
二役の侭にて大ひに当りを取調子よりは姿見のき
とて景にても同じ取沙汰中略
一安永二巳の春三月名所曽我に鮎経勿論祐成の和
事大に沙汰よく重忠の三侍に切にかさねにても
所作事も詳よくありしが此前年辰の暮大坂中
村欲太つ座へ登らるゝとて看板すぐ出たれども
いかゞ間違ひしや市村座の居なりと聞て大坂も
力を落し計され共預見世の外額に尾上当五
良不登噺と出して間違ふたるゆへ趣向と成程の
聞への勢ひ也しが漸此巳の暮大坂とり相談かたまり
しとく先例に任して暇乞狂言も又も忠臣然に
かわらぬ二役に早野勘平との三役やつぱり沙汰
よくて前年とはかわらず大入を取たり名紙も
いよ〳〵惜まれて旅立事中略
待兼山の人群集大木戸のまかう〳〵顔見せ狂言は
京へ来りし時にかわらぬ田原武長之助始の小兼中の
間拍子には大に手こたへし次に公家姿にてよかせ
浪師の混雑も和らかにてはつたり事あさやかに
分りし仁内とい人物のよいに大に更よく
一極上上書に成り次の狂言表方も町方も待兼し
すめの忠臣蔵を間イの物とし由良之介となせ
の二役江戸京を鳴らし洗ひすゝぎも足りし此節
幾度でも飽のない狂言に人品仁内にいひ分シなけれ
ば未の敵討迄もぬけ目なくて何度出し見に行
が又大坂質気にて此略其秋京都への思ひ立ある
て九月九日ゟ改めて四時座に乗て暇乞として
是も吉例の仮名手本に由水の介と戸無頼の二役
皆人名妙を惜み先年にまして大入にて十月十七日
まで首尾克勤メ安永十丑年京都山下八百籠座
へすみ中略天明三卯年大坂嵐他人座にすみ寅の霜
月顔見せは伊藤祐清にて辺の傘さして表意
奴連出して去之年京都にての桂正成に同じく猶
畜子山内三士人など門道にての同じ役当地にても
かわらず此上下次女を皆悦ふ事にて春二の替り
又雷子相手に細川勝元にて左官に日雇の狂言
畠地にては少し仏堅過るともいひいかゝや此狂言不
繁昌にて不入ゆ入間もなく替りて仮名手本由
良之助はいつとても申迄もなき事此度は珍らしく
天川を儀平役甚手強くせられての其中の和分
かみに場桟敷とも一流聲を上て悦ふ事日々中略
一情ひや師老の本日過時気に障られて病之外十
日とも有て医療にていかんともする事を得ずつ
いに此小つもごりなる日黄泉の旅立も余りといへば
思ひよらずもして息子世之助の為にせめては今
三四年もあらはとも斯も残よも心の程そ思ひやり
且は当時ならび人もなき三ケ津にての大立て者に
名残を慎む事斗行年六十七才にして添名則ち
解脱院法基浄党信士とせ難事江戸を勤めし
事年数中村座に三年歳田取に二年百村座に
已上廿五年の勤合て三拾年始め古薪水聟
銀の大略
被成後大十町
娘口縁を組依之此二人の縁
広次事
を以て東武に有る間は日蓮宗旨にて浅草大
鳥寺に妻と倶に逆修に石碑を建置たり此戒名
暹療院永持日実々ぞ聞へし右にいへる京地を
古郷として祝音羽屋半卒の宗旨なれば京
大坂に在間は浄土宗也是にて生れ付の有なる
事猶思ひやらるゝ誠に三仏乗の因縁共いわんものか
此人京大坂に有し間庄屋入の行義といひ桟敷の
客を見舞ふ事はいふに不及惣稽古足揃へなど
にも下袴を着し人の場の仕内を見かにも謹ん
でも是に姿を崩さずなすゆへ其出入にも心を
付る人こそ多し平生諸事を学ひ鞠は無地の
路渋ながに誰をなといふ事もなく夫婦遠にて
垣ある方を御尋ね求めて休みなり日は蹴と遊ひ
誹諧も少しつゝ学び将棊は手直りを立葉茶は
石州流と見へて折々は釜もかゝりし乱舞は勿論
折しも聞へる事多し誠に物に唯而みてしほらしき
生れ付也手跡は拙くも有之と思ひしや息子七之
助へ幼稚の時より教へ込しとそいひなせり立テ者に
いふものす行こそ有たきものともいふ人ありてや
其響にていひこそはあらずとも自然と上方役者
の行義もよく成りし事也
梅幸四季ほつ
梅咲て便り嬉しき吾妻潟
冠を着せてもえたし白牡丹
月更て猶々若き事三夜
此枝にけふも御意あり御口切
梅幸を倅に数句を申出すもあまりくだ〳〵ければ
渠名奏一句に尽すへからず就中春たることを三ツ
を挙て是を手向とひ
西宮
青魚
一寒気にも凝たる雲のたえまかなし
大石が忠も名のみの寒さかなし
かたみには葵下坂とし暮ぬ
天明五年巳九月京都四条北側東の芝居にて堀
退座上梅幸三回忌追善として尾上新て忠信
蔵を出しける時由良之介役は近年追々工夫
思ひ入を付ての仕内はゆへ此度は何もせず正本
か通りを勤めんと有しを我術それも然るべき歟
しかし忠臣蔵狂言毎々大入りを取り大当かなる
は其役々色々と物ずき有ゆへ也此度はどふわる
ぞといふて見物群集する事なればやはり新意
を重へたる方も然るべしと相談有しよし聞伝へ
たり是は芝雀の心然も一回白く又眠糖はあらき
思ひ入は宜しからざる事は知りながら生居院日口
を折るひありていやみを知つてする所は英雄人を
歎く場有て此了簡も可なるべし
一歌舞妓狂言本
かぶき狂言本の事は前編にも恐るずく往古は
言りたる作者といふものなし俳優家の立もの寄合
筋立してせりふは出合にいふて見るをなしと云其
内に定るゆへ根本といふもの領し一日の狂言とても短き
物にて今のことくむつかしき仕組は役者の心にある
事也夫より後には役者も記臆薄く首の立ものゝ
勤めしを見覚へ心覚へに書て置しが古代て当代
とに少々宛は風義の迷ふ所を書添てほとせしか
根本の権輿也其後宝暦十二年午の春東武の作者
堀越薬陽浅草塔中にて本読之会といふ事を初
また明和四年亥の秋深川塩浜にて興行又大坂にては
天明の初め永長長堂奈川亀助かぶき鐘天と号て
本よみを初め一明四年辰の秋角の春様藤川
当春座にて恩花街客性といふ狂言奈河五瓶
作ふて大あたりせしより舞台送り物の図を悪き
世かふなのよみ本をかし其後侍者似貌流行に及び
年毎に立入の根本出板なす事をと成りその以前
宝暦七年丑ノ四月大西芝居にて四大尊伽藍館
並木正三作にて六月までの火入其節よみ本浄瑠璃
一璃とて右の改本出板其後安永四年未の四月中の
芝居山風春次郎座にて競伊勢物語奈河亀助作
にて大当りなし同じく浄瑠璃本二冊出板なせり
猶また写本のせりふ帳といふもの当代大ひに流行
に及びござりますと書べき所を一夜附狂言など
仕組之節略字にして厶リト書しも我人目にもよみ
行て女子の文通にもけふしも集なる天気にて
くり升と書るやうに成たりしもおかし
都風流大踊権輿
明暦の初め洛東祇園の辺に風流の法地あり初秋
給ひ五匁をかたらひ踊を初む夫よりえ禄の末に至り
京祇園町にて是に此遊びを為し劇場にても
毎年秋毎には風流の仕組踊りを催して都名物
のひとつみ成り大坂にても懸替りの大切に踊りを
勤むいつとても都風流大おどりと記す今弦曲にて
翫ふ三勝心中の唱歌も元来は踊りの音頭にて
烏山四郎兵衛の作也くわしくは前編三勝半七の
条に著す永禄之頃京都にて踊かたの作者と云ひ
の名人と聞へしは
八百屋喜太郎木地九左衛門種間源三郎左倉仁兵衛
小豆庄兵衛古今新左衛門蔦山口江兵衛兵助屋九左衛門
都源兵衛都源兵衛郡
元録年中京祇園町踊之唱歌寺跡
翁せんぞ以大上頭与市さゝらおどり
笠ほどりだんじり競馬おとり
唐獅子おとり塩釜おとり芦刈踊
大福帳鑓の権三手綱おどり
六法出端御つまぶし手鞠おとり
御幣おどり文七おどり殺生石
しがらみ鑓之団介甲斐御馬
三ツの事樽おとり難波の梅
須磨名所
須磨名所神垣福太郎おとり
太郎助卿
道念い
浮世法師太下助卿道念吟
おさん茂兵衛三勝心中山庄大夫
さねもり徳西と虫づくし
此唱歌のうち鑓の権三といふ間踊り御幣といふ
女おどり樽踊などは大坂出羽芝居にて大当り
せし踊なるよし
古来中興当流踊歌百番目留く
山崎与次兵衛踊こんきやらく天満出づる坊々
おしもゝごんごり○ござうつゝ
よ作丹波々都よね助く馬かたゝ
ざんからがゝ阿部門弟子くちゆつちやら
づんがらせんがた君ちりゝ御らし売候
難波長吉へ一ばん鳥〻伽羅の板ばしへ
一練あがし源五兵衛之長刀へ
小野村彦惣へ三弥土手道へ
弥千田々大小けん外六藤六郎
丸ふく頭ゆへ福助買物へ有哉与之助へ
順礼候次江冠者へ御以鳥さし候
鵜の羽かさね八重垣之ぶんすけ孫たゝ
髪弥五郎へからかさしいせき也
先陣宇す川〳〵
しん葉のやく橋より
しらるし
なんぢゝゝ竹馬ゝしらるしく
不及をしゝ七つたくはんじよの音く
正の手奴し早咲梅之菅笠
椀の介し金山間夫ゝ岡山通ひ
馬場せきゝすま山申してんゝ
しとゝん
言□
四季花笠へ櫓ひやし
三番叟ゝ地ふくゝ君はし金く
してんぬく世づきし赤屋娘〳〵
一諸内花芝へ寿ふゝ荒木のみ〳〵