志津能石室 2巻

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平田篤胤講
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2026-08-17T19:23:22.327Z
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平田篤胤講
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日本語
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シズノイワヤ
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東北大学
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イドウタイイ
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2026-08-28T18:53:25.651810+00:00
狩り 未八品目 志津能石室 志津能石室 上 志都の石屋謙本ばしかき 現身の世にある。吉き事凶きこと憐しれこと悲 き事のたかるは会も更なる事なれど其が中に病ば かり、悲しきものは有る事なし然るにその病の状許 多ありて、自都からに寝べきも有り。癒べからざる も有り、又その療する方の当否になりて生死の 定まる事なるは、又云も更なり、真を為す者は誰ぞ 世に在る医師たちにあり然れは医術は、ひもや ごとなき事にて厳重に為ずは有るべからず 扨常人は悉に送を為には及ばざれども事 ある時に医を撰まむ道を知らずハはゝべからざ る事是はた言も更なり。爰に我道の学びの親 気吹入吉の平の大人はもいと若くおはしゝ時より由有て 医の道を学び、壮の年頃にはむねと蓮業を立られ しを、其後は古の道の学のゑかしきに其業をは止ら れ都れどへ其盛に勧られたる時にしも世の中の俗 医輩の其風儀の宜しからざるを慨み憤りていかで此 を揉直さむの心にてし都の石屋ちふ書をば著まれ たり柳医道の本はしも久堅の天津御祖の大神の始 め給ひて大名持少彦名二柱の大神に伝せ給ひて れより弘く天下亭の国々までも教へ及ぼし給へる 事なる由は師の委く皇典を始め、諸越の青ども をも考へて懇に説示されたるがごとし然はあれと 此石屋はしもいとも太じき書にして、己がごと力なき 者の容易くゆるがし出べき物にも非ざるに況て 其草稿も、全くは滅すへざる事なれば、同門の者と いつ方ども、弘くは見せ給はざるを、いかに為ましと歎き てのみも過都類を出講説の本はたもはやく文化の 中須に師の興盛りにこの道辞閲せ給へるを御許 に侍ふ弟子たちの聞書したるを後に師の見ま して加筆などし給へる也けりされば此書はいと 簡易にして、其旨て通え、ほた俗語にさへ書た れば、難しの人も弁曽難き故なく、一となも読見む 人は忽ちに此道の本をもこゝろえ巧拙き医師の 撰みも出来ぬべくはた世の俗迷輩の手から 総習弊も、自都からに改まりなむ、あな尊き 書なるかもいとも奇しき道なるかもかく思羨く る時も我学びの友奥山正胤が、同じ心に思ひなこ して、いかで〳〵と諺もふに魂相都へやがて皆し気 吹屋に是申して刊本となし世に示さんとするものは 道の奥伊達郡牛田の里人早田弘道 一名医 一志都能石屋講本 道大意 上之巻 荒井恭信郎副贈会ヲ 入セル▽閉博士 門人え 大塵平田先生講説 等筆記 さて今日より申すへしは医道大意でありますが其ニ背て馬衆が 命申す五箇の大言が有る、それハ一ツニ入儒者儒道を知らず二ツ には仏有仏道を知らず三ツニハ神道は神道を知らず四ツヽハ教 是は敵道をしらず五ツには医者道道を知らず是で人。 又馬胤が口からは申二くい事ながら五郷が兵門前は流に古学の 本意をしらぬ者も多く是はとたの限りなるにてひと申すと 甚の大言で痛人の耳に立つ事ながら古さ諺に自くら十人目 呼き干人と申す〽あれ共伊勢貞丈先生はとんなりじやない 目くら千人自ぐちな人じやと云れましたが此のいかう劇言のやう だが随分せるにで世に真の道の行はせ難き処を慨み思ふ心 からはかやうの憤り小吉も打至らるゝ物で人ニ其レは諸越の孔子など も幾らか憤つて大言自負を云ひ出したるのが有るこれは彼 平賀源内が十たる如〳〵是も世二人のしりてのなきことを俟つて 云たる言に今時世上に目が無けれバ能なる響もおとなしう 爪を秘せば鳶かと思つてたはけ共が茶にしたり馬鹿にする故繰 退辞譲は間め合はずと云たる通りの族で少りは大言も言ねば 人を感発させる事はならぬ物では彼孔子も憤せざれば啓せ ず云々と云たは此丁でひ。但シ其もそれだけのこしを自分に修し得 左上で云たきもの又彼童謡にもとても為るなら大きなし 為やレ奈良の大仏のけつ葛やれと云左やうにくつと大きなしを 存し左い物でひニ扨医道ハ俗ニも枝芸小道の如く申す者も多 いが実にはなゞむつ申しい事の余らめ難きものでひ。夫はなぜと申すこ 此二蓮のことを心得て居られる衆も有りませうが小桜内の通り 医業と申すものは甚たのむづかしい物で実ニ御大造いやなゐでひ。 なぜなれば人の生死にあづかる事しやに依ての事でし。此レハ申さず共 な事ながら生とし生る物何れか命を惜まざりけりけるとこれは貫 之ではない富胤が申すのじやがさ斯様の跡故一述を案と為 る程の人は跡もこくを心をて心の及ぶ限りはせんさくしつめて 置るへは知れた事さすれば此は夢流がちしよこさいに御医者方へ なして医療の候星などは申すべき筋でないから此はとんと申 ませぬが任医師の業の目て起つ左る涙などのことはこりや 古の学びを委く致したる上てなくては容易たどり知られぬ しで此レらは甚だ心得に相成る事故申ます子さりながら是とても世 間の人情として番時のつこのみ自が付て其瞬の図て起る所 介などを申すをば迷惑と云てまはり遠いつしのやうに思はれ因れ る内に欠まじくうなしを有ませうが左にも右にも今日之処は二りや たぐ御医士御方へ御聞せ申さうとての演謹ではないと思はれる が過いで候。但シ世ニハ眞の医者ゟ甚た少く盗人医者が多く 有るゝ依て其盗人医者の訳をは暮胤が心付たるあら〳〵を 申ませうがら願はくは用心して彼等がむれに入らぬやうに是は散し古いあでひ。 〽扨これは古道の大意を演説の砌りから毎度さ也申そ通り世の中 ノコト何事に依らずすく迷事て夫ハ四季又昼夜のゆき知り 世の中乱れ治り又雨ふり風吹きばかりでなく人の現に致す 〽とても約まる処は皆神の御心御所為に漏るゝ〽なく此は鎌の 屋翁弐人のたとへば人形の如くで神は人形を遣ふ人間の如く の訳じやと云はれたる通り夫ニ相違もなき事ながら至て意味 と云はれ唯日通り夫ニ相違もなき事ながら至て気ほ ふかく唐の後にせざまある狡意訳にかぶれて居る人が今聞てとが 今に実ニ尤とは思ひ取りの出年如丁ながら古道の大意から欠 さず聞れた衆は粗々も此らは承知して居られませうが中途 から聞れた衆などはどう有ませろか夫は夫れとして右申通 何もかも世の中の諸事神の御心と申すうち医の道などが 新して神の急に関る第一の訳か有ますから其医を業と 致す者は第一に神の趣道を知らねば成らぬこと云へば 繁にのみ自が付て涕を腎はな人はいや扨こそ平田が遷遠なし を云ひましたりと思はれませうが潰して言うてない此は既に諸裁人 も唐の孫界邀などは元欲レスト為シ大医一ヲ領二テ妙ニ解二ス陰陽周易一ヲ為一ヲ為一、為ヲ得 レ為二スヿヲ、医者ニ不レ爾ヲヤハ如シ二興一ハ月夜遊一動致二動致二顚殞一ト云フと云ガ此 は周易と云へざとて何もかの占を為する方べを知らねばならぬ第 云の訳ではないしかし其鳥の出来たる所以は未だ考究めざれば 元来聖人の身で天地鬼神の道理を尽したる物なる上に交王 恩公孔ならも追々に増補計正したる事じやに依て茲に因れ バ事物の変化も知られる事のやうに云ひもし思ひして吉日 に依て医を業とする者は天地鬼神の道理を知らねば月 がなくて夜ぶら〳〵あるくやうにどこぞでは鉄きが出来る 危いにじやと云の意で孫真人はかやうに申左物で心。此は甚た 尤なりで爰に明言でん。去なから其易に青て有る理屈の 泥にすがつて天地鬼神の道をも知らうと致すはそりや諸 越の如く神代の古伝拝を失たる国々の人こそ事かけ代 ニせうも為すは歟也にも幽事の訳をしる事は出事まいなれ共 御国は何時に申す通り神の本ツ御国で世の始神の古伝説には まづぶさに残る処なく傅はつて居るに依て易と申左る処の念易 の変化鬼神の色理の其本はこれと貞が二夫を掌らるゝ 一実物の神をしやんと押へて其の金鳥五行などく名を付たる物が やがて神の御所為しやと申すへしを知て事を致すに依てそ 実物を捕へたととらへぬとでは死物と活物との違びが有て いろう 身也の違ふこしでかんに其花判を少か申さバまづ大底の事 しり人及び漢風の理屈ばかりを云人は左とへば雷は会と息ど の相限りて減するの色じやと云ひ風は舎易の動くのじやなど と云て唯食易となをのみ事々しく申すけれ共其食易と云 物を死物とするか結物とするか死物ならば激して雷となるに もなく動いて風となるにも無いはずのこしでも。処を或は激し 或ハ動く事も有而は決メて話て居る物なるし論はないで人ニ 既に結物なる上は其霊あるし是また論入ないでこれ異物の語 でなくて何で有らう若シまた金鳥は死物なれ共或ハ激し或ハ 動くメ自然じやと云り然らば其死物なる会易を自然に蟄 かし隠にさする其物は何物じや其外物じやと云会是を綴 して雷に唱したり動して風と為たりするからはこりや決して活 物の神が在て愈するニは疑ひないで也。かやうの訣じや依て会シ 易で何もそもすむと思ふは非が□で其会息を念息たら しむる実物の神あるこを知らねばどつこいと銭まへた処の品 ひ込みがいかう喰違りて扨こそ漢人の誰又夫を信して居る 人の言たり書たりした物は其おんづまりへ行くと云はゞ帯ひろ 一義の無禅にあつて居るやうな取縮らぬ流ともが多いてひ 其内にも絹越人は真の古潜謹を知らぬが上に生きかしらで実 物の神を得捕へず其作つた青を見ると臍を下からぐつ〳〵 と吹出すやうないなしいかしを云て其極意ニは会易をか 大概とか云しで居りを付てお〳〵焦れ共其会息ノ理屈を 云たる周易にでもすがら忌ならぬ故こそこで孫興人もそれこ 一依て凡ツ大医たらんと欲せば妙に陵陽周易を解すべし爾 らされば自なくして夜遊ぶが如く動もすれば顛殞をいたすと は云た物でひ。かやうに志した処は実に医を為る者の本意えす べく動かぬ処で尤なる事でひニ但シ尤もでは有けれ共食易ツ 周易と云たのハ返す〳〵漢国ニ神の眞の事実を知べき伝 なき故に事かけ代ニ其ニ添召物じやと云事をよく静へて唯 その心をのみ取て其陰陽を会易たらしむる神の事実を古 学ひをして知るが宜いでひコとかく諸越人の説しく祭実物の神 有て世中の諸事物を造化すこを知らぬ故其神のなさるへ事 実の跡をみな食易とのと申すけれ共夫は非つで其容易を なす実物の神出ることを知た人は戎の儒者では孔子ばかりのやうで 候ニ此訳ハ或ハ年著したる鬼神新論と申に委く論じ置 ましたに依て春を見らるゝとさらりと埒ふく事でひ。河にしろ神 の実物なるりに合点のゆかぬ人は此方の諺にこゝかしこ疑なしく 思はるくことが有らうでひ。医ノ業了を申すなどが別してさうでし。 扨まづ神の実物なる事を知たる上で送道の起る涙をも知べき事 じやに添て真訳なだり〳〵申さうがまる此人間の谷かやうに活動く 処か第一ニ霊いこしでひ。但シ此金彼舎鳥の理に依れば知れぬしは 無いと云へども其会易の奥に其会易を陰陽たらしむる甚に 奇異に妙なる神か有るに依て食易の理屈を付るのは末の しで本を云へば竹の御所掌でひ。夫故に鈴ノ屋ノ羽〆人は譬へは人形 如くで神の人形をつかう人間のやうな物じやとなれたてひ。又其 一活動ちく紛々病と云へしが有て夫ニ薬を与へて痛るも是は 一帯と成てをるに依て何となくゑつて居るければ奇霊 に怪き事又かやうに水々と若いて居る人間が浪々年を重ね る侭に容貌も変り黴もよれば膝も屈て死ぬるのも実は何 共思はねば思はぬやらな物のやつぱり怪んこしでこりや云ひもて行 けば尽く神の御所業なる事は論か無れ共人の死ぬるに変り 云へも年寄て死ぬと病て死ぬとの浪が有て夫は聞世の中の 事とものは彼玉辞百首に〽谷ことことこ禍ことこといつぎ禍事に 一告事いつて世の中の道と詠れたる通善事から乗事を 生じ悪事から善事を生ずべき妙なる違理が有て是は 天地の初よりさらでひ。此事の本の故由の具に師の古事記伝に説 おかれましたに依て夫が内会の砌ニ委候演説いたしませうが夫は先 近く人の上で云がうならば其生れて出るしは彼皇産霊大神の 甚も妙なる産霊の御霊に依て形ちを為し父母の生なし其 漸に成長して万ツコトの出来るやうになるのも其に善事では有る けれ共其成長しつゝ行く程にいつとなく老衰へて死るには是 成長すると云ふ谷事がやがて死ると云悪事の本となるので ひ。又人の壮に成長するしは豊受の大神の御霊賜はり食物を 快く給て養ひ居る故じや依て其食物をやめぬ限りは衰へさり もないし尤も死もしさうもない物じやが春齢の長け行に従て 己がほとは為ぬけれ共食物なども泣々減てきうな処が自然に 老おとろへて八十九十ぐら有を限りと者て死なりは是又神の御心なる 〽ハ更ニもなれども此は皇美府通々藝公命。御天降りおそば したる砌故有て石長比売をめさず木花之佐久夜昆売を 一贈たる御由縁に因てのりで其故義は殊之外に命長くこゝら には妙なる訳のあることで神代の古伝様に慥に見へて此は別に 委く考へ記したる物が有故其内会之時ニ申ませう但シこれハ 外の神々の御心にも御注せなさらぬこともも一老て死ぬそは こりや薬でも直らぬこしでひ。病はこれと事替もつて此病があれば の薬が有て夫を直すりは彼の邪なる神の人を病しむれば善 神の夫を直す薬を御定めなされたに依て其病ひが直るでひ。此 は彼伊初那妓ノ神様が禍津日ノ神を御吹生しなされて此神は 一穢き事汚れたる事有てはそれを怒て御荒びなされ世て禍事が 起るに依てその禍事を直さうとして大直日ノ神を御出来しなされ たるしまた伊邪那美ノ神様は火神迦具土ノ神を御生なされて 其火ノ神の荒び給はしをりの鎮めにと思召て水神本神 瓠川菜を御生あそぎし其荒びを鎮め給はすやうを御教 へなされたると白く草根木皮にそれ〳〵の功の有るのはすく神の 御定め置れ左物でし。春伝へのがつ〴〵存つて居るを申さば伊都 那攻ノノ命の予母都国へ御出なされたる時に予州都忠評売に云 物等は追はれあそばしたる時に傍受て桃子を採て其志許売 ニ御打付あまれたる処が志許売ども此に恐れて逃返つたでし。 そこで伊邪部破ノ神櫓が桃子に汝吾を助けたるが如く有ゆる 宇都しき青人草の苦願に落てくるしまん射に助けてよと 仰せられたる其御言の侭にかの桃木が今も疫療鬼を避 るの功があるに依て此は漢藉本草を始め其外も種々の 青に疫鬼をさくるとて或は何家の物じやとも申てしたゝか鹿衣て あるへしでひ。また大穴年遅ノ神の八十柱まし〳〵たる御聞きの 升にたばかられてやけどをなされたる時に神産巣日御祖命 の鞘具比売と蛤貝比売とみ命せつけられて御蔵しなされた と有る春伶員となふは今のはすぐりの類でこれ以て傷火とに 今も効をなす物でむになは此事は追付け委く申まする凡て の薬の薬某々の病を治す功の有るしは本は皆かやうの訳に神の 御定のなされたなれ共物毎に其伝へないから夫と知らすに吉るので 右の桃子と蛤貝との訳を考へ弘めて外をも准へ知るが宜い扨 師の翁の哥に〽傳へなきしは知べき由もなし知ら郷ぬ事は知 らずてを有らむと詠れ左のは戎人の如く神の御浴もなきしを 一猥りニ推量り言遣するハ宜くない古伝が無くて知れぬしは知 らぬにして置べき事じやと云の意でく。去なから又かやうにも詠 置れたでしニ其は右の哥の次に〽傳へはし無くとも似たる類ひ 有らば外々なぞへて知る丁も有らむと詠れましたが是即ち 右の蛤貝と桃子との古伝に依て外の物にも某々の能あるヿは 是もみな神の御定めなされたる事を准へ知るやうの〽を申 された物でひ。此等をよく思ふが色いてひ。 扨某の草根木皮が某の病にきくと云ことを人の智恵を以て 考へ付け又方を製つて夫で病を癒すりは是又神の御霊を 賜つて覚るので中にも大凡年遅少彦名二種の神の御恩頼 に依る事で夫は神代御紀に大己貴命与二少彦名命戮力ヲ黙レカヲ恐 経二営天下一復為レ顕一見蒼生及畜産一則定二其癖レ病之方一又 為レ構二鳥獣昆虫之災暑一則定二其禁厭之法一献之法一是敢て百姓 一至レ今成二恩頼一と有て此二柱の神は医薬の事を掌つて 居させられこしでも。此内大穴年遅神の御伝は古道の大意ヲ 淫行の砌にあら〳〵申たるへし且今日申す処のついで〳〵に出 まするから夫で大旨わかる故まつ置いてこゝで少彦名命 の下傳を申ませう 扨少彦名ノ神ハ古事記ニ大国主ノ神座二出雲の御大之御前付ニ 自二波ノ德一乗二天之御雅摩船一而内一新橋及一新為二衣服一有瑞末 神一爾雖レ問其名ヲ不レ答且雖レ問二所従之諸神一皆自レ不レ知爾ニ 多甫且久自言此者久延毘古谷谷谷之助テ各二久延毘古ヲ問時ニ 答二目此眉神産巣日之神之御子少児土郡ノ神一ト故甫白一を於一 神産巣日御祖ノ命一ニ者答レ告此者実ニ我子也於二子ノ牛自二我乎 俣一久岐斯子也故与二汝葦原色斯男ノ命一尚二兄弟一而作中 堅其国一ヲ故自レ爾大穴年庵與二少産名一二柱ノ神相並作二堅メ 此国一ヲ悉後者甚少名毘古郡ノ神者度于希世ノ恩一ニヤ有○ 大国王ノ神と申すは即大穴年遅ノ神ノ御一名でひ。○盛二出雲之 御大之御一義に付と申遣メ即出雲の御大之御前と申す処に御出 なされた時ニと申すりこの大ノ字ノポノカナニ用つた物でひ。 御分と申すは御紀に橋ノ曲り俗に云フ美作祀一とある通りの事で 臥サ橋の出崎のこしで漢字では山へんに甲ノ字を書た字がよく 論て居る夫故順ノ朝臣ノ和名抄に其字をみさきと訓である ひ。○波ノ穂と申すは波ノ白ク高く立つさませ申す古言で 凡て穂と云しはいちじるく著れ見ゆるかしを申て其立さ かる浪のまう〳〵御哥なされたかでひ○天之羅摩船天也と 申すは天之罪じやの天の真折しやのと申す例に添て申たよ でのりめぐみと云は郷山にいくらも生て奉物で俗にはかゞら ひともかゞ芋共云ひ秋田などではごがちよ共云ふ即チはん やと綿の出乗る菓又草で其美を二ツニ破るとせすと船の やうな物でしはんやわたは其実の中に在るこれは薬に用つて よく乳を出ず物でひ。稀皮この穂の字は師ノ翁の説に虫へんに 我と云字の誤りでし。扨ひむしと云は飛んで焼火の中へ入て 身を亡なすせで哥にも夏虫の毬の衣なども詠でちるむじ やと委くは記得に記しおかれたで候。篤胤按ふに此覧もざる になれ共此は神代御記に以転転羽一為衣と出る方宜しからう でひ。何れニも福ノ字ハ誤りと思はれまする○内刹と云は丸 一ながらに皮を剰ぜうべし。真を衣服に着て寄てござつた □か有る○爾雖レ問二其名ヲ一ヲ不レ答ヘ且雖レ潤二所従之諸神一皆 一白レ不レ知ツとハ大穴年通り神様が其よつてござつた小い神様ニ 其御名を御問なされた処がとんと答さつしやらぬそこで 大年遅神に隠促して居らるゝ諸の神へび今寄年たる ちいさい神の何と云神に知てをるかと御潤なされたけれ共 皆知らぬと申さるゝ○爾多爾且久自言は且は具の字ノ誤 りでたにぐゝと申すは歌にも祠祝にもいくらか申てある物で 弔ひきがへるのことでし。具久と云はこれが鳴声に依て付た 名で吉と云は此物は谷間じやの或は物のハざまなと二居る物故 谷頓と申すでし。此獏と申す物は甚た奇異なる態ある物 で其は漢籍にも見へ世の人も能知て居るとほりの丁何様 こゝも申も有げなる事でん。扨其嘆が申すには○此者久延 昆太り炒知也これはく江びこが必す存じて居りませうと申す しで候。○即君二久延日に右一問時ニ谷二谷二自此者如此者印 之御子少名毘古那ノ神上とこれも土の通り谷ぐへが申すを 焦らばと手い召て久延田の古に御問なされたる処が久延古が申 上るには此レ入地産巣日ノ神様の御子で御名は少名彦那ノ神と 申上る神様でひ。ますると申す此久延毘古と云は山田也曽富 騰と申す旨のこしで甚胡て奇妙不測なる由しる物なれば 其委き駅はこゝで申ては横へはひるゆへそれは内念の時にいた しませう○故爾白上神産菓日ノ御祖ノ命一者と申すは大穴 年遅の神様が久延昌古の申上ることを御聞あそばして扨は さうか然らば神喜粟日御祖命へ此神のこれへ来られたるに を申上やうと天上へ御使を以て給せられたこしでも。こゝに限て神 産巣日の神様を御組命とありますは元来神産奈日の 神様は女神に御登が上に大穴牟遅ノ神様の御為にも御先祖 にましますが故でかひ。○扨産巣日の神様が大穴年庭の神の 御使の神へ給られませには此者実に我子也此者と云はこれは と云〽但此節と仰られたからは此時の御使の神と御一処に少 名毘土那ノ神様を天へ御上せなされたこと見へるで人によう なしてはこれはと仰す。しやうハズはあいでし○鈴子の中に自我牛 政新子や御子の中にと申すは我御子の中にと申子は多き中にと申す 〽でひ。我牛腹よりくきし御子あり牛股と云ふは則字の 如〳〵手のまたとなつで此指の俣のことでひ。久政新井な也 と申すは則産粟日ノ神様の御手の俣から漏れて堕さ せられた子じやと仰せられたしでひ。その俗にもくゞりぬける なんど申す言は此久岐と云語の移つたので山。こゝの処を 御記での御使を天へ違はされて天ッ第へ申上られたる処が天神 則高皇産霊ノ神様の仰せられます候ハ吾所レ産児凡ソ有二一 千五百座一其中一児最悉不レ順二教養一自一海頭者 必ス彼矣とありますが此紀の趣きでは此時少毘土那の神を天へ御 上せられたことははもかへませぬが此レ入彼是少伝への異なる処で候。 又天皇産霊神様を神産巣日ノ神様とも男女の違ひ おはします共此〆乱れにても宜しかちうで人。○故興二汝華 一際色語男ノ命為二兄弟一而作二堅。其国ヲ一こゝに汝と御さしなさ 左は則大穴牟遅ノ神をさして仰せられた御意でいましと云は則 一なんぢと云と同じ意の言でひ。又葦原色許男ノ命と申 すは大穴年延ノ神の御武勇にまします処より旅へ申たるのて寄 御制名で人。為二口次第一郎と云ふ則摺ゆる兄弟の色を結 んでと白わけ奥神様が御きゑづをあそばし左のでし。此はと の世とも名弟と申ていくらも有候なにじやが誠に是が始りで既に 白白花具ノ神様の御許しおそばされたるうで其は頼もしく 宣いりと見えるでひ。○作二堅[ヲ]其国一と申すめ古道の大意に申 たるれ天地初発の時に伊那郡紋伊折郡美神へ天御神様が 毛漂へる国を作り固メ成基仰せられて天の沼弟を賜り 扨薩州ハ御国を次〻御生なされ其を未タ御作り終給 はざる中に女神伊那那美ノ命は御余儀なき訳有て予 美ノ国へ御立退あそばされたで候其時男神伊那那政ノ 命は御跡を集て其へ入らせられ吾呉致所作之国未二件 一竟と仰せられたることがある其未二族神の他り終ずさし 置れたるところを作固候て彼伊那那枝伊那那美二柱の 神の御幼績を御継きなさるゝやうこと皇産異の神様の御 さしづなし遣はされたてでん。尤此は大穴年遅の神より御上 せなされたる御使の神へ仰せ含つられたる謂ゆる御口上でひ。 扨其国と仰られ左は天より此国を持て仰せられ左る御告ゆへて候。 次の文には此国と有るこゝらの差別をよく思ふが宜ぞ山。○ 一故自レ角大穴牟庭与二少名毘六部一二柱の神相置此は聞へたる 通り右の白わき奥州様の御さしづの如く二柱の神が御一所に と申す〽しでよひ○作二且此国一と申すは即此御国を御作りかため 遊ばしたと云〽しでひ。扨此御国を御作りなされたるにはまづ神 代御記に大己貴ノ命と与二少名毘古郡ノ命二戯レ力リ。心ヲ経二當天ノ下ツ といひ出雲風長記二余名ノ郡多禰郷ハ所造天下ノ下つ大神大穴持ノ 一飯石ノ郡多禰郷ハ所二造天ノ下一ノ大神大穴持ノ 命与一須久素比者ノ命一巡二行天ノ下一時ニ稲二種二二堕堕土。破レ去レ種ト云と云ヒ 又続後紀十九の歌に日の本の野馬臺能國遠賀美俗伎能 宿郡崑古那加幸菅進殖生志件之国圄半造如年 与理又万分な七に大衆道少御神竹竹勢能山見吉又六千 大海少彦名能神社者名著始鵜自名耳乎名児山 跡負而云々と云ひ又十八二於保赤年知次久奈比古奈御 神代歎里伊比郡藝家甚之云々とみなかやうの趣ニ此二種の御事 を申傳へ左のは即天下を御代りなされたる御幼があるに依て のりでひ。扨その夢に入らせられたる処が石見[ノ国ノ志津の 石室でし。此に御座なされて扨国々を御作り巡りなされたこしで今 扨少彦名神入酒をも御作り始めなされたでひ。春は弘仁の私記に 少衆名ノ命は是違レシテレ酒ヲ被下也とも候へ又酒の古名を久斎とも伎 とも云夫故に此歌を久志能加美とと申す即チ酒の神と云こと云ひ。 抑酒のこの早くもんへまし左は逵須佐之男天神の八俣大蛇 を殺し給ふ処。八塩折酒にお醉せなされ左る事が見へ又是より前 に酒とは無けれ共天略大御竹の御跡に屎なすは酔て咄散すと 給られたかしも有るでひ。但くならは少彦名ノ神の海より御瀧末 給されざる前のこじや二依て此神の御造りなされたでは有まいか とも云れませうが此神の皇産奥大神の御子とあれば其御 出来おとれたはぐつと早いつで夫より後に外国へは御出なされたる 思はれる故是は疑ひ有るまいでひ。扨久斯。神と申すしは 神功皇后の御歌に此御酒は吾が御酒ならず久志能所美番世 に坐す石立す少御神の醸し御酒云々と有る久志能加美節を 酒の神で人に扨伎と云ふは久斯の約まりで共に酒のこかの白役 一黒伎など云伎即夫でし。扨又大穴年通レ神も御走りあされたつ と自給へて山家神天皇王神記八年の処に高橋連浪日と云人の歌に 此御酒は五口が御酒ならす私なす大物主の醸し御酒いくひさ〳〵と 歓つた事がある但シこれも此結日と云人入入大三輪ノ社の掌酒と為 て告て詠たる歌なれば殊更々真神に係て縁たのでも有う かでひ。其はとも知れ久斯は久須利と同言で久割神郡荒 の神でひ。扨その医薬のりは大穴年違少彦名二枝の神の神の御掌 りなさるゝ訳ハ既ニも申者又下ニも段々申すから酒も二極の神の 御登りあされなりを考へ合せて知が過いで人。扨是ゟ又其 本文ニ移つます然後はこれふどうかこくでは二程の神が既に 国を作り固め竟て後と云左左やうに聞人ますが此頃の文に 大奥主の神愁而吉吾獨何能謂作此國一ヲと仰られたを見 れは御作り音んなされたる後では無くなほ作て入らせちもゝ時分 のうで此か其始めつかたは相置しで作らせられ左なれ共其後 つかたになりてふと云の意でひ。○其少名罰左郡の神は 度ルニ干当世ノ国一ニ也この常世ノ国ノコトハ次ニ云○扨この少々の少シテ命ノ 宵世ノ国へ御渡りなされた処を神代ノ御記でハ其後少彦 名命行二至熊野也御崎一遂ニ遁二於育世ノ都一ニ矣と自然一 一又同じ一青の説又伯耆ノ国風土記ニ相号ノ郡之郡家ノ西北ニ有リ 余戸里一有二二粟橋一少レ日子ノ命蒔レ粟秀実獣之即載レ粟 弾二済。育世ノ恩ニ枚云二。五年橋ム也とあるさすれば此神にいとも〳〵小なる 神様でまた帝世国へ御渡なさらうとて衆の茎へ御上りなされ 〽其を撲めしなはせてひんと起返るはづみに弾かれ飛んで御渡 なされたること見へるでかひ。扨此粟島の祭神は即少彦名 命でひ。然るを俗には桑島の神を女神なりと申て真語 に牽島大明神は住吉大明神の妃で有た処が世目下の病に 依て男神これを疎じて桑島に御流じなされ左様に帰人 の病を祈るにあならず感応か有て別して腰より下の病 を念し給はんとの御誓願じやなどゝ申すけれ共其女 神にまし座ぬ〽の右に申左る御記古筆記の文面に依て 〽呼かなりこりや思ふに大穴年逢神と伴なつて国々を御 経答なされたと云しを片はし聞て女神とこゝろ口どう か云つて大穴年遅の氷を住吉大道神と通り心得又病を結む 間の方を御定めなされたと云へしを唯婦人の病のみを愈し 給ふりニ心得国々の御経営もこだ御暴しおさらぬ内に大 穴牟遅[リ]御離れなされて希世の国へ御渡りなされたるし を鬼神に疎まれて出流されなされ共などく誤りにあやまりを云に 伝へたもので人。○扨こくに帝世の国と有る処これまでとすとし 分らず発明 分らず発明の説がないに依てまづ鈴仙蔵の説を挙て 委く弁じませうさて翁の説に音世の国と云は何所に あれとほく海を渡つて往く国を申すなれば御国の外は万 国みな暮世の国と云が古への云ざまでひ。かくて此少名毘古那命は 神座集日御祖命の御午侯より賑お立りなされたねで此段 の文に依ればくきおさりなされて其御行方も御知られ有さらぬ 趣でし。そしやなぜなれば此御国への御でりなさらんで外江江 乱征せられた故でし。扨此段二海から御作りなされたのは外 国より渡つて入らせられたので後二于常世国一ニやとあるは 又ぞろ外国へ御通り去され左物でひ。右にして申たる神幼皇后の 御歓に常世にいますと遊ばしたのは後まで外国ゝ鎮りて入 らせらるゝ故でひ。然れば御神は初め初め高天原に於て神産巣日の 神の如午の曙よりくき放れ御天降りなされてから永く 外身へ入らせられる神様で真間にしばらく皇国へ御渡りなされ て大衆牛庭の神と御一所に御国を御作りなされた物で候。此趣に 依てとつくりと考へ相処が諸の外国三韓又諸越其外も 此方に有りと有る万国は本之者此神の御経営かためなされ たものと見へるでひ。尤諸越外国の初めはみな神代紀に 臍殊の凝て成たる物とある其内てあらうでひ。さやう有也 後に此少彦右神の御下りなされて何れの国をもみな如経 営なされて其おそき速き又優劣などの異こそあらうな れ共悉く此神の御作り固めなされたに泄たるはあるまいでひ。 春は今の人の代の命の長さを以て計る時は万の目にを此 神の御作りなせなたと致してハ時代の合はぬしに思ふ人も 有ませうがさうでない銀代の寿命年数メ殊之外に長く人 しいかしで此神の外国へ放れ下らせられたなどは漢風に 一謂ゆ伏義また天竺に謂ゆる新売利などよりは遥に 前代の事じやに依て万国みな此に准へて疑ふへき事 は真ぞかゝ。さて諸の外国には神代の正き伝説がないに 依て此神の天より御下りなされて其国を御ざれ たるこを風聞にも知れで居る国〳〵も有うし又その 色々の語のまゝに異なる御名を負せ奉つてほの〴〵 訛りながらに伝へたる国も有ませう又春御霊を後世 まで痛き祀るも社のある国々もあるだらうけれ共其レも 異なる御名てあらうに依て左に右に何れの国々でも正さ 傳説は知れで居ることでひ。抑かやうに申す事を聞れる世間 の人が何と思ひませう女千年にも餘つて普く外身の説 ばかりを聞きなれて心の底にしみ著たる世の人なれば推 なべては今が今になりる程と浴ふ人はそりや少からうがさ やうの輩は何にも有れ御国の学問をする人などは此等の 訳を能〳〵心得居るべき事でひ。と絵屋翁の云ひおかれ ましたがと此説をくり返し読味ひますることつ始ニ番世 の国の事を説れたるか昔胤が思ふ処とは異つて諾ひ程 く思はれまするが其より誠に諸の外目どもは皆少彦名神 の御風立なされたて奉らうと云よりして此神の御伝の外国に 残り有べきはずなる由を論されたるなどは倍に目覚しく 古往今来此ノ大人を置ては外に誰も思ひ依るまじけこしで 一実になかたき御諭志言でし。智識此説に依てとつくと考 へたる処が此少彦各神のみならす大穴年遅[リ]外国どもを 御作りなさよう為に御渡りなされたと見へまする其由は下 に引く如く斉衡三年に番陸目へ御帰の時二柱外御一所 なる上に其時の御託宣に依て相分りまするへしでひ。然ば 此神の御事実も此外国どもニ覚り有へきし申さすでも ないしでひツなほ此外にも古き神々の御渡りなされたるも 必あらうとは思はれまするが未タ其證拠を得ぬから夫は 尚よく考へ定めたる上で申さうでし。扨その念世の国は底依 の目であらうとの考へは一と通り聞へたるか如くなれば暮瀬か思 ふ処とは大きに異つて居る夫はまづ此海よりして御立去りなされ たる故に遠近こそおれ西洋の謂ゆる五大州の内何処にかおさし 直でおらう其処は大凡皇国の下の方に番れば即チ廬依の国 てそこととこと音通ひよりのりを省いて底海の国即ち 当世国としても此処は蔵なり二押付やうなれ共音世と云 詞をなほ広く考へ通して見ては差支かなうでひ。依ては 此処もさらではあるまいと思はれまする然バ春ハ何処じやと云に これは決めて諸類のからを始め現界の国処ではなくて迷芥 の事と思はれるでし。然れば其述界と云は又何処じやと云に 此ㇾハ河処ニも海ニも山ニも有るニハ相違なけれ共其と指てハ 云ひ難き其は何故なれば凡俗の目に見へぬ隠れ国故のこしで 此事の縫処は垂仁天皇の御紀九十九年天皇有御の処に白造間 守がしを記して是音世ノ身則神仙秘區俗非ス所一臻とある此 一秘画すなはり幽界のりでも神祇仙霊の迷界をばかくれ国 かくれ郷なと云でたて。然らは又外国を御経営なされたと申 すもその秘区のしかと云に此はまつさうでない一とまづ皇国を去 て幽界に御隠れなされ夫から後に彼の国々の現界へ御預出 なされたる事で人。彼ノ大穴牟遅[リ命の八十相手に御隠れなされ たる事代皇ノ神の八重青柴垣に御隠れなされたるなどみなび 冥二御入りなされたる事を申すれて此後大穴牟遅[キ]神も彼処 へ御出規なされたる事上に申たる通りでひ。扨希世と云ふ名の 義はいかこと云々文字の如く帝とはみ変らぬ世界謂ゆる不 老即死の国と云の意でひ。かの浦嶼子が行たるも其中の 一ヶ所で漢士にて仙境と云も皆同じことで彼田道間等が取 吏ましたるは即其仙境の物と見へるでし。扨寄世の国となは 右の如く「たん。処を翁の語りの如く底浪の国となし二度してハ 頸幽の左がひのみならず其趣き大キに異なるで乙。能考へ て弁へるが宜い此事大神の道の学びに取て第一の事なれ ども中々此ニ申すし難いに依て則に委く書記て見せませり がことは大略を申もので○扨又此少彦名ノ神の御事を皇 一産異の御詔に最悪而不レ傾一教登ニ云々云々と申す事神代 御紀に在ますが此事何とも心得がたいに依て其年孫をつら〳〵 考へたる処が最悪と仰せられる程の事は一ツも見へす唯惑 御切位の大きなることは家後考へ合せて自からニ知られまするが 是に依て思ひまするに此神は元来御領体は少き共其器重入 一構群の大英傑に御坐すし故に若くはかの大行は細瑾を顧みず とも申す如く御内むきの小さ事などは御祖神の御教養に御 煩ひなされざることなども有たに依て右の御詞も有左てあら うです。但最悪とは有れ共さしも御憎みなけれ左と聞へ す末に宜二愛而養一之とあるを思へゞ却て御慈愛の御心深く 有らせられたる事を能く思ひ奉るが宣いもとがたいしたるつ で無い故ニ古事記の伝へには無いのでも有らうでし。猶此事は 熟く考へて古史伝に委く記しませに 扨後世に至て諸の外国より種々の事も物もだん〳〵に渡り年也 御国の用を為す事は専この二種神の御掌りなされるりと思はれ るでひ。其はまづ山分神天皇の御代に大物主ノ神の御論有て意 富加羅国の人初て来雄したるを以て知られまする此大狗 主ノ神と申すは即大穴牟遅ノ神の和御魂ノ神におはします でし、猶此上を申さば神代に須佐の男之大神の天壁立極廻 坐したとあるは宇宙の国々悉くを御迎もんあそばしたので 其中に韓郷之島は金銀がある右児所御之国に浮宝有 らずは佳からじと仰せられて其船に造るべき木を御植生ゝなさ れて外国の往来を御始めさせ遊され此後御記に見へたる るは上に申す如く意富加羅国の人の来趣じやが即其船に 乗りての丁又自レ御世に此方にも諸国に船を多く御造らせ なされたで人口扨又天照大御神の御前に白す祝詞に皇大御 一神能見霽志坐郷方ノ国は天能譬立極国紅遅立涎青 一雲付霊柱白雲夜墜坐向伏張り青海ノ原を候棹把不干舟 一初夜至リ留ルヲ極ミ大海亦舟満都々季心一自」陸往ク道者荷 諸結。堅メ通磐根木根履佐久弥白馬の爪能至り畠も限り長し 一道無間久立都て乗候由狭国七郎広久媛国には平久遠国は 八十綱打掛氏一引寄スル如レ事ノ皇大御神領寄参波荷前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前前ゟ 大御神能大蔵亦如少積置白一云々とあるを以て大穴年 遅少彦名ノ神も知し看せず其大木は天照大御神の所知看す 御事ニて其万ノ国ノ有らに限り悉く皇国に寄て仕へ奉らしめ 給ふ御由餅をよく知り弁べきこしでひ。此神詞の意は云々 是等の以て我国は万国の祖国我大君は即チ万国ノ大君に大坐ます しを弁へ又万国よりは皇王を参ひ奉る由縁をも知へき してひ。扨此御由縁を知左る上は万国より参章抔ども悉〳〵 御国の用と分るべき訳も知れるでひ。是らの事はなほ次々に 委く申す事では有れ共まづ第一に此大義を知れでは諸事万端 差支へが有て物の條理ガとんと分らぬし故に斯は弁へするので むしから是を知て而して後に我が古学の広大にして儒学 仏学蘭学を初メ外蕃ノ学事ハ都而みな陋く小きしをとつ くと弁へ知べきこしで人ニ扠右の如く大御神の万ツの大本を知看す 二付ては皇国に用ある物を外国ゟ持季而はさる事なれば 又其中に答からぬ事柄の交来るは如何な理で有うと云に是は元 外目共の始メハ御国の如く伊邪郡破伊邪郡貞二柱の大神の御生成 なされたるに非ず潮沫の凝固まつて成たる国々なる故に人気 も宜からず其故に産出る物もしたがつて宣レからぬ訳でひ。然 れは万国ゟ渡り来る物ニハ自然と佳らぬ物の交来るべき理ヲ 弁へ知るが宜いてし。但シかやうに申せば掛巻も畏き大御鮓を始 奉り連須佐之男神又大穴年達少彦名ノ神の知し看からは 其悪き物は撰み捨て渡り来らざるやうに成し下さるべきこと思は なる此理のあつと云に大御神トは申せば実は其の真ノ春御魂大禍津 日の神の専ちと所知看すしてさしも細かしきし迄には至ら せられず唯其御勢徳の広大元辺なる処ゟ善きも悪きも 悉くニ御国ニ御寄せなさるゝし故ニ儒仏の道ハ云までもなく 動ともすれば甚異かる邪法にでも交来る事を思ふべき物で心。しや 是も決して雷しき御泊ではない譬へば諸国の浦々にて佳魚を撚ら うとして地引と云大綱を行く処が鯛平月など其外用ある魚のみ は揺れずして中には甚軽き海賊の類ひなども寄来て却て煩 はしく妨けにたるにさへ有るは元来大仕懸である故に彼邪道の 交へかて入り来るを撰み分けるこしの成かたいと目シ理りてん。此をも付ぬべき物でひ。 扨又古如く万義国々は悉く我が大神等の知看すコとしては其国々 の人々とつくに其許を心得て悉く蕃臣と称して雁来るべき 色理じやニさやうのことなくて尤近き目には来たのも有れど春は 稀まなニて遠き国々は服従者なく彼文永弘安の頃の戎国を 初メ却て皇国を伺ひ奉らうと為るは又何なる理[リ]てあらうと 云々是は万ツの国々に古への伝語神明かならず冷て我神の御国 の古伝などは夢にも知らざる故に其国々の卑き所財を弁へず唯 不色ながらも広大なる土地を領すれば自ら尊大に思ひ跨 つて都て我大皇国を侮り奉る様なるは憎むべきこしニはあれ共実 は真の古伝を知らず且瓦石は大キなれ共卑く金玉は少サく共 貴きこしを弁へぬ故のこしで謂ゆる蠡爾たる戎狄にしてはさ も有べく憐むべきしでひが然るニ近頃世の中次第に開けゆく一 随つて此も彼夜消之男ノ大神の御心かも船の製造巧者に なり脱海の粥自由自在なる故二各国の善者も互に知ら れ彼金玉瓦石も面あたりに見へるやうに成て天皇国の万国 に勝れて穀物は申すまでもなく万ツ産出る物悉く結構なると 貧み奉りて其を得まほしく思ふ付ては四方の夷狄とも技巧 の限りを尽し貪来て御機嫌を取申し或は我が漂民を送るに 一言託て通商を請ひなど漸々に覗ひ奉り又中には負気なき 狂業を企てるもあるやうに聞へるでひ。急に此レらのに速かに 御咎もなきは例の大らかに差置れるので人。然れ共それは小 事の事終に八皇国の損害とも相成べき大事に至ては少かも 宥め給ふ事なく御稜威を震つておほろぼし給はすこ〵は 弘安の度は云に及ばず其外折々御験の有たるを以て知べき ものでし。但是は人をして御打せなさるゝも神の御威稜に依て 亡ぶるも実は同じ理で候。扨さやう有りつゝも皇国を覗ふ 凡尚止まず年を重ぬ世を経るまゝに彼に懲り此に怖るへし 四方の戎狄ども興廃沿革さま〳〵有て長久せず本より彼 に主従の定まりなく万事猥りがはしきに付ても我大君の大御代は 幾千世歴ても恐らせ給ふ事なく征夷大将軍の御威光も 縁増々ニ四方ニ輝き彼我狄被終ニ候尊身善悪強弱無も 心のそこひ思ひ弁へいぜひ静み腹従奉りかの通商交易など 云コトハいつしか絶て我大君は郷万万円の大差上ニおハしまゑ彼等 は一向に良下と称して国産ども沢山に貢ぎ献り参来るべ きに予に懸て見るが如く阿郡尊れかも阿部喩快候も但 此は要なき言挙の如くに思ふ人も有ませうが決して罵亂が強 説ではない遠つ神代に天神等の成掟て給ふ趣きを伺ひ 奉り其後御世々に見へたる此事実を思ひ合せてかくは推重り 奉らるゝ〽しでひ。既に其験の今ほの〴〵身へ初たる上は右申す 如く成替はんても乏しも久しいことでハ有るまいと思はれまする 一扨医薬の辺は神皇土座奥ノ大神より初べり大元年遅少しの神の 御受継なされ両広く御撰ひ有て此御世より万国へまでも御伝へ 遊ばされたること見へまする抑皇国の豆神代は申すに及ば ず其後も人の心大らまで拘思ひもなく宿病などはなき故に医薬 方術も事少サなくて足はぬ事もなかつたる処が仁徳天皇の大弐代 頃より初めて次々に漢人共多参来り書籍ども貢奉り又 此方よりも彼国ノ拘尊ひニ大御使を遺はされなど有て種々 の事医薬方術及ひ其書共も伝はり来て人々其を珍らし く思ふに付てはいつとなく皇国の方は粗略になり本より記へし 字もて青たるもあれ共漢字もて記せるが多く彼のと和漢 紛らハしく人々次第に漢意二移り行て終二は自已国の医薬 方術をば重んぜざること成たるは甚以て慨く憤ろしきし でひ。然に近頃わが古学の興りたるより此文も開け初て漢 方に依らず医療を為す者もかへ〴〵出来るは然すが二神の 御国の印にていとも愛たきことも愛たきして人々 扨外国より渡来たる物の中に医薬の道などは本より我大神 等の彼処に敏く御伝へ置なされたるも有ると見へて殊に 用を為す故に又いつとなく御国の物と成て普く用ふる上は 本より外国の方じやとても強て嫌ふべき事でたないこと 云も漢国ハ国がら悪き故ニ病症もむづかしく尤薬品も風 土に依てひぬこびたる物多く療方も其二応ずる事故に自 然と委くも成気左る物でひ。然るに御国も中古より双方は 儒仏の色も弘まり彼これと物ごとに煩はしく人心わなく賢 しく物思ふ事の多くなるニ付てハ古ニなき難病どもく出来タ に依てそこでかの漢方が丁とよく相応するやうに成て行はれ た物でひ。譬へば盗人多き国々にては険しき法度を立ると 同じ野でむつかしき病が出ると又随て此辺に賢き人が出来 百医十日多き地さハ難病も多い物で如此段々ニ委くも傾く も成来たもので人。 扨又近頃西の極なる阿蘭陀と云国ゟして一種の学風おこ りてす世に蘭学と称する者即それでひ。元来ツの目柄と 見へて物の理りを考へ究むるに甚だ賢く添ては発明の 雛も少なからず天文地理の学は云に及ばず器械の巧なるに 人の目を鷲ゑ医薬製練の道ことこ委く御青共も次々に渡 来て世に弘まり初たるふ郡神の御心であらうで候。焦に真 渡り年而薬品ともの中には効能の勝れ左るもあり又は製誌通 すして至て猛烈なる類ひも有て良医是を用ひて病症に 煎ずれは灼然き効験を奏すもあれ共本甚薬性を知らす 又ハ真薬性は知ても庸医らは其用ふべき処を知らず若シ去ノ 病症に応ぜざれば大害を生じて忽に人命を亡ふに至る此は稀な へば旅に利刀を持せ馬鹿に鉄砲を放た令るやうな物で法に 危いつの甚いでん。扨甚完理の変きは悪きしニハ非ざれず 彼紅夷らせては真の神あるこを知らず人智は限り有を限り無 き方ノ柄の理りを考へ究めんと欲するに付ては強たる説多く元 より夜意なる国風なる故に現在の小理に抱泥て却て悲し 神の大義を悟らず其故に其訳至て究屋にして我が古道 の妨げとなることも多いでも。去ながら世間の有様を考ふる にそは柏を新哥を好む風俗なれば此学風も儒仏の道の 栄へたる如く段々と弘まり行くこしであらうと思はれる然 らんには世の烏人の為と成へきことも多からうなれ共又害と成 丁も少サかるないと思はれるで候是こそは彼吉事に此凶事 のいつぐべき世の中の道なるを及て総やうにの推置知れる でひ。抑かく外国々より万の事将の我が大御国に参年丁は 上に申す皇神等の大御心にて其神徳の広大なる故に名き 斎きの権なく森羅万象こと〳〵く皇少に御行寄せ遊バ さるゝ趣きをよく考へ弁へて外国ゟ乗る事抔はよく撰 採て用ふべきことで申すは畏きつなれ共是則大神等の 御心掟と思ひ奉られるでひ。怠らば其奢きこしは何にと為 ると云彼良工は材を棄てず良将父を棄てずと云たる 如くそれ〳〵の違ひ道か有らで人。其由を一ツ二ツ申キバ蛇鼻 公蜂なとの類はなくて然るべき物と思ふに大穴奉遅神の 一根の国へ入らせられたる時に須佐之男ノ神右の物共を用ひて其ノ 御器重を御試なされてより大きなる御功徳を立て大国王の 火神と御成なされたるしは申すまてもなく候てより後二人の上 にてかやうなる類ひの事はそ数ふるに遑あらずでも。又例に 申すは畏きことながら糞汁は穢き物の限りなれ共田畑ノ作物 に用ふれば至極の用を為すなど皆悪き物を使て善さしを 成させられ又今の世に暴逆無頼の罪人を召捕て呵責す るなどは誰も震ふべきこし故に良民ならぬ囲引の徒または 非人などこ取扱せる物でひ。此は譬へば。然は凶器なれ共乱を 治むるには其凶器を用ひずれば有べからず医薬の道又此に 目く薬種は手節には毒なるが多がれ共其病に番つては功を必 す事乱世には凶器を用ひざれは治らざると丁ど同じ理りなるしを 悟るか宜いでひ。愈は浮気の物共は必善きを撰て用るしは申す まてもなくなりきをも猥りに捨る事なく其相応な処へ違ふやうこ すれば世になりと有程の拘一として不用と云者はあるまいてん。 世に禍神の多いのを正しき神等の宥して差置せらるゝも必ず 御用に去さるゝ処ある故で有ませう是を破て皇神等の御心の 廣大無道なるこを思ひ奉るべきこしでひ。然れば儒仏の道の弘 まつたは禍津日神の狂業で大御神も暫く此春に御堪なされど 彼須佐三男天師の御台びニ依て天の石窟へ御引込になされたる 如くに御手を来ねて御座なされ左のじやと申す謹は憚りなし なれ共御給構と申さうかちと御ふがひ無やうで万鼠ふさうでは あるまいと思ひまするでひ。扨此事は心得違へ左るんが多いに依て 講釈はちと廻り道の様なれ共大器を申左ので候。 扨是より立キ返つて酒のこと申さう抑酒は百薬の長とも申て 甚愛たき物で人の睦びの仲立を為或ハ心地あしく多日の廬 たる時なども一杯の酒で其心がすか〳〵しく成て詣の憂ざ 悲さをも忘れ又平生はいと女々しく弱き男も酒を呑で鼻 息が手負猪の如く猛く雄〻しく成り古くハ応神天皇様 則八幡の御神が須〻新理と云人の献ツたる御酒に御旗 事和酒 あそばして〽スヽコリガカミシ御酒二我酔ニケリコトナグシ。 咲酒 ヱグシニ。ワレ酔ヒ二ケリ。と御歌ひ遊じつゝそぐろニ御出かけ なされて御衝おそばし左る御杖を以て大坂に在つたる 大石を御あなされたる処が真大きなる石が走て避左と申遣し で其外代の諺に嬰石蓮酔人也云左と申す程のこ是は掛巻も 畏き広幡の八幡ノ大御神の現人神にまし〳〵左る時の御所業 じやに依てかしや酒に御酔あそずはず共かやうなしも有すう相揃 でし。是は序しやニ依て申ますが清輔趣臣の袋冊子と夜行 の途中誦文の歌と云がける其歌は此は帳の御神の好事から 出たることも見へて。かたしはやつかせゝくり二めくる酒手ゑひ 足ゑひ我酔にけり。とある是を翁の考へにこれを夜行 の誦文としたる意は堅呑すり走り避たることの如く何なる 恐ろしき物も我を怖れて追奉り近付まいとの意て有ると 云れましたが実にさうと見へるでん万胤はきつく是を侵シて 甚験を見たることが度々あるでひ。扨酒はかやうに愛たき物故上ツ 御代よりいたして神も人も貴きも賤きも吉き手付け込きて 付て湊も声もやんことなき物ともてはやすこしでひ。但かやうに はかり申ては酒を好るゝ方々は鼻を高くし所さ〳〵として 呑らるゝはず既に古人も大伴の旅人卿などは〽云はすべ 為に方知ちに極りて尊き物は酒に者有るら者。又あな 二くさかしらをすと酒飲まぬ人をよく見れば猿にかも似 ると詠れまし左が此等は大きに上戸の人々の得意に思ふ歌て 酒は実に甚めでたき物故古より神へ献る物の第一として是 を供へ諸の神へ流上る禅詞に継辺高知臆腹踏双などゝ有 るは御酒を左んと捧げて神の御心を取り奉る趣きでひに然れ 又害と成りも甚多いくたく酔狂れては太き柱事を引出 し又計らずも溝やつなどこ簾などしや万年の命を亡ふ顔が 昔もとも少しからず其酒故に初て身を込つたるがまづは僕の大 蛇でひ。此は須佐之男神も汝は畏き神なりと仰られ左程の こしで真に畏き神ではあるけれ共かの須佐之男ノ命の御計に て設け置れたる八腿の亡日き酒に現をぬかして酔飲れて彼 一尻尾へ貯へ持たる処の天の襲雲の剣を須佐之男ノ命に取 られ奉るのみならす剰へて其身もずだ〳〵ニ斬屠られたで ひ。かやうの曲事もあるに添て何処も昔の賢き人は此を戒め 仏法の方でも釈迦はきつくいましめて五戒の一ツといたした程 のし但釈迦も本は酒を飲だに違ひない其レは仏道の大意を 一演述の砌申たる通其父浄飯王が釈迦に出家をさせまいとて 妓楽を有して辱め紛らしたなが釈込も夫にひうかれて欲候 内に発し羅喉羅胎に処志耶翰其夜に孕んだと云ふし あるからさすれば是付釈迦は酒も飲み酒に依て淫欲の情 が起り耶翰を孕ましたこと見へるで山。自分もかやうのこ が有て酒はいたく心をも行をも取乱す物故五戒の一ツとさへ 立て厳く後の僧ぞを戒めた物でひ。又孔子も酒を飲たに 違ひ右論語ニ唯酒ハ無レ量リ不及ニと見へ但結ヲ酒市ヲ酒市ヲ酒市ヲ補 不発ばと云こしがあるから孔子は沽左酒なば飲なすで手作りを して歓だやうにもかへるでかひ。漢土で酒を作り初たは秋儀と云 女で其違いたる酒を夏の禹王へ梓が館した処か両王が大きに酔て 此は後世に人の行ひを乱す物じやわるい物を初めたと云て夫ゟ秋 一儀を疎み憎ん左と申すこしでむ。但シ此頃はじめて酒造り左と云は 如何是より双気に必有うと思はれるで人。しかし其ふともちれ 酒はかやうに善きことつ互に有る物に入あれ共其悪きは酒 の咎に非ず程能する時ふ尤比の良薬なるに酒を用ふる程の 人は誰も思ひ辞べき事其外いかなる良薬も過れば身の害とな るには云までもないでひ。其は譬へば穀物は人の命を継ぐ物に て食はざれば忽死する事なれ共暴食のみ為れは身を傷つ もの也又色情もなくてはかなわざる事なれば霞を過れば命 を亡ふと同じ理也身を傷ひ命を亡ふを以て此二ツを悪 物とは云べからず漢人も飲食男女は人の大慾存すと云ひ たる如く本よりなくて叶はざる事故に自彦霊神の御心と人々に其 性を賦して却生れさせなさるゝこしで也。怠ればこそ此二ッの道は 御教を待すして誰も自々知りたるは甚哥に妙なる物ではござらぬか 扨大穴牟遅少彦居都ハ今の凡人の心を以て思へば仮令くすおくす如く 霊き御業がおはしまゑ又御長命に生まし左るさも致せ疾ニ神 去りまし〳〵て今は世に御座すまいと思ふやうじやが尤神代の御興に 御見へなさるゝ国津神その中には御隠れ遊ばしたるも多く有 れ共天めニまします神々ハ申ニ及ばず国律神でも大穴牟屋 少彦名ノ命様などハ今の親に人の月に日候へこそ為給はねを 今の世迄もましますニ入春もないと罵衆は思ふ子細が不ゝるともの 溶漢ふみな大義に関る道の肝要なるしばかりながら其中にも 此等の事はとつくりと承知度さるゝやうに致したい物で人。いでや 其ノ今の世とても彼二柱ノ神の存在してきしますニ違ひないと 申す故は此少彦尾神の番世の国へ御渡なされ左と申去るこしが 幾千歳の神代の昔より云伝へきて其を古事記に御記しなさ れたる年が元明天皇の和調五年正月廿八日のこしで夫ゟ百早 五年後文徳天皇の御代齊衡三年十二月五日にまた〳〵此神が 御国へ入らせられたるこしがある夫は即文徳天皇様の御実縁に 斉衡三年十二月庚午朔戊戌帝陸国上言す鹿島郡大夫 磯前ニ有二リ二神新ニ降一初ノ郡民有有二テ煮テハ海ヲ為スレ徳ト者一夜半望メレ帰リ 光耀属ナリ天ニ晦日有二リ雨ク怪石一見一見二在ス水次一高サ急ク〵尺許リ体二ス於 神造ニ非ス二人間石一塩翁私ニ異シテレ之ヲ去ル後一日亦有二リ共余小石一 在二向名左右ニ一似レタレ若一ニ侍坐一ヲ一彩色非レ常ニ或ハ或ハ沙門一唯無シ耳目 時二神憑レ人ニ云我ヲ是レ大奈母知少レ比古奈ノ命也昔シ造レ造ル此国一ヲ於テ 去テ住二ク東海ニ一今為ニ済レ民更ニ民更ニ亦来リ帰リと仰せられて其翌年 天安元年八月二春神社を報廷の御社になされ即その大陸破我と 酒所磯前の両社がこれで延喜式の神名帳に名神大と有之 雄廷の大社の所に御加へなされた程のこしでし。但シ此内あかやこは 同く天安元年十月此両神を号二薬師菩薩明神一と云ふと云フ のあるは此頃専ら仏法の世に弘く用ひられ左る時分故僧共の 上へ申勧め奉つたる事と見ゑるでも其如く 御記しなされてあるさて〳〵是は欲かはし心こしでひ。神の御目を 我は是大寿母知少比古奈の命也と御名告あそばしたる社を 其真の御名を〆差おいて薬師菩薩と御祭りなされ左は恐 れながらめまらぬしでひ。但シ是ハ若ハ後の世の仏ずきな輩など が己が身分にせんと構つて国交へも延喜式へも竊ニ青キ入レ 左のでふないかと思はれるへしがある其レハもつと委く古写本を 考へて究めやうでひ。既ニさやうの例が吉田殿の先祖平麻 呂と云人は伊豆の国から出て亀じを得手たる者で凡春 上りつめたる位階も従五位下くらいで先祖も祥かならぬ 程の人なるものを恥て朝廷の御国史左る三代実録を板本 にする時貞観二年の処に神祇伯橘の雄臣永名とある文を畏べも 神祇伯卜部ノ平麻呂と書替へ吉田家此先祖の名にして板に 弘左る等のこともあるこれは先師も弁じおかれたる如くけしか らぬ事で候が右ノ薬師菩薩明神もそんな奸曲て為左 しかも知れぬでひ。何哉ともあれなんと此斉衡三年に昔此国 一を造り訖て東海ニ往き今民を済はんが為ニ更ニ更ニ又来り帰りと仰セ られて御座なされ左はこりやどうでく。各方は何と思はれます かさ此事を考へわたしても我が神代の古僧院のおぼろけ ならぬ事推及ぼして信ずるにも余りある事思へば思ふまた〳〵 一言へは言ふまに〳〵口にほく張て葛滝などは何共か共申やるも ない程のこしで実はぞの声するやうで制シて大穴牟逢少老名 ノ命の鬼〳〵妙なるにが知れ又今の世とても存在まします に相違ないかしが惚られるで人。神世に音世の国へ御入りあそば してから幾千歳の後麻衡三年にゆくりなくかやうのこじや に依て其府衡三年から此文化八年迄は纔に九百五十六年 ばかりにしかならぬり故こりや人間にこそしたくかの年数の やうに思ふけれども神等の御上では少かの間で有うから 実は天地と共に無穴躬々御座なさるゝこと思ひ奉るで心に 凡俗の目に入見へぬけれ共決して粗略に思ひ奉らず 希に己がつむりの上に御坐こと心得て医をわゆとする 人などは創して斎奉るべきことで候。扨神代に希世の国へ 御渡なされ左は少彦色の命御一ト方じやが此時の御託吉に 大奈母知少比古奈ノ命と仰せられ且御霊代の神石も二柱 にまします処を自けれは其伝はなけれ共其後いつの程にが 大穴年遅神も自く番世の国へ御出なされて有左が此時 少彦弁命と御風伴なされて御帰りおそバし左物でひ。又 一其御霊代を石に御遺しなされたる事是はふかき謂の有 こと見へて神功皇后の御歌にも石左へす少御神と見エ 一又延喜式の神名帳にも能登ノ国亀登郡ニ宿郡左ノ像 石の神社と申すもなる凡て此等の事共ハ猶委く細やか二 考へたりもあれ共あまり長〳〵なるに依て生りあら〳〵申すのでひ。 一扨古伝説に大穴牟遅少彦名ノ神様が禁厭の法をも御定めなく れたと有に付て思ふには世の医師などの絶へていたさぬりなれ 共御国の古へは本より諸越なども病にて多く禁厭を用ひ たゐて殊に漢土の医はもと巫禅と云てまじない等を為 者の度し始めたもあるでひ。其はまづ彼ノ国の世本又呂氏春 我説文など云書共ニ巫彭作スへ医ヲと云事が見へ此余ニも直 一極巫陽巫覆巫八巫相など云者が有て遅く彼の巫祝の徒 て足らは山海経に見へて郭璞[リ]注に皆神医也とある此は元来 禁厭はらひ謂ゆる加持やうのしを致す者ながら其まじなひ 一補ひの術を破て病を癒す故甚なほす処を指て医と云左物 ても其はまづ内経の賊風篇と云に云に生の巫は都[リ]百病の勝一ヲ先ツ知念 病ノ所二ク傑生スル者ト云フトトトトト一也とあるハこゝでひ。是ニ依て考へる時は 漢土の古まじなひで病をなほすのも其病の発る源の因る を尋てそこへ付入り気を転ずる仕方を見へるで心。されば 陰陽応象大論々治レ病ヲ必ス米二於本一ヲ一ともありまする扨又其晩 術をして病を斎し左る状はどうじやと申ニ漢ノ代ノ列向と 云人の緑苑と云書に上古の為ス医ヲ送ヲ者ヲ目ヲ一苗又一ト苗又之為ス道ヲ建テ 伐レ世ト臣ヲ為一序ト以レアカカヲ為リ狗ヲ北面而発スル十言一ヲ一ヲ一ヲ一ヲ一ヲ一リ輿 石来ル者皆平復成故とあるこれで大極の状かおし量らるゝ で人。扨是を到す者を巫医と云でひ。なぜなれば巫れで合つゝ 医を致すに依ての下でも。論語に人ト而無慥不知レ慥不可ヲ恐レ乍不恐レ一モと あるハ是を云た物でひ医謄と云書ニ巫医ニスレ唯是レ用記ニ 有二巫馬一即馬医医トヲ設冢周書ニ卿ニ立テ立二テ正医ヲ具一ヲ一ヲ一以テ備二疾災一ヲ備二疾災一 畜ヲシテ二五味ヲ備二百草一百草一ヲ一呂児ニ云巫医ハ毒薬逐除治スレ之故ニ古之人 賤スレ之ヲ為ス二其末トヤ後漢ノ許橋及テ王恭纂ヲ二位ヲ受ルヲ受ル世色ヲ為リ一至酉一ト 非レ匿ル它男一皆非ス皆非ス巫巫与レ医之謂一一素問ニ有二移レ精愛妻論一上古 之医必為ス二祝由一ヲ則所二以有ル二丕送之称一也ともあるで一。 ○扨是ゟ巫稚の業をば次にいたして薬を食すしを専と して真に片付て居る者もだん〳〵出来て周代になりては巫稚 は巫礼又医を為るさめに医と制に立て周礼の天官などを見 れば医師ときものが有て是は幸二医之政令一ヲ一ヲ聚テ其以ヲ其以ヲ其上 一医事一と云ひ又疾医と云が有て候てハ掌レ養フヿ二万民之疾病ヲ一を 記者あるとなりかやうに分だへて来たに依て以前の如く巫動 成などやうに頭々巫ノ宗を附て云事を止てかの近くは春秋の 左島などには医を業といたし左る者をは皆頭へ医家を そへて医緩医和などやうに云事と成た物でし。其後隋の代 と成て古へ御医も巫医も一。物でなるりの古実に依た物と身 へて尚薬局と申て医のつめ居る云はゞ役所へ聞禁博士と云ふ ものと晩禁生と云者とを置き尤是本医の次へ立て其呪 禁博士と云が暁禁生と云に覧禁祓除なこの事を教へて 病人ある時は医と共々に取懸つた物でひる是八角の六典と 申す処に具に見へます御国とても右通り二柱ノ神が医薬と 禁厭とを御始めあそばし左る恐れ古僧説もある程に 相別しての事其上御国の令の御制は多く愈々の代の制を 御用ひなされ左る物故此訳が符合と云ひかた〴〵似て直に 興薬寮と申て医者方の詰居らるく御役所へ詣越と同て杣に 一呪禁博士晩禁生と云を御立テ如そばし是は通疾令の御文 面又其義躬の言に依れば何のこともない聞文をよみ又は如時 やみしの事をして病邪を去り又右の神代御紀に鳥獣昆虫の 災を構はすが為に其禁厭之法を大名持少彦命の御始 なされたるとある通り春をまじあふ業を度した物でく。但シ 是は漢も大倭之上の御定めで其長間の医はどうじやと 申すニまづ漢士の医書では先刻十左る孫思題の千金方 又張子和と云人の儒門事親など云物は名左たる名医の 昔たる医家日用の書じやがかやうの輩も医薬と晩禁 とを兼て致したもので春は各々其書考二其晩稽の 一法をも具に記して有る是り甚た古の逆に骨つて呑るに でしけ。世の生校意なる人別して医者もなどはまつくかやうの へしをいやかられるけれ共そりや古を学ばぬ故のごと凡て病 は朝なる神の所業じやに依て薬にもしろ汐禁にもしろ其病 を療さうとて致すしは正き神の御霊依ルコで病に苦めら る人の倍じて是を受る時は其信する処が即直き神の御霊 の相応たるをじやに添て病の癒るも尤なりでく。薬にまじ あひの意あり禁厭に薬の意もこもつて居るで人。是は此間も 申通り或人人の腹痛に襟の垢を手えめて是ハエンリンノアンカン丹 と云奏じやと尋きよしに歎き与へたる処が其人大きに泣じて是を 呑ざれば其痛が即座に斎たと申しも思ひ合すが宜いでも。 一体の薬を用ふるには吹術から源入して胎つたつし故に何ぞと なとまじおひきみなかしがある譬へは粟の方へさしたる桃木の根 を手一束に切て煎じて呑とか又瘧のきり薬は一ト夜露に晒 して用ふとか水腫の薬を煎じる水は流れ川の水を流れな りニ汲むとかやその事共が計へもすされぬ程あつて皆此 通りにしてきつと験のある物で人。薬方豊の元祖たる復世論 にすら苓桂甘糸糸陽を煎じる水は甘煙水と申て貴びも杓を 以て汲上げ馳立してそれで煎しるの又は傷寒婦などの類 凡て大病を煩つて末はきと為ぬ内に男女交合をして煩つ たる者ニハ焼褌散と申て男ならば女女ならば甚交つたる 一男の褌のしかも陰所と近く汚れたる処を黒焼にして用ふると 発汗して直に快なる此は万条は一度も用ひて見たことはなけ れ共歴々の医者に武児人がいくらも有て何れも大敵を 得たる由をます骨也してある此らは偽言論にあるにもせよ禁厭 に違ひないかやうのことは医者方入何と心得て居らるゝか猶此 類のしが終日云ても尽し難い程あなしでひ。然らば病に は後じて晩勢下に為れば夢はいらぬ物かと云にさらでない薬と 呪禁と其験か互に似通ふ処があると云ふばかりて其器 なる事は譬へば敵を平治するに言を以て痛さすると兵を以て 服さするとの違ひがあるやうな物で人ツ夫ハ薬ニハ其気味に 一寒と温との性が自らに具いつて彼内経の蔵音法時論 ニも辛酸甘苦鹹各鹹各ノ有レ所レ利スル或ハ穀或ハ酸或ハ緩或ハ愈或ハ愈或ハ煎或ハ愈或ハ魚或ハ製或ハ鬆或ハ愈或ハ愈或ハ糸或ハ煎或ハ婆血 とある如く其能が違ふ故其いき処も違つて直にそれ〳〵の応在る 加へ射向て攻破り或が人々其身に固より有処の神気を焼けて 其邪気を追散すなどが兵を加て敵を挫ぐに能く似て 答る又攻撃の薬大量とか巴豆と力云類の薬を与へ呑しめ あとで和らかなる薬を呑せ又粥などを与へて補ひなどする も兵を挙て敵を服さ合たる後は又仁慈を施して撫安 凡するなどぐも能く似て居るでひ。○扨古は晩抔なでも病 愈左なれ共後ノ世となるに従て人心のさかしく成て児禁を 一信ぜす信ぜねば其験もなかつたる故漸々に其法も廃れて 扨今世の如く病は薬を以て斎すことのみ成て彼五蔵別 論ニ拘二鬼神ニ者ハ不レ可レ可レ与ニ妄二至億一ヲと云やうニも成たで候。然ば 今世に医師を業といたす人は世の並に呪禁などの法には 心を残さずして薬の利みちをのみ能く学ぶが過てひ。 但俗ニハ成持昨ひ禁法を甚だ信じて医者に薬を貰ひ又 修験者など云に祈祷まじないをさするも多くある其を伝 是やかましく云医者もあれど是は心狭く拒むべきこしでない 其が実は古への道の趣てひ。怠るを倭漢の籍に巫祝の類 を信ずる者には薬を与へずなどゝ申てもあるけれ共こりや古の 道を知らぬしてひ。其上彼等を拒むは何とやらん吾切 をいのり晩禁する輩に奪はるくしを思つてのやうで心も寝 く卑くも聞へることでひ。史記ノ扁鵲伝ニ信レノ巫ヲ不レ位スレ位ス医ヲ不レ治セ 也とあれば病家も此を弁へて両方共に能く〳〵信用すべきも のてひに扨忘れたり天野信景ク説に天台止観の七に云知れ 然レ巫フ唯解二一術方一ヲ救二一人一ヲ獲二シ一備ノ料一ヲ何ヲ何ヲ何ヲ頒テ一ヲ以テ学一ヲ一ヲ とり候ゆ私俗無草の医をやぶくすしと云ふもと言家の 諺かと申たが然もあらうでひ。○扨此方のこを医師 又医者など云は漢語て夫を御国の言て正しく云へばくずしと 云べきに其くずしと云はくすりしと云詞のりの字を略て てくすしと云た物でひ扨くすりしとなぜ云なれば医薬の 業を為る者故くすりしと云ふ丁ど弓を為る者を弓 師矢をする者を矢師と云と一ツコトでム。扨又くすりと 云妻は此は少たり共在の学ひを為て少くも古言のこと も聞覚へ左る人は医のする術また薬の病にきくこしはくす しく雷しき物じやニ依てくすり亦くすしなどゝ云有づ と誰も直に思付く事じやが此方の業とする事故に 馬胤が数年来考へた処がくすりと云詞バ一体貼る事の 古言と見へるでし。又くすりと云物は貼伝るか本で有 たる故にくすりと云名を令負左物でひ。扨それを古へはく すり亦くすねとも通はして云ひ凡て物のひたりと俗ニ云フ くつつくと云やうなしを云た詞と見へるでひ。今の世に定ね と云てひッたりと附物があるは過て古言の存て居るの又くすぐる と云語も体に指を摩付る状なれどが何にとやられ由ありげに 聞へるでん。本草和名と申するは延寿の帝時分に其薬密 の大医博士たる処の繰舞仁と申す人の即執命を蒙じて 撰られ左物で甚た正い物だ時に御まゝに漢名を石筆と云 物のことを和名スクナヒコノクスネ一名イハクスリと見へ和名抄に も此通り有ますが是レクス石ともクスリとも通ハし左る焼損 で甚すくなひこのくすねと云は即少彦命の薬と云しで諸の薬 が此外に故由のないと云はあるまいけれども其中に別して此石蒼解 をば彼神様が御用ひなされ左る物故に次の御代ゟ致してかやう に名を付け左物あ見へる又山名くすりと云名は此物は彼の垣衣と 云物の類で岩にひツ付き生ずる物故ち申す通りくすると云はつく るりじやに依て山石くすりと云云左物で有うで候。何れにもかすり と灸元と本目じ言とはもんへる〴〵ひ。又薬はつけるが本で 有左と申す故は是も自書に芍薬和名ゑびすか入り一名 ヌミクスリとある是ニ依て考へたる処が生ヌミクスーとハ呑薬 と云事で人に是則薬は貼るが本であつ左る故に其答で病 を廃す薬をば殊更に炒みくすりと弁た物でひ。肌を後には此方 がだん〳〵委く成て薬は大極呑しと成左る故に又殊更に貼薬 と云言も出来た物では。万事かやうに移つて行づねに愛らも有 るへしで人の薬はつけるが本で有たる故に古さ書にも薬はつけ左 に事実のみが多く有て善左こしはとんと見へぬ春は古事記に 一大穴年通ノ夷様が稲羽の之素竟が鰐の為に身の皮を引むく られて泣て居たるを不便に思召して蒲蕈を取て貼よた竹 られ左なしが有る是がまづ薬を貼る事の物に見へ左る始で其 後大穴年庭ノ神様ハ八十柱ましたる御兄弟のわるだくみに依て 一猪に似たる焼石に傷火をなされたる時神皇座異神様が 蛸貝膳と絵貝飴と云仰付られてきさげを集して母の乳汁 として御塗らせなされ左る事があるなどを思ふが過いで乙。実に 人情の上で考へても貼るか本なる駅かて一寸額などを物に あつけるとあく痛やと云さき何の心もなく自然の霊智でと やつて唾を付る此らが抑くするの本で是ぢ死めて余の物をも つけるしが出来た物でひ江も知れぬ物を口に入れて呑こむつは 先は豪味のわるく後に臨まりさうな物なるコを人情事実の 上に考へて見るが過でひニ扨又白く芍薬の和名をゑびす薬 と云故は見てゑびすと云語は命とは違て異なる物又命に 奉るしと違つて居るへしを古言に忍びすと云左もの則外国を指て ゑびすと云のも御国の人とハ違つて居るニ依てゑびすと云是は今世 にも其介バへの古言が残つて俗などをありやこりや二人の前へすへ るとゑびす俗と云ひ又紙は森合せたる物故に郷角なるべき処を 角に発残つて出張た処でもあると是をゑびす紙に云これも紙は 無角なるが易なる処をそれと違つて告るに依て忍びす紙には云で 此芍薬をゑびす薬と云もくすりと云物元来は貼る物なる処を 一名ぬみぐすり共有て是を呑すて病を痛す処が本の処とは違 りて居るに依てゑびす書と云た物でひ。扨御国でくすりと云語り の訳は其本の起原は是て粗々済まし左が其御国で薬を呑た る始めはと云へば其呑むこしは諸越から伝つ左ること見へる其 は古事記に神武天皇の様より第二十代男浅草宿祢命 則後世に允恭天皇様と諡号を奉左る天皇ノ御代に新羅の 国より金波懸[ニ]漢紀氏と候が参つて允恭天皇様の久章 御病を廃者奉左るしがある尤そこの文にて慥に召上ツたとは なけれ共事のさまを考へ見た処が壱時召上り左やうに見へますから 共これらを始と致すべきかでひ。なぜ又御円の盗人は薬を呑む薬を呑む事 をこまが付出すなりじやと不審が有りませうが実は是も御国尊言 処で上古にはさしも事にしき病がなかつた故で山ニ老なニ小家皆乱 して忠信せりと申古通り外国は国から要く早くから事としき 病も多つた故に少彦各命様も御心を入れられ其御奥に依て 彼国々の人は種々薬のこと考へ作り其術を早く委く委く成た物 で厶るこゝが神の妙へなる処で夫故外国かち渡りたる医書の中には 御国ではとんともんも聞も知らぬ病の療じかたが幾ら共なく 記して。智是をもよく思ふが過いで候。○扨又良で薬の始 まりは則酒で候ひ是を呑して上古は人の病を直し夫から弘め て草根木皮または喉とり獣何によらず薬に用ふしを仕出て左 物で候夫はまづ医さはの一字がやがて酒醴の類で人用礼 の天官酒正職ニ弁ス四歓之物一ヲ一ニ曰清二ニ曰清二ニ曰ク医ト有て貫公 彦が疏ニ清ノ体ノ清ク也医者謂二ヲ醸ノ粥ヲ粥テ為一ヲ体トヲ体と見ヘ又集約 と云字青に医は濁漿也ともある是は上古の世にはすつかふやらな薬は無く 専ら酒体を用ひて鹿を療治したる物故に其後色々の薬が出来 て夫を以て病を療す人をさして医と云こしに成召物で人。夫古 一重ノ室は上をば己をして矢ノ字と艾を青き下へ謂ゆるひよみの 一面を青くで候説文ニ医ハ治スル病ヲ工也以上也又一段ニ及レ国ニ改ハ病ノ志酒ハ 一所二以治スル病ツ也周礼ニ有二リ医酒一古へ巫一彭初テ竹レ医ヲと見ゑ又記記に 酒ハ所以巻四巻る也所以巻ヲ宿フ也と云に素問の湯液醪醪膠膠膠膠醴論に 政伯ノ日自レ古聖人之作ル二為涼錫醪醴ヲ者以テ為ニ備ヘト耳中古之 世道徳稍〱衰へ邪気時ニ至ル服レ之ヲ万全なりとあるこの湯流 と申すは清だる酒の事讐聢と云は濁酒のかしで厶。扨医の 字の目は即酒で候。又医を医と作は上にも云た如く古へ巫祝の 一徒なり医道を伝へて禁法を兼て療治を為たる故に巫 ニ及へて医とも書き其人を巫医とも云フ此も古へ医薬禁厭忠 兼左る證拠て候然れバ彼ノ土の医師ニ巫某と云が古代に多有 たる事も既に上に申た事でひ。扨又薬方の名を桂枝湯じや の葛根湯じやのと湯の字を付て申すのは彼ノ酒を病ひに用 るにを弘めて酒二草根木皮を漬し用ふること成たる故に 其古義を以て直に其主たる薬名を取て麻黄湯柴胡湯 などゝなた物でありませう此湯の字をたゞニ薬を湯に煎シたる 一物故何偽と云と心得居て居るは未思慮りの至らぬ給で有ちう と思はれまする 両世の中に大黒恵恵美須の像と申すか有て家々に乗り別て 田舎などでは厚く文なる此二柱ノ神の本語か慥に知れす是を考 へて申左る物もあるけれ共此が宜いかと思へば彼処でくひ違ひ 又せんさくが行届なんだり致して今其を一々論弁いたしては 一六分入りくれでならぬに依て人の説と合うが違うが一向構はず 万胤が考へ付て思ひ得左ることを以て申さうで今彼ノ 二柱の神は大穴牟遅少彦多命に違ひあるまひと思はれるでも 長ん日の爰ニも流々申通り此二柱ノ神ハ殊ニ世の中に御功績 のある神々で在たる故に先に申たる万葉集の哥ともや 其外の古青共とも世の中の事は多く此神の御始めなされたるう ニ云伝へ既ニ御記ニハ百姓至レ今ニ成蒙ル恩頼ル恩頼一ヲとある程の事故ニ 甚御恩頼を忘れず古へハ御家々二此二柱ノ神の御形代を斎き 祀左ことと給へるでひ。遥の田舎などでは御像をばおかずニ唯々 宮ばかりを置て其御霊代に幣束ぐらひを納て祀る処がある 是が本番のこしでひに扨甚宮の状は二柱相殿の形に拵へ其内 一方をば低く小サ〳〵拵へ左物でん。此は其大きなる方は大穴年遅 命ひくき方は少彦名命と云の意と見へるやうの作り 方は左まさか江戸にもあるもので候に扨是を大黒美すと申す 余はまづ大黒と云ふ大穴牟遅神の御一名を大国鳥神と申すに 依て甚大国主ノ大図を安音でだいこくと云し物と見へる此 を大黒と青くは例の仏者どもの所為で其は此大黒と云フ文字 は仏書にもを考へて見たる処が摩訶伽羅と云語を翻訳 した物で則摩訶と云は大と云に伽羅と云は黒と云字の 意でひ。扨此時のかきやらを天竺て武師の長共云ひ鹿に所 伽羅天神入戦闘の神也とも有て勇烈なる軍神と聞へ るでひに是を大穴名庭の神様と附会いたしたしたしたしたしたしたしたしと思はれる でひ。然るに又今一ツの諺かある夫は南海寄仏僧と云書に 西方ノ諸大寺咸於二食府ノ柱側或ハ大庫門ノ前一彫テ木ヲ表ス木ヲ表ス形ヲ 或ハ二三尺為ル二升王ノ状一坐シテトリ把二金嚢ヲ一却テ跪二小牀ニ一一筋垂レ地ニ毎ニ 将二油紙一拭ヲ黒色ノ為レリ形号シテ曰シテ曰二英訶伽羅一即チ大黒神也 となり呉戸依て見れば何かしもなく仏家の料理委の神の やうざ世に在る処の大黒とは形状までが小同大暑で人。尚 此餘二比丘大黒夜又大黒三面大黒又ゟ大愚王子大黒女など云も もかへて名が目じ〽じやニ依て何の異験それの利益と例の 貪欲なる僧共が裸をも此をも取上て勝手よく御評を存シ 左物でひ。怠るを又俗の神道石流がもと入仏者の強説とは 知らず又固より不孝文盲にて真の古伝をも知らさる故に 牽強附言かれこれ混雑いたしたなれ共其御像はこれは天の 下に弘く成て世にある通り可作り伝へて居る故に外二仕やらがなく 其侭あるかしと見るしでしてしか世てある処の大黒郡大国主の の御形を申さばまづ槌を持て入らせらるゝにありや元赤槌 でハなく此御国を御経営あぞばさるゝ村々御救あるきなされ たる彼侯弟ノ状の数百年以前より追て御形状の転じ 〳〵て其柄なんどをも短くして彼類振剣などをも思ひ前 せて遂に振らしく見へるやうに成り其内にて古の事実も念れ失 なんどしてとんと世の人もかけを弁へず実に槌ぞと心得てとはまとの 槌に造るやかりに成たしと見つるでし。又袋をかついで入らせちるへしは 大国主神様入鹿御口口の弟が八十柱まゑ〳〵其八十柱の外様が 八上姫と云姫神の家へ御通ひなさるゝ時大国主ノ神柳は其いつち 後に御立なされて袋を負て入らせられた古事を以てその世の 御預とも袋を背負せ奉つた物で人。又鼠の縁あるしは彼八十柱の御 兄弟の為にあぢきあく御いぢめられなされて豫美の国へ逃て入るせ られ共時に其予美に御座なさるへ額佐之男の神の御計大ひ て鰐火を御付あそばし大国主命も殆これは御こまりあそばし たる時鼠が来て内は宿家々之外者須夫二々と云て地に 穴ある事を御教へ申て其レに依て天穴年遅[ト]ことこを御のがれ 遊ばしたる事があるとこで此神は鼠を御愛しなさるへと云しも 申伝へ其から御祭り申すにも子ノ目を祭日と致すことは成た 物で自ちうで候頃。猶こゝらの訳委くは内念の時によろく分り まする此内徳の上に立て入らせらるたしは未左しかなる考へも ありませぬが何ハともなれ米を俵ニ入れるは御国ニ限りたるに 凡て外国で入米は嚢に入れるでは。米の稿を以て譲と為す こしは外国の人知らぬことで夫は毎も申去通り外国の稿は弱く力 なくて旅に作て米を入れるやうな強いしは中々出来八度御座候事 さすれば此俵に乗て入らせられるも御国風で入 扨又恵の顔ノ竹を俗にはとんと分らず或は伊弉那波伊那美 二族の神の始メニ御坐あそばしたる蛭子じやとも申志又事代主ノ 神じやとも申すがいかさま此二柱ノ神のゆ事の混雑せぬでも なけれども其混雑の訳をと申ては殊之外に入組でまゐるに 依て夫は前に委き考へかあるに依て追て一書さ帰立て世にも公 に為るつもりで候は。但世に祭る処は前に申す通りもと少さす 名ノ神様を祭つ左物と思はれるでし。其はとうじやと申に 彼ノ外ハ大国主ノ神様と御一処ニ天の下を御経営あそずし又 医薬の法および世の中の万のこを御始めあそばされたる 丁此間万玉な集の古歌その外の書をも引て委細に申シ 左る通りの事故古への世に大国主ノ神と並べて祭り奉つたる しで其をゑびすと申遣ては裾ノ神様は御影ちが殊に小さ く少彦ノ神と云御名をさへに御負あそばす程の小事故 其御形のいとも小サく坐ます処が常に違つて居を依ての事 で此間に通りゑび走と云言ハ何ニよらず事柄の命に違つてそ るを申その古言故やがて忍びすとは申伝へ甚忍びすと云からし て実は違て居るけれ共津ノ国広田の西ノ宮に坐まず蛭子の神へ をもゑびすと申すニ付て其ンとも混雑したる物と見へるでひ” この蛭子ノ神をもゑびすと云は此神は生れて三歳になるきで 脚おほ立たずとあるが外の御子等とは黒りて御子の列にも 入ざる故ゑびをと申すこと思はれまする扨謂ゆる大黒浅 大国白神またゑびすは少彦兵神なるし先日より申左る二 桂神の御事実と又田舎などこめる宮作りの状を以ても考へ なが宜しいたべし此等は万胤が考への及んだけを申す物の 猶よく及だけは考へて其ノ正師を侍るやうに度したい物で心ニ扨 ゑびすと云語は古るくはゑみしと云て衣のかななる処を夷狄と 白稀なるを厭ふてすは恵比須などく青く恵と衣とは仮字違。 なれ共此らは本より医人の所馬なれば強て論するこは及ぶまい です扨何に致せ世の中へ押給へての人別して医を業と為すは などは出九日の会に申たる事共をよく心に下て都夕に大穴牟遅少震 神の御霊のふかを乞祈まつるべきこしでひ。但し此丁もなま獲 意に神を信ぜぬ世間の人々は少々しくも聞受ませうが其レ幽 冥の道理を知らぬので善問に二向なうちのことでひ。何のしも なく世ノ間のことは凡て人事と云て人の為きたけを度したる上で は其力の及ばぬ処をば神の御霊を仰ぐより外のことはないでひ。 西戎人も孔子など入よく此を弁へて居り盃刺なども忘るいりは悪 いともいたせ此心バへをば且て。申て置たで人。夫までもなくかの人間 は人形の如く神は人形を使ふ人間のやうな物故人事と云へ共云ひ もて行けば其留りは幽冥の外ならぬことでひ。 一扨是は序じやに依て申しますがその世の医師方のみな我国の神器 と申たる王の霊をたなな事なれ共これは何ましも我国の事をおいて 外国に従ふ俗の習とは云ながら書らぬこしで候夫は貴彼神農 氏が百草を嘗たと云つの有るから過て医業を好きと云伝へ 左るを真のこと心得ての事なれ共此の漢土でも伝への紛れて 一年は神農氏御医薬の道を始たる人ではあいで厶。まづ神農氏が 百草を嘗て其道をはじめたと云て和漢の人がみ前漢の 列安が誰角子と云書引て證と為るになれ共此は知らぬしでひ。 夫ハ何ニと云ニ彼爰ニ自ルへ左る趣きハ古者民葬ニ竟ニ草ク飲レ水乗テ 木之実ヲ一食フ一食。気龍虫之内一ヲ一時々多シ疾病毒傷之定ニ於レヲ見ル神農 乃教ニ民ノ民権二種シ五穀一ヲ一相二テ土地ノ宜燥湿肥焼高下ノ南下ノ百草 之滋味水泉之甘苔一ヲ一合ニ一民知フ所二テ遅龍スル為ニ一日ニ一日ニ一日ニ而愚ヲ 七十毒にとある此は彼国の古へ人みな草を茹つて入水を飲み極薬の 実をとりて鼠龍等の肉を食ヒ国人それが為ニ毒ニ遇りなんどなシ てむごい死をも存したに依て神農氏則諸の草をかみ分け 嘗試て真中より五穀を始め人の口腹を養ふべき物を撰み 出し又土地の留きをもん立て春を植そだつること教へ此時 一日にして七十の毒に遇たと云しで此諸の草を嘗味ひたる 〽は人の食てもあたらぬ物を撰分やうが為にいたし左るこで 医薬を定めやらで度したしでは無いでひ。漢の陸賈が新 一語と云物ニも民人食ニ背ヲ飲レ血ヲ衣シ二皮毛ヲ至テ一ルヲ二神農ニ一以為ニ一一ヲ 走獣一一雑シ二以テ奏一民ヲ乃求キ二可キレ食フ之物ヲ一ヲ登ルヲ二百草之実ヲ察シ二 一酸苦之味一ヲ教一ヲ_一 ̄ニ五穀一とあるハ此一とあるハ此一 云はりやうのいさせから令負たる名でひ。文春一日にして 一七十の毒に過たと申すはきつと一日に七十度づく毒に過左 と申すで入ない此は唯数十度も毒に立過て嘗わきまへたと 云事を大数でかやうに申古ぶんのこと何も深い義理のないで 人。かやうの類は外にも幾ら出例のあるにで人。又尤も史記 の三皇本紀などニ断レテ木ヲ為レ神ト揉テ木ヲ為ス未ト未転之用以テ教二 万民一ニ依テ教ノ耕ヲ故ニ号二神農コト一とあるハ此此一でも。但此つぎ 文ニ以一ヲ一赭鞭一鞭二草木一ヲ始テ嘗二百草ヲ始テ有二医薬一とあるハ此三 皇本紀の撰有唐の司馬貞が新詮淮南子捜神記 などの文をく謬解して其たゞちに五穀を撰まんとして百 一年を掌たること医薬を焼すん為に百章をなめたる こと記した物でひ。神農氏が医薬を始たと云下の世に 仏まり左るは此国馬貞か謬かちのこしでひ。こゝを能考へ て神農氏が医薬の始ではないかしを知て医祖としてふ 祭へからざることをも考へるか宜で候。猶又医暦に其意 診農定スル二百薬一ヲ一者妨テ目ルユニ世本ニ一而スルニ邪玄リ月記ノ註ニ神農子俗ニ神農子俗ニ神農子俗ニ神農子俗ニ神農子俗ニ神農子俗ニ乏ン 術蓋ニ其説之来ルヿ為シ矣而孔叢子ニ云伏義嘗二味スルノ 在リ神農之前ニ楊朱ノ云五帝之事如レク覚ルコトヲ如レ夢ノ矧ンヤ於ル三皇之事一ニ 要レスルヲ不レ不レ可レ可レ知ル亦不可レシ而窮ニ而已芸爰私意ニ至テ謂フニ神農聞二戯語一而 知れぬ薬ヲ怪涙極実とあるをも思ひ合すべき物でし。又よしやうろ こしでは神岸氏が医薬を始メたにもせよ御国の神をおいて外国 の神を祭べき由縁がとうして有ませうぞ守屋の大建の云れた 汝ニ何ツ背背一日ノ神ニ帝二敬二死ノ神一也とあるへし又我が陰屋ノ翁の哥に〽斎く べき神等おきて外国のけしき神をら斎く諸人と詠れ たる事を忘れぬやうにいたし左い持で候ニ殊二大穴牟庭少彦 名神におゐては生廿日のく云より追々申す通りの事こり也医者が よりでハないで厶ニ誰とても殊に大穴半遅ノ部ノ様ハ今の現も 世の中の遊事と云て隠れて日に見召ず行はるゝては走 知着て入らせらるゝ妙なる訳が有て夫あら〳〵古道の大意に申たる通のりでひ。 扨医を為ス者ハよく〳〵薬を用ふるの海を学び直ク確くしき大 丈夫魂をもちて尤其は各鼻をも厳重にせねばならぬ訳も あるでひ。但此容貌をおごそりに致すしは俗の庸医輩の 薬を売かんとの計に門戸を張り容貌をかざるとは其事は似 て居けれ共其意は甚タ相違で候。実を云は〴〵容貌はどうで もと云にたいけれ共容貌おごそかならず度ては人が信ぜず人が 一位ぜねば自らに其術もはか〴〵しく行はれぬ物でひ。此は弘く人の 命を救はんとするの倍より出るいはゆる権道で此間左も申たる 医にまじなひの意もこもつて居るとは此等のことも。此事は 早く孫真人の子金方ニも夫レ大医之体欲レスレ十二騒神内禄二テ 望ニ三ヲ儼然ト実トシナリと申たは此レ篤気が意と闇合でひ。 一両人の病を悲むへしめ己のが一子の病を悲む如く病言に対シ ては古人も飢腐の種を捕んず心をなし大活魅を開 いて其病の根を捜し此病なほさず置まいと固く志を立て もノ度したならば神の御霊のふゆと我が人を活さんとする 一倍より練出たる術と病者の信仰と相合してなどか病 一の斎ぬと云丁ハあるまいで人。又かの秦ノ医緩がやうなに の今とても有るい物でもないで人。此秦ノ医緩がコトは左伝に 有て其レハ成公が十年の処ニ晋ノ景公疾病ト成二医于秦一秦伯 一使ニ医緩フト為一之ヲ未タ至ヲ公夢ヲシク疾為テ二監子ト一曰ツ彼ハ良医也懼レ 傷レ我レ我焉兆レ之ヲ其一ノ日雇ハ一ノ日雇至テ曰ニ一苦レ我ヲ何医至テ曰 疾不レレ為ク也在レ亡月之上言日之下一一攻レ之不可レ達レ達レ之ヲ不レ及ル薬不レ至テ焉 不二可為ス也公ノ日良医也ト厚ク為二之ヲ礼ヲ一而賜ス之ヲと云り世間の儒者や から心の人のかやうのことをバとかく泣せませぬがそりや又至て皆ぬ故 のごとしに甚レハこれまで浪々申たる哉と思合せて惚らそ が宜いでし。扨この二豎子のこしからして世に治し難き病をば売 育の病と云つのやうに成たでは何とぞ医者も此この処へ至る やうに心懸致立すい物でひ。能く神の御由縁又興に。医道の 本意と致す処を心懸古ならばかやうの場合へ出られぬと申ず でも有まいで人。とかく古人に聞怖して及び難いこしやと思て 居のはそりや例の自暴自棄でかの論語にも顔囲が舜何 人ぞや我何人ぞやと申て励み学び又古きんの語にも天地 日月を始め世にある万物古への侭と見ゆる物を人のみが古へに劣ら うずばないなどゝ申て学んだも有るでひ。とかく医は英雄の気 を逞しく尤若く壮健でなくては業のはか〴〵しくいかぬ物でひ。 伊勢貞文先生の温蔵秘策と云揚に中山三柳と云人の申左る言 じやとて医は四十前後より五十までが盛じや年老ては療治 なりニくゝ又薬もきかぬものじやと云たが尤なしじや年老て は心が弱く成て仕損じなきやうに唯病に障らず補ひ〳〵とば かり忌引れて大事にてとする故にきかず頭痛がするつ芎 胸の痛へ縮砂腹の痛み木香と云やうに何から何まで少しづく あしあつて薬は茶袋ほどニなり其上にちやぶみが多くて中々 療治ははかどらず唯一念に逢ひも尤く一文家に的中の薬を用 るべしなくは病にきかぬと云ておかれたがやなりで候。然れ共今の 一古方家と名のる輩の如く商状を知らぬ文盲医音坊が無面目 に攻撃を用ふるのはこりや。こめんなかしだがいつも申す通り薬の 一病にきく処の晩葉のく草味がある故あやぶみがあつては白くは いらぬ訳でひ。さすれば若くて剛気壮健でなくてはならぬ其レ を詰の人情でハとかく年寄て重くるしう見へる医を信仰 するがその医士がも声は時はよく致したニしろ彼諺にも麒麟 方老ては駕馬におとると云やうに業かすくれで来るから其 らをも考へるが宜いでん。沈て固より蒲医ならば年畏て 殊勝に見ゆるれバとて其レハ佛道の大意ニ申たる老犬の韃 も同じことで何の役にも立ハせぬ物で山に扨右に就ては孫ヒ其人 の千金方に唯証があるから此に挙て注解を加へませう 凡ソ大医ノ治病ヲ必当た安シレ神ヲ定レ神ヲ定レ忘レ忘ラ この安神と云は大切の人命を預るこし故何にも浮たるこしなく よく精神をかの気海の辺に安鎮して又定[レ]志[ヲと云は能く 其房の根拠する処を探り求めて此病はこゝを如此く攻て彼 処をめび〳〵ひしがんととつくりと方と縫と相対する如く少 かも手ぬけのないやうに見立て其へ一筋に志を握り定むるうでひ。 無レ静無レ来ルモニ来ルヿ共二大慈心一ヲ不問二貴賤貧富ヲ一ヲ一視馬二一等ト一皆処ス皆如一ノ と云は唯一ト筋に其病苦を救はんしをのみゑつて少かもおのかあ 歌を求めんなどの心なく第一に大仁心を発して貴いと賤いと貧 いと富とを構はず一等に視也又皆如二の至親一[ヲ]主親ノと云て其扱ふ 病人せばすくわか親妾子の病を悲心心く心得ろと云しでひ。 亦見レ二彼ノ苦悩一ヲ一若ク一己レ有リレ之深ク知ル二倭鎗ヲ一ヲ一ヲ一ヲ一ヲ一ヲ と云は病人の苦み悩みをもんてはおられ病で苦悩む如く 心得て深くそれ悽みあはれむと云こでひ。 一勿レ避シシ二嶮熾昼夜寒暑飢渇度首一心ヲ超救フ と云は其病者の許へ行か道のけはしくさかしきをも厭はぞ 又夜で有ても昼であらうと又寒からうが冒からうが 飢からうが療やうか労で有らうが自分のことは一向に忽共 ず一心に其へ趣いて救へと云ふべしでい。 一如レスル此ノ可シレ謂セテ慈二憫シハ蒼生一ヲ大医ト云 と云は右之如く医事を行ふ者はこれが興に蒼生を慈み 一憫むの大医と云べきはじやと云ことでひ。 反レ此ニ則チ是合雲ノ巨賊ナリ と云は上に追々云古如く二道を立るは眞の大意なれ共此に にして吉ならば甚含霊の巨賊と云ものじやと云の意でし。 さすれば今の医者は坊ども大かたは孫真人が謂ゆる食霊の 一巨賊で厶。なぜと云エ大抵の医者坊が不学文盲だから医 道の本意を知らず病状にも暗いに依て安神定志もなく 又利欲のみを事として眞の慈心はなく貴賤貧富のへだ てが存甚だしく人の病苦を見ては上辺こそ物のあはれ知り 鬼にもてなせ共実は何とも思はず或は多のわるい処寒いと き若い時なども己が為にさしもならぬ処へは不在を云たり 断を云たり不実を働くものが多い此が何と含異の 巨賊ではあるまいかと云左ので人。 扨右肩て序じやニ依て依の医者坊共の有状をあら〳〵 申さうが其ハまづ医を為す者は孫眞人も申たる通り其客 貌を厳かにいたして病家に泣ぜられ病の邪気には怖れら るゝやうに致したいものじやが今時の医者の仕さまは甚しいで ひ。其はたゞ名利名聞のことのみかけ走て真異かり出てな すことてはないに依て其容見をかぎり大門戸を張るのも拙者 の只今申す処とは身延が違つておのが潤屋の計にのみ度す事 て云はぐ体のよい真貝薬師でん。其此曲わる工をして人を欺き 物取[シ]だての巧者なる事医術の方よりは百陪もきして居 る此方も屋舗と唇たるみぎりふそんな委き訳も知られで呑 たがかやうに外宅い左して始めはしつかり此道を売うと存 じて弘く医者にも交つて見たる処が医者が誠に左んと有 て凡来が天狗しやりかうべ二今時の医者と云は武士の子なれ ば惰弱もの百姓なれば疎懶もの何人なれば商を為得ず職 人なれば不労用ものにて口過をしかねるこめが医者にでもなら うと云それを号けてても医者とてあたまくるりの長羽織 自ん工者座形ばかりにて露路も長屋も踊もすべるもそこら こゝらが犬の糞だらけ医者だらけ病家もめくら医者もめ くちめくら干人の浮世なればこれを呑もの往生の素懐をとげ ながら恨みもせねば気の毒なともゑはずあく悲しいかな文盲な るかなと云たる如くいや誠にあいそもこそも昼果た者ばかりで 其業のことは人の命にあづかる大切のこと故相応に学すでも居也 うし是しきのこしは知ても居やうと思ふ処が一向なもので今の 一古方家と名のる輩はやう〳〵吉益周助が傷兵論と金匱要 略の中からおのが気に入たる方を拾ひ出して植へ左類警 方と云柄をあま〳〵ニ心得たぐらゐのこと又後世家と云輩ハ 方彙ぐらの功ちッとつきたた処では津田玄仙が療治茶談加藤 玄順が医療手引草やその物を見かぢつて夫でもさすが二 今時は人が利口に成て居から人の侮りを物楽ぐ為と見はて き医書の名目ばかりは広く覚え其内一トひら半ひらばかりの処を 記臆なんどもして夫で素人をおどし甚た敷は夫も知らず彼 つ柳点ニ〽カゴへハ無点カナ付ハ内で読みと云ひ又〽唐本ハ 駕ニノル時バカリ入レと云たる如くづぶよめんで舒める面を して居るも多く有るがよめる奴も読めぬやつも大抵はたゞ 人をそらさぬとか云修行ばかり二身を入れて世間の人云手を はかり女や愚人の心に合ふやう〳〵とすることかりを勉めて 致し少しも鳥になりさりな病家への何でもない病にも日に 二度も三度も見舞て物の哀を知鬼にもてなし大小便 もなめぬばかりニ世話をやき年始暑寒の見舞は云に 及ばすふだん気伺候してきげんを取り遇くおのが出入の 家へ他ノ医者でも呼で薬を貰ふと甚レをそこいでわる く邪魔を入れつゝき出し春ハ但シ自分も出入る処故まづ夫レ と思ふけれ共人の行声の病家をも手を入れ足を廻して覗ひ 取り又或の組合と云が有て五人か七人の医者が申合せて其奸曲の 為やうなどが誠にかほどまでにも心の行届く抔かと甘心する へしばかりが多いでし。此は俗にも申す性は道に依て賢しとか 申すやうに学問の道に賢き人の梅道物を見てはどうして かやうに委く物を弁へてかやうに博〳〵味味をしたこしかと覗が つれどろぼうはどろぼうだけの愁恵が怒つて帆れほす やうなしがなり売重医者に御まいすだけの此ノ方の思ひも に付かぬ奸曲なる智恵があてたまげきるやうな巧がある此と は万胤がどうして知たと申すに先年市中へ外宅いたして 以来例の組合仲間にならぬかと申て尊滝をそくがし左輩 もおつて其組合仲間の仕組の様子をも聞き其かり及ぼして 其仕ざきや咄しのはし〳〵考へ合せて当し得たるうも有から 其内一ツ二ッの奸曲をやきば此は名をば申されぬが元知たる医 者の申すには病家二信ぜられんと思はゞ今日薬を興して 一昨日は少なり共其験の見へるやうに是非するが宜いと申 すからとう為るごと問たればかねて灰墨の丸薬を拵へて もし昨日にも成て急き大便が出たならば此方の薬の能く只 る験じやと云聞せおくと果して一両日の中に黒き大便をす るに依て始め此方の云きかせ左る通り故信仰する年になるこ こへ付入て高料の薬を勧めると云やうここれな類ひの巧事 がしたゝかあるさうで巳。とかく病人の末期と云処で此方にやう〳〵の 薬か有て此病ニ相応すると云とどすな貧乏宿の金子をも 得ちるゝ物じやと云しで人人の内には是非おふくろと云者か或は 女房か其家々におもとはのきく者が有ものじやが始めて行 てはまづ甚レを見つけるが肝要のかしで扨それへ参に入るやうに而 さへすれば宜いものじや共申す又組合仲間の仕やうの譬へば 此方の出入る病家に大病人でも有てとてもいけさうもない時は 早く用心して彼ノ行柳ニ〽トヾメラバ他人ヘユヅル巳力ゲンと目 立ぬやうに彼組合の中の医者を進めて其レニわたし互にほめ合て 死でも生ても恨のないやうニこれもつ柳ニ〽夢と云ふ逃道送 者は明ておきと有如く己がしくじりを押隠し又死でも生ても 其病家を組合の内で持て居て組合の外へ渡らぬやうに と夫は〳〵行届いて其計をする若ひかつと親類の動とか 何とか云て組ノ外の医者にでも掛ると表方は何くは女児に 一受敷あいしらつて断られてもやッハり日々ニ見舞ひ其内 深切がほみ持賞て組合の送者はを見舞ながちに自立し遠ま 八志二右の雑家から勧めて構たせををゝかしなしを為てつゝ き玉しとろ〳〵其病家を組合の中へ引古くり返すやうにする 此状がとんと一河内の犬がみな中益くして居る処へ他けの 犬の一匹も来ると寄りたかつて鬮伏るやうな物で犬は正道に わん〳〵云て喚込合が医者坊どもハ人しやニ依てさすが二噛合 はせぬけれ共やツハり犬の境界で候此方も毎度犬医者ども にかみ出されて覚へが有る見す〳〵此方の痛したものを犬医 者共に其功を奪はれたりも大ぶある何でも己が組合の病 家は外へやらず他医の病家れば色々と秘術を曰して取 やうニ取やうこと計るでひ。又憎いコトハ譬へば此方の預ツてゐる病 家が打懸ゝ画金でも有て其をとらすとするこは袖ノ組合 の医さりをやつていはすには拙者は平田か磐碁の才ツじやが平田 は殊之外にこちらの御病燈をおあんじ申て序に寄てもんてくれ ろとの頼故くまたとか云て委く様子を見て大造に平田を 称るさて云には定めて平田はかやう〳〵の煉薬ならねり薬丸薬 なら丸薬を用ひたらうと聞てん。そこで病家は今まで 用ひぬり故用ひぬと云そこで其はどうして平田がそれを用 ひぬつかと不審の貌をして譬へば白んにんの出んかん丹とか 何とか名を云てあの丸菜は平田か家の秘方でけしからすが やうの證によく可くとか何とか大造に称て晦日にも平田が見へ 一左ならば拙者がかやうに申左と云て其丸薬を貫はるゝが過 いなどく云て帰るそこで病家が此燈に大造きくと云し故しさり と呑たくなるそこで何くはぬ鬼で平田が行くと右のこを云て 其丸参を望み何とて今まで其を用ひ給は如〽じやと云へば 菜の毒げにもてなしてしたゝか高料に上る薬故申すもお気の 毒でなどゝ云然れ共病家では彼まはし物の医者坊がしこた まねて行左事故呑左くてたまちぬから高金をかまはず出して 所望すると彼の口ものあかを丸めたやらな物へ麝香ひを付け 金箔などを衣にかけてやつて黄金をせしめる此は互に候やう致ス 〽で真内にも按摩とりやはい〳〵一匹を少づくの合力などして 其らに色々くたゝき廻させる者も有るでひ。又近頃脈秧 刊誤附録を見た処が衝陽の羅氏曰今之医者毎々毀二 響シ角医一ヲ一ルカ二熱病家一意因二厚略一ヲ内二厚略一ヲ尤モ為ス不仁之甚一とも あればかちにもかやうのこしが幾らか有と見へるきて右の外にしも 終日云ても昼ぬほど医者の奸曲の伝受を取てその組合になれ と勧めに来左医者坊が有たが此方は何のしても聞ておけば善 悪片に心得になる故にだまつて聞ては吉左が心の内では其面へ咥 でもしがけたく成て尤此方はそれまであまり見識などを云た へしもないに依てやつぱりそんな類の人間と見立られ左のでは 一十二れ共貧くも万滝に向つてかやうの実ならぬ事ならぬ事 すぞと似れ果たでん。彼奴かやうの巧みにけしからず功者故 する頃此辺へ参つて大きニ流行ましたが中に此方の及ぶつしでは無イ 尤もよほど御大家の藩中で君より賜はる処も少からず有て 何空なしもない身の上ながら心はかやうに汚穢でたい。殊に内弟子 なとも有たが何を教へ左つやり何を有つたこしやりと常に 怪しく思ふにでひ。この医者坊が咄しに今の医者にかやうの 巧みそ為ぬと云はとんとない其許はそれを為ぬに依て貧を 為ると云左が何さま世間の医者をさてもさうかと思ひ合さるゝ こしが多いで也。病家も重病難病に遭ては多くは困窮な者 故に医師も成るべき古けは恵みを掛て療治すへき物で厶。然る に例のつ柳ニ申たる如く「脈ヨリモ足モトヲ見テ医者ハ兆>が と云たぐひが多く有て実に見るに忍び忍び難いかしでし。仮令 貧乏で一生居やうと逆をがはやるまいとそりや為方が 無い瓦と成て全きよりは砕けても玉がよいと毛並人さへ申 たものをさて上に申たる医者坊は三四年も交はつた男じや が其後は来てもろくな会釈をせず又行きも為ぬに依て 平向は時節かた知らぬかたくなはじやと申て居ると云こしで人。 但者此医者の名も斯も児もすはせつはり忘れて知ぬ人と成古で 一さて烏胤はかやうのことを見るたびに聞たびにだん〳〵医者 がいやになり又何ほど骨折ても辛労しても療治を為損シ たるしも有り殊に古道の学問は日を逐て急がしく成り 中々以て片手業に出来るこしでは無く故に医者はは左と止たりてし。 さて新の如く医者の風のわるく成たるも実は病家も又 わるいからのことも有るそれはちと此方の口からは申にくいけ れ共強て病家のお気に入て衒ハうと云気が無いかり 申すのじやが其悪いと云はまづ第一に医者を殊の外に安く 扱ふそれはとほと云て 門人云コレヨリ以下ハ ユエ有テ除カレタリ 19860 しで其力にて 山岸蔵書 府QO 志津能石室 志津能石室 下 志都ノ石屋一名医講本下 道大意 大叡土平田先生講説門人等筆記 さて人は学問の志もなくに逢のこと思ひ付んて居ると云ひそ りや論の限りては無けれ共医をよく見立るぐらゐの眼は具へ て居べきものて人。夫はまづ古人の語にも治レ病委之ヲ庸医ニ之ヲ庸医ニ之ヲ 不応不孝一。事レ親ニ者ハ不レ可レ可レ不レ知レ可送ヲト申たハ此事でム但シ此語の 義を送喜の術を能知らねばならぬ事じやとの語と思ふは宜シ くなく。とんとさう云事てはない其は何の事も無く此は奥の医 と候にかれに売詣医者と云事を書に能心得居て君や親の額付た る時にそれへ委ねんがたに兼て奥の医者を自利しておくやう の事を申て候但し其医者を目利する事は自分にも心得が なけりやならぬ其心得と云は道を蒙れて車情に通し成人 をゆりるの眼を具へて扨これは学問といひ療治の仕ざまめた 〳〵似て真の医七らシやと云事を身んて其上にもかの論語にも 云へてある通り其破ル所ヲ提其由ル所ヲ翻ト其名レスル所ヲ 察テまさかの時にそれへ委ぬるてんこれか興の道をたとなん ノ医者を吟味する心得と云物じや然るをさやうの心をも無く 君親の煩の時は本より自ら傾ニも唯々立派に門戸ヲ張て世 事を専らとして告るまいす医よりに命を委ねると云は扨こ外の 見る目も気の毒ども気の毒でみす〳〵死ぬまじき命を死に 重るましき病ヲ重らす事日々の事故熱へもすされぬほと 見るコテノいこれハ篤胤が革新らしく申す〽テハなひ 真は定めて素人方も聞及ンテも居られ可せらも医さる者の 第一と学ブべき法則にも度太つき傷寒論と申す医書 がある是は実に医方書の祖たる第一のめでたき抔で是ヲ 一著れたるが後漢の世の張機字は仲景と云員人て是 は我人ながらも篤胤が常に其御霊のふゆを蒙りて 一有に依て御国の神に次では。額ツき辞み呑まするが其 一著せれたる。場巻論の自序に右申たること懇に云ヒ 〽おかれかりでん是はとすと医や候ならぬ世の命の人を侮 された倍しやと依て出聞ておかれ候が宜いで人、その文に 一論ニ日ヘ余毎ニ覧テ二越人入レ就之診ト豈二觜候之色一ヲ 然ト歓二セ其ノ方ノ秀一也 一余毎ニ資スル或人云々之色一ヲと申すハ、張景自ヨリいつも〳〵昔の戯 一人と云人が親と云国へ行て春岡の太子を絵察度したるしや マタ斎と云国へ行て其国の君の顔色をのぞみ見て未然に 其病の起るにを愛したるつやなんどを史記に記し有事を 見るたび毎ニ慨然として麹人の医療の道に要才の秀てをる 事を歓息せぬと云てはないなつでも嘆息すると云つで人 此越人と申ふ則かの名高き名医扁鶴ガコトで史記に此人の 伝かある姓は秦と申し名をは趣人と申たに依て此にも越人 と云れたものごくん此篇鵲が或とき驪と云国へ行ッた所 が親の国の太子が死かわる所へ行き合せて扁鵲がそれを 診ななして此は尸魔と云フ病ひで卒に脈ノとぢて形の声 なるので、死だやうには見ゆるけれ共へ未死はせぬと云て、其弟 子ニ指図して一織をたてさせ、こゝかしさ慰めなどをたる処が 間くあつて息太子が蘇ツたと申すへしが有る仲景の 哉人籠に入れる時の絵と云ハ此事でん又或とき斎ト云 国へ行て其若桓侯と云を望見て申頃ニハ君ニ病ヒが 有て其病が今は勝理と云て此ノ皮膚に在ますがこれは 治せすニ捨おかれたならバ御邪気が深く入りませうとなた 所が桓侯の云には寡人は病がないと云そこで扁鵲が退出 したる処に種侯が左右の者に向て、医と云者は利を好くもの しや、巳ニは病もないものを、病があると云て、功とせうと することうたと云つで人、其後五日ばかり有て扁鵲が 又児エ干候君に病が有学する其邪気が今血眼にあるが 治せずは恐らくの深くなりませうと云左処がまた損僕が おれニハ病が無と云その後又五日ばかりもおいて扁鵲が又見 江て君に病有り勝胃の間に在ますが治せず二節おかれた ならバ深くなりませうと云処が今度は樋侯もよつぼと 腹を立て応へもせぬそこで扁鵲が外へ出て後又五日 計有て相俟を望見て今度は何もいはず卑三かけ 出シたでんそこで桓侯が人を走らせて春走り遅イた るゆゑを問したる処が扁鵲が云には疾之在ル勝理二也 一陽気之所レ子ツ也、在ル血脈一也、鍼石之所レ及フ也其在レ橋日目ニ 也、酒醪之所レ及フ也、在二骨惰ニ一、雖二モ司命一ト無シ二祭レ之ヲ何一モ下 今在骨精一臣、是ヲ以ヲ以テ無レ請也と云たと申すこしで ところが後五日計に着て桓侯がはたして順とついて そこで扁鵲ださがしたる処が扁鵲はもはや遠く斉国 を逃去て居らぬこれに依て桓侯が遂に身まかつた申す 「ガこれも扁鵲ガ伝ニ有る他景ノ序ニ越人齊侯の 色を望むと云事を見るごと二と云はれたは此事で人 ナテ扁鶴ガ氏ノ二ヶ條の事どもを仲我の見る度毎ニ滝 然としてさても〳〵扁鵲は医芳の秀たる者じやと 歓息せぬと云ては無と云の意でひ、朧然と云は自ら 一奮激して志を振起すのかたりて仲気の医の事に深く 志を振起したる心の内にも此事を記せる書を見て 一歓息せられたる有状も今まのしたり見やうゑ地戸致ぐら 性當今吾世之士曽テ不無神リ医薬ニ一ニ精二究シ方術ヲ一上 ̄ヲ一以ヲ察シ 君親之疾ヲス下レ以テ数貧賤之尼ヲ一中ノ以保二身ノ長金ヲ一以テ養其生一 一怪ラクハト申すハ仲景ノ意ニ候節ニあやしむ事で吉るて甚怪 む所は番今合世之士と云より砂下七十四字を連ねて論せら れたる趣で商す居世之士とはつち〳〵今の世に居る人の状 を見ること云の意で心○カツテ心を医薬の道に留めす医 方の纓を精く究めて上ハ似て君や親の疾を癒ざう とも思はす下は似て八員窮下賤の者の病を救ふうと も致さす中は似ておのが身の長く全きを保ちて 巻生せうとも心が此頃と云□デム、但シ仲景のこゝの 文では世に居る程のもの誰も〳〵医術をば学ぶへきこ じやとの音と見ゆるが実に世の人が皆此通りにしづかりと 一医道を営ふならば夫ほど結構なりはないけれ共なまなか二 見かぢり聞へりくらゐの事ならば甚は俗に申すなま兵 法大疵のもせ給とやらきつく御免なりぞく今の世に もまく素人が少ばかり医書などを見かぢり誇てと かくちよこざいを働き人に余を興たり或はその家内が 煩ひなと愁の事をしてゐそんじ跡でかゝる医者に尻を 拭かせ手こづらせるやうなりが幾らか有ルまたさうな い所が医者の薬に非難を云たり少か計薬種を見 覚えたぐらゐでも臭く医者の薬なとをあけて見テ ちかこさいを吉たがり大き二人の惑を生[シ]させるやうな 事がいくらか有る又医吉の方でもさやうの人ニはどうも薬は もりにくく伸てとしたる処治が出きぬものじやに居て こゝらも置く考の有べきこしでく。何にしろ人に薬を 貰ふからは一向無作に成て任すガよい是は此方医を業 と致す者でさへ家内などの病人には自分で療治の任 みくいつも有て心安き医者に委ぬる事もまくあり ますが其時は何をもるやう一向に構はず任せておくで ひ。さやうに任せあく程の事故兼ては其医育の仕込を バシヤント見届て置た者へ頼むで人素人もその如く かの始に申たる通りまさかの時ニは頼まうと思ふ医を見て 兼て目科しておくが磯つち宜い夫とも医の道を具の 奥まで学ひ尽しておあふぞならば夫御それ程宜いつ は無けれ共そりや容易に至平ず迚もなま柄知でおく ほどならばいつぞ医者の目利をする事ばかりを心懸るが 過いで厶。 但シ競テ逐二ヒ二学企二テ権豪一ニ一ニ孜々汲々トメ惟ノ名利是務メ 此意は古申左る通世に居る程の人が唯我も〳〵と身のいき ほひ栄ひばかりを逐ひもとめ権柄を得やうの宿貴豪 家にでも成給らふと云つにばかり孜々汲々として働きやま ずたく名利の事計を務として居ると云事ぞん 山宗飾ノ其末ヲ而忽二棄ル其本ヲ韻ヲ歌ノ華クト云其文一ヲ切悴二其内ヲ 扨右の通りニ世の人の人ガ主親ならびニ自ノ命ニかゝる 医薬ノ事をば麁略にして名利に計り謀つて居ると云は とすと其末そかりを崇メ飾て再ひの其本をば忽に捨 おくと自己コまた春本ばかりを美はシくせうと欲して 一春日をば弱うし衰へさすやうな物じやと云ふのごとて 卒然ト遭ニ二邪風之象一女二非常之疾一ニ盡一ニ悉及ヒ禍堅リ而方ニ而方ニ而方ニ而 降レハ志ヲ屈レル節ヲ欽二望シ巫祝 ̄ニ告テ帝ヲ帰レ天来テ帰レ天来テ年ヲ受ク敗ヲ 扨右申たる通りの不心をな輩が卒に傷寒とか熱病と か云邪気にあたるか世の帯ならぬ大病ニても煩ひつくか してかやらの患が身に及ごかやうの禍か至てから始メて 恐れ震慄き腹を冷してこゝでハ日比ノ栄勢権豪 の名あさわぎもどこへやゝり其高き志をも低く降し 立たる様をも押屈めすまでの大きな鬼も止めにして 〽殊れで巫礼の輩をたのみ其苦させ天に告て祈祷 などをしてとんと手を索て敗を受ると云で人。敗 を受るとの即チ医方ノコを知らぬが故にかやうの愚な事 をして命をしまうと云の意てひ。 一戒間二百年之寿命一将二至貴之至貴之重器ヲ委二付ニ凡恣ニ一其ノ所二ヲ措ク 上に申左る通りの不心懸の輩が其期付た時ニ成て又或ハ春 大切なるよくすれば百年も生べき寿命至て貴き命と 云重〳〵大事の道具をバ凡医と云て云はゝよろくそな医者 二委ねて其つまらぬ医者坊の仕しだいに任せておくと云は 一両方〳〵医の名を知らぬと云ものは苦てしくあふない物者やと云の哀と 嵯峨一殿身已ニ智永次ノ自自戒ニ被及テ異面ト申 咄嗟鳴呼厭身已ニ斃レ斃レ神唯消滅ニ変ル事一異音二異物一ヲ 徒ニ為ス啼泣ヲ一テ一癖 此如くあくと重ねて云はれたのは仲我が殊に深く右の事なと 飲かわしく悲〳〵息はるゝ心からきつく歓息してかやうに 重ねていわれた物でん。物右の如くよろくそ医者に任 せたり或は巫禅などばかりを便にして表つてとすと養生 か叶はず其身が死左なれて神呼消滅シと申は死んで 魂のぬけてしまつたるに変シて異物と尽ると云ふと んと死骸と成たる事を云でん。お常の心をのわるい故 二死まじき命を死んで重泉へ踏まり行てそこで 徒に啼泣むと云は扨々痛しい丁じやと云ことで也。此重泉と 云は史記や左伝に謂ゆる黄泉のことでそれは即我国の古き 伝説に夜見と云国のへしにて仕レが人死れば其魂はみな其夜見 に行と云つのある故でん。しかし重泉と云つほの春に例の 白きしで此はやづおり本は黄泉となりたる処を黄ノ字と重 一字に形が似て居る依て依て写て誤てませ伝へ左のでか無心 かと思はれるで人。但し此身たる人の霊の夜見に行と云 は古くよりのほでは有れ共実は誤りなるし曽胤委く 考へ明して霊能眞柱と云を著シて己が事長さゆへに 一爰にはまをさぬ其春につきて見らるくか宜い 一総中世ノ春莫ヲ能ク覚語一ヲ自ノ自ル省ル者ル是依レ何ノ学勢之云共 世の中の人が推給べて右に段々申す通りの事を思ひ語は致さ 凡て筆勢名前にのみ迷ひはてく自ら有れで居ると云は これが何の栄勢と云もので有らうそ扨も〳〵歎見しいつ じやときつく歌息せられ左物でひ。扨々仲草の此文を読 味ひて見ると戒の昔も御国のそも思ひ合せて実にあゝ あくと仲我の云れ左る事身にしみ〳〵と思ひ知るに が有旨で〽][ニ]扨此以下の文も甚た心得ニなるになると がらこゝには姑く用無き事左さしおいて但シこの傷寒痛 の清に結構なる事にて医薬の祖興なるに付ては和漢 古今の人の故解の書ども教へも尽されす多くあれ共互に 得失有て一向には視かたいで山音胤それを為と参考折裏して 其主文を撰んで儒巻論考文と云を綴り又其注解をも著 して追ては世にも弘めやうと存ずるでし 扨此序にある扁鵲が事に付て俗人が耆婆扁鵲に一口に云て どれがとうと云コを知らず脊婆扁鵲と云ハ一人ノ名じやと 思つて居る人さへれつきとした人にもまゝ有るからこの二人 が訳を略々申サウまづ扁鵲と云は右申通り諸越人で目の 代の末に出た人で人。此人に付て己が考へたる諺かあれ共こゝで 云ては混雑する故まつ差置ませうさて耆婆と云は天竺の 者で乙仏節奈女耆婆経と云ふ鱸が有て夫二広く其伝 がある其あらましを世俗談に申すのじやが其母を案女と云こ 又を萍沙王と云ふ李今と云由は春天竺の雛耶離国と云国に 一盃しき索木あり其華の中より生シたるに依て家女と云 年十五に刃れで容貌端正なる事天下に双なく此に遠方に 聞ゑたる故に七国の王互に足るを得す事を挑みたるが其うち 一羅閲袍国の萍沙王と云が共に宿するこを待て男子を 生だてん此児生るゝ時なの中に計も薬嚢とを抱持て 生れ出たるが木より国王の子にて医者の器を持たれば 必是が医王デあらうと云て背婆と名けたと有でひ八歳に 至て聡明音才学問たぐひなく古ななれ共家督を辞 して専ら医術を学ぶ事を願ふに依て国中なる医者 の上手をすして教へさせた処が有ふのみならず誰も解し 得ぎるむつかしきこを悉く研究して却而師匠に向て 難問する処が孰もとすと淵口したでむ。是。依て評判が高く 成て多く療治する処が皆癒左と云こしでん。身に一人の小児の推進 擔ひたるが其賤中の五猟の胃が八才明に免工るから考へたる 処が本草経の説に薬王樹と云が有て外より内を照して 人の腹臓を見ると云事が有る故に此小児か檐ひたる揺の 中に其樹があるでちらうと思つて先其槍をみしな買上て穿 云くした処が果して此中に甚が有て小き枝で裁に一尺余で有古で ん。扨是を始て照せば腹の内が興に来ん相るゆへに薬王なる事を 知て大きに弄び春余の橋をば小児に還し与へたれば小児も 一一壱匁立去たと云事でん。扨是より強ます〳〵諸方ゟ 頼まれて虚偽をするれが国の中なる逃籠越と云て身上も宜しく 一又逆をも学んたる者がある其家に介が見て年十五になり嫁すべ き日に臨んて忽に頭痛を病で死たで人。そこで其故に行て 問左処が幼少より頭痛もかで有左が今朝云々と云耆濃州 薬王を以て悲しめたるに頭の中に刺霧大小数百頭生じて 一其脳を食ひ食すしたる故に死れ居てひ。そこて金刀を以て 其頭を刻砕て悉〳〵其虫を取出して朋尼中に入れて散あれ 其跡へ三種の神膏と云て三色膏薬を塗るでん。其一種は長銀 の食傷つたる処を補ひ一種ぶ脳みそを生でませ一種は其金刀 一瘡を信すでひ。存七日左てバ癒ると云両親は初め甚た軽 れ右が倍に其通り七日めに息を吹出してとんと臥たる者の 目のけん左如くでんそこで彼教をおれたる虫撚を出して 如此じやと云て見せた所が大に驚き耆婆を神シやと云て 怖れ喜び此御恩の館じやうがないから生涯婢となつて仕へ やうと云たと云へしてひ。此後維耶離国ニ行左処がそこ二又逃 羅越の家が有て一人の男児あり此児武芸を好み七尺餘の 一木馬を作て乗有つる処が過つて地に籃鱗おち足を折いて 死たでん。耆婆是を聞て行き例の薬王を以て照して腹中 を見たれば其体が及戻つて後向になり気が結ほなれて通 せぬ故に死んだのでひ。又金刀を以て腹を破り手を以て料理なす 肝を選して赤に向せて三種の神膏を以てそこに塗る一種 手にて攫持たる処を補ひ雇は意息を通しませ一種は 刀瘡の処にぬり付て此侭に動かさず三日出けと云たが果して 三日目に生返つたで人ツ一目大消して此児も耆婆が為に一生召 使の奴とゐて再活たる恩を報じやうと云たと有が此外にも 寄て妙ニなる事があれ共こゝニ述がたいから委クハ耆婆経ニ 付て見られるが過いでひ。扨又翻訳名義集是見れは昔 婆此ニ云フ能結一ト又云二ヲ故結一トとも又兵ツ命トとも翻レ生トなどは有を 思ふに耆婆と云ひかく人の難病を治し死を活し寿命を保 夕せる故の名てどうか良医の通称のやうにも聞けるでひ 俗人の善く云言に学医は己が思らぬと云へしを申すが此は一通り 尤なやうなしの大き二行違ヒな諺で番らぬうで厶に夫は 俗に学医ともてはやされる医者を見るに真に真に医学のある ほとてはなくて彼素人か学問しやと云ひ立るを何のこしかと 思へき少か漢学をして諸越の男文字を生かぢりにかあり流 で隋文章をつゞくり覚エ手跡はいはゆる唐梯をひねくり 包紙の上の爰にかく殿と云字を丸く青くと夫を壽人は学 酒と心得て居るでひ。医者も又実ハ医学ハさしも面永くなき 上に医学のよきかあしきかは素人には知れず唐風の手形を書 一詩を作る方などは俗人も大揺わきまへて居る故に夫は医学の 方よりは人の目に付くに依てやつて居るのでとてもかくても 人を救はうと云実意から根ざすこしで無くたゞ門戸を 賑やわし潤屋の事こをせんとてする不実から根ざす 処の修行じやに依て医学と漢学間とではこくに損得が ある夫故医学はせず漢草を少かして夫で素人をおどした ものでし。素人がこゝの由鶴をわれまへぞ春人おどかしの生から 学ひに歳されてさこそ医術もよからうと思つて病ひを委ね る処か覧はつり聞折りて薬方を問ひ〳〵用ひて間を合せる でひ。尤も真内闇宜のつぶてまくれ暮りに病を治すりも 一有り又本より薬に及ばず捨おいても治るのも有る処を大抵は軽 き病は重くなし重き病を恐しく者有其中に彼唐やうも書 けず詩文も少変ず中ニハ大黄の月印ニ閻魔をかき陳史ニハ 犬コロノ火にあたつて居る形も画やうな文盲で素人も不学 なものと日比は免貶してゐたる医者などがひしよいと春 病をなをすからそこで尊医は己が廻らぬと俗に云やうに 成たもので人に抑不学な医者は唐歌や詩文章で人を 成す事がならぬから文らは手柄をして門戸を張らうと云一心で 医術を修行して実柄を相手に仕馴て自然ニ病機の国を 覚へけつく医学の巧はかの殿ノ字を丸くかく医者坊とも より勝つて居るで也。実意から根さす魚の医学をす れば己の廻らぬと云事は決して右道理でん。夫の諸誠では彼 張仲景はもと医者ではなけれ共傷寒論の自序にかいた趣 きの実碁から医学をして漢医の元祖神医と云るゝ程の 名医で其匕のまわるには傷寒雑病稀に記し遺された通 に一々後世の規定なるこばでし。又御国の尊医と呼れ 左はしたゝか有が中に北山反根子などは春洛後が多く後世ぶり では有くなれ共其乞の回る事は其著青の老桜に偽のない処で 呼かで人。こゝらを良く考へて真の孝医を見つけるがつけるとい 其真の学医を見立るの心得は家に申たる如くの訳でん。結 一越人史山松稷印と云はの語ニ夫留医ノ者ハ在レ医ノ者ハ在レ疏二 而不一能不能レ至リ万事ト有リ候者ト有リ不読。而能為ス医ヲ者一也と申たる にもあれど真医学をして療治のそまく出草ぬとならば夫は よく〳〵の不器用せ云ものでん。扨御国の御事はいつも申す通 万国の本つ国祖国たる尊き御国故人心さかし立たず大らか なるか故に何事もあなかちなる落ごと説ごとなどを度さす 安育かみして言挙もせぬ御国なる処が医薬の色を始め其外 器械瓦拍枝巧究理の書なんどの専ら用を為スものは悉く諸 の外国ゑみしの国により棹舵干さす舟辺つづけて貢本 棹舵干さす舟端つづけて貢奉 りてとんと御国の労きの無いやうにさしも望みはせぬけれども 一怠り来る状をつら〳〵考ふる所がとんと君たる人ハ上ニ存存して下万 民より種々の貢調を奉り棒げるやうな状でひ。これは尤かやう 有へきすじで甚大本は天照大御神連須佐之男ノ大神の菱御魂 八十禍津日ノ神の知シめし次に〆大名牟遅少児古名ノ大神の御掌 とりあそばさるゝ御事なる由は弘ク神典を参考して定めたる 〽じやかけてより及すでなほ深く考ふるにもろ〳〵の外国ともは凡て 御国の為に参り御造りなされたので有ちと思はれるこで也。此事 は古史伝霊能真柱をはじめ古の大意講説の時にもほゞ申 たる事故に爰に委くに申きぬ此御実に何事を有ても第一に心得をる べき事じやに依て右の書ともを見て衆くとつくりと弁へ置れるが 宜しいでん。さて其外。国より奉る種々の中に医薬にあづかる類 〳〵は追々申す通りの訳故別して御国の用を為すでひ夫は 尤も善いこを撰んで取るが宜いが春うちに西洋人の解体の 事をよく明らめておい古を見て帯に体の中はかうした物と 云しを心得るが肝要で病の発るその原を知らねば療治 は成がたいでん甚つねを知て呑れが真に違つて吉るが病と知れ る事じやが夫故や洋人は少し黒つた病で死凡だ人は必解体 して見るでん。扨春解体の趣を知るには医範提総解体 新雪など宜くまた凡て治療の心得となることは内科権愛 など至て委き持で人。しかし此等とても必にいとばかりは申 がたくやはり揺んで取らねばならぬが今その大概の処又勿論占伝 の趣をも参考いたし又暮胤が自身慥に誠みて心得て居る趣 とを以て少力人の躰の訳を申さうでん其はまづ第一に魂と云 ものはどこゝどうして呑る持しやと申すに尤此は古人も水牛の堀味 色裡の膠青決定として有るなれば春形を見す心王も又 然りと申たる如く水の中に混つてゐる塩や綾の具の中に交 てゐる膠はきつと有こは相違なけれ共其起が見ゑゑす人の 魂のからだニ在るも丁とそんな持て捕まへ凡とするに形も なく又見やうと歎ても見へはせす人の体に随論して吉る 物ながら其うち頭首の破鰭が本て此配鰭と云はどんな物 じやと云に近くは馬の頭給とを潰れ藩桃色のべそ〳〵したる 物が有て俗に悩みそと云ものが夫でひ。これがつむりの中に 一ばいに有てそれから脊髄と云て脊骨の中にも充てける 持で此に霊液と云物が有て真中に自然に魂を含んで居るで 扨その脳体脊髓に尽く枝がさしてさま〴〵の細密なるへ行 ては倍に毛のやうに成てそれで体中を織成て近く云はゞ 一餘瓜の筋の如く体に存論して居る物でひ。即此筋を升経 と云なぜ神経と云ぞなれば人の神気即魂を含んでゐる異流 の往事する経と云のこゝろで神経と名つけた持でて。此神経の本は 即頭首の謂ゆるぶみそと脊骨の中の鰭とは大で此升経に 含んで居る霊液の発明に依て事を分ち物を弁へらるゝ 〽でん。春はまづ眼球と云ものは魚の目玉をつぶして見ても 知れるがこれと物のやうな水で人水じやに依て名々の抔の影 が移る甚うつゝた所で其を尽く神経が取鑿て居るに依 て此は何ぞと弁へた物でん又耳の音を聞く訳は丁ど此耳の 穴は近く云いゞ羊螺じりのやうに成て其ゆき留たさきは神 経か豫論して譬へば鼓の皮を張たやうに成て吉良依て 何によらず物の音が耳の穴へ入て夫へ郷音と彼外経で其音 をそれ〳〵に聞き弁へるでし。此木くらげを見たやうな抔 もこりや謂も無く有て居るのではない此シハ物の響を此レへ受て 耳の穴へとゞかし聞せんが為に付て吉る持で心。夫故耳の連 い人などは此上にかう手を着てきくと慥に聞ゑさうないんでも かやうに手を寄て聞けば唯はきこゑ難い物の音も聞ゑる 物でひ。此ば春麺音を大きくしてきく故の事でも。凡て体の 中に不用な物とてはせんと一ツも無い此木藁のやうな物も 何の為にある物と云事知れぬやうじやが実は此訳で付て居る てひ。此外に鼻で香をかぎ口に味ひを知るにも皆是に準 へて知るが至いでし。扨脊骨の鰭から幹のさして吉間神 経は臓腑へも行き手足凡てからだ中へ存論して其レが血 一絡とおり重おつてかやうに賊と成て居るに依てそこで熱 寒いも痛い痒いも感通したものでひ。扨神経と云物は 右の如く奇に妙々なる物で熊中至らぬ所なく充では居るけ れ共其大本はつむりの脳みそが魂の舌以で夫故に人の躰た二 取ては頭首ほと大切な物はないじやに依て解体して見る所 が頭首ほど堅固になつて居る処はなく春はまづ彼怒鰭を 薄りい物では有けれ共膜と云て此しからず丈夫な物で二重に包み 扨其上を脇蓋と云て裏と表と二重にかさまつて居る骨の厚さ 一寸二三分余もある持で手強く囲つて扨其上を厚皮のしかも 大さう丈夫な皮で包んでなほ其上にも大切にしてかやうに髪 の毛を生して団つち物でん。府中どこても此しからす 丈夫な物でハ有けれ共此頭育ほと骨も皮も手厚く丈夫な 処はせぬでひなぜなれは人の神幸の本の居る所じやに依て の事でんに此[ニ]は西洋の人が千数百年辛いく百人の人を解体シ て事実に実物と二徹して精密に考へ其理を極て書に記し 伝へ其青を読んで又此方の人も事実と実物と照し ざんみこ吟味を重ねてとつくと穿鑿しつめたる処が 相違ないかでし。尤諸裁の人も委く人躰を披き見て 真理を究めて云たでは無れ共闇揺ながらまつ古くはな 間の作要精微論ニ頭者精余之庵シ頭傾キ襟ノ「孫長神 一将ニ奪シム失と云ひ傷寒論の異本金匱玉匱玉医経と云物に随は 身の元盲人身の注する所也と云事が云てあり又本草備要 と云物ニつ之記性皆在二肥中ニ一小児脳未レ満ルテ老人脳漸ノ空シ故ニ 皆健忠愚息ヲ。凡人追憶シテ狂事一必聞レヲ自レヲ而思二索ニシ一。ヲ 即チ凝ス神ヲ干服一之音也といひ又医学原始と云ものと云ものニ人の一身 五碗ヲ蔵二テ於身内一ニ一為二生長之具ト五官居二於身上ニ為シ知先 之具ト耳々鼻娶ル於首一一最モ顕レ最モ高シ便血ニ拘接ス耳目口鼻 之所二道寸ニ入ル一最モ近二シ於遐ニ心一以レ脳ヲ先ツ更ニ受テ其象ヲ而覚レ之ヲ右ニ寄ル 定ヲ石メ割レ之ヲ而ク存レ存レ之ヲ故ニ云心之記ト正ニ記スニ躬ニ一身ニ一耳とありこれハ美 によく云ひめてたことばでん。かやうの訳故凡て人は腕や 股から切り落されてもめつたに死なす能療治すれば死ぬい たさぬ物で人首は夫よりは小さけれ共切られては勿論の事 切落されぬ所がつむりを打こわされ尤右の通り他者は大夫 な物故めつたに辟かれるつは無けれ共ひしよつと砕けて少か にても脳鰭へ疵かつくと人は直に死ぬものでも但し記性ハ 一腮ばかりてなく胸とつり合てなるこは勿論でひ。又稀テは 不測なしも有もので夫は五雑俎と云ものニ首を切られて も死なぬ人のこを記して水を呑りとゐたれば首か知力 つたと云こしが有る此らは変なしなれ共心得ての居るが よいでん。扨又人のこみ入つた事を考へる時自をねむつて 考へるのも頭首へ縁み候を凝らし神言世を集める訳で 知らす〳〵さう行くことでん川柳に〽身のうちの智恵をさ かしこ目を塞き。と申たが能く云ひ番古でんこゝらの訳 をなほとつくりと会得するがいゑいでん。 扨是て粗に人の神言子の元の吉所に脳精で夫から歌経と 云枝がさして県中に存論して寒熱は痛痒を知る訳もはきと 合点のいつた上で甚脳精と云ものは又とうして出来た抔じや と云に春始めはまづ父母を受て生れて出てその生て後に心の 蔵と申て血府が有て此心の蔵の訳はあとで申すが夫から 血が頭を伝つてつむりへ上り秘精と和合して異液か出き るで。即脳は異流の宗際じやに依てさるに脳中に盈充て夫より 惣身へくばり神余不測の妙用を致て万物に応シ詣の務 をいたして居る処が凡て人は目の寝覚て遣る時は其脳精 二充満してける霊液がおのづから神経にわかり流れて神気 も一身に並日ねく盈て寒熱痛痒を知り視聴味へる などを始め其外意識に応ずる諸のこの営為をいたすこ 依て霊液をつかひ耗すり甚た多くて不足になる是に於て 一神意もおのづから脳中に踏まり鎮まつて彼存むたくなるは 此訳でも。扨其睡つたる間には彼心の籠からます〳〵血が脳 一中へ上るべき訳が有て霊液かまむ〳〵出来て覚て居たる 時に乏く成たるが充てて其用にたる時ハ肥中に濡まつ たる神気かまた〳〵活発出し異滝か神経に流通して甚 一人自然に瘡育もて又諸事を弁へ営為をなすで也。何 の事もなくさめて居るに添て不足すれば睡寐つて是を 補ひぬむりに依て充たれば恥さめて此を用ひへらし一ト 度ハさめ一度ハ睡つて或ハ耗し或ハ補正所がたとへが異流神 年が脳中にみち集つて神領の用を為してせんと天つ日の 希に天に懸り重ますが如く又其神経二注ぎ流れて体中におま 如く充て温養し活動を為し又感通等の妙をなす 充て温養し活動を為し又感通等の妙をなす ことは此が日輪の御光輝かあまね〳〵大地を御照しなされて万 物を育つるに似て居り又その霊液神宮の盈ると缺ると二 一依て覚ると睡りの有事は丁ど日輪の出ると没とに依て。 一昼夜のあるやうな状でん。此外にも人間のできる訳から凡て 一体中の工合諸事悉くおやしきまでに天地の成給又天地の 状とよく似て其理りがせんと白シこしにまゐる甚た妙 なる事で乙。諸越の人が人はよく天地の道理に符つて 居るとて人は小天地じやと申たコしが有るが此レらは臆説杜 撰ではなくて実に人間のから左の訳をとつくりと弁へて 見ると至極尤もな云ひ方でさういかねバならぬ訳ハ神代 の古伝でよく知れるで人。扨其神変と云物は異液に含まり 有て又志異液と云ものは肥精より製造り出し其肥精と云 物御心の蔵より血が上り送りて日々に生成して極りなき物なる 事を知たる上で其心の籠に蓄へ有ところの血はとうて 出来るものじやと云に此も其始めはまづ又毎に受て生れ出て春 生れ出て後は日々の食物で生成し養こ左てゝ行くもの でひ。其訳はまづ飲食ハ口に食て咽から納めるもの故 此の歌から申さうニやならぬがまづ一体人は此咽の中で咽と喉 と道が二ツニ分れて居る夫はまづ喉と云は肺の蔵から続て をる物で天地の気を鼻と口より肺の蔵へ受納むる所ゆへ これを気を受る公臣と云意を以て素管と云ひ又言に立と も云でひ。又咽と云は胃の府から続いて呑てこれは飲食せ 一胃の庵へ受納むる道じや依て男箱と云ひ又食道共立ごと 但玄子養と胃管とはうしろ前にひつ付合て居る持て其中 気暮のかたはふだん呼吸を致して呑かし故硬く惣てをるけ れ共胃管の方は頼かで此は物を呑み下す時ばかり呼て尚は ひつたりと成てゐる物でし。近くは鴨などを料理して見ても 知れる頭茎の中に硬い管と軟かな管とが有てひつ付合ひ其 かたい方は肺へつゝき軟かな方は胃へ続いて慥に見へ八刀。るゆけ 人々扨右通呼吸の苦と付合て口の処で一ツニ成り事に工合が有之 其工合と云は右申す通り呼吸をいたす気養の方は不断 あいて呑るけれども飲食をのみこむ胃管の方は物を呑 とき其飲食がそこせ用いて通るゆへ彼呼吸をいたす気 管の方をば押塞いで一寸呼吸を止てその飲食が気管の方へ 紛れ入らぬやうに成て居るで〳〵。其仕掛がどにも云へぬ妙な 此に付てかの餅なんど春外も大きな拘硬き物な ことを呑込うとして此食道に障り支へる時はかの管色の方 が塞がりきりニ成て呼吸が止まる故に死ぬでん。夏を付くず 得るがは思いて人。扨其工合に付て呑る物は結喉と云物で俗に のと佛とか云て人を火葬にしてもんるとどうか人の居つてゐ る形のやうにも見ゆるから例の坊主どもの杜撰にのどぼとけ なとく名を付て物でし。此のぐわいは一す手手を蔵てゐて 唾を呑せすて武し身もても知れる事でも。右の工合しやに依而 物言ひながら飲食を致す時ハ呼吸をも致すニ依て気苦が あいてゐるそこで飲食を過つて気管の方へ紛れ入らしや彼 物に噎ると云は此訳でひじや・依て飲食しながらものもの言う ならば心すべきこしごひ孔子の食する時は物語りせなんだも此暁 るがいやさのこしでも有ませうが扨これで飲食を呑込ス訳と 扨これで飲食を呑込訳と 呼吸のわけも極々聞え左上で其飲食したものを胃の 府へ納てここし段々と下へ送る事しやが春送る仕懸は一躰 まづ胃と云物は飲食ものを受納めるの袋で丁と心下蛙尾 の処に位して居つて其上と下とに口が有て上之口は右申たる 食道でこれは食食の通り道下の口は径り七八分のから つゞいて崔に成て居てこれを交して見ると長二丈七八尺計り 一近田廻り腹の中に満ちてをる此に俗謂ゆる百尋で日 庵の下の口かり肛門迄続て答てこれに細い処と大六所とが知る 此細い所を仮に小橋と云ひ太い所を始め大傷とは云で乙。実は 一ト速き殿物でし。もろこしの医青ども謂ゆる内経の前間 霊枢を始め飲食をまづ脾と胃との底へ受てそこて水を滓 とを分けて水を小膓から膀胱とへ言へ送つて小便となし滓をば 大腸へおくつて大便となすとやうにまて大橋と小傷と二本別々 の物じやと云て有るけれ共此は一向にからだの駅を不按内で 申たコで候。尤霊把ニ解放して見た趣も見へるなれ共唯 ちよいと覗いたくら有のうろ左へ眼で事をきめて其太い 処と組い所の有を見ておし推量に右やうの臆説を 云出し実は下つゞきなる訳を知らなれだめでひ。 扨春謂ゆる百ひろに太い処と細い所のある故は右申通暑 は心下槌尾の所に有てこれは延縮の致す物て其空腹でひ もじい時はちゞんで呑るが飲食を受つめると誣ふくれる やう二成て居る扨其張詰たる飲食のこなれる仕懸は胃袋の右 の側に当つて肝の蔵と云が有てこれには苦き水を蓄へてける ものてしに扨又此肝の蔵の中に懸つて璧と云が有るこれは人に依て 大きいと小いとがあれ共大地は鶏の玉子くらいの袋でこれが彼 一謂ふる人組で牢屋の徳右衛門薬とかなて労澄になと用るは 此でかて甚た苦く真色なる液があつて夫に火気を含み徹底 して酷烈とはげしくて能く物をこなす性の物でん。扨飲食 をして賜男が張て奉ると肝と胆が春に圧れて彼書へて ける苦き浪が溢れ出て尤細かなる管の通ひ道がしたくか有て 夫から楊日月の袋へ経に入る此肝と肌との汁を以て飲食をこぬしたゆび 扨歓食がこなれ下へ送りて空後になると又肝の蔵と但とが出される 〽が無いに依て也良々ニ彼の苦液を造り蓄へる訳があるへし 人がげつぷと嚏気をして黄なる苦き水を吐くつ有は右申た る通胃袋へ注ぎ入左る肝と但との汁の二がきで人に 扨又憐と云物かある此ハあらんだ語ニ大きりいると云物て此は諸 こし人などはとんと知らず内経を始め漢の数而部の医書 に一向噂になくや洋人の始て見出て老へ出した物でひ。其吉 所は胃府の後に有て大きさ牛の舌ぐらいで此には酸く薄 く清涼と云てすみひやくかで能く物に逢滲て蕩もし 消化し収斂と云て濁れる物をしめよせすますの液を しみ芝田へておる持で是も又膓胃が張ると其蕃へておる水 を膵管と云て細がなる通ひ辺より腹胃へ注き入れ 飲食を消化しすまし此物の性は辟云へバ白礬の忽に汚水を 澄すやうな徳で彼祖液と互に相断也相助けて但の苦き 水八右十通酷烈とはげしく火気を含んで居る程の事 ゆへ物をこなす幼は陰けれ共製勢の物を物遣べつたりと 濁らし其そすまし分るの功がない分を此大さり隣いる の液の温潤に物を清シ分る物が注ぎ入て其胆汁の酷烈 き性を押へて清し分ち其すれだる処は乳糜と云て女の 乳房に出る物と致すでひ。扨かやうに食持をこなし分御処は 男ノ裏からな申たる謂ゆる百尋の細い所の何に小膓と 名づけたる間で致すこで其乳糜と云て乳房より出る やうな物と繞あけたる滓を〆右百尋の急に太く成て 所の謂ゆる大腸へ送つてこれが大便てひ。此太く大膓となつ て呑所はどうじやと云に臍の右の眼から胃嚢の下へ廻つて 一夫から左の方へ曲り脊の方へ寄りて肛門へつゞいてをゑび。 然らは其乳糜と成たるよき所はどうなると云に右申たる 通り謂ゆる百尋の彼細き所に尽く微細がなる抜ける 筆が毛の生たやうと成て春が一ツニ寄あつまり譬へば捉あみ の目のしたくかあるのが手えへ寄る程漸々々目かつれで遂には太 手えへ寄る程漸々々自かつれで遂には太 綱一本と成て居るやうに会合して丸長い妻となり上の口が細ク 直に管と成て其節が心の蔵から出てをる駒血脈と云眼胃 へけつげん骨の所でつくいてこれから心の蔵へ帰して血と成るで人。 物又心の蔵と云物はどこの処にありて何を主どる物じやとなにまづこれは 肺の蔵の駅から申さまば分らぬ事故これから云ひますが一躰 一肺の蔵と云物は土に申通り天地の気を口と鼻より吸て彼気 一違から送つて此肺の蔵へ受入れる物で人ニ其在処は胸一ばいに 成てゐて緒の蔵のうちこれがいへしち大きい物でん。此が胸中 の左右に垂れてをる夫故彼草色も喉元の所では一本なれ共 先ゆで二タまたニなり柿の蔵の左右へ行て先々いく政にも 成て幹のを生じ其幹の生へすくもな嚢が付て其状に 近く云はゞ葡萄の実のついたやうに成て其丸てへ襖のかゝつて ける所は甚ぶだうの実へ其ながらに嚢を桂たるやうな物で 其春の嚢へ乗返から呼吸する天地の気を延縮出入 して用を為すで人に扨心の蔵は其二岐に成て居る肺の蔵の 間に懸り合て其状は未た開かぬ蓮花の如くの形ちて其尖の 所の下に垂てゐる是は元季血の府で其中を割てみると中にしきりが 有て左右二ツに分つてをる白の左室山の右室と云で山鳥のも此通で人。 一扨有晩の心の蔵即血の庵から血の一身を循る仕進より 舎茎会門の訳また立合して其腎精が子となる歟勿に 依て子の出来ぬ歎夫より養生の心得若あはよくは人の死 んで魂の行方はとうなる物じやと云所までを具に申さう から各申あはせて早くお出か宜しいで人口 扨心の蔵即血の府から血の一身を循る仕懸候どうじやと云に心の 蔵は肺の蔵の中間に懸りたがひに通ふ道筋が見て彼鼻と 口より呑入れて肺の蔵へ受たる天地の気をかりて其気の力に 依て心の蔵が縮継をして其いれをひに連れて彼左室の頂から さしいでゝける動血作と云狼と臣へ血を送るでんに胸のこゝめ動 懐を虚里の動と申すがこゝの所は丁ど御蔵の先の尖の所に番 つて奉るに依てこれは心の気が延縮血の出入いたす其いれほひ依て 動のでひ。夫故びつくりするか或はめけ走りでもひすとおめづけら 血の出入もせはしくなる故にこゝで動悸か針しく打物で人此動の 血脈と云は白の左室からさし出て胸をつたひ上つてけつぼん骨の 下を通り是ゟ深く脊骨に付て下へさがり蕩骨の骨の骨の 所まで長く来て給て尤も夫までにしたゝか幹がさして其 先々がまことに細密なること毛の如くに分れ〳〵て白月や腹 に有る所の諸の蔵府へ被て奉る又肩の所の幹は二本さして これは右と左との腕へ行て此びく〳〵と動く賑かそれで候。此 びく〳〵動く訳は其賑器の中に障膜と云が有てこれは二分程 づゝ隔てゝ譬へば竹の節のやうに尤も中はあいて置て此で 血を先へ程よくちぎつてあがきおくり今へ血の流れ過ぬ様 ニ又あとへ返らぬやうにとて有物で此レの張り縮み血の運行 する勢ひに依てこれは動くので候ニ候やうに動く脈営故に 動血脈とは云でひ。尤も肩の所から手の食へ来るまでに 一夥敷小枝がさして頂頭顔背などへも絹りまた尻へた の所て左右江分つて雨足までに流れめぐつて居るでひ。 扨又右申たる処の蔵の右室の頂から輪血狼と云不服 雀がさし出て分れて上下へ行き其上へゆく幹は此もまた 左ちに分れて両手へ行き夫から倒の如く細かなる枝がさて 頭頭脳面背に行で行事やはり気血脈のとほかでひ。又其下へ行く 幹はこれも又動血脈の如く背骨へ付て蒡骨の所までさがり 夫から二岐に成て南足江流れ分て惣身にみり凡して居多し やハり動血脈の如くで但シ此類血脈と云二ハ動血脈の如く中に しきりが無く夫古血の通ひにぴく〳〵動くことがないに依て 静なる血脈と云の意で烏血脈と名づけた物てひにお 此御血脈と云ものは何の用をなす物じやと云に彼左室 から出てせる動血脈の心の蔵の血を繰出し一身へ縮らす の用島也此端血脈は動血脈から生へ〳〵とくり送りたる血を 又山の蔵へ送りもどしかの右室へ納める為に右室の方から 出てをるでん。其返る仕道はどうじやと云にまつ此勘脈と存 脈の二ッは惣身の血脈の本じやに依て尤太く其眼管の中が 大約指一本を容れらるゝ程のこしで其に普く幹から枝 を生じ分れ〳〵て惣身の中も外も珍蔓して縦横緻密 二組合ひ織りなしてをることんと老絲瓜のすぢの如くに成 て居るでん。然れ共こゝに妙な事の有るに動脈の先々の 細かなる所が尽く輪脈のすへ〴〵の生と連つてこれは動脈 管を先へ〳〵と血か巡るあひだニ段々と濃〳〵なり且めくる 勢ひもよわく成たる所で其生の達ッて居る事故物賑 へ流れてこれからはそろり〳〵とち眼づたひに心の蔵の右 室へ返り入てこゝで新しい血と和し合ひ又新しく肺気も めりて左室の方から動脈管へ送出し右の通り惣身を 一循り其末の先へ行ては又右の通にかへりかくの如くして後に 一環のはしなきが皆々追[リ〳〵往来して止になく一身を挙 やかし養ふしで其本は生物申す通人食物を腸身で 消化し其精微なるところの乳糜と云て乳の葉物と 成たるが静脈をつたひ心の蔵へ入て血と成るので人に 扨彼動脈血脈の二筋が脊骨へついて下るま三腎蔵 へ来て血と小便とを分ちまた倉嚢へ下つて精汁と化り 又人の子を生する訳をあら〳〵申さばまつ腎の蔵と云あはどこ ニ有ると云ニこれは心窩との中分の両側に位して脊骨につきて 一二ツある物でたけは指五本なからべたほど横は橋三本を並べ 左位の大きさでこれへ動脈血脈の二脈呂か来て其動脈 からおくる血を受て其血の中に含みある処の無用の塩ハゆき 渣をこし分る此塩はゆき渣と云が即小便でひ。これを 送り出す輪屎管と云管に成てをる道が有て夫から膀 胱へおくり納めるこしで人も此腰胱と云ガ謂ゆる小便府で 其状が壜を逆さまごしにやうな物で其底の処胃の蔵から 小便をおくりこす処故彼輪屏管と云道筋が続いてをるでひ 春先の云はゞもつくりの口の所が倉莖へつゞいて此が小便の出 る通で候ニ扨其勝服いはゆる小便府へ小便が溜つて居て 出る仕懸たまつ此腰脇と云物は此レも縮張のいたす物て尿か溜れば 張りはつて彼尿道がおのづから開けても便が通るで人に 一体右の訳故小便は血の滓でもと腎の蔵で夫を分ケ膀胱 へたまつて居て通ずる物で唐人のやうに小便と云迄から わかり傳つて膀胱へくると思ふは相違なつしでと。くりと体 を解て見たこしがなく推めてニ申左つで候はすでに 京都の山脇東陽先生が滅志と云青を著して論じ おいた通りのうでくに 扨又腎の蔵で小便をこし分たる其純粋のよき血を ば即腎の蔵へつゞいて奉るかの輪脈と云て血を心の蔵へ かへす脈管へ伝つて其先のコメ右申左る通りの訳で心の蔵へ返遣して 扨腎の蔵に付てをる動脈と静脈から幹が二本つゞさして 夫か下つて左土の睾丸へつゞき連なり此〆なせかやうに成て 居ると云に彼動脈から受たる血より此睾丸で精汁を漉わ け製して其残餘の血をバ又彼輪眼へ送つて元へ返みやらんか為でひに 此かた異へ二本つゞ動脈と静脈と付て居るへしは各々探り 一試みても知れることでひ。但睾丸の形尚云々 扨精汁を睾丸でこしらへて純粋に熟し成つた上で夫を報 一精営と云て即其精を輸るの崔違から上へのぼせて精 嚢と云て精汁を蓄へる嚢へをさめておくでんへ此精嚢 と云フふくろなどここ在ると云に膀胱即小便子くろの後の方に なて其大きさは指三四本を合せき程のたげで巾はやう〳〵 親指の内ほどしかない物で薄膜と云てうすい皮を著て居 る物でん。此先の方が細て管に成て会茎へ続いて居る 此を輪精精営と云これは精を輸つて射シ出す道でも。其方へ 行ては小便道と一ツに成てをるでは一躰舎具の辺は神経が 殊に多く充々てをる故すべて人が情意発動いたす時は神に 気異液血も又充実いたしてそこで食具が微勢勃起する こゝに於て交接いたし游りニ此を摩蕩すれば神経大き二感じ 触て霊液いよく駭ぎ来て其已基きに至り極つて堪忍ばず 其勢ひ直ちに精嚢におし迫つて射出すこしで人に 一扨これでひく〳〵男子の体のわけはすみますが婦人とても少か 仍て男と違つて居る事は無けれ共唯春相違な哉子宮及ビ 会具の辺ばかりが違つて居る其内まづ子宮と云物の大きき鯰 卵ぐらひで小袋を逢きにしたやうで濶く其巾か大かた 持二本半を横にした程て口は窄く丁と易物の口を横にした やうな状でし。既に産をした盲は鮫潤くて上の底から下の 口まで長ガ大底指三本を並べた程の物で其状上はひろく 下は窄まつて居るに依てすこむる三角のやうに成て居る内 は甚た狭〳て謹に蚕豆一粒を容れる程しかないで候然共 孕めば延張てしたゝか潤く大きに成て其底の処は臍ちるひは 臍の上ちたりまでも及ぶ其体質を見れば肉のやうにも有り 又膜のやうとも日もゑて甚だ厚い物でひニそれを破つて引延 して見たる所がいやしたゝかこのびて薄くなる是を以て腰 一妊すれば牛で子の二月つに随つて此延張てくる所做が欠るでも 扨又子箱の底の両方へ付て卵巣とな白衣がある即長玉子の 巣と云うでし。これはあるが牛にも奇妙な物で其大きせが 大がい鶏の卵ほど有て此へ彼腎の蔵からつゝいて居る動 脈と静脈とが来て連なり巨細なる枝に分れて此卵巣の 中々弥綸してをる婦人に此卵巣の有ることは男子の睾丸の知る と同じまで右の腎の蔵から動脈と静脈とが流れ来てつち なり居るコトとんと会裏へ胃ノ蔵の動候とが連なつて居ると 同じことでん。扨此左右の卵巣の中に尤も大きいも小さいも 有るなれ共大概大きさ豆粒ほどの卵が片かたニ大抵二十ばかり づく付て呑るこれを卵と云でし。扨氏レをつぶして免れば清く 澄さつたる彼鶏の玉子の白みと同じ物が充て居る此を試みに 煮て見ると凝固つて鶏子白を煮たやうになるでひ。此は とうして出来ると申すに春本をば又母に受たる後には段々彼骨の 蔵から続てせる葛作より血を受て其精とも精なる所を 一泌剤て卵の中に収めて其余りの血をば彼存脈の管からえへ 返しやる春仕桂はやつぱりかの金嚢で精液を造つて其餘り の血を静脈から返シやると同じことでひ。 扨和名抄に源の順の趣臣の謂ゆる玉門から子宮の口までの処を 睡とな此は易物をうけ又は経水を通じ胎子を産出す道で山に 其族の字は内月二室と云室ノ字をかいた文字で人。扨其うは つちの方に普く皺びだが有つて此所には夥敷神経が布 一満てをる故に知るより甚た敏なつして希に滑がなる液を 滲出して滋潤いたして居るでし。若情意を生ずる時は 男子の念具の勃起するが如く異漢が其処の神経に充張り既に 交接して其感快の極に至つて此液を常よりは多く涌池 いたすので彼卵中に蕃へある精液のもれ出るのではないでし。 扨妊娠いたす故は男子の精を子宮の口へ注射こむ時は彼卵 巣に滲透して其中の一卵に入り是に経て双方の第季合ひ感じ て彼卵が生校くの勢ひを発し漸くに長じて其結勢 が日でニ萌起つて大きくなる是ニおいて其辺に充てをるぞ 経と血熱とがうこひまとつて守護しつく漸く二子宮の真 中へ位を定めて子宮の内に有る所の血絡が纏つて遂に胞衣 を成し真胞衣とな物は元より卵に被りて居るなうすき模で 子を引包んでゐる物でひ。尤もその上の方へ懸つてをる 処は要さ一分もつとあつい所は二分程も有けれ共下の方を包ん で居る所は大きに落い物でん。さやうに薄き物故子の生れる勢こ に破れさけて其薄いへはちり〳〵土縮であつい所へ寄添てしまう 故とんと蓮の葉を見たやうに身しるけれ共一躰の袋で子 の全体を包んでける物で人。然れ共たまさかニは此レの甚あつ いも有つて夫は此袋を被て居るなりに生れる此レが世にいはゆる 袋子で人は。其レは生れ出ると直に其袋をちよいと切破るが宜し いで候。不按内なる人などは此を甚た不祥なる事にして其袋 子を捨て仕まうことなどもある物でひ。ぬさやらに袋をきり 裂くと甚薄い所はちゞんで厚い所へ寄つて片付くで人。 扨又此胞衣から二本の管が有て春二本が一ツニ縄のつゝねぢ れて児の臍と読て取るこれが謂ゆる臍の緒で人。臍ノ絹が 二本に成て居る故は甚一本は母の動脈へ続てこれから臍へ受けて 児の腹中に入り此で体を拵へ左て其餘りの血をばいま一本の管 へおくつて母の烏服へかへし夫から母の心の蔵へ戻す為の物 でも。此等がざうさもないり吾が妻妾の出喜のとき二寸覗 て見ても知れるにでひ。此二本の管より臍へ母の血を出入して 児の体は成る物たとり云はゞ臍太わが体の鯖口で 扨又人ばかりでも無く立木と形とを具へてをる程の結柄の豆 く卵のより生れぬと云はなく唯其卵か母の体内に有て化 して児となると躰外に出て化するとの差別ばかりでく。 此ハ活物ばかりでも無く急の子仁も又一種の卵で此レハ土中 ニ在て形を化するのでし。此レニ付ても諸裁人の母をいた く卑めるヿでん。既ニ儒道の大意ニも申たる事ながら 彼南秋江が鬼新論に五穀は土に植て生長すれ共其枝 も葉もみな種より出て一ツも土に属する物がないから種は 又で廿八母者やに依て母はその袖を育てる切は父と同し 〽なれ貴骨肉をば分ぬから恩徳はないそこで母には親 みがないからもろこし月の定めには母を卑めた物じやと云て 有るが此は甚定めを立た人どもが草木の実の土に植て生ずる処 ばかりを見てそれに執著いたし深くも考へず一旦の見を 仍てかやうの痴言を云ひ定めた物でひ。実は右の訳故相構へ て諸越の訳なとに泥み母を麁略になと思ふへきこしてはない でも。然共母をかりでか決して此躰は生れず又の精液神毒と 母の精液神気と相感合して生するう故此方の身に取て等 御館屋翁の立れました通り文と母と自し恩徳て更に 一隔つきいわれがなく其父よりは母の泣の卑いつふそりや又 母の互ひの上にこそ差別はあれ共夫は父母どう者のつ子の方 よりは彼此レ尊卑の危断を立てさかしらすべき謂なく又 と母と自等に厚くつかへ申べきすぢでん。 両人は男の神言介を女の胎に射入れて児となれ共活物の 一中々魚などは女か玉子を外へ生出して後に男の精気を 夫へ射かけて子と為すでん其は金魚などを飼おいて見る 二女魚が玉子を藻草へ生付ると直。男魚がそれへ尼を弾き ながらしらこと云て精気を泄し桂るこれに依て子と成るで人に 若その女魚が玉子を生む時分に男魚をの出て有るとせつかく 生んだ玉子が唐目つて子にはならぬ物でい。又鳥などはこれは唯 一会と舎とを付合せて其時雄の精を射込とも見へて雌が 玉子を生み出しても魚のやうにしらこは桂ぬでひ。これらは みな各々異なるかで実は計りのさやうに御定めなされたるへ 定めて深き由縁のある事で有らそで山。何れにも男女の 精気合体せねだ子とか成らぬ所は人も鳥汁だもの矢虫も 自し理りて更に違ひか致さぬでし。かやうのこも序しやニ 依て思ひ合さるゝだけを申すばかりのうでんに 扨見が母の胎内に在る時は逆さに成て居る物で世に云に思ふ処 とは大きに逢ふりでん。これは産科の事を始めて唱へ出られ たる質川子妻子の云ひ出されたるにで此子玄子と云人は大きに 一忘れたる発明の人で産科一道の開祖となり数百千人の 産婦をためしめて考へ出されたしで夫々相違なく子玄 子の時分はいまだ西洋の解体の説の御国江伝はらぬ家なれ共 よく考へ試し見て云ひ出されたるし故にひしと恥洋の 説に合ひ又此方もためし見たる処が相違なく迷さ落て 居る花もたまさか千人に壱人のむりを上にして孕むしも 有れどこれか変で此レか謂ゆる進産をして産がむつかしひてひ。 中々以て世に云如く児ふ本より胎内に正しく答て其生れる 時子がへりと云てとんほかへりをして出るなどの祝でが無い 夫はち申す通り明んは子宮内一ばいに成て取る物故とんぼがへりをすゝ る境ひがなく若かつるならば母の子宮とも二覆り二やならぬ処が 子言の外面は尽く腹中の蔵府総体へ綴合てをる物故此レも とんぼがへりは出来ずもし驚れば其児をうむ婦人がこれば がへりをせこやならぬが真はならぬしこれは人ばかりてもなく獣で も胎内では逆さまさ成て居て逆さまに生れるでん。まだ思ひ 合さるくこしのあるは草木の実も逆さに成て居る柿の美や桃の 実を割つて見ると枝付の方ニハ萌がなく先の方ニ萌か有 て即逆さ二生る物てむ。此ち全く自じ道理でし。今かやうニ 生れ出て上一寸も逆さて成て居られぬ恵を以てどうして 逆さに成て居られる物かなどく思ふは天地の神の妙なる御業 に依るこしなる故を知らぬ者のまたの限り候でひ。又子が腹ノ内で 乳を呑むと云などは論にも左らぬ俗誰で人。 一扨産の時に臨んではやめの薬などを用ひて大さう六きませ方 が有れ共甚た宜ないしで此は倭漢の学者左ち又西祥人など もいと懇に誡めて有るでし。其故は未余至らぬにいれて 過る時は胎内の子其いき尤まづみ二生るべき順道を違へ 且は母の熱下気をくたびれてそこで雛産があるでひ。 いきまずとも時至れば自からいきみが立て自から止し とするに止み難く胎内の子も順色ニ生れ出るやうに 神の成し置れたつでさしも気を構へきすぢてなく焦し 共千百人に壱人も志牢に難座が有時入其時こそ御種々の 手当ても入る事なれ共千人に一人と云くらひならではさやうの つはない世に難産する者を見れは多くはよろくそ医者 と取上婆か不按内から騒ぎ出して神のなされた自然を 背くこを致す二依てのこでも 扨二タ子三ツ子四子などゝ云コも有て此うち三ツ子四ツ子は甚た 少いしで二人の命に至かますがこれは心得ちがひな人などは 不詳なる事ニして忌瞬ふ事なれ共これバ大キニ非が□で 更に着べきこしでも不詳なしでもなく実は自成度くしの限りで既に 伊部郡破伊邪那美二柱ノ神さまも二タ子三ツ子は御産出そぎ たつでまことは父母共に血気潤頭神草も又壮んに健なるが故に 彼玉子のいぶ二ッへ神気合体したるが故に二タ子出来る訳て候。 しやニ依て恥べきしでも不祥拝存存候でもないかの伊邪邪致伊邪 那美二柱ノ神も蛭子と申てかたわな御子を御座あそばし たる時こそふさはずとの師られたなれ共二タ子を御老なされ たとき事の如く自出たきこしに思召したる故に何共仰せられ なすだしでひ。就に景行天皇も御双生方はしれし近くは東 一思言にも御咎去り其外暮貴の御方々ニ数へも尽されぬり でかは扨又世間を見るに二タ子を生んでハ先に生れ出たる方を 弟をして後に生れたる児を兄とするなど云俗説が有れ 共此の全く誤りで也。此丁の神代巻左しりな證拠があるで人。 一扨又こゝに妙なりのあるめ男女神気を感合してもし血中に瘀海 と云て悪き液の有か扨は子宮に何ぞ病が有る時はかの卵が 子宮内に泣を定むるこしが叶はず然れ共もはや活発の生気 を受たるへし故に小腹の内どこぞへ位を定めてそこに留り真に 泣を定むづき処でかなけれ共卵の生気すむ〳〵きざし動く が故に其処之血賂が寄連なつてやはり胞衣も臍の絹も出来て 養ひ育てゝ全く児の形を為す然れ共母の体がもし脆 弱なれは続かぬ故旧もの類はとんと府図り壊れるこゝに於て 其くさつしたる物が母の体のしかもそでもない処にある故漏れ出 る処なくそれが母の血に混じて色々の悪證を煩ふで人。 又至つて壮実なる婦人にかやうの事が有れば其児それなり 二云月つて月は満るけれ共出る処がなくておはり旧んは死共で くさるで人。然れ共其婦人もとより壮実なる事故夫にあげ ず尤煩ひは致すけれ共腰のまへり或ハ小腹の辺などニ大キなる 腫物それじて夫が崩て其口より彼児の骨や髪なんどが けり出てしまふ物で人此は篤魔も二人身にしたが一人は今以て 達者でせる一人は春婦物故に死んだが此レハ世間まく奉る事 で人は祖をつぶして居るやうじやがよく胎内の訳を心得て見 れがさしも軽きうでもないでひ。定て見聞へ及ばれた方も有りませう こんな事も心得て居るが宜いでひ。復古明試録など二祖を張レて有まする 一扨又婦人に依て随分壮貧で呑ながら子を孕まぬときも有ますが 此の種々の訳があれ共かの正洋人が子の無き婦人を多解解して 見たる処が或は生れつき子宮の口の横へゆがれでをるが有て此レ入 孕まずまた彼卵が甚だ大粒で水の如くこれを煮ても玉子の 白みのやうに固までぬが有り又は卵巣の大キさが拳ほど有て 一其中に卵の無いも有り又は生れつき虚弱で卵巣にあしき娘が 有て夫故尋まぬが有ると申て有りますが此は実にさうで有り ませう此方の人は西洋の人のやうに案まぬ女を多く能能者 て自たるこ又でないから此草はうち任せて凡て虚言はつかぬ と云西洋人の説故慥に信ずるが宜しからなでかけ。但し かやう申ては尋まぬは女ばかりの失のやちにも聞ゆれ共さう でハなく男ニも其精液の虚弱なるも有べ〳〵又交接の仕方 とも依り又は其身を得ざる不調法なども有らうと思はれるでひ。 扨婦人は十四五歳になると真精が漸くに熟成して短水の通ず る事は一体婦人の興本より胎児を養ひ育つるが為に男なに 比しては自然に多く生ずるで候夫故に孕まぬ時は其余りの 血は経水に成て泄去り其余の血は子宮に達なりある処の輪 脈管からかへり流て希に身体をめぐり養子でん。又女の 胃は皺が多くよく食物を消化して滓が少いじやが凡て 女躰の男子と違ふ処はみな旧んを養ふがための故でし。扨婦人 の療治は男子よりもむづかしく又やめ女のよくひは別して 仕にくい腹か有て夫古医まと寧。医一十男子一ヲ一ヲ莫レ医二一婦人ヲ一 一寧ニ医二十婦人一ヲ莫レ医二一小児一ヲ一小児一ヲニ云ひまた療二宴婦尼僧一ヲ異二ア 妻妾一とも有てまた其婦人より小児は一段むづかしい事でひ。 一扨此で体の中のからくりも位にあら〳〵百分一の訳もすみましたが まづ此〆実によく知れたる事で殊ニハ大キニ心得ニも成るすぢしやしや二 依て云ひの致す物の第にも申す通り実は心出る者の解体 などは出来ぬ〽しでなく又もけるべき物ではないで人。もはや菌青 の翻訳を種々できて彼医義提調解紙新れなど委 き目もちるに取其を読で見て心得るが宜いで人。うたて しくも人の腰を細密に祈割てわけるなどとこりや紅夷の国 のゑみし等か致すにで法にゑびす臭く御国の人なとの 為べきかしではない焦らは馬隊はかやうに委く既に今度ほど も夫を見たはどうした訳じやと云へ拙者元年医者に聞縁 有て幼年の時から医の事を学び尤其以前は漢学び のみいたして大佞心類みやひなとは夢にも知らず生徒 意のから候哉十分で有たる余ニわかい血気ニ任せて見たる 〽でと更申て返らぬかで人。怠れ共古学に入り物て真の色を たどらんと致すに付ては神の妙なる御所案を弁へ知べき 古づきとも為り医業を致すの心得には大き三なるで候は 此は篤胤か試めて衆を云のじやがもし解体の図なんどを見 ても能く分ちぬと思ふ人の獣をひらいて見るが宜いでひ。 とんと腹中のやうすは人と何も黒はない夫毛猿かないしの 獺が過い物でし。何れニももや世にかやうの青物も多く 出来て此程にも知れて来たし故解体は為ず共なり 実に忍び難いこしで此を思へば諸紙の古人も解然はしたる 様子なれど委くは講見ず二間違ひたら〳〵なりをやたも 此頃は思ひ合せて怠るつよと察しやられる事で厶。其 はおらんだ人の如く精密に人体を制見て其理を究め〳〵でも 一其至れる元の道理またかしの如く寄々州々に活動く人を 其身が直に産出しながら実は其生出したる人もどうして 拵へたか知らず生れ出たる人も知らず居る程のつで悉 〳〵神の御所番故かやうに知れぬしはとんと知れぬで人。近く め今地にも有て有る目鼻耳口舌などの事を思ふに まづ目は万ツの物の色形を残る処なく児明ら以耳は諸 の色をよく聞き鼻は物の香をかぎ口のもの食ふには 云に及ばす奥より色が出て脣を動し舌を働かせば甚 包さま〴〵に変つて詞と成て万つのつしを云ひわけるなんど 一ツ躰の内にしてかやうに各々其用の墨のなるしは誠に寄黒 きつしの限りなれ共何なる理が依てかうじやと云には身に持て 居る程も〽じや二依て知れさらな物なれ共誰も知らず せんと分らなこでん。鈴屋翁の云れたる程には此人と 云ものを一人作り出んとせんに何に賢くさとり深くたくみ たる人の何に心を砕きて例の陰陽和合のことわりを極 めこゝらの年月を労きて作り成さんとすとも彼活働く 真の人をば代り得る事能はじを上に云へるやうに唯彼男女 の閨中の三そか事に依ても心をもいれず小刀の一ツ多につかはず 何労きもなくて成出るぞかし然れ入其閨の中のしわざよ 買く多しく理添の事なりしかは有様殊に出して学べくも 一非ず甚も〳〵人あろくめくしく童べの戯れにも劣りてはか なく愚なるしわざなれ共茲に因てこそ人の巧にては得作ら ぬ通いの人のさばかり容易く成り出るなれ神の御所為は世に 測り難く盡しく妙なる物ならずやと云れたるは世の漢意の なる人の神代の伝説を受ざるを諭さらとて云出られたる 説で山。が実に奇妙なる諭し音でん。抑紅毛人共究理の 一能体のと云て幾千万人生涯の智りを尽して考へたり 共其おも詰りの所へ行ては考へ究むる事能はず謂ゆる 先物〽その所為じやと云て遁れるより外はなきりでゝ。 然れば強て解体をして見るニ及ばず返す〳〵も今は各々甚 青が有る故心得の為には其春を見て能尋ね其上に知れぬ つに猿なり何うそ也とも見てどうぞ尽し風俗のを まらぬやうに致したい物で人 扨これは古へには無達しながら今の人御養生と云ふりも為ねはな らぬ訳がありまする其はまつ古へには養生と云りのないわけは 本より古人が敦庵能岡識らず知らず自らにして養生の道に 叶つて居たるに故こりや古へには無きはずの事でん。然るを後 世々及ビ及ぶほと事も拍も多くふ江て世々つれ事に触れる事 多くて望み丁絶へず思ひ給ぼなれる事多くとかく 兵衛が上へ〳〵と衝送して胸膈へたまり此がそも〳〵病の臨まる 謂れで候は。扨此事は結越の人も天竺人も早く心づいて各々 其内の青共こま〳〵と書てあるでん。春はまづ旅越の春では 謂ゆる内経を始め種々のまゝ物に返す〳〵申て有ますがかやう かやう の事は一向の大倭心に成り固まつて外国の祝とし云へバ耳に 触れ聞くも穢らはしく思はれる人は定めていかくぞや下 ずまれませうがさうでない春はなせと申に付て諸越を 極め万つの外国は末国の汚穢れ国々故古くよりなして にも猥りがハしく又病ひも多く夫古養生と云左やうなり や又ハ医薬の道などもずんど委て老へものして尤も例の くず〳〵しく言痛きこしが多けれ共此レハ清白菊の云れ ました通り乱れたる世には戦二習食に自つからに名将 の多く出るやうなもので世々ニさま〴〵と考へ〳〵て云おけるつ 故中には実に尤なることがあるでん。こりやわる投意の 教経とも違つて人につあるには捨て取るが宜いと 篤胤は思ふことでん。甚すわり故に此ノ養生の事は外国の説共 を摘み取て綴り合せ黐を加へて隠座いたすから春つもりで お聞が宜いで候ニ両また御国ニさやうの説の古くより無つた 故は古道の大意を演説の砌リニ申たる通り御国は万国の 本つ国たる勝地じやに依て地震厚く夫故久しきがあいだ 敦庵純国恬壌虚無と云たやうに事少く世も穏でさ かし立ず大やうで有たる故にかの治まれる世には名将もなく 盗人のなき郷には用心の入らぬやうな物で自づから養生 の道じやの何のとなやうなりは思ひも介なすた物でひ。龍川柳 点に無病とも心つかずに無病なりと云左る如きしで有たる 処が外国よりはくさ〴〵の事も物も渡り夫々かぶれて遂には 外国風のさかしり言または世を歴年を重ぬるまて〳〵事も ふゑ世も乱れなれどして古への質朴なる風はやう〳〵ニうへり 移てとんと今の世の如く人事もせはしく望みて絶ず思ひ 結ほふれて扨こそ今はもはや養生となかしも古へは無いし じやと一ト口に云て仕まはれもせぬやうに成古でひ。素間の挙 痛論ニ百病出ス二於金子ニ怒則争一ニ怒則年上り恐レ 壱字管ニ悲シハ則年消ニ忠則委結シ繁計哥レ享乱参則年役是 割泄ㇾ労無之余剰気耗とも有ル如く諸病も此レより生ずるこして人 然れば今は春養生と云コも一トわたり心得ねばならぬと云に成 ては御国には右申す通りの訳故さやうのこを考へ記シたる 物なくこゝで彼外国の人どもの固より乱りがはしき国々 生れてかゝる事に甚しく心を用ひて云置たる説ぞを拾ひ 取て心得るがいつち捷径で山に其諸越人の説はまづ素簡 の上古天興論と云篇に帖懐虚無とは興気従レ之ニ精神 内ニ守スハ病安ナシハ従来シとありますがこりや古への大らかでわる 賢くはなく事愛〴〵後の世風なる辛労も無く夫故身が 健で病に出かされなんだ〽しニようげつて居るで人。然れ共 古へは古つで事少く今はそで為す事業の多き事故と ても古のように質朴純固になるへしでは無れ共点を尋ぬ 探つて古人の大ちかなる気質をまねび神の妙なる理を 会得して世に有りとある事物成のが為すわげ身の貧さ も貴きもみな神の御心で爭ひ難きものなる事を悟つて 差越たる望み張たることは心して成べきだけの限りを介静に 計ひつゝ世は穏にくらしたい物でんに但し身に負はぬ望みを 対し見る物聞ものつけて御動き穏かならぬも己がじく生 れ得たる性でどうも成らぬ人情の遁れぬ処では有るなれ ばこれは心は紅をのみ申すので人になせなれば篤胤入素ゟ 一医の道が好きで学ん事まし故内の病は多くは心穏ならず 辛労の過るから出乗るこを人の上ばかりても無く己が 身で試し見て知て居る故申遣うでも此は漢土天足お らんだの人もみな符節を合せたやうに告喩して 其青も力事に七事牛に汗を流す程ある中々唯一ト口に 事短く云ひ取左ハ孟子ニ養レ候莫ニ一ニ善二二於宴力於宴力於宴力於宴力欲一と云 たがいつち早い諭し言で。其慾を寡うする事を委く立 し左は養生要訳と云ものニ夜横生ヲ者ハ当ハ当二先ヲ除ク六爰一と云 て其六害ト云ハ一ニ白薄二ル二名利一ヲ二ニ曰禁シ遠色一ヲ三ニ曰康二シ貨財一ヲ 四ニ日損二二滋味一ヲ五ニ白屏一虚妄一ヲ六ニ日除ク此ニ嫉妬一とある此ハ霧 慾の大網でひ。此に反して各物を好み声色を禁せず化貝 財をたくはへ滋味を飲み食ひ虚妄を屏けす第に嫉 妬の情を除りぬとそれが悉く心労の本と為るに依て病が 発る然るを不養生して病身と成り又は命にも及ぶと此は 天命じやの神の御心じやのと云て心せ為ぬて人。尤七人は 人形の如く神ハ人類を遺ふ人間の如き物故云して行けバ 神の御心と云ても違かねども又そこに心付て養生するのも神 の御候でやがて禍を直きに復すの理りで人[ニよくこゝを弁へて 候労をばなるたけ省くやうにしたい物でひ。張文徳と云琉越 人の語ニ夫人未レ有二有二語スニ以テ死一ニ死一為ニ不レ者一也日夜之所為ス則取レ為ス則取ル処ニ 之道過レ斗ニ矣と云たが実ニそれな物で人々また経靼裳雑志 と云ふ春ニ人在二病中ニ一ニニ百念灰冷饉レ有二ト畜貢欲スレ可リ不レ可リ不レ可ヲ反ケ 義一ノ貧財百健ノ者一ヲ一リ是故ニ人能ク于一テ二テ無事ニ作ルニ作スハ二病想一ヲ 一切名判之心自然に掃ヒ去ル真の妙法也と云たがこれも尤なり でひニ中ニも富貴の人といへ共病中に有ては百念灰冷と止んで 反て貧財ニして健なる者を羨むと云だなどがその世とて も人は皆さうで病を得てあらやれと云て騒ぐハ実は俗の諺に 屁をひつて尻をすほめると云譬の如くで山。此諺の意は 一はやくもろこし人も素間の四暮胡神大論に是故に不申人不治二已に 病ヲ一為ヲコレ你一病ヲ不レ給已ノ乱一治ストト云コト之謂也夫レ病已ニ成テ而已ニ成テ而後ニ来レ之ヲ 乱已ニ成テ西後ニ治レルモ之ヲ検云ハ猶二渇シ而突テ溺シテ闘而対レ井ヲシテ不二亦晩一ヲ 手と云てあるでんニさてなせまた辛労すぎて心穢かならねば 内の病が発ると申すに人の身体は天地の間なる気を口鼻ゟ 吸て上焦に受け夫ゟ牛焦下焦腹中惣体へおくり其気 の力に依て血もよく一身断運る処を心を労するに甚ければ 希に物思ふ事絶す胸膈おだやかならぬ故其気沈滞して 下への運り悪くそこで種々の病證が起る其病院のあらましを 云はゞまづ上焦てか痰喘咳嗽して短立匁となていまだはしく 胸端と云てむなぐる如く動悸眩暈ものに退屈など致し 一中焦では白下痞鞭と云て猛尾下の処が痞へて歎く少し 押ても痛み或は飲食こなし悪く又何となく胸先こゝろ悪 く腹中筋がり又下焦は臍の下に力なく尤押て見るに筋バつ ていたみ魂など出来腰痛足冷又しびれ小便近く或は謂ゆる症 気もち積持とな證となりなんど此外今こゝニハ申すシかたい程 のこゝで候こりやみな心を労する事過て暮が滞つて下へ循 らず努力に依て一身を循る物なるに気が滞ツては血の循り悪 くならねばならず甚でかやうの證を発する事に至でひぞこ で養生と云てハ外に為やうは無く尤食養生と云事も有 れ共第一メ胸痛の間に気の疎滞せんで能く下焦へ循るやう こと心がげるのが尊要でひ。此は誰も知て居る通り臍の 下に立葉海と云名を付た穴肌の有のも実は人の口鼻より受る処の 気をしづかり已臍の下謂ゆる気海の穴あたりに湛へて有 やうにと云の義で名づけた物でひ。素人もよく知て居る難経とな 医書にも生学之原者胃間の動気也此三焦之原を一に名二守。 都之神下とありますが此義は人にてをる気の原と云は臍下 の勧言にある処が夫じや此をなぜ腎間の動立来と云ぞなれは嚮に 申す通り腎の蔵ハ左右ニ二ツ有て丁と気海の穴ハ其左衛 の腎の蔵の牛間通りに当つて告て其動気の有る処は彼左右 の腎の鼠の中間にの寄て居るに依て腎間の動気と云た物で山に 一此三焦之原と云は上焦中焦下焦と三焦の中にも此下焦背間 の勤気のある処は大切の処故三焦の原と云左もの一ニ名ノ守邦之神ト と云左はこゝの処さへ気が充てければ外邪にも犯しれす内より 毛病ひが発らぬ程の賑故邪を守るの神とも云との意でひ。 されは素湖の評熱病論に邪の所は漢其年必ス虚と有る如く 房事の後ニかたく寝をして風邪を引込に今参りの信濃 が持たる油場を鳶に狐れる類も油断より丁歯はし却に 属れるも狐狸の類ひに化されるも彼守邪之事なき隙 を付込れたる故のことしてし。怠れば此程やしなき大事の処 御医官となふ医者は本よりの事諸道諸業何れもこゝへ 気をたゝみ菩田へる丁をさとしまづ天足では釈迦よりも迚 まへより学び来つたる彼女羅門の修美も治心と云て心を此 に治むるの修行また新迦の儘したる処も此シニ外ならず 去れは諸宗の安心も云ひにて行けはみな同し意に帰する事 でひ。又諸越の神仙の辺を謂へ左と云ふ道家の輩の修行する 処もこれで皆こく二千気悪まれば無病になり無病じや依て長寿 を得つと云の義べて此修行を不老不死の術なとくも云た物でし。 気海の下の穴処を丹田と云も其不老不死の丹薬を蓄へたる 田と云の義を以て名けた物じやと名ゑるで人。 扨臍下へとなを練り畳むの侭法は種々ある中にいへしち手み じかい侭後が有る甚はわか父は八十まりやうの歳まて春を 保たれましたが我は若かりし時殊の外に多病也しがとなる 老人に此結を習て三十余りの時より折るひとなく此術を行 つて此齢に至るまで無病なり其方もこれに習へとて教へ られましたが実破てこれは無病長寿の奇術なる事疑ひ なきうで乙。其任やうは毎夜寝所に入て其品睡りにつかふ 前に仰向て両脚を揃へて強く餡のぶし総身の元年を臍 の辺かり爰海丹田の穴及ひ腰脚足の心までニ充しめ扨 他の妄想をさらりと止めて情を折り息を計へる事百息 にして其餡しめたる力を緩め替有て又かくの如く大抵両夜 此術を行事四五度ほどづゝ献さず修するに毎月五七日づゝ すれば元年惣身に充満して腹中の積塊も皆もける也 一何なる年菜も此術に越すもの無し夫故に我は如此節に及ぶまで 無衣也とて腹を出して見せられ左処が中焦鳩尾之処すきて 下焦臍下の張て自きここつ〳〵と看のすゑうで有たで 此就て思ふに唐青と云もろこしの歴史に柳公慶と云宿が 年八十余りで力も強かつた処此が常に云二ハ五口かやうに長 寿で力さへ有るには初めより外の術にないが未ツ嘗て気 海冷さずまた元爰を以て喜怒を佐けぬばかりの事 じやとそたと云事でしが我父もとんと此通りの行状で有た でも扨近頃夜肱聞話と云ふ青を見たる処がこれは駿河 国の原の宿の□□寺と云寺の住職自隠和尚と云が昔た もので此白隠若かりし程座禅艶法の為に大き身を苦め 介を労し其が為に彼気胸膈に滞てつひに労療の悪泡を 煩ひ諸医百薬寸効も無つたる処が山城の国白河の山奥に 自逃と云老人の其年は弐百歳余なるが隠れ住れでこれが 能く医道に達したる者なる由を聞てそれへ尋ぬ左る処が 何にも聞たる如く白燃は僅に五六尺計の出穀中に答て雑異 の類さらになく実に仙人の有様で吉左る故自隠はそ三号 いて苦に病目を告げて治法を問た処が白幽は内観の方 と云を授けたと云つでん。其内蔵の方と云が右申左る 通り気海丹田に力を張の仕方でひツ既に白隠左しかに言 を立て能く此内観の方を行ひ其功つもらぶ一身の元気 いへしか膝脚足心の間に充足して臍下瓢貌たるに未タ しのうちせざる毬の如くならむ五日七日もしく◯二三日を経 たらすに従前の五積六悪気虚労役等の諸症底を 払て平愈せずれば老僧が頭をきり去れと云ひおいた 程のこしでひ。自隠は僧じでもあまり偽はつかぬ者で此方が弘ク 人とも伝へてしば〳〵鯰を見たる事故かやうに慥に言ひおい た物でし。 抑かやうに煩はしげ二養生の法を伝へるもとうぞ人々の胸を 健ニして真の道を尋ね明させたく思ふ暮胤か老婆際 切でし。すべて志を立て道を学ぶ者は身の養生もせぬ ばならぬ訳で君親に争ひて忠孝を尽すも又世に功を 成して美名を後世に伝へるも命有てこそで心ニ漢箔 ニも孝経セ云青二身体髪膚受二之ヲ又母二下敢テ毀傷一孝之 一始フ也立身ニ行レ逢リ揚一。後世ニ以テ顕二以テ顕二父母ヲ孝之終リ也と有るはまづ 第一に身を全ぐして道を学び立身して扨後世に名を揚 て其父母までも面目を施すやうにするのが孝返し始終を全 うすると云ものじやと云の意でし。此八序にじやに依て云ひます が世の常の人此方づれが後の世までに功を成す故ど云も余り事 〴〵しいじやがさうでないひは彼春秋の左伝にも太上へ立ツ徳ヲ 其次に立ル功ヲ其次ハ立レ言ヲと云云左る如く其徳が国天下に及び普 世人を結むるしは中々凡下の者のなる事ではなく其頃の功を 立ると云も其位ニ居て政ヲ執る程の人でなくてハ成らぬコト で候。夫故いつち下なる言を立て世人を導きでもするが 凡下の相応なる務と云物で山学問する者の心がけは 生こゝらでん 文化八年正月 志都の岩屋講釈本奥かき 石見のや静の名屋てふ御書はもまな ばし良吾が学びの祖と望す玉しき平と 大人の著はし給へる御書にて其の者はし 給へる書の千巻余り有が中の一ツには 有れど靈幸ふ神の御盃の殊更に そはりたりけむ千尋の海の底宝 みたからぬしと愛尊ぶべき御書に なむ有けるさるは此御ふみよ奇魂の くすしの道はも皇産霊の大神より 出て大穴年遅少彦名一柱ノ大神の 清継して即其静の石屋におはしつゝ 治め給ひ弘め玉へる道にして御国のは 更なり諸越の謂ゆる神仙の道に伝 布る医薬方術も又此ノ二柱ノ大神の伝へ 給へるなる事をさへに詳に考へ明し 給へれば此道学ぶ輩には此レの御書に しく物なき故なればぞかし然はあれど 此御書としたゝかなる御書にて 其草稿もいまだ全くは調はざる事 なれは弟子たりといへども弘く拝み 読む事の叶はざるをいかにせむ然るを 爰に去し文化の頃ほひ尓此道の 大意とて師の講聞せ玉へるを其侭に 写取たる御書二巻有上ノ件の大き 石屋に比ぶればいと小けくはみゆる 物から尤もくしびなる御書にて近 くは人の体内をも見明し遠くは 天都みかげ押伏とも見の及ばざる 万国の事等をし書著はし給へ れば目にこそはきゝけく見ゆれ実は いと大きなる構へにてはたいと便よき 作りなりけり然れば此石屋をし桜 木に彫なして千世に朽せぬ御宝と 為さましかば神等の真霊の幸蒙れる 百千が一ッも報い奉る理ならめとわが学 の友なる早田弘道に語らふに本より 心利きます良男にし有ければ我もしか 思へる事なりとて一速く諾なひて頓て 気吹舎に頼申て静の石屋の岩戸 をし斯しも開き初たるは弘道が手 力もたる功にぞ有けるかゝれば今より 後は此道慕ふ人々の貴夜行惑ひも なくあな面白穴さやけとめで悦ぶ 有状を己も去にみちのくのいはでは いかでと有のまに〳〵かく打出るものは 弘道と同じ伊達郡にて薬の道にゆ かり有祭匂ふ藤田里人奥山正胤 山岸蔵書 熊 東火需団