眞如堂縁起
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- 後柏原天皇 [等著], 掃部助久國画
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- 場所: [出版地不明]
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- 後柏原天皇 [等著], 掃部助久國画
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- 日本語
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- [出版者不明]
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- 10010000005583
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- シンニョドウエンギ
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- 東北大学
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狩りぬる
掃部助
真台裳縁起
久国画
真如堂縁起上巻彰
鈴声山之板
鈴声山真正
極楽寺真如堂
Q
の
開山戒算和尚
吏漢明の金人を夢見し大道始て中
国にもろまり梁氏の精舎を営せし
功徳登に沙裏にをよふわか欽明敏達
の聖朝その塵をつきその風をし
しふ企来代々の御願寺国々の国分
一寺后宮臣房の草創華夷遷境の
一山林地として堂塔をかすといふ所
なし黄金の祇林をかひ白馬の招提
をめくる信施霊異のたくひあけ
てかそふへからすおほむね国家の荘嶺
佛閣僧坊にしくはなし嗟呼おほひ
なるかないたれる哉
爰に洛陽城の東神楽岡の辺に鈴
声山真如堂と号して本尊は阿施
随如来にてまします仏閣其地神代
の古より其謂あり厥初あまてらす
おほむ神岩戸にひきこもらせ給ひ
し時八百萬の神たちを神あつ
めにあつめ給ひ神議にはかり給て
庭火をたき神楽を面白く奏し
申されしかは岩戸ひ崩出てもと
のことく世を照させ給しそ洗神楽
の所にちなみて鈴の声あらたに
聞えしかは山を鈴声と名つけく
るならし太神宮の勅をうけて大
己貴尊の跡を垂給ふ地也此堂へ
一毎日皇太神宮号向あるによりて
一重服の輩は内陣へ禁制し来る
事也寺号は真正極楽寺おほよそ
極楽寺と号する事所々におほく侍
れとも是そ真正なるといふこゝろ
にや
本堂を真如堂と称する事ふかきつ
あり大かた中道実相真如法性といへ
るいつれは一仏性の同躰異名也
さるに真如といへるは薫習の心ありて
真如薫の法門とは申也一夢ひらけ
て天下みな春なれは風の気色の
とやかに花のにほひうちかすみて
更に所をわく方もなく人を隔つ
ることもなきかことく此真如の妙理
悪趣をもえらはす悪人をも嫌す
万法に薫する事いつれの仏菩薩
も同事なから別而阿弥陀如来の悲願
にひしとあひ叶へり花のにほひは隔
なけれとも我庵にうつしう通又は手折
かさせは殊に匂ひを得るかやうに弥陀
の悲願一子の慈悲は平等なれとも
摂取の光明は念仏の者を照する
ことし真如平等の理の上に薫習
の力なくては実の益なし是にと
りて不変随縁の二の心あり仮令
一如の理なれとも万法に遍すれは
無窮の真如なる故に是を随縁
真如といふ如此種々の真如なれ
とも其実を論すれは只一種の真
一如なると申せはこれが不変也荊穀
大師萬法是真如由不変故真如是
万法由随縁故と尺せり月の光を衆
水に浮ふれはさま〳〵の影なれとも
其源を尋ぬれは一の天月なるかこと
く両種の真如と申は影とかた地面
と裏とにてさるに二物ならすその
ふだつなきうちにしゐて申さは
一此堂の本意は随縁を面とする
名詮なれはことに自性にかなひ伝
たうとみあるにや
一御惟みれは弥陀如来因位発願の
旨趣果成正覚の体相事博く理
一遍くして等閑かて籬に言出し随分
さに申顕すへきにはあらねと置智
を導き有信を勧めむかために巨海
の一滴万牛か一毛を註しいたすこれ
一当堂の如来に限事には侍らねと殊
に直身の如来にていますなれは誠
心を致し深信を生すへき也まつ仏
一菩薩の願楽に惣別あり惣願とい
ふは四弘誓願也顕密の不同にて五
大願ともいふ同事也是は僧那を始
心に結よりいつれの諸仏諸菩薩もかは
る事なし当今我も剃髪染衣の輩
はこれおなし八宗九宗徳門区なれ
とも仏道を欣求し衆生を浄度せん
とむかふことは全く松かはらす譬へは喜
見城に千二百の門あれともいつれの
門より入て裳拝する所は一の帝釈
王なるかことくさて別願にいたり
て釈迦は五百の大願薬師は十二
能願王文殊は逆縁願普賢は十願
かやうに多少は不問也さるに
一弥陀は四十八の別願を発し給そ
の源は乃往過去久遠劫之間に定光佛
といふ仏出世しまします今日釈尊
も彼記前を獲給へり春より五十
三の仏出給其後世自在王佛出世
成道し説法利生したまふ于時国
王います仏の所説を信敬し給て
心に悦予を懐きて無上の道意
を発して忽に国を棄捨し位を
一謙退して出家沙門と成給て
その御名を曇摩迦と
号したまへり是を
法蔵と翻せり
二月廿一日
}
十一月
一金保十二反
同断
さて法蔵比丘高才勇哲なる事世
に超人に異にして即世自在王のみ
もとに詣して無上正覚の願心を発
さむ事を申給時波仏広く二百一
十億の諸仏の利土のやうを説あら
し給是は此比丘の浄国をしめて正
覚をならむための沸意也是より
法蔵菩薩珊提嵐国にして樹下石上
に安住し五劫を具足して思惟し
給一劫すら久しき事とも申計
なき事也凡劫量に大中少の
不同あれと覚一劫といふは梵天三
珠の衣にて四十里の石を植つく
す程又芥子を一粒つゝくり尽すた
とへなといへり只おろうなるは劫
をふるといふ事は限なく久しき
ことゝ心えをけは相違なき事也
此五劫と申に表示を習侍る事あ
り又十万億の仏土を過て極楽
世界ありといへるも所表あり又
去此不遠ともとかれ侍れはもと
より遠近は人の心によりて方寸の
一対内にも具足し侍れはさやうの所
をは閣て超世の悲願の妙なる事
を信すへしかやうにひさしく思惟し
給ことはたゝ大かたにては罪悪の凡
夫救ひかたかるへき故に一切有情の
一断悪證理の修行を此五劫にき
はめ二百一十億の諸仏の妙土を指
取して西方極楽世界をしめて正覚
を成せむとて六八の願を発誓し
給世月在王如来もこれ特を得たり
と称讃し給へは此四十八の発願一も
むなしくはわれ正覚を成せしとち
かひ給に普地六種に震動し天夜
四方に雨散して自然に音楽空中
に聞えて讃し奉して決定して益
上正覚を成し給へは願楽たかはす
と誰か信ささらむ如此ちかひ給に弥
随正覚を成し給うへは六八の願一覚
不違一切衆生を迎接し給はん事
疑なし第一無三悪趣の願より第十
八の願に乃至十念の輩も往生す
へき事十方の衆生に択事な
き上に第世五の願に別て女人往
一生の願を發さる大師彫刻の初よ
り女院の離宮へうつりさす事
一当堂如来の素意顕然也されは
善人猶往生す況哉悪人をや男
子猶往生す制哉女人をやとい
へるこれ諸仏に楽はりた
る弥陀の願力也
同断
抑本尊は慈覚大師の真作也天
長年中志賀郡留鹿明神覚大
師に対面ありて如法経堂番神入衆
望請ありける時柄木柱一本皮明神よ
り助成あり此木のもと切毎夜放光明
之間大師慎み給て打わりて見給に一片。
は坐像の佛躰一片は立像の尊形木
の目にあさやかに見ゆ仍以此異来先弥陀
坐像一体運華部印造立し給て大師随身
奉持し給ひしか後には日吉社念仏堂の
一本尊となり給今一斤の木立像の形
あるをは憶念したまふ事ありて其
時は造立したまはさりし也
そのゝ地慈覚大師先師清夜の善夢
に驚き入唐求法の請益にあたりて
仁明天皇御宇承和五年六月廿二日勅
一使参議右大辨兼相模守藤原常嗣と
あひ共に都をたち同船して渡唐随
一浪の上に漂泛し危舫の中に労働し
給て事ゆへなく唐朝にいたり給ぬ
舟船
一谷峯山之板
参りて覚大師天台山にのほり五台
山にいたりて諸大徳にあひて顕密の仏
法を伝へきはめ給殊に北台の普通院
にして生身の文殊に値過し極楽世界
の八切徳池の浪の音に唱ふる曲調を伝て
引声の阿弥陀経を受得したまふ
大師在唐之間会昌の記に
よりて殊に求法艱難し給ひ
十年をへて承和十四年十月
に勅使あひともに乗船帰朝あ
りけるに皮引声の一曲を失念
あるによりて焼香礼拝し祈精
し給に虚空より船帆の上に小
一身の阿弥陀仏香煙に住立し成
就如是や功徳荘厳と唱へ給時大
一師随喜肝膽し至心信楽し給ひ
て吾朝に来至ありて一切衆生を
一済度し給へき本願いつはりまし
まさすは我法衣へ移り給へと祈
念し給ひけれはまのあたり影向
し給を即袈裟に裹とり給と
春につきて五台山にて文殊の
あらはれ給ひしも弥陀の教勅
なし文殊發願経に願我命終
時滅除諸障界面見弥陀仏往
一生安楽国とあれは諸菩薩おほ
き中にも文殊につけ給ける
なるべし凡真丹にて南岳は観音
の現身天台は薬王の変作也此
一師資の契約を反して日城にては
傳教は薬王の再誕慈覚は観音
の化生也かやうに主となら伴と成
ても弥陀法華一体益二のさとり
を得しめむためそかしされは
一船中に小身の弥随現し給し
一の観音大士は師孝のため
に冠中に安置し給な
れは別仏にはあ
羅し万文
さて以前胎をかれし片来にて
一弥陀立像一刀三礼に彫刻して
一皮船中出現の仕佛を腹身し
給
御長三尺三寸
九品来迎印
当堂本尊是也
一然に眉間の毫光余仏にかは
りたる本尊也是則白臺相い
また分まはしはかりして玉を
入給はて大師申給当山円頓行
一者四種三昧の本尊と成給へと
申給に三度かはりを振給大師
悲喜交流して御本願を湯せん
とおほさは聚洛に下給て一切衆生
を引摂し給へき中にも罪ふる
き女人等を救ひたまふへしと
申させ給へは三度うなつきまし
ますありかたしとも言辞に述かた
き事也既に生身の尊体にてい
ますれは重而刀をたつへき
やうなしと恐怖を懐て白臺の
玉をいれ給はさる也と此上者即
如来を聚洛に下したまふへきを
生身の仏体なる故に大師執
心し給て在生の間はなを
叡山に置奉り常行
堂に安置し給と
真知堂縁起上卷二十六
圓融院御宇永観二年の春
戒奚上人の夢に老僧来て云我
は常行堂より来れり聚洛に出
て一切群類を利益し殊に女人
を済度せむと思へり急き下山せ
しむへしと告給事及度々間
一此由披露三院の衆議をなしけ
るに皮告夢はかりは伊かゝと申衆
徒おほくありけれとも大師在世
造立の時うなつかせ給ける事あれ
は不能抑留して戒美の所好に
任て下山あらしめ先雲母坂の地
蔵堂まて遷座せしむされとも
山下にて何の在所か可然之場地
ならむと沙汰しける其夜又老僧
の告て云神楽岡の辺に長尺余の
一檜木千本一夜中に生たる所ある
へし是即佛法有銀之地衆生
数度之處未世相応真正極楽の霊
地也と
真正極楽寺
此夢詞による歟
此夢に驚て上人
急き弟子。僧を下して見せしむ
るに女院離宮の境内に日比もみ
ぬ檜木生出たる事歴慾也今の東
一山真如堂の敷地是也同夜白河女
一条院母后
御夢に一人の老僧我は
院
東三条院
穀山常行堂より来れり女人済度
の本願ある故に聚洛にくたる先
汝の宮中に来至すへしと告給へり
此瑞夢に驚き給て山上へ専使
をのほせ給に上人より檜木の生
たる在所みせに下しける僧西坂に
て行あひて互に此事申いたし
不思議之由相語両方へ上り下り
けるとさる間先女院の宮中へそ
遷座ありける其比の山門碩学あ
また暖請し給ひて儼然の儀式
めてたかりけり五障三
従の女身をもとゝ済
度し給ふ事
しかなり
金澤山之板
詞
宸筆人王百五代後栢原院
宸筆
絵
掃部助久国
四十一
第五百
九十三日丁
同同三反三畝十五才〆三
狩笠町
掃部助
中
真如堂縁起
久国画
一一二一八八七七〇四十一
一條院御宇正暦三ヶ年の秋蒙
一宣旨本堂を草建せむとする處
にあるあした一人の童子蓮花織
の錦に裹出たるを荷負して棒
戒算上人云
此是中天竺王舎城耆闍崛山
土也仏説観無量寿経時無数
一衆生聞法得道菩薩聲聞縁覚
賢聖成護持歓喜頻婆娑羅王韋
提布夫人観仏聞是阿闍世王捨悪
入道得無生忍其説法。座下土黄金
一色放光薫今往西天昔説法座下土
一農取之来我是当山護法童子也観
戒華慈悲真正真如信心誠令如此願
上人作七宝壇納此霊土令奉座如
一来得見此壇場転肉眼得明眼遠離
一業積重苦得極楽国土往詣曰与上人
一戒算信心徹肝無言即請取之如来両
足下奉納之云云
皮童子重田返々此如来極楽界正身
一尊也内陣能々可結果吾云蓮華童
子為安山護法令顕現欲知我住所
一此如来在生之山必可有醍醐味水
當後門可奉誘闕伽井住彼辺曰即
去是故定基彼醍醐味水令建立堂
閣者也云云
一彼霊水今後門閣伽井是也
以上古記文
かくのことく蓮花童子のいへるに
まかせて霊水の湧いつる所を後門に
あて陽離壇を集て霊山会下の
土をおさめ埋て其上に
御厨子を建立
せぬ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
同五年朔八月十一日直身の如来を奉遷座
一鈴声山真如堂畢これ女院の后宮をよせ
つくられて結構をくはへ荘厳をまさしめ
給へら自余已降于今火災無之後門の霊水
の故と申伝之よりて当堂信殿の輩は火
災をのかるへしと也されはいつくの寺塔
一にも侍れと専本堂うしろの泉石浄水を
むすひて過去霊儀にもたむけ現在の実
薬をもきよむへき也惣而現世無比樂後
生々浄土たのもしき哉うや〳〵しき
哉就中四天の像外護鎮将として本
尊におなしく覚大師の製作瑠璃
壇に安置之訖
戒算上人沙汰として長保元記年二
月十五日奉造立丈六涅槃仏
後門二階に
安置之
成供養遺教会自同十六日取四十八日不
断念仏動行す上人毎日定午時説
益法味講宣浄土三部経結顧四
月四日也云云
□□□□□□□□
一合沢山之板
楽やうに興隆して上人数十年当
一寺に居住戒定恵三学詳に兼備し
仏法僧三宝懇に歸依す高祖天台
一授くるに十界を以し導に律儀を
いすといへるに任て殊に戒門をま
もる故に戒算の号を得たり即天
一台の臨終の云観音来迎の教におな
死期の瑞夢を感しあらたに
季正月廿七日兼知
ひま
しく天喜元
食食
聖衆の来迎を拝し正念往
生行年九十一歳毎年正忌
前に法華五種妙行
動修之云
一治承元暦の乱世に堂舎も摧朽し
一本尊もやゝ雨露におかされ給ふ六
代住持静真法印自力堪かたきによ
りて解脱房貞慶上人に申談し侍
りしかは皮上人勧進聖となりて
修理造菅畢
一古記曰去治承乱逆之後梵宇被
侵風雨佛事怠勤行之時住持義
一弁上人推歎此事敢無合力之人
其間義弁成修復興隆之語附属
静真畢其後後堀川院御宇申
合笠置解脱上人同心勧進之間心勧進之間云
御帳新調云堂閣大管抽随分之
一微志致鄭重之尊崇是則幸
遇我君二品法親王
青蓮院宮道覚
後鳥羽院御子
御
時成当寺之繁昌御機縁之至仰
而有余云云
一本堂の前右の方によりて多宝の塔婆一
一基建立之又鎮守山王奉勧請之社壇を
ありて如形之祭祠在之云云
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□
古吉
所
千
勅言
和
介
三冊
或時当堂の如来法然上人にさつれ
給ひ計る歌
たゝたのめよろつの罪はふくとも
わか本願のあらむかきりは
この哥を上人蓮生法師かたへ念仏
の名号書遣之その名号のわきに楽
たた仮名にてかゝる仍熊谷入道方へ
の状の返事写載之
ハルカノ程ワサトヒトヲ上給ゝヨロコ
ヒ入トサリナカラ支新キ御タツネ
ニト浄土宗ノカンシン此タヒ必々往生
シ候事ハ人ニハヨラスト誰〻モ唯申
セハタスカルト斗心ヘテ世ニタクヒ
ナキ悪人ナリ共南無阿弥陀仏トト
ナヘイレハ一念ニテモ決定往生ヲト
ケ候ナリコノ外ニ別ニ心へ候ヘハ往生
ヲシソコナヒト又ソレノハラノアシキ
事京ニモ御所中ニモカクレナク候是
非ニ御ナヲシ候ヘクトハラアシク共往
生は決定御遂候べク候源空力一郡
ノ程ハナカヲ違申へしゝ念仏力ナ
可申ナルトテシハリタヽク事更ニ
三月九月三十九月三十九月三十九日此度目出度十ヲシ
候ヨシニテ御音信候へ穴賢
又勢観房へ書テサツケト金色ノ
名号アマリホシサニ押テトラル由ウ
ケ給り候是は罪カクルシカラヌカ
ノ御タツネウケ給トタトヒツミニ
ナラス共他人ノ物ヲヲサヘテ取ル法
ヤトソノ上ヘ大ナル罪ニテ候イソキカ
ヘサレ候ヘ是モハラノアシキカラヲコル
一事ニテ候志ハアワレニト程ニ名号
書テ参候ワキノウタハ真如堂ノ
一如来ヨリサツケ給ヒ候哥ニテ候金
色ニシタク候ヘ共イソクヒンキニテ
候程ニ墨ノマヽ参候京ト国ト程トヲク
候程ニシルヘニ判ヲ加ヘテ参候悪筆ニテ人
ノ見候処モハヽカリナカラ師弟ノケイヤク
ニテ候ヘハカツウハ形見ニ候穴賢
建永二年正月朔日源空
熊谷入道殿
一尚申候金色ノ名号は勢観房舎
咒●咒●咒●咒ノ臨終ニ光明ヲカンシトトテナヲ
サリ秘蔵トカヘニ書テ授クヘキヨシ
申候へ共瑞光カトシ程ニ元ノヲコ
ヒテトワヒ候ヒラニカヘサレ候ヘサレ候ヘ契申
トクレ〳〵短キナル事不可然候穴賢々
法然上人は大勢至菩薩の化現にてい
ますなれは自身のためにてはな
けれとも我身を罪ふかく思ひ見かき
りたるものは弥陀たのみてもいかゝと
ためらふ機のためにしめにしめにしめせとの御つ
遣なるへし此状にみえ侍る瑞光
を感したる金色の名号書札
なと今に在之
一華開院秀馨上人伝治の子細ありて
一金戒光明寺に寄進之新黒谷也
如し十一
□□□□□□□
一法然上人第三回の追善に当伽藍
にを書て安居院法印道俗をあつ
めて七ヶ日百万返の念仏を勧修し
毎日午時説法利益ありしに貴賤
群集稲麻のことく絹素象絹竹葦
のことし雲に衣をかさね霞に袖
をかはす各信心をおこし感涙を落
さすと云事なかりきと
一委盲法然の伝記に
載之又三部の
楽なかきと云
抄に注ごく
間あら〳〵
書出之
対
安嘉門院
後高倉院皇女
異に他御帰依
御法名慈心
一仍摂津国柳津庄橘御園河尻之
内光貞名掠橋之内為燈油料御
寄進之是則庭上金燈呂田也
今者石
燈呂也
古記為永代不踰之地殊凝御除
一病延命之精誠宜奉祈宝祚長
一久於御万歳之後者可奉祈後高
一倉法皇当御方御菩提也云云
文永元年十二月日
一北白河の后宮より毎日令参詣給
ふ内陣は結界なれは外陣尓御
座畳二帖敷之又傍に扈従の
一御女房座一畳敷之畢
一関東執権平泰時奉敬信如来殊更
一静真法印被歸依云云依之美作国
一冨田庄之内藤田里地頭職寄附
ふしをはんぬ
之に
嘉禎四年京上之時為改武蔵
前司沙汰別定補三口供僧長
一日勤行不動千手之念誦奉行
家門繁昌又長日阿弥陀供美法
一奉資二位尼御前權大夫御菩薩
一提可奉廻向武蔵入道殿往生
一極楽云寄附状文
細々参詣在洛
之間おこたら
須と云
ドインド
〃
いにしへ都ちかきあたりの人念仏
して往生するとは知なから不審
のみ心にありけれは真実の義を
示し給へと祈誓して常に通
一夜し念仏せしに或夜の夢に
老僧の枕かみにたちて詠し
給ふ
弥陀堂の年人はあま夜の星なれや
雲はれねとも西へこそゆけ
貞永の比に屋一条の辺より日
参する俗ありけり或時霖雨に鴨
川の水出てあすは参詣も叶ま
しくやとおもひわつらひける
夜老僧の
千度たに
我は末よふに
いかなれは
日に一度の
ものうかるらむ舛
此夢におとろまてやかてあした
出たち縦水に溺るともと思ひ
てまうて三ゆるほどに相違なく水
をもわたりて日参をこた
らさりけり毎日千返の
こゝろ難有事
明利
開催
「アァ
近代
伏見院御宇安居院禅尼専念
一弥陀帰依信心渇仰異に地して
一為燈油料和州河合長原庄寄
一附之畢皮禅尼後世の事覚さ
る事にて現世福報をも祈け
れはまのあたり如意満足室内磐
昌せりけに三十八の願には欲
一得衣服随念即至とちかはれ又
我於無量劫不為大施主普済諸
貧苦誓不成正覚ともあれは
一誰も信心の水きよくすみな
は感応の光を湛へ年事
何の疑かあらむし
キスチスキン
元享の比向阿上人といひしは偏に
念仏に帰しけるか其比浄土門
の餘流さま〳〵也よも法然上人の
をしへ遥にはあらしと思煩ひ遣
る程に年比ちなみし同朋の有
けるか北白河の辺に住と聞て
行けるにむなし喜跡を尋ねくらし
て事の次はこゝろやましけれと
志は仏しり給へし今日は弥陀感
応の日なれはとて其夜は当堂に
通夜してうぢまとろみけるに
いつの程より来けむ僧二人語り
ゐたり一人は遠くきたれ行と覚
て初發心修行者なり一人は此あた
りの人とおほしきか老音也何事
にかと聞に念仏の法門残所なく
申あへり真に二尊の化現なら
てはとおほゆ中にも老僧云法然
上人第三回の仏事に当伽藍に
して聖覚法印講談三心四修の
沙汰耳に留りぬるよし語給ふ是
を思惟するに百余歳以前の事也
一如来の変化疑なしと思日かくて漸
一明けれは暇申とて修行者たち
出ぬ行末ゆり敷て見送り侍るに将
かたの霧の粉に見失ひ侍ると
是又尋常の人ともおほえすさ
るを其夜通夜せし諸人隠
聞せすして只向阿のみ見聞せし
そ不思議なるさてもかゝるい見し
一き聴聞の端々注置て愚癡の輩
にしらしめまほしけれと仏意
いかゝとあやしみて又当堂に参籠
して真実仏勅なりせは春験を
一示し給へ筆記せむと祈精せし
に老僧告給はく若法門に猶不審
あらは嵯峨清深寺に詣すへし
どて筆を給はると思て夢ま
めけれは掌の中に筆あり其
一後告夢に任せ古き願に事寄
て清深寺尓参籠し七日も今
夜はかりと深行空に老声にて
一南無恩徳広大釈迦善逝と礼す
けに慈恩広大にいますと聞心
まてもよほすに又釈迦者此方
に発遺すと誦せるを聞は去年
の社明方の霧に見失ひしゆ
く衛ゆかし果りし修行者也今そ
釈迦の化現と思ひと思ひ合て弥瑞夢
たのも敷今夜又いかなるありかた
き事か幾かむと思ひけるに人々
あまたさし集りて王前の法門
にもれにし事共語り尽し
侍と既仏勅ゆるされ筆を賜は
る上は後代の物をかへりみは両
度の法談ありのまゝに筆記して
三部の仮名書とて一部七冊の
抄を記すをそ良くは我朝の
仏説なるをや世流布の事なれは
毒く注すに及はすさて又清深寺
にしては夢中に桃李は一王の栄
一花松は千年の翠なり是弥陀一
教利物偏増の義也とて松の枝
を給はり畢抑皮向阿と申はも
とは園城寺の住侶浄花房證賢
とて無髪の碩学也然而弘安十年
行年廿三にして発心し離山
しける如意寺の大門の柱に
おもひたつ衣の色はうつくとも
かへらし物よ墨染のそて
と一首を書つけ洛川にいて花
にして則隠遁黒衣の
皇居
身となり其後浄華院を開基
して是心上人と号す浄土鎮西
能一流名匠屋むことな喜聖人也
されは皮筆も松の朶も
色かはらすして彼
寺の霊窟
となり
近来
さても
わし
とぞ
三
上下
井戸
報
梅
一鈴声山之板
コ
一永享の比を尤伊勢守貞経舎
法名
といひし若年より
第貞国
真蓮
深く弥陀の誓願に帰し口稱
念仏を縡とす現当二世共以如来
を奉憑心無他事或時清三界有
為の転変を歎き四相遷流の懸
常を思ひてたとひ吾千秋の齢
を保つとも松樹終に朽木となる万
歳楽に誇るとも蓬島更に腐草
と宜し過去遠々の沈淪未来永々
の憂患を案しとりて当堂に通
一夜して今宵明かたに驚きらむと
思定てまとろみけるに残更に向
とする枕地て僧形たちまして汝か
現世後生ともに我を頼む志全く
一偽なし来生は超世の願に任てむ
今世の事は今三日を可調待と示現
し給ふ夢とも覚すいかにかと申け
るに詠哥をもつて
心たにたてし地かひにかなひなは
世のいとなみはとにもかくにも
此告夢にまかせて先遁世の事
恩留りけり翌日に舎兄貞経上意
に遣て都を忍て吉野の奥に
一蟄居す扨舎弟貞国をめし出され
て瑞夢のことへ三日と申に家督
に定まりぬ繁昌不尋常といへと
も常に参詣懈りなきもの也又
一後悲女隆慶院信元禅尼は注帰
禅法これ大方の他にして参禅な
ともなし真蓮此事を歎く寄事
於春野遊て当堂へ参詣あらせし
に拝本尊事不叶さる間悲歎限
一なくして寺中に草庵むすひ号無量
念々不退に念仏そのゝ地快
一如来を拝し奉利て
往生ありし也
真山信濃紀中巻三十八
仏迦
十一日
詞
入道式部卿宮
伏見宮二品邦高親王
一法名号安養院恵宜
入道尊鎮親王
天台座主青蓮院宮
後柏原院皇子
絵
掃部助久国
狩り
掃部則
□□□□□□□
久国画
真如堂縁起
一御帳のうちに千手観音不動明王
□□□
一両像います何も戒算上人感得
之尊霊験異に他後花園院御宇
一文安の比晴明未孫安倍有清朝臣当
一堂不動像之事先祖持尊也殊晴
明
天文博士大膳大夫
蘇生後保八十五歳云云
逝去之時閻魔王宮へ
至りて命を乞請給ふ故に蘇生あ
りし名尊也以綸命可被返付子孫之由
歎申によりて如然被仰出之
勅定之上者不能子細以吉日御迎至
一即朱唐櫃に奉納之皮使節与
一住持忠淳僧都柵符を付て帰京先
於禁中可有御料覧之由依仰直
に糸内即符を切て見給ふに明
王無之如何之由雖被尋仰之使節
更に不存知之旨申之但はしめは重
くありしか賀茂川辺より俄にかろく
成し不審之由各々申すと奏聞あ
りけるほとに先寺家へ尋けれとも
一別子細なしされとも御厨子之内を
一可免之由申あひて見えに内に坐し
まします此間は如来と同く東
一向に生し給ふいまは如来之右方
に北方へ向て坐し給ふ剣をは御
膝に横へてあり不思議之由注進之
処に散感不浅仏意凡慮悪事
かたしこの上者皮子孫なかく可止
一訴訟之由被仰之是則如来三致
にいまそかりて参詣之輩をも
生々に加護し給ひ魔難を降て
現当之勝利を得しめむとの誓
的なるへし矧利剣即是弥陀号一
声称念罪皆除弥陀の威力を加
給ふ事甚深也黴妙也されはそ
のかみ蓮花童子の当山の護法と
顕れし事此明王の使者掲焉也こ
ても後に剣を御手に奉令特けれ
とも又御膝にあり子細あるにやと干
一今其まゝ置之就中千手は伝教大師
之御作手掌千眼備に在之仍毎
一年修正に初夜導師之時阿弥陀悔過用
一之後夜道才師之時は千辛悔過用之
ANANAT
一金五十八之坂一
應仁のはしめのころをひ田中の里
にいやしき尾あり日参しけれとも
念仏申事はなくて心経をむしつゝ
りによみゐてのみ侍けるある時礼
堂佛前にねふりたるに内陣より
時すきて益なき法をすてより
五切思惟はなかためそゝ覚
この哥をおほえては侍れとも心を
もしらすして本房に来りて
尋ける間しか〳〵と申
きかせけれは
それより
念仏申て
往生の素懐遂ける
去応仁の大乱により同二年
代
一月三日如来を黒谷青龍寺へ奉
衫之春刻東岩倉合戦狼煙
まらになひき鯢波風に
ひゝすておひ
定し
桃
貢文賞編玄下老一
かゝりし処に西国諸軍勢寺中
に乱入諸堂坊舎等陣屋のため
に破取しほとに暫く荒野に成
し也其後本尊坂本へ下申たき
由衆僧内談せしおりふし穴太下
一司竹内と申か夢に老僧ありて我
は洛陽東山邊のものなり近頃青
龍寺にあり緇素利益のために下
山すへし汝敷地日んかしのかた我に与。
へよとの給ふとおほえて夢さめぬい
かやうなる事にかと思ひて黒谷への
ほりて伺ひける程に此如来坂本に
てもいつくへ下し奉るへきと談合
のおもふし也とかたれはさては疑
なしとてやかて敷地を奇進申せし
かは穴太に一宇を建立して
一文明二亥年三月十五日に穴太真如
寅十庚庚
一堂号宝号一号宝移之
貴賤群集に今
不恥本所者
也
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
一其後天下属静謐之間文明九年
三月廿六日洛陽一条町へ奉遷之
一宝光寺には御代尊
御代尊御台所妙善院
一御台所妙善院殿専御
一安置之恵心御作
一帰依為滅罪生善之御祈於礼堂
四十八日不断念仏被修之文明十
二年二月十日始行同三月廿七日結
一願之道俗群集の中に乞食者あ
り譬てゐさりける者一七日こもり
居て此病をなをしてたひ給へ不
然則命終せむ事を祈申ける七
日満する暁僧形の来て小刀にて足
の筋をたち切と思ひけれは夢う
地覚てみるに膝の下血あへたり
夜あけゝれは足たちて歩みける
こそ不思議なれされと常の人の
ことくはあらさりけらし四十八日
念仏の砌なれは参詣の輩各お
とろき見て信敬せすと
いふ事なかわき
十一日
慈照院殿東山に御座時分別而
一当寺御帰依為大施主当堂可
被修造之由被仰之文明十六願秀
六月一日自一条町東山の旧跡へ帰
金燈呂
ないぢんにつる
一座畢先例同十一日常燈二器金丸目
内陣釣之
為不退之新所寺辺近境花園田
之内御寄附之同十七年三月二
一日本堂立柱畢其後細々御参詣
御逆修ありて七日〳〵にある
る日御参堂御懇篤
あさからさりき
四十一
□□□□□□□
□□□□□□□□
EELEE
二二二二
二二二二
五二二二
二二二二二
一二二二
日目目
月月日日
一鈴草山之板
一同比真盛上人群生化導のため
に法談青蓮院門跡出世蓮門院
一光譽僕従に席若と申ける者如来を
みなてまつらす上人憐愍し別
一儀をもつて御帳を開て見せし
めけれ共不奉拝之御くしのほ
とに扇をあけらるはよくみえけ
れとも尊体はみえすとそのゝち
一光誉法印欲し召具して参籠
せしに彼者申やうよその佛を
はいつれも皆拝見せしむ當堂
の如来我にかくれ給ふ事更に
くるしからぬよし申て一七日参
籠の中に門前なる白河の流に
て魚を漁りけるそあさましき
一逆縁とは成もやせむ順縁は
おもひたえたり後輩の
三十二丁
いましめのために
是を書注之
同断同十
金声山之松
女は
□□□□□□□□
十一
一金米〆二反
一本尊遷座之事本堂いまた半作
たりといへとも住持長淳二以立
之労快からさる間一日もも急きたく
存企てゝ
一明応二癸亥八月七日遷座之事
御道師寺務青蓮院准三宮前
一天台主令勤修之給僧綱有職
以下今津之給凡僧等
供奉之次第
載別記之間
省略之龍
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
と
□□□□
}
◎
一当堂修造之事慈照院殿御願
たりといへともほとなく雲かくれ
まし〳〵しかは本尊は御復座あ
りなからいかにも成風たよりを得か
妻の資源
たきによりて文亀三年三月
二日より本尊開帳本願見阿弥勒
進聖者騰蓮社玉翁毎日講談阿弥陀
一経同廿九日結願之当時浄土宗碩学
にて道俗帰依異に他之故寸金尺
木之熟志幾の日数ならねと
あつまりて早速に
造功之畢
同四月七日本堂上棟に時紫雲堂
上に遍覆し天花虚空に乱墜
す曼陀羅華にてそ侍らむし
ろくきらめきたる花まちかく散く
たれる程に諸人手にとらむとた
ちをよへは空に消ける也其外種々
一奇妙雑色之鳥たち舞とみゆ棟
にたてたる弓の上にからす飛来て
左右にゐたり上棟祝儀縡終ぬ
れは天華もみえす烏
鶴も仕鳥も雲に
つれて同く西の
空に去ぬ
そのひいぬのこく
其日戌刻
通いゑうをはんぬ
開帳畢
十一月十一月十七日
一本堂造畢殊に奇瑞末代といへとも
ありかた楽わけらし然而門槨た
しかならす特に往代女院の皇宮
を引うつされし時より四足の門
也且者寺家の美目なれは如先年
一玉翁上人を相語之永正二臥売三
一月二日又開帳法談同四月十日立
柱同廿四日
上棟
同日印帳
凶形寺門
造立畢
一陸造畢本堂供養の儀則難
事行して経数年臻に美作国大
一葉郡真鴻座住人に念仏行者あ
り善阿弥と号す皮ひしり一夏之
間当寺に参籠の志あるよし懇
一望して数旬住居せしむ仍住持昭
淳律師此堂供養なき事歎入之
由相談之處に成不は奉任佛意
て可思企之由令同心之条永正十六
巳
昨年五月十七日為勧進先防州へ
一令下向了在国隆亘年月更卷其
便之間同国赤崎辨才天へ可祈精
之志ありて同十八年正月一日より於
彼天女宝前断菜木食してもし
一此事不成就者命終せしめ給へと一
心に祈念す抑此赤崎明神と申は
芸州厳嶋明神たゝ勢給ふ。以前
にまつこの赤崎へ影向し給本地
は地蔵薬師釈迦と申す地蔵は
濁世の導師薬師は昼夜の擁
護釈迦は以法華経為身体と秘
記に載たり凡辨天は弗沙佛の
一所とにして福天となれり併如意
珠の形に出なる也世流布の分は如
一意輪観音の垂迹也然に如此諸尊
にわたる事遣にも如意珠は心法の
當体なれはこれ萬法にへんす
真即是俗々即是真如々意珠文
巌嶋は胎蔵毘盧遮那の応返とい
へりいつれによりても相連なし
一然に法花の詮は龍女成佛是則辨
才天也又弥陀法花は一仏の異名恵
心院先徳広念仏を唱んとて法
華を読誦し小法華を読んと
ては六字。名号を誦せらる昔在霊
一山名法花今在西方名称随なれは
殊感応道を交へたりとたのもし〳〵
覚ゆ一七ヶ日参籠結願して後
一如形勧進を得て同五月下旬国を
たち六月十一日に歸洛す但猶供養
一厳重之儀式遂かたくて重々都鄙の貴
賤をつゝめ且者四衆有情結縁の
ため且右十方檀扉開会のために
同八月十五日時正開日於礼堂別時
一念仏始行之僧衆四十八人如先規十箇日
之間執行之同廿四日結願之畢仍供
養当日は同廿九日也御導師寺務
青蓮院宮入道親王以綸旨兼日御
一案内右中将重親御請文在之
一辰下尅御導師御入寺如常相調之
一先法会以前舞楽人於礼堂乱弾
其後勅使参向給右中弁資定次舞
一楽人御導師方夫より御参堂之
砌於門下万歳樂をはしめて於庭
上一曲を奏す次列列有職以下次
弟役者如例次於仏前之庭上万
一煉楽の一曲在之次法会はしまりて
一散華大行道以楽人為先行其外僧
正法印僧都律師以下讃衆等役者次
一㐧株證委記別在之間不及注之さ
ても法会始行之時分より端雲西
天より流出靉靆して堂上に覆へ
り又三光詳に現します一々の奇
一端緇素貴賤是を拝し掌をあ
はせ心を致して
仰信す
猶別記に
しるせり
〇〇〇〇
□□□□□□□□
□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□
一〇〇〇〇〇〇
□□□□
Y
いてもの
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
にゆる
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
一此本尊日夜朝暮参詣之輩に
一拝見せさる人已往より其数を
しらす或はそのよしを。相語て悲歎
するもあり或は恥思ひていひ出さ
ぬもあり先年真盛上人あはれ
みて内陣御帳を寐て手をとり
て引入すれとも終にみたてまつら
て只白壁のやうにみる等族あまりに
事多けれは験記に載るはかり
にて今不注之就其さしもなき者
と思ふもよく拝見し又これはし
かるへきとみゆる人の拝せぬもあり
一皆是宿縁による以之思之に見
一聞障りなき者は順次の往生有
一何疑乎此外夢の告によりて兼知
一死期し化に即得往生の相侍る
輩昨今に至て
際限なきによりて
験記に譲之
而已
詞
入道前内大臣
西三條実隆公法名
号逍遥院尭空
法務前大僧正公助
号定法寺青蓮院宮院室
轉法輪左府公敦公息
絵
掃部助久国
外題
宸筆
後柏原院
此絵三巻住持昭淳僧都命尽工
一掃部助久国全図之於詞者古今
見聞之霊験等粗抽詮要法務前
大僧正公勅草之誠是寺家未来
際之珍奇也道俗貴賤一見之輩
一須為滅罪生善往生極楽之良因
歳次
而已于時大永四
年八月記之
口ノ
遍照金剛入道親王尊鎮
新刻真如堂阿弥陀仏像縁起跋
右本堂阿彌陀佛像縁起三巻珍
蔵久矣去歳本寺罹池魚殃堂宇
晝燬而佛像縁起得免其禍寺衆
共謀遍叩諸檀営建堂宇因今画
師友竹冩之能書人雲竹書之既
成命諸梓工広布四方庶幾使見
聞者起歓喜布施之心也聊紀年
時以跋簡尾其綴文書尽姓名各
具本巻今不復贅
元禄六年歳次癸酉十月真正極楽
寺第二十八世住持沙門尊通謹識
義
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□