江戸名所花暦

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岡山鳥編, 長谷川雪旦畫
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場所: [出版地不明]
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岡山鳥編, 長谷川雪旦畫
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日本語
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守不足齋
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エドメイショハナゴヨミ
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東北大学
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狩る明 □□ のふ あま 〇 江戸名所花屑 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 上春 江戸名所花暦 丁亥初秋 長谷川雪旦画新彫談花 江戸名所花暦全 守不足斎蔵梓 廿一日 画。 正川八 □□□□ 凡 ̄ソ物 ̄ノ益_二乎此 ̄ト乎此 ̄ニ_一 ̄ナリ乎彼 ̄ナリ乎彼 ̄ル_二乎彼 ̄ル_二乎彼 ̄ニ失_二 乎此 ̄ニ_一此 ̄レ乃 ̄チ-毀_一舉辱 ̄ノ之不 ̄ルナルナリ能_レ免 ̄ハ_レ免 ̄ル 也。損益得失 ̄ノ之不_レ ̄ルヿ能 ̄ハ不_レ ̄ル_レ ̄ルト争 ̄ハ也圖- 山鳥◦著_二 江-戸花-暦一-函 ̄ヲ_一。四-方四-時 ̄ノ之佳- 境燎-然 ̄シテ有_二目-睫 ̄ニ_一 ̄ニ夫 ̄レ不 ̄レ不 ̄レ用 ̄ヒ一-銭 ̄ノ之 費 ̄ヲ_一 ̄ヲ而 ̄メ悦_二人 ̄ノ之耳目_一 ̄ヲ者-月花鳥 世有 ̄ル_二貪 ̄ル_レ之者_一而 ̄モ無 ̄シ_レ吝之者 ̄之轍 ̄ト_二- 然 ̄ヲ毀-誉得-失 ̄ノ之外 ̄ノ之外 ̄ニ宜_一 ̄ク_二上 ̄ノ之人 ̄ニ宜_二 ̄シテ_二 ̄シ 下 ̄ノ之人_一 ̄ニ_一宜 ̄テ各 ̄ク置_二 ̄タル二一-函 ̄ヲ於坐右 ̄ニ乃 ̄チ_一。 楽 ̄シ_レ山楽 ̄シテ_レ水之興発-而 ̄ノ忘_二栄辱損 益 ̄ノ之境_一 ̄ヲ。乃 ̄チ長-生/久-視 ̄ノ之津筏-厥 在 ̄シ_二于此 ̄ニ_一乎 丙戌初冬竿斎道人 江戸名所花翳巻之一 春之部目次 崔福井恭活氏ノ劇鼻を 以て済大キ演蘭博士 蒲野亭吉氏薦映畵 ○黄鶴 ○梅花 ○春花 ○桃花 ○彼岸桜 ○桜花 ○萱草 ○梨花 ○款冬 ○桜草 一昨目次 化例 凡例 ○時候は立春立夏立秋立冬より幾日と定むれともその 年の寒暖によつて遅速あるへし ○池名二三ヶ所へ出る事ありそは山吹の処に木下川あり又 ○地名二三ヶ所へ出る事ありそは山吹の処に木下川あり又 一かきそはたの勢に木下川あり桜の部に御殿山ありてまた かきつはたの処に木下川あり桜の部に御殿山ありてまた 一紅葉の部にも出るが如し是四時開花の季候をもつて部 わけせしゆゑなりその外是にしたかふ ○桜馬場のさくら畑しまの藤の類いまなしといへとも古きか ゆゑに是をいたすいまあらたに桜を植込ことろありと いへともこゝろえて出さゝるあり余は是を推して知るへし ○奇記社伝によりていさゝか其処のおもむきをいへるは遊客 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 一の尋ぬるにたよりやすからしめんかためんまたは開名の火 の尋ぬるにたよりやすからしめんかためんまたは同名の地 名あるか故なり ○月雪の名所烏虫の聞ところは花暦によすからさる ○月雪の名所烏虫の聞ところは花暦にあすからさる ことなから他所にすくれしとう呂なれはたくその地名を ことなから他所にすくれしとう呂なれハたゝその地名を の 載するなり 載するなり ○桜はさくうの頃楓はもみちのころ順路をおしはかりて遊覧 一するときは一日数ヶ処の花紅葉を見るに更ならしむ するときは一日数ヶ処の花紅葉を見るに便ならしむ 一江戸の地をはなるゝといへとも遊客のあゆみをはこへるとう絵は 江戸の地をはなるゝといへとも遊客のあゆみをはこへるところは このうちに挙るなり ○空月花を詠するの地所此編にもらく事おほるへしなほ ○豊月花を詠するの地所此編にもるゝ事おほかるへしなほ 続湯花暦注譚といへるにくわしく出すへし 江戸遊覧花暦巻之一 岡山鳥編輯 江戸 ○鶯 根岸の里東叡山の北の麓なり元禄のころ 一御門主より京都の鶯のよきをゑらみておほく放させ 給ふとなり関東のうくひすは訛ありといへとも此處は 上方の卵ゆゑにかなまりなしといひ伝ふ 舌かろし京うくひすの御所言な臣女 東光山良雲院西福寺浅草新堀はたこの後国に遊ふ 一鴬は三州より随身の鴬にして他よりは声異なりと 云伝ふ当寺を松平西福寺といふ事は往古三州松平村 同江戸神医類 根岸の里 東叡山の北の麓なり 此里の鴬は声すくれて よきゆゑに人々はつ音を 聞かむとて風流の 菴をむすへる交人 墨客の許へ知巳の ひと〳〵訪て詩を作 歌よみあるひは緋鶏の歌よみあるひは俳諧 茶の湯等をもよふし 春の日の なかきも みしかしと おもふはかり なり本朝 にて鶯と 称するは なはしんてう 穀春鳥と いふ鳥にて 中華の鶯 とは異なる といへり 枝直 さきにほふ 色香 のみかは 鶯も うめにこそ なけ 山 なな 仝 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ にありし時は松平山といひしゆゑなりと奇伝を尋るに 此事なし近きころ新堀のかたに別門を開て四月十七日 一神影を諸人におがましむ朝より人々参詣す 鶯谷谷中三崎法住寺の向ふ寺院七ヶ寺ある谷なり 《?小石川金剛寺坂の上の谷間なりこの鴬も音色 他に勝れてよし ○梅 梅屋鋪三春より本所亀戸天満宮より三丁程ひかしのかし 一清香菴喜右衛門か庭中に臥龍森と唱ふる名木あり 実に龍の臥たるが如く枝はたれて地中にいりてまた 地をはなれいつれを幹どもさためかたしにほひは菌欝を あさむき花は薄紅ながり国中梅樹多しといへとも殊に 勝れたり四月の頃にいたれは実毒と号て人〻又なかむ 吹くれはかをなつかしみ梅の花ちらさぬほどの天風も哉源時綱 心あらはとはまし物を梅かけに誰る里よりかゆひきつらん俊頼朝臣 同 亀戸天満宮境内「亀戸村にあり境内梅樹多きなるに 一飛梅の椎木あり築り塗紫より是にうつす菅公左近の時 うめを詠し給ふ歌 古知、古知布加波爾保比於挙廿六年米乃波奈阿留 □□□□ 志那之登底波妻那和須戻楚 是によつて梅とんて満所の庭に生すといふ 御嶽社|同所にありこの境内にもうめあり此神は菅神 琉球 江戸門観輝一 亀戸 梅屋鋪 乙由 兄といふ 名には かしこし の 花 □□ 公明朝臣 吹つたく あまた の 梅か香を ひとへに なして にほふ はる 風 の師法性坊阿闍梨の霊神なり神なり参詣ありとりとり ひやくくわゑん わけ正月の初卯日はしゝ人と号て人々群集す 百花蔵。赤島村のうちなり白髭明神のわき俗呼て新 一梅屋敷といふ白梅おほし諸木薬中のたくひ数多有 一季候の所々にいたす国中に年中に羊中花たゆることなし 駒込鱸縄手本郷通り追分の手前組やしき外かこひの内に あり或説にこはうなき縄手にあるへからすむかし苗木を そたてしところなれハ苗木縄手なるへきかといふまた わからいきよくこう 往来曲行してあれは鰻縄手といふか か里又 茅野天神境内「芝増上寺地中松林院に安置する処の 天満宮の境内梅あまたあり 百花園 団中四時の 花たゆることなし 萬葉集の草 木詩経の草 木とて ましるしを してうつ たり 墨田川 〆 やきこ いへる 陶器器 製す 幸里 ・楊讃岐嶷製作 東南蛮西南村露 四日明神会事也 母母富昌氏吟味之助 春西本鳥な并日の刻 伊五年御論ト有コトナル 再無智寺五リ半時過 ヨリ平均五十七〇 宇米茶屋麻布三子坂にあり一重の白森なり正月下旬 山 寒咳に よるべし 盛りなり外よりは遅し古木なり遊行他阿一海 上人このうめに題して歌あり この花の色は白かね名に高く千歳をこめてみのるとこうめ 一至春より六七十日メ 梅樹家ごとの入口にあるもあり または後菌にあるもあり 蒲田村 和名:和名抄 加万太 大森の右のかた郊野に数多し 川崎のかたへ 文政のはしめのこ呂梅木堂和中散 この後図 よりたるをいふ ならひに往還の両側へ梅樹五百本を植見勢より北の かた枝折 かた枝折戸をしつらひ蒲田といへる二大字の額をかけ たり野梅をのこらすことにあつめ一眼に見渡なり 工 その外図中種々の花ありなほ花の部分のところ〳〵に出す 杉田村 同廿七八日ノ 一/東海道中程谷宿より金沢道の方へ一里 一ほと行は民家のはた一面なり実は種少く専ら江戸 一ほと行は民家のはた一面なり実は種少く専ら江戸 にて是を賞翫す花の頃は東都の遊客旅立ぬ ○観音 ○檐 秋葉権現の門前より東東のかたへ十四五/間もさきなる 向島秋葉権現の門前より東のかたへ十四五間もさきなる 家に二百種の異なる花をあつめ植たり 平井聖天西葛西領下平井村渡しをわたりてむかふの河 きしをりいろ〳〵の椿多し 妙亀山総泉寺橋場にありこの処を古名石浜といふ昔 一頼頼朝臣頼朝卿常胤広常に命して隅田川にうき橋をかけしめ 川をわたり豊島の上瀧の川板橋に陳をとるとるとあれは その頃の橋場ならん歟この寺の奥庭に横あり他に ことなる犬樹あり千葉介常胤の石塔あり弘治二丁 ○己年十一月八日卒とあり宇津宮彌三郎の石塔もあり弘安 一徳治の年号なり当院に藻屑物語といふ本あり只 徳治の年号徳治の年号院に藻屑物語といふ本あり是は 浅草西福寺の辺にありし頃十六才なる伊丹左京といふもの と十八才なる舟川采女といへるものと付果したることを しるしたるもの語なり いはきやま 椿山 門 開口の通り上小橋を渡り右のかたへ上る阪のうへ いちゑん 一円をいふ今はたえたり 同 上野下喜 東叡山中屏風坂の手まへ寺院のうしろ下寺 通りより見めくれは狭つらなりて巨勢野もかくやと思ふ はかりなりなりなりなりなりなりなりなり ○桃 もゝその 同六十七八日〆 四谷中野村依台命植るむかしは多くありしか 桃蔵 いまくははんかれ 今は過半枯てなし 御薬菌一九段阪の上束むき御堀はた通り御かこひのうち 紅白の桃数百樹あり 同 大師河原《振り仮名:羽根田への通すちところ〳〵に挑あり 花の色は紅白ひとつならす 吉川/日光道中越ヶ谷のさき田畑の畔あるひは民家の な卵のうちに多し 上野 東叡山 二十一月 山□ 彼岸 水上 籏桜 三吉野 山桜 揚実書 都 浅黄 虎ノ尾 犬桜 流山下総松戸より二里ほとさき野田の辺りなり此処は 活業とするゆゑに桃林いと多し ○桜 東叡山上野 一山のさくら種々ありて開花の 当山は東都第一の 遅速ありといへともみな是に挙る 花の名所にして彼岸桜より咲出て一重八重追々 に咲つゝき弥生の来まて花のたゆることなし 一糸桜 同六十日メ 慈眼堂の前通り坊中 寒松院等覚院護国院 一イヌ桜〽彼岸桜に似て花形大きく異也中堂の西 寒松院の前より谷中のかたへ行道より左の方に大樹 一本あり是當山の花の咲初なり 十月六日夕 一大仏辺。一四軒寺一車阪一車阪一山王社頭一清水観音 清水観音のうしろに秋色桜といへるあり是は大般若と 一呼しむかし小網町菓子屋のむすめおあきといふもの十三 来り十一歳のとき花見に来りて 井のはたの桜あふなし酒の酔秋色 一概句宮の御聴に達し御感ありしとなりこの御女 一跳句宮の御聴に達し御感ありしとなりこの少女 一火色とよひて後非皆の点者となれり宝井其角か 秋色とよひて後俳諧の点者となれり宝井其角か 一口を討傷 点印を附属す 一楽一本に東叡山黒門より仁王門まての並木の桜の したに飛見衆なし松山のうち清水のうしろに幕を はしらかして見る人おほし幕のおほきときは三/百余あり すくなき時は二百あまり有此外につれたちたる女房の 一上着の小袖男の羽をりを弁当かゝけたる細引にとほして 上宿の小袖男の羽をりをり当かゝけたる細引にとほして 一桜の木にゆひつけてかりの幕にして毛氈花むしろ しきて酒のむなり鳴物はならす小歌ならす小歌 にはとかむることなし本町通り町を始有徳なるもさも なきも町かたにて女房むすめ正月の小袖と云は仕立す 一花見小袖とて成ほと手をこめ結構にたてなる物すい 花見小袖とて成ほと手をとめ結構にたてなる物すき 一にしたるを着て出るなり花よりなほ見こと也花の頃 にしたるを着て出るなり花よりなほ見こと也花の頃は 一空くもりておほくは昼過より雨ふるしかれとも傘をも 空くもりておほくは昼過より雨ふるしかれとも傘をも こゝすよきに袖をすきとぬらしてかへるを遊山にもまゝ さゝすよきに袖をすきとぬらしてかへるを遊山にもまた 手からにもする也云云云この文は天和中のありさまをいまみるか ことし○当時の婦女の小袖は結拵といへとも絹緬を かきりとす今より見れはその質素成ること甚し ○彼岸桜 花屋鋪并番町厩谷杉田家のやしきをいひしなり今厩谷 松平氏のやしきをいふ天明の頃は佐野善左衛門殿の弟宅 なり大樹にて桜やしきとも唱ふ 成子楽円寺〽四谷新宿のさき堀内道にあり是又 一大樹なりちかきころ大門の左りの方なる明地へさくらの 苗木を植込たり 無量山寿経寺傳通院同小石川安藤阪のうへなり 此境内にありまた大黒天の社地にも多あり 正念寺ト駒込土物店新道なりこの梵刹は桜多ある故 里俗是をさくらの観音といふ ほうしゆさんえんめい 宝珠山延命院 日暮里谷中日暮の里は江戸鹿子江戸標鹿子紫一本 とふに谷中新堀と見えたり且総鹿子の山の部に新 十一万山と載たるは今俗の道潅山と唱ふるこれなりまた 一番一本に堀の部に新堀としるして所のもの今は日暮里 といふかゝれは天和の頃音訓かよはして日暮里と云るにや 好事のものゝ所為なるへし後亦日暮里を日くらしの里ど 一唱ふるほとに終に旧の名をはよはすして日くらしとのみ となふるものおほかり此地彼岸桜より咲そめて弥生の すゑまて花ありこの末桜の部には別にいたさす いま日くらしの里と唱への定りしは修性院の庭中なる 碑を見て知るべし だれとなく咲そふ花のかけに来てけに日暮の里そ賑ふ程一貸授 木下侯庭中「麻布広尾にあり幹の太サふた抱半鹵丘へ 一廿一間壱尺余東西へ十九間余たゝ小山に雪をおひたるか こと〳〵花の頃は見物をゆるされしか近頃止られたり しけんりうりんし 慈眼山光林寺 慈眼山光林寺「麻布新堀はた當寺はもと市兵衛町 の辺りにありしとなり此境内に大樹ありしたれたる枝は 地につきて瀧の落るかことし此花の色成子乗円寺 の花によく似たりこの光林寺の前新堀のむかふをすへて 隅田川 東福寺書記 正徹 色も香も そるを さかりの 花の枝 花の枝 ゆるく はかりの はかりの 風たにも なし 十十 舟ニ 其二 鵬斎 長堤十里白 無震詩似登 江共月渾飛 蝶還迷三月 雪香風吹渡 水晶村 一十五月 千蔭 □□□□□□□□ 一十一十一十一丁 瓦やく □□□□□□□□□ やく けふりの すゑの うす さくらに くもり もり □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 第一 さくらに そゝく 但二十 雨と □□□□□□□□ なり けむ 同八十一 蘇州内常々 □ 一鷹尾の原と唱へ桜の咲いつる頃よりして貴となく賤 となくおもひ〴〵のわりこ酒肴をもたらし来り毛氈花 むしろをしきこゝにまとゐしかしこにたむろして打興する ありさま天和の頃の光景を思ひいつるはかりなり 牛天神 し天神丁 なかるゝは神田へかゝる上水なり ○桜 すみたかはのつゝみ 同七十四メ頃 田川堤 隅田村 隅田の文字のかきさま古書に くさ〳〵あれともこゝに引かす 墨田川は 一江戸第一の花の名所にして此花は享保の頃依 台命植し処の物にして今も枝を折ことを禁るは諸人 のしる所なり是曲行にして木母喜大門へ向ふ所左右より 一桜の枝おひかさなりて雲のうちにいるかと思ふはかりなり この地は桜にかきらす四時ともにいとよき地なれは都より 下りたまふやんことなきおほんかたも一トたひは御遊覧ある也 伊勢物語むさしの国としもつふさの国との中にいとおほきなる 川ありそれをすみた川といふその河のほとかにむれゐて おもひやれはかきりなくとほくも来にけるかなとわひあへるに わたしもりはや舟にのれ日もくれぬといふにのりてわた らんとするにみな人ものわひしくて京に思ふ人なきにしも あらすをりしも白きとりのはしとあしとあかき鴫のおほき きなる水のうへにあそひつゝいをゝくふ京には見えぬとり なれはみなく見しらすわたしもりにとひけれはこれなん 都鳥といふをきゝて 前にしおはゝいさこととはん都鳥わか思ふ人はありやなしやと在原業平 《題:道興准后回國雑記かくて隅田川のほとりにいたりてみな〳〵 歌よみて披構なとしていにしへの家のすかた哀れさいまの ことくにおほえて 行水のすみた川聞わたりてもぬるゝ袖かな 古塚のかけ行水のすみた川聞わたりてもぬるゝ袖かな 同行の中にさゝえを携へける人ありて盃酌の興をもよほし 侍りき猶ゆき〳〵て川上にいたり侍りて都鳥たつね見んとて 人々さそひけるほとにまかりてよめる ことゝはむ鳥たに見えよすみた川都恋しと思ふ遊ふへに 思ふ人なき身なれとも隅田川名もむつましき都鳥かな 梅押山隅田院木母寺隅田村にあり大門を入て右の方に 一小池ありこの辺に大樹の桜あり境内一の佳木也梅若丸 の墓は本堂のかたはらにありむかしの柳は枯て株のみのこ れり若木の柳を植添たりその柳のもとに小社あり 山王の社ととなへ森若丸をまつるといへり当奇の什物多 き中に梅若丸の母妙亀尼の画像是等を就中什宝 となす梅若丸忌日三月十五日としことに参詣群集す うめわか丸の説は諸書に考へあれはこゝにもらしつ 来て見れは植し柳のしるしのみ春風渡る隅田河原に一往用白張道 吹風ものとけき花の都鳥治れる代の事やとは酒し少将内休 わたりする人もあはれやまさるらん隅田河原の春の曙内大臣基家 羅山子 一噴滾々一葉身 滾々滾々一葉身河邉秋景只懐春一 自従在五詠歌後流水飛禽愁殺人 隅田川八景 隅田秋月関屋落雁潮入夕照橋場夜雨 狩乳山晴嵐駒形帰帆別崎晩鐘冨士暮雲 水神社木母寺の門前より左の方へ三丁ほと行は森あり ちからろ風流の遊客桜を植添て堤と同時に花盛なり 新吉原山谷にあり毎年三月朔日より大門のうち中の町 通り左右を除て中を除て中通り仮数千本を植る常にはこれ 往来の地なりとしことの寒暖によつて花延けれは朔日 より末に植込こともあり紫桜になりても人なほ群集す 此地慶長年中まては糀町鎌倉河岸大橋 いまのときは はしなり はしなり やなきまち 柳町 道三河峯 のとほり 四同十年の頃柳町御用地になり元誓願寺 前にうつる其後庄司甚右衛門といふもの願によつて 一元和三年三月/町一ヶ所町一ヶ所に仰付られ堺町の辺にて 二丁四方の地を下さる此地葭茅の沼なりけれは葭悪と よふべきを吉の文字に書かへたりとそ當地へ移り たるは明暦三年なり此ころはみな遊里へ馬にてかよひ けるなりいま馬道といへるはこの余波なり寛文の頃まても 此姿をうしなはさりしとみえて三谷通ひの若者等は白馬 一白のの白白革の袴白くゝりの袖へりすへて白きを 西行も 醒斎 また 見ぬ の 廓 小 新 吉 原 町房に 三千の宮女 あれは吉原に 三千の遊居 ありそれは夢の いにしへこれは うつの街 何丸 江戸人は あら事 す なり 植 きくら 内 寿家を屋の 風流れせくなり小歌惣まくり 寛文 二年板 に所々より吉原への駄賃 なみたちん 一附ありそのなかに浅草見附より大門まて並駄賃百三 一拾二文馬子二文馬子二人こむろ節うたふ白馬駄賃二百四貫二百四拾文と あり又その頃の小唄にも〽春の日のいとゆふかけて柳たをる はたれ〳〵そ白馬にめしたるとのことうたひけるよしこれ白 一銅銅の輩もつはら白きをむねとして山谷をせしなる へし委しきことは予か丹前随筆に載たり今はなを往古 よりも花のころハいふもさらなり四時昼夜ともに全盛なる こと他の及ふところにあらす大門の外に制札あり 一何者に不寄馬乗物医院之外一切て為無用候 一鎗長刀門口え堅て為停止者也 金龍山浅草寺此境内千本桜とて元文の頃寄附 ありて栽るとなり今はひとつ処にあらすといへとも奥 山処〻に桜あり当寺の観世音の霊験いちしるきことは 世の人みな知ることなからその要を摘んていわん抑人皇 三十四代推古天皇の御宇進中臣といふ人あやまれること ありてこゝに左延せらる其臣檜熊浜城武威といふ三人 ありてこゝに左延せらる其臣檜熊浜城武城といふ三人 の兄弟主人の跡をしたひ来中臣につかへて漁をいとなむ の兄弟主人の跡をしたひ来中臣につかへて漁をいとなむ 一推古帝三十六年戊子三月十八日三人の兄弟宮戸川の沖に 推古帝三十六年戊子三月十八日三人の兄弟宮戸川の沖に 一因をおのすにあやしきものかゝれり月かけに見れは観音の 一網をおろすにあやしきものかゝれり月かけに見れは観音の 一佛体なり則草をむすひて此像を安置すその翌日近 一佛躰なり則苦をむすひて此像を安置すその翌日近 辺の草刈わらは十人つれて朝草をかりに出る草陰より 光明かゝやきたりおとろき見るに大悲の像ありこの処へ 三人の者来りてしか〳〵の事をかたるおの〳〵奇異の思ひ 三人の者来りてしか〳〵の事をかたるおの〳〵奇異の思ひ をなし薬を柱としてかりの草堂をむすひて尊むこの 一処今の一の権現なり薬をもつて作れるあとなれは 一処今の一の権現なり薬をもつて作れるあとなれは 藜堂といふべきを今あやまつてあかん堂といふ此外 一藜堂といふへきを今あやまつてあかんたといふ此外 奇瑞の事は枚挙るにいとまあらす山中ひろきるゆゑに 末社霊佛多しといへとも是には説す 蕉葱 浅草寺中春不浅草寺中春不浅草寺 鼻観図通有勝因 同七十二日頃 本宮のうしろに桜あまたあり又東の 神田大明神社頭 一かた茶店よりのそめは浅草本所築地のほとりまて てうはうた 一厩乾坤龍望他にこえたり祭所の神大己貴命平将門の霊 二坐内外神田の産土神にして祭礼陽年九月十五日なり 東都の大祭なり社傳曰人皇四十五代聖武天皇天平 二庚午/鎮坐徃古は神田とて一国に二ヶ所の御田ありて 一太神宮へ初穂の神供を収む當国は豊島郡芝崎村 にあり大己貴命は地主の神なれは其処に多く此神を祀 にあり大己貴命は地主の神なれは其処に多く此神を祀 るなり足立郡に神田村と云あり其類ならんか将門の霊を 《題:事は人皇六十一代朱雀帝の御宇平将門むほんを企 しかは天慶三庚子二月十四日/平貞盛藤原の秀郷是を 一征す其頃将門の弟御厨三郎平将頼武蔵国多密郡 中野古戦場にその猛気とゝまり人民をわつらはしむること 一年あり延文の頃一遍上人三代三代真数坊當所遊行のとき 一村民此事を歎くその黨の長なれは将門の靈を相殿に祭 て神田大明神二坐とすかたはらに草庵を立て芝崎道 一場と呼ふこれ神田山日輪舟なり芝崎村はむかく大炊殿橋 今神田橋のうちなり神職の芝崎と名乗も此在名なり 桜馬場昌平坂聖堂西の方横手の馬場なりむかし畳 一桜桐の大木ありて名とするよし今は柳のみなり常に 御籏本方弓馬騎射の稽古あり 同七十日ノ頃 天澤山龍光寺 駒込土物店にあり此境内に御所桜 といふあり寛永の頃依 といふあり寛永の頃依台命都よりとりよせたまひ この梵刹に給ふ今本堂の前にあり古木の大樹也 すはさんきちしやうし 同七十五日〆頃 駒込に有大門より本堂まて 諏訪山吉祥寺 一壱丁程のあひた左右桜の並木なり当寺むかしは 今の水道橋の外に有しを此地にうつさる故に水道 橋をいにしへ吉祥寺橘と唱へしとなり駒込に引移 事は由緒あれとも奇伝に譲りて是にいはす 白山神社小石川指谷にあり別当中井氏此社地に籏 さくらといふ有永承六年阿倍一統を征伐として義家公 奥州へ発向の街道なり其時此桜に籏を立たまひ 一八幡宮を勤請せんとの祈誓によりこの名あり花に 籏のかたちあるといへり 飛鳥山勝景 筑波茂陰 つくは山このもかのもにあふくなり 君かめゝみのしけき見かけを 王子深樹 あふきみる法そ淋しき宮木立 しける青葉にかこふ宮居は 瀧野河夕照 夕日さす瀧野ゝ河はよそめにも けにいとしろき水の一と筋 鴻台秋月 晴る夜のまゝの入江に汐みちて つきさしのある岡のへのまつ 染井夜雨 千入まつ木々の梢もよるの雨に あすは染井の里の名に見む 西原晴嵐 くまもなく夕日そのこるにしか原 雲をあらしのはらひつくして 豊島河帰帆 追風にかす所ふをみるとしまあ なみもしつりにかへる夕舟 秩父遠影 はる〳〵とむかふもあかすむさしのゝ すゑにちゝふの山もつゝきて 右鳴道人 卯四一 二月二年ヨリ 西南街道筋ニテハアリ 同十二日未年辛丑年 同三十月辛丑年月十一月十二日本朝 トヨ年甲州モウナリ 花溪山道栄寺 同七十日メ頃 小日向服部阪のうへにあり 同 長輝山感応寺 長輝山感応寺《振り仮名:境内に桜樹多し裏 一門へ行方もつともよし又風呂屋の前に浅黄桜の古木 あり八重にて帯青じ 慈雲山瑞林寺同所大門のうち左右の桜箒立に して大木なり盛りのころ見物もつともおほし 根津権現境内同根津にあり此御社は宝永三丙戌 一年御建立ありて当所に移る元御社は麻布長坂 うへ今世継稲荷の社の処をいふはしめて御祭禮の時 は江戸市中より出たるよし其ころ幼児の口すさみに 〽宝永祭は見事なことよ誰も見にゆけ行なるゆく ちるまた此世のうさはらし云今も童幼の口碑に残れり ちふまた此世のうさはらし云云今も童幼の口碑に残れり あすかやま 浅香山とも 王子権現より南の方芝山なり八重 飛鳥山 一 ̄ト重の桜数千株を植きせられ花盛の頃は木の間に 一仮の茶店をしつらひて羣集す遥に東北をなる 一むれは足立郡の広地眼下に見えて荒川のなかれ 白布を引ことく佳景いふはかりなし 王子権現境内「飛鳥山の麓石神川を渡りて王子 むらにあり別当禅夷山東光院金輪寺社頭に桜 多し毎年七月十三日/祭礼あり午の時過よりはしまり て申の刻のはしめにおはる俗是を鎗祭といふ甲冑 の法師四人太刀を七本はき内二人白刃の薙刀を突 て出るそれより花笠を冠れる法師集りてひんさゝら 一種々の学ひあり此祭の段とり赤湯水の書しを今 一も神楽堂の正面にかけりまた信心の輩思ひしに少き 一槍を拵神前にさゝけ置て祈念なし又いたゝきて 一帰る参詣の人々交易することあり火難賊難を除る といふ東都第一古雅の祭礼なり 峯稲荷社 岸稲荷社是を王子稲荷と唱ふ金輪荷寺抔なり 一当社は関八州の統領といへりこの社より五六町を隔て 装束榎といへるあり是にて八ヶ国の狐衣裳を改め 毎年十二月晦日の夜狐火をてんすこの火に随ひて迫 民田畑のよしあらをうらなふ刻限おなしからさるゆゑに 遠方の人々は一夜とゝまらされは見る事難し ゑもんさくら 同七十五日メ頃 右衛門桜 四谷の末柏木村延楽寺薬師堂の 前にあり花形大りんにしてしへ長く匂ひ茴香に似 て甚高し柏木の右衛門桜と名付たる説は武田右 右衛門といふ浪人ありすくれて此花を愛す老木にて 幹木の枝枯たり右衛門歌てあらたに若枝をつく縄 木の沙手を得たる人なれは枝葉栄て花もむかしの 色香をなせり右衛門か継木の桜なれはいつとなく右衛門 桜といふ幸なるかな所を柏木村といへは源氏の柏木 右衛門に因て名高き木とはなれり 金王桜□渋谷八幡宮境内にあり別当東福寺久寿 年中源義朝鎌倉亀ヶ谷の館に植られし憂忘桜 一を金王丸に給ふ頗知渋谷にもて来り鎮守八幡の みつかきのほとりに植るとあり さんえんさんさうしやうし 同七十日夕頃 三縁山増上寺 芝切通しより赤羽根への通ひ路」 近きころ開し道筋左右に桜樹夥しく植たり 御殿山「西品川寛文の頃吉野のさくらの苗を植き いま せ給ふ今/古木となりて花ことにうるはし朽たる木の 一傍には若木を植添て盛の頃は雲か雪かとうたかふ 一向ふを望めは安房上総の山々露のうちにほのみえ 一諸国の船は真帆あけて。入津する光景いはんかたなし 海賞山来福寺 同七十八日メ頃 品川鮫洲大井村御林町なり 延命楼といふをもつて桜中の佳品とすむかし梶原か 植しといひ伝ふ 温泉寺二十八品桜 ○有明○楊黄地○彼岸○慶染○普賢○虎尾○ひとより ○大半毬○小手毬○人丸○山桜○蓮桜○牡丹桜○大挑灯 ○小挑灯○志賀○初桜○塩かま○八重○夜の雪○薄雲 ○山揚亥地○車返○大したれ○小したれ○墨染○延命 西光寺同所世に大井の桜と唱ふるは此境内本堂の 一前の古木なり今は老木となりたり大井ととなふる 金土 井のあるは西福寺の地中なり 同七十日メ頃 元八幡宮 砂村新田の東の海手なり当社花表 とかねゐはし 金井橋 満花 ○百掛一 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 都合 寝麻呂 春の日の ひかりも そひて たま河の つゝみの さくら 花さきに けり □□ の額に冨賀国八幡宮とあり四五町か間野道の左方 桜を栽たり南には海をひかえて絶景の地なり 一里人に尋しにこゝは袖しか浦とこたへたりこの老翁か 云へる斗にては信しかたしなほ医穿すへし深川八幡宮 むかし此処にありしを寛永の頃今の地に移し満つる されとも是に小社を建て其名銭を存すといふ こかねゐはし 金井橋 同七十日メ 玉川上水の堤この桜は元文年間依 一台命和州とし野山およひ常州桜川の種を栽させら れけるかいまは何れも大樹となりて開花のとき金橋 のうへより是を望は岸を挟桜続紛として前後尽る ところをしらす実に一奇観たり東都より ̄ノ行程七里 一半ほとありまつ四谷内藤蚊宿より蛾子酒橋中野 左に鍋屋横町堀之内道あり中新田右高野への 一道あり光圓寺むら右に阿佐谷神明のみちありこの 一村遥に行てひたりへ分る是を砂川道といふ則小金 一井橋へのみち筋なり直に行道は青梅街道なり 関口田畑むら白幡小崎関口より此村まで人家なし 漸この処に酒もちひをひさく店あり向ふに大宮八 一幡宮の森みゆる押久保追分あり右五日市左府中と あり大宮前中ほとに春日の社ありその傍に酒店 あり中高井戸正房村このほとり田畑少して専ら 一杉を育て伐出す是四谷丸太と唱ふる材木なり 吉祥寺村左衛観書堂淡島大明神の祠あり祭礼 三月十四日といへり別当月秀山井頭院右例に八幡宮 あり當村鎮守なり別當安興寺左り井頭弁財天への 道あり七丁ほと入西久保関前是に千川上水堀割 の樋の口あり今は絶て埋れり此辺都て尾州侯の 一御鷹場なり関前新田保谷新田このところにはまた 蕎麦酒なとを鬻く店あり爰より遠眼にさくら すこし見ゆる新橋このはしより両岸に桜つらなる 梶野橋開野橋より花に添て行右に添て行右に慈眼山真蔵 密院あり門前をりに茶店あり小金華橋まてのあはひに 橋二ッあり棚はしあるひは丸木橋にして農夫の通ひ路 にかけし橋なり小金井橋このはしのたもともかしわ屋 勘兵衛といふ酒店あり食事なと。望むに頓に整ふ 多くは此家に止宿せされは花全くは見かたし金井橋より 西は眼もおよはす西岸花咲つゝきて白雲の中に遊ふ かことし貫橋留橋車田新田両岸果しなくみなさへち なり爰より水かみ玉川の堰入まては五六里もあるよし 是の間両岸ともに余木交るといへとも桜おほし留橋を 一南へわたりて国分寺の前通り一里十二町ほとゆけは 府中の駅六所明神の前へ出る此騎の旅店にとよりて 一翌日明神を拝し向ふる岡のほとり小山田の開跡野保 天神所〻《?:参詣遊覧して甲州道中通り新宿へ帰り てもよし委しくは予かあらはす金橋通標を見て知へし 詩仏 野蝶山蜂行作蝶 穹環路画到溪隈 小金井畔知花老一道清流浮雪來 聞わたる天の河原か咲花のことのなりゆく水のひとすち橘千蔭 春風に昼をとめくれハみなかみのうき立雲は花にやあるらん平春海 ○梨花 むら 同七十日頃 なまむき村 東海道川崎駅のさき大森のほとり たいしかはら より大師河原へ行道六郷川崎の辺一面なり 同 しもつふさ八幡 市川のむかふ中山のほとり農家活業と なすゆゑおの〳〵棚に作りて痕ふ 南新川「利根川の上雪不動の脇農家新足の箇中 二千坪余のうち一めん やまふき ○款冬 又山吹 しもひらゐむら 下平井村 同七十日頃 しやうてん 聖天の境内是かしこにあり咲出てより豊久し ほうしやうさんきんしやうし 宝松山金性寺 ほんしよおしあけかいさんほふゐんちやうそん 同 寶松山金性孝十本所押上開山法印辨尊和尚觀喜天 をまつれり霊験いちしるく人みな信心す 一境内の外は都て田なり枝は 三圍稲荷境地の囘り同境内の外は都て田なり枝は みな田中へ望て花さけりいと見事なり今は是も門の左 やまふきけん 右石の玉垣となりて山吹滅したり すみれ □□□□□□□ ○茎草 はしへん ゆるき橋の辺 同七十五六日頃 品川東海寺うしろ目黒への道すち 尾久原 桜草 二 四ノ 同二十一 □□ 同八十一人 二十一月十一月 后木橋俗よんて震はしといふは非なり 荒木田の原千住と尾久のあひたの原おひたゝしきすみれ也 一前は川にのそみて絶景の地なり春は遊客酒肴を もたらしきたつて興すること日の西山に傾をしらす ○桜草 巣鴨広申塚左右此辺植木屋又は農家にても作れる なりこは生業となすゆゑなり 尾久の原王子村と千住とのあひた今は尾久の悪になし 尾久より一里ほと王子のかたへ行て野新田の渡といへる ところに俗よんて野新田の原といふにあり蔵の頃はこの 一悪一面の来に染如にして朝日の水に吹するかごとしまた 此川に登り来る白魚をとるに船に船にて網を引あるひは きしとほ 峯通りにてすくひ網をもへて人々ぎそひてこれを すなとる桜草の赤きに白魚を流て紅白の土産 なりと遊客いと興して携かへるなり 山 終 江戸遊覧花暦巻之一終 なが 狩衣 画 戸名所花潜中 江戸名所花暦 あま ひ 江戸名所花暦中夏 し 同八郎 江戸名所花暦巻之二 夏之部目次 藤花 ○牡丹 はゝし ○躑躅 おふち ○桜 ○卯花 悦ふ 一合歓花 ○盧橘 ○蛍 ○納涼 ○夏越 狩野氏図書記 ほとゝきす ○郭公 ○杜若 ○水鶏 ○蓮花 月 □□□□□□二 江戸遊覧花暦巻之二 岡山鳥編輯 江戸 これよりつゝしきりしまにいたるまて異のすゑに出すつきなれと丁殺の ○藤 厚薄によつてこの巻のはしめにいたす おもてもんいりしやうめんいちのそりはら 亀戸天満宮池辺表門を入て正面一ノ反橋この池に□ 此池をひ 字の地ト云 添て左右藤棚ありこのしたに各茶店を構ふひたりは 連分堂 裏門のうち連歌堂まて 右は末社頓宮神の社の社の 今なし 際まて真盛りの頃は池に移りて紫の水を流せる かことしこの頓宮神といへるは老人夫婦の像なりその うしろに青赤の鬼形立たり各木像にして彩色をほとこす くたんの大鬼形老夫を縛りたる躰なり社前にその趣を記 してあり此爺菅相至流されたまひし時つらくあたりし かめと 亀戸 天満宮 □□□□□□□□□□ 同御やう □□ いふ シトウイヌ ゆゑしはらるゝとなりまた此蛭は麹飯のはつ穂を松の 葉に載て菅公へたてまつりしに菅公感せさせたまひ こゝろさしを松の葉に載するとのたまひしより来世の 一俗語となりて今も聊の品を送るに松の葉なとゝ云なり 一頓宮神といはるゝのよし他の書に見へすたゝそのまゝをしるす 佃嶋當所はむかし摂津國佃の漁猟の者拝領す今に 公に魚を奉るとりわけ白魚を最上とすもとはこのしま 安藤右京近殿従やしき也といま安藤家より米を給はれは 漁人また魚をまゐらすと彼家抱の猟師の遺風なりと ふちを植たるハ右京近藤墓しるしなりとそ住吉を祭り たるは夫より後の事なりといへり菰今は絶たり六月晦日 には住吉の荒和祓にあはんとて船にて参詣多し うへのさんわうこんけんのしやち 上野山王権現社地いにしへは多くありしよしなれとも いまはたえてわつかに一株を存せり 一円光寺東叡山のうしろ根岸にあり庭中棚廿間余に かけ渡したり盛の比はそのもとに床机をすへて遊客 さけ 酒くみかはしていと興するなり ひやうかうおんやしきおほくほくほくほとちいつみちこけ 外山尾州侯の御屋敷の脇大久保通りへ出る道筋御家 一人衆の構のうち大木のもみのもみの木あり此木にかゝれら 枝々にまたへるありさま見あくる斗にして紫雲の棚引 かことし 芋阪谷中感応寺うら通り本村のうち根岸坂本也 一刻六夜昼夜昼夜 出る道に酒店ありその軒近きにあり 傳明寺傳通院前通りおなんす町の左りのかたへくたる 坂なり是も俗よんて藤寺といふ 藤棚横町小石川白山御殿跡大通り桜井氏にあり昔は 一めんの藤棚のよし故に里俗藤棚横町といふ今は古木 より若葉は出れとも花なし すゝかもりはちまんくう 鈴ヶ森八幡宮品川に在境内所々に藤あり一名盤井 の神社当社に鈴石といふあり大きさ二尺ばかかりにして 色青赤し他の石をもつて是をうつにその言語の如し 吾妻紀行ふりに見れは鈴の鈴の森にちかし入て屋しろを 一帯す此石転すれは石の中にその声颯々たるゆゑ鈴石と 号すまた烏石といふありいよしへは鷹石といへるよしゆゑ あつて社地の西南の隅にあり抑当社に仲の鳥居といひて 五七町沖中にありしと是鎌倉雀岡におなし事なり 此処まて境内にして漁猟禁断の処なり此場を除て 一網引するに漁人甚わつらひあるにより是をなけきて 乾しけるにゆるさしむとなり石の花表の沖にありしは古の 事にして柱のみ残りしか宝永の地震に折れたりとそ そのもとは水中にのこれりといへり或説に笠島の神社の とりゐ 一鳥居なりといふ珍敷と笠嶋とは一社といふ又笠しま の社は絶たりともいふ盤井の神社は神名帳に明らけし 一当社の説いろ〳〵あり尚他人の説をまつ鈴ヶ森の磯を 荒蔔か崎といふいまの木原山なるへし荒井筋村のうち也 此山昔は往還にて相州街道なりこの処宿場なること うたかひなしむかし木原因幡といへる人久しく領せしとなり 白波の荒菌の崎の磯別松かはらぬ色の人そつれなき源家長朝立 ○躑躅きりしまさつき 染井植木屋駒込通りのさき傳中松平甲州侯の御別館 の脇を左りへ曲り行は数軒の植木屋あり 茗荷社地上野御山内池のはたのかたに門ありその石 穴稲荷社地上野御山内池のはたのかたに門ありその石 階の辺りにあり此神霊験いちしるし信仰の輩多し 願あるものは神前にある処の白羽の矢をかりてかへり 願成就の時返し納めまた新なるを納むこのあたらしき 矢は門前の茶店にて驚く 何事を忍ふか窓のいはつゝしいはて思ひの色に出ぬらん頼円 護国寺石階の左右音羽町のさき山号は神齢山 本尊は馬脳石如意輪観音唐佛元禄年中に本堂 御建立あり此地は御薬固なりしを御建立のとき御薬 一國は白山にうつさる本堂西の方の柱に木目猿の面に 似たるあり俗に是を猿はしらと号く都て大江戸の 丁数一丁目二丁目は御大城の方を一丁目とさたむるに 一音羽町は護国寺門前の方を一丁目と定む歟家に順を 追ひて目白のした神田上水へ懸りたるはしは九丁目の橋 といふ当寺本尊開帳のみきりはやんことなき御方の 木下川 薬師 仁王門 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ □□□□□□□ 別当 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 本堂 の □□ 廿八 □□□□□ □□□□□□□□□ □□□□□□□□ 五日 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 冨の松 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ □□□□□□□□ なか 白ひけ 工口花潜港二 御奉納ありし御道具をおかましむ唐木唐石をもつて 一製したる和漢の古筆金銀をちりはめたる御手 道具世に稀なる品あり 大久保百人町四谷大久保武家地の図中すへてあり 一就中組屋敷を止のかたへ出る門より二三軒手まへ右 のかた飯島氏の国中に多し殊に勝れたる味山紅の 一大樹ありこの花八十八十の夜の頃盛なり ほとゝきす ○郭公 新錫か池高田禅英山宝泉寺の境内にありこの地に いもり多し寛永の頃御放鷹のとき池の名をたつね させ給ふに名もなきよしを言上せしに以後はいもりか地と よふへきよし釣命ありしとなり同寺毘沙門堂の小高き 山のうへは新樹空をおほひて涼しくこのあたりの森より ほときすなきそむ 時鳥鳴初るとなり 初音の里小石川白山御殿の旧地のほとり指谷町也 かけていふなり此辺はつ音はやしこより鳴そむるといふ 幸稲荷の辺芝切通しのうへなり増上寺の梢青葉さす ころは一声も二声にきこゆるといへり 駿河台御茶水の浅み此処もはや〳〵より鳴初るなり ほとゝきすを冥途の鳥といへり蜀王杜宇の古事にて 名つ〳〵と四手の田長又沓手鳥とも異名をいへり華陽 風俗録にいはく杜鵑大きさ鵲のことく羽黒しその声 衰て血を吹土人云春に至りて其初事を閉ときは離 別の苦ありこれを聞ことを悪む惟田家その鳴を俟で 一農事を超す田長の名これによら歟ある説に凡諸鳥 皆三指只杜鵑のみ四指ありその樹上に宿する時は 二指は前にむかひ二指後に向ふ四手の田長は是をもて 名つくあるひは四手をもつて死出となすものは非也といへり 一山鳥按するに諸鳥みな三指只杜鵑のみ四指とあれ ともみな四指にしてまへに三指後に一指あり郭公は 前も二指後も二指なりかゝるあしの形なる鳥杜鵑に はかきらすその余にもあるかとおほへたり ○牡丹 木下川薬師別当庭中亀戸の先に在青龍山浄興寺 一薬王院といふ正字は亀毛川とかくよし北条氏康武 御鳥:藏野紀行に天文十五年仲秋の頃むさし野を見んとて このとし月おもひたちぬる事なれは人々あまたうちつれ 中略 葛西の庄浄興寺の長老年八十におよへるかむかひに てられ寺門に立より一宿すへきよしもふされけれは川 いてられ寺門に立より一宿すへきよしもふされけれは川一 をわたりかの寺に行て一宿するに夜に入風ひやらに吹たり しよふふうきんにいる 松風入琴といふことをおもひいてゝ まつ風のふく声きけはよもすからしらへことなる音こそかはらね 富岡八幡宮深川にあり大栄山永代寺金剛神院この 図中牡丹盛りの頃は日覆障子をかけ渡し奇麗なり 神躰菅神の御作源頼政これを崇む其後千葉の家 にうつり足利尊氏へつり足利尊氏へつたはり鎌倉氏 一同上杉家に散乱し太田道灌ふかく信すとなり其後 一寛永元年の頃長感法印霊夢の事ありて永代嶋に 一宮所を建立あり同八年にあたつて功成就す同二十年八月 十五日はしめて祭礼おとなはる慶安四年のころ法務貫首 におほせて宮寺となさら同年の秋神前にて流鏑馬 をはしむこれ雀岡の法式をうつすなり毎年三月廿一日 より山開と号して庭をひらき諸人に見する 深山玄珠庭中尾久の渡手前也江戸豪家の隠士のよし 一庭中に一株百里に一株百りんの牡丹あり高サ五尺余めくり六尺 四方茶はそこ紅にて大輪なりそのほかほたん多し 北澤邑多摩郡下高井戸村の左り南の方なる北沢村の 村長の国中盛りの頃は遊客きそひてあゆみをはこふ 花屋鋪向ふしま菊嶋の国中百品の花あり ○樗 根津権現古社今の社よりは東の方坂上に在標の林 太田道瘧の植られしといひ伝ふ 露はらふ風そ涼しき橋さくそとものかけの夏の夕暮馬親朝臣 ○杜若 三圍稲荷社地隅田堤の通り小梅村の田の中にあり 家に田中の 別当三国山真珠院延命寺と号す神像は 稲荷とも云 江戸部範齋藤二 弘法大師の作にして同大師の勧請なりといへり文和年間 三井喜の源慶僧都再興す慶長の頃迄は今の地より 南のかたにありしを後此地に移せり当社に英一蝶の 尽る牛若丸と弁慶半身の類あり今内陣に掲 たり 一え集牛しまみめくりの神前にて雨乞する ものにかはりて ゆふたちや田をみめくりの神ならは其角 翌日雨ふる 社僧云元禄六年の夏大に早魃すしるに同年六月 廿八日/村民あつまりて神前にむかひ諸雨の祈願す その日其角も当社に参詣せしに伴ひし中に白雲といへる 人ありて其角に請雨の発句をすへきよしすゝめけれは 一農民にかはりて一句を連ね当社の御神にたてまつり しに感症やありけん其日大雨たちまちに降りきたれり 其草は当社に伝てあり 或人の説に五元集に翌日雨ふるとあり又其角連中 とともに船へ帰らさるうちに大雨降来るとありいつれ なるへしと問ひしに或人こたへて云おのれも此説日頃いふ かり思ひけるに元禄六年に生たる隠士挙一豈之記を 見るに左のことき文あり 晋其角。或-年與_二門人_一同_レ ̄テ船 ̄テ船 ̄ヲ而遊_二隅田川_一 ̄ニ今茲天下里魅 而。田-面無_レ水。門人等望_二 ̄ム_二雨乞之句_一晋辞不_レ止。故 ̄ニ作_レ止 ̄ニ作_レ句須_ ̄須須須須須須_ ̄須___須須__ 史雨隣世人感 ̄ル。世人感 ̄ス_二其俳徳 ̄ト云 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 標茅原 水鶏 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 枝直 一門にきて はかる くひなと しつゝも たらくは さすか うとまれも せす 玉のめいなり 内 一此記露はかりもいつはりかましきことをかきたるものに あらすこゝにおゐらく思へは元禄中の人すてにこの事を伝 て風流の話柄としたるを挙一堂居るしおきたるなり 一雨の降しはいつれの日にもあれ此事を語り伝ふるは 一其角かほまれといふべしとこたへられたりまたかたはら なる人いへるは夕たちやとよむは蔬則をしらさる也夕たてや といひてしかるへきむねもふされき又其角工タカといふ三 一字を折句になしてひそかに豊作の意をもつて祝し たらむとかたられき 木下川薬師の池亀戸のさきに在池中は一面紫にして そのなかへ八ッ橋をかけわたし往来をなさしむさかりの頃 は文人墨客是に遊ふ毎年四月十七日 神影を称しむその頃季候によりてすこし過ることあり といへども諸国の種をうつし植しゆゑに巷にときおそき ありまた二はん三はんと咲つゝく故に久しくたもつ かまたわちやうさん 梅林 蒲田和中散梅林品川の光なり後団森樹のもと一めんの池 にして牡若を植たり四月のせつより咳はしめて十月の すゑ あまであらたまで ○亜米利益 桑鳥反丸宿へ出る道筋なり農家あるひは植木 庚申家巣鴨板橋宿へ出る道筋なり農家あるひは植木 屋におほし 河崎大師河原より塩濱へ出る道筋農家にあり家に よりては一丁余もあるへき垣根みなうつ木なれは花のころは 実に雪のつもれるかことし 咲しよりつもる日数の鳴と見てうの花垣そ雪になり行平春海 ○橘 らはな ちやうえいさんほんもんし 長栄山本門寺池上にあり本堂左のかたに橘の大樹あり花 長栄山本門專池上にあり本堂左のかたに橋の大樹あり花 さき出るころは石階を登るにその匂ひ続紛たり抑 当寺は日蓮上人入寂埋葬の地なり歯骨は身延山に をさむるといへり什物には祖師直筆にて自註なしかき ほゝえきやうことのほかしよおほ いれ給ふ法華経其外自書多し 祖師堂長栄山本門寺此三の巓は本阿弥光悦の峯なり ○水鶏 標芽原玉姫稲荷の辺り此社はゝ山城国稲荷山のいなり をうつししなり王子村峯稲荷と神縁ありと云伝ふ おたまひめ 清玉姫いなりといふも故ある事也正慶二年新田義貞 一朝臣鎌倉の高時を追討のみきり弘法大師直筆 の像を襟掛にし給ひしを瑠璃の玉塔にこめて当 所におさめまつり給ふ故に御玉ひめ稲荷と称するよし つゝたしま 佃島さつきのころ船をうかめてよもすから聞人あれとも 雨のよくふる時節なれはいとうかるへし ねふのはな ○合歓木 綾瀬川花又村の川筋小菅御殿地の跡の辺いにしへは おほかりしか今はこゝかしこにあり又大音寺前戸田侯 綾瀬川 合歓木 花 第十 内 橘千蔭 ほのみえし うすくれ なゐの ひと むらは あやせの きしの ねふの 巻かも 江戸花暦巻二 別業東のかた藩外また本所柳島妙見の土居水 一道橋土居とほり所〻にあり所〻にありといへともたゝ往来にして いつけん ○一見するのみなれはこゝに挙す ○蛍 やなかさんし 蛍川とも云 ばたる澤深川とも云谷中三崎宗林寺の地なり他のとくらふ れは光り甚しく形も大ひなり 姿見の橋件の橋とも云落合すかたみ橋より三丁はかり 川上の上水川と雑司谷の細流との間なりこの川の川の ところに一枚岩と唱て水中に大巌あり わうしたとほ 王子下通り王子より根岸坂本へ通ふ飛鳥山の下をいふ 江戸川の邊小日向龍慶橋の川すち 深大寺府中に在此地の霊は他に勝れて大きし ○蓮 溜池赤坂御門外一めんため池まで花葉水面をふさき て夥し格物叢話に荷花重臺のもの双頭のものは 一以瀉とす又暁朝日に起夜低て水に入ものあり是を 睡蓮と云り爾雅荷は艾葉なり其茎は茄其葉は 荷其花は蒸満其実は蓮其根は萬其中は繭凡 一草木の中一物にして花葉根茎子を用るは蓋をもつて 第一とすといへり 増上寺地中弁天の池赤羽根のかたへ出る御門のうち也 不忍池東叡山麓なり見わたし三四丁長サ五七丁程 このはすのいけ 不忍池 撮影場一・一・一・一・〇・〇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 脚色・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 九 二十五十五人 一金弐百 上野 □□□□□ 一・御林監・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吹 同二十一日 十五 説或は、八十一 東大寺 安政天 夢 橘千蔵 一ヶ十入浅草 廿日 うちよする 浪かあらぬか ゆふかせの 次うらう 吹うら かへす かへす ものもの いれの はらす葉 □□□□□□□□ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 二十一月二日光寺 にへ 画に 同二十一 十二十二日本所 一二十一 □□□□ 漁水は谷中千駄木の小川よりなかれいつる中しまに 一弁財天あり江州竹生島をうつす寛永の頃までは 離嶋にて参詣の通路なかりしといへり今は通路あり てしかも嶋の回りはみな質食屋なり名物運めし 田楽等を鬻く菴盛りのころは朝またきより遊客 一開花を見んとて賑ふ実に東雲の頃は匂ひ殊に かんはしく又紅白の蓮花朝日に吹する光景たとへん かんはし こ勿 に物なし又文政三四年の頃より此池の岸をり西南 の方陸より幅八間のほりをほりめくらしその先に八間斗 の堤を輪のことく築てこのつゝみのうへに薬店立つゝき 貨食舗軒をならへ梅桜なと植込ていと賑しくなれり 不忍池とは上野を忍ふ図といへはそれに対しての 名なるべし回国雑記に 霜のゝちあらはれにけり時雨をは忍ひの岡の松もかひなし道興准后 風土記云篠翰津池貢_二 ̄ス鯉鮒鰻魚嶋雁鶴鶴鷺鳴等_一 ̄ニ周行 十里許 ̄ノ程旱日水不_レ凋霖雨不_レ為_レ害 ̄ニ祈_二 ̄リ早雨_一 ̄ニ_一 ̄ヲ人詣_二于茲所_一ニニ一ニニニニ一ニニニ一ニニニ_一一一一不_一一二 四四 祭_二瀬織津比呼_一也とあり 一因にいふ蓮茗といふを製するにうてなのたしか乗る 茄子茶のまゝとりてよき茶を濃く煎し煮たち たるを能ほとにはなの中へつき込が つき込たるを双方よりはなひらをよせてこよりにて むすひ図のことくさかしまにかけ置へし花ひら幾重も かさなりたれは 茶を薄くせんしさて蓮花のなかの茶をすこし 宛さして喫するときは匂ひたかく心清々しくなりて せいしん 精神を養ふ ○納涼 両国橋納涼避暑の地所〻にありといへともこの両国川を もつて東部第一とす川幅百三十間余水清〳〵して 一流やすらかなり東に筑波青く聳西に不二白く 立り右は永代品川につゝき左りは待乳山隅田堤も 一遥に見えて橋の東西を元町広小路と呼また五月 廿八日よりは夜みせも殊ににきはしくて遊船もこれより 次第に多くなれり扨炎暑を忌のかんとする輩は 一此川上と川下に船をうかへあるひは橋の下に日をさけむため 船を撃きて思ひ〳〵に遊興す三味線小唄はいふも さらなり楼船には踊を催し玉屋健屋の花火は 空をこかす斗にて壮観いふへくもあらす酒うる船肴うる 一船菓うる船は酒肴の尽たらんとおもふ船のあたりを 漕あるきまた風流の遊客は隅田川の上のかたにふねを のほせ蕭筆策なとを吹すさみてなくさむもあり或は 碁将棊に日を暮すもあり文政四五の頃より屋根船に て鳴物何くれとなく打ならし戯場の物真似をなす是を 蔭芝居と号て夕暮よりうかみ出しか儘にして止みぬ 両国橋 納涼 月 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 同三十六十 一帯長江 分国流船 船歌舞銭 時休遊人 酔着晩風 裏錯取練 別属武州 鵬斎 □□ 同 の 山 また吾妻橋のみのかたに鰻魚の蒲焼を鬻くふね 一目標のあんどうなとかけならへ家居の如くなしたるあり けるか是も一二年にして止ぬまた安永天明の頃は大橋の 先中洲の浜といへるはいと興あることにして船もいまよりは 大きなるありて高尾丸川一丸吉野丸神田丸なことなへ たる大楼船ありていとにきはしとなむ往古慶長の 頃夏の日の炎暑をくるしみもろ人納涼の為にひらた船に屋根を 作りかけさし是を借て浅草河を乗まはしける是船遊ひ のはしめなりと皆々物語に見へたり同書に云明暦三年 災後三四年の間船遊ひたえてせす万治にいたりてまた 彼徳船を造り出ししかは人また是をかりて夏日のあつさを 陵き且実後の艱苦を忘るよりていよ〳〵このこと はやりて人みな船のちひさきをうれひおもふほとに 船も次第に大きくなりて七八間の楼船を造り後には 一ふねの名を川一丸関東丸山一丸大岡丸市丸なとゝ名 つけて山一丸は八九間熊一丸は十間あり市丸は十一間 これ等に至従数十人乗て辨当品々美をつくせり 云云きて慶長の頃納涼船の権輿質素なることを しるべし うへの分もんまへひるこうちなるとほさてゆふきやうゆふてん 上野黒門前廣小路の中通り左右へ夕暮より茶店 一並よく床肌を居水なと打めくらして諸人にあつさを しのかしむの地は川風なしといへとも涼風きたるなり 名越板 ○荒和祓名越板 真崎稲荷大明神名越とは夏紙の畧にして火剋 金するを祝ふよし公事報元節折の式に晦日の夜御 あまひうすくこんしやうそくこれしこれ 一倹物まゐるあらよにこよの漬装束云云是すなはち 御祓の具なり荒節和節の祓といふへきを略して 御核の具なり荒節和節の板といふへきを略して 荒和の腹といふにやとある人物語りき江戸にて御抜諸社に おせん 行ふといへともこの処と佃しまへ諸人群集す当社は 千葉妙常胤石浜城内の守護神なりといへり常胤魁 一先陣の願書内陣にこめおきつねにこめおき祈願なす よつて先車の高名数度におよへり故に真先の よつて先陣の高名数度におよへり故に真先の 神号ありとそ神木の大榎あり此木何れへもよ歩ること ならすこれ神意にそむくなりとよつて社造立のときも そのまゝに置るゆゑに拝殿の軒に横たはる 文化年間此社のうしろの方より老狐のいつることありて おそなへ油揚等をほとこすにおいて〳〵と呼は出 きたれり終にひろまりて真崎のお出〳〵といひて 願望の為に人々羣亀君けるはたして諸願成就 せしなり 鈴雄 江戸遊覧花暦巻之 朝光画 せぬものゆ。やし。一日五十日ゆるゆるゆ聲。一回の時の女の身 ひし 植 江戸名所花園 行明 □□ 下秋終 江戸名所花暦 八月 □□ 山 □□□□ 江戸名所花暦美之三 秋之部目次 狩野氏図書記 の ○七草 ○牽午花○七草○萩花 ○月○蟲○菊花 ○月 ○蟲 ○紅葉 秋 団子舞 与二城目末 川 江戸遊覧花暦巻之三 江戸遊覧花暦巻之三 江戸 江戸岡山鳥編輯 ○牽牛花 下谷御徒町辺朝貌は徃古より珍賞するといへとも 下谷御徒町辺朝貌は徃古より珍賞するといへとも 一異花奇薬の出来たりしは文化丙寅の災後に下谷辺空地 一異花奇葉の出来たりしは文化丙寅の災後に下谷辺空地 の多くありけるに植木屋朝貌を作りて種々異様の花 を賀せたりおひ〳〵ひろまり文政はしめの頃は下谷浅草深川 を咲せたりおひ〳〵ひろまり文政はしめの頃は下谷浅草深川 一所々にても専らつくり朝貌敷なと号て見物群集せし也 辺所々にても専らつくり朝貌屋敷なと号て見物群集せし也 ○七草 向しま花やらき秋草と唱へて 百花歯向しま花やしき秋草の中にも七草と唱へて 一愛説するを此国中にはみなそろへて植こみたり 新 七草は平春海大人七夕へ手向られし歌あれは是を 挙てその草のかす〳〵をいはす たなはたに今宵やかさん秋萩の花すり衣色あせぬ間に 天河かはへのをはなかたよりになひ〳〵もほしの心をやとる たなはたの袂おぼえて秋風のふきうらかへす庭のくす原 たなはたの袖のにしきもかゝこそと見るめもあやにゝほふなてしこ 今宵しもたなはたの手にあえまとて誰たちぬへる夏にかまそも 一棚機のおもかけみせて沢水にすかたをうつすをみなべしかな はし合のなこりをそれとこのへとや露にしほれし朝かほの宅 ○薪 慈雲山龍眼寺一本所亀戸川の通り天満宮の裏 一門の先にあり守るに殖髪聖徳太子の像をあんちなす 一推古天皇の勅願によつて大和国大安寿の本尊 なりしを故あつて当寺におさむ明和三年より して太子堂建立のためとて庭に萩を多く 植たりもとより池水清らかにして萩の花さかり には錦をつらねたりいまは殊さら数千叢になり て貴賎群をなして歩行をはこふ俗よんて萩寺 といふ名物萩のはし萩の楊枝あり ○此余赤院社頭に萩をうへたる所多しといへとも床机を 一/浅草浅草清水寺牛島長命寺 なとのたくひなり もふけて詠むるたよりなきは是をのせすべし 浅草人丸明神境内当社の前にから堀のいけ ありてよき所々に萩を植たり此処は春秋ともに 一詠あり池の傍に菴ありて日を卜て乞ときは坐敷 をかすゆゑに風流の人々こにて和歌連歌等の会を催す みつまた ○月 三派三派の月見んとて延宝天和の頃人〻船にて 一おほく出たるよし安宅丸の御船をかられしことも あるよしこのみつまたは隅田川の上の三流ならんが 浅草川隅田川の下流金龍山の麓をいふ清明の夜は 一月の輝滴々たる水に浸りてあたるも金龍のうかふに 似たり人々船を泛へ流にさかのほり詩を賦し歌を啄みあるひは 妓を携絵歌を催しおもひ〳〵に遊興をつくせり 服元喬 上上 金竜山 金龍山畔龍山畔 江揺月湧金龍流 扁舟不住天如水 両岸秋風下二州 □□ 真乳山 武蔵野むさし聖は江府の西北五六里許秩父山の方也 文人墨客旅心に出立て一夜の草まくらに月を詠 一むさし野ははてしもなく広きことゆゑに此処と定め たるところもなけれは知己をたつねてともに詩を 作りあるひは旅店をもとめて歌をよみなとして 風流つゝることなし 行末は冬もひとつのむさし野に草のはらよりいつる月影揃摂政大政大臣 むさしのは月の入へき山もなしお花かにかゝるしら雲大納言通方 むさし野は猶行末も秋萩の花すり衣かきりしられすよみへしらす 玉川江府より西の方六七里にして中河原是正の辺を よしこす此処は分倍河原とて正慶享禄の古戦場 なり月の水にうつれるは一入なりとて撫客この 一河原に集り思ひ〳〵の興を添て背を詠む名物は 三下の非なり明英川なとより佳品なり近きころ 此河の鮎なり相模川なとより佳品なり近きころ 水神の社の傍へ此地の交人碑を建んことをおもひて の御筆をゑかひ奉り」に古歌一首 白川楽翁君の御筆をねかひ奉りしに古歌一首 一御筆を染られけれは頓に良工を撰みて聘せたり 御筆を染られければ頓に良工を撰みて彫せたり 多麻河泊爾左良須 問屋豆久利佐良佐良 豆豆久利佐良佐良 答南条二曽許能兒能 爾奈仁曾許能兒能 已許太可奈之伎 玉川碑陰 ̄ノ記 玉川碑陰 ̄ノ記白河広瀬典誤 同藩大家柱書 水 ̄テ名 ̄ク_二玉川_一 ̄ト天下凡 ̄テ六 ̄フ在_二武州_一 ̄ニ為_二 ̄ス_一 ̄ト 而 ̄シテ水道屡猛 ̄リ問 ̄テ而莫 ̄ニ_レ得 ̄ル平井蘆盛威考 索 ̄ス_二旧跡 ̄ヲ_一有 ̄リ_レ年近者認 ̄メ_レ之 ̄ヲ請_二我 老公 ̄ニ_一書 ̄メ_一其 ̄ノ古歌一首_一 ̄ヲ以 ̄シ_レ碑 ̄ニ樹 ̄テ_二之 ̄ヲ於 多麻郡緒方村_一而後 ̄ニ古蹟 ̄ニ古蹟 ̄メ與_二貞 石_一共 ̄ニ立 ̄ノ世 ̄ニ夫 ̄レ微顕爛幽 ̄ス_二春秋之志 ̄ナリリ 威其 ̄レ蓋 ̄シ学 ̄フ_レ此 ̄ヲ乎況 ̄ヤ 老公之信 ̄カ路証_二于後世 ̄ニ_一而有_レ余也而 ̄ノ 以 ̄テ為 ̄ハ_レ表 ̄ト乎 文化十四年丁丑臘月 品川此地は高輪の辺よりして都て海上の見晴し なれは月の出はいつにてもよしまた七月廿六夜には 一雅俗打交りて月の出の遅きゆゑにさま〳〵に興して 月の登れるを待なりその賑はへることひとかたならす 此夜は処〻に月待あり湯島天神の臺九段坂のうへ 一日暮里諏訪明神の境内其他なほありといへども 品驛をもつて当夜の第一とす ○○ 道潅山日暮より王子への道筋飛鳥山の続なり むかし太田道潅出城の跡なりといふくさ〳〵の魚ありて 人まつ虫のなきいつれはふりいてゝなく鈴虫に馬追ひ虫 品駅 廿六夜 □□□□ 同 一輿虫のかしましきありおの〳〵その音いろを聞んとて袂 一すゝしき秋風の夕暮より人々是にあつまれ架 また麻布広尾の魚牛嶋もよし 菊 巣鴨植木屋所々にあり文化のはしめの頃菊にて 作り物を工夫せしなり植木やならても作りたるなり 中にも木綿屋何某といへる豪家は常に後国に 菊を作りて見物をゆるせしなりしかるに作り物 一二三ヶ年の間盛にして九十/軒余に及へりその工みの細 やかなること実に奇といふへしあらましをいふに 一獅子の子落し布袋の唐子遊ひ汐汲の人形九尾 の狐文覚上人の荒行富士見西行なといろ〳〵の花 こと葉をもつて工みあけたりかゝることも後には口碑に 一残るのみなれは此に十か二三をしるす 雑司ヶ谷鬼子母神の境内貨食屋の奥庭あるひは 茶店植木屋はいふもさらなりみなりみなりみなひ 一造りて十月八日より会式なれはそのとに詣の群集 をまつなり六老僧の寺院にもおなし時境内または 一庭中へ菊を植日覆障子をかけ渡して手際のほと をみするもあり又日蓮上人の諸人を済度なし給ふ ところまたは上人御難のどころなとを作り物とす よりて詣し人々は堂前に充満して帰路をわする ○紅葉 真間真間山弘法寺下総国葛飾郡江戸より三里 菜餅:余本堂の前に楓あり高四五丈余たくひなき名木 なりといへり手古奈明神は石階のひかしのかたへゆく ところなりむかし。一人の美女あり身まつしく藻を かき水汲なとしけれとも形貌の美なること宮中の 一官女にもはちす見る人懸想す女思ひあつかひ身を投 うせぬ人々あはれにおもひて霊を神に祭るとなり うせぬ人々あはれにおもひて霊を神に祭るとなり かつしかのみの間の入江にうちなひき玉藻かりけんてこなしそ思ふ赤 かつしかのはい間の入江にうちをひき玉藻かりけんてこなしそ思ふ赤人 一当山は山伏持の寺にして真言宗なりといへり中山草 當山は山伏持の寺にして真言宗なりといへり中山草 一創のみきり日蓮上人宗法を論し山伏法華の奥儀に ふくし日蓮上人の弟子となり寺を法花の道場に 一改むとそまた真言の密法を日蓮上人にさつけしと也 そのゆゑに當山と中山とは法華の祈祷を専らに修 するなりといへり 秋葉大権現向しまにあり境内広くして池あり池 一の廻りに茶店貨食屋等あり楓は所々にあり中にも 一裏門の方へよりて数十本あり染出すころは人々 きそひて見物す 瀧野川流れ清らかにして川は曲行なり一歩 ことになかめの替る地なり川はた岩窟のうちに弁財 天を安置す風景小く金亀山に似たるところあり 滝野川 光栄 秋ふかき 色を ふかめ の かはきしの 下行 水の 紅葉の かけ 楓の色さかりの頃はこの川水にうつりて龍田川も かくやとはかりあやしまる またきよりちるかとそみる紅葉のうつりて落る山の瀧つと前内大臣 おち瀧川たきのしらいと汲かへてをるや錦の秋のもみちは烏敦朝臣 補陀洛山海曼赤品川鮫洲にあり當山は江府第一の楓の 名所なり奇記に云〳〵後深草天皇建長三年亥冬 一当喜門前の海中より大なる鮫漁夫の網にかゝりてゝ あかりしかその腹中より正観世音出現し給ふ故に鎌倉へ 訴しに時頼朝臣希代の事としこれ則天下安全の瑞 なるへしとそのほとりに堂塔を建られかの観音を 一安置して山号は観音の浄土に準て補陀洛山と 一号し四海安平の義によりて海暴気とせらる瑞林 〖吐瀉薬を吐瀉瀉正院の四宗悦院の四宇の院を造営 せられしに同六年の春諸堂全く成就し入仏 あり同七年供養を遂則鮫のあかりし処を鮫浜 といひまた鮫洲崎といひし也住抔は右四ヶ院の戒臘 一次第たるべき定にて道隆和尚を開祖とし古山和尚 を二丑とす時頼の定に鎌倉高野と相定るうへは 信仰の面々月牌を備へ石塔を建へしまた重罪 の輩たりとも海暴守へ欠入ることのは免許すへき となり山庫僧供は東西南北方十里頭陀すへし 毎年秋一度の免許なり五ヶ院の寺務は百八十貫 一本庵百貫四ヶ院二十貫文宛の定めたり境内南北 十二町東西十二町東西十町なり時頼天竺鷲山の境に準せ らる又松千本槻千本を植られ右の洲崎には八幡 三社を建又海月菴明月菴円通開松影堂水月 一堂を建右の松往還の路上に枝葉おほひ繁成せ りそのころの童の唄に〽品川浦は名所かな海嬰 一寺前のさかり松御代もきかへてめてたさよと調しと なり後の西の山に松を植楓樹千本を種て蓬莱 山と号北方に蓬莱亭あり南に坐禅堂西に長さ 三町余の泉水をかまへ龍渕と鰐渕と号し其上に梶原か 一墓あり南にあたりて梶原やしきあり又明神の森 あり西南に山王の社弘法大師の作石地蔵権現 の御手洗池池延命水といふ橋あり両浜橋といふ橋 一下に蛇の渕といふあり建久のころ里の女身を捨て 一地に成たるを二甘古山和尚引導して天上を得ると いふそのゝち渕なし橋の前後貴人の墓所石塔数多 あり東方に蛇腹紅葉千貫紅葉西に花もみち浅 一黄紅葉飛梅もみち猩々紅葉といふあり北に弥陀 堂坊舎僧房竹林軒あり仏殿の前に四方八面に 栄へたる牡丹あり千貫牡丹とも八幡影現の牡丹 ともいふ総門の内に頼朝松あり千貫松とも龍燈松松 ともいふ門内に天照白山稲荷三社あり仏殿南方に 一観音堂と拝殿南に普門閣を建供奉の人衆八十 一宇房舎を建るとなり弘安五年北條時宗願主 にて堂塔造立入仏供養あり月牌として廿貫文 奇附すとあり平時頼の石塔あり最明寺嶽覚了 一房道崇大禅定門弘長三癸亥年十一月廿三日二階堂 一出羽守の石塔ありむかし当寺門前は鎌倉街道の 一関所にて頼朝卿より北條家まては執権の中一人 一関所守護として大森村小屋形を建て居住せしと なり故に当寺の檀那なりとそ 万松山東海寺当山境内廣くして大樹の楓樹 一数多あり開山澤菴和尚の道徳はいふもさらなり 東海寺 楓樹 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ に □□□□□□□□ 御製 秋の 色に そむる 紅葉や たても なし ぬきも さためぬ 錦 なる らん 旦 諸道に通達して凡人ならさることは丑もつて知る処に なり廟所は大なる石のむまれのまゝなるをかさね 置て銘文もしるさす是和尚の運言なりとまた 茶道に達して一首の歌あり 茶は好め道具はすくなりけ茶碗ひとつありてもことたりに鳬 今予潰の大根を沢庵漬といへるもこの和尚の工夫 にて漬はしめられしとなり当寺は輪番にて毎年 八月交代なり大門は歩行新宿にあり黒門といふ 是なり御成道なり左右並木ありて門ありこれより うちを私に長者町と呼来ぬ町並にはあらす家々は 一隠者または別荘なり常に音曲を禁す一町ほと入て 唐銅表門あり門外には馬とゝめあり岸に大木の古松有 行者代官等此側に住宅せり又御殿山の下より 行者代官等此側に住宅せり又御殿山の下より 畠の中道ありて門ありこれを御成御門といふ また居木曽の上に門あり西門とよふ悪事増を過 また居木橋の上に門あり西門とよふ悪津橋を過 一門あり南門といふ目黒日谷より品川南馬場へ て門あり南門といふ目黒桐谷より品川南馬場へ の道へ出るなり 隠居翁墳墓塔頭少林院のうしろの山にあり 足帯骨帯寸の用部の弥直 一翁は遠江国敦智郡伊場村の岡部の新宮の称宣 一定信の二男なり諱は真渕豚居は号也享保十八年 一定信の二男なり諱は真渕縣居は號也享保十八年 京にのほりて古学を学ひ寛延三年江戸にくた 一京にのほりて古学を学ひ寛延三年江戸にくたり て八丁堀に居住し後浜町に家をうつし延享 て八丁堀に居住し後浜町に家をうつし延享 一三年田安に召出され宝暦十年致仕して明和六年 十月晦日齢七十三にして身まかりぬ玄珠院真渕義龍 居士と法号す近代名誉の歌よみにて此大人の徳を したふ人多し毎年九月晦日には江戸に名たゝる歌人 □□ 沙林院に集会して歌よみて手向とするなり 翁のよまれし歌中二三首を挙く 同春日望山といふことを 春日望山といふことを みわかたせはあ戸の香久山うねひ山あらそひ立る奥霞かな 奥田田 すみれ 古郷の野辺みにくれはむかしわか妹とすみれの花咲に鳬 山里へほとゝきすきゝにまかりて □□□□ 卯の花を手毎に折てかへらまし山時鳥きゝししるしに 古寺鐘 よしの山入にし人はおとせねとゆふへの鐘にありかをそしる 夏日東海道中望富士山 ふしの根の麓をいてゝ行雲はあしから山のみねにかゝれり 目黒泰叡山瀧泉寺當山境内楓樹多し毎月 一廿八日は不動尊の縁日なれとととりわけ正九月は前 夜より参詣多し 東陽山正燈寺龍泉寺町当寺もみちの名所にして 一葛雀の苗をうゆる近に次はみたりに見物をゆるさす 一高雄の苗をうゆる近き頃はみたりに見物をゆるさす しかりといへとも遊客庭中に入るといへとも敢てまた しかりといへとも遊客庭中に入るといへとも敢てまた □□元 一咎むることもなしたく掃除のとゝかさるをはつると見へ 咎むることもなしたく掃除のとゝかさるをはつると見へ ひと〳〵しやうとうしやうし たり明和安永の頃は楓とたにいへは人々正燈寺と □□□□□□□□ 心得たるほとに盛なりしとそ 両人口は帯読集○骸のであるやくなるその五質の説 □□ ける神の麓には神霊いなし山中真田に熊本より 真田東村画布壁醤油 十二一 えといふらんはなこよみ 江戸遊覧花暦巻之三終 江戸遊覧花暦巻之三編 江戸名所花暦巻之四 冬之部目次 寒菊 そいせん ○寒菊 ○水仙 ○寒梅 ○山茶花 ○枇杷 ○茶の花 ○楠樹 ○松 ○枯野 ○千鳥 ○雪 ○画図 ○山茶島 ○惣体 ○□ ○画図 ○山椒 茶之湯自次 七日茶切――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――四―――〇―――――――――――――――――――――――――――――― 江戸遊覧花暦巻之四 □□□□ 岡山鳥編輯 江戸 ○寒芍 平河山法恩寺本所柳しまにあり此梵刹のうしろ 一のかた農家にて多く季候の草花を作れり 一中にも冬にいたりて寒薬を作る頃は諸草みな 一枯たる中に黄金いろなる田圃を見渡すこといと めつらし此地にも限らす請地千寿処々にて作れる なり當院は太田道潅の息男源六郎早世す法各 を法恩といふ菩提のためにとて父道潅一宇の 精舎を建立して法恩寺と号しと也昔は 一御城中平河口にありそのゝち柳塘にうつり元禄 一年中此地へうつさる毎年六月二日より法華千部の 執行あり ○水仙 押上植木屋此地に限らす染井三崎巣鴨四ツ谷 一目黒辺処々にてつくり花少しも早く咲出るを 平阿仁恵島 よしとして神仏の縁日にもち出て驚く ○鳶○蕗○寒海○山花○花○花○花 ○寒梅○山茶碗○山茶花○枡花 向しまの辺風流人の列業あるひは隠士の庭中にあり しかれども此地に限れるにあらす生垣の中に交り または園中に一対々 または国中に一樹もあるのみにして多樹なきゆゑに あつまのもりのくす 吾妻森楠 あつまたいこんけん 一吾妻大権現へやまひ あるもの顔かけして 庵主に楠家を こひ 乞うけてせんし 用ゆれはかならす 治す中にも積 の病のくわんを よくきゝ給ふと 云へりよつて本 瀧なせし人々 神前に幟を 奉なり いふ。そのうる、 聢とところを定て出さす堀のうち青山のへん又 根岸あたりにもあり ○連理楠 吾妻森小村井亀戸の四五丁北に有吾妻大権現石の 一宮殿なり当所は立花姫の廟なりといふ鎮座は 天十二年乙卯天皇七十六年乙卯といひつたふ凡二千歳に 及ふ東武第一の古跡なり上古の事里諺のみにして そのしるしはかりありしを天文の頃小田原北条氏政 の臣遠山左衛門鈴木隼人井出大学なといふ人ふ人ふたゝひ 超立せしとなり立花姫 ̄ノ神霊 ̄ハ東海塩 ̄ノ八百 会 ̄ニ陽魂 ̄テ止 ̄メ給 ̄ヒ海上 ̄ノ守-護 ̄ニ船 ̄シ船 ̄フ玉フとありよつて 海上船中の守護神となすなり日本紀景行 天皇四十年十月日本武尊相模国に逢て 上総に至らんと船にめしけるに海中にて暴風起 一渡りかたく御船危かりしとき翁の妾に弟橘姫と 一渡りかたく御船危かりしとき蕈の妾に弟橘姫と いふあり穂積氏忍山宿祢か女なり尊に云ていわく 風趣波はけしくて御船を沈んとすこれ海神の 心なりねかは〳〵は妾か身をもつて主命に贈て海に 入らんと自海中にいるに暴風忽やみて船岸につく 事を得たり○着岸の地は上総国君去津なりいふ よつて君去づと書といへりこの処に吾妻大明神あり これ即立花姫の霊社なり○立花姫は本土相州也 一大磯梅澤のいり口にあり口にありいふ橘姫の 一御躰の流れよりしをまつるといふまた当社は 一稲荷の神といふ説もあり庵主云むかし下総国 一相馬へ一人の美女来つて曰我は是弟橘姫の霊 なりそのかみ一の宝器を海底にしつむこれをとり 一得んことをして三百年来白狐と変し海中にいること 一数あり龍神深く惜みてとることかたし汝はからを くはふへしと答ていふ水中の事いかて凡人の力に及じ や又いふ近日夕陽あるくかゝやく日ありその時君は 津の渚に立船をうかへ鉾剣をさかしまに水中にひたし 太鼓鐘をもつて龍神を驚かすへしとその日を期 しておしへのことくす海上高波しきりにして船こと〳〵く 汀によす時にひとつの白狐宝器をくはへうかひいてゝ 一兵船丹投入陸に至て以前の美女と現すその宝器 を以稲荷大明神とあかむとあかむとなり末社にいなり こゝにいふ宝器は釼か鏡か珠玉なるかしらす当処楠の 枝葉を煎し服すれは諸病を治すといひつたへて 一席主に枯板を乞ひ求る人ありはなはた匂ひ深く その棗樟脳なり樟と楠と一類二物にして樟は 香つよく木心黒赤なり樟脳を煎すとあり則 此神木は樟なり一品はいぬくすといふ香よはく色 も黒赤ならす又楠の石になりたるあり木理節 青山龍岩寺 ゑんさまつ 国坐松 基綱 朝夕に 松の箭 ひろふ 跡みへて ちりなき 苔の深き 座哉 同 同 より 蒸窓 孤根蟠数畝 似蓋復如図 応占開遊坐 翠光清殺人 そのまゝにありて石よりもおもく石よりも堅し これを敲に金声を発す ○松 穴八幡社高田戸塚村別当光松山放生寺に光り 松といふありむかしは繁茂たる山なりしか里人伐つゝし てたゝ一もとの松のみのこれり寛文十三年にあたりて 一御弓組の與力此処にて弓の稽古ありしなり弓矢 の神なれは八幡宮を勧請せんと催すをりしも 《題り山鳩三羽日毎に来る故に二本の松を神木とあかめ 《題:花表をたつる同十八年周防国山口八幡の氏人良昌 僧都は毛利家の人にして榎本何某たり透世なし 一回国行脚として当国に来り雑司谷御薬図の 一主にやとすその後中野宝泉寺に入て法印秀雄 の会下にありしをまねきて社僧とすおなし秋草 一庵をむすはんと地をならすに堀崩したる山の底 一にちいさき穴あり口せまく奥ふかし方九尺にあまる その中に長三寸はかりの仏像石上に座し給へり 良昌これを尊むよつて此処を穴八幡といふその 一穴今にあり当山の腰より清き水したゝりいつる 一是石清水の名をおふしるしなりとそ 西帰山常光寺亀戸六阿弥陀六番目来迎松とて 一堂の前にあり中古火災のとき本尊此来にとひ うつり給ふゆゑ名つくとなり竜燈の松といへるは ほんたう 本堂のうしろにあり 龍岩寺青山にあり大門を入りて正面本堂也 これを左のかたへつきて曲れは後園にあり見る 人に安からしめんかために円坐松の下をおのつから 下りて一段下の庭へ行なり是に止りて見れは枝 禁天を覆かことし又是に似たる松王子の貨食店 団扇屋の庭にあり ○松の名木を枚挙ときは数樹にしていとまあらすよつて 一往古より名木と唱へ来る処の一三樹と中興作れる処 の両種をあくるのみ 枯野 千代尼 枯野ゆく 人は ちひさく 見ゆる かな ○枯野 一枯野は何処と定むるにあらす 従雑司谷盃堀之内路枯野は何処と定むるにあらす その所々にして風異あり隅田川は東の勝地にして 一四時の詠ある処なれはいふもさらなり圖にあらはす 処は雑司ヶ谷より堀の内へ廻る道なりこゝは山間 の耕地にて清水の流れなとありてしつけき地也 ○千鳥 例寄海潮山増福院辨財天を安置す開基は 一知足院隆光大僧正宗は栄春河辺氏也当院は海 二十一知光院隆光大僧正宗春河辺氏也当院は海 岸にて東は房総の遠山浪をひたし南は羽根田支那 川北は筑波根のかすかに見へて佳景の地也境内 貨食屋私をつらぬ遊客寒風をいとはすして この楼なとに集りて千鳥を聞中河行徳もよし ○雪 一愛宕山芝にありこの山上より空中に見おろせは 一格藩につもれるゆき綿をもつて家居をつくれる に似たり遥に望は安房上総の山々茫々たるうちに見ゆ 本尊は行基の作にして勝軍地蔵なり毎月廿四日 縁日たり六月廿四日は四万六千日と号して参詣殊 に群集す此日境内にて青き鬼灯を鬻小児 一に呑するときは虫の病の根を切ると云ならはせり 高輪この海岸の酒楼より海上を望む時は雪の 千鳥 てる日の 一家隆 あまのとわたる 友千鳥 さやかに つくる 万代の とゑ 一一 第二十一日光 二十二日光寺 そやうしんじ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 同同高田 筆画図画 同四月十一日、 ふん〳〵 紛々たるありさま他に比する処なし 長命寺隅田川の堤曲行の角にあり境内に芭蕉の 一碑ありこの辺に彳て左右をかへり見れは雪の景色 いわんかたせし いさゆかむ雪見にころふところまてはせを 牛御前王子権現社同所南の方にあり別当は最勝寺 一と号す本所の総鎮守にして祭礼は隔年九月十吉 北本所石原新町の旅所へ神幸ありて同しく十五日 一帰輿あり祭神素盞烏尊牛御前と称す慈覚 大師勧請せり清和帝第七皇子王子権現と称 せり共に二坐なり相傳ふ清和天皇御宇貞観二年 庚辰秋九月慈覚大師東国弘法の頃素盞烏尊 一位官の老翁と現し此地に跡を垂永く国家を 一位官の老翁と現し此地に跡を垂永く国家を 一守護せんと告給ふ仍て大師一社に奉し上足 の良本阿闍梨を留て是を守らしむすなはち 一良本彫像の大日如来を本地仏とす又五十七代 陽成院の御宇清和帝第七の皇子当国に 逆されさせ給ひ天慶元年丁酉九月十五日この地 にて薨したもふよつて開山良本阿闍梨こゝに 一葬り奉り牛御前の相殿に勧請なし奉るといへり 一其後霊告ありて云〳〵素盞烏菓第二の御子にて 一仮に清和帝の皇子と生を替させたまふと云云 善光 牛御前 牛御前 法華千部供養神 神陰錦曰 長三尺三寸計リ 奉造立釋迦像一躯 巾壱尺六寸五分程 貞観十七丁未天三月日 厚貳寸余 法華千郡明王院 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 宝永弥 月本朝 □□□□□□□ □□□□□□□□ 浪船 同南の方此境内馬み女童子馬曰 三囲稲荷社同所南の方此境内隅田川のなかれは 一堤に隔てられて見へすといへとも社の左右みな耕 一地なれは枯田に玉屑の積れるありさま実に豊年 地なれは枯田に玉屑の積れるありさま実に豊年 の実ものとみへたり の貢ものとみへたり まつちやま 待乳山 又真土山 又真上山聖天宮を安置す金龍山本龍院霊験 つるここしは此山の森むかしは仲よりの森むかしは仲よりの あらたにして諸人信心なす此山の森むかしは沖よりの の目あふ是いふ是つ深川本所の辺海なる 船入津の目あてなりといふ是は深川本所の辺海なる ときの目当なるよし待乳山は武蔵駿河大和に同名 あれは古歌ありといへとも引かたし茂睡か歌はたしかに山 しやう 上に碑あり あはれとは夕こえてゆく人も見よまつちの山に残すことの葉 戸田泰光入道茂幡は江戸の人にて戸田茂左衛門と称し からんの巣にすみないふ 一後本郷梨子坂辺に住て梨本と号しぬ又は駿河殿 同江吉老画泰四 一の家老にて渡辺監物忠といひし人の六男なり 父の忠は戸田与五右衛門忠勝か次男なりけれは父の 実家の鍋を冒せしなるへし著述あまたあり宝永 三年四月十四日に終りし人なりし人なり然るに隣女悟言には 一隠家の茂助として元禄の頃にや江戸浅草の市人 一に茂ぬといふもの有けり云云ちりの世とおもふ心の つもりてはと云歌を出したりそのこともうたもすこし たるへり〽ちりの世をいとふ心のつもりては我かくれかの 御城山 山とこそなれと有そまことなりける近世略人傳に 一も隠家の茂睡とありて江戸御家士にて隠遁せ る人なり云云といひ歌道に古学を称するは此人 一近世の魁にして春の陳渉にひすべしといへるはその 人を忘れるさまにて元禄十七年二月廿四日その 菴に寂すといへるはたかへり二書ともそのつたへの たかへるなるへし紫一本に尼に慾のかきあつめ たるおほくのうたのなり茂睡法師とあるもこの ひとにてそのなるに歌六首みえたり此山の碑も いとふるきゆゑに半をれたるを好事の人別に又 石を添て修補せりこのあたりより隅田川を 一望めは雪飄々として鵞毛に似たり ○むかし此門前にて米饅頭を鬻名物也当時の はやり小唄に〽金龍山て同道しよもとりかひ □□□□ 隅田川の □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 雪 □□□□□□□ 橋枝直に すみた川 水の うへにも ふる雪の きえ のこれる の 顕鳥 かも 五 図 所 女三 □□□□□□□ くわんおん 五十 二 深川一丁 一二万一 □□□□ 十一十二日 第二諸国 二十二一 同二十一ヶ所 も□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 同二四十二年九月 二十二十一人 同二十一月二日 もしかよねまんちうとうたふたりと此時代は天和 より享保の頃またなり 市ヶ谷八幡宮別当稲嶺山東圓寺神体は馬上 一甲冑の/甲冑の年中太田道権将資江城の乾 に相州宦岡八幡を勧請し武城擁護の基として 東円寺を建列当とし山を稲嶺と号は稲荷 大明神往古より鎮座ありしと也/大永年中の兵乱 に破壊すその後慶長の後慶長のころ御大城御再興の とき別当空源昌運力を尽し造立す年を経て いかへの壮観に復す表門鳥居の内左りのかたに 茶の木の稲荷と称するあり俗説に当山に白狐 ありあやまつて薬の木にて目を突たる故に茶を いむといへりこの神の氏子正月三ヶ日今以薬をのま すまた眼をわつらふもの一七日二七日茶をたちて 一願ひぬれはすみやかに験ありといふ山上雪気色最よし 欲か国古城なりといへり大永四年甲申正月上杉 一朝興の家老太田源六郎舎弟源三郎反逆して小 田原に通し相図を定む北条氏綱一万五千余兵を 一率て武蔵野の城におしよする城主朝魚八千余兵 を率て品川まておし出相戦ふつゐにうち負て 一引灸す氏綱続て城におし詰る朝興こらえかね 其夜のうちに河越の城に落る氏綱翌日城に入て 悪症の城には遠山四郎左衛門をこめ置となり此悪か 一岡は今の上野なりといふ又むさし野にしのふか岡と いふ所ありともいふしかれとも忍か岡は古き名所なれは いつれか是ならんある人の曰むさし野の出城ならは上野の 一地にてもあらんか不忍の池へ雪の降かゝる気色はまた 一風の勝地なり 三神に生し 東叡山寛永寺人皇百九代後水尾天皇寛永年中 一草創比叡山延暦寺をうつされ御大城の鬼門を 一守る霊場として天下泰平の御祈願所たり 両大師慈恵大師本土江州浅井郡父は木津氏 母は物部氏なり延喜十二壬申年九月三日生/諱良源 寛和元乙酉年正月三日入寂干時七十七 一慈眼大師本土奥州会津郡高田郷義澄の末子 といふ人俗民の事をとふに氏姓も行年もわすれたり 一たひ空門に入ぬれはしりてよしなくとてのたまはす となり薄天海寛永二十癸未年十月二日入寂縁起 の年代を考るに凡百七十年余におよへり 法印 民部法眼筆 慈恵大師の霊像民部法眼筆慈眼大師の霊像謚師 慈恵大師の霊像 《題:山ろ山門逆徒のころに鬢れしに襲れしに阿闍 一梨公の字させたまふ真影并に民部法眼か摸写せし と云像を時の修事福を坊みつから負奉り番芳谷 を経て落行しに敵軍道をさゝへて通さす矢を放つ 月 一福市坊云元三大師の霊像を守奉りたりすみやかに 一通ずへしといふ此手の大将木下藤吉郎これを聞兜 一をへしといふ此手の大将木下藤吉郎これを聞兜 一をぬきて拝をなし道をひらく堅田の浦より舩にのりて をぬきて拝をなし道をひらく堅田の浦より舩にのりて 湖東額田井の庄に蟄居すそのゝち天正年中再興有 て尊像を横川に還坐あらしめ今に四季講堂に安 置し奉る霊像は伊勢国安濃津西来寺にすへたてまつる 元三大師縁起曰寛永十七年慈眼大師将軍家御令嗣 一御誕生の御いのりのためくたして当山に安置し丹誠し 御誕生の御いのりのためくたして當山に安置し丹誠し たよふに八月三日いと平に生させたまふとなりすへて たよふに八月三日いと平に生させたよふとなりすへて 一師出胎の嘉辰登山入寂にいたるまで三日を期日と 師出胎の嘉辰登山入寂にいたるまて三日を期日と 一せり御延生はひとへに尊像の霊険に侍る慈眼大師 せり御誕生はひとへに尊像の霊験に侍る慈眼大師 遺言し給ふは本山の例にまかせて勢州より来らせ給ふ 一真影当山坊々三十日かほと巡番に執事奉るへし大権 の聖像と並んはそのおそれなきにしもあらねと我頑像も の圧捨を並んはこのおかにふうんまも あとにこたかひてともに大樹の御武運を守り国土豊 暁 一焼をめくまんとそ[キ]も此例に違はす毎日順番の 寺 一寺院へ辻咄あるなり十月は例年御本坊なり玄冬に孟冬に至 一雪のふるにころ此山王山に登りてなかむれハ吉祥閣へ つもれるありさま海内一の絶景なり いとゝ又かきりも見えすむさし野やあまさる雪の明保のゝ雲御製 江戸遊覧花歴巻之四終 街道 四 山鳥著編 □□ 岡山鳥著編 信画工 長谷川雪且画 花暦 次編 花暦註譚 追刻 文政十年丁亥孟春新彫 守不足齋蔵板 十二